Top                  浮世絵文献資料館
                     翻刻 『浮世絵類考』〔神宮文庫本〕         
       ※『大田南畝全集』は『浮世絵考証』とする         【◯ 】の細字注は、『大田南畝全集』の底本解説によると、大田南畝以外、山東京伝など後人の注記とされる         一 浮世絵      一 大和絵      一 漆絵  【金泥又は墨にてぬりし絵】      一 一枚絵 【紅絵共江戸絵共云】      一 艸双紙 【赤本 唐紙表紙 青本】            【初メ萌黄色表紙ナルユヘ青本と云 今ハ黄表紙ナレトモ青本と云ナリ】      一 吾妻錦絵      一 役者似顔      一 摺物絵   
       京伝案、江戸真砂六十帖云、元禄八九年之頃、元祖団十郎鍾馗ニ扮ス、其容ヲ画キ刻テ街ニ売、価銭五文、        是ヨリ役者一枚絵ト称モノ数種ヲ刻ス云々 以上略文        岩佐又兵衛      又兵衛父ヲ荒木摂津守 按、名村重 ト云。信長公ニ仕テ軍功アリ。公賞シテ摂津国ヲ予フ。後公ノ命ニ背テ自殺ス。      又兵衛時ニ二歳、乳母懐テ本願寺子院ニ隠レ、母家ノ氏ヲ仮テ岩佐ト称ス。成人ノ後、織田信雄ニ仕フ。画図ヲ      好テ一家ヲナス。能当時ノ風俗ヲ写スヲ以テ、世人呼テ浮世又兵衛ト云。世ニ又平ト呼ハ誤也。画所預家ニ又兵      衛略伝アリ。藤貞幹好古日録ニ見ユ。         【◯無仏斎ガ此説信ジガタシ。四季画ノ跋ニ越前ノ産云々ト有ニモ不叶。疑ラクハ誤ナルベシ           按ズルニ、是世にいわゆる浮世絵のはじめなるべし。又大津絵も此人の書出せるなりといふ。         又大津絵も此人の書出せるなりといふ。        菱川吉兵衛師宣      大和絵師又は日本絵師とも称ス。房州の人なり。和国百女【三冊 元禄八年板】月次の遊び【一冊 元禄四年板】      やまの大寄 一冊 恋のみなかみ 一冊 其外天和、貞享の頃板本多し。  
      貞享四年板の江戸鹿子に           浮世絵師         イニ村松町二丁目         堺町横丁   菱川吉兵衛                同吉左衛門  
      元禄二己年板の江戸図鑑に           浮世絵師       橘町     菱川吉兵衛師宣       同所     同吉左衛門師房
      長谷川丁   古山太郎兵衛師重       浅草     石川伊左衛門俊之       通油町    杉村治兵衛正高       橘丁     菱川作之丞師永  
       元禄五年板         買物調方三合集覧【横切本一冊】         江戸浮世絵町 〈「江戸浮世絵町」正しくは「江戸ニテ 浮世絵師」〉             橘町 菱川吉兵衛                同吉左衛門                同太郎兵衛          三馬曰、元禄十年板国家万葉記 七ノ下ニ      大和絵師 菱川吉兵衛           同 作之丞  村松町二丁目           同 吉左衛門      如斯出たり  〈「大曲本」は『国家万葉集』とする。「国書基本DB」は『国花万葉記』(菊本賀保著・元禄十年板)とあり〉         【◯倭画師ハ日本画師ト云ニハアラズ。大和国ニ住画工ト云事也。故ニ山背画師、河内画師等アリ。◯山背--推古十二、      河内--宝字元ニ見ユ          按ずるに、井澤長秀が俗説弁に国史を引て大和画師は倭画師とてみだりに称すべからざる事を述たり。        俗説弁云、         俗間画師みだりに倭画師と書者あり          倭画師は姓名なり、みだりに書べからず。其故は続日本記に云、霊亀元年乙巳従六位下画師忍勝          (ヲシカツのルビ)、姓ヲ改テ為倭画師とあるを見るべし。         【◯日本画師ト云ハ中世漢画を学ブ人ト分ツ為ニシテ、姓氏ヲ冒セルニハアラズ。モトヨリ古ノ姓ニアリトテ何ノ憚カアラ       ン。井澤氏ガ説、例ノ生兵法ニシテ、此人カゝル編見ユヱニ、今昔物語ノ雅文ヲバ俗語ニ訳シテ、且臆断ヲ以テ鈔本ヲ刊       行セシヨリ、全部ノ古書、コレガ為ニ絶果タル事、学者ノツネニ嘆息スル所ニシテ、実ニ著述家ノ罪人ト云ベシ。       古人ノ所謂不知シテ知タル真似スル人、往々如此誤有             英一蝶四季絵跋
     夫大和絵は、そのかみ土佐刑部大輔光信がすさみに、堂上のうや/\しきより田家のふつゝかなるさま、岩木の      たゝずまひ、やり水のめいぼく、これにはじまりて末/\にながれ、予が如きのつたなきまでこれをもとゝす。      近頃越前の産、岩佐の某となんいふもの、歌舞白拍子の時勢粧をおのづから写し得て、世人うき世又平とあだ名      す。久く世に翫ぶに、また房州の菱川師宣といふもの、江府に出て梓におこし、こぞって風流の目をよろこばし      む。此道予が学ぶ所にあらずといへども、若かりし時、あだしあだ波のよるべにまよひ、時雨朝帰りのまばゆき      をいとはざるころほひ、岩佐、菱川が上にたゝん事をおもひて、はしなきうき名のねざしのこりて、はづかしの      もりのしげきことぐさともなれり。さるが中にあたりて謫居さすらへし事十とせにあまり、廿とせに近きを、あ      りがたき御恵のめでたきもとの都にかへり来る。あるひとむかしの筆の四時のたわぶれ絵をふたゝび予に見す。      其頃は心たくましく眼すゞろに、髪筋を千すぢにわくる事くさもことたらざりけらし。しかし今の世のありさま      にくらぶれば、髪のつとゑりをこへず、ふり袖大路をすらず、たゞあまざかる田舎おうなの絵姿とも思ふべから      ん。蛍星うつりかわりてこの一巻を見る事、浦嶼が七世のむま子に逢へるためしにひきて、かつはよろこびをそ      ふるの心にす。これがために跋書。 英一蝶書       按ずるに、一蝶はもと多賀朝湖と云絵師也【姓は藤原名は信香】 字は暁雲、翠簔翁、北窓翁、暁雲堂とも云。       表徳は和央。呉服町壱丁目新道に住せし頃罪ありて元禄十一寅年十二月、三宅島に流さる。時に歳四拾六也。       宝永六年丑九月御赦免、江戸深川に住す。これ謫居よりかへりての文なり。       享保九辰年正月十三日没。       湯原氏記に云、元禄七年四月二日従、桂昌院様六角越前守御使被遣之、        金屏風一双【芳野竜田】多賀朝湖筆         本願寺え      同 一双 大和耕作 同人筆       新門え        鳥居庄兵衛【元禄十年の板、好色大福帳五冊、絵師の名なり】        鳥居清信 【庄兵衛は元祖清信俗称也。鳥居庄兵衛清信と書たる絵本おほし】         弟子同清満  同 同清倍         同 同清経【三馬按、清経清長共ニ清満門人也】         同 同清長【三馬按、俗称新助ニ非ズ、市兵衛トイヘリ】         鳥居清信は江戸絵の祖といふべし。はじめは菱川のごとき昔絵の風俗なりしが、中比より絵風を書かへしなり。    此のち絵風さま/\に変化せしかども江戸歌舞伎の絵看板は鳥居風に画く事也。清満、清倍、清経とも一枚絵、    草双紙をかけり。    清長は俗称新助、近頃錦絵彩色の名手なり。      三馬按、三芝居看板ヲ受継タル順当ハ       元祖  庄兵衛清信      四代  清長  清満門人也       二代  清倍  清信男也   五代  清峯  清満孫也、今清満ト改ム。清長門人也。       三代  清満  清倍男也      三代清満ノ実子ハ、浮世絵ヲ学バズシテ縫箔屋ヲ業トシ、和泉町ニ住ス。仍之清長姑ク看板絵ヲ相続セリ。      其縫箔屋ニ忰アリテ、清長門人トナリ清峯トナル。今二代目清満ト改テ三芝居番附絵、看板ヲ画ク。是即      三代清満ガ為ニハ実ノ孫ナリ。        橘守国      これまた町絵なれども世のつねの浮世絵にあらず。世に所伝の絵本通宝志、絵本故事談、謡曲画史、絵本写宝袋      等を見てしるべし。        近藤助五郎清春      赤本、金平本などにあり。正徳、享保の頃なり        三馬按、清春ハ吉原細見記、并ニ芝居狂言本等、自書画ニテアマタ開板セリ。此伝、委クハ別記ニ録ス。          号芳月堂、一号丹鳥斎     奥村文角政信 同利信        江戸通垣町本屋なり。瓢箪の印をせり。漆絵に多し        西川祐信 【号自得斎、一号文華堂、京狩野永納門人ト云】      京都に住す。中興浮世絵の祖といふべし。絵本数多あり。中にも絵本倭比事すぐれたり。        三馬按、続(ママ)称西川右京ト呼リ。号自得斎、又文華堂、京狩野永納門人也と云。        石川豊信秀葩 【西村重長が門人也】      宝暦のはじめ紅絵に多し。小伝馬町旅人宿ゐかや七兵衛といひしもの也。一生倡門酒楼にあそばず。しかるのよ      く男女の風俗をうつせり。一枚絵多し。画本もあり。        鈴木春信      明和のはじめより吾妻錦絵をゑがき出して、今にこれを祖とす。これは其頃初春大小のすり物大に流行して、五      六遍ずりはじめて出来より工夫して今の錦絵とはなれり。春信一生歌舞伎役者の絵をかゝずしていはく、われは      大和絵師なり、何ぞ河原者のかたちをゑがくにたへんやと。その志かくの如し。明和六年の頃、湯嶋天神に泉州      石津笑姿開帳ありし時、二人の巫女みめよきをゑらびて舞しむ。名をお波、おみつといふ。又谷中笠森稲荷の前      なる茶店鍵屋の娘おせん、浅草楊枝や柳屋仁兵衛娘おふぢのゑを錦絵にゑがきて出せしに、世の人大にもてはや      せり。        三馬按、此門人某、橋本町ニ在テ二代目春信ト成、後年長崎ニ至リ蘭画ヲ学ビ、再ビ江戸ニ帰リテ大ニ行ハル。        所謂司馬江漢是也。元祖春信ノ伝、並ニ錦絵ノ事等、別記ニアリ。        富川房信 吟雪      一枚絵草双紙などにあり。つたなきかたなり。        小松屋【俗名三右衛門、後百亀と云】      明和の頃大小のすり物の画、多く小松屋のかけるなり。西川氏の筆意を学びて春画をかけり。元飯田町薬舗なり。      肉蒲団、ぬくめ夜着等の本あり。        勝川春章 又勝宮川とも 弟子【春好、春英】      これも明和の頃、歌舞伎役者の似顔をゑがきて大に行わる。五人男の画を始とす。その頃人形町林屋七右衛門と      いへる者の方に寓居して、画名もなかりしかば、林屋の請取判に壺のうちに林といへる文字ありしをおしでとせ      り。人呼て壺やといひ、弟子春好を小壺といひき。武者をもよく画し也。        三馬按、春章号旭朗斎、一号酉爾、俗称祐助、書画ヲ善ス。門人数多アリ。伝及系図等、委クハ別記ニアリ。        恋川春町 倉橋寿平      自作の青本の絵あり。小石川春日町に居れるゆへ、勝川(添え書き、酒上不埒)春章の名を戯れにかれるなり。        三馬按 二代目恋川春町ト唱タル画工アリシガ、近年改テ二代目歌麿トナル。倉橋春町ト先ノ歌麿トハ、        共ニ鳥山石燕ノ門人ナリ。
     本姓北畠     北尾重政【紅翠斎、花藍、俗名左助、根岸に住す】      弟子       同 政演 【京橋山京(ママ)屋伝蔵、所謂京伝なり。葎斎と云。戯作に名高し】          【◯擁書漫筆ニ岩瀬醒、字ハ田蔵トアリ。本文朱注、恐ラクハ誤ナルベシ、尚後人ノ考ヲ俟ノミ。姓岩瀬、本姓拝田、名田蔵、        字伯慶、号醒世老人、一号山東、江戸深川木場丁産、幼名甚太郎】         同 政美 【杉皐、俗称三次郎、後蕙斎と号、落髪して浮世絵をやめ一種の画をなす。名を紹真ト改】
     重政は近来錦絵の名手なり。男女風俗、武者絵、また刻板の文字をよくかけり。        一筆斎文調 門人 岸文笑【絵冊子ニ此名アリ。狂歌士頭光】      男女風俗、歌舞伎役者画ともにつたなき方なり。        湖龍斎 後に法橋となり浮世絵ヲかゝず      両国橋広小路薬研掘に住せい。是又文調の類也。        三馬按、湖竜斎姓ハ磯田、通称庄兵衛、小川町土屋家ノ浪人ナリ。委クハ別記ニ譲ル。        歌川豊春      近来うき世絵をにしき絵にかき出せり。宝暦の頃のうき世絵にまされり。日本橋に住ス。        三馬按、豊春号一龍斎、俗称庄三郎、但馬屋ト云。伝アリ別記ス。        喜多川歌麿 俗称勇助      はじめは鳥山石燕門人にて狩野家の画を学ぶ。後男女の風俗を画がきて絵草紙屋蔦屋重三郎方に寓居す。今弁慶      橋に住ス。錦絵多し。        三馬按、歌麿門人菊麿、今月麿ト改ム。式麿、秀麿等アリ。二代目歌麿、初号春町、別記ニ伝アリ。        栄こく(ママ) 細田氏      弟子 栄理  栄昌      遊女の姿絵をうつす事妙なり。錦画多し。        国政 中山富三郎似ヲ画テヨリ板下ヲ画ク      歌舞伎役者の似顔をうつす事をよくす。           三馬按、国政俗称甚助、奥州会津ノ産ナリ。此伝別記ス。        写楽      これまた歌舞伎役者の似顔をうつせしが、あまりに真を画かんとてあらぬさまにかきなせしかば、長く世に行わ      れず、一両年にして止ム。        三馬按、写楽号東洲斎、江戸八丁掘ニ住ス。僅ニ半年余行ハルヽノミ。       窪俊満【始北尾重政ニ学ビ、後春章ニ学ブ】      亀井町に住す。狂歌すり物の絵のみかく。左筆也。尚左堂と云。        三馬按、俊満戯作アリ、作名ヲ南陀加紫蘭ト号ス。油通汚、玉菊燈籠弁、其他ノ草双紙四五種アリ。        〈「油通汚」は『舌講油通汚』春町画・安永十年序。『玉菊燈籠弁』は安永九年刊。共に洒落本〉        【古俵屋宗理名ヲ続、二代目】     宗理 寛政十年の頃北斎と改ム 三代目宗理 北斎門人        三馬按、三代目宗理、初ニ宗二ト呼ブ。後年、俵屋ヲ改テ菱川宗理トナル。      これまた狂歌摺物の画に名高し。浅草に住す。すべてすりものゝ画は錦画に似ざるを貴ぶとぞ。        豊国      錦絵をかゝず。墨と紫斗にて彩色のにしき絵をかきはじむ。歌舞伎役者の似顔をもよくかけり。        三馬按、豊国号一陽斎、芝神明三島町ノ産、俗称熊吉、委クハ別ニ記ス。門人アマタアリ。      〈「錦絵をかゝず」は誤記か。「静嘉堂文庫本」は〝錦絵をよくす〟とあり〉       春朗      小にしきなどにあり。草双紙もあり。        三馬按、春朗ハ勝川春章ノ門人ナリ。俗称鉄五郎。後年破門セラレテヨリ。勝川ヲ改メ叢春朗ト云。其後俵屋        宗理ガ跡ヲ継テ二代宗理トナル。後ニ故アリテ名ヲ家元ヘ返シ、北斎辰政ト改ム。其名ヲ門人ニ譲与テ雷信ト        改ム。再ビ門人ニ与テ戴斗ト改ム。此ヲモ門人ニ与テ、当時ハ為一ト改ム。本所ノ産。住居アマタカハレリ。        御用鏡師ノ男也。委クハ別記ニアリ。門人枚挙スベカラズ。        歌舞伎堂      役者似顔のみかきたれど甚しくなければ半年斗にておこなわれず。      〈「甚しくなければ」は「静嘉堂文庫本」は〝甚つたなければ〟とあり〉        春潮      鳥居清長の筆意をよく贋たり。にしき絵、また草双紙多し。        三馬按、春潮浮世絵ヲ廃シテ後、俊朝ト改ム。吉左堂ト号ス。文政四年ノ今尚存ス。長寿ノ人ナリ。伝ハ別ニ        記ス。俗称吉左衛門。        豊広      張まぜ、小サき一枚絵、墨絵などかけり。        三馬按、豊広号一柳斎、俗称藤次郎、当時芝増上寺片門前ニ住ス。寛政ノ末ヨリ草双紙ヲ画ク。当時ニ至ルマ        デ読本ノ挿絵数多画ケリ。伝ハ別記ニ譲ル。
              <以上、大田南畝撰『浮世絵類考』(『浮世絵考証』)   -----------------------------------------------------
      笹屋邦教編 『古今大和絵浮世絵始系』
  -----------------------------------------------------       浮世絵類考追考      ◯菱川師宣伝并系図    菱川吉兵衛師宣、剃髪して友竹と称、始縫箔を以て業として、上絵といふものより画を書ならひて、後一家をなせり。    英一蝶と時を同じうすといへども、十とせばかり前立て世に行わる、按に、師宣は土佐の画風を好み、浮世又兵衛    【岩佐氏】が筆意に傚て一家をなせり、一蝶は狩野家の筆意を以て、師宣の画風により、時世粧を画て一家をなせり、    ともに近世の名画也、一蝶若かりし時、師宣が画風をしたひし事は、四季の絵の跋といふものに、岩佐、菱川が上に    たゝん事を思ひてと、みづからかけるを以て証とすべし、師宣もつぱら印本の板下といふものを画て、板刻の絵本甚    おほし、他国の人、江戸絵と称して板刻の絵をもてあそぶは、此人におこれり、      みなし栗  山城の吉弥むすびも松にこそ  其角〈ママ 山城の吉弥むすびに松もこそ〉            菱川やうの吾妻俤       嵐雪    みなし栗は天和三年の板なり、此比さかりに行たるを見るべし。  
    ◯菱川系図         師宣の血脉、六代ニ至リテゼツス、今養子を以て家ヲ継、房州保田町ニアリ、      是七代目也、女子他ニ嫁シテ生ル、血脉ノ者、今ニ同所他家ニハアリトゾ。  
     洪鐘一口 【周廻七尺、厚サ二寸五分、口広二尺二寸五歩、長三尺五寸】           【房州保田町林海山別願院境内ニアリ】        寄進施主        菱川吉兵衛尉 鐫字如上        藤原師宣入道友竹 予折本一紙をおさむ       元禄七甲戌歳 五月吉日      【已上、房州保田町医師渋谷元竜に問て其実を記す、元竜は菱川の親族也】
      始祖     鳥居庄兵衛清信【門人ニアラザレド、其始師宣ノ画風ヲカキテ、後一家ヲナス元禄ヨリ享保ノ比ノ人】         宮川長春 【モツハラ師宣ノ画風ヲカキタリ。門人ニハアラズ。正徳享保中人。板本ノ画ヲ見ズ】       浮世又兵衛     又兵衛が略伝は、好古日録に見ゆ。按に、一蝶が四季の絵の跋に、越前の産としるしたるを見れば、越前において     成人しとおぼゆ。名字は知る人もなかりしにや、たしかにしるしたるを見ず。     又兵衛が父荒木摂津守、名は村重、家士に重郷【姓氏不知】と云者あり。俗称久蔵、后に内膳と改む。一翁と号す。     狩野松栄門人にて、画をよくす。一説に、又兵衛、始此人を師として絵を学ぶ。後に土佐光信【明応中人】の画風     に倣て一家をなす。世に光信の門人と云は誤也。時代同じからずと云。しかるやいなやをしらず。      ◯大津又平 大津絵 一称追分絵       按に、元禄三年板、東海道分間絵図に、大津、大谷辺仏画いろいろありと記す。むかしは仏画を専らかきて、今の     ごとき戯画はそのかたはら也。飛州の山中に毛坊主といふあり、俗体にて常には農業木樵し、人死すれば導師とな     りてこれを葬す、本尊は石地蔵、或は大津絵の十三仏なりと、本朝俗諺志に見ゆ。余、大津画の閻魔并観音を蔵す、     ともに古書なり、       大津絵の筆のはじめは何仏 はせを     今も仏画を彼地にて売れども、大津絵の画風にあらず。常の仏絵を板刻し彩色したるものなり、本朝文鑑に、浮世     又兵衛は大津絵の元祖云々、此説あまねく人口にはあれど、たしかなる証なし。ふるき浄瑠璃、傾城反魂香と云に、     土佐の末弟浮世又平重興といふもの、大津に住て絵をかきたるよしをつくれり、これよりしてます/\虚説を伝ふ、     或説に、別人に大津又平といふものありてかきはじむ、享保の頃まで其子孫ありしと云々。余、大津の古画、奴の     鑓を把たる図を蔵す。八十八歳又平久吉とかきて花押あり、古雅なるものなり。彼又平が子孫の絵歟、貞享四年板     好色旅日記に云、大津、追分、やつこ鑓持のいきほひのなき絵をうるが大谷云々、鑓持の絵も、ふるきものと見ゆ。     大津絵も浮世絵に類しぬ、浮世又兵衛が事を弁ぜんが為に、是を記す。      ◯浮世絵又兵衛     同  半兵衛     元禄五年板、買物調方三合集覧に、京にて当世絵書、丸太町西洞院、古又兵衛と有、これ等も、岩佐又兵衛が名を     似せたるものなるべし。又これにならわせて、四条通御たびの後、半兵衛とあり。是も京の浮世絵師なり。      ◯雛屋立圃【明暦の頃の人、立圃が伝は諸書に出て人の知る事なれば、つばらにいはず、俗称紅屋庄右衛門】     専ら浮世絵をかきたり。医師中川喜雲作の草紙のさし絵、おほくは立圃なり。許六が歴代滑稽伝に、雛屋立圃は画     を能す、京童といふ名所記自画也云々。上り竹斎の絵も立圃也。      ◯蒔絵師源三郎     元禄三年刻本、人倫訓蒙図彙に、此名あり。西鶴が作の読本さし絵、名をあらわさずといへども、多くは此人の絵     なり。      ◯長谷川長春     京師の浮世絵師也。天和、貞享の比の人歟。好色旅日記に、今の長谷川、よし田が筆にもなるまひとかきたるは此     人の事か。同時、大坂に長谷川典之丞といふあり、これは本絵にて雪舟の末孫といふ。      ◯下河辺拾水     西川祐信と同時、京師の人、絵本板刻のものおほし。     【三馬按、拾水ハ西川ト同時ニアラズ委クハ別記ス】      ◯月岡丹下     名昌信、号雪鼎、一号信天翁、高田敬甫門人。天明六年終于大坂。春画の名人、又印刻の絵本多し。      ◯羽川珍重 沖信     享保中、江戸の人、芝居絵本、吉原細見のさし絵、赤本の絵等おほくかきぬ。      三馬按、珍重門人ニ羽川和元アリ。別記ニ譲リテコヽニイハズ。(以下「ケンブリッジ本」)馬琴翁か燕石雑      志の文を略して云、羽川珍重は武蔵国埼玉郡川口村の人なり。三同(サントウのルビ)と号、本姓真中(マナカのルビ)氏、俗      称太田弁五郎と云。太田は川口の旧名、珍重は画名なり。弱冠より江戸に来つて画を学び(元祖鳥居清信の弟子な      り。後に羽川と改たる歟)享保の頃行る。心ざま老実にして言行を慎み、遊山翫水にも肩衣を脱事なく、其心画に      あらざる日は利の為に筆をとる事なし。又志画にある日は歌舞伎の画看板といへども辞する事なしと。老衰して三      同宜観居士と法号し、宝暦四年七月廿二日葛飾郡川津間の里藤波氏の家に病死す。        辞世 たましひのちり際も今一葉哉      享年七十余歳池の端東円禅寺に葬りぬ。      〈曲亭馬琴の『燕石雑志』は文化八年刊。全文は羽川珍重の項参照。なお『総校日本浮世絵類考』は〔三馬書入〕       として〝附録云、珍重は曲亭翁の伯父のよし〟を載せる〉     ◯懐月堂     享保中人、世事談の内、姓名つばらならず。今おり/\その絵を見るに、懐月堂とのみあり。      ◯おりう     享保中の名画なり。板下をかゝず。略伝、世事談に見ゆ。山崎氏の娘なり。       ◯珉江【元縫箔師、後浮世絵師、五文字の点式、おほく此人の絵なり】     宝暦、明和の頃、職人尽絵本、摺込の彩色を工夫して大いに行わる。      ◯川枝豊信     京師の人。享保十六年板、朗詠狂舞台といふ本の画者なり。      ◯富川房信 吟雪     大伝馬町三丁目、山本九右衛門といふ絵冊子問屋の主人なり。家おとろへし後に絵師となれり。房信の子を長兵衛     と云。板木を摺を業とす。又娘二人あり、兄弟三人共に今存在す。此山本九右衛門は古き本屋にて、貞享板江戸鹿     子にも見ゆ。房信が代に断絶せり。      ◯英一蝶伝并系図     【一蝶が伝諸書に記すを見るに、大に誤る。故に今其実を記す。一蝶は浮世絵師にあらざれども時世の人物をかき、      元師信(ママ)が画風より出たるを以てしばらく浮世絵師に列す】     英一蝶は大坂の産。姓は藤原、多賀氏、父は医師也。一蝶十五歳の時、江戸に来り、狩野安信の門人となれり。名     は信香、一に安雄、俗称を介之進と云、始、朝湖と号す。       翠蓑翁  牛丸【幼名と云は非なり】 暁雲【俳諧の名なり、暁雲堂とも云】       旧草堂 一蜂閑人【後門人にゆづる】 一閑散人 隣樵庵       鄰濤庵 北窓翁等     等の諸号あり。俳諧は芭蕉の門人にして、其角、嵐雪等と友たり。俳諧の名を暁雲と云。和央【一作和央と云しは、     花街におひて呼し名なりとぞ。        (一字未詳)云此年ハ入牢ノ年ナリ三年目ニ流罪ニナル     元禄十一年十二月【元禄八年とするは非なり】呉服町一丁目新道に居住の時、謫せらる、時に歳四十七歳、謫居に     ある事十二年、宝永六年九月【宝永四年とするは非なり】帰郷せり。其後、英【一説花房母の姓也】一蝶と称し、     北窓翁と号す。     享保九年甲辰正月十三日歿、享年七十三歳、二本榎、日蓮宗承教寺塔中顕乗院に葬す、墳あり。       辞世 まぎらかすうき世の業の色どりもありとや月の薄墨の空 一蝶     一蝶に老母一人あり、剃髪して妙寿と云、蝶謫居にある間、蝶が友人横谷次兵衛宗珉が家にやしなわる。正徳四年     三月三十日歿す、顕乗院に葬す。宗珉の居、桧物町に有。        高嵩谷蔵板
    英氏系図之略        (三行の朱筆あり、未詳)         嵐雪撰、其袋【元禄三年板】に一蝶が句あり【此句、其角が花つみに有】        花に来てあはせばほりの盛かな  暁雲        朝寝して桜にとまれ四日の雛  同      自画讃の句あまたあり、枚挙すべからず。
    一蝶に小歌の作おほし。元禄六年板、松の葉にのするしのゝめと云小哥は一蝶の作なり。洞房語園には、みじか夜     の早歌、一名かやつり草と名づけてこれをのせたり。浅草(ママ)舟の賛も、其比ふしをつけてうたひけるにか、松の     葉のはうたの部にのせたり、宝永の比の写本、よし原つれ/\草といふものに、かやつり草などの朝湖が哥こそ、     又あはれなる事おほかんめれ云々。〈編者注『松の葉』は元禄十六年刊〉     或説に、一蝶声よくてみづから小唄をよくうたひけるよし、老人となりても紀国や文左衛門などにつきて、花街に     のみくらしたるとなれば、さもあるべし。    ◯三谷何某、一蝶が謫居より母のもとへおくりし絵を蔵す。謫居の趣きをこまかに絵かきたる也。【横谷宗珉の家に     のこりしものとぞ】
    延宝、天和の頃の一枚絵を蔵せる人ありて見るに、西のうちと云紙一枚ほどの大さありて、おほくは武者絵にて丹     緑青黄土にて、ところまだらにいろどりて、大津絵の今少しふてぎはなるものなり。しかれども絵はみな上古の土     佐風にて甚よし。     画者の名はしるさず。もとより歌舞伎役者、遊女の類の姿をかゝず。元禄のはじめより歌舞伎役者の姿をかきはじ     めて丹とずみといふものにていろどり、宝永正徳の頃までもつぱらにあり。享保のはじめ同朋町いづみや権四郎と     いふ者、紅彩色絵を売はじめ、是を紅絵といふ。それよりいろ/\に工夫し、墨のうへににかはをぬり、金泥をも     ちひてうるし絵といふて大におこなわる。寛延の頃より彩色を板刻にする事を仕はじめて、紅藍黄の三べん摺也。     明和のはじめ吾妻錦絵といふものいできはじめて、今にいたります/\美を尽せり。或人曰、寛文の頃は板刻絵な     く、大津絵のごとくに、いろ/\の武者絵をかき絵にしてうりぬ。板刻になりしは延宝の頃がはじめなるよし。然     るや否をしらす。          享和二年壬戌冬十月記                       近藤正斎       〈大曲駒村校訂の『浮世絵類考』(奈河本助手写本)の付記は以下のようになっている〉    〈ケンブリッジ本の『増補浮世絵類考』(斎藤月岑編・天保十五年(1844)序)も同じく、以下のように山東京伝および蜀山人の署名     が入っている。近藤正斎(重蔵)はなぜ「山東庵」を削除して自分の署名だけ残したのであろうか。2010年2月8日追記〉             享和二年壬戌冬十月記    山東庵  
          右追考 山東京伝手書本             文政元年戊寅六月晦日   七十翁 蜀山人            <以上、山東京伝考証『浮世絵類考追考』   -----------------------------------------------           <以下、由良哲次『総校日本浮世絵類考』が挙げる式亭三馬の書入れ及び按記>       羽川珍重 p85     〝附録云珍重は曲亭翁の伯父のよし〟       奥村文志政房 p99     〝年玉ひまち咄と云稗史に江戸諸々□(ママ)売物其外もらひ流行等の始りを画記し、中に享保十年より初今専ら行はる      ゝと記たる所あり、通町奥村と上は書あり、文角門人奥村文志政房画とあり〟       恋川春町 p126     〝明和の頃より天明の頃まで。天明、病死。鱗形屋孫兵衛方の草双紙を書直し、作の風を改るは此人なり。松平丹後      守家中。絵も又一流新なり〟       写楽 p148     〝三馬按、写楽号東周斎、江戸八町掘に住す、はつか半年余行はるゝ而己〟
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