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「浮世絵の誕生と終焉」浮世絵の誕生と終焉
  (3)浮世絵の終焉 -明治期 浮世絵の終焉 1-            加藤 好夫     明治期の浮世絵の終焉に入る前に、これまでの浮世絵界を簡単に振り返って見ます。   浮世絵は、延宝の末年から天和初年にかけて(1681年前後)、菱川師宣の画く当世絵を「浮世絵」と名付  けたことから誕生しました。その後、役者絵の鳥居清信、美人画の西川祐信、浮絵(風景画)の奥村政信等  が世に出て、浮世絵の主要なジャンルはほぼ出揃いました。   しかし何といっても特筆すべきは、明和二年(1765)の錦絵の出現です。見当の発明と複雑な色調を可能  にする多色摺印刷、この木版史上最大の技術革新によって、表現の可能性は一挙に広がりました。そこにタ  イミングよく登場したのが、鈴木春信です。彼はこれを吾妻錦絵と称して、可憐な美人画を売り出しました。  これで美人画はついに肉筆同様の色彩を手に入れることになりました。そして天明の鳥居清長、寛政の喜多  川歌麿と続き、美人画は黄金時代を迎えます。十八世紀後半のことでした。      奇しくもほぼ同時期、役者似顔絵が現れます。立役者は勝川春章と一筆斎文調です。これを機に、役者絵  は似顔絵一色となり、旧来の鳥居派の役者絵は芝居の絵看板や番付類に限られるようになりました。特筆す  べきは東洲斎写楽です。活躍は寛政五、六年(1793-4)のほんの一瞬でしたが、この異才のインパクトは強  烈でした。彼は後の狂言作者によって「外流」と呼ばれています。どうやら浮世絵界や歌舞伎界の外側に居  た人物のようです。そのせいで江戸人の好みとはズレがあったのでしょう、結局、歌川豊国・国貞を筆頭と  する歌川派の似顔絵が支持を得ました。ともあれ、役者似顔というブロマイドの出現は、浮世絵界と歌舞伎  界との関係をますます強固なものとするとともに、浮世絵界にとっては巨大な収入源となりました。(注1)     戯作文芸界との関係もまた緊密です。安永四年(1775)、恋川春町作画の黄表紙『金々先生栄花夢』が出  版されました。草双紙が子供の慰みものから大人の読み物に一変したとされる作品です。同様に画工も交代  しました。これまで草双紙の挿絵は鳥居派が多くを担っていましたが、これ以降は、勝川、歌川などの新興  勢力が独占するようになりました。(注2)   そして文化四年(1807)頃、草双紙は黄表紙から合巻の時代に移ります。するとやがて表紙が色摺になり、  挿絵に役者似顔の人物が登場するなど、豪華でより親しみやすい方向へと進化していきました。特筆すべき  は、作者に柳亭種彦、画工に国貞を得たことです。文政十二年(1829)から連載が始まった『偐紫田舎源氏』  は、天保十四年(1843)、折からの改革で、種彦が断筆を迫られるまで、大ベストセラーであり続けました。   この合巻というジャンル、江戸の嗜好によほど合ったと見え、実に明治の十年末(1886)まで、引き続き  出版されます。合巻は実に浮世絵版本界の王道なのでした。。   一方、読本の分野はというと、寛政十一年(1799)、北尾重政が山東京伝の『本朝水滸伝』に初めて口絵  を画いて読本の定型を確立します。そして葛飾北斎の登場です。渓斎英泉曰く「繍像読本の插絵を多くかき  て世に行れ、絵入読本此人より大いにひらけり」。口絵はもちろん挿絵の面でも、北斎は計り知れない功績  を読本にもたらしたというのです。(注3)   口絵は、読者が一番最初に目を通すところですから、その役割は極めて重大です。鏑木清方の言を借りれ  ば、口絵は登場人物の紹介を兼ねた「映画の予告編のような」ものだとのこと。したがって読み手の読書意  欲や購買意欲は口絵の出来栄え如何に懸かっているともいえます。さてその口絵、再び脚光を浴びる時代が  やってきます。明治の二十年代になると、彩り鮮やかな木版口絵が、当時新興であった雑誌や単行本に蘇り  ました。ともあれ浮世絵界は戯作文芸の世界とも共に欠くことの出来ない関係を築いて来たのでした。   次に風景画です。双璧は言うまでもなく葛飾北斎と歌川広重です。彼らのおもな題材は、神話・伝説・歌  枕・物語等で着飾った伝統的な名所ではありません。江戸市中や街道筋に見かける土地/\の生業や名物な  ど、あくまで当世の風物を画くのでした。しかもそれを高見の見物ではなく、画く対象と同じ地平に立って  画きます。   歴史や文芸上の蓄積が希薄な江戸で、三十六や百もの名所を連ねようとすれば、それは新たな景勝美を発  見するほかありません。   北斎は「富嶽三十六景」で、富士を借景とするおらが土地の生活や風景を画きました。とりもなおさず、  それはその土地に一番ふさわしいおらが富嶽の発見でもあったわけです。むろん赤富士と呼ばれる「凱風快  晴」のように、どこの土地のものでもない富士、これぞ正しく富士としか言いようのない超然とした富士も  また、北斎は一方において画くのでありますが。   「江戸百景」の広重は、雪月花など、四季折々に見せる江戸の色鮮やかな景勝美を、市中から郊外へと移  動しながら、次々と発見していきました。いわば無名の地に潜む景勝美に活路を見いだしていったわけです。  これは要するに、江戸人によるおらが江戸の賛美に他なりません。   さて、誕生以来しばらく、町奉行など幕政担当者の眼中には、浮世絵などなかったようですが、寛政の改  革を過ぎたあたりから、取り締まりの対象として監視されるようになり、天保の改革では、美人画や役者似  顔絵が禁じられるなど、受難の時代もありました。それが幕末には、バリ万国博覧会出品用の作画を、幕府  から依頼されるなど、もはや無視できない存在となりました。しかしその一方で、嘉永元年(1848)には渓  斎英泉が亡くなり、同二年に北斎、安政五年(1858)に広重、文久元年(1861)に歌川国芳、そして元治元  年(1864)には三代歌川豊国(国貞)が亡くなって、浮世絵師の顔ぶれは急に寂しくなります。   弘化一、二年(1844-5)頃の番付「当世名人芸長者競」には、北斎・香蝶楼(三代豊国)・一勇斎(国芳)  ・広重・英泉の名が上がっていました。それが嘉永三年(1850)の「【高名時花】三幅対」という番付にな  ると、英泉・北斎の名が消え、一陽斎豊国(国貞)・一立斎広重・一勇斎国芳の三名が「出藍」の三幅対と  なります。そして慶応三、四年頃(1855-7)の番付では、孟斎芳虎・一恵斎芳幾・一鴬斎国周・一梅斎芳春・  一雄斎国輝・一魁斎芳年・喜斎立祥(二代広重)・玉蘭斎貞秀と、総入れ替えです。当時一番若い三十前の  芳年が出ているのはさすがと思いますが、以前の番付に競べると歴然、ずいぶん小ぶりな顔ぶれになってし  まいました。(注5)  (注1)『紙屑籠』三升屋二三治著・天保十五年成立『続燕石十種』三巻 本HP「東洲斎写楽」の項参照  (注2)『稗史提要』比志島文軒著。本HP「浮世絵師総覧」「恋川春町」安政四年の項参照  (注3)『無名翁随筆』「葛飾為一」記事。繍像は口絵。本HP「葛飾北斎」参照  (注4)『こしかたの記』「口絵華やかなりし頃(一)」本HP「浮世絵事典」「口絵」の項参照  (注5)本HP「浮世絵事典」「う」「浮世絵番付」の項参照。また下掲「浮世絵年表 幕末-明治(1)」参照    一 浮世絵の終焉   A 何をもって終焉とするのか   まず最初に、何をもって浮世絵の終焉とするのか、これを明らかにしておきます。その前にあらためて浮  世絵の製作システムと製作プロセスを示して置きます。     浮世絵の製作システム  浮世絵の製作プロセス   要するに、この製作システムが機能不全に陥り、製作のプロセスに支障が生じるような状態をもって、浮  世絵の終焉と見なします。具体的にいいますと、板元・作者(戯作者)・絵師・彫師・摺師の分業体制の崩  壊です。いつごろからどのようにしてこの分業体制にゆがみが生じ、何が原因で崩壊していったか、これは  後に述べますが、ここでは簡単にポイントを二つだけあげておきます。   一つは、急速に進む西洋化によって、木版一辺倒だった印刷業界に銅版・石版・活版の技術が流入してき  たことです。さすがに錦絵の一枚絵や版本の挿絵や口絵は木版の優位が明治三十年代までしばらく続きます。  しかし明治十年頃に木版と活版の印刷コストが逆転してからは、新聞・雑誌・単行本の文字は活版が木版を  圧倒してしまいます。この流れが程なく挿絵や口絵の印刷に波及したのは言うまでもありません。また一枚  絵の方は役者絵も美人画も写真によってトドメを刺されます。   もう一つは、絵師に求められる資質が変化したことです。浮世絵は当世絵ですから、維新後、急速に変貌  する世相や人心を、それを表現するにふさわしい画法を会得して表現して行かねばなりません。これは菱川  師宣以来、名だたる浮世絵師がみな等しく通ってきた道です。   確かに、明治の浮世絵師の中にも、光の効果に注目したり、写生に徹したり、有職故実を追究するなどし  て、従来にはない画法を開拓し、当世を表現した絵師はいました。しかしながら、当然のことですが、全て  の絵師が出来るはずもないのです。一方で、役者似顔や凧絵・押絵といった伝統的な分野に頼るほかなかっ  た絵師もたくさんいました。   明治も中半を過ぎた頃、若い浮世絵師たちはある分岐点に立たされました。注文に応じて型通りのものを  画くか、あるいは自らの創意と工夫で画きたいものを画くか、この二つです。要するに職人に甘んずるか、  画家として歩むかの択一です。しかしどう考えても、機械によるカラー印刷が普及し、役者・遊女・芸者の  写真が大量に流通する時代の到来は確実で。職人の道に未来はありません。   明治の三十年代、この製作システム内で育った最後の浮世絵師たちが世に出ます。しかし画家としての仕  事は、もはやこのシステム圏内にはありません。新聞・雑誌・単行本といった圏外生まれの新興のメディア  に仕事の場を求めるか、あるいは博覧会や展覧会というこれまた圏外に設けられた公開の場に作品を出品す  る他なくなってしまったのです。   B 幕末から明治初年にかけての浮世絵界     とはいえ、幕府が瓦解してすぐに崩壊が始まったわけではありません。幕末から明治にかけての地本問屋  の推移を見てみましょう。(注1)     地本双紙問屋      本組  仮組      嘉永四年(1851)   29軒        五年(1852)   29軒  114軒        六年(1853)   32軒  117軒      安政元年(1854)   33軒        二年(1855)   25軒        三年(1856)   37軒        四年(1857)   38軒        六年(1859)   39軒      文久元年(1861)   40軒      慶応二年(1868)        162軒      慶応三年(1867)   41軒      明治二年(1869)五月「出版条例」公布(開版申請は昌平、開成の両学校に行う)                ※問屋行事による改(あらため)は継続      明治五年(1872)一月「出版条例」改正(開版申請は書の大意を添えて文部省に行う)             四月 株仲間の解散にともない東京書林組合を結成      明治八年(1875)九月「新出版条例」公布(開版申請は内務省に行う。出版届出年月日および画作者・                版権者の住所氏名の記載を義務化)                ※行事による改は廃止、検閲は内務省が行う      明治十四年(1881) 「地本錦絵営業者組合名簿」103軒   地本問屋は折からの改革によって、天保十二年(1841)十二月、解散させられてました。嘉永四年とは、そ  れが再興なった年にあたります。以降、本組・仮組が徐々に増えて、維新直前には約200軒にも達してい  ます。これは、この浮世絵の製作システムに商売の可能性を見取って新規参入する人々が絶えなかったこと  を物語っていると思います。   しかし明治に入ると、維新後の混乱もあってか、廃業が相次ぎます。明治初年から七年ころにかけて、東  京で開版した書物問屋145軒のうち、地本問屋はわずか28軒に過ぎません。この間販売だけで出版しな  かった地本問屋もいるはずですので、必ずしも正確な数ではないのですが、それにしてもずいぶん減少しま  した。   それでもこの業界の命運は尽きませんでした。当時普及しつつあった小新聞をネタに、錦絵版の新聞を出  してみたり、西南の役に取材した戦争絵の特需が沈静化すると、今度は新聞ネタの合巻化が当たったりして、  次第に勢いがつき、十四年の時点では103軒と大きく盛り返しています。      寛政以降の地本問屋の推移については下掲の地本問屋を参照ください。     地本問屋〈本HP「浮世絵事典」「し」の「地本問屋」〉     さて、この地本問屋の推移の中で、大きな変化が二つあります。一つは「出版条例」の公布です。明治二  年(1869)と同五年の改正を経て、出版を望むものは誰でも文部省に開版申請を行えばよいということにな  りました。これによって、許認可の窓口が江戸の町奉行から明治政府の文部省へと移ったわけですが、それ  以上に重要な変化は、地本問屋以外の者でも開版出来るようになったという点です。事実、明治五年(1872)  刊『学問のすゝめ』の出版人は、従来の須原屋のような書物問屋ではなく、著者である福澤諭吉本人です。(注2)   もう一つは上記条例と表裏の関係にありますが、同五年の株仲間の解散です。これで地本問屋という強力  なカルテルに風穴があくことになりました。つまり仲間内の閉じた業界から自由に新規参入できる開かれた  業界へと変化したのです。これはのちに見るように、版元の主役が、江戸以来の地本問屋系から新興の出版  業者に交代するきっかけとなりました。   ところで改(あらため)つまり検閲制度がどうなったのか見てみましょう。五年の改正では文部省が検印を  押すことになっているのですが、錦絵や合巻といった地本問屋があつかう商品にまできちんと浸透していっ  たかどうか定かではありません。明治六~八年刊行の合巻や見世物の摺物には「酉四」(明治六年四月)「戌  閏八改」(明治七年閏八月)「亥八」(明治八年八月)といった改印がありますから、少なくとも江戸の地本問  屋だった仲間内では行事による改が行われていたようです。(注3)   しかしこれも明治八年九月の「新出版条例」で様変わりします。開版の申請先が文部省から内務省に代わ  り、出版届出年月日・画工名・作者名・版権者の住所氏名の記載が義務づけられました。また改印は廃止に  なり、検閲は国内の治安対策も併せて管轄する内務省が当たることになりました。   ところで、江戸の出版に関わっていた役人・役所が維新以降どうなったかというと、明治元年、江戸幕府  の瓦解とともに町奉行と町年寄は役を免ぜられ、名主も明治二年三月の制度廃止で、書物・地本問屋の出版  には関与しなくなりました。  (注1)『戊辰以来/新刻書目便覧』朝倉治彦・佐久間信子解題。本HP「浮世絵事典」「し」の地本問屋」参照  (注2)明治元年から七年(1868-74)にかけて、東京で書物を出版した問屋の記録「東京府管下書物問屋姓名記」には       「三田三丁目 福澤 福澤屋諭吉」と出ています。本HP「浮世絵事典」「し」の地本問屋」参照  (注3)本HP「版本年表」「合巻年表(Ⅵ)」の明治六~八年参照。また「浮世絵事典」の「見世物」の項、明治六年参照)   C 合巻を中心とする出版点数の推移   江戸幕府から新政府という大きな変動があったにもかかわらず、しばらく浮世絵業界はそのエネルギーを  失うことはありませんでした。以下、明治十年代までの活況を簡単に追ってみます。   次に示すのは、安政元年(1854)から明治二十二年(1889)にかけて、江戸・東京で出版された合巻・読  本およびそれを含めた出版点数をグラフにしたものです。   (なおこのグラフは江戸・東京の地本・書物問屋との相関を見るためですので、京・大坂の出版物は除いてあります。    またこの点数は例えば同じ年に一編~三編まで出版されたものでも一点として数えていますので、総冊数とは別です。    版元・絵師等の掌握が難しい艶本も除外しました)     浮世絵界 幕末-明治    合巻等版本出版推移 幕末-明治     〈「浮世絵界 幕末-明治」は合巻・読本等分野ごとの作者・絵師・版元名を載せています。版本のデータは本HP        「版本年表」の安政~明治年間に基づいています。「合巻等版本出版推移 幕末-明治」は合巻・読本・その他版        本の出版点数をグラフ化したものです)   合巻は安政四年(1857)の71点から次第に減少し始め、明治五、六年(1872・3)頃には戯作ネタが尽き  てしまったのか、ほとんど出版されなくなってしまいます。しかしそれも明治十年(1877)頃、新聞ネタを  合巻のネタとして使い始めた頃から息を吹き返し、明治十七年には62点を出すまでに盛り返します。もっ  ともそれが最後のあだ花で、二十年代に入ると全く出版されなくなります。   この合巻に絵本や滑稽本を加えた総数でもやはり同様の傾向が見えます。安政元年の104点から次第に  減り始めて、明治二~四年には、 政情不安定、民心不安が反映したものか、戯作分野の出版点数は20点  代に止まります。このころの江戸の戯作界のありさまを坪内逍遥は次のように記しています。  「まだしも草双紙だけは、最も人気のあった柳下亭種員は、嘉永五年に死んでしまったものの、後に一時二   世種彦を名宣った笠亭仙果や二世春水や万亭応賀らによって余勢を維持し得ていたが、曲亭によって始め   て知識階級の嗜読に堪えるようになって来た読み本系の小説は、松亭金水をさえ文久二年に失って、殆ど   全く後継者を絶つに至った。人情本は有人、梅彦、谷峨らによって、滑稽本は二世春水、谷峨、魯文によ   って辛うじてその残喘を保つに過ぎなかった」(注2)     なるほど、読本は明治になるとパタッと姿を消します。  それが、明治六、七年にかけて、服部(万亭)応賀の戯文と惺々暁斎の戯画による「開化滑稽風刺」本が大  いに持て囃されて、少し息を吹き返し。30点代から40点代に増加します。これで勢いが出るかと思われ  たのですが、八、九年になるとまた20点代に逆もどり。もはやこれまでかと思われたところに、明治十年  西南戦争が勃発、これが思わぬ戦争特需となって、一枚絵のみならず、版本も大量に出回りました。そして  明治十七年には合巻62点、総数で104点、安政元年に匹敵する出版数にまで盛り返します。(参考まで  に言うと、嘉永期間の合巻は平均して、ほぼ40点から50点代で推移)   しかしこの明治十年代の合巻の全盛の裏で、はやくも凋落の兆しが現れていました。三田村鳶魚はこう振  り返っています。  「清新闊達な芳年の筆致は、百年来の浮世画の面目を豹変させた。彫摺りも実に立派である。鮮斎永濯のも   あったが上品だけで冴えなかった。孟斎芳虎のは武者絵が抜ないためだか引立ちが悪く、楊州周延のは多   々益(マスマ)す弁じるのみで力弱く、桜斎房種もの穏当で淋しく、守川周重のもただ芝居臭くばかりあって   生気が乏しい。梅堂国政と来ては例に依って例の如く、何の面白みもなかった」(注1)   月岡芳年は別格として、他の浮世絵師たちの挿絵はマンネリ化が進行、相当飽きられていたとみえます。  明治二十年代に入ると合巻は全く出版されなくなります。しかしその予兆のようなものは十年代の合巻出盛  りの時に既に現れていたのです。  (注1)「明治年代合巻の外観」三田村鳶魚著『早稲田文学』大正十四年三月号(岩波文庫『明治文学回想集』上83)  (注2)「新旧過渡期の回想」坪内逍遥著『早稲田文学』大正十四年二月号(岩波文庫『明治文学回想集』上12)     次回は、明治初年から十年代にかけての推移を具体的に見ていきます        2017/06/30     次回 (3)浮世絵の終焉 -明治期 浮世絵の終焉 2-
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