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浮世絵の筆禍史(11) 安政元年(嘉永七)~慶応三年(1854-1867)筆禍史メニュー
   ※ 者=は 与=と 江=え 而=て メ=貫 〆=締(〆そのまま使うこともあり) 而已=のみ    ☆ 安政元年(嘉永七年・1854)<九月>      筆禍「夢の判じ物」判じ物 画工未詳       処分内容 ◎板元    啓吉 手鎖 江戸構(追放)            ◎啓吉の親分 大和屋 過料五貫文            ◎板木屋 過料五貫文            ◎画工  過料五貫文       処分理由 浮説流布    ◯『藤岡屋日記』第六巻 p312(藤岡屋由蔵・嘉永七年九月記事)   〝九月廿七日配り、翌廿八日取上げ    夢の判事物  板元  両国元町 啓吉    一 糞取、小判を持居て、侍平伏之体     是は武蔵坊で駒がねへとかと言事、侍金にあやまる    一 御用金、隠居坊主、町人体之者、弓張を持、五六人     是は高利かしの座頭のよし    一 御固め人数、けし坊主也、夢の上より異人目鏡にて見る     是は疱瘡神のよし    一 船の帆を見て仰天の体、後ろに太閤、加藤     去る(ママ)昔は朝鮮征伐、今は異船におそれる    一 藤八拳、侍と唐人     是は日本人まけ    一 柳川一蝶斎手妻、箱の中より異形之者出る     是は長崎にて異形の怪礼(ママ)    一 八代目団十郎、腹切之処。     是は日本国中にて壱人之大達者がなくなる    北御懸りにて、十月七日初呼出、異説申触に付、啓吉手鎖被仰付、十五日目にて、同二十一日落着也           江戸構    両国元町  大和屋同居 啓吉      五貫文過料  同所、啓吉親分    大和屋       彫代三貫文      五貫文過料             板木屋      五貫文過料             画かき〟    〈「夢の判事物」は無断出版であろう。罰金五貫文(当時の銭相場は1両=6248文)の絵師は誰であろうか〉    ☆ 安政元年(嘉永七年・1854)<十月>      筆禍「亜墨利加落葉籠」版本 三木光斎画       処分内容 ◎板元    松永辰之助 版本・板木没収 押込(外出禁止)            ◎本売捌き人 佐吉 手鎖 江戸構(江戸十里四方追放)            ◎本屋    久兵衛・吉兵衛 過料五貫文       処分理由 無断出版    ◯『藤岡屋日記』第六巻 p316(藤岡屋由蔵・嘉永七年十月記事)   〝十月三日 亜墨利加落葉籠一件落着     押込    本郷春木町三丁目 御中間 板元 松永辰之助     江戸構   元飯田町     本売捌人      佐吉     五貫文過料 浅草平右衛門町         本屋久兵衛     五貫文過料 豊島町三丁目            吉兵衛    右本売出し前に、釜藤右見本を紐庄へ持行候処、紐庄懸り名主へ差込候に付、浅草天王橋際久兵衛見世    にて、名主是を見付、其夜六月十三日夜、浜弥兵衛其外にて、平右衛門町久兵衛宅へ踏込、本と取上る    也。     同十五日に松永板を上る也。同晦日より松永へ宅番附、佐吉手鎖也。     百二十二日にて、十月三日落着也〟    〈「亜墨利加落葉籠」とは三木光斎画(歌川芳盛)『異国落葉籠』のことと思われる。ペリーの肖像や黒船図などを収録。     板元の松永辰之助は「御仲間」とあるから武家奉公人か。凡例に「隠学堂誌」見返に「美学堂梓」とある。これらは松     永が一時的に付けた仮名であろうか。松永や佐吉等は絵双紙改掛に見本を提出する前に製品化して既に売りに出してい     たようである。松永は宅番(見張り役)がついて押込。本売捌人(販路担当?)の佐吉は江戸追放、店売りしていた本     屋久兵衛と吉兵衛は罰金5000文。釜藤(釜屋藤吉)は板元。紐庄は嘉永三年「琉球人行列附」の重板(無断複製)を出     している。(本HP「浮世絵の筆禍史(9)」)参照。浜弥兵衛は絵双紙掛の名主〉    ☆ 安政二年(1855)<三月>      筆禍「坂東しうか」死絵 画工未詳       処分内容 ◎板元 名前未詳 板木削除       処分理由 未詳〈無断出版か〉    ◯『藤岡屋日記』第六巻 p447(藤岡屋由蔵・安政二年三月記事)   〝安政二乙卯年三月六日 板東秀佳卒、四十三 増上寺中 月界院葬 秀誉実山信士 辞世    右は二月晦日迄、新狂言稽古致し居候処、鼻の左りへ疔出来、痛み候故、朔日より引込候処、養生不叶、    今六日朝五ッ時病死致し候、三月九日朝五ッ時葬送出候也、猿若町より新シ橋渡り、柳原土手通り、須    田町二丁目、三絃や横丁ぇ出る也、是は二月頭(ママ)五郎は志うかと親類故通る也、夫より日本橋大通り    を増上寺大門より入る也。     大上々吉九百五拾両 猿若町壱丁目大和屋  若女形 板東志うか〟   〝右板東秀佳追善絵一件    三月七日より出板致し候処、追々仰山に出板致し、都合九十番出、板元十八軒也、右に付、絵双紙名主、    二十五日に手入有之、通り三丁目寿にて板を削也、此外にも十四五番出板致し候得共、是は見落としに    相成、構なし、中にて八代目鏡に向ひ居候処へ、志うか駕篭に乗り来候駕舁、鬼にて嵐音八也、是計大    当りにて、跡は残らずはづれ也〟    〈十八軒の板元が死絵を出版。板木を削除されたものとお咎めなしのものとがあった由。処分理由は、改印がないところ     をみると無断出版の廉であろうか〉
   「板東しうか・市川団十郎」死絵 三代目歌川豊国画(早稲田大学演劇博物館・浮世絵閲覧システム)    ☆ 安政二年(1855)<八月>      参考資料(市川団十郎一周忌追善供養の施餓鬼差し止め)    ◯『藤岡屋日記』第六巻 p568(藤岡屋由蔵・安政二年八月記事)   〝八月二日(八代目市川団十郎一周忌の追善供養の世話人、留守居書役・井田幾蔵(俳名亀成)、医師・    武内俊宅、船宿・佐倉屋三右衛門、逮捕される。米五合入の仏餉袋を三万五千枚配って施餓鬼を行う予    定であったが、差し止められる)   〝画師豊国も世話人ニ頼れ候ニ付、右袋百枚、赤坂絵双紙屋伊勢兼へ頼ミ遣し候処ニ、伊勢兼ニて、豊国    より頼れ候由之断書を、袋之裏へ書付、所々へ配り候ニ付、右両人とも懸り合ニて、御呼出しニ相成候〟    〈三代目豊国および絵双紙屋の伊勢兼、召喚された後どうなったものか、未詳。米五合入の仏餉袋を三万五千枚も配布す     るとは驚くべき量である。それにしても、絵双紙屋伊勢兼は、なぜ袋の裏に豊国より頼まれたと断り書きをしたのであ     ろうか。豊国の人気にあやかって捌こうというのであろうか〉    ☆ 安政二年(1855)<十一月~十二月>      筆禍 安政大地震に関する絵図・版本・錦絵 三百二十八点 画工未詳       処分内容 ◎板元 八十七板元 板木破毀 摺溜(在庫)没収                上州屋金蔵 (地本問屋世話役) 越後屋鉄次郎(問屋仮組)                山本屋平吉 (地本問屋世話役) 丸屋甚八  (地本問屋)                万屋吉兵衛 (地本問屋)    遠州屋彦兵衛(仮組問屋(ママ))                清水屋常次郎(仮組問屋)    湊屋小兵衛 (仮組問屋)                西村屋与八 (地本問屋) 以上の九板元は逮捕、吟味    ◯『【安政二乙卯十月二日】江戸大地震 下』(『藤岡屋日記』第十五巻所収)   ◇地震火事場所付の無断出版 ⑮611   〝十月二日地震出火ニ付、無改物売ニ致候一件    一 十月二日大地震之後、同四日大伝馬町壱丁目品川屋久助と申者、江戸絵図ぇ焼失致し候場所を色差    ニ致、百文ニ付六枚ニ卸売致候処、殊之外売れ、摺間ニ合不申候や、馬喰町三丁目両国屋庄吉と申者壱    枚半続キ、大地震并出火場所と認候品売出し候処、是又存外ニ売れ、摺間ニ不合程之事ニて、両人共壱    万枚程づゝ摺り候由、是より出火場細見記抔と申半紙本、又は種々色々出板仕候処、追々売口も宜敷候    間、大錦或ハ絵図・大津絵節、其外数枚売出致候ニ付、絵双紙御掛りより行事ぇ申来り、早々右板木・    摺溜共取上ゲ可申旨被申付候ニ付、銘々板元ぇ右之趣申入候処、此節此品御取上ゲ相成候上は、暮し方    差支、難儀仕候ニ付、一同ニて御慈悲願可仕と銘々申候ニ付、三鉄(ママ)丸詰十月晦日渡世相休、両人共    板元へ参り、一同明十一月朔日ニ四日市梅屋と申水茶屋迄、御入来被下候様、銘々申置候。      十一月朔日晴天、板元廿壱人打寄、其節当行事より嘆願書差出可申筈ニ取極メ                                  行事 蔦屋吉蔵                                     辻屋安兵衛      〈震災後二日にして早くも地震方角付(被災図)が出回ったが、それが大いに持てはやされた。大伝馬町の品川屋久     助が江戸絵図に焼失場所を色付けにした摺物を、百文に付六枚(一枚約16文)で卸し売りしたところ、摺りが間     に合わないくらい売れたという。続いて馬喰町の両国屋庄吉の摺物も大評判を呼び、これも一万枚ほども売れたと     いう。以後、出火細見記などの半紙本など様々な出版をみたが、そろって良い売れ行きであった。それで大判錦絵、     絵図、大津絵節にしたものなどが、板元から行事(蔦屋吉蔵・辻屋安兵衛)に持ち込まれた。行事を通じて絵草紙     掛から出版許可を貰おうというのである。ところが案に相違して、絵草紙掛の名主は板元たちに板木と摺り溜めて     おいた商品の没収を命じた。しかしそれでは暮らしが成り立たないとして、十一月一日、二十一名の板元たちが寄     り合い、歎願書を提出することになった。以下はその嘆願書〉        其文左之通り      口上書を以、奉願上候    一 板摺職之者共奉申上候、此度地震之後、私共渡世之儀、問屋様方ニて御仕事無之、必至と難渋仕候    ニ付、無拠、御改無之候板木彫刻仕候処、一同奉恐候、然ル処今般御取上ゲニ相成候義、少も難渋可申    上様無之候得共、何分当時職業取続難候間、暫時之間御宥免被下置候様ニ、御掛様ぇ御歎願被下、御憐    愍之御沙汰被下度、一同奉願上候、以上。      卯十一月朔日                      板木摺職之者                                  願人一同連印      地本問屋 御行事衆中様      〈以上は摺師からの歎願。震災後仕事が無いので、生活のためやむを得ず改印のない品物に手を出したのだが、これ     は大変申し訳なく恐縮している。しかし今回取り上げについては、仕事の無いことでもあるし、大目に見て欲しい     という嘆願である〉      十一月二日、前書面行事ぇ可差出候処、一同及相談ニ候得共、□(ママ)合不仕候ニ付、書面差出不申候、    板木売残り相添、蔦吉ぇ同日差出申候ニ付、其時板木番数六拾九番也。     同三日より新物夥敷、諸々より売出し候ニ付、小売ニても改印有之候品ハ仕舞置、改無キ品計釣置、    余り増長致し候ニ付、当行事より同九日、行事蔦屋吉蔵、金次郎糴丸鉄、人形町・通町・浅草・下谷・    神田・両国辺絵草紙小売や見世、相廻ル。合行事辻屋安兵衛・糴山田屋覚蔵両人ニて、京橋・芝・赤坂・    麹町・四ッ谷・都て山の手不残、絵草紙屋小売見世、相廻ル。     右は今日中ニ売ニ致間敷旨、連印を請取候様、御掛りより申達有之候ニ付、問屋壱人・糴壱人ニ付て    売々致候者より印形請取候書面、左之通り、尤半紙横綴、下題左之通り。      〈嘆願書は十一月二日、行事に出されたが、相談がまとまらなかったかして、結局行事は絵草紙掛の名主に提出しな     かった。没収になった六十九の板木と摺物は行事の蔦屋吉蔵方に集められた。しかし翌三日から新物が大量に売り     に出された。しかも、小売見世の方は、改印のあるものは奥にしまって、無許可の品ばかり店先に釣るすといった     ありさまで、いっこう憚る様子もない。そして同月九日、ついに売買禁止の通達が出されので、行事と糴売りの二     人一組が二手に分かれ、市中の絵草紙小売見世すべてを廻って、次のような連判状を作成した〉          地震出火無改物之儀ニ付、一同連印    一 此節地震出火等之絵図、又は大錦ニ種々戯候品数多売々致候趣ニ付、右之類釣売先ニ今日中早々取    上ゲ差出し可申旨、北御廻り方より被仰渡候間、私共買置候分、一切残り分無御座、且以後決て釣売ハ    勿論、買入申間敷候、若向後壱枚たりとも取扱候儀有之候ハゞ、何様御申立ニ相成候共、一言之義無御    座候、依之為念一同印形仕置候、以上      卯十一月十日                      絵草紙屋                                  売々致候者 連印      右之通り、一同印形相調候、以上                                  夕方立還  蔦                                  五ッ時同断 辻      〈十一月十日付、絵草紙屋(小売見世)の誓約証文。在庫はすべて差し出した。今後は改印のない品物は一切取り扱     わないという内容である〉       十一月十五日、古組・仮組之者相招候廻文、左之通り。    一 以廻状を申上候。然ば御掛り名主衆より、無改之絵類之儀ニ付、各々方一同相招、急度御談可申旨    聞有之候間、依之明十六日正五時、通り三、寿と申水茶屋迄、無延引、自身御出可被成候、不参ニては、    御用向差支候間、右御心得、印形御持参御出可被成候、此段御達申上候、以上。      卯十一月十五日                     地本問屋  行事      右之通り相達候、明十六日寿ニて、連印致候文面、左之通り。      〈十一月十五日、行事(蔦屋吉蔵・辻屋安兵衛)は、明十六日、通り三丁目の寿(水茶屋)に、印鑑を持参して集ま     るよう、古組・仮組、新旧の地本問屋に招集をかけた。そして次のような証文を作成して押印して誓約した〉        連印一札之事    一 今般地震出火ニ付、絵図或ハ半紙本・錦絵等、無改之品、数板隠彫致し、中ニは問屋名目之者も、    職人又は素人名前ニ致し、猥ニ彫立候趣御聞込ニ相成、以之外不取締之義ニ付、古組・仮組共一同申談、    前々より無改之品取扱申間敷候事は勿論ニ候処、若心得違之者、兼て被仰渡定法等相背候儀ニ御座候ハ    ゞ、其節衆(ママ)外は不及申、何様御調ニ相成候共、一言之義無御座候、依之為後証、一同印形致置候、    以上。      十一月十七日      〈これは板元(問屋)たちの証文。今度の大地震大火事に関して、改印のない絵図・半紙本・錦絵を、職人や素人名     義で非合法に出版した問屋もあったが、今後は一切しないとの誓約である〉          一 右最初十一月朔日御察斗之節ハ、六十九番之処売買致間敷、連印致候上ニて、五貫文之過料出し候    得ば相済事と天上をくゝり、追々出板致し二百六十四両ニ相成候ニ付、御懸り御廻り方立腹致され、五    人手分致され、手先之者五六人宛召連、神田辺・下谷辺・日本橋・芝辺・馬喰町・浅草辺ニて、絵草紙    や九人被召捕、茅場町大番屋へ腰縄ニて連行、爰ニ一夜差置也、手先三十人も参り居候由、頭分豆店之    外。      十二月四日八ッ時過          北御廻り方 高部次郎左衞門                               大八木四郎二郎                               神田孫一郎                               鈴木伝兵衛                               新島鉄蔵       〈十二月四日付、北町奉行所の見廻り同心の報告書。十一月朔日、奉行所から察斗(咎め)があって、六十九種の作     品は売買禁止になったが、五貫文の罰金で済むならと高をくくって、なお無届け出版を続けるものがいる。そして     その売り上げは264両にも達している様子。これに絵双紙掛の名主と見廻り同心が立腹、高部次郎左右衛門以下、     五人の同心で手分けをして摘発してまわり、絵双紙屋九人を逮捕して茅場町の番屋へ腰縄付で連行した〉           御召捕ニ相成候者、左之通り。     一 地本問屋世話役          上野元黒門町、家主 上州屋金蔵       高部様池端名主岡部氏迄、同人呼。     一 問屋仮組             池之端仲町、家主 越後屋鉄次郎       高部様右同断       前書金蔵儀、高部様御糺之節、私義当節暮し方難渋致し候ニ付、無拠、売々仕候趣申上候処、高部      様申候ハ、其方兼て被仰渡も乍相心得、問屋世話役も致て乍居、右様不埒事申候は、甚其心得違と      叱られ、初筆ニ相成候外八人之者ハ、一同奉恐入候と御答申上候故、子細無之候。      〈上州屋金藏と越後屋鉄次郎は池之端の名主岡部宅に召喚され、同心・高部の取り調べを受けた。その際、上州屋金     藏は、生活に困ってやむをえず売買に手を出してしまったと弁明したが、これが高部の不興を買って逆に叱責され     た。曰くその方通達も承知し、しかも地本問屋の世話役まで務めながら、そんなことを云うとは、心得違いも甚だ     しいと。他の八人はひたすら恐縮の態度を示したのでトラブルはなかった〉            一 地本問屋世話役          堀江六軒町、家主  山本屋平吉       神田様・鈴木様御両人ニて、当人を葺屋町自身番ぇ呼。     一 地本問屋             芝三島町、武兵衛店 丸屋甚八       右町名主益田弥兵衛方ニて、大八木様。     一 右同断              芝神明町、清助店 万屋吉兵衛       同所御同人様。     一 仮組問屋             通三丁目、文右衛門店 遠州屋彦兵衛       大番屋ニて、新島様。     一 右同断              神田鍛冶町壱丁目 清水屋常次郎       名主小藤氏ニて、高部様。     一 右同断              浅草並木町、弥七店 湊屋小兵衛       浅草広小路自身番ニて、神田様・鈴木様。     一 地本問屋             馬喰町弐丁目、庄右衛門店 西村屋与八       馬喰町一丁目自身番ニて、右御両人様。    右之者、此度地震出火之後、種々新板無改之品々出来仕、余り増長致候ニ付、絵草紙掛名主、并地本問    屋行事蔦屋吉蔵・辻屋安兵衛両家ニて、度々制候得共、内々売々致候ニ付、右品御買様ニ相成、即日前    書九人之者御召捕ニ相成、但十二月四日斗(ママ)事也、一通り茅場町大番屋ニて御立合御調ニ相成、同夜    所々近辺之自身番ぇ御預ケニ相成、同六日御掛名主・支配町々名主、御廻り方ぇ歎願書差上候、其文言、    左之通り。        〈山本屋平吉・丸屋甚八・万屋吉兵衛・遠州屋彦兵衛・清水屋常次郎・湊屋小兵衛・西村屋与八、名だたる地本問屋     の顔ぶれである。彼等の逮捕が十二月四日。それが六日には早くも以下のような同心宛の嘆願書が提出される。今     度は問屋のみならずそこの町名主および絵草紙担当の名主連名のものであった〉                                       名主より      御廻り方ぇ歎願差上候書面    今般地震并出火ニ付、品々心付致、無改之絵類彫刻致、売々候ニ付、私共取調、板木取上ゲ取計方御内    慮奉伺候分、是迄弐百六十四番有之、右様無改之品、地本問屋并仮組之者共猥ニ売買致し、増長致候間、    行事共ぇ厳敷取締方申談、行事共より仲ヶ間一同・小売者等迄、夫々取締方申談、連判証文有之、以後    仲ヶ間一同、右躰不取締之義無之趣、行事共より申立候、右証文之写相添、私共より御聞ニ入置候処、    今般御買様之上、上野元黒門町家主金蔵、八人之者共、御召捕ニ相成、無改之絵類取扱候始末、御尋請    ケ、以私共ニも深恐入、篤と取調候処、金蔵外八人、当人之義は兼て行事共より厳重ニ申談も有之、既    ニ証文調印致置候義ニ付、堅相慎、無改之絵類は此節人々買進じ候品故、銘々召仕之者共心得違仕、絵    草紙糴売之者共より買取、主人共ぇ内々見世ニて隠売致候を、御買様ニ相成候義ニて、実に主人共不存    義ニ有之候得共、右様召仕之者共、見世ニて隠売仕候を不心付罷在候段、不取締之故之儀、此上吟味ニ    相成候ては、当人は勿論、行事共ニおゐても重々奉恐入候、依之問屋仮組一同之者共打寄、跡々取締方    之儀猶厚申合、聢と規定取極メ、金蔵外八人之者共身分、別紙通御慈悲奉願候、右様跡々迄取締相立候    義ニ付、何卒此度之儀御憐愍之御沙汰被成下置候様、私共も此段奉願上候、以上。                                 上野黒門町 家主 金蔵                                       外八人                                 右支配町々 名主                                  絵草紙懸り名主共      卯十二月六日      〈震災関係の無届け出版物は二百六十四板にも及ぶ。これらを取り扱わない旨の証文まで差し出していながら、売買     したのは、使用人の中に不届きなものがいて、主人に内緒で隠し売りしていたからである。これに気付かなかった     のは監督不行き届きで恐れ入るほかないが、今後は地本問屋・仮組ともしっかりとした取り決めを行うから、今回     のことは寛大な取り計らいを頂きたい〉        嘆願書    一 地本草紙問屋両組一同奉申上候、私共仲間之者共、錦絵其外新板物彫刻渡世仕来り、改懸り名主中    之改印無之、不正之品、猥ニ彫立、隠売致候義、堅致間敷処、今般地震出火等之絵図・錦絵、無改之品    数多取拵、売々致間敷旨申談有之候間、一同仲間者共行事共方ぇ連印差出、其段申上置候処、上野元黒    門町家主金蔵外八人之者共、右売々致候ニ付、御買様之上、一同当月四日御召捕ニ相成、驚入、奉恐入    候、右は兼て一同連判仕置候間、金蔵外八人之者共義は、一切取扱申間敷候、地震絵類ハ此節人々買進    じ候品故、銘々召仕之者共心得違仕、絵草紙糴売之者より買取、主人共ぇ内々見世ニて隠売仕候ヲ、不    心付罷在、不取締故之儀、此上吟味等ニ相成候ては、当人は勿論、行事共一同重々奉恐入候ニ付、何卒    格別御慈悲を以、金蔵外八人之者身分、御憐愍之御沙汰一同奉願上候、以上。                                  地本問屋                                  同 仮組     前書金蔵外八人之者共、御召捕ニ相成、私共重々奉入候間、右様銘々取締も相立、猶精々私共も心付    可之候間、何卒御慈悲之御沙汰、偏ニ奉願上候。                                    石町家主 連印      卯十二月六日                                  五人組  連印    〈これは家主および五人組まで動員した嘆願書〉       右之通歎願書差上、絵草紙御懸り鈴木市左衞門様・馬込勘解由様外、名主様方格別之御骨折ニて、歎    願書差上候処、御廻り方御一存ニも難相成事と相見へ、北御番所様ぇ御伺ニ相成候処、数板出来致候ニ    付、此分ニは難差置候得共、地本絵双紙懸り名主其外、右支配町々名主共、并右町役人、地本問屋仮組    問屋一同相揃、以来取締方相立候趣、歎願致候ニ付、此度之儀は用捨致候間、小売者共迄行届候様可致    候条被仰付、一同大番屋より同日夜六ッ半時ニ、当人共引取申候、誠ニ以、前代未聞之事、江戸中絵草    紙ニ相携候者、壱人も心配不致者無之、別て当人共家内ニては、神仏を祈、親類打寄、誠以気之毒千万    之次第なり。      其節、落首       こわひ事冥途之旅の大番屋 売つたお方はあれごろうじろ       数多喰ふ鯰ニ九人当られる 板元仮宅へ遊びニ行けれバ       泥水へおよぎに行か鯰連 召捕ニ相成けれバ       味じの能き鯰が小手へからミつゝ 時刻も四ッニ入れるかや場町      〈この嘆願は同心の一存では決し兼ねるとして、町奉行の判断を仰ぐことになった。江戸中の絵草紙関係者が神仏に     祈り親類一同不安げに寄り集まって北町奉行の裁定を待った。このまま放置しておくことが出来ないものもあるが、     今後取り締まりを強化するということなので、今回のことは用捨する。問屋のみならずその町名主そして絵双紙掛     の名主まで動員した大規模な嘆願であった。これが功を奏したか、地本問屋九人の釈放が認められたのである〉                絵草紙屋渡世之者一同、無改之品売々致間敷旨、連印、右書面、左之通り    地震出火等之儀を、絵図或ハ錦絵ニ認メ、無改之品数多彫立、売々致候ニ付、御察斗有之、板木・摺溜    御取ゲ、右錦絵売出御差留之趣、問屋行事より、私共壱人別厳敷御談御座候処、委細承知仕、以来釣し    売は勿論、聊取扱申間敷旨、連判差出置候処、其後不得止事、隠売致候者御座候ニ付、既ニ当月四日北    御廻り方ぇ御買様ニ相成、上野元黒門町上州屋金蔵始メ、外八人御召捕之上、御吟味ニも相成之処、仲    間両組其外町役人迄、一同驚入、惣連判を以、種々御歎願奉願上候、以来右渡世之者、不取締之廉、聢    と相願候趣意取極メ申立候ハヾ、御慈悲之御沙汰にも可相成哉之旨、被仰渡候ニ付、向後地震出火等ニ    不拘、都て無改之品売買致し候者有之候ハヾ、親疎之無差別、銘々共吟味、穿鑿致候様仕候ハヾ、此上    不取締之儀有之間敷旨申上、御懸り名主中御執成を以、御召捕之者御免ニ相成候、然ル処、今以心得違    之者有之、右品仕舞置、尋参り候買人ニ寄、内々売遣し候者も有之哉と風聞御座候、以の外之儀ニ付、    猶亦今日私共一同ぇ御念ヲ入、御談御座候趣、篤と承知仕、私共隠売毛頭不仕、且近辺同渡世之者、若    内々取扱候義及聞候ハヾ、早速問屋行事ぇ申立候様可仕候、万一此上私共壱枚たりとも取扱候義相知、    何様御申立ニ相成候共、一言之義無御座候、依之再応連判差出候処、仍て如件。      卯十二月十日                       石町 絵草紙渡世     右之通書付、行事両人ニて為読聞、連印致し候、以上     其節壱人分茶代百文づゝ、凡百四十五人余参り候。      中ニは不参之者有之候、風聞也。                                   地本問屋行事 和泉屋市兵衛                                          蔦屋吉蔵    〈十二月十日、絵双紙屋が改印のない品物を売買しない旨の誓約書を提出した。これは地本問屋の行事が絵双紙屋一     同を集めて読み聞かせ、その場で押印させたもの。約百四十五人もの絵双紙屋が印を連ねたようだ〉        糴売渡世之者、無改之品売々致し候ニ付、一同連印書面、左之通り。    此節地震出火ニ付、絵図又ハ大錦之類、無改之品数板出来、御掛り衆より御察斗有之、板木・摺溜御取    上ゲ、御調中、猶亦隠売致候者、当月四日北御廻り方御様シ買上之上、既ニ九人御召捕ニ相成候処、御    仲間一同、町役人衆迄、惣連印を以御歎願ニ付、御掛り名主衆御執成被下候処、右渡世兼て被仰渡ニ候、    近頃不取締ニ相成候義、聢と相改候廉際立、此後不取締之儀無之様、行事衆は勿論、御仲間一同其外者    迄、正路ニ渡世相守候ハヾ、御宥免可被成下、御慈悲之御沙汰ニ付、依之惣連判署面差上、御聞済ニ相    成候処、今以買人寄、隠売致し候者御座候風聞御座候由、以の外之義ニて、再応御仲間并ニ小売先一同    連判を取、其筋ぇ御差出ニ相成候段、私共義は糴渡世之義、別て心懸ケ、万一無改之品被相頼候共、一    切取次売不仕、若内々ニて彫刻致候者有之候ハヾ、其板元、御行事へ無用捨早速申立候様、無油断可仕、    若等閑ニ致置候哉、取扱候義御聞取、御糺ヲ請ケ候節は、糴渡世御差構は勿論、何様御取計被成候共、    一言之義無御座候、依之為後日連印一札差上置候、仍如件。      十一月十日                        絵草紙糴売渡世 一同連印      〈これは糴(セリ)売りすなわち行商人一同の連印入りの証文である。内容は絵双紙屋と同じ〉           卯十一月二日より絵草紙問屋行事ぇ、無改之板木・摺溜取上ゲ候、当十二月十三日迄      一 惣番数            三百廿八番        絵図・半紙本・大錦其外 板元八拾七人      〈十一月一日、改印のない大震災関係の作品の板木六十九点とその摺溜が没収処分になった。以来約一ヶ月、無届け     出版は跡を絶たず、生活困窮のためお慈悲をもって大目にみて欲しいと嘆願しながら、一方で改印のない絵図・半     紙本・大判錦絵が相変わらず出回ったのである。十二月十三日迄に板木と摺留が没収になった数は三百二十八点、     板元は八十七名に及んだ〉         卯十二月十三日、通三丁目寿と申水茶屋ニて、絵草紙御掛り名主馬込勘ヶ由様・益田弥兵衛様御両人、     并地本問屋行事立合、板元当人、家主同道ニて、被参候。    一 私共義、今般地震出火ニ付、種々思附致、無改之絵類彫刻、売捌候趣、入御聴、板木・摺溜共御取    上ゲ始末御糺受、奉恐入候、此節私共地震ニ付、家作震潰、又は及大破、家族共怪我致し候者有之、難    渋仕候折柄ニ付、地震之絵類彫刻、売捌キ候ハヾ、差向利潤ニも可相成と心得違仕、不宜とハ存候得共、    各々方御改も不請、右絵類彫刻、売捌候儀、相違無御座候、然共絵類之義ニ付てハ、兼て前々より被仰    渡も有之候処、右躰猥ニ彫刻致、売捌候段、無申披、重々不埒之至、奉恐入候処、此度之義は各方格別    之思召を以、御手切ニて、御聞済被成下、摺溜御取上ゲ、板木削去、以来右躰無改之品、急度取扱申間    敷旨被仰聞、奉畏候、為後日、仍て如件。      十二月      安政二卯年十二月十三日、十四日両日、寿ニて板木削去。      絵草紙懸り名主立合。     右削り候板木、凡四車も有之候、其内用立不申板木は打割、役ニ立板木ハ此時之行事へ取上ゲ、目出     度事済ニ相成候。      卯十二月十四日落着         押へても鯰の絵だけつかまらず       尻尾は絵懸り鹿島でハ頭を押へ       板元が名代を出す地震の絵       鯰之絵だけぬらくらと尻を出し       絵草紙屋鯰の味を今度知り       此頃の摺や鯰で飯を喰ひ       尻が出て鯰蛙とせりハしやれ〟      〈日本橋通三丁目の寿という水茶屋に絵草紙掛名主立ち合いのもと、車四台にも及んだという板木と商品は、それぞ     れ破毀・没収となった。これで十月二日の大地震に関する無断出版騒動の一件は取りあえず落着した。「板元が名     代を出す地震の絵」「絵草紙屋鯰の味を今度知り」「此頃の摺や鯰で飯を喰ひ」「尻が出て鯰蛙とせりハしやれ」     とはその折の落首。安政の大地震で江戸は壊滅的な被害を受けたが、板元・絵双紙屋・糴売り・彫り摺りの職人た     ちにとっては糊口を凌ぐ糧となったようである〉    ☆ 安政三年(1856)<六月>      筆禍『安政見聞誌』版本 画工 一登斎芳綱       処分内容 ◎板元  亀吉(絵双紙糴売) 所払            ◎画工  一登斎芳綱 画料(金1両)  没収 過料五貫文            ◎作者  一筆庵英寿 作料(金1両2分)没収 過料五貫文            ◎板行摺 要助 摺・仕立料(金2両3歩・銀3朱)没収 過料五貫文            ◎板木師 長次郎   彫代(金7両2分)没収 過料五貫文       処分理由 崩れた見附(江戸城門)を画いたこと    ◯『藤岡屋日記』第七巻 p199(藤岡屋由蔵・安政三年六月記事)   〝地震安政見聞誌出板一件      本板元             日本橋元大工町、忠次郎店 三河屋鉄五郎     右者、馬喰町山口藤兵衛も少々入銀致し、初九百部通り摺込、三月下旬ニ出来致し、四月八日より売    出し、跡二千通り摺込、手間取十五日ニ上り、諸方ぇ配り候処、大評判ニて、四月廿五日、懸り名主福    嶋右縁より手入有之、五月七日ニ板木取揃候て、茶屋寿迄持出し候様申付置候処ニ、本売れ口宜敷候ニ    付、日々摺込致し、中々七日迄取揃上ル事不能、日延願致、十五日ニ寿へ持出し、明十六日、北御番処    へ差出し候積り之処、懸り石塚来らず故、猶予致し居候処ぇ、御差紙到来致候、是ハ十五日、北御奉行    井戸対馬守御登城之処、殿中ニて右本之御咄し有之、本御覧有之候ニ付、御退出之後、懸り名主呼出し    御尋之上、十六日御差紙ニて、十七日初呼出し、吟味懸り島喜一郎。                      元大工町、由兵衛店       板元名前人               板行摺        要 助       画師            南伝馬町二丁目、長三郎店、芳綱事 清三郎       作者           八丁堀北島町、友七店、一筆庵英寿事 与五郎       板木師                小伝馬町上町、清三郎店 長次郎      一 但要助義、十七日手鎖被仰付候ニ付、翌十八日、大鋸町要助店絵双紙糶亀吉義、私板元之由名乗    出候ニ付、要助義手鎖御免ニて、家主預ケなり、亀吉は御証文預ケ。       一 同日                     狂言師、梅の屋事 左吉     右者口画の達摩の事ニて、御呼出御尋ニハ、上より難渋之者へ御救ひ等被下候ニ、一物もなしとハ上    之思召ニたがひ候由御叱り、然ル処、右画ハ扇面へ書候を写し取られ候由申上候ニ付、御構無之。     一 画師芳綱ハ見附之崩れ候を書候ニ付、御叱り。        安政にならで地震がゆり出し          さて版元がうきめ三河や     六月二日、右一件落着       所払               大鋸町、要助店 板元  亀吉         画師          南伝馬町二丁目、長三郎店 芳綱事 清三郎     右者、画料金壱両御取上ゲ、五貫文過料。            作者                   北島町、友七店 与五郎     右之者、金壱両二分作料御取上ゲ、五貫文過料。             板行摺                元大工町、由兵衛店 要助     右之者、摺、仕立手間、都合金二両三歩、銀三朱御取上ゲ、五貫文過料。            板木師                小伝馬上町、清助店 長次郎     右之者、彫代金都合金七両二分五取上ゲ、五貫文過料。     右、於北御番所被仰渡之。      六月二日〟    〈画工一登斎芳綱に対する処分理由は「見附之崩れ候を書候ニ付」とある。見附は幕府の城門、にも関わらず憚ること     もなく崩れ落ちた光景を画くとは不届き千万ということなのだろうか。ともあれ版本が大評判になったので、絵双紙     掛名主の抜き打ち調査が入ったとある。口絵の達磨に添えられた梅の屋の詠〝悟れかしこれぞ禅機の無門関ゆり崩れ     ては一物もなし〟に対して、表向きは禅の公案(無門関)めかして「本来無一物」といるが、実はこれに「上より難     渋之者へ御救ひ等被下候ニ、一物もなし」の意味を込めて、暗に幕府の救援策を風刺しているのではないかという疑     いを抱いたようである。絵草紙掛名主の福嶋は「絵柄不分様相認、人々ニ為考、買人を為競侯様之類」(よく分から     ない絵柄のもので、人々をして考え込ませ、競って買い求させるような類の絵柄。嘉永六年八月、国芳画「浮世又平     名画奇特」が問題になった時、取り締まりを強化すべきものとして、北町奉行・井戸対馬守が南町奉行・池田播磨守     宛に出した文書中にある)の絵柄と判断して摘発に踏み切ったのであろうか。しかしそれにしては入銀料を取って頒     布した板元の三河屋鉄五郎と山口屋藤兵衛は沙汰なしである。然るに自ら板元だと名乗り出た絵双紙糴売の亀吉は所     払に処せられ、作者と画工と彫師と摺師は手間賃没収の上に罰金が科せられた。(この亀吉と「本板元」の三河屋や     山口屋との関係はどうなっているのであろうか。三河屋と山口屋は亀吉を名目上の板元に仕立てたのではあるまいか)     北町奉行井戸対馬守がこの本を見て「板元名前人」の要助以下に召喚状を出したのは、内容に問題があると判断した     からなのだろうが、それならば頒布した三河屋と山口屋も対象になると思うのだが、どうなのだろう。なお『安政見     聞誌』の刊年を下掲の早稲田大学図書館の古典籍総合データベースは安政年間とし、国文学研究資料館の「日本古典     籍総合目録」は安政末年とするのであるが、『藤岡屋日記』の「安政見聞誌」にいう口絵に添えられた梅の屋の画賛     や芳綱の画く崩壊した四谷見附の図などの記事が、下掲のように『安政見聞誌』所収の図と符号するので、安政三年     三月の刊行とみてよいのではないだろうか〉
    『安政見聞誌』 一筆庵英寿著・一勇斎国芳、一登斎芳綱画     (早稲田大学図書館・古典籍総合データベース)
   〈「口絵の達磨」には梅の屋の詠で〝悟れかしこれぞ禅機の無門関ゆり崩れては一物もなし〟とあった。この「一物も     なし」が問題とされ、「上より難渋之者へ御救ひ等被下候ニ、一物もなしとハ上之思召ニたがひ候」と叱られたが、     梅の屋は扇面に認めたものを写し取られたと釈明して、咎を免れた〉
      『安政見聞誌』「口絵の達磨」 一登斎芳綱?画
   〈一登斎芳綱が御叱りを受けた「見附の崩れ候」画〉     『安政見聞誌』「四ッ谷見附」 一登斎芳綱画
   〈「亀戸天神橋通横十間川筋柳嶋之図」中に、三代目歌川豊国(初代国貞)の家が画かれているので、示しておく〉
    『安政見聞誌』「歌川豊国」宅 一登斎芳綱画
   〈『安政見聞録』は一勇斎国芳や一鴬斎国周も画いているが、ほとんどが一登斎芳綱の作画である〉      ◯『筆禍史』p160「安政見聞誌」(宮武外骨著・明治四十四年刊)   〝安政の江戸大地震記たる『安政見聞誌』は、仮名垣魯文と二世一筆庵こと英寿との合著なりしに、其筋    の許可を受けずして出版せしといふ科によりて絶版を命ぜられしなりと云ふ、尚著作の署名者英寿と版    元とは共に手鎖の刑に処せられたり、魯文は主として筆を執りしも、見聞誌に実際筆を執りしは貴公な    り、我は唯手助けせしに過ぎざるに、運悪くも署名せしため災難に逢ひたり、刑余の身とて誰も相手に    なしくれずとて、是を種に屡々無心に来りしは魯文も当時貧窮の身とて困じ果てたりと『仮名反故』に    記せり〟     〈一筆庵英寿の見聞記は上掲の『安政見聞誌』(芳綱・国芳画)。宮武外骨は野崎左文の魯文伝記『仮名反故』によって    『安政見聞誌』を一筆庵英寿と仮名垣魯文の合著とする。文の手助けをしただけにもかかわらず運悪く署名したために    手鎖に処せられたという英寿が、その後主筆であった魯文にしばしば金の無心に訪れたという記事である。なお『安政    見聞誌』の作者については、野崎左文から二説出されている、一つは仮名垣魯文説、もう一つは燕栗園(ササグリエン)千寿    (チホギ)説、前者は魯文の証言を根拠とし、後者はこの書の取り次ぎでもあった達磨屋五一(無物翁)の言に拠っている。    『増補 私の見た明治文壇』所収「仮名書魯文翁の自伝」参照。ところで大地震に関する見聞録は、他に安政三年七月    刊の『安政見聞録』がある。こちらはお咎めなしのようであるが、参考までに挙げておく〉
    『安政見聞録』 一梅斎芳晴・鴬斎画 晁善(譱)(服部保徳)著     (早稲田大学図書館「古典籍総合データベース)       ☆ 安政三年(1856)<八月>      筆禍「泰平英雄競」錦絵 画工未詳       内容 ◎板元 三河屋鉄五郎 板木一時取り上げ       理由 売れすぎて浮説が立つのを恐れて、奉行所が介入する前に問屋と改掛の名主の段階で自主          的に板木を一時規制取り上げたようだ    ◯『藤岡屋日記』第七巻 ⑦275(藤岡屋由蔵・安政三年八月記事)   ◇「泰平英雄競」   〝泰平英雄競錦絵一件                         日本橋元大工町、忠次郎店                       板元        三河屋鉄五郎      和田左衛門尉義盛         講武所頭取     男谷精一郎      梶原源太景季           同、教授出役    松平主税助      今井四郎兼平           同         三ッ橋虎蔵      樋口次郎兼光           同         本多鉄次郎      根ノ井大弥太           同         榊原健吉    右五番、八百枚通り摺込候処、大評判故、又々四番出版致ス也、右(ママ)四番ハ、      三浦荒次郎義澄                    上野正三郎      斎藤別当実盛                     近藤弥三郎      佐々木三郎盛綱                    戸田八郎左衛門      熊谷次郎直実                     藤田泰一郎     右四番六百枚通り摺込候処、益々評判強く相成候ニ付、八月十三日、地本問屋へ板木預り置候処、十    八日ニ弥々六ヶ敷相成、同廿八日、板木残らず寿ニて取上ゲ也。     右は、前五番ニてハ銭もふけ致し候処ニ、跡四番摺込損致し候由、右板木は名主改等も相済候義ニ付、    其後十一月廿八日、板木残らず下ゲニ相成候〟    〈「泰平英雄競」は見立の剣術番付。例えば、幕府の武芸訓練機関である講武所の頭取・男谷精一郎は和田義盛に見立     られている。最初、男谷以下五名分を八百枚ずつ摺って売り出しところ、大評判だったので、引き続き上野正三郎以     下四名分をやはり六百枚ずつ摺った。これがまたまた大評判。しかしあまりに売れ行きが良すぎたために、三河屋は     遠慮したようで、八月十三日地本問屋に板木を預けた。そして八月二十八日には、町名主の会所・寿において、板木     は取り上げになった。それで最初の五番は儲かったが、後の四番は摺り損に。しかし改を通っていたので、十一月二     十八日には板木が戻ったようだ〉       ☆ 安政四年(1857)<四月>      筆禍『安政風聞集』版本 画工 森光親       内容 ◎板元 直吉 吟味 手鎖 版本没収 板木削除 江戸構(江戸十里四方追放)       理由 絵双紙問屋の行事に賄賂を贈って内密に版本を拵えたのであるから、名主の改を受けてい          ないから無断出版か    ◯『藤岡屋日記』第七巻 ⑦502(藤岡屋由蔵・安政四年四月記事)   ◇『安政風聞集』   〝四月十九日落着     安政風聞集一件  坂本二丁目 板元 直吉     四月四日絵草紙行事ぇ金五両出し承知致させ、内々ニて少々宛売出し候処、同十一日北御番処ぇ御呼    出し、一通り御吟味之上、手鎖預ニて下ル也。翌十二日摺本三十五部、仕立本六十五部、都合百部也、    北御番処ぇ上ル也。     四月八日、名主二葉五左衛門、直吉宅を改候節、摺本六十一部取上ル也、十一日御呼出し之跡ぇ手先    踏込、二百部封印致し置、右二百部ト摺本六十一部御取上ゲ、板木けずりて、四月十九日落着。                          ほら岩事 直吉         江戸構      北吟味懸 三好松之助〟      〈『安政風聞集』は安政三年八月二十五日の暴風雨高潮洪水の被害状況を挿絵入りで克明に記録したもの。金屯道人     (仮名垣魯文)著、序文は安政三年十月。早稲田大学図書館の画像の下巻口絵に「森光親模写〔栄冨〕印」とあり、     本書の画工と思われる。上巻見返しに「此君亭藏」とあるから、此君亭が板元の直吉であろうか。江戸払(江戸市     中追放)より重い江戸構(江戸十里四方追放)に処せられたのである〉
    『安政風聞集』 金屯道人(仮名垣魯文)編     (早稲田大学図書館・古典籍総合データベース)       ☆ 安政五年<十月>      筆禍「目一秘曲平家一類顕図」錦絵三枚続 華蝶楼画     〈『藤岡屋日記』には「十月廿五日被召捕候」とあるのみで、誰が逮捕されてどのような処分が下されたのかよく分から    ない。処分理由は浮説の流布と思われる〉    ◯『藤岡屋日記』第八巻 ⑧332(藤岡屋由蔵・安政五年十月記事)     ◇平家一門図   〝十月廿五日被召捕候、平家一門安徳天皇守護図、外題目一秘曲、平家一類顕図三枚続、一の谷御殿之図、    上段ニ紫の幕、丸之内に酸漿紋白幕を張、翠簾を巻揚ゲ、上段之間正面ニ能登守教経、龍紋の兜・虎皮    の尻鞘ニて安徳天皇をいだき奉ル、袴ニ橘の紋付候ハヾ彦根之よし、天皇ハ金冠ニて是、当上様のよし、    左りニ伊賀平内、具足ニ桔梗紋付、脇坂、後ニ新中納言知盛、是ハ無紋ニて不知、脇ニ一人、是も不知、    右ニ飛騨判官景隆・間部、越中前司盛俊・太田、是迄が上段也。下段右手、武蔵三郎左衛門有国・内藤、    弥平兵衛宗清・和泉守、悪七兵衛景清・久世、中央ニ座頭目(ママ)一前ニ琴を置、後ニ三宝ニ九寸五分の    せ有之、肝を潰せし様子也、是隠居之由、右ニ薩摩守忠度、是ハ一橋か、瀬尾太郎兼広(康)、是も不    知、前左りニ武者二人、緋縅鎧着、是も不知、坊主武者三人知れず、左り上段之次下段ニ、主馬判官盛    国・本多、門脇宰相経盛・遠藤、筑後守家貞・稲垣、小松内大臣重盛、是ハ郎党の出立ニて、牧遠江、    参議経家不知。(以下脱カ)〟    〈この画は暗に将軍継嗣問題を仄めかしたもの。安政五年七月、病弱だった第十三代徳川家定が逝去。すると世継ぎを     めぐって、一橋慶喜を推す水戸家中心の一橋派と、紀州藩主徳川慶福の擁立を図る井伊直弼等南紀派との間に激しい     争いが起こった。しかし結局は南紀派が押し切って、第十四代将軍家茂が誕生することになった。この画はその争い     を擬えたものという。画面は、井伊直弼ら南紀派が、この時老中職にありながら一橋派に近い立場をとった久世広周     を糾弾している場面と考えられる。上座中央の能登守教経がその橘の紋から彦根藩主・大老井伊掃部頭直弼とされ、     そしてその井伊直弼に擁立された金冠の子供・安徳天皇が、当時十三才であった徳川慶福というのである。(慶福は     来たる十二月朔日、将軍職を継ぐことになっていた)桔梗紋は老中・脇坂中務大輔安董。以下、間部下総守詮勝、太     田備後守資始、松平和泉守乗全、この三人は井伊直弼の推挙で再び老中に復職した者たち。内藤は老中内藤紀伊守信     親か。その他、本多越中守忠徳、遠藤但馬守胤統、稲垣長門守太知、牧野遠江守康哉、彼らは当時の若年寄で、井伊     直弼の幕政を支えた人々である。さて、画中に「目一座頭」とある人は誰か。藤岡屋由蔵はこれを悪七兵衛景清とし、     当時の老中久世大和守広周を擬えたものと捉えていた。座頭が景清を連想させるのは、景清に、平家滅亡後の源氏の     天下を見るに忍びないとして自ら目を抉りとったという盲目伝説が伝えられているからであろう。また琴があるのは、     「壇浦兜軍記」の名場面「阿古屋の琴責め」の趣向をかりたもので、これもこの座頭が景清であることを暗示させる     役割を果たしている。(「阿古屋の琴責め」頼朝方は頼朝の暗殺を狙う景清の行方をつかもうと、景清馴染みの遊女     阿古屋に居所を問い詰めるがなかなか白状しない。そこで、隠しているのか、実際に知らないのか、それを確かめる     ため、畠山重忠は阿古屋に琴と三味線と胡弓を弾かせる、音に乱れがあれば嘘、なければ真実をいっているはずだと、     阿古屋の心底を見極めようというのである)江戸の巷間では、その「目一座頭(景清)」が老中の久世広周だと、噂     していたのであろう。久世広周は将軍継嗣問題も安政の大獄の処断についても井伊直弼と対立していたからだ。この     錦絵が出た二日後の十月二十七日、久世は老中を罷免されている。もちろんこの錦絵のせいではなかろうが。ともあ     れ「九寸五分を三宝にのせ肝を潰す」とは、井伊直弼が久世広周に切腹を迫った(この場合は罷免)ことを物語るの     だろう。当代を伝説等の古典に擬えて表現する方法、それがここでも使われている。この種の判じ物、これまで摘発     ・検挙・処罰を繰り返えしてきたが、それを期待する層も多く、また版元にとっても相応の利益を見込めるから、危     険を承知で手を出すものが絶えない。が、それにしてもこれほど露骨に幕政の内側を表現した作品も珍しい。しかも     ことは将軍家の継嗣に関するものである。案の定「十月廿五日被召捕候」で逮捕者が出た。板元の三河屋鉄五郎は当     然として、絵師や絵双紙屋・糴売りに累が及んだのだろうか。浮説を生じさせた判じ物であるから、絵師にも及んだ     と思うのだが、言及がないのでよく分からない。さて肝心の絵師は誰であろうか。下掲「早稲田大学演劇博物館浮世     絵閲覧システム」の画像には「華蝶楼画」とある。この華蝶楼を、小林和雄著『浮世絵師伝』は若き日の歌川国周と     する。なお画題は「目一秘曲平家一類顕図」で「もくいちがひきよくへいけのいちるいあらはれづ)」のルビが付い     ている〉
    「目一秘曲平家一類顕図」 華蝶楼(豊原国周)画     (早稲田大学演劇博物館・浮世絵閲覧システム)    ☆ 万延元年(1860)      筆禍「江戸一覧名所双六」双六 画工未詳       内容 ◎板元 上州屋金藏 伊勢屋喜助 絶版 板木没収 在庫の版本没収 売買禁止       理由 「江戸絵図」に紛らわしい    ◯ 十二月十一日付〔『江戸町触集成』第十七巻 p475(触書番号16500)〕   〝江戸一覧名所双六と題名いたし候双六、売買いたし候趣相聞候、右は江戸絵図ニ紛敷如何ニ候条、絶板    申付候、早々仲間内仮組とも相糺、板木売(イ「摺」)溜共可差出、以後右様之品彫刻は勿論、当時右類之    品有之候ハヽ、売買差留候条、板木不残行事共へ取集可差出                     組々世話掛 名主共    右之通書物問屋地本問屋共え申渡候条、猶名主支配々取調、右江戸一覧名所双六は勿論、右之類有之候    ハヽ早々取上可差出     但、月行事持之場所は最寄名主相心得同様可取計     右南御奉行所依御差図申渡候、情々取調、夫々早々答書可差出      申十二月    右之通被仰渡奉畏候、以上      万延元申十二月十一日                     書物問屋行事 芝神明町 岡田屋嘉七                            外五人                     地本双紙問屋行事 上野黒門町  上州屋金蔵                              横山町弐丁目 伊勢屋喜助                     五番組世話掛 南伝馬町 名主 新右衛門煩ニ付 忰新七郎                            外組々    右館市右衛門殿ニて被申渡候    今館殿ニて申渡有之候江戸一覧名所双六儀、床見世往還莚敷等ニて商候分ハ、書物問屋地本双紙問屋行    共方ニて取計不行届趣ニ付、右之分ハ別て御同役御支配限、本文被仰渡通り御取計、御壱組限御答書、    来ル廿日迄ニ差出可被成候、此段御達申候、以上      十二月十一日         小口 世話掛        右御達申候、御支配小売絵双紙屋共ニ至迄、右渡世之ものは勿論、古本屋床見世大道莚敷商人共、不洩    様入念御取調、所持之者有之候ハヽ不残御取上ケ、来ル十六日迄ニ拙宅へ可被遣候、尤御答書差出候間、    有無共半紙竪帳ニ御認メ、同日迄ニ無間違御申聞可被成候、以上      十二月十二日         組合 世話掛〟    〈江戸絵図に紛らわしい商品の売買は禁止する旨、絵双紙屋は無論のこと古本屋・床店・露店にいたるまで周知徹底     するようにという通達である〉         ☆ 慶応四年(明治元年・1867)      筆禍「幼童遊び子をとろ子をとろ」 画工 三代目広重等       内容 ◎板元 丸屋平次郎 抜き打ち捜査〈その後どのような処分が下ったか不明〉       理由 浮説流布か    ◯『藤岡屋日記』第十五巻 ⑮505(藤岡屋由蔵・慶応三年三月記事)   ◇戊辰戦争絵   〝辰ノ三月、爰ニ面白咄有之    此節官軍下向大騒ぎ立退ニて、市中絵双紙屋共大銭もふけ、色々の絵出版致し候事、凡三十万余出候ニ付、    三月廿八日御手入有之。      右品荒増之分     子供遊び 子取ろ/\  あわ手道化六歌仙〟
    「幼童遊び子をとろ子をとろ」 広重三代戯筆     (東京大学総合研究博物館「ニュースの誕生」展)
    「幼童遊び子をとろ子をとろ」二枚組・右図 左図広重三代戯筆     (東京大学史料編纂所「維新前後諷刺画 一」)      〈二図は全く同じ絵で、戊辰戦争に取材した諷刺画である。慶応四年二月に出版された「幼童遊び子をとろ子をとろ」は、     子供たちの着物の意匠から、右図が薩摩を先頭とする官軍側を、左図が会津・桑名等の幕府側を表しているとされる。     また遊びを後ろで見ている姉さんが皇女和宮で背負っているは田安亀之助、また官軍側最後尾の長松どんは長州で背負     っているのが明治天皇と目されている。「子をとろ」は現代でいう「花いちもんめ」であるが、それで戊辰戦争を擬え     たのである。同年三月刊の「道化六歌仙」の方はそれぞれ長州・薩州・勅使・和宮・輪王寺宮・田安を擬えたとされる。     図の上「善」の面を付けたものが持つ扇に「清正、黒ぬり、七五三」等の文字が配されているが、何を暗示するのかよ     く分からない。ところで「道化六歌仙」の右図には興味深い書き入れがある。「慶応戊辰四月三日購賈貳伯拾陸孔」と     ある。「道化六歌仙人」を216文で購入したというのだ。これは随分高い。これを書き込んだ所蔵者は四月三日に入手     しているのだが、その前の三月廿八日に町奉行の手入れがあったためであろう。評判と入手困難とで高騰したものと考     えられる〉    ☆ 明治元年(1868)      筆禍「本能寺合戦之図」 画工 歌川芳盛      「太平記石山合戦」 画工 歌川国輝      「信長公延曆寺焼打之図」 画工 歌川芳虎      「春永本能寺合戦」 画工 英斎       内容 発売禁止       理由 時事の絵画化     ◯『筆禍史』p172「江戸上野戦争の絵草紙」(宮武外骨著・明治四十四年刊)   〝江戸に在りし徳川方の残党中には、大政の返上を喜ばざる不平の徒多かりしが、其徒相結んで彰義隊と    号して官軍に抗し、明治元年五月十四日、江戸上野東叡山に於て、双方の激戦ありし事は、人々の皆知    る所なるが、当時は未だ新聞紙の発達せざりし時なれば、その戦況は例の絵草紙にて見るより外なかり    しなり、然るに当時新政府には、未だ出版條例新聞條例等の制定なきも、幕府残党の手に成れる官軍不    利の戦報あらん事を恐れて、総て戦況の報道を厳禁したりしがため、絵草紙も亦上野彰義隊戦争の図と    して出版すること能はざりしかば、已むことえお得ず、姑息の手段によりて出版し、図は上野に於ける    両軍の奮戦なれども、其題号は古き歴史絵らしく      本能寺合戦之図   (歌川芳盛画) 太平記石山合戦(歌川国輝画)      信長公延曆寺焼打之図(歌川芳虎画) 春永本能寺合戦(歌川国宗(ママ)画)    など徳川幕府時代の旧式によりて題号せる三枚続の大絵なり、江戸市内の各絵草紙屋より此類を十数種    出版せしが、本能寺合戦といふも、其実は上野黒門前の激戦にして、人物も彰義隊と官軍の服装なれば、    紛うべくもなき禁制画なるを以て、是等の絵草紙は悉く発売を禁ぜられたりといふ〟   〈「春永本能寺合戦」の画工を歌川国宗とするが、英斎の誤記である〉
    「春永本能寺合戦」英斎画 木屋米次郎板 明治元年刊     (早稲田大学図書館蔵)
    「本能寺合戦之図」さくら坊芳盛筆 具足屋嘉兵衛板 明治二年刊     (野田市立図書館蔵)      〈彰義隊と官軍の服装。時事の絵画化であることは明白だ。幕藩体制がきちんと機能していた時代であれば、当然摘発を受    け処罰される。しかし新政府側がこれを実際に発禁処分にしたかどうかは、よく分からない。ただ、この記事で注目すべ    きは、時事や世相の変化に関心を抱く人々に対して、それらの情報を流そうというメディアが在野から生まれ出ようとし    ている点である。常に時世の動きに敏感で、それを生業の種としてきた浮世絵界が、これを見逃すことはなかった。この    機運がいずれ絵入新聞の誕生に繋がっていく。もっとも時事問題を題材とする「大新聞」ではなく、巷間の話題を取り扱    う「小新聞」の方に向かっていった。明治八年(1875)、本邦絵入新聞の鼻祖とされる『平仮名絵入新聞』(翌年『東京    絵入新聞』と改称)が、高畠藍泉と落合芳幾によって創刊された。戯作者の流れを汲む藍泉と浮世絵師の芳幾、戯作と浮    世絵、これは黄表紙・合巻の草双紙から続く同じ組み合わせである。「落合芳幾、月岡芳年氏等艶麗の筆を揮ひ、時人を    して絵入新聞記事は挿画の説明なりと諷せらるゝに至るまで、絵画に全力を尽せり」「啻に挿画に力を尽せしのみならず    雑報の書き方にも亦苦心をなし。前田香雪氏流麗の筆を揮ひ、其創意に係る雑報の続物を草してより世評頗る好かりしか    ば(云々)」と。これは朝倉無声の『本邦新聞史』(明治四十四年刊・1911)の記事である。情報伝達や論説よりも、珍    聞奇談の方が得意分野なのであった。2014/11/25 追加〉        以上、「浮世絵筆禍」終了 2014/10/28
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