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浮世絵の筆禍史(8)嘉永元年~二年(1848-49)筆禍史メニュー
   ※ 者=は 与=と 江=え 而=て メ=貫 〆=締(〆そのまま使うこともあり) 而已=のみ     ☆ 嘉永元年(1848)<九月>      筆禍「富士の裾野巻狩之図」三枚続・王蘭斎貞秀画・板元山口屋藤兵衛(嘉永元年九月刊)       処分内容 ◎版元 板木削除(改掛(アラタメカカリ)の名主の裁量による)            ◎画工(記述なし)        処分理由 浮説流布(頼朝の富士の牧狩りを将軍の鹿狩りに擬えた)     ◯『藤岡屋日記 第三巻』p245(藤岡屋由蔵・嘉永元年(1848)記)   (玉蘭斎貞秀画「富士の裾野巻狩之図」)   〝 嘉永元申年九月出板     右大将頼朝卿富士の牧(巻)狩之図 三枚続之絵出板之事    抑建久四年、右大将頼朝卿富士之牧狩は、日本三大壮(挙脱カ)と世に云伝へ、其後代々の大将軍御狩有    し処ニ、御当代に至りては近き小金が原にて御鹿狩有之候処、来酉の年御鹿狩仰出され、去年中より広    き原中に大き成山二つ築立、此所へ御床机を居させ給ひ、三十里四方の猪鹿を追込せ、右の山より見お    ろし上覧有之との評判也、右ニ付、御鹿狩まがい、頼朝卿富士の牧狩之図三枚続き、馬喰町二丁目久助    店絵双紙渡世山口藤兵衛板元にて、画師貞秀ニて、右懸り名主村田佐兵衛へ改割印願候処、早速相済出    板致し、凡五千枚通も摺込、九月廿四日より江戸中を配り候処ニ、全く小金の図ニて富士山を遠く書て    筑波山と見せ、男躰女躰の形を少々ぎざ/\と付、又咄しの通りの原中に新しき出来山を築立、其ぐる    りに竹矢来を結廻し、猪鹿のたぐひを中ぇ追込ミ、右山の上に仮家を建て、此所より上覧之図、三枚続    ニて七十二文に売出し候処、大当り大評判なり。然ルニ古来より富士の牧(巻)狩之図ニは、仁田四郎が    猛獣を仕留し処を正面ニ出し、脇に頼朝卿馬上ニて、口取ニ御所の五郎丸が大長刀を小脇ニかい込、赤    き頬がまへにてつゝ立居ざれバ、子供迄も是を富士の牧狩といわず、是ハいか程の名画にても向島の景    色と(を)書に、三めぐりの鳥居のあたまがなけれバ、諸人是を向島の景なりといわざるが如し。然ルニ    頼光の土蜘蛛の怪も、一つ眼の秀(禿)が茶を持出ると見越入道ハ御定りの画也、然ルを先年国芳が趣向    にて百鬼夜行を書出して大評判を取、いやが上にも欲にハ留どもなき故に、とゞのつまりハ高橋も高見    ニて見物とは行ずしてからき目に逢ひ、これ当世せちがらき世の人気ニて、兎角ニむつかしかろと思ふ    物でなければ売れぬ代世界、右之画の脇に正銘の富士の牧狩ニて、仁田の四郎猛獣なげ出せし極く勢ひ    のよき絵がつるして有ても、これは一向うれず、これ    (歌詞)二たんより三だんのよきが、一たんに勝利を得、外の問屋ハ四たんだ踏でくやしがるといへど     も、五だん故に割印いでず、山口にて六だんめにしゝ打たむくいも成らず、七の段の様に六ヶ敷事も     なく、すら/\と銭もふけ、七珍万宝は蔵之内に充満し、下着には八反八丈を差錺り、九だんと巻て     呑あかし、そんな十だんを言なとしやれ、山口の山が当りて、口に美食をあまんじ、くばりの丸やも     丸でもふけ、いつ迄も此通りに売れて、伊三郎とと(ママ)いる小金処が大金を設(儲)けしハ、これふじ     の幸ひならんか。          小金とはいへども大金設けしは              ふじに当りし山口のよさ      川柳点に                  富士を筑波に書し故ニ          ふたつなき山を二つににせて書き           原中ニ新きに山出来けれバ          原中にこがねをかけてやまが出来  
   右牧狩之絵、最初五千枚通り摺込候処、益々評判宜敷故ニ、又/\三千枚通り摺込、都合八千枚通りて、    二万四千枚摺込候処、余りニ大評判故ニ、上より御察度ハ無之候得共、改名主村田佐兵衛、取計を以、十    一月十日ニ右板木をけづらせけり。             あらためがむらだと人がわるくいゝ〟    〈この頃の落首に〝来年は小金が原で御鹿狩まづ手はじめに江戸でねこがり〟(『藤岡屋日記』三巻③223)という     のがある。これは、この頃また息を吹き返してきた深川両国などの岡場所に、天保十三年三月の摘発以来、久しぶり     に手入れ(猫狩り。猫とは岡場所の娼婦をさす)があったこと、そして、来年には将軍家慶が小金原(現在の千葉県     松戸市にある将軍家の狩り場)で大がかりな鹿狩りを催すという巷間の評判を取り上げて詠み込んだものである。そ     の鹿狩りを当て込んだ錦絵「富士の裾野巻狩之図」が九月二十四日出版された。今まで「富士の巻狩り」といえば、     仁田四郎(にたんのしろう)が猪に逆さに跨って仕留める図柄が定番であった、しかし今は「兎角にむつかしかろと     思ふ物でなければ売れぬ」世の中である。そこで「むつかしく」みせるために一計を案じた。「富士の巻狩り」であ     るから富士を大きく画いているものの、わざわざ男体女体を小さくぎざ/\と画いて筑波山を擬え、巷間の噂の通り     大きな築山を配したのである。この趣向が将軍家の小金原の鹿狩りを連想させるのは当然で、板元山口の狙いは当た     った。しかしその評判が逆に心配の種になった。改掛(アラタメカカリ)の名主・村田佐兵衛は、町奉行からのお咎めもな     いのに累が自分に及ぶことを恐れたのか、板木を削らせたのである。もっともこれはお上への恭順のポーズであって、     商売としては、その時点で十分過ぎるほどの利益はあげていた。三枚続き72文の8000組というから、売り上げは5760     00文にのぼる。当時の銭相場は1両=6500文であるから、これで換算すると、576000文は約89両に相当する。九月二     十四日売り出し、板木を削ったのが十一月十日。約二ヶ月足らずで89両の売り上げであった。なお天保改革時の十三     年錦絵一枚の小売値は16文以上無用とされたのだが、この「富士の巻狩り」は三枚続72文だから一枚24文になってい     る。これを杓子定規に適用すれば禁令違犯である。しかし小売値はどうやら問題視されていないようである。改革か     ら六年、既に緩んでいたのであろうか。2014/2/26追記〉
    「富士の裾野巻狩之図」 玉蘭斎貞秀画(早稲田大学図書館「古典籍総合データベース」)     ☆ 嘉永二年 <閏四月>       筆禍「流行御利生けん」一猛斎芳虎画・酒井屋平助板       処分内容 ◎版元酒井屋平助 絵双紙掛の名主の判断で板木の削除を命じられる       処分理由 浮説(打掛姿のお竹が本丸年寄の姉小路を擬えたという噂)が立ったため
     「【道外武者】御代の若餅」一猛斎芳虎画・沢屋幸吉板       処分内容 ◎版元沢屋幸吉 板木の削除を命じられる 在庫は没収(『藤岡屋日記』)                  手鎖五十日(宮武外骨の『筆禍史』より)            ◎一猛斎芳虎  手鎖五十日(宮武外骨の『筆禍史』より)       処分理由 浮説(信長・秀吉・家康を擬えた)が立ったため     ◯『藤岡屋日記 第三巻』p245(藤岡屋由蔵・嘉永二年(1848)記)      ◇三人拳・道化武者御代の君餅 ③475   〝嘉永二己酉年      翁稲荷、新宿の老婆、於竹、三人拳の画出るなり。    板元麹町湯島亀有町代地治兵衛店、酒井屋平助ニ而、芳虎が画也、但し右拳の絵は前ニ出せる処の図の    如くにして、名主村田左兵衛・米良太一郎の改割印出候へ共、はんじものにて、翁いなり、三途川の姥    婆さまハ別ニ替りし事も無之候へ共、馬込が下女のお竹女が根結の下ゲ髪にてうちかけ姿なり、是は当    時のきゝものにてはぶりの宜敷、御本丸御年寄姉小路殿なりと言い出せしより大評判ニ相成候故、上よ    り御手入れの無之内、掛り名主より右板をけづらせけり、尤是迄ニ出候処之絵、新宿の姥婆さま廿四番    出、外ニ本が二通り出ルなり、お竹の画凡十四五番出るなり、然ル処今度お竹のかいどりの画ニて六ヶ    敷相成、名主共相談致し、是より神仏の画ハ一向ニ改メ出スまじと相談致し、毎月廿五日大寄合之上ニ    て割印出すべしと相談相極メ候、今度又々閏四月八日の配りニて、板元桧物町茂兵衛店沢屋幸吉、道外    武者御代の君(ママ)餅と言表題にて、外ニ作者有之と相見へ、御好ニ付、画師一猛斎芳虎ト書、発句に、         君が代とつきかためたる春のもち       大将の武者四人ニて餅搗之図     一 具足を着し餅搗の姿、はいだてに瓜ノ内ニ内の花の紋付、是ハ信長也。     一 同具足ニてこねどりの姿、はいだてに桔梗の紋ちらし、是ハ光秀也、白き衣ニて鉢巻致すなり、       弓・小手にも何れも定紋付有之。     一 同具足ニて餅をのして居る姿ハ、くゝり猿の付たる錦の陣羽織を着し、面体ハ猿なり、是は大(太)       閤秀吉なり。     一 緋威の鎧を着し、竜頭の兜の姿にて、大将餅を喰て居ル也、是則神君也、右之通り之はんじもの       なるに、懸りの名主是ニ一向ニ心付ズ、村田佐兵衛・米良太一郎より改メ割印を出し、出板致し       候処ニ、右評判故ニ、半日程配り候処ニ、直ニ尻出て、直ニ板けづらせ、配りしを取返しニ相成       候、然ル処、又々是ニもこりず、同十三日の配りニて、割印ハ六ヶ敷と存じ、無印ニて出し候、       板元も印さず、品川の久次郎板元ニて出し候処の、(ママ、原文はここで切れている)            一 翁いなりと新宿の姥姿の相撲取組、翁ヶ嶽ニ三途川、行事粂の平内、年寄仁王・雷神・風神・四       本柱の左右ニ並居ル、相撲ハ皆々当時流行の神仏なり、是ハ当年伊勢太神宮御遷宮ニ付、江戸の       神仏集りて、金龍山境内ニて伊勢奉納の勧進相撲を相始メ候もの趣向ニて、当時流行の神仏ニハ、       成田山・金比羅・柳島妙見・甲子大黒・愛宕羅漢・閻魔・大島水天宮・笠森・堀ノ内・春日・天       王・神明・其外共、釈迦ヶ嶽、是ハ生月也。              成田山 大勇 象頭山 遠近山 築地川 割竹 関ヶ原 筆の海 有馬山 三ッ柏 堀之内       猪王山 柏手 初馬 綿の山 注連縄 翁ヶ嶽 剱ノ山 経ヶ嶽 於竹山 錦画 御神木 三途       川 死出山、行事長守平内、年寄仁王山雷門太夫・大手風北郎・おひねりの紙、お清メ水有、行       事・呼出し奴居ル、見物大勢居ル也。        此画、伊予政一枚摺ニて、袋ニ手遊びの狐・馬・かいどりの姉さまを画、軍配ニ神仏力くらべ       と表題し、外に格別の趣向も無之様子ニ候へ共、取組の内ニ遠近山ニ三ッ柏と画たり、是は両町       奉行の苗字なるべし、割竹ニ猪王山と云しハ御鹿狩なるべし、外ニうたがわしき思入も有之間敷       候得共、右之はんじものニて人の心をまよわせ、色々と判断致し候より此画大評判ニてうれ候処       ニ、是も間もなく絵をつるす事ならず、評判故ニ引込せ仕舞也。         お竹のうちかけ姿を見て         遅道           かいどりを着たで姉御とうやまわれ           三途川の老婆御手入ニ付、           新宿は手がはいれども両国の             かたいお竹はゆびもはいらず           老ひの身の手を入られて恥かしや             閻魔のまへゝなんとせふづか         両国の開帳           お竹さんいもじがきれて御開帳             六十日は丸でふりつび〟    〈三人拳は酒席の座興として以前から行われていたが、嘉永元年正月、河原崎座において、中村歌右衛門・市川九蔵・     松本錦昇(幸四郎)の三人が「とてつる拳」を演じたのが大当たりとなって、大流行した。この一猛斎芳虎画の「流     行御利生けん」もそれに便乗した制作である。ただこのころの錦絵は、様々な禁制や制約を楯にとって「うたがわし     き思入」の有るものや「人の心をまよわせ、色々と判断」できるような「はんじもの」がとかく評判をとるというの     で、翁稲荷・新宿の老婆・下女のお竹という組み合わせのほかに、更に一層の趣向を凝らし、お竹を「下げ髪にてう     ちかけ姿」にした。(これはそもそも下女の出で立ちではない。またお竹には大日如来の化身というイメージもある     が、それでもこの身なりはありえない)それがさまざま憶測を呼んだ。なかでも出色なのは、お竹は大奥の上臈御年     寄・姉小路(あねがこうじ)を擬えたのではないかという浮説。ほかならぬ幕府の中枢に拘わる風評である。早速、     この錦絵の改(アラタメ)を通した名主たちが動いた。彼等にとってこれは想定外のことだったには違いないが、このまま     放置してはますます難しい事態になることは必定。そこで名主たちは、町奉行が摘発する前に、急遽版元に命じて板     木を削せ、沈静化を図ったのである。     同じく一猛斎芳虎画「道外武者御代の若餅」(『藤岡屋日記』は「君餅」とする)。これも判じ物。餅を搗くのが織     田信長、以下、杵取りが明智光秀、餅を伸すのが豊臣秀吉、最後に竜頭の兜を被って餅を食っているのが徳川家康。     神君が一番おいしいところをもっていったと言う寓意は明らかである。当初、改(アラタメ)名主がその寓意に気が付かず、     いったん市中に出まわってしまったのだが、半日ほどして噂が立ち、あわてて回収にまわったといういわく付きであ     る。だが、余波はおさまらず、今度は版元名のない無届け版が出まわったとある。     その他にもこの手の判じ物が作られたようで、「翁いなりと新宿の姥姿の相撲取組」では、様々な取組のうち、遠近     山対三ッ柏という取組があって、これが当時の町奉行・遠山左衛門尉景元と牧野駿河守成綱(家紋が三つ柏)を擬え     たとされた。また割竹と猪王山の取組は、この三月に物々しく行われた将軍の鹿狩を判じたものとされた〉
    「流行御利生けん」(翁稲荷、新宿の老婆、於竹、三人拳の画) 道外一猛斎芳虎画     (ウィーン大学東アジア研究所・浮世絵木版画の風刺画データベース)
    「【道外武者】御代の若餅」 一猛斎芳虎画(早稲田大学・古典籍総合データベース)     ◯『筆禍史』p118(宮武外骨著・明治四十四年(1911)刊)   (「【道外武者】御代の若餅」一猛斎芳虎画)   〝歌川芳虎筆の一枚版行絵なり(縦一尺二寸横八寸五分)其全図は左に縮摸するが如く、武者共の餅つき    絵なるが、其模様中の紋章等にて察すれば、織田信長が明智光秀と共に餅をつき、其つきたる餅を豊臣    秀吉がのしをし、徳川家康は座して其餅を食する図なり、要するに徳川家康は巧みに立廻りて、天下を    併呑するに至りしといへる寓意なり、徳川幕府の創業は殆ど此絵の寓意に近きものなれども、家康が何    の労力をもせずして、大将軍の職に就きしが如くいへるは、其狡猾を諷せしものなれば、何條黙せん此    版行絵は忽ち絶版の厳命に接せり、しかのみならず、文化元年五月、幕府が令を下して、天正以来の武    者絵に名前又は紋所、合印等の記入を禁じあるにも拘らず、之を犯したるは不埒なりとて、画者芳虎は    手鎖五十日の刑に処せられ、版木焼棄の上、版元の某も亦同じ罰を受けたりといふ    右の事実は古記録にて見たるにあらず、画者芳虎は明治の初年頃まで生存し居り、其頃同人直接の懐旧    談にて聞きしといへる、某老人の物語に拠れるなり     歌川芳虎は一勇斎国芳の門人にして一猛斎と号し、豪放不羈の性質なりしといふ      〔頭注〕水滸伝長屋    一猛斎芳虎は、水滸伝百八人の錦絵を描きて好評を博したる一勇斎国芳の門人なりしかば、自己の居住    せる長屋に水滸伝の放逸人物のみを集めて、水滸伝長屋と称し居たりと『雅三俗四』にあり〟
     〈『筆禍史』は天保八年刊(1837)とするが、『藤岡屋日記』は嘉永二年(1849)とする。ちょうど十二年の隔たり。芳虎     本人から直接聞いたという某老人、あるいは、芳虎が酉年と答えたのを、嘉永二年(1849)ではなく一回り昔の天保八     年と受け取ったのかもしれない。『藤岡屋日記』嘉永二年の項、参照されたい。『雅三俗四』は石井研堂著・明治三     十四年刊〉     ☆ 嘉永二年(1849)<五月>      参考史料「伊勢遷宮図」一勇斎国芳画・玉蘭斎(五雲亭)貞秀画       〈藤岡屋慶次郎板と川口屋宇兵衛板の「伊勢遷宮之図」について、伊勢の山田奉行から売買禁止するよう要請があった。    これに対して江戸町奉行は、本図は祭礼行列図と同じであり、神社仏閣等の図は禁止されていないので問題なしとした〉    △『嘉永撰要類集』(『未刊史料による日本出版文化』第三巻「史料編」p411)    (町年寄・館市右衛門の「伊勢遷宮図」に関する調書)   〝江戸通油町藤岡慶次郎、坂本町川口と申家ニて、両宮遷幸之図書顕し候別紙錦紙売出し候ニ付、両長官    宇治年寄山田三方共申立候間、御糺之上相違無之候ハゝ、御差留有之候様致度旨、長官其外より差出候    錦絵弐通り、此余ニも有之趣、書面写相添、尤是迄右体之儀有之節は、其筋へ掛合之上、差留ニ相成候    儀ニ有之候段、山田奉行衆より御掛合ニ付、取調可申上旨被仰渡候、此儀絵双紙掛り名主共相調候処、    去申十一月以来伊勢御遷宮之図、別紙抜渡之錦絵通油町絵双紙屋藤岡屋慶次郎、坂本町川口屋宇兵衛よ    り下絵差出候処、祭礼行列ニ等敷(ヒトシキ)彩色六編、ヌは八編擢ニて禁忌等相見不申候間、其節之月番掛    り名主改印仕売出し申候、乍去右は其筋差障之儀有之候ハゝ、御下知次第之儀、且右絵弐通り其外売出    し候右之慶次郎板元、たて図三枚継伊勢名所図絵、同断馬喰町弐町目森屋次郎兵衛板元御遷宮三枚継、    中橋広小路町山田屋庄兵衛、同六ッ切式(ママ)枚継横絵共入御覧候旨申之候    右取調候処、書面之通、掛り名主共申之、尚右絵一覧仕侯処、神事之儀名主共其改方不念等も無之奉存    候え共、其筋より相願、且山田奉行衆御書面之内、是迄右体之儀有之節は其筋え掛合之上差留ニ相成候    儀ニ有之段、被仰越候上は、長官等申立斗ニも無之、右遷宮図売買御差留可被仰付方ニ可有御座哉(下    略)〟    〈板元・藤岡屋慶次郎、川口屋宇兵衛の「伊勢遷宮之図」は、前年の嘉永元年十一月、絵双紙掛名主の改(アラタメ=検閲)     を通って売買されていた。ところが、この五月、伊勢の山田奉行・河野対馬守から江戸の町奉行・遠山左衞門尉、牧     野駿河守宛に、この「伊勢遷宮之図」の売買を禁止するよう要請があった。これは伊勢の内外両宮長官および宇治年     寄・山田三方の訴えを受けてのものである。この遷宮図では〝子供弄様之品え両宮之御儀書顕候様ニては神慮無勿体     奉恐入候儀ニ御座候間〟つまり子供のおもちゃのような画き方であり、これではもったいなくも恐れ多いと、彼らは     訴えていたのである。遠山は早速町年寄・館市右衛門に調査を命じた。上記の調書で、館は名主の改め方に問題はな     いとした上で、山田奉行が言うように掛け合い(談判)によって禁止した例があるというのであれば、売買禁止にす     べきかと上申した。これを受けて遠山・牧野の両町奉行が山田奉行・河野対馬守に示した回答は次の通り。日付は六     月九日である〉      〝(上略)絵草紙掛名主共並町年寄等相糺候処、前書藤岡屋慶次郎、川口屋兵衛等より兼て下紙(ママ絵?)    差出侯節、見改候処、素祭礼行列之図ニ等敷、且前々より神社仏閣等之図書顕候儀有之、禁忌之廉(カド)    見不申候ニ付、売弘させ候儀ニて、既文政十三寅年中馬喰町弐町目山口屋藤兵衛外壱人方ニて、遷幸之    図売買致候儀も有之候由、絵草紙屋共申之侯旨をも申立侯え共、御掛合之趣も有之候間、差止可申付之    処、右体先年も売買致候儀之旨等申立候上は、此儘差留候ハゝ、一事両様ニ相心得可申、然ル処、是迄    其筋え掛合之上、差留相成候儀有之候由ニ付、先役共え之御掛合等も可有之哉と取調侯え共、差向書留    相見不申(下略)〟    〈「遷幸之図(遷宮之図)」は祭礼行列図と同じであり、また神社仏閣の図は禁忌の対象になっていないので、改(アラタ     メ)に問題はない。前例に就いてみると、文政十三年(1830)、板元・山口屋藤兵衛等から同図が売買されていた。従っ     てこれを禁止にすると「一事両様」になって具合が悪い。それに其筋の掛け合いによって差し止めになった先例を調     べたが、今のところ見当たらない。つまり売買禁止にはしないという結論になったのである。なお文政十三年の図と     はどのようなものかとういうと「下ヶ札」には次のようにある〉      〝弐拾ヶ年以前、文政十三寅年、右御遷宮之節、馬喰町弐町目山口屋藤兵衛、板元三枚継絵並大長と唱、    伊予奉書弐ツ切壱枚絵、池之端仲之町越後屋長八板元中と唱、同断三ッ切壱枚絵売買仕候趣ニは御座候    え共、年数相立候儀ニ付、扣絵無之絵組等相知不申候間、押立申立候儀ニは、至兼候旨申之候〟    〈曰く、手許に控えの絵がなく絵組み等が分からないので断言できないが、文政十三年の遷宮時、山口屋から三枚続と     大長と称する大きさの一枚絵、越後屋からは一枚絵が売買されたという書留である〉
    「伊勢大神宮遷御之図」 一勇斎国芳画(国立国会図書館デジタルコレクション)
    「伊勢御遷宮之図」 五雲亭貞秀画(神奈川県立歴史博物館所蔵)
    「伊勢御遷宮 参詣群衆之図」 玉蘭斎貞秀画(神宮徴古館蔵)     ☆ 嘉永二年(1849)<五月>      筆禍「仙台萩」三枚続・画工不明       処分内容 ◎版元三河屋鉄五郎 板木及び在庫品の没収            ◎絵双紙屋 取り調べ中、釣し売の禁止            ◎画工 記述なし〈この「仙台萩」の画工が誰か分からないが、言及がないから処分は及ばなかったのだろう〉       処分理由 無断出版(改(アラタメ)に出したものとは別に、彩色等手間を掛けたものを内密に制作して、            高値で販売したこと)    ◯『大日本近世史料』「市中取締類集 二十一」(書物錦絵之部 第二八六件 p210)   (『嘉永撰要類集』『未刊史料による日本出版文化』第三巻「史料編」p419)   「錦絵無改之品出板并隠売いたし候絵双紙屋之儀ニ付調」(絵草紙掛り名主の町年寄宛伺書)   〝  元大工町 平次郎店 板元 三河屋鉄五郎    右鉄五郎儀、仙台萩と名附候三枚続錦絵、手を込メ摺立高価ニ売捌候儀入御聴、御内沙汰被為在候趣ニ    付取調候処、右は当正月中下絵を以、私共之内(濱)弥兵衛、(馬込)勘解由両人月番之節、改ニ差出    し、絵柄子細無之改印致遣シ、私共方ぇ差出候控絵は、外並一ト通之彩色ニて摺立、絵草紙屋一統見世    売仕候、然ル処、外ニ彩色遍数を掛ケ摺立候は、懇意之絵草紙屋のみぇ内々相頼、一枚ニ付銀壱匁程ニ    て内証売仕、尤、見世先ぇは差出シ置不申、及承買求メニ罷越候ても、買人之様子見計ひ、容易ニは売    渡不申趣ニ御座侯、右板元鉄五郎儀は、是迄度々無改之錦絵内証売致候間、其度々証文取置候得共、又    候此度遍数相掛内証売仕、於私共奉恐入候    一 錦絵之儀ニ付ては、毎度御沙汰も有之候間、絵双紙屋並絵師・板木師等ぇ前々被仰渡之趣申聞、御     趣意相守候様、度々諭方仕、請印取置候得共、今以右様心得違之もの有之、右之外、是迄無改之品又     は改遺し候後、絵柄模様を替摺立候も有之、及見次第取調、其度々板木削去売留申付、事立候分は申     上置、御沙汰伺中之向も御座候、一体無改之品売捌候得共、厳重之御沙汰は無之儀と見居候哉、何分     ニも相止ミ不申、私共ニおゐても深く奉恐入候、精々取締方打寄談判仕候処、先達て四谷太宗寺閣魔     王之絵浮説有之、殊ニ無改ニ付、売捌候者御吟昧相成、一同過料被仰付候得共、其当座のみニて、此     節ハ忘却心弛ミ致候様子、右様無改之品出板致候者は、重もに絵双紙取次商ひ致、俗ニせりと唱候も     の、又は板摺等多く、畢寛身軽之者ニて、利欲ニ泥ミ勘弁も無之、乍併、其度々申上御吟味為請候様     ニては、手荒ニ相聞、御仁恕之御趣意ニも相戻り、此儀心痛仕候、依之、無改之品開板いたし候ても     売捌不相成様仕法仕候ハゝ、仕入損毛相立候間、素より利欲ニ拘り候者共故、自然手懲仕相止ミ可申     哉と奉存候、右ニ付、以来無改之品は仕来之通、板元より板木摺溜為差出、取次商ひ致候絵双紙屋共     は、無改之品乍心得取扱候過怠ニ、取調中両三日位、見世先釣シ売之錦絵不残下ニ置商ひ為致候ハゝ、     商ひ留致趣意ニは無之候得共、当人共外聞不宜、向後絵草紙屋共無改之品売捌不申様之仕法相立可申     哉、乍恐存寄候趣奉申上候、御賢慮之上、御沙汰被成下置度、御内慮奉伺候、以上      酉五月                  絵草紙 名主共〟       〈三河屋鉄五郎板の三枚続「仙台萩」は正月、絵草紙掛の名主・浜弥兵衛と馬込勘解由の改(アラタメ)(検閲)を通って売     りに出された。ところが改に出したものとは違うもの、密かに彩色摺数を増やした類板が出回っているというのであ     る。それも懇意の絵草紙屋に頼んで店先には出さず客を見定めてから一枚銀一匁の高値で売っている由。今、1両=     64匁=6500文で換算すると、三枚続で約100文、一枚当たりでは33文になる。天保の改革では16文以上は禁止であっ     たから約倍の直段である。三河屋は改とは違うものを出版する常習者のようで、その度に証文を取っているが、効き     目はない様子。改(アラタメ)懸りの名主はいう、この頃は、それに加えて改に提出した下絵と違う絵柄のものさえ出回っ     ている。その都度板木を削り落とし売買を禁じているが、どうせ重い処分にはならないだろうと見積もっているのか、     一向に止まない。先般も四ッ谷太宗閻魔王の絵に関して浮説が流れ、その咎で過料に処せられたものがいたが、その     当座こそ慎しむものの、しばらくするとまたぞろ弛みが生じる。中でも絵草紙を取り次ぐ商売のせり売りと板摺はそ     れが甚だしい。そこで今後、無届けのものあるいは改めた後に手を加えたものについては、板元から板木および摺溜     めを差し出させる、またそれを承知で商った絵草紙屋の方は、取り調べ中の間、店での釣るし売りを禁じるようにし     てはどうかという、改掛の要望である。これに対する、町奉行・遠山左衞門尉の回答は次の通り。なお「四谷太宗寺     閣魔王之絵浮説有之」は「筆禍史」弘化四年四月の項参照。また三河屋は弘化四年十二月の「七福神曽我之初夢」で     摘発を受けている。これも弘化四年の項参照)〉       (町奉行・遠山左衞門尉の回答)   〝書面錦絵の儀、不改受出板、或は改済之上彫刻手入等致し候板元よりは、板木・摺溜共為差出、右を乍    弁売買いたし候絵双紙屋共は、為過怠取調中釣し売不為致儀、商方見体ニ拘り候間、自然取締相成可然    奉存候〟    〈絵双紙掛の名主の提案どおり、改(アラタメ)を受けないもの或いは改め後に手を加えたものについては板木・在庫品とも     没収。またそれを承知で売買した絵双紙屋はその過失を咎めて、取り調べ中は釣り売り禁止とした。釣り売りの禁止     は一種の見せしめで、一見してお咎めを受けたことが分かるから、他の版元に対しては抑止になると考えているよう     だ〉
   以上、嘉永元年・二年の「筆禍」終了(2014/02/28)

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