Top            浮世絵文献資料館           浮世絵の世界             文化としての浮世絵(2)-「江戸」の意義 -     加藤好夫   二「江戸」の意義    「浮世絵とは江戸の日常生活を彩る表現メディアである」    この定義における「江戸」には二つの意味合いがある。一つは地域としての「江戸」、もう一つは歴史時   間上の「江戸」である。    A 地域としての「江戸」    浮世絵が流通していたのは必ずしも江戸に限らない、上方においても、浮世絵は製産され流通していた。   それにもかかわらず定義にあえて「江戸の」と冠したのは以下のような理由からである。    一つは「浮世絵」という言葉が誕生したのが他ならぬ「江戸」であったということ。    「爰に江城のほとりに菱川氏の誰といひし絵師、二葉のむかしより此道に心を寄、頃日うき世絵といひし     を自然と工夫して、今一流の絵となりて(云々)」(注1)    これは、菱川師宣の絵本『月次のあそび』(元禄四年・1691)刊の序である。この絵本には、江戸の年始   参りや万歳・寺参り・花見・灌仏会・子規・印地切・施餓鬼・十五夜・重陽・恵比須講・顔見世・師走の光   景などが画かれている。これら江戸の月次行事や市中風俗の図様を、序者は「浮世絵」と称したのである。   こうして今に至る「浮世絵」はここ「江戸」から歩み始めた。    二つ目は、その師宣に始まる「浮世絵」を「江戸絵」と称する人が江戸から出始めたこと。    享保八年(1723)頃、奥村政信の作画になる『絵本風雅七小町』という絵本が出版された。下巻の「江戸絵   と云事」ところに次のような記述がある。    「浮世絵は江戸元祖菱川りう美人三十二相図、是によりて江戸絵と名づく、尤菱川も古風に◎て、浮世の     風俗もうつりかはりし時々の風を書故に浮世と申、又本絵とは絵形ちがい候が、本絵を心がげ(ママ)し浮     世絵はじやうぶ也、浮世絵本だん/\出来申候  東武大和画工芳月堂奥村文角政信画〟(注2)     〈◎は「成」か〉    これは「浮世絵本だん/\出来申候」と自らの絵を「浮世絵」と自認する奥村政信の言である。ここで政   信は浮世絵の元祖を江戸の菱川師宣とし、その師宣およびその門流が画くところの「浮世絵」を「江戸絵」   と名付けたのである。やがてその「江戸絵」という言葉もまたひとり歩きをはじめる。すると享保末年には   次のような記事も現れる。    「浮世絵 江戸菱川吉兵衛と云人書はじむ。其後古山新九郎、此流を学ぶ。現在は懐月堂、奥村正信等な     り。是を京都にては江戸絵と云     (中略)     紅絵 浅草御門同朋(どうぼう)町和泉屋権四郎と云者、版行のうき世絵役者絵を、紅彩色(べにざいし     き)にして、享保のはじめごろよりこれを売(うる)。幼童の翫(もてあそ)びとして、京師、大坂諸国に     わたる。これ又江戸一ッの産と成て江戸絵と云」(注3)    この間、版画は墨摺から手彩色の紅絵そして色板使用の紅摺絵へと進化を遂げていたが、それらが参勤交   代などを通じて、江戸土産として諸国に流通していくにつれて、色摺りの浮世絵もまた江戸の特産品として   広く認知されるようになっていった。       「一枚画は江戸絵とて賞翫すといへり。今當所にて商ふ画は皆江戸より廻るといへり。尤當地にても江戸     にて似せて板行を摺れども画ハよからず」(注4)    これは明和八九年(1771-2)年頃、江戸の武士が大坂滞在中に認めた記事である。江戸から回ってくる浮   世絵をこの地大坂でも、江戸と同様「江戸絵」と呼ぶようになっていた。つまり浮世絵は江戸を代表する特   産品であり、江戸固有のものとする認識が上方でも共有されていたのである。     ところで、明和二年(1765)には鈴木春信を画工とする多色摺の錦絵が誕生していた。したがって、明和八、   九年には大坂においても、錦絵は流通していたはずである。また「錦絵」の題で詠んだ狂歌に「あらたまの   としの初(はじめ)の一まい絵二枚屏風にはるのいへづと」という例もあるから、この記事にいう「一枚画」   もやはり錦絵とみてよいのだろう。(注5)    さて、この多色摺を春信等の江戸人は「吾妻錦絵」と称したが、諸国もまたその「吾妻錦絵」を「江戸絵」   と呼んでいた。    「東やの錦絵とてうつくしきものあり、江戸の名物ほどあつて、紅を惜しまず、一きは目だちし色里の衣     装にて、まことに諸国で江戸絵とほめるももつともなり。うつくしき女を絵にかいたようだとは、この     錦絵よりいゝはぢめしなり〟(注6)    江戸人にとって「錦絵」は自分たちの美意識に適った自慢の「江戸絵」なのである。    もっとも「江戸絵」が上方において、高く評価されていたかというと、必ずしもそうではなかった。本居   宣長などは冷ややかに見ていた。    「美女のかほは、いかにも/\かほよくかくべきなり、みにくやかなるはいと/\心づきなし、但し今の     世に、江戸絵といふゑなどは、しひてあながちにかほよくせんとするほどに、ゑのさまのいやしき事は     さらにもいはず、中々にかほ見にくゝ見えて、いとつたなきことおほし」(注7)       美人画は顔立ちよく醜くないよう画くべきだが、江戸絵は無理に顔よく画こうとするので品がなく、かえ   っていやしく見えて拙いというのである。この文は寛政年間になったとされるから、宣長は春信、春章、清   長、歌麿等の美人画を見たうえでこう評したのかもしれない。好みの問題だから、ここでは宣長評の是非に   は立ち至らないが、確かに言えることは、この頃の江戸には、上方とは違う美意識が既に生まれていたとい   うことである。    ついでにいうと、江戸生まれを誇りに思う「江戸っ子」という言葉が登場するのもこの頃で、初出は明和   八年とされる。するとこの頃から、江戸根生いにものに対するプライドのようなものが、江戸の人々の間に   醸成されていたと考えてよい。(注8)    明和二年(1765)「錦絵」は誕生する。これは版画・版本史上における色彩革命というべき出来事であった   が、この時、春信たちは単に「錦絵」と呼ばずに「吾妻錦絵」とわざわざ「吾妻」を冠した。まさにここに   江戸人の自負が現れていると見るべきなのであろう。してみると「錦絵」とは「江戸」が結晶化したものだ   と見てもよいのかもしれない。    折しも頃は文運東漸の時代である。江戸っ子は、言葉遣いや仕種(しぐさ)や衣食住などの様々な局面にお   いて、「粋(いき)」などと呼ばれる固有の美意識を鍛えはじめた。浮世絵もまたそれに呼応した。そしてそ   の美意識に適う表現を常に追い求めた。浮世絵が長年にわたって「江戸」の流行の先駆けで有り続けたのは、   そうした積極的な関わりがあったからこそなのである。    以上が、「浮世絵」の定義に、ことさら「江戸の」と冠した所以である。   (注1)松平進著『師宣祐信絵本書誌』日本書誌学大系57 青裳堂書店 昭和六三年刊   (注2)奥村政信作・画『絵本風雅七小町琴棊書画』下之巻 享保頃       本文は「The World of the Japanese Illustrated Book」(The Gerhard Pulverer Collection)のネット画像に       拠る。また同本の刊年は国文学研究資料館の「古典藉総合データベース」の「享保八年?」に基づく。なお「古       典藉総合データベース」の統一書名は『絵本風雅七小町』である   (注3)菊岡沾凉著『本朝世事談綺』「紅絵」享保19年(1734)       『日本随筆大成』第二期 巻十二 p521-2   (注4)池田正樹著『難波噺』明和八年(1771)六月大坂滞在記事 『随筆百花苑』十四巻所収 p70   (注5)四方赤良作・千代女画 黄表紙『年始御礼帳』天明四年(1784)刊       「錦画 雲楽斎 あらたまのとしの初の一まい絵二枚屏風にはるのいへづと」   (注6)山東政演(京伝)作・画 黄表紙『御存知商売物』天明二年(1782)刊   (注7)本居宣長著「絵の事」『玉勝間』十四の巻「つら/\椿」所収 引用は『日本思想体系』本より   (注8)諸書によると、明和八年の川柳点「江戸っ子の わらんじ(草鞋)をは(履)く らん(乱)がしさ」が「江戸っ子」と       いう言葉の初出とされている    B 歴史時間上の「江戸」      「浮世絵とは江戸の日常生活を彩る表現メディアである」    さて、この定義の「江戸」、これは安土桃山・明治と連なるところの江戸時代と同義ではない。徳川幕府   の成立からその瓦解までといった政権交代によって、この「江戸」を区切るわけにはいかないのである。    慶応四年(明治元年・1868)、不変・不倒、磐石と思われた江戸幕府が遂に瓦解した。為政者が交代する   わけだから、江戸人の多くが不安を感じたには違いない。しかし結局のところ、人心はあまり変わらなかっ   た。また市中の生活も一変したわけでもなかった。    「京都の戦争の噂などもそろそろ伝わったがのんきなもので、ざくろ口の中が湯気でもうもうしているか     ら、風呂を出ていても寒くない。いつまでも清元なんかをやっている」(注1)    江戸城の明け渡しは慶応四年四月、この記事はその直前の一月のもの。鳥羽伏見の戦いも、江戸の町人に   とっては遠い世界の出来事、市民は依然として天下泰平にどっぷりとつかっていたのである。しかし敗走す   る幕府側を追って、官軍が江戸に押し寄せる頃になると、さすがに緊張が奔った。その当時、市中巡回警備   にあたっていた彰義隊の面々も殺気立ち、江戸は次のような惨状を呈した。    「市中いたる所はほとんど百鬼夜行で、暮六つには閉まる町々の木戸で、番太郎(番人)などがよくずばり     と一刀でやられている。ひどいのになると胴はそのままそこへ置くが、首は二町も三町も先へ持って行     って捨てて行く」(注2)       「斬り徳斬られ損」という言葉もあったほど、実に物騒で残酷な世の中になってしまった。とばっちりを   受ける市民にとっては実に迷惑な時勢であったが、幸いにも長続きはしなかった。上野戦争の決着がつき、   江戸が東京と改称された頃(七月)になると、官軍の流入で多少の混乱はあったものの、民心は落ち着きを   とりもどした。    「未だ少し伝法肌の人は素っ裸で町を歩いた。(中略)湯屋の帰りなどはみんな着物を小脇にかかえてふ     んどし一つであるいたものである」    「盛り場は、浅草の奥山、両国橋手前米沢町、柳町へかけての広小路、芝の久保町、上野の山下、芝居は     猿若町の三座、寄席、釈席、一時は火が消えたようになっていたが、反動でぐっと盛って来た」(注3)    為政者は代わったが、市民の生活復旧はとても素早かった。文明開化のご時世、西洋の文物がどんどん入   ってきて生活環境が急速に変化したとはいえ、これまで疑うこともなく慣れ親しんできた生活習慣や人間関   係が、そう簡単に変化するはずもなかった。考えてみれば、天保の改革(天保十二~十四年・1831-33)の時、   二十歳前後だった人も維新の時点(1868)では五十代、まだまだ現役の江戸っ子である。江戸人としての意識   や立ち居振る舞いが新政府の発足とともに消え去ることなどなかったのである。    とはいえ「散切り頭をたたいてみれば文明開化の音がする」という詞が流行ったのが明治四年(1871)、そ   して明治九年(1876)には帯刀禁止令」が出る。江戸は確実に遠ざかりつつあった。そんな世にあって浮世絵   界はどうであったのか。    「(維新当時)その時分横山町三丁目に、辻岡屋文助という錦絵屋がありました。この店は辻文といって     通っていました。主に百姓相手の店でして、馬喰町の旅館に泊っている百姓たちが、国元への土産にこ     の店から錦絵を求めて帰ったものです。馬喰町の旅館を中心として、両国へかけてこの辺には昔から錦     絵の版元がありました。私の覚えていますのは、辻文、木屋、大平、加賀屋などというのがありました。     木屋というのは馬喰町四丁目にありました店で、大平は両国です。この大平というのは相撲の画で売出     した店でした。それから加賀屋というのは、大平の向側で芭蕉膏という生薬屋の少し手前でしたが、い     づれもかなりに繁昌したものです」(注4)    「通壱丁目の角が瀬戸物店、続いて大倉書店、萬孫絵双紙、いつも店先は錦絵の見物で一ぱい。絵双紙に     見とれて懐中を抜かれて青くなる人もあつた」(注5)    明治に入っても十年代まで、やはり浮世絵界もまた江戸と変わらぬ賑わいを保ち続けていた。というわけ   で、政権交代によって浮世絵の生きた時代を画すわけにはいかないのである。     (注1)『戊辰物語』東京日日新聞社会部編 岩波文庫 p32   (注2) 同上 p57   (注3) 同上 p86   (注4)「幕末時代の錦絵」淡島寒月著 『梵雲庵雑話』所収 岩波文庫本 p120   (注5)『明治初年より二十年間 図書と雑誌』所収「明治十年前後の書店配置図 日本橋から芝まで」        浅野文三郎著 洗心堂書塾・昭和十二年刊   a 始まり    「浮世絵とは江戸の日常生活を彩る表現メディアである」    本稿は、文化としての「浮世絵(うきよゑ)」には始まりと終わりがあるという立場に立っている。した   がって、この定義における「江戸」、つまり「浮世絵(うきよゑ)」という表現メディアが存続していたと   ころの「江戸」とは、「浮世絵」の誕生から終焉までの期間をいうに等しい。つまり、浮世絵の誕生と終焉   を見極めることが、歴史時間上の「江戸」を画することに通ずるのである。    では、浮世絵の始まりとはどこか。本稿は「浮世絵」という言葉が出現した時点をもって、その始まりと   考えている。すると下掲のように、この言葉は菱川師宣の図様に対して名付けられたものであるから、菱川   師宣(元禄七年・1694年没)の出現をもって浮世絵の始まりと見なすことができる。    「五月雨のつれ/\にたよりて、大和うき世絵とて世のよしなし事、その品にまかせて筆をはしらしむ」(注1)    これは天和二年(1684)刊の師宣絵本『浮世続絵尽』の序である。師宣の図様を「浮世絵」と呼んだ例とし   てはこれが最上限のようだ。もっとも「浮世絵」の初出を、上掲『月次のあそび』の初版本とされる延宝八   年刊『年中行事』の序に認める見解がある。(注2)また延宝九年頃の『それそれ草』という俳書に「浮世   絵や下に生たる思い草」という句があり、これが初出ではないかという指摘もある。(注3)    とはいえ、本稿にはその是非について論ずるに足る用意がない。やはり年次の確実なものを以て論拠とす   るほかない。したがって杓子定規に云えば、浮世絵の始まりは天和二年の菱川師宣の図様からということに   なろう。    ただこの序者がいう「大和うき世絵」なるものには、この『浮世続絵尽』所収の図様に限らずこれ以前の   師宣画をも視野に入れているようであるから、浮世絵の始まりを、あえて天和二年と限る必要もないように   思う。    現在、師宣画と目される作品は、漆山又四郎の『日本木版挿絵本年代順目録』に拠ると、早くは明暦三年   (1657)からとされる。しかしそれは「存疑ながらも師宣風」と条件付きである。その「存疑」が万治年間(1   658―60)から寛文へとしばらく続く。(注4)師宣は元禄七年(1694)の没。享年は不明だが諸書が伝えるよ   うに、仮に七十余の年齢だとすると、三十七年前の明暦三年は三十歳代に相当する。したがって作品の存在   がありえないわけではない。署名を憚ったのか、あるいは署名の習慣がなかったのか、よく分からないが、   この時期、師宣が作画しなかったとは考えにくいのである。したがって「師宣風」と目される中に師宣画も   あるとは十分考えられる。もっともこれは憶測でしかない。    さて、現在、間違いなく師宣画だと断定できるのは、寛文十二年(1672)刊の絵本『武家百人一首』だとさ   れる。刊記には「寛文十二壬子歳孟春吉日/筆者東月南周/絵師菱川吉兵衛」とあり、これが師宣の署名入   り作品の初出という。(注5)    したがって、菱川師宣の出現を以て浮世絵の始まりとする立場からすると、本稿の浮世絵の定義にいうと   ころの「江戸」とは、寛文末(17世紀後半)あたりから始まるといったほうがよいのであろう。  (注1)松平進著『師宣祐信絵本書誌』日本書誌学大系57 青裳堂書店 昭和六三年刊  (注2)佐藤悟著「菱川絵本の諸問題」「菱川師宣展」カタログ所収 千葉市美術館 平成十二年刊  (注3)諏訪春雄著「浮世絵の誕生」『浮世絵芸術』130号。なお諏訪氏は『それそれ草』の刊行を延宝八年としている。頴原      退蔵著『江戸時代語の研究』は延宝九年刊。国文学研究資料館の「日本古典籍総合目録」は延宝九年跋とする  (注4)漆山又四郎著『日本木版挿絵本年代順目録』明暦三年刊『三浦物語』「存疑 師宣風」  (注5)「菱川師宣展」カタログ 千葉市美術館 平成十二年刊   b 終わり    何をもって終わりとするのか、まずそれを明らかにしておきたい。   浮世絵の製作は作品の企画・作画・製版・印刷・販売の順にそれぞれ分業して行われる。版画でいうと、企   画する版元・版元から依頼されて版下絵を画く画工・それを基に木版を作る彫師・馬連を駆使して印刷する   摺師・そしてそれを店頭に飾って売る絵草紙屋と、それぞれ役割を分担している。版本の場合は、例えば合   巻でいうと、その流れの中に、本文を書く戯作者・その原稿を清書する筆耕(工)・そして表紙を付けて冊子   にする製本工が加わる。これらの製作システムと製作プロセスを図示すると次のようになる。       浮世絵の製作システム  浮世絵の製作プロセス    (なお、このシステムとプロセスについては「表現メディア」のところで詳述する)    浮世絵の終わり、即ち「浮世絵は江戸を彩る表現メディア」という定義でいうところの「江戸」の終わり   とは、この分業体制が機能不全に陥って生産活動に支障を来す状態、つまりこの製作システムと製作プロセ   スの崩壊をもって終わりと見なすのである。    無論、この崩壊は一挙に起こった訳ではなかった。    引き金は明治の文明開化で、活字による印刷術の流入である。その変化は明治十年(1878)を過ぎたあたり   から、まず版本の方に現れ始める。原因は木版と活版の印刷コストの逆転であった。(注1)    合巻でいうと、表紙・口絵・挿絵、絵の方はさすがに木版摺であったが、本文の方はすべて活版に代わっ   てしまう。役割分担上から云うと、これで筆耕と字彫りの工程が不用になった。いったんこうなってしまう   と流れはもう止まらない。新聞・雑誌・単行本の文字はすべて活版になり木版は完全に駆逐されてしまう。   それがやがて口絵や挿絵や表紙の方にも影響が及んだ。銅版による絵入り版本が生まれ、石版の表紙も進出   してくる。当然、彫師・摺師の仕事は大幅に減少した。    版画(錦絵)の方は、明治の十年代から二十年代の前半までは、月岡芳年や豊原国周などの板下絵師がまだ   まだ健在で、美人画・武者絵・役者絵など、上掲のシステムに拠る大量生産が依然活溌に行われていた。が   それも明治二十年代に入って、写真製版であるコロタイプ印刷などが導入され始めると、木版の旗色は悪く   なった。それまで美人画や役者絵・名所絵は浮世絵の独壇場であったが、次第に美人・俳優のブロマイドや   名所写真に主役の座が移っていった。こうなると板下絵師まで不用になった。美人画・役者絵・風景画、こ   れらは浮世絵の大黒柱で重要な収入源あった。それがすべて西洋の製版印刷術にとって変わったのである。   木版関係の多くの職人が廃業・転職を余儀なくされたのは言うまでもない。    明治十年代後半から二十年代にかけて、戯作者の死が相次ぐ。明治十七年(1884)・笠亭仙果二世、同十八   年・高畠藍泉(柳亭種彦三世)、同十九年・染崎延房(為永春水)、同二十三年・万亭応賀、同二十六年・梅亭   金峨、そして明治二十七年(1894)には最後の戯作者ともいうべき仮名垣魯文が亡くなる。    彼等の仕事は単に文を綴ることだけにとどまらない。口頭あるいは下絵を画いて、画工に指示を出す必要   があった。挿絵場面の時間や場所、人と物との構図に図様などは言うまでもない。細かくは調度品や着物の   模様紋様におよぶ場合もある。明治十八年(1885)、坪内逍遥は「春のやおぼろ」の戯作名で『当世書生気質』   を書いたが、やはり下絵を画いていた。日本近代文学の先駆けと評される作品を書いた坪内逍遥でさえ、下   絵を当然視していたのである。ましてや戯作者にとって画工への指示は必須だった。画工はその下絵あるい   は口頭の指示に沿って作画する。中には、葛飾北斎のように作者曲亭馬琴の指示に対抗して我を張る画工も   いるが、これは例外中の例外、また歌川国貞のように柳亭種彦の指示に従いつつより効果的な図案を提案し   た画工もいるが、これまた例外で、ほとんどの画工はその指示に応じて作画した。   (参考までに、戯作者が画工に口頭で指示を出している場面と、坪内逍遙が案じた下絵を引いておく)    近世桜田講談(合巻 山崎年信画 小林鉄次郎編・板 明治11年刊)    (早稲田大学図書館「古典藉総合データベース」)    塾舎の西瓜割り(『当世書生気質』下絵 春のやおぼろ 明治18年刊)(同上)    明治二十年を境に合巻は嘘のように絶滅してしまう。原因の第一は、当時の合巻の絵柄がマンネリ化して、   読者に飽きられてしまったことにあるのだが、戯作者の不在、つまり下絵や指示の出し手が居なくなったこ   とも決定的だった。    合巻等版本出版推移 幕末-明治    明治三十年代に入ると、華やかな木版口絵の時代が始まる。しかしここでは、書き手と画き手の関係が従   来とは異なってしまった。その代わり現れてきたのが、作文に専念する書き手と画稿を自ら考案する画き手、   即ち「作家」と「画家」の登場である。両者の関係は協業というべきもので、画家は作家の意を汲んで作品   の世界を豊かなものにするという役割を担うのである。(注2)    明治二十年代から三十年代にかけて、明治を代表する版元の死もまた相次ぐ。明治二十四年(1891)、大黒   屋・松木平吉が逝き、明治三十一年(1898)には具足屋・福田熊次郎が、そして明治三十三年(1900)には滑稽   堂・秋山武右衛門が亡くなった。    大黒屋は、明治九年(1876)、小林清親の光と影による描法いわゆる「光線画」によって、江戸から東京へ   と移ろいゆく光景を作品化した。この作品の主題は開化する現在の東京であったが、逆にいえば、失われつ   つあった江戸の名残を後世に遺したわけで、その隠れた主題は「江戸」への惜別だったともいえようか。    具足屋は、明治二十七年から九年(1894-6)にかけて「千代田の大奥」を出版。徳川の治世では絶対に出版   不可だったが、二年ほど前大奥に関する書物が出版されていたから、タブー視よりも好奇の方が勝ったので   あろう。画工には楊洲周延が起用された。彼は、幕府瓦解後、彰義隊員として官軍側と戦った武士であった   が、大奥を画くことになったのは奇しき縁とでもいえようか。(注3)    滑稽堂は、明治十七年から二十四年(1884-91)にかけて、和漢の古典や史実や伝説上に現れた月の百態、す   なわち「月百姿」を出版した。板下絵は月岡芳年が担当したが、これは滑稽堂のアイディアのもと、博覧強   記とされる桂花園桂花の図案に基づいて仕上げたと言われている。版元・図案提供者・画工・彫り摺りの職   人と、それぞれが役割を全うしてなったのがこの「月百姿」である。その意味では「月百姿」は分業の結晶   なのである。(注4)    彼等は「江戸」の浮世絵製作システムに拠って「浮世絵」を出版したおそらく最後の版元だったといえる   のだろう。そういう点からいえば、彼等は、恋川春町と組んで草双紙を大人の読みもの(黄表紙)にした仙鶴   堂・鶴屋喜右衛門や、歌麿・写楽を起用して美人画と役者絵とを一変させた耕書堂・蔦屋重三郎や、北斎画   「富嶽三十六景」の永寿堂・西村屋与八や、広重画「東海道五十三次」の保永堂・竹之内孫八などといった   名だたる版元系譜の最後尾、いわばしんがりに位置するのである。その彼等の退場である。それはまさに   「江戸」と「浮世絵」の終焉を意味したのである。    さて画工に目を転じると、豊原国周(天保六年~明治三十三年(1835-1900)や月岡芳年(天保十年~明治二   十五年1839-1892)らの世代の浮世絵師は、上掲の浮世絵製作システムがまだ機能していたから、彼等も師匠   (三代豊国・国芳)と同じ環境で仕事をすることができた。だが、彼等の弟子たちで、明治二、三十年代に世   に出る浮世絵師になると、仕事環境は激変する。美人画・役者絵・名所絵の注文はとだえ、当時、彼等の眼   前にあったのは、明治になって台頭してきた新聞・雑誌や単行本の挿絵や口絵の作画であった。しかしこれ   とて、時代は写真による製版印刷に移行済みである。木版の摺り彫りの職人との分業は、木版口絵の以外は   消滅してしまった。ところがその木版口絵もまた大正の半ばになると姿を消してしまう。もはや時代の趨勢   は、江戸の浮世絵製作システムによる大量生産を求めなくなっていたのである。    明治四十年(1907)十月四日付けの東京朝日新聞には次のような記事が出ている    「錦絵問屋     錦絵は振わなくなった。画く人もなければ、彫る人もないという有様だ。それで錦絵問屋も、つぎつぎ     と閉店し、今は両国の大平と、室町の滑稽堂との二軒が残っているだけだ。この二軒とても、アメリカ     から美人画の註文のあるのを頼りに商売を続けているに過ぎぬ。人形町の具足屋は、役者の似顔絵の板     木も売って、今は石版画を商っている。安物の千代紙や切抜き絵は、夏季にだけ売行きがあるけれども、     秋口からは下火になる。これらの安絵も、以前は半紙に刷っていたけれども、それでは算盤が持てぬの     で悉く西洋紙を用いる。それを一枚一銭で売るのだから、利益は二三厘を出ない。錦絵問屋には、秋風     が吹き渡っている」(注5)    上掲、明治二十年まで、華やか賑やかで人目を惹いた絵草紙屋もすっかり凋落してしまった。「光線画」   の大黒屋(大平)と「月百姿」の滑稽堂は辛うじてアメリカからの美人画の注文でしのいでいるという。また   「千代田の大奥」の具足屋にいたっては役者似顔絵の板木を売って石版画の販売に生業を移したというあり   さまであった。この当時を十代から二十代にかけて過ごした鏑木清方(明治十一年~昭和四十九年・1878-1   972)の目には次のように映っていた。    「二十七、八年の日清戦争に、一時戦争物の全盛を見せたのを境にして段々店が減って行った。役者絵は     何といっても写真の発達に抗し得なかったろうし、出版の戦後目覚ましい進展を見せて来たことと、三     十四五年に絵葉書の大流行が旋風のように起って、それまでどうにか錦絵を吊るし続けていた店も、絵     葉書に席を譲らなければならなくなった」(注6)    版元を中心として戯作者・画工・彫師・摺師・絵草紙屋からなる浮世絵の製作システムとそのプロセスも、   西洋渡来の活版印刷と写真印刷の発展には対抗できず、明治の二十年~三十年代には崩壊した。こうして、   寛文の末年(17世紀後半)菱川絵の出現をもって歩みをはじめた浮世絵も、明治の三十年代(1900年代)に入   るや、出版メディアの主役の座をすべり落ちて、ついに終焉を迎えたのである。     (以上 2021年1月31日記)  (注1)「印刷雑誌発刊ニ際シ同業諸君ニ一言ス」佐久間貞一(『印刷雑誌』創刊号・明治二十四年二月)      「予ガ始メテ此業ヲ開キシハ明治九年(一八七六)ニシテ、当時活版ノ組料及ビ印刷ハ木版ノ彫刻及ビ摺賃ヨリ高カ       リシ故ニ、予ハ謂ヘラク斯ノ如キ価格ハ決シテ永続スベキモノニアラズ、必ズヤ早晩下落スベシト」       引用は『佐久間貞一全集(全)』(矢作勝美編・大日本図書・1998年刊)より  (注2) 戯作者と画工と下絵の関係および戯作者の死については 本HP、Topの拙稿「浮世絵の誕生と終焉」(3)の四G      「戯作者の消滅」参照)戯作者の消滅  (注3)『千代田城大奥』永島今四郎・太田贇雄編 朝野新聞社 朝野叢書 明治25(1892)年刊       (国立国会図書館デジタルコレクション所収)  (注4)『明治東京逸聞史2』森銑三編「太平洋三九・一・一五」記事。平凡社『東洋文庫』p142      「『月百姿』が芳年の作品たることはいうまでもないが、その背後には滑稽堂の主人があり、更に主人の背後には、       その師で博覧強記の人だった桂花園桂花がいて案を授けたのだった。芳年一人の力で、『月百姿』の百番が成った       のではない」  (注5)『明治東京逸聞史2』森銑三編・平凡社『東洋文庫』p252  (注6)『こしかたの記』「鈴木学校」鏑木清方著 中公文庫p29
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