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「浮世絵の誕生と終焉」浮世絵の誕生と終焉
  (3)浮世絵の終焉 -明治期 浮世絵の終焉 5-(完結編)       加藤 好夫  J 工芸品から美術品へ   明治二十三年(1890)十二月、『美術世界』という木板彩色摺の美術雑誌が春陽堂から出版されました。発  行人・春陽堂主人和田篤太郎の「美術世界発行の主意」によると、この雑誌の目的は前年十月に創刊された  「絵画雑誌の王にして美術海上の灯明台」たる『国華』と同様、「美術の大光明を発揮して」「後進に意匠  修練の模範」を示し、ひいては「絵画の大進歩」を促進すことにあると云います。ただその方法は『国華』  とは異なり、収録作品は流派・新古を限らず「現存諸名家の新図」をも加え、また「我誌は石版銅販等を用  ゐず」としました。これは、古美術中心で口絵は木板でも挿絵にはコロタイプを駆使する『国華』との違い  を意識したものでしょう。   参考までに「美術世界発行の主意」全文と第一巻から第二十五巻(明治27年1月刊)までの目次を以下示   しておきます。(注1)     美術世界(美術世界発行の主意・全巻の目次・また絵師名を収録作品の多い順に並べてあります)   絵師の顔ぶれは、古画では十二世紀の鳥羽僧正(覚猷)から、二十世紀・昭和年代の絵師、浮世絵関係で  いえば小林永興まで、約百有余名、実に沢山の絵師が登場してきます。江戸時代の絵師では、円山応挙や英  一蝶・尾形光琳・松村呉春・岩佐又兵衛・英一蝶・与謝蕪村・渡辺崋山等と肩を並べて、次のような浮世絵  師の作品が収録されています。(※数字は全25巻中収録された巻の数)   故人   11 葛飾北斎    6 河鍋暁斎  喜多川歌麿〈明治22年4月没〉    5 宮川長春  奥村政信    3 菱川師宣    2 鳥文斎栄之 歌川豊国 立斎広重 大石真虎    1 鳥居清信  西川祐信 鳥居清満 勝川春章 菊川英山 渓斎英泉 歌川国芳      堤等琳   高嵩谷         現存    3 月岡芳年 水野年方〈芳年は明治25年6月没   また浮世絵の製作システム内の修行を経ない絵師で、明治期、浮世絵を画いた絵師は次の通り。      菊池容斎門下   18 渡辺省亭(25巻に個人特集)   15 三島蕉窓    5 松本楓湖    2 鈴木華邨 武内桂舟      小林永濯門(狩野派)   10 小林永濯〈明治23年5月没〉    3 富岡永洗    1 小林永興     浮世絵の製作システム   これらの絵師と収録作品の選定に当たったのは、編集者の渡辺省亭と出版元の春陽堂主人・和田篤太郎で  しょうが、序文を寄せた岡倉天心の意向も、どの程度か分かりませんが、反映しているものと思われます。  北斎・暁斎・歌麿・長春・政信・師宣はさすが入るべくして入っています。永濯が北斎に次いで多いのは、  狩野派で修行したことが、生粋の浮世絵師にはない品の良さを、彼の浮世絵にもたらして、それが明治の人  々の好みに合っていたからなのでしょう。なおこの『美術世界』で一番収録数の多い絵師は実は菊池容斎で  した。これはおそらく、この雑誌の編集者が容斎門下の渡辺省亭ですから、自らの師の画業を讃えるととも  に、明治の浮世絵画壇における影響力の大きさを表そうとしたのであろうと思われます。   さてここではポイントを三点あげます。   一つ目は、いわゆる浮世絵を美術として捉え、日本絵画の一分野として認めようという機運が定着し始め  たことです。むろんこの『美術世界』の出版以前からこうした機運は高まっていました。  「第四区ハ菱川宮川歌川長谷川派等ナリ。所謂浮世絵ニシテ善ク時態風俗ヲ写シ当時ノ情景ヲ想像セシムル   ニ足ル。品位気格ノ高尚ナルハ固ヨリ望ムベキニアラズト雖モ亦本邦一種ノ画技トシテ往々美術上ニ裨補   スル所ナキニアラズ」(注2)   これは明治十五年(1882)農商務省が主催した「内国絵画共進会」の審査報告の中の一節です。展示場の陳  列区画は、第一区が土佐派、第二区が狩野派、第三区が南宗・北宗及びその合派、そして第四区が「所謂浮  世絵」、第五区円山・四條派、第六区は諸家の長所を集めて一風をなすものとなっています。   浮世絵関係絵師は次の通りです。(詳細は下掲「内国絵画共進会」を参照ください)   第二区:狩野派 河鍋暁斎   第四区:歌川派 芳春・周延・周春・芳藤・豊重(国松)・年晴・周房・広重(Ⅲ)・広近・周重(以上東京)           芳瀧(銅印受賞)・芳国・芳景・芳秋・広信(以上京都)・芳光(大阪)           芳輝(群馬)・国信(千葉)・松香(秋田)       鳥居派 鳥居清満(東京)   第五区:円山派 渡辺省亭・柴田是真・鈴木華邨 久保田米仙(北宗派)   第六区:芳年・月耕     内国絵画共進会(明治15年開催)(注3)     第四区の浮世絵を「品位気格ノ高尚ナルハ固ヨリ望ムベキニアラズ」としながらも、本邦美術を補う日本  画の一分野として認めようというのです。(注1)   また明治二十三年(1890)第三回内国勧業博覧会が開催されます。そのときの出展者と受賞者は次の通り。     博覧会(明治)(明治23年「第三回内国勧業博覧会」の出展者・受賞者名簿)〈本HP「浮世絵事典・は」の「博覧会」所収〉   そしてその当時文部省の審議官であった岡倉天心は、この報告書の中で浮世絵の意義を次のようにのべて  います。  「浮世絵ハ従来ノ如ク子女児童ノ状態ヲ艶麗ニ写シ出スノミナラズ、古来ノ絵巻物ノ如ク現在ノ風俗及ビ事   跡ノ記録タラザルベカラズ」(注4)   人物のあでやかな美しさを表現するのみにとどまらず、現在の風俗や出来事を後世に伝える役割を浮世絵  に期待するのでした。   内国絵画共進会は農商務省の主催、内国勧業博覧会は政府主催。ですからかたちの上では、日本政府が国  をあげて、浮世絵を美術品として認め、なおかつ日本絵画の一分野として位置づけようというわけです。   これは次のような江戸町奉行の姿勢とは非常に対照的です。天保十三年(1842)六月の町触れにはこうあり  ます。  「錦絵と唱、歌舞伎役者遊女女芸者等を壱枚摺ニ致候義、風俗ニ拘り候筋ニ付、以来開板は勿論、是迄仕入   置候分共決て売買致間鋪」(注5)   幕府が市中の風俗を乱すおそれがあるとして禁じた錦絵を、新政府は「古来ノ絵巻物ノ如ク現在ノ風俗」  を記録したものとして受け入れようというのです。もっぱら道徳的な見地から浮世絵を見た町奉行と、美術  的あるいは史料としての観点から浮世絵を見ようとする新政府との違いということでしょうか。この浮世絵  観の変化には、西洋経由で高まる浮世絵の評価や、明治十七年以降、岡倉天心を助手として、全国の古美術  の調査に当たったアーネスト・フェノロサの浮世絵観なども反映しているものと思われます。浮世絵をその  方たち町人のものとして一線を画す江戸幕府に対して、新政府は日本の美術という観点から浮世絵を評価し  ようとしています。この観点の差は歴然です。こうして浮世絵に対する眼差しは明らかに変わりました。   こうした動きは次第に民間にも及び始めます。  「浮世絵は絵画中の一派となり。土佐狩野南北派の外に立ち、或は市画などゝ唱へ之を鄙(いやし)めるの風   あれども、しかれども此の絵は時世の風俗を写すに於て、欠くべからざるの一法なり」(注6)   浮世絵を町絵として卑賤視する雰囲気はあるものの、やはり土佐狩野等の諸派とは別に一派として認めよ  うというのです。とはいえ、自らはあまりかかわりを持ちたくないという江戸町奉行と同様の風潮が、民間  にも根強くありました。前出のように、浮世絵を日本画の一分野として位置づけようとする農商務省の博覧  会掛りですら「品位気格ノ高尚ナルハ固ヨリ望ムベキニアラズ」と云わざるをえませんでした。まして民間  人の言はもっと辛辣でした。  「第三回博覧会に於いても美術部に編入の栄を得たるに抅らず、出品者は僅かに五六名に止り、而かも美術   館に陳列せられたるものは二名に過ぎず、他はみな工芸部に陳列せられたる如きも、畢竟品位の卑下なる   が為なり」(注7)   これは第三回の内国博覧会における評価。浮世絵を美術として認めるにしても「品位の卑下」に言及せざ  るを得ないという抵抗感めいたものが潜んでることは間違いありません。余談になりますが、この種の抵抗  感には案外根深いものがあって、大正元年(1912)、内田魯庵などはこう憤慨しているほどです。  「我々の眼からは十銭か十五銭の価しかない錦絵が欧羅巴(ヨーロッパ)では何十円、何百円もしてゐる(中略)   しかし此の如き浅薄野卑な江戸趣味の錦絵が、日本文明を代表してゐると思つて有頂天になつてゐる日本   国民は腑甲斐ない話だ」(注8)   ともあれこうした相反する眼差しもあるなかで『美術世界』が生まれました。北斎を筆頭とする浮世絵師  の作品を美術として認め、雪舟・応挙・一蝶らと比べるに価すると高く評価し、浮世絵を日本画の一分野と  して位置づけようという姿勢もまた明確でした。   二つ目は、木版手摺を美術作品を生み出す技術として捉えたという点です。  「我誌は石版銅販等を用ゐず。是絵画の進歩を計ると共に我邦特有の木版術の進歩をも計らんが為なり」   (注1「美術世界発行の主意」)   明治二十年代になり、表紙や口絵に石版などが進出してきたとはいえ、高度に洗練された彫り摺りの木版  技術はまだまだ健在でした。事実前年出版の『国華』はこの技術の高さに着目して古美術作品の精巧な複製  を行いました。ですから同誌の精密な口絵は当時の彫り摺り技術の結晶なのです。   一方『美術世界』の方はこの高度な技術を『国華』とは別な方面に使いました。「主意」に曰く、  「現存諸名家の揮毫を乞ひて掲載す。是は後進に意匠修練の模範をなす為なれば、毎帖必ず新図を乞ひ、旧   套踏襲の画を容れず」(注1)      つまり現存する名家の新図を掲載するという立場をとりました。むろん古図の複製もしましたが、あくま  でオリジナルにこだわったわけです。   注目すべきは、これらの雑誌を出した版元が、今まで民間向けの出版をほぼ独占してきた地本問屋ではな  く、春陽堂(明治11年創業)や国華社(明治22年創刊)といった新興の版元であったという点です。あきらか  に地本問屋系統の版元の出版意欲は低下し、企画力は衰退してしまいました。というのも、明治二十年代に  なってもなお彫り摺りの名人がいたことは、地本問屋系統の版元には十分に分かっていたはずです。にもか  かわらず、その人々を活用して新しい分野を開拓しようとはしませんでした。もちろん、芳年の『月百姿』  (明治18~24年刊)を出した滑稽堂・秋山武右衛門や、周延の『千代田の大奥』(明治27-29年刊)を出した具  足屋・福田熊次郎のように、なおエネルギーを失わない版元もまだいたわけですから、錦絵を出版する版元  のすべてが意欲喪失というわけではないのでしょうが、よそ目には甚だ無気力に見えていたのです。  「都下錦絵営業者は眼前の利欲に眩惑し、只管(ひたすら)田舎向きの安物を製し、絵様は如何にあるとも彩   色は如何にあるとも頓着せず。金銀箔の如きもマガヒの洋箔或は錫ハクを用ひ、一時を瞞過するの風行は   れ、其弊今日に至りて極りたるなり(中略)今日の錦絵は徒らに新奇を衒ひ軽薄に流れ、一寸見には美麗   の様なれど固(もとも)と彩色も其当を得ず、図様も択ぶ所を失し見るに足るべきもの少なし」(注7)     これは明治二十三年の記事です。不十分な下絵に当を得ない彩色、単価を抑えようとするあまり、安易に  流れてしまう版元も多かったのです。繰り返しになりますが、前回引用した明治二十九年(1896)の高村光雲  の言を再び参照します。  「注文主たる板元最も昔と相違せり、近くは三代豊国の存せる頃までは、其の注文主たる板元は、自身に下   図を着け、精々細かに注文して、其の余を画工に委すの風なりしが、今は注文者に寸毫の考案なく、画工   に向て何か売れそうな品をと、注文するのが常なり、随うて画工も筆に任せてなぐり書きし、理にも法に   も叶はぬ画を作りて、識者の笑ひを受くるに至る」(注9)   いくら彫り摺りの名人がいたとしても、版元がこの姿勢では、その技倆を充分に発揮することはできませ  ん。そこに高度の木板技術があることを知りながら、その活用を図る版元が、地本問屋系統からはほとんど  いなくなってしまったのです。この時代、摺りの名人に、地図を洋紙に印刷させたり、商品のレッテルを摺  らせたりしたという悲惨な話も伝わっています。(注10)   地本問屋系統の版元には、春陽堂主人和田篤太郎のような意欲的な人が現れなかったのでしょうか。それ  とも木板の将来に見切りをつけたのでしょうか。あるいはそうであったのかもしれません。   ただその春陽堂にしても、国華社同様木版専門ではありません。この頃の出版社にとって、木版は銅販・  石版・コロタイプなどと同様、選択すべき印刷術の一つという位置づけなのです。     三つ目は、従来の浮世絵製作システム圏内で修行した絵師が芳年とその門下の年方二人しかいないという  点です。明治二十三年(1890)当時、浮世絵を画く絵師はほかに永濯・永洗・永興、省亭・蕉窓・楓湖・華邨・  桂舟、そして尾形月耕・小林清親らがいます。しかし、永濯は狩野派、省亭らは菊池容斎門、月耕と清親は  独学と、いずれも浮世絵製作システム圏外で修行を積んだ絵師たちです。つまりこの頃、浮世絵を画く絵師  の多くは浮世絵製作システム圏外からの参入者で占められていたのでした。   もっともその芳年にしても立場は微妙で、たしかに国芳の弟子ですから、浮世絵製作システムから生まれ  出たには違いありませんが、しかしそこに止まりませんでした。明治十五年(1882)の内国絵画共進会の出展 状況をみると、上出のように芳年と尾形月耕は第六区に出展しています。   この第六区とは「諸家ヲ綜攬シテ其所長ヲ極メ、別ニ体面ヲ開クモノ」のグループです。(注2)   独学で一家をなしたとされる尾形月耕はまさにこれに該当します。しかし芳年は、歌川派の多くが第四区  に出展しているにもかかわらず、敢えて第六区を選んでいます。おそらく芳年には、明治の新しい世相・風  俗を画くためには、浮世絵製作システム圏内の修行だけではもの足りないから、様々な方面に学んだという  自覚があったのかもしれません。(注2)   ついてに云うと、この時の芳年の作品は「保昌保輔図」と「風神」の二図、その内「保昌保輔図」が、翌  十六年、滑稽堂・秋山武右衛門が錦絵化した「藤原保昌月下弄笛図」(三枚続)の元になった図に相当します。     藤原保昌月下弄笛図(東京国立博物館)    (落款「明治十五壬午季秋絵画共進会出品図 藤原保昌月下弄笛図応需 大蘇芳年写」)   ただし審査官の第六区出品作品に対する評価は手厳しく「寥々トシテ曾テ傑出ノ者アラズ」「多クハ駁雑  ニシテ拠ル所ナク、濫(みだり)リニ一派ノ名ヲ下スモノニ過ギズ」と歯牙にもかけない口調です。(注2)     ともあれこれらは浮世絵製作システムにおける絵師養成能力の低下を物語るのでしょう。美術と呼ぶに価  する浮世絵を画くことが出来る絵師、例えば歌麿や北斎のような絵師を、浮世絵製作システムはほとんど輩  出できなくなってしまったのです。事実、幕末から明治にかけて絶大な勢力をほこった歌川豊国(初代国貞)  系統の絵師たちは『美術世界』には皆無です。具体的にいうと、上掲明治十五年の内国絵画共進会第四区の  周延等の歌川派の絵師たち、彼らの名は全く見えないのです。     さてこの『美術世界』、明治二十四年(1891)・二十五年と月に一巻のペースで順調に推移し二十三巻まで  こぎつけましたが、二十六年になると変調をきたして十月の二十四巻一冊のみ、そして二十七年の正月の二  十五巻一冊を最後にとうとう廃刊となりました。和田篤太郎は、二十四巻の紙上に、次巻を以て終刊とする  旨の文を載せていますが、そこには「発兌の部数(中略)相伴はず。初巻発行の当時より引き続き御購入被  下候諸君三千有余の外には、巻を積み巧を重ぬるの今日に至りてもさしたる増加を見ず」とありますから、  採算上の問題で廃刊を余儀なくされたものと思われます。(注1)  K 終焉   浮世絵の終焉とは、版元・作者・画工・彫師・摺師からなる分業体制、いわゆる浮世絵の製作システムの  崩壊にほかなりません。いうまでもなくこの崩壊は一挙に起こったわけではありません。   最初の兆候は活版印刷の導入から始まりました。これまで合巻等の版本や絵入りの新聞は、文と挿絵が一  体化していましたが、以降は文が活版、挿絵が木板というように分離します。これで筆耕の仕事はほとんど  なくなりました。また印刷も手摺りから機械式へと次第に移行してゆきます。今度は彫師と摺師の仕事は少  なからず失われました。明治の十年代のことです。   読本・人情本の書き手は幕末には絶え、新聞ネタなどを再利用して何とか凌いでいた合巻の方も、十年代  後半になると、読者がうんざりしたのか、全く出版されなくなります。そして、明治十八年(1885)には高畠  藍泉(柳亭種彦三世)、翌十九年には染崎延房(為永春水二世)とあいついで亡くなり、明治二十三年には仮名  垣魯文が文壇から身を引いてしまいます。(魯文は同二十七年没)彼らは生粋の江戸戯作者でした。それが  明治二十年に入るとたちまち消滅したわけです。画工に下絵を与えるのを当然視してきた書き手がいなくな  ったわけですから、これまで彼らの下絵を頼りに作画してきた画工たちは仕事を失います。こうなると押絵  や凧絵などといった量産品に生活の糧を求めざるを得なくなりました。   版画の行く末も同様です。前回引用した高村光雲の言を再び引きますと「三代豊国の存せる頃までは、其  の注文主たる板元は、自身に下図を着け、精々細かに注文して、其の余を画工に委すの風なりしが、今は注  文者に寸毫の考案なく、画工に向て何か売れそうな品をと、注文するのが常なり」といった具合ですから、  自ら下絵を考案する才覚のない画工は、先輩の図様を取っかえ引っかえ使い回しするほかはありません。こ  れでは「東錦といふ江戸絵なるものは、単に玩具屋の附属品となり、終に美術としての価値なきに至るべし」  と敬遠されるのは当然のことです。こうして次第に木版は斜陽化が進みます。    「二十七、八年の日清戦争に、一時戦争物の全盛を見せたのを境にして段々店が減って行った。役者絵は何   といっても写真の発達に抗し得なかったろうし、出版の戦後目覚ましい進展を見せて来たことと、三十四   五年に絵葉書の大流行が旋風のように起って、それまでどうにか錦絵を吊るし続けていた店も、絵葉書に   席を譲らなければならなくなった」(注11)  「絵葉書の流行は、今極点に達している。市中どこへ行っても、絵葉書を売る店がある。絵葉書専門の雑誌   も数種ある。絵葉書を附録に附けている雑誌も多い。よく売れるのは、やはりコロタイプ版の美人などで、   上方屋ではモデルを雇うて撮影し、各種の絵葉書を出して、巨万の富を致した。輸出せられる絵葉書も相   当に多いが、これは美人よりも、風景物の方が喜ばれている」(注12)   絵はがきの流行は明治三十年代。この頃になると、木版手摺りという印刷技術は、大量生産の主役からす  べり落ち、完全に脇役へと押しやられたのです。   a 激変する環境   さて、明治三十年代になると、浮世絵師の置かれた環境は一変してしまいました。従来の延長上にあるよ  うな大量生産の錦絵(役者絵や名所絵)にもう活路はありません。   今彼らの眼の前にあるのは、明治になって台頭してきた新聞や雑誌の挿絵・口絵の専属画工です。下掲の  「明治新聞挿絵画工一覧」や「新聞小説挿絵年表」、あるいは雑誌と単行本の「挿絵年表」や「口絵年表」  を見ても分かるように、新聞の挿絵は明治十年代から、雑誌や単行本の挿絵や口絵は明治の二十年代から急  速に普及し始めます。しかしこれら明治を代表する出版社は、いずれも明治起業の新興勢力で、しかも江戸  根生いではありません。例えば金港堂は明治八年(1875)、春陽堂は同十一年(1878)、博文館は同二十年(18  87)の創業です。また創業者の出身地も、金港堂・原亮三郎と春陽堂・和田篤太郎が岐阜県、博文館の大橋  佐平は新潟県で、江戸とは無縁です。つまり、明治三十年代の華やかな木板口絵の黄金時代は、地本問屋と  も江戸とも無縁の彼ら新興勢力が担っていたわけです。この点においても浮世絵の製作システムは、新しい  時代の到来にもかかわらず、その波に呼応することができなかったのです。あるいは波を捉まえようとする  意欲すら失っていたのかもしれません。     明治新聞挿絵画工一覧(未定稿)  新聞挿絵  新聞小説挿絵年表(明治年間)(未定稿)     挿絵年表(明治 雑誌(未定稿)  挿絵年表(明治 単行本(未定稿)     口絵年表(明治 雑誌(未定稿)  口絵年表(明治 単行本(未定稿)   また主として肉筆ですが、作品の流通の場にも変化が生じます。明治十年(1877)、内国勧業博覧会が政府  の主催で開催されたのを皮切りに、同十五年(1882)には農商務省主催の内国絵画共進会が開催されます。こ  れらは官主導の展覧会でしたが、明治十八年(1885)の鑑画会、明治二十四年(1891)の日本青年絵画協会の結  成あたりから、次第に画家団体の主催する展覧会が催されるようになります。これらに浮世絵たちも呼応し  ました。   官主導の製展覧会においては、おそらく官側からの働きかけもあったのでしょうが、浮世絵師も募集にこ  ぞって応じていました。明治十年と十七年の二回の内国絵画共進会についてみると、楊洲周延・歌川芳春・  同芳藤・同国明・同豊宣・同国松・安藤広重(Ⅲ)・同広近など、歌川派の浮世絵師が多数出展しています。  ところが明治二十年代に入るとこれがめっきり減ってしまいます。その代わり、前出『美術世界』に登場す  るような、明治の浮世絵の新たなに担い手、省亭・月耕・華村・半古・蕉窓たちが盛んに出展し始めます。   つまり浮世絵の担い手があきらかに交代しつつあるのでした。さらに明治三十年代になると、三代豊国系  統の浮世絵師では、明治三十四年の第十回日本絵画協会展に国峯の名を見かけるくらいで、あれほど全盛を  誇った歌川派の浮世絵師も全く姿を見せなくなってしまいます。要するに、浮世絵の製作システムは新たな  浮世絵の画き手を輩出できなくなってしまったのです。   明治二十七、八年(1894-5)の日清戦争のあたりまでは、版画が当たるなどして、浮世絵製作システム内も  まだ活況を呈していましたが、その後数年も経たないうちに、絵草紙屋には絵はがきがあふれ、錦絵はあっ  という間に駆逐されてしまいます。   また挿絵・口絵つきの新聞・雑誌・単行本は、取次店・書店経由で読者のもとに届けられ、浮世絵の製作  システムとは無縁のところで流通しはじめます。(出版をやめて取次や書店にくら替えした地本問屋系の元  版元もあるでしょうが、それらの書店は明治二十年に結成された東京書籍出版営業者組合(後、明治三十五  年、東京書籍商組合と改称)という新しい組織に所属しており、流通はこの組織を通じて行われます)(注13)   またこのころの絵師は、取り分け肉筆などはそうですが、注文を待って画くばかりでなく、自ら自発的に  画いた作品を、各種の展覧会に自ら出展するようになります。つまり美術品であることを願う絵師にとって  は、展覧会がとても大切な発表の場となっていったのです。   こうして浮世絵は浮世絵製作システムから離れ圏外の書店や展覧会で流通するようになりました。     博覧会  展覧会(明治年間)(未定稿)   b 呼称「浮世絵」と「浮世絵師」との訣別   一変したのは環境ばかりではありません。絵師に必要とされる資質もまた変化し、それに応じて絵師の心  境にも変化が生じました。  「小説の挿画たる以上は、本文中の人物事件等を示すのは当然だが、尚それと同時に飽くまでも独立した画   の面目を持して、単に文章の説明と云ふ以外、特別な美的趣味を発揮すべきものだと思ふ。此の見界から、   将来小説の挿画は、従来の浮世画の領域から脱した純粋の画たらん事を希望してやまない   (中略)   是からの進んだ小説の挿画を書く人には、少なくとも文学の妙味を解する頭位はあつてほしい。よく文学   を了解し感得し、而もよく絵画独特の面目を発揮した立派な挿画の出でん事は、文学の上からも絵画の上   からも真に望むべき事である」(注14)   これは梶田半古の明治四十年時点の言です。挿絵であってもその絵自体は文の単なる付属であってはなら  ない、美的観賞に堪えうる一個の独立した作品であらねばならないというのです。で、そのためには「よく  文学を了解し感得」する必要があるとしています。   これも前述しましたが、鏑木清方の懐古談に、『金色夜叉』の挿絵と画いたとき、尾崎紅葉の文を何度も  何度も読み返して下絵を構想したというくだりがあります。(注15)   清方も半古も同様に、いまや挿絵画家は文の内容と積極的に関わることが不可欠だというのです。   山田奈々子著『木版口絵総覧』によると、博文館『文芸倶楽部』の口絵は、明治三十五年から小説内容を  離れ、それ自体単独の作品になるとのことです。(注16)   雑誌・単行本の売れ行きは口絵の出来栄えに左右されると云います。とすれば、口絵はなおさら独立した  一個の作品として画かねばなりません。口絵画家にかかる責任は、作者の下絵に応じて画いていた画工のそ  れとはけた違いに重いのです。   このような明治三十年代、水野年方のもとで修行を積んでいた絵師たちがいよいよ巣立ちはじめます。鏑  木清方、池田輝方、榊原(後池田)蕉園、大野静方、荒井寛方などといった面々です。この人々はいわば歌川  派最後の末裔とでもいうべき絵師たちで、大げさにいえば浮世絵の製作システム最後の弟子ということもで  きます。ところがいざ世に出ようと見渡してみると、これまで述べてきたように、浮世絵の製作システムは  ほぼ崩壊していました。版元は出版社にかわり、下絵を提供してきた戯作者は消滅し、彫り摺りの職人はい  るもののその高度な技術を活用できる人材は見当たりません。そして画工に必要とされるのは、現代世相を  表現するに足る描法を自らのものにすることはもちろんのこと、さらには下絵を考案するための下地、つま  り歴史や文学などの教養もまた必要不可欠となりました。   清方ら若い絵師たちの意識も、これまでの浮世絵師たちとはおのずと違うものになります。  「私は明治二十四年、十四歳の時に、水野年方の社中に入つた。(中略)其の頃の風俗画家は、昔の浮世絵   師と同じやうに仕立てられたから、唯頭が散切であるだけで、何の進歩もして居なかつた。美術協会など   から仲間はづれにされて、出品しやうとするものもなかつた。(中略)私達は浮世絵といはれるのが厭で、   社会画といふ名を付けて自ら慰めて居た」(注17)    「明治十一年~十三年になると、同じ芳年の一枚絵でも美人画の組物が次々に出版され、婀娜なる風俗が写   されている。「東京料理頗(スコブル)別品(ベツピン)」では、高名な会席茶屋の数々を写して、それに各地の   名妓を配したり、「美人七陽華」には宮中の女官を捉え、これに盛りの花を画いて妍を競うなど、世の安   定を示して余りある。私が画人であるからか、明治の生活美術を語るに、まず、これら風俗画と清親一派   の風景画が最初に思い泛(ウ)かぶ」(注18)      清方らは明治の風俗画が「浮世絵」と呼ばれるのを嫌って「社会画」あるいは「生活美術」と呼んでいた  というのです。   菱川師宣の風俗画を「浮世絵」と呼んで以来、約二百年あまりも使われ続けて、この明治二、三十には国  際的にも「Ukiyoe」として定着してきた呼称「浮世絵」を、浮世絵の製作システムから生まれた最後の弟子  たちは拒否するというのです。   「浮世絵師」の呼称はいうまでもありません。前述「浮世絵の誕生と終焉(1)」「同(2)」でも述べ  たように、菱川師宣は自らの絵が「浮世絵」と呼ばれたことについては特に抵抗した様子はありませんが、  「浮世絵師」と呼ばれることには強い拒否反応を示しました。初版で段階で「浮世絵師 菱川師宣」とあっ  たものを、二版では「大和絵師 菱川師宣」に訂正させています。(注19)   その意味でいうと、清方らは浮世絵の開祖菱川師宣の宿願に応えたともいえます。しかしその一方で、江  戸の文化文政期あたりから、歌川派の国安・国貞といった絵師が、署名に「浮世絵師」と冠することで自認  してきたわけですから、清方らは歌川派の大先輩の意向を無視したともいえるのです。(注20)   清方らにしてみれば「其の頃の風俗画家は、昔の浮世絵師と同じやうに仕立てられたから、唯頭が散切で  あるだけで、何の進歩もして居なかつた」というその連中と、同列に見なされることを嫌ったまでのことか  もしれません。何せ梅堂小国政のように、日清戦争の版画で稼いだ千円近くの大金を、惜しげもなく吉原で  使い果すという破天荒な浮世絵師がまだいた時代です。(注21)〈小国政の記事全文は(注21)を参照〉   しかしこの時代、絵師に求められる資質は昔とは全く違います。「唯頭が散切であるだけで、何の進歩も  して居なかつた」では駄目なわけです。小国政は極端な例でしょうが、意識も生活も昔の画工・職人風のま  までは立ちゆきません。それに下絵を構想するに足る教養を身につける必要もありました。ですから清方ら  にしてみれば、時代が求める絵師になろうとすると、それはもう「浮世絵師」ではなく「画家」を呼ぶ方が  ふさわしいと考えていたのかもしれません。   こうして明治三十年ころから「浮世絵」と「浮世絵師」は、江戸に固有のもの、つまり過去のものとなり  ました。ただ「浮世絵」の呼称の方は、西洋からもたらされた普遍性を得て、世界の「Ukiyoe」として今後  も生き続けることになりました。                              「浮世絵の誕生と終焉」完結 2018/02/28  (注1)『美術世界』巻1-25 春陽堂 明治23年~同27年(1890-94)刊      (国立国会図書館デジタルコレクション)  (注2)『明治十五年内国絵画共進会審査報告』農商務省博覧会掛 国文社 明治16年9月刊      (国立国会図書館デジタルコレクション)  (注3)『近代日本アート・カタログ・コレクション』「内国絵画共進会」第一巻 ゆまに書房 2001年5月刊   (注4)『第三回内国勧業博覧会審査報告』第二部美術 第一類絵画 報告員審査官 岡倉覚三      (国立国会図書館デジタルコレクション)  (注5)『江戸町触集成』第十四巻「天保十三年(1842)六月四日付触書」(触書番号13643)  (注6)『絵画叢誌』4巻「浮世絵」東洋絵画会 明治20年(1887)6月刊      (国立国会図書館デジタルコレクション)  (注7)『絵画叢誌』43巻「東錦絵」東洋絵画会 明治23年(1890)10月刊      (国立国会図書館デジタルコレクション)  (注8)『日本及び日本人』雑誌 大正元年(1912)刊  (注9)『早稲田文学』第9号「彙報」明治29年5月1日刊  (注10)『こしかたの記』「口絵華やかなり頃(一)」鏑木清方著 中公文庫  (注11)『こしかたの記』「鈴木学校」鏑木清方著 中公文庫  (注12)『明治東京逸聞史』(2)「絵葉書(一)」明治38年(1905)記事 森銑三著 東洋文庫142  (注13)『東京書籍商組合史及組合員概歴』東京書籍商組合編 大正1年(1912)刊      (国立国会図書館デジタルコレクション)  (注14)『早稲田文学』第2次19号「本欄」明治40年(1907)6月1日刊  (注15)『こしかたの記』「横寺町の先生」鏑木清方著 中公文庫      「第八章『咄嗟の遅(おくれ)を天に叫び、地に号(わめ)き』から『緑樹陰愁ひ、潺湲(せんくわん)       声咽(むせ)びて、浅瀬に繋れる宮が軀(むくろ)よ』まで、文字にして二百字あまり、試験前の学       生のように、築地川の川縁を往きつ戻りつ繰りかえしては諳んじた。何かで見たオフェリヤの水       に泛ぶ潔い屍を波文のうちに描きながら」  (注16)『木版口絵総覧』山田奈々子著 文生書院 2006年  (注17)『鏑木清方文集』一巻「制作余談」「私の経歴」大正4年(1915)12月記  (注18)『明治の東京』「明治の生活美術寸言」鏑木清方著 昭和37年(1962)9月記  (注19)「浮世絵の誕生と終焉(2)」「浮世絵派の確立と呼称「浮世絵師」の曲折」      「三 呼称「浮世絵師」の曲折」「A 菱川師宣の抵抗」参照       〈本HPTop「浮世絵の誕生と終焉」(全文)所収〉  (注20)「浮世絵の誕生と終焉(2)」「浮世絵派の確立と呼称「浮世絵師」の曲折」      「三 呼称「浮世絵師」の曲折」 [B 呼称「浮世絵師」の復活参照」       〈同上〉  (注21)『読売新聞』「画家小国政の奇癖」明治29年(1896)4月7-8日付記事       梅堂小国政(本HP「浮世絵師総覧」の「梅堂小国政」の項、明治29年に記事全文あり)   
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