Top浮世絵文献資料館浮世絵の世界
 
「浮世絵の誕生と終焉」浮世絵の誕生と終焉
  (3)浮世絵の終焉 -明治期 浮世絵の終焉 4-            加藤 好夫    H 江戸と明治、感性のずれ   明治十八年(1885)六月から翌十九年の一月にかけて、坪内逍遥は「春のやおぼろ」の戯名で「一読三  歎」という角書をもつ『当世書生気質』を出版しました。本文活版、表紙・口絵・挿絵は木版、そして製  本は袋綴じといういかにも明治的な和洋折衷の体裁です。しかも第一号から第十七号まで、分冊の雑誌と  して一挙に出版されました。近代小説の先がけとされる記念すべき作品ですが、実は浮世絵師も大いに関  わりがありました。挿絵の画工としてです。ただその起用には曲折がありました。画工名は次の通り。   1-3号 口絵(1号) 署名「梅蝶楼国峰画」挿絵 署名「梅蝶国峰画」「国峯画」(6-7月刊)   4号   挿絵 署名「葛飾筆」  (7月刊)   5・8号 挿絵 署名「長」    (8・9月刊)   6-7号 挿絵 署名「多気桂舟画」(8-9月刊)   9号   口絵 署名「梅蝶楼国峰画」挿絵 署名「多気桂舟画」(10月刊)   10-17号 挿絵 署名「多気桂舟画」(10月-翌年1月)      歌川国峰・葛飾正久・長原孝太郎(号止水)・武内桂舟。八月の6号からは桂舟に落ち着いたようですが、  最初の六、七月に国峰・葛飾正久・長原止水と三人代わっています。   この間の事情について、坪内逍遥は後年次のように回顧しています。  「書生気質の下絵が残つて居つたとは全く驚いた。いよ/\旧悪露顕に及んだ次第で。実は書生気質を書き   始めてから、四人ほどやつて来た人がある。私は「来る者拒まず」流だが、此方から尋ねて行くなんとい   ふ事はしない方で、みんな向うからやつて来た人である。長原君も向うから見えた。あの頃長原君は神田   孝平さんの書生どころをして居られたが、書生気質の五号までの挿絵を見て「あれではいかん。もつと新   しいものでなくてはいかん。私に書かせて下さい。」といふ話で、それは何よりと思つて喜んで此方から   頼んだ。私は大へん面白い絵だと思つて居つた。ところが、長原君にお気の毒であつたが、新し過ぎて、   どうも世間受けがしなかつた。あの頃は矢張り浮世絵流の挿絵でないと新聞でも喜ばれなかつた様な有様   で、残念であつたけれど二枚だけで中止して貰つた次第である〟(注1)   画工をどのようにして募ったものかよく分かりませんが、逍遥の許にやってきたのは国峰・正久・止水・  桂舟の四人。「みんな向こうからやつて来た」と云うのですから、四人とも強い意志をもってみずから志願  したのでしょう。   さて興味深いのは逍遥もまた下絵(挿絵の指示書)を画いていたということです。それも国峰や正久とい  ったそもそも下絵を必要とする浮世絵系の画工だけに止まりません、洋画の長原止水にも画いているのです。  ですから下絵の用意は作者の義務というような自覚が、逍遥にはあったものと思われます。   参考までに、止水への下絵が残っていますから、それを引いておきます。     塾舎の西瓜割り(下絵)早稲田大学図書館「古典藉総合データベース」     第八号挿絵 国文学研究資料館「近代書誌・近代画像データベース」   この回顧の中で目を惹くのは、次の二点です。   一点目は、浮世絵流の挿絵にもの足りなさを感じる雰囲気が、若い作家や画家の卵の中に生まれ始めてい  たということです。   「あれではいかん。もつと新しいものでなくてはいかん。私に書かせて下さい」と割って入った止水は言  うまでもありません。それに応じて早速起用した逍遥もまた、国峰・正久の浮世絵流の画風に飽き足らない  思いを抱いていたわけです。しかも逍遥には止水の挿絵が「大へん面白い」と感じられました。逍遥と止水  には感性において相通ずるものがあったといえます。   彼らはみな若かった。坪内逍遥は安政六年(1859)生まれの二十八歳。長原止水、元治元年(1864)生ま  れの二十三歳。そして歌川国峰が文久元年(1861年)生まれで二十六歳。武内桂舟も文久元年生まれで二十  六歳。(葛飾正久は不明)みな二十歳代です。   ところが世代は同じでも、逍遥・止水と国峰・正久とでは、感性の面においてずいぶん大きな隔たりがあ  りました。明治十年代、逍遥は東大、止水はその予備門で学んでいます。彼らは若くして西洋の文物に触れ  ていたわけです。一方の浮世絵師はというと、浮世絵の製作システム圏内で育ちました。三代豊国(初代国  貞)直系の孫である国峰は言うまでもありません。北斎の孫を自称したとされる正久もまた、親方絶対の徒  弟制度の下で修行したはずです。多感な時期、過ごした環境が両者は大きく違いますから、そこで育まれた  感性に隔たりがあるのは当然のことです。   西洋文学を修めた逍遥、そして西洋医学を志し後に写生重視の洋画家に転ずる止水、彼らの目には、国峰  や正久の絵が当世を活写しているとはとても映らなかったのでしょう。ここに明治と江戸との感性のズレが  あります。西洋をかいま見た明治人となお江戸を引きずる明治人とのズレです。   とはいえ今更「あれではいかん」と云う国峰・正久に戻るわけにもいきません。そんなところに現れたの  が武内桂舟でした。逍遥は気に入ったのでしょう、その後の挿絵はすべて桂舟が担当しています。なぜ桂舟  に落ち着いたのか、これには桂舟の画風が大きく関わっているようです。桂舟は狩野派の許で修行を積み、  一時国芳にも就いたとされます。したがって「あれではいかん」と感じさせるような旧弊がまとわりついて  いても不思議ではありません。ところが鏑木清方の言を借りると、彼の場合は「伝統の画法を師伝で学んだ  経歴」があるにもかかわらず、その影響が「あまり認められない」画風であって、その「型に嵌り易い訓練  のない」ことが、結果として「この人の新鮮味を助けた」ということになります。つまり修行時に画派から  受けた影響の少なさが逆に幸いしたというわけです。(注2)     浮世絵の製作システム   二点目は、それにも拘わらず止水の「新しいもの」が「新し過ぎて、どうも世間受けがしなかつた」とい  う点です。その原因を逍遥は「あの頃は矢張り浮世絵流の挿絵でないと新聞でも喜ばれなかつた」としてい  ます。世間では江戸の雰囲気を漂わせる浮世絵師の絵が依然として支持されていたというのでしょう。   こちらのズレは江戸と明治のズレという点では同じですが、前述した止水や国峰の間にあるような絵師同  士に横たわるズレではありません。絵師と世間一般との間に存在する感性のズレです。このズレが大きいと  絵師の真価が認められるには時間がかかります。   実はそうした例が錦絵の世界にもありました。小林清親のいわゆる光線画です。   井上和雄著『浮世絵師伝』によると、清親は、明治の初年、横浜で写真術を習い、次にチャールズ・ワー  グマンの下で油絵を学び、その後、河鍋暁斎や柴田是真に就いて日本画を学んだとされます。和洋折衷です  が、清親の場合は西洋表現の下地があっての折衷ですから、当時の絵師としてはずいぶん変わった経歴の持  ち主だといえます。その清親が明治九年(1876)年から、西洋風の東京名所絵や「猫と提灯」といった光線  画を発表し始めます。最初の版元は大黒屋・松木平吉、そして途中から具足屋・福田熊次郎に交代して、明  治十四年(1881)まで出版されました。当初は売れ行きがとてもよかったと伝えられています。大いに人の  目を惹いたようです。  「欧化主義の最初の企ての如く、清親の水彩画のような風景画が両国の大黒屋から出板されて、頗(スコブ)る   売れたものである」(注3)     淡島寒月は新しもの好きでしたからなおのこと、西洋「水彩画」のような光線画に魅了されたものと思わ  れます。確かに光と影を効果的に使って、江戸から明治へと移りゆく光景を捉えた表現はこれまでにないも  のでした。その上、題材としての西洋風建造物や西洋式の風俗もまた、視覚上の快感をもたらしたに違いあ  りません。ところがこれが長続きしなかった。明治十四年には打ち切りになってしまいます。   前出の山本笑月は昭和に入って次のように回想しています。    「今は滅法珍重される清親の風景画も当時は西洋臭いとて一向さわがれず」  「翁没後、大正七、八年の好況時代にその作品がますます歓迎されて、向島堤上雪景大判二枚続きが二千円、   猫が提灯の中の鼠をねらっている横一枚画が今日八百円と聞いては、翁生前の不偶がいよいよもって涙で   ある」(注4)      坪内逍遥は明治十八、九年の時点で「浮世絵流の挿絵でないと新聞でも喜ばれなかつた」と証言していま  す。まして清親の光線画が世に出たのは明治九年のこと。この「欧化主義の最初の企て」と目すべき光線画  が、一時的な物珍しさに止まったのは仕方がなかったことなのかもしれません。   清親は大正四年(1915)六十九歳で亡くなりますが、清親の光線画が高く評価されるようになるのは、そ  の死後だと、笑月は云います。その間、清親・松木平吉・福田熊次郎らの先見性も暫く日の目を見なかった  わけです。世間が清親や両版元のような感性に追いつくにはずいぶん時間を要したのでした。   ところで清親の画歴を見ると、興味深いのは、彼もまた武内桂舟同様、浮世絵の製作システム圏外から浮  世絵界に入ってきたという点です。明治十年代から二十年代にかけて、挿絵の世界に外部から参入してきた  絵師は他にもたくさんいます。小林永濯・安達吟光・尾形月耕・渡辺省亭・松本風湖らがそうです。浮世絵  界、とりわけ挿絵や口絵の世界は、彼らの参入によって一層活性化しました。もっとも鏑木清方によると、  最も影響力を持ったのは菊池容斎(天明八年~明治十一年(1788-1878))だそうで、中でもその著書『前  賢故実』は「新風を生む示唆を与えた」とされます。(注5)   浮世絵師の中にも容斎の影響は流れ込んでいます。例えば、清方の師匠・水野年方は芳年の門人ですが、  一方で省亭にも就いて学んでいます。省亭は容斎門人。ですから年方は省亭を通して容斎に学ぼうとしたの  です。浮世絵の世界、江戸の武者絵は明治になると歴史画へと脱皮しますが、そこには菊池容斎が大きな役  割を果たしていたのです。   ともあれ、浮世絵の製作システム圏外から参入してきた絵師たちによって、明治の浮世絵界が大いに刺激  を受けたことは明らかです。これを逆に云うと、江戸から続く浮世絵の製作システム圏内には、自らを活性  化するエネルギーがあまり残っていなかったいうことになります。  I 二極化する浮世絵師   明治二十九年(1896)の正岡子規の随筆にこのようなくだりがあります。  「小説雑誌の挿絵として西洋画を取るに至りしは喜ぶべき事なり、其の喜ぶべき所似(ゆえん)多かれど、第   一、目先の変りて珍しきこと、第二、世人が稍々西洋画の長所を見とめ得たること、第三、学問見識無く   高雅なる趣味を解せざる浮世絵師の徒(と)が圧せられて、比較的に学問見識あり高雅なる趣味を解したる   洋画家が伸びんとすること、第四、従来の画師が殆ど皆ある模型に束縛せられ模型外の事は之を画く能は   ざりしに反し如何なる事物にても能く写し得らるべき画風の流行すること、第五、日本画が好敵手を得た   る等を其主なるものとす」(注6)   正岡子規はこのころになって小説雑誌の挿絵に西洋画が受け入れられ始めたことを喜んでいます。また写  生を重視した子規らしく「如何なる事物にても能く写し得らるべき画風の流行すること」を歓迎しています。  とはいえ明治の二十年代後半になってやっとこうした風潮が出できたわけで、逆にいえば、それほど挿絵の  世界では浮世絵師の勢力が圧倒的だったということなのでしょう。   それにしても子規の目に映じた浮世絵師像は強烈です。「学問見識無く高雅なる趣味を解せざる徒(と)」  であり、「殆ど皆ある模型に束縛せられ模型外の事は之を画く能はざりし」とあります。なるほど従来ほと  んどの浮世絵師は、作者の指図に従って、先人の考案になる「模型」を取っ替え引っ返え再利用・再加工す  るばかり、いわば粉本の使い回しで完全にマンネリに陥っていたのです。明治十年代、合巻が盛んに出版さ  れたので、表面的には勢いがあるかに見えましたが、その実、裏では頽廃が進んでいました。  「鮮斎永濯のもあったが上品だけで冴えなかった。孟斎芳虎のは武者絵が抜ないためだか引立ちが悪く、楊   州周延のは多々益(マスマ)す弁じるのみで力弱く、桜斎房種もの穏当で淋しく、守川周重のもただ芝居臭く   ばかりあって生気が乏しい。梅堂国政と来ては例に依って例の如く、何の面白みもなかった」(注7)   これは明治十年代の合巻に関する三田村鳶魚を感想です。合巻が、正岡子規の「模型に束縛せられ模型外  の事は之を画く能はざりし」という状況に陥っていたことは確かです。これでは大衆から飽きられるのも当  然でした。   この八方ふさがり、挿絵ばかりではありません、実は錦絵の方も似たような状況に陥っていました。彫刻  家の高村光雲に次のような証言があります。これも明治二十九年の記事です。  「今の錦画を好む人は、多くは古画を賞して新画に身を入れず、注文主たる板元最も昔と相違せり、近くは   三代豊国の存せる頃までは、其の注文主たる板元は、自身に下図を着け、精々細かに注文して、其の余を   画工に委すの風なりしが、今は注文者に寸毫の考案なく、画工に向て何か売れそうな品をと、注文するの   が常なり、随うて画工も筆に任せてなぐり書きし、理にも法にも叶はぬ画を作りて、識者の笑ひを受くる   に至る(中略)、要するに、小梅堂の古実に乏しきは、注文人の放任に過ぎずとするも、国周翁の滅茶/\   なるは、翁自ら責なくばあらず。此の勢もて推すときは、今後十年を出ずして、東錦といふ江戸絵なるも   のは、単に玩具屋の附属品となり、終に美術としての価値なきに至るべし」(注8)   (「(中略)」はこの記事中のものです)   この光雲の言も辛辣です。最近の版元は売れそうな絵を画いてくれというばかりで、きちんとした「下図」  (下絵・指示)を画工に出さなくなった。そのために画工は故実を踏まえない「理にも法にも叶はぬ画」を  平気で殴り画きすると云うのです。   この記事でまず興味を惹くのは、光雲もまた下絵を考案するのは版元側だと見ている点です。私たちは版  元や作者たちが用意する下絵の存在をあまり意識していません。浮世絵を浮世絵師の個人的な営為として捉  えがちです。つまり浮世絵師を画家という視点で捉えているのです。しかし逍遥や光雲の見方はどうやら我  々とは違うようです。浮世絵を、下絵を考案する版元とそれに基づいて作画する画工との共同作品として見  ているのです。   ともあれ、明治二十年代になると、画工に下絵を用意しない無責任な版元がいる一方で、国周のようにメ  チャメチャな絵を平気で画く画工も出てきました。版元や画工にこんな無責任が横行する現状では、十年以  内には玩具屋の附属品になり果てると、光雲は警鐘を鳴らしたのです。事実、的中するのですが。   むろんすべての版元がそうだったわけではありません。前回触れましたが、明治十八年(1885)から同二  十四年(1891)にかけて「月百姿」(芳年画)を刊行した滑稽堂・秋山武右衛門のように、博覧強記の好事  家・桂花園桂花の智恵をかりて、緻密な下絵を準備する版元もまだいました。しかし時代は刻々と変化して  いました。版元の新旧世代交代が進むにつれ、また西洋の印刷術が浸透するにつれて、製作コストの制約か  ら、緻密な下絵を用意する版元が少なくなっていったのです。   明治十年代の後半から二十年にかけて、こうした状況が続きました。自然、長原止水や正岡子規同様「あ  れではいかん」と云う人々が増えてきます。もちろん浮世絵師の中にもいました。   ここで浮世絵師は大きく二手に分かれます。   版本挿絵の例で見てみましょう。前にも提示しましたように、明治十年代までは、合巻が盛んに出版され  多くの浮世絵師が起用されていましたが、明治二十年代に入ると、合巻そのものが時代にそぐわなくなった  ものか、急激に人気を失って出版がパタリと止まります。     合巻等版本出版推移 幕末-明治     すると彼らの多くは挿絵から退場を余儀なくされました。梅堂国政・歌川種房・楊洲周延・豊原国周・新  井芳宗・歌川国峰といった面々です。一方、月岡芳年やその門弟、そして尾形月耕らは、坪内逍遥・二葉亭  四迷・山田美妙らの新しい小説家が登場した以降も、引き続き活躍しています。   両グループとも、少年の頃から師匠に弟子入りして、浮世絵の製作システム圏内で修行を積んだという点  で同じです。しかしそれが二極化していきます。正岡子規の云う「模型」すなわち粉本で事を済ますほかな  い人々と、新時代を表現するに相応しい画き方を追究した人々とに分かれるのです。そして前者のほとんど  は、新時代の小説の挿絵に適応できず姿を消してしまいます。   その代わりというか、ここに新たに小林永濯・尾形月耕・武内桂舟・松本楓湖・小林永洗・渡辺省亭・小  林清親・水野年方・歌川国松といった人々が新規に参入してきます。   この中で浮世絵の製作システム圏内で修行を積んだ絵師は年方と国松のみ、それ以外はみなその圏外で修  行をした人々です。永濯や桂舟は狩野派、楓湖や省亭は菊池容斎門、清親は西洋画と日本画を学び、月耕は  独学とされています。つまり挿絵はもう浮世絵師の独壇場ではなくなっていたのです。  〈以下2019/07/10加筆〉   明治二十二年(1889)二月刊の文芸誌『都の花』2-8号の巻末に次のような記事が出ています。    「此等小説の為め挿画を引受尽力せられし絵かきの隊長連は左の通り。亦た以て此等絵ばかりを諸君が御覧   になるも我国絵画美術の一端を知らることあるべし    惺々暁斎  鮮斎永濯 渡辺省亭 松本楓湖 河辺御楯 鈴木華邨 月岡芳年    五姓田芳柳 松岡緑芽 尾形月耕 武内桂舟 後藤魚洲 小林清親〟   これは『都の花』(金港堂・明治二十一年創刊)を彩る挿絵画家の紹介です。「此等小説」とは山田美妙  や幸田露伴など新進作家の小説をさします。これらの画家は『都の花』に限りません。明治二十年四月創刊  の文芸誌『新著百種』(吉岡書籍店)にしても、芳年・緑芽・省亭・年方・桂舟・楓湖・永濯等、やはり同  様の顔ぶれです。またこちらの執筆陣も、尾崎紅葉・石橋思案など新たに頭角を現しつつある作家でした。   これまで浮世絵界は読本・合巻といった新ジャンルが誕生するたびにその挿絵をことごとく担ってきまし  た。京伝・馬琴・種彦等の挿絵を担ったのは、初代豊国・北斎・英泉・国貞等、浮世絵製作システム圏内で  生まれ育った浮世絵師たちでした。しかし明治の今、洋画に転じた芳柳を除けば、ここには芳年とその弟子  ・年方がいるのみです。おそらく、明治の新しい文芸の挿絵を担える人材は、もはや浮世絵界にはほとんど  いない、とこれまた新興の出版元、金港堂・原亮三郎の目には見えたのであろうと思います。  〈以上2019/07/10加筆〉   さて、明治二十年代の文芸の世界を見渡しますと、逍遥・美妙ら新時代の小説家は、仮名垣魯文や高畠藍  泉らの戯作者とは無縁のところから登場してきました。魯文や籃泉は十辺舎一九や柳亭種彦らの戯作者と繋  がっていますが、逍遥や美妙は戯作者とは断絶しています。つまり逍遥や美妙は浮世絵の製作システム圏外  から登場してきたのです。してみると、明治の文芸界は挿絵の画き手も小説の書き手も、浮世絵の製作シス  テム圏外の人々が担い始めたといってよいのでしょう。   参考までに版本の出版状況の示す資料を引いておきます        浮世絵年表 幕末-明治     版本年表 明治元年~     挿絵年表(明治逐刊・単行本)(未定稿)   a 挿絵から退場した浮世絵師   さて、退場を余儀なくされた浮世絵師たちはその後どうなったのか。   明治二十三年(1890)の読売新聞に次のよう記事が出ています。  「押絵の顔ハ一切画工国政の担当にて、夏秋の頃にありてハ、其(その)書き代(しろ)平均一個一厘五毛位な   るも、冬の初めより年の暮に至りてハ、上物即ち顔の長(た)け一寸より一寸五分までのもの一個に付き三   匁乃至(ないし)五匁なり。然るに今年ハ其の景気殊に悪(あし)く、目下の所にて一個漸く二匁なりと云ふ」(注9)   羽子板用か、押し絵の顔一個1厘5毛(1円=100銭・1銭=10厘・1厘=10毛)という手間賃。3匁は(1円=  100銭=60匁)で換算すると1/20円で5銭に相当、5匁は約8銭、2匁は約3銭に相当します。朝日新聞社刊の  『値段史年表』によると、明治二十年頃、そば一銭とあります。つまり六、七個仕上げてそば一枚という計  算になります。ついでに錦絵の値段はというと、明治十二年頃出版された芳年の三枚続が6銭ですから、一  枚2銭ということになります。  (下出、大倉孫兵衛板「徳川治蹟年間紀事・二代台徳院殿秀忠公」の画像に「定価二銭」とありますので参照してください)   この手間賃がこの時代の報酬として高いのか低いのか分かりませんが、量産品の仕事であることには違い  ありません。この国政は梅堂国政でしょう。十年代たくさんの合巻に挿絵を画いていた国政も、二十年代に  なると、工芸品の数をこなす仕事に就いていたわけです。幸いというべきか、この当時この手の仕事は他に  まだまだありました。   これは明治二十五年の読売新聞(原文は漢字に振り仮名付、( )はその一部分です)  〝歌川派の十元祖   此程歌川派の画工が三代目豊国の建碑に付て集会せし折、同派の画工中、世に元祖と称せらるゝものを数   (かぞへ)て、碑の裏に彫まんとし、いろ/\取調べて左の十人を得たり。尤も此十人ハ強ち発明者といふ   にハあらねど、其人の世に於て盛大となりたれバ斯くハ定めしなりと云ふ     凧 絵  元祖 歌川国次  猪口絵   元祖 歌川国得     刺子半纏 同  同 国麿  はめ絵   同  同 国清     びら絵  同  同 国幸  輸出扇面絵 同  同 国久・国孝     新聞挿絵 同  同 芳幾  かはり絵  同  同 芳ふじ     さがし絵 同  同 国益  道具絵   同  同 国利   以上十人の内、芳幾・国利を除くの外、何れも故人をなりたるが中にも、国久・国孝両人が合同して絵が   ける扇面絵の如きハ扇一面に人物五十乃至五百を列ねしものにして、頻りに欧米人の賞賛を受け、今尚其   遺物の花鳥絵行はるゝも、前者に比すれバ其出来雲泥の相違なりとて、海外の商売する者ハ太(いた)く夫   (か)の両人を尊び居れる由」(注10)   元祖十人の内八人は故人ですが、元祖というからには、この仕事ジャンルが明治二十五年の時点でも存続  していたのでしょう。子供向けの手遊びから実用の工芸品の類まで、まさに高村光雲の云う「玩具屋の附属  品」とでもいうべきジャンルのものです。時代にふさわしい表現画法を身につけることができなかった画工  たちは、江戸から続く浮世絵の制作システム圏内に止まって、こうした量産品に生活の糧を求めほかなかっ  たのです。しかしこの分野もいずれは機械印刷に取って代わられます。   木版画はもともと大量生産をすることによって低コストを実現してきました。とはいえ機械印刷の低コス  トには敵いません。しかも機械印刷の方には技術革新によるコスト低減の余地はありますが、木版にはあり  ません。明治期、木版の技術は高度に洗練されましたが、それを駆使しようとすると、手間がかかりますか  ら、製品値段にはね返ります。木版を大量生産用の印刷メデイアとして位置づけるかぎり、機械印刷に淘汰  されるのは必然なのです。   b 画工から画家へ   そもそも浮世絵は、当世を活写するに足る画き方を追究しつつ、評判高い人物や最新の景物を表現してき  ました。このような伝統が流れているわけですから、それに続こうとする浮世絵師が現れても不思議ではあ  りません。ただそのためには、逍遥・止水と国峰・正久との間に横たわっていた感覚のズレを浮世絵師側が  取り除かねばなりません。このズレを克服するために当時の浮世絵師は次の二点を重視したようです。   1 写生の重視  「大蘇芳年先生丸屋町に住する頃訪問せしに、座敷に小児の遊ぶ様な事をして、弟子に棒を持せ尻をまくら   せ敷居に棒を突き掛け、又々うんと力を入れろと、もう一度うんと張つてと云ふを傍で見て居た。後で考   へて見たら、徳川十五代記三枚続の(万孫出版)の内船にとまを掛け、将軍が乗る処の船頭が棹を差しつ   ツ張る腰の工合を写生したものであつた。此行動は浮世絵の大家だと思つた」(注11)   この芳年の三枚続は、大倉孫兵衛版「徳川治蹟年間紀事 二代台徳院殿秀忠公」です。芳年はこれを画く  にあたって、弟子たちにさまざまなポーズをとらせて、手や足腰の布置、筋肉の動き具合などを観察してい  たのです。要するに、粉本に盲従しないで自分の目を信じたわけです。芳年の写生重視はずいぶん徹底して  いたようで、鏑木清方は「芳年は毎日画く新聞の挿絵にも、一々写生に拠った」と証言していているほどで  す。そしてこの写生重視は門人の水野年方、さらにその門人の清方に受け継がれていきます。(注12)   写生の重視自体は言うまでもなく明治の芳年に限りません。歌麿の『画本虫ゑらみ』や北斎の『北斎漫画』  を見れば一目瞭然です。後世の名を残す絵師はみな写生の達人でもあります。つまり芳年はこれらの先覚に  倣い、写生という基本に立ち返ることによって、この閉塞状況を打開しようとしたのでしょう。それは必然  的に、浮世絵の製作システム圏内に漂う旧弊、正岡子規の言葉を借りれば「模型」による「束縛」を清算す  ることの他なりません。   さてこのエピソードは芳年の丸屋町時代のものとあります。その居住は明治十一年(1878)頃とされてい  ますので、この出版はそれ以降のものと思われます。ちなみにこの錦絵の刊記には芳年の住所が「南金六町」  とあります。
   徳川治蹟年間紀事 二代台徳院殿秀忠公 三枚続(中)大蘇芳年画(国立国会図書館デジタルコレクション)   次は小林清親のエピソードです  「この大家が晩年の不遇は実に気の毒であった。向島に住んで、僅かに新聞社の注文で時事漫画を描くくら   いのもの、それでも写生は熱心で、吾妻橋へ往復の一銭蒸気の中から大川の流れを写した本の写生帳が二   冊あって、実に奇抜な波紋をいろいろ描いてあった」(注13)   前述したように清親はそもそも西洋画を学んでいましたから、写生の重要性は修業時代から培われていた  はずです。芳年は写生重視を人物像に向けましたが、清親は光線画でそれを自然や市中に向けました。とは  いえ、人物に向けなかったわけではありません。明治十三年あたりからいわゆる「ポンチ絵」を画き始めま  す。こちらはいってみれば当世の人物や世相の写生ですから、やはり清親画の基礎土台には写生があったも  のと思われます。   写生を重視する姿勢はこの二人に限りません。これはどうやら時代の趨勢でもあったようで、芳年とは兄  弟弟子の後藤芳景もまた次のように語っていました。  「浮世絵の真意義は、写生を画になほすにあり、然れども今日の急務は、まづ写生に専心するにあり、徒に   畸状妄想をゑがきて、実際を離るゝは人を誤るもの、写生に熟達するに至らば、おのづから美術の秘義の   写生にあらざるを悟らん」(注14)     芳景は浮世絵の本義が写生にあるとは考えていません。しかし目下の急務は写生に専念することだと云い  ます。そうしてこそ写生を超えた浮世絵本来の意義にたどり着けると云うのです。   さらにこの芳景の言を引いた記者は次のように補足します。  「所謂浮世絵の写生的傾向は、今四五年前かたより、一般に隆興し来たれるは、事実也、而して容斎派及び   西洋画は、明に此の傾向を誘致するの一縁たりしなり」(注14)   明治二十年代、浮世絵界では写生が一大スローガンになっていたようです。菊池容斎派の画業や西洋画に  触れたことで、この傾向にますます拍車がかかりました。   写生の重視は正岡子規の云う「模型」の「束縛」からの解放に他なりません。それはまた徒弟制度下の修  行で身についた旧弊を洗い流すことに通じます。西洋文物と江戸の名残が混在する明治の当世を表現するに  はどうしたらよいのか、明治の浮世絵師たちはその手がかりを写生に求めたのです。   2 下絵をみずから考案する画家へ   鏑木清方は師匠水野年方の家の様子を次のように回想しています。  「歴史画に熱心な先生は、従って武具、甲冑に興味が深く、家名は忘れたが、京橋弥左衛門町か、佐柄木町   かの東側に在った武具屋から腹巻きだの、籠手脛当やら買い込まれるのが、参考品とはいえ、唯一の道楽   でもあったのだろう。(中略)いろいろ蔵書が収めてあったが、後のように調法な復刻本のない時分なの   で、「集古十種」や「貞丈雑記」「軍器考」などが、かなり場を取って積み重ねられていた」(注15)   『集古十種』『貞丈雑記』『本朝軍器考』いずれも有職故実を考証した書物です。年方はなぜこれらを身  辺に集めたのか。道楽には違いないのでしょうが、言うまでもなく下絵を考案するためです。   時代は下絵をみずから考案するよう絵師に求め始めたのです。前述してきたように、これまでこうした書  物は、版元や戯作者が画工への指示を与えるべく用意していました。    「宗伯ヲ以、尾張町英泉方へ、端午かけ物料あやめ兜の図画稿壱枚、うら打唐紙、并ニ絵の具代等、もたせ   遣ス。八時比出宅、薄暮帰宅。但、武具訓蒙図会一ノ巻、英泉へかし遣ス」(注16)   これは文政十年(1827)の曲亭馬琴の日記の中のくだりです。馬琴は嫡男の宗伯を使わして、渓斎英泉  に端午の節句に用いる掛軸の作画を依頼しました。その際、馬琴は「あやめ兜」の図柄を『武具訓蒙図彙』  (湯浅得之編・貞享元(1684)年刊)に拠って指示したのです。   明治二十七年(1894)仮名垣魯文が亡くなって、江戸以来の戯作者は消滅しました。また明治三十三(19  00)年には『月百姿』を企画した版元の滑稽堂・秋山武右衛門が亡くなります。これを象徴的に云えば、浮  世絵界は、高村光雲の云う「注文主たる板元」に「寸毫の考案」もない時代に入ったというわけです。言い  換えると、時代はもはや他人の下絵を頼りにするような画工を求めてはいないということになります。絵師  はみずから下絵を考案せねばなりません。さらに挿絵についていえば、絵師は小説の内容とは無関係ではい  られません。むしろ積極的に関わらねばならないのです、つまり作品に主体的な読みを入れる必要が出てき  たわけです。    「第八章『咄嗟の遅(おくれ)を天に叫び、地に号(わめ)き』から『緑樹陰愁ひ、潺湲(せんくわん)声咽(む   せ)びて、浅瀬に繋れる宮が軀(むくろ)よ』まで、文字にして二百字あまり、試験前の学生のように、築   地川の川縁を往きつ戻りつ繰りかえしては諳んじた。何かで見たオフェリヤの水に泛ぶ潔い屍を波文のう   ちに描きながら」(注17)      これは明治三十五年(1902)鏑木清方が『金色夜叉』のお宮水死の場面を画くよう勧められた時のことを  回想したものです。清方は尾崎紅葉の文を何度も諳んじて内容を自らのものにします。そしてそのうえで、  作品の流れにそったイメージを思い起こします。   この小説と挿絵との関係を『早稲田文学』の「彙報」記者は次のように記しています。  「小説の挿画は作者の筆にて悉し難き所を補ひ、作中の人物及び事柄を有形に現はし、読者の目を悦ばしむ   ると共に、一層感動を深からしむるが本旨なるべし」(注18)   前回触れたように、鏑木清方は作者と挿絵画家との関係を「太夫と三味線弾き」に喩えていました。まさ  にこの「補ひ・現はし・喜ばしめ・感動を深からしむる」という協業関係なのです。これを作者と挿絵絵師  が阿吽の呼吸で行わねばならないのです。(注19)   それには、自らの内発的なモチーフによってテキストを読み、作者の意向を勘案しながら自ら下絵を画く  必要がありました。こうなると挿絵師はもはや画工ではなく画家です。   それにしても、明治の二、三十年代は、浮世絵師には分岐点でありました。写生や有職故実・時代考証を  重んじて、みずから下絵を考案する浮世絵師がいる一方で、先覚の粉本に拠って量産を請け負う浮世絵師も  いました。こうして浮世絵界は、浮世絵の製作システム圏外に出て主体的に作画する画家と、圏内に止まっ  て注文に応じて作画する画工職人とに分かれたわけです。  (注1)『明治文学名著全集』第1巻 付録六「作者余談」東京堂 大正15年(1926)刊  (注2)『こしかたの記』「口絵華やかなりし頃(一)」)鏑木清方著 昭和36(1961)年「あとがき」        以下、引用は中公文庫本   (注3)『梵雲庵雑話』「私の幼かりし頃」淡島寒月著 大正6年(1917)記 引用は岩波文庫本  (注4)『明治世相百話』山本笑月著 昭和11年(1936)刊 以下、引用は中公文庫本        上段記事「風俗」の項「絵草紙屋の繁昌記」        下段記事「書画・骨董」の項「明治の錦絵界を展望」  (注5)『こしかたの記』「年方先生に入門」  (注6)『松蘿玉液』正岡子規著 明治29年(1896)随筆 引用は岩波文庫本  (注7)『早稲田文学』「明治年代合巻の外観」三田村鳶魚著 大正14年(1925)3月号        引用は岩波文庫本『明治文学回想集』所収より  (注8)『早稲田文学』第9号「彙報」明治29年5月号  (注9)『読売新聞記』「押絵の景京」明治23年(1890)11月30日記事  (注10)「読売新聞」明治25年(1892)12月19日記事  (注11)『江戸絵から書物まで』「(と)明治年間執筆画家名略」朝野蝸牛編 昭和9年(1934)刊  (注12)『うたかたの記』「口絵華やかなりし頃(一)」  (注13)『明治世相百話』「明治の錦絵界を展望」山本笑月著 中公文庫版 原本は昭和11年()刊  (注14)『早稲田文学』第9号「彙報」明治29(1896)年5月1日刊  (注15)『こしかたの記』「年方先生に入門」鏑木清方著・昭和36年刊  (注16)『馬琴日記』第一巻「文政十年丁亥日記」文政10年(1827)年2月9日 中央公論社 昭和47年(1972)刊  (注17)『こしかたの記』「横寺町の先生」  (注18)『早稲田文学』第18号「彙報」明治29年(1896)10月1日刊  (注19)『こしかたの記』「横寺町の先生」     次回はいよいよ最終稿になります              (2017/12/30記)     次回 (3)浮世絵の終焉 -明治期 浮世絵の終焉 5-
Top浮世絵師総覧浮世絵の世界