Top           『浮世絵師伝』         浮世絵文献資料館
                            浮世絵師伝  ☆ はくえい 白瑛    ◯『浮世絵師伝』p147(井上和雄著・昭和六年(1931)刊)   〝白瑛    【生】           【歿】    【画系】北斎門人      【作画期】文化    葛飾を称す〟    ☆ はくが 白峨    ◯『浮世絵師伝』p147(井上和雄著・昭和六年(1931)刊)   〝白峨    【生】           【歿】    【画系】          【作画期】文化~文政    恋川を称す、鉄筆老人とも云、錦絵美人画及び焼絵等あり、美人画は月麿、秀麿などの画風に似たり〟    ☆ はくせいこう 白制工    ◯『浮世絵師伝』p147(井上和雄著・昭和六年(1931)刊)   〝白制工    【生】           【歿】    【画系】          【作画期】    明和二年の摺物に「白制工」としたるものあり〟    ☆ はすい 巴水    ◯『浮世絵師伝』p147(井上和雄著・昭和六年(1931)刊)   〝巴水    【生】明治十六年五月十八日  現在    【画系】          【作画期】明治~昭和    川瀬氏、本名文治郎(戸籍は誤つて次とあり)、川瀬庄兵衛の長男、芝区露月町に生れ、明治の戯作者    仮名垣魯文は氏の伯父に当る、桜川小学校へ入学し高等二年で退学し、父の組糸業を継がされる爲め大    倉商業の夜学部へ一年許り通学したが、幼少の頃より画を好み十四歳の時、川端玉章門下の青柳墨川氏    に就て一ヶ年許り学びしが、両親が反對の爲め中止して家業を手伝つて居る内、十九歳の時、好画の心    は勃発して荒木寛友(南画)に画手本を貰つて新聞の挿絵、当時の錦絵等を写し書きを始めた、店の業    を手伝ひながら毎夜ランプを点じて半年以上習画勉強して居る内、又もや両親や親戚の反対で断然止め    させられた。幸か不幸か其後店の商売成立たず、遂に破産して了ひ、二十六歳の時、妹へ店員を聟にし    て商号を継がした、然し多年の宿望も叶つて画道に進むことを得て、其以前より懇意に成つて居た鏑木    清方画伯の許へ行き入門を依頼せし所、画伯の言には中年から始めるには洋画を習つた方が良からんと    云はれ、葵橋の白馬会洋画研究所へ通つて、写生を研究した。其当時の研究仲間に岸田劉生、岡本帰一    両氏があつた、白馬会へ通ふ傍ら岡田三郎助氏の知遇を得て種々導いて貰つた、其内に清方先生の許へ    行き懇請して入門した、中年から始めたこと故、非常に勉強した、明治十五年春、巽画会へ「うぐひす」    鴬を聞いて居る美人画入選して褒状を受く、烏合会へ「中幕のあと」を出して入選、鏑木清方画塾の郷    土会第一回展覧会へ「越路の秋」を続いて「女優の妹」また「十和田湖神代ヶ浦」を出品した。    大正七年郷土会第四囘展覧会へ伊東深水氏の近江八景の木版画出品を見て、風景版画は自信ありさうに    考へ、渡辺版画店へ行き、塩原の写生帖を見せて、店主と相談しながら「塩原おかね路」、「塩原畑下    り」、「塩原塩釜」等長判を試み、大体版画製作の順序も会得し、大正八年より東京十二題と付して市    内郊外を写生しながら十二図作る。八年夏仙台方面、八戸、十和田湖方面へ写生旅行し、「旅みやげ第    一集」に着手した。九年房州半島へ、同年初秋金沢より若狭方面へ、帰京して晩秋また塩原へ旅行して    旅みやげ第一集を完成した。十年二月は団体旅行に加はり伊勢、奈良、大阪、四国、宮島、丹後等山陽    山陰方面より京都に寄り二月末帰京して、「旅みやげ第二集」に着手した。同年八月より佐渡、越後、    越中へ写生旅行して第二集の追加を画き二十八図にて完成した。    大正十一年春、「日本風景選集」を出版する爲め、九州を主として中国地方を廻り京都へ寄て帰京した、    毎月三図宛製作して完結に近き頃、大正十二年九月一日の震火災にて版元の版木は勿論、版画も大部分    燒失し、氏の住宅は芝区愛宕下町(俗称仙台屋數)にあり、親戚の負傷者を病院へ遊ぶ手伝ひなどして    居る内、自宅も全燒し、スケッチブックは全部燒失した、震災後は東京に居ても落付かず、版元の勧め    にて十月二十三日東京出発、甲州信州、飛騨を横断して越中富山へ、金沢へ行き同地銀壺堂の後援で、    十一月二十日より二十五日迄、版元で持出した氏の版画を展覧即売し、また行く先でも同情を受けて旅    行費に当てた、出雲、但馬、石見を経て周防錦帯橋、宮島へ廻り、岡山京都名古屋を経て翌年二月二日    帰京した、氏は写真や参考図画より一度も版画にした事なく、写生帖より下図を描き版画を作る。    大正十五年六月末、伊東深水氏と同行して秋田方面の名所を写生して地方の図を作りながら東京附近の    風景を主として作図され、数十図出來て、昭和五年の郷土会は出品方を替へて同人交互の個人展観を行    ひ、他の同人も応接すると云ふ意味に改められ、第一回の試みとして巴水氏が選ばれ、六月十七日より    二十二日迄、上野広小路の松坂屋階上にて展観した、其展覧会のパンフレットの趣意を鏑木画伯が書か    れし文意を抜載す。    (前略)私の門に在ること二十余年、他の門人の悉く美人風俗を材とする中に、川瀬は一人風景画に赴    くのは、その好むところに従ふのは勿論だが、大正七年渡辺版画店主の知遇を得て、同店から野州塩原    の長判の風景を出して以来、彼の芸術道は版画に拓けて行くやうになり、版画には風景が尤も適するも    のであることも手伝つて、風景画家として且つ日本画壇唯一の版画家としての地歩を占むるに至つたの    である。彼の版画の特質その他は別項伊東が詳記してあるので省くが、版画は明日の芸術として尤も将    来を期待さるべき有力なる表現形式であり、技法の関係から洋画家は多く自刻自摺を行ひ、日本画家は    彫と摺とは、その道の人を使つて居る。版画はかくあらぬばならぬと、屡々版画に関しての言を聴く、    然れども私は版画を以て尤も自由なる技術と観る、一定の説に従つて拘束されざることを版画の生命だ    と思ふ。私はかねがね川瀬の版画を一堂に集めて、汎く世に示したい希望をもつてゐた。今度郷土会が、    同人交互の個人展観を行ふ最初に於て、川瀬に席を与へたことは、社会的に見て甚だ意義のあることだ    と云へる。私はこれを一私塾の内輪の催しとは見たくない、小さくともこれは今日当然行はるべかりし    展覧会の一つであると思ふ。    次で伊東深水氏が興味ある推薦文を書添へられ、其文中「旅情詩人」と称されて居るが或機会に転載す。    不可解の人は氏の版画を広重に似てゐると云はれる噂を聴き、昔と今は表現法も異り、少しも類似した    ものは無いが、其れが動機となり、氏は現今の東海道を行脚しながら感じの良い「東海道選集」を作画    する予定にて着手中である。氏は可なり移転したが、現今の住所は東京府下馬込町平張九七五である〟    ☆ はつくに はつ国    ◯『浮世絵師伝』p149(井上和雄著・昭和六年(1931)刊)   〝はつ国    【生】           【歿】    【画系】よし国門人か    【作画期】文政    大阪の人、芳花堂と号す、役者絵あり〟    ☆ はつし 初司    ◯『浮世絵師伝』p149(井上和雄著・昭和六年(1931)刊)   〝初司    【生】           【歿】    【画系】          【作画期】文化    品川氏、名は経信、英山風の肉筆美人画あり〟    ☆ はなさと 花里    ◯『浮世絵師伝』p149(井上和雄著・昭和六年(1931)刊)   〝花里    【生】           【歿】    【画系】歌川派       【作画期】文久~慶応    一寸子、瓢金舎等の号あり〟    ☆ はなまろ 花麿    ◯『浮世絵師伝』p149(井上和雄著・昭和六年(1931)刊)   〝花麿    【生】           【歿】    【画系】歌麿門人      【作画期】享和    喜多川を称す〟    ☆ はりつ 破笠    ◯『浮世絵師伝』p149(井上和雄著・昭和六年(1931)刊)   〝破笠    【生】寛文三年       【歿】延享四年(1747)六月三日-八十五    【画系】一蝶門人      【作画期】享保    小川氏、名は観、字は尚行、俗称初め金弥、後ち平助と改む、笠翁・子蝉・卯観子・夢中庵等の数号あ    り、又別に英一蝉とも云へり。伊勢より江戸に移住し、後ち津軽候に仕ふ。晩年に至るまで作画を止め    ず、よく細密なる肉筆人物画を描けり。彼れ夙に俳道に志し、芭蕉の門人となりて、俳号を宗有また宗    字といふ、其他、髹漆の技に長じ、世に笠翁細工と称する独特の漆器を創製したりき。墓所、芝西久保    天徳寺〟    ☆ はるかど 春門    ◯『浮世絵師伝』p149(井上和雄著・昭和六年(1931)刊)   〝春門    【生】           【歿】    【画系】          【作画期】元禄    松永氏、肉筆役者絵「釣狐の図」に「うき世絵師松永春門図」と落款せり、画風清信の影響を受けたる    が如し〟    ☆ はるきよ 春清    ◯『浮世絵師伝』p149(井上和雄著・昭和六年(1931)刊)   〝春清    【生】           【歿】    【画系】          【作画期】明和    勝川氏、『神の移り香』と題する豆絵本あり〟    〈「浮世絵師総覧」には「しゅんせい」として入れた)    ☆ はるこ 春子    ◯『浮世絵師伝』p150(井上和雄著・昭和六年(1931)刊)   〝春子    【生】           【歿】万延元年(1860)    【画系】北洲門人      【作画期】万延    大阪の人、青(一に春とす)陽斎、又、春婦と号す〟      〈「浮世絵師総覧」には「しゅんし」として入れた)     ☆ はるさだ 春貞    ◯『浮世絵師伝』p150(井上和雄著・昭和六年(1931)刊)   〝春貞    【生】寛政十年       【歿】嘉永二年(1849)正月十三日-五十二    【画系】          【作画期】文政~嘉永    保川氏、京都東洞二條上ル町に住し、天保三年まで代々米商を営みしが、彼は幼時より画を好み、絵師    たらむことを志して、刻苦精励遂に一家を成すに至れり、肉筆美人画をよくし、当時京都の浮世絵師中    彼の右に出づる者無かりしと云ふ、晩年四條河原町東入ル町に居りき。墓所、京都二條川端の善導寺。    (山本臨乗氏の研究に拠る)〟    ☆ はるさだ 春貞 二代    ◯『浮世絵師伝』p150(井上和雄著・昭和六年(1931)刊)   〝春貞 二代    【生】天保元年       【歿】明治二十年(1887)十一月十八日-五十八    【画系】初代春貞門人    【作画期】嘉永~明治    京都の人、岡本氏、俗称正太郎、初め画名を信貞といひしが嘉永二年師初代春貞の歿するに際し、其の    遺言によりて彼は二代目を襲名す、後ち国芳の門に遊び一時歌川を称せしが、明治維新の際本姓に復る    と共に名を春暉と改む、又高橋由一に就て洋画を学び、肖像を描くに最も妙を得たりき。(山本臨乗氏    の研究に拠る)〟    ☆ はるしげ 春重(司馬江漢参照)    ◯『浮世絵師伝』p150(井上和雄著・昭和六年(1931)刊)   〝春重    【生】           【歿】    【画系】春信門人      【作画期】明和~安永    春信の画系に門人鈴木春重とあり、されど直門にあらざる旨『後悔記』に自ら云へり、後に司馬江漢と    改む。(江漢の項参照)〟    ☆ はるじ 春次    ◯『浮世絵師伝』p150(井上和雄著・昭和六年(1931)刊)   〝春次    【生】           【歿】    【画系】春信門人      【作画期】明和~安永    春治とも款す、美人画あり〟    〈「春次」の読みは「春治」を参考にして「はるじ」と読んだ〉    ☆ はるちか 春親    ◯『浮世絵師伝』p150(井上和雄著・昭和六年(1931)刊)   〝春親    【生】           【歿】    【画系】          【作画期】明治    清親に似せたる池上本門寺夕景の横判あり、明治十三年十二月出版届にて、版元の届けは寺島村の浦野    浅衛門とあり、未だ版元に認められず、自家出版か或は親戚に頼みて一図だけ試みたるならむ〟    ☆ はるなり 春成    ◯『浮世絵師伝』p150(井上和雄著・昭和六年(1931)刊)   〝春成    【生】           【歿】    【画系】          【作画期】文化~天保    京都の人、北川氏、明渓と号す、二條橋東に住せり。『扁額軌範』を描く〟    ☆ はるのぶ 春信    ◯『浮世絵師伝』p150(井上和雄著・昭和六年(1931)刊)   〝春信    【生】享保十年(1735)   【歿】明和七年(1770)六月十五日-四十六    【画系】重長門人      【作画期】宝暦~明和    鈴木氏、本姓穂積、通称次兵衛、長営軒と号す、居所両国米沢町角、また神田白壁町にも住せしと云ふ。    彼の作品は、宝暦六七年より発表せしものゝ如く、初めは、鳥居派に似たる役者絵をも画きしが、そは    暫くにして廃止し、専ら美人画に努力せり。画風は、或る時期に豊信に影響を受けし所最も多く、また、    明の仇英の作品に暗示を受けたりとの説あり、然れども、明和二三年頃には、既に一家の画風を成し、    画く所の人物いづれも窈窕として一種夢幻的の趣きを有したり。     明和二年の春、江戸の好事者間に、大小暦の摺物を交換すること靡然として流行し、各自に意匠を凝ら    して珍奇を競ふの余り、彩色の如きも数度摺の美を尽し、彫摺亦新案をめぐらしゝもの尠からざりき、    而して、其が作画の任に当りし者は実に春信を以て第一人とす。     在來の版画は細判が多く紙も薄かりしが、大広奉書四ツ切(大形中判)にして寸形を替へ、背色は無地    なりしを藍、淡鼠、黒等の色彩を摺込み、また「カラ摺」と称する無色摺の法、及び「キメ込み」とい    ひて画面の一部を紙背より押し上げたるもの等、画面の表現に大改良を加へ、吾が版画界未曾有の新技    巧を試み、一躍長足の進歩を爲し、所謂錦襴の如く美しく出来たりとて錦絵と名称せられしは此の時な    り。併し版画改革の背後には巨川・莎鶏等・俳人の後援者が彫摺の技巧をも指導せし証跡あり。兎も角    古今を通じて色彩の配合、其の妙を尽したるは春信を第一位に推薦すべきなり。     当時谷中笠森稲荷の茶店鍵屋の娘お仙、及び浅草観音の境内楊子店柳屋の娘お藤は、都下に於ける美人    の双壁として評判高かりしが、春信の筆に写さるゝに及びて益々世上に宣伝せられ、春信も亦それに依    て好評を博せし所尠からざりき。其他、美女を和漢歴史上の人物に見立たるものなど尠しとせず、又、    四季・五常・六玉川・七小町・八景等の如き数枚を以て一組とせるものありて、其等の中には、各一枚    毎に落款を有するものと、一組中一枚或は二枚を除くの外、往々落款を有せざるものとの別あり、蓋し    後者は好事家の需めに応じて作画せしものに多く、其の包み紙には、考案者・彫師・摺師等と共に彼の    名を記すを例とせり。     彼と巨川とは親交最も深く、かの「巨川工」としたるものは、殆ど皆春信に委嘱して画かしめたるなり、    又湖龍斎とも友人関係ありて、常に相往復する所頻繁なりしが如し。彼の晩年に方りて、門人春重(後    に司馬江漢)竊かに春信の落款を附し、偽作の美人画を版行して奇利を博せしが如き、亦以て彼が盛名    を窺ふに足らむか。     いま、彼が絵本及び錦絵のうち、著名の作二三の例を挙ぐれば左の如し。      ○古今吉原大全(挿絵) 宝暦版    ○絵本続江戸土産 宝暦版       ○絵本古金襴 宝暦十二年       ○絵本諸芸錦 宝暦十三年      ○絵本花葛羅 明和二年        ○絵本さゝれ石 明和三年      ○絵本春の錦(色摺) 明和六年    ○吉原美人合(色摺) 明和七年       清盛と仏御前(間判横絵)    雪中鷺娘(大判竪絵)  雪中の男女(中判)      梅下にぼんぼりを持つ娘(中判) 四季の花(同)     五常(仁義礼智信)(同)      風流六玉川(同)        風流七小町(同)    座鋪八景(同)    右のうち座鋪八景は、各図「巨川」の名を入れたれど、春信の落款は無し、これ巨川の考案を以て春信    に画かしめしものなり、其の版を再度摺出せし時は、巨川の名を削りて無落款とし、包み紙には座舗八    景の画題、松靏堂(版元)と共に「鈴木春信画」と明記せり、然るに三たびそれを摺りたる際には、画    面に白ヌキにて「春信画」と彫りつけたり(口絵第二十一図参照)、惟ふに、此の場合には八図一組と    せるものゝ外に、各図を随意に抜売りせしものなるべし。     彼の錦絵には、題材を上代文学より選みしもの尠からず、例へば歌の意味を今様風俗に画き現はせしも    のあり、又は物語の一段を情趣豊かに潤色せしもあり、或は和漢の故事を巧みに想化して、彼れ独特の    構図に作りしものもあり、それ等のすべてに一種の品格を具へしことは、彼が個性の然らしめし所と謂    ふべし。     大正八年六月、有志者相謀りて、彼が記念碑を谷中三崎町なる大円寺(俗称瘡守稲荷)境内に建てたり、    併し、春信の画題となりし鍵屋お仙は、谷中初音町二丁目なる功徳林寺の境内にありし笠森稲荷に茶店    を營みし者にて、大円寺とは何等関係を有せず、後世これを混同する所無くんば幸ひなり〟    ☆ はるのぶ 春信    ◯『浮世絵師伝』p152(井上和雄著・昭和六年(1931)刊)   〝春信    【生】           【歿】    【画系】          【作画期】寛政頃    谷川氏、肉筆美人画あり〟    ☆ はるのぶ 春信    ◯『浮世絵師伝』p152(井上和雄著・昭和六年(1931)刊)   〝春信 永春の前名〟    ☆ はるのぶ 春信(岳亭参照)    ◯『浮世絵師伝』p152(井上和雄著・昭和六年(1931)刊)   〝春信 八島岳亭の初名〟    ☆ はるひろ 春広(湖龍斎参照)    ◯『浮世絵師伝』p152(井上和雄著・昭和六年(1931)刊)   〝春広 湖龍斎の前名〟    ☆ はるのぶ 治信    ◯『浮世絵師伝』p152(井上和雄著・昭和六年(1931)刊)   〝治信    【生】           【歿】    【画系】          【作画期】天和    杉村氏、天和四年版『古今好色男』を画く、画風師宣流なり〟    ☆ はるまさ 春政    ◯『浮世絵師伝』p152(井上和雄著・昭和六年(1931)刊)   〝春政    【生】           【歿】    【画系】          【作画期】天明    勝尾氏、天明三年江戸版『絵本見立仮譬画』を描く〟    ☆ はるまさ 春政    ◯『浮世絵師伝』p152(井上和雄著・昭和六年(1931)刊)   〝春政    【生】           【歿】    【画系】          【作画期】享和~文化    恋川氏、読み本の挿絵を描けり、また歌麿風の肉筆美人画あり〟    ☆ はるます 春升    ◯『浮世絵師伝』p152(井上和雄著・昭和六年(1931)刊)   〝春升    【生】           【歿】    【画系】歌川派       【作画期】嘉永    胡蝶園春升、或は蓬莱春升といふ、美人画あり〟    ☆ はるまち 春町    ◯『浮世絵師伝』p153(井上和雄著・昭和六年(1931)刊)   〝春町    【生】延享元年(1744)   【歿】寛政元年(1789)七月七日-四十六    【画系】石燕門人      【作画期】明和~天明    源姓、倉橋氏、名は格、俗称寿平、本国は三河にして、彼は駿州田中に生る、故を以て駿州庵原郡小島    藩の用人と成り、偶ま江戸詰を命ぜられて、小石川春日町なる小島俟の上屋數に居住せしかば、それに    因みて恋川春町と号せしなり、別に寿山人、又は寿亭と号す。明和二年(二十二歳)に画きし化猫の図    には「馬埒道拍掌散人」と落款して、下に「春町」の印あり、錦絵の作に極めて稀にして、細絵「布袋    川渡りの図」なども辛うじて見出せしものなり。(口絵第三十図参照)     彼は友人の草双紙に挿画せし外、安永四年版の『金々先生栄花夢』以下数多の黄表紙を自画自作せり、    又戯号を酒上不埒といひて、狂歌をも能くしたりき。彼が黄表紙の作は、文と画と並び称せられて、頗    る皆の好評を受けたり、然るに、寛政元年正月『鸚鵡返文武二道』と題する黄表紙を公けにして幕府の    忌諱に触るゝ所あり、老中松平定信より召喚されしも、病と称してこれに応ぜず、其の後幾ばくも無く    して死去すと、実は彼が十一代將軍家斉の内行を諷刺したる黄表紙式艶本『遺精先生夢枕』に罪を得た    る事を覚り、受罰に先ちて自刃せしを、斯く修飾して伝へしものならむと云ふ。     法名を寂静院廓誉湛水居士とし、新宿北裏町成覚寺に葬る、墓石の正面には、法名と本国生国、姓名歿    年月日等を記し、上部に家紋(丸に子持抱茗荷)を刻す、又其の側面には称世の偈と歌一首あり、曰く    生涯苦楽四十六年、即今脱却浩然帰天、我もまた身はなきものとおもひしか今はのきははさひしかり鳧〟    ☆ はるまち 春町 二代    ◯『浮世絵師伝』p153(井上和雄著・昭和六年(1931)刊)   〝春町 二代 二代歌麿の前名〟    ☆ はるみつ 春光    ◯『浮世絵師伝』p153(井上和雄著・昭和六年(1931)刊)   〝春光 「シ」の部に入る。(シユンクワウ)〟    ☆ はんざん 半山    ◯『浮世絵師伝』p153(井上和雄著・昭和六年(1931)刊)   〝半山    【生】           【歿】明治十二三年(1879~10)頃    【画系】菅松峯門人     【作画期】安政~明治    大阪の人、松川氏、名は安信、字は義卿、俗称高二、翠栄堂・直水・霞居と号す。挿画本数多あり、就    中『淀川両岸一覧』・『宇治川両岸一覧』最も世に顕はる、其他「都名勝三十景」と題する小判横絵を    も画きたりき〟    ☆ はんべい 半兵衛    ◯『浮世絵師伝』p153(井上和雄著・昭和六年(1931)刊)   〝半兵衛    【生】           【歿】    【画系】          【作画期】貞享~宝永    吉田氏、名は定吉(サダヨシ)、貞享三年版の『好色訓蒙図彙』同四年版の『女用訓蒙図彙』より宝永二    年(四月)版の『好色花すゝき』(絵師吉田半兵衛とあり)に至るまで、絵入本数種を描けり。初め京    都大宮通の末(七條辺?)に居り、後寺町通(一書に四條通御旅所のうしろとす)に移りしと云ふ〟    ☆ はんべい 半兵衛(松好斎参照)    ◯『浮世絵師伝』p153(井上和雄著・昭和六年(1931)刊)   〝半兵衛 松好斎の俗称、シの部に入る〟    ☆ ばいえん 楳莚    ◯『浮世絵師伝』p154(井上和雄著・昭和六年(1931)刊)   〝楳莚    【生】           【歿】    【画系】北洲門人か     【作画期】文政    大阪の人、役者絵あり〟    ☆ ばいげつ 梅月    ◯『浮世絵師伝』p154(井上和雄著・昭和六年(1931)刊)   〝梅月 (田蝶(タテフ)の項にあり)〟    ☆ ばいせつどう 梅雪堂    ◯『浮世絵師伝』p154(井上和雄著・昭和六年(1931)刊)   〝梅雪堂    【生】           【歿】    【画系】          【作画期】寛保~延享    名は貞道、京都版の役者絵(細判漆画)に「梅雪堂」と落款し、印文に「貞道」とせり〟    ☆ ばいり 梅里    ◯『浮世絵師伝』p154(井上和雄著・昭和六年(1931)刊)   〝梅里    【生】           【歿】    【画系】          【作画期】天保~安政    鴬斎、又、一信亭と号す、文政十二年頃の『諸師高名早見』に「花川亭ハイリ」とあるは同一人歟〟    ☆ ばえん 馬円    ◯『浮世絵師伝』p154(井上和雄著・昭和六年(1931)刊)   〝馬円    【生】           【歿】文化七八年頃(1810~11)    【画系】北斎門人      【作画期】寛政~文化    もと江戸の人、後ち大阪に移り大岡喜藤治と云へる者の養子となりて亀山町後藤屋敷に住す、俗称初め    由平、後ち藤二と改め、又、初号馬達といひしを馬円と改めたり、読本の挿画多し〟    ☆ ばこう 馬光    ◯『浮世絵師伝』p154(井上和雄著・昭和六年(1931)刊)   〝馬光    【生】           【歿】    【画系】          【作画期】寛政    大判錦絵お福の図あり〟    ☆ ばくじゅうこう 麦十工    ◯『浮世絵師伝』p154(井上和雄著・昭和六年(1931)刊)   〝麦十工    【生】           【歿】    【画系】          【作画期】明和    明和二年の摺物に「麦十工」としたるものあり、其図の考案者なり〟    ☆ ばんき 晩器    ◯『浮世絵師伝』p154(井上和雄著・昭和六年(1931)刊)   〝晩器    【生】           【歿】    【画系】          【作画期】享和~文化    歌麿風の美人画あり〟    ☆ ばんぽう 晩宝    ◯『浮世絵師伝』p154(井上和雄著・昭和六年(1931)刊)   〝晩宝    【生】           【歿】    【画系】          【作画期】寛政~文化    寿鶴斎と号す、美人画あり〟    ☆ ばんすい 伴水    ◯『浮世絵師伝』p154(井上和雄著・昭和六年(1931)刊)   〝伴水    【生】           【歿】    【画系】師重門人      【作画期】享保    古山氏、漆絵あり〟    ☆ ばんりゅうけん 蟠龍軒    ◯『浮世絵師伝』p154(井上和雄著・昭和六年(1931)刊)   〝蟠龍軒    【生】           【歿】    【画系】          【作画期】享保    落款に「武郷隠士」と傍書せる肉筆美人画あり、画風懐月堂を模倣せるが如し〟