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浮世絵の筆禍史(10)嘉永四年~六年(1851-53)筆禍史メニュー
   ※ 者=は 与=と 江=え 而=て メ=貫 〆=締(〆そのまま使うこともあり) 而已=のみ    ☆ 嘉永四年(1851)<七月>      筆禍「大蜘蛛百鬼夜行」絵番付 画工不明       処分内容 ◎板元 太田屋左吉 板木及び商品没収       処分理由 浮説流布か    ◯『藤岡屋日記』第四巻 ④429(藤岡屋由蔵・嘉永四年七月記)   〝七月廿五日取上ゲ、大蜘蛛百鬼夜行絵之番付之事     神田鍛冶町二丁目太田屋左吉板元ニて売出し、盆前ニ配り候処、今日御手入ニて残らず御取上ゲ也。       こりもせず又蜘蛛の巣に引かゝり         取揚られるめには太田や      右番附は、袋ニ上ニ蜘蛛が巣を懸ケし処を書、正面ニ碁盤ニ大将の刀掛、紫のふくさをかけ在、燭     台を立、碁もならべ有之、化物評判記ニ在。      番附ハ、      昔々在た土佐絵の巻物ニ碁、今ハ野暮百気夜興、化物評判記さへ箱根の先ニもなき。       中ニ百鬼の絵五十計有之、正面ニハ奢と書し玉の人物、鼠色の着物着しふんまたがり、大勢の百      鬼ニ手をとられ、是をとらへ又は喰付、或ハ八方より鑓ニて突懸ん(ママ)候図也、上下ニは右之外題      書有之、左之通り也      実と見へる       忠と見せる      善と見へる       虚の化物        不忠の化物      悪の化もの      倹約と見へる      金持と見へる     貧客と見せる       驕奢之化物       乏(ママ)人の化物    金持の化物      利口と見せる      としまと見せる    新造と見せる       馬鹿の化物       娘の化もの      年増の化物      医者と見へる      女房と見せる     革と見せる       坊主(の脱)化物    妾の化もの      紙烟草入の化物      親父と見せる      米と見せる      若く見せる       息子の化物       さつま芋の化物    親父の化もの      おしやう様と見せる   冬瓜と見せる     鉄瓶と見せて       摺子木の化物      白瓜の化物      土瓶の化物      殿と見せて       山谷と見せる     ふとんと見せる       手玉の化物       色男の化物      ふんどしの化物      火縄と見せる      鴨と見せる      鮒と見せる       麦わらの化物      あひるの化物     こんぶ巻の化物      鰻と見せる       武士と見せる     物識と見せる       あなごの化物      神道者(の脱)化物  生聞の化物      銀と見へる       血汐と見せる     佐兵衛と見せる       鉛の化物        赤綿の化物      猿の化物      お為ごかしニ見せる   不思議ニ見せる           欲の化物        造化の化物    一 右は七月廿五日、板木・絵共不残御取上ゲニ相成候処ニ、直ニ重板出来也。                            八丁堀鍛冶町                                品川屋久助                            本郷四丁目                               丹波屋半兵衛      右二板出来ニて安売致ス也。        生ケ取て丹波やからハいでる筈品川からもいでる化もの〟    〈「大蜘蛛百鬼夜行」という絵番付である。摘発理由が明確に記されてないが、「こりもせず又蜘蛛の巣に引かゝり取     揚られるめには太田や」の落首からすると、明らかに国芳の「源頼光公館土蜘作妖怪図」を念頭に置いた評だと思わ     れるので、この化物絵に浮説が立ったものと考えられる。正面の「箸」とある「玉の人物」などに、これは将軍を擬     えているなどといった噂が流れたのであろうか。盆前(七月十三日以前)に配り同月二十五日没収とある。改(アラタメ)     の段階では問題視されず、発売後に浮説が立って処分に及んだのであろう。なお、重板(無断複製)を出した品川屋     と丹波屋については処分等の言及がないが、重板は重大な違犯であるから、やはり板木・商品とも没収になったもの     と思われる。ただしこれらは絵草紙掛(カカリ)名主の裁量による規制なのか、町奉行の正式処分なのか、判然としない〉    ☆ 嘉永四年(1851)<九月>      筆禍「本朝振袖之始 素盞烏尊妖怪降伏之図」絵番付 江戸川 北輝画       処分内容 ◎板元 彦兵衛 糴売 徳三郎 商品没収            ◎画工 記載なし(北輝は不問)            重版の方の処分内容は記されないが、同様に処せられたか       処分理由 浮説流布か    ◯『藤岡屋日記』第四巻 ④466(藤岡屋由蔵・嘉永四年七月記)   〝九月三日の配りニて、      本朝振袖の始 横絵壱枚       但し袋ニ、目吉の化物、蝋燭ニて累・与右衛門土橋之図     板元神田久右衛門町板摺彦兵衛、糶配りハ馬喰町三丁目徳三郎也、右板行ハ、去ル御やしきニて趣向     致し、今度株敷再興之事を工夫致し、画板行ニ致し彦兵衛へ遣し、売候様申ニ付、一向ニ訳も存ぜず     売出シ候よし、素戔鳴尊妖怪調伏之図、稲田姫神鏡を持、是より光明暉き妖怪驚き騒ぎ候処、右光り     ニ見へ候ものハ、売女屋・髪結床・絵双紙や・箱や・玉子や・其外さま/\数知れず、又株の定りし     ハ尊の前へ出、平伏致し、手判ヲ押居る処ぇ、戸(ママ)腐問屋・両替や・水鳥や、其外也。      右絵、初四枚宛ニ配り、三十六文売ニ致し候処ニ、評判夥敷相成、百文ニ売候やからも有之候由、     右風聞ニ付、九月七日定廻り同心、右絵双紙やニ釣し有之候を残らず取上ゲ歩行候よし、其後一向ニ     御沙汰も無之内ニ、重板(二板)出来ル也、右二軒は橋本町板摺ニ、浅草地内ならべ本やのよし、右重     板出て六枚ニ卸候よし。        株式がそろ/\極りそウさのふ(素戔鳴尊)も          不正のものはいなだひめ(稲田姫)也〟
   「本朝振袖之始 素盞烏尊妖怪降伏之図」 葛飾北輝画 (早稲田大学図書館・古典籍総合データベース)      〈「本朝振袖之始」とあり、素戔鳴尊、稲田姫が登場しているから、近松門左衛門の狂言かと思いきや、全くそうでは     なかった。この絵柄を見た瞬間、多くの人々が一勇斎国芳の「源頼光公館土蜘作妖怪図」を思い浮かべたに違いない。     構図は全く同じ、紛れもなく判じ物だと確信したはずだ。宝剣を持つ素戔鳴尊と鏡を以て光を放つ稲田姫、この一対     の夫婦にはどんな寓意が託されているのだろうか。そして「神兵」とは「蝿声邪神(さばえなすあしきかみ)」とは、     一体何を物語るのか、人々は色々詮索してはそれぞれ謎解きに興じたのであろう。藤岡屋が伝えるところによれば、     この図様は「株敷再興之事を工夫」したものだという。この年の三月、水野の改革に拠って解散させられていた問屋     仲間が約十年ぶりに再興されたることになった。この絵はその再興を踏まえたものだという見立である。「蝿声邪神」     とは再興が叶った問屋で、具体的には豆腐問屋・両替屋・水鳥屋などを擬えているとする。例えば、素盞鳴尊の前に     出て手判を押している頭部が鳥の邪神(妖怪)が水鳥屋といった具合だ。闇夜にうごめく妖怪も、それぞれ売女屋・     髪結床・絵双紙屋などと比定されている。その当否は問わない。その瞬間、腑に落ちればそれで良しなのである。と     ころで、この絵の出所は武家屋敷内であるという。従来から町奉行は町年寄や名主を通じて、武家屋敷のものを取り     扱わないよう市中に通達を出しているが、徹底しないようである。無理もない、供給源が武家屋敷内にあるからだ。     収入には魅力があったようだ。売値は当初一枚36文(卸値が最初四枚で100文、つまり一枚25文)。それが評判が上     がると、一枚100文でも取引が成立したようである。九月に入って、奉行所の隠密同心が絵草紙屋を廻って釣し売り     しているものを摘発したが、その始末もつかない内に、重板(無断複製)が忽ち二軒から出るというありさま、如何     せん売れ行きに目が眩むのであろう。参考までに云えば、この重版の方の卸し値は「六枚ニ卸候」とあるから、一枚     約17文ということになる〉    ☆ 嘉永六年(1851)<二月>      筆禍「見立三幅対」歌川豊国画       処分内容 ◎版元 三名 手鎖            ◎画工 記載なし(絵師三代豊国は不問)       処分理由 明確に記されていないが、禁制の金使用と高額華美および無断出版が咎められたか    ◯『藤岡屋日記』第五巻 ⑤237(藤岡屋由蔵・嘉永六年二月記)   〝二月廿五日     昼過より南風出、曇り、大南風ニ成、夜ニ入益々大風烈、四ッ時拍子木廻候也                            浅草地内雷神門内左り角      錦絵板元                         とんだりや羽根助     今日売出しにて、鬼神お松、石川五右衛門・児来也、三人の賊を画、三幅対と題号し、三板(枚)続ニ    て金入ニ致し、代料壱匁五分ヅゝにて四匁五分ニて売出し候処、大評判にて、懸り名主福島三郎右衛門    より察斗ニ而、廿八日ニ板木取上ゲ也。       三賊で唯取様に思ひしが         飛んだりやでも羽根がもげ助     右羽根助ハ板摺の職人ニ而、名前計出し、実の板元は三軒有之。                        浅草並木町                            湊屋小兵衛                        長谷川町新道                           住吉屋政五郎                        日本橋品川町                                魚屋金治郎     右三人、三月廿日手鎖也〟    〈前年の嘉永五年十一月、板元湊屋小兵衛から「【見立】三幅対」三代目歌川豊国画・彫竹・摺松宗、「雪・石川五右     衛門」「月・児雷也」「花・鬼神於松」の三枚続が出版されている(下出画像参照)ところが、嘉永六年二月二十五     日、今度はとんだりや羽根助から「三幅対」と題した「鬼神お松、石川五右衛門・児来也」の三枚続が売りに出され     た。だがこれは江戸では使用を禁じられていた金摺の豪華版であった。売値も高額で三枚一組四匁五分。ネット上の     「江戸時代貨幣年表」によると、嘉永五年当時の銭相場は1両=約63~64匁=6264文であるから、いま仮に64匁で換     算すると、三枚続約440文で一枚が147文に相当する。十年前の天保の改革では「彩色七八扁摺限り、値段一枚十六文     以上之品無用」と定められたが、今やどこ吹く風、金入とはいえ実にその九倍である。前項「本朝振袖之始 素盞烏     尊妖怪降伏之図」の一枚36文に比べてもべらぼうな売値であった。それでもこれが評判を得て大変売れた。しかし発     売して僅か三日目の二月二十八日、絵草紙改係りの名主福島三郎右衛門が早速これを咎め(察斗)て板木を没収した。     調べたところ、とんだりや羽根助は名目上の板元で、実際の板元は湊屋小兵衛・住吉屋政五郎・魚屋金治郎であった。     結局、彼等は吟味のあと手鎖の刑に処せられたとある。罪状に関する記載はないが、金の使用とそれにともなう高額     出版が咎められたか。また、改(アラタメ)の段階で金を使用することはない筈だから、通ったあとで金摺にしたものと思     われる。そうすると無断出版ということになる。     参考までに嘉永五年十一月刊・豊国画・湊屋小兵衛板「【見立】三幅対」を引いておく。2014/06/05〉
   「見立三幅対 雪」「石川五右衛門」(四世市川小団次) 豊国画    「見立三幅対 月」「児雷也」   (八世市川団十郎) 豊国画    「見立三幅対 花」「鬼神於松」  (坂東しうか)   豊国画    (以上、早稲田大学・演劇博物館浮世絵閲覧システム)    ☆ 嘉永六年(1853)<二月>      筆禍「東海道五十三次」「東海道五十三次合之宿」「木曾街道」      「役者三十六哥仙」「同十二支」「同十二ヶ月」「同江戸名所」「同東都会席図絵」       処分内容 ◎板元 板木没収削除 商品没収裁断            (絵草紙掛名主の裁量によるもの)        処分理由 禁制の金使用と高額華美および無断出版が咎められたか    ◯『藤岡屋日記』第五巻 ⑤237(藤岡屋由蔵・嘉永六年二月記)   〝東海道五十三次、同合之宿、木曾街道、役者三十六哥仙、同十二支、同十二ヶ月、同江戸名所、同東都    会席図絵、其外右之類都合八十両(枚カ)是も同時ニ御手入ニ相成候。    右絵を大奉書へ極上摺ニ致し、極上品ニ而、価壱枚ニ付銀二匁、中品壱匁五分、並壱匁宛ニ売出し大評    判ニ付、掛り名主村松源六より右之板元十六人計、板木を取上ゲられ、於本町亀の尾ニ、絵双紙掛名主    立会ニて、右板木を削り摺絵も取上ゲ裁切候よし。       東海で召連者に出逢しが         皆幽霊できへて行けり〟    〈この記事は前項の「三賊の錦絵」に続いている。「同時ニ御手入ニ相成候」とあるから、この錦絵類の摘発も、嘉永     六年二月のことと思われる。またこれらの錦絵に関して『藤岡屋日記』には次のような記事が続く〉        〝嘉永六丑年三月、当時世の有様    錦絵も役者は差留られ候処、右名前を不書候ても釣す事はならず候処に、少々緩み、去年東海道宿々に    見立故へ(ママ)役者の似顔にて大絵に致し釣り置候所、珍敷故大評判と相成、板元は大銭もふけ致し候所、    益々増長致し、右画を大奉書へ金摺に致し、壱枚にて価二匁宛に商ひ候より御手入に相成、板木を削れ    ら候仕儀に相成候〟(『藤岡屋日記』第五巻・⑤238)    〈「去年東海道宿々に見立故へ(ママ)役者の似顔にて大絵に致し」とある錦絵は、上出の「東海道五十三次」と同じもの     と思われる。おそらく「東海道五十三次の内(駅名)(役名)」という形式の標題を有する三代目歌川豊国の役者絵     をいうのであろう。役者似顔絵は天保の改革(1842年)以来、依然として出版を禁じられていたが、時代を経て少し     緩みが出始めたのか、役者名の入らない役者絵、いわゆる「踊り形容」と称するものについては、店頭での釣るし売     りさえしなければ、売買が黙認されていようだ。そして嘉永五年頃、上記豊国の役者を東海道の宿駅に見立てた役者     似顔絵が出回り始める。しかも今回は店頭での釣るし売り。珍しいという評判が立って大いに売れた。すると増長し     て便乗する連中が登場する。これを大奉書を使った金摺の極上品に仕立て、一枚銀二匁で売り捌いた。前項と同じ相     場表に拠って(嘉永六年の相場1両=60~69匁=6248~6300文)仮に60匁=6248文で換算すると、二匁の極上品が一     枚約208文、以下、一匁五分の中品が156文、一匁の並が104文となる。「掛り名主村松源六より右之板元十六人計、     板木を取上ゲられ」とあるから、絵草紙掛名主の村松源六が自らの裁量で、十六人の板元から板木を没収して削除、     また商品も没収して裁断した。これも摘発内容が具体的に記されていないが、前項の「【見立】三幅対」同様、禁制     の金摺を使用して、改(アラタメ)に出したものとは違う商品を高額で売ったことが咎められたものと考えられる。     手入れにあった次の通り。いずれも嘉永五年の出版開始。     「東海道五十三次」は、三代豊国の「東海道五十三次之内(駅名・役名)」のシリーズか。     「同合之宿」は、未詳     「木曾街道」は、三代豊国の「木曾六十九駅(駅名・名所・役名)」のシリーズと、国芳の「木曽街道六十九次之内     (駅名・役名)」のシリーズとがあるが、ともに規制されたのであろうか。     「役者三十六歌仙」は、三代豊国の「【見立】三十六歌撰(歌人名と歌・役名)」のシリーズか。     「同十二支」は、三代豊国の「【見立】十二支の内(干支・役名)」のシリーズ。     「同十二ヶ月」は、三代豊国の「【見立】十二ヶ月の中(月・役名)」と、国芳の「江戸名所見立 十二ヶ月の内      (月・名所名・役名)」のシリーズか指すか。     「同江戸名所」は、三代豊国の「江戸名所図絵(番号・町名・役名)」のシリーズか。     「同東都会席図会」は、三代豊国画・初代広重画(コマ絵)「【東都】高名会席尽」であろう。      これらの多くは嘉永五年の内に終了したようだが、豊国の「東海道五十三次の内 」には嘉永六年正月の改印が入      った作品があり、また豊国・広重の「東都高名会席尽」には二月の改印のある作品が遺されている。上記の『藤岡      屋日記』の手入れ記事に照らし合わせると、どうやらこれらのシリーズは嘉永六年の二月には終了したものと思わ      れる。以下、参考までに画像を引いておく〉
   「東海道五十三次内 荒井駅 小女郎」   (岩井粂三郎) 豊国画・井筒屋板    「木曽六十九駅 安中 妙義山 お祭金五郎」(八世市川団十郎) 豊国画・加賀屋安兵衛板    「木曽街道六十九次之内 下諏訪 八重垣姫」(岩井粂三郎)国芳画・加賀屋安兵衛板    「【見立】三十六歌撰之内 藤原元真(歌)墨染桜ノ霊」(三世瀬川菊之丞) 豊国画・伊勢屋兼吉板    「【見立】十二支の内 戌 神谷伊右衛門 秋山長兵衛」(三世岩井粂三郎・市川広五郎)豊国画・角本屋金次郎板    「【見立】十二ヶ月の中 四月 石橋」        (十二世市村羽左衛門)豊国画・加賀屋安兵衛板    「江戸名所見立 十二月の内 正月 浅くさ 宮城野」 (四世尾上菊五郎) 国芳画・加賀屋安兵衛板    「江戸名所図会 十九 丸山 犬山道節」  (五世松本幸四郎) 豊国画・伊勢屋忠介板    「【東都】高名会席尽 甲州屋 武田かつ頼」(八代目市川団十郎)豊国・広重画・藤岡屋慶次郎板     (以上の画像はすべて「早稲田大学・演劇博物館浮世絵閲覧システム」に拠る)    ☆ 嘉永六年(1853)<七月>      筆禍「浮世又平名画奇特」二枚続・一勇斎国芳画       処分内容 ◎版元 越村屋平助 過料 発禁       〈下出の『筆禍史』が引用する『続々泰平年表』によれば「売捌被差留筆者板元過料銭」とあるから、版元は          発禁、筆者・板元は過料(罰金)ということになるが、確認できない〉            ◎画工 記載なし(国芳は不問)       処分理由 浮説流布
   「浮世又平名画奇特」 一勇斎国芳画 (国立国会図書館デジタルコレクション)         ◯『藤岡屋日記』第五巻 p352(藤岡屋由蔵・嘉永六年二月記)   〝嘉永六癸丑年七月    浮世又平大津絵のはんじもの、一勇斎国芳筆をふるひ、大評判に預りましたる次第を御ろうじろ。    右は此節、異国船浦賀渡来之騒動、其上ニ御他界の混雑被持込、世上物騒、右一件を書候ニは有之間敷    候得共、当時世上人気悪敷、上を敬ふ事を不知、そしり侮り、下をして、かミの愁ひを喜ぶごときやか    ら多き所ニ、恐多き御方ニ引当、種々様々ニ評を附、判段(断)致申候ニ付、如斯大評判ニ相成候。      浮世又平名画寄(ママ)特 二枚続      国芳画、板元 浅草新寺町、越村屋平助    右絵売出し、七月十八日配り候所、種々の評判ニ相成売れ出し、八月朔日頃より大売れニて、毎日千六    百枚宛摺出し、益々大売なれば、      一軒で当り芝居ハゑちむらや からき浮世の時に逢ふ津絵    〈アメリカの海軍司令官ペリー提督が軍船四隻を率いて浦賀に来航したのは嘉永六年六月三日。また十二代将軍・家慶     の死亡は同年六月二十二日。「浮世又平名画奇特」には嘉永六年六月の改印が押されているから「異国船浦賀渡来之     騒動」や将軍の「御他界」を踏まえて画くことはありえない。にもかかわらず巷間ではこれに結びつけて判じた。確     かに売れ始めた八月の時点ではこれらは知れ渡っていただろうから、これはとばかり飛びついたのであろう。画工は     「源頼光公館土蜘作妖怪図」(天保十四年・1843年刊)や「【きたいなめい医】難病療治」(嘉永三年・1850年刊)     を画いた国芳である。これも同様の「判じ物」と見て詮索に興じたのである。八月に入ると毎日千六百枚ずつ摺った     とある。板元越村屋にとってはおそらく思惑を越えた大儲け、これですっかり時流にのった。しかしこれ本来は役者     絵似顔絵なのだろう。当時、役者名を画中に入れることは禁じられていたから、板元としては、大津絵に役者の似顔     を配して、役者名を判じてもらおうという趣向だったように思われる。下出するが、これは画中に役者名や紋を入れ     ない「踊形容」と呼ばれる役者似顔絵なのである。それが案に相違して役者名とどまらず、巷間の見立は将軍・御三     家・幕閣にまで及んだ。下出『藤岡屋日記』の記事は、その代表的な判じなのであろう。ところで三田村鳶魚に「国     芳の大津絵」という一文があり、その中に安政元年刊墨摺複製の一枚絵が紹介されている。所収の図版には「嘉永六     年あとさきなり 浮世又平名画奇特」とあるほかに大津絵に対する判じも書き込まれている。以下、その書き込みと、     その一枚絵に添付されていたという紙片の記事と、鳶魚自らの下した判じとを、併せて引用したい。なお、これらの     中で紙片の判じが他のものと変わっている。例えば藤娘には「東都名所 カメイド」とあり、これは藤の名所亀戸の     意味で、明らかに江戸の名所を擬えたものと解釈している。要するに当時の人々は色々な角度から判じていたことを     示すものであろう。(『三田村鳶魚全集』廿一巻所収。引用するときは、添付された紙片を「紙片」、鳶魚のものを     「鳶魚」、一枚絵の書き込みを「一枚絵」と略記)。ところでこの「浮世又平名画奇特」の売り出しについて、『藤     岡屋日記』には「七月十八日配り」とあるが、下出の隠密報告によると、六月六日に改を受け、六月中旬から出板し     たとある(『大日本近世史料』「市中取締類集」二十一「書物錦絵之部」第二六七件)〉       右画組ハ、三芝居役者ニ見立     一 浮世又平             市川小団次     一 鬼の念仏             嵐  音八     一 福禄寿              板東佐十郎     一 藤娘               中村 愛蔵     一 鷹匠若衆             中村翫太郎     一 赤坂奴              中村 鶴蔵     一 猿ニ鯰              中山文五郎     一 大黒               嵐 冠五郎     一 かミなり             浅尾 奥山     一 弁慶               中山 市蔵     一 座頭               市川広五郎         鬼のやふになりて集し奉加帳せふきのいでて跡はおだぶつ              右大津絵之評、荒増左之通     浮世又平         水戸の御隠居  市川小団次        めっぱふな当りはづれのあぶな芸 又も浮世に出てさわがせる     一 評、水戸前黄門斉昭卿、御幼名敬三郎殿とて、部屋住之節は瘂の如く聾ニ成居、家督之後、急に       発明ニなり、余り利口過て我儘ニなり、増長致し、国中の堂宮を潰し、釣鐘を大筒ニ鋳直し、軍       を催し騒ぎ(ママ)故ニ押込隠居となり、其後、御免ニて、又々今度引出され、浮世ニ又出て、世を       平らげるから浮世又平だ。      〈水戸の御隠居とは水戸斉昭。弘化元年(1844)幕府から隠居謹慎を命じられた。(巷間では、斉昭が寺の釣り鐘       を大筒に鋳直したこと、それが原因で咎められたと見ていたようだ)その後、謹慎を解かれ、嘉永二年(1849)       には藩政に関与することも許された。そして折からの異国船騒動と世継ぎの問題、今度は幕政への出番が廻って       きた。これに対して世評は「世を平らげる」と期待を寄せる向きと「又も浮世に出てさわがせる」と覚めた見方       と相半ばしていたようだ。「紙片」「鳶魚」「一枚絵」はなし〉       鬼の念仏         十二代の親玉  嵐 音八        一生の皆行条(状カ)は敵役 能くいわれずにおわり念仏     一 評、鬼と言物ハ、世界ニ無之ものゝ由、寛政五年癸丑の御生れ、鬼門ハ丑寅之間ニて、牛の角ニ、       虎皮の脚半致し、いかれる赤き顔ハ、是亦鬼也、奉加帳ハ西丸御普請上納金、折角帳面ニ記せし       を、残らず割返せしハ、隠居の差差(衍)略なりとて、撞木振上ヶて□□□(ママ)で居る、又傘壱本       背負しハ、天が下をしろしめしたる尊き御身も、死出の旅路ハ道連もなく、たゞ傘壱本ニ付雨露       を凌ぎ、泪をこぼし、急に気がつひて後生心が出たから、是が鬼の念仏だ。      〈十二代の親玉とは将軍家慶をいう。嘉永六年七月二十二日没。せっかく奉加帳に記してある西丸の普請上納金を       返却したのは隠居の水戸斉昭の策略だと、顔を真っ赤にして撞木を振り上げている鬼が将軍家慶だという。背負       う傘は死出の旅路の雨露をしのぐもの、道連れもなく涙をこぼしつつ歩いてゆくと後生心が生まれてきたという       のが、これこそ柄にもない殊勝な振る舞い(鬼の念仏)というものだ。「紙片」は「東都名所 ソトカンダ」し       かしなぜ「鬼の念仏」が外神田なのか不明。「鳶魚」は言及せず。「一枚絵」には「下つ◎るゑんまハ町かがな       むあみだ」の書き込みがあるが意味不明〉       福禄寿            十三代目  板東佐十郎        疳症だ抔とわらひし見物も いよ坂三津が再来の芸     一 評、文政七申年の御生れ、生得利口成ど、御病気故ニ首を振てきやつ/\と欠歩行、故ニ軍配団扇       之印ニ九棒にハ少しなひ、中が赤ひといふ、今迄ハ馬鹿の様ニ思われ、急ニ利口ニなり、万事行届       き過るから、大黒が今からそんなに利口振てハならぬと、頭を押へて居る、御末子成共、只一人り       残り給ひ、御家督をふまへ、天下を知らし召、故に福禄寿だ。      〈文政七年生の十三代目は将軍家定。「疳症(カンショウ)公方(クボウ)」という渾名もついていたから、激して「きゃ       っ/\」と駆け回る光景を想像したのであろう。「故ニ軍配団扇之印ニ九棒にハ少しなひ、中が赤ひと」の意味       が分かりかねた。父家慶の男子で生き残ったのは家定のみ、それで天下の将軍になったのだから、実子に恵まれ       た長生きの象徴・福禄寿そのものだというのである。ところで「紙片」と「鳶魚」はこの評者とは異なる判じを       している。まずこれを福禄寿と呼ばず「げほう(外法)」と呼んでいる。また見立ても異なり、「紙片」は「東       都名所 カイゾクバシ」と判じ、「鳶魚」はそれを踏まえて海賊橋に屋敷を持つことから老中牧野備前守忠雅と       する。「一枚絵」はなし〉            藤娘    新下御台所 又、姉の小路共  中村 愛蔵        奥様が御局さまか知らねども 御贔屓きゆへに時に愛蔵     一 評、御縁組ハ、何れ五摂家、御紋ハ下り藤、今迄のハ弱かつたが、今度のハ達者だと、藤を振廻       して居ル、是急ニ不時の御下りだからふじ娘だ、又姉さまハ是迄用ひられ、大姉へだとかき廻し       た所が、不時ニ御目通り差扣ニ下ゲられ、難義する故ニふじ娘だ。      〈家定の御台所は嘉永元年(鷹司政煕の娘)と同三年(一条忠良の娘)と相次いで早世している。新しい御台所も       下がり藤の五摂家から迎えるのだが、今度こそは達者な娘だ。下がり藤(五摂家)の娘が不時のお輿入れをする       から藤娘だ。あるいは、この藤娘は大奥の上臈年寄・姉小路とも。理由は不時に出仕を禁じられ自宅謹慎になっ       たから藤娘だとする。藤と不時の駄洒落である。「紙片」は「東都名所 カメイド」。現在でも亀戸は藤の名所       である。鳶魚が祖母から聞いたという判じは「大奥のきり者、藤の枝といふお年寄」の由。「一枚絵」はなし〉                             鷹匠の若衆        一ッ橋七郎麿  中村翫太郎        たかを手に押へてくゝり袴とハ これ先例のかんたろう也      一 着物の印が七郎丸ニて、始終の〆くゝり袴をかんで、鷹野ニ出ても一ッ橋を飛こへ欠廻る、すこ       やかな御若衆だ、又着物の前ニ四ッの筋在、前を合せるから、しじう仕合せだろう。      〈一橋七郎麻呂は後の十五代将軍慶喜の幼名。弘化四年(1847)水戸の七郎麻呂は一橋徳川家を相続し慶喜と名乗       っていた。「鳶魚」は袖に「かん」の文字があることから、上記の「疳症公方」家定を擬えたとする。もっとも       中村翫太郎の「翫(かん)」を暗示するとも考えられる。「紙片」は「東都名所 タカナハ」図様の鷹と縄から       高輪としたのである。「一枚絵」はなし〉        猿ニなまず       水戸ニアメリカ  中山文五郎        穏やかに帰してやるが大兄い いやとぬかせバ神風が吹     一 日本国をゆるがす異国の大なまずを、御国の鹿島の要石で押へて居ル、又申の御事ハ西丸様ニて、       日本をゆるがす異国人を瓢箪の大筒ニて押へ、ぬらくらしても瓢箪でなまづだ。      〈大津絵の「猿に瓢簞鯰」を水戸家とアメリカに擬えた。「太平の眠りを覚ます上喜撰(ジョウキセン)たった四杯で       夜も眠れず」浦賀に来航した四隻のアメリカ蒸気船はさながら大地震のように太平の世を揺さぶった。評者は、       猿がその震源である鯰を鹿嶋神宮の要石で鎮めようとしていると見て、鹿嶋神宮は常陸にあるからこの猿を水戸       に見立てた。「申の御事ハ西丸様」ともあるから、この猿を西丸様(家定と改名するまえの家祥)とする見立も       あったようだ。「紙片」は「東都名所 カジバシ」、しかし鯰と鍛冶橋との関係は不明。「鳶魚」はこの「カジ       バシ」から想を得たのか、屋敷が鍛冶橋にあることから若年寄鳥居丹波守忠挙と判じている。「一枚絵」はこの       猿図に対する書き込みかはっきりしない所もあるが「みとはない」とある。巷間では水戸というがそうではない       という意味なのであろうか〉        雷        大筒稽古ニアメリカ人  浅尾 奥山        かみなりでおこしおこし(衍字)ぶつきりアメリカの とけてながるゝ日の本のとく     一 評、大筒の音ハ雷の如く諸人を驚かし、碇ニて浅深をはかるも人にいやがられる敵役、億(臆)病       者ハいつそ奥山へ逃て行ふと言から、異国船の上へぴつしやり落て、雷火で焼ころせバ、是がほ       んのかミなりだ。      〈東京湾を測量しつつペリーの黒船が発する大音量の砲音、まるで雷のようだと、肝を潰す思いをしたのだろう。       これを契機に日本でも大筒の稽古が本格的に始まる。「紙片」は「東都名所 アサクサ」。雷門から連想しての       浅草だろう。「鳶魚」は「雷年はしろいからすで、ほうだいから、はだかでのぼる手かゞり」という書き入れを       この「雷」に対するものと見て、さらに「品川の砲台は、嘉永六年八月より起工されしものなり」のコメントを       加えている。しかし「これは誰のことかしれず」とさじを投げている。それにしても「雷年」と云い「しろいか       らす」と云い、筆者には一向に意味不明だが、書き入れの主が腑に落ちたのは何だったのであろうか〉                                  赤坂奴              紀州  中村 鶴蔵        鎗の所作外に二人りとなき奴 大手を振てりきミ振り込     一 評、御先祖の是ハ有徳の君ときく、千代万代も栄ふべし、外ニ又とハなき血筋、壱本鎗の御道具       を、振てふり込西の国、入れバかさなる二重橋、昇り詰たる奴だこなり、又是を福山共言、余り       一人でやりすごし、はだしに成て逃るといふ。      〈紀州は紀州藩主。当時は慶福(後の十四代将軍家茂)。赤坂に藩邸があったので赤坂奴を紀州としたのだろう。       それにしても鎗持奴を御三家の一つに見立てるとは大胆である。一方で、当時の老中阿部伊勢守正弘(福山藩主)       とする判じもあったようだ。ただ「余り一人でやりすごし、はだしに成て逃る」の意味がよく分からない。「紙       片」は「東都名所 アカサカ」で、文字通り赤坂奴の赤坂。「鳶魚」もこの赤坂からそこに藩邸のある紀州侯と       した。「一枚絵」にも「キイ」とあり、これも紀伊の意味であろう〉                          大黒        御内証の御方ニ長岡  嵐 冠五郎        御表にあるは大黒柱にて 御内仏にも奥の大黒     一 評、福禄寿のあたまへ替紋の階子を懸て登り、其様ニ今から利口振てハわるひと頭を押へて居る、       自分もうへを見ぬ様にとて頭巾を冠り居る、是ぞゆるがぬ御棚の大黒、表向は跡へさがつて居ても、       内証ニて奥向を取締り、守護するから、内仏の大黒さまだ。      〈大黒様が長い福禄寿(外法)の頭に梯子を掛けて髪を剃るという図柄は大津絵の定番である。大黒に見立てた       「御内証の御方」とは、将軍から寵愛を受けてお手付きとなった大奥の御中臈をいうらしい。また長岡は老中牧       野備前守忠雅(長岡藩主)であろう。この評者は福禄寿を十三代将軍家定と判じているから、表向きの執政につ       いては老中の牧野が大黒柱になって、そして大奥内のことは正室がいないから御内証の御方が大黒となって、そ       れぞれ世話することになるのではないかというのだろう。御内仏は仏壇。大黒には住職の妻の意味もある。狂歌       はそれを踏まえたのであろう。「紙片」と「鳶魚」はなし。「一枚絵」は「からへ」か「から人」か、いずれに       せよ意味不明〉             弁慶鐘            芝ニ上野  中山 市蔵        三井寺へ行ふとハうぬ太いやつ 上への方よりなげし大かね        同役の早半鐘をやめにして 芝は大かね上野じん/\     一 評、是ニもとづき弁慶が、三井から上の方へ、大かねをひつかつぎ行んとせしが、かへろう/\       と言ゆへ、夫□(ママ一字欠)みとなげた所が三縁山、いよ/\大かね増上寺、真に徳が付ましたと、       りきミちらせしかげ弁慶。      〈芝は増上寺(浄土宗)、上野は寛永寺(天台宗)。川柳に「今鳴るは芝か上野か浅草か」漱石に「凩に早鐘つく       や増上寺」の句あり。芝も上野も鐘の音が有名。その昔、弁慶は三井寺の鐘を奪って延暦寺に引きずり揚げた。       ところが撞いてみると「イノー・イノー(帰りたい/\)」という響がする。それで怒った弁慶はその大鐘を谷       に投げたという伝説がある。それを踏まえて、今回、弁慶が上野から投げてみたら、その先が三縁山増上寺にな       ったというのである。評はこの伝説と将軍の葬儀をとりおこなう寺同士の争いとを結びつけた。この頃将軍の葬       儀は芝と上野が交代で執り行っていた。十代将軍家治は上野寛永寺だったので、十一代将軍家斉のときは当然芝       の増上寺であったにもかかわらず、上野の強引な働きかけがあって、寛永寺になってしまった。こういう因縁が       あったので、増上寺は今回の家慶の葬儀を絶対に執り行う必要があった。その宿願が通じたかして、この八月、       増上寺で家慶の葬儀が行われた。それは「かへろう/\」という鐘の思いが通じたからだという見立である。       「紙片」も「東都名所 しば」さらに「鳶魚」も「一枚絵」の一致して芝の増上寺である〉                              座頭            福山ニ筒井  市川広五郎        総録となる一ッ目のちからより 肥前のはても見ぬ人明鏡        水にあわぬ御茶の出花や阿部伊勢茶これハ肥前の銘茶嬉し野     一 評、御役始メにハ、浜松の嵐ニかわるいせの神かぜ抔と誉そやし、段々の御出世ニて、格式と御       加増ニて頂上致し、夫より皆々憎ミ嫉ミ出せしハ、当世の人気ニて、能言者一人もなし、乍然御       歳若ニて諸人の上ニ立勤候事、中々及ぶ事ニあらず、人ハめくらの様に言が、急度目の明た座頭       だ。       又、筒井ハ先祖から日和見の順慶と言が、日の岡峠の出張ニも、うかつに敗軍せず、当代になり       ても長崎奉行も在勤致し、町奉行も相手の榊原主計頭ハ、評判能て大目付ぇ投られ、筒井ハ評判       なくして、町奉行の大役を永く勤め、今西丸御留守居へ押こまれても、なくてならぬ人と見へて、       聖堂へ引出され、異国夷す文字さへも読あきらめるから、是はめくらでハない、目明の座頭だ〟      〈福山は前出のように老中阿部伊勢守正弘。筒井は西丸御留守居筒井肥前守政憲。阿部伊勢守、天保十四年二十五       歳で老中就任した時は、折から水野忠邦の天保改革の最中だったが、市中から「浜松(水野)の嵐ニかわる伊勢       (阿部)の神風」と褒めそやされるほどの大活躍をして期待に応えた。それが段々出世をすると、憎み嫉妬する       ものも多く、最近ではよく言う人は一人もいない。しかしあの若さ(当時三十四歳)で諸人の上に立つことでき       る人材はそういるものではない。人は盲目だというがそうではないという評である。阿部正弘の眼力に関しては、       嘉永三年(1850)の国芳の「【きたいなめい医】難病療治」でも「近眼ハ阿部の由、鼻の先計見へ、遠くが見へ       ぬと云事なるよし」とあったから、阿部伊勢守は先見の明がないとか見る目がないとか噂されていたのであろう。       総録とは盲人を統轄した官名。按摩に鍼術を授ける養成機関でもあるその屋敷が、本所一ッ目弁天(杉山流鍼術       の創始者杉山和一を祀る)の隣にあった。評は座頭から按摩に縁が深い一つ目を連想し、さらに眼力に噂のあっ       た阿部伊勢守に注目したのだろう。筒井の先祖順慶は、明智側か羽柴側かを天秤にかけて、洞ヶ峠をきめこんだ       ために日和見だなどと云われるが、すくなくとも敗軍の将にならなかった。(日の岡峠は洞ヶ峠の間違いか)さ       て当代の筒井肥前守はどうか。同時期、南北の町奉行として職を共にしたこともある榊原主計頭のほうは退任後       大目付に昇進したが、筒井のほうは評判がいまひとつであったかして、むしろ左遷気味の西丸留守居役を押しつ       けられた。しかしその後の経歴を見ると、間もなく学問所御儒役に就任しているから、学問もあり幕府には無く       てはならぬ人材なのである。その上異国語にも通じているから、とても文盲どころではない。立派な目明きだと       する。(同年十月、筒井は長崎において行われるロシアのプチャーチンとの交渉役を仰せつかり大目付格となっ       ている)「紙片」は「東都名所 フタツメ」で本所二つ目とする。「鳶魚」も上記同様、福山藩主阿部伊勢守正       弘で、その根拠としては、画中の座頭の黒餅紋が「福山侯の押さえの法被の印○」と同じであることをあげる。       また鳶魚は「フタツメ」を福山藩の下屋敷があるという本所二つ目と解して、この判じを補強している。「一枚       絵」は「あんま」「あんまりでめが出ない」の書き入れがある。また顔の目の下のところに「め」とあり、これ       は「二つ目」の意味か。いずれにせよ、この座頭を阿部正弘の擬えととらえる点では一致している〉        〈以上、一通り見てきたが、前述したように、これらの浮説は制作側、板元の越村屋や画工の国芳の思惑を越えた判      じなのである。天保改革のとき、幕府は役者絵・遊女絵の制作を禁じた。その結果、生業の大黒柱を失った浮世絵      界は、苦肉の作として、よく分からない絵柄だが人々に考えさせるような判じ物に活路を見いだした。しかもそれ      らは将軍家や時の老中など幕府の中枢にいる権力者を揶揄するような浮説を引き起こすことになった。その意味で      云えば、幕府は自らの命令によって、自らを批判するような判じ物を生み出してしまったともいえようか。このよ      うな判じ物の出現に幕府も真剣に向かい合う必要があると判断したようで、町奉行内には次のような動きがあった〉      参考史料「浮世又平名画奇特」関係
  △『嘉永撰要類集』『未刊史料による日本出版文化』第三巻「史料編」p464    (嘉永六年八月、北町奉行・井戸対馬守が南町奉行・池田播磨守宛に出した相談文書)     〝絵草紙改方之儀ニ付ては、度々申渡置候趣も有之候処、近頃取締向相弛候哉ニ相聞、既此程浮世又平名    画奇特と題号いたし候二枚継錦絵仕、如何之浮説を唱流布致し候由、伊勢守殿より御沙汰有之候ニ付、    組廻之者共え申付、風聞為相礼候処、掛名主とも改済之品ニて、板元並画工等も相分り候え共、素深意    有之儀とも不相聞侯間、兼て及御相談候通、吟昧ニは不取掛、名主共限先ツ売捌差留、板木摺溜之分共    取集置候様組廻之者より為及沙汰候、一体絵類之内、時之雑説又は絵柄不分様相認、人々ニ為考、買人    を為競侯様之類、間々有之、右は掛名主共心附候えは、不取締之儀は無之訳ニ付、下絵改方等弥入念弁    別、紛敷方ハ館市右衛門え可申聞旨、去ル午年同人より為申渡置候処、如今般不分明之絵柄ニ有之を名    主共改印いたし、殊ニ彼是浮説を生し候ても差留候心付も無之段、掛申付置候詮無之、甚等閑ニ付、此    上改方之規則申渡侯のみニては、取締相定問敷候間、一同掛引替候方ニも可有之哉、以後取締方等之儀    をも勘弁いたし可申聞も旨、別紙之通、館市右衛門え可申渡候哉と存候、依之錦絵其外風聞等相添、此    段及御相談候     丑八月〟    〈時の老中阿部伊勢守から、国芳画「浮世又平名画奇特」について、怪しげな噂が流布している由の指摘があったので、     町奉行・井戸対馬守は隠密同心等の廻り方を使って調べさせた。これは絵双紙懸り名主の改(アラタメ)(検閲)も通って、     板元・画工とも分かっているが、深意があるとも聞かないので、吟味には及ばなかった。改名主の権限で売買禁止、     板木と摺り溜めの分は集めさせた。このところ時の雑説や絵柄の不分明な絵を画いて、人々に考えさせ、買う側を競     わせるような類の絵が時々出る。午年(弘化三年)下絵の改を入念にして、紛らわしいものは町名主の館市右衛門に     申し出るよう改掛の名主へ通達しているが、今回、このような不分明の絵柄に改印を押し、さらに浮説が生じても制     止しようともしないのは甚だ職務怠慢である。これまでのように改方の規則を通達するだけでは厳しい取締りが出来     ないので、改掛の入れ替えを行ってはどうかという相談であった。その際、井戸対馬守が指し添えた風聞書が、以下     に示す隠密廻り同心による国芳の身辺探索結果報告と、絵草紙掛名主の風聞および代替名主に関する調査報告である。     まず国芳に関する書付から〉     △『大日本近世史料』「市中取締類集 二十一」(書物錦絵之部 第二六七件 p129)    (嘉永六年八月、隠密による国芳身辺調査報告書)   〝  新和泉町画師(歌川)国芳行状等風聞承探候義申上候書付   隠密廻    新和泉町画師国芳義、浮評等生候絵類板下認候旨入御聴、同人平日之行状等風聞承探可申上旨被仰渡候    間、密々探索仕候風聞之趣、左二申上候、                         新和泉町南側 又兵衛地借                          浮世画師 芸名 歌川国芳事 孫三郎 五十六才                                     妻 せゐ  三十八才                                     娘 とり   十五才                                       よし   十二才                                     母 やす  七十二才                                  外ニ人別ニ無之弟子 三四人    右国芳事孫三郎義は、亀戸町友三郎地借、浮世画師、芸名歌川豊国事庄蔵先代之弟子ニて、歌舞妓役者    共似顔板下重も之稼方有之候処、天保十二丑年以来、絵類御取締廉々之内遊女・歌舞妓役者似顔御制禁    之御沙汰ニ付、武者・女絵又は景色之絵類類等板元注文受候得共、右絵類ニては、下々市中之もの并在    方商ひ高格別ニ相減候故、国芳義は画才有之者ニ付、奇怪之図板下認候絵類売出し候得は、種々推考之    浮評を生候より、下々之ものとも競買求候間、板元絵双紙屋共格別之利潤相成候ニ付、国芳え注文致シ    候もの多相成候処、右絵類之内ニハ浮評強絶板いたし候へは、猶望候もの多相成、内々摺溜置候絵類高    直ニ競ひ売買いたし候人気ニ至り、板元絵双紙屋共存外之利潤有之仕癖ニ成行候間、兎角異様之絵類を    板元共注文いたし候様相成候ニ付、書物絵双紙懸名主共踊形容之絵柄は為売捌、此踊形容と申立候は、    歌舞妓役者共狂言似顔之図二候得共、名前・紋所を不印売出し候間、奇怪之絵柄ハ凡相止候、然処、踊    形容之似顔絵は豊国筆勢勝レ候ニ付、国芳えは板元より之注文相減、又通例之武者絵・景色等之絵類ニ    ては商ひ薄、旁国芳職分衰候ニ付、図柄工風いたし絵類売出し候へは、下々にて何歟推考之浮評を生シ    候より望候もの多、商高相増候様ニ図取いたし候て、職分衰微不致様ニ仕成し候由    〈隠密同心たちも、判じ物が生まれてきたのは、天保改革で遊女・役者似顔絵を禁じたためだと認識していたようであ     る。武者絵・子供の女絵・景色絵(風景画)だけでは暮らしが立たないので、板元たちは困ったすえに、「種々推考     之浮評」が生ずるような「奇怪之図」を国芳の画才に託して頼んだ。目論見通りこれが当たって浮説が立つ、そこで     これを絶版にすると、却って逆に人気を煽ることになって、高値で取引される始末。とかく「異様之絵」がますます     持て囃されることになった。そこでそれを抑えようと、役者似顔絵だが画中に名前や紋所を入れない「踊形容」と称     するものを許可したところ、ねらい通り「奇怪之絵柄」の方は止まった。ところが、この「踊形容」なるものは豊国     の方が優れているため、注文が豊国の方に集中し国芳への注文は逆に減ってしまった。国芳は図柄を工夫してこの衰     微を防ぐ手立てを講じなければならなくなった〉        一 浮世画師は惣体職人気質之者にて、其内国芳義は弟子も多ク、当時は重立候ものニ候得共、風俗は     野卑ニ相見、活達之気質ニて、板元共より注文受候砌、其身心ニ応候得は、賃銀之多少ニ不拘受合、     又不伏之注文ニ候得、賃銀多談合候ても及断、欲情ニは疎キ方之由、尤、図取之趣向等国芳一存ニは     無之、左之佐七え相談いたし候由                                神田佐久間町壱丁目 喜三郎店                                        明葉屋 左七                           此ものは狂歌を好、狂名は梅の家と申候由    右佐七は、茶番或は祭礼踊練物類之趣向功者之由、同人は国芳え別懇ニいたし候間、同人義板元より注    文受候絵類、図取を佐七え相談いたし候間、浮世絵好候ものは、図取之摸様にて推考之浮評を生し候由、    〈浮世絵師は総じて職人気質、国芳は弟子も多く当節の大立て者だが、立ち居振る舞いは野卑、気質は闊達で、板元か     らの注文も気に入れば賃金の多少に関わらず引き受け、不服だと高くとも断る。金銭等の欲望は薄いとのこと。図柄     や趣向取りについては国芳一存ではなく、左七(狂名梅の屋)と相談の上で制作する由。この左七は茶番師で祭礼の     際の踊りや練り物の工夫が巧みという。国芳とは極めて昵懇。国芳は板元から注文が入ると、左七と相談して浮説が     生ずるような絵柄を考案するようだ〉
   一 国芳居宅は、新和泉町新道間口二間半・奥行六問、自分家作ニ住居、家内八九人程之暮方ニ付、妻     子ハ相応之衣類も着候得共、其身ハ着替衣類等之貯も薄、注文受候画類賃銭相応ニ受取候得共、弟子     共之内えも配当いたし、其上欲情には疎キ方ニて暮方等ニは無頓着、借財等も有之候者之由、且、前     書佐七義、当六月廿四日、下柳原同朋町続新地家主、料理茶屋河内屋半三郎方借受、雅友共書画会催     候節、国芳義同所へ参り、畳三十畳敷程之紙中え、水滸伝之人物壱人みご筆ニて大図ニ認、隈取ニ至     り手拭え墨を浸シ隈取いたし候得共、紙中場広にて手間取候迚、着用之単物を脱墨を浸、裸ニて紙中     之隈取いたし候間、座輿ニも相成、職人之内にては、下俗之通言きおひもの杯と申唱候由    〈暮らし向き、妻子は相応の衣類を着ているが、本人はおかまいなし。画料はそれなりだが、弟子に分けてやったり、     また金銭にも無頓着だから、借金もあるようだ。左七が、さる六月二十四日、柳原の料亭河内屋を借り受けて、書画     会を開催したおり、国芳は畳三十畳もある紙に水滸伝の人物を一人藁筆で画き、手拭いで隈取りしようとした。とこ     ろががあまりに大きすぎて手間取るというので、国芳は着ていた単衣を脱いで墨に浸し、裸のまま隈取りしたという     ことだ。この座興が大いに受けて、国芳には「きおひもの」と云う評判も立っている〉      一 此節絵双紙屋共売買いたし候二枚続浮世又平名画奇特と題号国芳板元左之通、                                浅草東岳寺門前  嘉兵衛店                                地本草紙問屋仮組 越村屋平助    右之もの板元ニて売買いたし居候大津画之図柄ニ付、浮評を生候処、右二枚続大津画は、当六月六日、    草稿ヲ以懸名主共立会席え持参いたし候ニ付、禁忌之義も無之候間改印いたし、六月中旬より出板いた    し候由、右大津絵は、相画師浮世又平認候大津絵之画勢抜出候趣向ニて、表題傾城反魂香と申浄瑠璃文    句を取合候由、紙中人物似顔左之通、                              歌舞妓役者之内                       浮世又平   市川小団次                       雷      浅尾 奥山                       若衆     中村翫太郎                       福禄寿    坂東佐十郎                       座頭     市川広五郎                       鬼      嵐 音八                               但、音八は大柄ニ付、紙中えも大振認候由、                       奴      中村 靏蔵                       弁慶     中山 市蔵                       猿      中山文五郎                       娘      中村 相蔵                       大黒     嵐 翫五郎    〈この度の「浮世又平名画奇特」の板元は越村屋平助。改は六月六日、特に違犯もないので認められ、同月中旬には出     版された。これは浮世又平が画いた大津絵と「傾城反魂合」という浄瑠璃の文句を取り合わせたという。画中の似顔     は以下の通りとして、役者名を記しているが、おそらく紛れようもなく似ているのであろう、これは上掲の『藤岡屋     日記』と全く同じである。これは役者似顔絵であっても名前や紋が入っていないから「踊形容」と称されるものであ     る。おそらく国芳ら制作側の意図としては、単に許可された「踊形容」を画いたに過ぎないということなのだろう〉       右之外、流行逢都絵希代物と題号いたし候、画師国芳、絵双紙屋仮組浅草並木町弥兵衛店(湊屋)小兵    衛板元にて、三四ケ年以前売出候大津絵も、画勢抜出候趣向之図ニ候処、此錦絵売出之節より浮評等生    し不申候処、当六月中売出し候前書二枚続錦絵之分、浮評相生し候由、    右、密々承糺候風聞之趣、書面之通り御座候、且、孫三郎義前書之外不正之所業等可有之と探索仕候得    共、差当如何之所業等相聞不申候、依之右絵類相添、此段申上候、以上、      丑(嘉永六年)八月               隠密廻り〟    〈大津絵の趣向を使って、国芳は三四年以前にも「流行逢都絵希代物」という錦絵を湊屋から出しているが、このとき     は浮説が生じなかったが、しかし今回の「浮世又平名画奇特」には浮説が生じた。国芳(孫三郎)については前述の     通りで、さし当たり不正は見つからなかった。以上が国芳に関する隠密の結論である。「流行逢都絵希代物」には     「ときにあふつゑきたいのまれもの」のルビがあり、こちらは三枚続である」。中図に国芳自身と思しき人物が画か     れているが、顔の部分は例によって大津絵を配して巧妙に隠している。国芳の「判じ物」のように、そこには何かが     隠されているけれども、はっきりと姿は見せない。逆にそうだからこそ見物の想像をかき立てるという仕掛けだ。参     考までに引いておく〉
   「流行逢都絵希代物」 一勇斎国芳画 (国立国会図書館デジタルコレクション)        △『大日本近世史料』「市中取締類集 二十一」(書物錦絵之部 第二六七件 p124)    (絵双紙改掛に関する隠密の報告書)   〝  絵草紙懸名主風聞井人撰仕候儀申上候書付      隠密廻    書物絵草紙掛名主共、勤方井人撰仕候様、被仰渡候問、承糺候風聞之趣、左ニ申上候、                書物絵草紙掛 村松町  名主(村松)源六                同      弓 町  同 (渡辺)源太郎                同      大博馬町 同 (馬込)勘ケ由                同      新乗物町 同 (福嶋)三郎右衛門                同      浅草茅町 同 (浜) 弥兵衛                同      麻布谷町 同 (米良)太一郎                同   小石川白山前町 同 (衣笠)房次郎                 同      新両替町 同 (村田)佐兵衛    右は、絵草紙懸相勤居候もの共之内、源六儀は年来相勤、書物絵草紙之儀、古来より之御触被仰渡并取    締方等精細ニ相心得居、入組候儀ニ至候ては重ニ取計、惣体之締方も致し候得共、生質内端故、地本草    紙問屋仮組之内、下々人気六ケ敷もの共取締方迄は届兼候由、     〈村松源六は昔からのお触や取締方法には精通している。しかし気弱な性質からか、評判高い難しいものの取締につ      いては不十分なところがある〉
   一 源太郎儀は、右掛取調向等之節御用弁之者ニ候得共、品ニ寄同勤え打合不申、一己之取計も有之哉      ニて、懸同役共之内ニは、間柄不平之ものも有之由、     〈渡辺源太郎は時に同役と打ち合わせをせず独断で行う傾向があるから、不平をいう者もいる由だ〉
   一 勘ケ由・三郎右衛門儀は、近年懸被仰付候ものニ御座候処、勤向古役等え談合精勤之由、此内三郎      右衛門は活達之生質ニ付、当座急場之儀は行届候由、     〈馬込勘ケ由と福嶋三郎右衛門は最近掛になったばかりだが職務はよく果たしている、特に福嶋は闊達な性格で、と      っさのことにも対応できる資質がある〉
     右、源六・源太郎・勘ケ由・三郎右衛門は、引続掛り可被仰付哉、    〈以上の四名、引き続き掛に任命してはどうか〉
   一 弥兵衛・太一郎・房次郎之内、弥兵街儀は右掛急場調筋等不得手之由ニて行届兼、太一郎・房次郎      儀は御用立候ものニは候得共、地本草紙問屋共住居之場所と懸隔罷在候間、不弁之由、     〈浜弥兵衛・米良太一郎・衣笠房次郎のうち、浜は急場の調べ等が不得手、米良と衣笠は仕事内容に別段問題はない      が、地本問屋とは住居が遠く不便の由だ〉
     一 佐兵衛儀は年来相勤、前々は右掛之儀ニ付、取締向重ニ心付罷在候処、長病ニて同勤之ものえ長々      頼合居、掛勤方行届不申候由、     〈村田佐兵衛は長病で勤務は無理の由〉
     右、弥兵衛・太一郎・房次郎・佐兵衛儀は、不弁之儀も御座候間、今度右掛り御免可被仰付哉、    〈以上の四名はお役御免。次の二名は新規の絵草紙改掛候補〉                         壱番組 新革屋町 名主(木村)定次郎                  拾壱番組 雉子町  同 (斎藤)市左衞門    右定次郎・市左衛門は、神田辺内外共地本草紙問屋多ク住居致し候ニ付、右最寄前書勘ケ由壱人ニては    届兼可申哉ニ付、御差加相成候ハゝ、取締も相届可申由、    〈木村定次郎および斎藤市左衛門は、地本問屋が多い神田に住居があるから取締にも都合がよいというのが理由だ。こ     の斎藤市左衛門とは『増補浮世絵類考』や『武江年表』を編纂した斎藤月岑である〉                     四番組 坂本町   名主 新助後見 新右衛門                   六番組 西紺屋町  同 (坂部)六右衛門                    七番組 南八町堀町 同 (島崎)清左衞門                   八番組 宇田川町  同 (益田)弥兵衛    右、新右衛門・六右衛門・清左街門・弥兵街は、御組屋敷最寄芝神明町辺地本草紙問屋多住居致し候内、    別て仮組之内には、異様之図無改重板等致し候小前之もの多、右扱向は急場手早之ものニ無之候ては届    兼候処、当時前書源太郎壱人ニては行届不申候間、御差加相成候ハゝ、取締方も相届可申由、    〈芝神明町付近には地本問屋が多い。しかしここには「異様之図」や改を受けないで重版(無断複製)を出す仮組の問     屋なども多いから、急場のときには渡辺源太郎一人では手が廻らない。以上の四名の住居は芝神明に近いから増員す     れば取締も強化されてよいというのである〉                     三番組 浅草西仲町 名主(関口)吉左衞門    右は、浅草寺最寄無改異様之図絵類等立商ひ致し候もの多ク入込候場所に付、為心付方御差加相成候ハ    ゝ、行届可申由、    〈浅草寺付近には改を受けない「異様之図絵」を売買する者が多いから、一人増員すれば取締も行き届く〉        右、書物地本絵類等善悪板元致し候ものは、何れも下タ町ニ多罷在候間、是迄懸名主共之内四人御免、    跡前書定次郎・市左街門・新右衛門・六右衛門・清左衛門・宇田川町弥兵衛・吉左衛門、都合七人新規    右懸可被仰付哉、    〈板元は下町に多いので、これまでの改掛名主のうち四名はお役御免にして、木村・斎藤・坂本町名主後見・坂部・島     崎・益田・関口の七名を新規に任命してはどうか〉         一 是迄右懸役一旦被仰付候得は、外役と違年限も無之候間、自ラ心得方之弛ミニも可相成哉、此上勤     方ニ寄、年々御差替等御座候ハゝ、一際心付方入念可申哉、    〈これまで改掛は一端任命されと年限がないものだから、自ずと緩みが生じがちである。今後、勤め方次第で交替もあ     るということであれば、心の付け方も念入りになるのではないか〉       右、密々承合候風聞并人撰仕候趣、書面之通御座候、此段申上候、以上、      丑(嘉永六年)八月               隠密廻〟      〈天保改革後、遊女絵・役者似顔絵を禁じられたために、苦肉の策として生み出された判じ物が、絵柄の不分明なゆえ     に却って幕政批判を引き起こし、結果として老中まで身を乗り出す事態に至った。あげくは町奉行の検閲体制の見直     しまで迫ることになったのである。この「浮世又平名画奇特」に関していえば、巷間に流布した浮説は、ペリーの浦     賀来航など、刊行後の出来事と関連づけられたものも多い。つまり国芳ら制作側の意図とは全く関係のないところで     浮説が増殖したのである。実際のところ、国芳らは公認の踊形容を画いただけなのかもしれない。しかし「源頼光公     館土蜘作妖怪図」や「【きたいなめい医】難病療治」の国芳である。何か意図があって「奇怪な絵柄」を画いている     に違いないと思う。ここから付会が始まり浮説が生ずる。判じ物から生ずる浮説はあたかも虹のようなものであろう。     その発生源らしいところに行ってみても、そこには「奇怪な絵柄」があるばかり、誰もいないのである。これでは取     り締まりようもないだろう。当局は自らの政策のせいでやっかいなものを生み出してしまったのである〉    ◯『筆禍史』p157「浮世又平名画奇特」(宮武外骨著・明治四十四年刊)   〝『武江年表』嘉永六年の條に「六月廿四日柳橋の西なる柏戸(料理屋)河内屋半次郎が楼上にて狂歌師    梅の屋秣翁が催しける書画会の席にて浮世絵師歌川国芳酒興に乗じ三十畳程の渋紙へ水滸伝の豪傑九紋    龍史進憤怒の像を画く衣類を脱ぎ絵の具にひたして着色を施せり其闊達磊落思ふべし」とあるに、其翌    月には所謂お咎の筆禍ありたり、『続々泰平年表』嘉永六年の條に「癸丑七月国芳筆の大津絵流布す此    絵は当御時世柄不容易の事共差含み相認候判詞物のよし依之売捌被差留筆者板元過料銭被申候」とあり、    其詳細は記載せずといへども、大津絵とは『浮世又平名画奇特』と題せる二枚続の錦絵なるべし、此絵    には一勇斎国芳の署名と共に、天保十三年制定の名主月番の認印もある間に「丑六」とあり、丑六とは    嘉永六年癸丑の六月なること明確にして、年号も符合し居り、又図案は浮世又平が筆を執りて画きたる    雷公、鷹匠、藤娘、鬼、弁慶、奴、等が紙面を抜出て活動する画様なれば、「国芳筆の大津絵流布す」    といへる大津絵なるべし    時代懸隔のために、其画の寓意のある点を判断すること能はざれども、『浮世絵』第三号の所載に拠れ    ば、若衆に「かん」とあるは疳性公方の渾名ありし十三代将軍家定のこと、藤娘は大奥のきれ者藤の枝、    外方は老中牧野忠雅、赤坂奴は紀州侯、鯰は若年寄鳥居忠挙、座頭は老中阿部正弘、弁慶は芝増上寺の    ことなりなどとありて、同じく寓意の点は解し難しとせり、右の註は此錦絵の後に墨摺一度のものあり    て一々略註を附けしものありしに拠るといへり     数年前に発行せし『帝国画報』に「歌川国芳は大津絵の狂画を描きて発行せしが、当時を誹るものと     して発売を禁ぜられたり、此に掲ぐる大津絵はそれならんか、但しは故らに我顔を覆はせたるは、其     後の諷刺的作ならんか、とにかくに、国芳の大津絵は世に珍らしければ、茲に紹介す」とありて、画     様は前記の『浮世絵又平名画奇特』と略ぼ同様にして只抜けからの画紙散乱し、其中の一葉が画者の     顔を覆へるが如し差あるのみのものを掲出しありたり、但し版元及び彫工を異にし、発行年月の記入     はなきものなりし     〔頭注〕大津絵考    これは既に先輩の諸説紛々として其判定に苦しむ所なるが、吃の又平、浮世又平、浮世又兵衛、岩佐又    兵衛、此四名を同一人物と見て、大津絵をかきしは、此又平なりとする説あれども、我輩は大津絵かき    の又平と浮世又兵衛とは別人なりとするなり、岩佐又兵衛が時世粧を画きしが故に、浮世又兵衛と呼ば    れたるにて大津絵かきの又平が浮世又兵衛にあらざる事は、其画風の大に相違せるにても知らるゝなり、    又其人格閲歴の上に於ても大に相違せるが如し、尚大津絵かきの名は又平といふにてあらざりしならん    と思はるゝ程なり    名画の誉れといへる演劇の吃又などは、妄誕の戯作たること無論なるが、其根元は支那小説に出で、そ    れに浮世絵の名画師岩佐又兵衛を付会せしなるべし〟    ☆ 嘉永六年(1853)<九月>      筆禍「嵯峨の奥猫又草紙」合巻・二代目国貞画       処分内容 ◎版元 浜田屋徳兵衛 発禁            ◎画工 記載なし(二代目国貞は不問)       処分理由 不明           (中村座興行予定の「花野嵯峨猫またざうし」が佐賀鍋島家の抗議によって公演禁止。            その余波で合巻も発禁。但し『嵯嶺奥猫魔多話』と改題して発売した)         ◯『藤岡屋日記』第五巻 p378(藤岡屋由蔵・嘉永六年九月記事)   〝一 嵯峨の奥猫又草紙      作者花笠文京、二代目国貞画、板元南鍋町二丁目浜田屋徳兵衛    右種本は、五扁迄書有之候由、初扁びらは九月十日頃に処々へ張出し置、芝居初日に配り候積りにて相    待居り候処に、是も同時に御差止に相成候、大金もふけ致し候積り之処、差止られ、金子三十両計損致    し候由、右に付、落首、      浜徳もしけをくらつて損になり    然る処に、右合巻、名題書替に致し、嵯嶺奥(サガノヲク)猫魔太話と直し候て、初扁、十月十日配りに相成    候〟    〈中村座「花野嵯峨猫またざうし」に連動した際物出版だったが、下出のように、佐賀の鍋島家から抗議が入って狂言     は禁止になった。合巻も発禁になる。ただ合巻の方は『嵯嶺奥猫魔多話』と改題して、約一ヶ月遅れて出版に漕ぎ着     けた。国文学研究資料館の「日本古典籍総合目録」には楳田舎好文作・歌川国貞二世画・濱田屋徳兵衛板・嘉永七年     刊とある〉       参考資料(中村座興行「花野嵯峨猫またざうし」関係)
  △『藤岡屋日記』第五巻 p378(藤岡屋由蔵・嘉永六年九月記事)    (九月二十一日から興行予定の中村座「花野嵯峨猫またざうし」同月十五日番付を市中に配る)   〝右狂言大評判に付、錦絵九番出候也。    一 座頭塗込  三枚続 二番      【蔦吉/角久】    一 同大蔵幽霊 同   三番  照降町  ゑびすや                    神明町  いせ忠                     南鍋町  浜田や    一 碁打    三枚続 壱番  石打   井筒屋    一 猫又    同   壱番  銀座   清水屋    一 大猫    二枚続 壱番  両国   大平    一 猫画    同   壱番  神明町  泉市      〆九番也。    右は同日名前書直し売候様申渡有之候得共、腰折致し、一向に売れ不申候よし〟
   「鍋島の猫の怪」 豊国画 (早稲田大学演劇博物館・浮世絵閲覧システム)      〈「早稲田大学演劇博物館浮世絵閲覧システム」には、外題を「花野嵯峨猫☆稿」として、延べ三十八点が収録されて     いる。すべて豊国三代の作画である。この芝居は興行直前、佐賀の鍋島家から当家を恥辱するものと訴えられて、上     演禁止になった。鍋島家のこの抗議は頗る評判が悪い。佐倉宗吾狂言に対する堀田家の姿勢と比較して次のように言     う〉     〝去年、小団次、佐倉宗吾にて大当り之節に、堀田家にては、家老始め申候は、今度の狂言は当家軽き者    迄いましめの狂言也、軽き者は学問にては遠回し也、芝居は勧善懲悪の早学問也、天下の御百姓を麁略    に致時は、主人之御名迄出候也、向後のみせしめ也、皆々見物致し候様申渡され候よし。    鍋島家にて、狂言差止候とは、雲泥の相違なり〟    ☆ 嘉永六年(1853)追加 <十二月>      筆禍「死絵 助高屋高助」追善絵 画工不明       処分内容 ◎板元 板木屋太吉 商品没収       処分理由 無断出版か(下出『大日本近世史料』参照)        ◯『藤岡屋日記』第五巻 p452(藤岡屋由蔵・嘉永六年十二月記)   〝(十二月廿二日、二代目助高屋高助の葬送記事あり、略)     右高助義、霜月三日ニ名古屋ニて病気発し、去十五日ニ病死致候処、三日病気付候節、江戸へ知らせ    来り候ニ付、其日より追善売歩行候よし、右追善ニは、       磐正院高賀俳翁信士【助高屋高助/行年五十三】     名残り狂言、忠臣蔵ニて、大星由良之助之役。         辞世        如月や西へ/\へと行千鳥     右追善絵、板元湯嶋円満寺前板木屋太吉、三番出候、外ニ由良之助切腹之処出候得共、是ハ板元知れ    ず。     右追善絵、残らず霜月十九日ニ配り、同廿一日ニ懸り名主鈴木市郎右衛門取上ル也。     右追善絵取上ゲニ相成候ニ付、古き狂言ニて改書候絵を三番出す也、刈萱道心高野山之段二番、川津    三郎赤沢山之段一番出ル也、是ハ構ひなし〟        ◯『大日本近世史料』「市中取締類集 二十一」(書物錦絵之部 第二七三件 p167)   (絵草紙掛名主の町年寄・館市右衛門宛伺い書)   〝本郷春木町壱町目源太夫店板行摺万次郎、歌舞伎役者助高屋高助致病死候錦絵、無改之品致隠摺候〟    〈参考までに、助高屋高助の死絵を引いておく。但し戒名と辞世は『藤岡屋日記』と違っている。この死絵は「噂止院高    賀俳翁信士」「如月の空を名ごりやとぶ千鳥」〉
   「助高屋高助」死絵 画工不明 版元不明(早稲田大学・演劇博物館浮世絵閲覧システム)    ☆ 嘉永六年(1853)追加 <十月以降>      参考史料(無断出版および密売に関する文書)    ◯『大日本近世史料』「市中取締類集 二十一」(書物錦絵之部 第二七三件 p167)   (絵草紙掛名主の町年寄・館市右衛門宛伺い書。「当十月中とあるから」嘉永六年十月以降の文書)   〝一 地本草紙問屋仮組之内、禁忌之品無改ニて隠売買致し候もの有之候間、以来此もの共総て無改之品     仕入隠売買致し候品、仲問行事共・私共取調申上候ハゝ、以来仕入御差留、仮組引除被仰付被下置候     様仕度、此取締方厳重ニ相立不申候由ては、一統右ニ相泥麤漏ニ成行可申候、     〈以下、禁制品の無断出版や密売をしていた板元のリスト〉                         当時仮組之内 浅草新旅籠町代地(佐野屋)貞吉     此貞吉儀、小本日蓮記標題ニて絵柄不宜、并絵本太閤記ニ類候絵柄認、無改売買致し候、    〈佐野屋貞吉板『日蓮記』。絵柄が『絵本太閤記』に似て宜しくない。無断出版。画工不明。処分不明〉                         橋本町弐丁目 安兵衛店(園原屋)正 助    此正助は、七嶋全図隠仕入売買致し、当時御吟味中ニ御座候、    〈この「七嶋全図」とは「増訂伊豆七島全図」。園原屋正助、密売が発覚してとある。『享保以後大阪出版書籍     目録』の「絶版書目(売買差留開板不免許)」には「嘉永六丑年十一月 増訂伊豆七島全図絶版 売買禁止」とあり〉                          長谷川町 甚蔵店 (笹屋)又兵衛    此もの儀は、当時突留候品は無之候得共、好色本致隠売候、    〈笹屋又兵衛。具体的な作品名はないが、好色本(春本)密売の嫌疑がかかる〉                       霊岸嶋川口町 忠次郎店(志摩屋)鉄 弥    此鉄弥儀は、当時突留候品は無之候得共、時之雑説致隠売候、    〈志摩屋鉄弥。「時之雑説」の内容がはっきりしないが、判じ物の類をいうか。時節の雑説を流布する作品の密売容疑〉                     八町堀水谷町壱丁目 新吉店(松坂屋)金之助    此金之助儀は、大日本一之宮記と申中本ニて、当時御吟昧中ニ御座候、    〈『大日本一之宮記』は未詳。松坂屋金之助は板元か。吟味中〉                        小伝馬町三町目 弥兵衛店 (本屋)久 助    久助儀は、御大名席順付ニて、当時御吟味中ニ御座候、    〈本屋久助板。「御大名席順付」とは大名や旗本が将軍に拝謁する際の順番や控席を記したもの。吟味中〉                                            北嶋町 和吉店 (松坂屋)菊次郎    諸家陪臣鑑・御鎗早見・御大名席順早見ニて、当時御吟味中之上、御大名御行列付隠彫売買仕候、    〈上記はいずれも大名に関する出版物。松坂屋菊次郎、無断出版の上密売。吟味中〉                        甚左衞門町 弥七店 (佐野屋)富五郎    此富五郎儀ハ、江戸砂子細撰記と申小本出板致し、当時御吟味中ニ御座候、    〈佐野屋富五郎板『江戸砂子細撰記』吟味中。『藤岡屋日記』に同本に関する記事が出ている。この項の最後を参照     のこと〉                           新右衛門町 惣兵衛店(八幡屋)作次郎     此作次郎儀、乗合船雑説を可生絵柄之下絵差出候間、当十月中被仰渡後、右体不心得ニ付、私共方え留    置申候、    〈八幡屋作次郎が改掛に出した「乗合船」の下絵、浮説が立つような絵柄なので留め置くという。「当十月中被仰渡」     とは、この十月、町年寄・館市右衛門が「時之雑説又は絵柄不分様相認、人々ニ為考買人を為競候様之類」の絵につ     いては改を徹底するよう、絵双紙掛名主に通達したことを踏まえていうのであろう(『大日本近世史料』「市中取締     類集 二十一」(書物錦絵之部 第二七〇件 p152)それが名主を通して版元にも伝わったはずにもかかわらず     「雑説を可生絵柄之下絵差出」したのはけしからんというのである。出版不許可〉                地本草紙問屋 馬喰町弐町目 久兵衛店(山口屋)藤兵衛    此藤兵衛儀は、旧来之問屋ニて、此度大江山之錦絵下絵差出候処、異形之図ニて買人を為競候様成絵柄    ニ付、私共方え留置申候、当十月被仰渡も有之処、余不心得ニ御座候〟    〈山口屋藤兵衛。前項同様、競って買わせるような異形の絵柄を改に出すとは不心得だとして、改掛名主が留め置くと     したのである。出版不許可〉      参考資料    ◯『藤岡屋日記』第五巻 p291(藤岡屋由蔵・嘉永六年四月記事)  〝【江戸砂子】細撰記    是は□(ママ)・歌読・誹諧・狂歌・筆学・講釈・咄家・料理茶屋・菓子之外、食類吉原細見に拵へ候本也。     丑の春改正    作者は誹諧師白樹らで、八丁堀栄吉と申者、本を拵へ、江戸中名前を出し候者より入銀二百文取、本出    来致し、一冊宛配り、四両五分宛取候也。    右種を売本に致し候板元甚左衞門・信のや(ママ)富五郎、重板は釜藤名代にて、実は品川や久助板元也。    四月廿五日、本板取上げ、懸り名主福島三郎右衛門、北御番所懸り、二十七日、初呼出し、板元手鎖、    伊勢屋宇助・品川屋久助・家主預け也。    四月二十五日、白樹・栄吉・釜藤、出奔也〟    〈「日本古典籍総合目録」には『江戸細撰記(当代全盛江戸高名細見)』とある。江戸の名物を「歌読・俳諧~」以下     「菓子・食類」に至るまで、吉原細見の体裁で配置した案内書。浮世絵関係では「豊国 にかほ(似顔)国芳 むし     や(武者)広重 めいしよ(名所)」のように、絵師とその得意なジャンルを、遊女と禿(かむろ)名に擬えて記し     てる。俳諧師白樹の趣向で板元は魚屋栄吉(魚栄)。名前を出した先から200文の紹介料を取ったとある。これを売     本としたのが佐野屋富五郎。そのほか品川屋久助から重版(無断複製)が出た。本および板木は没収。板元佐野屋は     手鎖。伊勢屋、品川屋は家主預け。白樹、魚栄、釜藤は出奔したとある。『藤岡日記』には四月の出来事としてある     が、『大日本近世史料』の史料は、嘉永六年十月以降のもので「吟味中」とある。このあたり時系列に問題があるが、     取りあえず史料としてあげておく〉
   以上、嘉永六年の「筆禍」終了(2014/06/28)    「死絵 助高屋高助」および(無断出版および密売に関する文書)追加(2014/10/28)
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