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浮世絵の筆禍史(9)嘉永三年(1850)筆禍史メニュー
   ※ 者=は 与=と 江=え 而=て メ=貫 〆=締(〆そのまま使うこともあり) 而已=のみ    ☆ 嘉永三年(1850)<三月>      参考資料「蛇の子」一枚絵・画工名不明     △『藤岡屋日記』第四巻 ④87(藤岡屋由蔵・嘉永三年三月記)   〝(二月、惣身に鱗、蛇皮のような肌をした子供・金太郎(七歳)が評判になる)    蛇之子之画姿を一枚摺ニ致し出板致候者共、絵草紙懸り名主取調ニ相成候事                     浅草誓願寺門前  玉屋惣兵衛                     同、阿部川町   同源次郎                     横山同朋町    板木屋金次郎    右三人之者、此度蛇之子説有之候ニ付、改メ不請、壱枚絵ニ仕立出候処、絵草紙懸り名主方より買集メ、    当三月十日ニ三人之者ヲ通三丁目寿能次郎と申水茶屋ぇ呼、引合人、左之通り。                     尾張町二丁目   津田屋吉兵衛                     南伝馬町三丁目  日野屋由三郎                     通三丁目     遠州屋彦兵衛                     同、二丁目    総州(ママ)屋与兵衛                     青物町      万屋四郎兵衛                     本石町二丁目   武蔵屋三四郎                     同、三丁目    井筒屋庄吉                     通油町      藤岡屋慶次郎                     横山町三丁目   菊屋市兵衛                     両国回向院前   伊勢屋小兵衛                     本所相生町    伏見屋茂兵衛    右之者共、当三月十三日ニ家主同道、寿熊次郎方迄罷出候事。     真事蛇によつて売れるじや、当るじやとほつく(ママ)じやさかい、板をけづるじや、誠ニなんじやか五     じや/\して、一向わからんじや      春雨のねむけざましのおちやの子にちよいとつまんでひどきめに逢      灰吹の中から出し蛇ニあらず人の腹から出たじやとの沙汰    然ば、右板元板上ゲけづり、絵双紙屋の小売之者、絵を取上ゲ、翌三月十四日、御月番処北御番処井戸    対馬守殿ぇ願出候に、是式之事願出候とて一向に御取上ゲ無御坐候〟    〈嘉永三年二月、玉屋惣兵衛、同源次郎、板木屋金次郎の三版元が、蛇の子と称するものを一枚絵に仕立てで売り出し     たところ、評判になって大いに売れた。ところがこれは改(アラタメ)を受けない無届け出版、その上、絵双紙掛(カカリ)の     名主たちは浮説の流布も心配したのだろう、早速これを問題視して取り調べを行った。その結果、名主たちは、この     三版元のほか津田屋以下の小売り業者を立ち合わせたうえで、板木と小売り絵は没収する旨、町奉行に願い出ると伝     えた。しかし案に相違、町奉行井戸対馬守の判断は「是敷之事」とあっさり却下した〉     〝三月廿一日 大蛇之子見せもの、今日初日ニて、向両国の左り側、あわ雪の前角ニ出るなり。(中略)    斯て四月十日、右懸り合絵双紙屋共、懸り名主宅ぇ呼出シ有之、以来無印之物ハ売捌有之間敷由申渡、    右一件落着ニ相成候      初めには蛇の出るやふな騒ぎにて蚊もいでざればぐうの音も出ず    右一件相済候ニ付、豊嶋町岡本栄次郎方ニて、直政が画ニて蛇の子絵出候得共、一向に売れず〟    〈前出の一枚絵「蛇の子」が今度は両国の見せ物として出る。その際、また無届け出版のものが出回ったのであろう。     絵双紙掛の名主が小売り業者に売り捌かないよう再び命じた。岡本栄次郎板・直政画の「蛇の子」、これは改を受け     たものであろうが、一向に売れなかった。どうやら、絵の売れ行きには、絵の善し悪しもさることながら、無断出版     か否かということも大いに関係しているのかもしれない〉     ☆ 嘉永三年(1850)<五月>      筆禍「紫野大徳寺信長公焼香図」三枚続・歌川芳虎画・蛭子屋仁兵衛板(嘉永三年四月刊)       処分内容 ◎版元 蛭子屋仁兵衛、絶版・板木没収            ◎画工 記載なし       処分理由 無断出版(改済みの作品とは異なる版を販売したこと)    ◯『藤岡屋日記』第四巻 ④115(藤岡屋由蔵・嘉永三年五月記)   〝四月廿四日之配りニて、紫野大徳寺信長公焼香図。    照降町蛭子屋仁兵衛板元ニて、芳虎画、大法会之図と大焼香場之図を三枚続きに致し出候処、秀吉束帯    ニて三法師君をいだき出候処の図也、是ニてハ改印六ヶ敷候ニ付、村田佐兵衛へ改ニ出候節ハ三法師を    のぞき秀吉計書て割印を取、跡ニて三法師を書入たり、是ニていよ/\焼香場ニ相成候ニ付、大評判ニ    て売れ候ニ付、同月廿八日ニ板元上ゲニ相成候、五月六日落着、絶板也。      三の切能く当たったる猿芝居       南無三法師とみんなあきれる    〈「大法会之図と大焼香場之図」とは『太閤記』に取材した図様である。三法師は織田信長の嫡孫織田秀信の幼名。秀     吉はこの三法師を操縦して政略を図ったとされる。原画は、秀吉が三法師を抱き上げる図様であったが、これでは改     が難しいと判断した板元蛭子屋は、三法師を削除した図様を提出して、改掛(アラタメカカリ)の名主(村田佐兵衛)から出     版許可をもらっていた。しかし実際には原画どおり三法師の入った図様を売り捌いた。これが当たった。禁じられて     いる「太閤記」ものであるから、おそらく蛭子屋も絶版覚悟の出版であったに違いない。絶版必至との噂も立てば短     期間で大量に売れる。当局の手の入る頃には売り抜けて、板木の方は用済みという計算なのかもしれない〉     ☆ 嘉永三年(1850)<五月>      筆禍「大内合戦之図」三枚続・玉蘭斎貞秀画・山口屋藤兵衛板(嘉永三年五月刊)       処分内容 ◎版元 山口屋藤兵衛、板木没収、売った絵の買い戻しを命じられる            (町奉行の処分ではなく絵双紙掛名主の裁量による)            ◎画工 記載なし       処分理由 浮説流布(江戸城本丸火災を擬えたなどの噂が立つ)    ◯『藤岡屋日記』第四巻(藤岡屋由蔵・嘉永三年五月記)     ◇貞秀画「大内合戦之図」④115   〝同日(四月廿四)の配りニて、馬喰町二丁目山口藤兵衛板、貞秀が画ニて大内合戦之図、大内義弘家臣    陶尾張守謀叛ニて、夜中城中へ火を懸候処、いかにも御本丸焼の通りなりとて評判強く、能く売れ候ニ    付、御廻り方よりの御達しニ有之候哉、五月三日ニ懸り名主村田佐兵衛、板元を呼出し、配り候絵買返    しニ相成、板木取上ゲニ相成候よし、五月六日落着、色板取上ゲ。      能く売れて来たのに風が替つたか       つるした絵まで片付る仕儀    〈城中火災の図様が江戸城本丸の火災の様子に似ている等の評判がたって、名主の村田佐兵衛が、裁量で規制したので     ある。狂歌は店頭で吊るし売りしていた品物まで撤去されたことを詠んだもの〉      参考資料(上記記事に続けて)
  〝異国船焼討の図の絵も出候由、いまだ分明ならず、焼香場ニて      せふかう(小功・焼香)で当てたいかう(大功・太閤)立る也〟    〈「異国船焼討の図」は未詳。「焼香場ニて(云々)」は前出、芳虎の「紫野大徳寺信長公焼香図」のこと。「焼香図」     で大儲け(大功)したことをいう〉     〝又々五月中旬、日本橋元大工町三河屋鉄五郎板元ニて、国芳之画三枚つゞき、真那板ヶ瀬与次郎灘之図、    豊臣太閤、肥前名護屋引返し之処、長門下之関ニて大難船、毛利家の船ニ助られし処の図、国芳筆をふ    るひ候得共、余り人が知らぬ故に売れず〟    〈国芳の作画だから、何か潜んでいるに違いないを思ったところ、もともとこの挿話があまり有名でないこともあって     か、擬えるものも思い浮かばす、当てが外れたというのだろう〉
   「豊前国与次兵衛灘之図」 一勇斎国芳画 (山口県立萩美術館・浦上記念館所蔵)      ☆ 嘉永三年(1850)<七月>      筆禍「四国合戦伊予掾純友謀反船軍焼討之図」三枚続・貞彦画・山口屋藤兵衛板(嘉永三年七月刊)       処分内容 ◎版元 山口屋藤兵衛、販売禁止            (町奉行の処分ではなく絵双紙掛名主の裁量による)            ◎画工 記載なし       処分理由 異国船に拘わる浮説の流出を危惧したか    ◯『藤岡屋日記』第四巻 ④135(藤岡屋由蔵・嘉永三年七月記事)     〝(七月)馬喰町山口藤兵衛板元ニて、四国合戦伊予掾純友謀反船軍焼討之図三枚続キ、貞彦画ニて出板    致し、七月十一日絵双紙問屋名主八人、通三丁目寿ぇ寄合之節、右之絵を改出し候処ニ、船軍の躰相い    かにもイギリス軍船の模様ニ能く似たる故に、先売出しは差扣へ可申之由被申候に付、先は配りハ相な    らず候、尤先達て名主改メ割印は出居り候。       改めはすみ友なれば伊予のぜふ 摺りいだしたら山ぐちを止〟    〈貞彦画「四国合戦伊予掾純友謀反船軍焼討之図」は、名主の改は済んでいたが、販売はならなかった。理由は画中の     船がイギリスの軍船に似ているというものである。この「イギリス軍船」とは、嘉永二年閏四月、浦賀へ来航したマ     リーナ号を指す。また「絵双紙問屋名主」とは絵双紙掛名主のことであろう。これも町奉行の裁断ではなく、名主方     の裁量による自主規制である。なお、この貞彦、『原色浮世絵大百科事典』第二巻「浮世絵師」には見当たらない〉     ☆ 嘉永三年(1850)<七月>      筆禍「高松水責の図」六枚続・芳虎画・山口屋藤兵衛板(嘉永三年七月刊)       処分内容 ◎版元山口屋藤兵衛、販売停止、図様を替えて販売するよう命じられる。            (これも絵双紙掛の裁量によるか)            ◎画工 記載なし       処分理由 無断出版(改済みの作品と異なる版を販売したこと)及び浮説流布    ◯『藤岡屋日記』第四巻 ④138(藤岡屋由蔵・嘉永三年七月記事)     〝六月十七日頃配り    芝神明前和泉屋市兵衛板元ニて、芳虎画六枚続き、高松水責の図、大評判にて、同廿五日ニ引込ス也。    是ハ太閤記備中高松城水責に候得共、城一面水びたしに相成候処は大海の如くにて、舟より三重の櫓へ    石火矢を打懸候処の勢ひおそろしく、さながらイギリスが浦賀へ押寄候ば如斯ならんと有様を見せしな    らん、初め懸り名主改之節は三枚続二つに致し改、石火矢もけむりも無之候間、右程すさまじくも無之、    名主も心付ず、割印出し候処に、彩色にてけむり付候ニ付、おそろしき有様ニ相成、唐人が御城を責る    に尤(異カ)ならずとて、右配り候絵を引込せ、石火矢を除き、出し候様にとの事也。       もふけるをせん市向ふみづ仕懸け〟    〈「太閤記」ものであったから、改には石火矢も烟もない図様を提出し、出版許可が出るや否や、それらを付け加えて     販売した。無論確信犯である。これを、江戸市中の人々は、さながら本邦の城が異国の攻撃に遭っているような図様     だと評した。前年閏四月のイギリス軍船の浦賀渡来の印象がよほど強かったのであろう。さっそくこの図様と結びつ     けて浮説を流したのである〉       ☆ 嘉永三年(1840)<七月>      参考資料(改=検閲の強化)
  △『藤岡屋日記』第四巻 ④158(藤岡屋由蔵・嘉永三年七月記)   〝七月十七日、通三丁目寿ぇ絵双紙懸名主八人出席、絵双紙屋へ申渡之一条     去ル丑年御改革、市中取締筋之儀、品々御触被仰渡御座候処、近来都而相弛、何事も徒法ニ成行候哉、    畢竟町役人之心得方相弛候故之義と相聞候旨御沙汰ニ而、此上風俗ニ拘り候義ハ不及申、何ニ不限新工    夫致候品、且無益之義ニ手を込候義ハ勿論、仮令誂候者有之候共、右体之品拵候義は致無用、事之弛ニ    不相成様心付、其当座限ニ不捨置様致世話、此上世評ニ不預、御咎等請候者無之様、心得違之者共ハ教    訓可致旨、先月中両御番所ニ而、各方ぇ被仰渡御坐候由、絵(一字欠)之義ハ前々より之御触被仰渡之趣、    是迄度々異失不仕様御申聞有之、御請書等も差出置候処、近来模様取追々微細ニ相認候故、画料・彫工    ・摺手間等迄差響、自然直段ニも拘、近頃高直之売方致し候者も有之哉、右ハ手を込候と申廉ニ付、勿    論不可然、銘々売捌方を競、利欲ニ泥ミ候より被仰渡ニ相触候義と忘れ候仕成ニ至、万一御察斗(当)請    候節ハ、元仕入損毛而已ニハ無之、品ニ寄、身分之御咎も可有之、錦絵・草双紙・無益之品迄取締方御    世話も被成下、御咎等不請様、兼而被仰論候は御仁恵之至、難有相弁、此上風俗ニ可拘絵柄は勿論、手    を込候注文不仕、篇数其外是迄之御禁制(二字欠)候様、御申論之趣、得と承知仕候、万一心得違仕候    ハヾ、何様ニも可被仰立候間、其印形仕置候、以上     錦絵壱枚摺ニ和歌之類并草花・地名又ハ角力取・歌舞妓役者・遊女等之名前ハ格別、其外之詞書認申    間敷旨、文化子年五月中被仰渡御坐候処、錦絵ニ歌舞妓役者・遊女・女芸者等開板仕間敷旨、天保十三    寅年六月中被仰渡之、已来狂言趣向之絵柄差止候ニ付、手狭ニ相成差支候模様ニ付、女絵而已ニ而は売    捌不宜敷、銘々工夫致、狂画等之上ぇ聊ヅヽ詞書書入候も有之候得共、是迄為差除候而は難渋可仕義と、    差障ニ不相成程之詞書ハ其儘ニ被差置候処、是も売方不宜敷趣ニ付、踊形容之分、御手心を以御改被下    候ニ付、売買之差支も無之、前々より之被仰渡可相守之処、詞書之類も追々長文ニ相認、又は天正已来    之武者紋所・合印・名前等紛敷認候義致間敷之処、是又相弛ミ候哉、武者之伝記認入、右伝記之武者は    源平・応仁之人物名前ニ候得共、内実ハ天正已後之名将・勇士と推察相成候様認成候分多相成、殊ニ人    之家筋・先祖之事相違之義書顕し候義御停止、其子孫より訴出候ハヾ御吟味可有之筈、寛政度被仰渡有    之、仮令天正已前之儀ニ候共、伝記ニハ先祖之系図ニ至り候も有之、御改方御差支ニも相成候間、其者    之勇略等、大略之分ハ格別、家筋微細之書入長文ニ相成候而は、御改メ被成兼候段承知仕、向後右之通    相心得、草稿可差出候〟    〈天保十二(丑)年以来の改革で強化した市中取締に緩みが生じているので、改(アラタメ)を行う名主と絵草紙屋に対して、     もう一度趣旨を確認し徹底させようという通達である。時の風俗に拘わる絵柄は勿論、彫り・摺りに手間のかかる高     直のもの、そして是まで禁制であったもの、これらを再度禁じたのである。そのうえ万一おとがめを受けた場合には     原材料の損ばかりでなく、身分上の処罰も覚悟せよという圧力まで加えた。文化元年(1804)五月、錦絵・一枚摺に和     歌の類、草花・地名・力士・歌舞伎役者・遊女等の名前を除いて、それ以外の詞書きを禁止。天保十三年六月、歌舞     伎役者・遊女・女芸者の出版を禁止して統制を強化した。商売に差し支えが生じた板元達は銘々工夫して、詞書き入     りの狂画などを出してみたがあまり売れ行きがよくない、それで歌舞伎と言わず「踊形容」として、手心を加え許可     したところ商売が幾分持ち直したのはよいが、今度は、詞書が長くなるなど、また緩み始めた。特に武者絵の緩みは     甚だしく、天正年間以降の武士の紋所・合印・名前等の使用を禁じられているのに、それらと紛らわしいものが出始     め、伝記絵に至っては、表向き源平・応仁時代の名前にして、内実は天正以降の名将・勇士に擬えるのものまで出回     っている。もっと検閲を強化せよというのである。当時『太閤記』を擬えた武者絵が、国芳・貞秀・芳虎等によって     画かれている。いうまでもなく、この通達はこうした出版動向と改を担当する名主に対する牽制である〉     ☆ 嘉永三年(1850)<八月>      筆禍「【きたいなめい医】難病療治」三枚続・一勇斎国芳画・遠州屋彦兵衛板(嘉永三年六月刊)       処分内容 ◎版元 遠州屋彦兵衛、売買禁止、絶版を命じられる            (「坪井信良書翰」による。『藤岡屋日記』は言及せず)            ◎画工 国芳は尋問されたがお咎めはなし(『藤岡屋日記』)       処分理由 役人批判等、浮説流布(「坪井信良書翰」による)      筆禍 重板(無断複製)「【きたいなめい医】難病療治」        処分内容 ◎版元 三鉄(三河屋鉄五郎)・丹半・越前屋平助                板木屋太吉・大西伊三郎・和泉屋宇助・釜屋藤吉                板木没収、摺本裁断(釜屋・越前屋)    ◯『藤岡屋日記』第四巻 ④134(藤岡屋由蔵・嘉永三年八月記)   〝六月十一日之配りニて     通三丁目遠州屋彦兵衛板元ニて、一勇斎国芳筆をふるい書候はんじもの、百鬼夜行の類ひならんか。    きたいな名医     難病療治、女医師【廿四五才位、至て美し、風団之上ニ居】、弟子四人惣髪ニて、何れも年頃也、美     しき女のびつこ・御殿女中の大しり・一寸ぼし・人面瘡・疳癪・やせ病、何れも四人之弟子、種々に     療治致居候処、其外溜りニ難病人大勢扣へ居候図也。       右女医師の名、凩 コガラシ    一 右之絵、七月初ニハ少々はんじ候者も有之、御殿女中の大尻ハ御守殿のしり迄つめるとはんじ候よ      し、段々評判ニ相成、絵ハ残らず売切、摺方間ニ合不申候。         難病の療治姉御は広くなり 跡より直ニ詰るせわしさ        藪井竹斎の娘、名医こがらし。    一 近眼ハ阿部の由、鼻の先計見へ、遠くが見へぬと云事なるよし。    一 一寸ぼしハ牧野ニて、万事心が小サキとの事なるよし。    一 びつこは寿明印ニて、御下向前ニ御召衣裳も残らず出来致し居り候処ニ、御せい余り小く衣服長過      て間ニ合兼候ニ付、下着計ニて足を継足し候よし。    一 鼻なし、西尾ニや、蔦の紋付也、是ハ嫡子左京亮、帝鑑間筆頭を勤、男ハ(一字不明)し、行列ハ      五ッ箱、虎皮鞍覆自分紋付二疋を率、万事不足無之自慢ニ致し、鼻を高く致し居り候処ニ、六月五      日ニ忰左京亮卒去、国替同様なりと云しと也。    一 あばた、銅の面を当て、釜ニ湯をわかしてむし直候処、精欠(ママ)にや、故ハ右器量ニて、加賀をは      ぶかれ、金と威光ニて有馬へ取替遣し候なり。    一 ろくろ首、むしば、かんしやく女。    一 せんき、菊の紋、人面瘡、米代金十五両八分余。    一 やせ男、りん病。     右はんじもの画、国芳を尋られ候処ニ、是は今度私の新工夫ニも無之、文化二年式亭三馬作にて、嬲     訓歌字尽しと申草紙ニ、右轆轤首娘有之、是を書候由。        いろ/\な大難風が発りても すら/\渡る遠州の灘    一 右難病療治大評判に相成、ます/\売れ候故、諸方に重板出来致すなり。       最初  三鉄 越前屋  両人のり       二番目 丹半 板木屋太吉 是ハ初〆ハ 両人のりニて            壱板ニて相談之上、三枚之内、太吉ハ職人故壱枚持、丹半ニて二枚持、合ニて摺出し候処ニ、後に      丹半一枚彫足し三枚ニ致し、勝手次第ニ沢山ニ摺出し候ニ付、太吉も二枚彫足し、三枚ニ致し摺出      し候に付、板木二通ニ相成候。       三番目 大面(西カ)伊三郎一枚持候。       四番目 芝口三丁目 和泉屋宇助一枚       五番目 釜屋藤吉一枚彫刻致候。       〆 六板也、本板共に七枚也。      右絵、最初遠州屋彦兵衛願済ニて摺出し候節、卸売百枚に付二〆三百文、段々売れ出し候ニ付直下      ゲ二〆文、又々壱〆六百文、又々一〆二百文に下ゲ候、然ル処ニ重板出来致して、売出しハ百枚に      付卸直一〆文、又は二朱也。    一 七月廿五日 三鉄配り候処、其日に北奉行所へ遠彦より願出し、板上ル也、釜藤は八朔より重板配      候処、同十日馬込ぇ板上ル也。       難病療治の絵、落着之事。            八月廿五日                     通三丁目寿ぇ掛り名主寄合                               釜屋左治郎                               越前屋平助     板木・摺本取上ゲ、板ハ打割り、摺本包丁を以、名主切さき捨候、凡摺本六百枚計きり捨ル也。       凌ぎよくなりて難病快気なり〟    ◯「坪井信良書翰」(家兄宛・八月八日付)   (『幕末維新風雲通信-蘭医坪井信良家兄宛書翰集』東京大学明治維新研究会、宮地正人編・1978年刊)   〝街市ニハ諸役人之批判紛紜、即極々珍画出来申候。右売出シ候テ三日目ニ直ニ御禁止絶板ニ相成申候。    併シ右之如キ板ヲ製シ申者ハ、従来御止メニ相成申候事ハ承知之上故、売出ス前ニ数万摺置申候事之由。    又御留止ニ相成申候ト、世上ニ評判高キ様ニ相成、自然求手モ多ク相成、例之風習ニテ一同朝市共争求    ル様ニ成申故、始ハ三枚ニテ例ノ通リ六十文ヨリ八十文ニナリ、弐百三百五百文弐朱トナリ、昨今ニテ    ハ壱歩壱歩弐朱ト云様ニ相成、愈々益買物多ク出来申候。小子ハ絵草紙屋ニ知人有之申候故、矢張安価    ニテ入手仕候。即一通拝呈仕候。御熟見可被下候。但し廟堂之様子諸邸之動静ヲ知ル者ニ非レバ不通解    事ナレバ御慰ニも不相成哉トハ存ジ申候得共、先年之分よりハ上々出来故拝呈仕候。大略申上候。右画    ノ内、     竹斎娘ト有之ハ 綾小路(アヤコウジ)ト申老女也      当時之大キケ物ニテ役人之進退等多分ハ此人之指揮ニアリ     大痘痕(オオアバタ)ハ 当将軍様之事也       故ニ態と女形ニ作ル。葢シ女人之間ニノミ有之故男ニシテ女ナルノ形     鼻無ハ 御老中松平泉守様ナリ      生来鼻梁甚タ低シ     近眼ハ 御老中執頭 阿部伊セ守様ナリ      従来近眼ナリ     跛足(チンバ) 此人は過日御逝去之右大将御簾中様ナリ      昨年京都より御下之節、道中輿中ニテ火傷ニテ足ヲ傷リ。実ハ其創大発ニテ先頃死セリ。是ニハ奇      談アリ、略之     弟子      桔梗之紋ニテ磁石ヲ持ハ酒井若狹守様ナリ       八九年京都所司代ニテ大ニ重キ役ヲ持ノ者ナリ       先月二十八日漸々御役御免テ成タ所ガ、通例御老中ニ可成筈ナレトモ、元来アベ伊セ守様不睦故、       唯々溜リ之間格テナリシノミ。位貴て無権。永々之大役ムダニナリシ     一寸ぼうし 執政牧野備前守様也     疝気ハ 右大将様之御側 夏目左近様      当時大ニ勢アリ。上ニ坐スルハ此故也     人面瘡ハ 御勘定奉行久須美佐渡守様      御勝手御用ヲ兼候故ニ米之番付ヲ持ツ     痩男 町奉行井戸対馬守様ナリ      長崎奉行より急ニ江戸之町奉行トナル故痩者之急ニ肥笨ニナルニ譬フ     淋病 御老中戸田山城守様ナリ    先々大略如此。尚デツシリ出尻ト云事。癇癪ロク/\ビ等ハ皆女中ナリ    才子も夫々役処アレトモ不分明、葢シ皆々許多之批評ヲ含メリ       以上ハ慢ニ御他言無之様願上候〟〈文中「而已」は「ノミ」にした〉
   「【きたいなめい医】難病療治」 一勇斎国芳戯画 (早稲田大学図書館・古典籍総合データベース)        画中人物の判じ 出典 A『藤岡屋日記』B「坪井信良書翰」   〈「療治法」は画中の仮名文を現代仮名遣いに直し適宜漢字に変換した。また判じにあたっては、岩下哲典著『幕末日本    の情報活動』「開国前夜における庶民の『情報活動』」(雄山閣・平成12年刊)を参考にした〉     ◯「やぶくすし竹斎娘、名医こがらし」     A(明確に記さず)     〈「御殿女中の大尻ハ御守殿のしり迄つめる」の意味がよく分からないが、「御殿女中」「御守殿」とあるから、将      軍の娘にかしずく大奥の上臈御年寄を指しているのであろう。すると、市中の人々は、必然的に、将軍家斉の娘の      縁組みを独断で差配していたとされる上臈の姉小路を思い浮かべた筈である〉    B 綾小路     〈岩下氏によると、姉小路と同人という。この人は幕府の役人人事にも強い影響力を持っていたと市中では見ていた      ようだ〉      ◯「あばた(痘痕)」     療治法「わたくしのような大あばたでも、この銅(カネ)で拵(コシラ)えた面型(メンガタ)をはめて、湯の煮え     立つところへ蒸していると、顔がふやけてあばたが埋まっていゝ器量になりますとサ」    A 清姫     〈「清欠(ママ)にや」と一字欠けているが、「有馬へ取り替え遣し候」とあることから、上出の岩下氏は、久留米藩の      有馬家に嫁いだ将軍家慶の養女清姫(有栖川韶仁親王の娘)とする〉    B 当将軍様(家慶)     〈わざわざ女形に画いたのは大奥の女中に囲まれて生活しているからだろうと解釈している〉       ◯「はななし(鼻無し)」     療治法「我らはまた瘡(カサ)で鼻が落ちやした。こちら願ったところが、紙で鼻を拵えて付けてくださ     れたが、至極妙でござるて」    A 西尾(老中松平和泉守乗全)     〈三河西尾藩。家紋は蔦。左京亮は嫡男の松平乗懿で嘉永三年六月三日歿。確かに羽織の紋が蔦に見える〉    B 老中松平和泉守様〈「生来鼻梁甚タ低シ」〉     ◯(「百まなこ」をした男)     療治法「イヤサ拙者などは少し近眼でござる、近眼と申て蜜柑の小さいのではござりませんが、近目     で困りますところへ、こちらで百まなこへ遠眼鏡をはめてかけろとのお指図、なか/\凡夫わざでは     ござりません」    A 阿部(老中阿部伊勢守正弘)     〈画中の羽織の紋は「鷹羽」、阿部家の家紋と同じである。一条家の寿明姫を将軍家定の正室として縁組みしたのは、      阿部伊勢守だと巷間では見ていた。しかもそればかりではない、これは「遠くが見へぬ」近眼の見立てであったと、      皮肉っているのだ〉    B 老中執頭阿部伊セ守様〈「従来近眼ナリ」〉         ◯「ろくろくび(轆轤首)」     療治法「ときにろくろ首娘は髪油の中へ、鉄の粉(コ)を入れ髪を結(イ)わせ、尻の方へ磁石をあてがい、     頭の鉄を吸い寄せる希代の名術、これではろくろ首も治るだろう」         〈A・Bともに判じを記さず。『藤岡屋日記』には、国芳がこの判じ物について尋ねられたとき、この図様は自分の創     意ではなく、式亭三馬の黄表紙「嬲訓歌字尽」(一柳斎豊広画・文化二年刊)から借りたものだ、と答えたという挿     話が載っている。誰が国芳に質問したのか、また実際に国芳自らそう語ったものか、知る由もないが、国芳がこれを     画くに当たって、この三馬作を念頭においていたことは確かである。そもそも磁石を使う治療は仮名草子『竹斎物語』     に由来するらしいのだが、三馬の竹斎は、空中飛行するろくろっ首の口に鉄粉入りの袋をかませ、お尻に磁石をあて     て首を引き寄せるという奇想天外な治療法を考案している。国芳はそれを髪油に鉄粉と小道具は入れ替えたが、趣向     は同じである。さらに興味深いのは、三馬作では、日向の国にまで伸びていた娘の首が、磁石をあてると、身体のあ     る伊勢の国に戻ってくるという点だ。三馬作の筋書きを知る人々は「伊勢」に思い至って思わずニヤリとしたのでは     ないか、ここでも阿部伊勢守を臭わせていると。同時に、何としてでも何かを伝えようとする国芳の意志の強さを感     じ取ったのではあるまいか。参考までに、豊広のその画像を引いておく〉
   「嬲訓歌字尽」 一柳斎豊広画 (早稲田大学図書館・古典籍総合データベース)     ◯「ちんば(跛)」     療治法「おまえは、片足短いか、片足長いのかだが、マア俗にびつこと云うのだ、先生の御療治には、     草履と下駄をはかせろおっしゃるが、全体片々ちんばだから、両方ちんばにして揃えてもいいね」    A 寿明姫    〈寿明(スメ)姫(ヒメ)は一条忠良の娘・一条秀子。前年冬、徳川家定の正室になったばかり。しかし、お輿入れの前から身     長が低いという噂が流れていた。この年六月廿八日逝去。二十八歳であった。下出、嘉永二年七月頃の「変名問答」     及びこの年六月の逝去記事の参照〉    B 右大将様御簾中様(寿明姫)    〈寿明姫は、前年、京都からお輿入れになったとき、道中足に火傷を負い、これがもとで頓死したという。『武絵年表』     に「此の君少し跛(ビツコ)なり。歌川国芳筆三枚続きの錦絵女医師のもとに療治を受くる図中に、美婦の下駄と草履と     を、かた/\に履きたるを画きしは、此の君の事を諷せしものなりといふ」とある。この姫の身体上の事実はどうで     あれ、当時はこの図様をみれば誰しもがこの姫を思い浮かべたのである〉     ◯「むしば(虫歯)」     療治法「歯の痛むといふものは、なか/\難儀なものでござる、これは残らず抜いてしまって、上下     とも総入歯にすれば、一生歯の痛む憂いはござらぬて」「これはなるほどよい御療治でございます」    A・Bとも判じなし。     ◯「かんしやく(癇癪)」     療治法「おまえの癇癪は造作もなく治ります、不仕付けながらお前のみぜに(ママ身銭で?)、せとも     (ママ瀬戸物?)や塗り物箱か、又は大事な物を、たんと買っておいて、じれッてえときに、無闇とぶち     壊しなせえ、そうする(ママと?)じきに治る、しかしそれも人の代物ではつまらねえヨ」    A・Bとも判じなし。       ◯「でッしり(出尻)」     療治法「出っ尻の療治は尻へ竹の箍(タガ)をかけ、賑やかな所を見物して歩くとみっともねえから、     だんだん縮こまるかたちだ、数年そうしているうちには、だんだん歳が寄るから、自然と痩せるわけ     だ、なんとい(ママい?)療治の仕方だらう」    A・Bとも判じなし        ◯「せんき(疝気)」     療治法「わたくしの疝気は金玉大きくなって困りましたが、先生が水をとつて、あとを小さな土瓶を     はめておいてくだすったが、それから大きくなりません、これもまことに理詰めな療治だ」    A 判じなし    B 右大将様之御側 夏目左近様     〈夏目は次期将軍家祥(家定)の側用人。この疝気持ちの羽織の紋は菊。上出の岩下氏によれば、これは夏目家の      「藩架菊」と符合するという。ただ疝気と夏目左近との関係は不明。あぐらの間に土瓶が画かれているが、これが       何となくほほえましい〉        ◯「一寸ぼし(一寸法師)」     療治法「おれは一寸ぼしで困るからお頼み申(し)ましたら、高い足駄を履いて、長い着物を着て歩け     とおっしゃったが、至極妙でござります、どう見ても一寸ぼしとはみえますめへ」    A 老中牧野備前守忠雅    B 執政牧野備前守様    〈画中の「一寸ぼし」の羽織は三柏の紋、老中牧野備前守の家紋も三柏で符号する。だがなぜ一寸法師なのか判然とし     ない〉     ◯「人めうさう(人面瘡)」     療治法「人面瘡に飯を食われるが切なさに、願ったら米屋の書き出しを見せるとおつしやるからこう     しますが、だんだん治つてきました」    A 判じなし    B 勘定奉行久須美佐渡守様    〈人面瘡は寄生する人間に惨い苦痛を与えるが、ご飯や酒を与えるとその間は痛みが消えるとされる。その縁で米の書     き付けを画いたのであろうが、Bはそれを勘定奉行を暗示するものと捉え、久須美佐渡守と判じたようだ。なお図様     の家紋は、岩下氏によると、久須美の家紋の庵木瓜とは異なるという〉     ◯「やせしをとこ(痩せ男)」     療治法「わたくしは痩せて痩せて困りますから、先生に願いましたら、生の豆をたんと丸呑みにして、     水をおもいれ(ママ)呑め云われました、そうした所がこんなにはち切れるほど太りやした、錫の徳利の     凹みを直す工夫と同じあんばいだが、なんと妙ではこざいませんか」    A 判じなし    B 町奉行井戸対馬守様     〈長崎奉行井戸対馬守の江戸町奉行就任は昨年八月。これには異例の抜擢という評価もあったようだから、それを太      った痩せ男として戯画化したと判じたのだろう。ただ一方で「急ニ肥笨ニナル」の「肥笨」には太った愚か者とい      う意味もあるのだが〉     ◯「りんひやう(淋病)」     療治法「わしの病気、勝栗さへ喰えば治りますとさ、千金方という書物に勝栗淋病追いつかずという     ことが出ていますとさ」    〈『千金方』は中国の医方書。「勝栗淋病追いつかず」は「稼ぐに貧乏追いつかず=稼ぐに追いつく貧乏なし(真面目     に働いてさえいれば貧乏になることはない)」の駄洒落であろうか〉    A 判じなし    B 老中戸田山城守様    〈Bは判じの根拠を記さないが、淋病の男の羽織の模様は六星、宇都宮藩戸田家の家紋と一致していると見たのであろう〉       ◯「足駄を履かせる弟子」    A・Bとも判じなし       ◯「磁石をあてる弟子」    A 判じなし    B 酒井若狹守    〈Bは「桔梗」の紋から酒井若狹守と判じた。しかし上出の岩下氏によると、酒井家は「剣(ツルギ)鳩酸草(カタバミ)」紋     だから、Bの根拠は事実と異なっている。ただ画中の家紋は「剣鳩酸草」、だから酒井若狹守で間違いないとする。     酒井若狹守忠義はこの七月、京都所司代の御役御免。通常の出世コースだとこのあと老中職就任ということなのだが、     老中阿部伊勢守と不仲のため、そうならなかったと云う。巷間ではそうした噂とこの画中の紋の主とを結びつけて判     じたものも多かったのであろう。だがこの判じ物が出回ったのは『藤岡屋日記』によれば六月、したがって制作側に     老中になれなかったということで、酒井若狹守を判じ物とするタイミングはなかったはずだ。Bの判じは八月、Bは     制作側の意図を超えて最新情報をもとに判じたのである〉        ◯「歯を抜く弟子」    A・Bとも判じなし     ◯「木槌で箍を打つ弟子」    A・Bとも判じなし    〈上出、岩下氏は図様の家紋を「亀甲の内花菱」の変形と見て、当時若年寄だった近江三上藩の遠藤但馬守胤緒であろ     うとする〉     〈この「【きたいなめい医】難病療治」が判じ物と見なされたのは、天保十三年の「源頼光公館土蜘作妖怪図」同様、図    様に配された家紋である。中でも決定的なのは、老中阿部伊勢守の鷹羽紋。これで「百まなこ」の男と阿部伊勢守が分    かちがたく結びついた。あとは他の幕閣を念頭において図様を見るばかり。そうすると、その幕閣が自ずと現れるとい    う仕掛けである〉      参考資料 (寿明姫に関する記事)    〈嘉永二年(1849)十一月、一条関白実通の娘・寿明(すめ)姫が、次期将軍・徳川家定の正室として京よりお輿入れに     なったが、それ以前から、この寿明姫には次のような噂が流れていた〉     △『藤岡屋日記』第三巻・③561(藤岡屋由蔵・嘉永二年七月記)   〝変名(ヘンナ)問答    纔か三尺の体を以て一条とは是如何に。未だ十四歳なるに老女と言ふが如し。    右老女と云ふは櫛笥侍従隆韶妹にて、当年十四歳也。是は幼稚の頃より一条家へ出入り、寿明君のおも    ちやに相成、御小姓同様にて御側に附居候に附、御奉公人とはなしにづる/\居り候処に、此の度関東    御下向に付、当人も付き参りたがり、姫君も幼少よりのなじみ故に連れ下り候処に、上方にてはひいさ    ま/\とて友達同前にて暮らし候処に、御本丸にては中々に姫君の御前に出ることならず、故に肝をつ    ぶし、姫君も何卒かれを御年寄に致して、是迄の如く御側に置んと致し候処に、江戸附の女中一同不承    知にて、纔か十四に相成り候子守あまつ子の下に付ん事いやなり、有馬附を願わんと、一同申に付、是    非無く小上臈に致し、名を花瀬と改候よし、右故之問答也、姫君御幼年より疳の虫にからまれて成長無    之、御年廿七にて纔か御長三尺の由、形ち小さく、目計り大きなるよし〟    〈寿明姫は身長が小さいだけでなく、片足が短いという噂されていたのである。国芳画「【きたいなめい医】難病療治」     はこの噂を穿ったものとされている。それにしても、幕府・朝廷間の道具にされたうえに、酷い噂を立てられ、結婚     後一年も経ずして亡くなった薄倖の身の上には心が痛む〉
    △『藤岡屋日記』第四巻 ④142~145(藤岡屋由蔵・嘉永三年六月記)    (寿明君逝去)    〝嘉永三年六月廿四日、右大将家定公二度目御簾中寿明君御逝去之事    一条関白実通公息女、同大納言忠香卿之御妹君なり。     西丸御簾中寿明君御逝去、御年廿八、御法号澄心院殿、東叡山葬、御別当。    (中略)    嘉永三戌年五月廿七日より、御簾中様御発病之由、六月六日之夜御逝去之由〟       〝御簾中様御逝去ニ付 落首       三尺の身丈ケのものを壱丈(一条)と さすは姉御(姉小路)のつもりそこない〟    〈将軍家定と寿明姫との縁結びをしたのは大奥の上臈御年寄・姉小路だとの噂が市中に流れていたのであろう〉     △『藤岡屋日記』第四巻 ④146(藤岡屋由蔵・嘉永三年七月記)    〝七月三日、阿部伊勢守病気ニて引込候処に、街の風説/\ニて、因州養子一件ニ懸り合ニ付、切腹いた    し候共、又ハ西丸御簾中様御逝去一件に付、右大将様御尋ニ、なぜあの様成病身者を貰ひ来り候哉と被    仰しニより、伊勢守、姉ヶ小路、両人ながら引込候よし、専ら評判致し候処ニ、同七日朝出勤致し、八    日朝上野御法事ぇ参詣有之候。      阿べこべの悪魔がいでゝきたるとも 吹払ふたる伊勢の神風〟    〈因州養子一件というのは、嘉永元年、鳥取池田家の藩主慶行が逝去したあと、藩の意向とは別に、幕府が介入して、     加賀前田家の喬心丸が養子に入り、十一代藩主池田慶栄を襲名したこと。慶栄は、嘉永三年六月、初めてのお国入り     をする途中、京都で病死したが、これには帰国を歓迎しない鳥取藩士が毒殺したという噂も流れていた。市中では、     この養子縁組にも、寿明姫の縁組にも、老中阿部伊勢守と姉小路が深く関与していたと見ていたのである〉     ☆ 嘉永三年(1850)<八月>      参考史料(国芳・芳藤・芳虎・芳艶・貞秀連名、町奉行宛願書)
  △『大日本近世史料』「市中取締類集 十九」(書物錦絵之部 第一五一件 p326)   〝嘉永三戊年八月     錦絵之内、人物不似合紋所を付、時代違之武器其外取合紛敷儀ニ付調       乍恐以書付奉申上候    一 私共儀錦絵板下認来候処、今日被召呼、右絵類認方御尋之上、一体絵類之内人物不似合之紋所等認     入、又は異形之亡霊等紋所を付、其外時代違之武器取合、其外ニも紛敷、兎角為考合買人ニ疑察為致     候様、専ラ心掛候哉ニ相聞、以之外之儀、縦令板元注文有之候共、絵師相慎候得は、如何之絵出板は     不相成道理、全私共心得方不宜故之旨、厳重御察斗受可申上様無之、殊ニ絵師共之内、私共別て所業     不宜段入御聴、重々奉恐入候、今般之御沙汰心魂ニ徴し恐縮仕、向後右体世評ニ拘候儀は勿論、板元     より注文請候共、如何と心付候廉之下絵決て相認不申、厚相慎候様可仕候間、是迄之儀は格別之御憐     愍を以、御仁恕之御沙汰被成下置候様、一同奉願上候、尤、今般御沙汰有之候迚、板下頼受候節及断、     為差支候様之取計決て仕間敷、何分ニも御聞済奉願上候、以上      嘉永三戌年八月五日        新和泉町  又兵衛店 国芳事 孫三郎 印                       同人方同居      芳藤事 藤太郎 印                       家主又兵衛煩ニ付代  五人組 伝兵衛 印                                  同   安兵衛 印                       南鞘町 六左衞門店  芳虎事 辰五郎 印                                  家主  六左衞門 印                                  五人組 宇兵衛 印                  本町弐丁目 久次郎店 清三郎弟 芳艶事 万 吉 爪印                       亀戸町 孫兵衛店   貞秀事 菊次郎 印                       家主孫兵衛煩ニ付代  五人組 常 吉 印                       同              友三郎 印       南 隠密御廻                         定御廻  御役人衆中様〟    〈国芳・芳藤・芳虎・芳艶・貞秀連名による南町奉行隠密廻・定廻同心宛願書である。具体的は作品名は明らかではな     いが、彼等の画く人物や亡霊の紋所、あるいは時代違いの武器などが、買う人にあらぬ疑念を抱かせるという理由で     召喚となったようだ。上掲国芳の「【きたいなめい医】難病療治」は六月発売、その重板を作った廉で三河屋鉄五郎     などの版元が罰せられたのが同七月、そして八月、その判じ物には依然としてさまざまな浮説が取り沙汰されていた。     そんな中での召喚である。当局の念頭に国芳の「【きたいなめい医】難病療治」があったことは間違いないだろう。     彼等は、以後、そうした絵柄の注文が版元からあっても決して画かない旨を誓約することで、お上の温情ある沙汰を     願った。結果は彼等の願い通りになったようである。彼等が処罰された形跡がない。重板のようにれっきとした物的     証拠があれば別だが、浮説の発生源を絵師に特定することは難しいからであろう。ところで、上掲『藤岡屋日記』に、     国芳がろくろ首の絵柄について尋ねられたとき、三馬の作品と答えた云々の挿話が載っているが、あるいはこの召喚     時のことかもしれない。それにしても、国芳が奉行書あてに文書を提出するはこれが二度目。一度目は天保十四年三     月で、このときは好色本や役者や遊女・芸者の似顔絵など風俗に拘わるものはもちろん、賢女烈婦伝や女忠節の類も     当世風に画かないことを誓約させられていた。こんどは判じ物に対してである。なお、芳虎・貞秀も国芳同様二度目     である〉    ☆ 嘉永三年(1850)<八月>      筆禍(大筒一件)       処分内容 商品回収            ◎板元 丸屋甚八「大鰒の腹の下に大勢たおれ居る図」判じ物、回収             板元 不明「雷の屁ひりの画」判じ物、回収       処分理由 浮説流布(大筒の音に気絶した幕臣を擬えたと噂するか)      (絵双紙掛名主の裁量による処分)     (なお「富士山の下ニ石火矢の稽古有之、見分之侍五六人床机をひつくり返シ倒れる処の画」に浮説が     立ったので絵を探索するが、見つからず。板屋清兵衛板の「大筒ためし横画」はお咎めなし)      ◯『藤岡屋日記』第四巻 ④170(藤岡屋由蔵・嘉永三年八月記事)    (「嘉永三庚戌年 珍話 八月より極月迄」)   〝八月八日 通三丁目寿ぇ絵草紙懸り名主八人出席致、市中絵草紙屋を呼出し、大筒一件之書付を取也。     大筒之狼烟相発候傍ニ、驚怖之人物臥居候体之錦絵、内々売々(買)致候者は勿論、彫刻并ニ摺立候者    有之哉之旨、厳重之御尋ニ御座候、前書被仰含候絵柄之義は、市中ニ験(ママ)類に携候者共、蜜々精々探    索仕候得共、決而無御座候、何様押隠取扱候共、私共不存義ハ無御座候処、右図柄ニ限り及見聞候義無    御座候、若向後見聞仕候ハヾ早々可申上候、外より相知候義も御座候節ハ、何様ニ被仰立候共、其節一    言之義申上間敷候、為後日御請印形仕置候、以上。                            絵草紙屋糶       絵草紙懸名主                     廿四人        佐兵衛殿初                       印        同外七人 名前    一 八月三日、通三丁目寿ニ於て、町方定廻り衆二人出席有之候て、絵草紙屋を呼出し御詮義有之候ハ、      富士山の下ニ石火矢の稽古有之、見分之侍五六人床机をひつくり返シ倒れる処の画出候ニ付、御奉      行よりの御下知ニて買上ゲニ参り候よし申され候ニ付、懸り名主より絵草紙やを銘々吟味有之候処      ニ、一向ニ手懸り無之候ニ付、右之由申上候。    一 是ハ先達浦賀表ニ而、大筒のためし有之、其時出役之内、石河土佐守・本多隼之助両人、三拾六貫      目大筒の音の響にて床机より倒れ気絶致し候由の噂、専ら街の評判ニ付、右之画を出せしよし。    一 然ル処、右之絵、所々を穿鑿致候得共、一向ニ相知れ申さず、見たる者も無之候ニ付、八月八日、      寿ニて寄合、前書之通、書面を取也。    一 但し、大筒ためし横画一枚絵出候よし、是ハ浅草馬道絵双紙や板屋清兵衛出板致し候よし。    一 又一枚絵ニて、大鰒の腹の下へ大勢たおれ居り候処の画出ル、是ハ大きなる鉄炮故ニ大筒なり、大      筒の響にて倒れ候と云なぞのはんじものなり、板元芝神明町丸屋甚八なり、是は早々引込せ候よし。    一 雷の屁ひりの画も出候よし、是も大筒のなぞ故ニ、引込せ候よし。         ねをきけバたんと下りて扨つよく           長くこたゆる仕入かミなり〟    〈富士山の麓で石火矢の稽古中、見分の武士が五六人ひっくり返っている絵柄の錦絵が出回る。これについては、石河     土佐守と本多隼之助を擬えたものではないかとの浮説がたったようだ。当時、浦賀において大筒の稽古を行ったとき、     その二人の武士は大音響に驚いて気絶したという噂が流れていたからだ。そこで絵草紙掛りが名主が絵草紙屋を集め     てその錦絵を探してみたが、見つからなかったという書付である。他に「大筒ためし」の一枚絵が二つ。一つは板屋     清兵衛板。これはどのような絵柄か分からない。もう一つは大蝮の腹の下に大勢倒れているもの。これも大筒の大音     で倒れたという判じのようだ。この丸屋甚八板は早々に回収させたという。また雷が屁をひる図柄のものもあった。     これも大筒のなぞということで回収させたとある。これらは町奉行による規制・処分でなく、それ以前の、絵草紙の     改掛りの段階で規制した例である。このように、改の時点では判じ物であることを見抜けず、あとで浮説が立ってか     ら、掛りの名主が早々に介入して規制を行う例も多かったのではないか〉    ☆ 嘉永三年(1850)<八月>      筆禍「落雷場所附」伊予政一枚摺・為直画・板木屋太吉板(嘉永三年八月刊)       処分内容 ◎版元 板木屋太吉、かわら板没収       処分理由 無断出版     ◯『藤岡屋日記』第四巻(藤岡屋由蔵・嘉永三年八月記事)     ◇落雷場所附 ④175   〝八月十七日之配り    本郷金助町板木屋太吉板元ニて、為直画、落雷伊予政壱枚綴出ル。袋ニ、名倉の門口へ雷の怪我人を戸    板ニ乗せ、黒雲がにない込候処、肩ニ落雷場所附、入口の札ニ、骨接泥鏝療治所、応需為通(ママ)画、墨    ・丹・藍の三扁摺ニて、五十文也、尤無印也。    外科骨接名人先生一人紙布を着し、弟子六人、何れも惣髪ニて黒の羽織を着し、怪我致し候雷十人、外    ニ女雷壱人、子雷壱人、療治ニ来ル処の絵也、水戸殿御門の家根へ落し、瓦ニて尻を打やぶり、瓦のか    けを尻より堀ス処、茅場町へ落しハ土蔵ニて足をくじきし療治を致す、背骨を打折しハ焼べらへ当ル也、    脾腹を強く打し療治、腕の療治、角を打折、牛の角と植替ルハ、折角をのミニて堀、入替る、子雷ハ親    と一処出(ママ)、落て首をくじき、療治ニ母鬼抱て居る也、其外怪我雷大勢。     右図の肩ニ、落雷の場所附有之(五十八個所の落雷場所、省略)    右之絵、八月十七日売出し候処ニ、無判故ニ直ニ翌十八日取上ゲニ相成候処ニ、又々直ニ品川(以下数    字空白)重板致し、益々売出し候よし〟    〈落雷場所を記したかわら版。三色摺五十文で売り出したが、無断出版であったため翌日没収処分。しかし早速重板     (無断複製)が出で、しかも売れゆきはよかったようだ。画工の為直については未詳。重板を出した品川屋は次項     「琉球人参府」番付騒動の品川屋久助か〉     ☆ 嘉永三年(1850)<十一月>      参考資料(琉球人参府番付)
  △『藤岡屋日記』第四巻 ④206(藤岡屋由蔵・嘉永三年十一月記事)   〝十一月、琉球人行列付、一件之事                  北八丁堀鍛冶町新道      願人               品川屋久助                  芝神明前      相手               若狭屋与市     右番附ハ、先年天保十三寅年十一月参府之節ハ、神明前丸屋甚八板元ニて英泉画出板致し候処ニ、此    度ハ同処若狭屋与市、薩州屋敷へ願ひ、重久画にて出板致し、十月晦日琉球人到着の日ニ御免ニ相成売    出し候処ニ、北八丁堀品川屋久助、京都幸町通り錦小路上ル菱屋弥兵衛願済の板行、延一枚摺番附を摺    出し、十一月二日より江戸中絵双紙屋其外へ配り候処ニ、三日より五日迄三日の間ニ、右久助配り候番    附を若狭屋より人を出し、残らず取上ゲ歩行也、右故ニ久助、若狭屋へ参り懸合候処、薩州留守居方よ    り手人を出し取上ゲ歩行候よし申候ニ付、久助、薩州屋敷へ参り、用人友野市助ニ付而、右一件相尋候    処ニ、此方屋敷ニ而は一向ニ左様之事無之由申候ニ付、夫より絵双紙懸り名主、白山前町衣笠房次郎・    京橋弓町渡辺源太郎・新両替町三丁目村田佐兵衛・麻布谷町米良太一郎方へ参り、右番附売出し願出候    処、若狭屋与市願済ニ候間、重板不相成候由申候ニ付、久助申候ハ重板ニ而ハ無之、京都ニ而願済ニ相    成候板ニ而、私板が正銘御免の板行ニて、与市板が贋物なり、薩州の改印と申候ハ謀判也、縦令本判ニ    も致せ、板元一軒と限り候は如何之事ニ候哉、既ニ天保十三寅年御改正之後ハ株式御取潰ニ而候処ニ、    右板元一軒ニ限り候得ば、株ニ御座候間、御改正之御触ハ反古同前也、私板行御差留ニ候ば、私義直ニ    御番所ぇ願ひ出候、右ニ付而は各々方御名前も書入相頼候間、苗字を書入苦しからず候哉、又ハ御免無    之候哉、承りたしとて理をつめ断りけり。     一 斯て十一月十九日、琉球人登城ニ付、右行列附売候者共大勢出候処ニ、若狭屋出板の行列附を持       候者ハ壱枚三枚続ニて三十六文と言也、廿四文ニ付候得共売らず、是ハ卸百文ニ五枚故也、然ル       処ニ脇ニ同様之番附を売り居候男ハ十六文宛ニ売候間、売れる事数知れず、若狭屋の売子是を見       て不思議ニ思ひ、卸五枚の物を十六文に売候てハ、肥前(ママ)四文宛損をして売ハ奇妙也、四文銭       三文(ママ)なれバ売れる筈なりとあきれて見て居る処へ、安売の男来り申候ハ、貴様ハ廿四文ニ付       けられてなぜ売らぬといへバ、四文しか口銭がないから売らぬと言、此男申ハ、おいらハ十六文       ニ売ても壱枚で十文宛口銭有、貴様ハ若狭やのを売が、其様な物を売て、此せちがらい世せかい       で妻子がすごせるものかと笑ひけれバ、此者肝を潰し、うそならんと言、うそなら其直段ニて如       何程も可売と言、私しハ若狭屋ニて五枚の割ニて今朝十把買込候由、右之男より二把買入、早速       に若狭へ参り、今朝仕入候番附を御返し申候由申候処ニ、是程仕入之参り候処ニ返し候ハ何故の       訳合ニ候哉と申候得バ、右之男申候ハ、私ハ三十六文と申候ニ、脇ニて十六文宛ニ売候ニ付、此       者計売れ、我等ハ一向ニ売不申候故、右男ニ相尋候処ニ、新右衛門町定斎屋の裏に紐庄と申者有       之、此者行列附を十六文ニ売出し候ニ付、十六文ニ売候ても十文の口銭有之由ニ付、右番付ニわ       (二把カ)買取候とて見せけれバ、若狭屋与市あきれて肝を潰しけり。     一 右重板ハ紐庄計ニあらず、都合七板ニて、本板若狭屋共〆八板也。右行列附、跡より出板之分ハ、       品川屋久助二板、紐庄二板、茶吉壱、唐がらし常一、大丸新道金兵衛、是ハ古板也、都合本板若       狭屋共八板也。     一 右重板ニ付、若狭与市より懸り名主渡辺源太郎宅へ久助を呼出し相尋候は、其方ハ若狭屋与市の       重板致し、横行ニ卸売致し候由、如何之義ニ候哉と相尋候処ニ、是ハ先日芝切通しニてならべ本       やの見世へ、板摺躰の男、右番附を凡壱〆計持参り、買呉候様申候得共、銭無之とて不買、然ル       処ニ私居合候ニ付、如何程にても宜敷候間、買呉候様申候ニ付、直段承り候処ニ金壱歩二朱也と       申候ニ付、代呂もの改見候処ニ、中ニやれも有之候間、是ハやれのはね出しニて候哉と相尋候処、       左様之由申候ニ付、左様ならバ反古の直段にて弐貫文ニて買取由申候処、右之者もて余し候体ニ       て早速売渡候ニ付、右之品仕立致し、百文ニ十六枚宛ニ売出し候由申聞き致し候得共、是真赤な       いつわりなり。     一 斯て十一月廿三日、八丁堀より向両国へ出候ならべ本屋新助方ニて、右行列附九枚を両人来りて       取上ル也、壱人ハ革羽織を着、壱人ハ職人躰ニて腹掛を致し居候由、名前相尋候処ニ、衣笠房次       郎召仕之由ニ候間、相渡候、渡辺源太郎・衣笠房次郎、絵双紙懸りにて行列附へ割印出せし名主       也、右故ニ源太郎宅ニて右番附之一件相尋候処ニ、分明なく割印先判が衣笠故ニ、白山へ可参由       申候ニ付、早々白山へ参候。     一 久助、衣笠へ参り相頼候ハ、頼(私カ)事今度琉球人御免之番附を売出し候処、若狭屋与市先板願       済之番附にて、私番附ハ重板之由御差留ニ候得共、私方が正銘の御免の板行ニて、与市板が贋物       也、御奉行所ニて御免之板行ニ各々方之改印ハいらず、御両人之改印有之候ハ是慥ニ贋物之証拠       なりと申候へバ、房次郎申候ハ、此方にて改候下絵ニハ、御免とハ無之、久助、乍憚拝見仕たし       と申ニ付、出し見せ候処ニ、是ニハ御免とハ無之、久助申候ハ、是偽り之贋物ニて、改絵にはヶ       様ニ致し売出し候番附は是也とて出し見せ候処ニ、是ニハ御免と書有之候。     一 右は若狭やニもあ(ママ)だかまりの落度有之、名主へ申分無之義ニ付、久助是を付込、重板を二枚       ニ致し大行ニ売出し候ニ付、又々懸り名主へ呼出し相尋候処ニ、此度ハ銀座にて壱〆たらず反古       の直ニて買取候由申わけ致し候得共、是も真赤な偽りなり。        但、晦日頃、京橋ニて壱〆半壱歩二朱ニて買取候よし、是も偽り也。     一 若狭屋ハ薩州屋敷、其外名主共へ多分之賄賂致、琉球人行列附を願ひおろし、〆売致候積りニて、       四文計懸り候者を、五枚ニ売出候処、重板七ッ出来致し十六枚ニ売出され、七十両計の損金致し       候よし。         十分に是で与市と思ひしにさて久助に灸をすへられ        久助、芝切通しニて行列の摺本を紙屑の直ニて買取候と偽り申けれバ、         久助もくずにハせずに銭もふけ        重板の名前の歌、         あの人ハ常々金兵衛もふけるから、随分重板もひも庄久しいものだとおちつひて茶吉で居     一 紐庄も若狭屋を贋ざれバ売れぬ故に、若松屋佐巾と致し候ニ付、          ふせた/\の若松佐巾(サハバ)、江戸へさかへて、板元のおめでたや       川柳         大井川下官も王の気で渡り         神無月晦日唐人まつを売       渡辺源太郎も久助ニハてこずりければ、         渡辺(の脱カ)手にも及ばぬ鬼のびら〟
   「琉球人行列附」 歌川重久画 (早稲田大学図書館・古典籍総合データベース)      〈地本問屋の若狹屋与市、琉球人の江戸参府に合わせて「琉球人行列附」の独占販売を目論み、薩摩藩や草紙掛りの名     主に「多分」の賄賂を送って根回しをした。ところが案に相違、品川屋久助が京都の菱屋弥兵衛願済みの番付を売り     始めた。怒った若狹屋がこれを取り上げた。すると品川屋は急遽絵草紙掛りの名主に番付の販売許可を求めた。名主     の判断は、若狹屋板は既に願い済み、だから品川屋のものは重板に当たるとした。しかし納得しない品川屋は、京都     板の方こそ「正銘御免」で、若狹屋板は贋物だと主張した。さらに、板元を一軒に限ってしまうのは、株を認めるこ     とと同じだから、天保十三年の株仲間解散令の主旨にさえ反するのではないかと訴えた。この品川屋久助、なかなか     したたかなのである。結局、合計七板もの重板(無断複製)が出回ることになってしまった。そのせいで若狹屋はお     よそ七十両ほどの損金を出したという。若狹屋の小売り値段は一枚(三枚続)36文。卸値段は百文に五枚、即ち一枚     20文。一方、品川屋の小売値は16文(卸値が百文に十六枚で一枚約6文)。当然、若狹屋の売れ行きは宜しくない。     なぜ安いのかと訊かれた品川屋の言い分は次のようなものであった。この番付は芝の切り通しの露店に、板摺風の男     が一〆(二千枚)金一歩二朱(当時の銭相場、一両6200文で換算すると2325文)で持ち込んだもの。品物を見るとや     れ(破れ=刷り損じ)だったので、反古同様の値段なら買うと云ったら、それでもよいというので二貫文(2000文)で     仕入れたと。また京橋では一〆半を一歩二朱で手に入れたとも云う。しかしともに真っ赤な嘘であった。この騒動は     筆禍ではなく犯罪であるが、参考までのに取り上げた。なおこの「琉球人行列附」について、若狹屋は十月の段階で     出版販売の許可申請を願い出ていた。下出参照〉     △『嘉永撰要類集』(『未刊史料による日本出版文化』第三巻「史料編」p430)   (十月、芝三島町、板元若狭屋与市より出された「琉球人行列付出板売弘願」に対する、遠山・井戸両町    奉行の老中・松平伊賀守宛、伺書である)   〝              芝三島町 六兵衛店 与市    右之もの相願候は、此度琉球人参府仕候ニ付、右行列附絵図彫刻半紙三枚継墨摺並彩色入三編摺ニ致し、    両様共板行売弘度旨、願出候間、吟昧仕候処、兼て松平大隅守屋敷え出入仕、殊ニ同人家来よりも願之    通致し度旨申立、然ル処去ル寅年琉球人参府之砌、同町七左衛門店甚八後家ちせ後見平蔵外弐人より右    行列附墨摺並錦絵売弘願出伺之上、錦絵は差留、墨摺之分計り売弘申付候儀ニ御座候間、今般相願候彩    色入之儀も、乍聊手数相掛無益之儀ニ付差留、墨摺板行売弘之儀は願之通可申付哉、此段奉伺候     但琉球人参府之節、行列附板行願人有之節は、其度々伺之上板行売弘申付候儀ニ御座候〟    〈寅年とは天保十三(1842)年のこと。今回もその時と同様錦絵は認められず、墨摺のみ。町奉行がこの件で老中に伺い     を立てたのは、この出版には松平大隅守(薩摩の島津家)の家臣が関わっていたからであろう〉    以上、嘉永三年の「筆禍」終了
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