Top           『浮世絵師伝』         浮世絵文献資料館
                            浮世絵師伝  ☆ きぎょくし 鬼玉子    ◯『浮世絵師伝』p29(井上和雄著・昭和六年(1931)刊)   〝鬼玉子    【生】           【歿】    【画系】          【作画期】明和    古川氏、明和三年版の絵本(失題)あり、画風小松屋百亀などに似たり〟    ☆ きくまろ 菊麿(喜多川月麿参照)    ◯『浮世絵師伝』p20(井上和雄著・昭和六年(1931)刊)   〝菊麿  月麿の前名〟    ☆ きくまろ 喜久麿(喜多川月麿参照)    ◯『浮世絵師伝』p2(井上和雄著・昭和六年(1931)刊)   〝喜久麿  月麿の前名〟    ☆ きしくに きし国    ◯『浮世絵師伝』p29(井上和雄著・昭和六年(1931)刊)   〝きし国    【生】           【歿】    【画系】よし国門人     【作画期】文政    大阪の人、芳雅堂と号す、役者絵あり〟    ☆ ぎせん 義川    ◯『浮世絵師伝』p46(井上和雄著・昭和六年(1931)刊)   〝義川    【生】           【歿】    【画系】          【作画期】文化    文化初期頃に小形の風景画を画く、浮絵に於けるが如き遠近法を用ゐたり〟    ☆ きもう 亀毛    ◯『浮世絵師伝』p29(井上和雄著・昭和六年(1931)刊)   〝亀毛    【生】           【歿】    【画系】政演門人      【作画期】寛政    山東京伝作の黄表紙『京伝浮世の酔醒(寛政二年版)に「京伝門人亀毛画」とし、同じく『南品傀儡』    (寛政三年版)に「京伝門人兎角亭亀毛画」とせり〟    〈「兎角亀毛」はあり得ないことの喩え。京伝一時の仮名であろう〉      ☆ きゅうえい 久英    ◯『浮世絵師伝』p29(井上和雄著・昭和六年(1931)刊)   〝久英    【生】           【歿】    【画系】石燕門人か     【作画期】明和    明和七年版の俳諧歳旦集(失題)に、石燕等と共に挿画し、並に自吟の句を載す〟      ☆ きゅうこう 九皐    ◯『浮世絵師伝』p29(井上和雄著・昭和六年(1931)刊)   〝九皐    【生】           【歿】    【画系】          【作画期】文政~嘉永    京都の銅版画家、井上氏、名は達、京都名所の絵数図を作る、初期の作には文政十年版『法華経』全巻    あり〟    ☆ きゆうじょ 亀遊女    ◯『浮世絵師伝』p29(井上和雄著・昭和六年(1931)刊)   〝亀遊女    【生】           【歿】    【画系】重政門人か     【作画期】天明    蓬莱山人と号す、自画作の草双紙あり〟    ☆ きよあき 清朗(鳥居清朝参照)    ◯『浮世絵師伝』p20(井上和雄著・昭和六年(1931)刊)   〝清朗(アキ)    【生】           【歿】    【画系】          【作画期】    諸書に初代清信門人として、此の名を伝へたれども、恐らくは清朝の「朝」を「朗」と誤りたるものな    らむ。(清朝の項参照)〟    ☆ きょうさい 暁斎    ◯『浮世絵師伝』p45(井上和雄著・昭和六年(1931)刊)   〝暁斎    【生】天保二年(1831)四月七日  【歿】明治廿二年(1889)四月廿六日-五十九    【画系】国芳及び洞和・洞白等に学ぶ【作画期】元治~明治    古河藩士甲斐喜右衛門の子、下総古河に生る。幼名周三郎、故ありて河鍋氏を称す、名は洞郁、字は陳    之、画名は初め周麿といひ、別号を狂斎といひしが明治四年に暁斎と改む、其他酒乱斎雷酔・酔雷坊・    惺々庵・惺々等の数号あり、後ち剃髪して是空入道又は如空居士と称す。    彼れ幼時より画を好む事甚だしく、三歳の時より写生を始めしと云ふ。父も彼が画才を大成せしめんと    て、夙に江戸に出だし、湯島お茶の水の火消屋敷に居らしめ、七歳の時に初めて国芳のもとに入門せし    めき。それより十一歳の春に至つて、前村洞和の門に転じ、後ちまた狩野洞白の門となり、四年にして    業を卒ふ。爾來、漢の古画及び浮世絵の初期時代の肉筆画等を摸写研鑽して、こゝに彼れ独自の画格を    大成し、就中、鳥羽僧正を範とする所の一狂画に至つては、全く奇想従横の妙技を揮ひ、構想の千変万    化殆ど無尽蔵と称すべきに似たり。偶ま明治三年十月六日、不忍弁才天境内料理店三河屋方にて其角堂    雨雀主催の書画会ありし時、彼も出席揮毫せしが、其の画中に手長足長の図あり、画体高貴の人を嘲弄    せしものと認められ、即座に警吏の手に捕縛され、弁解其の効無く獄に下つて、翌四年一月三十日に赦    免となりぬ、それよりして狂斎の号を暁斎と改む。    彼が画風は自己の想化力に依る所多けれども、しかも根拠は厳密なる写生より出発せしものなり、既に    彼が年僅かに九歳の時、某所より死人の首を拾ひ来りて、熱心に写生せしが如き、早くも其処に鋭鋒の    閃きを見る。彼が後進を導くにも、常に写生を専らにせしめたりしと云ふ。其が門弟中に、英國人ゼー、    コンデールといふ者あり、本国にては油絵及び製図等を巧みにせしが、來朝以来日本の古画を集め、こ    れを研究し、遂に山口某を介して暁斎の門に入りぬ、暁斎も亦此人によりて得る所ありしが如し。    彼は性格磊落にして、酒を好むこと甚だしく、揮毫中と雖も常に盃を離さず、酒興加はれば、遂にそれ    が爲めに病を発し、ドクトル、ベルツの診療を受けしも、其の効無く根岸の宅(本郷湯島四丁目より転    居)に長逝せり。谷中瑞輪寺中、正行院に葬る。    彼が作品には画譜数種、版画若干図及び雑書の挿画等あり、肉筆は其の数頗る多し、版画中に於ては「烏    の図」最も著名なり。其の生前に蒐集せし古画肉筆物の多くは、遺言によりて鹿島清兵衛氏へ贈りしと、    蓋し、彼れが生前に鹿島氏より思誼を蒙りしこと厚かりしが爲めなり。遺子周三郎(暁雲)・とよ(暁翠)、    共に父に学びて画技にたづさはりき。(明治二十年版『暁斎画談』を参考す)〟     ☆ きょうすい 京水    ◯『浮世絵師伝』p45(井上和雄著・昭和六年(1931)刊)   〝京水    【生】文化十三年(1816)  【歿】慶応三年(1867)三月九日-五十二    【画系】喜多武清門人?   【作画期】天保~安政    岩瀬氏、名は百鶴、字は梅朔、俗称梅作、山東京山の季子にして、父と共に京橋銀座一丁目に住す。文    政十三(天保元年)に描きし『熱海温泉図彙』(京山編)の挿画に「十五歳京水筆」とあり、蓋し処女    作ならむか、また天保七年版の『北越雪譜』(鈴木牧之編、京山刪定)及び同十三年版の同書第二編も    京水の挿画にして、其の画風を見るに喜多武清に学びしかと思はるゝ点多し、其の他尚ほ、天保乃至嘉    永版の『絵図見西行』(京山作、国貞画)十一編揃の扉絵、及び京山八十九歳(安政四年)の落款ある    父子合作の絵びら(桃太郎の図)等あり。墓所本所回向院〟     ☆ きょうでん 京伝(北尾政演参照)    ◯『浮世絵師伝』p46(井上和雄著・昭和六年(1931)刊)   〝京伝  政演の項にあり〟     ☆ きよかつ 清勝    ◯『浮世絵師伝』p20(井上和雄著・昭和六年(1931)刊)   〝清勝    【生】               【歿】    【画系】初め清滿門人後ち清長に学ぶ 【作画期】天明~寛政    鳥居を称す、居所高砂町〟    ☆ きよかた 清方    ◯『浮世絵師伝』p20(井上和雄著・昭和六年(1931)刊)   〝清方    【生】明治十一年(1878)   現在    【画系】年方門人      【作画期】明治~昭和    鏑木氏、俗称健一、條野採菊の男。明治十一年八月三十一日神田区南佐久間町に生れ、十四歳の時、水    野年方の門に入り翌年京橋大根河岸の祭礼行燈に円朝の牡丹燈籠を師及び社中一同にて執筆し、初めて    師より清方の雅号を受く。十七歳より「やまと新聞」、「仙台東北」、「読売新聞」等の挿画を描き、    明治四十年京橋区木挽町より日本橋区浜町河岸へ移り、四十五年本郷区龍閑町へ移る、現今は牛込区矢    来町に住す。明治四十三年巽画会展覧会審査員を東京府より任命さる、四十二年より文部省美術展覧会    へ数回出品して褒状及び三等賞を受け、大正三年の第八囘には「隅田河舟遊」の六曲一双、翌年には    「晴れゆく村雨」六曲一双出品し、続けて二等賞を受く、十一回には「黒髪」で特選、十二回展には    「ためさるゝ日」を出品して推薦さる、大正八年帝国美術院美術展覧会の第一囘に審査委員に任命され、    昭和二年の第八回展に出品した「築地明石町」は黒羽織を着て、其当時流行の夜会髷、中年増の美人立    姿、上品の情緒、無限の魅力を有ち、帝展唯一の傑作と認められ、帝国美術院賞を受く、昭和四年美術    院会員に任命さる。    郷土会と云ふ名称にて画塾の展覧会を聞く、氏の門下には伊東深水、山川秀峰、川瀬巴水、笠松紫浪、    小早川清、門井掬水外著名の画家多く現代浮世絵画壇の元勲者である、氏の美術批評は文才にも秀で、    画の真髄を捉へて公平無比である〟     ☆ きょくこう 旭光(「浮世絵師総覧」は「きょっこう」で収録)    ◯『浮世絵師伝』p46(井上和雄著・昭和六年(1931)刊)   〝旭光    【生】           【歿】    【画系】春旭門人?     【作画期】天明    勝川を称す、黄表紙の挿画あり〟     ☆ ぎょくえい 玉英    ◯『浮世絵師伝』p46(井上和雄著・昭和六年(1931)刊)〟   〝玉英    【生】弘化四年(1847)十月 【歿】    【画系】周延門人      【作画期】明治    鍋田氏、名は吉資、楊堂と号す、初め延春といへり、浅草西島越町、また御徒士町二丁目十六番地に住    す〟    ☆ ぎょくき 玉亀    ◯『浮世絵師伝』p46(井上和雄著・昭和六年(1931)刊)〟   〝玉亀    【生】安政五年(1858)   【歿】    【画系】玉英門人      【作画期】明治    飯沼氏、稀堂と号す、玉英の外に父庭作及釈光にも学びたり〟    ☆ ぎょくこう 玉江    ◯『浮世絵師伝』p47(井上和雄著・昭和六年(1931)刊)〟   〝玉江    【生】           【歿】    【画系】          【作画期】寛政    大阪の人、環氏〟    ☆ ぎょくざん 玉山    ◯『浮世絵師伝』p47(井上和雄著・昭和六年(1931)刊)〟   〝玉山    【生】元文二年(1737)       【歿】文化九年(1812)    【画系】月岡雪鼎門人、或は蔀関月門人【作画期】安永~文化    大阪の人、岡田氏、名は尚友、字は子徳、金陵斎と号す、法橋に叙せらる、大阪北渡辺町に住し、数多    の挿画及び絵本類を描く、就中『絵本太閤記』は、禁版の厄を蒙りし事に於て最も著名なり。彼の姓を    石田として伝へたるものあれど、そは二代玉山と混同せしものなり〟    ☆ ぎょくざん 玉山 二代    ◯『浮世絵師伝』p47(井上和雄著・昭和六年(1931)刊)〟   〝玉山 二代    【生】           【歿】    【画系】初代玉山門人    【作画期】文化    大阪の人、石田氏、名は修徳、字は子秀、初め玉蜂と号し、後ち師名を継いで玉山と改む、別に揚輝斎    の号あり、法橋に叙せらる、文化の末頃江戸に移り、神田紺屋町一丁目に住せしが、一日出でゝ行方不    明となれり〟    ☆ ぎょくすい 玉水    ◯『浮世絵師伝』p47(井上和雄著・昭和六年(1931)刊)〟   〝玉水    【生】           【歿】    【画系】初代玉山門人    【作画期】弘化    京都の人、黒川氏〟    ☆ ぎょくせん 玉僊    ◯『浮世絵師伝』p47(井上和雄著・昭和六年(1931)刊)〟   〝玉僊    【生】           【歿】    【画系】墨僊門人      【作画期】文化~文政    名古屋の人、森氏、文化十四年版『狂歌弄花集』に挿画せり〟    ☆ ぎょくそう 玉藻    ◯『浮世絵師伝』p47(井上和雄著・昭和六年(1931)刊)〟   〝玉藻    【生】           【歿】    【画系】初代玉山門人    【作画期】天保    大阪の人、水原氏、画風歌川派に近し〟    ☆ きよくに 清国    ◯『浮世絵師伝』p20(井上和雄著・昭和六年(1931)刊)   〝清国    【生】           【歿】    【画系】よし国門人     【作画期】文政    大阪の人、寿曙堂と号す、役者絵あり〟    ☆ きよくに 清国    ◯『浮世絵師伝』p21(井上和雄著・昭和六年(1931)刊)   〝清国    【生】天保七年(1836)   【歿】安政二年(1855)正月二十八日    【画系】二代清満の二男   【作画期】嘉永    鳥居氏、俗称和三郎、法名春英院能種信士、菩提所浅草法成寺。文久三年版の絵に「鳥居清国画」とせ    るものあり、二代清国か猶考ふべし〟    ☆ ぎょくほう 玉峰(石田玉山参照)    ◯『浮世絵師伝』p47(井上和雄著・昭和六年(1931)刊)〟   〝玉峰    【生】           【歿】    【画系】          【作画期】文化    大阪の人、石田氏、蓼華斎と号す、玉峰は二代玉山の前名なりといひ、又、別人とする説もあり。(二    代玉山の項参照)〟    ☆ ぎょくめい 王溟    ◯『浮世絵師伝』p47(井上和雄著・昭和六年(1931)刊)〟   〝玉溟    【生】           【歿】    【画系】          【作画期】天保    国貞風の肉筆美人画あり、落款に「天保十四癸卯夏式八歳写王溟女画」とす〟    ☆ ぎょくわん 玉腕    ◯『浮世絵師伝』p47(井上和雄著・昭和六年(1931)刊)〟   〝玉腕    【生】           【歿】    【画系】          【作画期】安永    京都の人、安部氏、安永八年版『当世かもし雛形』の奥書に「右作者安部玉腕子ハ洛東之住人ニ而其名    有」云々とす、其の画風月岡雪鼎に相似たれば、或は雪鼎の門人ならむかとも思はる。〟    ☆ きよさだ 清定    ◯『浮世絵師伝』p21(井上和雄著・昭和六年(1931)刊)   〝清定    【生】              【歿】    【画系】初め清満門人後ち清長に学ぶ【作画期】天明~寛政    鳥居を称す、花房町に住せり〟    ☆ きよさだ 清貞    ◯『浮世絵師伝』p21(井上和雄著・昭和六年(1931)刊)   〝清貞    【生】弘化元年(1844)八月       【歿】明治三十四年(1901)二月十四日-五十八    【画系】初め国芳門人、後ち二代清満に学ぶ【作画期】文久~明治    鳥居を称す、もと渡辺氏、出でて斎藤氏を嗣ぐ、幼称松次郎、後ち長八と改む、年甫めて十三にして国    芳の門に入り芳郷と号す、国芳の歿後、清満門下に転じて、画名を清貞と改めたり、又別号を蝶蜂とい    ふ、明治十三年喜昇座(明治座の前身)の新築に際し、其の奥役と成り、同座の番附絵本等を画きたり、    爾来暗に鳥居宗家の爲に尽す所ありしといふ、其他の事情もありて、三代清満の歿後、彼の男清忠をし    て鳥居七代目を継がしむ、彼れ法名を顕徳院清貞果信士といひ、下谷七軒町妙顕寺に葬る〟    ☆ きよさと 清里    ◯『浮世絵師伝』p21(井上和雄著・昭和六年(1931)刊)   〝清里    【生】           【歿】    【画系】初代清満門人    【作画期】宝暦    鳥居を称す、宝暦年間の役者絵あり〟    ☆ きよしげ 清重    ◯『浮世絵師伝』p21(井上和雄著・昭和六年(1931)刊)   〝清重    【生】           【歿】    【画系】初代清信門人    【作画期】享保~宝暦    鳥居を称し、清朝軒と号す、享保十四五年頃より宝暦七八年頃までの間に後者絵を画く、居所小網町。    (口絵第十五図参照)〟    ☆ きよしげ 清重 二代    ◯『浮世絵師伝』p21(井上和雄著・昭和六年(1931)刊)   〝清重 二代    【生】           【歿】    【画系】二代清満門人    【作画期】文政    鳥居を称す〟    ☆ きょせん 巨川    ◯『浮世絵師伝』p46(井上和雄著・昭和六年(1931)刊)   〝巨川    【生】           【歿】    【画系】          【作画期】宝暦~明和    俳諧をよくし俳名を菊簾舎巨川といひ、俳人笠家左簾の社中たり、又別に城西山人の号あり、一説に彼    を以て春信と同一人なりとし、或は「巨川工」の落款ある版画を直ちに彼の筆なりとするものあれども、    そは勿論誤謬と謂ふべし、蓋し其の「工」とせるは「考案」の意味にして、少数の例外を除けば、画は    多く春信の筆に成りしものなり、かの「座敷八景」と題する錦絵(八枚)の如きは、即ち其の一例と見    るべし。彼の画系は明かならざれども、宝暦八年版の『世諺拾遺』に自他の俳句と共に自画をも掲出し    たれば、素より絵事に素養ありしは言を俟たず、たゞ其の技を專門とせざりしが故に、摺物、錦絵等に    は単に考案をめぐらすのみにして、自から筆を下す事は殆ど稀有なりしものならむか〟     ☆ きよただ 清忠    ◯『浮世絵師伝』p21(井上和雄著・昭和六年(1931)刊)   〝清忠    【生】           【歿】    【画系】初代清信門人    【作画期】享保~寛保    鳥居を称す、享保十四五年頃より作品を発表し、寛保年間には漆絵極大判の浮絵二三図を画きたり、居    所米沢町。(口絵第十三図参照)〟    ☆ きよただ 清忠 二代    ◯『浮世絵師伝』p21(井上和雄著・昭和六年(1931)刊)   〝清忠 二代    【生】           【歿】    【画系】清長門人      【作画期】文化~文政    鳥居を称す、山口氏、俗称善右衛門、初め住吉町に住し薬種業を営みしが、其の子に家業を譲りて二代    清忠と成る〟    ☆ きよただ 清忠 三代    ◯『浮世絵師伝』p21(井上和雄著・昭和六年(1931)刊)   〝清忠 三代    【生】文化十四年(1817)  【歿】明治八年(1875)六月十五日-五十九    【画系】二代清満門人    【作画期】天保~明治    鳥居を称す、山口氏、俗称善右衛門、二代清息の男なり、父の後を承けて住吉町に薬種業を営み、鬻ぐ    所の三齢湯の名に因みて三礼堂と號す、画を父及び二代清満に学び、傍ら勘亭流の書を能くせり、墓所    谷中玉林寺〟    ☆ きよただ 清忠    ◯『浮世絵師伝』p22(井上和雄著・昭和六年(1931)刊)   〝清忠    【生】明治八年三月二十八日    現在     【画系】河辺御楯及び父清貞に学ぶ【作画期】明治~昭和    鳥居を称す、斎藤氏、俗称長吉、南陵・薫斎・劇雅堂等の号あり、清貞の長男にして、本郷湯島一丁目    に生る、十八歳(明治二十五年)の時河辺御楯の門に入て土佐派の画を学び、傍ら父清貞に就て鳥居派    の画法を修む、当時三代清満(鳥居六代目)は既に歿し、後継に適すべき者無かりしかば、河辺御楯等    清貞に勧めて彼をして鳥居七代目を名乘らしめたるなりと云ふ。現住所牛込区矢来町三番地〟    ☆ きよたね 清胤    ◯『浮世絵師伝』p22(井上和雄著・昭和六年(1931)刊)   〝清胤    【生】           【歿】    【画系】初代清信門人か   【作画期】享保    鳥居を称す、肉筆美人画あり、画風清倍に似たり〟    ☆ きよたね 清種    ◯『浮世絵師伝』p22(井上和雄著・昭和六年(1931)刊)   〝清種    【生】天保元年(1830)   【歿】明治廿三年(1890)十一月十八日-六十一    【画系】二代清満門人    【作画期】安政~明治    徳田氏、俗称元三、父は医師なりしが、彼れ其の業を継ぐことを好まず、自から求めて二代清満の門人    となる、当時彼の齢中年に達し、他の門生の如く正則の教へを受くる能はざりしかば、師より鳥居の称    を許されざりしも、師の歿後は私かに鳥居を称せしことあり、初め絵草紙屋を営み、又絵ビラ描きを業    とせしが、後専ら芝居絵本及辻番附等を画きたり、法名一徳院任運素洗居士、浅草黒船町正覚寺中鉄窓    院に葬る〟    ☆ きよたね 二代    ◯『浮世絵師伝』p22(井上和雄著・昭和六年(1931)刊)   〝清種 二代    【生】           【歿】    【画系】三代清満門人    【作画期】明治    鳥居を称す、芝居番附を画けり〟    ☆ きよちか 清近    ◯『浮世絵師伝』p22(井上和雄著・昭和六年(1931)刊)   〝清近    【生】           【歿】    【画系】初代清満門人    【作画期】宝暦    鳥居を称す、芝居正本の表紙絵を画く、其の一例として、宝暦八年正月、中村座「時津風入船曾我」に    於ける市川八百藏と市川升藏の「蝶づくしかけ合せりふ」あり〟     ☆ きよちか 清親    ◯『浮世絵師伝』p22(井上和雄著・昭和六年(1931)刊)   〝清親    【生】弘化四年(1847)八月一日 【歿】大正四年(1915)十一月廿八日-六十九    【画系】洋画及び日本画     【作画期】明治~大正    浅草御蔵屋敷に生れ、幕府の御蔵方組頭を勤めし小林茂兵衛の第九子で兄五人、姉三人の次ぎの末子で    ある、五六歳の頃本所へ移つた。    「幼少の時より画を好み、若侍達の競馬の稽古を見に行ては、幼い筆で、その樣を描いて見る事を楽し    みにし独楽廻しをして遊ぶ折も、いつか仲間はづれになつて、地面の上に竹きれで、何かを画いて夢中    になつて、友達の投げたこまに、したゝか小びんを割られたといふやうな図があります、糸びん奴に大    きな巾着をぶらさげて五つ六つの有樣です。文久二年(十六歳)父歿して家督相続することになり、多    くの兄達があつても放埒者で年若な彼が信用されてお役をつぐ事になつた、元服して勝之助と云ふ幼名    は時の将軍樣に御さし障りがあつて、其れ以來、清親といふ字をそのまゝ本名として終生までつかつた」    (小林哥津子さんの『清規の追憶』より抜萃)     維新後世相は一変し、御蔵方も廃され、江戸を引払つて静岡在で母と共に放浪生活数年、母歿してから    活気付いた新東京へ戻らんとする途中、横浜に到り、始めて我国に写真術を伝へたる下岡蓮杖に就て正    式に写真術を習得し、次で英人ワーグマン氏に就て油絵を習つてから故里の東京へ戻り、惺々暁斎、柴    田是真等より日本画の要点を習得せし故、光線と筆意と融合したる版画製作には好適の真味をつかんだ    わけである。    明治十年前後は和洋折衷の風俗、建物等、新流行の風物、清規の脳裡に染み込み、写生好の清親にはス    ケツチブツクを満たし限れぬかも知れない。当時頻りに舶来の石版、銅版等歓迎され、此機に際して新    時代に適合する木版画を作りたいと版元でも焦慮中、大黒屋の松木平吉氏は清規のスケツチブツクを見    て感心し、其作品を出版する事を依頼した。    出版されたる作画は遠近法正しく、光線-陰影の妙を尽し、風景、人物、動物、草花等、構図色彩とも    に新味を加へたる木版画を製作し、在来の固定技術と顔料の調合等を改良されたる点は、清親の努力大    にあづかる所である。    売行の成績も良く、他の版元よりも依頼を受け、明治九年より晩年迄に作られたる木版画は数百図に上    り、肉筆画は晩年作に多く、版画より数倍の数ならん。一日に千幅以上画きたるもあり(明治四十一年    四月八日両国美術倶楽部に於て千画会席上)、また一図に数十日費したる大傑作もある。    幕末以來、数より質の良い木版画を遺したる作家は清親が隨一である。主として佳作と認めらるゝは写    生に基きたるものだけにて、歴史画は余儀なく版元より頼まれて画きしものならん。    清規の版画中、秀逸なるものを挙ぐれば大略左の如し。以下    明治九年より十一年迄の松木平吉版     ◯銀座街日報社  ◯新大橋雨中  ◯橋場渡黄昏景  ◯小梅曳船夜図  ◯内国勧業博覧会瓦斯館      ◯両国雪中    ◯柳島日歿   ◯不忍池畔雨中  ◯今戸茶亭の月  ◯御茶之水蛍      ◯海運橋雪中   ◯愛宕山の図  ◯隅田堤花見   ◯瀧の川の図   ◯瀧の川池畔の橋      〇三保航海中の富士(三枚続)   ◯大久保利通公(肖像)       ◯木戸孝允公(同)    以下明治十二年より十四年迄松木版     ◯朝顏      ◯鴨に蓮    ◯柘榴に葡萄   ◯画布に猫    ◯柿に目白        ◯鶏(口絵第七十図参照)     ◯狐に三ケ月   ◯描に提灯(特大判)◯金魚に朝顔(同)      ◯向島堤の雪中(特大判)     ◯柳橋夕景(同) ◯箱根湖の富士  ◯静岡龍宝山の景      ◯薩たの富士   ◯三保の浦帆  ◯安部川の富士    以下明治十二年より十四年迄福田熊次郎版     ◯駿河町雪    ◯梅若神社   ◯今戸有明楼之景 ◯元柳橋両国道景 ◯佃島雨晴      ◯九段坂五月雨  ◯久松町より見る出火、外約七十図 ◯箱根三板橋雨  ◯底倉湯本万年橋      ◯箱根木賀遠景  ◯箱根山中富嶽眺望        ◯箱根山峠甘酒屋 ◯箱根神社雪     箱根の分には二三図へ特に「七月上旬午後四時写」とか「一月上旬午後六時写」とか写生の日時が摺込    んであり、如何に清規が眞面目に写生したか想像される。    ◎清規ポンチは明治十四年小林鐡次郎より出版    ◎新版三十二相は明治十五年、原胤昭版 一枚に四面の顔を画き八枚にて一揃へとなる    ◎三十二相追加-百面相 明治十六年、原胤昭及び、森本順三郎より出版、追加分十七枚    ◎一人六面相、明治十七年松木平吉版、五枚     ◎武藏百景 明治十七年より十八年迄小林鐡次郎      ◯品川見越の月  ◯橋場の渡し  ◯浅草寺本堂   ◯玉川布さらし      ◯綾瀬川浅草寺遠景外二十九図    ◎酒機嫌十二相、明治十八年~二十一年 小川タケ版    ◎日本名所図會 明治二十九年より三十年、松木平吉版三十餘    ◎いろは談語 明治三十年~三十一年 武川清吉版其外二枚続三枚続、団扇等にも逸品あり。    清親の作画の進行順序を推定すれば、版画を着手前或は其間に油絵を描き、九年より版画に着手して十    八年頃迄、其間に驥尾団子、団々珍聞等の雑誌に挿絵を画き、二十年頃より単行本の表紙、挿絵及び月    刊雑誌のやまと錦、みやこの花、百花園、小国民及び二六新聞社等から重なる挿絵を頼まれ、挿絵の面    目を一新した。    清親の画号は明治九年一月十三日出版の処女作、江戸橋之真景・五大橋之一両国真景の三枚続には方円    舎清親、十七年四月より出版の分には真生楼又は真生と肩書きを改めてあり、十八年以後の版画には大    低肩書を省いてあるが、肉筆には晩年迄、「真生」又は「真」と落款の下に捺印せるものがある。    晩年に成つては各地よりの依頼に応じ、旅行中数多の肉筆を描いた。    以下黒崎信氏の『清親画伝』より住居の移転及び諸国廻りの部分を抜載す。( )の住所は出版届に刷    込の町名を記入す。    (九年一月の出版届に若宮町二一三(本所区)、十年十月の分に相生町三丁目一番地、十一年より十四     年迄米沢町、十五年より並木町二十二へ同年芝源助町十二番地、十七年頃より同町八番地)    十八年浅草小島町に移り、次で三女夏子生れた、橋場の渡しの風景画中の人は夫人芳子の肖像だ、数月    後に京橋区三十間堀に移り、又加賀町に移つた。二十七年四女勝子生れた。    三十年頃より浅草花屋數より同新畑町に移り、一年余にして下谷区車坂町へ移つた。此間に信州へ写生    に赴いた。諏訪辺に宿つて山中を巡り歩いた樣だつた。    三十二年春、君は柘植福馬氏を伴れて東京を出て、長野市より上田に行き、飯島保作、黒澤鷹治郎氏等    の周旋にて数百張を揮毫した。それより群馬県桐生に入り、金木旅館に宿し、豪商岩崎氏の周旋で数十    張を揮毫した。この際胃病に罹り、小林醫師の親切なる治療を受け、一ヶ月にて全快し、足利の初谷旅    館に入り種々揮毫し、一ヶ月にて同年六月仙台に到り、松島の写生もして、二ヶ月滞在、一度帰京した    同年末、米沢に赴き鳳鳴館に宿して居る内、同宿の大島要藏氏に知られ、三人共福島に入り、日々近傍    の山水や風俗を写生し、揮毫の需めに応じて居たが、年末に迫りたれば三人帰京した。此前後に日本名    所図会の続きや、苦楽、雅楽多等の滑稽雑誌を描いた。三十三年夏、備後福山に遊び、須磨明石の親族    を訪ひ、瀬戸内海の月光、波色を描いて帰京した。(校正中「備後鞆津」と題する油絵を入手した明治    十五年頃の作である。)    備後滞在中に江崎喜平氏来り、金沢行を勧めたから数日後同地へ赴いた。金沢市にて師団長神尾光臣、    横山男爵、森市長外数氏に歓待され、又同地の陶画学校の聘用をも受けた-此時から九谷焼の絵に従前    と違つたものが現はれた。    三十四年向島に移り、次で浅草山の宿に住した、此春瓢然として東京を出て信州の諏訪や岡谷辺に遊ん    だ-信州の山景と其中に居る心友とを慰安堵とした、三十九年七月より翌年五月まで弘前市に遊び、品    川町開業医師鳴海定五郎氏其外諸氏の厚遇を受けて揮毫数百張に及んだと聞いて居る。    三十七年麹町区富士見町に移つた。    四十五年四月十三目、夫人芳子五十八歳で歿した。    六月親友会を蠣殻町相互倶楽部に開き、揮毫画を順次入会者に配付した。此頃の揮毫画は老熟したもの    が多かつた。    大正二年夏、又信州諏訪に到り、大高原を写生し、諏訪湖と岡谷辺を描いた。九月松本市に入り、親戚    折井與三郎氏宅に寓して、浅間温泉に入浴しながら写生に務めた。折井氏宅滞在は八ヶ月で翌年歸京し    た。    大正三年二月百画会を京橋区築地倶楽部に開き、木曾山中で二年間写生し、揮毫したもの其他を頒布し    た。此頃君は門人三田林藏、土屋光逸氏等に対して私の描いた風景画は大切に持つて居なさい、いまに    外国で値が出るからと云つた。君の風景画は別段自信があつたものだ。    此年一時、本富士見町に寓して、瀧之川村中里へ移つた。四年に入りては持病のリユウマチス追々烈し    くなり七月東京を出て信州松本に到り、郊外の浅間温泉に入浴し、折井氏一家の世話に成つたが、冷気    の増すと共に病勢も進んだから、十一月中旬東京へ戻つた。    同月二十八日-不帰の客と成つた、享齢六十九歳であつた。翌月四日、浅草区永住町龍福院にある先塋    の側に葬り、眞生院泰岳清親居士と謚した、君の遺族の方には狩野權柄氏に嫁した長女、菊野源太郎氏    に嫁した三女(夏子)、小林祥作氏に嫁した四女(哥津子)がある。(本項、渡辺庄三郎氏執筆)    尚ほ今秋迄に『清規作品図録及び詳伝』を編纂発行する予定で進行中ですから、清親の稀なる作品御所    蔵の方は、当発行所へ御通知願ひます。    此肖像は遺族の菊野氏より借りたる写真より転載す 約六十歳〟     ☆ きよちか 清親(友尽斎参照)    ◯『浮世絵師伝』p26(井上和雄著・昭和六年(1931)刊)   〝清親    【生】           【歿】    【画系】          【作画期】    図案家友尽斎の名。(友尽斎の項参照)    ☆ きよつぐ 清次    ◯『浮世絵師伝』p26(井上和雄著・昭和六年(1931)刊)   〝清次    【生】              【歿】    【画系】初め清満門人後ち清長に学ぶ【作画期】寛政    鳥居を称す、居所高砂町〟     ☆ きよつね 清経    ◯『浮世絵師伝』p26(井上和雄著・昭和六年(1931)刊)   〝清経    【生】           【歿】    【画系】初代清満門人    【作画期】宝暦末~安永末    鳥居を称す、俗称大次郎、芝居版元中島屋伊左衛門の子なりと云ふ、役者絵の外、春信風の美人画など    もあり、作画期は紅摺絵の末期より錦絵の初期に相当せり、(口絵第二十四図参照)。又黒本・黄表紙    等に挿画せしもの、或は自画作のものなど数多ありて、其の画風は、錦絵に於けると稍別趣の特徴を有    す〟     ☆ きよとき 清時    ◯『浮世絵師伝』p26(井上和雄著・昭和六年(1931)刊)   〝清時    【生】              【歿】    【画系】初め清満門人後ち清長に学ぶ【作画期】天明~寛政    鳥居を称す、居所和泉町〟     ☆ きよとし 清俊    ◯『浮世絵師伝』p26(井上和雄著・昭和六年(1931)刊)   〝清俊    【生】           【歿】    【画系】清長門人      【作画期】寛政    鳥居を称す〟     ☆ きよとも 清朝    ◯『浮世絵師伝』p26(井上和雄著・昭和六年(1931)刊)   〝清朝    【生】           【歿】    【画系】初代清信門人    【作画期】享保~元文    鳥居を称す、漆絵の投者絵あり。諸書に「清朗」とあるは、清朝の「朝」を「朗」に誤りたるものなる    べし〟     ☆ きよなが 清長    ◯『浮世絵師伝』p26(井上和雄著・昭和六年(1931)刊)   〝清長    【生】宝暦二年       【歿】文化十二年五月廿一日-六十四    【画系】初代清満門人    【作画期】明和~文化十二    鳥居を称す、関口(略して関とす)氏、俗称新助、父の歿後市兵衛と改む、彼の父は白子屋市兵衛と称    し、本材木町に書肆を営みしが、清長は其の通称のみを襲ひて家業は継がず、本材木町一丁目(父の旧    居なりしや否や不明)に住す、世俗其の辺を新場と呼びしかば、当時の人彼を新場の清長と称したりし    由、後ち本所番場町に転居せり。    彼は幼少の頃より清満の門に入り、既に明和末年頃には、師清満風の役者絵及び春信風の美人画を発表    し、爾後安永年間(此の頃より黄表紙を画き始む)に於ては、著しく湖龍斎の感化を受けし中に、漸次    自家の特長を現はし、天明年間に入りて、全く円熟の域に達し、所謂清長風の画格を完成するに至れり、    乃ち構図上に於ては、従来未だ試みざりし背景の美を現はし、よく人物と其の周囲との調和を保たしめ、    又一図を巧みに三枚続或は二枚続などにする事を案出し、特に婦女の描写法に於ては、写実的要素を豊    かにして、これを表現するに優腕なる線と明快なる色彩とを以てしたり、其の画風は当時の浮世絵画壇    に多大の影響を与へ、また後進の模範となりし所尠からず、此の時代(自天明元年、至同六年)を以て    彼の作画上に於ける最全盛期と見るを得べし。    彼の最全盛期に於ては、全く美人画に終始し、かの大判錦絵「風俗東之錦」及び「当世遊里美人合」    (口絵第三十六図参照)などの幾図、又は「六郷の渡し」(二枚続)・「江の島詣」(三枚続)其他の    続き絵に見るが如き傑作を出せしが、其等の作品には何れも「清長画」と落款して、殆ど「鳥居」の肩    書あるものを見ず、此の一事に照らして、彼が当時歌舞伎絵の作品には「鳥居」の画姓を用ゐしも、美    人画に於ては然らざりしことを察するに足る、乃ち美人画にありては、敢て鳥居派の伝統に囚はるゝこ    となく、自由に一流を立てたりとの意志を明かにせん爲め、鳥居の画姓に代ふるに関の姓を以て区別せ    しなり。其の事に就いては、昭和三年十月『浮世絵之研究』第二十二號に於て、落合直成氏の発表さる    ゝ所あり、落合氏は、清長の全作画期を三期に分ち、第一期(自明和七年至安永九年)を鳥居清長時代、    第二期(自天明元年至天明六年)を関清長時代、第三期(自天明六年至文化十二年)を再び鳥居清長時    代と称し、又作品の内容より見て、第一期と第三期とを歌舞伎絵師時代、第二親を特に美人絵師時代と    も名づけられたり、蓋し、概括的には至当の分類にして、彼が美人画家としのて立場を一層明確ならし    むる便あり。尚は「関清長」を自称せし実例として、天明二年版の『絵本武智袋』、天明五年版の『絵    本物見岳』、及び肉筆美人画等を挙げ、且つ版画の中にも「関」の印章を用ゐしものある事を指摘され    たり、但し、所謂第三期の作品中には、美人画にも「鳥居」の肩書を有する落款の実例あり。    時に、天明五年四月清満の歿するや、其の遺族中に適材なく、彼は其が高弟たるの故を以て、周囲の推    す所となりし爲め、しばらく鳥居家の世業のみを継承し、画系は固辞して未だ嗣がざりしが、天明八年    偶ま清満の孫庄之助(清峰)の出生に際し、茲に改めて鳥居家四代目を名乘ることゝなれり、蓋し庄之    助の成長を待ちて五代目たらしむベき内約を結び、其の聯絡上仮りに画系を嗣ぎしものなり。されば、    庄之助の八歳(寛政七年)にして彼に入門するや、彼は実子清政の画技を廃棄せしめ、以て将来画系上    に野心無き事を示し、爾後専ら師孫の薫陶に全力を注ぎしかば、単に芝居看板及び番附等を画くの外、    また他を顧る暇無く、従つて、此の期間に於ける錦絵の作は極めて少数なりしが、天明末期には「青楼    遊興の図」(三枚続)、寛政半ば頃には「十体画風俗」と題する美人画(黄地)あり、共に彼が傑作と    称すべきものなり。斯くて、彼は飽くまで鳥居家に対する責務を重んじ、よく前約を履行して遂に他界    せり。    彼が菩提所は、父母を葬りし両国回向院なるが、大正六年夏、渡辺庄三郎氏の実地調査されし所によれ    ば、其が墓石は既に所在を矢ひ、辛うじて過去帳に彼が法名及び忌辰を見出せるのみなりしと、法名長    林英樹信士、俗名白子屋市兵衛、忌辰は五月廿一日(文化十二年)なり、而して同過去帳に「澄月曜輪    信女、白子屋市兵衛妻、正月廿三日(文化十二年)死去、三十二歳」と記載されしは、恐らく彼が後妻    ならむかと、渡辺氏の考証あり。(『浮世絵板画傑作集第六輯解説』参考)    因みに、米国在住の平野千恵子氏は、最近ボストンに於て『清長画集及伝記』を英文単行本として発表    せられ、其の日本文のものは明年本書版元に於て発行の予定なり〟    ☆ きよのぶ 清信    ◯『浮世絵師伝』p28(井上和雄著・昭和六年(1931)刊)   〝清信    【生】寛文四年(1664)   【歿】享保十四年(1729)七月廿八日-六十六    【画系】清元の第二子    【作画期】元禄~享保    鳥居氏、俗称庄兵衛、貞享四年の春、父清元と共に大阪より下りて江戸難波町に住す、初め父に学ぶ所    ありしが、漸次菱川派の特長を取り、又狩野、土佐等の画法をも斟酌して、遂に一家の風を成すに至れ    り、且つ父の衣鉢を継いで、江戸各劇場の看板絵及び番附を画き、こゝに劇場と鳥居派との関係を、永    く後世に存続せしむるの基礎を築きたり。    彼の作品中、殊に傑出したるものは、大判丹絵と称する掛物風の大形なる版画に多く、役者絵あり、美    人画あり、其等の製作年代は元禄末期より正徳年間に至れり、(一例として正徳年間の美人画を掲ぐ、    口絵第六図参照)、其の間、所謂瓢箪足とて勇士の剛力を表現せし描法、或は蚯蚓描と称する肥痩の差    ある線などを版画の上にも試みたり、蓋し、斯かる描法は既に彼が劇場の看板絵に用ゐしものなるべく、    かの懐月堂なども其が影響を受けて、線には肥痩の変化あり、肉筆画には看板絵風の濃彩を施せしもの    あり、以て当時の流行を想見すべし。    彼が作品には、歌舞伎の型と併行して流石に元禄の名殘たる豪放簡朴の気風を体現せり。例へば、荒事    の如き、丹前六方の如き、槍踊の如き、いづれも典型的風格を其が筆端より躍動せしめたり。    丹絵・漆絵などの一枚絵は之れを列挙するに遑あらず、乃ち彼が挿画本のみの大略を左に示さむ。     ◯色のま衣(貞享四年八月版) ◯古今四場居百人一首(元禄六年版) ◯好色大福帳(同十年)      ◯本朝廿四孝(同十年)    ◯参会名古屋(同十年)       ◯兵根本曾我(同十年)      ◯関東小禄(同十一年)    ◯源平雷伝記(同十一年)      ◯景政雷問答(同十三年)      ◯和国御翠殿(同十三年)   ◯薄雪今中將姫(同十三年)     ◯風流四方屏風(同十三年)      ◯娼妓画帳(同十三年)    ◯傾城王昭君(同十四年)      ◯傾城三鱗形(同十四年)      ◯出世隅田川(同十四年)   ◯三世道成寺(同十四年)      ◯鬼城女山入(同十五年)      ◯信田会稽山(同十五年)   ◯傾城浅間曾我(同十六年)     ◯成田山分身不動(同十六年)      ◯小栗鹿目石(同十六年)   ◯小栗十二段(同十六年)      ◯夕顔利生草(同十七年)      ◯朝敵橋弁慶(享保十一年)  ◯艶詞両巴巵言(同十三年)    彼には三男一女或は(四男二女)あり、男子はそれぞれ父の指導を受けて画道にたづさはりき。彼が法    名は浄元院清信日立信士といひ、浅草南松山町(日蓮宗)法成寺に葬りしが、墓碑は既に市外染井墓地    に移されたり〟     ☆ きよのぶ 清信兄 二代    ◯『浮世絵師伝』p29(井上和雄著・昭和六年(1931)刊)   〝清信兄 二代    【生】元禄十二年(1699)頃 【歿】享保九年(1724)頃-二十六?    【画系】初代清信の二男?  【作画期】享保    初代清信の実子三男一女のうち、長男は初代清倍を名乗り、未だ父の後を継がずして早世、二男は即ち    こゝに謂ふ所の二代清信の兄、三男は二代清信を名乗る、女は恐らく二代清倍の妻となりしものゝ如し。    さて彼が父清信の名によつて作画せしと思はるゝは、享保二年以後同九年頃までの役者絵(版画)中に、    初代清信にもあらず二代清信とも言ひ難き若干図あり、また写本『浮世絵類考』の一本に初代清信の子    として「兄早世、弟早世」とせるもの、兄は即ち初代清倍、弟は即ち此の二代清信の兄と推定し得べし。    尚ほ鳥居家の墓石の側面に「躰徳居士」とあるに、或は彼が法名ならんか〟     ☆ きよのぶ 清信 二代    ◯『浮世絵師伝』p29(井上和雄著・昭和六年(1931)刊)   〝清信 二代    【生】元禄十五年(1702)頃?【歿】宝暦二年(1752)六月一日-五十一?    【画系】初代清信の三男?  【作画期】享保~宝暦    鳥居氏、俗称庄兵衛(幼名未詳)、浮世絵師の伝記中、彼の名を傳へたるものは甚だ稀有にして、鳥居    家の系譜にすら抹殺せられたるものゝ如し、然れども、其が作品は享保十四年以後、寛延四(宝暦元)    年(口絵第十二図参照)に至るまで、年々連続的に発表せし確証あり、少くとも、初代清信の歿後(享    保十四年)直ちに鳥居家の世業を継ぎて、同時に二代清信を襲名せし者と見るを得べし、而して、鳥居    家の墓石中「宝暦二壬申天六月朔日、智了院法厳」とせる者は恐らく彼ならんと思はる。    いま彼が作品の一例として、細判漆絵ー「佐野川市松の小姓粂之助」を挙ぐべし(口絵第十図参照)。    此の図は『名人忌辰録』佐野川市松の條に、『寛保元年春、中村座「高野山心中」に小姓粂之助の衣装    に石畳の袴を著し奇麗なる若衆大に評判よく、市中にて此石畳を着ざる女はなき程に流行す、皆人市松    染といひはやせり』といへる役柄に相当せり、但し、石畳模樣の袴は、他の場面にて着用せしなり〟    ☆ きよのぶ 清信    ◯『浮世絵師伝』p29(井上和雄著・昭和六年(1931)刊)   〝清信    【生】           【歿】    【画系】          【作画期】正徳~享保    近藤氏、筆海堂と号す、「唐人三使之行烈」と題する大判丹絵あり、落款に日本画工と肩書せり〟     ☆ きよのぶ 清延    ◯『浮世絵師伝』p29(井上和雄著・昭和六年(1931)刊)   〝清延    【生】          【歿】    【画系】鳥居派?     【作画期】明和    春信風の美人画細絵あり〟    ☆ きよのり 清度    ◯『浮世絵師伝』p29(井上和雄著・昭和六年(1931)刊)   〝清度    【生】           【歿】    【画系】          【作画期】宝暦    鳥居を称す、美人画あり〟    ☆ きよはる 清春    ◯『浮世絵師伝』p40(井上和雄著・昭和六年(1931)刊)   〝清春    【生】           【歿】    【画系】          【作画期】寶永~元文    近藤氏、俗称助五郎、鳥居風の画を描き、兼ねて文字の版下をも書す、寶永二年版の『源義経軍歌百首』    の奥附には、筆工近藤清春筆、和泉屋助五郎開板とあり、此の版元と彼とは蓋し同一人ならむか、然れ    ども、彼の筆に成れる享保十三年版の『役者金之犀諸芸鑑』、同十四年版の『伊勢物語』、同十七年版    の『鳰鳥新万葉集』(河東節)、年代不記の『江戸名所百人一首』、同じく『道外百人一首』等は、何    れも和泉屋助五郎の出版には非ず、されば彼が一時版元を兼ねしにもせよ、享保半ば頃には既に兼業を    廃せしこと明かなり。    右の外、彼が享保年間の作には、『猿蟹合戦』・『鼠花見』・『聖徳太子』などの赤本、及び其他に金    平本の挿画もあり、また一枚絵中には大判墨絵の或る双六、細判漆絵の「東海道五十三次」(横絵六枚    揃)などあり。彼が作画の特徴は、すべて童心を失はざる点にありて、しかも細画によく人物の動作を    現はしたり。其が歿年は明かならざれども、享保末頃に挿画せし以後、他に何等画蹟をとゞめざるを以    て、爾後数年ならずして世を去りしものかと思はる。因みに、鳥居清春と彼れとを同一人とする説あれ    ども精確ならず、恐らくは別人なるべし〟     ☆ きよはる 清春    ◯『浮世絵師伝』p40(井上和雄著・昭和六年(1931)刊)   〝清春    【生】           【歿】    【画系】初代清信門人か   【作画期】享保    鳥居を称す、漆絵あり、又肉筆美人画を描く。正徳頃の作とおぼしき肉筆「梅下美人図」に「流草子清    春図之」とあり、画風鳥居派に近けれども、此の鳥居清春と同一人なるや否や、未だ断定し難し〟   ☆ きよはる 清春    ◯『浮世絵師伝』p40(井上和雄著・昭和六年(1931)刊)   〝清春    【生】           【歿】    【画系】          【作画期】天保~慶応    鳥居派、芝居絵本あり〟     ☆ きよはる 清春    ◯『浮世絵師伝』p40(井上和雄著・昭和六年(1931)刊)   〝清春    【生】           【歿】    【画系】          【作画期】文政~天保    京都の人か、藤原姓、菱川氏、俗称吉左衛門、蕙泉斎・雪艇と号し、後に小野度隆と改む。按ずるに、    彼が菱川氏を称せしは如何なる根拠を有するや不明なれど、天保頃の版本『伊勢物語』の扉絵(彩色摺)    に美人の図を画きて「菱川師宣古図、翠松園珍蔵、五代目菱川清春摸写」と記せり、これに由つて観れ    ば、彼は師宣以後五代目の画系を継承せしものゝ如し。文政十三年版『御影参宮 風流雅帖伊勢土産』    に「曄斎菱川清晴画」とあるは此の清春と同一人なり。天保初め頃には大阪上町に住し、一枚続などを    も画きたりき。また天保六年版の『銀河草紙』に挿画(彩色摺)せり〟    ☆ きよはる 清晴(菱川清晴参照)    ◯『浮世絵師伝』p40(井上和雄著・昭和六年(1931)刊)   〝清晴    【生】           【歿】    【画系】          【作画期】    寺川氏、曄斎と号す。(菱川清春の項参照)〟     ☆ きよひさ 清久    ◯『浮世絵師伝』p40(井上和雄著・昭和六年(1931)刊)   〝清久    【生】           【歿】    【画系】初代清満門人    【作画期】宝暦~明和    鳥居を称す、小松町に住せり〟     ☆ きよひで 清英    ◯『浮世絵師伝』p41(井上和雄著・昭和六年(1931)刊)   〝清英    【生】           【歿】    【画系】初代清満門人    【作画期】宝暦    鳥居を称す、草双紙あり〟     ☆ きよひで 清秀    ◯『浮世絵師伝』p41(井上和雄著・昭和六年(1931)刊)   〝清秀    【生】宝暦七年(1757)頃  【歿】安永初め頃    【画系】初代清満の長男?  【作画期】明和~安永    鳥居氏、明和末頃出版の青木『潤色心化粧』・『猫また又々珍説』及び、明和九(安永元)年春出版の    めりやす稽古本の表紙絵等を画く〟     ☆ きよひで 清秀    ◯『浮世絵師伝』p41(井上和雄著・昭和六年(1931)刊)   〝清秀    【生】           【歿】    【画系】二代清満門人    【作画期】明治    鳥居を称す、森田座の番附を画けり〟     ☆ きよひろ 清広    ◯『浮世絵師伝』p41(井上和雄著・昭和六年(1931)刊)   〝清広    【生】           【歿】    【画系】初代清満門人    【作画期】宝暦    鳥居を称す、俗称七之助、居所堺町、宝暦年間に紅摺役者絵を画けり(口絵第十九図参照)。また、彼    れの紅摺絵中には、石川豊信風の裸体美人画に優れたる作あり。写本『浮世絵類考』の本には「安永五    申年若年麻疹に而病死」とす、猶ほ考ふべし〟    ☆ きよふさ 清房    ◯『浮世絵師伝』p41(井上和雄著・昭和六年(1931)刊)   〝清房    【生】           【歿】    【画系】清信或は清倍門人  【作画期】享保    鳥居を称す、中島氏、雑司ヶ谷稲荷社に弁才天の額ありと云ふ〟    ☆ きよまさ 清政    ◯『浮世絵師伝』p41(井上和雄著・昭和六年(1931)刊)   〝清政    【生】安永六年(1777)   【歿】    【画系】清長の男      【作画期】寛政    鳥居を称す、画を父に学びて美人画を能くせり、初め父の衣鉢を継ぐべき準備として修技せしものなら    んが、寛政七年、清峯の入門に際し、父の意に従ひて断然画技を棄てたり、作画期の短かかりし爲めか、    作品の数甚だ尠し。(口絵第卅七図参照)    (校正中、清政の参考画入手したるに拠り追記す)    紙本横幅の掛物にて、傘を持ち頭巾を冠り、風に吹かれながら河岸を歩く女の足へ、凧の糸が絡み付き    たるを、肌脱ぎの男児が眺めて居る図で、落款には清長実子-関清政と、下の印には関氏之章とあり、    尚ほ河岸燈籠の紙地へ「天明六年三月吉日」と書入れあり、画風は清長の特長を採り、風に吹かれたる    動作は清長の柱絵にあるのと酷似して居る、天明六年とすると彼が十歳の時に描いた作である。尤も此    外雲母摺の背色で娘道成寺の半身大判には清長忰-鳥居清政画とありて、実子とか忰とか肩書きを付け    る事を思考すると、其頃には学校は無く、父の傍で画を見たり描いたりすることが唯一の楽みであると    思ふ、十歳にて大人並の画を描いた事は浮世絵師中で早熟の画家である〟    ☆ きよまさ 清雅    ◯『浮世絵師伝』p41(井上和雄著・昭和六年(1931)刊)   〝清雅(マサ)    【生】           【歿】    【画系】二代清満門人    【作画期】文政    鳥居を称す〟    ☆ きよます 清倍    ◯『浮世絵師伝』p42(井上和雄著・昭和六年(1931)刊)   〝清倍    【生】元禄七年(1694)頃  【歿】正徳六年(1716)五月廿五日-廿三?    【画系】初代清信の長男?  【作画期】正徳    鳥居氏、俗称庄二郎、画を父に学び、正徳三四年頃より同六(享保元)年春に亘りて、数多の役者絵及    び美人画を発表せり、其の作品には父の画風以外に自から独特の趣きを具へ、就中婉柔の態を写すに最    も妙を得たりき、されば彼が画く所の五代森田勘弥の図には、落款の肩書に「日本嬋娟画」と記せり、    蓋し、天才の閃きを想見するに足れり。(口絵第七図参照)     彼の伝記に関しては、未だ諸書に悉されざる所多く、清倍に二代ある事すら明かにしたるもの無し、編    者曩に鳥居家の墓(在府下染井墓地)を展し、偶然にも彼に該当すべき法名及び忌辰を発見し、之を作    画年代と比較して、毫も矛盾なきことを認めたるを以て、茲に従来の清倍一人説を捨てゝ新たに初代二    代の区別を立つることゝせり、乃ち該墓石の側面中央に「一山道無、正徳六申五月廿五日」とあるもの    正に彼なるべき事を信じて疑はざるなり。而して、彼の年齢は明確ならざれども、父清信の元禄六年に    結婚せしと、彼が其の長男たりしとによりて、彼りに元禄七年の出生とするときは、則ち歿年には二十    三歳に相当せり、姑く未定の問題として尚ほ後考を俟つ。    附記、鳥居家の記録及び其他の諸書に、彼を以て鳥居家の二代目とすれども、彼は未だ父清信の後を嗣    がずして早世せし者なれば、寧ろ清信の襲名者たる彼の弟を以て、画系上の第二代目とすべきに似たり、    併し、彼に長男にして且つ後継者たるべき十分の技倆を有せし点もあり、又既定の秩序を保護する上よ    り見れば、強ひて可否を説ずるまでもなきが如し〟    ☆ きよます 清倍 二代    ◯『浮世絵師伝』p42(井上和雄著・昭和六年(1931)刊)   〝清倍 二代    【生】宝永三年(1706)   【歿】宝暦十三年(1763)十一月二日-五十八    【画系】初代清信門人    【作画期】享保~宝暦    鳥居氏、俗称半三郎(或は四郎とも弟四郎とも)、諸書に初代清信の実子の如く伝へたれども、恐らく    は誤りならむ。いま諸種の資料を綜合して按ずるに、彼は享保九年に清信の長女と結婚せし者にして、    其の年より清倍の号を継、且つ初めて作品を発表せり、其の一例として、享保十三四年頃の細判漆絵あ    り(口絵第十一図参照)、爾後宝暦二年までは連続的に作画せしが、それ以後は不明なり。蓋し此の年    (宝暦二)には、次男清満鳥居の画系を継ぎしが爲めに、己は隠居して表面上の交渉に遠ざかりしもの    にはあらざるか。彼は四男六女を儲けしが、長男及び三男は早世し、次男は即ち清満、四男は画を学ば    ずして、三味線弾きを業とせしとぞ、但し彼に就て諸書に「芳町に住し後三味線弾きに成る」とせるを    見れば、或は画界隠退後彼自身其の業に携はりしものなるやも知るべからず。晩年芳町より住吉町に転    居せり。法名を清巌院宗林日浄信士とし、鳥居家の菩提所たる淺草南松山町法成寺に葬れり〟  ☆ きよまろ 幾代麿    ◯『浮世絵師伝』p44(井上和雄著・昭和六年(1931)刊)   〝幾代麿    【生】           【歿】    【画系】          【作画期】享和    歌麿風の肉筆美人画あり、落款には「幾代麿筆」とありて、印章には「清麿私印」とす〟    ☆ きよみつ 清満     ◯『浮世絵師伝』p42(井上和雄著・昭和六年(1931)刊)   〝清満    【生】享保二十年(1735)  【歿】天明五年(1785)四月三日-五十一    【画系】二代清倍の次男   【作画期】延享~天明    鳥居氏、俗称亀次郎、画を父に学び夙に出藍の誉れあり、宝暦二年(十八歳)の春妻を迎へ、同年六月    二代清信の歿するや、清信の実子既に夭折して在らず、乃ち彼れ其の後を承けて鳥居家の世業を継げり、    画系上彼を以て三代目とす。作品には紅摺絵(宝暦十三年作、口絵第二十図参照)・錦絵及び芝居番附    等の外に、草双紙の挿絵甚だ多し、其の初期時代には、主として黒本を画きしものなるべく、延享四年    (十三歳)版の黒本『【振袖蝉丸】対面の琵琶』は、恐らく彼の処女作ならむ。彼の画風は、初め父の    感化を受くる所多かりしが漸次他の特長をも参酌し、殊に美人画に於ては、鳥居家在來の類型を破りて、    一層繊維優婉の情趣を添ふることに努めたり、たゞ芝居看板及び番附等には、比較的伝統を重んじ、範    を先例に求めし所多かりしが如けれども、しかも尚ほ看板絵に金具張の新月を用ゐ、或は土場を描くに    真の砂粒を散布せしなど、彼独創の技巧を施せしを見れば、これ亦必ずしも守旧をのみ事とせざりしは    明かなり。    彼れ宝暦五年に一女(名はえい)を儲け、後ち一男を挙げしが安永元年早世して男嗣絶えたり、よつて    其の前年(明和八)長女の聟とせる上絵職松屋某に己が俗称(亀次郎)を譲りて、これを後継者と定め    しも、固より画系を継ぐべき素養無かりしかば、彼の歿後は、孫庄之助(清峰)の代に至る期間を、門    人清長によつて聯絡せられしなり。法名廣善院要道日達信士、代々の菩提所法成寺に葬る〟    ☆ きよみつ 清満 二代    ◯『浮世絵師伝』p42(井上和雄著・昭和六年(1931)刊)   〝清満 二代    【生】天明八年       【歿】明治元年十一月廿一日-八十一    【画系】清長門人      【作画期】文化四~弘化    鳥居氏、幼名庄之助、後ち亀次と改む、初代清満の孫なり、年甫めて八歳(寛政七年)にして清長の門    に入り、将来鳥居家の相続着たるべきを以て、特に懇篤なる指導を受く(清長の項参照)、初め清峰と    号し、文化十二年清長の歿後、二代清満を襲名し、別号を青龍軒、また言唇窩とも云へり、即ち鳥居家    第五代目なり。文化三年以降屡々草双紙に挿画し、又美人画の錦絵(口絵第五十四図参照)を描き、往    々優秀の作品を発表せしが、改名以後は草双紙を画かず、錦絵も多く作らず、専ら世業の芝居看板絵及    び番附に筆を執りたり。新和泉町(俗に玄治店と云ふ)に居住し、晩年には耳聾して悩みし由なるが、    よく八十一歳の天寿を全うしたりき、法名を栄昌院清真日満信士といひ、菩提所法成寺に葬る。彼に二    男二女あり、長男亀治三代清満を襲名し、鳥居家六代目を継ぐ、次男和三郎は清国と号せしが二十歳に    して夭折せり〟    ☆ きよみつ 清満 三代    ◯『浮世絵師伝』p42(井上和雄著・昭和六年(1931)刊)   〝清満 三代    【生】天保三年十二月十四日 【歿】明治廿五年八月十九日-六十一    【画系】二代清満の長男   【作画期】安政~明治    鳥居氏、俗称亀治、後ち栄蔵と改む、画を父に学び、初め清芳と号せしが、父の歿後三代清満を襲名し    て、鳥居家六代目を継ぐ、専ら芝居看板絵及び番附を画きたり。彼は新和泉町の家に成長せしが、後ち    浅草向柳原町二丁目、福井町三丁目、猿屋町等に転住せり、法名、円満院栄昌信士。彼の歿後、鳥居家    七代目は、二代清満の門人清貞の子清忠(現存)によつて継承せられたり、蓋し彼に二男四女ありしも、    次女を除くの外は皆早世せしが爲めなり〟    ☆ きよみつ とりい 鳥居 清光(未詳)    ◯『【諸家人名】江戸方角分』(瀬川富三郎著・文化十四年~十五年成立)   (「堺町」合い印「浮世画」)   〝清光  鳥居                     松本亀次郎〟                               縫箔屋    〈鳥居清満二代とも思われるが未詳〉   ◯〔「国書基本DB」収録なし〕    ☆ きよみね 清峰(鳥居清満二代参照)    ◯『浮世絵師伝』p44(井上和雄著・昭和六年(1931)刊)   〝清峰  二代清満の前名〟    ☆ きよみね 清峰 二代    ◯『浮世絵師伝』p44(井上和雄著・昭和六年(1931)刊)   〝清峰 二代    【生】天保七年(1836)   【歿】慶応三年(1867)十月九日-三十二    【画系】二代清満門人    【作画期】安政~慶応    鳥居氏、俗称栄次郎、また半三郎とも、初名清行、後ち師清満の養子となりて二代清峰を襲名す、法名    智得院浄心信士、鳥居家の菩提所法成寺に葬る〟    ☆ きよもと 清元    ◯『浮世絵師伝』p44(井上和雄著・昭和六年(1931)刊)   〝清元    【生】           【歿】    【画系】清信の父      【作画期】貞享~元禄    鳥居氏、俗称庄七、もと大阪の劇場に出演せる女形俳優なりしが、多少の画技に経験を有せしかば、後    には俳優を廃めて専ら劇場の看板を画きしと云ふ。然るに、実子清信の爲め及び鳥居家の将来を考慮し    て、貞享四年の春、一家を挙げて江戸に移り、難波町に居を定めき、蓋し、堺町の中村座、茸屋町の市    村座等の近傍を選びしものなるベし。斯くて、元禄三年に初めて市村座の看板を画き、爾後漸次に他の    劇場の看板にも筆を染むるに至り、こゝに江戸の劇場と鳥居とが永く密接の關係を続け行くべき基礎を    築きしなり。彼の画蹟は殆ど世に伝はらず、おもふに、清信の画風の一部には、彼より承伝の技法を含    みしものならむ。また彼が歿時年齢及び法名等に就て、世に伝ふる所無きはあらざれども、疑問多きを    以てこゝには収載せず〟    ☆ きよもと 清元 二代    ◯『浮世絵師伝』p44(井上和雄著・昭和六年(1931)刊)   〝清元 二代    【生】           【歿】    【画系】清長門人      【作画期】寛政~文政    鳥居を称す、俗称三甫助また(三郎助とも)、別号雪光斎、本所小梅村に住す、七十二歳或は其れ以上    にして歿すと云ふ、浅草寺本堂に関羽雲長の扁額を掲ぐ〟    ☆ きよやす 清安    ◯『浮世絵師伝』p44(井上和雄著・昭和六年(1931)刊)   〝清安    【生】           【歿】    【画系】二代清満門人    【作画期】文政    鳥居を称す、俗称虎次郎、住吉町に住す〟    ☆ きよゆき 清之    ◯『浮世絵師伝』p44(井上和雄著・昭和六年(1931)刊)   〝清之    【生】           【歿】    【画系】清長門人      【作画期】寛政    鳥居を称す〟    ☆ きよゆき 清行(鳥居清峰二代参照)    ◯『浮世絵師伝』p44(井上和雄著・昭和六年(1931)刊)   〝清行  二代清峰の前名〟    ☆ きよよし 清芳(鳥居清満三代参照)    ◯『浮世絵師伝』p44(井上和雄著・昭和六年(1931)刊)   〝清芳  三代清満の前名〟    ☆ きらく 喜楽    ◯『浮世絵師伝』p2(井上和雄著・昭和六年(1931)刊)   〝喜楽    【生】          【歿】    【画系】         【作画期】天保    京都の人か、肉筆大原女の図あり、印文に「中正路印」とあれば、中は姓氏の頭字、正路は多乗なるべ    し。画風四條波〟    ☆ きらくさい 喜楽斎    ◯『浮世絵師伝』p20(井上和雄著・昭和六年(1931)刊)   〝喜楽斎    【生】           【歿】    【画系】          【作画期】天保    国芳風の肉筆美人画あり〟    ☆ ぎんこう 銀光(安達吟光参照)    ◯『浮世絵師伝』p47(井上和雄著・昭和六年(1931)刊)〟   〝銀光  吟光の初名〟    ☆ ぎんこう 吟光    ◯『浮世絵師伝』p48(井上和雄著・昭和六年(1931)刊)〟   〝吟光    【生】           【歿】    【画系】          【作画期】明治    安達氏、俗称平七、初号を松雪斎銀光といひ、明治七年秋「講談一席読切」といふ大錦五十番続の俳優    似顔絵を画きしが、其が中に「吟光」とせる画印を併用したる例あり、次で明治十年版の西南戦争絵に    は「真匠銀光」の落款を用ゐたり、後ち松斎吟光と改む。初めの居所は堀江町二丁目二番地なりしが、    後ち京橋南鍋町一丁目に移れり。彼の役者絵は国周の影響を受けしものゝ如けれども、画系上の關係は    明かならず、明治十年以後に於ける其が作品には、漸次描線の硬化を示し、且つ役者絵を廃して他の風    俗画方面に向ひたり、錦絵と共に幾多の挿画本に筆を労し、凡そ明治三十年頃まで作画を続けたりき。    一説に彼の堀江町時代には煙草屋を営みしと云へり〟    ☆ きんしゅう やまとがわ 大和川 錦舟    ◯『浮世絵師伝』p46(井上和雄著・昭和六年(1931)刊)   〝錦舟    【生】           【歿】    【画系】          【作画期】宝暦    大和川氏、肉筆美人画あり〟    ◯〔「日本古典籍総合目録」収録なし〕    ☆ ぎんせつ 吟雪(富川房信参照)    ◯『浮世絵師伝』p48(井上和雄著・昭和六年(1931)刊)〟   〝吟雪    【生】           【歿】    【画系】          【作画期】    富川戻信の号。(房信の項参照)〟    ☆ きんちょう 金長    ◯『浮世絵師伝』p46(井上和雄著・昭和六年(1931)刊)   〝金長    【生】           【歿】    【画系】          【作画期】寛政    草双紙あり〟