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「浮世絵の誕生と終焉」浮世絵の誕生と終焉
  (3)浮世絵の終焉 -明治期 浮世絵の終焉 3-             加藤 好夫     前回、版元を中心とする浮世絵界が、維新以降急速に台頭してきた新メディアの新聞に接近して、その錦絵  化ともいうべき「錦絵新聞」を新たに開拓したことを述べました。また明治十年代、新聞の続きものが持て囃  されるや、すぐさまそれを合巻に仕立てるなどの素早い対応ぶりも見てきました。   合巻についてみると、前回グラフで示したように維新後しばらく出版は停滞していましたが、明治十年代に  なると幕末を凌ぐほどの勢いを取り戻します。   その間に版元の勢力図は大きく変わりました。江戸から続く地本問屋の中では、紅英堂・蔦屋吉蔵のように  幕末から明治初年にかけて旺盛な出版活動をしていたにもかかわらず、明治十年代に入るとほとんど出版しな  くなる版元がある一方、金松堂・辻岡文助のように勢いをそのまま継続する版元もありました。まさに主役の  交代です。そこに具足屋・福田熊次郎、島鮮堂・綱島亀吉のような明治になって急に頭角を現す新興の版元が  続きます。また滑稽堂・秋山武右衛門や春陽堂・和田篤太郎のような企画力のある新規参入組が加わります。   明治五年(1872)の地本問屋(株仲間)の解散が契機でした。新旧の新陳代謝です。ですから維新から明治  十年代にかけては、版元・戯作者・画工・彫師・摺師からなる浮世絵の製作システムに拠って出版活動をしよ  うという勢いは一向に失われていなかったのです。      参考までに、明治十四年時の東京の地本問屋一覧と江戸時代も含む版元一覧を示しておきます。    合巻等版本出版推移 幕末-明治    〈版本のデータは本HP「版本年表」の安政~明治年間に基づいています。合巻・読本・その他版本の出版点数をグラフ化      したものです)    明治十四年地本錦絵営業者組合名簿    〈本HP「浮世絵事典」「し」の項目「地本問屋」所収。出典は『彌吉光長著作集』第四巻「明治時代の出版と人」「明治      初年の出版団体(その二)」〉    版元一覧(江戸~明治期)    〈本HP「浮世絵事典」「は」の項目「版元一覧」〉     前回、浮世絵界は新聞雑誌との関係を深めていったと述べましたが、それがどれほどのものか、前回は残念  ながら間に合いませんでしたので、今回いくつかの資料を載せておきます。   一つ目は錦絵新聞の版元と絵師の一覧。これは土屋礼子著『大衆紙の源流』(注1)に拠るものです。     錦絵新聞画工一覧   二つ目は「小新聞(ふりがな新聞)」と専属画工の一覧、未定稿ですが一応の目安になるものと思います。  これは、野崎左文著「明治初期の新聞小説」(注2)と上掲『大衆の源流』に拠っています。     新聞挿絵画工一覧   三つ目、これは明治十年(1877)の西南戦争に関する錦絵および版本の一覧です。これも新聞報道に基づい  て錦絵化・合巻化したものです。岩切信一郎著『明治版画史』によると、大判錦絵三枚続が三百数十点確認さ  れているとのこと。これも未定稿ですが、参考までに、西南戦争に取材した錦絵新聞と三枚続を中心とする錦  絵と合巻仕立にした版本のリストを載せておきます。     西南戦争 錦絵・版本(画工別)    西南戦争 版本(年月順)   西南戦争に関する出版は一時的なブームで終わりましたが、役者絵や美人画の錦絵は引き続いて盛んに出版  されました。江戸から東京と地名は変わっても、明治二十年代までの絵草紙屋の賑わいは江戸時代のそれとあ  まり変わりませんでした。以下は、明治六年(1873)深川生まれの新聞人、山本笑月の「絵双紙屋の繁昌記   今あってもうれしかろうもの」と題した昭和初期における回想です。(笑月はジャーナリスト長谷川如是閑と水  野年方門の画家大野静方の長兄にあたります)  「惜しいのは絵双紙屋、江戸以来の東みやげ、極彩色の武者画や似顔絵、乃至は双六、千代紙、切組画などを   店頭に掲げ、草双紙、読本類を並べて、表には地本絵双紙類と書いた行灯型の看板を置き、江戸気分を漂わ   した店構えが明治時代には市中到るところに見られたが、絵葉書の流行に追われて、明治の中頃からポッポ   ツ退転。   両国の大平、人形町の具足屋、室町の秋山、横山町の辻文などその頃のおもなる版元、もっばら役者絵に人   気を集め、団菊左以下新狂言の似顔三枚続きの板下ろしが現われると店頭は人の山。一鴬斎国周を筆頭に、   香蝶楼豊斎、揚洲周延、歌川国重あたり。武者絵や歴史物は例の大蘇芳年、一流の達筆は新板ごとにあっと   いわせ、つづいて一門の年英、年恒。風俗は月耕、年方、永洗、永興といった顔触れ。新年用の福笑い、双   六、十六むさしまで店一杯にかけ並ぺた風景は、なんといっても東京自慢の一名物」(注3)   登場する版元は、両国吉川町の大黒屋・松木平吉、日本橋人形町の具足屋・福田熊次郎、日本橋室町の滑稽  堂・秋山武右衛門、日本橋横山町の金松堂・辻岡文助。いずれも明治を代表する版元です。明治二十年代まで  は、新板が出ると、吊された錦絵を見ようと店頭はたちまち黒山の人だかり、するとこんな珍事も起こります。  「通壱丁目の角が瀬戸物店、続いて大倉書店、萬孫絵双紙、いつも店先は錦絵の見物で一ぱい。絵双紙に見と   れて懐中を抜かれて青くなる人もあつた」(注4)   余談ながら、これは日本橋通一丁目の万孫・万屋大倉孫兵衛の店先です。   浮世絵界は、前述ように明治十年代後半に合巻出版のピークを迎えますが、錦絵の方は明治二十年代まで引  き続き役者絵や美人画等で意欲的な作品が続きました。上掲万孫のエピソードを記した浅野蝸牛(文三郎)が、  幕末から明治二十年代にかけて作られた錦絵のリストを書き残しています。蝸牛は明治期の出版や書店の状況  に精通した人ですから、これらは当時評判をとった作品と考えてよいと思います。以下、引いておきます。た  だ江戸期の作品の再版分は除いてあります。また全てを取り上げると煩雑になりますので代表的なもののみ、  時代を追って摘記します。ただし作品名や出版年次および版元名は原文のままの引用です。     画工名  画題        出版数  年次         版元   三代広重「大日本地誌略図」  七十枚  明治九年       大倉孫兵衛 〈「日本地誌略図」〉   大蘇芳年「大日本名将かゝみ」 三十枚  明治十二年      熊谷庄七・船津忠治郎   豊原国周「開化三十六会席」  三十六枚 明治十三年      武川清吉   大蘇芳年「東京自慢十二ヶ月」 十二枚  明治十三年      井上茂兵衛   大蘇芳年「月百姿」      百枚   明治十五年ヨリ    秋山武右衛門〈明治18-24年刊〉   小林清親「三十二相追加百面相」二十五枚 明治十六年      森本順三郎   安達吟光「狂画百影」     五十枚  明治十九年      井上吉次郎〈「狂画の面景」〉   豊原国周「歌舞伎十八番」   十八枚  明治二十二年     福田熊次郎   尾形月耕「婦俗画尽」     三十六枚 明治二十四年     佐々木豊吉   小林清親「百戯百笑」     五十枚  明治二十七年より八年 松木平吉   楊州周延「千代田の大奥」 三枚続二十組 明治二十八年     福田熊次郎(注5)   なお蝸牛の全文およびそれに対する本HPの考証については下掲の資料を参照ください。   参考資料 幕末-明治の錦絵(朝野蝸牛編『江戸絵から書物まで』所収)   この蝸牛のリストには載っていませんが、明治の錦絵を見渡したとき、逸してはならないものがあります。  小林清親の「光線画」です。というのも、この「光線画」は見事に浮世絵の精神を体現しているからです。   浮世絵は師宣以来、様々に変化する世相を新しい描法で活写してきました。清親もまた、西洋文物の流入で  刻々変化する眼前の東京を、明と暗、光と影とを巧に駆使して写し出しました。明治九年から明治十四年(18  76-81)にかけてのことです。最初は大黒屋・松木平吉が、のちに具足屋・福田熊次郎が引き継いで出版しまし  た。よほど新鮮だったとみえて、幼少の鏑木清方の記憶にも鮮明に残っていました。清方は明治十一年(1878)  生まれですから、明治十年代の後半以降の記憶を思われます。   「清親の、高輪の海岸を駛しる汽車の絵だの、向両国の火事、箱根、木賀の風景などは店頭に見た覚えがあ    る」(注6)   「高輪半町朧月景」は明治十二年刊、「浜町より写両国大火」と「箱根木賀遠景」は明治十四年刊で、版元  はいずれも具足屋です。ただ惜しいことに、この新しい試みも、当時の人々に対してはあまり興味を惹かなか  ったらしく、上出の山本笑月によれば、「今は滅法珍重される清親の風景画も当時は西洋臭いとて一向さわが  れず」(注3)で、どうやら清親や大黒屋や具足屋の先見性も、当時の人々の感性とはズレがあったようです。  昭和になった今でこそ「滅法珍重」されるようになったのではありますが、清親は大正四年(1915年)に亡く  なっていますから、気の毒なことに、生前この栄誉に浴することはありませんでした。   ともあれ、こうした錦絵で賑わいをみせた絵草紙屋の店先も、明治二十年代も末になると、次のような寂し  いトーンに変わります。以下は明治二十九年(1896))の記事です。   「絵艸紙屋の店頭に立ちて目につくは錦絵の変遷なり、維新以前に錦絵の大部分を占めし芸娼妓の美人画の    著く減少せしこと、芝居の流行の甚しきにも似ず役者絵の割合に尠くなりしこと、美術石版と称する古画    伯(応挙探幽等)の名画の翻刻流行すること、石版肖像画の殖えしこと、幼年者流のもてあそびに供する    小冊子類のいちじるしく殖えしこと、遊芸独稽古用のクダラヌ書類のおびたゞしきこと、『造化機論』や    うの書類今のあまた陳列しあること、錦絵の彩具及び紙質のわるくなりしこと、浄瑠璃本稽古の売足よき    こと」(注7)      「幼年者流のもてあそびに供する小冊子類」とは子供向け絵本、いわゆる「赤本」と呼ばれる類。また『造  化機論』の「造化機」とは生殖器のことで、明治九年(1876)図版入りで出版されて以来、隠れた性のベスト  セラーであったようです。店内での品揃えにも変化が、美人画や役者絵が退潮の兆しを見せる一方で、石版画  の進出が目立ち始めます。ただそれとともに、商品の低俗化、絵の具や紙質の劣化を招いたようであります。  そしてこれが三十年代に入ると、いよいよ旗色が悪くなります。  「二十七、八年の日清戦争に、一時戦争物の全盛を見せたのを境にして段々店が減って行った。役者絵は何と   いっても写真の発達に抗し得なかったろうし、出版の戦後目覚ましい進展を見せて来たことと、三十四五年   に絵葉書の大流行が旋風のように起って、それまでどうにか錦絵を吊るし続けていた店も、絵葉書に席を譲   らなければならなくなった」(注6)   絵はがきの大流行にトドメを刺されたというのが、鏑木清方の回想です。  G 地本問屋・戯作者の消滅   そもそも浮世絵製作システムの中で、戯作者と画工との関係はどのようなものだったのか、少し振り返って  みます。好例が馬琴の遺した資料の中にありますから引用します。  「小生稿本之通りニ少しも違ず画がき候者ハ、古人北尾并ニ豊国、今之国貞のミに御ざ候。筆の自由成故ニ御   座候。北さいも筆自由ニ候へ共、己が画ニして作者ニ随ハじと存候ゆへニふり替候ひキ。依之、北さいニ画   がゝせ候さし画之稿本に、右ニあらせんと思ふ人物ハ、左り絵がき(ママ)遣し候へバ、必右ニ致候」(注8)   天保十一年、馬琴が伊勢の殿村篠斎宛に出した書翰の一節です。ここでいう「稿本」とは戯作者が画工に与  える絵と朱書からなる下絵のことを云います。馬琴はこれでもって画工に指示を出します。  「稿本之通りニ少しも違ず画がき候者ハ」というところを見ると、画工は作者の指示に忠実であるべきだと、  馬琴は考えていたようです。その上でお気に入りの画工を三人あげます。北尾重政・初代歌川豊国・歌川国貞、  彼らこそプロ中のプロ、作者の意向を忠実に汲んで、作者が望むような図様に昇華できる名人だというのです。   それに対して、葛飾北斎は、と馬琴は云います。北斎は云うまでもなく彼ら以上に「筆の自由成」画工であ  る、しかし「作者ニ随ハじ」が玉に瑕で、作者の指示を無視して我意を通すというのです。   それもあったのか、文政元年(1818)のころ、越後の鈴木牧之から『北越雪譜』の出版に協力してほしいと  頼まれたとき、馬琴は内心では北斎の起用も考えたものの、「彼人ハちとむつかしき仁故、久しく敬して遠ざ  け、其後ハ何もたのみ不申、殊に画料なども格別の高料故、板元もよろこび申まじく候」として、結局断念し  ました。よほど北斎の難しさに懲りている様子です。(注9)※「其後」とは文化十二年刊の読本『皿皿郷談』を最後としてという意味     遙か後年、明治の鏑木清方が小説家と挿絵画家との関係を「太夫と三味線弾き」に擬えています。(注10)   北斎の場合は、三味線が自在過ぎて、さすがの馬琴も合わせかねるというのでしょう。やはり作者と画工の  間には阿吽の呼吸のようなものが働くか否かが重要のようです。   さて、清方はその太夫と三味線の絶妙な具体例として、尾崎紅葉と梶田半古との間柄を挙げました。ではそ  のような例を江戸に求めるとすれば、誰と誰になるか。やはり合巻『偐紫田舎源氏』の柳亭種彦と歌川国貞の  コンビを挙げるほかありません。   ※『偐紫田舎源氏』板元・鶴屋喜右衛門 文政十二年(1829)~ 天保十三年(1842)刊   これには幸い種彦の下絵が部分的ですが遺っています。岩波の『新日本古典文学体系』の鈴木重三氏の校注  によると、種彦は、時間や場所、構図に調度品の図様から着物の模様紋様に至るまで、ずいぶんこと細かに指  示を出しているようです。それに対して国貞は実に様々な工夫を凝らして応じています。しかしそれ以上に注  目したいのは、両者にはもっと積極的なやりとりがあったことです。馬琴ように一方的な関係ではありません  でした。種彦は図案の決定に迷うと国貞に判断を求めます。また国貞は国貞で、種彦の意を酌んで、下絵にな  い図様を加えています。つまり種彦もその図様を受け入れたわけです。両者の間に強い信頼関係がないと、こ  うしたやりとりは生じません。おそらくこの種彦の柔軟性と懐の深さが、国貞に工夫を促し、ひいては作品に  生彩を与えているものを思われます。   ともあれ、江戸の戯作者と画工の関係は下絵によって、しっかり結ばれていたわけです。   こうした作者と画工との関係が明治まで及んでいたことは、これも前回示した下掲の挿絵が物語っています。  ちょうど編輯人が画工に指示を出している場面です。    近世桜田講談(小林鉄次郎編・山崎年信画・明治十一年(1878)刊)   ではなぜ明治の画工に下絵が必要だったのか。野崎左文は次のように説明しています。  「馬琴種彦等の草双紙の稿本を見ても、皆作者が自筆で下絵を付けて居るが、これも単に作者の物好きという   ではなく、実際にその必要があったのだ。それは当時の画家は絵をかく事は上手にしても、何分にも時代の   研究という事が足らず、甚(はなはだ)しいのには草双紙の挿画や俳優の舞台上の着附などを唯一の粉本とし   て筆を把る画工もあったので、時代の風俗にとんでもない誤りが起こる事がある。そこで作者はその下絵に   先ず時代(天保年間とか慶応年間とか)、時節(夏の夜とか冬の朝とか)、場所、人物の身分年齢、時によ   ると人物の服装や背景の注文まで委しく朱書して送らねばならむ事があった。この必要上から魯文、藍泉-   藍泉氏は玄人の画家-その他の人々でも大概素人画はかけたのであった」(注2)   画工は絵を上手に画くが、作品の時代や場所の風俗などには無頓着だから、放っておくと過去の草双紙を焼  き直したり、役者の舞台上の着付けをそっくりそのまま使ったりする。とても油断がならないので朱書で注意  する必要があるのだという。   当然、魯文も藍泉も自ら下絵を画きました。藍泉の場合は、そもそも藍泉の号が、彼が松前の藩士高橋波藍  に就いて絵を学んだときの画号ですから、作画はお手の物で、下絵はそれほど負担ではなかったでしょう。こ  れは例外です。しかし戯作者たるもの、絵ごころの有無にかかわらず、何としても下絵は必須です。(注11)。   明治の十年代の合巻作者たち、そのほとんどは魯文や藍泉の弟子でありましたから、師匠同様下絵をかいた  ものと思います。   さて野崎左文によりますと、当時の戯作者たちの多くは、仮名垣魯文か高畠藍泉いずれかの門下生でありま  した。それでこれを仮名垣派と柳派と呼んで色分けしていました。(柳派と称したのは藍泉が三世柳亭種彦を  名乗ったことによります)   仮名垣派に所属するのは、二世花笠文京(渡辺義方)・彩霞園柳香(雑賀豊太郎)・胡蝶園わかな(若菜貞爾)・  蘭省亭花時(三浦義方)・二世一筆庵可候(富田一郎)・岡丈紀(川原英吉)・伊藤橋塘(専三)・久保田彦作・清水  米州(市次郎)といった面々、そして野崎左文もこちら側でした。   藍泉(転々堂主人)率いる柳派には、倉田藍江・柳条亭華彦(三品長三郎)・柳葉亭繁彦(中村邦彦)・柳塢亭寅  彦(右田寅彦)・柳崖亭友彦らが所属していました。(注2)   むろんこれら二派とは別に、幕末から明治の初年にかけて活躍していた戯作者もいます。二世笠亭仙果(篠  田久次郎)・二世為永春水(染崎延房)・万亭応賀(服部幸三郎)・梅亭金峨(瓜生政和)・柳水亭種清・山々亭有人  (条野伝平)といった人々。彼らは魯文や藍泉とほぼ同世代ですから、下絵は当然画くべきものでした。     浮世絵年表 幕末-明治    合巻等版本出版推移 幕末-明治   上掲のグラフ「合巻等版本出版推移 幕末-明治」を見ると歴然ですが、明治十六、七年ころピークを迎え  た合巻の出版も、明治十九年から急激に減り始め、二十年代になるとほとんど姿を消してしまいます。そして  それと軌を一にするように、戯作者も相次いで亡くなります。   明治17年 笠亭仙果二世没(48)   明 18年 高畠藍泉(柳亭種彦三世)没(48)   同 19年 染崎延房(為永春水二世)没(48)   同20年頃 柳水亭種清、寺の住職に就く。種清は同40年没(87)   同 23年 万亭応賀没(72)。仮名垣魯文、文壇退隠。   同 26年 梅亭金峨(瓜生政和)没(72)   同 27年 仮名垣魯文没(65)   同 35年 山々亭有人没(71)   象徴的に云いますと、明治二十年代、江戸を雰囲気を体現するような戯作者はほとんど姿を消してしまいま  す。彼らの死は一つの時代が終わったことを物語っています。例の浮世絵制作システムとの関係で云いますと、  下絵を画くことを自らの義務としてきた戯作者と、その下絵にそって作画する画工との協業関係が崩壊したの  です。   ところで、これまで版本の合巻から作者と画工との関係を見てきましたが、一枚絵・錦絵の場合はどうでし  ょう。そこに下絵に相当するようなものがあったのでしょうか。   版本にも一枚絵にも落款に「応需」とあるのをしばしばみます。これは戯作者や版元の需めに応じてと、理  解できます。してみると、おそらく一枚絵・錦絵の場合も、版元側が下絵に相当するようなものを、画工に与  えていたものと思います。戯作者と違って、実際に画いたり朱書きしたりすることはないにしても、指示とい  うか口頭あるいは文書によるアドバイスはしていたはずです。その指示の出し手が、版元自らであったり、あ  るいは趣向上のアイディアを豊富に持つ好事家であったりはするでしょうが。  「『月百姿』が芳年の作品たることはいうまでもないが、その背後には滑稽堂の主人があり、更に主人の背後   には、その師で博覧強記の人だった桂花園桂花がいて案を授けたのだった。芳年一人の力で、『月百姿』の   百番が成ったのではない」(注12)   これは明治三十九年(1906)『太平洋』という新聞に載った記事です。これによると「月百姿」は、版元の  滑稽堂・秋山武右衛門と桂花園桂花(日本橋室町の算盤商・幸島桂花)が趣向を凝らして図案を作成し、それ  を基に芳年が画いたとのこと。つまり錦絵の場合でも、画工は板元側からの指示に従って作画していたわけで  す。   さて、いうまでもなく桂花園桂花のような好事家は江戸にもいました。   嘉永六年(1853)のことです。七月ごろから国芳の「浮世又平名画奇特」という二枚続きの錦絵が、板元越  村屋平助から売り出されました。図柄は浮世又平が大津絵を画いているという変哲もないものなのですが、市  中ではこれにいろいろな噂が立ちました。例えば、浮世又平が役者市川小団次似でしかも水戸のご隠居(水戸  斉昭)を擬えているとか、藤娘は中村愛蔵でこのほど新しく将軍の奥様になる方だとか、いやあれは大奥の姉  の小路というお方だとか、こうした謎解きのようなものを、画中の人物ことごとくにやっているわけです。   市中を取り締まる町奉行はこれを世を惑わす浮説の流布だと捉えました。そこで隠密を放ちます。市中の様  子、とりわけ国芳の身辺を重点的に探索させました。すると神田佐久間町の明葉屋佐七なる人物が作画に関わ  っていることが分かりました。この佐七、報告書には「狂歌名梅の屋」とあり、また茶番や祭礼の練り物類の  趣向の巧者ともあります。つまりイベントを企画する名人なのでした。両者の関係は次のように記されていま  した。     「図取之趣向等国芳一存ニは無之、左之佐七え相談いたし候由」   「同人(佐七)は国芳え別懇ニいたし候間、同人(国芳)義、板元より注文受候絵類、図取を佐七え相談い    たし候間、浮世絵好候ものは、図取之摸様にて推考之浮評を生し候」(注13)   国芳は板元から注文を受けると、この佐七と相談して趣向や図様を決めるとあります。どうやら浮説の発生  源はこの佐七だと、隠密は睨んだようです。ただこれだけでは証拠として不十分らしく、作品は発売禁止にな  ったものの、国芳は佐七にはお咎めなしでした。なお板元の越村屋平助は過料(罰金)に処せられています。   参考までに「浮世又平名画奇特」関係の資料を、以下に引いておきますので参照ください。     浮世又平名画奇特 (浮世絵文献資料館所収)   この佐七、梅の屋鶴寿の狂歌名で知られた人で、名古屋藩出入りの秣(まぐさ)屋ともいわれています。商売  柄武家屋敷に出入りする機会も多かったものと思われます。国芳は天保十四年(1844)、判じ物の嚆矢とされ  る「源頼光公館土蜘作妖怪図」を出版しました。この時、水野忠邦を始めとする幕閣や改革の犠牲者を暗に擬  えているのではないかと、国芳は疑惑の目で見られました。案外梅の屋はこれにも関与していたのかもしれま  せん。   ともあれ錦絵でも、版元の強い指導力はもちろんのこと、鶴寿や桂花のような情報通や故事古典に通じた好  事家が画工の身辺にいて、下絵に相当するような図案を提供していたことは、確かでしょう。   さて明治の二十年代に入ると、明治を代表する版元の死もまた相次ぎます。清親の「光線画」を出版し、ま  た相撲絵の版元としても知られる大黒屋・松木平吉が、明治二十四年(1891)に亡くなり、その大黒屋に代わ  って「光線画」を引き続き出版し、また周延の「千代田の大奥」の版元としても知られる具足屋・福田熊次郎  が、明治三十一年(1898)に亡くなります。そして芳年の「藤原保昌月下弄笛図」や「月百姿」を出版した滑  稽堂・秋山武右衛門もまた明治三十三年(1900)に亡くなります。   浮世絵は版元を中心に戯作者・画工・彫師・摺師からなる分業システムから生み出されます。ところが、明  治の二十年代から三十年代にかけて、江戸そのものを身に纏ったような戯作者や版元たちが相次いで退場して  いきます。   なるほど画工と彫り摺りの職人はまだまだ存在しています。また歌川派最後の弟子たち、鏑木清方・池田輝  方・榊原蕉園・大野静方たちが水野年方のもとで修行を積んでいる時代でした。西洋の印刷技術が普及して、  彫り摺りの領域を浸食しつつあったとはいえ、雑誌や単行本の多色刷りの口絵などは、まだまだ木版の独壇場  でした。   しかし時代は確実に変わりつつありました。画工に下絵を与える戯作者が消滅しはじめる一方、他方では新  しい書き手の小説家が台頭してきました。明治十八年(1885)坪内逍遥の『当世書生気質』が世に出ます。こ  れ以降登場する小説家の多くは、そもそも絵入りを念頭において作品の構想を練ることなどなかっはずです。  したがって下絵などはまるで視野にはなかったでしょう。(ただし逍遥は下絵を画いています。『当世書生気  質』の挿絵については次回にふれます)   下絵がないと画けない画工は、戯作者の消滅によって仕事を失います。また新時代の小説の挿絵については、  作家本人が構想しない以上、画工本人が本文と関わって図様を自ら考案しなければなりませんので、下絵に寄  りかかってきた画工はもとより無縁です。   版元もまた時代に応じて変わりつつありました。活版印刷の導入はいうまでもなく、銅版・石版が登場して、  木版は印刷手段の一つに過ぎなくなりました。また新規参入の新興版元の中には錦絵を出版に中心に置かない  ところもぼつぼつ登場し始めます。明治の二十年代以降、木版口絵の黄金時代を築いた春陽堂・和田篤太郎の  ように、木板にこだわって浮世絵の製作システムの活用を考えた版元ですら、雑誌・単行本のような版本が主  体であり、錦絵の出版に執着することはなかったようです。   下絵を画かない小説家の登場、そして銅版・石版・写真製版の西洋印刷技術を駆使する出版社の登場、この  新しい時代の到来に、江戸以来の版元・戯作者・画工・彫師・摺師からなる木版の浮世絵界は、明治三十年代  以降、ほとんど対処できなくなってしまいます。  (注1)『大衆紙の源流』土屋礼子著・世界思想社・2002年刊  (注2)「明治初期の新聞小説」野崎左文著。『早稲田文学』大正十四年三月号。本稿は岩波文庫『明治文学回想集』(上)に拠った  (注3)『明治世相百話』山本笑月著・第一書房・昭和十一年(1936)刊  (注4)『明治初年より二十年間 図書と雑誌』所収「明治十年前後の書店配置図 日本橋から芝まで」浅野文三郎著        洗心堂書塾・昭和十二年(1937)刊  (注5)『江戸絵から書物まで』所収「(ち)大錦、画作者、発行者」朝野蝸牛編・朝野文三郎出版・昭和九年(1934)  (注6)『こしかたの記』所収「鈴木学校」鏑木清方著・昭和三十六(1961)年刊  (注7)『早稲田文学』第2号所収「彙報」明治廿九年(1896)年一月廿一日刊  (注8)『馬琴書翰集成』第五巻 天保十一年(1840)八月二十一日 殿村篠斎宛(書翰番号-56)  (注9)『馬琴書翰集成』第一巻 文政元年(1818)五月十七日 鈴木牧之宛(書翰番号-15)  (注10)『こしかたの記』所収「横寺町の先生」鏑木清方著・昭和三十六(1961)年刊  (注11)『新聞記者竒行傳』初編 隅田了古編・鮮齋永濯画・墨々書屋・明治十五年(1882)刊       全文は本HP「浮世絵事典」た行「高畠藍泉」にあります  (注12)『明治東京逸聞史2』森銑三編「太平洋三九・一・一五」記事。『東洋文庫』142  (注13)『大日本近世史料』「市中取締類集」二十一「書物錦絵之部」第二六七件     次回はいよいよ浮世絵師の最期・浮世絵の終焉です          以上 2017/10/31 記     次回 (3)浮世絵の終焉 -明治期 浮世絵の終焉 4-
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