Top            浮世絵文献資料館           浮世絵の世界            文化としての浮世絵(5)-「浮世絵」の変容 -     加藤好夫   三「浮世絵」が画いたもの   B「浮世絵」の変容   前回、菱川師宣の「浮世絵」とは「色恋の絵」あるいは「色道の絵」であることを見てきた。また「浮  世絵」という呼称が、師宣の没後においても、同様のイメージを漂わせながら使われていたことも併せて  確認した。ではそれ以外のもの、例えば花鳥絵や武者絵や諸職絵などに「浮世絵」の呼称を使わなかった  のであろうか。天和三年(1683)刊『大和武者絵』の序と、元禄四年(1691)刊『月次のあそび』の序とを取  り上げてみよう。  1「和国絵の風俗、三家の手跡を筆の海にうつして、これにもとづいて自(みづから)工夫して後、この道    一流をじゆくしてうき世絵師の名をとれり」(注1)  2「爰に江城のほとりに菱川氏の誰といひし絵師、二葉のむかしより此道に心寄、頃日うきよ絵といひし    を自然と工夫して、今一流の絵師となりて、冬の山に花をさかせ鬼神にもおとろしき頭をかたぶけさ    せぬ」(注2)   序とは本文および図様の内容を踏まえて作成されるものであるから、そこで使われている言葉は本文お  よび図様の内容とは当然相関性があるものと考えてよい。前回考察の対象とした天和二年(1684)刊『浮世  続絵尽』の例でいえば、本文および図様のテーマは女色・男色の「色恋の絵」であるから、その序のいう  「大和うき世絵」とは「色恋の絵」ということになる。同様の関係を上掲1『大和武者絵』と、2『月次  のあそび』の序について当てはめてみると、1は「武者絵」の作品であるから、この序の「うき世絵」と  は「武者絵」を指す。また2の場合は、市中の年中行事がテーマであるから、序の「うきよ絵」とは市中  の風俗画を指すと。つまり師宣の「浮世絵」とは「武者絵」も「風俗画」も含むのである。   とはいえ、前回も見てきたように、延宝~元禄(17C末)当時、菱川の「浮世絵」といえば、遊女・若衆  (小姓・役者)の「色恋の絵」というイメージが圧倒的であった。貞享年間(1684-87)の京都版・浮世草  子に「当世ぬれ絵かきの名人、お江戸のひしかわ、京の吉田半兵衛」というくだりがある。菱川絵には、  このように「濡れ」すなわち「色恋」あるいは「春画」のイメージもまた分かちがたく結びついていたの  である。(注3)   しかし、現代の我々からすると、師宣画はすべて「浮世絵」であり、必ずしも「色恋」「春画」のみを  「浮世絵」と見なしているわけではない。つまり、師宣や西鶴の生きた延宝~元禄当時の人々が想起する  「浮世絵」のイメージと、我々が想起する「浮世絵」とでは、相当のズレがあることは明らかである。   また当時の人々に、浮世絵を最初に画き始めたのは誰かと問えば、江戸の人は間違いなく師宣と答える  に違いない。上掲1の序文には「うき世絵師の名をとれり」とある。師宣の画業は「浮世絵」という呼称  を生んだだけでなく「浮世絵師」という呼称をも生んだのである。師宣自身はその「浮世絵師」の呼称を  嫌ったようだが、世間では菱川師宣と「浮世絵師」とは分かちがたく結びついていた。(注4)   現在我々の視界には、師宣以前の岩佐又兵衛や雛屋立圃などが見えているが、延宝~元禄当時の人々が、  師宣以前に、浮世絵の元祖なるものを想定していたとはとても思えないのである。この間、明らかに何ら  かの変化が生じたのである。したがって「浮世絵」も「浮世絵師」も、そのイメージを徐々に変えてきた  と見てよいのであろう。以下その変遷をたどってみたい。   寛政のおそらく九年(1797)頃だろうか、大田南畝は『浮世絵類考』を編集する。南畝は、寛政改革(178  7-93)を機に、天明期(1781-88)に鳴り響いた四方赤良の狂歌名を棄て、幕臣・大田直次郞として、また文  芸・考証の好事家として、人生上の再スタートを切った。『浮世絵類考』はその新生大田南畝が浮世絵界  にもたらした贈り物の一つである。(注5)   ここには師宣時代の「浮世絵」とは異なる「浮世絵」の様相を見ることができる。参考のために『浮世  絵類考』を引いておく。     翻刻 浮世絵類考(本HP Top 文献資料の項「浮世絵類考」)   特筆すべき点は次の二点。一つは岩佐又兵衛を浮世絵師の筆頭に置いたこと。もう一つは橘守国の版本  絵本を浮世絵の流れの中に置いたことである。   岩佐又兵衛は、浮世又兵衛あるいは浮世又平などといった実態のはっきりしない絵師と混同されるなど、  必ずしも明確なイメージを有する絵師ではなかったが、南畝はあえて採り上げ、元祖に祭り上げた。何故  そうしたのであろうか。またそのことによって何が変わったのか。   橘守国の版本絵本についていえば、収録するところの図様は狩野派伝来のものばかりで、いわゆる「色  恋」の絵、つまり「浮世絵」とは無縁である。したがって、当時の人々がこれを「浮世絵」とみなしたと  はとても思えない。にもかかわらず、南畝は「浮世絵」に組み込み、しかも別格とした。それは何故であ  ろうか。   a 岩佐又兵衛  「岩佐又兵衛   又兵衛父ヲ荒木摂津守ト云、信長公ニ仕テ軍功アリ。公賞シテ摂津国ヲ予フ。後公ノ命ニ背テ自殺ス。   又兵衛時ニ二歳、乳母懐テ本願寺ノ子院ニ隠レ、母家ノ氏ヲ仮テ岩佐ト称ス。成人ノ後織田信雄ニ仕フ。   画図ヲ好テ一家ヲナス。能当時ノ風俗ヲ写スヲ以、世人呼テ浮世又兵衛ト云、世ニ又平ト呼ハ誤也。画   所預家ニ又兵衛略伝アリ」(注6)   寛政九年(1897)、藤井貞幹の『好古日録』が出版された。上掲記事は、同書所収の「岩佐又兵衛」のく  だりをそのまま引用したものである。『浮世絵類考』はこの記事を冒頭に掲げる。南畝はこれによって、  岩佐又兵衛を浮世絵の元祖に位置づけたのである。   とはいえ、南畝の絵画鑑賞記録や蔵書目録などを見ても、岩佐又兵衛の作品を実見したような形跡はな  い。筆まめなうえに『浮世絵類考』さえ編集する南畝のことである。伝説の「又兵衛」「又平」の事跡を  見聞きしたら書き留ないはずはないのである。だが伝記や挿話の類は伝わらない。つまり南畝は、又兵衛  の作風や人となりを踏まえたうえで元祖としたわけではないのである。にもかかわらず、南畝は浮世絵師  の筆頭に据えた。どうしてそうしたのか。その手がかりは英一蝶の「四季絵跋」(享保三年(1718)記)にあ  った。    四季絵跋(本HP Top 編集資料の項「浮世絵記事」所収)  〝(前略)近ごろ越前の産、岩佐の某となんいふ者、歌舞白拍子の時勢粧を、おのづからうつし得て、世人   うき世又兵衛とあだ名す。久しく代に翫ぶに、亦、房州の菱川師宣と云ふ者、江府に出て梓に起し、こぞ   つて風流の目を喜ばしむ。この道、予が学ぶ処にあらずといへども、若かりし時、あだしあだ浪のよるべ   にまよひ、時雨、朝帰りのまばゆきを、いとはざる比ほひ、岩佐、菱川が上にたゝん事をおもひて、よし   なきうき名の根ざし残りて、はづかしの森のしげきこと草ともなれりけり〟   越前産の岩佐某と房州の菱川師宣。前々回も触れたように、一蝶は両者を「時勢粧(浮世)」を画くという  点で、同じ流れにあるものと見ている。   南畝はこの一蝶の言に信をおいた。そして「時勢粧を」巧みに写すゆえに「うき世又兵衛」の渾名で呼ば  れた「岩佐某」と、『好古日録』の「能(よく)当時ノ風俗ヲ写ス」ところの「浮世又兵衛」とを重ね合わせ  ることによって、一蝶のいう「岩佐某」とは岩佐又兵衛だと同定したのである。   では、この引用によって、師宣に漂っていた「浮世絵」と「浮世絵師」のイメージはどうなったのであろ  うか。結論から先にいえば、「時勢粧=浮世」「色恋の絵」を画く「浮世絵」のイメージに変化はなかった  が、「浮世絵師」の方は大きく変わったということである。   あの「色恋の絵」を画く「浮世又兵衛」が、実は戦国武将・荒木摂津守村重の遺児・岩佐又兵衛だという  のである。この事実がもたらす影響は大きかった。現在は過去の因果、ものには起原・来歴があり、当代の  家格や家柄は先祖の事跡に拠る、これが当時一般の考え方ではなかったか。そこに浮世又兵衛=岩佐又兵衛  =荒木村重の『好古日録』が現れたのである。これによって、菱川師宣はもちろんのこと、それに続く鳥居  清信・宮川長春・奥村政信・鈴木春信以下、当世の鳥居清長・喜多川歌麿にいたるまで、浮世絵師はみな荒  木・岩佐の末裔ということになった。立派な名門貴種のお墨付きである。   この動かし難い考証の効果は絶大であった。それが証拠に、この『浮世絵類考』に続く無名翁(渓斎英泉)  の『続浮世絵類考』(天保四年(1833)序)も、そして斎藤月岑の『増補浮世絵類考』(天保十五年(1844)序)も、  南畝同様、浮世絵師の筆頭に岩佐又兵衛を掲げている。むろんそれはこの三者に留まらない、江戸から明治  にかけて、その後も浮世絵師に関する増補作業が繰り返されたが、そのことごとくが南畝の位置づけをその  まま引き継ぐのである。それを踏まえていえば、南畝の『浮世絵類考』は、浮世絵師の出自を保証する由緒  書に等しいとも言えるのである。   次に、岩佐又兵衛を浮世絵の元祖とすることによって、師宣以前の絵師もまた浮世絵師の中に組み込まれ  ていった例を、山東京伝の考証で見てみよう。   『浮世絵類考追考』(享和二年(1802)記)に次のような記事がみえる   「雛屋立圃【明暦の頃の人、立圃が伝は諸書に出て人の知る事なれば、つばらにいはず、俗称紅屋庄右衛    門】専ら浮世絵をかきたり。医師中川喜雲作の草紙のさし絵、おほくは立圃なり。許六が歴代滑稽伝に、    雛屋立圃は画を能す、京童といふ名所記自画也云々。上り竹斎の絵も立圃也」    (京伝「追考」は上掲「翻刻 浮世絵類考」に収録)   京伝は「専ら浮世絵をかきたり」と、立圃の絵を「浮世絵」と認定している。その図様がどのようなものか  調べてみると、『京童』(中川喜雲著・明暦四年(1658)刊)は京の地誌であり、「上り竹斎の絵」とは仮名草子  の『竹斎』を指すのだろうが、所収の挿絵はいずれも名所絵である。また「中川喜雲作の草紙のさし絵、おほ  くは立圃なり」とあるが、具体的書名がないので、どのような版本を見て「浮世絵」と評したものか分からな  いが、いま仮に国文学研究資料館の「日本古典籍総合目録データベース」によって確認してみると、その挿絵  のほとんどが地誌としての役割をはたす名所絵であった。他には年中行事と咄本が一点ずつあるのみ。つまり  師宣の作品でいえば『江戸雀』に載る名所絵のようなものばかりなのである。京伝はそれらを「浮世絵」と認  め、立圃を浮世絵師の中に組み入れた。これはやはり師宣の名所絵を念頭においての措置なのであろう。浮世  絵師菱川師宣の名所絵が浮世絵なら立圃の名所絵もまた浮世絵と見なされようと。  b 橘守国   「これまた町絵なれども、世のつねの浮世絵にあらず。世に所伝の絵本通宝志、絵本故事談、謡曲画史、絵    本写宝袋等を見てしるべし」(注7)   南畝は守国をとりあえず町絵師として扱い、『絵本通宝志』などに見られる図様を指して「つねの浮世絵に  あらず」とした。つまり町絵師が画いた浮世絵ではあるけれども普通目にするところの浮世絵ではないという  のである。それにしてもなぜこんな屈折した言い回しになったのか。   本稿がこれまで追ってきた菱川師宣由来の「浮世絵」とは「色恋の絵」であり、当世の名所や年中行事など  の市中風俗を画いたものが「浮世絵」であった。しかし、守国絵本の図様は、和漢の古典や伝承に基づいた聖  人・賢人・道釈人物・仙人・詩歌の風流人士・武将・花鳥・獣魚類であり、いわば永遠に再生し続ける普遍的  な、あるいは年々歳々相似たり然とした自然の題材が主である。その点からすると、当世の転変する諸相を写  す「浮世絵」とは、ある意味では極めて対照的な図様なのである。   にもかかわらず、南畝は守国の図様をあえて「浮世絵」とした。南畝は何をもってそう見なしたのであろう  か。だが残念ながら、南畝の遺したものの中に、そこに言及したものは見当たらない。ただ幸いというべきか、  南畝の意を体現したと思われるものがないでもない。   一つは、渓斎英泉の『続浮世絵類考』であり、もう一つは斎藤月岑の『増補浮世絵類考』である。前述した  ように、両者とも南畝にならって、岩佐又兵衛を筆頭に据えて浮世絵の元祖とし、また橘守国を立項してその  意義について述べている。この点で三者の間に揺らぎは全く見られない。そこには三者に共通する思いがあっ  たとみるべきである。   ここでは主に英泉の記述に拠りつつ、守国を浮世絵師に組み入れたしかるべき理由と、また守国が浮世絵界  に及ぼした影響とを、明らかにしたい。本稿は、そうすることによって「つねの浮世絵にあらず」という言に  籠めた南畝らの思いを、解明することにつながると考えている。   (以下『無名翁随筆』は『続浮世絵類考』、著者・無名翁は英泉と表記する)   「尋常の浮世絵師に列する人にはあらずといへども、板刻の絵に名を得たれば、姑(しばら)く爰(ここ)に挙    て、画者の釈尊とも云べき神伝の開手なるべし」(注8)   (参考) 橘守国記事全文(『続浮世絵類考』所収)   英泉はいう、守国を世にいう浮世絵師と見ることはできない、しかしながら「板刻の絵」すなわち版本絵本  に評判があるので、とりあえず浮世絵師として扱いたいと。これは南畝の「町絵なれども、世のつねの浮世絵  にあらず」と同じ思いなのである。本来は浮世絵師と見なすことは難しいだが……、といったためらいの気分  が拭いきれないのである。浮世絵師・英泉にしてみれば、板下絵を画くことが浮世絵師としての証しという思  いもあるのだが、ただそれだけで狩野派出の守国を『浮世絵類考』の系譜に入れるには躊躇せざるを得ないの  である。しかし一方で、守国の版本絵本が浮世絵界に及ぼした影響のことを考えると、どうしても逸するわけ  にはいかないという思いも湧く。こうした揺れる思いが「姑(しばら)く爰(ここ)に」といった微妙な言い回し  になって現れるのであろう。   まず、英泉が守国の絵本をどう受けとめていたのか見てみよう。   「狩野流の骨法を不失、刻板の画に妙を得たり、精密奇巧、此の人より起る、刻する所数種、天保の今に至    る迄盛(ん)に世に行(は)る」(注8)   キーワードは「狩野流の骨法を失はざる」と「精密奇巧」である。これを字義通りにいえば、狩野の本質を  失うことなく、観察の細部まで行きとどいた珍重すべき巧みな図様ということになるのだろう。(この「精密  奇巧」の図様、当時は単刀直入に「密画」と称したので、以下本稿もそれを使用する)   その「密画」が江戸に広まるキッカケを作ったのが、他ならぬ守国の版本絵本であり、その影響は天保の今  にいたるまで及んでいると、英泉はいうのである。   もっとも、英泉もそれに続く斎藤月岑も「密画」を広めた功績は守国ひとりに限らないとは見ていた。両者  とも「近世板刻密画の開祖」「絵本太閤記 大ニ世ニ行レタリ」と記す。大坂の絵師・岡田玉山である。   『絵本太閤記』(寛政九年~享和二年(1797-1802)刊)、当地の上方はもちろん江戸でもかなりの評判が立っ  て、文化元(1804)年には、それに想を得た錦絵や黄表紙が数多く出版された。当初、これらは単に『絵本太閤  記』の人気にあやかろうという際物出版であったが、案に相違して、ことごとくが処罰の対象となってしまっ  た。その結果、作品は絶版、歌麿・豊国等の浮世絵師は手鎖、板元は過料といった処分が下された。浮世絵界  にとっては未曾有の大事件で、これで歌麿は死を早めたともされるのだが、そんな混乱を誘発したのが、実は  この『絵本太閤記』なのである。ここでは詳細にわたる余地がないので、詳しくは下注の(注9)に拠ってほし  いのだが、ともかくも玉山の挿絵は、一時的ではあれ、江戸人の目には鮮烈な印象与えたのである。   「京摂にて、読本に口絵、さしゑの細 密になりたるは、玉山が絵本太閤記より巧になりし」(注10)   これは、曲亭馬琴との交友を通して江戸の文芸界に通じていた高松藩の家老木村黙老の言である。   これらを参考にすると、読本『絵本太閤記』の「密画」が、江戸の浮世絵界に相当なインパクトを与えたこ  とは確かであり、玉山の影響力も守国に劣らず大きかったものと見てよいのだろう。   おりから江戸の文芸界、特に新興の「読本」のジャンルにおいては、作者に曲亭馬琴や柳亭種彦を擁し、画  工に葛飾北斎・柳川重信などを得て、一気に開花しつつあった。英泉・月岑・黙老の目からすると、岡田玉山  の「密画」が、かなりの影響力をもったいたと見えたのである。   ともあれ、話を再び橘守国にもどして、守国の絵本が江戸の市中や浮世絵界にもたらした影響とはどのよう  なものであったか、具体的に見てみたい。   「世の画師の為に広く画法を伝へ、粉本にともしからざる為にせんとて、勢力を費やし、図を巧み、傍に其    意を誌して是を板刻せしむ」   「画道に志ざし有(れ)ども書籍を見ざる俗家の者の為には、笠翁が画伝をも、委しく唐本を平仮名にしるし    て、其意を得さしむ」   「諸職の助となして、是が為に、世上に其の業の力を得る者、幾ばくならん」(注8)   英泉は守国絵本がもたらしたものを次の二点で捉えている。一つは「実用」面での影響、もう一つは「啓蒙」  という観点からの影響である。   1「実用」   守国の絵手本は、狩野派の画法を修得する上で役立つお手本(粉本)を豊富に収録している。したがって、世  の絵師たち、あるいは絵を志す人々にとっては、最良の指導書となっている。また、日常的に図案に腐心する  「諸職」の人々にとっても、アイディアを生むその拠り所として、大いに頼りにされている。要するに、絵事  に従事するものにとっては「実用」の面でとても有用だというのである。当然、こうした恩恵は、浮世絵師に  も及んでいた。一例として、守国の図様を借用した例を、春信作品で見てみよう。    平忠盛と油坊主 鈴木春信画 水絵(明和初年(1764-5)刊)(注11)    平忠盛     橘守国画『絵本故事談』巻五(正徳四年(1714)刊)(注12)   春信は守国の図様を忠実になぞっている。春信における図様の借用はこの守国画にとどまらず、西川祐信に  関するものも多い。上方絵の借用、こうした例は北尾重政の武者絵などにも見かけるから、春信に限ったもの  ではなく、一種の流行現象と見てよいのだろう。現代の感覚からすると、借用とは独創性という点で引っかか  るものを感じるが、この当時について云えば、これを必ずしもネガティブに捉える必要はないように思う。   宝暦から天明にかけてのこの時期、江戸の浮世絵界は、これら上方絵本の中に、これまでの江戸絵にはない  画法や図様を見いだすやいなや、たちまち自らのものにしようという意欲が湧いたようなのである。(注13)   橘守国も西川祐信も、町絵とはいえ狩野の門流である。その点を踏まえていえば、この時期、江戸の浮世絵  師たちは、彼等の絵本を粉本とすることによって、狩野派の画法はむろんのこと、狩野派が伝統的に題材とし  てきた図様をも自らのものとして骨肉化していたのである。   2「啓発」   前述したように、守国の絵本には、和漢の故事・古典に取材したものが多い。加えてこれら図様には、その  主旨を記した詞書きや、その場面にいたる解説などが付いている。しかも分かりやすい漢字仮名交じり文であ  った。したがって、絵本をひもとけば、難解な原文に拠ることなく、自ずと和漢の教養・知識に触れることが  できる仕組みになっていた。   守国の版本が一般市民を視野に入れた出版であったことは、こうした配慮からも窺えるが、そればかりでは  なく、絵師を志しながらも画論の書に触れ得ない人々に対しても、そうした気配りはしている。たとえば『芥  子園画伝』の扱いがその例で、そこでは漢文そのままではなく、訓読して日本文に直し、理解しやすくしてい  る。そうした意味でいうと、守国の版本は、文芸面においても絵画の面においても、人々を「啓発」する役割  を果たしていたといえるのである。具体例を見てみよう。    五常 義 鈴木春信画 錦絵(明和四年(1767)刊)    予譲刺衣図 橘守国画『絵本写宝袋』巻六(享保十四年(1729)刊)(注14)   鈴木春信の錦絵に「五常・義」(明和四年(1767)刊)という作品ある。そこには陰間茶屋の色子(男娼)が絵本  を見ている様子が画かれている。畳上の冊子には「絵本写宝袋 七」や「同 九上」の外題が見えるので、こ  れらの絵本が橘守国の『絵本写宝袋』であることが分かる。見開きになっている図様は、必ずしも明瞭ではな  いが、なにやら衣服に剣を突き刺している男と、それを見守る馬上の武将らしき男が画かれている。これだけ  でピンとくる人も当然いるだろうが、そうでない人でも『絵本写法袋』を開いて見れば、この図様がどのよう  な故事に基づいているのか、一目瞭然である。のみならず、春信が色子の絵になぜこのような図様を用意した  のか、それが分かって、たちまち腑に落ちるのはずである。   『絵本写法袋』の巻六に拠ると、この図様には「趙無恤(てうぶじゆつ)錦(にしき)の衣袍(ゑぼう)を脱いで  予譲(よじやう)に与ふ」「予譲衣袍を斫(きつ)て主君の仇を報ずる心をなす」の詞書きがあり、また晋の予譲  が主君(智伯)の仇を討とうとして、趙の襄子(無恤)の衣服に剣を刺すという趣旨の本文が続く。これでこの図  が『史記』や『蒙求』が伝える予譲の故事、いわゆる「予譲呑炭」に基づいた「予譲刺衣図」であることが分  かる。   ここに至れば、春信はなぜ色子の図と「予譲刺衣図」とを組み合わせたのか、合点がいく。ヒントは画中の  「義」にある。予譲は主君の仇を討とうとした「忠義」の臣であり、「念友」関係の色子(衆道)もまた同様に  「義理」で結ばれる。つまりこの絵のキーワードは「義」なのである。   さて「五常・義」のような作品に合点がいくためには、「予譲呑炭」のような故事の知識が不可欠である。  では当時の市民はそれをどこから仕入れたのか。この春信の作品が示唆するところでは、守国の絵本もまたそ  の知識普及の役割を担っていたということである。いうまでもなく色子は絵事の専門家ではない。その色子が  『絵本写宝袋』に見入っている。これは『絵本写宝袋』が絵の専門家以外の人々にも広く流通していたことを  暗に物語っているのであろう。上掲のように、英泉は守国のことを「画者の釈尊とも云べき」と高く評価して  いた。してみると、画法上の導きのみならず、故事古典に関する知識教養の啓発という面においても、守国は  大きな役割を果たしていたというのである。   こうした和漢の知識・教養と定型的な図様とが一体となって流布してゆくと、やがて語彙ならぬ図彙として  定着していく。そうすると、その定型的な図様を見ただけでも、詞書きや本文がなくとも、それが何を画いた  ものなのか了解できるようになっていく。雨の夜・社前・油壺・麦藁をかぶる坊主・そしてそれを取り押さえ  る烏帽子の武士、とあれば、この武士は「平忠盛」である。また衣服に剣を突き刺す武人は「予譲」なのであ  る。同様に、月夜、門垣をはさんで、門前に横笛を吹く馬上の武士、屋内に箏(琴)を弾く女官、こういう構図  であれば、『平家物語』が伝えるところの「弾正少弼(源)仲国、勅命を奉じて嵯峨野の草庵に小督局を訪ねる  の図」ということになる。こうして連想がパターン化してゆくと、「鶴」に乗る人は「黄鶴仙人」、「鯉」に  乗る人は「琴高仙人」、また「蜘蛛」の振る舞いに眺め入る女性ならば天皇の訪れを待つ「衣通姫」、そして  「御簾」に「猫」の女性とくれば「女三宮」なのである。こうした図彙が広く共有されていくと、春信画のい  わゆる「見立て」のような、種明かし的な楽しみかたも可能になっていく。   以上、橘守国が浮世絵界にもたらした影響を、大田南畝・渓斎英泉・斎藤月岑の視点から見てきた。次は少  し視点を変えて、本稿の浮世絵定義「浮世絵とは江戸の日常生活を彩る表現メディアである」にそって、守国  絵本の受容が、この定義における「浮世絵」にどのような変化をもたらしたのか、考えてみたい。   浮世絵師は、評判の高いもの、流行の最先端をいくようなもの、新奇なものには即座に反応する。そこに守  国の「密画」絵本が現れた。狩野の門流からすれば、見なれた粉本に過ぎないものも、浮世絵師にしてみれば、  極めて新鮮で刺激的なお手本と映ったに違いない。守国の絵本には、和漢の神話・伝説・史実はむろんのこと、  家屋・調度・什器、花卉草木・鳥獣魚介類にいたるまで、百科事典のようにさまざまなものが網羅されている。  浮世絵師はこれらを繰り返し模しては自らの骨肉にしようとしたはずである。   では、その過程で浮世絵師が体得したものは何であったのか。ここに守国の師匠・狩野探山が守国に示した  という教えがある。それを手がかりに考えてみたい。   「其の正に生なる物は能く観察目撃すべし 一微物の虫介といへども 生なる物を見ざる時は 伝神の妙手    段施す事難し 其の見る事及ばざるものは 古人の画けるを本として画くべし」(注15)   「正に生なる物は能く観察目撃すべし」これは「密画」に限らず浮世絵の神髄でもあるのだが、これについ  ては後回しにして、先に「見る事及ばざるものは 古人の画けるを本として画くべし」の方に注目したい。   前述したように、守国の絵本は和漢の故事・古典に基づいた図様を掲載している。浮世絵師にしてみれば、  それらは言うまでもなく「見ることできない」世界の図様に他ならない。したがって、それらの図様を摸写す  るということは「見ることできない」世界を自らのものにするという行為と同じことになる。要するに、浮世  絵師は、守国の絵本から、平安・室町といった過去の世界を画く手がかりを得たのであり、それら時代/\に  応じた有職故実や調度器物などの手本を入手したのである。さらにいえば、神話・伝説のような永遠に再生し  続ける世界、いわば普遍の世界を画く術(すべ)を手にしたということもできよう。こうして、浮世絵の画域は  「現在」の「江戸」から、「過去」の他郷あるいは「悠久」の世界へと、一挙に拡大したのである。   このことで、いちばん恩恵を受けたのはおそらく「読本」の口絵や挿絵であろう。   〝板刻の密画に妙手ナリ〟(注16)     これは英泉の柳川重信記事。重信画の「板刻密画」といえば、誰しもが、曲亭馬琴作の『南総里見八犬伝』  (文政十一(1914)年~天保十三(1842)年)を思い浮かべよう。この長編伝奇小説の時代設定は、室町後期の戦国  時代である。(重信が担当したのは天保四年刊の八輯下まで、以降は二代目重信(重山)   〝読本目録    『阥阦妹背山』  六冊 振鷺亭作   密画殊に勝れたり    『勢多橋竜女本地』三冊 種彦作 辛未 殊に密画なり〟(注17)   こちらは斎藤月岑の葛飾北斎記事。『阥阦(おんよう)妹背山(いもせやま)』(文化七年(1810)刊)の時代設定  は、南北朝時代。また『勢田橋(せたのはし)竜女本地(りゅうにょのほんじ)』(文化八年(1811)刊)のそれは  平安時代である。   浮世絵師も、こうした時代の人物・装束を画くには、やはり「古人の画けるを本として画く」ほかない。つ  まり守国や玉山等の「密画」を「古人の画けるを本」と同一視して活用するほかないのである。   英泉も月岑も北斎・重信の「読本」の口絵・挿絵に「密画」という言葉をつかう。前述のように江戸におけ  る「密画」の震源地は、橘守国の絵手本と岡田玉山の名所図会や読本挿絵である。その両者に代表される上方  「密画」の影響が北斎・重信等の江戸の挿絵画工に及んでいると、英泉・月岑そしておそらくは南畝もまた見  ていたのである。もっとも重信の場合は直接的には北斎の「密画」の影響であろうが。   江戸の版本の世界では、本文・挿絵一体化型の「草双紙」が、子供慰みものから大人の娯楽に変身し、赤本  ・黒本(青本)・黄表紙などと名称を変えつつ、文化文政期になると、次第に長編化して「合巻」が主流となっ  て定着する。また同時期、本文と挿絵からなる「読本」が新たな文芸ジャンルとして台頭してきた。これらの  文芸では、史実や伝説に拠りながらも、それらに関する文献や古画を考証することによって開けてくる世界が  小説の舞台となる、いわば空想の世界、「当世」とはかけ離れた虚構の世界が舞台なのである。徳川家に関す  るものは法度であったから、戯作者たちは、それ以前の往昔の時代について、文献や古画を参考にしながらそ  れぞれ構想を練る。したがって、画工はその時代/\に応じた髪型・衣服・装束・調度などの図様を求められ  る。板下絵師はそれに、守国や玉山などの「密画」を学習して自ら培ったところの「過去」の図様でもって応  えようとするのである。   さて、保留しておいた「正に生なる物は能く観察目撃すべし」に戻ろう。   狩野派は歴史上の人、あるいは聖人・賢人・仙人など普遍的な人物を専ら画いて、現代の人物や風俗などに  はあまり目を向けない。したがって、ここにいう「生なる物」とは、草木鳥獣虫魚類をいうのだろう。一方、  浮世絵はその誕生時から「観察」の目を専ら当世の人物に向けてきた。注目したのは、主に評判の高い役者や  遊女などの所作や衣装の変化であったか、そればかりではない。菱川師宣の『大和侍農絵づくし』に見るよう  に、士農工商それぞれの生業形態を画いたり、また前出『月次のあそび』に見るように、市中年中行事のよう  な風俗慣習をも画いてきた。これらは時代の推移とともに、すこしずつ様相を変える。したがって、変化する  世相を「観察」すること、これは浮世絵師にとっても必須なのである。   時折、その必須とされる観察眼の際だった持ち主が、浮世絵界に現れる。その一例は、鍬形蕙斎の『近世職  人尽絵詞』(三巻 文化元年序)である。この肉筆絵巻には、江戸市中の商工芸人など様々な職業の様態が、自  在な筆致で画かれている。その姿態には次の動作を内に含むような緊迫と躍動感がある。画面にはかけ声・歌  声・歓声・哄笑、響きあって活気に満ち、屈託のかけらない。これを平戸藩主・松浦静山はこう賞讃していた。   「是れ侯貴より庶人に至る、士農工商、僧巫男女、老幼娼優、其余雑技悉く挙げざるなし。奇態百出、変幻    如神、草体にして真に迫る」(注18)   折から、文芸の世界では、日常の何気ない様態のなかに人間らしい趣きを見いだして、それを表現しようと  いう機運がたかまっていた。それが江戸市民の心を俳諧・川柳・狂歌に向かわせたのであったが、それと似た  眼差しが『近世職人尽絵詞』の中にもある。そこには様々な階層の人々に対する共感があり、そこからもたら  された信頼がある。ここでの市民は俯瞰の対象ではない。浮世絵師蕙斎は、市民と同じ地平に立って、その人  々の中に生動する人間らしい趣きを見いだして、それを表現しようというのである。    近世職人尽絵詞 鍬形蕙斎画(淡彩肉筆 文化元(1804)年大田南畝序 東京国立博物館蔵)      浮世絵の版本の世界では、寛政の半ばあたりから、守国の『絵本写宝袋』のような絵手本をめざそうという  動きがすでに始まっていた。例えば北尾政美の『諸職画鑑』(寛政六年・1795刊)などがその例で、さながらミニ  チュア版『絵本写宝袋』といった観がある。こうした動きがやがて「これぞ浮世絵の絵手本だ」と人を感心さ  せるような絵手本を生み出す機運を育んでゆく。おそらく機は熟していたのだろう。そうした図様を画ける浮  世絵師が育っていたのである。   これを先導したのが北尾政美こと鍬形蕙斎で、それに続いて大成させたのが葛飾北斎である。   「生なる物は能く観察目撃すべし」「見る事及ばざるものは古人の画けるを本として画くべし」   この精神でもって万物を画くという点では、守国も蕙歳も北斎も同じである。しかし繰り返しになるが、守  国の絵手本には当世の人物・事物に関する図様はない。つまり守国は観察の目を専ら動植物に向けて、当世の  人物を画くことには無関心である。対して蕙斎と北斎は、観察の目を積極的に当世に向ける。その観察の鋭さ  は、極端な例をいうと、そのカットをコマ送りにすれば、人が動き出すかのような印象さえ生じさせるほどで  ある。それはまるで高速度撮影が可能な精密カメラを内蔵しているかのような観察眼なのである。しかもその  眼差しはというと、人への共感と信頼に満ちている。したがって、画中の人々は、自然体で屈託がなく、思わ  ず微笑んでしまうような趣きさえ漂わせている。ただし二人の描法はいたって対照的で、蕙斎は「略画」北斎  は「密画」である。   英泉は北尾政美(鍬形蕙斎)版本の代表作として、寛政から文化年間にかけて流布した「人物、鳥獣、山水、  花鳥、草木」六冊の『略画式』を挙げ、「近来絵手本は此人の筆多し、是より世に薄彩色摺の画手本大に流行  す」との評を添える。浮世絵界において絵手本の先鞭をつけた浮世絵師として、英泉は蕙斎を高く評価するの  である。(注19)   「形によらず精神を写す 形をたくまず略せるを以て略画式と題す」(注20)   「略画」とは、画面上に現れる生き生きとしたものを、日本画の用語をつかえば気韻生動そのものを、形に  こだわらないで画く、あるいは「精神」に関わらないものは略して画く、と序者は解説する。それを可能にし  ているのは、やはり生動するものを見抜く優れた観察力と、それに形を与えることができる自在な筆致なので  ある。ただ、「密画」によらず「略画」でもって画こうとしたところに、麦原雄魯智(むぎわらのおろち)なる  狂名をも有する江戸の趣味人、蕙斎北尾政美の洒脱さが現れているように思う。(注21)      これに続いたのが葛飾北斎。文化十一年(1814)『北斎漫画』の初編が出る。   「画は伝神の具なり 然れども其画妙に入に有らざれば 亦其神を伝ふる事あたはず(中略)仙仏子女より    初て鳥獣草木にいたるまで そなはざることなく(以下略)」(注22)   北斎の技量は「神を伝ふる」域に達しており、画域も万物に及ぶとする。上掲の引用にはないが、序者・半  洲散人によると、これらの図様に『漫画』と命名したのは北斎自身であるらしい。で、序者はそれに何をした  かというと、「伝神開手」の角書を添えたというのである。したがって序者によれば書名は『【伝神開手】北  斎漫画』ということになるらしい。実はこれ序者の粋な計らいなのである。   「伝神」の「神」とは神品、つまり生き生きとしたもの、すなわち気韻生動をいう。また「開手(ひらて)」  とは両手を打つこと、すなわち神を参拝するときの柏手(かしわで)にあたる。したがって、柏手を打ってこの  『漫画』を押し頂けば、北斎が図様に籠めたところの「神」が現れる、と洒落たのである。   文化十三年(1816)、四編が出る。序者・綘山漁翁は「前の三編は密画にして真の如し」という。すなわち三  編までは「密画」で画いてきたが、今回は「草画にして筆力の妙あり」で、表現法が「真」から「草・行」体  にまで及んでいるとした。   それが文化十五年(1818)の八編になると、画体がさらに広がって、誰が見てもこれはいかにも北斎だと思わ  せるような「狂画葛飾振(ぶり)」まで加わったという。   こうして『北斎漫画』は、天地人の万物、目に見えるものはもちろん、現実には目にみえない世界まで画域  に入れて、「随筆」「漫画」すなわち筆のおもむくまま、「真(密画)・行・草・狂」のあらゆる画体を尽くし  て、森羅万象を画くというのである。北斎の画業に対する飽くなき向上心と、満々たる自信とが、ここに現れ  ているといってよいのだろう。   もっとも、当時の評の中には次のような冷ややかなものもあった。   「北斎はとかく人の真似をなす、何でも己が始めたることなしといへり。是は「略画式」を蕙斎が著はして    後、北斎漫画をかき、又紹真が江戸一覧図を工夫せしかば、東海道一覧の図を錦絵にしたりしなどいへり」    (注23)      これは喜多村筠庭の記事であるが、当時は『北斎漫画』を鍬形蕙斎の二番煎じだとする向きも、少なからず  あったのだろう。しかし編を重ねるにしたがって、そうした声も北斎の圧倒的な力量の前にすこしずつ後退し  始める。天保五年(1834)の十二編くらいになると、以下の序文にあるように、否定的な評価は影をひそめ、商  売上の手前味噌とはいえ、賛辞で埋め尽くされるようになる。  「北斎漫画は 顧愷之(こがいし)甘蔗(かんしょ)を食ふ如く 漸(しだいに)佳境に入れり 十二編に臻(いた   り)て狂態百出 筆力 老てますます壮也 僧正が俵と軽重を論じ 一蝶が鞠と高低をあらそふべし 絵難   房ふたゝび生るとも いかでか間然することを得ん」(注24)(半角(かな)は本稿の読みかな)   『北斎漫画』は、東晋の顧愷之が食べた甘蔗同様、次第に甘味を増して、今や佳境に入った。この十二編に  至っては、奇想の図様が次々に湧き出で、筆力は老いるどころかますます意気盛んである。それに加えて力量  もまた桁違いで、かの「画聖」顧愷之・鳥羽僧正・英一蝶ら、和漢の名人にも匹敵するというのである。絵の  あら探しをする者を昔から絵難房というが、それが天保の今の世に現れたとしても、これに非を見いだすこと  はできないであろうという。褒めようもまた最大級なのである。   さて、英泉は『北斎漫画』をどう評していたのか。   「板刻の密画に妙を得て、当世に独歩す、数万部の刊本枚挙すべからず、漫画と題して、画手本を発市す、   大に世に行る数篇を出せり」(注25)   英泉は『北斎漫画』を浮世絵界における「絵手本」の集大成として見ていた。振り返ってみれば、橘守国が  『写宝袋』などの「密画」「絵手本」を世に提供して以来、その借用模倣から歩みはじめた浮世絵界は、南畝  の『浮世絵類考』が成る寛政期あたりから、独自の絵手本の道を模索し始め、鍬形蕙斎・葛飾北斎の優れた才  能を得るや、本家を凌ぐほどの「これぞ浮世絵の絵手本」という空前絶後の絵手本を生み出すに至った。   狂歌の世界では、大田南畝こと四方赤良が主導した「天明狂歌」のことを、『古今和歌集』に代表される王  朝和歌の俳諧化として捉える見解もあるという。今これに倣ってなぞえてみると、蕙斎の「略画」や北斎の  「漫画」は、本家・狩野派「絵手本」の俳諧化、あるいは浮世絵化として捉えることもできるのではないか。   『写宝袋』が狩野派の絵手本の役割を果たすと同様に、蕙斎・北斎の『略画』や『漫画』が浮世絵界の絵手  本の役割を果たす。ただ役割は同じにしても、それらが流通する範囲は格段にちがう。狩野派のそれは、おそ  らく門外不出などの制約などもあるのだろうから、本画を志す者の範囲に止まる。しかし『略画』や『漫画』  の及ぶ範囲は専業絵師はいうまでもなく、人は問わずで万民にまで及ぶ。こうしてみると、守国の版本絵本  が蒔いた種を、浮世絵界は鍬形蕙斎・葛飾北斎の大才を得て、大きく広く開花させたといってよいのであろう。  やはり守国が浮世絵界にもたらしたものはかくも大きいのである。   南畝・英泉・月岑らが『浮世絵類考』の中に、浮世絵師と目することの出来ない橘守国をあえて撰んで一項  を立てた由縁は、おそらくこの辺にあるのだろうと思う。                                          2021/09/30  (注1)『大和武者絵』序 天和三年(1683)刊「日本古典藉総合目録データベース」所収 藝大貴重書画像より  (注2)『月次のあそび』序 禄四年(1691)刊「国立国会図書館デジタルコレクション」画像       国会図書館本の書名は『十二月のしなさため』  (注3)『諸国此比好色覚帳』作者不詳(一・一)貞享年間(1684-87) 刊  (注4)本HPのTop「浮世絵の世界」「浮世絵の誕生と終焉(2)」「浮世絵派の確立と呼称「浮世絵師」の曲折」を参照  (注5)南畝の原題は『浮世絵考証』だが、『浮世絵類考』が一般的なので本稿もそれにならった。南畝の岩佐又兵衛の      記事は藤井貞幹の『好古日録』の項目「岩佐又兵衛」をそのまま引用したものだが、その『好古日録』の出版は      寛政9年(1797)4月であること。また春朗(寛政9年まで号す)と宗理(寛政6末or7年から使用)の記載はあるが、寛      政9年以降の使用とされる北斎名はないので、南畝の『浮世絵考証』は寛政9年頃になったものと考えられる。  (注6)『好古日録』藤原貞幹著・寛政八年(1796)九年刊「日本古典籍総合目録データベース」所収 国文研画像より  (注7)『浮世絵類考』大田南畝著 橘守国の項 寛政年間(1789-1800)記  (注8)『続浮世絵類考』渓斎英泉著 橘守国の項 天保四年(1833)序  (注9)『絵本太閤記』文化元年(1814) 筆禍について       絵本太閤記 本HP「浮世絵事典」【え】の項  (注10)『国字小説通』「読本繍像之精粗」の項。成立年未詳。『続燕石十種』第一巻所収 p302  (注11) ネット画像 Austrian Museum of Applied Arts.  (注12)『絵本故事談』橘守国画 正徳四年(1714)刊 早稲田大学図書館・古典藉総合データベース画像  (注13)『絵本武者鞋』上下 北尾重政画 天明七年(1787)刊      『絵本故事談』巻五 平忠盛(油坊主)・高綱景季(宇治川先陣)の図様借用が認められる        絵本武者鞋 (「日本古典藉総合目録データベース」所蔵 東大富士川画像)        絵本故事談 (早稲田大学図書館・古典藉総合データベース画像)  (注14)「五常 義」インターネット上の画像      『絵本写宝袋』享保十四年(1729)刊 早稲田大学図書館・古典藉総合データベース画像  (注15)『絵本直指宝』所収「和漢画家伝説」橘守国画 延享二年(1745)刊「日本古典籍総合目録」国文学研究資料館の画像より  (注16)『続浮世絵類考』渓斎英泉著 柳川重信の項  (注17)『増補浮世絵類考』斎藤月岑著 葛飾北斎の項  (注18)『甲子夜話1』巻之十二 p213 松浦静山著・文政五年(1822)記)東洋文庫  (注19)『続浮世絵類考』渓斎英泉著 北尾政美の項  (注20)『人物略画式』鍬形蕙斎画 神田庵主人序 寛政七年(1795)刊  (注21)『狂文宝合記』天明三年、両国柳橋で開催された宝合の会の記録。「画工北尾政美事 菱(ママ)原の雄魯智」とある。       この時、政美が出品した宝は「隣の宝」なるものだが「となりの宝ゆへ、今日持参不仕候以上」と人をくったような       断り書きを添えている。  (注22)『北斎漫画』初編 葛飾北斎画 半洲散人序 文化十一年(1814)刊  (注23)『増訂武江年表』「寛政年間記事」喜多村筠庭の記事「武江年表補正略」より  (注24)『北斎漫画』十二編 葛飾北斎画 芍藥亭序 天保五年(1834)刊  (注25)『続浮世絵類考』渓斎英泉著 葛飾北斎の項 天保四年(1833)序  (参考資料)    橘守国絵本所収の題材   ◯『絵本写宝袋』九巻 橘有税作画 享保五年(1720)刊 明和七年(1770)再版   巻1 和歌三神 歌人(人麻呂) 文官・武官装束 衣冠図 宮廷調度 源氏絵文様 官女装束      源氏絵 平家物語 小町伝説    2 武将像(源頼光 渡辺綱) 兵器 甲冑 具足 武具 戦陣太鼓・鐘・幟 馬具 馬    3 武将像(義家・貞任、頼政鵺退治 河津・俣野 文覚荒行)    4 中国古代聖人 伏羲 西王母 古代皇帝の装束    5 中国故事 太公望 周公旦 管仲 伍子胥    6 中国故事 呉王夫差・西施 予譲討衣     7 中国故事 張良 曹操 趙雲 関羽 仙人 八仙 費長房鶴飛行    8 禽獣部 桐に鳳凰 松に孔雀    9 獣 海馬 麝香 牛 羊   ◯『絵本故事談』八巻 橘有税作画 山本序周作 正徳四年(1714)刊 山本序周     仙人・聖人・諸子百家・道釈人物・武将・詩人・風流人士・名所・旧跡     歌人 軍記物語 戦国武将   ◯『絵本通宝志』九巻 橘守国画 享保十四年(1729)刊 安永八年(1779)再刊    1 農耕 狩猟 漁労    2 舞楽 狂言 蹴鞠・女舞等の芸能    3 歌に拠る 名所 六玉川 三夕 月ごとの花    4 歌に拠る 諸国名所    5 人物 中国の歴史上の文人・武人    6 人物 道釈    7 花鳥    8 獣魚    9 山水図(三遠の法 山塊・水・樹木)四季の景   英泉が挙げる守国の「密画」作品は以下の通り。   『絵本故事談』 正徳四年 (1714)刊 大坂 大野木市兵衛板 江戸 須原屋茂兵衛    (再版)  (刊年不明)     大坂 河内屋源七郎板   『唐土訓蒙図会』享保四年 (1719)刊 大坂 大野木市兵衛板 江戸 須原屋茂兵衛 (平住周道著)    (求版)   享和二年 (1802)刊 大坂 小刀屋六兵衛 河内屋 喜兵衛・太助・吉兵衛   『絵本写宝袋』 享保五年 (1720)刊 大坂 渋川清右衛門板    (再版)   明和七年 (1770)刊 大坂 渋川清右衛門板 江戸 須原屋茂兵衛   『絵本通宝志』 享保十四年(1729)刊 大坂 渋川清右衛門板     (再版)   安永八年 (1779)刊 大坂 渋川清右衛門板 江戸 須原屋茂兵衛    『絵本鴬宿梅』 元文五年 (1740)刊 京都 植村藤右衛門板            寛保元年 (1741)刊 江戸 植村藤三郎(未確認)           安永十年 (1781)刊 (未確認)    『絵本直指宝』 延享二年 (1745)刊 大坂 渋川清右衛門板(『絵本写宝袋』の後編の続編)  ※以上の書誌データは以下のデータベースに拠る    「新日本古典籍総合データベース」(国文学研究資料館)    「古典籍総合データベース」   (早稲田大学図書館)    「ARC古典籍ポータルデータベース」(立命館大学アート・リサーチセンター)
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