Top 『浮世絵師伝』浮世絵文献資料館
ふ浮世絵師伝 ☆ ふうよう 風養 ◯『浮世絵師伝』p163(井上和雄著・昭和六年(1931)刊) 〝風養 【生】 【歿】 【画系】 【作画期】寛政 峯谷人と号す、美人及び唐人物の錦絵あり〟☆ ふうようさい 風容斎 ◯『浮世絵師伝』p163(井上和雄著・昭和六年(1931)刊) 〝風容斎 【生】 【歿】 【画系】 【作画期】享和~文化 歌麿晩年風の肉筆美人画あり〟☆ ふいんさい 不韻斎 ◯『浮世絵師伝』p163(井上和雄著・昭和六年(1931)刊) 〝不韻斎 【生】 【歿】 【画系】 【作画期】安永 京都の人、合羽摺中判の浮絵あり。「都東山ざしきの図」と題するものゝ図中衝立に「不韻斎画」と あり。 都まる山にはのけしき 大坂てんま天神まつり 大内歌合之図 富士のまきかり 八わたほう生会 おらんだ路登んだんの都 うきゑ淀はな火の図 おらん陀出口のみなと (各)京寺町通三條上ル丁菊屋安兵衛板〟☆ ふさたね 房種 ◯『浮世絵師伝』p164(井上和雄著・昭和六年(1931)刊) 〝房種 【生】 【歿】 【画系】貞房門人 【作画期】安政~明治 歌川を称す、村井氏、名は静馬、桜斎・一笑斎・一飄斎等の号あり、本所外手町十八番地に住せり〟☆ ふさのぶ 房信 ◯『浮世絵師伝』p164(井上和雄著・昭和六年(1931)刊) 〝房信 【生】 【歿】 【画系】 【作画期】享保末 鳥居を称す、漆絵あり。二代目団十郎の暫、細、漆絵(享保)〟☆ ふさのぶ 房信 ◯『浮世絵師伝』p164(井上和雄著・昭和六年(1931)刊) 〝房信 【生】 【歿】 【画系】 【作画期】寛延 谷川氏、細判紅摺絵あり〟☆ ふさのぶ 房信 ◯『浮世絵師伝』p164(井上和雄著・昭和六年(1931)刊) 〝房信 【生】 【歿】 【画系】西村重長門人 【作画劫】寛延~安永 富川氏、吟雪と号す、本姓は山本、俗称九右衛門、家を丸屋(正本屋とも)と称し、江戸大伝馬町三丁 目に地本絵草紙問屋を営みしなり、其の店は寛文頃よりの旧家にして、同業者中に於ても屈指の大問屋 なりしが、房信の代となるに及んで稍衰運に傾き、加之彼が作画に熱中せし結果、本業を疎外するの弊 を生ぜしものと見え、安永の頃遂に地本問屋を廃業して本郷辺に移転したりき。 彼が自画作に係れる本及び青本の類甚だ夥しき数に上り、今これを枚挙するに遑あらず、又自画の紅絵 も尠からず、いづれも自店にて発行せり〟☆ ふじくに ふじ国 ◯『浮世絵師伝』p164(井上和雄著・昭和六年(1931)刊) 〝ふじ国 【生】 【歿】 【画系】よし国門人か 【作画期】文政 大阪の人、寿松堂と号す、役者絵あり〟☆ ふじのぶ 藤信 ◯『浮世絵師伝』p164(井上和雄著・昭和六年(1931)刊) 〝藤信 【生】 【歿】 【画系】石川豊信門人か 【作画期】宝暦~明和 山本氏、宝暦より明和に亘りて若干の作品あり、画風稍豊信の特徴に近ければ、或は其が門人ならむか と思はる、而して彼が作品の版元は、丸屋小兵衛(山本氏、豊仙堂、略称丸小)とて、江戸通油町に地 本絵草紙問屋を営みし者にして、彼が山本氏たると他店に出版を委ねざりしとを以て按ずれば、彼は恐 らく此の丸屋の主人たりしものゝ如けれども、未だ確証を得ず。 因みに、山本義信(義信の項參照)も亦、彼と何等かの関係を有せし者にはあらざる歟〟☆ ふじまろ 藤麿 ◯『浮世絵師伝』p165(井上和雄著・昭和六年(1931)刊) 〝藤麿 【生】 【歿】 【画系】歌麿門人 【作画期】享和~文化 紅霞斎、また芳州と号す、肉筆美人画あり〟☆ ふじよし 藤芳 ◯『浮世絵師伝』p165(井上和雄著・昭和六年(1931)刊) 〝藤芳 【生】 【歿】 【画系】 【作画期】享和~文化 花月堂と号す、摺物あり〟☆ ぶせい 武清 ◯『浮世絵師伝』p165(井上和雄著・昭和六年(1931)刊) 〝武清 【生】安永五年(1776) 【歿】安政三年(1856)十二月廿日-八十一 【画系】谷文晁門人 【作画期】文化~嘉永 喜多氏、名は武清、字は子慎、俗称栄之助、可奄・五清堂・一柳斎・鶴翁等の号あり、初め文晁に学び、 後ち狩野探幽の筆意を慕ひ、遂に一家を成す、読本等の挿画あり。居所八丁堀竹島、法号洞玄院幽誉可 庵武清居士、墓所芝二本榎、清林寺(浄土宗)〟☆ ぶんがどう 文雅堂 ◯『浮世絵師伝』p165(井上和雄著・昭和六年(1931)刊) 〝文雅堂 【生】 【歿】 【画系】 【作画期】弘化~嘉永 大阪の銅版画家、中川氏、俗称信輔、大阪名所の図あり〟☆ ぶんき 文輝 ◯『浮世絵師伝』p165(井上和雄著・昭和六年(1931)刊) 〝文輝 【生】 【歿】 【画系】 【作画期】文政~天保 京都の人、藪田氏、落款に「東街文輝写」とせる肉筆人物画及び木版掛物絵の美人画あり、落款の東街 は、蓋し鴨川東なる祇園町辺の意なるべし。画風四條派に近し〟☆ ぶんきょう 文橋 ◯『浮世絵師伝』p165(井上和雄著・昭和六年(1931)刊) 〝文橋 【生】 【歿】 【画系】栄之門人 【作画期】寛政 桜川氏、約して桜文橋といふ、錦絵美人画及び草双紙の挿絵あり〟☆ ぶんか 文和 ◯『浮世絵師伝』p165(井上和雄著・昭和六年(1931)刊) 〝文和(クワ) 【生】 【歿】 【画系】 【作画期】安永 谷氏〟☆ ぶんこう 文康 ◯『浮世絵師伝』p165(井上和雄著・昭和六年(1931)刊) 〝文康(カウ) 【生】 【歿】 【画系】文調門人 【作画期】文化 俗称安五郎、人呼びて文康安といふ〟☆ ぶんさい 文斎 ◯『浮世絵師伝』p165(井上和雄著・昭和六年(1931)刊) 〝文斎 【生】 【歿】 【画系】英泉門人 【作画期】文政~安政 磯野氏、名は信春、俗称由平、長崎今鍛治屋町角に住し、家を大和屋(俗称と併せて大由と略称す)と いひ、文彩堂と号して、画工兼版元を営みし者なり。画く所の版画は所謂長崎絵の類にして、其の数甚 だ多く、出版年代は概ね弘化以後安政年間に止まれり(但し、大和屋と云ふ版元の家號は既に享和元年 版の『肥州長崎の図』に見ゆ、或は彼の先代か)。然るに、文政四年江戸版の『狂歌長贏集』に彼は北 渓と共に挿画し、且つ「はしゐしてながむる地の水すまし足ふみ出して凉みとらばや」と自詠の狂歌を 入れたり、これに拠れば、当時彼は江戸に住し、稍後に英泉(右の狂歌本の挿画には英泉の特徴無し) の門人となりしものゝ如し。 彼の長崎に於ける作品中、弘化四年正月発行の『長崎土産』一冊は、彼に関する最も重要のものたり、 即ち其の奥附を見るに 江戸渓斎池田英泉義信門人 文斎磯野信春著併画 浄書赤松霍洲、剞劂江戸石上松五郎刀 唐紅毛小間物御土産之品数品、長崎画図異国人物錦絵類下 直ニ奉指上候 長崎今鍛冶屋町角 弘化四丁未年春正月發先 大和屋由平寿桜 とあり、以て其の画系を明かにし、彼が経営ぶりの一端を察すべし。 彼は元来長崎の人なりしや否やは姑く別問題とするも、曾て江戸に在りし事は前記の狂歌本によつて立 証し得べく、また英泉門人たりしは明かなる事実なり、是を以て彼の版画は、同じく長崎絵中にありて も著しく江戸風の特徴を示し、一見同地他店の出版物と区別し得る程の異彩を放ちたり、こは単に技巧 上に於て彼が江戸風に感化せられしと見るよりも、彼れ自身が既に江戸ッ子肌なりしに由ると解するの 妥当なるを覚ゆ。 彼の夥しき版画のうち、弘化年間の出版らしき小形横絵の「長崎八景」(八校)、及び嘉永六年版の 「【魯西整儀】写真鑑」(七枚)等は、種々の意味に於て注目に価すべきものなり〟☆ ぶんしょう 文笑 ◯『浮世絵師伝』p166(井上和雄著・昭和六年(1931)刊) 〝文笑 【生】宝暦四年(1754) 【歿】寛政八年(1796)四月十二日-四十三 【画系】文調門人 【作画期】明和~安永 岸氏、名は誠之、俗称宇右衛門、亀井町に住す、初め文調に就て画を学び、明和七年版の『往古ッ模様 亀山染』(黄表紙風の浄瑠璃絵草紙)其他若干の挿絵本あり。後ち画を廃して、蜀山人の門に入り狂歌 師となる、桑楊庵・頭(ツムリ)の光(ヒカル)・後の巴人亭等は狂歌に用うる所なり。法名恕真斎徳誉素光 居士、駒込追分の瑞泰寺に葬る。 茲に一考すべきは、宝暦半ば頃の紅摺艶本の一図に「岸文笑画」と落款し、画風豊信に似たるものあり、 若し前記の文笑と別人ならば、初代二代の区別を附すべきか。一説に文笑は、享保十二年に生れ、寛政 八年に七十歳にて歿すと云へり、此の説に従へぼ同一人と見るべきも、文調門人と称するは如何にや、 記して尚ほ後考を俟つ〟☆ ぶんちょう 文調 ◯『浮世絵師伝』p166(井上和雄著・昭和六年(1931)刊) 〝文調 【生】 【歿】 【画系】石川幸元門人 【作画期】明和~安永 守氏、一筆斎(落款には齋を齊とせるもの多し)と号す、美人画と役者絵をよく描けり、彼は春信及び 春草等と時代を同じうし、画風亦両者を折衷せしが如き特徴を有す、即ち春信の抒情的なると、春章の 写実的なるとの中間に位し、其處に彼の本領を発揮したりき、描く所の錦絵甚だ多数に上れるが、殆ど 一枚すら駄作を出さゞりしも、細判のみ多く、役者の名は紋章に拠て判別し得らる。(口絵第二十六図 参照) 彼は錦絵の外に草双紙の挿画にも若干の作を示せり、例へば宝暦十四(明和元)年版の読本『梅桜一対 男』(落款、守文調画)(水谷不倒氏の考証に拠る)、及び安永七年版の黄表紙『【市川五粒】追善記』 上下(上巻は湖龍斎、下巻は文調)、同八年版の黄表紙『三歳繰珠数暫』上下(上巻は湖龍斎、下巻は 文詞)等是れなり、其他年代未詳の『【助六揚巻】二代政宗』といへる黒本もある由なれど、未だ確証 を得ず。彼は斯くの如く湖龍斎と合作せるが、其れ以前に春草とも合作せし例あり、即ち明和七年版の 『絵本舞台扇』(彩色摺)にして、亦彼の傑作の一に数ふべきものなり。 尚ほ、天明元年頃のものとおぼしき肉筆人物画(故小林文七氏蔵)に、春草・湖龍斎・文調三人の合作 あるは、蓋し彼等相互間の親交を窺ふに足らむか。因みに、彼の門人と伝へらるゝ者に岸文笑(狂歌師 頭(ツムリ)の光(ヒカル))あり、往々両者の伝記を混同して、文調一に頭の光などゝするは誤なり。彼と 当時の俳優とは可なり密接の関係ありし事は、如上の作品によつて窺ひ得る所なるが、こゝに珍らしく も彼の作画せし大絵馬二面、現に角筈十二社に保存されたり、一は無落款なれども宝暦十四(明和元) 年六月に奉納せし市村座「式三番」の図、二は安永二年四月奉納の市村座七俳優の図にして、「一筆斎 文調図」と落款せり。(『浮世絵新誌』第十二号に拠る) 因みに、彼の七回忌の追福を営まむとて、窪俊満が文章を綴りし摺物に「扨こたみその未亡人の刀自、 門葉の文康舟調など聞ゆる人々、追福のいとなみせんとて、楊柳橋辺の万発樓に水無月十二日を卜し、 知己の名だゝる画家を讃し席画を催し」云々と云へれば、文康・舟調の両人が彼の門弟たりし事と、彼 が忌辰の六月十二日なりし事とを明かにされ得べし(『浮世絵新誌』第九号所載、島田筑波氏の考証参 照)。さて右の摺物に、彼が高弟たる文笑(寛政八年歿)の名の漏れたるに依りて考ふれば、文笑歿後 間もなき頃、即ち寛政九年或は十年頃に、斯かる追福を営みしものなるべく、されば其が歿年は凡そ寛 政三四年頃と推定され得るが如し〟☆ ぶんちょう 文朝 ◯『浮世絵師伝』p167(井上和雄著・昭和六年(1931)刊) 〝文朝 【生】 【歿】文化十四年(1817)頃 【画系】 【作画期】明和~安永 柳氏、南龍斎と号す、明和の末頃、天王祭礼の行燈に後者の似顏を画きしと云ふ、居所通油町〟☆ ぶんちょう 文朝 二代 ◯『浮世絵師伝』p167(井上和雄著・昭和六年(1931)刊) 〝文朝 二代 【生】 【歿】 【画系】初代文朝門人 【作画期】文化~文政 柳氏を称し、南柳斎と号す、尾張町辺に住せり〟☆ ぶんよう 文陽 ◯『浮世絵師伝』p167(井上和雄著・昭和六年(1931)刊) 〝文陽 【生】 【歿】 【画系】 【作画期】天保 京都の人、岩崎氏、四條風の肉筆美人画あり〟☆ ぶんりゅうさい 文龍斎 ◯『浮世絵師伝』p167(井上和雄著・昭和六年(1931)刊) 〝文龍斎 【生】 【歿】 【画系】 【作画期】 細田栄之の師なりとの説あれども、未だ其が作品を見ず〟☆ ぶんろう 文浪 ◯『浮世絵師伝』p168(井上和雄著・昭和六年(1931)刊) 〝文浪 【生】 【歿】 【画系】 【作画期】享和 歌麿晩年風の錦絵美人画あり〟