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「浮世絵の誕生と終焉」浮世絵の誕生と終焉
    (3)浮世絵の終焉 -明治期 浮世絵の終焉 2-             加藤 好夫     前回見ましたように、幕末から明治にかけて、版元を中心とする分業体制、つまり作者・画工・筆耕・彫  師・摺師からなる浮世絵の製作システム、これは依然として健在でした。     浮世絵の製作システム  浮世絵の製作プロセス     明治十一年(1878)出版の合巻『近世桜田講談』(上下二冊 山崎年信画 小林鉄次郎編・板)に次のよう  な挿絵があります。       近世桜田講談   人物に付いた札を見ると、出版人・編輯人・筆工・画工・彫工・摺工とあります。この場面、桜田門外の  変を扱った本文と関係があるとは思えません。にもかかわらず、出版人兼編集人の小林鉄次郎(板元延寿堂  ・丸屋)はこの挿絵を入れました。その意図は不明です。ただこれによってこの分業体制が明治十年頃まで  機能していたらしいことは分かります。もっとも後述するように、翌年の明治十二年頃からこの分業体制、  早くも揺らいでいきますので、小林鉄次郎の意図はともあれ、後世からすれば、これが浮世絵製作システム  の形見らしくも見えます。    D 文明開化と浮世絵     幕末から明治にかけては、西洋の文物が一挙に押し寄せ、衣食住すべてにわたって大きく変わりつつあっ  た時代です。浮世絵界もその変動の時代に素早く対応しました。そもそも浮世絵はその誕生の時から、市中  に流行するもの、あるいは評判高いものを常に追いかけ続けて来ました。  「今の世のけしきゑがき、すみ田川の遊舫をうかめ、梅やしきのはるのけしきなど画くは、浮世絵のいやし   き流のゑがくところにして(中略)このうき世絵のみぞ、いまの風体を後の世にものこし」(注1)   これは老中松平定信の言です。当世の当世らしい様相を後世に伝えるという観点からすると、浮世絵に及  ぶものはないというのです。ただ浮世絵を「いやしき流」とするのは、いかにも士農工商の頂点にある八代  将軍の血筋を引く人の言らしくはあるのですが、この下賤視、定信のみならず一般のものでもありました。   ともあれ変転する世相を表現することこそ浮世絵の生命なのですから、文明開化の激動の時代に素早く反  応したのは当然のことでした。     嘉永六年(1853)のペリー来航は、江戸の人々の関心を大いに集めましたが、異国への好奇心が本格化す  るのは、やはり安政六年(1859)の横浜開港以降のことです。機を見るに敏な江戸の板元たちは、早速歌川  貞秀や歌川芳虎・二代目広重等を起用して、異国情緒の漂う横浜の風景や人物を画かせ、錦絵・版本として  売り出しました。いわゆる「横浜絵」です。これ以降、官庁・銀行・ホテルなどの洋風建築、鉄橋・鉄道に  蒸気機関車、馬車・人力車、噴水、そして洋装・西洋楽器に舞踏会、さらには西洋曲馬団やサーカスの興行  等々、開化にともなって流入するこれらの西洋文物を、その都度題材として取り上げていきました。いわゆ  る「文明開化絵」と呼ばれるジャンルです。   三味線の音を専ら左脳(言語脳)で聞く日本人が、バイオリンの音を右脳(感覚脳)経由で聞いた時、ど  んなに戸惑ったことか、想像もつきません。同様に、家や道具も含めて身の回りの多くが木と竹と紙と藁草  で出来ている当時の日本人には、煉瓦の建造物や鉄製の機械は目を疑うような驚異の世界であったに違いな  いのです。「文明開化絵」は当時の日本人に視覚上の快楽をもたらしたのでしょう。  E 浮世絵と新聞   a 新聞錦絵   明治五年(1872)二月、東京初の活版日刊紙『東京日々新聞』が、条野伝平や落合幾次郎(芳幾)等によ  って創刊され、同年七月、やはり活版の『郵便報知新聞』が創刊されました。新聞時代の幕開けです。   これに着目したのが具足屋福田嘉兵衛、明治七年十月、『東京日々新聞』の錦絵版を木板で出版します。  これは『東京日々新聞』の記事をもとにして、転々堂主人(高畠藍泉)や山々亭有人(条野伝平)らの戯作  者たちが譚(話)に仕立て、Ž‘Ž‘一蕙斎芳幾の絵を組み合わせて大判の錦絵にしたものです。   この企画、版元の具足屋が提案したものか、それとも『東京日々新聞』を立ち上げた条野・芳幾らか持ち  かけたものが、よく分かりませんが、新聞記事をもとに従来の浮世絵製作システムを動員して新しい錦絵を  創出したという点では大変画期的な企画でした。   この新しいメディアは、ニュースを絵入りの奇譚に仕立てて人々の興味を惹いただけでなく、漢字に振り  仮名を付けて、漢字に疎い層まで読者に取り込もうとしました。この目論見は大成功し、これに倣うものが  続きます。同年十一月には『各種新聞図解』(文案記者高畠藍泉・画工小林永濯・政永堂版)が創刊されま  す。そして翌八年二月には、錦昇堂熊谷庄七が、戯作者に松林伯円、画工に大蘇芳年を起用して、錦絵版  『郵便報知新聞』を創刊。また同年には大阪の版元阿波文(後に石沢)が笹木芳瀧の文・画で『大阪錦画新  聞』を創刊します。   以降、東京版の例を挙げると、八年三月『大日本国絵入新聞』(記者不明・画工梅堂国政、真斎芳州・上  州屋)、同十年四月『仮名読新聞』(記者久保田彦作・月岡芳年他・松村甚兵衛他版)、十一年三月『朝野  新聞』(記者不明・山崎年信画・林吉蔵)、十二年五月『東京各社選抜新聞』(記者不明・画工梅堂国政、  三島蕉窓・栄久堂山本平吉版)などなど、東京・大阪・京都をあわせて約四十種ほどの新聞錦絵が、次々に  生まれたといいます。(注2)(注3)なお、注目すべきは版元で、具足屋福田嘉兵衛・政栄堂政田屋屋平  吉・上州屋重蔵・松村甚兵衛・紅英堂林吉蔵・栄久堂山本平吉、すべては地本問屋です。   ところがその勢いは長く続きません。錦絵版『東京日々新聞』の創刊からわずか一年後の明治八年、より  報道を重視した絵入り振り仮名付きの新聞、いわゆる小(こ)新聞が登場すると、急激にその勢いを失いま  す。明治九年には錦絵版『東京日々新聞』錦絵版『郵便報知新聞』ともに廃刊になりました。   ところで、これらの錦絵新聞は新聞なのでしょうか、それとも錦絵なのでしょうか。大阪を別として東京  の新聞に限って云いますと、本稿は錦絵だと考えています。理由は、出版元が上述のように錦絵を専らとす  る地本問屋であり、江戸以来の浮世絵製作システム、戯作者・画工・彫師・摺師の分業体制に拠って、しか  も錦絵と同サイズの大判で出版しているからです。また錦絵版『東京日々新聞』の開版予告版を見ると「東  京日々新聞大錦」「東京人形町通り/地本絵双紙問屋 具足屋嘉兵衛」とあります。具足屋には、新聞のよ  うな大判錦絵を地本問屋として出版したという自覚があったものと思われます。   もう一つの理由は、この新聞錦絵が、ニュースを奇譚に加工して刺激的な絵と組み合わせることに専ら意  を用いて、事実を速報するという新聞本来の役割を果たすことには無頓着だったように思えるからです。   「新聞錦絵の興味深い性格は、もとになった新聞記事と錦絵との間に時差があり」中には二年も前の事件  を取り上げているケースもあると云い、またその時差が「概ね一-二か月以内」という指摘もあります。(注4)   この時差が、製版に手間が掛かるという浮世絵の製作システムから必然的に生ずるものなのか、最初から  そこに意を用いていないために生ずるのか、よく分かりませんが、速報性を重視していないことは明らかで  す。   錦絵版『東京日々新聞』を例にとると、エンジェルが掲げるタイトルに「東京日々新聞 四百四十五号」  とありますが、本紙四百四十五号自体の発行日は分かりません。また錦絵版にも発行日の明確な記載はあり  ません。欄外の改印によって年月を知ることは出来ますが、当時の一般の読者がそこまで注視したとも思え  ません。要するに新聞錦絵は事実報道では基本である「いつ」を軽視しているわけです。本稿が新聞錦絵を  新聞ではなく錦絵の形をとった絵入りの読み物とする理由です。   ついでに紹介しますと、鏑木清方はこう云っています。  「(明治九年前後)『東京日々』と『郵便報知』の新聞記事に出たものの中から、所謂ニュース・バリュー   のあるものを錦絵にして画中に解説を加えたものが出たことがある。「日々」は芳幾、「報知」は芳年で   あった」(注5)  清方はあきらかに錦絵と捉えていたわけです。  参考までに、土屋礼子著『大衆紙の源流』(世界思想社・2002年刊)に拠って錦絵新聞(新聞錦絵)の画工  一覧を掲載しておきます。 (2017/10/14付記)     新聞錦絵画工一覧   b 絵入り新聞(小新聞)   明治七年(1874)十一月、「小(こ)新聞」の『読売新聞』が創刊されました。これは天下国家を論ずる  『東京日々新聞』や『郵便報知新聞』のような「大(おお)新聞」とは異なり、より身近な巷間の出来事を専  ら取り上げて報道します。やはり漢字に振り仮名付きですから、読者層としては、『錦絵新聞』と同様、漢  籍等にあまり馴染みのない一般庶民をも想定していました。   案の定評判は上々でした。明治八年(1875)『読売新聞』の発行部数は八千余で『東京日々新聞』の七千  余を既に抜いていましたが、その差は千部ほど、これが翌九年になると、『東京日日新聞』の九千七百余に  対して『読売新聞』は一万五千余で、早くも約1.5倍もの差がついてしまいます。この勢いは衰えず、明治  十一年以降は2倍以上に差が開きました(注6)  『読売新聞』の発行元は横浜から来た日就社という活版印刷所。紙面は当然のことながら活版刷でした。た  だし挿絵はありません。必要なしとしたのか、当時の活版技術で挿絵を入れるのが困難だったのか、よく分  かりませんが、この発行の勢いと挿絵無しに目を付けたのが落合芳幾でした。   芳幾はこの年の十月から錦絵版『東京日々新聞』の画工を担当していたので、忙しかったはずですが、こ  の一ヶ月後に創刊された『読売新聞』をみて、期するところがあったのでしょう、すぐさま行動を起こして、  翌明治八年四月には、編集担当の戯作者・高畠藍泉(後に三世柳亭種彦を襲名)と図って『平仮名絵入新聞』  (後『東京平仮名絵入新聞』『東京絵入新聞』と改題)の創刊に漕ぎつけます。   おそらく、芳幾・藍泉らは『読売新聞』の好評を見て、市中の多くの人々の関心が事実速報にあることを  見取ったのでしょう。錦絵版にはない速報性を重視しました。加えて『読売新聞』とはその差別化を図るた  めか、挿絵を入れることにしました。   この『平仮名絵入新聞』は当初隔日刊でしたが、九月には日刊化して『東京平仮名絵入新聞』と改めます。  すると、紙面製作がとても慌ただしくなりました。本文の活版、挿絵の木板、これを組み込んで手廻しロー  ル印刷機で印刷するのですが、これが大変でした。   「警察受持の探訪者が帰社して差出す原稿の内から、絵を入れるべきものを択んで画工が直ちに版下を描    き、これをその夜の活版大組みの終りまでに急いで彫刻させる(中略:組終わったのち手回しのロール    印刷機で印刷するのだが)夜の十一時前後から刷り始めねば翌朝配達に間に合わぬ。それにしても五、    六時間の内に彫上げる必要上からその版木を二つにも三つにも割り、剞劂師が手別けをして彫刻し、あ    とでこれを継合すという究策を施す事もあった(云々)」(注7)   挿絵の木板を彫るのに手間取ったようで、毎日が綱渡りとも言える製作現場ですが、速報を重視して翌日  配達の約束は何とか果していたようです。      そうすると、二年以上の前の奇譚を取り上げる新聞錦絵の方は、速報性の点において小新聞に全く敵いま  せん。おそらく当時の人々が渇望していたのは「事実は小説より奇なり」の「事実」の方でなのです。今何  が起こっているかを情報として知ること自体が、非常に刺激的であったに違いありません。しかも現代風に  いえば双方向というか、読者の投書を積極的に受け入れるとともに、それを紙面にも載せましたから、新聞  はこれまで日本人が体験したことのない、実に魅力的な新聞空間を人々にもたらしたことになります。   同年十一月、戯作者の仮名垣魯文が河鍋暁斎を誘って『仮名読新聞』を発刊します。藍泉や芳幾の動きを  どうしても拱手傍観していられなかったのでしょう。   これ以降、『いろは新聞』(明治12)・『東京絵入自由新聞』(明治15)・『絵入朝野新聞』(明治16)・   『自由燈』(明治17)・『やまと新聞』(明治17)などの小新聞が明治十年代に創刊されました。   絵入りで日刊ですから各新聞社には専属の画工が必要でした。   明治十九年の『今日新聞』三八〇号付録(明治19年1月2日)に「ふりかな新聞画工之部」として  〝東京 大蘇芳年  同  落合芳幾  同  小林清親  同  尾形月耕   同  稲野年恒  同  新井芳宗  同  生田芳春  同  歌川豊宣   京都 歌川国峰  大阪 歌川国松  同左 後藤芳峰  高知 藤原信一〟     とあります。東西の小新聞の専属画工のリストです。すべて浮世絵師系の画工で。この頃はまだ浮世絵師  系の画工がまだまだ幅をきかしていたのです。      ところで、芳幾という人は実に勢力的というか、とにかく機を見るに敏な人で、明治五年、大新聞『東京  日々新聞』を立ち上げ、明治七年十月それをベースにしてその錦絵版を作り、そして明治八年四月には、小  新聞の『平仮名絵入新聞』を創刊しました。付け加えていうと、芳幾は雑誌にも関わりがあり、明治十一年  創刊の『芳譚雑誌』では挿絵を担当しています。   こうして芳幾は、新聞社付画工という新たな職域を開拓しました。いわば浮世絵の製作システムの外側に  も職域を設けたというわけです。しかし作者・画工・筆工・彫工・摺工・製本工のすべてが紙面製作に関わ  ったわけではありません。筆工と摺工は無関係でした。筆工は活字に取って代わられ、摺工は機械印刷にど  んどん仕事を奪われていきました。この流れは明治十年代の中頃から加速します。   F 合巻と芝居と新聞     前回グラフで示したように、合巻の出版は明治に入ると振るわなくなり、六年はわずか二点に止まりどん  底を迎えます。それが明治十年代になると再び盛り返します。     浮世絵界 幕末-明治    合巻等版本出版推移 幕末-明治     〈「浮世絵界 幕末-明治」は合巻・読本等分野ごとの作者・絵師・版元名を載せています。版本のデータは本HP        「版本年表」の安政~明治年間に基づいています。「合巻等版本出版推移 幕末-明治」は合巻・読本・その他版        本の出版点数をグラフ化したものです)   板元が活路を見いだそうとしたのは芝居と新聞・雑誌でした。   ここにいう芝居とは歌舞伎狂言の筋書きを合巻化したもので、いわゆる「正本写」と呼ばれるものです。   明治十一年、新富座は開業に際して河竹黙阿弥の「松の栄千代田の神徳」を上演しました。この時、二つ  の正本写が出ます。仮名垣熊太郎(魯文)録・蜂須賀国明画の大倉孫兵衛版『松の栄千代田の神徳』と篠田  仙果録・周延画の山村金三郎版の『松の栄千代田の神徳』です。また同じ年、黙阿弥の「日月星享和政談」  が新富座で上演された時は、松邨漁父編・国政画の大倉孫兵衛版『日月星享和政談』と篠田仙果綴・周延画・  福田熊太郎版『日月星享和政談』が出版されました。加えて、この年は更にもう一点、やはり大倉孫兵衛版  で松邨漁父録・周延画の『【劇場正本】仮名手本忠臣蔵』があり、合計五点の正本写が出版されました。   以降、十二年は9点、十三年は4点、十四年は12点 十五年は3点 十六年は7点、十七年は3点、十  八年2点と推移します。そして十九年以降の出版は絶えてしまいます。(注8)   この当時、錦絵の役者絵の方は、豊原国周や楊洲周延の活躍で依然として活況を呈していましたが、版本  の正本写は長続きしませんでした。最も衰退するのはこの正本写に限らず、次に述べる合巻もそうなのです  が。   明治十年(1887)、仮名垣魯文が主宰する『仮名読新聞』に、久保田彦作の小説『鳥追お松の伝』が連載  されました。するとこの明治を代表する毒婦ものは、仮名垣魯文によれば「千町万町の衆目に触れ喝采の声  価をえたる」と連載中から大評判になります。(注9)   これを商機と捉えたのが版元大倉孫兵衛です。早速これを合巻に仕立てます。こうしてなったのが、明治  十一年一月刊『鳥追阿松海上新話』(久保田彦作作・仮名垣魯文閲・楊洲周延画)。しかし奇妙なことに、  新聞では結末に至らず、合巻化して結末を迎えます。おそらく大倉孫兵衛の強い働きかけに魯文が応じたも  のと思われます。結末を知りたい新聞読者に合巻を購入させようという作戦でしょう。   似たようなことが、五月に出版された『夜嵐於衣花廼仇夢』(岡本勘造綴・吉川俊雄閲・永島孟斎画・辻  岡文助版)でも起こりました。校閲者吉川俊雄の序文によると、もともとは自らが「毒婦阿衣(おきぬ)の伝」  というタイトルで『さきがけ新聞』に連載していたものでした。それが「(阿衣)の奸悪を数ふれバ数條の  珍説奇談多瑞に渉り新聞紙面に悉(つく)す能ハず(云々)」つまり紙上では語り尽くせないので、「金松堂  の主人が乞ふに応じ半途にして紙上の掲載を止め岡本子をして之を双紙に綴らせ(云々)」と、辻岡文助の  強い要請もあって新聞連載を中絶して合巻化したといいます。(注10)   大倉孫兵衛や辻岡文助は、多くの新聞読者を合巻の購入者と見込んで、この挙に及んだものと思われます。  合巻を活性化するにはなりふりかまって居られなかったのでしょう。ともあれ、こうして新聞ネタを合巻化  するという流れが出来上がりました。   明治十二年、今度は仮名垣魯文が稀代の毒婦・高橋お伝の記事を『仮名読新聞』に掲載しました。これは  同年一月、お伝が斬首の刑に処せられたという話題性もあって、記事もまた大評判になりました。すると辻  岡文助が出てきて、これまた新聞連載を中絶させ、『高橋阿伝夜叉刃譚』(仮名垣魯文作・守川周重画)と  いうタイトルの合巻に仕立ててしまいました。キワモノですから、出版も時間が勝負、初編から八編まで二  十四冊、二月から三月にかけて僅か二ヶ月足らずで一挙に仕上げました。   同様の動きは雑誌にも及び、明治十二年刊の『巷説児手柏』(転々堂主人著・惠斎芳幾画・大蘇芳年補助・  武田伝右衛門版)は、芳幾が画工を担当していた『芳譚雑誌』(愛善社刊)に掲載されていたものです。い  よいよ新聞に続いて雑誌の合巻化も始まりました。   ともあれこうして、浮世絵界は新聞・雑誌に望みをかけて復活の兆しを見いだそうとします。もう一度あ  のグラフを見てみましょう。明治九年10点、同十年20点、同十一年20点、同十二年42点、同十三年  38点、同十四年46点、同十五年25点、同十六年64点、同十七年62点とピークを迎えます。しかし  そのあとが続きません。同十八年30点、同十九年9点、同二十年2点、同二十一年2点と激減し、二十二  年に途絶えてしまいます。     合巻等版本出版推移 幕末-明治     〈合巻・読本・その他版本の出版点数をグラフ化したものです)   この間、実は合巻の形態に大きな変化が生じます。三田村焉魚はこう振りかえっています      「明治になって江戸式合巻の出盛りは十二年から十四年までで、十五年には活版東京式合巻がでて、その    翌年より凄まじい勢で木板の江戸式合巻を駆逐して往つた」(注11)   三田村焉魚のいう「江戸式」とは、従来通り表紙・口絵・序・本文・挿絵・奥付・袋全て木板のもの云い  ます。「東京式」は本文と挿絵が活版印刷のものを云います。明治十六年からその殆どが活版に切り替わっ  たようです。したがって、明治十年代は同じく合巻といっても、本文と挿絵の印刷が木板一辺倒から活版に  替わったために、本文挿絵のところは視覚的にも大きくかわりました。従来の木板のものは絵のまわりに平  仮名がびっしり組み込まれていましたが(明治十年代は従来の木板の合巻でも漢字振り仮名つきになる)、  活版のそれは本文と挿絵と画然と仕切られるか、カットのように填め込まれるようになりました。   それにしても、なぜこんなに急速に活版が優勢になったかというと、この頃、活版の印刷コストが木版の  筆工・彫工・摺工のそれを下回ったからです。   「予ガ始メテ此業ヲ開キシハ明治九年(一八七六)ニシテ、当時活版ノ組料及ビ印刷ハ木版ノ彫刻及ビ摺    賃ヨリ高カリシ故ニ、予ハ謂ヘラク斯ノ如キ価格ハ決シテ永続スベキモノニアラズ、必ズヤ早晩下落ス    ベシト」(注12)   これは大日本印刷の前身・秀英舎を明治九年に設立した佐久間貞一の言です。明治九年ころは活版の方が  木板よりコストが高かったようですが、明治十年代に入ると逆転し始めたわけです。表紙・口絵・序は依然  として木版の方が優位でしたが、本文と挿絵は機械刷りが優位になりました。   上掲明治十二年刊『高橋阿伝夜叉刃譚』は、不思議なことに初編の本文だけが活版刷り、二編以降は従来  通り浮世絵製作システムによる木板という変則的なものでした。どんな事情があってこうなったものか分か  りませんが、おずおずとした進出ぶりです。ところが同じ十二刊の『巷説児手柏』の方は仕立て方が凄まじ  く、表紙・口絵・序は従来通り木板ですが、本文と挿絵は雑誌で使用した活版をそのまま使ったとされます。(注13)   活版の導入は筆工と彫工と摺工に影響をもたらしましたが、特に筆工には壊滅的打撃になり、摺工の仕事  も減少を余儀なくされました。もっとも、画工・彫工が安泰かというと、必ずしもそうも言えません。明治  二十年代に入ると、合巻そのものが出版されなくなります。ですから時間の問題に過ぎませんでした。   ともあれ版元はコスト削減のため、新聞や雑誌社との関係を強化して、浮世絵製作システムに拠らない方  向で合巻作りをはじめたわけです。要するに版元自体が浮世絵製作システムに出たり入ったりしているので  す。版元にとって浮世絵の製作システムは絶対のものでなくなりつつありました。   江戸から続く地本問屋の中にも、次第に浮世絵の製作システムから離れる版元が出始めます。   泉屋(山中)市兵衛は明治七年(1874)から『小学読本』など教科書の出版を始めます。(注14)また明  治十三年には、銅版や石版挿絵の入った『與地誌略』四編(西村茂樹編)の発行書林に名を連ねるなど、異  業種との関係も持つようになりました。(注15)藤岡屋(水野)慶次郎もまた、明治に入ると教科書の出版  に進出し、明治十四年には錦絵問屋を廃業したといいます。(注16)   こうして版元は浮世絵製作システム圏外に取引の領域を広げていきました。また活版コストの低下ととも  に、このシステムに拠る整版の出版は商売としては将来性が見通せないものとなっていたといえます。  (注1)『退閑雑記』松平定信・寛政五年(1793)記(『続日本随筆大成』第六巻 p35)  (注2)『大衆紙の源流』「東京で発行された錦絵新聞一覧」土屋礼子著(世界思想社・2002年刊)  (注3)「ニュースの誕生〜かわら版と新聞錦絵の情報世界」展図録(ネット上の「ニュースの誕生」より)      (東京大学総合研究博物館・社会情報研究所共同企画)      「錦絵新聞とは何か」土屋礼子著  (注4)「ニュースの誕生〜かわら版と新聞錦絵の情報世界」展図録(ネット上の「ニュースの誕生」より)     「小野秀雄コレクション再考」木下直之著       「たとえば、歌舞伎役者嵐璃鶴と密通したあげくに旦那を毒殺した原田キヌの事件は、明治五年(一八七二)二月二三日        発行の『東京日日新聞』第三号で報じられたが、それが錦絵になって売り出されるのは明治七年の夏だから、少なくと        も二年半の隔たりがある」      『大衆紙の源流』土屋礼子著 p94       「発行時期のずれは、最も近い場合は四-五日、最も隔たる場合は二年以上であるが、概ね一-二か月以内である」  (注5)『こしかたの記』「やまと新聞と芳年」鏑木清方著・あとがき昭和三十六年一月・中公文庫p34  (注6)『大衆紙の源流』付録「明治前期主要新聞紙号当り平均発行部数(1)」土屋礼子著(世界思想社・2002年刊)  (注7)「明治初期の新聞小説」野崎左文著。『早稲田文学』大正十四年三月号。本稿は岩波文庫『明治文学回想集』(上)に拠った  (注8) 出版点数は『【明治前期】戯作本書目』山口武美著(日本書誌学大系10・青裳堂書店・昭和五五年刊)       に拠っています。なお同書は正本写を「演劇」本に分類しています  (注9)『鳥追阿松海上新話』初編序。早稲田大学図書館「 古典籍総合データベース」より  (注10)『夜嵐阿衣花廼仇夢』早稲田大学図書館「 古典籍総合データベース」より  (注11)「明治年代合巻の外観」三田村焉魚著。『早稲田文学』大正十四年三月号。本稿は岩波文庫『明治文学回想集』(上)に拠った  (注12)「印刷雑誌発刊ニ際シ同業諸君ニ一言ス」佐久間貞一(『印刷雑誌』創刊号・明治二十四年二月)       引用は『佐久間貞一全集(全)』(矢作勝美編・大日本図書・1998年刊)より  (注13)「近世出版機構の解体(上)」前田愛著(『前田愛全集』第二巻『近代読者の成立』筑摩書房・1989刊 )   (注14)「初等教育 -広島大学図書館 教科書コレクション画像データベース」  (注15)「神奈川大学学術機関リポジトリ」『輿地誌略』四編下 画像〔013〕  (注16)「明治初年東京書林評判記」古本屋第三号 朝倉屋久兵衛著(『明治前期の本屋覚書き』文圃文献類従26所収)       「明治時代に相成り教科書を出版」      『東京書籍商組合員概歴』東京書籍商組合編 大正元年刊(国立国会図書館デジタルコレクションより)       「二代慶次郎ハ専ら書籍ヲ出版シ、教科書ノ翻刻及ビ取次販売ヲナシ、明治十四年ノ頃、錦絵問屋ヲ廃ス」     次回は浮世絵製作システムの戯作者と画工について述べます        2017/07/29     次回 (3)浮世絵の終焉 -明治期 浮世絵の終焉 3-
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