Top           『浮世絵師伝』         浮世絵文献資料館
                            浮世絵師伝  ☆ ひこくに 彦国    ◯『浮世絵師伝』p155(井上和雄著・昭和六年(1931)刊)   〝彦国                【生】           【歿】    【画系】蘆国門人か     【作画期】文政    あし川氏を称す、役者絵あり〟    ☆ ひさなお 久直    ◯『浮世絵師伝』p155(井上和雄著・昭和六年(1931)刊)   〝久直    【生】           【歿】    【画系】豊久門人      【作画期】    歌川を称す〟    ☆ ひさのぶ 久信    ◯『浮世絵師伝』p155(井上和雄著・昭和六年(1931)刊)   〝久信    【生】           【歿】    【画系】豊久門人      【作画期】文化    百斎、また貫斗と号す、歌麿晩年風の錦絵美人画あり〟    ☆ ひさのぶ 寿信    ◯『浮世絵師伝』p155(井上和雄著・昭和六年(1931)刊)   〝寿信    【生】           【歿】    【画系】          【作画期】明治    森川氏、歌川風の俳優似顔絵あり〟    ☆ ひさまろ 寿麿    ◯『浮世絵師伝』p155(井上和雄著・昭和六年(1931)刊)   〝寿麿    【生】           【歿】    【画系】歌麿門人      【作画期】文化〟    ☆ ひでかず 秀一    ◯『浮世絵師伝』p155(井上和雄著・昭和六年(1931)刊)   〝秀一    【生】           【歿】    【画系】中村長秀門人    【作画期】安政    京都の人〟    ☆ ひでかた みずの 水野 秀方    ◯『浮世絵師伝』p155(井上和雄著・昭和六年(1931)刊)   〝秀方    【生】           【歿】    【画系】年方門人      【作画期】明治    市川氏、後ち師年方の妻となりて水野秀方と称す〟    ☆ ひでくに 秀国    ◯『浮世絵師伝』p155(井上和雄著・昭和六年(1931)刊)   〝秀国    【生】           【歿】    【画系】中村長秀門人    【作画期】安政    京都の人、酒楽人と号す〟    ☆ ひでなり 秀成    ◯『浮世絵師伝』p155(井上和雄著・昭和六年(1931)刊)   〝秀成    【生】           【歿】    【画系】          【作画期】天明~寛政    赤松亭と号す、又、狂歌号を赤松目出成といへり、錦絵あり、寛政十二年版洒落本『松の登妓話』に口    絵を描く、画風北斎の辰政時代のものと相似たり〟    ☆ ひでのぶ 秀信    ◯『浮世絵師伝』p155(井上和雄著・昭和六年(1931)刊)   〝秀信    【生】           【歿】    【画系】          【作画期】明和    菊川氏、明和頃の人〟    ☆ ひでのぶ 秀信    ◯『浮世絵師伝』p155(井上和雄著・昭和六年(1931)刊)   〝秀信    【生】           【歿】    【画系】          【作画期】享和    大阪の人、巨勢氏、法橋に叙せらる〟    ☆ ひでのぶ 秀信    ◯『浮世絵師伝』p155(井上和雄著・昭和六年(1931)刊)   〝秀信    【生】           【歿】    【画系】          【作画期】享保    豊川氏、享保頃の人〟    ☆ ひでまろ 秀麿    ◯『浮世絵師伝』p156(井上和雄著・昭和六年(1931)刊)   〝秀麿    【生】           【歿】    【画系】歌麿門人      【作画期】享和~文化    下谷柳稲荷社前に住す、錦絵美人画及び雑本の挿絵あり〟    ☆ ひでまろ 秀麿    ◯『浮世絵師伝』p156(井上和雄著・昭和六年(1931)刊)   〝秀麿    【生】           【歿】    【画系】中村長秀門人    【作画期】安政    京都の人〟    ☆ ひでもと 秀素    ◯『浮世絵師伝』p156(井上和雄著・昭和六年(1931)刊)   〝秀素(モト)    【生】           【歿】    【画系】          【作画期】享保    藤田氏、赤本あり〟    ☆ ひでゆき 秀幸    ◯『浮世絵師伝』p156(井上和雄著・昭和六年(1931)刊)   〝秀幸(ユキ)    【生】           【歿】    【画系】          【作画期】明和    錦絵あり、又『笑本媄夜娯の花』と題する春画本を描く、画風春信に似たり〟    ☆ ひでのぶ 英信    ◯『浮世絵師伝』p156(井上和雄著・昭和六年(1931)刊)   〝英信    【生】           【歿】    【画系】          【作画期】明和~安永    大阪の人、雲鯨斎と号す、居所を天王寺綿屋町として、安永六年版の『難波丸綱目』に出づ、門人に寺    沢昌次あり〟    ☆ ひでくに 英国    ◯『浮世絵師伝』p156(井上和雄著・昭和六年(1931)刊)   〝英国    【生】           【歿】    【画系】よし国門人     【作画期】文政    大阪の人、豊川氏を称す、役者絵あり〟    ☆ ひでのぶ 英信(「えいしん」参照)    ◯『浮世絵師伝』p156(井上和雄著・昭和六年(1931)刊)   〝英信 菊川を称す、「エ」の部へ入る〟    ☆ ひでみつ 英光    ◯『浮世絵師伝』p156(井上和雄著・昭和六年(1931)刊)   〝英光    【生】           【歿】    【画系】          【作画期】天保    勝川を称す、天保三年の千社札に此名あり〟    ☆ ひゃっき 百亀    ◯『浮世絵師伝』p156(井上和雄著・昭和六年(1931)刊)   〝百亀    【生】           【歿】寛政四年(1792)-八十余    【画系】          【作画期】明和~天明    小松屋と称する薬種商なり、俗称三右衛門、別号を小松軒といふ、西川祐信の画風を慕ひ、よく春画本    を描けり、又、略暦の摺物など数多あり、飯田町中坂に住す。墓所、小石川大雄寺〟    ☆ ひゃっか 百花    ◯『浮世絵師伝』p156(井上和雄著・昭和六年(1931)刊)   〝百花    【生】           【歿】    【画系】英山門人      【作画期】文化    菊川を称す、肉筆美人画あり〟    ☆ ひゃくさい 百斎(久信参照)    ◯『浮世絵師伝』p156(井上和雄著・昭和六年(1931)刊)   〝百斎 久信の号〟    ☆ ひゃくりん 百隣(俵屋宗理三代参照)    ◯『浮世絵師伝』p156(井上和雄著・昭和六年(1931)刊)   〝百隣 三代俵屋宗理の号〟    ☆ ひゃくりん 百琳(葛飾北斎参照)    ◯『浮世絵師伝』p156(井上和雄著・昭和六年(1931)刊)   〝百琳 北斎、宗理時代の別号。〟    ☆ ひろかげ 広景    ◯『浮世絵師伝』p157(井上和雄著・昭和六年(1931)刊)   〝広景    【生】           【歿】    【画系】初代廣重門人    【作画期】安政~慶応    歌川を称す、「江戸名所道戯尽」あり〟    ☆ ひろかね 広兼    ◯『浮世絵師伝』p157(井上和雄著・昭和六年(1931)刊)   〝広兼    【生】           【歿】    【画系】豊広門人      【作画期】文化    歌川を称す〟    ☆ ひろかね 広兼(歌川貞広参照)    ◯『浮世絵師伝』p157(井上和雄著・昭和六年(1931)刊)   〝広兼 貞広の前名〟    ☆ ひろくに 広国(歌川広信二代参照)    ◯『浮世絵師伝』p157(井上和雄著・昭和六年(1931)刊)   〝広国 二代広信の前名。〟    ☆ ひろさだ 広貞    ◯『浮世絵師伝』p157(井上和雄著・昭和六年(1931)刊)   〝広貞    【生】           【歿】    【画系】貞慶門人か     【作画期】弘化~嘉永    大阪の人、鈴木氏、歌川を称し、五粽亭と号す、役者絵あり〟    ☆ ひろしげ 広重    ◯『浮世絵師伝』p157(井上和雄著・昭和六年(1931)刊)   〝広重    【生】寛政九年(1797)   【歿】安政五年(1858)九月六日-六十二    【画系】豊広門人      【作画期】文化~安政    安藤氏、本姓田中(内田実氏の研究に拠れば、津軽藩の小姓頭田中徳右衛門といへる者、江戸にて弓術    師範を勤め居りし頃、其が三男徳明を安藤家へ養子に遣はしたり、これ即ち広重の父源右衛門なりと云    ふ)、幼名徳太郎、元服後、諱を元長、俗称を重右衛門といひしが、後更に徳兵衛と改む、文化六年の    春、十三歳にして母に死別し、尋で同年の冬に父を失ふ、彼が元服して家職(八代洲河岸定火消組同心)    を継ぎしは、実に其の年なりき。文化八年(十五歳)、豊国の門に入らむとして果さず、次に貸本屋某    の紹介を以て豊広を訪ね、其が門人たらむ事を懇請したるに、豊広は彼が志篤きを認めて、遂に入門を    許し、翌九年九月初めて「広重」といふ画名を彼に与へ、同時に歌川を称する事を許したりき。     彼の別号は、初め一遊斎といひ後ち一幽斎と改めしが、天保二年晩夏(内田実氏の説)以後、幽の字を    廃して一立(リウ)斎と号せり、但し印章には稍後まで旧号の「一幽斎」を用ゐたり。一立斎(印文には    一粒斎としたる例もあり)は彼の別号として最も著明なるが、嘉永三年頃、当時の講談師文庫と云へる    者に之れを与へて、爾後彼は単に立斎と号しき。其他には、狂歌号として東海堂歌重、及び戯画名に歌    重。また春画名に色重など云へり。     彼は未だ幼少の故を以て、親族の安藤鉄蔵といへる者をして一時これを代番せしめ、天保三年(三十六    歳)に至つて初めて仲次郎に家督を譲りしといふ、而して彼が旧居八代洲河岸より中橋大鋸町へ移りし    は、恐らく其の年(天保三)の事なるべし。それより弘化三年には大鋸町より常盤町に転じ、嘉永二年    夏の頃常盤町より中橋狩野新道に移り、其処を最後の住居としたりき、蓋し狩野新道も亦大鋸町なれど、    前住の家とは相異りしが如し。     彼は天性画才に長けたりしと見え、文化三年十一月、琉球人来朝の際、其の行列図を画きしもの今に伝    はれり、これ実に彼が十歳の筆なり、又、師(豊広)の教へを受くること僅かに一ケ年に満たず(自文    化八年、至同九年)して所謂免許を得しは、彼が画技の発達速かなりしを察するに足るべし。    彼の習技は浮世絵以外にも及びき、即ち狩野風を友人岡島林斎に、南宗画を大岡雲峰に、四條派流を京    都の何某に学びしなり、其の間浮世絵諸先輩等の作品より若干の長所を取り、又西洋画の遠近法を巧み    に応用し、之れに如上諸派の特長を渾和して、遂に天下独歩の風景画家たるに至りしなり。     天保三年(内田実氏の説)の秋、幕府より禁中へ八朔御馬進献の儀あるに際して、彼も亦其が随行の一    員に加はるを得しかば、往還の途上沿道の風趣を画嚢に収め、帰後尚ほ新たなる印象を辿りて得意の筆    に上せき、これ即ち保永堂版「東海道五十三次」にして、実に彼が一代の出世作たり。斯の旅行の天保    三年たるに誤り無くんば、前掲の如く、彼が其子に家督を譲りし年と同年なれば、彼が出発に先だちて、    家事に後顧の憂ひ無からんことを期せしものなるべし。    彼が自然を愛するの熱情は、よく其が作品の上に現はれたりされば、旅行の頻繁なりしは察するに余り    あり、いま記録にとゞまる所を挙ぐれば、右の八朔御馬進献以後、天保十二年四月甲斐に遊び、彼地に    て祭礼の幟、芝居の看板、其他種々の揮毫を試み、同年十一月江戸に帰る、次に天保十五(弘化元)年    三月、上総に赴き鹿野山に登り四月朔日に帰る、又、弘化二三年頃陸奥安達百目木に赴き、同地の渡辺    某方に滞在すること約一ケ月、其際、程近き羽前天童にも遊びしものなるべし、嘉永五年閏二月、再び    上総に遊び、安房に行き四月帰る、同七年幕吏に従ひ東海道の諸川を巡覧せりと云ふ。以上の外尚ほ漏    れたるもあらむが、其作品に現はれたる土地のうち、未だ実地を踏査せざりし所も甚だ少からざるべし。     彼の肉筆画中、俗に「天童藩もの」と称する若干の作品あり、これ即ち羽前天童藩主(織田兵部少輔)    より配下の者等に藩の用金を命じ、其の金額に応じて報酬に与へしものにして、彼は同藩より揮毫を依    頼されしなり、蓋し嘉永年間の事と思はる。     彼が天保十二年甲斐に遊びし時の旅日記(歌川列伝所載)を見るに、行文平易、天真を流露したるさま    変々として人に迫る、中に狂歌及び俳句あり、曰く     ◯屁のやうな茶をくんで出す旅籠屋はさてもきたなき野田尻の宿     ◯夢山はゆめばかりにて聞しより見て目の覚る甲斐のうらふじ     △行あしをまたとヾめけり杜鵑     △夏旅や夢はどこやら朝峠    又、文中所々に酒宴或は独酌の事見ゆ、所謂上戸党なりしも、飲んで乱に陥るが如き弊を醸さず、極め    て楽天的態度を持せしは想像に難からず。当時既に隠居の身なりし彼は、薙髪して悠々自適、敢て貸財    を貪らず、俗中にありながらも超俗の心境を失はざりしなり。    其他、文政十一年師(豊広)の歿後、彼をして二代目豊広たらしめんと勧むる人ありしも、彼は其の器    にあらずとして之を辞し、専ら師の孫豊熊の幼年なるを輔けて、其が後見の任に当りしが如き、また曾    て、狂歌の友たる尽語楼内匠【天明老人】が火災に遭ひて呻吟せしを、自宅に迎へ暇あるごとに共に狂    歌を詠じて之れを慰めしと云ふが如き、以て彼が天性の美質を想見するに足るべし。     彼が妻は天保十年に歿し、一子仲次郎は弘化二年に夭折(二十歳前後)す、嘉永の頃彼は後妻お安を娶    りて、其が連れ子お辰を養女とせり、後に二代広重の妻となりし者即ちこれなり。    斯くて後は、晩年益々多作しつゝ、『名所江戸百景』の如き大画集に筆を染めしが、恰も其の完成を告    ぐるか告げざる頃、我国未曾有のコレラ疫大流行を來たし、彼も亦それに冒されて長逝せり、時に安政    五年九月六日、享年六十二、法名を顕功院徳翁立斎信士とし、浅草新寺町(現今北松山町)の東岳寺    (曹洞宗)に葬れり。辞世に曰く、      東路へ筆をのこして旅のそら西の御国の名ところを見む    彼の後妻お安は明治九年に歿し、養女お辰は明治十三年に死せり。画系は彼が門人によつて継がれき。    いま彼が作画の変遷に就て、大要を挙ぐれば次の如し。     第一期 美人画中心時代    自文化十一年頃(十八歳)至文政九年頃(三十歳)  十三年間     第二期 風景画準備時代    自文政十年頃(三十一歳)至天保二年頃(三十五歳) 五年間     第三期 風景及花鳥画新興時代 自天保三年頃(三十六歳)至天保七年頃(四十歳)  五年間     第四期 風景画円熟時代    自天保八年頃(四十一歳)至弘化三年頃(五十歳)  十年間     第五期 風景画余力時代    自弘化四年頃(五十一歳)至安政五年頃(六十二歳) 十二年間    右の分類によつて、其が代表的作品を左に示さむ。     第一期     ◯平惟茂と戸隠山鬼女   ◯甘輝と和藤内          ◯今様子宝遊び(大判竪)     ◯風流五ツ雁金(大判竪) ◯外と内姿八景(大判竪、四枚揃) ◯見立座敷狂言(大判、三枚続)     第二期     ◯東都名所拾景(中判竪) ◯東都名所高輪之明月(其他、大横、十枚揃)(口絵第六十四図參照)     第三期     ◯富士川上流の雪景(大判、竪二枚継)   ◯牡丹に孔雀(其他数種、大短冊)      ◯木蓮に鳥(其他数種、中短冊)      ◯月二十八景之内弓張月(大短冊、二枚)      〇四季江都名所(中短冊、四枚揃)          ◯東海道五十三次(大横、五十五枚揃)保永堂版(口絵第六十三図参照)       ◯近江八景(大横、八枚揃)  ◯京都名所(大横、十枚揃)  ◯東都名所(大横)       ◯江都勝景(大横)      ◯本朝名所(大横)      ◯江戸近郊八景(大横、八枚揃)      ◯東都八景(地紙形)     第四期     ◯木曾街道六十九次之内(大横、四十七図)外に英泉画二十三図 ◯甲陽猿橋之図(大竪二枚継)     ◯浪花名所図會(大横、十枚揃)  ◯諸国六玉河(大横、六枚揃)   ◯和漢朗詠集(大竪)       ◯新撰江戸名所          ◯江戸高名会亭尽(大横、三十枚) ◯金沢八景(大横八枚揃)     第五期     ◯東海道五十三次(間判横、五十五枚揃)(江崎屋板)          ◯同(中判横、五十六枚揃)(佐野喜板)      ◯同(大横、五十五枚揃)(丸清板)      ◯東海道張交図会(大竪、十二枚揃)(伊場仙板)  ◯同(同 十四枚揃)(泉市板)       〇六十餘州名所図会(大竪、六十九枚揃)           ◯武陽金沢八勝夜景・木曾路之山川・阿波鳴門(各大判三枚續)       ◯江戸名所(大横、数十枚)       ◯名所江戸百景(大竪、百十八枚揃)(口絵第六十五図参照)       ◯絵本江戸土産(中本、九冊)(第十編は二代広事筆)    以上の外、絵本、狂歌本、草双紙等種々あれども、煩はしければ之れを略す。(広重の参考研究資料と    しては「広重六十回忌追善記念遺作展覧会目録」または内田実氏が長年月研究調査の結果、発表せられ    し「広重」単行本を御覧ありたし)〟    ☆ ひろしげ 広重 二代    ◯『浮世絵師伝』p160(井上和雄著・昭和六年(1931)刊)   〝広重 二代    【生】文政九年(1826)   【歿】明治二年(1869)-四十四    【画系】初代広重門人    【作画期】弘化~慶応     鈴木氏、歌川を称す、俗称鎮平、初め画名を重宣といひ、一幽斎と号す、後ち師の女婿となり、又師     の歿後(安政六年)二代一立斎広重の名を継ぎしが、慶応元年故ありて安藤家を去り、画名を改めて     喜斎立祥といふ、曾て横浜在住の頃、彼地より海外へ輸出する茶箱に貼付用の木版画を描きし事あり、     彼の作品は風景及花鳥を題材とせるもの多く、かの『名所江戸百景』中に於ける「赤坂桐畑」及び文     久元年版の「隅田川八景」(大判竪絵)の如きは、彼の傑作として見るべきものなり。彼れ師家を去     りて後、新橋滝山町に住す、姓を森田(一に盛田)と改めしは其頃か〟    ☆ ひろしげ 広重 三代    ◯『浮世絵師伝』p160(井上和雄著・昭和六年(1931)刊)   〝広重 三代    【生】天保十三年(1842)  【歿】明治廿七年(1894)三月廿八日-五十三    【画系】初代広重門人    【作画期】文久~明治     安藤氏、本姓後藤、歌川を称す、彼の伝記に就て両説あり、一は明治十七年版『明治画家略伝』(渡     辺祥靄編)に載する所「名は徳兵衛、一立斎と号す、弘化二年十二月生る、父を後藤武平と云ふ、初     代広重の門人なり」とし、一は雑誌『日本及日本人』第六九九号に靄軒生の執筆に係れるもの「天保     十三年深川に生れ、年壬寅に中るより名を寅吉と呼びぬ。父は船大工を業とし(中略)、(彼は)偶     々浮世小路の会席料理百川の養子に貰はれ、父母の膝下を離れしは彼の十六七歳(安政四五年)頃の     事なりし」云々とし、又「初め重寅の名を与へられ、後ち重政と改む」と云へり。其の生年に就て斯     く相違せるは聊か不審なれども、彼の辞世に「汽車よりも早い道中すご六は目の前を飛ぶ五十三次」     とあるを証として年齢を逆算するに、後者の天保十三年説の是なるを認め得べし。      彼に同門の二代広重(後に立祥)が慶応元年安藤家を去るに及んで、それに替りて師家の後を継ぎ、     初代の俗称(徳兵衛)と一立斎の号を襲用し、且つ自から二代(実は三代)広重を名乗りしなり。而     して、稀には落款に「歌重」とせし例もあり。居所、中橋大鋸町四番地(九年十月)より、京橋弓町     十八番地(明治十一年)・南紺屋町二十七番地(明治十二、三年)などに転住す。法名、功隆院機外     立斎居士、浅草北松山町東岳寺に葬る。彼の作品は、明治文化史料として見るべきもの甚だ多し〟    ☆ ひろたか 広隆(菱川清春参照)    ◯『浮世絵師伝』p161(井上和雄著・昭和六年(1931)刊)   〝広隆    【生】           【歿】    【画系】          【作画期】    小野広隆といひ『紀伊名所図会』に挿画あり、蓋し、菱川清春の改名なり。(清春の項參照)〟    ☆ ひろちか 広近    ◯『浮世絵師伝』p161(井上和雄著・昭和六年(1931)刊)   〝広近    【生】           【歿】    【画系】豊広門人      【作画期】文政    歌川を称す、安藤氏〟    ☆ ひろちか 広近 二代    ◯『浮世絵師伝』p161(井上和雄著・昭和六年(1931)刊)   〝広近 二代    【生】天保六年(1835)七月十六日 【歿】    【画系】初代広近の子       【作画期】万延~明治    歌川を称す、安藤氏、俗称爲吉、画を父に学ぶ、万延元年に「横浜岩亀楼全図」を画く、落款に「二代    目広近画」とあり、明治十七年絵画共進会に於て受賞す、居所、芝区三田台裏町十一番地〟    ☆ ひろちか 広親    ◯『浮世絵師伝』p161(井上和雄著・昭和六年(1931)刊)   〝広親    【生】           【歿】    【画系】清親門人      【作画期】明治    武田氏、俗称保太郎、主としてポンチ絵を描く、明治二十年版「二十三年未来鏡」二枚続の落款の肩書    に清親門人とあり〟    ☆ ひろつね 広恒    ◯『浮世絵師伝』p161(井上和雄著・昭和六年(1931)刊)   〝広恒    【生】           【歿】    【画系】豊広門人      【作画期】文化初    歌川を称す、肉筆美人画あり〟    ☆ ひろのぶ 広信    ◯『浮世絵師伝』p161(井上和雄著・昭和六年(1931)刊)   〝広信    【生】           【歿】    【画系】広貞門人      【作画期】安政~明治    大阪の人、木下氏、五葉亭・五蒲亭・白水と号す、初め役者絵を画く〟    ☆ ひろのぶ 広信 二代    ◯『浮世絵師伝』p161(井上和雄著・昭和六年(1931)刊)   〝広信 二代    【生】弘化元(1844)年正月 【歿】    【画系】初代広信門人    【作画期】明治    大阪の人、木下氏、日峰、柳塘、芦水家等の号あり、初名を広国といふ、明治十七年絵画共進会にて受    賞せり〟    ☆ ひろのぶ 広演    ◯『浮世絵師伝』p162(井上和雄著・昭和六年(1931)刊)   〝広演    【生】           【歿】    【画系】豊広門人      【作画期】文化    京都の人、歌川を称す〟    ☆ ひろまさ 広政    ◯『浮世絵師伝』p162(井上和雄著・昭和六年(1931)刊)   〝広政    【生】           【歿】    【画系】豊広門人      【作画期】文化    歌川を称す、広昌と同一人か〟    ☆ ひろまさ 広昌    ◯『浮世絵師伝』p162(井上和雄著・昭和六年(1931)刊)   〝広昌    【生】           【歿】    【画系】豊広門人      【作画期】文化    駿州沼津の人、旅人宿を業とし、屋号を太平屋といふ〟    ☆ ひろまる 広丸    ◯『浮世絵師伝』162p(井上和雄著・昭和六年(1931)刊)   〝広丸    【生】           【歿】    【画系】豊広門人      【作画期】文化    鳥羽氏、肉筆美人画あり〟    ☆ ひろかた 弘方    ◯『浮世絵師伝』p162(井上和雄著・昭和六年(1931)刊)   〝弘方    【生】明治元年(1868)   【歿】明治二十二年(1889)六月-二十二    【画系】暁斎門人      【作画期】    尾形月耕の弟、滝村氏、名鏡氏、俗称次郎吉、錦絵及び新聞挿画あり。最期は、投身自殺すとも、誤つ    て溺死すとも伝へらる〟    ☆ ひろあき 弘明    ◯『浮世絵師伝』p162(井上和雄著・昭和六年(1931)刊)   〝弘明    【生】明治四年(1871)一月二日 現在    【画系】松本楓湖       【作画期】明治~昭和     高橋氏、俗称勝太郎、画名は松亭の作多く、大正十年頃から弘明(ヒロアキ)と改号したが、稀に松亭の印     だけ押捺したるもあり、出生地は浅草向柳原にして、浅草永久町に在住せし伯父に当る容斎風の松本     楓湖の宅で、九歳の頃から画手本を貰つて遊びながら習画した。下谷御徒士町より車坂に移る、十五     六歳の(肩揚のある)頃から宮内省の外事課へ通勤した、其役目は外国の勲章の写し、役人の通常服     及び大礼服の改正雛形の描写其外宮中の器物に関するもの等であつた。通勤した重なる画師は、福井     江亭、池田琴峯、三島蕉窓、高橋玉淵などであつた。其頃は交通不便で乗物なく、車坂より赤坂離宮     まで往復徒歩で、其の道程三里位あり、雨中の時は高足駄で鼻緒が切れて、素足で入ると門衛に咎め     られた事がある。      明治二十二年頃青年画家が協同して、青年絵画協会を設立した。会員は村田丹陵、富岡永洗、特に寺     崎広業は飲友達で記憶が深い。      岡倉覚三氏は美術院を立てゝから互評会を作り、其主旨は各自の作品を正に批評する会であつた。会     員は鈴木華邨、寺崎広業、横山大観、下村観山、菱田春草、西郷孤月、木村武山、尾竹国観、竹坡、     上原古年、岡田梅村、桜邨、水野年方等、・其当時の若手画家の集団であつた。      また上野の伊予紋に文士、画家の会合する二十日会にも入会した。其会は文士が短文を作り、画家が     文章に合せて挿絵する約束の会で、二三年続いたが泥酔乱舞に終り、殆ど実行した事は無い。其会員     連は巌谷小波、坪谷水哉、大橋乙羽、高山樗牛、泉鏡花、尾崎紅葉等、画家は鳥居清忠、村田丹陵、     島崎柳塢、寺崎広業、富岡永洗、小堀鞆音氏等である。(以上は氏の談話に基きたるもの)      下谷車坂より浅草駒形町へ移り、尋常小学校の教科書及び雑誌、新聞等の頼絵を揮毫すること十数年、     其間に東京勧業博覧会、工芸共進会に出品して一等二等褒状等を受く。また駒形より神田区五軒町に     移り、近所の古錦絵商前羽商店より古錦絵の再版の線書及び色ざしを依頼中、明治四十年春前羽商店     を通じ渡辺版画店主(其当時は柳町に間借して居る頃)の需めに依り、独立した木版画、輸出向とし     て日本の特長ある山水人物等数図を試に作つた。線書、色差し、摺合せ等を加へれば、普通の肉筆よ     り数倍の手間は掛るが、摺上つて見ると肉筆より色彩の精美現はれ、欧米各国でも氏の版画を希望す     る者多く、年々版画の揮毫に努力されたる効ありて、震災前(大正十二年九月一目)氏の分だけにて     大小取合せ五百図以上の数に上つた、版木も版画も全部焼失したけれども、震災後に災前より入念に     作画されたものが多い。      昔の錦絵が江戸土産として地方の人々に購はれたのと同様に、現今世界の人々が日本土産として喜ん     で購ふことになつたのは興味深いことである。氏の現住所は東京府下矢口町字小林三二六番地〟    ☆ びざん 眉山    ◯『浮世絵師伝』p163(井上和雄著・昭和六年(1931)刊)   〝眉山    【生】           【歿】    【画系】          【作画期】天保    竹内氏、俗称孫八、別に東一と号す、江戸霊岸島塩町に住し、地本錦絵問屋を業とせり、即ち彼の広重    の傑作「東海道五十三次」の版元保永堂の主人なり。     彼が画く所の人物画(大錦横絵)数枚及び、天保三年版の『俳諧歌六々画像集』、同四年版の『御大相    志目多発鬻』、同年版の道化百人一首『闇夜礫』等を見るに、其の画風四條派の影響を受けたるが如き    点あり、且つ時勢粧を主とせざる画風なれば、これを浮世絵師とするは当を得ざれど、少数ながら版書    の作もあり、又広重との関係もあれば、姑くこゝに収録しつ。彼の作品は天保三年乃至同七八年頃に止    まり、風景を主としたるものは殆ど絶無なり、唯だ一つ「江戸名所の内、隅田堤のさくら」と題する大    錦三枚続は、例外として広重風の手法を模したり。     天保八年平亭銀鶏の著せし『【現存雷名】江戸文人寿命附』初編には彼を左の如く紹介せり、以て多少    画名ありしを知るべし。     『画』竹内眉山     面白く画かける筆のはたらきは東(アヅマ)へとや人のいふらん     極上々吉寿七百五十年〟