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文化としての浮世絵(1)-浮世絵とは- 加藤好夫
一 浮世絵とは
浮世絵を研究する者で、浮世絵とは何かを問わない人はいないと思う。
「近世初頭から、明治にかけての庶民の自画像が浮世絵である」(注1)
これはかつて日本浮世絵協会の理事長であった故楢崎宗重先生の定義である。だいぶ昔のことになるが、
こうした見解もあるのだなと大いに感心したことを覚えている。
さて、平成十七年(2005)、私はネット上に浮世絵文献資料館を開設した。以来、江戸から明治かけて、さ
まざまな人々が書き残してきた文献資料を、例えば作品の評判や絵師のエピソードなどを、公開し続けてき
た。これらを通して見えてきたものがある。浮世絵は、娯楽や最新情報を視覚化して市中に提供するという
点においては、現在のマスメディアと同様大きな役割を担っていたということである。
菱川師宣の時代から、浮世絵は江戸市中の評判高い役者や遊女・美女を常に題材としつつ、芝居や遊里が
放つ魅力を活写してきた。これら遊興の巷は衣装・髪型・所作・台詞・音曲などの面において、常に最新の
ものを創出する非日常の場であった。浮世絵はそこに躍動する新たな息吹と華やかな彩りとを、視覚化して
市中の人々に届けてきた。非日常の妖しい魅力を日常の世界に提供することによって、単調で自動的に流れ
がちな人の世に活性を与えようというのである。
浮世絵はまた師宣の時代から文芸とも深く関わってきた。江戸では絵と文を一体化させたいわゆる「草双
紙」と呼ばれる文芸ジャンルが開花した。これは「赤本・黒本・青本・黄表紙」などと呼び名を変えつつ、
読者層もまた子供から大人へと大きく広げて、天明(1781-88)の頃には、元旦の売り出しが風物詩になるな
ど、市民生活の中にすっかり定着した。(注2)
それが文化期(1804-17)に入って「合巻」となり、表紙に鮮やかな彩りが加わって、まるで続き物の錦絵
のようになるやいなや、それ自体が呼びものとなり、ついにはその頂点というべき『偐紫田舎源氏』(柳亭
種彦作・歌川国貞画・文政12年(1829)~天保13年(42)刊)が生まれた。ところがこれが天保の改革(1841-43)
によって筆禍に遭い、発禁に加えて板木の没収そして作者種彦の死と、わざわいが重なって、急転直下、一
挙に勢いを失ってしまう。さすがにダメージが大きく合巻ももはやこれまでかと思われた。しかし江戸人の
合巻に対する執着は失われていなかった。いち早く立ち直って、以降実に明治十年代(1877-86)まで娯楽読
み物の主役であり続けた。師宣の延宝年間(1673-80)から数えると、実に約二百有余年、鳥居・勝川・歌川
派の浮世絵師がバトンをつないで「草双紙」の作画を担ってきたのである。
ついでにいえば、『南総里見八犬伝』で知られる「読本」もまた寛政末から幕末にかけて、やはり浮世絵
師が作画を担当してきた。山東京伝作には初代豊国・北尾重政・歌川豊広、柳亭種彦には北斎とその門流、
そして曲亭馬琴には葛飾北斎を筆頭に柳川重信・渓斎英泉・蹄斎北馬といった具合である。
ともあれ、画工の役割は戯作者が構想する世界を可視化することにある。そして、読み手の想像力を掻き
立てるともに、その読みを豊かなものにする。つまり画工は、文芸の世界と読者の心との間に橋をかけるの
である。
浮世絵が出回ったのは上述のような版本類や役者絵や美人画ような一枚絵ばかりではなかった。文化文政
(1804-1830)以降ともなると、市中のいたる所で浮世絵を目にしたはずである。
正月、空には凧が舞い、路上には羽子板が行き交い、屋内では双六・カルタに歓声が湧く。街に人だかり
のする華やかな絵草紙屋があれば、家には団扇・柱かくしがあり、張交ぜの衝立がある。芝居が始まるや、
絵看板が掛かって、役者絵・芝居番付が出回る。まして評判の役者が亡くなりでもすれば、たちまち夥しい
数の死絵が飛ぶように売れる。両国や浅草に見世物が掛かれば、これも大賑わいで、絵看板と共に大量の絵
入りチラシが配られ、時には錦絵も出た。また、狂歌や音曲の名弘めに摺物・大小(絵暦)を配って祝う大人
もいれば、一方では着せ替え絵・組上げ絵などの手遊び(おもちゃ)に打ち興じる子供もいた。酒を飲もうと
すれば猪口に浮世絵、半鐘が鳴れば火消しの刺子半纏に浮世絵である。
聖域とて例外ではない。寺社には寄進された扁額・絵馬が掛かり、祭礼ともなると幟・行燈・提灯が賑や
かに飾られる。また社前に相撲の興行があれば、相撲絵の出番となる。
これらはことごとく浮世絵師の手になる絵や細工物ものである。このように江戸ではまさに生活の隅々に
まで浮世絵は及んでいたのである。
これらを記す文献を前にして、私は次第に、江戸人の浮世絵や浮世絵師に対する関わり方と、現代人のそ
れとでは、大いに違いがあるのではないかと感じるようになった。現代人は、明治以降の西洋化で、浮世絵
を美術絵画として見ている。また浮世絵師を近代画家と同様に見ている。しかし云うまでもなく、江戸の人
々にそうした観点はないのである。つまり浮世絵師の作画行為と近代画家の作画行為とを同一視することは
できないのである。
そこで、私は浮世絵を美術絵画として捉えるだけでなく、もっと広く近世文化の一つとして捉えることに
した。そして、何度となく自問自答した末に、現在、私は浮世絵を次のように定義づけている。
「浮世絵とは江戸の日常生活を彩る表現メディアである」
まずはじめにこの定義でいうところの「浮世絵」について説明しておきたい。
現在、私たちは「浮世絵」を無自覚・無頓着に使うのだが、実のところこれには二つの意義が重なり合っ
ていると、私は思っている。では、この定義における「浮世絵」とは、その二つのうちのいずれなのか。
私はかつて「二つの『浮世絵』-『うきよゑ』と『UKIY0-E』」という論考を、ネット上に発表した。そ
こでは、江戸から明治にかけて、江戸が育み、江戸人がこよなく愛した浮世絵と、開化後、西洋から流入し
た西洋人の鑑識眼を経たあとの浮世絵とを区別して、前者を「うきよゑ」、後者を「UKIY0-E」と表記して
その違いを述べた。(注3) それを踏まえて言うと、私がこの定義に基づいて復元するのは言うまでもなく
「うきよゑ」の方であり「UKIY0-E」ではない。つまり江戸から明治にかけて隆盛を誇った「うきよゑ」の
復元なのである。
詳細は上記の論考を読んでほしいのだが、「UKIY0-E」については、以下言及する機会もないと思うので、
かいつまんで説明して「UKIY0-E」から離れることにする。
「UKIY0-E」とは西洋の美術観によって、世界の絵画の中の一つとして位置づけられたところの浮世絵で
あり、また、当時の日本人には思いもよらなかった普遍的価値まで付与されたところ浮世絵なのである。つ
まり江戸や日本といったローカルな存在から飛翔して、西洋画と比肩可能な国際性を獲得したところの浮世
絵、それが「UKIY0-E」なのである。もっと単純化していうと、「江戸の愛玩物」から「世界の芸術」へと
変身を遂げたものが「UKIY0-E」だと言えようか。
現代の日本人は、この西洋からもたらされた「UKIY0-E」観を、明治の開化以降の学習を経て自らのもの
にしている。従って我々は無意識のうちに西洋の視点に立って浮世絵を観ている場合の方が多いのだろう。
歌麿や北斎の絵を芸術絵画として鑑賞することは、無自覚だが、もはや自明になっている。しかし言うまで
もなく、こうした観点は、江戸から明治のにかけての江戸人・日本人にはなかったものである。
本稿「文化としての浮世絵」の目標は、この江戸から明治にかけて誕生し開花し終焉したところの「うき
よゑ」を、この定義「浮世絵とは江戸の日常生活を彩る表現メディアである」に基づいて、説明しつつ復元
することにある。次回はこの定義における「江戸」について解説したい。なお、「うきよゑ」という表記は
一般には馴染みがないので、以下本稿でも「浮世絵」と表記することにした。云うまでもないがこれは「UK
IY0-E」ではなくて、「うきよゑ」である。〈以上 2020/12/30 記〉
(追記 2023/11/13)
「浮世絵」とは本来「当世の風俗」つまりその時どきの市中の様態を画いたものをいう。具体的には評判高
い遊女や役者、あるいは関心を惹いた行事や名所・名物などを画いたものをさすのであるが、本「浮世絵文
献資料館」ではもっと広い意味で捉えており、「浮世絵師が画いたもの」全体を含めて「浮世絵」と呼んで
いる。例えば「草双紙」や「読本」など文芸の口絵や挿絵、「狂歌絵本」・「摺物」・「絵暦」・「百人一
首」などの「往来物」、あるいは「おもちゃ絵」「双六」「凧絵」などなど、極めて大雑把な見方ではある
が、これらも「浮世絵」の中に組み入れていることをあらかじめご了承願いたい。
(注1)1972年1月開催『在外浮世絵名作展』カタログ「黄金期六大家論序説」より
(注2)『宝暦現来集』山田桂翁著・天保二年(1832)自序(『続日本随筆大成』別巻 巻六 p61)
「草双紙、天明年中迄は(中略)是を正月元日より、一枚草双紙とて売来る、求め、子供への年玉物にし
たる物也」
(注3)本HP、Top「著述」の項「二つの浮世絵」所収