Top           『浮世絵師伝』         浮世絵文献資料館
                            浮世絵師伝  ☆ えいいつ 英一    ◯『浮世絵師伝』p12(井上和雄著・昭和六年(1931)刊)   〝英一    【生】文政元年(1818)   【歿】嘉水元年(1848)十月廿四日-三十一    【画系】英泉門人      【作画期】天保末~弘化    小林氏、俗称市太郎、静斎と号し、人物及花鳥画あり。江戸下谷鳩組前に住居せり〟    ☆ えいが 英峨    ◯『浮世絵師伝』p13(井上和雄著・昭和六年(1931)刊)   〝英峨    【生】           【歿】    【画系】          【作画期】天明    重政風の美人画にて、天明四年の絵暦あり〟    ☆ えいが 英賀    ◯『浮世絵師伝』p13(井上和雄著・昭和六年(1931)刊)   〝英賀    【生】           【歿】    【画系】英山門人      【作画期】文政    菊川と称す〟    ☆ えいぎょう 英暁    ◯『浮世絵師伝』p13(井上和雄著・昭和六年(1931)刊)   〝英暁    【生】           【歿】    【画系】英泉門人      【作画期】天保〟    ☆ えいきょう 英橋    ◯『浮世絵師伝』p13(井上和雄著・昭和六年(1931)刊)     〝英橋    【生】          【歿】    【画系】英泉門人     【作画期】天保    五勇亭と号す〟    ☆ えいさい 英斎    ◯『浮世絵師伝』p13(井上和雄著・昭和六年(1931)刊)   〝英斎    【生】           【歿】    【画系】勝川春英門人    【作画期】文政    勝川を称す〟    ☆ えいざん 英山    ◯『浮世絵師伝』p13(井上和雄著・昭和六年(1931)刊)   〝英山    【生】天明七年(1787)   【歿】慶応三年(1867)-八十一    【画系】英二の男      【作画期】文化~文久    江戸市ヶ谷に生る。菊川氏、名は俊信、重九斎と号す、通称を近江屋万五郎と云ひ、代々造り花屋を営    む(後に四谷箪笥町、麹町六丁目等に転居す)、父英二は狩野派の東舎といへる者に学びしが、版画は    描かず、且つ純然たる浮世絵師にあらざれば、姑く英山を以て菊川派の祖とす。    英山は初め父に就て画を学び、後ち鈴木南嶺の門に遊ぶ、又、北渓とは夙に親交あり、ひそかに其の画    風を慕ひて、多少北斎流を折衷せしとぞ。彼は早熟の人にして、享和年間十六七歳の時に初作(役者絵)    を発表し、文化四年即ち二十一歳の頃には一流の版画家となれり、描く所は美人画最も多く、殊に小児    を題材にしたるもの尠からず、其が文化初期に於ける美人画は、初代歌麿晩年の風に酷似し、時好亦こ    れを迎ふる所あり、且つ其の頃より天保中期に亘りて、田舎土産として非常に流行せし掛物絵(大判竪    二枚つぎ)は、実に彼によりて流行の端を開きしなり。(口絵第五十二図參照)    然るに、彼には実子無かりし爲めか、晩年は甚だ憐むべき境遇に陥り、辛くも高田の植木屋彦兵衛(英    山の弟子)方に寄食し、其の間『江戸大節用海内藏(エドオホセツヨウカイダイグラ)』二册(文久三年完成)の    挿画を描きて、彼が一世一代とも称すべき老筆の蹟をとゞめたり、これ歿年に先だつ四年、即ち七十七    歳の時なりき、門人数名中、渓斎英泉最も著はる〟    ☆ えいし 英子    ◯『浮世絵師伝』p14(井上和雄著・昭和六年(1931)刊)   〝英子    【生】           【歿】    【画系】英山門人      【作画期】天保    女、菊川を称す〟    ☆ えいし 英之    ◯『浮世絵師伝』p14(井上和雄著・昭和六年(1931)刊)   〝英之    【生】延享二年(1745)   【歿】寛政三年(1791)六月三日-四十七    【画系】          【作画期】安永~天明    嵩之の女、佐脇氏、名は満佐、曾て俊満に学びしことありと云ふ。墓所、淺草誓願寺中称名院〟    ☆ えいし 英之    ◯『浮世絵師伝』p14(井上和雄著・昭和六年(1931)刊)   〝英之    【生】           【歿】    【画系】英泉門人      【作画期】天保    俗称源次郎、米花斎と号す、麹町辺に住居せり〟     ☆ えいしゅう 英秀    ◯『浮世絵師伝』p14(井上和雄著・昭和六年(1931)刊)     〝英秀    【生】           【歿】    【画系】英山門人      【作画期】文化    菊川を称す、節香斎と号す、肉筆美人画あり〟    ☆ えいしょう 英松    ◯『浮世絵師伝』p14(井上和雄著・昭和六年(1931)刊)   〝英松    【生】           【歿】    【画系】英泉門人      【作画期】天保    松本氏、俗称悦藏、信斎、又、伸斎と号す、深川伊勢崎町に住居せり〟     ☆ えいしょう 英章    ◯『浮世絵師伝』p14(井上和雄著・昭和六年(1931)刊)   〝英章    【生】           【歿】    【画系】英山門人      【作画期】文政      菊川を称し、丸龍斎と号す、浅野氏、錦絵及び団扇絵あり〟    ☆ えいしょう 英章    ◯『浮世絵師伝』p14(井上和雄著・昭和六年(1931)刊)   〝英章    【生】           【歿】    【画系】英山門人      【作画期】文政    初名光一、浅野氏と同名なるが故に、人これを呼で光一英章といふ、狂言作者なり〟    ☆ えいしょう 英笑(英蝶参照)    ◯『浮世絵師伝』p14(井上和雄著・昭和六年(1931)刊)   〝英笑  英蝶の前名〟    ☆ えいしゅん 英春    ◯『浮世絵師伝』14p(井上和雄著・昭和六年(1931)刊)   〝英春    【生】         【歿】    【画系】英泉門人    【作画期】天保~弘化    大木氏、別号泉蝶斎、美人画錦絵あり〟    ☆ えいしん 英信(「ひでのぶ」参照)    ◯『浮世絵師伝』p14(井上和雄著・昭和六年(1931)刊)   〝英信 雲鯨斎と号す「ヒ」の部へ入る〟    ☆ えいしん 英信     ◯『浮世絵師伝』p14(井上和雄著・昭和六年(1931)刊)   〝英信    【生】           【歿】    【画系】英山門人      【作画期】文化~文政    菊川を称し、蓬莱と号す、別号天秀斎、俗称安五郎、美人画あり〟      ☆ えいじ 英二    ◯『浮世絵師伝』p14(井上和雄著・昭和六年(1931)刊)   〝英二    【生】           【歿】    【画系】狩野東舎門人    【作画期】文化    菊川氏、近江屋と称し、造り花屋を業とす、英山の父なり、終身版画に筆を執らざりしと云〟    ☆ えいじゅ 英寿    ◯『浮世絵師伝』p14(井上和雄著・昭和六年(1931)刊)   〝英寿    【生】           【歿】    【画系】英泉門人      【作画期】天保~安政    酒井氏、俗称伊三郎、景斎、また一筆庵と号す、初め泉寿といへり、錦絵及び草双紙あり〟    ☆ えいせん 英泉    ◯『浮世絵師伝』p1(井上和雄著・昭和六年(1931)刊)   〝英泉    【生】寛政二年         【歿】嘉水元年七月二十二日-五十九    【画系】狩野白珪及び菊川英山門人【作画期】文化~嘉永    藤原姓、池田氏、名は茂義、後に義信(今按ずるに、こは英山の諱俊信の信と彼れが諱茂義の義とを結    合せしものか)字は混声、俗称善次郎、一時里介と改む、渓斎・涇斎・无名翁・国春楼・北亭(或は北    花亭)・淫斎白水(春画号)・一筆庵可候(戯作名)・楓川市隠等の数号あり。    彼の自伝(『続浮世絵類考』所載)及び其他を參考するに、彼は江戸星ヶ岡に生れ、父は池田茂晴とい    ひ、猨山不言斎の門人にて書を能くし、また独書俳諧を好み、茶湯の嗜みありて不白などの友なりし由、    母は彼が六歳の時に他界し、やがて文化の初めには父及継母の喪にあひ、こゝに自ら幼妹三人を養育す    る身とはなれり、彼は幼年の頃狩野白珪斎の門に入りて画を学び、稍長じて青雲の志を懐きて仕官せし    が、偶ま讒に遭ひて浪人となり、志を転じて画を以て世に立たむことを欲し、英山の父菊川英二が家に    寄寓して、初めて浮世絵を画くに至りき、又一時は、狂言作者篠田金治(二代目並木五瓶)の門人とな    りて千代田才市と称せしこともあり、或は土佐派に就て学ぶ所もありしと云ふ。    彼が英泉といへる画名は、凡そ文化六年頃より用ゐしものゝ如く、当初の作品には「菊川英泉筆」とし    たる例あり、また文化五年頃の洒落本二三種の挿画に「渓斎小泉」と落款せるものは、恐らく彼が前名    或は臨時名と解し得べきが如し。彼は、錦絵及草双紙の挿画などを画きつゝ、其の間淫斎白水の号を以    て数多の春画を描き頗る妖艶の趣を恣にせしものあり、又一筆庵可候と号して戯作数種を著せり。    中年以後、彼の行状は甚だ奔放不覊なりしが如く、鯨飲暴食の状伝へて諸書にあり、曾て、天保の初め    頃には若竹屋理助と称して、根津の遊廓に娼楼を営みし由、其処は類焼の厄にあひしかば、一時根岸時    雨岡に仮寓し、幾ばくもなくして下谷池の端に移りき、それより前に宗十郎町、更に遡つては番町に住    みしこともありしと云ふ、転居数度に及びしが、晩年には坂本町二丁目即ち茅場町俗称植木店(天保十    三年版『廣益諸家人名録』二編所載)に住し、其処にて身を終りしなり。    彼の美人画に於ける実感の豊かなるは、正に非凡の名手たりし事を証するに余りあり、其の一面に、宋    明の古画を好み、且つ先輩北斎に私淑する所ありしと云ひ、又かの藍摺絵(濃淡数度摺)を創案せしと    いふ事など、苦心の跡を察すべき点多し、殊に彼の自伝にも「青楼遊女の姿を写すに委く、其家々の風    俗裲姿を画くに役者の狂言振に似せず、時世の形体を新たに画きしは此人に起れり」と云へるは、蓋し    特筆に値すべき所ならむか。彼が研究的態度を示せしものは、単に作画上のみに止まらず、天保四年に    撰みし『无名翁隨筆』(一名『続浮世絵類考』)、天保(一字分空白)年版の『革(穴冠+充)図考』、弘    化二年版の『楓川鎧之渡古跡考』などを見ても、頗る考証に熱心なりしことを知るに足るべし。    彼が美人画の佳作は甚だ多し、而して尚ほ風景画に傑作と認むべき若干図あり、例へば「月夜の山水」    (大錦二枚つぎ掛物絵)、「雪中の山水」(同上)、阿蘭陀文字枠江戸名所数図(大横)、略筆雪中風    景(藍摺横画)、「江戸八景」(大判横画)、「東都名所」の数図(同上)、「木曾街道六十九次」    (内二十四図)中の日本橋(曙雪)・蕨(渡場)・深谷(夜景)・板鼻(雪景)・沓掛(風雨)・野尻    (渓流)・河渡(鵜飼)等の如きそれなり。(口絵第六十二図參照)以上は天保年間の作に属す。    彼が忌辰及び年齢に就いては三説あり、一は嘉水元年七月二十二日歿、五十九歳(写本『戯作者小伝』)、    二は同年八月十六日歿、五十七歳(『浮世絵師系伝』)、三は同年同月二十六日歿、五十九歳(『浮世    画百家伝』)、往年斎藤荘逸楼氏は彼が菩提所に就きて過去帳閲覽の結果を発表(雑誌酒井版『浮世絵』    第一号所載)されしが、即ち第一の説と符合せるを以て今それに従ふことゝせり。墓所は四谷箪笥町    (或は伊賀町)、縮寿院(禪宗)なるが、往年其の寺と共に府下杉並町字高円寺といふ所に移されたり。    因に、最近に於ける英泉研究の発表は、小島鳥水氏の「渓斎英泉伝校註」(雑誌『浮世絵志』二、十一、    十二号)あり、本稿亦これを參考して頗る便益を受けたり。     英泉の姿絵    茲に提げた渓斎英泉の姿は、一勇斎国芳の筆に成る墨摺絵本『大日本畸人画像風俗高名略伝』の最終丁    に、一陽斎豊国と国芳自身の後姿と共に画かれて居るものである。該書は半紙判二册物で、吾が邦にて    古来有名なる勇士美女画家俳人など一道一芸に秀でたるもの総べて百七十人の姿を描いたもので、毎丁    の組合せは年代順でなく美女と法体と勇士とを巧みに配するといふ調子で、一々の人物に就いて深く考    証したのでもないから実際とは相違して居らうが大体の形は可なり面白く描かれて居る。比の絵も英泉    の酒に親しむ樣を巧に描いてある。そして毎画面に出てゐる人物の事蹟を簡単に書き列ねた文句を添え    てある。花笠文京の序文があつて書名を『勇美畸人物』と記してゐる〟    ☆ えいせん 英川    ◯『浮世絵師伝』p16(井上和雄著・昭和六年(1931)刊)   〝英川    【生】           【歿】    【画系】          【作画期】文化    野沢氏、肉筆美人画あり〟    ☆ えいじゅう 英重    ◯『浮世絵師伝』p16(井上和雄著・昭和六年(1931)刊)   〝英重    【生】           【歿】    【画系】英山門人      【作画期】文政    菊川を称す〟    ☆ えいちょう 英蝶(春川英笑参照)    ◯『浮世絵師伝』p16(井上和雄著・昭和六年(1931)刊)   〝英蝶    【生】               【歿】    【画系】春川五七門人後ち英泉に学ぶ 【作画期】文政~天保    俗称亀助、初め春川英笑、別号春斎、英泉に学びて後ち画名を英蝶と改む、文政年間の錦絵(〈艸冠+    周〉渓、英笑、両筆)「養蠶の図」あり、又草双紙を画がく〟    ☆ えいとく 英得    ◯『浮世絵師伝』p17(井上和雄著・昭和六年(1931)刊)   〝英得    【生】           【歿】    【画系】英泉門人      【作画期】天保    一陽軒と号す〟    ☆ えいり 英里    ◯『浮世絵師伝』p17(井上和雄著・昭和六年(1931)刊)   〝英里    【生】           【歿】    【画系】英山門人      【作画期】文化    菊川を称す、冬木氏〟    ☆ えいりゅう 英柳    ◯『浮世絵師伝』p17(井上和雄著・昭和六年(1931)刊)   〝英柳    【生】           【歿】    「画系】英山門人      【作画期】文化    菊川を称す〟    ☆ えいう 栄烏    ◯『浮世絵師伝』p17(井上和雄著・昭和六年(1931)刊)   〝栄之門人栄烏    【生】           【歿】    【画系】          【作画期】寛政    大首の美人画に傑作あり。画風栄昌に似たり。彼の落款は鳥を書かず烏(ウ)とあり〟    ☆ えいが 栄雅    ◯『浮世絵師伝』p17(井上和雄著・昭和六年(1931)刊)   〝栄雅    【生】           【歿】    【画系】栄之門人      【作画期】寛政    酔月斎と号す、肉筆美人画あり〟    ☆ えいき 栄亀    ◯『浮世絵師伝』p17(井上和雄著・昭和六年(1931)刊)   〝栄亀    【生】           【歿】    【画系】栄之門人      【作画期】寛政    花表斎、また鳥寿斎と号す〟    ☆ えいき 栄暉    ◯『浮世絵師伝』p17(井上和雄著・昭和六年(1931)刊)   〝栄暉    【生】           【歿】    【画系】栄之門人      【作画期】寛政    肉筆美人画あり〟    ☆ えいきょう 栄京    ◯『浮世絵師伝』p17(井上和雄著・昭和六年(1931)刊)   〝栄京    【生】           【歿】    【画系】栄之門人      【作画期】寛政    鳥玉斎と号す、肉筆美人画あり〟    ☆ えいぎょう 栄暁    ◯『浮世絵師伝』p17(井上和雄著・昭和六年(1931)刊)   〝栄曉    【生】           【歿】    【画系】          【作画期】天保    国貞風の肉筆美人画あり〟    ◯〔「日本古典籍総合目録」収録なし〕    ☆ えいぎょく 栄玉    ◯『浮世絵師伝』p17(井上和雄著・昭和六年(1931)刊)   〝栄玉    【生】           【歿】    【画系】栄之門人      【作画期】享和~文化    琢斎と号す、肉筆美人画あり〟     ☆ えいげつ 栄月    ◯『浮世絵師伝』p17(井上和雄著・昭和六年(1931)刊)   〝栄月    【生】           【歿】    【画系】栄之門人      【作画期】享和    翠松斎と号す〟    ☆ えいこう 栄江    ◯『浮世絵師伝』p17(井上和雄著・昭和六年(1931)刊)   〝栄江    【生】           【歿】    【画系】栄之門人      【作画期】寛政    弄春斎と祝す、肉筆美人画あり〟    ☆ えいこう 栄興    ◯『浮世絵師伝』p18(井上和雄著・昭和六年(1931)刊)   〝栄興    【生】           【歿】    【画系】栄之門人      【作画期】寛政    寛政七年版『狂歌江戸紫』に挿画あり〟    ☆ えいざん 栄山    ◯『浮世絵師伝』p18(井上和雄著・昭和六年(1931)刊)   〝栄山    【生】           【歿】    【画系】栄之門人?     【作画期】寛政   春川氏、寛政七年版『狂歌江戸紫』に、栄之等と共に挿画せり。中橋槙町に住す。門人に春川五七あり〟    ☆ えいし 栄之    ◯『浮世絵師伝』p18(井上和雄著・昭和六年(1931)刊)   〝栄之    【生】宝暦六年(1756)   【歿】文政十二年(1829)七月二日-七十四    【画系】狩野栄川院典信門人 【作画期】天明~文政    藤原姓、細田氏、名時富、俗称を弥三郎といひ、後ち久左衛門と改む、幕府御勘定奉行細田丹波守三世    の裔時行の長男にして、十代将軍家治に近侍し、御小納戸役を勤めて家禄五百石を食めり、所謂御側絵    師の格たりしなり、然れども衷心私かに浮世絵に志す所ありしかば、職を奉ずること僅かに三年にして    之を辞し、家督を嗣子時豊に譲りて、爾後専ら浮世絵界に没頭したりき、これ恐らくは天明年間の事な    らむも、未だ年月を詳かにする能はず。     「栄之」の号は、初め将軍より命じゝものゝ由なるが、後年に至るも改むることなく、終生之を用ひた    り、又、別号を鳥文斎と云ひしは、美人画の描法に就て鳥居(清長)に私淑する所あり、且つ文龍斎と    云へる者に学びしかば、両者の頭字を取りて爾く号せしなりとの説あり。    寛政十二年閏四月、妙法院宮関東御下向の際、彼は台命によりて隅田川の風景を描きて進献せしに、宮    御感ありて、御帰洛の後これを後桜町上皇の叡覽に供へ奉らせ給ひしを叡感殊の外に深く思召し、それ    を仙洞御所の御文庫に収めさせられしかば、栄之はそれより以後「天覽」の印を用ゐ(併し濫りには使    用せざりしと)、斯かる名譽を記念したりしとぞ。(肉筆太夫と禿小松引の圖には「從六位藤原栄之筆」    と落款せり)    彼は門地の高きと斯の如き閲歴を有することに於て、浮世絵師中の一異彩たるを失はざりき、されば、    其の画風の如きも、自づからなる気品を具へ、悠々迫らざる寛裕の態度を示せり、しかも徒らに模倣の    弊に陥らずして、よく自他の長所を渾和融合し、所謂細田派なる一派を成し数多の優れたる門下を出す    に至りしは偉とするに足るべし。    栄之の版画には六歌仙(口絵第四十七図參照)、七福神等に擬したる美人画あり、彼が斯界に貢献した    る特色のものは、美人画の背色を黄摺にて明るき感じを現はし、又三枚続の外に五枚続の大作を試みて    よく画面を整へたり。彼の肉筆は、寛政時代版画の優品を作る頃には入念なる描法の傑作を遺せしが、    文化以後版画中止の頃には、多数の肉筆を描きたれども主として草画なり。    彼は本所割下水に拜領地を有し、初め浜町に住み、後ち本所御竹蔵の後方に移りしといふ。彼の菩提所    は、谷中の蓮華寺(日蓮宗)にして、細田家は該寺の大檀那なりしかば、基石の如きも堂々たるものな    りしに、子孫零落して無謀にも祖先の墓石を悉く売却し、今は其の所在を明かにせず、たゞ纔かに『見    ぬ世の友』(明治三十四年六月發行)の記載に拠りて其の殘影を偲ぶに過ぎず、乃ち墓石の正面に「廣    説院殿皆信栄之日隨居士」とあるは彼の謚号にして、上部に下り藤に左まん字の紋章あるは細田家の家    紋なり。    藤懸静也氏著『浮世繪』に拠れば、栄之は細田氏なるも、画姓としては之を用ゐず、別に細井氏を名乗    りしとの事なり、其が一例として、寛政十三年西村屋版の『新版錦摺三十六歌僊絵尽』に「細井鳥文斎    筆」とあるを挙げられたり、此の説正しからむ〟    ☆ えいしゅう 栄舟    ◯『浮世絵師伝』p19(井上和雄著・昭和六年(1931)刊)   〝栄舟    【生】           【歿】    【画系】栄之門人?     【作画期】文化    桃源斎と号す、肉筆画あり〟    ☆ えいしょう 栄松    ◯『浮世絵師伝』p19(井上和雄著・昭和六年(1931)刊)   〝栄松    【生】           【歿】    【画系】栄之門人?     【作画期】文化    鳥玄斎と号す、肉筆画あり〟    ☆ えいしょう 栄昌    ◯『浮世絵師伝』p19(井上和雄著・昭和六年(1931)刊)   〝栄昌    【生】           【歿】    【画系】栄之門人      【作画期】寛政    鳥高斎、昌榮堂と号す、寛政六年頃より八九年頃までの間に於て、数多の美人画を製作せしが、就中    「郭中美人競」と題せる大首絵の如きは、最も優秀なる作品なり。(口絵第四十八図參照)    寛政十年、十一年の二年間に黄表紙三四種を描き、それ以後に、殆ど彼の作品を見受けず、或は寛政の    末頃に他界せしもの歟〟    ☆ えいしょう 栄尚    ◯『浮世絵師伝』p19(井上和雄著・昭和六年(1931)刊)   〝栄尚    【生】           【歿】    【画系】栄之門人      【作画期】寛政    一貫斎と号す、肉筆美人画あり〟    ☆ えいしょう 栄笑    ◯『浮世絵師伝』p19(井上和雄著・昭和六年(1931)刊)   〝栄笑    【生】           【歿】    【画系】栄之門人      【作画期】寛政    肉筆美人画あり〟    ☆ えいしん 栄深    ◯『浮世絵師伝』p19(井上和雄著・昭和六年(1931)刊)   〝栄深    【生】           【歿】    【画系】栄之門人      【作画期】寛政~文化    豊川氏、鳥園斎と号す、又肉筆の落款に「疎天斎」の印を用ゐたる例あり〟    ☆ えいじ 栄次    ◯『浮世絵師伝』p19(井上和雄著・昭和六年(1931)刊)   〝栄次    【生】           【歿】    【画系】栄深門人      【作画期】文化    豊川氏、歌麿晩年風の肉筆美人画あり〟    ☆ えいじゅ 栄寿    ◯『浮世絵師伝』p19(井上和雄著・昭和六年(1931)刊)   〝栄寿    【生】           【歿】    【画系】栄之門人      【作画期】寛政    鳥囀斎と号す、また栄寿斎とも云へり、錦絵美人画あり〟    ☆ えいじゅ 栄樹    ◯『浮世絵師伝』p19(井上和雄著・昭和六年(1931)刊)   〝栄樹    【生】           【歿】    【画系】栄之門人      【作画期】寛政〟    ☆ えいすい 栄水    ◯『浮世絵師伝』p20(井上和雄著・昭和六年(1931)刊)   〝栄水   【生】            【歿】   【画系】栄之門人       【作画期】寛政   一楽斎・一楽亭と号す。錦絵大首の美人画に傑作あり。寛政十三年版洒落本『野郎の玉子』の挿画せり〟    ☆ えいせつ 栄節    ◯『浮世絵師伝』p20(井上和雄著・昭和六年(1931)刊)   〝栄節    【生】           【歿】    【画系】栄之門人      【作画期】寛政    霽月斎と号す、肉筆美人画あり〟    ☆ えいちょう 栄晁    ◯『浮世絵師伝』p20(井上和雄著・昭和六年(1931)刊)   〝栄晁    【生】           【歿】    【画系】栄之門人      【作画期】文化    高田氏、文和斎と号す、肉筆美人画あり〟    ☆ えいは 栄波    ◯『浮世絵師伝』p1(井上和雄著・昭和六年(1931)刊)   〝栄波    【生】          【歿】    【画系】栄之門人     【作画期】寛政    寛政七年版『狂歌江戸紫』に挿画せり〟    ☆ えいぶん 栄文    ◯『浮世絵師伝』p20(井上和雄著・昭和六年(1931)刊)   〝栄文 菅原氏、名に利信。(歌麿(別人)の項參照)    校正中、栄丈の掛物を手に入れ、比較參考の点を追記す。    浮世絵之研究第十八號に写真版として掲載されし肉筆と比較して年代は早く、文化中年頃の栄之の晩年    画又は英山の若時の画風に酷似して煙管を持つ立姿、芸者の密画にて「鳥文斎一流、一掬斎榮文筆」と    落款し、円印の中へ栄文とあり、此画は彼の独自性を現はしたるものと認めらる。浮世絵之研究第十八    号の写真版中、一〇の落款は幾分か似て居る故同人ならん、然し写真掲載の分は筆力鈍く、歌麿の晩年    風を模倣し居れり、姓名も誇張的の偽名なるべし。(本項、渡邊庄三郎氏執筆)〟    ☆ えいほ 栄甫    ◯『浮世絵師伝』p20(井上和雄著・昭和六年(1931)刊)   〝栄甫    【生】           【歿】    【画系】栄之門人      【作画期】寛政〟    ☆ えいり 栄里(礫川亭永理参照)       ◯『浮世絵師伝』p20(井上和雄著・昭和六年(1931)刊)   〝栄里  礫川亭永理の前名。(永理の項參照)〟    ☆ えいりゅう 栄隆    ◯『浮世絵師伝』p20(井上和雄著・昭和六年(1931)刊)   〝栄隆    【生】           【歿】    【画系】栄之門人      【作画期】寛政    中邑氏(印文に拠る)、別号葛堂、美人画の肉筆及び錦絵あり〟    ☆ えいりょう 栄綾 〔生没年未詳〕    ◯『浮世絵師伝』p20(井上和雄著・昭和六年(1931)刊)   〝栄綾    【生】           【歿】    【画系】栄之門人      【作画期】寛政    寛政七年版『狂歌江戸紫』に挿画あり〟    ☆ えいりん 栄鱗 〔生没年未詳〕    ◯『浮世絵師伝』p20(井上和雄著・昭和六年(1931)刊)   〝栄鱗    【生】           【歿】    【画系】栄之門人      【作画期】寛政    肉筆美人画あり〟    ☆ えいしゅん 永春    ◯『浮世絵師伝』p20(井上和雄著・昭和六年(1931)刊)   〝永春    【生】           【歿】    【画系】          【作画期】宝永~宝暦    長谷川氏、梅翁軒・松翠軒等の別号あり。梅翁軒永春の落款を用ゐたるものには、享保初期の風俗を巧    に表現し「日本画梅翁軒春信」と落款せるものは正徳頃にて、年代早けれども画風酷似せり、蓋し同一    人なるべし。光信と改めし後の作品には、墨摺版画と数種の画本あり、宝暦四年版の『日本山海名物図    絵』五册は、彼が最後の作ならん。〟    ☆ えいしゅう 永洲    ◯『浮世絵師伝』p21(井上和雄著・昭和六年(1931)刊)   〝永洲    【生】           【歿】    【画系】          【作画期】明治    伊太利シヽリー島パレルモに現住する画家ラグーザお玉老女史(清原氏)の娘時代に画を教へし人にし    て、小林永洲といひし由、最近木村毅氏の発表あり(昭和六年一月『東京日日新聞』夕刊連載)、或は    永濯の永洲時代に於ける事か。〟    ☆ えいたく こばやし 小林 永濯    ◯『浮世絵師伝』p21(井上和雄著・昭和六年(1931)刊)   〝永濯    【生】天保十四年(1843)  【歿】明治二十三年(1890)五月二十七日-四十八    【画系】狩野永悳門人    【作画期】文久~明治    藤原姓、名は徳直、霞堂と号す(以上、肉筆の落款に拠る)、小林氏、俗称秀次郎、鮮斎・夢魚・梅花    堂などの号あり、父は三浦屋吉三郎といひて新場の魚問屋なり、永濯は狩野永悳(中橋大鋸町住)に学    びて後ち、将に井伊家に仕へむとせしが、父の急病にあひて沙汰止みとなりし由、また同門の先輩狩野    永洲の家に養子となりしが、故ありて復歸せり、其の頃暫く彼は永洲を名乘りしことありと。(『浮世    絵新誌』第十三號所載、島田筑波氏の説に拠る)    彼が独立後の居所に、初め中橋上槙町なりしが、其が体質虚弱の爲め南葛飾郡請地村に移りしも、病に    罹りて更に今戸町に転じ、其処にて遂に他界せり。画く所のもの、肉筆の外に『鮮斎永濯画譜』・『萬    物雛形画譜』及び雑書の挿画などあれど、錦絵は比較的少数なり、肉筆は屡ば外國人の需めに応じて画    きしことありとぞ。〟    ☆ えいり 永理    ◯『浮世絵師伝』p21(井上和雄著・昭和六年(1931)刊)   〝永理    【生】           【歿】    【画系】栄之門人      【作画期】寛政~享和    藤原姓(印文にあり)、初め(寛政六年頃)栄里といひ、別号を鳥橋斎または鳲鳩斎といふ(共に肉筆    美人画に其例あり)、尋で勿用斎永犁とし、更に礫川亭永理と改む、落款を「礫川亭ヱひり」と假名書    にしたるものは、寛政末期以後享初年間の作なるが如し、頗る美人画を得意とせしが、特に其が栄里落    款の錦絵中「三ヶ津草嫁美人合」と題する江戸、京都、大阪の三美人を三圖に画きしもの、及び山東京    伝の肖像(口絵第四十九図參照)・宮本豊前太夫(二代目)の肖像等は、彼の傑作と認むべきものなり。    また永理落款のものにては「入れぼくろをする美人と若衆」(口絵第五十図参照)の一図最も優れたれ    ど、他に「御殿女中見立登城行列」(五枚続)の如き作例もあり、栄之門下に於ては特色ある一人と謂    ふべし〟    ☆ えいり 永犁(礫川亭永理参照)    ◯『浮世絵師伝』p21(井上和雄著・昭和六年(1931)刊)   〝永犁 礫川亭永理と同人。(永理の項參照)〟    ☆ えいり 永艃    ◯『浮世絵師伝』p21(井上和雄著・昭和六年(1931)刊)    〝永艃    【生】           【歿】    【画系】          【作画期】享和~文化    武川亭と号す、或は礫川亭永理と同一人ならむかと思はるれど未だ確証を得ず、享和二年版『春の戯う    た』及び文化四年版『狂歌蓬莱集』前編に挿画せるものを見るに、画風北斎の影響を受けたるが如き点    あり〟    ☆ えきぎ 易祇    ◯『浮世絵師伝』p22(井上和雄著・昭和六年(1931)刊)   〝易祇    【生】           【歿】    【画系】          【作画期】寛政    邨(一字省略か)氏、白峯と号す、狂歌本に色摺挿画あり、画風堤派に近し〟    ☆ えびしや 絵菱屋    ◯『浮世絵師伝』p22(井上和雄著・昭和六年(1931)刊)   〝絵菱屋忠七    【生】           【歿】    【画系】          【作画期】寛政    京都の人、井崎氏、寛延三年版『雛形千代の春』其他模樣雛形本二三種あり〟    ☆ えんきょう かぶきどう 艶鏡    ◯『浮世絵師伝』p22(井上和雄著・昭和六年(1931)刊)  〝艶鏡   【生】寛延二年(1749)    【歿】享和三年(1803)九月二十日-五十五   【画系】           【作画期】寛政   彼は写楽の後、国政の稍前に出現せし俳優似顔絵師にして、歌舞妓堂と号しき、其の技見るべきものある   にも拘らず、彼が伝記は殆ど拠るに足るもの無かりしが、曩に(大正十五年五月『浮世絵之研究』第十七   號)、落合直成氏の研究発表によつて、彼が狂言作者二代目中村重助と同一人なる事を明かにされたり。   即ち、中村重助は明和元年十六歳にして初めて中村座に入り、其後立役者となりて重きを成すに至りしが、   寛政六年(四十六歳)以後の芝居番附には其の名見えず、恐らくは其の頃既に作者を辞して、専ら画筆に   親しみしものなるベく、そは寛政七年九月より翌八年五月の間に、彼が俳優似顔絵の出版されし事と符合   するものゝ如く。而して、彼が版画の全作数は極めて僅少なりしが如く、いま世に遺存するものとしては、   僅かに左の七図を見るに過ぎず。    1中山富三郎の女役某(寛政七年秋?)    2三代沢村宗十郎の足利頼兼(同七年秋)    3三代市川八百蔵の伊勢三郎(同七年十一月)(口絵第四十四図參照)    4初代市川男女蔵の金屋金五郎(寛政八年春) 5二代中村仲蔵の松王(同 八年五月)    6三代市川八百蔵の梅王(同上)       7二代中村野塩の桜丸(同上)   右の内1より4までは「歌無妓堂艶鏡画」[*「無」の字、ママ]の落款を有し、5乃至7は単に「歌舞   妓堂画」とせり。尚ほ、以上の七図は何れも所謂大首絵にして、各図とも版元の印無し、それに就て、落   合氏の説には、「元来彼の作品は販売を目的とせしものには非ず役者側の自費出版を以て同好者に頒布せ   しものなるベし」と云はれたり、或は然らむか〟    ☆ えんげつどう 艶月堂    ◯『浮世絵師伝』p22(井上和雄著・昭和六年(1931)刊)   〝艶月堂     【生】           【没】    【画系】          【作画期】宝暦    大判紅摺絵の美人画に此名あり、画風清満に似たり〟    ☆ えんこうあん 猿猴庵     ◯『浮世絵師伝』p22(井上和雄著・昭和六年(1931)刊)   〝猿猴庵    【生】           【没】    【画系】          【作画期】寛政末    名古屋の人、高力氏、寛政末頃の出版とおぼしき浮絵風の錦絵「津島社◎参詣之図」に此落款あり〟    ☆ えんし 燕子     ◯『浮世絵師伝』p23(井上和雄著・昭和六年(1931)刊)   〝燕子    【生】           【没】    【画系】石燕門人      【作画期】宝暦~天明    赤本『浮世めいたい記』あり、又天明七年の絵暦(秘戯画)に此名あり〟    ☆ えんじ 燕二    ◯『浮世絵師伝』p23(井上和雄著・昭和六年(1931)刊)    〝燕二     【生】           【没】    【画系】石燕門人      【作画期】安永~天明    明和七年版及び安永三年版の俳諧歳旦集(失題)に石燕等と共に挿画せり、句には吉日庵燕二とあり、    燕示・燕字、共に燕二と同一人なるべし〟    ☆ えんじゅう 燕十    ◯『浮世絵師伝』p23(井上和雄著・昭和六年(1931)刊)    〝燕十    【生】           【没】    【画系】石燕門人      【作画期】明和~天明    藤原姓、鈴木氏、字は貴林、俗称庄之助、幕府の小吏にして根岸清水町に住す、其の町名に因みて志水    (シミズ或はシスヰと呼びし例もあり)の仮姓を用ひたり。燕十は画号にしえ併せて俳号たり。別号を    裡町斎といひ、戯号を奈蒔野馬乎人(ナマケノバカンド)と云ふ。彼れ俳諧、狂歌をよくするの外戯作を巧み    にしたりき。其他算法に精通し『利得算法記』(天明四年版)の著あり。彼の画は石燕門下の俳句集    (明和七年版の俳諧歳旦集に挿画並びに句あり)などに挿画を見受くるの外、あまり多くの作品無し。    因みに、彼と初代歌麿とを同一人の如く伝へたる書あれど、其の誤謬なること勿論なり〟     ☆ えんせん 燕川     ◯『浮世絵師伝』p23(井上和雄著・昭和六年(1931)刊)   〝燕川    【生】           【没】    【画系】石燕門人      【作画期】明和~安永    霞汲亭と號す、明和五年版『風流六女競』(前編)に鳥燕川画とあり、安永三年版の『俳諧芦田鶴』に    見ゆる燕川舎石鳥と同一人歟〟    ☆ えんちょう 燕鳥     ◯『浮世絵師伝』p23(井上和雄著・昭和六年(1931)刊)   〝燕鳥    【生】           【没】    【画系】石燕門人      【作画期】明和~安永    明和七年版の俳諧歳旦集(失題)及び、安永三年版の絵入俳諧本(失題)に挿画せり〟     ☆ えんし 円志    ◯『浮世絵師伝』p23(井上和雄著・昭和六年(1931)刊)   〝円志    【生】           【没】    【画系】          【作画期】天明~寛政    闇牛斎と号す、其が錦絵には「上野花見の図」三枚続、「殿中遊戯の図」三枚続等あれど画系明かなら    ず、天明四年及び寛政四年の絵暦に「円志画」としたるものあり、彼の肉筆画中、上野広小路「松坂屋    呉服店」の全景を図したる横額、三代目瀬川菊之丞の舞台姿を描きたる竪幅等あり。また安永九年版の    黄表紙『銀世界豊年鉢木』を画きし闇牛斎秋童は、恐らく彼と同一人なるべし〟     ☆ えんじゅ 円寿     ◯『浮世絵師伝』p23(井上和雄著・昭和六年(1931)刊)   〝円寿    【生】           【没】    【画系】          【作画期】文化    文化初年頃の細錦絵「福助の図」に此の名あり〟    ☆ えんぽ 円甫    ◯『浮世絵師伝』p23(井上和雄著・昭和六年(1931)刊)   〝円甫    【生】           【没】    【画系】馬円        【作画期】文化    大阪の人、文化十年版『機応冥顕』に挿画あり〟