Top 『浮世絵師伝』浮世絵文献資料館
け浮世絵師伝 ☆ けいゆ 渓由 ◯『浮世絵師伝』p64(井上和雄著・昭和六年(1931)刊) 〝渓由 【生】 【歿】 【画系】北渓門人 【作画期】文政 摺物あり〟☆ けいげつ 渓月 〔生没年未詳〕 ◯『浮世絵師伝』p64(井上和雄著・昭和六年(1931)刊) 〝渓月 【生】 【歿】 【画系】北渓門人 【作画期】文政 葵岡と号す、摺物あり〟☆ けいしょう 渓松 ◯『浮世絵師伝』p64(井上和雄著・昭和六年(1931)刊) 〝渓松 【生】 【歿】 【画系】北渓門人 【作画期】文政 岡田氏、摺物あり〟☆ けいせい 渓栖 ◯『浮世絵師伝』p64(井上和雄著・昭和六年(1931)刊) 〝渓栖 【生】 【歿】 【画系】北渓門人 【作画期】文政 葵園と号す、摺物あり〟☆ けいせつ 渓雪 ◯『浮世絵師伝』p64(井上和雄著・昭和六年(1931)刊) 〝渓雪 【生】 【歿】 【画系】北渓門人 【作画期】文政 岸本氏〟☆ けいり 渓里 ◯『浮世絵師伝』p64(井上和雄著・昭和六年(1931)刊) 〝渓里 【生】 【歿】 【画系】北渓門人 【作画期】文政 拱一〟☆ けいりん 渓林 ◯『浮世絵師伝』p64(井上和雄著・昭和六年(1931)刊) 〝渓林 【生】 【歿】 【画系】北渓門人 【作画期】文政 鶴屋〟☆ けいさい 蕙斎 (北尾政美参照) ◯『浮世絵師伝』p64(井上和雄著・昭和六年(1931)刊) 〝蕙斎 北尾政美の別号〟☆ けいまろ 蕙麿 (北尾重政二代参照) ◯『浮世絵師伝』p64(井上和雄著・昭和六年(1931)刊) 〝蕙麿 二代重政の初名〟☆ けいりん 蕙林 ◯『浮世絵師伝』p64(井上和雄著・昭和六年(1931)刊) 〝蕙林 【生】文政十年(1827)二月二日 【歿】明治四十二年(1909)八月十七日-八十三 【画系】狩野雅信門人 【作画期】嘉永~明治 鍬形紹意の男、即ち北尾政美の孫なり、名は勝永、東京府下金杉村三百五十番地に住す、もと津山藩の 抱絵師なりし由〟☆ けいし 慶子 ◯『浮世絵師伝』p64(井上和雄著・昭和六年(1931)刊) 〝慶子 【生】享保四年(1719) 【歿】天明六年(1786)八月三日-六十八 【画系】英派 【作画期】明和~天明 大阪の人、女方俳優初代中村富十郎なり、余技に画を学び、英慶子、また嶺琴舎と号す、『慶子画譜』 (天朋〈ママ、天明の誤〉五年版)あり、其他の作品は皆肉筆画なり、菩提所は大阪一心寺〟☆ けいちゅう 慶仲 ◯『浮世絵師伝』p64(井上和雄著・昭和六年(1931)刊) 〝慶仲 【生】 【歿】 【画系】 【作画期】寛政 長崎の人、白猿・路考・花扇等を図したる肉筆似顔絵あり、落款に「崎陽松慶仲写」とす〟☆ けんげつどう 軒月堂 ◯『浮世絵師伝』p65(井上和雄著・昭和六年(1931)刊) 〝軒月堂 【生】 【歿】 【画系】 【作画期】享保 懐月堂風の肉筆美人画あり〟☆ けんしん 牽信 ◯『浮世絵師伝』p65(井上和雄著・昭和六年(1931)刊) 〝牽信 【生】 【歿】 【画系】 【作画期】文化 一壺斎と号す、肉筆娘と子供の図あり、画風歌麿の晩年風なり〟☆ げっこう 月耕 ◯『浮世絵師伝』p65(井上和雄著・昭和六年(1931)刊) 〝月耕 【生】安政六年(1859)九月 【歿】大正九年(1920)十月一日-六十二 【画系】師無し 【作画期】明治~大正 尾形を称す、本姓名鏡(ナカガミ)、出でて田井氏を嗣ぐ、俗称正之助、桜斎・名鏡斎・華暁楼と号し、 又、名鏡斎年邑と落款したるものあり、素より師無く、谷文晁、菊池容斎等の画風に私淑して能く一家 を成す。 日本美術協会創立以来同会の爲に尽力し、爾來各博覧会、共進会等に出品して最高賞を受けたり。居所 初め京橋弥左衛門十三番地、後ち桶町五番地、築地門跡傍(桜痴居士の旧居)、牛込新小川町等に転居 せり。彼が錦絵の初作は「湊川合戦の圖」なりといふ、また錦絵の続き物には「月耕隨筆」・「花くら べ」・「赤穂義士」等数種あり、絵本は『月耕漫画』最も著名なり。其他、明治十年以後に於ける小説 雑書類の挿画頗る多く、尚ほ、日清戦争の錦絵等に至るまで、其が作例は一々枚挙に遑あらず〟☆ げっさ 月沙 ◯『浮世絵師伝』p65(井上和雄著・昭和六年(1931)刊) 〝月沙 【生】 【歿】 【画系】石燕門人 【作画期】明和~天明 初期時代には月砂とす、明和七年版、及び安永元年版等の俳諧歳且集(失題)に、石燕門下の人々と共 に挿画せり〟☆ げっさい 月斎 (歌政二代参照) ◯『浮世絵師伝』p65(井上和雄著・昭和六年(1931)刊) 〝月斎 歌政の別号〟☆ げっさい 月斎 ◯『浮世絵師伝』p65(井上和雄著・昭和六年(1931)刊) 〝月斎 峨眉丸の別号〟☆ げんぎょ 玄魚 ◯『浮世絵師伝』p65(井上和雄著・昭和六年(1931)刊) 〝玄魚 【生】文化十四年(1817) 【歿】明治十三年(1880)二月七日-六十四 【画系】 【作画期】弘化~慶応 宮城氏、俗称喜三郎、整軒・風園。蝌蚪(カト)子・水仙子・小井居・梅素亭などの数号あり。父は喜斎 玄魚、名は貞雄、俗称喜三郎といひて本石町四丁目に住し大経師を以て業とす、国学を岸本由豆流に学 び、詠歌に秀逸多しといふ、梅素玄魚は即ち其が長子にして十五歳の時浅草諏訪町の書画骨董舗金子吉 兵衛方に雇はれ二十歳の時之れを辞して家に帰る、後ち摺物の図案及び草双紙の袋絵などに独特の意匠 を凝らし書画共に能くしたりき、又、安政二年十月江戸大地震ありし時彼の考案にて鯰の樣々に扮装し たる戯画を出版せしに意外に好評を博し、都下の各絵双紙店にて数万枚を売尽せしかば、重ねて版下を 講ふ者陸続として彼が家に集まりしと云ふ、純粋の浮世絵師にはあらざれども、浮世絵と関係深きを以 て姑くこゝに載す。墓所、谷中天王寺〟☆ げんげんさい 玄々斎 ◯『浮世絵師伝』p66(井上和雄著・昭和六年(1931)刊) 〝玄々斎 【生】 【歿】 【画系】 【作画期】元文 古橋氏、名は守約、祐信風の肉筆美人画あり、京都の人なるべし〟☆ げんげんどう 玄々堂 ◯『浮世絵師伝』p(井上和雄著・昭和六年(1931)刊) 〝玄々堂 【生】天明六年(1786) 【歿】慶応三年(1867)十一月廿八日-八十二 【画系】 【作画期】天保~弘化 松本氏、名は保居、俗称儀平、京都東山鷲尾町に住す、銅版の技を専門とし、初め天保七年当時にあり ては「地球万国全図」及び「日月写真図」又は外国風景の写しなどを出版せしが、それに引続きて、京 阪の名所絵を銅版とせしもの頗る多し。江戸に於ては、江漢・田善・雷洲等の先進者あれど、銅版画を 民衆化し、実用化せしめ、また有力なる後継者を作りたる事は、彼の功労与かつて大なり。墓所、京都 東山霊山〟☆ げんげんどう 玄々堂 二代 ◯『浮世絵師伝』p66(井上和雄著・昭和六年(1931)刊) 〝玄々堂 二代 【生】天保八年(1837) 【歿】明治卅六年(1903)十月卅一日-六十七 【画系】初代玄々堂の長男 【作画期】弘化~明治 松本氏、幼名民弥(また亀之助)、後ち松田姓に改め、名に敦知(また敦朝)、俗称弥太郎、緑山と号 し、蘭香亭・清泉堂などの別号あり、父の教へを受けて夙に十一歳より銅版画を製作し、爾後絶えず其 の技を進め、京都名所を画きたるもののみにても実に夥しき数に上れり、其他諸国名所及び地図なども あり。其の細密なるものに至つては、七分四方の中に「千字文」(安政元年版)を刻みし例もあり。維 新に際しては太政官札印刷の命をし、遷都と共に東京に移住して、太政官札及び民部省札の外、郵便切 手などに至るまで、銅版印刷の事は一切彼に命ぜられしかば、数年ならずして巨富を致し、彼が日本橋 呉服町の邸宅の如きは頗る宏壮を極めしものなりしと云ふ。然るに、漸次海外より熟練したる技師の渡 来するあり、且つ精巧なる印刷機械の輸入さるゝ等にて、彼はいつしか昔日の声誉を失ひしが、併し多 年の経験に基きて民間に於ける印刷会社などを組織し、銅版と共に石版印刷をも営業とするに至りき。 墓所青山共同墓地、後ち京都東山霊山に改葬す〟☆ げんしんどう 玄心堂 ◯『浮世絵師伝』p66(井上和雄著・昭和六年(1931)刊) 〝玄心堂 【生】 【歿】 【画系】玄々堂派 【作画期】天保 大阪の銅版画家、石原氏、名は完永、俗称宇吉(或は卯吉)、舎山と號す、天保年間の銅版にて「十六 羅漢」・「二十四孝」及び大阪名所の数図を出だせり〟☆ げんざぶろう 源三郎 ◯『浮世絵師伝』66p(井上和雄著・昭和六年(1931)刊) 〝源三郎 【生】 【歿】 【画系】 【作画期】元禄 奈良の人、蒔絵師なり、元禄三年七月版『人倫訓蒙図彙』(版元、京都村上平楽寺)七册の内、巻三以 下(巻一及び巻二は別人の筆)の五册を画けり、蓋し、巻三の終りに「蒔絵師源三郎筆」とあるを以て、 彼が名を知らるれども、其が画風は頗る稚気を帯び、画系の如きは全く不明なり。また元禄八年版(舎 衣軒作)の『好色十二人男』五册も彼の挿画なりと云ふ〟☆ げんじろう 源二郎 (蔀関月参照) ◯『浮世絵師伝』p67(井上和雄著・昭和六年(1931)刊) 〝源二郎 【生】 【歿】 【画系】 【作画期】 柳原氏、蔀関月の前名。(関月の條参照)〟☆ げんぱち 源八 (奥村政信参照) ◯『浮世絵師伝』p67(井上和雄著・昭和六年(1931)刊) 〝源八 奥村政信の俗稱〟☆ げんろく 源六 ◯『浮世絵師伝』p67(井上和雄著・昭和六年(1931)刊) 〝源六 【生】 【歿】 【画系】政信の男 【作画期】享保 奥村氏、画を父に学びて細判漆絵の役者絵を描けり。落款に「大和絵師奥村源六」又は「奥村源六筆」 とせしを、従来政信の作と混同せられしも、政信の俗称は源八にして源六に非ず。彼は父政信が享保 九年頃版元を開業してより、専ら営業上の実務にたづさはり、殆ど作画を中止せしものゝ如し。彼の 作画年代は享保八九年頃にして、其の細判漆絵のうち、市川門之助の舞台姿を画きしものは、享保八 年十一月、中村座に出演せし最明寺時頼の役に相当するが如く、版元は芝神明前横丁江見屋なり。仮 りに、彼の出生を宝永六年(政信廿四歳)とすれば、享保八年には十五歳となる、斯くて数年の後に は絵草紙屋としての経験を積みて、やがて父に替りて「版元奥村屋源六」と成りしものなり。彼の出 版物は、父政信の作品以外に、二氏清信の漆絵、清満・清広等の紅摺絵もあり、そのうち宝暦初期に 於ける清広の一作品には、版元印(瓢箪形に奥村)と共に「鶴寿堂」と記せり、即ち彼が店の商号な り。而して、版元奥村屋の名は安永年間まで続きたれども、彼の歿年は明かならず。店は通塩町なり〟