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浮世絵の筆禍史(3)天保十三年(1862)筆禍史メニュー
   ※ 者=は 与=と 江=え 而=て メ=貫 〆=締(〆そのまま使うこともあり)而已=のみ (2013/09/27)    ☆ 天保十三年(1842)<一月>    ◎参考(役者絵・春画規制)   △『大日本近世史料』「市中取締類集 一」(市中取締之部 第三件・p35)    (正月「市中風俗取締之儀ニ付申上候書付」南町奉行同心 小倉朝五郎)   〝歌舞妓役者共義、素人と不立交様、猶今般(天保十二年十二月十八日)改メ厳敷被仰渡ニ付てハ、已来    役者共之紋付候品、并役者共好ミ候縞等染候品々、又ハ右紋付候櫛・笄・髪差・手拭・或ハ役者似顔之    錦絵、其外も乍恐御差留被遊可然哉、右様之品ハ、武家方奥向等ニて重ニ被好、且反物類ニ至り候てハ、    身柄之方着用等ニ相成候義も有之、不宜哉ニも奉存候〟    〈役者の紋の付いた櫛・笄等の装飾品や役者好みの縞模様を染めた反物等、武家の奥向きにも悪影響を及ぼすとして、     禁止すべきだという上申書である。役者似顔絵は、この年の六月四日付の町触で、風俗に拘わるとして、遊女・芸者     絵とともに出版禁止になる。この同心の文書はそれに先だってのもの〉      △『大日本近世史料』「市中取締類集 一」(市中取締之部 第三件・p47)    (正月「市中取締之儀ニ付存寄之趣申上候書付」南町奉行同心 小林藤太郎)   〝干見世と唱、往還ぇ莚を敷、古本・古道具類並べ商ひ候もの、往来人立止候様可致為メ、俗ニ枕双紙と    唱候男女乱行之図を画候古本を並べ置、右は御法度之品ニ有之処、近来相弛、大行ニ商ひ候もの有之候    間、組々名主共(一字欠)御沙汰御座候ハヾ、相止可申哉ニ奉存候〟    〈古本屋や古道具屋が店先に禁制の春画を置くのは客引きのためでもあるという。この路上での春画商売、なかなか止     まなかったようで、弘化二年十二月には町触れを出して徹底を図っている。また同四年の町奉行・市中取締掛(カカリ)     の「市中風聞書」記事にも見えている。本HP「浮世絵の筆禍史(6)」「同(7)」参照〉    ☆ 天保十三年(1842)<五月>      筆禍 錦絵「飛騨内匠棟上ゲ之図」(国芳画)「菅原操人形之図」(豊国画)       処分内容 絶板            ◎絵師 一勇斎国芳・歌川豊国 過料(三貫文)            ◎板元 伊賀屋勘右衛門・古賀屋勝五郎 過料(三貫文)〈原文は勘左衛門、藤五郎だが訂正した〉             他に、竹内(絵草紙屋)丸伊(糴売り)久太郎(摺師)それぞれ過料(三貫文)       処分理由 役者似顔絵・無届け出版〈「無届け出版」は馬琴書翰による〉    ◯『藤岡屋日記』第二巻 ②271(藤岡屋由蔵・天保十三年記)   〝天保十三寅年五月    飛騨内匠棟上ゲ之図菅原操人形之図役者似がほニて御手入之事    去十一月中、芝居市中引払被仰付、其節役者似顔等厳敷御差留之処、今年五月、神田鍋町伊賀屋勘左衛    門板元ニて、国芳之絵飛騨内匠棟上ゲ図三枚続ニて、普請建前之処、見物商人其外を役者の似顔ニ致し    売出し候処、似顔珍らしき故ニ売ル也。又本郷町二丁目家根屋ニて絵双紙屋致し候古賀屋藤五郎、菅原    天神記操人形出遣之処、役者似顔ニ致し、豊国の画ニて是も売る也。     右両方の画御手入ニて、板元二人、画書二人、霊岸島絵屋竹内、日本橋せり丸伊、板摺久太郎、〆七     人三貫文宛過料、       建まへの跡は古賀屋が家根をふき     画師豊国事、庄蔵、国芳事、孫三郎なり。     六月中役者似顔・遊女・芸者類之絵、別而厳敷御法度之由被仰出〟    〈天保十三年の五月、昨年十一月の芝居移転令と時を同じくして禁じられた役者似顔絵を出版したという廉で、「飛騨     内匠棟上ゲ図」と「菅原操人形之図」が手入れに遇い、絵師の国芳と豊国、板元の伊賀屋・古賀屋等を含めて関係者     七名が三貫文(3/4両)の罰金を科せられたという記事である。役者似顔絵の禁止については、天保十三年の六月の     町触がよく知られているが、十二年の十一月の禁止令は確認できてない。(本HP「浮世絵辞典」「う」の「浮世絵に     関する御触書」参照)竹内は霊岸島とあるから宝永堂竹内孫八か。「せり」は糴(セリ)売り(行商)の意味。摺師の久太     郎は、翌十四年の冬、国芳の「源頼光公館土蜘作妖怪図」の流行に便乗して出版した小形版「土蜘蛛の絵」(貞秀画)     の出版が咎められて、罰金三貫文に処せられている(『藤岡屋日記 第二巻』②413)なおこの藤岡屋の記事で不審     なのは「豊国事、庄蔵」というくだり。庄蔵とあるからこの豊国が国貞であることは疑いないが、国貞の豊国襲名は     天保十五年(弘化元年・1844)四月とされる。(『藤岡屋日記』第二巻②419)藤岡屋は、この天保十三年五月の記     事を、国貞が豊国を襲名した後に書き改めたのであろうか。ところで、この二つの役者似顔絵については、曲亭馬琴     も次のような記事を残していた〉    ◯『馬琴書翰集成』第六巻・書翰番号-10 ⑥50   (天保十三年九月二十三日付 馬琴、殿村篠斎宛書翰)   〝当地之書肆伊賀屋勘右衛門、当夏中猿若丁両芝居之普請建前之錦絵をもくろミ候所、役者似顔絵停止ニ    成候間、其人物の頭ハ入木直しいたし、「飛騨番匠棟上の図」といたし、改(アラタメ)を不受して売出し候    所、其絵ハ人物こそ役者の似面ならね、衣ニハ役者之紋所有之、且とミ本・ときハず・上るり太夫の連    名等有之候間、役者絵ニ紛敷由ニて、売出し後三日目に絶板せられ、板元勘右衛門ハ御吟味中、家主ぇ    被預ケ候由ニ候。又、本郷辺之絵双紙や某甲の、改を不受して売出し候錦絵ハ、似面ならねど役者之舞    台姿ニ画き候を、人形ニ取なし候て、人形使の黒衣きたるを画き添候。是も役者絵ニ似たりとて、速ニ    絶板せられ候由聞え候。いかなれバこりずまニ、小利を欲して御禁を犯し、みづから罪を得候や。苦々    敷事ニ存候。是等の犯人、合巻ニもひゞき候て、障ニ成候や。合巻之改、今ニ壱部も不済由ニ候。然る    に、さる若町の茶屋と、下丁成絵半切屋と合刻にて、猿若町両芝居之図を英泉ニ画せ、四五日以前ニ売    出し候。是ハ江戸絵図の如くニ致、両芝居を大く見せて、隅田川・吉原日本堤・田丁・待乳山・浅草観    音抔を遠景ニ見せて、人物ハ無之候。此錦絵ハ、館役所ぇ改ニ出し候所、出版御免ニて売出し候。法度    を守り、後ぐらき事をせざれバ、おのづから出板ニ障り無之候を、伊賀屋の如き者ハ法度を犯し、後ぐ    らき事をせし故ニ、罪を蒙り候。此度出板の両芝居の錦絵ハ高料ニて、壱枚四分ニ候。夫ニても宜敷候    ハヾ買取候て、後便ニ可掛御目候〟      〈馬琴記事の「飛騨番匠棟上の図」と「似面ならねど役者之舞台姿ニ画き候を、人形ニ取なし候て、人形使の黒衣きた     る」図とは、その板元名やその住所から『藤岡屋日記』のいう国芳画「飛騨内匠棟上ゲ之図」と豊国(国貞)画の     「菅原操人形之図」に相当すると思われる。双方とも画題は「飛騨番匠棟上の図」で板元は伊賀屋勘右衛門も同じ。     また藤岡屋のいう「本郷町二丁目」の板元・古賀屋は、馬琴のいう「本郷辺之絵双紙や某」に相当しよう。(本HP     「浮世絵事典」の「地本問屋」の項、嘉永四年の「諸問屋名前帳」参照。「本郷弐丁目 金兵衛店 古賀屋勝五郎」     とある)つまり藤岡屋の記事も馬琴の記事も同じ絵に関するものと考えてよい。(以下「飛騨番匠棟上の図」は「棟     上の図」と記す)     天保十三年夏、伊賀屋は浅草猿若町に移転した中村・市村両座の建前(上棟式)を錦絵にしようと目論んだ。ところ     が同年六月の町触で、役者似顔絵が禁じられてしまった。それで、その人物の頭を入木し直し「飛騨番匠棟上の図」     と題して売り出した。だが、案に相違して、役者似顔ではないものの、役者の紋や富本・常磐津の太夫の名前などが     連ねてあるなど、役者絵に紛らわしいとして、発売三日で早くも絶板に処せられたと、これが馬琴の証言。藤岡屋も     馬琴も同じ絵について証言しているのだが、大きな相違点がいくつかある。     一つは役者似顔か否か。藤岡屋の「飛騨内匠棟上ゲ之図」は役者似顔絵だが、馬琴の方は「入木」「人物こそ役者の     似面ならね」とあるから、役者の似顔絵ではない。     二つ目は絶板の理由。上出のように、藤岡屋は天保十二年十一月の禁制(役者似顔絵禁止)違犯とする。馬琴の方は     「役者似顔絵停止ニ成候間」とあるから、天保十三年六月の役者似顔絵禁止令を念頭において、似顔絵に紛らわしい     ことが処分に至った理由だとする。また馬琴は改(アラタメ=検閲)を通さない無許可の出版だったとするが、藤岡屋記     事は特に触れてない。馬琴の口ぶりではこちらの方が絶板理由としては重大だと考えたようで、同年九月に出版され     た渓斎英泉の「猿若町芝居之略図」の例を出して、「此錦絵ハ、館役所ぇ改ニ出し候所、出版御免ニて売出し候。法     度を守り、後ぐらき事をせざれバ、おのづから出板ニ障り無之候を、伊賀屋の如き者ハ法度を犯し、後ぐらき事をせ     し故ニ、罪を蒙り候」と記している。それにしても、この記事でよく分からないのは「改を不受して」とあるところ。     検閲を受けなければそれだけで違犯である。伊賀屋は承知の上でこの挙にでたのだろうか。おりから天保改革の最中     である。(館役所とは町年寄・館市右衛門。天保十三年六月、今後全ての新規出版物は館市右衛門に申し出て、奉行     所の許可を得るよう通達が出ていた。英泉の「猿若町芝居之略図」(大々判錦絵、板元、中野屋五郎右衛門・三河屋     善治郎、文花堂庄三郎)は下出参照)     三つ目は絶板処分の時期。藤岡屋は五月、馬琴は「夏中」としか記してないが、「役者似顔絵停止ニ成候間」の記述     から、役者絵禁止の触書の出た六月の記事と考えられる。     藤岡屋と馬琴の記事、画題も板元も同じ「飛騨内匠棟上ゲ之図」なのに、なぜこのような違いがあるのか。特に役者     似顔絵か否かに関する相違は実に不可解である。なお国貞画の「菅原操人形」に関しても、藤岡屋は禁制の役者似顔     絵を出版した廉で絶板処分になったとし、馬琴の記事も「飛騨内匠棟上の図」の場合と同様、無許可出版、そして役     者絵ではないものの役者絵に紛らわしいという点で絶板になったとする。どちらかに錯誤があるものと思われるが詳     しいことは分からない。          さらに話を複雑にするのが「飛騨匠柱立之図」(一勇斎国芳画・三枚続)という絵の存在。(以下「柱立之図」と記     す)こちらは絵が残されているので、ネット上の画像を引いておく。     画面の上部が大工たちによる「柱立」の図。図様からすると「柱立」から更に進行した「棟上」の図に見える。雲形     で仕切った下部には、常磐津文字太夫・佐々木八五郎・岸沢式佐・西川扇蔵などの名前を配した芸人二十数名の全身     像が画かれている。名前のない人物もいるが、多くは常磐津の太夫かその三味線方(岸沢・佐々木)である。また、     三枚続の右図左端、名前を配していない人物の羽織には市川羽左衛門の家紋、根上り橘が模様として使われている。     ついでに紋についていえば、常磐津連中の羽織には家紋の木瓜(モッコウ)紋が入っている。まさにこの絵は馬琴のいう     「人物こそ役者の似面ならね、衣ニハ役者之紋所有之、且とミ本・ときハず・上るり太夫の連名等有之候」の記事と     符合する。(富本はよく分からなかったが)しかしそれにしてもなお疑問は残る。馬琴はこのころ失明しているから     直接見たのではなく、亡き長男の嫁・お路などに見てもらったのだと思う。そこで考えられるケースは二つ。一つは     その者が画中の「柱立之図」を「棟上の図」と読みかえて報告した。もう一つは馬琴が「柱立之図」の報告に耳を貸     さず、図様からわざわざ「棟上の図」と書き改めた。しかしこんなことがあり得るだろうか。とても考えられないの     である。     藤岡屋由蔵は「飛騨内匠棟上ゲ之図」とし、曲亭馬琴は「飛騨番匠棟上の図」とする。これは二人とも同じものを見     ていることは確かだ。それでは、二人とも「飛騨匠柱立之図」を見てそう書き替えたのであろうか。これが最大の疑     問である。一番自然なのは、「柱立之図」の前に「棟上の図」の存在を想定することだが、今は確認するすべがない。         最後にこの「飛騨匠柱立之図」の異版について述べておきたい。(これも参考までに画像を引いておいた)異版は元     の版から「不許売買」の文字と常磐津連中など芸人の名前を削除している。これはどういうことか。そもそも「不許     売買」とは商売用ではないという意味なのであろう。すると原版は常磐津連中の配り物なのかもしれない。それを商     売用に転じるために削除したのだろうか。次に芸人の名前の削除、これについては、天保十二年十月、市中取締掛の     「上申書」に「一枚絵和歌之類并景色之地名、又は角力取・歌舞妓役者・遊女之名前は格別、其外詞書一切認間敷候」     (本HP「浮世絵事典」「浮世絵に関する御触書」の項参照)とあるから、これを意識して削りとったものとも考え     られる。ともあれよく分からないことだらけである〉
   一勇斎国芳画「飛騨匠柱立之図」(芸名入りと芸名削除の二版あり)    (Kuniyoshi Project「Comic and Miscellaneous Triptychs and Diptychs, Part I」に所収)
   渓斎英泉画「猿若町芝居之略図」(東京都立中央図書館東京資料文庫所蔵)    ☆ 天保十三年<六月>〈天保十二年十二月の中本一件、落着〉      筆禍 合巻・人情本・好色本〈天保十二年末の絵草紙(合巻)・人情本・好色本一件落着〉       処分内容 売上げ金没収、板木・版本破棄焼却            ◎作者 為永春水 手鎖五十日             ◎画工 歌川国芳 過料五貫文            ◎板元 丁子屋平兵衛等七名 過料五貫文 板木師三名 過料五貫文       処分理由 風俗紊乱    ◯「人情本略史」(村上静人著「人情本刊行会」第1輯所収・大正四年序)   〝宣告文         神田多町一丁目五郎兵衛店 為永春水事 長次郎    其方儀、絵本双紙の類、風俗之為に不相成(アイナラザル)猥ヶ間敷(ミダリガマシキ)事、又は異説等書綴り候作出    し候儀、無用可致旨、町触相背き、地本屋共より誂へ候迚(トテ)、人情本と唱へ候小冊物著述いたし、右    之内には婦女之勧善にも可相成(アイナルベキ)と心得違致し、不束(フツツカ)之事共書顕(カキアラハ)し、剰(アマツサ)へ    遊所放蕩の体を絵入仕組遣(ツカハ)し、手間賃受取候段、不埒に付、手鎖(テヂヤウ)申付(マヲシツクルモノ)也〟     〈作者為永春水、手鎖に処せられる〉     〝宣告文         弥左衛門町       家主     伝右衛門〈文永堂・大嶋屋伝右衛門〉         五郎兵衛町       家主     徳兵衛 〈篤尚堂・中屋徳兵衛〉         小伝馬町三丁目藤八店  書物並地本屋 平兵衛 〈文渓堂・丁子屋平兵衛〉         馬喰町四丁目清介店   書物屋    幸三郎 〈金幸堂・菊屋幸三郎〉         本銀町一丁目十右衛門店 書物屋藤四郎、尾州住居に付預り人 丈助 〈東海堂・永楽屋丈助〉         下谷長者町二丁目地大屋 家主     源助  〈連玉堂・加賀屋源助〉         両国吉川町◎八店    地本屋    又兵衛    其方共義、絵本双紙類致渡世(トセイイタシ)、為風俗(フウゾクノタメ)不相成猥ヶ間敷事、又は異説等書綴り候本類、    売買致間敷段(イタスマジキダン)、町触相背き、人情本と唱えへ候小冊物之内には、婦女の勧善にも相成、苦    しかるまじと存心得違(ゾンジココロエチガヒ)にて、神田多町一丁目五郎兵衛店、為永春水事、長次郎に著述    為致(イタサセ)、小本は改更(カイカウ)候へ共、追々増補いたし、風俗に拘り候て、不宜(ヨロシカズ)候処、売捌売    得取り候故、不埒に付、売得取上げ、過料五貫文づつ申付候也    右本類、版木共取上げ、版木削り、本類も焼捨て候間、其旨可存(ゾンズベシ〟     〈以上、板元七名は売上げ金没収、版木・版本は破棄・焼却、罰金五千文〉        〝告文         鈴木町     和田源七         品川町     竹口庄左衛門         南伝馬町    高野新右衛門         堺町      大増五郎兵衛         高砂町     渡辺庄右衛門         小網町     伊兵衛         新両替町二丁目 村田佐兵衛     其方共義、絵類又は書物改方(アラタメカタ)之儀、前々より町触御趣意之趣きを以て、改方いたし候旨は申立    候へ共、既に本所松坂町伝蔵店常吉、其外の者共儀、好色本、或は人情本と唱へ候小冊物出版売買いた    し、近頃専ら流行いたし候儀に相成候段、改方等閑之儀、右始末一同不埒に付、過料三貫文づつ申付候    也〟     〈六名の改掛(アラタメカカリ)名主は、検閲に手抜かりがあったとして、罰金三千文〉    ◯『馬琴日記』第四巻 ④318(曲亭馬琴・天保十三年六月十五日記)    〝丁子屋中本一件、去る十二日落着致、板元七人・画工国芳・板木師三人は、過料五貫文づゝ、作者春水    は、咎手鎖五十日、板木はけづり取り、或はうちわり、製本は破却の上、焼捨になり候由也・丁子屋へ    見舞口状申入候様、申付遣す〟    〈昨年十二月暮、町奉行による人情本・春本の摘発押収に始まる一連の中本一件、六月十一日に落着。丁子屋をふくむ     板元七名以下国芳および板木師は五貫文の罰金。詳細は文化十二年の項参照のこと〉    ☆ 天保十三年<八月>      筆禍 合巻『偐紫田舎源氏』(柳亭種彦作・歌川国貞画)       処分内容 板木没収            ◎作者 柳亭種彦(高屋彦四郎として組頭より譴責)            ◎板元 鶴屋喜左右衛門 板木没収        処分理由 不明       〈これについて、鈴木重三氏は「理由は今なお判明しないが、合巻装丁の過美はある程度かかわったかもしれない」        としている。(「新日本古典文学大系」所収『偐紫田舎源氏 下』解説)〉    ◯『著作堂雑記』p259/275 八月七日   〝天保十三年寅六月、合巻絵草子田舎源氏の板元鶴屋喜右衛門を町奉行え被召出、田舎源氏作者種彦へ作    料何程宛遣し候哉を、吟味与力を以御尋有之、其後右田舎源氏の板不残差出すべしと被仰付候、鶴屋は    近来渡世向弥不如意に成候故、田舎源氏三十九編迄の板は金主三ヶ所へ質入致置候間、辛くして請出し    則ち町奉行へ差出し候処、先づ上置候様被仰渡候て、裁許落着は未だ不有之候得ども、是又絶板なるべ    しと云風聞きこえ候、否や遺忘に備へん為に伝聞の侭記之、聞僻めたる事有べし、戯作者柳亭種彦は小    十人小普請高屋彦四郎是也、浅草堀田原辺武家之屋敷を借地す、【種彦初は下谷三味線堀に住居す、後    故ありて、其借地を去て、根岸に移ると云、吾其詳なることを不知】其身の拝領屋敷は本所小松川辺也、    此人今茲寅五六月の頃より罪あり、甚だ悪敷者を食客に置たりし連累にて、主人閉被籠宅番を被付しと    云風聞有之、事実未だ詳ならざれども、田舎源氏の事も此一件より御沙汰ありて、鶴屋喜右衛門を被召    出、右の板さへ被取上しなるべし〟    〈六月、『偐紫田舎源氏』の板元・鶴屋喜右衛門が町奉行に召喚され、作者柳亭種彦の原稿料を尋問されたうえ、すべ     ての板木を提出するよう命じられた。ところが、当時の鶴屋は家運が傾いていたようで、板木を質に入れていた。そ     こにこの命令。辛うじて手当をして揃えて奉行所に差し出したところが、その後沙汰なし。絶板という噂も流れてい     るが、未だ落着せずという途中経過である〉    ◯『馬琴書翰集成』第六巻・書翰番号-8 ⑥42(八月二十一日 殿村篠斎宛書翰)   〝種彦事、当七月下旬ニ致病死候。亓(其の古字)ハ廿七八日の頃にて、『田舎源氏』の板を、鶴屋より町    奉行所ぇ差出候日と同日の由ニ候。是等、一奇と人々申候。先便得御意候、彼人之身分ニ付、彼是噂有    之候得ども、亓は為差事ニてハ無、彼人之身分ニ障無之由聞え候。御支配ニよく被思候や。先頃小普請    支配某殿、種彦ヲ被呼、其元家来ニ種彦と云者アリ。不宜者ニ候間、早々暇遣し候得と被申候由ニ候。    此故ニ、奉行所ニて『田舎源氏』之作者の御尋ハ無、只板をのミ御取上ニ成候間、板元鶴屋も右ニ准じ    て御咎メハ無、只絶板せらるゝのミならんと、其毎ハ申候。種彦六十許歳なるべし、子息無之候間、死    の字ハ伏置て、急養嗣を尋る成べし。委敷事ハ不知候得共、是等ハ正しき実説ニ候〟        〈種彦の処遇については、彼(高屋彦四郎)が御家人ということもあって、市中の関心は高かったようだ。小普請組頭     の処理は実際気の利いたものだった。組頭は柳亭種彦を旗本高屋彦四郎の家来と見なし、行いの宜しからざるをもっ     て暇を出すよう命じたのである。これで高屋家の存続に関わる危機は回避された。またこの処理が結果的に板元鶴屋     に影響が及んで、板木は没収になったもののお咎めは免れた。もっとも絶板になっただけでも鶴屋にとっては再起不     能に近い大打撃ではあったのだが。(下出『きゝのまに/\』参照)なお、種彦の忌日について、馬琴は七月二十七     ・八日とするが、墓碑は七月十九日である。六月に人情本・好色本の一件(為永春水の手鎖)が落着し、役者絵や遊     女絵を禁じる厳しい町触が出て、わずか一ヶ月後のことであった。ただ死因については病死説・切腹説等あってはっ     きりしないようだ。馬琴によれば、その死亡日はちょうど板元の鶴屋が「田舎源氏」の板木を奉行所に提出した日と     同じだったという噂も立ったようだ。市中は種彦の死が鶴屋の没落をも意味すると受け取ったのかもしれない〉  ◯『吾仏乃記』滝沢解(曲亭馬琴)記 天保十三年記事(八木書店・昭和62年刊)   (家説第四)p475   〝壬寅夏五、六月より、田舎源氏と云長編なる合巻の画冊子を絶版せらる。板元鶴屋喜右衛門を町奉行遠    山殿へ召よせて、吟味是あり。売徳を鞠問せられしに、一編に附金拾五両ばかりなるべし、と答まうし    しと云。其書い一編は二十頁を二冊にしたる者にて、三十一、二編あり。若其売徳を上納せば金三、四    百両なるべきに、作者柳亭種彦はこの年七月下旬病死したる故にや、只絶板せられしのみにて、今に至    るまで裁許なし。板元鶴屋は僥幸を得たり。種彦は実名を高屋彦四郎と云小十人の小普請なれば、始よ    り作者を召出されず。こゝをもて、田舎源氏の画工国貞もこの一件を免れたる也〟    〈町奉行としては、『田舎源氏』を絶版に処したものの、戯作者・種彦は御家人(町奉行の管轄外)の上に、既に死亡し     ているので、これ以上の追究は出来ないとしたのだろう。それで画工国貞と板元鶴屋も沙汰なしになったようだ〉  
 ◎参考
(柳亭種彦一件)   △『藤岡屋日記』第二巻 ②284(藤岡屋由蔵・天保十三年記事)   〝七月十九日 戯作者柳亭高谷(屋)種彦卒。称彦四郎、号薪翁(足薪)、赤坂浄土寺ニ葬。      辞世 散るものに極る秋の柳かな〟
   「柳亭種彦肖像」 国貞画 (早稲田大学・古典籍総合データベース・岩本活東子撰『戯作六家撰』)     △『きゝのまに/\』〔未刊随筆〕⑥145(喜多村信節記・天明元年~嘉永六年記事)   〝(六月始め)絵草紙屋ニ芝居役者并遊女絵悉く停止、人情本と云中本の作者為永春水入牢、柳亭種彦    【高屋彦四郎】は頭【永井五右衛門】より呼出し、其方ニ柳亭種彦と云者差置候由、右之者戯作致事不    宜、早々外へ遣し相止させ可申と云渡たりとかや、春水が作は元より柳亭が田舎源氏など皆絶板と成、    【板本横山町鶴やハ元より家業難渋ニテ、源氏の草さうしを思ひ付て、柳亭を頼み作らせしが、幸に中    りを得て本手多く入て、段々つゞき出し售りければ、やゝ生活を得し処、其板を失ひ忽没落せり、柳亭    も此本の作料に利有て、元の住所より遥かによき家を求て移住、此節は大病後ニて、此事有て弥以わろ    く、遂に身まかれり】〟    〈地本問屋の名門鶴屋は、傾きかけていた家運がこの「田舎源氏」のヒットで持ち直しつつあった。板木没収はその矢     先の災難であった。「草双紙田舎源氏、鶴喜板本ニて種彦作、国貞画ニて大評判ニて、三十八篇迄出しが、此度絶板     ニなる也、正本仕立も同く絶板也、右絶板故ニ鶴屋喜右衛門ハ潰れる也」(「正本仕立」やはり種彦作・国貞画の合     巻『正本製』)これは藤岡屋由蔵の記事である。(『藤岡屋日記』第二巻②419(藤岡屋由蔵・天保十五年(1844)記)     本HP「浮世絵辞典」鶴屋喜右衛門の項参照)〉     △「偐紫田舎源氏と水揚帳」(宮武外骨著『筆禍史』p139)   〝柳亭種彦著なり、『戯曲小説通志』に曰く     田舎源氏は頗る傑作として当時に持囃されたり、此書たるや、源氏物語を根拠として時代を近古に取     り、文詞の優麗、語句の精妙は云ふに及ばず、数十婦女の容貌気質を写出して、各種各様、姿を換へ     態を異にし、筆々変転、絶えて類似の痕跡だに露はさゞるが如き、実に草双紙中の覇王たり(中略)     然れども種彦が禍を買ひしも、亦此田舎源氏に在り、天保十三年閣老水野忠邦の弊政を釐革し、風紀     を匡正するや、卑猥の稗史小説を挙げて悉く絶版を命ぜしが、此際人あり上告して云く、種彦幕府の     禄を食み徒に無用の文筆を弄し、其著はす所の田舎源氏は、托して以て殿中の陰事を訐きたるものな     りと、是に於て種彦亦吏の糾訊する所となれり、然れども組頭の弁疏頗る理ありしかば、事暫く解く     ることを得たり、此より種彦禍の其身に及ばんことを憂ひ、恐懼の余り終に病を発し、同年七月十八     日を以て歿す、享年六十歳。    又『史海』には、柳亭種彦が其著『水揚帳』といへる春画本のために、糾問を受けんとせし事ありし旨    を記せり、又種彦は病死に非ずして自殺なりとの説あり、大槻翁の談に曰く      柳亭種彦自殺説      柳亭種彦は本名高屋彦四郎といふ旗本の士であつたが、最初田舎源氏のために、高屋彦四郎名義宛の     差紙(呼出状)が来たので、奉行所へ出頭すると、奉行遠山が「其方の宅に柳亭種彦といふ戯作者が     居るそうであるが、近年如何はしい作本をいたして不都合であるから、其方より以後はさやうの戯作     相成らぬやう申聞けよ」と達せられた、役人の方では、彦四郎と種彦とは同人であることを知つて居     ながらの訓戒であつたのだ、そこで当日種彦は、唯々恐縮低頭で引下つたが、さて其後『水揚帳』と     いふ春画本も、種彦の作なりと告げる者があつたので、奉行所から再び差紙が来た、すると種彦大き     に愕いて、今度は迚も逭れられまいが、何とか方策はあるまいかと心配の極、兎も角もとて、病気届     をして出頭の延期を願つた、ところが「病気の由なれどもたつて出頭これあるべし」と重ねての差紙     が来たので、種彦は其夜終に自殺をして、昨夜病死いたし候といふ死亡届をなさしめたのであるそう     な、しかし、種彦の門人梅彦などは此説を非認して居たが、某々等は自殺を事実として居た云々       〔頭注〕淫書研究家の著作    柳亭種彦は淫書研究家たりしなり『春画好色本目録』といへる元禄前刊行の絵入本解題の著あり、また    『水揚帳』のみならず『春色入船帳』外数種の淫本をも著作して秘密に出版せしめたりといふ              源氏絵の大流行    『田舎源氏』は徳川大奥の状態を写せしものなりとて、満都の歓迎を受け其売行も非常なりしかば、当    時その『田舎源氏』によれる源氏絵といふ錦絵大に流行せり              田舎源氏の版元    天保十三年寅六月、合巻絵草紙田舎源氏の板元鶴屋喜右衛門を町奉行所へ召出され、田舎源氏作者種彦    へ作料何程宛遣し候哉を吟味与力を以御尋有之、其後右田舎源氏の板残らず差出すべしと被仰付候、鶴    屋は近来渡世向弥不如意に相成候故、田舎源氏卅九編迄の板は金主三ヶ所へ質入致置候間、辛くして請    出し則ち町奉行所へ差出候処、先づ上置候様被仰渡て、裁許落着は未だ不有之候得ども、是又絶板なる    べしと云(著作堂雑記)〟      〈『偐紫田舎源氏』の画工はすべて歌川国貞。『水揚帳』は婦喜用又平(国貞)画で天保七年刊。『春色入船帳』は九     尻亭佐寝彦(種彦)篇・一妙開程よし(国芳)画で天保八年刊〉
   『偐紫田舎源氏』 柳亭種彦作・歌川国貞画 (早稲田大学図書館「古典籍総合データベース」)    ◎参考(『江戸繁盛記』処分)      筆禍『江戸繁昌記』寺門静軒著       処分内容 発禁            ◎作者  寺門静軒 仕官御構(再仕官禁止)            ◎板元  丁子屋平兵衛 所払い              売弘所 雁金屋 過料十貫文 売上金没収              板木師 過料五貫文 彫刻料没収       処分理由 風俗紊乱     △『著作堂雑記』260/275 天保十三年八月二十三日   〝天保十三年寅年八月廿三日、江戸繁昌記一件落着、作者静軒は武家奉公御構、丁子屋平兵衛は所払にて    家財は妻子に被下、右繁昌記売扱ひ候雁金屋は過料十貫文、右之書を彫刻致候板木師等は過料五貫文、    右之彫刻料を不残被召上、是にて一件落着也、丁子屋平兵衛は同月高砂町の貸家へ移る、小伝馬町三丁    目の本宅は六歳の男子平吉を主人にして、手代等是に従ふと云〟    〈寺門静軒はこれで仕官出来なくなってしまった。馬琴の寺門静軒評は〝『江戸繁昌記』の事被仰越、承知仕候。四編     も、旧冬出候を求候て見候。かりたくの編ハ、春画本ニ彷彿たるものニ御座候。いかに銭のほしけれバとて、あまり     の事の様ニ存候。乍然、文章ハいよ/\奇妙ニ御座候〟と、吉原の借宅に関する内容については酷評、文章の方はい     ささか評価していたようだ。(天保七年二月六日付、第四巻・書翰番号-42)〉     △『馬琴日記』第四巻 ④319 天保十三年八月廿七日記事   〝丁子屋平兵衛、江戸繁昌記一件、去る二十三日に落着致、作者静軒は武家奉公御構ひ、平兵衛は所払、    雁金屋は過料十貫文、右の本売得金御取上げ、右の書を彫候板木師は過料、又、右の彫賃御取上げの由    也〟     △『藤岡屋日記』第二巻 ②291(藤岡屋由蔵・天保十三年記)   〝十月十六日  寺門五郎左衛門 号静軒。    一 江戸繁昌記作者、板本小伝馬町丁子屋平兵衛御咎メ、所構ニ而、大伝馬町二丁目ぇ引越ス。    一 田舎源氏作(者脱)柳亭種彦・小説(以下ママ)田舎源氏作者為永春水・南仙笑杣人二世人情本作者、      右三人当時之人情を穿、風俗ニ拘候間、以来右様之戯作可為停止、叱り、板木取上ゲ焼捨也〟    ☆ 天保十三年<七月~十一月>      筆禍「信州川中嶋大合戦」(五枚続・一猛斎芳虎画)       内容 ◎板元 万屋十兵衛・上総屋常次郎・三河屋鉄五郎 詫び証文          ◎画工 芳虎 詫び証文          (絵双紙改掛(アラタメカカリ)名主の裁量による処罰)       理由 五枚続を売買したこと     ◯『大日本近世史料』「市中取締類集」二十一「書物錦絵之部」p214    (板元・万屋、上総屋、販売元・三河屋鉄五郎、絵師・芳虎の絵草紙掛名主宛請証文)    〝一 川中嶋合戦大錦絵三枚続 山下町 茂兵衛店 板元 万屋 十兵衛       画師(歌川)芳虎     一 右同断二枚続            通四町目 専吉店 板元 上総屋常次郎     右錦絵、下絵を以当七月中改印申請、摺立売出し仕候処、絵双紙屋見世にて五枚続ニ致し売買仕候ニ     付、右始末御調ニ御座候、此儀、右川中嶋合戦錦絵之義は、元大工町三河屋鉄五郎より被相頼、十兵     衞・常次郎両人は、板元名前ニ願候迄ニ有之、芳虎儀も御調御座候処、是又鉄五郎より相頼候ニ無相     違旨相訳(ママ)候得共、三枚続・二枚続両人名前ニて改印申請、五枚続ニ仕立紛敷売捌方仕候段御察斗     受、可申立様無御座奉恐入候、以来右体紛敷取計方仕間敷旨、且又、前書川中鴫合戦絵五枚続ニ不相     成様、別々ニ売捌可申旨被仰聞、難有奉畏候、為後日仍如件                         山下町 茂兵衛店 板元 万屋十兵衛                                  家主 茂兵衛                        通四町目 忠兵衛  板元 上総屋常次郎                                  家主 忠兵衛                        元大工町 十兵衛店 三河屋鉄五郎                                  家主 十兵衛                         具足町 亀五郎店 亀次郎悴 芳虎事                                   画師 辰五郎                                   家主 亀五郎〟    〈この文書は嘉永二年五月の三枚続錦絵「仙台萩」一件に関する文書の中にあるもの。年次日付はないが、以下の点か     ら、天保十三年のものであることが分かる。国会図書館所蔵の一猛斎芳虎画に「信州川中嶋大合戦」という五枚続が     ある。(下出画像参照)それを見ると、三図に万屋の板元印、二図に上総屋の板元印がある。画題と板元の一致から、     この証文の言う「川中嶋合戦」が国会図書館蔵の「信州川中嶋大合戦」と同じ物であることが分かる。改(アラタメ)印を     みると「極」の単印、この形式は天保十三年までで、翌十四年から名主の単印に移るから、この「川中嶋合戦」は天     保十三年以前の出版と考えられる。また天保十三年の十一月晦日には、一枚絵は三枚続まで四枚以上は無用とする町     触が出ているから、それを考慮すると、五枚続ゆえに察斗(咎め)を受けたというこの「信州川中嶋大合戦」は、こ     の年の出版と見てよいであろう。同年七月、三河屋は万屋と上総屋を使って、それぞれ三枚続・二枚続の作品として、     下絵改に差し出し、出版許可を貰った。しかし実際には両方を一括して五枚続として売り捌いた。並べてみれば一目     瞭然、紛れもなく一つの作品である。その五枚続が問題視され、証文を書く羽目に陥った。ただよく分からないのは、     この三河屋、七月の時点でどうして三枚と二枚に分けて改を受けたのかという点である。2013/11/12追記〉
   「信州川中嶋大合戦」一猛斎芳虎画 万屋十兵衛・上総屋常郎板 (国立国会図書館デジタル化資料)    ☆ 天保十三年<十一月>      筆禍 錦絵  「子供遊踊尽」「子供遊長唄尽」「子供踊尽」「蚕家織子之絵」           「雅六芸の内」「忠臣蔵五段目之仕組絵」       処分内容「子供遊踊尽」「子供遊長唄尽」「子供踊尽」の子供絵は禿絵のみ発禁           「蚕家織子之絵」 発禁           「雅六芸の内」  発禁           「忠臣蔵五段目之仕組絵」発禁             〈絵師に対する処罰はなかったようだ〉       処分理由 禿絵は遊女絵の同様風俗に拘わる           「蚕家織子之絵」「雅六芸」は続き絵は四枚以上にわたる           「忠臣蔵五段目之仕組絵」は役者絵芝居絵と紛らわしい    ◯『大日本近世史料』「市中取締類集 十八」(書物錦絵之部 第十七件 p98)    (町年寄・館市右衛門提出の北町奉行宛伺書)   〝子供踊尽五枚    役者絵ニ紛敷旨を以、絵双紙掛品川町名主(竹口)庄右衛門差出し申候     全役者似顔ニハ無御座、此位之絵柄は差置可申哉、且ヶ様之絵組ハ壱枚立ニ見極候ても可然、彩色ハ     七八遍限可相改旨可申渡奉存候〟    (この伺いに対する町奉行所・市中取締掛与力の附札)
  〝書面館市右衛門伺之通被仰渡、可然哉ニ奉存候   市中取締掛り〟    〈禁制に役者絵に紛らわしいとして、絵双紙改掛(アラタメカカリ)の名主・竹口庄右衛門が町年寄の館市右衛門に「子供踊     尽」の錦絵を差し出した。これに対して、館は、これは全く役者似顔絵には当たらないし、これくらいの絵柄は咎め     るまでもない。また尽(ツクシ)となっているものの、一枚立(それぞれ一枚一枚が一つの作品という意味か)と見なし     得るので三枚以上の続絵とも違う、従って出版に支障はない、ただ彩色の方は七八遍摺を限りとする、これで出版許     可を与えてはどうかと伺いを立てたのである。町奉行は館の伺いをそのまま認めた。以下、同様の伺いと奉行所の判     断が続く〉     〝懸り名主鈴木町(和田)源七より差出申候     子供踊尽 五枚     同長唄尽 四枚      此類壱枚立ニ見極候ても可然、但言葉書入念相改候様、遍数七八遍限り仕候ハゝ、絵柄ハ差置可申哉〟    〈和田源七からは「子供踊尽」の他に「子供長唄尽」なるものも差し出された。館は前出同様、これらは一枚立と見な     して差し支えない旨を以て許可を求めた。但し画中の言葉書きを入念に改めるよう注文を付けている〉     〝懸り名主鈴木町源七より差出申候     子供踊尽 拾枚      内、禿絵ハ差止メ、其外ハ壱枚立ニ見極候儀可然、尤彩色ハ、何れも七八篇限り可相改旨、可申渡      奉存候     蚕家織子之絵 拾枚      是ハ全十枚続ニ付、三枚以上ノ廉ニ差止申候     雅六芸の内 壱枚      是ハ六枚続ニ而、商ひ候ハゝ右同断〟      〈以上のやりとりがなされたあと、天保十三年十一月晦日付で、以下のような裁断が、町年寄・館市右衛門を通して、     絵双紙掛名主に下された。これらは館の上申内容を奉行所側がすべてそのまま受け入れたかたちである〉      〝子供遊踊尽  五枚     子供遊長唄尽 四枚     子供踊尽   拾枚     内、禿絵ハ差止    右品ハ、板木等継セ不相見、壱枚立ニ見極候も可然哉     但し、芝居ニて興行致居候事を、同時ニ右子供絵差出候類有之候ハゝ差止置、下絵ニて可相伺候    〈子供絵でも「禿(カムロ)絵」は発売禁止。四、五、十枚とあるが、これは続き物ではなく、一枚絵仕立てと見なしうる     ので咎めるまでもないとした。但し芝居を写したものは禁止、下絵の段階で伺いを立てるべしとする〉       蚕家織子之図 拾枚    右ハ、一品之次第ニ続キものニ付、三枚以上之廉見極可然候    〈これは続き物であり、四枚以上は問題ありとする。この裁断のあった十一月晦日、続き絵は三枚までとする町触れが     同時に通達された。本HP「浮世絵事典」「浮世絵に関する御触書」の項参照〉      雅六芸之内  壱枚    是ハ、前ヶ條之格を以見極可然候    〈これも続き物と見なされた。だが壱枚の意味がよく分からない〉      忠臣蔵五段目之仕組絵 壱枚    右ハ、役者・狂言絵と紛鋪候間、差止可申候〟    〈これは役者絵・芝居絵と紛らわしいとして発売禁止。同年六月、役者似顔と芝居趣向の絵を禁じる町触れが出てい     た〉     〈なお上出作品の絵師について、岩切友里子氏は、同名で複数の版元から出された「子供遊踊尽」を除いて、次のように    特定している。    「子供遊長唄尽」国芳画・若狭屋与市版。七図確認の由。    「子供游踊尽」 英泉画・和泉屋市兵衛版。八図確認とある。禿絵は禁止されたはずだが「羽根の禿」という作品があ            る由。    「蚕家織子之図」国芳画・佐野屋喜兵衛板。「第一」から「第十」までの通し番号のある作例と「松・竹・梅」「天・            地・人」に直した作例とがある由。    「雅六芸之内」 国貞画・上州屋金蔵版。(以上「天保改革と浮世絵」(『浮世絵芸術』143・2002年刊)    このうち「蚕家織子之図」のこの変更は、同年十二月付の町触れを受けてのものと考えられる。例えば「十哲」といっ    たような作品の場合、いったん三枚続(これに「上・中・下」「天・地・人」などと彫り付ける)にして、これを三度    に分け、最後の一枚には「一枚絵」と彫り付けて提出するよう指示があった。    これら子供絵について言えば、『藤岡屋日記』翌年天保十四年の五月記事に「子供踊錦絵、国貞画、子供踊りの錦絵、    絶板ニ相成、其外役者名前紋付候品、同断也」とあるから、その後も禁制品が出回っていたようだ〉      以上、天保十三年の「筆禍」終了(2013/09/27)
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