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「浮世絵の誕生と終焉」浮世絵の誕生と終焉
    (1)浮世絵と浮世絵師の誕生                        加藤 好夫     はじめに      現在、浮世絵は西洋の「UKIYOE」観の影響を受けて時代を超えた普遍性をもっています。葛飾北斎という  名や『北斎漫画』などの版本や「富嶽三十六景 神奈川沖浪裏」などの版画が、世界の美術愛好家の話題か  ら消えてなくなることなど考えられません。   しかしそれらを生み出した下掲のような製作のシステムやプロセスが現在どうなっているかというと、ほ  とんど機能しておりません。そもそも現代において、木版は表現メディアの中心ではなく、銅版・石版など  と同じ版画の一つにすぎません。また複製版画を作る昔ながらの彫師や摺師などはおりますが、歌麿や写楽  のような版下絵師はいませんし、彼らを世に送り出したことで知られる蔦屋重三郎のような版元も存在しま  せん。つまり江戸の「うきよゑ」を生産する仕組みはすでに失われているのです。   一方でもっと時代をさかのぼってみますと、このような製作のシステムやプロセスが鎌倉や室町の時代に  あったとも聞きません。要するに「うきよゑ」には始まりと終わりがあるということになります。   以下、本稿ではその誕生と終焉までを近世の文献を利用してスケッチします。        浮世絵の製作システム  浮世絵の製作プロセス    一 浮世絵と浮世絵師の誕生    A 浮世絵の元祖   浮世絵誕生の時期については、浮世絵の元祖を誰にするかで、変わってきます。元祖には、これまで二つ  の説が行われてきました。一つは、岩佐又兵衛(慶安三年(1650)七十三歳没)説で、これだと17世紀前半  の誕生になります。もう一つは菱川師宣(元禄七年(1694)享年未詳)説で、これだと17世紀の後半という  ことになります。   まず岩佐又兵衛説からみていきます。これは江戸時代からよく行われていた説です。      宝永六年(1709)『風流鏡か池』巻二「夢はすゞりのうみ」独遊軒好文の梅吟作・奥村政信画・江戸   この浮世草子の中で、作者は「うき世絵の品さだめ」と称し、次のような絵師を取り上げてそれぞれ品評  しています。    「中むかし土佐流の人」の絵は「筆かれ過て、人丸の顔骨はなれしを見るやう」   品評「不出来」  「うき世又兵衛と云し絵師」の「小町」は「おとくじやうによく似たる」(注1)  評価「不出来」  「近代やまと絵の開山、菱川と云し名人」の「うつし絵」は「たへなりし筆のあや」 評価(上出来)  「今の鳥井(ママ)奥村など、きさき、官女、むすめ、娵(よめ)、遊女の品をかきわけて、大夫、格子(かう   し)それより下つかた、その風俗(原文ふうそく)をうつし絵は、さりとは絵とはおもわれず、生たる人   のごとくなりし」 品評(上出来)        『風流鏡か池』巻二「夢はすゞりのうみ」(独遊軒好文の梅吟作・奥村政信画)       この「うき世絵の品さだめ」には、「風俗をうつす」浮世絵師の系譜として、土佐派-浮世又兵衛-菱川  -鳥居・奥村といった流れが既に想定されています。ただこの段階では「うき世又兵衛」なる絵師の正体が  まだはっきりとしていません。そして約九年後、それを具体的に記した文が登場してきます。     享保三年(1718)「四季絵跋」英一蝶著・江戸  「近ごろ越前の産、岩佐の某となんいふ者、歌舞白拍子の時勢粧を、おのづからうつし得て、世人うき世又   兵衛とあだ名す。久しく代に翫ぶに、亦、房州の菱川師宣と云ふ者、江府に出て梓に起し、こぞつて風流   の目を喜ばしむ。この道、予が学ぶ処にあらずといへども、若かりし時、あだしあだ浪のよるべにまよひ、   時雨、朝帰りのまばゆきを、いとはざる比ほひ、岩佐、菱川が上にたゝん事をおもひて、よしなきうき名   の根ざし残りて、はづかしの森のしげきこと草ともなれりけり」(注2)        「四季絵跋」(英一蝶跋)      一蝶は、うき世又兵衛を越前生まれの岩佐某の渾名と見なし、この岩佐、菱川の流れを「道」と称して、  自らが学んだ狩野派とは明確に区別しています。そして岩佐・菱川ともに「時勢粧」を「うつす」という点  では共通するとして両者を結びつけます。では「時勢粧」とは何でしょうか。   『日本国語大辞典』によると、「時世粧」「今様姿」とも書くとして、『誹諧時世粧』(松江維舟編・寛  文十二年(1672)刊)の「時世粧」は「いまようすがた」と読み、また浮世草子『男色大鑑』(井原西鶴・  貞享四年(1687)刊)四・一の「時世粧」には「いまやうすがた」のルビがあって、当時流行の歌謡という意  味があるとしています。ちなみにいうと、江戸の方でもこの「時勢粧」は使われ続け、享和二年(1802)刊、  歌川豊国画著・式亭三馬閲『絵本時世粧』では(いまやうすがた)のルビを振っています。また曲亭馬琴も  『燕石雑志』(文化七年(1810)刊)の中で「菱川が画はみなこの頃の時勢粧(ルビいまやうすがた)なり」  と記しています。   岩佐、菱川の流れの最大の特徴が、刻々と変化する当世の姿を画くことにあること、これは既に共通の認  識になっていたようです。     もっとも、菱川師宣を元祖とする説が全くなかったわけではありません。      享保十九年(1734)『本朝世事談綺』菊岡沾涼著・地誌・江戸  「浮世絵 江戸菱川吉兵衛と云人書はじむ。其後古山新九郎、此流を学ぶ。現在は懐月堂、奥村正(ママ)信   等なり。是を京都にては江戸絵と云」      天明七年(1787)『絵本詞の花』宿屋飯盛編・狂歌絵本・江戸  「浮世絵は菱川を祖とし夷歌は暁月を師とす、此ふたつのものは、わざをなじからねど、姿のおかしくたは   れたるかたによれるは、そのさかひめなしとやいふべき」      ただ、この宿屋飯盛(石川雅望)でさえ、文化五年(1808)に成ったとされる自らの『浮世絵師之考』で  は、岩佐又兵衛を巻頭に据え次に菱川師宣を配しています。結局、江戸時代、菱川説は主流になりませんで  した。       『浮世絵師之考』(石川雅望編〔六樹園本・白楊文庫本〕)      しかし何と言っても、岩佐又兵衛元祖説に絶大な影響を与えたのは、寛政年間(1789-1800)の成立とさ  れる大田南畝の『浮世絵考証』(別名『浮世絵類考』)です。   ここで彼は、岩佐又兵衛、菱川師宣の存在の痕跡を古書の中から採取して考証し、前出一蝶の「四季絵跋」  を引用して、これを補助線のように使って、この系譜が従来の画系とは違う独自な流派であることを明示し  ました。そして鳥居・奥村・西川・石川・春信・勝川・歌川等の先駆者の業績をたどり、さらに当世の喜多  川歌麿・栄之・写楽・春朗(北斎)・宗理(北斎)・豊国等の名を連ねて、岩佐~菱川の系譜が彼らにも及  んでいることを明確にしました。南畝はいわば浮世絵の中に特筆するに価するものを認めて、別項を立てた  わけです。このような位置づけは、当時絵師といえば御用絵師の土佐・狩野だということを考慮すると、大  変に画期的なものでした。南畝に、御用絵師をさしおいてまで浮世絵師を高く評価する気持ちがあったとは  思えませんが、結果として「一隅を照らす」一員として浮世絵師の存在を認めることには一役買いました。  まさか本当に「これ則ち国宝なり」になるとは思ってはいなかったでしょうが。       「浮世絵考証」(大田南畝著)     大田南畝は、多彩な交友関係で知られていますが、浮世絵界とも生涯接点を持ち続けた人で、例えば鳥文  斎栄之に自分の肖像を画いてもらったり、松平定信が鍬形蕙斎に依頼して成った『職人尽絵詞』には詞書を  寄せたり、『北斎漫画』には序文を贈ったりしています。そしてまた膨大な量を残した随筆類にも、浮世絵  師等の動向をたくさん書き残しています。   彼は浮世絵が華やかに開花した時代の生き証人でもありました。明和二年(1765)の錦絵の誕生、清楚な  鈴木春信の女絵、勝川春章・一筆斎文調の役者似顔絵、鳥居清長のいかにも清新で伸びやかな天明調の美人  像、そして寛政期の歌麿の円熟した女絵と写楽の奇怪な役者似顔絵等々、これら浮世絵の黄金期というか、  浮世絵の節目節目を間近でつぶさに見てきた人です。   彼の『浮世絵考証』は、その生き証人の考証ではあり、しかも天明狂歌・戯作壇の大御所として知られる  四方赤良の言であり、そして三尺の童でも知らぬものはないという蜀山人の見解でもありました。説得力の  なかろうはずはありません。これに続く人々が南畝の周辺から現れ始めます。   享和二年(1802)には京伝の『浮世絵類考追考』が成り、文化五年(1808)には上掲のように飯盛(雅望)  の『浮世絵師之』が成ります。こうして浮世絵は単なる慰みものであるばかりでなく、考証に価する研究対  象として育っていくことになりました。実にその方面の先鞭をつけたのが大田南畝なのでした。   以降、天保四年(1833)の序を持つ無名翁(渓斎英泉)の『無名翁随筆』(別名『続浮世絵類考』)も、  弘化元年(1844)序の斎藤月岑著『増補浮世絵類考』も、慶応四年(明治元年・1868)成立、竜田舎秋錦  の『新増補浮世絵類考』も、すべて岩佐又兵衛を浮世絵の元祖としています。      徳川幕府が瓦解した明治以降も、この岩佐又兵衛元祖説はとくに問題視されることもなく受け継がれてい  きました。ところが昭和に入って異変が起こります。藤懸静也説です。    「又兵衛の画法を、後の浮世絵の画法に比較すると、浮世絵の法とは違うのであって、浮世絵派の先をなす   ものではない。画材の上からいふても、当世画を画かず、画法から見ても浮世絵の手法のもとをなすもの   ではない。されば又兵衛は浮世絵に関係づけることはできない。況んやその元祖説をや」(注4)      又兵衛と師宣以降のいわゆる浮世絵派との間には画法において連続性が見られない。また題材上でも、又  兵衛は当世画すなわち「時勢粧」を画いていないとして、浮世絵元祖説を否定しました。代わりに、後世の  浮世絵の画法上の始原を辿ってゆくと師宣に行き着くこと、庶民の鑑賞を前提として作画したこと、表現メ  ディアとして版画を重視したこと、菱川派という画系を形成したこと、以上のような論点を根拠として、菱  川師宣を浮世絵の元祖としました。     しかしその後、岩佐又兵衛に関する研究が進んで、藤懸説が否定の根拠とした「当世画を画かず」が、実  は必ずしもそうではなく、又兵衛もまた「当世画」を画いていたと認められるようになり、再び岩佐又兵衛  元祖説が注目されはじめました。かいつまんで言いますと、江戸初期の寛永年間(17C前半)盛んに画か  れた遊里や歌舞伎の風俗画、そして寛文年間(17C中期)の遊女や若衆(役者)の一人立ちの姿絵、これ  らの「時勢粧」を画いた風俗画の中から浮世絵が生まれたというわけです。そしてこの時代伝説的な名声を  得ていた岩佐又兵衛こそ浮世絵の元祖にふさわしいというものです。     (注1)「おとくじやう」は「お徳娘」いわゆる醜女の「お多福」   (注2)「日本の美術1」№260『英一蝶』小林忠著・至文堂・昭和63年刊   (注3)「浮世絵類考 論究・10」「六樹園本『浮世絵師之考』の本文」『萌春』207号 北小路健著   (注4)藤懸静也著『増訂浮世絵』雄山閣・昭和二十一年刊    B 浮世絵の元祖は菱川師宣     さて、本稿は菱川師宣説に立っています。その根拠は大きく分けて三つあります。  1 菱川師宣の絵を「浮世絵」と呼び、また彼を「浮世絵師」と呼んだ人が現れたこと。  2 菱川師宣は版画を重視したこと。  3 菱川師宣の画いた題材が後の浮世絵師にほぼ踏襲されたこと。   以下、順次見ていきます     1 菱川師宣の絵を「浮世絵」と呼び、また彼を「浮世絵師」と呼んだ人が現れたこと。     a「浮世絵」の出現      元禄四年(1691)刊・菱川師宣画・絵本『月次のあそび』の序   「爰に江城のほとりに菱川氏の誰といひし絵師、二葉のむかしより此道に心を寄、頃日うき世絵といひしを   自然と工夫して、今一流の絵となりて(云々)」(注1)      この絵本に出てくる図様は、年始参り・万歳・寺参り・花見・灌仏会・子規・印地切・施餓鬼・十五夜・  重陽・恵比須講・顔見世・師走光景と、正月から師走までの市井の年中行事が画かれています。序者はこう  した市中の人々の営みを画いたものを「浮世絵」と呼んだのでした。どうやら菱川師宣の絵を「浮世絵」と  称した最初の例のようです。   ところでなぜ元禄四年刊の版本を下掲の天和二年(1684)刊の前にもってきたかというと、これには次の  ような事情があります。この『月次のあそび』、実は再刊本で、初版本は『年中行事』の書名で延宝八年  (1680)の刊行とされています。それなら「浮世絵」の初出を延宝八年とすればよいのではないかという議  論も当然起こるのですが、どうもそうもいかないらしいのです。問題はこの序文にあります。この「うき世  絵」という言葉を含んだ序文が初版時からそもそもあったか否かで専門家の判断が分かれているのです。そ  のため今のところ初出年を特定できません。それでとりあえず延宝八年の可能性を残すために前に出してお  いたという次第です。      天和二年(1684)『浮世続絵尽』序・菱川師宣画・江戸  「五月雨のつれ/\にたよりて、大和うき世絵とて世のよしなし事、その品にまかせて筆をはしらしむ」(注1)      この序の年代は確実のようです。ここの題材は、女郎(遊女)若後家・野郎(役者等の女色・男色)で、  いわゆる好色物の人物画ですが、これらを序者は「大和うき世絵」と呼んでいます。これらの題材はこれま  でも画かれてきましたが、おそらく従来のありきたりの言葉では表現しきれないものを師宣の絵に認めて、  序者は「浮世絵」という造語を使ったのだと思います。     なおそれに関連して云いますと、延宝九年(天和元年・1683)刊の俳書『それそれ草』所収の句「浮世絵  や下に生たる思い草」これが「浮世絵」の初出ではないかという指摘があります。(注2)興味深いことに、  この句の「浮世絵」とは春画だとの見解もあります。(注3)そうしますと「浮世絵」という言葉には生ま  れた当初から春画のイメージがつきまとっていたと見てもよいと思います。     その他にも現代の我々に感覚からすると奇異な用例があります。     天和二年(1684)『好色一代男』巻七「末社らく遊び」井原西鶴作・浮世草子・大坂  「扇も十二本祐禅浮世絵」     この扇について、後年、江戸の柳亭種彦は「浮世ぐるひする者の専らもてはやしゝ扇なるべし」と考証し  ています。要するに、浮世狂い(遊女に夢中)に名高いお大臣の持ち物で、時代の最先端をいく宮崎友禅の  超豪華版扇絵、これを西鶴は「浮世絵」と呼んだというのです。   上掲菱川師宣の「大和うき世絵」もこの西鶴の「浮世絵」もともに天和二年刊、すると江戸と大坂でほぼ  同時期に「浮世絵」という呼称が使われたようです。しかし現代の我々の感覚からすると、「友禅が浮世絵」  という言い方は奇妙に感じます。現在、宮崎友禅から「浮世絵」という言葉を連想する人はまずいないでし  ょう。これはどう考えればよいのでしょうか。おそらく時間の経過とともに師宣の絵の方が「浮世絵」とい  う言葉との親和性が強くなっていって、その系統以外の絵を「浮世絵」と呼ばなくなってしまったからだと  思います。時を経るに従って師宣の絵が、あるいは菱川系統の絵が「浮世絵」の呼称を独り占めにしていっ  たのです。その経過については後にもう一度触れますが、やはり菱川師宣の浮世絵の元祖たる所以がここに  もあります。     b「浮世絵師」の誕生     天和三年(1683)『大和武者絵』序 菱川師宣画  「大和武者絵、爰に海辺菱川氏といふ絵師、船のたよりをもとめて、むさしの古城下に、ちつきよして自然   と絵をすきて、青柿のへたより心をよせ、和国絵の風俗、三家の手跡を筆の海にうつして、これにもとづ   いて自工夫して後、この道一流をじゆくして、うき世絵師の名をとれり(云々)」(注1)      これは津の国の闇計(あんけ)という人物の序文です。この人の正体は分かりませんが、菱川師宣を初め  て「浮世絵師」と呼んだ人物のようです。なおこの絵本についても、延宝八年と推定される初版本が存在す  る由ですが、実はこれも上掲『月次のあそび』と同様に序文に問題があり、この序が延宝八年の初版時から  付いていたかどうかをめぐって見解が分かれています。   ともあれ、延宝から天和にかけて、菱川師宣の出現に触発されて「浮世絵」と「浮世絵師」という呼称が  現れたというわけです。師宣を浮世絵師の元祖とする理由はここにあります。    (注1)松平進著『師宣祐信絵本書誌』日本書誌学大系57 青裳堂書店 昭和六三年刊  (注2)諏訪春雄著「浮世絵の誕生」『浮世絵芸術』130号。なお諏訪氏『それそれ草』の刊行を延宝八年と      している。頴原退蔵著『江戸時代語の研究』は延宝九年刊。国文学研究資料館の「日本古典籍総合      目録」は延宝九年跋とする。  (注3)小林忠著「日本のシュンガ」学習院大学のウェブライブラリー「浮世絵の構造」26    2 菱川師宣は版画を重視したこと。     前出の岩佐又兵衛を含む寛永寛文期の風俗画は版画ではなく肉筆です。肉筆は言うまでもなく一点きり。  所有者以外の人が目にすることはほとんどありません。あるとすれば虫干しくらいなものでしょう。   しかし量産可能な木版画ということになると、様子が違ってきます。供給側と需要側と双方に大きなメリ  ットがあります。   一つは量産効果による低価格化です。これで市中の人々の入手ハードルが随分低くなります。評判が上が  ればさらに低価格で供給できます。つまり廉価であるがゆえに新たな購買層の拡大が期待できるのです。   もう一つは板木が版元にとっては資産になるということです。要するに版権の発生です。評判が上がって  増刷すると、版木が利益を生み出します。版を重ねれば重ねるほど利益が上がります。版木は文字通り金の  なる木として、それ自体が売買の対象となりました。   そのうえ次のような相乗効果もありました。供給側は購買層を市井の大衆に定めています。すると商売と  しては、その層が好んで受け入れるものを、常に開拓する必要に迫られます。なぜなら浮世絵師はそれを売  って生活するほかないからです。生活費が保証される狩野や土佐の御用絵師たちとは違い、売れねば生活に  窮します。このせっぱ詰まった境遇が、結果として浮世絵師の旺盛な活動のエネルギー源となりました。錦  絵(多色摺)技法の発明・確立はそのエネルギーがもたらしたものでしょうし、西洋伝来の透視遠近法や精  巧な写生画法を素早く摂取して肉体化したのもそうした境遇ゆえなのでしょう。   そして遊女・役者・相撲絵・武者絵・歴史画・浮絵・風景画・花鳥画・判じ物・開化絵・光線絵等々、浮  世絵は次々とジャンルを拡大してきました。これらは常に何をどのように画いたら人の目を惹くか、あるい  は買ってもらえるかということに敏感であったからこそ必然的に湧いてくる拡大エネルギーだったのでしょ  う。つまり浮世絵に漂うダイナミズムは表現メディアを木板にしたことと大いに関係しているというわけで  す。   浮世絵界は版元・画工・摺師・彫師・草紙屋からなる独特の分業体制の下、大衆の需要に応えるべくして  発展していきます。それもこれも浮世絵界が販路を市中の庶民に求め、市民版画を表現メディアとして選ん  だからにほかなりません。版画を重視した菱川師宣はこの点でも浮世絵の元祖にふさわしいといえます。  3 菱川師宣の画いた題材が後の浮世絵師にほぼ踏襲されたこと。     上掲『月次のあそび』『浮世続絵尽』『大和武者絵』のところでも触れたように、師宣はさまざまな分野  のものを題材として画き続けました。当世の遊郭(遊女)・芝居(役者)・市中の男女の風俗、他にも武者  絵・名所絵・雛形本・花鳥図・浮世草子の挿画・そして春画等々を画きました。これらのほとんどは後世の  浮世絵師たちにも受け継がれていったものです。   一例を挙げましょう。『大和武者絵』には、敦盛と熊谷次郎直実の一ノ谷・宇治川の先陣・忠盛最期・渡  辺綱と鬼・源頼光と四天王の大江山鬼退治・悪兵衛景清と美尾谷十郎の錣引き・巴御前・楠正成と正行別離・  俵藤太大蛇退治などの図様が収録されていますが、これらは奥村政信や北尾政美によって引き継がれたのち、  一勇斎国芳によって「武者絵」という新たな分野が形成されました。   郭(遊女)・芝居(役者)については云うまでもありません、実に明治の半ば過ぎまで、つまり19世紀  後半まで、師宣の題材は後世に至るまで連綿として画き続けられてきました。つまり題材の面からも、師宣  を浮世絵の元祖と見なすことはできるのです。     C「浮世」を冠した言葉の時系列     浮世絵・浮世草子・浮世人形等、「浮世◯◯」という言葉が菱川師宣が登場するあたり、つまり延宝・天  和(1673-1683)から目立つようになります。年次ごとにまとめた一覧が以下にありますので参考にしてく  ださい。       「浮世」を冠した言葉と呼称「浮世絵」の時系列     これらを見渡すと、ポイントが二つあります。    1「浮世絵」とは「浮世」と「絵」の合成語で「浮世◯◯」という造語の一つであること  2「浮世絵」を画く絵師は菱川師宣に限らなかったということ    1「浮世絵」とは「浮世」と「絵」の合成語で「浮世◯◯」という造語の一つであること。   今でこそ「浮世絵」は固有名詞となっていて、浮世絵といえば誰しもが歌麿・北斎の絵を思い浮かべるの  ですが、当初は云うまでもなくそうではありません。   実は「浮世」という言葉を冠した「浮世◯◯」という造語が次々と生まれたのは、17世紀後半期以降の  ことです。実に夥しい数ですが、さしあたって「浮世絵」という言葉が出現する前後を見てみましょう。     どうやら寛永二十年(1643)の「うき世くるひ」の用例がもっとも古いようです。「浮世狂い」には遊女  との色恋に夢中になるという意味がありますから、ここでも「浮世」と「遊女」の強い結びつきが感じられ  ます。   以下、一つ一つその意味について述べる紙幅がありませんので、言葉だけを追ってみます。     延宝年間あたりから「浮世◯◯」の用例が次第に多くなっていくのが分かります。そして先ほど見たよう  に天和初年には菱川師宣の絵に「浮世絵」と「浮世絵師」の名称が与えられます。(初出を延宝八年とする  説もあります。上出「a「浮世絵」の呼称」の項を参照のこと)   さて「浮世◯◯」という形の造語はいったいどれくらいあるのでしょうか。   頴原退蔵博士の「『うきよ』名義考」という論文には、約八十余例が収録されています。そのほとんどが  俳諧やいわゆる井原西鶴の『好色一代男』から始まる「浮世草子」の作品中に見られます。天和から享保  (十七世紀後半から十八世紀前半)にかけての約五十年、発生のほとんどはこの時期に集中しています。  どうやら競って命名したような感がないでもありません。「浮世」という言葉には、後に再度触れることに  なりますが、「最新流行の」という意味合いもありますから、おそらくこの「浮世◯◯」という造語を新た  に作ること自体が当時大いに流行したのでしょう。   ともあれこの「浮世◯◯」、その多くはいつの間にか消滅してして使われなくなってしまいました。ただ  なぜか「浮世絵」と「浮世草子」だけは生き残り固有名詞化しました。もっとも「浮世草子」が日本の近世  文芸の領域内だけで使われるのに対して、「浮世絵」の方は日本を超えてほぼ世界全体で流通するという違  いはありますが。    2「浮世絵」を画く絵師は菱川師宣に限らなかったこと。       まず用例を見てみましょう。     延宝八年(1680)(①『年中行事之図』序 師宣画 江戸・②『大和武者絵』序 師信 江戸)   ①「菱川氏(中略)頃日うき世絵といひしを自然と工夫して」   ②「菱川氏(中略)この道一流をじゆくしてうき世絵師の名をとれり」       ※①の序は元禄四年刊の再刊本『月次のあそび』に付けられたという説あり。また②の序は天和三年刊     の再刊本『大和武者絵』に付けられたという説あり。要するに、延宝八年の段階ではまだ「浮世絵」     「浮世絵師」の用例は存在しないというのです     天和二年(1682)(①『好色一代男』井原西鶴作 大坂・②『浮世続絵尽』序 師宣画 江戸)   ①「扇も十二本祐禅が浮世絵」   ②「大和うき世絵とて世のよしなし事、その品にまかせて筆をはしらしむ」     天和三年(1683)(『大和武者絵』序 師宣画 江戸)   「菱川氏(中略)この道一流をじゆくして、うき世絵師の名をとれり」     貞享四年(1687)   (①『男色大鑑』井原西鶴作 大坂 ②『女用訓蒙図彙』奥田松柏軒編・吉田半兵衛画 京 ③『江戸鹿子』藤田理兵衛著 江戸)   ①「承応元年秋(若衆絵に)浮世絵の名人花田内匠といへる者、美筆をつくしける」   ②「友禅と号する絵法師有けらし、一流を扇にうき出せしかば、貴賤の男女喜悦の眉をうるはしく、丹花     の唇をほころばせり。これに依て、樸(やつがれ)人のこのめる心をくみて、女郎小袖のもやうをつく     りて或呉服所にあたへぬ。それを亦もて興ずるよしを聞きて、書林の某、世にひろめんまゝ新にたく     みてよと望めり。辞する詞なくして、つゐに浮世絵の逸物吉田氏が筆をかりて、粗(ほゞ)かゝしむる     也」   ③「浮世絵師 堺町横町 菱川吉兵衛/同吉左衛門」     元禄元年(1688)(『色里三所世帯』井原西鶴作 大坂)   「菱川が筆にて浮世絵の草紙を見るに」     元禄年間(1688-1703)(『好色濡万歳』 桃の林紫石作 江戸)   「本所の片ほとりに恋川舟思と云うき世絵の名人ありけり」     延宝から貞享にかけて、西鶴は同時代の宮崎友禅の扇絵も、承応年間(1652-55)の花田内匠の若衆絵も、  菱川の絵も同様に「浮世絵」と呼んでいました。また吉田半兵衛の絵を「浮世絵」と呼び、江戸の菱川、京  の吉田とを「当世ぬれ絵かきの名人」と並び称する見方もありました。つまり菱川師宣の絵だけが「浮世絵」  とされたわけではありません。     どんな点から彼らの絵が「浮世絵」と称されたのでしょうか。      花田内匠の人となりについては今ひとつよく分かりませんが、どうやら若衆絵に優れていたようです。い  わゆる衆道(男色)関係の美少年の容姿を画いたものと思われます。ただ承応年間当時、花田内匠の絵が実  際に「浮世絵」と呼ばれていたかどうかははっきりとしません。おそらく西鶴は、若衆の絵柄に名高いとい  うところに着目して、当時出回りはじめた「浮世」を冠したように思います。      宮崎友禅は元禄時代(1688-1704)活躍した染色絵師です。   元禄元年(貞享五年・1688)(『友禅ひいながた』友尽斎清親序・国立国会図書館デジタルコレクション画像)  「宮崎宇治友禅といふ人有て、絵にたくみなる事、いふに斗なく、古風の賤しからぬをふくみて、今様の香   車なる物数奇にかなひ、上は日のめもしらぬおく方、下はとろふぬ女のわらはにいたるまで、此風流とな   れり」     西鶴が友禅の絵を「浮世絵」と称したのは、当代の物好き連中の贔屓をうけ、奥方から女童まで貴賤を問  わず絶大な人気を誇っていた点を評価したのであろうと思います。『友禅ひいながた』には、衣裳の文様・  風呂敷・扇・団扇など、様々な分野の斬新な図案が載っています。したがって、こちらの「浮世絵」は人物  画ではなくて、衣裳の文様や扇・団扇のような持ち物の洗練されたデザインに対する呼称です。     次の「浮世絵の逸物」の吉田半兵衛。この詞書きのある『女用訓蒙図彙』の巻四は小袖の雛形模様が画か  れています。やはり『友禅ひいながた』同様、最新の衣裳デザイン集なのです。そこに「浮世絵の逸物」吉  田半兵衛が画工として起用されたわけです、最新の衣裳模様を画くに、もっとも人気のある浮世絵師を配し  たということなのでしょう。     元禄年間の「本所の方ほとりの恋川舟指」なる人については全くわかりません。ただ草双紙を大人の読み  物にしていわゆる黄表紙というジャンルを確立した安永~天明期(1772-1788)の恋川春町が同じく恋川を  名乗っている点は少し気にかかります。この戯作名は彼の屋敷があった小石川の春日町に由来するとされて  きましたが、倉橋寿平が戯作名ばかりでなく浮世絵師としても恋川を名乗ったのには、遠く元禄の浮世絵師・  恋川を意識した可能性が全く無かったとも言い切れないような気もします。あくまで推測ですが。      ともあれ「浮世絵」の呼称は、それが出回った当時は菱川絵以外にも使われていたわけです。それが時を  経るに従って菱川絵と浮世絵の組み合わせが有力になっていきました。それに比べて「花田内匠」や「宮崎  友禅」や「恋川舟思」と「浮世絵」の組み合わせは単なる一過性のものあったようで、天和・貞享・元禄以  降も使われた形跡はありません。ただ吉田半兵衛の場合は菱川師宣と並び称せられてしばらく使われていた  ようです。しかしこれも次の用例あたりを最後に見かけなくなります。     宝永七年(1710)『寛濶平家物語』京(『古画備考』より「浮世絵師伝」「前書き」)  「板行の浮世画を見るにつけても、むかしの庄五郎が流を、吉田半兵衛学びながら、一流つゞまやかに書い   だしければ、京大阪の草紙は半兵衛一人にさだまりぬ。江戸には、菱川大和画師の開山とて、坂東坂西此   ふたりの図を、写しけるに」     この後の享保以降になると、西川祐信・鳥居清信・奥村政信と「浮世絵」の組み合わせが多くなっていま  すきす。無論「菱川」と「浮世絵」の組み合わせは相変わらず使われ続けます。生前も死後も画名と「浮世  絵」がワンセットになって使われ続けたのはおそらく菱川師宣だけでしょう。この点から云っても、師宣は  浮世絵の元祖たるにふさわしいのです。  D「浮世」の意味      前述のように「浮世絵」とは「浮世」+「絵」ということになりますが、それではこの「浮世」にはどの  ような意味があるのでしょうか。      文化七年(1810)『燕石雑志』飯台簑笠翁(曲亭馬琴)著 随筆・江戸  「菱川が画はみなこの頃の時勢粧(ルビいまやうすがた)なり」     「時勢粧」は「ジセイノヨソオイ」とも読みますが、これは浮世絵の漢語的表現。馬琴によれば、菱川師  宣の絵はみな当世の諸相を写した浮世絵だというのです。     文化十一年(1814)『骨董集』山東京伝著・考証随筆・江戸  「昔はすべて当世様をさして浮世といひしなるべし」(文化11年(1814)刊)      これも馬琴と同様、山東京伝も「浮世」とは当世様と同じで現代風の意味だとします。      文政九年(1826)『柳亭記』柳亭種彦著・随筆・江戸  「浮世といふに二ツあり。一ツは憂世の中、これは誰々も知る如く、歌にも詠て古き詞なり。一ツは浮世は   今様といふに通へり。浮世絵は今様絵なり」       種彦によれば「うきよ」には二つの意味がり、一つは「憂世」、つまり辛く切ない世、あるいは空しくは  かない世という意味の「憂世」と、もう一つは「今様」、これは京伝のいう「当世様」と同様で現代風、当  代の流行の最先端といった趣きのある言葉です。     「浮世」という言葉には、「当世」つまり現代という意味と、例えば「浮世小紋」や「浮世模様」のよう  に「現在流行の」とか「現在評判の」といった意味あいとがあったようです。つまり「浮世絵」とは、現在  もっとも流行しているもの、あるいは現在とりわけ評判高いもの、それらに注目して画いたものということ  になります。不易流行という言葉を使うと、不変を象徴する常緑の松や能などによっていつの世にも再生し  てくる故事古典の世界は、狩野や土佐の伝統的な流派の専任領域だと敬して遠巻きに眺めるばかり、注文さ  れれば画くこともありましょうが、やはり浮世絵師は尽きることなく変転する当世の流行を画くことに全力  を傾けるというのです。   では江戸時代、最先端の流行が絶えず生み出されるところはどこか。云うまでもなく、それは江戸の吉原・  深川のいわゆる遊里や、中村・市村・森田の歌舞伎の三芝居、ともに悪場所と呼ばれるところに他なりませ  ん。したがって、当世の流行を専ら追跡する浮世絵が、あるいは時には流行の先駆けさえする浮世絵が、遊  女や役者に注目するのは当然なのであります。     これについて明治期の坪内逍遥が大変興味深いことをいっています。  「わが徳川期の民間文芸は、かつて私が歌舞伎、浮世絵、小説の三角関係と特称した、外国には類例のない、   不思議な宿因に纏縛されつつ進化し来つたものである。或意味においては、この三角関係が三者の発達上   に有利であったともいえるが、わが文芸をして遊戯本位の低級なものたらしめたのは、主としてこれがた   めだ。というのは、この関係は、正当にいうと、更に狭斜という一網を加えて、四角関係と見るべきもの   で、随ってわが徳川期の野生文芸は、その勃興の初めから、その必然の結果として、ポオノグラフィーに   傾くか、バッフンネリーに流れるか、少なくともこの二つの者に幾分かずつ感染せないわけにはゆかない   宿命を有していた。つまり題材も、趣味も、情調も、連想も、理想も、感興も、主として狭斜か劇場かに   関係を持っていて、戯作(文学)と浮世絵(美術)とは、これを表現する手段、様式に外ならなかったの   である。前にいった如く、この四角関係は、或時代までは、互いに相(アイ)裨(タス)けてその発達を促成した   気味もあったが、後にはその纏脚式の長距離競走が因襲の累いを醸して、千篇一律の常套に堕し、化政度   以来幾千たびとなく反復して来た同じ着想、同じ趣向のパミューテーションも、維新間際となっては、も   う全く行き詰りとなってしまった〟(注)     (注)「新旧過渡期の回想」坪内逍遙著『早稲田文学』大正十四年二月号(『明治文学回想集』上)   〈「狭斜」は色町。具体的には幕府公認の吉原(公娼)や深川など江戸市中に点在する岡場所(私娼)バッフンネリー    (buffoonery)は品のない道化(おどけ)、パミューテーション(permutation)は並べ替えの意味〉      坪内逍遥によれば、近世における戯作(文学)・浮世絵(美術)・歌舞伎(芝居)・狭斜(遊里)のそれ  ぞれは切っても切れない四角関係にあり、戯作や浮世絵は劇場や狭斜を表現する様式に他ならないというの  です。その中でも浮世絵は他の全ての領域と深い関係を持っています。役者似顔絵・死絵・芝居番付・劇場  絵等で芝居と繋がり、遊女絵で遊里と繋がり、草双紙(黄表紙・合巻)・読本・人情本・滑稽本・咄本の挿  絵担当で文学とも強い繋がりをもっています。浮世絵はまさに江戸から明治にかけて、実に二百年以上にも  亘って四角関係の一翼を担い続けました。菱川師宣にしても遊里・芝居は云うまでもありません、また井原  西鶴の浮世草子『好色一代男』の挿絵も担当していますから、文学との繋がりもありました。これまた菱川  師宣の元祖たる所以です。     さらに付け加えて「わが徳川期の野生文芸は、その勃興の初めから、その必然の結果として、ポオノグラ  フィーに傾くか、バッフンネリーに流れるか、少なくともこの二つの者に幾分かずつ感染せないわけにはゆ  かない宿命を有していた」とも言及しています。それを証するかのように次のような記述も残されています。     貞享年間(1684-7)(『諸国此比好色覚帳』作者未詳)   「当世ぬれ絵かきの名人、お江戸のひしかわ、京の吉田半兵衛」     元禄八年(1695)(『好色とし男』作者未詳(二・一))   「菱川、吉田が浮世枕絵有程ひろげて、爰な男はかつかうよりもち物がちいさいの」      元禄十五年(1702)(『当世誹諧楊梅』調和・其角等の点)   「浮世絵もまづ巻頭は帯とかず」     菱川師宣も吉田半兵衛もともに当代きっての春画の名人として鳴り響いていたのでしょう。その彼らの画  くものを「浮世絵」と称したわけですから「浮世絵」という言葉の中には春画のイメージが最初から付きま  とっていたものと思われます。   これに関しては、頴原退蔵博士の「『うきよ』名義考」も、「浮世絵が単に美人画、若くは遊女役者の姿  絵を意味するだけでなく、屡々秘戯画の意として用ひられて居る」として、「浮世絵」が「春画」のイメー  ジと強く結びついていることを指摘しています。     頴原退蔵博士によれば、そもそも「浮世」という言葉自体には、「当世」「流行」といった本来の意味あ  いのほかに「色気」とか「享楽的」「好色的」とかいう意味あいが認められるし、あるいはもっと露骨に  「遊女」や「野郎」をさす言葉として使われている場合もあるといいます。   付け加えて云うと、元禄二年の「浮世絵人形」には「その下半身の服を取ると性器が現れる仕掛けがして  ある」ともありますから「浮世」という言葉には「猥ら」という意味合いさえ含まれているらしいのです。
    「浮世」を冠した言葉と呼称「浮世絵」の時系列     いづれにせよ、菱川師宣の絵に上述のような多義的な意味合いをもつ「浮世」が結びついて「浮世絵」と  呼ぶことになったわけです。それとともに「浮世絵」出現の当初から「好色」「猥褻」といったイメージも  また運命として背負うことになりました。現代でも浮世絵というと、春画を連想する人が未だに多いのです  から、これはまだまだ引きずっているに違いありません。     以上「浮世絵」と「浮世絵師」という言葉の誕生の様子を見てきました。延宝末あるいは天和初年にかけ  て、まず菱川師宣の絵に「浮世絵」の呼称が使われます。その後、斬新なデザインで人気のあった宮崎友禅  扇や衣裳の図様にも「浮世絵」という名称が使われましたが、結局のところ、菱川の当世絵と「浮世絵」と  の組み合わせが分かちがたく結びついていって、菱川系統の絵以外に「浮世絵」の呼称を使うことは絶えて  なくなってしまいます。こうして「浮世絵」の呼称の方は「春画」や「好色」「猥褻」のイメージさえを内  包しながらも次第に流通していったのですが、「浮世絵師」という呼称のほうはそう単純ではありませんで  した。菱川師宣たちいわゆる浮世絵師は、自分たちが画く絵を「浮世絵」と認めることはあっても、自分た  ちが「浮世絵師」と呼ばれることには少なからぬ抵抗感も持っていたようです。この「浮世絵師」という呼  称が定着するまでの曲折は、次回に回します。                                           2016/07/29     次回 (2)浮世絵の誕生と終焉 -浮世絵派の確立と呼称「浮世絵師」の曲折-  
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