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浮世絵の筆禍史(1) 天保十一年(1840)以前 筆禍史メニュー
   (寛政(1789)以前の筆禍については、画工に罪が及ばなかった作品でも、浮世絵師が関わった作品は載せた)      ※以下の漢字は次のように書き改めた。     者=は 与=と 江=え 而=て メ=貫 〆=締(〆そのまま使うこともあり)而已=のみ(2013/07/26成稿)     ☆ 貞享二年(1685)       筆禍『和国諸職絵尽』版本〈宮武外骨は真偽不詳とする〉       処分内容 発禁(伝聞)             ◎画工 菱川師宣(記載なし)       処分理由 甲冑図を載せたこと(「軍書類」の出版は禁制)     ◯「諸職絵尽」(宮武外骨著『筆禍史』p24)   〝浮世絵師菱川師宣筆にして全編四巻なり、其第二巻中に武家の専用たる甲冑製作の図を掲出せしは不都    合なりとて、一時其売買を禁ぜられたるが、後数年にして其禁を解かれたりといふ。何等記録の現存す    るものなく、此説の真偽不詳なり。     〔頭注〕甲冑師の図    元禄三年京村上平楽寺の開板にかゝる『人倫訓網図彙』にも甲冑師の図あり、又宝永末年頃の版本『職    工絵鏡』には『諸職絵尽』と同筆の図を出せり〟
   『和国諸職絵つくし』菱川師宣画(早稲田大学図書館「古典籍総合データベース」)      〈上記「古典籍総合データベース」本の巻末には「貞享二年丑二月吉日 絵師 菱河師宣」とある。「日本古典籍総合     目録」は『和国諸職絵尽』とする。寛文十三年(1673)五月、軍書類の出版を禁じているから、甲冑類の出版はそれ     に抵触するというのだろう(『徳川禁令考』「諸商勧業及濫資征権法度」)しかし実証するものがないから「此説の     真偽不詳」と保留するほかない。ただ、頭注に同じ甲冑図を載せた版本の存在を記しているところをみると、注者は     否定的なのかもしれない。いずれにせよ、絵師の菱川師宣が処罰されたという形跡はない。2013/06/20追記〉     ☆ 元禄四年(1691)       筆禍「百人男」〈「日本古典籍総合目録」に記載なし。宮武外骨は真偽不明とする〉       処分内容(書籍について記載なし)            ◎著者 山口宗倫 死罪              松枝小兵衛・柳屋又八郎・笹本次良右衛門・桑原和翁 日本橋より五里四方追放             〈桑原和翁が英一蝶かとされる〉       処分理由 人の噂を書き立てたこと(「噂事人善悪」の出版は禁制)     ◯「百人男」(宮武外骨著『筆禍史』p28)   〝『御仕置裁許帳』に曰く       〔江戸〕南大工町二丁目新道 徳右衛門店    山口宗倫     此者戸田山城守殿より御断に付、穿鑿の儀有之、当月十一日揚り屋入置候処、牢内にて相煩候に付、     養生の内、去廿日預置候へ共、同廿一召寄揚り屋に入、右之者人の噂を色々書立、百人男と記し、     其上行跡不宜、重々不届成故、同十月死罪            呉服町一丁目            松枝小兵衛            右同町長右衛門店          柳屋又八郎            同町茂右衛門店           笹本次良右衛門            本所三文字屋々敷又市店       桑原和翁     右四人之者共、山口宗倫儀に付、穿鑿之内揚り座敷     右四人之者共、山口宗倫と常々出合、人の噂を書記候節も指加り候様に相関候、不届成るに付、未十     月廿二日、日本橋より五里四方追放       元禄四年未十月  
      此『百人男』の一件に就ては、異説紛々として、殆ど其真偽を判定すべからざる程なり    右の中にある「和翁」といへるは、菱川和翁(或は和央)といひし多賀朝湖、後に英一蝶と改名したる    者なりと云ひ、然して又『百人男』を一に『百人女臈』と書きて、山口宗倫などには関係なく、英一蝶、    仏師民部、村田半兵衛等三人のわざなりとし、又更に英一蝶が伊豆の三宅島(或は大島、或は八丈島)    に配流されたるは、『百人女臈』の事にあらずして、綱吉将軍の寵婦お伝の方に擬せし朝妻舟の図を画    きしがためなりと云ひ、又或はさにあらず一蝶が当時、(犬公方時代)禁制の殺生をなせしがためなり    など、其異説紛々として、いづれをも信じ難く、『近世逸人画史』の著者などは「一蝶は元禄中故あり    て配流せらる、其罪を知らず、区々の説あれども取るに足らず」と云へり    予は『墨水消夏録』『近世江都著聞集』『川岡雑筆』『江戸真砂六十帖』『浮世絵類考』等の雑説を排    して、『一蝶流謫考』に引用せる小宮山昌世の『龍渓小説』の一部分を採りて、左の如く断案を附せん    とす    『百人男』の一件は、『御仕置裁許帳』に拠れる前掲の記録を事実として、其『百人男』の内容は、当    時要路の役人たりし者及び其他市井の雑人を、小倉百人一首に擬して批評したるものにして、其中に幕    府の忌諱に触れたる廉ありしものと見、右の中にある桑原和央は英一蝶の前名にして、彼は追放処分を    受けたる後赦免となりしか、又は内密にて江戸に帰り、再び多賀朝湖と称して画作の外、遊里に入浸り    て野ダイコを本業の如くにし、終に仏師民部、村田半兵衛等と共に、井伊伯耆守直朝、本庄安芸守資俊、    六角越前守広治(以上三名藩翰譜続編に拠る)等、所謂馬鹿殿様に遊蕩をそのゝかせし罪にて(「そゝ     のかせし」の誤植か)、元禄十一年伊豆の三宅島に配流されたるものと見るなり。       〔頭注〕英一蝶 『龍渓小説』の一節といへる記事は左の如し、    (以下、『龍渓小説』の「百人男」一件の記事を引く。同記事は、本TP「浮世絵師総覧」「英一蝶」の項目中、     『一蝶流謫考』所収の『竜渓小説』の一部分にあたる。
   『竜渓小説』「一蝶流謫」       〈『竜渓小説』での和翁は「百人男」の件で死罪になっている。とすると、和翁と一蝶は別人ということになるのだが、     このことに関して、宮武外骨の頭注記事は次のように続ける〉      英一蝶が和央或は和翁といひし事は他書に二三の証拠もあるに、一蝶の蝶古(朝湖)と和翁を別人と見    しは、誤聞なること明なり、加之、和翁が死罪となりしにあらざる事は下に載せる古記録にて知るべし    諸説混同して紛々たるも、和翁の一蝶が此一件に関係ありしがためならんか〟      〈上記『御仕置裁許帳』に拠れば「百人男」の著者・山口宗倫は死罪、さらにこれに桑原和翁以下四人が連座して、日     本橋から五里四方追放に処せられたという。ただ、この桑原和翁が英一蝶と同人かどうかは定かではない。一蝶、確     かに和央(和応)と称したことはあるが、桑原を名乗ったかどうかは分からない。因みに『藤岡屋日記』第一巻(文     政五年(1822)記)は和翁を別人とする説を紹介している。2013/06/20追記〉     ☆ 元禄六年(1693)       筆禍『古今四場居百人一首』版本       処分内容 絶板 発禁            ◎著者 童戯堂四囀・恋雀亭四染 ◎画工 鳥居清信(双方処罰なし)◎板元 軽追放       処分理由 歌舞伎役者を小倉百人一首の歌人に擬えたこと     ◯「古今四場居百人一首」(宮武外骨著『筆禍史』p31)   〝此書は浮世絵版画の祖菱川師宣に私淑せし鳥居清信筆にして、稀代の珍本なり。現今存在するものにし    て世に知らるゝは、東京松廼舎主人こと安田善之助所蔵と、予の所蔵との二部あるのみ、同氏所蔵本の    奥書に曰く     この書は元禄六年夏五月の開板にして、はじめは芝居百人一首と題号しゝが、河原者をやんことなき     小倉の撰に擬してものせるよし、尤憚あるよし、時の書物奉行脇部甚太夫より沙汰ありけば、四場居     色競と改題したり、此書に序跋もまた発開の年号を記さゞるにても、もとありけむを、此ゆゑに削り     たるなるべし、されどなほ体裁をかへざりければにや、更に町奉行能勢出雲守より発売を禁ぜられし、     梓主平兵衛といへるは軽追放に処せられぬ、かくて製本僅に数十部に満ずして、世に稀有の冊子にて     ありき、亡友豊芥子さしも奇冊珍本の秘蔵多かりし人ながら、此書ばかりはその名を聞くのみなりと     かたられき、おのれも年頃いかで見まほしかりしを、明治十年の頃、これも今はなき友なる元木魁望     子が秘蔵さるよし、ゆくりなく聞きでて、漸くにしておのがものとはなりぬるを、こたび文殊庵紫香     君の、強てといはれつるに、いなみがたうて、終に望みたまふにまかせ参らしつ      明治十七年甲申菊月 かくいふもとの持ぬし   関根 只誠    これに拠って、其絶版となりし理由を知るべし、出版者は軽追放の刑に処せられたれども、著画者は其    署名をせざりしがためか、何等の咎めを受る事もなかりしが如し    其記事体裁は左の如く、当時の名優一百人の評判記にして、市村竹之丞、中村伝九郎、市川団十郎、生    島新五郎、上村吉弥、猿若山左衛門、坊主小兵衛、森田勘弥等も其中に加はりあり、是等の記事は山東    京伝の『近世奇跡考』、烏亭焉馬の『歌舞伎年代記』其他にも考証として引用されたり     但し原本は縦九寸横六寸余の大冊なれども茲には写真にて宿刻せるものを出す。
   『古今四場居色競百人一首』童戯堂四囀、恋雀亭四染作・鳥居清信画    (東京大学付属図書館・電子版「霞亭文庫」)      〔頭注〕古今しばゐ百人一首    此書の挿画は鳥居清信壮年の筆なり、後世鳥居風と称さるる特殊の筆意に変化せざりし前のものなれば、    一見菱川派の画なるが如し    予の蔵本には十二枚に渉れる数名の序跋ありて、改題『古今四場居色競』の序跋も添へり、其一に于時    癸酉正月日(元禄六年)とあり    絶版即ち発売禁止となりし理由として『此花』第一枝に掲出したる一條は、全く予の誤見なりしこと関    根翁の記にて知れり    元木魁望子は烏亭焉馬の蔵本なりしを所持されたるならんか、安田氏は先年吉田文淵堂主人の手を経て、    大久保紫香氏の蔵本を百金にて購ひたるなりと聞く、その珍本なることを察すべし     安田氏の蔵本は先年の大地震にて烏有にきせり、予の蔵本は七円にて購入せしを、大正二年百二十円     にて売却せしが、今年春東京帝国大学図書館が購入せし渡辺霞亭の蔵本中に右の品なり、評価一千円     なりし〟    〈関根只誠によると、咎められた原因は、役者百人の評判を小倉百人一首に擬えて行ったこと、つまり当時は被差別民     だった歌舞妓役者を貴族等に擬えたことにあるようだ。本は絶板発禁、板元は軽追放に処せられたが、著者や絵師は     お咎めなしとする。2013/06/20追記〉     ☆ 元禄七年(1694)       筆禍『鹿の巻筆』版本       処分内容 板木焼却             ◎著者 鹿野武左衛門 流罪(大島六年)◎画工 古山師重(記載なし)◎板元 追放       処分理由「妖言の種となるべき由なし事を版行し、それがため人心を狂惑せしめし科」           (「噂事人善悪」の出版は禁制)     ◯「鹿の巻筆」(宮武外骨著『筆禍史』p35)   〝此の書は落語家鹿野武左衛門の著作にして古山師重の挿画あり。貞享三年出版なりしが、其九年後即ち    元禄七年に至り、版木焼棄の上、著者武左衛門は伊豆の大島に流刑となりしなり。其事件の顛末は諸書    旧記に散見するところなれども、関根正直氏の記されたる『落語源流談』及び『徳川政府出版法規抄録』    には、諸記を総括して簡明に記述しあり、乃ち左の如し     元禄六年四月下旬、或所の馬もの語りしには、本年ソロリコロリと呼べる悪疫流行す、之を除けんに     は南天の実と梅干を煎じて呑めよと、且「病除の方書」とて一小冊を発兌せし者あり。奇を好むは人     情の習、一犬虚を吠え万犬が実を伝えて、江戸の人々大に驚怖し、南天の実と梅干を買ふほどに、其     価常よりも二十倍し、唯此事のみかまびすく(ママ「かまびすしく」の誤記か)世業も手につかず、これに     依て六月十八日、月番の町奉行能勢出雲守より布告に曰く      一、頃日、馬物言候由申触候、個様の儀申出し不届に候、何者申出候や、一町切に順々話し次者先      々段々書上げべく候、初めて申出候者有之候はゞ、何方の馬物言候や書付致し、早々可申出。殊に      薬の方、組迄申触候由、何れの医書に有之候や、一町切に人別探偵書付可差出候、隠し置候はゞ、      曲事たるべく候間、有体に可申出もの也     斯く厳重に触しかば、各町に於て探索せしに、此事の起りは、俳優見習の齋藤甚五兵衛といふ者、堺     町市村座にて市川団十郎の乗りし馬となりしに、甚五兵衛贔屓の者見物に来りしかば、甚五兵衛馬の     まゝにて応答せりといふ落語を、当時の落語家鹿野武左衛門といへる者作りて、鹿の巻筆と名(づ)     けし書に筆しに基き、神田須田町八百屋総右衛門并に浪人筑紫園右衛門申し合せ付会の説をなし、梅     干呪方の書物等を以て、金銀を欺き取りし事ども露顕せしかば、関係の数人入牢の末、翌元禄七年三     月、筑紫園右衛門は首謀なれば、江戸中引廻しの上斬罪となり、八百屋総右衛門は流罪のところ牢死     せり、落語家武左衛門は右の妖言及び詐欺一件に毫も関係あるにあらねど、畢竟するに、妖言の種と     なるべき、由なし事を版行し、それがため人心を狂惑せしめし科によりて、同年三月二十六日、伊豆     の大島へ流され、板木元弥吉といへるは追放となり、刻板は焼捨となる、武左衛門は大島にて六ヶ年     謫居せしが、元禄十二年四月赦免になりて江戸に帰れり、然れども身体疲労のため同年八月歿す、歳     五十一    予が曩日『鹿の巻筆』全部を翻刻発行せし時、其例言中にも右の顛末を摘記し、且つ最後に左の如き評    言を附せり     詐欺漢が落語本を見て、奸策を案出したりと云ひしとて、其奸策に何等の関係なき滑稽落語の作者及     び版元をも罰するは、古来法典の一原則とせる「遠因は罰せず」と云ふに背反したる愚盲の苛虐と云     ふべきなり        〔頭注〕馬がものいふ物語    『鹿の巻筆』にある馬がものいふ落語といへるは、左の如き事なり       堺町馬の顔見せ     市村芝居へ去る霜月いり出る齋藤甚五兵衛といふ役者、前方は米がしにて刻煙草売なり、とつと軽口     器量もよき男なれば、とかく役者よかるべしと人もいふ我も思ふなれば、竹之丞太夫元へつてを頼み     出けり、明日より顔見せに出るといふて、米がしの若き者共頼み申けるは、初めてなるに、何卒花を     出して下されかしと頼みける、目をかけし人々二三十人言合てせいろう四十、また一間の台に唐辛を     積みて上に三尺程の造り物のたこ載せ、甚五兵衛殿へとはり紙して芝居の前に積みけるぞおびたゞし、     甚五兵衛大きに喜び、さて/\おそらくは伊藤庄太夫とわたくし花が一番なり、とてもの事に見物に     御出と申ければ、大勢見物にまいりける、されども初めての役者なれば、人らしき芸はならず、切狂     言の馬になりて、それも頭は働くなれば、尻の方になり、かの馬出るより此馬が甚五兵衛といふほど     に、芝居一とうに、いよ馬殿/\と暫くは鳴も静まらずほめけり、甚五兵衛すこ/\ともならずおも     ひ、いゝん/\と云ながら舞台中を跳ね廻つた    といふ一笑語なり、これにて流刑六年とは、時代の罪ともいへず、実に気の毒の事なりける〟
    『鹿の巻筆』「馬がものいふ落語」鹿野武左衛門作・古山師重画     (早稲田大学図書館「古典籍総合データベース」)       〈『鹿の巻筆』所収の鹿野武左衛門の落語「馬がものいふ物語」と梅干しとを「付会」して、金銀をだまし取った浪人     筑紫園右衛門と八百屋総右衛門は、それぞれ斬罪と流罪に処せられた。そしてそれに連座するように鹿野武左衛門も     「妖言の種となるべき由なし事を版行し、それがため人心を狂惑せしめし科」で、六年の流刑処分。しかしこれも挿     絵が問題視されたわけではない。たまたま挿絵を請け負った本がその内容を咎められたに過ぎない。2013/06/20追記〉     ☆ 享保八年(1723)      筆禍『百人女郎品定』版本       処分内容 絶板(伝聞)             ◎画工 西川祐信(記載なし)       処分理由 宮廷内の隠し事を画き、枕絵にしたこと(「好色本」は禁制)    〈宮武外骨は絶板は否定しないが、馬場文耕の『近世江都著聞集』にいう処分理由、枕絵云々については否定している〉     ◯「百人女臈品定」(宮武外骨著『筆禍史』p47)   〝宝暦七年、馬場文耕筆記『近世江都著聞集』英一蝶の項に曰く、    百人女臈の絵共を本として、其後洛陽西川祐信といへる浮世絵師、好色本枕絵の達人といはれしが、或    年百人女臈品定といふ大内の隠し事を画き、其後夫婦契ヶ岡といふ枕絵を板木にして、雲の上人の姿を    つがひ絵に図し、やんごとなき方々の枕席、密通の体を模様して、清涼殿の妻隠れ、梨壺のかくし妻、    萩の戸ぼそのわかれ路、夜のおとゞの妻むかへと、いろ/\の玉簾の中の、隠し事を画きしに因て、終    に公庁に達して、厳しき御咎にて、板を削られ絶板しけるとかや、是世人の多く知る所也云々    又渓斎英泉著『無名翁随筆』に曰く、    西川祐信、古今比類なき妙手なり、春画は此人より風俗大に開けたり、百人美女郎とて、雲上高位の尊    きより、賤のいやしき迄、各其時世の風俗を写し画き分たり、後又是を春画にかきしかば、罪せられし    と云、筆意骨法狩野土佐の二流をはなれず、委く画法にかなひし浮世絵師は此人に限れり、或人の蔵書    に、祐信、画の事にて罪せられし事を書きたるものを見たりしが、書名を忘れたり云々      此両記事によれば、西川祐信は始め『百人女臈品定』といふ普通の絵本を出版せしめ、後又其図を春画    に画きかへて出版せしめしが為め、罰せられたりと云ふにあり、    然れども、春画の『百人女臈品定』といふ版本あるを聞かず、其絶版となりしは享保八年正月出版のマ    ジメなる絵本『百人女臈品定』なるべし、同絵本は、上は女帝皇后より下は湯女鹿恋いの買女に至るま    での風俗を描出したるものなるが、河原者を小倉百人一首に擬したりとて、絶版となりし前例もあれば、    至尊高貴の方々を賤しき買女等と共に画き並べたるは上を畏敬せざる仕業なりとて、公家より絶版を命    ぜられたるならん。然るに之を春画のためと伝ふるに至りしは同人が春画の妙手なりと云ふに付会せし    説ならん乎、講釈師馬場文耕の記述は所謂見て来たやうな嘘なるべし。     〔頭注〕百人女郎品定    マジメの『百人女臈品定』女臈にあらずして女郎と書けり     禁庭に百官百寮の座をわかてり、百敷の大宮人とは訓つゞけり、美女に百の媚あり云々    といへる八文字舎自笑の序文ありて大和画師西川祐信と署せり、大本二冊にて版元は京麩屋町通誓願寺    下ル町の書肆八文字屋なり    其画様は茲に模出せるが如きものにして別に説明文附けり〟
   『百人女郎品定』西川祐信画(早稲田大学図書館「古典籍総合データベース」)       〈『百人女郎品定』が絶板処分になったという噂の源は、どうやら馬場文耕の宝暦七年(1757)の著書『近世江都著聞     集』にあるらしい。宮武外骨は「講釈師馬場文耕の記述は所謂見て来たやうな嘘なるべし」とこれを否定するが、祐     信には「好色本枕絵の達人」という評判もあってか、渓斎英泉の『無名翁随筆』(天保四年(1833)成立)にもあるよ     うに、祐信が春画で罰せられたという噂は、別に常について回っていたようだ。『近世江都著聞集』のいう枕絵本     「夫婦契ヶ岡」とは「日本古典籍総合目録」のいう『夫婦双の岡』(正徳四年刊)か〉    ☆ 享保十九年(1734)      筆禍 好色本 絶版及び売買停止 だが処分の理由がはっきりしない    ◯『日本木版挿絵本年代順目録』(漆山又四郎著・日本書誌学大系34・『絵本年表』所収)   〝此年三月、     ◯色千鳥 大津屋興左衛門   ◯思のたね 伊丹屋新七    ◯好色友ちどり 藤屋伊兵衛     ◯好色ひみつばこ 伊丹屋源七 ◯玉つばさ 毛馬屋八郎右衛門 ◯千話枕 大津屋      ◯花のまく 雁金屋◎七    以上絶版(売買停止申渡 板木屋行事も取上)〟    〈この記事の出典は不明。書名から好色本として取締の対象なったものと思われるが、禁忌に触れたのは挿絵か本文か     不明〉     ☆ 明和六年(1767)       筆禍『明和妓鑑』(名鑑)       処分内容 発禁             ◎作者 淡海三麿(栗本兵庫)流罪(遠島)◎画工 勝川春章(記載なし)            ◎板元 伏見屋(記載なし)       処分理由 役者評判記を武鑑に擬えたこと     ◯「明和妓鑑」(宮武外骨著『筆禍史』p66)   〝太(ママ)田南畝(蜀山人)の随筆『半日閑話』明和六年の條に「十月、此節役者評判記を武鑑になぞらへ    て梓行す、明和妓鑑と名づく、公より是を禁ず、実は塗師方棟梁栗本兵庫の作、手代かはりて遠島せら    るといふ」とある、是は江戸三座と称せられた中村座、市村座、森田座の役者及び狂言作者、囃子方、    芝居茶屋等を武鑑に擬して著作したのを、幕府では、河原乞食の事を天下鎮撫の武家に擬して述作する    などは、公儀を畏れない不届至極の者なりとあつて、出版即時に発売禁止を命じ、作者淡海の三麿とは    何者かと糾問し、実は栗本兵庫の著作なれども、手代何某主人に代つて其罪を受ける事になり、その何    某が遠島流刑に処せられたと云ふ事である、此『明和武鑑』といふのは、半紙四ッ折の小形本であつて、    総数七十四枚ある、画者の名は署して無いが、勝川春章の筆らしい云々(此花)     〔頭注〕明和妓鑑と勝川春章    (*序文あり、省略)著者淡海三麿の長き序あり、此序の文字も浮世絵師勝川春章の筆蹟に似たり、挿    画と共に此序もかきしなるべし     明和妓鑑の版元は 本町四丁目 書栄堂 伏見屋清兵衛〟
   『明和伎鑑』淡海三麿著・勝川春章画?(東京大学付属図書館・電子版「霞亭文庫」)        〈『明和妓鑑』の罪状は、被差別民の役者を武家のように見なして、役者評判記を武鑑に擬えたという点にある。挿絵     を担当したとされる勝川春章の図様が問題視されたわけではない。なお、大田南畝の『半日閑話』明和六年の條には     『明和伎鑑』に先だって「六月、此節娘評判甚しく、評判記など写本にて出る。よみ売歌仙などにしてうりあるく。     公より是を禁ず」とあるから、このころ娘の評判記が盛んに持てはやされたようだ〉     ☆ 安永七年(1778)       筆禍『三幅対紫曾我』(黄表紙)       処分内容 絶板 発禁(伝聞)             ◎自作・自画 恋川春町(記載なし)◎板元 鱗形屋(記載なし)       処分理由 藩主を作中に仮託したこと     ◯『宴遊日記』(柳沢信鴻記)   〝三月 一日、今年新刻草双紙三幅対紫曾我と云本、久留米侯・松江隠侯・溝口隠侯を作りし故板を削ら    れ、当時世に流行を留られし由、幸ヒ八百所持ゆへ取寄せ見る〟      〈『三幅対紫曾我』は恋川春町自作・画。久留米侯は藩主・有馬頼徸。松江隠侯は出雲松江藩六代藩主・松平宗衍(南     海公)。溝口隠侯とは越後国新発田藩七代藩主・溝口直温。この三侯を曾我物の三幅対(秩父重忠・工藤祐経・曾我     十郎祐成)に擬えたとされる。工藤祐経が「年来の勤功によりて、是れまで家格になき、一臈別当仰せ付けられけれ     ば」とあるところなど、有馬頼徸が「国鶴下賜」を三度受け伊達・島津に並ぶ大藩になったことなどを連想させるの     であろうか。ただこの絶板を疑問視する説もあり、棚橋正博氏は『黄表紙總覧』の備考において、「『宴遊日記』に     「板を削られ」とあるが、その形跡はないとし、削られたとするのは大当たりせし故の風聞か」とする〉     ☆ 天明八年(1788)      筆禍『文武二道万石通』(黄表紙)       処分内容 絶板            ◎作者 朋誠堂喜三二(藩主より断筆を命じられる)            ◎画工 喜多川行麿(記載なし)◎板元 蔦屋重三郎(記載なし)       処分理由 幕政諷刺     ◯「文武二道万石通」(宮武外骨著『筆禍史』p74)   〝朋誠堂喜三二(平沢平格)の著にして、画は喜多川歌麿の門人行麿の筆なり、此書が絶版となりしは、    其序文にも「質勝文野暮也、文勝質高慢也、文質元結人品として、月代青き君子国、五穀の外に挽ぬき    の、おそばさらずの重忠が、智恵の斗枡に謀られし、大小名の不知の山、三国一斗一生の、恥を晒せし    七温泉の垢とけて、三島にあらぬ大磯の化粧水に、しらげすませし文武二道万石通と名けしを云々」と    ある如く、これ天明七年六月、松平越中守定信が幕府の老中となりて、諸政を改革し、文武二道の奨励    をなせし事を諷刺せしものにして、記述は鎌倉時代の事に托しあれども、全篇の主旨は、松平定信の政    策を愚視せしものなりしかば、市民の好評を得て売行盛んなりしが、忽ち絶版の命を受くるに至りしな    り    著者喜三二こと平沢平格は、佐竹藩の留守居にして、多能の人なりしも、此戯作のため、藩主より諭旨    ありて、爾後戯作の筆を絶ちしといふ〟
   『文武二道万石通』朋誠堂喜三二作・行麿画(早稲田大学図書館「古典籍総合データベース」)       〈作品は絶板処分。作者の朋誠堂喜三二はこの件で藩主より断筆を命じられたという。それでは画工・喜多川行麿や板     元蔦屋重三郎はどうであったのか。喜三二は藩臣だからもとより町奉行の管轄外、しかし行麿や蔦屋は町人である。     奉行所は彼らに対して動かなかったのか、動けなかったのか。それとも藩臣の身分に拘わるような裁定を、町人相手     とはいえ町奉行が下すわけにはいかないという遠慮が働いたのか〉     ☆ 寛政元年(天明九年・1789)       筆禍『天下一面鏡梅鉢』(黄表紙)       処分内容 絶板             ◎作者 唐来三和(記載なし)◎画工 栄松斎長喜(記載なし)            ◎板元 蔦屋重三郎?(記載なし)       処分理由 幕政諷刺       筆禍『鸚鵡返文武二道』(黄表紙)       処分内容 絶板             ◎作者 恋川春町(同年七月死亡)◎画工 北尾政美(記載なし)            ◎板元 蔦屋重三郎(記載なし)       処分理由 幕政諷刺       筆禍『黒白水鏡』(黄表紙)       処分内容 絶版             ◎作者 石部琴好 手鎖のち江戸払い ◎画工 北尾政演 過料            ◎板元 不明(記載なし)       処分理由 江戸城内の刃傷沙汰を題材としたこと     ◯「天下一面鏡梅鉢」(宮武外骨著『筆禍史』p77)   〝唐来三和の著にして、画は栄松斎長喜なり、天明九年即ち寛政元年の出版なるが、是亦前の『文武二道    万石通』と同じく、白河楽翁こと松平定信の文武二道奨励政策を暗に批評したる戯作なりしがため、同    く絶版の命を受けたるなり、其目次にも「上の巻、末白川の浪風も治まりなびく豊年の国民「中の巻、    天下太平を并べ行はるゝ文武の両道「下の巻、月額青き聖代も有り難き日本の風俗」とありて、天満天    神の神徳に擬して褒むるが如くなれども、実は愚弄したる戯作なりしなり〟
   『天下一面鏡梅鉢』唐来三和作・長喜画(東京大学付属図書館・電子版「霞亭文庫」)     ◯「鸚鵡返文武二道」(宮武外骨著『筆禍史』p78)   〝恋川春町の著にして、画は北尾政美の筆なり、此黄表紙も亦前に同じく絶版となる、『青本年表』寛政    元年の項に曰く     鸚鵡返文武二道は、前年喜三二の出せる文武二道万石通の後編に擬しての作なれば、所謂文武のお世     話を主題とし、以て怯弱游惰の武士を微塵に罵倒せし痛快の諷刺作なれば、洛陽の紙価を動せし売行     にて、好評嘖々たりしも亦主家(松平丹後守)の圧迫に遭ふのみならず、一身の進退に関係を及ぼさ     む勢なりしに、今秋七月を以て不帰の客となりし云々〟     ◯「黒白水鏡」(宮武外骨著『筆禍史』p79)   〝石部琴好の著にして、画は北尾政演の筆なり、此黄表紙も亦絶版となり、著画者は刑を受けたり、『法    制論簒』に曰く、     寛政元年の春、石部琴好と戯名せし者、『黒白水鏡』と題して、黄表紙と称する草双紙を著し、北尾     政演これを画けり、琴好は本所亀沢町に住せる用達町人松崎仙右衛門といへる者にて、政演は山東京     伝のことなり、然るに此の冊子は天明の始め、麾下の士佐野政言(善左衛門)が当時威勢熾なりし老     中田沼意次を、営中にて刃傷に及びし次第を書綴り、絵を加へたるものなるからに、忽ち絶版を命ぜ     られ、作者琴好は数日手鎖の後、江戸払となり、画工は過料申付けられたりき〟
   『黒白水鏡』石部琴好作・北尾政演画(早稲田大学図書館「古典籍総合データベース」)       〈『黒白水鏡』は、佐野善左衛門が田沼意次の嫡男意知を襲撃した天明四年の一件などを踏まえて、田沼派の凋落を画     いた黄表紙。作品は絶板を命じられ、作者の石部琴好は手鎖の後、江戸払い、そして画工の北尾政演(山東京伝)は     過料(罰金)に処せられた。黄表紙の画工が罰せられたのはこれが初めてか。これまで、所謂浮世絵師が画工として     加わった作品が当局の忌憚に触れたことはあったが、画工そのものが咎められたことはなかった。浮世絵が当局の視     野の中に看過できないものとして入ってきたのである〉     ☆ 寛政三年(1791)       筆禍『仕掛文庫』『錦の裏』『娼妓絹籭』(洒落本)       処分内容 絶板 発禁か             ◎自作・自画(山東京伝・北尾政演手鎖五十日            ◎板元 蔦屋重三郎 身上半減の闕所(財産半没収)            ◎地本問屋行事 伊勢屋某・近江屋某 軽追放       処分理由 遊女の放埒の体を書綴りしこと(「猥りがはしき事等」の出版は禁制)     ◯「仕懸文庫、錦の裏、娼妓絹籭」(宮武外骨著『筆禍史』p81)   〝明和安永頃より洒落本又は蒟蒻本といへる、遊里遊女遊客等の状態を細写せる小冊物流行し、戯作者山    東京伝(浮世絵師北尾政演)の如きも亦其時弊に投じて著作したるもの少からざりしが、前項所載の取    締令の発布ありしにも拘らず、本年も亦重ねて此三種(各一冊)の蒟蒻本を出版せしががめ、版元蔦屋    重三郎は財産半没収、著者京伝は戯作者界に前例なき手鎖の刑を受けたり、其吟味始末書に曰く    〈以下の文は『山東京伝一代記』(〔俗燕石〕②410)〉にもあり。句読点はそれを参照して補った。また〈 〉の文     字は『山東京伝一代記』に拠った〉       新両替町一丁目家主伝左衛門悴    伝蔵 〈亥〉三十一歳     右之者儀、親伝左衛門手前に罷在、浮世絵と申習し候絵を認め、本屋共へ売渡渡世仕候処、五六年以     前より、不計草双紙読本の類作り出し、右本屋共へ相対仕、作料取て売渡来候に付、当春も新板の品     売出可申と、去年春頃より追々作り置候仕懸文庫と申す外題の読本、其外、錦之裏、娼妓絹籭と申読     本、右三部の内、仕懸文庫と申は、御当地深川辺料理茶屋にて、遊興致候体を合含、并古来より、歌     舞伎芝居にて狂言仕候曾我物語の趣向に、当地の風俗を古今に準へ書つゞり、錦之裏と申は、前々よ     り浄瑠璃本に有之、摂津神崎の夕霧と申遊女、伊左衛門と申町人と相馴染る趣、并に娼妓絹籭の儀は     是亦浄瑠璃本に有之候、大坂新町の梅川と申遊女、忠兵衛と申町人に相馴染候趣を、御当代新吉原町     の体に準へ相綴り、同七月中、右三部共、前々取引仕候草双紙問屋蔦屋重三郎方へ売遣候、対談にて     相渡、作料、画工共、紙一枚に付、代銀一匁づゝの割合にて、三部代百四十六匁、金に直し金二両三     分銀十一匁の内、其節、為内金、金一両銀五匁請求〈取〉候処、同十月の町触に、(云々中略)     〈この中略の部分、『山東京伝一代記』は寛政二年十月の町触を引く。本HP「浮世絵に関する御触書」参照〉     申渡有之、承知致罷有候、〈然る〉上は、其以前重三郎方へ渡置候読本も、同人より行事改更へ〈改     更候て〉可仕儀差図〈可任差図儀〉候得共、右三部は〈共〉遊女の放埒の体を書綴り候本に候得ば、     行事共へ改為請候に不及、右の段、早速重三郎方へ申談じ、売買為致間敷儀に候処、重三郎儀は、前     書町触以前、右本の板木出来致候に付摺〈写〉取、同十二月廿日、草双紙問屋行事共方へ持参り改更     候処、売捌候ても不苦候旨差図致候由にて、三部共可売出段、其砌〈り〉、重三郎申聞、右に付、当     春已以来、右本重三郎方より売出候処、此度呼出有之、吟味に相成候旨申候、此者去年中重三郎より     受取候作料残金の儀は、右三部共、当春より重三郎方にて売捌の売高の多少に寄り、代金増減仕、追     々受取の積り、兼ての対談に付、右残金は未請取不申罷在候旨、右の外、去年より当年に至り、読本     等作出〈し〉売渡候儀無之、畢竟、余分売捌の儀、専一心掛候故、寓言而已を重に致〈し〉書綴り候     儀有之旨申候に付、書物の類の儀、前々より厳敷申渡候趣も有之、殊に、去年猶又町触も有之候処、     等閑に相心得、放埒の読本作出〈し〉候て重三郎へ売捌きの段、不埒の旨吟味受、無申訳誤入候旨申     〈し〉候間、五十日手鎖申付候       亥三月        初鹿野河内守  
    〔頭注〕蔦屋重三郎    同人に対する吟味始末書は、京伝と略ぼ同一にして管々しきにより省く、言渡は「身上半減の闕所」と    いへるなり〟      〈作者山東京伝は手鎖五十日。板元蔦屋重三郎は財産の半減処分。この間の経緯を曲亭馬琴が『近世物之本江戸作者部     類』で次のように記している〉      「寛政二年官命ありて、洒落本を禁ぜられしに、蔦屋重三郎【書林并地本問屋】其利を思ふの故に、京伝    をそゝのかして、又洒落本二種をつゞらして、其表袋に「教訓読本」かくのごとくしるして、三年春正    月印行したり。そは錦の裏といふ【よし原のしやれ本】仕掛文庫【深川の洒落本】といへる二種の中本、    【大半紙二ッ裁也】この洒落本は京伝が特によく其の趣きを尽したりければ、甚しく行はれて、板元の    贏餘多かり。この事官府に聞えけん。この年の夏五六月の頃、町奉行初鹿野河内守殿の御番所へ、彼洒    落本にかゝづらいて出板を許したる、地本問屋行事二人【いせ屋某、相行事近江屋某兩人也】并に錦の    裏仕掛文庫の板元蔦屋重三郎、作者京伝事、京橋銀座町一町目家主伝左衛門伜伝藏を召出され、去年制    止ありける趣に従ひ奉らず、遊里の事をつゞり、剩教訓本と録して印行せし事不埒なりとて、しば/\    吟味を遂られしに、板元并に作者全く売徳に迷ひ、御制禁を忘却仕候段、不調法至極、今さら後悔恐れ    入候よしを、ひとしく陳謝に及ひしかは、その罪を定められ、行事二人は軽追放、板元重三郎は身上半    減の闕所、作者伝藏は手鎖五十日にして、免されけり」
   『仕懸文庫』『青楼昼之世界錦之裏』『娼妓絹籭』 山東京伝作・画    (早稲田大学図書館「古典籍総合データベース」)     ☆ 寛政十年(1798)       筆禍『辰巳婦言』(洒落本)       処分内容 絶版(伝聞)            ◎作者 式亭三馬 ◎画工 喜多川歌麿(双方処罰なし?)◎板元(記載なし)       処分理由 風教に害あり(道徳上宜しくない)     ◯「辰巳婦言」(宮武外骨著『筆禍史』p91)   〝式亭三馬の著にして、関東米の序、馬笑の跋、喜多川歌麿筆の口絵普賢像あり、小本一冊にして、「石    場妓談」と標せり、石場とは江戸深川の花街七場所の一なり、其地に於ける妓女の痴態を写せるものに    して、所謂蒟蒻本なり、此書亦風教に害ありとして絶版の命を受けたりといふ、されど著者には何等の    累を及ぼさゞりしが如し〟
   『辰巳婦言』口絵 歌麿筆 (早稲田大学図書館「古典籍総合データベース」)     ☆ 寛政十一年(1799)      筆禍『侠太平記向鉢巻』(黄表紙)       処分内容(版本の処分は不明)            ◎作者 式亭三馬 吟味中手鎖及び所預け・判決は手鎖五十日            ◎画工(歌川豊国か北尾重政か 記載なし。『黄表紙總覧』は北尾重政と推定)            ◎板元 西宮新六 吟味中手鎖及び所預け・過料       処分理由 作中で御用火消しを誹謗したことが、その板元に対する打ち壊しを誘発したこと       筆禍『太閤記筆聯』(黄表紙)       処分内容 絶板・発禁             ◎作者 鉦扈荘英作(記載なし)◎画工 勝川春亭画(記載なし)            ◎板元 榎本屋(記載なし)       処分理由 地本問屋が書物問屋の領分を侵したこと     ◯「侠太平記向鉢巻」(宮武外骨著『筆禍史』p92)   〝式亭三馬(菊池太輔)の著にして、画は北尾重政の筆なり、黄表紙三冊物、此書は絶版なりしにあらざ    れども、御用火消組の者を誹謗したるがため、騒擾を起したりとて、著者三馬は手鎖の刑を受けしなり、    『青本年表』に曰く     寛政十一年正月五日、式亭三馬並西村新六の二家、よ組鳶人足の為めに破壊せられ、遂に公事となり、     後ち人足数名は入牢し、新六は過料、作者は手鎖五十日に処せらる、其起因は客歳鳶人足間に闘争の     事実ありしに基づき、今春『侠太平記向鉢巻』の作を出せしに、其書中によ組の鳶を誹謗せし点あり     しとて、此騒擾を惹起せしなり、然れども三馬はこれが為めに其の名を高めしとなり〟     〈この件については『寛政紀聞』などの記事が詳しいので、以下引用する。ただ、処分が画工に及んだかどうかは不明。な    お、宮武外骨は『侠太平記向鉢巻』の画工を北尾重政とするが、国文学研究資料館の「日本古典籍総合目録」は初代豊国    画とする〉      ◯「侠太平記向鉢巻」(『寛政紀聞』〔未刊随筆〕②290)   〝旧冬之暮にかゝり、画双紙問屋西村源六と申者板本にて、俠太平記向ふ鉢巻と云、三冊物之双紙売出し    になり、此作者は式亭三馬也、其趣向は去年山王祭礼之節、麹丁祭小舟町通り之折、意趣有之由にて大    喧嘩相始まり、誠に軍同様と申位にて即死怪我人夥敷、余程之間ひまどり、漸く内済に相成候始末を、    それとなく軍にことよせ作り替、絵には下町辺、纏など真の如くに写し、人足等之印半天まで其まゝに    ゑがきたり、然るに右仲間之者共、銘々身分にかゝる事を慰みに致し売出し候義、甚不届也と一同申合    せ、諸方小売店の卸本を追々と買取り置、当月二月の夜、町役人へ右之本を持参致し、斯く之仕合故、    用捨致し兼候に付、西村方へ押懸け打こはし候間、左様に承知有之度由申置き、夫より四五十人にて駕    口或はかけや之類、手に/\提け、西村方ぇおしかくるや否、見世座敷土蔵之嫌なく、微塵に打こはし、    共後直に町奉行所位罷在、右之始末中上候に付、奉行所に於て一応取糺し、右之者不残ら入牢被申渡、    西村の主人も早々被召呼、手鎖所預に相成、作者三馬も同様也、御裁許は如何被仰付候や、未だ相訳り    不申候得共、此節世上之評判、右の壱件許りなり〟   〈「御裁許は如何被仰付候や、未だ相訳り不申候」とあることから、三馬や板元の「手鎖」とは、町奉行の判決ではなく、    吟味中の手鎖をいうようだ。下出、馬琴の『近世物之本江戸作者部類』や『伊波伝毛乃記』によると、判決は西宮新六が    過料、三馬は手鎖五十日。なお『侠太平記向鉢巻』は西宮新六板であるから『寛政紀聞』の「西村源六」は西宮新六が正    しい〉     ◯「侠太平記向鉢巻」(滝沢馬琴著『近世物之本江戸作者部類』「赤本作者部 式亭三馬」八木書店刊)   〝彼火消人足鬧諍の一件より、三馬の名号暴(ニハカ)に噪しくなりしかば、初念を絶にきこといふ。されば    寛政十一年癸未の春の新板に、前年一番組二番組の火消人足等闘諍の趣を、侠(キヤン)太平記向ㇷ鉢巻と    いふ臭草紙に作り設けしを、三馬の旧主人西宮新六が刊行したれば、よ組の人足等怒りて、己未の春正    月五日、板元及三馬が宅を破却しけり。この一件にて、よ組の人足幾名か入牢す。裁許の日西宮新六は    過料、人足は出牢赦免せらる。作者三馬も罪を蒙り、咎め手鎖五十日にして赦免せられけり〟     ◯「侠太平記向鉢巻」(曲亭馬琴著『伊波伝毛乃記』〔新燕石〕⑥129)   〝寛政十年十二月下旬、式亭三馬侠(キヤン)太平記向ふ鉢巻といふ全三巻の草冊子を著したり。こは、其こ    ろ、一番組、二番組の火消人足等、場所に於て闘諍の事あり、三馬即ちこのことを作れるなり。十一年    正月五日、よ組の鳶人足等この事を怒て、板元材木町西宮新六が店、及三馬が宅を打毀したること甚し、    因て御検使を願ひ奉り、公訴に及びしかば、双方御吟味中、鳶人足の頭だちたるもの共は入牢仰付られ、    程ありて、板元新六は過料、作者三馬事太助は、手鎖五十日にして御免あり、入牢人等も赦を蒙り奉ぬ〟
    『侠太平記向鉢巻』 式亭三馬作・歌川豊国画(『筆禍史』所収)     ◯「太閤記筆聯」(「寛政三亥年已来、書物并小冊類絶板売止被仰付候品書付」)   (文化五年四月の文書『江戸町触集成』第十一巻p246(触書番号11501)より)   〝寛政十一年二月絶板    『太閤記筆聯』     右之書、地本問屋ニて致板行候処、書物問屋持株ニ差障候ニ付、板元之者より及出訴、御吟味之上、     板木受取内済仕候    〈国文学研究資料館の「日本古典籍総合目録」には、鉦扈荘英作・勝川春亭画・寛政十一年(1799)刊の黄表紙『太閤記     筆の連(タイコウキフデノツラナリ)』と、虚実山人作・藤蘭徳画・刊年記載のない黄表紙『太閤記筆聯(タイコウキフデノツラナリ)』とが     載っている。石塚豊芥子編『街談文々集要』「文化元(1804)年」の記事「太閤記廃板」によると、絶板になったのは     荘英作・春亭画の方である。(本HP「浮世絵事典」「太閤記」の項参照)絶板の理由はその内容にあるというより、     「書物問屋持株ニ差障候」とあるから、本来書物問屋が出版してしかるべきものを地本問屋が出版してしまったこと     にあるようだ。「内済」とあるから、作者・画工・板元も処罰なしに済んだのであろう〉     ☆ 寛政十二年(1800)      筆禍『絵本宇多源氏』(読本)       処分内容 絶板・残部没収             ◎作者 西岡忠利(記載なし)◎画工 桜井等雪(記載なし)            ◎板元 五板元の相板(記載なし)       処分理由 (記載なし)     ◯「絵本宇多源氏」(「寛政三亥年已来、書物并小冊類絶板売止被仰付候品書付」)   (文化五年四月の文書『江戸町触集成』第十一巻p246(触書番号11501)より)   〝寛政十二申年九月絶板    『絵本宇多源氏』     右之書、於京都致板行、彼地行事共より添状を以差下候処、当地行事共了簡ニ難及儀御座候ニ付、同     年閏四月中奈良屋御役所え御伺申上候処、彼地へ御問合ニ相成、京都於御奉行所ニ同年九月絶板被仰     付、有本御取上ケニ相成候    〈絶板と残部没収の処分。『絵本宇多源氏』は西岡忠利作・桜井等雪画。内容が問題にされたと思われるが、作者・画     工に累が及んではいないようだ〉     ☆ 享和二年(1802)       筆禍『婦足禿』(洒落本)       処分内容 絶板 発禁             ◎作者 成三楼酒盛(記載なし)◎画工 子興(記載なし)◎板元 不明(記載無し)       処分理由 淫猥       〈宮武外骨は絶板と伝える典拠を載せていない〉      筆禍『絵本年代記』(年代記)       処分内容 絶板             ◎作者 秋里籬島(記載なし)画工 西村中和(記載なし)版元(記載なし)       処分理由 不明       〈宮武外骨は「絶版の理由は解し難し」とする〉     ◯「洒落本」(「寛政三亥年已来、書物并小冊類絶板売止被仰付候品書付」)   (文化五年四月の文書『江戸町触集成』第十一巻p246(触書番号11501)より)   〝享和二戌年於南御番所絶板    小冊物 四拾五通    右小冊類不残絶板被仰付候砌、仲間内之者壱人内々ニて板行仕候者有之、御吟味之上商売御差留、住所    御構被仰渡候    〈「小冊物」とは洒落本のこと。四十五作品が絶板に処せられた。その洒落本を内密に出版したものがいて、これは商     売禁止、住所御構(居住地追放)になっている。下出の『婦足禿』もその四十五作の中に入っているのかもしれない。    ただし作者・画工には罪が及んでないように思う。〉     ◯「婦足鬜」(宮武外骨著『筆禍史』p95)   〝成三楼酒盛の著にして、子興(栄松斎長喜)筆の口絵あり、是亦淫猥の蒟蒻本なりしがため、直ちに絶    版の命を受けたり、其一節に「堪忍しておくんなんしと例の殺し目尻でにつこり、此時の顔、うちへ帰    つても、立つても居ても、寝てもさめても、ちら/\見ゆべし、これより咄いたつて低くなり、何か聞    へるやうで、聞こへぬやうなり云々」とあり、其キワドキ細写の一斑と知るべし    〔頭注〕鬜    此字を「かむろ」とよむよし、通気多志と冠して「つきだし、ふたりかむろ」といへり、面倒臭き洒落    にてありける〟    〈宮武外骨は絶板を伝える典拠を示していない〉
    『婦足禿』 成三楼主人作・子興画(早稲田大学図書館「古典籍総合データベース」)     ◯「絵本年代記」(宮武外骨著『筆禍史』p97)   〝秋里湘夕(籬島)の著にして、挿画は西村中和の筆なり、湘夕が盛んに名所図会の類を編纂せる間に於    て著したるものにして、神代より人皇四十九代までの年代記を大本五冊に分てり、『絶焼録』の絶版書    目中に此書を加へてあれど、其絶版の理由は解し難し、或は『天神七代記』に類せるものならんか〟
    『絵本年代記』(東京学芸大学付属図書館「望月文庫往来物目録・画像データベース」)      〈望月文庫所蔵本は江戸版で、著者名及び画工名の記載がない。国文学研究資料館の「日本古典籍総合目録」は上記本     を籬島著・中和画とする〉  〈享和二年の洒落本絶版処分について、曲亭馬琴は次のように記録している〉  ◯『物之本江戸作者部類』p91(蟹行山人(曲亭馬琴)著・天保五年(1834)成立)   〝寛政八九年の比、当年洒落本の新板四十二種出たり、この故にその板元を穿鑿せられしに、多くハ貸本    屋にて書物問屋ハ二人あるのみ。みな町奉行所へ召れて吟味ありしに、その洒落本の作者ハ武家の臣な    るものもあり、御家人さへありけれバまうし立るに及バず。皆板元の本屋が自作にて、地本問屋の行事    に改正を受けず、私に印行したる不調法のよしをひとしく陳じまうしゝかバ、件の新板の小本四十二種    ハさら也、古板も洒落本と唱る小冊ハこの時、みな町奉行所へ召拿られて遺なく絶板せられ、その板元    の貸本屋等ハ各過料三貫文にて免ざれけり。そが中に馬喰町なる書物問屋若林清兵衛ハ貸本屋等とおな    じかるべくもあらず、享保以来の御定法を弁へ在りながら、制禁の小本を私に印行せし事、尤不埒也と    て身上半減の闕処にて、その罪を宥められ、又日本端四日市なる書物問屋上総屋利兵衛ハ先年もかゝる    事あり、今度ハ再犯たるにより、軽追放せられけり【是より石渡利助と変名したるが数年を歴て赦にあ    ひけれバ、先のかづさや利兵衛になりかへりて旧町に在り】こは根岸肥州の裁許にぞありける〟    〈馬琴は洒落本摘発事件を寛政七八年頃とするが、どうやらこれは馬琴の記憶違いで、下掲の触書によれば、享和二年     (1802)のことらしい。なお、今田洋三著『江戸の本屋さん』(NHKブックス・昭和52年刊)も「寛政八九年の比」     は馬琴の記憶違いで享和二年のこととしている。洒落本の絶版処分は、地本問屋仲間の行事改(あらため)を受けず、     私的に出版した咎によるもの。出版元の貸本屋は過料三貫文、書物問屋の若林清兵衛は身上半減の闕所処分、また上     総屋利兵衛は再犯ということで軽追放に処せられた〉     ☆ 享和三年(1803)       筆禍『絵本戯場年中鑑』(歌舞妓)       処分内容 絶板             ◎作者 篁竹里(記載なし)◎画工 歌川豊国(記載なし)            ◎板元 蔦屋重三郎 浜松屋幸助(記載なし)       処分理由 芝居上の秘密漏洩       〈宮武外骨は絶板処分を疑問視する〉     ◯「絵本戯場年中鑑」(宮武外骨著『筆禍史』p97)   〝篁竹里の著にして、挿画は歌川豊国の筆なり、全三冊、劇場に於ける正月の仕初より十二月の舞納に至    る迄の行事を記し、衣裳小道具等の図をも出せるものなるが、劇道の秘密を漏らせしとて「芝居太夫元    より擦当を受け絶版となりしものと伝ふ」と浅草文庫蔵本の添書にあれど、此類の羽勘三台図会、芝居    年中行事、戯子名所図会、戯場楽屋図会、戯場訓蒙図彙等、此前後に於て刊行されしもの多くあるに、    何等の事なくして、只特に此書のみが擦当を受けしといふこと、其真否判定し難し     〔頭注〕戯場年中鑑    役者の似顔絵をよくし、亦劇道通たりし初代歌川豊国の筆なれば、其妙趣賞玩に余りあるものなり〟    〈「擦当」は察斗(咎め)か。絶板の記事は「浅草文庫蔵本の添書」にある由だが、宮武外骨は疑問視している〉
    『絵本戯場年中鑑』篁竹里著・歌川豊国筆(東京大学付属図書館・電子版「霞亭文庫」)     ☆ 文化元年(享和四年・1804)       筆禍『大々太平記』天明八年(1788)刊(黄表紙)       処分内容 絶版 ◎作者 虚空山人作 ◎画工 藤蘭徳 ◎西村屋     〈『街談文々集要』は文化元年の絶板とする。しかし同書は天明八年刊。『街談文々集要』には「柴田攻迄 享和三      亥」という書込がある。『絵本太閤記』の流行に便乗して、享和三年(1803)再刊本を出したら絶板になったとい      うことか〉       筆禍『太閤記筆の聯』寛政十一年(1799)刊(黄表紙)       処分内容 絶版              ◎作者 鉦扈荘英 ◎画工 勝川春亭 ◎板元 榎本屋     〈『街談文々集要』はこれを文化元年の絶板とするが、寛政十一年二月、既に絶板処分に遭っている。寛政十一年の      項参照〉       筆禍『絵本朝鮮軍記』寛政十二年(1800)刊(読本)       処分内容 絶板             ◎著者 秋里籬島(記載なし)◎画工 不明(記載なし)            ◎板元 出雲寺大次郎ほか(記載なし)       筆禍『絵本太閤記』寛政九年~享和二年(1797-1802)刊(読本)       処分内容 絶板             ◎作者 竹内確斎(記載なし)◎画工 岡田玉山(記載なし)            ◎板元 小林六兵衛等(記載なし)       処分理由 天正年間以降の武将を題材としたこと       筆禍『化物太平記』享和四年(1804)刊(黄表紙)        処分内容 絶版              ◎自作・自画 十返舎一九 ◎山口屋        処分理由 よく分からないが「異形之ものニ右時代之紋所等附候草双紙をも板行いたし売出」たこ             とを咎められたのかも知れない             (下出『大日本近世史料』の「「文化元年五月十六日落着の『仕置申渡書』」参照)       筆禍『絵本拾遺信長記』享和元年(1801)~文化元年(1804)刊(読本)        処分内容 絶板、板木及び版本没収              ◎著者 秋里籬島(記載なし)◎画工 丹羽桃渓(記載なし)             ◎板元 播磨屋五兵衛ほか(記載なし)        処分理由 天正年間以降の武将を題材としたこと       〈以上の作品、下出「文化元年五月十六日落着の『仕置申渡書』」(『大日本近世史料』「市中取締類集十八」「書物     錦絵之部 第五四件」)によれば、太閤時代の武者一枚絵を新たに出版したこと(新規出版禁止令(寛政二年・1790)     違犯)、そして名前・紋所・戦地名等を書き入れたことが問題視された。なお大坂の出版物に関しては、江戸の「太     閤記」一件落着の翌日、五月十七日付で江戸町奉行が発した「一枚絵草双紙類、天正之頃以来之武者等、名前を顕し     画候義ハ勿論、紋所合印名前等紛敷認候義も決て致間識候」という禁制に依ったのかもしれない。次は錦絵に対する     処分〉       筆禍『絵本太閤記』に取材した錦絵(一枚絵・二枚続・三枚続)       処分内容 絶版・板木及び錦絵没収・所払い(居住地追放)・過料             ◎画工 手鎖百日(「文化元年五月十六日落着の『仕置申渡書』」)                手鎖五十日(『伊波伝毛乃記』)            ◎板元 所払い・絵と板木没収・財産に応じた重過料(五貫文以上罰金)                (「文化元年五月十六日落着の『仕置申渡書』」)                過料十五貫文(一説に十貫文)       処分理由 新規出版禁止令(寛政二年・1790)違犯(太閤時代の武者一枚絵を新たに出版したこと)            武将の名前・紋所・戦地名を書き入れたこと(「文化元年五月十六日落着の『仕置申渡書』」)        〈摘発された錦絵は次の通り〉         歌川豊国画 「明智本能寺を囲む処」(『増訂武江年表』)        喜多川歌麿画「太閤、五妻と花見遊覧」(『街談文々集要』)             「太閤御前へ、石田、児子髷にて、目見への手をとり給ふ処、長柄の侍女袖をおおひ              たる形、加藤清正甲冑酒、妾の片はらニ朝鮮の妓婦三弦ヒキ舞たる形」               (『摂陽奇観』『街談文々集要』)       勝川春英・喜多川月麿 図柄は不明(『伊波伝毛乃記』)       〈浮世絵師が錦絵で咎められたのは、おそらくこの文化元年が初めてではないか。(寛政三年、北尾政演(山東京伝)     が手鎖の刑に処せられているが、それは版本(洒落本)であった)これまで、当局は、寛政二年の出版統制以降、少     しずつ規制を強化してきた。同五年、一枚絵中の女の名前の削除を求めた。同七年、「番ひ絵(春画)」を禁じ、一     枚絵の小売値を十六文から十八文まで制限した。また同八年、女の名前を判じ物にすることを禁じ、同十二年には     「女大絵」「面躰を大造ニ画」く女絵を禁じ、そして文化元年には「大顔之絵」を禁じた。(これらは大首絵に対す     る規制と考えられる。以上本HP「浮世絵に関する御触書」Topか「浮世絵事典」参照)そしてこの文化元年の     『絵本太閤記』の騒動がもう一つの転機となって、規制がさらに細かくなり、天正年間以降の武者等の名前・紋所・     合印等を用いることを禁じ、一枚絵に和歌及び地名以外の詞書を禁じ、版本の色摺りを禁止することとなった。浮世     絵は当局の視界の正面に現れ始めたのである〉     ◯『大日本近世史料』「市中取締類集十八」(書物錦絵之部 第五四件 p240)   (天保十五年十月「川中嶋合戦其外天正之頃武者絵之儀ニ付調」北町奉行の南町奉行宛相談書)   ◇「錦絵之儀ニ付申上候書付」(天保十五年八月付・絵草紙掛(カカリ)・名主平四郎の書付)   〝文化元子年中ニ候哉、橋本町四丁目絵草紙屋辰右衛門、馬喰町三丁目同忠助板元ニて、太閤記(絵本太    閤記)之内絵柄不知三枚続錦絵売出候処、右板元并画師(喜多川)歌丸(麿)・(歌川)豊国両人共、    北御番所ぇ被召出御吟味之上、板元は処払、画師過料被仰付候儀有之〟    〈( )は添え書き。橋本町の絵草紙屋辰右衛門とは松村屋辰右衛門か、また馬喰町三丁目の忠助とは山口屋忠助か。     松村屋は歌麿を山口屋は豊国をそれぞれ起用して、岡田玉山の『絵本太閤記』に取材した三枚続を画かせたのであろ     う。大坂の『絵本太閤記』は寛政九年から出版されてきたから、江戸で錦絵にしても差し障りはないと思ったのかも     しれない。しかし案に相違、彼らは北町奉行所から呼び出されて吟味に回され、板元は居住地追放、歌麿と豊国は罰     金に処せられた。なおこの文書で興味深いのは「画師歌丸」の表記。(喜多川)と(麿)は添え書きであるから原文     にはないものだろう。これは何を意味するのか。文化元年当時、署名は「歌麿」であっても読みが「うたまる」だっ     たので、記載者は「歌丸」と記したのではないだろうか。すると(麿)の添え書きは「うたまる」の「まる」の表記     を正したものと考えてよいのだろう。2013/11/02追記〉      ◇文化元年五月十六日落着の「仕置申渡書」   〝         馬喰町三丁目 久次郎店 忠助    其方儀、一枚絵草双紙問屋いたし、書物・双紙類新規ニ仕立候儀無用之旨、町触之趣弁罷在、太閤記時    代之武者一枚絵草双紙ニいたし候は、新規之儀ニ候得共、売口多可有之と一枚絵に為認、名前・紋所等    其儘認、又は似寄紛敷様にも認、軍場之地名等書入候も有之、板行いたし候処、右之内其家筋より断受    絶板候も有之、然る上は、残之分右ニ可准義ニ候得共、其儘売捌、猶又異形之ものニ右時代之紋所等附    候草双紙をも板行いたし売出、且、新板之品は行事共ぇ差出、改請候上売買可致旨之町触をも相背、右    一枚絵之内ニは、行事共不差出分も有之、旁不埒ニ付、絵并板木共取上、身上ニ応じ重過料申付之〟   〝         堀江町二丁目 利右衛門店 豊国事熊吉    其方儀、一枚絵認渡世いたし、書物・双紙類新規ニ仕立候儀無用之旨、町触之趣相弁罷在、太閤記時代    の武者絵ニいたし候は、新規之儀ニ候得共、一枚絵商売之ものより相頼候ニ任せ、名前・紋所其の儘相    記、又は紛敷様ニも認、軍場之地名等も書入遣候段不埒ニ付、百日手鎖申付之〟    〈上記文書は天保十五年刊・一勇斎国芳画・佐野屋喜兵衛板の「川中嶋合戦」が問題になった時、町奉行所内で回され     たもの。文化元年の「太閤記」一件を参考に判断を下そうというのである。それによると「太閤記」に関する罪状は、     新規出版禁止令(寛政二年・1790)があるにもかかわらず、太閤時代の武者一枚絵を新たに出版したこと、そして名     前・紋所・戦地名等を書き入れたことにあった。板元山口屋忠助の場合は、その上、某家より抗議で板木は絶板にし     たのに在庫はそのままにして売り捌いたこと、また行事の改(アラタメ=検閲)を経ない無届出版であったことなどが加     算された。その結果、板元山口屋忠助は、絵と板木を取り上げられた上に財産に応じた重過料(五貫文以上罰金)を     命じられた。一方、歌川豊国に対する処分は手鎖百日であった。板元松村屋辰右衛門と絵師喜多川歌麿の「仕置申渡     書」はないが、山口屋忠助と豊国と同様の処分が下ったものと考えられる。     この「太閤記」一件は、これまでの出版統制のあり方に大きな影響を与えたとみえ、一件が落着したその翌日(五月     十七日)町奉行は「一枚絵草双紙類、天正之頃以来之武者等、名前を顕し画候義ハ勿論、紋所合印名前等紛敷認候義     も決て致間識候」という文面の入った町触を発している。町触全文は本HPのTop「浮世絵に関する御触書」参照     2013/11/02追記〉     ◯「絵本太閤記」(『半日閑話 巻八』〔南畝〕⑪245・文化一年五月十六日明記)   (「絵本太閤記絶板仰付らる」の項) 〝文化元年五月十六日、絵本太閤記絶板被仰付候趣、大坂板元に被仰渡、江戸にて右太閤記の中より抜き    出し錦画に出候分を不残御取上、右錦画書候喜多川歌麿、豊国など手鎖、板元を十五貫文過料のよし、    絵草子屋への申渡書付有之〟    〈「絵本太閤記」は武内確斎作・岡田玉山画。寛政九年(1797)から享和二年(1802)にかけて七編八十四冊出版された〉     ◯「絵本太閤記」(『きゝのまに/\』〔未刊随筆〕⑥76・喜多村信節記・天明元年~嘉永六年記事)   (文化元年・1804)   〝五月十六日、難波画師玉山が図せる絵本太閤記、絶版被仰付候趣、大坂の板本被仰渡、是は江戸ニて喜    多川歌麿、歌川豊国等一枚絵に書たるを咎られて、絵本太閤記を学びたりといひしよりの事也、画師共    手鎖、板本は十貫文過料之由、絵草紙屋へ申渡書付有、右之太閤記之絵本惜しむべし〟    〈岡田玉山画『絵本太閤記』の絶版処分は、江戸の歌麿・豊国が咎められたとき、「絵本太閤記」に習ったと、白状し     たために下ったもののようである〉     ◯「絵本太閤記」(『伊波伝毛乃記』〔新燕石〕⑥130・無名子(馬琴)著・文政二年十二月十五日脱稿)   〝文化二年乙丑の春より、絵本太閤記の人物を錦絵にあらはして、是に雑るに遊女を以し、或は草冊子に    作り設けしかば、画師喜多川歌麿は御吟味中入牢、其他の画工歌川豊国事熊右衛門、勝川春英、喜多川    月麿、勝川春亭、草冊子作者一九等数輩は、手鎖五十日にして御免あり、歌麿も出牢せしが、こは其明    年歿したり、至秋一件落着の後、大坂なる絵本太閤記も絶板仰付られたり〟    〈読本『絵本太閤記』は、武内確斎作・岡田玉山画で、寛政九年から享和二年にかけて出版された。この「絵本太閤記」     一件、諸本、文化元年のこととするが、馬琴が文化二年としているのは不審。ともあれ、大坂の玉山画『絵本太閤記』     はこれまで咎められることもなく無事出版できていた。それでおそらくそれに触発されたのであろう。江戸の歌麿、     豊国、春英・月麿・春亭・一九たちも便乗するように「太閤記」ものを出版してみた。ところが案に相違して、摘発     を受け入牢・手鎖に処せられてしまった。しかも累は『絵本太閤記』にまで及び、絶版処分になってしまった。どう     も大坂と江戸では禁制事項にずれがあるらしく、江戸の方がそれを読み違えたのかもしれない〉     ◯「絵本太閤記」(『摂陽奇観』巻四四・浜松歌国著・文化元年記事)   「文化元年」   〝絵本太閤記 法橋山(ママ)画寛政九丁巳秋初編出板七篇ニ至ル江戸表より絶板仰せ付けらる、其趣意は右    の本江戸にても流行致し、往昔源平の武者を評せしごとく婦女小児迄夫々の名紋所など覚候様に相成、    一枚絵七つゞき或は三枚続きをここは何の戦ひなど申様に相成候ところ、浮世絵師歌麿と申すもの右時    代の武者に婦人の画をあしらひ紅摺にして出し候、    太閤御前へ石田児にて目見への図に、手を取り居給ふところ、長柄の侍女袖を覆ひゐるてい    清正酒えん甲冑の前に朝鮮の婦人三絃ひき舞ゐるてい、其外さま/\の戯画あり    右の錦絵 公聴に達し御咎にて、絵屋は板行御取り上げ絵師歌麿入牢仰せ付けられ、    其のうえ天正已来の武者絵紋所姓名など顕し候義相ならず趣、御触流し有り、猶亦大坂表にて出板の絵    本太閤記も童謡に絶板に相成候、初篇開板已来七編迄御許容有り候処、かゝる戯れたる紅摺絵もうつし    本書迄絶板に及ぶこと、憎き浮世絵師かなと諸人いひあへり〟    〈大坂の浜松歌国は玉山の『絵本太閤記』を絶板に追い込んだのは浮世絵師・歌麿だという。その歌麿画の絵柄は「太     閤御前へ石田児にて目見への図に、手を取り居給ふところ、長柄の侍女袖を覆ひゐるてい。清正酒えん甲冑の前に朝     鮮の婦人三絃ひき舞ゐるてい」である。     さて、享和三年の「一枚絵紅ずりに長篠武功七枚つづき」の記事がよく分からない。「紅ずり」という言い方が気に     なる。享和三年の一枚絵に対して、当時の江戸は「紅ずり」という呼び方をするであろうか。「浮世絵師歌麿と申す     もの右時代の武者に婦人の画をあしらひ紅摺にして出し候」とも「かゝる戯れたる紅摺絵もうつし本書迄絶板に及ぶ     こと、憎き浮世絵師かなと諸人いひあへり」ともある。この「紅摺絵」は歌麿に対して使っているのであるから、宝     暦頃の石川豊信たちの「紅摺絵」とは思えない。すると江戸でいう「錦絵」を大坂では「紅摺絵」と呼んでいたのだ     ろうか〉     ◯「絵本太閤記」その他(『街談文々集要』p29・石塚豊芥子編・万延元年(1860)序)   (文化元(1804)年記事「太閤記廃板」)   〝一 文化元甲子五月十六日絵本太閤記板元大阪玉山画同錦画絵双紙      絶板被仰渡           申渡    絵草紙問屋                                   行事共                                 年番名主共      絵草紙類の義ニ付度々町触申渡候趣有之処、今以以何成品商売いたし不埒の至りニ付、今般吟味の      上夫々咎申付候      以来右の通り可相心得候    一 壱枚絵、草双紙類天正の頃以来の武者等名前を顕シ書候儀は勿論、紋所、合印、名前等紛敷認候義      決て致間敷候    一 壱枚絵に和歌之類并景色の地名、其外の詞書一切認メ間敷候    一 彩色摺いたし候義絵本双紙等近来多く相見え不埒ニ候 以来絵本双紙等墨計ニて板行いたし、彩色      を加え候儀無用ニ候    右の通り相心得、其外前々触申渡趣堅く相守商売いたし行事共ノ入念可相改候。     此絶板申付候外ニも右申渡遣候分行事共相糺、早々絶板いたし、以来等閑の義無之様可致候    若於相背ハ絵草紙取上ケ、絶板申付其品ニ寄厳しく咎可申付候           子五月                此節絶板の品々    絵本太閤記 法橋玉山筆 一編十二冊ヅヾ七編迄出板     此書大に行ハる。夫にならひて今年江戸表ニて黄表紙ニ出板ス    太閤記筆の聯(ツラナリ)【鉦巵荘英作 勝川春亭画 城普請迄 寛政十一未年三冊】    太々太平記【虚空山人作 藤蘭徳画 五冊 柴田攻迄 享和三亥】    化物太平記【十返舎一九作自画 化物見立太閤記 久よし蜂すか蛇かつぱ】    太閤記 宝永板【画工近藤助五郎、清春なり 巻末ニ此度歌川豊国筆ニて再板致候趣なりしか相止ム】    右玉山の太閤記、巻中の差画を所々擢て錦画三枚つゞき或ハ二枚、壱枚画に出板、画師ハ勝川春亭・歌    川豊国・喜多川哥麿、上梓の内太閤、五妻と花見遊覧の図、うた麿画ニて至極の出来也、大坂板元へ被    仰渡候は、右太閤記の中より抜出し錦画ニ出る分も不残御取上之上、画工ハ手鎖、板元ハ十五貫文ヅヽ    過料被仰付之。         「賤ヶ嶽七本槍高名之図」石上筆 (模写あり)           絵本太閤記絶板ノ話    寛政中の頃、難波の画人法橋玉山なる人、絵本太閤記初編十巻板本、大に世にもてはやし、年をかさね    て七編迄出せり。江戸にも流布し、義太夫浄瑠りにも作り、いにしへ源平の武者を評する如く、子供迄    勇士の名を覚て、合戦の噺なとしけり、享和三亥年、一枚絵紅ずりに、長篠武功七枚つゞきなど出せり。    然ルに浮世絵師哥麿といふ者、此時代の武者に婦人を添て彩色の一枚絵をだ(ママ)出せり。     太閤御前へ、石田、児子髷にて、目見への手をとり給ふ処、長柄の侍女袖をおおひたる形、加藤清正     甲冑酒、妾の片はらニ朝鮮の妓婦三弦ヒキ舞たる形。    是より絵屋板本絵師御吟味ニ相成り、夫々に御咎めに逢ひ候て、絶板ニ相成候よし、其節の被仰渡、左    の通。    一 絵双紙類の義ニ付、度々町触申渡之趣在之処、今以如何敷品売買致候段、不埒之至ニ付、今般吟味      の上、夫々咎申付候、以来左之通、可相心得候    一 壱枚絵・草双紙類、天正の頃已来之武者等名前を顕し画候義は勿論、紋字・合印・名前等紛敷認候      儀、決て致間敷候    一 壱枚絵に、和歌の類、并景色之絵、地名又ハ角力取、歌舞伎役者・遊女之名等ハ格別、其外詞書一      切認間敷候    一 彩色摺の絵本・双紙、近来多く相見へ、不埒ニ候、以来絵本・双紙墨斗ニて板行可致候       文化元甲子五月十七日    右ニ付、太閤記も絶板の由、全く浮世ゑしが申口故ニや、惜むべき事也〟    〈「日本古典籍総合目録」によると、竹内確斎著・岡田玉山画『絵本太閤記』は寛政九年(1797)~享和二年(1802)に     かけての出版。つまり、歌麿たちの「太閤記」が出版される文化元年以前、大坂での「太閤記」ものの出版は禁制で     はなかったのである。(これは大坂という土地がらが影響しているのだろうか。大坂町奉行は看過してきたのである。     しかし寛政九年、もし玉山画『絵本太閤記』が江戸で出版されたら、江戸町奉行は摘発しなかっただろうか。やはり     処罰されたように思うのだが……。江戸だからこそ問題視されたともいえる)ともあれ、「太閤記」ものが江戸で評     判になるや否や画工・板元ともども処罰され、そのとばっちりが大坂出版の『絵本太閤記』に及んだのである。その     因となった作品を見ておくと、荘英作・勝川春亭画『太閤記筆の連』は寛政十一年刊。虚空山人作・藤蘭徳(蘭徳斎     春童)画『太々太平記』は天明八年(1788)刊。『街談文々集要』には「柴田攻迄 享和三亥」との書込があるから、     あるいは『絵本太閤記』の評判にあやかって、この年、再版本を出したものとも考えられる。十返舎一九作・画『化     物太平記』は享和四年(1804)(文化元年)の刊行。さて最後、宝永板、近藤助五郎清春画の「太閤記」とある(東北     大学附属図書館・狩野文庫の目録に、近藤清春画『太閤軍記 壹之巻』なるものがあるが、あるいはそれをいうか)     それに初代歌川豊国「再板致候趣なりしが相止む」と続く。清春の「太閤記」を下敷きに、豊国が新趣向で再板する     という意味なのであろうか。結局のところ、『絵本太閤記』絶版の余波で沙汰止みになったようだが。以上が草双紙。     次に錦絵の方だが、勝川春亭のは未詳。豊国の錦絵は、この記事に言及はないが、『増訂武江年表』の〔筠補〕(喜     多村筠庭の補注)を参照すると、絶板に処せられたのは「豊国大錦絵に明智本能寺を囲む処」の絵柄らしい。また、     『筆禍史』の宮武外骨は、関根金四郎編の『浮世画人伝』を引いて「豊国等の描きしは、太閤記中賤ヶ嶽七本槍の図     にして」とする。「豊国等」とあるから「太閤記中賤ヶ嶽七本槍の図」が必ずしも、豊国画とも断定できないのだが。     参考までに言うと、『街談文々集要』には「賤ヶ嶽七本槍高名之図」という挿絵があり、これには「石上筆」とある。     さて、歌麿だが、『街談文々集要』は「太閤五妻と花見遊覧の図」をあげ、「絵本太閤記絶板ノ話」のところでは     「太閤御前へ石田児子髷ニて目見への手をとり給ふ處、長柄の侍女袖をおおひたる形、加藤清正甲冑酒の片ハら朝鮮     の妓婦三弦ヒキ舞たる形」の絵をあげる。(「絵本太閤記絶板ノ話」は『摂陽奇観』の記事と内容がほぼ同じである     から、『街談文々集要』の石塚豊芥子が、大坂から来た『摂陽奇観』の記事を書き留めたのかもしれない)ともあれ、     『街談文々集要』の歌麿画「太閤五妻と花見遊覧の図」(これは宮武外骨著『筆禍史』の「太閤五妻洛東遊覧之図」     に同定できよう)が絶版になったことは確かである。問題は「太閤記絶板ノ話」の記事の方にある。これは二つの錦     絵を取り上げたものと考えられる。すなわち「太閤御前へ、石田、児子髷ニて目見への手をとり給ふ処、長柄の侍女     袖をおおひたる形」の錦絵と「加藤清正甲冑酒、妾の片ハらニ朝鮮の妓婦三弦ヒキ舞たる形」の錦絵と。「太閤記絶     板ノ話」の記事にも、そのもとになった『摂陽奇観』にも「太閤五妻と花見遊覧の図」の画題はないが、前者の「太     閤御前へ、石田、児子髷ニて目見への手をとり給ふ処、長柄の侍女袖をおおひたる形」こそ、その絵柄からして「太     閤五妻と花見遊覧の図」に相当するのではないか。すると、歌麿が手鎖に遭ったのは複数の「太閤記」ものというこ     となるのだが、実際のところはどうだろうか。なお、後者の方「加藤清正甲冑酒、妾の片ハらニ朝鮮の妓婦三弦ヒキ     舞たる形」の画題は未詳。現存するものがあるかどうかも定かではない。     いずれにせよ、この「太閤記」一件で「壱枚絵・草双紙類、天正の頃已来之武者等名前を顕し画候義は勿論、紋字・     合印・名前等紛敷認候儀、決て致間敷候」という禁制は、出版界に重くのしかかってゆくことになったのである〉     ◯「絵本朝鮮軍記」(「寛政三亥年已来、書物并小冊類絶板売止被仰付候品書付」)   (文化五年四月の文書『江戸町触集成』第十一巻p246(触書番号11501)より)   〝文化元子年五月絶板     『絵本太閤記』     『絵本朝鮮軍記』     右両書、京都大坂ニおゐて致板行、当地えも積下シ致商売候処、如何之儀有之ニ付、彼地御奉行所え     御達ニ相成、元板絶板被仰付候ニ付、当地ニ有之候本、不残御取上ニ成申候     〈『絵本朝鮮軍記』は秋里籬島作の読本で寛政十二年の刊行〉     ◯「絵本太閤記及絵草紙」」(宮武外骨著『筆禍史』p100)   〝是亦同上の理由にて絶版を命ぜられ、且つ著画者も刑罰を受けたり『法制論簒』に曰く     文化の始、太閤記の絶版及び浮世絵師の入獄事件ありき、是より先、宝永年間に近藤清春といふ浮世     絵師、太閤記の所々へ挿絵して開板したるを始にて、寛政の頃難波に法橋玉山といふ画工あり、是も     太閤記の巻々を画き      〔署名〕「法橋玉山画図」〔印刻〕「岡田尚友」(白文方印)「子徳(一字未詳)」(白文方印)     絵本太閤記と題して、一編十二巻づゝを発兌し、重ねて七篇に及ぶ、此書普く海内に流布して、遂に     は院本にも作為するものあり、又江戸にては享和三年嘘空山人著の太々太閤記、十返舎一九作の化物     太閤記など、太閤記と名づくる書多く出来て、後には又勝川春亭、勝川春英、歌川豊国、喜多川歌麿、     喜多川月麿などいふ浮世絵師まで、彼の太閤記の挿画を選び、謂はゆる三枚続きの錦絵に製せしかば、     犬うつ小童にいたるまで、太閤記中の人物を評すること、遠き源平武者の如くなりき、斯くては終に     徳川家の祖および創業の功臣等にも、彼れ是れ批判の波及すらん事を慮り、文化元年五月彼の絵本太     閤記はもとより、草双紙武者絵の類すべて絶版を命ぜられき、当時武者絵の状体を聞くに、二枚続三     枚続は事にもあらず、七枚続などまで昇り、頗る精巧を極めたりとぞ、剰へ喜多川歌麿武者絵の中に、     婦女の艶なる容姿を画き加ふる事を刱め、漸く風俗をも紊すべき虞あるに至れり、例へば太閤の側に     石田三成児髷の美少年にて侍るを、太閤その手を執る、長柄の銚子盃をもてる侍女顔に袖を蔽ひたる     図、或は加藤清正甲冑して、酒宴を催せる側に、挑戦の妓婦蛇皮線を弾する図など也、かゝれば板元     絵師等それ/\糾問の上錦絵は残らず没収、画工歌麿は三日入牢の上手鎖、その外の錦絵かきたるも     の悉く手鎖、板元は十五貫つゝの過料にて此の一件事すみたり云々    又『浮世絵画人伝』には左の如く記せり     喜多川歌麿と同時に、豊国、春亭、春英、月麿及び一九等も吟味を受けて、各五十日の手鎖、版元は     版物没収の上、過料十五貫文宛申付られたり     豊国等の描きしは、太閤記中賤ヶ嶽七本槍の図にして、一九は化物太閤記といふをものし、自画を加     へて出版せしによるなり      〔頭注〕喜多川歌麿    歌麿手鎖中、京伝、焉馬、板元西村などの見舞に来りし時、歌麿これ等の人々に向ひ、己れ吟味中、恐    怖のあまり、心せきて玉山が著したる絵本太閤記の事を申述べたりしによりて、同書も出板を禁ぜられ    たるは、此道のために惜むべく、且板元に対して気の毒にて、己れ一世の過失なりと語れりといふ、さ    れば絵本太閤記が七編までにて絶版になりしは、これが為なりと『浮世絵画人伝』にあり    歌麿絵本太閤記の図を出して御咎を受たり、其後尚又御咎の事ありて獄に下りしが、出て間もなく死す    と『浮世絵類考』にあれども、其再度の御咎といふ事真否不詳なり         化物太閤記 十返舎一九作画 黄表紙二冊 山口屋忠兵衛版       享和四子初春(即文化元年)出版      全編悉く化物の絵と物語のみなれど、其化物の紋所又は旗印等に戦国次代の諸将即ち織田、明智、      真田、豊臣等の紋又は合印を附けて諷刺の意を寓しあるなり〟
   『太閤五妻洛東遊覧之図』三枚組左 三枚組中 三枚組右歌麿筆(東京国立博物館所蔵)
   『絵本太閤記』法橋玉山画(早稲田大学図書館「古典籍総合データベース」)
   『化物太閤(ママ)記』十返舎一九作・画(『筆禍史』所収)     ◯「絵本拾遺信長記」(宮武外骨著『筆禍史』p99)   〝権現様(家康)の御儀は勿論総て御当家の御事、板行書本自今無用に可仕候といへるは、享保七年の幕    府令なりしが、文化元年に至りては、家康の事のみならず、天正以来の武将に関する事をも厳禁し、絵    草紙の武者絵に、名前紋所合印等を入るゝをも禁じたりしが、是亦前にいへるが如く、家康が譎詐奸計    を以て、天下を横領せし事実を、諸人に知らしめざらんとするにあり、此『絵本拾遺信長記』絶版のこ    とも亦これが為めなり、『大阪書籍商旧記類纂』に本屋行事より奉行所に出せし上書あり     一 絵本拾遺信長記、寛政十二年申年初編より後編迄追々新板の儀願上、同十三酉年御聞届の上追々       板行摺立売買罷在候処、此度於江戸表、右本売捌御差留右絵本御取上に相成候に付、元板も絶板       被仰付、摺立有し板本七十九冊并板木百五十枚御取上、以来板行仕間敷候、且是迄売捌候板本の       内、此後売先相分り候はゞ取集め可差出旨、被仰渡奉畏候    一旦許可せしものを、其出版後に至りて直ちに絶版を命ずるとは、御無理不尤の至極にして書肆の損害    も亦少からざりしなるべし      〔頭注〕絵草紙取締令    幕府が文化元年五月、絵草紙問屋行事に達したる令左の如し     絵草紙類之儀ニ付、度々町触申渡之趣有之候処、如何成品商売致不埒之至ニ付、今般吟味之上夫々咎     申付候、以来左之通可相心得候     一 壱枚絵草紙類、天正之頃以来之武者等名前を顕し画候儀は勿論、紋所合印名前等紛らは敷認め候       儀も決相致間敷候     一 壱枚絵に和歌之類並景色之地又は角力取歌舞伎役者遊女之名前等は格別、其外之詞書一切認間敷       候     一 彩色摺致し候絵本双紙等、近来多く相見え不埒ニ候、以来絵本双紙等は墨斗ニて板行致し、彩色       を加へ候儀無用ニ候〟     〈秋里籬島の『絵本拾遺信長記』は、初編が丹羽桃渓の画で享和三年(1803)の刊行、後編は多賀如圭(流光斎)の画で文    化元年(1804)の刊行である。大坂では問題なく流通していたものが、江戸では販売禁止となった。大坂での絶板・板木    版本の没収はそのとばっちりであった。宮武外骨の憤慨「一旦許可せしものを、其出版後に至りて直ちに絶版を命ずる    とは、御無理不尤の至極にして」はもっともである〉
    『絵本拾遺信長記』丹羽桃渓・多賀如圭画(早稲田大学図書館「古典籍総合データベース」)     ◯「大御所様」(三田村鳶魚著・『日本及日本人』所収・大正八年刊)『三田村鳶魚全集』①151   〝(文化元年)五月十六日、喜多川歌麿は豊太閤の『醍醐看花図』を描きたる罪を問われ、入牢三日、手    鎖五十日の処分を受けた。これを本年五月、天正以来の武者の名前・紋所等を顕し、または紛らわしく    して開板することを禁じた条例の違犯とするのは、請け取れぬ。玉山の『絵本太閤記』もこの際厳譴を    得た。『浮世絵画人伝』に従えば、歌麿が法廷で自分の画の典拠を彼に取ったと申し立てた、そのため    に『絵本太閤記』が絶板禁売の処分を受けたのである。それから武者絵の制限を出したらしい。法令の    方が錦絵より後手であろう。一体何故それほどまで、僅か三枚の錦絵を苛酷ひに扱うのか。画中の豊太    閤の五妻というのが、忌諱にふれたのではあるまいか。御台所寔子の北政所たるは疑いなく、他の五妻    の、四ッ花菱の模様のある三条殿はおてうの方(曽根氏)なるべく、五曜の紋のかな殿はおるりの方    (戸田氏)なるべく、丸に鷹の羽の紋所のつけしお古伊の方はおやをの方(阿部氏)なるべく、ただ橘    の模様のある松の丸殿、桜模様の淀殿に何人に擬すべきかをしらぬ、されど的指するところなきものと    はおもわれぬ〟    〈鳶魚翁は歌麿画「太閤五妻洛東◎覧之図」の五妻を、十一代将軍家斉の正室寔子や大奥の側室・お蝶の方・お瑠璃の     方・お八百の方を擬えたものと捉え、それが忌諱に触れたというのである〉     ☆ 文化二年(1805)      筆禍『近世奇跡考』(随筆)      著者(山東京伝)と板元(大和田安兵衛)自ら絶版を申し出る     ◯「近世奇跡考」(蟹行散人(曲亭馬琴)著『物之本江戸作者部類』第二目録)   (「読本作者部上」)   〝享和年間、近世奇跡考【五卷】印行の頃、雅俗倶に賞鑒して、多く売べき勢なりしに、英一蝶の土手ぶ    しなどいふ小歌の事を載たるを、英一蜂怒咎めて、むつかしくいひしかば、京伝驚きて、異議もなく(マ    マ(異本「無」)よしを、板元大和田安兵衛に告知らして、其板を摧せけり。京伝は寛政のはじめ、洒落本    の咎ありしより、をさ/\謹慎を宗としたれば、当時は冊子の稿本を町年寄へ呈閲して、免許を乞ひし    折なれば、故ありて奇跡考を板元自ら絶板すといふよしを、大和田安兵衛書林行事と倶に樽の役所へ訴    へたりと云。惜むべし〟   〈次項、宮武外骨の『筆禍史』が引用する「無聲雑簒」記事は、この馬琴の『物之本江戸作者部類』に拠る。英一蝶の門    流である英一蜂が、『近世奇跡考』所載の一蝶記事について、作者の山東京伝に抗議したところ、京伝と板元はこれを    受け入れて、自ら板木を砕かせ絶版にし、その上で町年寄の樽与左衛門に報告したという経緯のようだ。したがって、    これは自主的な規制であって、町奉行の処分としての絶板ではない〉     ◯「近世奇跡考」(宮武外骨著『筆禍史』p106)   〝山東京伝作「此書文化元年に印行するや、雅俗倶に賞鑑して多く売れべき勢いなりしに、第五巻に英一    蝶の伝記をしるし、朝妻舟の歌の考証したるより、一蝶の末派一蜂(三世か)怒りて理不尽にも、京伝    方へ六ヶ敷掛合に及びしかば、京伝大に驚き、異議もなきよしを、板元大和田安兵衛に告知らせて其板    を摧きけり、京伝は寛政の初め洒落本の咎ありしより、をさ/\謹慎を旨としたれば、当時冊子の稿本    を町年寄に提出して免許を乞ひし折なれば、故ありて奇跡考は板元自ら絶版すといふよしを、大和田安    兵衛書林行事と共に役所へ届出たりといふ」(無聲雑簒)    予の蔵本『近世奇跡考』を見るに、其第五巻に出せる英一蝶伝の「俳号を暁雲又和央と云ふ」の下二行    半ほど削り去りて無し、一蜂が厳談に及びし点は、此所の記事なりしならんか、其板を摧きて絶版とな    りしなるべし、其後右の原版本を入手せしが、奥書に「文化改元甲子十二月云々、江戸大伝馬二丁目大    和田安兵衛梓」とあり、翻刻本に削去あるは「俳号を暁雲又和央と云」の次     元禄十一年十二月【元禄八年トスルハ非ナリ】呉服町一丁目新道に住し時。故ありて謫せらる。時に     年四十七。謫居にある事十二年。宝永六年九月【宝永四年トスルハ非ナリ】帰郷して後。英「一蝶と     称し云々」に続ける二行半なり  
      〔頭注〕削去の歌    再刻本には朝妻舟の歌の中、    一蝶謫居の自詠と見るべき左の一章をも削去しあり     うきをかたらん友さへなくて。なぐさめかねつわが心あらうつゝなや。     すぎしつたへのその水ぐきの、くろみしあとを見るにつらさのいやますなみだは。     あはれとそでもとらへかし〟    〈削除した箇所は、一蝶の流罪・謫居に関する記事である〉        ☆ 文化五年(1808)       筆禍『商人金の采配』(合巻)       処分内容 発禁             ◎十返舎一九自作・自画(記載なし)       処分理由 不明(ロシア武装集団のエトロフ島襲撃事件を暗に踏まえたことか?)     ◯「商人金采配」(宮武外骨著『筆禍史』p107)   〝『日本小説年表』に「商人金采配三冊、十返舎一九画作、文化五年刊、此草紙出版の際、函館一件に付    障る事あり、暫く禁売せらる」とあり    右の函館一件とは露艦来寇をいへるなるべし、障る事の何たるは知らずといへども、其実物を一閲する    に、商家の番頭が若旦那を勘当せしめて一家を横領し、後終に負債山をなすに至り、其悪番頭を放逐し    て若旦那を呼帰し、漸く商運復旧すといふ筋なり、何かの寓意はあるならんも、函館一件の諷刺と見え    しは、幕吏の誤解たりしこと判明して、間もなく解禁となりしものならんか〟    〈「露艦来寇」とは文化四年のロシアの武装集団によるエトロフ島襲撃事件をさす。この発禁を確認する手だてはない     が、さりとて否定する材料もないで、とりあえず載せておく〉
   『商人金の采配』 十返舎一九作・画(『筆禍史』所収)     ☆ 文化十四年(1817)       筆禍 合巻       処分内容 新版本没収       処分理由 華美・高価     ◯「馬琴雑記」(曲亭馬琴の鈴木牧之宛、文政元年十月二十八日付書簡・水野稔著『江戸小説論叢』所収)   〝近年くさざうし(今はかふくわんと唱申候)甚花美になり候処、昨年初春一枚絵せり売の小商人丸の内    御老中御屋敷おくへ、元直二百文二わり引ケの合巻にて候を六匁に売り候に付、慰みもの花美の上甚だ    高料なる事然るべからずと御沙汰有之、依之町御奉行より町年寄へ御下知有之、町年寄よりかゝりの肝    炙(ママ・煎)名主へ被申付、去年四月下旬、俄に小売先まで新板の合巻絵草紙類取上に相成り、会所へつ    きおき、売止メ被致候に付、板元小うりのもの共一同恐入、難儀至極に付、数度寄合いたし、かゝりの    名主へ多く「袖」の下を遣ひ、右之いろ外題をいろさし五へん限りにほり直し、売買仕度と奉願候て、    漸/\三月に至り願相済候へ共、時節おくれ候故一向に捌わろく、損の上に損をいたし候処、名主より、    已来は昔の草双紙の通り、五丁とぢ黄表紙にてうり候様被申付候に付、昔の草双紙之形にして当春うり    出し候へば、一向うれ不申、又々大に損をいたし候に付、二月に至り、問屋共亦復かゝりの衆へ「袖」    の下多くつかひ、合巻の古板うり残りの分は、外題のいろさし五へんにいたし、売買致候旨願候処、度    々いぢめられ、当年限りと申事にて、古板は合巻のまゝにてうり候へ共、新板ならねば捌わろく、多く    は田舎へ渡し候のみにて、損もなく得もなし。是ではならぬと、芝辺の板元、油町の行事板元を両人、    昼夜奔走いたし大ほねを折り、多く「袖」の下を遣ひ、漸/\絵草紙新板も合巻にてうり候様に願ひ候    へども、外題のいろさしはならぬと名主町年寄より被申付候故、外題いろさしなくては、さみしくてう    れぬは眼前也。依て外・仲間に拘はらず、右両人申合せ、亦復少々の進物いたし、四五両はつかひ候へ    共、薬の用ゐやう足らざるゆゑ叶ひ不申、両人も大に疲れ、手を引候は、四五日以前之事に御座候〟    〈「袖」の表記は原本で袖の図様のあるところという。文政元年、合巻の出版部数が激減する。それは前年文化十四年     の上記の一件が影を落としているとされる。同年の四月、華美・高価という廉で、新版絵草紙が没収となった。そこ     で板元たちは、外題を「いろさし五へん限り(彩色は摺五回以内)」となるよう彫り直すことにして許可を申請した。     これは通った。(原文に三月許可とあるのは「あるいは六月の誤りではないか」と水野稔氏いう)ところがこれが時     節はずれで、どうにも売れ行きが悪い。それに加えて、今後は昔と同様、黄表紙仕立てにせよとの通達が下りてきた。     仕方なく今年の正月はその通りにしたのだが、案の定一向に売れなかった。二月になって、板元たちは、合巻の古板     の在庫だけでも外題を「いろさし五へん限り」にして売り出したいと願い出た。これは許可は下りた。しかし新版で     ないからか、これもなかなかさばけない。それで窮した板元たちは、やはり合巻仕立ての新版を出したいと、名主を     通して運動してみた。だが当局の態度は依然として硬く、またもや「外題のいろさしならぬ」と撥ね付けられてしま     った。この一件、板元たちはその都度名主に袖の下を遣って粘り強く運動した。だがすべては徒労に終わったようだ。     それにしても、板元たちの合巻表紙へのこだわりは執拗である。当然これは読者層の欲求に見合ったものとみてよい     のであろう。つまり合巻の評判は、かなりの部分が表紙の出来映えにかかっていたのである。2013/10/03〉  ◯『金曾木』遠桜主人(大田南畝)著(『大田南畝全集』10巻p290)   (欄外注として次の記事あり)   〝文化十四丁丑の暮より、合巻物外題の色ずりよろしきを禁ぜられて、合巻物やむ。もとの草双紙の如く    なれども、半紙ずりにて、一冊十六文づゝにうりて、絵もやはり合巻物のごとし〟    〈上掲、曲亭馬琴の言葉を使えば、合巻の「外題のいろさしならぬ」ということで、文政元年正月の売り出し分は五丁     とじの黄表紙仕立てにしたというところまで分かるが、「半紙ずり」以下の文意がよくわからない〉     ☆ 文政十年(1827)       筆禍『阿漕物語』後編(読本)       処分内容 絶版             ◎作者 狂訓亭楚満人(為永春水)(未詳)◎画工 歌川国安(未詳)◎板元(未詳)        処分理由 風俗紊乱     ◯「阿漕物語後編」(宮武外骨著『筆禍史』p112)   〝『阿漕物語』の前編四巻は文化六年式亭三馬の著なり、勢洲阿漕ヶ浦の争乱を基としたる小説にして、    例の平次等と共に忠臣孝子烈婦等を描出したるものなるが、此後編は其あとを継げる為永春水の著なり、    『国書解題子に曰く     阿漕物語後編(六巻)式亭三馬の阿漕物語の続編なり、即ち三馬が前帙の例言に「這の書編述未だ稿     を畢らず、全部八巻、先づ半を裂て世に広くす、後帙四本、開市を俟て高覧あらば、余が幸甚しから     ん」と記せるが、其の後其の志を果さずして病没したりければ、其の遺意を受けて門人狂訓亭三鷺     (為永春水)之れを補定し、歌川国安画図の業に与りて、一書を成せる所なり、文政九年丙戌秋七月     の序あり、全編六巻十齣より成れり、但し本書は頗る当時の子女の嗜好に適し、大に其名を博したる     が、風俗壌乱故を以て罰せられ、書は悉く絶版せられたり    如何なる刑罰を受けたるかは未詳なり、又此書絶版と成し事も右の記事にて見るのみ    さて風俗壌乱とは那辺の記事なるかと、試みに通覧すれども、此処ぞと云ふべき点もなし、     (*以下、記事の引用あり、略)    著者春水が後年の『春色梅暦』に筆せるが如き誨淫卑猥の個所はなかりし、之を当時幕府が風教上に害    ありとして絶版を命じたりとは思はれず、或は『東鑑』に拠れる鎌倉時代の物語といふと雖も、実は仮    托にして、近き諷喩の意あるものと認めしにもありしならんか〟
   『阿古義物語』後輯 狂訓亭楚満人(為永春水)作・歌川国安画(『筆禍史』所収)     〈宮武外骨は『阿古義物語』後輯の刊行年を文政十年とするが、国文学研究資料館の「日本古典籍総合目録」は文政九年    刊とする。宮武は処分理由に納得が行かない様子だ〉
    以上、文政十年までの「筆禍」終了(2013/07/26)      筆禍「大空武左衛門」(錦絵)       処分内容 絶版            ◎画工・板元とも未詳       処分理由 猥褻  ◯『兎園小説余録』〔新燕石〕⑥389(滝沢解著)   〝大空武左衛門    文政十年丁亥夏五月、江戸に来ぬる大男、大空武左衛門は、熊本侯の領分肥後州増城郡矢部庄田所村なる    農民の子也。今茲二十有五になりぬ。身の長(タケ)左の如し     一 身の長(タケ) 七尺三寸   一 掌 一尺     一 跖     一尺一寸五分 一 身の重サ 三十二貫目     一 衣類着丈ケ 五尺一寸   一 身幅   前九寸後一尺     一 袖     一尺五寸五分 一 肩行 二尺二寸五分    全身痩形にて頭小さく、帯より下いと長く見ゆ。右武左衛門は熊本老侯御供にて、当丁亥五月十一日、江    戸屋敷に来着、当時巷談街設には、牛をまたぎしにより、牛股と号するなどいへりは、虚説也、大空の号    は、大坂にて相撲取等が願出しかば、侯より賜ふといふ。是実説也。武左衛門が父母并兄弟は、尋常の身    の長ケ也とぞ、父は既に没して、今は母のみあり、生来温柔にして小心也、力量はいまだためし見たるこ    となしといふ、右は同年の夏六月廿五日、亡友関東陽が柳河侯下谷の邸にて、武左衛門に面話せし折、聞    見のまに/\書つけたるを写すもの也、下に粘ずる武左衛門が指掌の図は、右の席上にて紙に印したるを    模写す、当時武左衛門が手形也とて、坊売の板せしもの両三枚ありしが、皆これとおなじならず、又武左    衛門が肖像の錦絵数十種出たり。【手拭にも染出せしもの一二種あり】後には春画めきたる猥褻の画さへ    摺出せしかば、その筋なら役人より、あなぐり禁じて、みだりがはしきものならぬも、彼が姿絵は皆絶版    せられにけり、当時人口に膾炙して、流行甚しかりし事想像(オモヒヤ)るべし、しかれども武左衛門は、只故    郷をのみ恋したひて、相撲取にならまく欲せず、この故に、江戸に至ること久しからず、さらに侯に願ひ    まつりて、肥後の旧里にかへりゆきにき、     (手形の模写あり)    当時この武左衛門を、林祭酒の見そなはさんとて、八代洲河岸の第に招かせ給ひし折、吾友渡辺花山もま    ゐりて、その席末にあり、則蘭鏡を照らして、武左衛門が全身を図したる画幅あり、亡友文宝携来て予に    観せしかば、予は又そを文宝に模写せしめて、一幅を蔵めたり、この肖像は蘭法により、二面の水晶鏡を    掛照らして、写したるものなれば、一毫も差錯あることなし、錦絵に搨り出せしは、似ざるもの多かり、    さばれ、件の肖像は、大幅なれば掛る処なし、今こそあれ、後々には、話柄になるべきものにしあれば、    その概略をしるすになん、(以下略)〟(『新燕石十種』⑥389)  ☆ 文政十二年(1829)       筆禍『神風和国功』(合巻)       処分内容 絶版             ただし、板元(岩戸屋喜三郎)・作者(十返舎一九)・画工(歌川貞房)御咎めなし       処分理由 幕臣諷刺    ◯『兎園小説拾遺』〔新燕石〕⑦68(著作堂主人(曲亭馬琴)編)   〝去己丑の春新板、十遍舎一九の草双紙、神風和国の功し、二冊物、蒙古入寇の事を作るといへども、高    橋作左衛門を諷して、素襖着たる武者の画に、剣かたばみを七曜の剣にしたれば、いかゞ敷由にて、同    年の春二月中、草紙類改名主より相達して、絶版せられ畢、此版元は地本問屋岩戸屋喜三郎也、但し、    板元作者等御咎めなし〟    〈己丑は文政一二年。文政十一年、長崎のオランダ商館医・シーボルトが帰国しようとしたところ、幕府天文方の高     橋作左衛門(景時)が、伊能忠敬の日本地図をシーボルトに写し取らせていたことが発覚。地図は幕府の禁制品で     あったことから、幕府にとっては大事件である。この合巻はそれを踏まえたものとされたのであろう。剣片喰(ケンカ     タバミ)は高橋景時の家紋、七曜は北斗七星だから、これで天文方の高橋景時を擬えたものと、改名主たちは判断し     たのであろうか。同年、高橋景時は獄死し、シーボルトは国外追放処分となった。2015/10/14追加〉    ☆ 天保元年(文政十三年・1830)    筆禍「似せ虚無僧」三種(錦絵)       処分内容 ◎板元 森屋治兵衛 売買禁止 絶板        処分理由 虚偽の流布ということか    ◯『兎園小説拾遺』〔大成Ⅱ〕⑤137(著作堂主人(曲亭馬琴)編・文政十三年記事)   〝一月寺開帳御咎遠慮聞書    文政十三庚寅年春、浅草観音境内にて、下総国小金村一月寺本尊開帳の節、似せ虚無僧にて召し捕られ    候人々の由、衣服改名住所等尋、差返置候者〈以下、氏名のみ。役職等は省略〉     筧 伝五郎 静山  日野吉十郎 秋山  名不知   貞学  中田鍬五朗 晋隣    召連候者〈以下、氏名のみ。役職等は省略〉     三浦雄五郎 陰樹  渡辺勝之助 巳道  加藤半五郎 晋風  福原小三郎 貞友     磯部勝次郎 竹寿      一月寺は遠慮逼塞、開帳場浅草念仏堂戸しめ、御目見以下のものは、右つれられてそれ/\へあづけら    るゝ、九月中旬にいたりてもなほ、落着の事聞えずと云、当時の落首、      小金より大金まうけに来たれども一日ぎりであとは御無用    似せ虚無僧の錦絵三番出る。馬喰町森屋治兵衛板元也。草紙改名主より売留申付絶板〟    〈似せ虚無僧の錦絵、三種ほど版元森屋治兵衛から売り出されたが、絵草紙改(アラタメ)掛(カカリ)の名主より、売買禁止と絶版を     命じられた。2014/12/25追加
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