Top           『浮世絵師伝』         浮世絵文献資料館
                            浮世絵師伝  ☆ あおうどう 亜欧堂 (『浮世絵師総覧』は「でんぜん 田善」に収録)    ◯『浮世絵師伝』p1(井上和雄著・昭和六年(1931)刊)   〝亜欧堂    【生】寛延元年(1748)  【歿】文政五年(1822)五月七日-七十五    【画系】僧月僊門人     【作画期】寛政~文政    岩代国須賀川の人、永田氏、名は可大、俗称善吉、其祖先は伊勢国渡会郡永田村の人、故ありて須賀川    に移住し、爾後数代に及ぶ。彼れは五代目(俗称惣四郎)の次男にして、兄は俗称を文吉と云ひ染工を    以て家業とし、且つ狩野派の画を学び、名を守胤、号を崑山といへり。善吉亦染工の技を習得せしが、    幼より画を好みて頗る写生を巧にせり、偶々祖先出生の地たる伊勢に僧月僊の画名あるを伝へ聞きて、    安永元年伊勢參宮の途次、初めて月僊に見え、即ち入門して画技を学びたりき、時に年二十五。其後感    ずる所ありて洋画及び浮世絵の特長を探り、新機軸を出すに至りしが、恰も寛政六年九月に、常時白川    城主松平定信が領地巡遊の際、彼の作品を見て共の画才を賞美し、それより彼を遇するに士分を以てせ    り。斯の如くにして定信の援助を受くる所少なからず、其の間長崎に赴きて洋画と銅版の技を研究し、    帰来して後数多の銅版画を製作せり、其内重なるものを挙ぐれば左の如し。     ◯医範提綱内象図(文化五年) ◯新鐫総界全図(文化六年)  ◯日本辺界略図(文化六年)      ◯セルマ二ヤ廓中之図(同上) ◯万国全図(自文化四年十二月 至同七年三月完成)      ◯大隈瀧(文化十一年)    ◯大日本金龍山之図(年月未詳)◯両国橋(年月未詳)      ◯東都三囲之図(同上)    ◯東都三又之図(同上)    ◯東都の名所(小形数枚)(同上)     ◯幡隨院長兵衛-白井權八比翼塚(文化九年)此圖のみは色摺木版    彼れは画号を亜欧堂田善(永田善吉の略)と云ひ、法名を一翁如旦居士といふ、其菩提所は福島県須賀    川の長禄寺なり。彼れの門人としては安田田騏・遠藤田一・新井令恭等最も著はる〟    ☆ あしくに 蘆国    ◯『浮世絵師伝』p2(井上和雄著・昭和六年(1931)刊)   〝蘆国    【生】          【歿】文政三年(1820)九月五日-四十余    【画系】須賀蘭林斎門人  【作画期】文化~文政    大阪の人、浅山氏、俗称布屋忠三郎、画名は稀に蘆洲(アシクニ)とす、青陽斎・蘭英斎・狂画堂等の号あり、    役者絵及び読本の挿画多し。文化十年版の『狂歌百人一首』に挿画して「あしくに画」と署名す、また    文化十五(文政元)年版『傾城倭荘子』に附刻の広告文に拠れば、其年の初春より狂言の替り目ごとに    立役者の姿を扇面に写し、二日目より売出し申候間、版元にて御求め下されたき旨を述べたり。墓所大    阪遊行寺(円成院)法名釈順清。    因みに、文学博士黒田源次氏著『上方絵一覧』に於て、浪花錦絵の系統を区別し、第一を松好斎一派、    第二を蘆国一派とせられたり、蓋し画名に蘆の字を冠する者十人を超へ、作品の数甚だ多く、其等は皆    蘆国門人と見ても、彼れが優に一派を形成するありし者なる事を明かにされしなり〟    ☆ あしきよ 蘆清    ◯『浮世絵師伝』p2(井上和雄著・昭和六年(1931)刊)   〝蘆清    【生】          【歿】    【画系】         【作画期】文化末    大阪の人、役者絵あり〟    ☆ あしさと 蘆郷    ◯『浮世絵師伝』p2(井上和雄著・昭和六年(1931)刊)     〝蘆郷    【生】          【歿】    【画系】         【作画期】    大阪の人、役者絵あり〟    ☆ あしぬき 蘆貫    ◯『浮世絵師伝』p2(井上和雄著・昭和六年(1931)刊)    〝蘆貫    【生】          【歿】    【画系】蘆国門人     【作画期】文化~文政    大阪の人、役者絵あり、居所心斎橋北詰〟     ☆ あしとも 蘆友    ◯『浮世絵師伝』p2(井上和雄著・昭和六年(1931)刊)   〝蘆友    【生】          【歿】    【画系】蘆国門人     【作画期】文化~文政    大阪の人、役者絵あり〟    ☆ あしひろ 蘆広    ◯『浮世絵師伝』p2(井上和雄著・昭和六年(1931)刊)   〝蘆廣    【生】          【歿】    【画系】蘆国門人     【作画期】文化末    大阪の人、春川を称す、文化末に役者絵あり〟    ☆ あしなお 蘆尚    ◯『浮世絵師伝』p2(井上和雄著・昭和六年(1931)刊)   〝蘆尚    【生】          【歿】    【画系】蘆国門人     【作画期】文化末    大阪の人、役者絵あり〟    ☆ あしふね 蘆舟    ◯『浮世絵師伝』p2(井上和雄著・昭和六年(1931)刊)   〝蘆舟    【生】          【歿】    【画系】蘆国門人     【作画期】文化~文政    大阪の人、文化十一年版『璃寛帖』に挿画せり、役者絵あり〟    ☆ あしまる 蘆麿    ◯『浮世絵師伝』p2(井上和雄著・昭和六年(1931)刊)   〝蘆麿    【生】          【歿】    【画系】         【作画期】    一に蘆丸、よし国の前名なり〟    〈蘆麿を「一に蘆丸」とあるので「あしまる」と読んだ〉    ☆ あしゆき 蘆幸    ◯『浮世絵師伝』p2(井上和雄著・昭和六年(1931)刊)   〝蘆幸    【生】          【歿】    【画系】         【作画期】文化~文政    大阪の人、文化の十年頃より役者絵を画き、長国と云ひしが同十一年より蘆幸と改め戯画堂と号す、其    の後また前名(長国)を用ひしこともあり、蘆幸を「蘆ゆき」とも「蘆雪」とも落款せり、役者絵頗る    多し、居所道修町御霊筋〟      ☆ あしゆき 蘆雪    ◯『浮世絵師伝』p3(井上和雄著・昭和六年(1931)刊)   〝蘆雪    【生】          【歿】    【画系】蘆国門人     【作画期】安政~慶応    大阪の人、六花園と号す、慶応四年春、伏見鳥羽戦争の錦絵(三枚続)を画けり、大阪島の内三休橋筋    清水町南に住す〟    ☆ あつまる 篤麿    ◯『浮世絵師伝』p3(井上和雄著・昭和六年(1931)刊)   〝篤麿    【生】          【歿】    【画系】水府豊春門人   【作画期】寛政    水戸の人、大錦美人画あり、紙面に「水府豊春門人篤麿製」と款す、画風歌麿に似たり〟    ☆ あやおか 綾岡    ◯『浮世絵師伝』p3(井上和雄著・昭和六年(1931)刊)   〝綾岡    【生】文化十四年(1817) 【歿】明治廿年(1887)五月廿四日-七十一    【画系】         【作画期】嘉永~明治    池田氏、通称奈良屋吉兵衛、綾岡輝松と号す、団扇絵の意匠をよくし、又書に堪能なり。はじめ本石町    川岸に住せり〟    ☆ ありのぶ 有演 〔生没年未詳〕    ◯『浮世絵師伝』p3(井上和雄著・昭和六年(1931)刊)   〝有演(ノブ)    【生】          【歿】    【画系】         【作画期】寛政末    大錦美人画あり、栄之風〟    ☆ ありふみ 有文    ◯『浮世絵師伝』p3(井上和雄著・昭和六年(1931)刊)   〝有文    【生】          【歿】    【画系】         【作画期】寛政十二(1800)~文化十四(1817)    名古屋の人、紀ノ有文(アリフミ)といひ、初名を安丸といふ、白観堂・松寿園・葎庵等の号あり、狂歌師    にして傍ら画技を能くし、寛政十二年版の狂歌本『願能糸(ネガヒノイト)』及び文化十四年版の『狂歌弄    花集』に挿画せり〟    ☆ あんち 安知     ◯『浮世絵師伝』p201(井上和雄著・昭和六年(1931)刊)   〝安知    【生】           【歿】    【画系】懐月堂安度門人   【作画期】正徳    落款に懐月末葉とし、また長陽堂と号す、大判墨摺及び肉筆の美人画あり〟    〈井上和雄は「やすとも」と読んで「ヤ」の項目に収録している〉      ☆ あんど かいげつどう 懐月堂 安度     ◯『浮世絵師伝』p62(井上和雄著・昭和六年(1931)刊)   〝懐月堂    【生】           【歿】    【画系】          【作画期】宝永~正徳    岡沢(一に岡崎とす)氏、名は安度(安慶とせるは誤)、俗称源七、別号を翰運子といふ、浅草諏訪町    に住す。画系未だ詳ならざれども、鳥居清信・奥村政信等の画風を参酌して、新たに一派を開きしもの    ゝ如し。描く所の婦女の風俗によりて、作画年代は宝永乃至正徳年間を超えざるものなる事を知るに足    るべく、また彼は正徳四年春奥女中江島の一件に連座し、同年四月蔵前の豪商梅屋善六等と共に伊豆大    島に流謫されし由なれば、其の時を以て一旦作画を中止せしものと見るを得べし。    世に流布せる版画及び肉筆物中に、安知・度繁・度辰・度種・度秀等の落款を有し、いづれも「日本戯    画懐月末葉」の八手を冠したるものあり、画風の特徴、落款の書体等に類似の点多く、遊女のみ描きし    故、或は一人の懐月堂安度が、自家広告の爲に斯く別号を用ゐしものならむとの説あれども、恐らくは    然らず、乃ち一般に伝ふるが如く安度の門人なるべしと思はる。(口絵第八図參照)〟     〈『浮世絵師伝』は「安度」を「やすのり」と読み「ヤ」の項目に入れているが、そこには「懐月堂参照」とある。従っ     て、上記記事は「かいげつどう」の項目のものである。ただ「歴史的仮名遣い」による表記のため、「カ」ではなく     「ク」の項目に入っている〉