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「浮世絵の誕生と終焉」浮世絵の誕生と終焉
    (2)浮世絵派の確立と呼称「浮世絵師」の曲折               加藤 好夫     前回は、「浮世絵」と「浮世絵師」という呼称が、延宝末年かあるいは天和初年(1680年前後)に生まれた  ことを述べるとともに、その後「浮世絵」という呼称が菱川師宣の絵とが分かちがたく結びついていった様子  を簡単に辿ってみました。   今回は、その分かちがたく結びついていった様子を、新たに編集し直した下掲の「浮世」を冠した言葉と呼  称「浮世絵」の時系列に拠って再確認するとともに、それが「浮世絵」という一つの画派の確立に結びついて  いった様子を振り返ります。そして「浮世絵師」の呼称の曲折についてはその後に述べます。       「浮世」を冠した言葉と呼称「浮世絵」の時系列
   二 浮世絵派の確立     A 結びつく菱川絵と「浮世絵」    元禄年間に入ると、菱川師宣の絵と「浮世絵」との結ぶつきはいよいよ強固になっていきます。      ①「菱川が筆にて浮世絵の草紙を見るに、肉(シシ)置(オキ)ゆたかに、腰付に丸みありて(云々)」     (『色里三所世帯』井原西鶴作・元禄元年(1688)刊・大坂)
  ②「(遊女・小紫)きりやうのやんごとなき事、尊朝の仮名ぶみ、菱川がうき世絵もをよばず」     (『諸わけ姥桜』遊色軒作・元禄五年(1692)刊・京)
  ③「菱川、吉田が浮世枕絵有程ひろげて」     (『好色とし男』作者未詳・元禄八年(1693)刊・京か?)
  ④「あのやうな美しいこもそうは江戸みやげに貰うた菱川がうき世絵の外みた事は御座らぬ」     (『好色艶虚無僧』桃林堂蝶麿作・元禄九年間・江戸)
  ⑤「京屋の御琴といふ米(よね)は松の位のわかみどり。宍戸与一が仮名文、菱川の浮世絵もおよばず」     (『風流日本荘子』京の錦作・元禄十五年(1702)刊・京)     菱川師宣の没年は元禄七年(1694)ですから、生前はもとより没後も「菱川が浮世絵」という言い方が、大  坂でも京都でも江戸でも、浮世草子の世界では一種の決まり文句のようなものになっていたのでしょう。ここ  に師宣の絵が三都に鳴り響いていた様子が見てとれます。   さてこの「菱川が浮世絵」ですが、その絵柄には共通点があります。①と③が春画、②と⑤が遊女、④は  若衆。浮世草子の分類でいうといずれも好色物ということになります。①は井原西鶴の文。西鶴は以前から師  宣の春画には注目していたようで、「菱川が書しこきみのよき姿枕を見ては、我を覚ず上気して(云々)」と  いう文がすでに『好色一代女』(貞享三年・1686)に見られます。   「浮世絵」という呼称についていうと、西鶴にはこれ以前に「祐善が浮世絵」(天和二年・1682)とか「浮  世絵の名人花田内匠といへる者」(貞享四年・1687)といった用例が既にありました。これらは洗練された扇  や魅力的な若衆絵に対して用いられた例であります。しかし①の文を認めたときの西鶴はおそらく上掲「菱川  が書しこきみのよき姿枕」を念頭におきながら「菱川が浮世絵」と記したに違いありません。したがって西鶴  のいう「菱川が浮世絵」の「浮世絵」という呼称には、春画のイメージが重なっているものと考えられます。   しかしもともと師宣絵本の序に使われた「浮世絵」という呼称は、年中行事(『月次のあそび』)や武者絵  (『大和武者絵』)などの絵柄に対するものでありました。必ずしも「好色」というイメージだけではなかっ  たのです。にもかかわらず、西鶴の例にもあきらかなように、菱川絵は好色的なイメージで彩られていきまし  た。   貞享四年(1687)、師宣の挿絵を添えた西鶴の『好色一代男』が出版されました。いわゆる江戸版の『好色  一代男』です。これの影響も大きかったのでしょう、これ以降浮世草子の世界では、「菱川が浮世絵」と云え  ば「好色」を連想するようになっていったものと思います。   ついでに云うと、当時春画の出来映えで注目された絵師は師宣ひとりに限りません。
  ⑥「当世ぬれ絵かきの名人、お江戸のひしかわ、京の吉田半兵衛」     (『諸国此比好色覚帳』作者不詳・貞享年間(1684-87)刊)
  江戸の菱川・京の吉田、春画名人としての評判は、彼らの生前から鳴り響いていたのです。また死してなお  「ぬれ絵かきの名人」のイメージが付きまとっていた様子は、上掲③や元禄七年(1796)刊の次のような浮世  草子のくだりからも見て取ることができます。
  ⑦「白郡内の裏に、菱川が筆をうごかせし男女の交はり」     (『好色小柴垣』酔狂庵作・元禄九年(1796)刊)     B 菱川から鳥居・奥村・西川へ      宝永から享保(17世紀前半)にかけて、呼称「浮世絵」に少しずつ変化が現れます。例によって、上掲の   「浮世」を冠した言葉と呼称「浮世絵」の時系列に基づきながらスケッチします。      変化の一つは、絵師の主役交代です。   ①(『風流鏡か池』という浮世草子の中で、宝永五年(1708)の二月に急逝した役者・中村七三郎の姿絵を     誰に画かせるかをめぐって、『源氏物語』の「雨夜の品定め」よろしく「うき世絵の品さだめ」なるも     のを行い、その優劣を論じて絵師を決定するという趣向が用いられました。そこで品評の対象になった     絵師が次の通りでした)    「うき世又兵衛と云し絵師」「近代やまと絵の開山、菱川と云し名人」「今の鳥井(ママ)奥村などが、きさ     き、官女、むすめ、娵(よめ)、遊女の品をかきわけて、大夫、格子(かうし)それより下つかた、そ     のふうぞくをうつし絵は、さりとは絵とはおもわれず、生たる人のごとくなりしを(云々)」     (『風流鏡か池』巻二「夢はすゞりのうみ」独遊軒好文の梅吟作 奥村政信画 宝永六年(1709)刊)     〈「鳥井」は「鳥居」の誤記〉     浮世又兵衛・菱川師宣・鳥居清信・奥村政信     ②「近ごろ越前の産、岩佐の某となんいふ者、歌舞白拍子の時勢粧を、おのづからうつし得て、世人うき世     又兵衛とあだ名す。久しく代に翫ぶに、亦、房州の菱川師宣と云ふ者、江府に出て梓に起し、こぞつて     風流の目を喜ばしむ。この道、予が学ぶ処にあらずといへども、若かりし時、あだしあだ浪のよるべに     まよひ、時雨、朝帰りのまばゆきを、いとはざる比ほひ、岩佐、菱川が上にたゝん事をおもひて、よし     なきうき名の根ざし残りて、はづかしの森のしげきこと草ともなれりけり」     (「四季絵跋」英一蝶の跋文・享保三年(1718)記)     岩佐某・菱川師宣     ③「浮世絵にて英一蝶などよし、奥村政信、羽川珍重、懐月堂などあれども、絵の名人といふたは、西川祐     信より外なし、西川祐信はうき世絵の聖手なり」     (『独寝』柳里恭(柳沢淇園)著・享保九年(1724)成稿)     英一蝶・奥村政信・羽川珍重・懐月堂派・西川祐信     ④「浮世絵 江戸菱川(ヒシガワ)吉兵衛と云人書はじむ。其後古山(フルヤマ)新九郎、此流を学ぶ。現在は懐     月堂、奥村正信等なり。是を京都にては江戸絵と云」     (『本朝世事談綺』菊岡沾凉著・享保十九年(1734)刊・『日本随筆大成』第二期12巻所収)     菱川師宣・古山師政・懐月堂派・奥村政信     ⑤「(遊女・小紫)きりやうのやんごとなき事、尊朝の仮名ぶみ、西川がうき世絵もをよばず」     (『傾城千尋之底』遊色軒・寛延二年(1749)刊)     西川祐信     「菱川が浮世絵」から「鳥居・奥村が浮世絵」そして羽川・懐月堂が加わるとともに「西川が浮世絵」へと  主役が交代していきます。⑤の『傾城千尋之底』は、実は上掲A②の『諸わけ姥桜』の改題本です。文面は全  く同じなのですが、A②の「菱川がうき世絵もをよばず」の菱川が西川に代わりました。これは菱川師宣の死  後、「浮世絵」の主要な担い手が鳥居・奥村・西川たちに移っていったことを示しています。またこの頃にな  ると、菱川から鳥居・奥村・西川といった「浮世絵」の系譜というか、菱川を源泉とする流れのようなものが、  形をとって現れ始めます。やがてその視野の中に越前産の岩佐某(浮世又兵衛)や英一蝶もまた加わるように  なります。要するに「時勢粧」を画く菱川の流れが、もともと狩野派に学んだ英一蝶のような絵師にまで影響  を与え始め、柳沢淇園のような文人画畑の人の注目を惹くなどして、次第に大きな流れになっていったという  わけです。     ところで④に「江戸絵」という呼称が出てきましたので、これについて少し補足します。
  ⑥「紅絵 浅草御門同朋町和泉屋権四郎と云者、版行のうき世絵役者絵を、紅彩色にして、享保のはじめご     ろよりこれを売。幼童の翫びとして、京師、大坂諸国にわたる。これ又江戸一ッの産と成て江戸絵と云」     (『本朝世事談綺』日本随筆大成 2期12」享保十九年(1734)刊)     ⑦「江戸絵一流元祖芳月堂奥村文角政信正筆〔瓢箪印〕正名印 通油町奥村屋源六板元」     (「花傘三幅対」奥村政信画 紅摺絵 延享~寛延頃(1740頃)刊 ARC古典籍ポータルデータベース画像)     ⑧「書林雁金肆しきりに乞ふて櫻木にして花盛んなる江戸絵をひろめんとなり」     (『絵本舞台扇』序・勝川春章、一筆斎文調画・明和七年(1770)刊)     ⑨「一枚画は江戸絵とて賞翫すといへり。今當所にて商ふ画は皆江戸より廻るといへり。尤當地にても江戸     にて似せて板行を摺れども画ハよからず」     (『難波噺』池田正樹大坂滞在記・『随筆百花苑』巻14・明和八年(1771)記事)     享保の初年頃、京・大坂で生まれたらしい「江戸絵」という呼称には、江戸生まれの彩色絵(筆彩及び版画)  であって、組物や絵本ではない一枚絵、とりわけ役者の錦絵というイメージがあったようです。   文芸上の中心が京・大坂から江戸の方に移る現象を「文運東漸」と呼びますが、浮世絵の世界では菱川師宣  の登場に引き続いて、紅絵(享保初年・筆彩)や紅摺絵(延享元年・主に三色摺)や錦絵(明和二年・多色摺)  などといった彩色面でのさまざまな革新があって、江戸は早くも京・大坂の文化圏から離れて、独自の進化を  遂げ始めたといってよさそうです。   なお参考までに云うと、奥村政信に「浮世絵は江戸元祖菱川りう美人三十二相図、是によりて江戸絵と名づ  く」の言があり、政信は「江戸絵」の始まりを菱川師宣にまで遡らせます。政信にとって「浮世絵」と「江戸  絵」とをほぼ同義語にした師宣は、まさにこの流れの元祖たるにふさわしい存在であったに違いありません。(注1)
  (注1)『絵本風雅七小町琴碁書画』奥村政信画・享保八年(1723)刊)
     C 呼称「浮世絵」の定着
  もうひとつの変化は、版元や絵師たち自らが「浮世絵」という呼称を使い始めたことです。上掲B①~⑤に  見られる「浮世絵」という呼称はすべて、いわゆる浮世絵師以外の人々が菱川や鳥居・奥村・西川の絵につけ  た呼称でした。菱川師宣の絵を「浮世絵」と呼んだのは師宣自身ではありません。彼は自らの署名を一貫して  「大和絵師」あるいは「日本絵師」と記しています。そうすると、師宣自らは自身の絵を「大和絵」と呼んで  いたのではないかと思うのです。またこれは後に詳述しますが、彼は「浮世絵師」と呼ばれることを望んでい  ませんでした。したがって師宣が自身の絵を自ら「浮世絵」と呼んでいたとは考えられません。
    ところが享保年間(1716-35)になると、版元や奥村派に変化が現れます。彼らは自らの絵を「浮世絵」と  明確に認め始めます。
  ①「浮世絵根元絵双帋問屋〔商標〕湯島天神女坂下小松屋」     (「嵐わかの 市川団十郎 大谷広次」鳥居清信筆・漆絵・享保八年(1723)刊)      ②「うき世ゑ地本ゑそうし問屋〔商標〕天神男坂丁岩いや」     (「市川団十郎 大谷広次」鳥居清倍筆・漆絵・享保八年刊)      ③「浮世絵版元絵双帋問屋〔商標〕牛島天神女坂(欠字)」     (「三条勘三郎 萩野伊三郎」奥村利信筆・漆絵・享保八~十二年頃刊)      ④「うき世ゑ地本ゑそうしといや〔商標〕新大坂町三川屋板元」     (「坂東彦三郎 瀬川菊之丞」鳥居清信筆・漆絵・享保八~十二年頃刊)     ※以上①~④ 武藤純子著『初期浮世絵と歌舞伎』笠間書院・2005年刊より     以上が版元自らが商品を「浮世絵」と呼んでいる例でした。   以下は絵師が自らの絵を「浮世絵」と呼んだ例です。
  ⑤「日本画工 浮世絵一流根元 奥村親妙政信筆 通塩町ゑさうしといや あかきひやうたん印 奥村屋」     (化粧坂の少将役の「山本花里」漆絵・享保十一年(1726)刊)
  ⑥「大和画工 奥村利信筆」「うき世絵版元絵そうし問屋」     (「三ぷくつい 右 江戸もとゆひ」漆絵・享保中期刊)       こうして「浮世絵」という呼称は、B③『独寝』の柳沢淇園のような文人やB④『本朝世事談綺』の菊岡沾  凉のような俳人、いわば第三者が使うだけでなく、当事者ともいうべき画工や板元も自ら使うようになってい  きました。絵柄も役者絵が主役になります。      D 浮世絵派の確立
  寛政年間(1789-1800)に、大田南畝の『浮世絵考証』と笹屋邦教の『古今大和絵浮世絵始系』、そして享  和二年(1802)には山東京伝の『浮世絵類考追考』が成立します。これらを一本化したものがいわゆる『浮世  絵類考』と呼ばれているものです。これらは浮世絵という画派の確立に向けて実に画期的な役割を果たすこと  になりました。
    浮世絵類考(『浮世絵考証』『古今大和絵浮世絵始系』『浮世絵類考追考』)     『浮世絵考証』は「浮世絵」に含むべき事項として、次の八項目を立てました。
  浮世絵・大和絵・漆絵・一枚絵(紅絵共江戸絵共云)・草双紙(赤本/青本/黄表紙)   吾妻錦絵・役者似顔・摺物絵
  そして取り上げた「浮世絵師」を列記すると以下の通り。
  岩佐又兵衛・菱川師宣・鳥居庄兵衛(清信/清満/清倍/清経/清長)橘守国・近藤清春・奥村政信・   西川祐信・石川豊信・鈴木春信・富川吟雪・小松屋・勝川春章(春好/春英)・恋川春町・   北尾重政(政演/政美)・一筆斎文調・湖竜斎・歌川豊春・喜多川歌麿・栄之(栄理/栄昌)・   国政・写楽・窪俊満・宗理・豊国・春朗・歌舞伎堂・春潮・豊広
  まず上掲の項目、冒頭の「浮世絵・大和絵・漆絵・一枚絵……」の項目。実のところこのつながりが分かり  づらかった。性質の違うものが並んでいるからだろうと思います。「浮世絵・大和絵」は漠然としていますが、  どうやら絵柄の違いを指しているようです。それに対して、漆絵以下のところは極めて明確で、版画か版本か  筆彩か色摺かといった形態上の違いによって分けられています。(しかもそれがほぼ出現年代順に並んでいる)   なぜこのような並べ方になっているのか最初はわかりませんでした。しかし八項目と絵師名とを対照してい  たらその糸口がつかめました。「浮世絵」が「岩佐又兵衛」と、また「大和絵」が「菱川師宣」とが対になっ  ています。要するに「浮世絵」が岩佐又兵衛の絵を、「大和絵」が菱川師宣の絵を指しているのです。そうす  ると、南畝の『浮世絵考証』の「浮世絵」とは、浮世絵(岩佐又兵衛絵)・大和絵(菱川師宣絵)・漆絵・一  枚絵・草双紙・吾妻錦絵・役者似顔絵・摺物絵ということになります。   さて南畝の岩佐又兵衛の項を見てみます。南畝は藤井貞幹の『好古日録』(寛政九年(1787)刊)の「岩佐又  兵衛」記事をそっくりそのまま引きます。そしてその上で「是世にいわゆる浮世絵のはじめなるべし」とのコ  メントをつけ加えてました。これは藤井貞幹の本文「能当時ノ風俗ヲ写スヲ以、世人呼テ浮世又兵衛ト云」に  呼応したものです。前回「浮世」の字義のところで確認しましたように、「浮世」には今様・当世様(現代風)  の意味があります。南畝とすれば「当時の風俗」を写す名人と称され、しかも「浮世又兵衛」の渾名さえあっ  た岩佐又兵衛はまさに「浮世絵」の元祖たるにふさわしと考えたのでしょう。つまり南畝は岩佐又兵衛の画業  を「浮世絵」という呼称で一括りするとともに浮世絵の元祖に据えたわけです。   ところで、南畝は岩佐又兵衛の絵を実見したという痕跡がありません。したがって「浮世絵のはじめなるべ  し」という按記は絵を実見した上での判断ではなく、この『好古日録』や後に触れる英一蝶の「四季絵跋」な  どの文献によって判断したものと考えられます。南畝がこの『浮世絵考証』を著した頃、つまり寛政頃、岩佐  又兵衛の絵を実見した人はほとんどいなかったと思います。にもかかわらず「浮世絵」の元祖としての地位は  次第に定着しつつあったものと考えられます。   次の「大和絵」の項目、南畝は菱川師宣の項で「大和絵師又は日本絵師とも称ス」とコメントしています。  そしてそのうえで貞享四年(1687)の地誌『江戸鹿子』そして元禄二年(1689)の地誌『江戸図鑑』を引き、  生前の師宣が巷間では「浮世絵師」と呼ばれていたことを具体的に指摘します。つまり「大和絵師」でありな  がら「浮世絵」を画いたので「浮世絵師」とも呼ばれていたというのです。   天明八年(1788)、南畝は「菱川吉兵衛」画の「元禄の比の板にて月次の遊といへる絵本」に基づいて、芝  居の「顔見世」の読みに関するメモを残しています。(注1)この「月次の遊」は、元禄四年版の絵本『月次  のあそび』に他なりません。そこには次のような序文と奥書がありました。これは南畝も実見したはずです。
  「爰に江城のほとりに菱川氏の誰といひし絵師、二葉のむかしより此道に心寄、頃日うきよ絵といひしを自    然と工夫して、今一流の絵師となりて、冬の山に花をさかせ鬼神にもおとろしき頭をかたぶけさせぬ」   「元禄四年未五月吉日 日本絵師菱河吉兵衛師宣 大伝馬町三町目鱗形屋開板」
  奥書で「日本絵師」と署名する師宣の絵を、序者が「うきよ絵」と呼んでいたことを、南畝は知っていたに  ちがいありません。(もっともいささか心もとないのは、南畝がもし実見していたら、彼の文献に対する姿勢  からすると、このメモには「元禄の比」ではなく「元禄四年」と明記したような気もするのですが)また『江  戸鹿子』や『江戸図鑑』の「浮世絵師」記事をそのまま引いているわけですから、師宣の絵を「浮世絵」と呼  ぶことにためらいはなかったものと思われます。
  こうして南畝は岩佐又兵衛の「浮世絵」と菱川師宣の「大和絵」を「浮世絵」の中に包み込みました。  さらに南畝は、彼らが同じ流れにあることを、英一蝶の「四季絵跋」を引いて示します。  (二のB②と同文ですが再度引きます)
    「近ごろ越前の産、岩佐の某となんいふ者、歌舞白拍子の時勢粧を、おのづからうつし得て、世人うき世又    兵衛とあだ名す。久しく代に翫ぶに、亦、房州の菱川師宣と云ふ者、江府に出て梓に起し、こぞつて風流    の目を喜ばしむ。この道、予が学ぶ処にあらずといへども、若かりし時、あだしあだ浪のよるべにまよひ、    時雨、朝帰りのまばゆきを、いとはざる比ほひ、岩佐、菱川が上にたゝん事をおもひて、よしなきうき名    の根ざし残りて、はづかしの森のしげきこと草ともなれりけり」
    「四季絵跋」(全文)英一蝶 享保三年(1718)     一蝶はここで岩佐又兵衛と菱川師宣を一つの流れとして位置づけています。「歌舞白拍子の時勢粧(いまよ  うすがた)」すなわち最先端の粧いをした遊女を写す名人であり「うき世又兵衛」という渾名をさえ有する岩  佐又兵衛と、江戸の「風流の目を喜ばしむ」る菱川師宣とを、一蝶は同じ流れに属するものとして両者を繋い  だわけです。しかも「予が学ぶ処(狩野派)」とは違う独立した一つの「道」として認めたのでした。さらに  一蝶は、自らを振り返って次のように告白しました。一時的な熱狂というか、若気の至りであったかもしれな  いが、この画派には他派の若い門弟たちの心を惹きつける魅力があると。
  この岩佐と菱川を一連の流れとして捉える見方は一蝶に限りませんでした。一蝶と同時代、他ならぬ浮世絵  師がちょうど同様の見解を持っていました。奥村政信です。
  ①「江戸絵と申事は江戸菱川師宣、浮世又平を常風(とうふう)に書かへ浮世とも江戸とも申習。本絵は古     人仙人墨絵を本と遊す、浮世は浮世の風を書、日本の人の姿を書故に日本絵と申、日本とは大和の事故     に大和絵と申也」    (『絵本風雅七小町琴碁書画』奥村政信画・享保中頃刊)     この本文の骨子は次の二点です。   一つは、菱川師宣の絵は、浮世又平の「浮世絵」を受け継いで「浮世(当世)」を画いたので「浮世絵」と  呼ばれていたこと。また江戸に在住し江戸の当世風俗を画いたので「江戸絵」とも呼ばれていたこと。   もう一つは、狩野派のような「本絵」が古人や仙人のような故事・不変の世界を墨で画くに対して、「浮世  絵」は刻々変化する当世を写しとるものであり、本絵とは画題がそもそも異なるとした点です。   ここには岩佐・菱川の流れを土佐・狩野とは極めて対照的な流れとして捉える視点があります。あえて松尾  芭蕉の言葉を借りて云えば、「不易」と「流行」の違いです。本絵が「不易」の世界を画くのに対して「浮世  絵は「流行」の世界を描くのだと。こうして奥村政信は自ら画く「浮世絵」には本絵とは違う独自な価値があ  ると主張したのでした。
    さてこうして形成された岩佐・菱川の系譜の延長上に、柳沢淇園は、B③に見るように、英一蝶・奥村政信  ・羽川珍重・懐月堂そして「聖手」西川祐信を合流させました。   そして名古屋の俳人横井也有もまた、その俳文集『鶉衣』の中で「うき世絵は又平に始り、菱川に定り、今、  西川に尽たるといふべし」と、柳沢淇園同様、又平・菱川・西川が一連の流れであることを認めていました。(注2)
  大田南畝の『浮世絵考証』はこの柳沢淇園や横井也有らの先人に呼応して書かれたものといえます。(注3)  南畝は英一蝶の「四季絵跋」を引用して淇園や也有の岩佐・菱川の流れに揺るぎない根拠を与えました。そし  て鈴木春信以下春章・重政・清長・歌麿・写楽等の名を連ねることによって、岩佐を源流とする浮世絵の流れ  が当世にまで及んでいることを明確に示しました。加えて、藤井貞幹の『好古日録』を引いて、「浮世絵」の  出自を、荒木摂津守という戦国武将を父にもつ岩佐又兵衛の画業に求めました。そしてそのことが結果として、  浮世絵師たちの出自にも由緒正しいお墨付き与えることになりました。   現在の地位や境遇が先祖の事跡のたまものだと考えるのが江戸の一般だとすると、このお墨付きを多くの浮  世絵師たちが歓迎したにちがいありません。ともあれ「浮世絵」はれっきとした出自を得て一つの独立した画  派として認められ始めたのです。
  ところで南畝の功績はそれに留まりません。彼は岩佐又兵衛を『考古日録』に語らせ、菱川師宣を当時の地  誌『江戸鹿子』を『江戸図鑑』を引用してその存在を語らせます。つまり考証によってものを明らかにすると  いう方法を採りました。今や「浮世絵」や「浮世絵師」はこうして考証の対象になりました。まさに南畝はそ  の魁なのでした。   しかもこの姿勢は早速受け継がれました。『浮世絵類考追考』をご覧ください。山東京伝は菱川師宣の事跡  を俳書『みなし栗』から採集しました。また師宣が故郷・安房国保田の林海山別願院に寄進した大鐘の銘文を  史料として採用しています。
     浮世絵類考(『浮世絵考証』『古今大和絵浮世絵始系』『浮世絵類考追考』)     さて笹屋邦教の『古今大和絵浮世絵始系』もまた浮世絵派の系譜を初めて作ったという点で大変画期的なも  のでした。絵師の師弟関係をたどって各絵師を位置づけようとしたこの試みは、南畝の『浮世絵考証』浮世絵  の空間的考証だとしたら、笹屋のものは浮世絵師の時間的考証とも言えます。
  このように『浮世絵類考』は、これ以降、浮世絵と浮世絵師を研究するうえで欠くことの出来ない基本文献  となっていきました。文化・文政年間には、宿屋飯盛や式亭三馬らが加筆してこれに続きます。そして天保年  間には、無名翁(渓斎英泉)が『無名翁随筆(続浮世絵類考)』(天保四年(1833)序)を著して、俗称・号・  生没年・住所・師弟関係・業績・略伝からなる浮世絵師の記述スタイルを確立しました。このスタイルは、そ  の後、江戸に町名主であり、厳密な考証でも知られる斎藤月岑の『増補浮世絵類考』(天保十五年(1844)序)  に受け継がれ、また竜田舎秋錦『新増補浮世絵類考』(慶応四年(1868)序)を経て、現代に至っています。
  さてこの章の最後に、岩佐又兵衛と英一蝶および橘守国と西川祐信の取り扱いについて、一言述べて締め括  りとします。   岩佐又兵衛と英一蝶については南畝と笹屋と京伝のあいだに微妙な違いがあります。
 岩佐又兵衛   ・南畝はこれまでの経緯でも分かるように浮世絵師の筆頭にあげています。  ・笹屋は岩佐又兵衛を取り上げていません。理由は系図が作れなかったからではなく、浮世絵師と見なしてい   なかったフシがあります。というのも、石川豊信や一筆斎文調や鈴木春信は系図なしでの独立させているか   らです。  ・山東京伝は南畝と同様に『好古日録』を引きながらなぜか岩佐又兵衛で立項せず、渾名の浮世又兵衛で立項   しました。
 英一蝶  ・南畝は英一蝶の「四季絵跋」を引用しましたが、浮世絵師とはしていません。  ・笹屋は取り上げていません。  ・山東京伝は「一蝶は浮世絵師にあらざれども時世の人物をかき、元師信(ママ)が画風より出たるを以てしばら   く浮世絵師に列す」と括弧付きの浮世絵師としています。
    西川祐信について、南畝は「中興浮世絵の祖」と称えています。南畝は『独寝』を読んでいるのでその影響  もあったのかもしれませんが、南畝自身早くから西川祐信の絵本などを収集していましたし、鈴木春信の絵に  祐信の影響などを見取っていたとも思われますので、自らの実感として「中興浮世絵の祖」と称えたのだと思  います。また橘守国については「町絵なれども世のつねの浮世絵にあらず」とこれまた称えるともに当時大き  な影響を与えた「絵本通宝志」等の絵本名をあげて高く評価しました。   南畝が、江戸の浮世絵師を中心とした絵師の中に、彼ら京・大坂の絵師を組み入れたのは、彼らの絵師とし  ての伎倆を高く評価しただけでなく、江戸の絵師に与えた影響の大きさをも考慮したのだと考えられます。    (注1)『俗耳鼓吹』『大田南畝全集』第十八巻(天明8年6月以前記)      「元禄の比の板にて月次の遊といへる絵本あり。菱川吉兵衛也。中に芝居の顔見世の事をしるして、       つらみせといへり」   (注2)『鶉衣』後編「四芸賦」横井也有著・天明八年刊。この「四芸賦」は宝暦から明和の頃の遺稿)  (注3)南畝は、天明から寛政にかけて伊勢四日市の西村庄右衛門(馬曹)という人から借りて写した。文      政五年(1822)の山崎美成宛書簡に『独寝』返却を求めるくだりとともに「州勢四日市の駅、西村      氏といへるに秘蔵せられしを、再借して一閲しはべりぬ」とある(書簡番号252)西村馬曹は寛政      十二年(1800)に亡くなっているので、書写はそれ以前。(南畝の享和元年の『改元紀行』⑧110)  三 呼称「浮世絵師」の曲折
    ※この項は下掲の出典に基づいて進めます     呼称「浮世絵師」の時系列    A 菱川師宣の抵抗
  前回述べたように、「浮世絵師」という呼称は、延宝末から天和の初めの頃(1680年頃)の菱川師宣の絵本  『大和武者絵』の序文に登場したのが初出でした。しかし不思議なことにその後、師宣を「浮世絵師」と呼び  ならわした形跡はありません。   参考までに、呼称のある序や奥書を抽出して、併せて師宣の署名肩書きを参照してみます。(注1)     延宝八年(1680)刊   ①『大和侍農絵づくし』     暗計序「菱川氏の絵師(中略)やまと絵師の聞え四方につげて」     奥 書「大和絵師菱川吉兵衛尉」   ②『大和絵つくし』     暗計序「菱川氏書れたるやまと絵といへるは」     奥 書「大和絵師菱川吉兵衛尉」
  延宝八年刊・天和三年(1683)刊   ③『大和武者絵』(初版も再版も書名は同じ)     暗計序「菱川氏(中略)この道一流をじゆくして、うき世絵師の名をとれり」     奥 書「大和絵師菱川吉兵衛尉」     (序文も奥書も天和三年のもの。延宝八年刊と推定される初版本にも備わっていたかどうかで見解が分かれています)     延宝八年刊・元禄四年(1691)刊   ④『年中行事之図』(初版)・『月次のあそび』(再版)     某氏序「菱川の誰といひし絵師(中略)うき世絵といひしを自然と工夫して」    『年中行事之図』奥書「大和絵師菱川師宣」    『月次のあそび』奥書「日本絵師菱河吉兵衛師宣」     (この序文は『月次のあそび』のもので、現存する初版本には確認されていない。ただあったものと推定はできるとあります)     延宝九(天和元)年(1691)刊   ⑤『大和万絵つくし』     某氏序「此しな/\あつめたるやまと絵は菱川氏」     奥 書(署名なし)     天和二年(1692)刊   ⑥『浮世続絵尽』)     某氏序「大和うき世絵とて世のよしなし事その品にまかせて筆をはしらしむ」     奥 書「右之一冊大和絵は四氏の形像を菱川氏筆こまやかに書れしを(中略)大和絵師菱川氏」     天和三年(1693)刊   ⑦『恋のみなかみ』     奥 書「此一冊大和絵菱川氏あるとあらゆる所の品々を見聞老若のわかちを筆にまかせて」        (署名なし)     貞享二年刊(1685)刊   ⑧『古今武士道絵づくし』     某氏序「近来やまと絵師菱川日々に筆跡を書あらため」     奥 書「大和絵師菱川氏師宣」うろこや板   ⑨『和国諸職絵つくし』     奥 書「此諸職絵つくしは菱河氏師宣といへるやまと絵師之取集書たりしを(中略)絵師菱河師宣」   ⑩『源氏大和絵鏡』     奥 書「此一冊は大和絵師菱川といふ一流の真跡也(中略)大和画師菱河氏師宣筆」うろこかた屋板     師宣の絵を「浮世絵」と称し、師宣を「浮世絵師」と初めて呼んだ暗計(あんけ)なる人物でさえ、その呼  称を使ったのはこの一回限りのようですし、「大和絵」「大和絵師」の呼称もまた使っていますから、「浮世  絵師」の呼称にこだわった様子はありません。他の序者あるいは版元の奥書は一貫して「大和絵」「大和絵師」  でありますし、「浮世絵」あるいは「浮世絵師」の呼称の用例はないようです。また師宣自身も「大和絵師」  の署名に徹しています。呼称「浮世絵師」の時系列の延宝~貞享年間をご覧ください。「浮世絵師」という呼  称、この時代きわめて稀であることが分かります。
  貞享四年(1687)それが突然現れます。『江戸鹿子』という地誌です。   ◯「浮世絵師 堺町横町 菱川吉兵衛/同吉左衛門」     (『江戸鹿子』藤田理兵衛著・貞享四年(1687)刊)     『江戸鹿子』というのは当時の江戸の名所・名物・寺社・諸職人等の名を列記した名鑑です。その第六「諸  師諸芸」の部に吉兵衛師宣・吉左衛門師房父子が「浮世絵師」の呼称で出ています。
  その翌年の元禄元年(1688)には、前出のように、大坂の井原西鶴が「菱川が筆にて浮世絵の草紙を見るに、  肉(シシ)置(オキ)ゆたかに、腰付に丸みありて(云々)」(二A①)と、初めて菱川師宣の絵を「浮世絵」と呼ん  でいます。師宣の絵を「浮世絵」と呼ぶ風潮が江戸のみならず、京・大坂にまで浸透しつつ あったことを示  しています。後出しますが、京・大坂で師宣を「浮世絵師」と呼ぶ下地は整いつつあったわけです。
  続く元禄二年(1689)再び現れます。これも『江戸図鑑綱目』と地誌でした。   ◯「廿五 浮世絵師        橘町 菱川吉兵衛師宣/同所 同吉左衛門師房     廿六 板木下絵師         長谷川町 古山太郎兵衛師重/浅草 石川伊左衛門俊之        通油町 杦村治兵衛正高/橘町 菱川作之丞師永」       (『江戸図鑑綱目』乾 石川流宣俊之編作・元禄二年(1689)刊)     この地誌の編者は「板木下絵師」にも名を連ねる石川流宣(とものぶ)でした。流宣が「浮世絵師」と「板  木下絵師」とを分けた理由は、肉筆も売り物にするかそれとも版下絵を専らにするかの違いような気もします  が、定かではありません。しかしこれには問題がありました。佐藤悟氏によると、このくだりが第二版以降で  は「廿六 板木下絵師」の一行が削り取られ、長谷川町・古山太郎兵衛師重から橘町・菱川作之丞師永までが  「浮世絵師」の項に含まれるよう改められているとのこと。この理由について同氏は「この当時『板木下絵師』  は『浮世絵師』よりランクが低いという考え方があり、石川流宣に対して杉村治兵衛から抗議があったため」  としています。(注2)   ともあれ貞享末から元禄初年にかけて、菱川師宣を「浮世絵師」と呼ぶ傾向が現れ始めたわけです。     それが元禄三年(1690)になって異変が生じます。この年『江戸惣鹿子名所大全』という地誌が出版されま  した。これは前出『江戸鹿子』の増補版にあたります。そこでは次のような改変が行われました。旧版で「廿  五 浮世絵師」とあったところです。   ◯「大和絵師 村枩町二丁目 菱川吉兵衛/同吉左衛門/同作之丞」     (『江戸惣鹿子名所大全』藤田利兵衛著・菱川師宣画 元禄三年(1690)刊)
    江戸鹿子・江戸惣鹿子名所大全     『江戸鹿子』と『江戸惣鹿子名所大全』の著者は共に藤田理兵衛で同人です。その彼が、貞享四年の時点で  「浮世絵師」としたものを、今回は「大和絵師」と書き改めたのです。これについて佐藤悟氏は「この改変に  は師宣の意志が働いていたものと思われる」とし、その理由として「師宣の意識の中には自分の画風は大和絵  の正統に帰属するという強いもの」があったからだとしています。   同感です。呼称「浮世絵師」の時系列をご覧ください。師宣の署名は元禄七年(1964)の死を迎えるまで、  一貫して「大和絵師」あるいは「日本絵師」でありました。それだけ「大和絵師」としての自覚・自負心が強  かったのだと思います。絵を画いてそれを売る以外に生業の手だてのない町絵師としては、当世の市中風俗を  写す絵であるところの「浮世絵」も、春画を含む好色物の「浮世絵」も、注文があれば拒むことなく画く、し  かしそれはあくまでも「大和絵師」として画くというのでしょう。「大和絵師」という署名には、そのような  強い気概がこもっていたとみるべきなのかもしれません。   この『江戸惣鹿子名所大全』、実は菱川師宣がこの挿絵を担当していました。おそらくこの縁もあって、師  宣は著者の藤田理兵衛に「浮世絵師」を「大和絵師」に改めるよう申し入れたものと思われます。奥書はと見  ると「元禄三年三月上旬 大和絵師 菱川吉兵衛」となっており、署名はやはり「大和絵師」です。   ところで作之丞とあるのは師宣の次男・菱川師永。前年元禄二年(1689)の地誌『江戸図鑑網目』で、最初  「板木下絵師」として名を連ねていた絵師です。貞享四年(1687)の『江戸鹿子』には名が見えませんので、  絵師として活動するのはおそらく元禄元年(1688)の頃からと推定できます。
    ところがこの「浮世絵師」をめぐる動き、これで幕引きとはなりませんでした。元禄五年(1692)のことで  すから、師宣はまだ現役です。今回もやはり地誌で、『万買物調方記』という買い物案内記です。その「當世  (たうせい)絵師」の部はこうなっていました。   ◯「京ニテ  當世絵書 丸太町西洞院 古 又兵衛/四条通御たびの後 半兵衛     江戸ニテ 浮世絵師 橘町 菱川吉兵衛/同吉左衛門/同太郎兵衛」     (『万買物調方記』(別書名『買物調方三合集覧』)編者不明・元禄五年(1692)刊)         万買物重宝記・国花万葉記(買物調方三合集覧)     せっかく「浮世絵師」を「大和絵師」に訂正したのに、その二年後再び「浮世絵師」というレッテルを貼ら  れてしまいました。しかも「京都 江戸 大坂 諸国名物」とありますから、今回は三都にまで拡大した案内  記です。出版は大坂の大野木市兵衛の出版でしたが、奥書をみると「江戸の日本橋南壹丁目/同出見世」とも  あります。したがって江戸でも容易に見ることができたものと思います。おそらく晩年の師宣もこれを目にし  たに違いありません。ただこれに対して、師宣をはじめ師房・師重たちがどう反応したのか、残念ながらそれ  は分かりません。しかし『江戸惣鹿子名所大全』における改変のことを思えば、彼らが歓迎しなかったことは  確かでしょう。   ところでこの買い物案内によれば、江戸の「浮世絵師」に相当するものを、京都では「當世絵書(とうせい  えかき)」と呼んでいたことが分かります。(このことからも「浮世」の意味が「当世」であることが明確で  す)しかしその「當世絵書」という呼称がその後流通した形跡はありません。おそらく江戸の「浮世絵師」の  呼称がやがて京都でも使われるようになっていったのでしょう。   その京都の「當世絵書」のくだり「四条通御たびの後 半兵衛」とは吉田半兵衛でしょうが、では「古 又  兵衛」とあるのはいったい誰なのでしょうか。「古」は故人の意味ですから、この「又兵衛」とは、英一蝶が  「四季絵跋」でいうところの「近ごろ越前の産、岩佐の某となんいふ者、歌舞白拍子の時勢粧を、おのづから  うつし得て、世人うき世又兵衛とあだ名す」の「又兵衛」、つまり浮世又兵衛という渾名のついた「又兵衛」  を指すのではないかと思われます。
    さて呼称の揺れはまだまだ収まりません。今度も地誌ですが、カバー領域がさらに拡大して全国レベルにな  りました。元禄十年(1697)刊『国花万葉記』の「江府名匠諸職商人」の部にはこうあります。   ◯「大和絵師 菱川吉兵衛/菱川吉左衛門/作之丞 村松丁二丁メ」     (『国花万葉記』巻七「武蔵国」「江府名匠諸職商人」の部・菊本賀保著・大坂 油屋与兵衛外五名板)     菱川師宣は「浮世絵師」とされたまま、元禄七年に亡くなってしまいましたが、遅まきながら、とりあえず  望んでいた「大和絵師」としての呼称が復活しました。以降、暫く「浮世絵師」という呼称はほとんど見かけ  なくなります。師宣に限らず「浮世絵師」と呼ばれた例を採集しているのですが、管見では、宝永から宝暦に  かけて、今のところ次の二例です。   ◯宝永七年(1710)「江戸の町に菱川師宣といふ浮世絵工(ウキヨエカキ)有」(『当世誰が身の上』凉花堂斧麿作)   ◯宝暦七年(1757)「洛陽西川祐信といへる浮世絵師」(『近世江都著聞集』馬場文耕著)     ただこれは第三者が師宣や祐信に対して使った呼称であって、絵師たちが自ら名乗ったものではありません。  では彼らがどう自称したかというと、呼称「浮世絵師」の時系列を見てみましょう、菱川派は「大和絵師」や  「日本絵師」、鳥居派は「和画工」、奥村派は「和画工」や「大和絵師」あるいは「大和画工」、西川祐信も  「大和絵師」、懐月堂派は「日本戯画」、宮川派は「日本画」といった具合です。要するにほぼ全ての絵師が  自分は大和絵師だと主張しているのです。   現在、菱川師宣以下・鳥居清信・奥村政信・西川祐信等を一括して「浮世絵師」と呼んでいるわけですが、  以上のような曲折を考慮すると、私たちは単に彼らの意向を無視しているだけでなく、むしろ嫌がる呼称をわ  ざわざ貼り付けているようにも思うのです。とりわけ「浮世絵師」の元祖される菱川師宣に関してはそうです。
  この章の最後に、この頃の署名の肩書きにそれ以前と違う新たな傾向が生まれますので、それを指摘して次  に進みたいと思います。   宝永年間あたりから「大和絵師」や「日本絵師」の肩書きに「洛陽」「摂陽」「東武」といった京・大坂・  江戸の地名が添えられるようになります。これがはたしてどういう気運から始まったものかよく分かりません  が盛んになります。江戸の場合ですと、京・大坂の文化圏から脱して、江戸根生いのものが開花し始める頃で  すから、そこから自負心が芽生えたことと関係があるのだと思いますが、京・大坂の場合はどうなのでしょう  か。    (注1)抽出したのは次の二書。     『師宣祐信絵本書誌』松平進著・日本書誌学大系57・昭和63年刊     「菱川師宣展」カタログ・千葉市美術館・平成12年刊  (注2)「菱川師宣の再検討」『江戸の出版文化』たばこと塩の博物館・研究紀要第4号・平成3年刊    余談「擅画」について   呼称「浮世絵師」の時系列に具体例を少し挙げておきましたが、署名の肩書きの中に、「擅画」と「檀画」  「縦画」という変り種がありますので、これについて少し補足します。これは大坂の北尾辰宣と江戸の北尾  重政と勝川春章が使いました。辰宣が「擅画」、重政が「擅画」と「檀画」、そして勝川春章が「縦画」です。     (※ 以下は国際浮世絵学会編『浮世絵大事典』の「擅画」の項に筆者が書いた記事とほぼ同じです)   大正五~六年(1916-7)頃、この見慣れない肩書きに関して、研究誌『浮世絵』を中心にさまざまな考証・  検討が飛び交いました。当初は字義不明としながらも、「檀画」とは「檀郎画(だんろうが)の略」(「檀郎」  とは「遊冶郎(ゆうやろう=酒色にふける男)」の意味)ではないか、あるいは中国で彩色画のことを檀画と称  したのではないかなどといった仮説も出されました。   しかし結局のところ「擅画」の表記が正しく、「檀画」とあるのは北尾重政自身の校正を経ない筆耕の誤り  であろうという結論に落ち着きました。そして「擅画」の字義については文字通り「擅(ほしいまま)に画く」  という意味であるとされました。またこの表記には、自らは伝統的画法に拠らない自己流の絵師だという謙遜  の気持ちと、伝統や粉本に束縛されない独立独歩の誇りとがこめられており、いわば浮世絵師・北尾辰宣と北  尾重政の伝統絵画に対する敬意と対抗意識がそこに現れているのではないかという解釈も、漆山天童・星野朝  陽両氏によってなされました。(漆山天童「檀画に非ず擅画なり」『日本及日本人』691号 1916年。星野朝陽「擅画に就  きて」『浮世絵』20号-24号 1917年)   なお北尾重政には「東都擅画 北尾紅翠齋図」(「隅田川渡舟図」東京国立博物館所蔵)のように肉筆作品  の用例もあり、必ずしも版本のみの使用とは限らないことも報告されています。   「擅画」の使用は大坂の北尾辰宣が先で、それを江戸の北尾重政が倣ったことは明らかです。辰宣の初出は  寛延元年(1748)の『絵本小倉塵』と思われ、重政の初出は明和五年(1768)の『絵本藻塩草』とされます。  重政が辰宣に私淑したことは確かですが、奇しくも同じ北尾を名乗る東西の両者がなぜこのような肩書きを使  用したのか、よく分かりません。   また「擅画」とよく似た用例に「縦画」があります。これは勝川春章が使用したもので、「江都縦画生 旭  朗井勝春章図」などの例があります。天明七年(1787)の『絵本義経一代実記』などにその用例が見られます  が、これも「縦(ほしいまま)画く」という意味で「擅画」と同義。春章が重政の「擅画」を意識したものであ  ることは明白ですが、これもまたどういう意図があって春章が使用したものか明確ではありません。    B 呼称「浮世絵師」の復活
  明和七年(1770)京の八文字屋自笑は『役者裏彩色』という役者評判記を書きました。この中で自笑は江戸  の役者を江戸の浮世絵師に見立てて品評するという趣向を採りました。以下はその中で取り上げた絵師です。  彼らを自笑は「浮世絵師」と呼んでいます。   ◯「見立浮世絵師寄ル 左のごとし 春信、菱川、西川、一筆斎、鳥居、勝川、北尾、奥村」(注1)
  「浮世絵師」として鈴木春信・菱川師宣・西川祐信・一筆斎文調・この鳥居は清満か・勝川春章・北尾重政・  奥村政信の名をあげています。
  また安永五年(1776)には、絵による吉原細見ともいうべき版本『青楼美人合姿鏡』が出版され、その奥書  にはこうありました。   ◯「浮世絵師 北尾花藍重政〔北尾〕〔重政之印〕/勝川酉爾春章〔勝川〕〔春章〕」(注2)
  明和七年の例は八文字屋自笑の用例ですから第三者による呼称の例です。しかし安永五年の例は、画工名に  冠した「浮世絵師」であり、画工が自ら名乗った形をとっています。しかも両者の印章まで添えられているわ  けですから、この名乗りが版元・山崎金兵衛と蔦屋重三郎の独断ではなく、重政・春章の了解のもとに行われ  たことは確実です。ただ両者がその後「浮世絵師」の肩書きを常用した様子もありませんから、一時的な使用  だったように思います。画工名のほかに俳号や印章をものものしく添えたのは、吉原に敬意を払ったものとも  考えられるのですが、あるいは遊女を画くに今一番ふさわしいのは重政・春章をおいて他にないという意味を  こめて「浮世絵師」と添えたのかもしれません。   しかしいずれにせよ、「浮世絵師」を撤回させた元禄の頃の菱川師宣とは違う自覚が、この時代の絵師たち  に芽生え始めたことは確かなようです。
  天明三年(1783)故平賀源内や大田南畝と親しい平秩東作という人が、狂歌師を遊女に見立てた『狂歌師細  見』という吉原細見もどぎを戯作しました。その中で歌麿は次のように登場します。   ◯「げい者 浮世ゑし うたまる」
  「歌麿」を当時は「うたまる」と呼んでいた例の一つでありますが、これは歌麿を吉原の男芸者に見立てた  のです。歌麿は吉原の遊女を盛んに画いていましたから、東作は歌麿を「浮世絵師」と呼んだに違いありませ  ん。「浮世絵」を良くするものを「浮世絵師」と呼ぶことは、もはやためらいのない時代になっていたのだと  思います。
  寛政十年(1798)刊の黄表紙『画本賛獣録禽』(恋川吉町画)に、吉町の師匠である恋川春町が次のような  序文を寄せています。   ◯「門人よし町、戯作の双帋を携へきたり、予に雌黄を得んことを乞ふ。もとより絵具箱をもたぬ浮世絵師の     合羽箱もちなれバ(云々)」(注3)
  「戯作の双帋」とは黄表紙。「予」は春町自身。「雌黄」は文の添削。ここで春町は自らを「絵具箱をもた  ぬ浮世絵師の合羽箱もち」に擬えています。絵具箱を持参するのは狩野派のような本絵師で、合羽箱持ちは大  名行列のときに合羽箱を持ち歩く従者。春町は自らを本絵師ならぬ浮世絵師の端くれだというのです。春町に  は自分自身を「浮世絵師」と呼ぶことにそれほど抵抗感がなかったように思います。ただ奥村政信にあったよ  うな本絵師への対抗心めいた気概は感じられません。(二D①)おそらく春町には、戯作や作画が従で本分は  武士という自覚があったにちがいありません。それが絵の世界にも及んで、浮世絵が従で本絵が主という意識  になったのだと思います。   なお蛇足ながら付け加えると、この黄表紙の出版は寛政十年ですが、恋川春町は寛政元年(1789)に亡くな  っていますから、この序文はそれ以前のものです。十年以上も前の作品がなぜ今頃になって出版されたのか、  真相は不明ですが、はやり春町の序文であることと作者が春町門人であることが、出版をためらわせてきたの  だと思われます。春町が寛政改革のために自殺に追い込まれたという噂はまだ漂っていたでしょうから。
    次に『浮世絵類考』の著者である大田南畝・笹屋邦教・山東京伝たちが「浮世絵師」をどう取り扱っていた  か見てみます。時代は寛政~享和(1789-1803)に相当します。   南畝自身は直接「浮世絵師」という呼称を使っていません。しかし既出のように、菱川師宣の項では「浮世  絵師」と記された地誌『江戸鹿子』と『江戸図鑑網目』とを引用しています。したがって師宣を「浮世絵師」  と見ていたことは確かでしょう。   山東京伝もまた『浮世絵類考追考』の英一蝶の項で「一蝶は浮世絵師にあらざれども時世の人物をかき、元  師信(ママ)が画風より出たるを以てしばらく浮世絵師に列す」と書いています。(師信は師宣の誤記)ですから  菱川師宣はもちろんのこと、それに続く鳥居清信・宮川長春たちを「浮世絵師」と見なしていたことは間違い  ないでしょう。また山東京伝は北尾重政の門人で北尾政演という絵師でもありました。その師匠重政が既出の  ように『青楼美人合姿鏡』では「浮世絵師」を名乗っていたわけですから、京伝にも「浮世絵師」の自覚はあ  ったはずです。(補注)   ただ笹屋邦教だけは、菱川から歌麿にいたる絵を「大和浮世絵」の称で一括りにしながら、絵師の方は「江  戸大和絵師」と呼んでいます。また享和二年(1802)の黄表紙『稗史億説年代記』を見ると、式亭三馬は「昔  絵」の奥村・鈴木・富川・湖龍・石川・鳥居清経から、「当世」の清長・北尾・勝川・歌川・歌麿・北斎まで  を一括して「倭絵巧(やまとえし)」と呼んでいます。したがってこの時代すべてのひとが「浮世絵師」の呼  称に切り替えたわけでもなさそうです。
    ところがこれが文化年間以降になると一変します。自称か第三者による呼称か明確でないものも多いのです  が「浮世絵師」を冠する署名が増えてきます。例によって呼称「浮世絵師」の時系列も併せてご覧ください。
 文化四年 絵本 『契情筥伝授』  署名「浮世画工浪華江南松好斎半兵衛画」    五年 合巻 『吃又平名画助刃』奥書「絵草紙作人 式亭三馬書/浮世絵師 歌川氏国貞筆」    七年 日記 『式亭雑記』三馬記「(歌川国貞)今一家の浮世絵師大だてものとなれり」       随筆 『燕石雑志』馬琴著「(羽川珍重)浮世絵師には稀なる人物なり」       合巻 『鷺娘由来』巻末の鶴屋喜右衛門新版目録          「浮世絵師名目 歌川豊国 歌川国貞 勝川春亭 歌川国満 菊川英山」    八年 滑稽本『客者評判記』署名「葛飾 浮世絵師 本所五ッ目住 歌川国貞画」       滑稽本『四十八癖』 署名「江戸 浮世絵師 歌川国直戯写」   一〇年 滑稽本『一盃綺言』 奥付「江戸 戯作者 式亭三馬作/浮世絵師 歌川豊国画」〈2018/08/24追加〉    十三年 合巻 『正本製』  署名「浮世絵師 歌川国貞 絵本作者 柳亭種彦」  文化年間 絵本 『絵本駅路鈴』北斎画 某人序「浮世絵師何かしにかはりて それがし翁が(云々)」  文政元年 書簡 「山水などハ、江戸の浮世絵師の手際にゆく事にあらず。又、婦人その外市人の形           はうき世絵ニよらねバ損也。両様をかねたるものは、北斎のミなれども(云々)」〈馬琴書簡〉    三年 合巻 『音曲情糸道』署名「画工 浮世絵師 歌川広重」    五年 咄本 『はなしのいけす』見返署名「浮世画師 国丸」    六年 艶本 『地色早指南』英泉自序          「浮世絵師吉田半兵衛・菱川吉兵衛なんど、好色本を板行して(書名略)かぞへ挙る           にいとまあらず」    十年 番付 「江戸大芝居歌舞妓狂言尽」署名「浮世絵師 応需 国安筆」   十一年 碑文 「豊国筆塚碑」「(初代歌川豊国を)実に近世浮世絵師の冠たり」       合巻 『伊呂波引寺入節用』「赤本作者 柳てい種彦/浮世絵師 うた川国貞」
    一見して歌川派の多さが目立ちます。中でも国貞はデビュー直後の文化五年(1808)から「浮世絵師」の呼  称がついていました。また文化十年(1813)には、歌川派の総帥でもある歌川豊国初代が、式亭三馬作の『一  盃綺言』という滑稽本の奥付で「江戸 戯作者 式亭三馬作/浮世絵師 歌川豊国画」と「江戸」と「浮世絵  師」を冠しています。〈2018/08/24追加〉   文化文政期に入ってなぜこのような傾向が出てきたのか、よく分かりません。菱川師宣にあったような「大  和絵師」として「浮世絵」を画くという気概が失われたのでしょうか。しかしそんなことはありません。天保  四年(1833)に成立した『続浮世絵類考』の「大和絵師浮世絵の考」で、この著者である英泉は「浮世絵(ママ)  を大和画師と云は勿論のことなり」と言い切っています。鳥居・奥村・春信・歌麿と受け継がれてきた「大和  絵師」としての気概・自負は失われてはいないのです。   ただ化政期以降の絵師たちがそれ以前の絵師たちと違うのは、第三者から呼ばれてきた「浮世絵師」という  呼称を拒否するのではなくて、むしろそれを引き受けようとした点にあるのだと思います。「浮世(当世)」を  専ら画く絵師として、自ら進んで「浮世絵師」の呼称を担っていこうと気持を切り替えていったのではないで  しょうか。
  ◯文政十年(1827)芝居番付「江戸大芝居歌舞妓狂言尽」署名「浮世絵師 応需 国安筆」   ◯天保三年(1832)洒落本『傾城情史』跋分署名「浮世絵師 菱川清春記〔「青陽」印〕」   ◯天保九年(1838)武者絵本『武勇魁図会』奥付署名「浮世画工 渓斎英泉画圗」(注4)
  これらの署名から「浮世絵師」として「需めに応じて筆す」「記す」「画き圗(はか)る」といった肉声のよ  うなものが聞こえてきます。これらは第三者が国安や清春や英泉を浮世絵師と呼んでいるわけではありません。  ごく自然に自ら「浮世絵師」だと名乗っている様子が伺えます。〈英泉の署名は2020/04/24追加〉   さてこの自称「浮世絵師」、これらに留まらず、実は春画にも例があります。次は歌川国貞初代の例です
  ◯天保六年(1835)艶本『艶紫娯拾余帖(ゑんしごじふよじよう)』一冊目「月」の見返し    「做信実朝臣筆意 婦器用又平画〔浮世絵師/當時弟(ママ)一人〕(篆字印)」(注5)
  題名から分かるようにこれは『源氏物語』のパロディなのですが、直接的には当時ベストセラーであった柳  亭種彦作・歌川国貞画の合巻『偐紫田舎源氏』を下敷きにした春本です。婦器用又平すなわち国貞が信実朝臣  の筆意でこれを画いたとありますが、この信実とは、この序文によると「おそくづ(偃息図)の絵」即ち春画を  画いたとされる画人を指すようです。これが鎌倉時代に実在した藤原信実と同人か否かは分かりませんが、江  戸の人々が抱く信実像には、王朝時代を代表する好色絵の名手といったイメージがあるようなのです。国貞は  この署名に、その信実に続こうという強い意志と、王朝時代を髣髴とさせるような艶本を画いてみせるという  自信とを託したにちがいありません。そしてなおかつ厳かな篆字体の「浮世絵師/當時弟(ママ)一人」という印  を添えました。これで浮世絵師の第一人者であることを自ら誇らしげに認めたわけです。春画に篆刻とは、一  種の遊び心なのでしょうが、国貞はこの署名と印字でもって、我こそ好色絵の伝統を受け継ぐ浮世絵の第一人  者であることを、誰憚ることなく表明したともいえます。それにしても「浮世絵」と「春画」との分かちがた  い結びつきを、ここにも見ることができます。〈国貞記事は2020/04/05の追記〉   もっともその彼らにしても、以降全ての作品に「浮世絵師」を冠したわけではありません。また当時の全て  の絵師たちがそうしたわけでもありません。しかし菱川師宣のように「浮世絵師」という肩書きをネガティブ  に考える雰囲気は、この化政期以降の絵師たちにはあまりなかったように思うのです。   こうして「浮世絵師」という呼称は第三者のみならず絵師自身も普通に使う時代になりました。呼称「浮世  絵師」はここに至ってようやく市民権を得たというべきでしょう。
    さてこの章の最後に、浮世絵師が、町奉行など幕府当局にとって、もはや無視しえない存在となっていたこ  と示す二つの例をあげて締め括りとします。
  弘化三年(1846)町奉行の隠密が次のような報告書を作成していました。
  ◯「浮世絵之儀、絵之具色取偏数多き品、又ハ三芝居役者似顔等厳敷御察斗有之、一ト先不目立絵も相見候     得共、浮世絵師(歌川)国芳と申者、種々出板之内、其頃猫之絵を書候而も矢張役者似顔ニ認、其外之     出板役者誰々と申名前ハ無之候得共、何れも役者似顔ニ仕立差出し、同職之内ニも、国貞事当時(歌川、     三世)豊国と申者儀ハ、一体極尊大ニ相構、麁末成絵ハ書ざる抔と申趣ニも相聞侯得共、右等之儀ハ差     置、先御改革之頃ハ勿論、去秋頃迄ハ相慎候哉、格別目立候絵も相見不申、然処当時ニ至り候而ハ、悉     く色取偏数多く掛り候絵而己相見、前書国芳儀ハ厳敷御察斗をも恐怖不致体ニ相聞」(注6)
  管見では「浮世絵師」の呼称が町奉行所内の文書に登場するのはこれが初めてです。   さてこの頃に至っても、天保十三年(1842)に出された役者似顔絵と華美な錦絵の禁止令は依然として続い  ていましたが、この文書はこれに違反するものがいるかどうかを内密に調べた報告書です。町奉行が疑惑の目  で見ていたのが、国芳と国貞の二人でした。役者似顔の猫を画いた「浮世絵師」国芳と、色取り・摺り数の多  い絵を再び画き始めた国貞です。彼らは当時の浮世絵界の大立者でありました、おそらくその動向は官憲の監  視対象になっていたのでしょう。   その隠密の耳目に入ってきた二人の様子が面白い。国芳は厳しい御察斗(処罰)など恐れる様子はないとし、  また国貞は自分は粗末な絵は画かないなどと嘯いて尊大に構えているというのでありました。隠密の目にはな  かなか一筋縄ではいきそうもない連中のように見えたのでしょう。なおこの件で二人が告発された形跡はあり  ませんので、尻尾は出さなかったのでしょう。
    慶応二年(1866)徳川政権は瓦解寸前でしたが、フランス政府の要請もあって、幕府は翌年パリで行われる  万国博覧会に日本の特産品を出品することになりました。その中に絵画関係では「草花之写真」と「浮世絵」  が含まれていました。ちなみに「浮世絵」の絵柄は年中行事の光景や江戸市中の風景そして士農工商ほか様々  な階層の人物像です。これらを画帖に仕立てるといいますから、おそらく日本の風俗習慣を浮世絵でもって紹  介しょうとねらいなのでしょう。   当局(絵画担当は外国奉行)は当初これを御細工所の御用絵師たちに画かせるつもりでした。ところが御細  工所の方からは「(浮世絵は)市中浮世絵師共に無之候ては出来不致」という断り書きが届きました。つまり  「草花之写真」の方は担当するが、「浮世絵」は「浮世絵師」でなくては出来ないから、そちらに回してほし  いというのです。推測しますと、世俗の絵は世俗の者の手で、ということなのでしょう。そこで当局は急遽、  町奉行を通して市中の浮世絵師に依頼することになりました。そして選抜されたのが次の面々です。芳艶・芳  幾・国周・芳虎・芳年・立祥・芳員・貞秀・国貞(二世)国輝。(井上和雄の『浮世絵師伝』によれば芳宗も  加えて十一人)慌ただしい依頼でしたが、作画を渡世とする彼らに拒む理由はありません。百枚の肉筆浮世絵  を約二ヶ月ほどで仕上げて納品しました。(本来は百五十点の予定だったようですが、制作期間が短かったよ  うで応じきれなかったようです。詳しくは下掲「パリ万国博覧会」参照。本HP浮世絵事典「は」所収)(注7)   大げさに云うと、幕府は、万国博覧会というワールドクラスの公式行事のために、予定外とはいえ疑いの目  で見ていた浮世絵師を頼りにせざるを得なくなったわけです。浮世絵および浮世絵師は、当局側のたびたびの  規制・抑圧にも関わらず、逞しくも独自の発展を遂げて、今や幕府の企画の一翼を担うまでになりました。こ  のことで幕府側の浮世絵師に対する眼差しが劇的に変わったとはとても思えませんが、もはや無視出来ない存  在になったとは言えるでしょう。市中の人々にとってはとうの昔に日常生活には欠くことのできない存在にな  っていましたが、幕府当局は瓦解直前に至って、その存在を公式に認めざるを得なくなったというわけです。  (注1)『歌舞伎評判記集成』第二期十巻)   (注2)国立国会図書館デジタルコレクション画像より  (注3)序文は棚橋正博著『黄表紙總覧』の中編解説より(日本書誌学大系48・昭和六十一年刊)  (補注)山東京伝の洒落本『百人一首和歌始衣抄』(天明七年序)に「春信 鈴樹氏 浮世絵師」「重政 北尾 字ハ左助 浮      世画工」「清経 鳥居氏 浮世画工」の記述がある。浮世絵を画くものを「浮世絵師」あるいは「浮世画工」と呼ぶ      こと、このことに北尾政演こと山東京伝は、ほとんど抵抗感がなかったものと思われます  (注4)国文学研究資料館「古典藉総合データベース」は弘化年間?の出版とするが、      ARC古典籍ポータルデータベースは天保9年刊とする  (注5)国文学研究資料館「艶本資料データベース」画像より  (注6)『大日本近世史料』「市中取締類集一」「市中取締之部一」第二二件「市中風聞書」弘化三年)  (注7)「徳川民部大輔欧行一件付録 巻十三」所収      「四 浮世絵画帖の件上申書」および「七 浮世絵師の件町奉行より勘定奉行への照会書」      『徳川昭武滞欧記録』第二(日本史藉協会叢書編・東京大学出版会)      パリ万国博覧会関係資料 パリ万国博覧会        次回 (3)浮世絵の終焉 -明治期 浮世絵の終焉 1-
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