Top            浮世絵文献資料館           浮世絵の世界       文化としての浮世絵(4)-「浮世絵」が画いたもの(2)-    加藤好夫   四「浮世絵」が画いたもの(2)   A「色道」の世界   前回、浮世絵が画いたもの、それは「浮世」であるということを確認した。加えて、その「浮世」という  言葉には、その時代/\の様相、近世的言い方をすれば「当世の姿」という意味合いがあるとともに、「遊  女」や「野郎」といった好色物の題材になるようなニュアンスをも含む言葉であることを、併せて確認した。   それではこの点を、「浮世絵」の呼称がついた菱川師宣の作品、天和二年(1684)刊『浮世続絵尽(うきよ  つづきえづくし)』について具体的に見ていきたい。ただ、そのまえに『浮世続絵尽』の書名に関して、留  意すべき点があるので、それを明らかにしておきたい。   千葉市美術館の『菱川師宣展』カタログ(平成12年開催)によると、そもそも現存する版本には、初版本の  ものと思われる外題も内題もないことから、現在二通りの書名が流通しているという。一つは「浮世続」の  柱刻に注目した『浮世続(うきよつづき)』と、柳亭種彦の考証に基づく『浮世続絵尽』とである。(注1)   あらかじめいっておけば、本稿は『浮世続絵尽』に従っている。というのも、この版本が「~尽(づくし)」  というかたちをとって編集されたものと考えられるからである。奥書には次のような文言がある。      「跡より菱乃川ながれうきに浮てかゝれし 岩木華鳥絵つくしを板行して出すものなり」   「岩木華鳥絵つくし」とは、天和二年(1682)刊『岩木絵づくし』と、翌三年刊の『花鳥絵づくし』を指す。  この文言からすると、この『浮世続絵尽』もこれらと同様に「~づくし」という編集方針によって出版され  たものと見てよいのだと思う。   また、上掲のカタログにも、この初版本の題名について「『当風品絵づくし』であつた可能性がある」と  の指摘もなされている。   さて「~づくし」とは同類のものを数えあげるという意味であるから、『浮世続絵尽』の場合は「浮世続  絵」を数えていったものと考えてよい。しかし、それにしてもこの「続」とは何なのだろうか。本稿は次の  ように考えている。   以下、示すように、本作品は二十の図様からなっている。そしてそれらは、1-5図・6-10図・11-15図・16  -20図といった具合に、テーマごとに四つグループに分けられている。このことから『浮世続絵尽』の「続」  とは、例えば1-5図でいえば、これはこのグループが五枚続であることを示すものと見てよいのだろう。つま  り「続」とは、錦絵でいうところの「二枚続」の「続」と同様、これは画題に関係した言葉ではなく、画の  体裁を意味する言葉だと見てよい。そうすると『浮世続絵尽』とは「浮世絵づくし」と同義ということにな  ろう。もっとも、そんなふうに面倒くさく考えなくとも、序に「大和うき世絵とて世のよしなし事、その品  にまかせて筆をはしらしむ」とあるわけだから、「続」を取り払って「うき世絵づくし」とみなすことは不  自然ではないと思う。       参考までに、国立国会図書館所蔵本『浮世続』(天和四年・1686年版)の画像と詞書の翻刻を引いておく。     浮世続(国立国会図書館デジタルコレクション 天和四年版)     浮世続(詞書)(上掲本詞書の翻刻)  1図 花見の宴。琴の「姫」と三弦の老座頭との連れ弾き、聞き入る女﨟や侍女(3/24コマ)     (詞書:姫を小督局に擬える)     〈小督局は高倉天皇寵愛の女官。図様は仲秋の嵯峨野ではないし、また笛吹く源仲国の姿もないから伝説の視覚化で      もない。この「姫」は公家ではなく武家の娘。小督局もかくやと思わせるような美貌の娘を、格式高い貴公子たち      が座視するはずもないというのであろう〉  2図 長煙管で煙草をふかす若後家 文を認める侍女(4/24コマ)     (詞書:昔の男に百夜通いで誘う、男百夜目に心変わりして来ず)     〈深草少将の百夜通いの伝説を踏まえて、この後家を色好みの美女・小野小町に擬える。町家の後家とはいえ、長煙      管と煙草である、これで遊女イメージも重なる。後家の恋、これは当人もまた周囲の男にとっても、断ち切り難い      煩悩の種だというのであろう〉  3図 カズキを被った京女、侍女・子連れで道行く(5/24コマ)     (詞書:「伊達を好む京女」とあり、氏神である三輪神社を参詣する由)     〈三輪神社は、身ごもった活玉依姫(イクタマヨリヒメ)が男親の素性を知ろうと、男の裙につけた糸を手繰って辿り着いた      先の社(やしろ)で、大物主大神(オオモノヌシノオオカミ)が祭られている。活玉依姫を思わせるこのお洒落な京女もまた、色      恋沙汰を惹き起こすに足る魅力をたたえているというのだろう〉  4図 侍女と子供を連れて杖つき歩む老男女(6/24コマ)     (詞書:寺談義の帰り、「南無阿弥陀仏/\」と称えつつ下向)     〈これがなぜ「浮世絵」と見なされるのかよく分からない。強いて推量してみるに、先に小野小町と深草少将との百夜      通の伝説が述べられ、この詞書に「南無阿弥陀仏/\」とあることから、これを卒塔婆の文字とすれば、この老女を、      その後の老いさらばえた小町と見なせないこともない……、とすると、若かりし頃のいたずら者も、今や見る影も      なく、ひたすら後世を願う身の上になってしまった、ということなのだろうか。いわばこれが色恋の行く末だと〉  5図 綿帽子・編み笠・菅?笠の女連れ六名(7/24コマ)     (詞書:「さそふあらしにひかされて ゑんまだうをゆんでにみて なみ木のちや(ママ)に出入りて つもるおもひを      はらしける」とある。「宮仕え(武家奥女中)」の宿下がり、参詣予定の浅草閻魔堂を右手にみて並木町の茶屋へ向      かったという。積もる思いを晴らすために)     〈男子禁制の奥に務める女中たちの宿下がりである。年に二度しかない貴重ないとま。本来なら真っ先に焔魔様に詣      でるべきなのだが、脇に逸れて一目散に茶屋入りする。これを「浮世絵」の一コマと見るならば、この茶屋が単なる      喫茶店ではないことは明らかであろう。奥女中の色恋、これまた市中の関心事なのである〉(注2)   以上1-5図までは、市中の武家や町家の色恋の世界。   以下6-10図まで、江戸吉原の世界。ここは江戸の男たちのために設けられた人工の歓楽街、虚構の喜見  城である。廓内には色を売る側と買う側との思惑が渦巻く。  6図 太夫・新造・禿の道中。編笠と丸頭巾、落とし差し二本の武士二人、糸鬢奴を従え見物(8/24コマ)     (詞書:吉原、仲之町、この侍たちを「取りん坊」とする)     〈この「取りん坊」は遊女に翻弄されて金品を貢がされる飄客であろうか。それとも遊女に貢がせるプレイボーイであ      ろうか。「女郎の誠と玉子の四角、あれば晦日(みそか)に月が出る」とは決まり文句、所詮、吉原に誠の恋はない、      とはいうものの、江戸の男たちの脳裏には手招きする吉原の遊女が常にいる。廓は実に悩ましいのである〉(注3)  7図 太夫・新造・禿・遣り手と大臣客(9/24コマ)     (詞書:吉原、仲之町、この太夫を「小紫」とする)     〈三浦屋の小紫は遊女最高位の太夫であり、高尾と並び称せられる名妓である。この時代の小紫は三代目。ちなみに      二代目は、延宝7年(1679)白井権八を追って自害したことで知られる。『浮世続絵尽』の出版は天和二年(1682)だ      から、二代目の記憶はまだ残っていたはずである。吉原には、美貌と教養と品格とを兼ね備えた太夫もおれば、二      代目のように操を立てて殉ずる太夫もいるというのだろう〉  8図 6図と同格好の二人の侍客と局女郎(10/24コマ)     (詞書:吉原の局(つぼね)見世。好ましくからぬ客と好かれる客の違いについて説く)     〈局見世は吉原では下級の遊女屋。客層も図にあるような肱をいからした「しよしんなる人」が多いのであろう。店      先からは襖ごしに寝具が見える、身も蓋もないが、これまた吉原の色恋の一コマなのである〉  9図 揚屋の宴 大臣 遊女 男芸者 遣り手 かむろ(11/24コマ)     (詞書:吉原 大臣に相応しくない着こなしと振る舞いと、大臣らしい一座への気配りについて説く)     〈大臣とはお金の力をうまく使って遊ぶ客。ここでは色恋沙汰も金次第なのである〉  10図 揚屋の宴 田舎客と遊女(12/24コマ)     (詞書:浮かれんぼうの田舎客、遊女と酒と三味線にのぼせあがって「ふしもなき」小唄まで歌い出す)   11図から15図までは、殿様に近侍する小姓に関するもの。古くは馬廻りとも呼ばれ、自ら騎乗し、大将の  馬の周囲に付き従って護衛や伝令役に当たった。したがって乗馬と武芸の稽古は、小姓にとっては必須なの  である。だが小姓の任務はそればかりではなかった。小姓は、主君との関係でも、また小姓同士の関係にお  いても、兄弟分の契りを結ぶ、いわば衆道界の主人公なのである。  11図 前髪中剃りの小姓二人 家人 従僕二人(13/24コマ)     (詞書:遠国大名の江戸参勤に従行してきた小姓、一時の休暇を得て遊山してまわる。ついでに噂に聞く山谷(吉原)      はどのあたりと案内役の家人に問えば、家人がいうには、このことを国元の母が聞けば、大人になったと満足なさ      れるだろうと応えた)     〈小姓が思春期を迎えたというのであろう〉  12図 大名の若殿 低頭する小姓たちに下知(14/24コマ)     (詞書:七夕の日、若殿が、馬場において、自ら騎乗するとともに、小姓たちに馬の遠乗りを命ずる)     〈小姓には欠かせない乗馬の稽古。七夕との関連は分からない〉    13図 乗馬、遠乗りする小姓たち(15/24コマ)     (詞書:秦の趙高の「馬鹿」の故事と「人間万事塞翁が馬」の諺を述べる)     〈12-13図は連続している。場面も馬場から野外の騎乗に移っている。ただ、中国のこの二つの故事成語とこの場面、      馬が関連していることは分かるが、殿様の小姓とどう関連しているのか、よく分からない。参考までに言うと、同      じ年に出版された『岩木絵つくし』にも趙高の「馬鹿」はでてくるが、こちらは、元服した野郎役者を若衆と呼ぶの      は鹿を馬と言うに等しいと、野郎役者の挿話の中で引かれているのだが……〉  14図 小姓たちの鎗と長刀による御前試合(16/24コマ)     (詞書:武家繁昌を言祝ぐとともに、不測の事態に備えて稽古を怠らぬと云う)     〈主君の身辺警護にあたるのが、小姓に課せられた重要な責務。鎗・長刀、騎馬武者の戦闘では必須の武器である〉  15図 大名の小姓たち 聞香(17/24コマ)     (詞書:伽羅の銘木を持ち寄って互いに香を聞く)     〈遊女にとって、伽羅の香りは、自らの魅力を引き立たせるために必要不可欠な化粧アイテムであったが、これは衆      道の世界でも同様なのだろう。ちなみに、この『浮世続絵尽』の四年後に出版された井原西鶴の貞享四年(1687)刊      『男色大鑑』にも、伽羅油を売り歩くとともに自らの色香をも売る十一、二歳の若衆が登場する。また伽羅が縁で      兄弟分の契りを結ぶ若衆の話も出てくる。(注4)香りは人を聞き分ける(特定する)ツールでもあったのか、小姓      らは文字通り色香を競って磨くのである〉   16図から20図までは野郎役者の世界。西鶴の『男色大鑑』全八巻のうち四巻は役者の男色編、時代はそれ  ほど衆道が盛んであった。西鶴曰く「人の命をとる程の女方、よろづの拍子事、またの世にも出来まじき名  人、ことに若道のたしなみふかく、心を掛けざるはなし」若くて美しくその上音曲にも秀でた役者は、男色  の嗜みも深く、思いをかけない者はいなかったと。(注5)以下の図はそのような世界を画く。  16図 座敷の景、野郎帽子二人の女形が三味線を弾き扇をかざし、野郎役者が鼓を打つ、それを中剃り前髪     の若衆が見守り聞き入る(18/24コマ)     (詞書:京・大坂の野郎役者が、江戸に下つて、今なお流行る島原狂言を競って演じるとある)     〈島原狂言とは京・島原の遊郭を舞台とする傾城(けいせい)買いを演じた歌舞伎狂言。但しこの図様は舞台ではなく、      座敷芸として演じている場面なのであろう〉  17図 刀を落とし差しにした野郎役者たち、連れだって道ゆく(19/24コマ)      (詞書:「やらうずきなるおとこ」堺町(中村座)の辻にて、年頃十六ほどの野郎役者たちが帰宅するを見るとある)     〈西鶴の『男色大鑑』にも「若色あさからぬすき人、此度の江戸心ざしも、堺町に近年の出来嶋、見ぬこざらしをこ      がれて(中略)若道ぐるひばかりにのぼる」とあり、津軽の男色好きの男が、この度江戸をめざしたのも、近頃評      判高い堺町の役者・出来島小曝(こざらし)に恋いこがれて、契りを結ばんがためだとする(注6)芝居の巷を目指      すのはなにも芝居の見物客に限らない、念友を求める者もまた然りなのである〉  18図 東国の伊達男と糸鬢奴と若衆との意気地を争う場面(20/24コマ)     (詞書:島原狂言の口説の場面。奴役の上手として奴作兵衛・多門庄左衛門・坊主小兵衛の名をあげ、いずれも大盛      況だったと記す)     〈奴言葉の奴作兵衛、伊達方奴の多門庄左衛門、道化方で糸鬢奴の坊主小兵衛、いずれも奴芝居の頂点を極めた演技      派俳優だったようである。中でも小兵衛の評判はとりわけ高く、『男色大鑑』によれば、馬子役の小兵衛が玉村吉      弥の乗る馬の手綱を引く場面が殊に有名らしく、それを画いた絵馬が江戸中の寺社に懸かっていたという。(注7)〉  19図 屋形船(川武丸) 野郎役者 若衆 三味線に酒宴(21/24コマ)     (詞書:十五夜の船遊山、真乳山~業平橋~梅若塚をめぐる月見の宴。「三五夜中 新月の色 二千里外故人の心」      は白居易の詩「月に對して元九を憶う」から引く。また蘇軾「赤壁の賦」の酒宴も「これには過ぎじ」とも記す)     〈川武丸は実在の屋形船(注8)ただこの場面、なぜ白居易の詩と蘇軾の賦が引かれているのかよく分からない〉  20図 前髪の若衆、輪になって踊る(22/24コマ)     (詞書:堺町の芝居から流行りだした踊りが市中に広がり、装束を改め、鼓・太鼓・笛・三味線を加え拍子を揃えて      群集する。野郎芝居はこれにさまざまな口説きを加えて踊るという)     〈詞書には野郎芝居とある。芝居の最後を飾る「大踊り」の場面である〉   この二十図、多少不明瞭なところもあるが、大きく分けると、四つに分類できる。     (1-5図) 市中の色恋(武家の姫・町家の若後家・伊達を好む女・奥女中)         但し、老いた男女が画かれている第四図の意図がよく分からない。   (6-10図) 遊女の色恋(吉原)   (11-15図)小姓の色恋(武家)   (16-20図)役者の色恋(芝居)   さらに別の観点から見ると、二つに分類できる。   (1-10図) 女色   (11-20図)男色(衆道)  『浮世続絵尽』とは 以上のような「色恋の絵づくし」すなわち「色道の絵づくし」と見てよいのであろう。   参考までに序文にも注目してみよう。  〝見ぬ世の人を朋とするぞ こよなうなぐさむわざなる 五月雨のつれ/\にたよりて大和うき世絵とて世   のよしなし事 その品にまかせて筆をはしらしむ おどろしげなる鬼もこゝろをうごかし ゑめるやから   誠にあいぢやくの綱つよふして 六塵の楽欲あまたなり とはいへども 心のつるぎをきよくみがくは    たちまちに切らん さあいへどわけしらぬも さう/\しくかた過なん ひたすらにすつべきにもあらじ   ものゝあわれは 恋路のしたゝりときけば 竹のきり目のたまり水 みつるはかくる二八の月 ただ/\   心馬の手綱ゆるさじとて筆をこめぬ〟  「愛着(あいぢやく)の綱つよふして、六塵の楽欲あまたなり」とある。このくだりは吉田兼好の『徒然草』  九段を下敷きにしている。色恋の道は根深く多様だが心を磨いて断ち切らねばならないと、序者も兼好法師  も、とりあえず宣言する。しかしその一方で、その欲望にはとてもあらがい難くて、未練を断ち切れないと  も言う。そしてその揚げ句に「ひたすらに棄つべきにもあらじ」として、序者は意を反転させ、また兼好法  師も「かの惑ひ(色恋)のひとつやめがたきのみぞ、老いたるも若きも、智あるも愚かなるも、変る所なし」  と、なかば匙を投げる。色恋の道すなわち「色道」だけは、老いも若きも智者も愚者も、とても断念できな  いというのである。   したがって、序者に言わせると、『浮世続絵尽』とは、人の性(さが)ともいうべき、この断念しがたい  「色道」の、その「絵づくし」に他ならないということになる。そうすると、この序にいう「大和うき世絵」  とは、さしずめ大和絵の手法で画かれた「色道絵」ということになろう。   さて、菱川師宣の「浮世絵」が少しずつ広がりを見せて、その認知度が高まるにつれて、他の絵師の絵に  も「浮世絵」の呼称が使われ始める。また、元禄七年(1694)の師宣死後も、その呼称は引き継がれ、やがて  定着する。以下、その跡を少したどって見よう。   1「承応元年秋(ある公家が)川原の野郎若衆、きゝしばかりにて見ぬ事ぞかし。せめては其姿ありのま     ゝに移せよと、浮世絵の名人花田内匠といへる者、美筆をつくしける」(注9)    (『男色大鑑』巻5-3「思ひの焼付は火打石売り」 井原西鶴作 貞享四年(1687)刊)    〈「美筆をつくし」て画いたのは「野郎若衆」すなわち役者。承応元年は1652年。西鶴の「浮世絵」使用はこれが初め     てか。上述のように、師宣の「浮世絵」は天和二年(1682)刊の『浮世続絵尽』に始まるが、貞享四年の西鶴の「浮世     絵」が師宣の「浮世絵」に影響されたものか、西鶴独自に思いついたのかは分からない。あるいは当時の巷間、役者     や遊女の絵を「浮世絵」と呼ぶ雰囲気が既に定着していて、『浮世続絵尽』の序者や西鶴がそれを使用した可能性も     ないではない。が、判然としない。なお、内田内匠は未詳〉   2「あのやうな美しいこもそうは江戸みやげに貰うた菱川がうき世絵の外みた事は御座らぬ」(注10)    (『好色艶虚無僧』巻1-6「今津のほとり」桃林堂蝶麿作 元禄九年(1696)刊)    〈これは尺八を吹く美男虚無僧の美しさを、菱川師宣の絵で喩えたくだり。元禄八年刊の桃林堂蝶麿作『好色酒呑童子』     には「うき世虚無僧」という言葉もあり、「浮世絵」にとって虚無僧は格好の題材と目されていたようである〉   3「元禄卯の歳、大坂新町に於て、京屋のお琴といふ米(よね)は、松の位のわかみどり、常盤の色の名に     高き、天人と呼るゝ程の器量。宍戸与一が仮名文、菱川の浮世絵も及ばず」(注11)    (『風流日本荘子』巻1-4「難波の心中」都の錦作 元禄十五年(1702)刊)    〈「元禄卯の歳」は同十二年、「米(よね)」は遊女の異称、「宍戸与一」は作者・都の錦、「松の位」は「太夫」と称     される最高位の遊女である。遊女・若衆・役者といえば「菱川の浮世絵」を想起する、師宣の死後、この連想は市中     にすっかり定着していたのである〉   4「何とぞ鳥井か奥村か両人の大和絵師に、かの人(中村七三郞)の昔のすがたをうつくしく、極彩色にか     ゝせ、せめてものわすれ草(中略)うき世絵は、その風流をよくしらせたまはん」(注12)    (『風流鏡か池』巻1-3「仁 絵すがたの品定」奥村政信画 独遊軒好文の梅吟(政信)作 宝永六年(1709)刊)    〈宝永五年(1708)、初代中村七三郞逝去。引用文は、中村七三郞を偲ぶ縁(よすが)としての姿絵を、奥村政信と鳥居清     信のどちらに画かせようかと相談しているところ。絵の依頼主は、七三郎に一目惚れして恋わずらいに陥った娘。追     悼にと、中村七三郎の名前と法名の一字ずつを初句の上において、合計二十首の追善歌を詠んでいる。この趣向、こ     れを版画にすれば、後の「死絵」と全く同じになる〉   5「浮世絵にて英一蝶などよし、奥村政信、鳥居清信、羽川珍重、懐月堂などあれども、絵の名人といふ     は、西川祐信より外なし、西川祐信は浮世絵の聖手なり」(注13)    (『ひとりね』柳沢淇園著 享保九年(1724)序)    〈英一蝶の「浮世絵」は白拍子姿の女絵「朝妻舟図」などを指すのだろう。ここにいう「浮世絵」は、これら政信以下     の顔ぶれからすると、やはり遊女と役者絵を指すものと思われる〉   これら「浮世絵」の「色恋」の対象が何であったか再確認しておくと、以下の通り。    「若衆」1・2  「遊女」3・5  「役者」4・5   なお5の『ひとりね』の言う西川祐信の「浮世絵」であるが、ここでは「春画」を念頭に置いているよう  な気もする。というのも、柳沢淇園この随筆が成ったのが、序によれば享保九年(1724)、それ以前の版本の  出版状況を見ると、少なからぬ「春画」が流布しているからだ。(注14)   享保八年、祐信の版本『百人女郎品定』が出版された。この絵本にはさまざまな階層・諸職の女性が画か  れているが、九年序の『ひとりね』がこれを念頭においていたかどうかは微妙である。   ところで「浮世絵」イコール「春画」の件が出たついでに、そのイメージが、師宣の現役時代のみならず  死後に至るまで、まとわりついていたことを、あわせて確認しておきたい。   6「当世ぬれ絵かきの名人お江戸のひしかわ、京の吉田半兵衛も筆をなげつべし」(注15)    (『諸国此頃好色覚帳』巻1-1「艶男は女の目の毒」吉田半兵衛画 貞享年間(1684-87)刊)    〈「菱川」という名前自体が「ぬれ絵」すなわち「色恋の絵」あるいは「春画」を連想させるのである。吉田半兵衛は     京都の絵師。生没年未詳。作画期は師宣とほぼ重なるが、宝永二年(1705)刊の浮世草子が確認されていることから、     少し長い〉   7「菱川が筆にて浮世絵の草紙を見るに、肉(しし)置きゆたかに、腰付にまるみありて、大方は横の目づ     かひ、男珍らしさうなる顔の色、さながら屋敷めきて、江戸女このもしく、見ると聞くと寝たと、恋     ほど各別にかはれるものはなし」(注16)    (『色里三所世帯』「江戸の巻」「一 恋に堪忍あり女持たず」井原西鶴 元禄元年(1688)刊)    〈「男珍らしさうなる顔の色、さながら屋敷めきて」とある、画中の女を武家の奥女中と見たのである。「草紙」は版     本だから、これはすなわち春本である〉   8「女臈三十四五人も有けるが、はたちあまりより四十に程なき身も、一生本の男といふ事をしらず、浮     世絵のやさしきをほゝ(懐)に入て、せめては心をうごかすばかり、欲も罪もなく此事のみに思ひ暮し     ぬ」(注17)    (『浮世栄花一代男』巻2-2「八声の鶏九重の奥様」 遊色軒作 元禄六年(1693)刊)    〈この「女臈」も「御屋形」「奥様」などの言葉があることから、格の高い武家の奥勤め。この「浮世絵」を春画と見     た根拠は(注17)参照〉   9「浮世絵もまづ巻頭は帯とかず」(注18)    (『当世誹諧楊梅』調和・其角等点 元禄十五年(1702)刊)    「笑ひをふくむ浮世絵のつや」(注18)    (『当流誹諧村雀』来山序・元禄十五年(1704))    〈前の句は春本。「笑ひ」は春画の暗喩〉   以上見てきたように、「浮世絵」は「色恋の絵」「春画」のイメージと一体化していたわけである。そう  なった要因の多くは、菱川師宣の画業によるところが大きいのだが、1-9の引用に見るように、井原西鶴  をはじめとする浮世草子の作者たちの加勢も大きかった。   取り分け西鶴と師宣は好一対であった。西鶴は、色には女色・男色二つの道があるとして、その集大成と  もいうべき作品を、世に送り出したいる。    女色 『好色一代男』天和二年(1682)十月刊    男色 『男色大鑑』 貞享四年(1687)正月刊   師宣の『浮世続絵尽』と較べると、『好色一代男』が師宣の(1-10図)にあたり、『男色大鑑』が(11-  20図)に相当する。   それにしても、ほぼ同時期に、この東西の両大家が、絵と文、それぞれの世界で、「色道」をテーマとす  る作品を世に出したことは、奇しき縁というべきなのだろう。しかも貞享元年(1684)には、師宣が『好色一  代男』江戸板の挿絵を担当している。これは正しく、出会うべくして出会った協業と言ってもよいのだろう。   この時代、天和から享保にかけて(17世紀後半~18世紀前半)、「浮世絵」のような「浮世」を冠する言  葉がいくつも作られた。頴原退蔵博士の論文「『うきよ』名義考」についてみると、約八十有余もの用例が  収録されている。(注19)前述のように「浮世」の本来の意味は「当世」「流行」「評判高い」というもの  であった。したがって「浮世~」の多産は、今の世を肯定的に捉えて、新しく世に出るものを積極的に評価  しようという精神が、市民の間に底流としてあったことを示している。後世を頼むのではない、今の世に執  着して、そこに生きる意義を見出そうというのである。   当然「色恋」の意義も変わった。もはや「色恋」は、人として捨てるに忍びないからこだわらざるをえな  いといった消極的なものではなくなっていた。むしろその逆で、新しい時代を生きる上で避けて通れない問  題の一つとして積極的に捉えるべきだというのである。   菱川師宣の「浮世絵」や井原西鶴の「浮世草子」とは、詰まるところ、そうした市民の新しい「色道」観  が形をとって現れたものと見ることができるのではないか。                                       (以上 2021/05/31)   (参考資料)    「浮世」を冠した言葉と呼称「浮世絵」の時系列(浮世絵文献資料館編)    〈次回は 五「浮世絵」変容〉  (注1)松平進氏の『師宣祐信絵本書誌』(日本書誌学大系57)は、柳亭種彦の考証を受けて『浮世続絵尽』とする。一方、      「国立国会図書館デジタルコレクション」は天和四年本の残された外題から『浮世続』としている。  (注2)天和三年(1683)の奥書があるとされる戸田茂睡作『紫の一本』には浅草並木町の茶屋について、次のような記述が      ある。「並木の茶屋へ入たるに、右左の幕の内より、やすませ/\とよぶ声につきて見入りたるに、年のよはひ二      八ばかりを先として、光かゞやく玉鬘と見ゆるも有、誰が袖ふれしとなつかしき梅か枝のとしもあり、藤の裏葉の      うらめしく、若菜とみゆるよはひには我魂もいつしかに、飛ぶ火の野辺の春の雪、消え/\となるばかり也」(国      立国会図書館デジタルコレクション画像([2]57/119コマ))      玉蔓・梅枝・藤裏葉・若菜は源氏名、茶屋とはいえ十六歳ほどの少女が色を売る休み処なのである。藪入りに閻魔      堂への参詣は奉公人の習い。その閻魔堂にほど近い並木町に、宿下がりする奥女中の密会場所があっても不思議で      はない。  (注3)寛文九年(1669)刊吉原の評判記『讃嘲記時之太皷』「ゆうきり」記事「いつもはなやかなる 御いでたち しんぞ      うのごとく うつくしくかざり給へば あおきとりんぼうの のばするもことわり也」とある。      (早稲田大学図書館「古典籍総合データベース」画像番号14)  (注4)『男色大鑑』貞享四年(1687)刊 巻1-1「色はふたつの物あらそひ」巻2-4「東の伽羅様」      (早稲田大学図書館「古典籍総合データベース」画像)  (注5)同上巻5-5「江戸から尋ねて俄坊主」  (注6)同上巻2-4「東の伽羅様」日本古典文学全集『井原西鶴集二』所収の「『男色大鑑』登場役者一覧」によると、出      来島小曝は若衆方から若女方に転じた江戸の役者で、その活躍期は寛文・延宝期で、延宝五年(1677)には姿を消し      ているという。したがって、師宣の『浮世続絵尽』天和二年(1682)刊とは関係はないが、契る相手を求めて堺町に      通う男色ずきがいたという点では参考になると思う。  (注7)奴作兵衛は万治三年(1660)刊の歌謡集『万歳躍』京都四条河原を歌った歌詞のなかに「やつこ作兵衛がやつこのこ      とば」とあり、奴言葉を芸としていたようだ(稀書複製会『万歳躍』国立国会図書館デジタルコレクション画像)      多門庄左衛門は『歌舞伎年表』によると、寛文~延宝(1661-80)にかけて奴役を演じている。また『古今四場居色      競百人一首』元禄六年(1693)刊には「丹前かたの初りは此人より発る」「役者の氏神」と称えられている。(東京      大学図書館・霞亭文庫画像より)坊主小兵衛は(注6)と同じく「『男色大鑑』登場役者一覧」によると、糸鬢奴で      知られ寛文~延宝にかけて活躍して道化方とある。また『男色大鑑』巻5-5「面影は乗掛の絵馬」玉村吉弥の挿話      で「江戸中寺社の絵馬に吉弥面影を乗掛に、坊主小兵衛が馬子の所、これを見てさへ恋にしづみ、今に世がたりと      はなりぬ」とある。吉弥が乗る馬の手綱を引く坊主小兵衛の絵馬が江戸の寺社にあるが、その絵馬を見てさえ玉村      吉弥を慕う人が絶えないというのである。  (注8)戸田茂睡作『紫の一本』に「川一丸大やかた舟也」とある。川一丸と同じ大きさの屋形船。      国立国会図書館デジタルコレクション画像[2](32/119コマ)参照  (注9)早稲田大学図書館「古典籍総合データベース」画像  (注10)東京大学総合図書館所蔵「霞亭文庫」画像  (注11)国文学研究資料館「日本古典籍総合目録DB」画像  (注12)國學院大學図書館「デジタルライブラリー」画像  (注13)『近世随想集』所収『日本古典文学大系』岩波書店刊   (注14)浮世絵文献資料館「西川祐信」の項参照  (注15)京都大学「貴重資料デジタルアーカイブ」画像  (注16)『江戸時代文芸資料 第五』所収 国書刊行会 大正五年(1916)刊  (注17)『浮世栄花一代男』京都大学「貴重資料デジタルアーカイブ」画像      『和漢遊女容気』一之巻「姉より妹に移り気な徒者」江島其碩作・西川祐信画・享保初年刊       国文学研究資料館「日本古典籍総合目録DB」画像      〝和国の奥づとめの女中が、浮世絵のやさしきを見て、目顔に皺をよせ、後には同士討ちの道具で心をうごかさ       るる〟「浮世絵のやさしき」が春画を暗示する  (注18)『雑俳語辞典』「浮世絵」の項 鈴木勝忠編 東京堂出版  (注19)『江戸文芸論考』所収 頴原退蔵著 昭和十二年(1937)刊
    Top              浮世絵師総覧              浮世絵の世界