Top           浮世絵文献資料館           (C)加藤好夫 2012  -----------------------------------------------     参考資料     「源頼光公館土蜘作妖怪図」一勇斎国芳画(早稲田大学図書館「古典籍総合データベース」)
    「土蜘蛛」解釈全文」       A「土蜘妖怪図解 錦絵聞書」  B「一勇斎の錦画」       C「浜御殿拝観の記」      D「浜御殿拝観の記」〔頭書 錦画の註釈〕       ◎『開版指針』「流行錦絵の聞書」
    (上記の解釈に石井研堂著『天保改革鬼譚』所収の解釈や古堀栄の解釈を加えて一覧にしたもの)
    土蜘蛛その他資料(上記以外の文献資料)
 ------------------------------------------------                  -読む浮世絵「判じ物」-         2012/09/28               一勇斎国芳画「源頼光公館土蜘作妖怪図」       加藤 好夫      一勇斎国芳画「源頼光公館土蜘作妖怪図」(大判三枚続・伊場屋板、以下「土蜘妖怪図」と表記)を語る   とき、よく引用される史料に『藤岡屋日記』がある。天保十五年(弘化元年・1844)正月十日の記事で、   そこには次のように出ている。   「去卯ノ八月、堀江町伊場屋板元にて、哥川国芳の画、蜘蛛の巣の中に薄墨ニて百鬼夜行を書たり、是    ハはんじ物にて、其節御仕置に相なりし、南蔵院・堂前の店頭・堺町名主・中山知泉院・隠売女・女    浄るり、女髪ゆいなどの化ものなり、その評判になり、頼光は親玉、四天王は御役人なりとの、江戸    中大評判故ニ、板元よりくばり絵を取もどし、板木もけずりし故ニ、此度は板元・画師共ニさわりな    し」(注1)    一 出版時期   「去卯ノ八月」つまり天保十四年の八月。当初、これを「土蜘妖怪図」の出版年月だと思っていた。天保   十五(弘化元年・1844)年三月、絵双紙掛りの名主が作成した「流行錦絵之聞書」(『開版指針』所収)   にも次のようにあった。   「十四卯年八九月の比、堀江町壱丁目絵草屋(ママ)伊波屋専次郎板元、田所町治兵衛店孫三郎事画名歌川    国芳【国芳ハ歌川豊国の弟子也】画ニて、頼光(ヨリミツ)公御不例(レイ)四天王直宿(トノヒ)種々成不    取留異形の妖怪(ヨウカイ)出居候図出板いたし候」(注2)   文中に「国芳、板元伊波屋専次郎(伊場屋仙三郎)、病気の頼光、宿直の四天王、取り留めもないさまざ   まな異形の妖怪」とあるから、紛れもなく「土蜘妖怪図」の記事。これも天保十四年八、九月頃の出版と   していた。(以下「流行錦絵之聞書」は『開版指針』の表記で引用する)   ところが、これが違うらしい。専門家によると、八月というのは「土蜘妖怪図」が評判になって様々な浮   説が生じた時期にあたり、実際の出版は天保十四年の正月頃とのこと。(注3)   『井関隆子日記』、天保十四年十一月五日の記事。   「此春のころあやしき絵を南(ママ)書出たる。されど共初は人こゝろ付ざりしが、ある人画書国芳に間   (とひ)しに、是は誰(た)そ、かれは何ぞと、絵解(ゑとき)聞しより次々いひつぎしかば、世の人    珍らしみいみじく求めてもて遊びぐさとなしぬ」(注4)   (この春の頃怪しい絵が出ました。しかし最初は誰も気にしなかったようです。ある人が画かきの国芳    に尋ねたところ「これは誰、あれは何」と絵解きしたそうで、これが噂となって次々に広がると、世    上でも珍しく思って競って買い求め、もてあそんだようです)   国芳とあるからこの「あやしき絵」が「土蜘妖怪図」を指すことは明らかで、ここには「此の春のころ」   の出版とある。なぜ八月ではないのか。その理由は絵草紙掛りの名主が押す改(あらため=検閲)印にあ   るらしい。もし八月の出版だとすると、この時期の他の作品には改印があるから、当然「土蜘妖怪図」に   もあるはずだという。ところが「土蜘妖怪図」には改印がない。もちろんこれは無許可を意味するもので   はない。実は検閲を通っても改印を押さない時期があったようで、「土蜘妖怪図」もそのケースにあたる   という。(注5)結局、改が天保十三年の十一月の頃、出版は翌春の正月の由である。(注3)   当初「土蜘妖怪図」はあまり注目されず、画中の寓意に気付く者もいなかった。これは他書も指摘してい   るから事実のようだ。例えば「始の程は人も心付かざりしが、後には何れも心付、此絵を大に買はやらせ   心々思ひ/\にこれを評し」という記事もある。(注6)   それが八月あたりから急に評判があがる。そのきっかけを作ったのは国芳自身。「是は誰そ、かれは何ぞ   と」と「絵解(ゑとき)」してからだという。しかしこれは真偽不明で、国芳自ら口に出すとは思えない。   もっとも、国芳にこのような噂が立つということは、国芳ならありうるという思いが巷間にあったことを   物語る。    二 判じ物    そもそも「土蜘蛛」とは頼光・四天王主従をめぐる伝説の一つ。大江山の鬼(酒呑童子)退治、市原野の   怪童(鬼同丸)退治、そして渡辺綱による一条戻り橋の鬼女退治などとともに、当時の人々にはお馴染み   の説話であった。内容をさらっておこう。   源頼光が原因不明の重病を煩って床に臥していると、ある夜、その枕許に、いつの間にか千筋の縄を手に   した大入道が現れた。夢うつつの頼光、しかしさすがは源氏の嫡流、ただならぬ気配を察して、重代の名   刀膝丸で斬り払う。すると大入道は血を流しながら逃げ去った。そこへ宿直の四天王が駆けつける。見る   と血痕が外へ外へと続いている。四天王はそれを手掛かりに跡を追う、やがて大きな塚に出くわした。掘   ってみるとそこには巨大な土蜘蛛。四天王は直ちに捕らえ、鉄串に刺して川原に晒す。すると不思議なこ   とに、頼光の病は瞬く間に治った。以来、膝丸は蜘蛛切丸と名を改めた。   この伝説は最初、謡曲や古浄瑠璃などを通して流布した。しかしそれに以上に広がったのは、例えば、菱   川師宣の組物「酒呑童子」(延宝八年(1680)頃刊)のような版画・版本類が出回ってからのようだ。      江戸の作例を、明和二年(1765)以降の錦絵・草双紙で見てみよう。   ◯「酒呑童子退治」の作例    歌川豊春画     「浮絵大江山【酒天童子酒エン之図】」(横大判・西村屋板)安永年間(1772~1780)刊    北尾政美画     『絵本大江山』          (絵本)   天明六年(1786)刊     「無題(大江山酒顚童子)」    (大判・泉市板) 寛政年間(1789~1800)刊   ◯「土蜘蛛退治」の作例    歌川豊春画     「浮画源頼光土蜘蛛変化退治図」 (横大判・西村屋板)安永年間(1772~1780)刊     「新板浮絵四天王土蜘蛛退治之図」(横大判・岩戸屋板)安永年間刊    北尾政美画     『絵本英雄鑑』(絵本) 寛政三年(1791)刊     『頼光山入』 (黄表紙)寛政年間(1789~1800)    勝川春亭画     「無題(土蜘蛛退治)」  (大判三枚続・萩原板) 文化年間(1804~1817)刊    歌川国長画     「無題(源頼光と土蜘蛛)」(大判三枚続・和泉屋板)文政期(1818~1829)刊   以上のような前史があって、天保十四年の春、国芳の「土蜘妖怪図」は世に出た。この絵は「土蜘蛛退治」   系統の絵だが、これまでの作例どれとも違っていた。従来のものは、四天王と妖怪が対峙して、頼光が土   蜘蛛の足を斬り落とす、といった構図のものが多い。ところが「土蜘妖怪図」の頼光は病床に臥したまま   起き上がる気配はないし、土蜘蛛に斬りかかる様子もない。四天王の方も、坂田金時と渡辺綱は囲碁に夢   中で当直の緊張感はないし、卜部季武も碓井貞光も主君以上に屋外の妖怪たちの方が気になる様子。また   土蜘蛛や見越し入道にしても、豊春や国長のものはどこかユーモラスな雰囲気さえ漂っていたが、国芳の   ものは土蜘蛛と入道が合体したうえ、雰囲気も殺伐として不気味だ。   異様な絵柄に加えて、国芳自ら絵解きしたという噂も手伝って、巷間様々な解釈が生まれた。しかし解釈   は様々だが、基本的なところでそれらの観点は一致していた。   ◯『井関隆子日記』天保十四年(1843)十一月五日記事   「近きころ罪せられたる公(おほやけ)人はさら也法師のたぐひわざをぎども、あるは町々を追はれて    たつぎにこうじたる男女ら、大方かの司に恨みある者ども数しらず書出たれど(云々)」   (最近罰せられた役人は言うまでもない、僧侶、役者、あるいは町を追われて生活に窮した男女、おそ    らくは「かの司」に恨みを抱く人々をたくさん画いた)   「かの司」とは老中水野忠邦をさす。そして妖怪はその水野に「恨み」を持つ者たち。   ◯『藤岡屋日記』天保十五年(1844)正月記事   「頼光は親玉、四天王は御役人なり」「化け物」は「南蔵院・堂前の店頭・堺町名主・中山知泉院・隠    売女・女浄るり、女髪ゆいなど」    親玉は将軍、四天王は四人の老中。妖怪は、南蔵院以下堺町名主の三人は遠島処分になった罪人、智泉    院は女犯の罪で日本橋で三日間晒された破戒僧、そして私娼や女浄瑠璃や女髪結。いずれも水野の改革    で追放されたり、生業を禁じられた人々である。(南蔵院等、詳しくは「四 図様の解釈」で後述する)   ◯『開版指針』「流行錦絵之聞書」天保十五年三月記   (この聞書は絵草紙掛りの名主が巷間の風評を記して町奉行に提出したもの)   「四天王は其比四人の御老中、水野越前守様、真田信濃守様、堀田備中守様、土井大炊頭様」    これはまたはっきり名前を挙げている。言うまでもなく当時の老中四人。一方妖怪の方は、詳しくは添    付資料に全文があるからそれに拠ってほしいが、町奉行矢部駿河守、歌舞妓役者市川海老蔵など、やは    り天保改革の犠牲者。   ◯『事々録』天保十五年冬記   「頼光が病床、四天王宿直、土蜘蛛霊の形は権家のもよふ、矢部等が霊にかたどる」(注6)    これも前条と同じ。病床の頼光、宿直の四天王は、将軍はじめ閣僚級のお歴々。土蜘蛛の霊は水野によ    って追放された町奉行矢部駿河守とする。   ◯『寒檠璅綴』安政二年頃成る   「大キナル土蛛ノ頂ノ斑ハ暗ニ矢部駿河ガ紋所ニ似タル黒点ヲナシ、妖魔ノ眷属坊主アリ、山伏アリ、    梵天ノ旗ヲタテ、ソロ盤ノ甲ヲ着、岡場所ノ売女、十組ノ問屋、女髪結ノ類、異類異形ノ怪物ヲ画キ    タリ」(注8)    直接、頼光や四天王に言及はないが、これは自明のこと、あえて書くまでもないとしたか。土蜘蛛の頭    部の斑(まだら)と矢部駿河守の家紋(三つ巴)とが似合いだとして、土蜘蛛を矢部駿河守とし、異類    異形の怪物を坊主、山伏、女髪結などと解した。居住を制限されたり、生業を禁じられた人々である。   ◯『五月雨草紙』慶応四年(1868)稿   「化け物」は「土蜘蛛の妖物になぞらへ、当世滅亡せし矢部駿州を始め、諸家の面々より、下々に至り    ては、株持、地主の損毛、岡場所、茶屋、小屋、富興行の山師ども、いろ/\さまざまに化けたる姿」    (注9)    妖怪を、当時滅亡した矢部駿河守や、解散を命じられた株仲間、禁じられた富興行などとする。ただし    この記事はお上を憚ったか、頼光や四天王が暗示するものを記さない。   以上のように、これらの解釈が、天保の改革を推進したお歴々と、その被害者・犠牲者という構図になっ   ていることは一目瞭然である。(詳細は「源頼光公館土蜘作妖怪図」解釈一覧を参照)したがって、妖怪   のいる上部が黒く、頼光・四天王のいる下が青という「土蜘妖怪図」の配色も、次のような解釈になる。   「絵の大意、上が闇き故に下は真青で居ると云意なり」(注10)   「上の政道くらやみにして諸人困窮甚しく、下は一統に青くなると云事也とぞ」(注11)    お上が暗愚だから下々は真っ青だと。   事実、天保の改革はかなり苛酷だったらしい。その分、主導した水野忠邦への風当たりは非常に強烈であ   る。前述の『井関隆子日記』は水野忠邦を「あまねく世にゝくまるゝ人」と記す。世の人すべてから憎ま   れている人。旗本の妻・井関隆子の目にはそう映っていた。   また明治期の福地桜痴もこう回想する。   「徳川幕府の綱紀を更張せんと望みしが、不幸にして其改革は世上の怨嗟(うらみ)を招きて遂に其効    を遂げざりしのみかは、己も亦その禍に罹り幕府の世終るまで、天保度の御趣意と云へば恐ろしき事    の様なる感情(おもひ)を人心(ひとごゝろ)に遺したりき」(注12)   (天保の改革は、幕府の綱紀を正そうという目的があったが、不幸にして世上の怨みを招き、遂に失敗    したのみならず、自分もその禍にかかり、幕府瓦解のときになっても、改革といえば恐ろしいという    思いばかりが残った)   福地桜痴は天保十二年(1841)の生まれ、この改革(天保十二年から十四年)時はまだ幼児である。当然、   怨嗟は桜痴自らのものではない。しかし恐ろしいという記憶はどうしても拭いきれなかったようだ。   この「土蜘妖怪図」は不思議な力をもっていた。現実を踏まえた絵でありながら、現実離れの解釈も可能   にする。   例えば、「蓮の花を持つ鯰」を「なまずは印旛沼の主」と解釈したケース。これは鯰を印旛沼の喩えとみ   て、水野主導の印旛沼開削工事を踏まえるとした。しかし事実関係からすると、これはあり得ない。開削   工事を担当する大名の決定は天保十四年の六月、そして工事開始が七月。当然、天保十四年春の「土蜘妖   怪図」に反映するはずはない。また渡辺綱と坂田金時の「囲碁対局」、囲碁を地取りのゲームとみて、水   野の上知令と解したものもあるが、同令は天保十四年の六月発布、これまた刊行時にはなかったものだ。   にもかかわらず、そんな解釈もありうると納得させる不思議な力が、この「土蜘妖怪図」にはある。   「世に恐るべき人智の機妙にて、聊の絵虚事なりとも、事理を推て勘考する時は、遂に画書の当人も心    付ざる所迄に至なり」(注9)   (この絵には不思議な力があって、絵空事には違いないが、筋道を立ててよく考えると、おそらく絵師    が意図しなかったものまで、事情通なら思い至ることが出来る)   なぜ時間を超えた解釈が可能なのであろうか。またどうして絵師の思惑を離れた解釈を納得してしまうの   か。それはこの「土蜘妖怪図」の中に、天保改革を推進する水野忠邦とその犠牲者・被害者という図式が   しっかり組み込まれているからにほかならない。この絵が画かれたのは天保十三年の冬、当時はもちろん、   翌年春の出版後も、そしてこの「土蜘妖怪図」の評判になった八月中も、依然として、水野の改革は現在   進行中であった。苛酷な施策は続いていたし、その犠牲者・被害者も増え続けていた。したがって、見る   側が、図様の中に現在の犠牲屋・被害者を見るのも当然である。評者は時間的な整合性にこだわらず、腑   に落ちる方を優先する。井関隆子のいう「もて遊びぐさになしぬ」とはこのことをいうのだろう。   この不思議な力に注目していたのは、実は他のところにもいた。     「それはそうと、頼光の絵はよく考えた。無分別の越前も上知の事ハ今でも無理をいふたと思つて居る    そうだ」(注13)   これは「意見早字引」という落書にあったもの。天明十四年九月、上知令の撤回に追い込まれた水野越前   守をからかった戯文だ。その落書の作り手が「土蜘妖怪図」に思わず膝を打った。巧妙な絵の出来映えに   感心したのは言うまでもない。しかしそれ以上に、彼らは間違いなく、落書同様の雰囲気(水野諷刺)を   「土蜘妖怪図」に感じ取ったのだ。    三 沢瀉(おもだか)   すべては卜部季武の袴の紋様沢瀉にかかっていた。沢瀉は水野忠邦の家紋。天保改革の最中、沢瀉を見て   水野忠邦を思わない者はいないだろう。当然、卜部季武は沢瀉を介して水野忠邦とオーバーラップする。   そして季武は消え水野忠邦そのものが現れる。そうならば、沢瀉以外の紋様も同じはず、また妖怪だって   例外ではない。こうして、図様には託された意味があるという意識が見る側に組み込まれる。つまり沢瀉   は「土蜘妖怪図」全体を判じ物にする役割を担っている。   さてその沢瀉だが、国芳の使用はこれが初めてではない。文政年間(1818~1829)の出版とされる「大江   山【酒天童子酒エン之図】」(大判三枚続・大黒屋板)で既に使っていた。この絵は、酒呑童子を退治する   ため大江山にやって来た頼光・四天王が、酒宴をしながら毒入りの酒を酒呑童子に勧めて、身の自由を奪   おうという場面を画いたものだが、四天王の紋をみると、卜部季武の沢瀉、渡辺綱の三つ星に一文字(い   わゆる「渡辺星」、以下「三つ星に一文字」は「渡辺星」と表記する)、坂田金時の七宝、碓井貞光の源   氏車となっている。これはこの天保十四年(1843)の「土蜘妖怪図」と全く同じである。   (※【酒天童子酒エン之図】の「エン」は表示不能文字。「隨」の字の阝が扌、以下「エン」と表記)   それでは、この卜部季武の沢瀉紋、これはいったいどこからきたのか。古堀栄は「古く寛文頃の浄瑠璃本   の挿絵(水谷不倒氏「絵入浄瑠璃史」桜井丹波掾参照)にもそれらしく思われるのがあり」、また文化年   間(1804~1817)刊の勝川春亭の「土蜘退治(無題)」(三枚続・萩原板)にも明らかに見えるとして、   「古来からの定例と思はれるから国芳の創意とは言はれない」とした。(注14)筆者も『水谷不倒著作集』   第四巻所収の「絵入浄瑠璃史」に当たって、確認を試みたが、沢瀉かどうか判別しかねた。しかし春亭の   「土蜘退治(無題)」(三枚続・萩原板)の方には紛れもなく沢瀉が使われていた。   沢瀉使用の作品をいくつか整理してみよう    歌川豊春画     「浮絵和国景跡風流和田酒盛之図」(横大判)安永年間(1772~1780)刊      (ただし卜部季武ではなく、和田酒盛の鎧の胴に沢瀉紋)    北尾政美画     「無題(大江山酒顚童子)」(大判・泉市板) 寛政年間(1789~1800)刊      (沢瀉・渡辺星・「金」の字)    勝川春亭画     『頼光山入一代記』(黄表紙・森屋板)二世恋川春町作 寛政年間刊      (千丈ヶ嶽の場面、山伏に沢瀉)    「無題(土蜘蛛退治)」(三枚続・萩原板)  文化年間(1804~1817)刊      (季武=沢瀉、貞光=源氏車、綱=渡辺星、金時=「金」の漢字を図案化した模様)    歌川国安画     『四天王其源』(合巻)・五柳亭徳升作    文政十年(1827)刊      (土蜘蛛退治の場面、沢瀉・源氏車・渡辺星・「金」の字を模様)   少ない作例だが、確かに古堀栄が言うように、沢瀉使用は国芳の創意ではない。しかし季武の沢瀉を「古   来からの定例」とすることにはいささか疑問がある。綱の渡辺星や源氏嫡流の紋とされる頼光の笹竜胆   (ささりんどう)はよく見るが、季武の沢瀉は必ずしも定着していたとは言い難い。    菱川師宣画     「酒呑童子」(横大判墨絵・十八枚組)延宝八年(1680)刊      (笹竜胆はあるが沢瀉も渡辺綱の渡辺星も見えない)    「大江山鬼退治絵巻」(巻子本・三巻)元禄五年(1692)筆      (車の紋様らしきものはあるが沢瀉はない)    奥村政信画     『頼光山入』(古浄瑠璃本)享保六年(1721)刊      (渡辺星だけあり)    歌川豊春画     「浮画源頼光土蜘蛛変化退治図」 (横大判・西村屋板)安永年間(1772~1780)刊      (渡辺星・「定」・「竹」・「金」の文字)     「新板浮絵四天王土蜘蛛退治之図」(横大判・岩戸屋板)安永年間刊      (渡辺星のみ、「金」の文字)     「浮絵大江山【酒天童子酒エン之図】」(横大判・西村屋板)安永年間刊      (渡辺星・「定」・「竹」・「金」・「保」・「光」の文字)    北尾政美画     『絵本大江山』(絵本)天明六年(1786)刊      (頼光の笹竜胆や綱の渡辺星はあるが、沢瀉や源氏車はみえない)     『絵本英雄鑑』(絵本)寛政三年(1791)刊      (七宝らしきはあるものの沢瀉や源氏車はない)    勝川春亭画     「(無題)四天王土蜘蛛退治の図」(大判・岩戸屋版)文化年間(1804~1817)刊      (綱だけが渡辺星で、金時は亀甲模様、残りの季武・定光は不明)    歌川国長画     「無題(源頼光と土蜘蛛)」(大判三枚続・和市屋板)文政年間(1818~1829)刊    (渡辺星・「金」・「定」の文字)   作例が少ないから断定はできないが、菱川師宣や奥村政信の時代までは、どうやら沢瀉は使われた形跡は   ない。安永期の歌川豊春は使ったが、それは和田酒盛に対するもので、土蜘妖退治や酒呑童子退治の図の   方には見当たらない。   北尾政美や勝川春亭の場合も、沢瀉を使ったり使わなかったり、一定せず揺れ動いている。つまり年代的   にも、また同一絵師においても、渡辺星以外、四天王の紋様に定型はなかったようだ。では国芳の場合は   どうか。これも同様に整理してみよう。     「大江山【酒天童子酒エン之図】」(大判三枚続・大黒屋板) 文政年間(1818~1829)刊      (沢瀉・渡辺星・七宝・源氏車)     「源頼光の四天王土蜘退治之図」(大判三枚続・丸屋板) 天保九年(1838)頃刊      (綱の渡辺星、金時の七宝、貞光の源氏車はあるが、季武の沢瀉はない)     「耀武八景 市原野晴嵐」   (大判・鶴屋板)  天保中頃      (渡辺星、貞光は源氏車というより水車のようにみえ、季武や金時は沢瀉でも七宝でもない)     「源頼光公館土蜘作妖怪図」(大判三枚続・伊場屋板) 天保十四年(1843)刊      (沢瀉・渡辺星・七宝・源氏車)     「大江山福壽酒盛」 (大判三枚続・木屋板) 嘉永六年(1853)刊      (季武に沢瀉なし、綱に渡辺星なし)   前述したように、天保十四年刊「土蜘妖怪図」の沢瀉・渡辺星・七宝・源氏車は、既に文政年間の「大江   山【酒天童子酒エン之図】」に使用していた。しかしその後の四天王を見ると、必ずしもそれを踏襲してい   ない。それに「土蜘妖怪図」以降のものをみても固定化はしていない。例えば、嘉永六年の「大江山福壽   酒盛」、これは文政年間の「大江山【酒天童子酒エン之図】」と同じ場面だから、紋様もそのまま使ってよ   さそうだが、国芳はそうしなかった。頼光に笹竜胆らしきものは見えるが、それ以外の四天王には件の紋   様が見当たらない。やはり国芳においても、頼光の笹竜胆や綱の渡辺星を除けば、紋様に定型はなかった。   しかしここが奇妙なところで、その定型でもない沢瀉を、よりによって天保十四年の「土蜘妖怪図」に、   国芳はあえて使った。この時点での沢瀉が即ち水野忠邦を指し示すことは誰の目にも明らかだ。にもかか   わらずである。とても偶然とは思えない。   おそらく国芳なりの周到な用意と見るべきなのかもしれない。というのも、後年こういうことがあったか   らだ。嘉永三年七月(1850)、国芳の「【きたいなめい医】難病療治」(大判三枚続・遠州屋板)が評判   を呼ぶ。大奥の御殿女中や将軍の正室(寿明姫)そして老中阿部伊勢守をも擬えているとの浮説が流れた。   そのとき画中の轆轤首(ろくろくび)について尋ねられた国芳はこう回答している。   「是は今度私の新工夫にも無之、文化二年式亭三馬作にて、嬲訓歌字尽しと申草紙ニ、右轆轤首娘有之、    是を書候」(注15)   (轆轤首の娘は、文化二年(1805)刊、式亭三馬の黄表紙『嬲訓歌字尽 (なぶるもよみとうたじづくし)』    (歌川豊広画)から借用した)   国芳はどうやら弁明の材料を過去の用例に求めるらしい。天保十四年の「土蜘妖怪図」に、そのような用   意があったと見るのは穿ちすぎか。文政期の「大江山【酒天童子酒エン之図】」では沢瀉を使用した。時の   老中は水野出羽守忠成、家紋はやはり沢瀉。しかしこのとき浮説は生じなかった。国芳にしてみれば、今   回の沢瀉、問題のなかった文政期の前例に倣ったまでのことと弁明できる。    四 図様の解釈   これから付録の「源頼光公館土蜘作妖怪図」解釈一覧を参照しながら、諸図様に対する様々な解釈を見て   いく。その前に付録の資料ついて説明をしておきたい。資料は全部で七つ。左から次のように並んでいる。    A『天保雑記』所収「土蜘妖怪図解 錦絵聞書」    B『浮世の有様』所収「浜御殿拝観の記」の「頭書-錦画の註釈」    C『浮世の有様』所収「一勇斎の錦絵」    D『浮世の有様』所収「浜御殿拝観の記」    E『天保改革鬼譚』所収、土蜘妖怪図の絵に貼付されていた江戸時代の小札、及び『天保改革奇譚の著      者石井研堂の解説    F─1『江戸の諷刺画』「国芳の妖怪図」所収「大坂の付箋」    F─2「史料としての錦絵(六)」古堀栄の解釈    (以下、資料名は省略、アルファベットで表記する)   以上のうち、天保改革当時のもの、あるいは江戸時代の解釈と思われるものはA~F─1まで。F─2は、   昭和六年、古堀栄がEの『天保改革奇譚』を参考に独自に解釈したもの。(ついでに言うと、Fを1と2   に分けたのは、一覧の配置とスペースの関係で一つの欄に括ったまでで、特に意味はない)   このうちA~Dについては、その解釈内容から、どの時点のものか分けることができる。カギとなるのは、   堀田備中守の老中罷免(天保十四年(1843)閏九月八日)と水野越前守の老中罷免(同月十三日)。この   二つの事実を解釈に反映させているか否かで、グルーブが二つに分かれる。ABは反映させた様子がない。   CDは反映させた。Cは水野忠邦の罷免を反映させていないが、囲碁対局で「堀田は溜の間へふとん投げ   にて、御役御免となり」と堀田の罷免に触れている。Dは「紀州公其外諸侯の力を以て水野がしくじれる   やうになりて、太平に納るやうになりぬ」とあり、水野の罷免を踏まえる。したがって、ABは閏九月以   前の解釈。CDは閏九月以降の解釈と考えられる。   付け加えると「三つ引紋」のところでは、CDともに閏九月二十一日の間部下総守の西丸老中罷免に言及   しているから、詳しく言えば、閏九月下旬以降の解釈となる。EとF-1・F-2についてはどの時点で   の解釈なのか分からなかった。   F─2を除いて、これら解釈した者たちの正体はよく分からないが、ABが江戸在住の者、Cは『浮世の   有様』の著者で大坂在住者、DEは江戸在住らしいと推定はできるが判然としない。F─1も同様、大坂   在住の者らしいと推定できるがはっきりしない。   この中で図様を一番多く解釈したのはA。中には根拠不明の解釈も交じっているが、幕府内の政争や人事   等については、他の三つに比べて遙かに奥の深い情報を持っている。また市井の動向にもよく通じている   ようだ。逆にこの中で一番解釈数の少ないのがC。自ら「右の外皆因縁あれど、決て不知」という通り、   図様と現実との間に有るはずの対応関係が見つからず、解釈しあぐねている様子だ。   なお以上の他に、天保十五年(1844)三月、当時の絵草紙掛りの名主が作成した「源頼光公館土蜘作妖怪   図」に関する風聞記事、「流行錦絵の聞書」(国立国会図書館蔵本『開版指針』に所収)も併せて参照し   た。(以下、この「流行錦絵の聞書」を、その出典を明確にするため、本稿では『開版指針』と表記する。   なお引用文には読みやすくするため句読点や送りがなを適宜振った。原文は別添資料を参照のこと。また   落首など引用の典拠については煩雑になるので省略した。付録の「源頼光公館土蜘作妖怪図」解釈一覧に   は載せてあるので、そちらを参照のこと)    Ⅰ 四天王   ABCDの四つとも、四天王を改革当時の四老中と解釈する点では一致する。その根拠は装束の紋様にあ   る。紋様が図像の四天王を現実の四老中に変換する。虚像が実像に変わるのだ。なお『開板指針』の方は、   非常に具体的で「四天王は其比四人の御老中【水野越前守様、真田信濃守様、堀田備中守様、土井大炊頭   様】」と直接名前をあげる。   ◯「勘解由判官・卜部季武」の沢瀉(おもだか)紋。   これを水野越前守とする。Dは「季武【水野越前守也、家の定紋沢瀉を付けて、これを知らしむ、将軍の   御側をはなれずして、我意を放にする有様也とぞ】」という。根拠は言うまでもなく沢瀉。水野の執政は   我意を放(ほしいまま)にするという見立てだ。ここにも水野に対する恨みの一端が表れている。天保十   四年(1844)閏九月十三日、水野忠邦の老中罷免が決まったとき、「大に悦ひ市中雀踊せり」というのも   頷ける。(注6)   ◯「舎人・渡辺綱」の渡辺星(三つ星に一文字)の紋。   これを真田信濃守とする。この説明はいささか苦しいが、星を銭に見立てて次のように自分を納得させて   いる。Aは「綱の三ッ星に一の字は真中より割六文銭の形なり。模様の亀甲は水に這と云理なり」という。   真田家の紋は「六文銭」。渡辺綱の「三つ星に一文字」を「六文銭」を割った三文銭に見立てて真田信濃   守と解釈した。また小袖の亀甲模様については、水野に這い従っているという寓意を読み取っている。   Bは「渡辺綱は真田と見る、だんご三つを合せて、六文銭にかたとる」とする。こちらは「三つ星に一文   字」を、団子三個を串刺しにした一串六文の団子に見立て、六文銭の真田信濃守と結びつけた。   ABともに、何が何でも渡辺綱と真田信濃守を結び付けようという執念の解釈。それにしても、際どく符   合するから妙である。   ◯「主馬佐・坂田金時」七宝の紋。   これを堀田備中守とする。Aは「金時、黒地にしつほふは金の字の似合なり、着物の模様、桜の花に蕨手、   桜炭の小口切を水に巻れて有なり」という。この解釈は少々複雑で、まず金時がなぜ七宝なのかを説明し、   そのうえで、その金時がどうして堀田備中守なのかを説明する。そもそも七宝とは仏典にある七つの宝石   のことで、金・銀・瑠璃・珊瑚・琥珀・硨磲・瑪瑙などをいう。なるほど金を含んでいる。確かに坂田金   時に七宝はふさわしい。次に小袖の模様の桜に蕨手、これを桜炭の小口切と見る。そしてその桜をさらに   佐倉に読み替え、この金時を下総佐倉の藩主堀田備中守と解釈した。その堀田がまた水に巻かれている。   水野に懐柔されているという見立てだ。   ところで、四天王のうち坂田金時だけが全身赤で画かれているのはなぜか。これは金時が山姥と赤竜の子   だという伝説に拠るらしい。つまり渡辺星同様、金太郎や坂田金時の赤は必須なのである。なお草双紙や   錦絵では坂田の装束には「金」の文字を配することが多く、七宝は珍しい。それでも、金時に七宝とは、   屁理屈ながら理には叶っている。ついでに言えば、堀田家の家紋は木瓜(もっこう)。さすがに木瓜と金   時とを結びつける解釈は出来なかったようだ。   ◯「靱負尉・碓井貞光」源氏車の紋。   これを土井大炊頭とする。Aは「貞光、源氏車定紋なれど、着物の車、水車に間似合なり、此人十里四方   引替を、碁向助言いたし候得共聞入なし、仍て壱人脇に寄茶呑、世界の様を考える処、化物悉く見ゆる」   という。土井大炊頭の紋は水車。卜部貞光は源氏車。同じ車系統とみて土井と貞光とを結びつけた。「十   里四方引替」とは天保十四年六月の上知令のこと。土井は当初推進者だったが、上知の対象となった大坂   飛地の自領民が必死の覚悟で抵抗したがために、後に反対派にまわったという。言うまでもないが、この   「土蜘妖怪図」の出版は十四年の春だから、国芳が「上知令」を念頭に置いて画くことなどあり得ない。   しかしAはそれには無頓着。土井は上知令を撤回するよう水野の提案したが、聞き入れてもらえず、独り   そっぽを向いて、世の様子を伺っていると解釈した。「化物悉く見ゆる」とある。土井は世相をよく見て   いるという評価なのだろう。   BもAと同じ解釈。Cは土井大炊頭と記すのみ。   D「水野が姦悪なる事をば夢にもしらずして、太平なる心持にて、うか/\茶を飲て平気にて居る」(D   は原文が長いので付録の「源頼光公館土蜘作妖怪図」解釈一覧を参照のこと)この土井評価は辛辣だ。水   野の「姦悪」に気づかず、土井はのんびり茶を呑んでいると解釈。同十四年閏九月十三日の水野罷免も、   それは紀州公や諸侯の力であって、土井の指導力に拠るものではないとする。   もっとも当時の落首を見ると、「手もつかぬ流石の水野勢ひも土井の車にかなはざりけり」とか「紀伊/\   と土井の車の音高く浜松風はそそりともせず」とあるから、土井が水野を失脚に追いやったと、巷間では   取り沙汰されていたようだ。(浜松は水野忠邦の領地)   なお「匹夫匹婦の為に馬鹿者と噂せらるゝも其理なきにしもあらず」の評が判然としない。           「源頼光公館土蜘作妖怪図」      ◯ 渡辺綱と坂田金時の囲碁対局   この宿直の囲碁対局という絵柄も国芳の独創ではない。文政年間の歌川国長画「無題(源頼光と土蜘蛛)」   (大判三枚続・泉屋板)には既にある。あるいは国芳もそれに倣ったか。   この対局ついても諸評はあれこれ穿鑿している。(原文は長いので省略。「源頼光公館土蜘作妖怪図」解   釈一覧参照)   A 囲碁はそもそも地取りのゲームだから、対局は天保十四年六月の「十里四方引替」(上知令)の喩え   だとする。そしてそれを強引に推進する水野忠邦らは、碁盤ように「横縞=邪(よこしま)」だと解釈。   『開版指針』の評もAと同じで、「公時(キントキ)渡辺両人打居り候碁盤は横ニ成り居り、盤面の目、嶋な   れば、此両人心邪(ヨコシマ)に有之」と、老中たちの「横嶋(縞)=邪」な心を暗示するという。   B 真田信濃守(渡辺綱)と堀田備中守(坂田金時)は対局に夢中で、下々の窮状など眼中にないとした。   C 盤上の黒白の石数に着目して、この対局を渡辺綱の勝とした。(おそらく盤上の綱の黒石が金時の白   石のより多いのでそう解釈したのだろう)そこから、この対局を、天保十四年閏九月八日の堀田備中守の   免職と捉えた。確かに堀田の老中罷免は水野忠邦の閏九月十三日罷免に先立ち、四老中の中では一番早か   った。   DもCと同様、堀田備中守の免職と解釈した。Dはそのうえさらに盤上の石の位置にも着目し、堀田と真   田の石は筋ちがいばかり、これではとても老中職など勤まらない、その器ではないとした。    Ⅱ 源頼光   沢瀉が卜部季武と水野忠邦とをしっかり結びつけたように、頼光・四天王間の主従関係もまた、将軍と四   老中という主従関係に結びつく。当然、頼光は徳川十二代将軍家慶を指す。A~Dすべてが一致する。し   かしその解釈は異様である。   A「頼光公、夜着に葵の唐花」B「頼光は親玉と見る」。Aは「葵唐草」の紋様までを見て取っている。   (夜着(掛け布団)とあるが、敷き布団の模様をいうのだろう)言うまでもなく、葵は徳川家の紋。この   親玉(将軍=家慶)もまた伝説の頼光同様、病の床で眠っている。そしてB「頼光の夜具は青海浪のもや   う」これを将軍は水に巻かれている(水野忠邦の意のまま)と解釈した。   国芳は以前これと同じ場面(土蜘蛛が病床の頼光を襲う場面)を画いている。「源頼光」(署名「採芳舎   国芳」・大判二枚続・西村屋板・文化十三、四年(1816~17)頃刊)。この絵では、頼光が病床から起き   上がり、太刀を抜いて土蜘蛛の足を斬り落としている。しかし「土蜘妖怪図」の頼光には、起き上がる気   配も太刀を手にする様子もない。ただただ身を水に任せてひたすら眠りに就くばかり。   こんな将軍の身の上を当時の人々はずいぶん心配したようだ。   「よく/\公儀には人なき事にて、彼の一勇斎が画る錦絵の如く、水野が為に巻込れ給ひし事との由、    水野は昨年来の恥辱を雪ぎぬれども、公儀の汚名、将軍の暗愚なる事はいよ/\甚敷(云々)」(注16)   これは翌天保十五(弘化元年1844)年六月、水野忠邦が老中に再就任したときのもの。「昨年来の恥辱を   雪(ソソ)」ぐとは、天保十四年閏九月に失脚した水野が再び返り咲いたことを踏まえる。水野個人はそれで   雪辱を果たしたつもりなのだろうが、これではまた改革時代に戻って、全てが水に巻かれ、将軍はまたま   た眠りにつくだろうというわけだ。水野は憎し、されど代わる器量の人はなし、これが当時の市中の感慨   なのであろう。   ◯ 太刀   蒲団の枕もとの太刀は源氏重代の名刀膝丸、土蜘蛛の足を斬り落とした太刀だ。これをCは「蜘蛛切丸」、   Eは「万代丸」と解釈した。伝説ではこの膝丸、土蜘蛛退治以降、蜘蛛切丸と呼ばれるようになったとさ   れる。したがってCはまだしも、Eの「万代丸」には石井研堂もさすがに首を傾げざるをえなかった。   ◯ 梨地の鼻紙台、兎の置物、鼻紙   次に兎の置物。これについては解釈が分かれた。   Aは鼻紙台上の兎の置物と美濃紙と梨地の台とを一括して解釈した。まず兎の置物を林播磨守とし、次に   美濃紙を水野美濃守、そして梨子地の模様を桔梗丸と見て太田備中守とした。   林播磨守は天保十四年(1843)六月、印旛沼開削工事の担当を水野忠邦から命じられた。この工事は五名   の大名が担当したが、人選はすべて水野忠邦の報復人事とされる。林播磨守の実父の林肥後守(若年寄)   は、大御所家斉の全盛時代、水野美濃守(御側衆)や美濃部筑前守(御小納戸頭取)等と共に、世に西丸   派の三侫人などと揶揄されながらも、大いに権勢を振るっていた。しかし家斉の没後わずか三月足らずで、   水野忠邦は彼ら全員を追放した。その林肥後守の実子が播磨守。印旛沼の工事は費用も莫大なうえ格別の   難工事。(天明時代の田沼意次も失敗に終わっている)この任命を、Aは水野の意趣返しと捉えたのだ。   ところで、なぜ兎が林播磨守を暗示するかというと、幕府の正月行事の一つ、「献兎賜杯」という儀式と   関係があるらしい。元日の卯の刻、林家の当主は、江戸城の白書院において、将軍から一番最初に盃と兎   の吸い物を頂戴するしきたりになっていた。恐らくその慣例を念頭に置いた解釈と思われるが、これを強   引だなと呆れるより、よく結びつけたなと感心するから妙だ。   美濃紙が暗示する水野美濃守の免職は天保十二年四月。老中の太田備中守は天保十二年(1841)五月、三   方国替えの件で水野忠邦と対立、辞任している。   BとDはAとは異なり、兎を水戸斉昭と解釈。しかしその根拠を示さない。ただ水戸公は国元で身を縮め   てこの改革を傍観している、という評では一致する。Dはさらに「色にふけり本国に斗引込で居らるゝ」   と付け加えているから、斉昭の女性スキャンダルまで踏まえて解釈したようだ。   以上、ずいぶん複雑な解釈を見てきたが、Bはその点、実に素直に解釈した。この兎を動物ではなく、干   支の卯と解釈した。卯年といえば天保十四年が他ならぬ卯年である。そうすると何のことはない、国芳は   「土蜘妖怪図」の刊年を入れただけなのかもしれない。   ◯ 三つ引紋   この図様は落款「一勇斎国芳画」の右隣にある。CとDはこれを間部下総守と解釈した。『浮世の有様』   によると、天保十四年九月晦日、殿中において、間部下総守と水野忠邦とが、上知令をめぐって激しい論   争をし、巷説では間部が水野を論破して、これを機に将軍は上知令の撤回に傾いたとされる。とすれば間   部は必ずしも改革の犠牲者というわけでもないのだが、画中のあらゆるものに意味があるとする評者から   すると、この「三つ引」紋が間部下総守に見えるのであろう。しかし冷静に見ると、この図様は「土蜘妖   怪図」の板元・伊場屋仙三郎の印なのである。   ◯画面の色調   さらに画面の色調にも解釈は及ぶ。妖怪のいる絵の上部が黒、そして頼光・四天王のいる絵の下部の座敷   内が青。これは「上の政道くらやみにして諸人困窮甚しく、下は一統に青くなる」という寓意を表すとい   う。お上が暗愚で下々真っ青という解釈である、この点ではABDとも一致する。このあたりの解釈は、   国芳が判じたものを突き止めるというより、自らの解釈自体に興ずるといった雰囲気に近い。こういう証   言もある。   「何トモワカラヌ怪シゲナルモノヲ画タル錦絵ハヤリテ、観者サマザマニ推度シ、牽強附会シテコレヲ    玩ブ」(注7)   解釈をもてあそぶこと、それ自体に興味がある、牽強付会もまた有りである。    Ⅲ 土蜘蛛   従来、病床の頼光の枕もとに現れる妖怪は藁縄(或いは金棒)を手にした大入道であった。だが国芳は大   幅に変更を加えた。大入道と土蜘蛛を合体させ、長い首は百鬼夜行の群れにやって、頭は蜘蛛、身体は筋   骨逞しい大入道にした。そして蜘蛛の巣を背負わせ、手には縄に替えて敷布を持たせた。「土蜘妖怪図」   が伝説の単なる絵解きでないことは明白だ。   この土蜘蛛をどう解釈したのか。   Aは土蜘蛛を二つに分けて解釈した。まず蜘蛛の額の模様を梅鉢紋と見て、同じ家紋の筒井伊賀守とした。   その一方で、背後の巣を矢筈・矢車と見なし、手にする敷布が駿河の富士に似ているところから、町奉行   矢部駿河守とした。   BはAと同様、額の模様を梅鉢紋と見た。だが解釈は違って、こちらは星に梅鉢を家紋とする美濃部筑前   守とした。また敷布の富士から矢部駿河守とするのはAと同じ。   Cは二段階の手続きを経て矢部駿河守とする。まず土蜘蛛の瞳の模様に着目して、これを巴模様と見なす、   次に敷布を駿河富士とみて、やはり巴紋の矢部駿河守と解釈した。   『開版指針』の聞書も、額の紋と敷布の駿河富士を根拠に矢部駿河守とする。   Dは特に根拠は示さないが、美濃部筑前守とした。根拠は梅鉢紋なのであろう。   筒井伊賀守・美濃部筑前守・矢部駿河守、一見解釈がバラバラに見えるがそうではない。それぞれに家紋   という根拠があり、水野に拠って追放されたという点でも共通するから、それはそれで三解釈とも腑には   落ちる。まさに「観者サマザマニ推度シ、牽強附会シテコレヲ玩ブ」のである。筒井伊賀守の町奉行罷免   と、美濃部筑前守の小納戸頭取罷免は同じく天保十二年(1841)四月。また町奉行矢部駿河守の失脚が天   保十二年十二月。ついでにその後の矢部駿河守の消息はというと、翌年八月、身柄を預けられた桑名藩に   おいて、水野や鳥居耀蔵への抗議のため絶食し憤死したと伝えられる。    Ⅳ 妖怪   国芳はまず、画題「源頼光公館土蜘作妖怪図」の中の頼光・四天王、土蜘蛛に焦点を当てて、それらがそ   れぞれ何を擬えているのか、家紋など客観的な根拠を示して解釈の道しるべを作った。そしてこの操作に   よって、寓意のない図様はないという思いを見る側に植え付けた。図様は必ず何かを暗示しているという   意識がこうして生まれる。Cは「其外種々の化物あれ共悉くは解しがたし」(注6)と記す。解釈に窮し   たとき、隔靴掻痒のもどかしさを感じるのはこの植え付けがあるからに他ならない。   以下、具体的にその解釈を見て行こう。取りあえず三枚続の右図左上から。   1 亀(甲羅)   AEは「鼈甲屋」と解釈した。天保十二年(1841)十月、高額の鼈甲細工禁止。「今世孝子競」に「鼈甲   櫛笄百目限」とある。(注17)鼈甲製の櫛や笄(こうがい)を銀百匁(金1両=銀60匁)以内とした。ま   た高価な玳瑁(鼈甲)を売る小間物屋を摘発して商品を没収、五両以下は返品したが、五両以上のものは   打ち砕かれ焼き捨てられた。(注18)   2 歯無しの大口・轆轤首(ろくろくび)   「話家」で一致する。根拠は「歯無し」の駄洒落か。天保十三年二月十四日より、二百十三軒あった寄席   が十五軒に限られる。女浄瑠璃、鳴物音曲は禁止。認められたのは神道・心学・軍書講談・昔咄ばかり。   (注19)Dは「歯無し」をお咎めを蒙った喜蝶とするが、その根拠も喜蝶なる人物も不明。またAはこれ   を轆轤首と見て、娘・子供と解釈したようだ。しかし娘の轆轤首は妖怪の定番だが、子供としたのはなぜ   であろうか。天保十二年十二月、北町奉行・遠山左衛門(いわゆる「遠山の金さん」)が娘子供の髪飾り   や衣類の華美を戒める説諭をしている。あるいはそれを踏まえたか。   3 鏝(こて)を持つ鬼   ABDは鏝から左官、鬼から鬼瓦を連想し、普請に関する規制と解釈した。天保十三年(1842)四月、町   家は土蔵造り又は塗家にすべしとの触書が出ている。また同年五月には分不相応の普請をも禁じている。   Dの「市中の鬼瓦取払にて悉丸瓦となりし」とは、贅沢な鬼瓦が丸瓦になったこという。落書にも「塗家   にしろの何のと益もない損な事だ」「金持地面塗屋ト作ス」とある。   Eは根拠を示さないが「ごろつき」とする。F-2もこの図様を雷と見て「ごろつき」とした。これは雷   の音「ゴロ/\」からの連想か。天保十三年十一月、確かに無宿人取締り令が出ている。   「今世孝子競」に「国々無宿者、御大名へ御引渡」ともある。   4 木魚   解釈は「木魚講」で一致。天保十三年(1842)二月、木魚講・富士講の停止。同六月、念仏講・題目講な   ど大勢の集会禁止。「町々念仏題目へ鐘太鼓入ること止」とある。木魚講は本来、葬儀費をまかなうため   の講。葬礼のとき、講中の一人が首にさげた大きな木魚を打ち鳴らす、そして講中がこれに合わして念仏   を唱え野辺送りをする。これが神仏の縁日に大人数で押しかけるなど、次第に増長して禁じられた。   5 白い小動物   これは難問だったとみえ、判じたのはAのみ。これを貂(てん)と見た。しかもそれが擬えるものは何な   のか、ずいぶん苦心の末に、播磨の龍野藩主脇坂安薫とした。なぜかというと、貂の皮は脇坂家の家宝で、   同家の鎗の鞘に使われているからのようだ。ではそれがなぜ妖怪の方に入っているのか。   天保七年、千石騒動を落着させた脇坂安薫は、将軍家斉の信頼を得て老中に就任する。しかし天保十二年   (1841)一月、家斉が逝去するやいなや、家斉の埋葬を上野寛永寺にするか芝増上寺にするかで、脇坂と   水野忠邦とが対立する。当初は芝増上寺の予定であったが、急遽上野寛永寺に決まった。これについて、   落書は「国替にこりずに又も尊骸の水は上野へ逆さまに行く」と、水野の独断専行を指摘する。天保十一   年の三方領地替の失敗に懲りずに、またまた水野の横車が通ったという解釈だ。脇坂は翌二月、家斉の後   を追うように亡くなる。「おひとりで淋しからふと道づれにきてん(機転=貂)の親爺跡追てゆく」この   落首は脇坂の死を追い腹とみる。しかしその死があまりに急だったため、毒殺説まで飛び出した。Aは脇   坂の死に水野忠邦の影を見ているのかもしれない。(注20)   6 白地の幟をもつ怪獣   これも難問で、Aはこれを「狼の形」と見て、しかも「芝居者」とした。確かに役者や芝居は居住を制限   されたり、天保十三年(1842)猿若町へ強制的に全面移転させられたりで、改革の影響をまともに受けた。   しかし狼がなぜ芝居者なのかよく分からない。   Eは「両替」と解釈した。石井研堂は公定相場(1両=6500文)で損害を受けた両替屋の精霊であろうと   する。ただ両替屋とする根拠は不明。天保十三年の八月、この公定相場を通知する触書が出ている。なお   この公定相場は『藤岡屋日記』によると、嘉永二年(1849)の十二月まで続いた。   7 怪獣の持つ白地の幟   これの解釈はEのみ。「法印」とする。しかしその根拠は不明。天保十三年五月、俗人が山伏修行の恰好   をして大勢で梵天を振りかざし、初穂料を強要することを禁じている。「今世孝子競」には「神職社人町   宅止」とある。   8 骸骨の馬印(纏)    この図様には二通りの見立てがあった。AとDは「馬印」(戦場で総大将の所在を示す標識)とし、Bは   町火消しの「纏(まとい)」とした。そして解釈も二通りに分かれた。   Aはこの馬印に骸骨が九つあることから苦界(九骸=くがい=遊女屋)と解釈した。そしてA以外は、馬   印でも纏でもそれぞれ十組問屋と解釈する点では一致する。Aの苦界(遊女屋)に即していうと、天保十   三年(1842)三月、吉原以外の私娼(岡場所)は禁じられ、同年八月までに商売替えするよう命じられた。   曲亭馬琴は次のように記す。   「江戸中岡場所と唱ふる隠し売女、皆停廃せらる。当寅八月迄に新吉原町へ引移りて渡世致候共、商買    がへ致候共致すべく被仰渡、此故に吉原へ引移る者、引移り得ざるものと皆其地とを引払ふといふ。    深川・本所・根津・音羽町・赤坂・三田の三角切見世と唱ふる者迄、其地にて渡世致事ゆるされず。    此故に品川・新宿・板僑・千住の飯盛繁昌すといふ」(注18)   深川や本所等の岡場所、切見世と呼ばれるところは全廃、吉原へ移るか商売替えを迫られた。「今世孝子   競」に「市中【酌取女隠売女禁】」「市中【隠売女屋吉原へ引移ル】」とある。馬琴によれば、面白いこ   とに、品川・新宿・板橋・千住の四宿は、町奉行の管轄外ということなのか、規制の対象外であった。   もう一つの解釈、菱垣廻船の十組問屋の方は、その解散令が天保十二年の十二月、翌年三月にも廃止令が   再び出ている。   「両替屋・書林・草紙問量其外之諸商人、仲間を立、行事を置く事を禁ぜらる。此外湯屋株・髪結株・    都て株と唱るもの、上ケ銭を取事を停廃せらる」(注18)   錦絵や合巻(草双紙)を出版する地本問屋も当然解散させられた。   9 馬上の見越し入道   見越し入道は土蜘蛛退治の伝説につきもの。従来の土蜘蛛絵では、藁縄を持った見越入道が頼光の枕もと   に現れる。あるいは控えの間で宿直する渡辺綱と坂田金時を首を延ばして屛風越しにのぞき込む。しかし   この「土蜘妖怪図」では、髑髏の馬印と指を束ねた采配を指揮、あたかも左右に分かれた妖怪どもの右の   総大将のように画かれている。この大将の解釈は分かれた。   Aは「眼徳」という岡っ引だとする。指を束ねた采配を十手と見たのだろうか。着衣の模様を茶台と見て、   浄瑠璃好きの岡っ引と解釈した。確かに浄瑠璃の大夫に見台と茶台は付きものではあるのだが……。当時   の町奉行の同心や岡っ引の行状については宜しくないことも多かったとみえ、馬琴はこう記す。   「当寅(天保十四年)の春、町同心、町人の妻娘美服を着て往来する者を捕ふ。是によりて岡っ引きと    唱ふる者、其女の衣裳を剥ぎ取ること所々にて有之。是は町奉行の下知に非ず、岡っ引きの私の計ひ    也。後に聞へて、町奉行より禁ぜらる」(注18)   町奉行の命令に拠らず、勝手に町人を逮捕したり衣服の略奪を行う、そんな不埒な同心や岡っ引がいたよ   うだ。   BとDの解釈は同じ。浅草辺の切店(女郎屋)で親子ともども流罪になった者とする。天保十三年(1842)   三月「浅草三十三間堂前昼見世御手入也、凡百人余召捕」、十二月「浅草堂前店頭徳次郎親子遠島也。切   店亭主咎め手鎖」、そして翌十四年五月「遠島船出る(中略)浅草堂前の店頭」とある。(注19)浅草三   十三間堂前は岡場所(私娼)として有名。   「江戸中岡場所と唱ふる隠し売女、皆停廃せらる。(略)切見世と唱ふる物迄、其地にて渡世致事ゆる    されず」(注18)   それで落書に「吉原へ計り集まつて却つて宜しくない」と混ぜっ返されるほど、岡場所の遊女を吉原に収   容したようだ。ところが今度は「飯盛や杓子女のなくなりてまゝ喰ふ事にこまる人々」という惨状。身過   ぎに事欠く飯盛女や杓子女(私娼)が続出したようだ。   Cだけは独特の解釈で「中野関翁」とする。碩翁(関翁)は、大御所家斉の側近にして小納戸頭取の中野   播磨守清茂。家斉が寵愛した側室お美代の方の養父でもあった。家斉が死去するやいなや、水野忠邦は直   ちに中野清茂の登城を禁じ、贅を尽くした向島の隠居も没収処分にしている。(注21)   『開版指針』も巷間の中野碩翁説を記す。(「31軍配を持つ三つ目坊主」参照)   10 指采配   Aは指を束ねた采配を十手と見たのか、この見越し入道を岡っ引と解釈する。Dはこれを「米相場」と解   釈するが、この指采配との関係は未詳。   11 三つ目の女   Aは神子とし、Dは水天宮と解釈した。神社に関係ありとする点では共通するが、その根拠は不明。   12 青龍刀   Aは三つ目の女が持つ青龍刀に何らかの寓意があるとみて、取り上げたのだが、解釈できなかったものと   みえて寓意を書いていない。まさに「皆因縁あれど、決て不知」である。(注22)   13 老僧   三つ目の下の老僧を取り上げたのはF-1のみ。付箋に「善正院」とあるが、石井研堂は未詳とする。小   堀栄はこの図様を羅漢と見て、石井と同様、善正院は未詳とするものの、教光院了善なら改革の犠牲者の   一人には違いないとして、軽追放になったいきさつを述べている。この了善については「29鰻の鉢巻に   杓子を持つ坊主」の項で再度触れる。   14 提灯   提灯の妖怪は従来の土蜘蛛退治の頼光館にも登場する。これを、Aは庶民の乗る「四ツ手駕籠(かご)」   と解釈した。駕籠に小田原提灯は付き物だから、この連想自体は不自然ではない。だが改革による規制が   四ツ手駕籠に及んだかどうかはよく分からない。高張提灯など儀式用の提灯に対する規制は、天保十三年   (1842)三月、簡素化を求める触書が出ている。「今世孝子競」に「葬礼ノ節【多人数見送止】」とある。   F-2は、芸人が縁起をかついで戸口のつるす「神灯」と見て、天保十三年三月に出された女師匠の弟子   取り禁止令を暗示するとした。   15 怪獣二匹   提灯と老僧との間にある怪獣、F-2は「猫と猪」の化け物らしいとするが、他に解釈した者はいない。   国芳は虚実とり交ぜて作画しているという。実際、意味のない図様もあるのだろう。しかし一方で寓意が   ありそうだとの思いは消えない、だが突き止められない。「其外種々の化物あれ共悉くは解しがたし」(注6)   こうした心情はこの怪獣二匹のような図様から生まれてくるのであろう。   16 馬   天保十三年(1842)六月、馬喰馬三十両以上の売買を禁止した。Aが「馬ハ高金相成らず三十両留りなり」   と記したのはこの禁令を踏まえたのだろう。「今世孝子競」に「馬喰町三十両限」とある。Dは「博奕」   と解釈した。この根拠はどうやら駄洒落にあるようだ。図様は馬が口を開けている。単純化すれば「ばく   ち=馬口=博奕」となる。博奕の禁令は天保十三年の二月。「苗売り」という落書に「部屋/\裏店ばく   ちのない(苗)」とあり、武家、町人問わずの禁令であった。逆にいえばそれほど行われていたというこ   とになろう。   Eは「施主」とする。施主は葬式の当事者。天保十三年三月、葬礼・仏事の簡素化を求める町触れが出る。   「今世孝子競」には「葬礼の節、施主三四人限」とある。   17 蓮の葉を被るもの   ABとも「こをろし=子堕ろし」とする。天保十三年(1842)十一月、女医者による堕胎禁止令が出る。   「今世孝子競」には「月水早流薬禁」とある。「月水早流」は堕胎薬。Aは他にこれを「寺の大黒」とも   解釈する。大黒は僧侶の妻。ただ蓮の葉と子堕ろしと大黒とがどうして結びつくのか不明。   F-2は「亡者」と見て、仏事葬式節約令を踏まえるとしたが、蓮の葉がなぜ亡者なのか、その説明はな   い。   18 大口を開けるもの   これも考えあぐねたようで、解釈はAとEのみ。しかもAは口を開けた図様の解釈が二通りあって、「上   ヲ向口を明たるハ【金物】」「口を明たるハ【鳶 上の釼に町内にて】」とするのだが、この場所の「大   口を開けるもの」が、上記二つの解釈のどちらに相当するのかよく分からない。またEに至っては、「抱   主」という小札がこの大口のものかどうかも曖昧である。   ともあれAは「金物」と「鳶」と解釈した。天保十三年(1842)六月、金銀製品を引き替え所に提出する   よう触書が出た。鳶の方は「今世孝子競」に「鳶人足【半天股引隔年ニ渡】」とあるのだが、「隔年ニ渡」   の意味がよく分からない。半天や股引等に何らかの規制があったのであろうか。   19 口先の尖った大目玉のもの   三つの解釈とも「成田屋」「市川海老蔵」とする。「景清が牢を破って手錠食ひ」。天保十三年(1842)   三月、「牢破りの景清」の上演中に逮捕され、六月には、深川木場の家作・調度・庭などが贅沢だとして   江戸十里四方の所払い(追放)に処せられている。まさに「白猿はきば(牙=木場)をとられて青くなり」   である。また「成田屋は役者の中で大きな目」ともある。目力の市川家(成田屋)が町奉行から大目玉。   それでこの図様の大目玉を成田屋と解釈したのだろう。   F-2の解釈もこれに同じ。ただAの「成田屋、下ニ具足少々見ゆる」、具足はこの場合鎧(よろい)を   指すのだろうが、その意味は不明。   20 白髪鼻高のもの   Aはこの白髪鼻高のものと、その下側の烏の嘴のものを、金毘羅大権現の従者である大天狗と、小天狗   (烏天狗)に見立て、その大天狗を「天狗長と云鳶」と解釈する。確かに天狗には鳶のイメージもあるの   だが、その寓意がよく分からない。『開版指針』は巷説として、雑司ヶ谷の鼠山や渋谷の豊沢村に強制移   動させられた修験者だと記す。なるほど、天狗と修験者(山伏)とは装束が同じだから、修験者を擬えた   ものと解釈する方が、むしろ自然のような気がする。天保十三年(1842)七月、修験者に対し町住居停止   令が出ている。修験者も改革で規制を受けたのだ。「今世孝子競」は「神職社人町宅止」とする。   BとDはともにこの白髪鼻高を「堺丁名主の大塚」とする。この大塚は中村座のある堺町の名主大塚五郎   兵衛。天保十三年十一月、高利貸しの罪で親子ともども流罪の判決が下り、翌年五月に執行されている。   それで大天狗と烏天狗を大塚親子と見なしたか。当時の落首に「大塚もついてくるなり一里塚」という狂   句がある。一里塚は浅草の日光街道沿い。天保十三年、中村座の猿若町移転に伴って、名主の大塚も浅草   に移転した。   Eは「金ぴら」とする。白髪鼻高と天狗とみて金毘羅権現としたのであろう。金毘羅参りに天狗の面はつ   きもの。ただ「金ぴら」が何を踏まえたものかは記していない。石井研堂は讃岐の金毘羅から、讃岐に幽   閉された鳥居耀蔵を擬えたと解釈するが、これは弘化二年ことで時代が違う。(ひょっとすると、石井研   堂の手許にある小札はそのころの解釈の可能性も考えられる)   鳥居耀蔵が出たので余談を一つ。この鳥居耀蔵は「蝮(まむし)の耀蔵」という渾名の他に「妖怪」など   とも呼ばれて非常に忌み嫌われていた。なぜ「妖怪」かというと、鳥居甲斐守耀蔵の中に「耀+甲斐」即   ち「妖怪」がいるということらしい。名は体を表すというが、当時の人々にしてみれば、ずっしりと重い   実感だったに違いない。蛮社の獄(天保十年・1839)で渡辺崋山や高野長英などの洋学者を弾圧、天保十   二年には町奉行矢部駿河守を讒言で追放、そして矢部に代わって町奉行に就任するや、水野の改革の趣意   を徹底させようと市中を厳しく取り締まった。   F-2は石井研堂の説を無理として退け、白髪鼻高を神話の猿田彦に見立て、神田明神の祭礼に猿田彦の   山車があることから、祭りの制限と解釈した。また猿田彦は天狗の面を被っていることから、その縁で、   天狗を眷属とする金毘羅大権現をお参りする乞食の輩とも解釈する。また天狗とゆかりある修験者と見て、   彼らに対する居住規制などを踏まえるとした。   Cは市川団十郎とするがその根拠は示されていない。   21 烏の嘴のもの   Aには「同じきハ【松平伯耆守殿】」とある。「白髪鼻高」の大天狗の記事に続くので「同じきハ」を小   天狗(烏天狗)とみなしたが、この烏天狗がなぜ松平伯耆守なのかは不明。『続泰平年表』によると、松   平伯耆守は、天保十四年(1843)七月、同年四月の将軍の日光社参のとき、引率人数の不足で出仕禁止、   自宅謹慎を命じられている。(注23)Aはこれを水野改革の被害とみたのだろう。   BDF-2はこれを「山伏」(修験者)とする。斎藤月岑の『武江年表』に「(天保十三年)五月、市井   居住の巫覡(みこ)修験をして、浅草(書替所の脇、測量所の脇)渋谷豊沢村、鼠山へ地を賜はり、残ら   ず此所へ移る」とある。修験者たちは、浅草福富町の天文原(浅草天文台のあったあたり)、渋谷豊沢村   の広尾原、そして目白の鼠山(天保十二年、大御所家斉の死後、突如廃寺棄却された感応寺のあったとこ   ろ)に、強制移転させられている。   Eは「かざり」とする。これを石井研堂は飾職人とした。改革によって金銀など貴金属の使用が禁止され   たからであろう。   22 西瓜   「初物」「八百屋」「水菓子」「砂村」はすべて同じ解釈。天保十三年(1842)四月、季節はずれの野菜   や初物野菜の売買禁止令が出ている。胡瓜・茄子・隠元・ささげ・もやしなどが槍玉にあがった。「今世   孝子競」に「もやし初物ト唱青物止」とある。   砂村は江戸川西岸にある青物の産地。日本橋室町の八百屋が茄子を高く売った廉で逮捕され外出禁止の処   分に遭っている。Dの「水菓子」、水菓子とは果物のことだから、西瓜の見立てとして一番自然である。   23 蓮の花持つ鯰   これは解釈が分かれた。Aは「鯰の蓮の花持しハ【池の端取払なり】」とする。天保十二年(1841)八月、   上野池之端不忍池の土手茶屋が残らず撤去されたことを踏まえる。池之端は蓮見物と出会茶屋(逢い引き   用の茶屋)が有名。落書にも「藪から棒床見世と小茶屋の取り払い」とあり、葭簀張りの露店や小茶屋   (休憩所)が取り潰しにあっている。「今世孝子競」にも「所々床見世取払ニナル」とある。   Bは「なまずは印旛沼の主」とする。この時の印旛沼とは開削工事以外考えられない。この工事は天保十   四年の七月の開始。予想された通りの難工事で、結果は「水野出て堀ちらかした印旛沼元の田沼となりに   けるかな」であった。この落首は、水野忠邦と水野派の堀親寚(当時は側用人)と田沼意次とを詠み込ん   でいる。天明時代(1781~1788)の田沼意次同様、工事は失敗に終わって、印旛沼は元の田沼に戻ったと   いう皮肉だ。もちろん工事は「土蜘妖怪図」出版後の出来事だから、国芳が判じ物とするはずもない。た   だ蓮や鯰から印旛沼への連想はそれほど不自然ではない。   Eは「四つ目屋」とする。石井研堂は四つ目屋を催淫薬屋としつつ、鯰がなぜ四つ目屋なのが首をかしげ   ている。四つ目屋は媚薬長命丸で知られる両国の薬屋。『誹風末摘花』に「くたびれた夫婦のそばに四つ   目結」とある。「四つ目結(ゆい)」は四つ目屋の家紋。袋の中身は言うまでもなく長命丸。   24 蟹   Aは蟹に「検門に這う」という寓意を見ている。検門を権門と同義で使ったものか、権威に伏して這いつ   くばる輩が多い世相を諷したのであろう。   Eは「宿無」(無宿者)とする。天保十三年(1842)の十一月、無宿人取締り令が出ている。しかし無宿   人と蟹との関連がよく分からない。「今世孝子競」に「国々無宿者【御大名え御引渡】」とある。国元に   帰すためか、それとも収容の分担を強制したのか、無宿者を大名に引き渡したようだ。   F-2は蟹と幟を一体とみて、幟の先に茶釜があることから、「水茶屋」とする。茶釜から水茶屋への連   想はよいとして、蟹と茶屋との関連はよく分からない。(「水茶屋」については「23蓮の花持つ鯰」及   び次条「25幟の竿先の茶釜」参照)   25 幟の竿先の茶釜   これはすべてが一致して「水茶屋」とする。天保十三年(1842)三月、水茶屋に茶汲み女を置くことが禁   止になる。例の「苗売り」の狂句に「水茶屋娘に若ひがない(苗)」とある。浮世絵歴代の茶屋娘たち、   鈴木春信が画いた明和(1764~1771)の笠森お仙も、歌麿画く寛政(1789~1800)の難波屋おきた・高島   屋おひさも、天保の改革では営業停止だ。   26 目盛りのある幟   CDはこの目盛りを羽織の紐と通す「乳(ち)」と裁縫の物差しに見立て、「呉服屋」と解釈した。天保   十二年(1841)十月、女の衣裳大づくりの織物や縫い物、金糸の使用を禁止し、小袖の代銀三百匁(1両   =60匁で金5両)、染模様の小袖代銀百五十匁以上を禁じている。「今世孝子競」に「縫模様三百目限」   とあり、落書にも「禁物 縮緬類【但し綿類は苦しからず】諸絹物【但売又買ひもあし】」とある。それ   で「軽い身を重い御趣意の縞木綿、浦々までもきぬものはなし」と詠み、木綿が常用となり絹地などどこ   にもないという有様だ。「今世孝子競」の「町人羽二重龍門綾禁」も同じで、町人の羽二重や龍門(とも   に高級絹地)は厳禁。   Dはそれに加えて、呉服屋の「白木屋」が戸〆(閉門)になったことを記す。また天保十四年には、三井   その他の呉服商が、絹糸製のものを名目上は木綿として一両二歩で売り、閉門になったという噂も飛んで   いる。   Eの小札は「花火」とした。石井研堂によると、子供用の花火が葭筒にされたり、三十匁以上の花火を禁   じられたりと、規制があったようだ。「今世孝子競」に「花火葭筒ニ可致」とある。ただこの幟がなぜ花   火なのかは不明。   F-2は幟の先端のものを胡瓜(きゅうり)と見て、幟の下に位置する河太郎(河童)と一体化させ、水   に縁ある「水場所」とした。これから川岸の床見世撤去令や、花火規制や、玉屋の所払を踏まえたとする。   また芝居の客引きのことを「かっぱ」ということから、この改革で彼らの悪行が矯正されたことを暗に示   すともいう。   27 河太郎   ABF-1はこれを「かげま=陰間」(男娼)と解釈する。Aの「姣者ニ芝居者」の「姣者」は美男子の   意味で、芝居者ともども男色相手。天保十三年(1842)三月、岡場所の私娼とともに男色にも禁止令が出   る。   Bは「かは太郎はよし丁湯島のかげま也」とする。芳町・湯島は、陰間茶屋のあるところ。落書は「坊主   の為には芳町も少しはあるがよい」などと減らず口を叩いている。なお「大川のはたで河童がやたらひき」   という狂句がある。これは、前条にもあるように、芝居の客引きを河童というから、歌舞伎三座が浅草の   猿若町に移転したため、河童の活動の場も大川端になったという意味なのであろう。   Dの「頭長の人」は未詳。Eの「宿無」は小札の位置が蟹か河太郎か明瞭でない。   28 筆を持つ総髪・黒斑(まだら)のもの   図様の筆から祐筆や儒者など、文筆関係者と見る点では一致するが、具体的な人物の見立てはそれぞれ違   っている。   Aは衣裳の模様を藤の丸と見て、「奥右筆組頭の大沢弥三郎」とする。天保十二年(1841)七月、大沢は   町人名義で町家を所有し、町人相手に賃借した咎で差控(自宅謹慎)を命じられている。「道顔のほち/\   は皺のくひ出来形」の意味がよく分からないが、大沢に黒斑や皺だらけの首でもあったのだろうか。   Bは「奥儒者の成島図書頭(ずしょのかみ)司直(もとなお)」とする。成島は水野忠邦に認められて破   格の出世をしたが、天保十四年六月、奥儒者にも拘わらず表向きの件にも干渉したということで謹慎、免   職になっている。「水野に叱られし故こゝに出す」とはそれを踏まえたか。ただこの成島図書頭、どうも   あまり評判がよろしくなく、落書に「新井筑後 気どり 成嶋図書」とある。過去、儒者で町奉行格の諸   大夫になったのは新井筑後守白石のみ、成島はその白石を気取っているというのだ。なお明治期の『柳橋   新誌』の著者、成島柳北はこの司直の三男にあたる。   Dは「祐筆の屋代太郎」とし、水野忠邦のためにしくじって閉門となったというのだが、屋代弘賢(太郎)   は天保十二年の没、水野と屋代の関係はよく分からない。   F-1は少々変わった解釈で「橋爪勘平」とする。天保十三年十月、市中八十ヶ所のもの土地を所有する   橋爪勘平なるものが、奢侈の咎にて追放になっている。(注24)またこの橋爪勘平は当時「江戸大分限者   ニて、江戸ニて三寛平と言大金持」であった。(注19)   F-2は寺門静軒・柳亭種彦・為永春水ら筆禍を被った「作者」や、厳しく出版を規制された錦絵・草双   紙の「画工」と解釈する。しかし問題は髪型にある。   F-2はこれを茶筅髪とするが、筆者にはBがいうように総髪か、あるいは撫で付けにみえる。仮に茶筅   髪だとしても、武士の種彦はともかく、寺門静軒や浮世絵師の髪型ではありえない。      以上、諸解釈を見てきたが、実はこれらの中で一つだけ事実を踏まえた解釈がある。ヒントは「面ら憎き   国侍の利口ふり 成嶋庵黒石」という落書にあった。利口ぶる面つき憎い田舎侍とはずいぶん罵ったもの   だが、成嶋庵黒石とは成嶋図書頭しか考えられない。では成嶋庵黒石を成島図書頭司直とする根拠は何か。   それを示す手掛かりが木村芥舟の随筆『黄梁一夢』にあった。      「(成島図書頭司直)先生面黧、人窃字曰黒石先生」(注25)      成島の顔には「黧」(黒い斑点)があり、人々は窃かに渾名して黒石先生と呼んでいたという。Bはこの   渾名を知っていて成島司直としたのであろう。ただこの成島の容貌、周知のこととも思えない。評者の中   では政府内の情報に一番通じているらしいAに言及がなく、Bしか答えていない。だがここが不思議なと   ころで、国芳はなぜかそれを知っていた。この図像、たまたま思いついて黒点を施したとは考えにくい。   始めから意図をもって配したとしか考えられない。この図像こそ国芳自身が案じた判じ物と云ってよいの   ではないか。おそらく成島司直の黒斑は知る人ぞ知るといった情報なのであろう。それを国芳はさりげな   くこの図像に忍ばせたのだろう。それにしても独特の風貌である。まさか似顔ではないと思うのだが、ま   んざらそんな感じがしないでもないから不思議な図様である。   成島の失脚は天保十四年六月。「土蜘妖怪図」の出版は天保十四年の春であるから、その時点では成島は   まだ失脚していない。したがって、妖怪のすべてが水野改革の被害者・犠牲者というわけでもないのだろ   う。しかし国芳の目からは、水野に重用されたいわば改革の推進者たちも、妖怪には違いないということ   なのであろう。   29 坊主頭・鰻の鉢巻・手に杓子を持つもの   この図様の解釈はずいぶん賑やかだ。   Aは専ら「長」の字のある杓子に着目し、下総「中山」法華経寺「智泉院」の僧日尚とする。天保十二年   (1841)十月、日尚は女犯の罪で日本橋三日間晒しの刑を命じられる。罪状は下総船橋の旅籠屋長兵衛方   の下女ますとの密通であった。杓子で下女が飯盛女(私娼)であることを暗示、「長」の字で旅籠屋まで   匂わせたという解釈である。ついでに言えば、同日、日尚の実父、中山守玄院の日啓もやはり女犯の罪で   遠島を命じられている。つまり親子ともども密通の罪。こちらは飯盛女ではなく、妙栄という後家の尼僧   が相手であった。   この日啓、大御所家斉の側室お美代の方の実父ということもあって、一時、大変羽振りがよかった。   (『藤岡屋日記』の記事では「惣領日啓・三女於美代方」とあり、兄と妹になっている)。天保七年(17   36)、大御所家斉は雑司ヶ谷鼠山に日蓮宗の感応寺を建立するが、これにはお美代の方と実父日啓の強い   勧めがあったとされる。ところがその感応寺も、大御所家斉が死亡するや、直ちに廃寺と破却を命じられ   る。奇しくも日啓と日尚父子の断罪と同時であった。水野忠邦の西丸派(家斉派)粛清の一環であった。   Aの目には、これら一連の追放劇が「土蜘妖怪図」の中に判じ物として組み込まれていると、見えていた   のかもしれない。「56緋衣達磨」参照。   Bの「下谷辺の和尚」も女犯の罪で摘発された僧と見る点では同じ。相手もやはり同じで飯盛女(私娼)。   天保十二年六月、柳島妙見堂(法性寺)・下谷徳大寺・谷中七面堂(延命院)その他法華宗二十五六寺、   四谷大宗寺その他八九寺の僧侶が女犯の罪で逮捕されている。Bはお栄という飯盛女を贔屓にしていた下   谷辺の和尚とする。鰻屋でやはり飯盛女のお長と酒を呑んでいるところを逮捕されたようだ。お栄・お長   は未詳。   Dは「下谷極楽寺の和尚」とする。相手の飯盛女の名もお長で同じ。ただこちらの和尚は生け簀のある料   亭で逮捕され、日本橋で晒しものになったとある。   Eの小札の「中山」、石井研堂も中山智泉院の日啓・日尚父子とする。そして鰻の鉢巻きは生臭坊主を意   味するとした。   F-1は異色の解釈で「教光院」とする。教光院とは大井村の修験祈祷師・教光院了善のことらしい。福   地桜痴の『水野閣老』によると、了善は大御所家斉の御側衆である水野美濃守とはかねてからの昵懇であ   ったが、天保十二年(1841)、鳥居耀蔵の命を受けた本庄茂平次の狡知な計略にかかって、追放処分にな   っている。本庄は、了善が水野美濃守の依頼で水野忠邦を調伏したと、讒言したようだ。水野美濃守はこ   れが原因で信州諏訪へ流されたとされる。F-1はこれを踏まえて「教光院」としたか。ただ例によって、   この図様と了善とが結びつく根拠は不明だ。   30 魚   これには二通りの解釈が出ている。   AとCは「料理茶屋」「生洲料理屋」とする。前述のように、天保十三年(1842)三月、私娼を抱え置く   料理茶屋の撤去令が出され、抱え女は吉原行きか商売替えを命じられた。   Eの小札の「献上」もF-2の「鮮鯛献上」も意味は同じ。諸国の大名には鮮魚の鯛を幕府に献上する習   わしがあった。それが天保十二年九月、現物ではなく金子による代納が認められた。それを踏まえた解釈   なのだろう。ただ妖怪に入れたとなると、この変更は負担軽減ではなく、逆に負担増になったということ   なのであろうか。   31 軍配を持つ三つ目坊主   A以外はすべて大御所家斉の寵臣「中野清茂碩翁(石翁・関翁)」と解釈。天保十二年(1841)、家斉が   死去するや、水野によって早速登城を禁じられ、向島の豪勢な隠居も没収になった。同年十一月の落書に   「福禄寿石翁 其方儀、隠居之身分として下屋敷へ鶴を飼置候儀、如何之事に候。以来無用たるべき候」   とある。巷間では、鶴の飼育が失脚につながったとみているようだ。この落書は家斉側近の西丸派を七福   神に擬えたもので、碩翁は福禄寿となっている。福録寿は鶴を従える。それで鶴を飼う碩翁を福録寿に見   立てたようだ。   BCは三つ目坊主の下側に画かれている鳥も一体と見て、その鳥を隅田川の都鳥とした。碩翁の隠居が隅   田河畔の向島にあったから、都鳥でそれを暗示したという解釈だ。Bはそのうえで「あたまにでんほ有」   という。「でんぼ」は小さな瘤の意味。図様をみると、確かに三つ目の頭に小さな瘤が見えている。Bは   明らかに「でんぼ」を碩翁識別の根拠としている。碩翁にはたんこぶがあったのだろうか。   Aもこの図様を「福禄寿・三つ目」としたが、それが擬えるものはBと異なり「株主・地主・金貸」しと   した。これらもすべて天保の改革で規制されたものばかり。問屋・組合・株仲間の解散令は天保十二年十   二月、翌年三月再令。地代・家賃の引き下げ令は天保十三年八月。貸借金利を年一割五分から一割二分に   引き下げたのが天保十三年十月。「今世孝子競」には「市中地代店賃引下ル」「質物利【銭百文ニ付二文   ニ成】」「質物利【金一両ニ付八十文】」「金利【二十五両一分に成、高利止】」などとある。   32 小鳥   Aは「腹雀【中野石翁鳥溜をふくれて居る】」とする。「腹雀」は未詳だが、この小鳥の図様を中野碩翁   と解釈した。「鳥溜」は碩翁が向島の隠居で鶴を飼っていた所をいうか。「ふくれて居る」の意味が今ひ   とつよく分からない。あるいは登城の禁止や隠居の没収などによる不満でふくれて居るということなのか。   Bは「高直の飼鳥停止」とする。おそらくCの「鳥屋」のEなどの「小鳥」もBと同じ解釈と思われる。   天保十三年六月、盗鳥・無印鳥・隠鳥の売買を禁じる町触が出ている。   33 鼻が黒く削げた稚児髷のもの   Aはこの図様を「凹鼻児髪」と表現する。凹んだ鼻に稚児の髪、これを「印旛沼、弁才天おみよの方、下   駄屋天鵞織のはな緒、雛」と盛りだくさんに解釈した。   天保十四年(1843)六月、印旛沼開削工事を担当する五大名が決定、七月から工事が始まった。だが「古   沼へ金をなげこむ水野おと」で事業は大失敗、水野の失脚につながった。ただこの図様がなぜ印旛沼なの   か不明だ。「弁才天おみよ」は大御所家斉の側室お美代の方。天保十二年、家斉死去後の落首に「弁天    お美代 其方儀、所持三味線とは事替り候得共、鳴物所持致し、酒宴の席へ取持に出、酌取抔(ナド)致候   儀、以来堅く無用と為すべく候事」とある通り、弁才天に見立てられたお美代の方も大奥の勤めを解かれ、   そのあと押込(監禁)処分に遭っている。この図像を弁才天としたのは頭部の髪型に拠ったのだろう。ま   たその弁才天をお美代の方とみたのは、当時、そうした見立てがあったから。「31軍配を持つ三つ目坊   主前」でも記したように、当時、家斉側近の西丸派を七福神に擬えた落首が出回り、中野碩翁は福禄寿、   そしてその養女お美代の方は唯一の女ということで弁才天とされていた。   天保十二年十月、八寸以上の雛人形や梨子地蒔絵の雛道具が禁じられ、天保十三年七月には、天鵞絨や皮   製の鼻緒が贅沢だとして禁じられた。「今世孝子競」に「雛人形八寸限」とある。ただしこれも、図様と   天鵞絨(びろーど)や雛人形との関係がよく分からない。   BDも「大御所の妾」で一致した。お美代の方である。二解釈とも、鼻が欠けているのは瘡毒(梅毒)の   せいだと決めつけている。なおお美代の方は監禁されたが、それは表向きで、実際は、引取先が実子溶姫   が嫁いだ加賀の前田家であったから、外出禁止だけだったという。(注26)   Eの小札は「大澤」となっているが、ひょっとしたら、この札は「総髪・黒斑(まだら)のもの」に付い   ていたのかもしれない。大沢は奥祐筆の大沢弥三郎であろう。(「28を持つ総髪・黒斑(まだら)のも   の」参照のこと)   F-2は「天神髷の稚児」と見て、天神から湯島を連想して湯島天神の稚児、すなわち陰間(男娼)と解   釈したようだ。前述の通り、本郷の湯島天神門前と日本橋芳町に陰間茶屋が多かった。   なお『開版指針』は「鼻の黒きは夜鷹と【市中明地又は原抔(ナド)え出候辻売女也】申売女也」と岡場所   の私娼「夜鷹」とする。本所吉田町、吉岡町から諸所に出没、一切二十四文、最下層の私娼である。遊女   を花魁(おいらん)と呼ぶ、これを別に読むと花魁(はなのさきがけ=鼻の先欠け=瘡毒)とも読めてし   まう。高級遊女の花魁ですら瘡毒に悩む、まして夜鷹、鼻を欠く覚悟が必要のようだ。   天保十三年八月、夜鷹は所払い(追放)に処せられている。復活するのは、『藤岡屋日記』によると、天   保十五年(弘化元年・1844)十一月、両国に五人出て、五十文で大繁昌とある。   34 稚児髷が持つ刀状のもの   Aは「唐物屋手に持し珊瑚樹」と解釈した。前項の稚児髷が手にもつ刀状のものを、稚児髷とは切り離し   て別に解釈した。刀状のものを珊瑚樹と見て、舶来品を扱う唐物屋としたようだ。落書に「禁物 唐物并   珊瑚樹・女髪結・鼈甲」とあり、珊瑚樹や鼈甲、いわゆる贅沢品は目の敵にされた。   35 一つ目   一つ目小僧は四天王の土蜘蛛退治にはお馴染みの化け物である。   Aはこれを「祭礼并ニ天王、一つ目の検校」と二通りに解釈する。ただこれだと、この三枚続の中図の一   つ目を「祭礼并ニ天王」と解釈したのか、それとも「一つ目の検校」と解釈したのかよく分からない。そ   こで取りあえずBの「本庄一つ目弁天」に準じて、ここでは「一つ目の検校」の解釈を取り上げる。   「一つ目の検校」というと、鍼治療で知られる杉山検校創建の本所一つ目弁天かとも思われるが、それだ   となぜ妖怪として出てくるのか、その意味合いが分からない。そこでBと同様に一つ目弁才天門前の私娼   と解釈したい。『武江年表』によると、天保十三(1842)年三月、本所弁天の料理茶屋が撤去を命じられ   ている。そのとき公認の吉原の方に移る遊女もいたようで、落書にも「岡場所の弁天吉原にて開帳」とあ   る。なお「祭礼并天王」の一つ目の方は、左図「37一つ目・鳥・三本指」の方で取り上げることにした   ので、そちらを参照のこと。   Eはの小札は「名月」。これは不明、さすがに石井研堂も真意未詳と匙を投げている。   F-1の大坂付箋は「一つ目付近の遊女屋」としているからBと同じ解釈であろう。   F-2はこの図様を土竜(もぐら)と見て、土を掘るところから、ホル・ホリの縁で、彫物や刺青の禁令   と解釈する。確かに「今世孝子競」にも「軽キ者身ニ彫物禁」とある。   以上が妖怪の右軍、以下妖怪の左軍。   Cは右軍の大将を「9馬上の入道」中野碩翁、左軍の大将を「56緋衣達磨」感応寺(僧日啓)とする。   この一対、実にうまい具合に出来ている。そのキーポイントは大御所家斉の側室お美代の方にある。日啓   はお美代の方の実父で碩翁は養父、つまり生みの親と育ての親の関係、対としては申し分ない組み合わせ   だ。だがなぜ対峙するのか、これがよく分からない。   36 口のめくれた裸のもの   Dはこの図様を「鳥目相場上げられしゆへなりとぞ」と解釈した。鳥目は銭の異称。天保十三年(1842)   八月、一両を銭六千五百文と定めた。昨年来、銭の相場が非常に安く、六千九百から七千二百文位だった   という。これを強制的に六千五百文にしたのだから、混乱はあったはず。落書は「銭の相場の上げ下げ咄   し 六貫亭五百」という。ただこの図様と銭相場との関連は不明。   Eの小札は「あたけ」とする。石井研堂はこれを「安宅鮨」としているが、なぜこの図様が「あたけ」な   のかよく分からない。天保十三年三月、高値の鮨屋三十四軒逮捕され、五十日間営業停止。   「鮓を高直に売候者、壱ツ四拾八文より拾六文まで有之、右内々御糺しの上、其者共を町奉行所へ被召    出、御吟昧の上商売を止められ、久しくして後に御免ありしと。夫よりしてそれより鮓一ッ八文より    高直の品不可売と定めらる」(注18)   一つ十六~四十八文の寿司を八文にせよとは、ずいぶん酷い。   37 一つ目・鳥・三本指   Aはこの一つ目を「祭礼并ニ天王」(祭礼や天王祭)と「一ッ目の検校」とする。祭礼や天王祭に対する   規制と解釈した。ただその理由は示さない。「一ッ目の検校」の方は「35一つ目」参照。   Bの解釈はもっと明解である。「あたまに鳥の有は山王様の屋根の鳥、天王様は今年より三年休ゆへ指を   三本出して居る」とする。一つ目の頭上にある鳥は確かに大伝馬町の諫鼓鳥。『武江年表』天保十三年   (1842)六月記事に「山王御祭礼、附祭二十箇所なりしを三組に改むる」「六月、大伝馬町小船町牛頭天   王御旅出の事、当年より五箇年の間休む」とある。江戸の天下祭も改革でずいぶん寂しいものになったよ   うだ。DEF-2も同様に天王祭と解釈する。   F-1の大坂付箋は、妖怪の35同様「一ッ目付近の遊女屋」として、本所一つ目弁天前の私娼窟と解釈   した。   38 竹持つ猫   これはEの小札を除いたすべてが、猫と竹から連想して、三味線(胴皮が猫の皮)を使う「竹本義太夫」   語りかあるいは「女芸者」と解釈した。   天保十二年(1841)十一月、女浄瑠璃三十五人逮捕、家主は手鎖、席亭女子は入牢。翌十三年三月、義太   夫三味線の女師匠、男の弟子取り禁止。男師匠、女の弟子取り禁止。八月には三味線の女師匠三十六人が   逮捕されている。(注19)落首に「三味線が絶へてぺん/\草が生へ」「新内・浄瑠璃寄場のない(苗・   無い)」寄席ですら新内・浄瑠璃は御法度。唄浄瑠璃の師匠連は生活もままならない。かくて「三味線を   売って蚊細き朝けむり」「人こそ知らねかわく間もなし 芸者のなみだ」という非常事態だ。   Eの「よし町」の小札がこの「猫」か、その隣の「鶏」か微妙。便宜上「鶏」の方にした。   F-2は竹をもっているところから、駄洒落で「あたけ=安宅」と受け取り、安宅鮨屋に対する規制と解   釈する。   39 弓   弓を解釈の対象として取り上げたのはF-2のみ。「矢拾い女」とする。天保十三年(1842)五月、空き   地や広小路での土弓場の弓取女を禁止。「今世孝子競」に「所々揚弓場女止」とある。   また弓が湯屋の看板に使われているところから、湯銭引き下げ令を踏まえたとする。天保十三年三月、湯   屋株停止。同年五月、湯銭が大人子供とも六文になる。「今世孝子競」に「湯銭【大人子供共六文になる】」   とある。参考までにいうと、それ以前は大人十文の由(子供の料金は書いてないが、寛政の頃、大人十文   子供八文とあるから、八文か)。(注27)   40 頭部が鶏のかたちのもの    BDは上着の模様を柏と見て鶏の顔とした。柏は鶏の異名。Bは「金銀をかけて鶏をけ合し御召捕」金を   賭けての鶏合(とりあ)わせが摘発されたという。闘鶏博奕、いわゆる鶏による「蹴合博奕」である。D   は「勝負鳥」とする。やはり賭け事に使う鳥の意味で、天保十三年(1842)二月、博奕禁止令が出ている。   Eは「よし町」とするも、石井研堂も未詳とする。F-2はEの「よし町」を受け継いでいるが、鳥(ち   ょう)はよし町(ちょう)に通じるという辻褄をあわせて、芳町で有名な陰間(かげま=男色)と解釈し   た。そのうえで、対峙する妖怪の右軍に湯島、左軍に芳町を配したのは面白いと一人悦に入っている。判   じ物は面白がって読むべきというのであろう。   41「當」の字の高張り提灯   Aは高張り提灯の方に注目して、これを「切見世」と「古金座」と解釈した。切見世(私娼)の禁令の方   は前述してきたから省略する。「古金座」とは、天保十三年(1842)、古金銀の通用停止、その後、古金   銀所持者に対して金銀座に提出して引き替えるよう再三の通知が出ているから、これらを踏まえて解釈し   たのだろう。   Bは二通りに解釈した。一つは高張り提灯が儀式用の提灯だから「野送の御趣意(野辺送りの改革)」と   解釈。天保十三年三月、葬礼・仏事の簡素化を求める町触れが出ている。「孝子競」には「葬送ノ節【多   人数見送止】」とある。   もう一つは提灯の字を「富」と読んで、天保十二年十一月の富くじ禁止令と解釈した。落書に「谷中や湯   島に富もない」とあるが、谷中感応寺・湯島天神・目黒不動が「江戸の三富」と呼ばれていた。   Dは葬礼の簡素化。Eの小札とF-2は「とみ」。F-1の大坂付箋は「両替屋」としている。ただなぜ   この「當」の字の高張り提灯が「両替屋」なのか、説明はない。   『開版指針』は「當の字付候提灯は當百銭の由」という巷説を記す。提灯の字をこちらは「富」ではなく   「當(当)」と読み、「當百銭」いわゆる一枚百文の天保通宝(天保銭)とした。裏面に「當百」の文字   が彫ってあり、発行は天保六年(1835)から。鋳造は水野忠邦の発案、金座後藤三右衛門の請負事業とさ   れる。天保通宝は質の悪い銭で百文では通用せず八十文くらいの価値しかなかったという。嫌われるのも   当然だ。ところで、明治年間になると、「天保銭」には智恵の足りない者という意味が加わるという。こ   の天保の頃はどうだったのか。   42 天上眉の官女   「天上眉」とは殿上人の化粧法、図様のように、眉を剃ってその上に墨で二つの丸い点を入れたもの。   Aはそれで官女と見たのだが、それがなぜ「中田新太郎/吟味与力」なのかよく分からない。取りあえず、   中田を追ってみると、天保十四年(1843)七月、町奉行の与力・中田新太郎が印旛沼開削工事の治安維持   を命じられている。(注28)Aは幕府内の事情にかなり詳しいようだから、何かあるのだろうが、与力の   中田がなぜ宮仕えの官女なのかよく分からない。ついでに言うと、中田は妖怪(耀+甲斐)こと鳥居甲斐   守耀蔵の配下である。   BCは「大御所家斉の側室(愛妾)」とする点では同じだが、Bはこの図様の近くに画かれている弓を愛   妾の名を暗示するものと見て「お弓の方」と解釈する。お弓の方は未詳。   Cは「おみのゝ方」とあるが、「中山法華の隠し子にて中野関翁の養女なり」とあるから前出の「お美代   の方」である。「越前の御養子、川越の御養子、加賀の奥方等の御腹にて悪女なり」とは、お美代の方が   生んだ女子三人の縁づき先をあげたか。加賀の奥方とは加賀藩主前田斉泰の正室になった溶姫。このお美   代の方、「悪女」「大御所を自由にせし女」など、とかく評判はよろしくない。お美代の方と実父(兄と   する説もある)の日啓は、大御所家斉に懇願して目白の鼠山に感応寺を建立させたが、三田村鳶魚に言わ   せると、それが新寺の創建という形ではなく、あくまで日蓮宗池上本門寺の隠居寺の再興という形をとっ   たのは、大奥での日蓮宗勢力拡大もさることながら、富突からあがる利益にねらいがあったからだという。(注29)   前述「41「當」の字の高張り提灯」のように、感応寺は江戸の三富の一つ。   Eの小札は「町芸者」とあるが、札の位置が微妙で、取りあえず「官女」に付いたものとしたようだ。だ   がここでも芸者と官女の結びつきがよく分からない。   F-2も「黛」(化粧すなわち天上眉)と「下げ髪」から、側室の「お美代の方」、あるいは家斉没後お   美代同様追放になった御殿女中と解釈する。   43 口をあけた怪獣   Aは「土岐なり」Eは「万歳」とする。「土岐」は勘定奉行の土岐丹波守頼旨と思われるが、なぜこの図   様と結びつくのか不明。「万歳」もまた同じで、この怪獣とどう結びつくのか不明。   44 目と口と逆様のもの   この図様は様々に解釈された。Aは「陰陽師取払」とし、天保十三年七月の触書、陰陽師の町宅住居禁止   令を踏まえて解釈した。ただこの図様と陰陽師とのどう結びつくのか不明。   Cは「さか口といへる所の楊弓矢」と解釈した。天保十三年五月、土弓場の矢拾い女を禁止。「さか口」   は、図様の口が逆様についているから「逆口」なのでろうが、何を踏まえたものか不明。あるいは売春で   摘発された矢場の店の名か。   Eの小札とF-2は「女髪結」とする。石井研堂は女髪結いが禁じられて「口が干(ひ)上るという寓意   であろう」とするのだが。仕事を失って干上がったのは女髪結いに限ったことだろうか。   F-1の大坂付箋は「わざわい上より」、つまり天保改革はお上から降ってきた災いだというのだろう。   45 二つ首・乱髪の女   解釈はほとんどが「女髪結い」で一致した。ただしAは「女髪結い」の他に「田口加賀守」としている。   天保十二年(1841)五月、勘定奉行の田口加賀守は罷免になるが、四月に水野の推挙で就任したばかり。   罷免の理由は前任長崎奉行時代の不正にあるらしい。確かにその意味では改革の犠牲者とも言えようが、   なぜ女の二つ首が田口加賀守なのか、その理由はよく分からない。ただ天保十年(1839)、田口が勘定吟   味役から長崎奉行へと異例の昇進を果たしたとき、「水野美濃守の妾の兄也」という噂もあったから、出   世の蔭に女ありという醜聞が田口の身辺にあったようだ。(注30)また田口の妻と水野忠邦の妾が姉妹と   いう噂もあり、田口には「かかの陰にて大に立身せし」という風評もあったらしい。女をめぐる噂はまだ   ある。長崎奉行のとき、田口は長崎代官高木作右衛門の娘を、高木の反対を押し切って、半ば職権をもっ   て高島四郎兵衛(砲術家・町年寄)の妻としたことがあった。しかしこれは、官民という身分違いの婚姻   を強引に仲介したとして、ずいぶん批判を浴びたようである。(注31)   以上は、もちろん国芳の意図とは無縁の解釈だが、このような噂を聞けば、「女の首二ッ」田口加賀守と   いうのも、なるほどと納得した人は多かっただろうと思う。   「女髪結い」に対する当局の姿勢は大変厳しく、馬琴の言葉を借りると    「天保十二年春の頃より女髪結を禁ぜらる。十三年に至りて、尚やまざれば、御厳禁甚敷、女髪結も     結する者も、或は召捕られ手鎖を掛られ、町中路次に女髪ゆひ入べからずといふ張札を出す」(注18)   という執拗さだった。狂句には「髪ゆいは停止になりてかみ乱れ」とある。天保十四年閏九月、水野忠邦   が老中罷免になったころには「そろ/\と女髪ゆひ櫛そうじ」という落首もある。そろ/\再開の準備を   という気分がよく出ている、ずんぶん待ち望んでいたのだ。   『開版指針』は「頭に赤子の乗居候は子おろし」で子堕ろし説を記す。天保十三年十一月、女医者の堕胎   禁止令が出ている。   46 二首女の持つ細い棒   この棒に意味を持たせたのはEの小札、「呉服」とある。「今世孝子競」に「縫模様三百目限」とある。   前述の通り、贅沢な呉服は禁止になった。   47 象   Aは音の「ゾウ」から「南蔵院/増上寺」と二義に解釈した。天保十三年(1842)六月、牛込聖天別当の   南蔵院の慶源、過分の奢侈や賄賂による権門への口利きなどの容疑で逮捕され、翌年五月、流罪になって   いる。「意見早字引」に「むやみに坊主を流罪して奢は悪いがあんまりきびしくてはこまる」とあるのは、   この慶源のことと思われる。   芝増上寺も水野忠邦によって被害に遭っている。天保十三年一月、大御所家斉死去。当初は増上寺に遺骸   を納めるはずだったが、水野忠邦の横車で上野寛永寺に変更される。「恵方には極楽浄土ありながら鬼門   の鬼にとられてぞゆく」(増上寺は浄土宗、鬼門(丑寅の方角)が寛永寺)。「芝は枯れ上野は今は花ざ   かり鶯谷に法華経の声」「順がくるひて何と昭穆 三縁」「後家様の花見がいいと御差図 東叡」(昭穆   は霊廟の順番の意味。三縁は三縁山で増上寺の山号。東叡山は寛永寺の山号)順番が狂って当てがはずれ   た増上寺。上野は花見にもってこいだと、大奥の後家たちに勧めた寛永寺。「芝居より花見にいくと妾い   ふ」その誘いに応じた側室たち。増上寺は水野と大奥の圧力によって家斉の霊廟誘致に負けたと、世間で   は見ていたようだ。   Eの小札は「惣録」とする。石井研堂は惣録は僧官の名であるとして、破戒僧に対して戒告したことを指   摘する。   48 頭巾の老女   Aの「三途川婆々」もEとF-2の「桂あん」も人を手引きする点では同じ。三途の川の婆は地獄(私娼)   を手引きする。いわば客と遊女を取り持つ遣り手(やりて)婆である。それに対して桂庵(慶安とも書く)   は奉公人の斡旋をする。地獄(私娼)対する禁令は下出「49鼻高の閻魔」参照。桂庵の方は石井研堂に   よると、天保十四年(1843)二月、奉公人の給金引き下げが行われた。これが桂庵の不景気を招いたとす   る。   49 鼻高の閻魔   ABDはこの図様を閻魔大王とみて「地獄」とする。前出「本所の一つ目弁天」同様の私娼である。天保   十三年三月、岡場所(吉原以外の私娼窟)を禁止する。馬琴は「地獄と唱ふる隠し売女等、(中略)吉原   町へ被遣て遊女とせらる。同年八月上旬、其類の女子、又客と共に八十四人被召捕しと云風聞あり」と記   録する。(注18)「苗売り」と題された落書に「岡場所残らず女郎のない(苗)、抱えた子供のやり場が   ない(苗)」とあり、吉原に移った者もいたようだが、「地獄の衆はみんな真っ青」で、ほとんどの私娼   は商売にならなかった。(注13)   EとF-2は「鼠山」、つまり家斉の死後、直ちに廃寺破却された雑司ヶ谷の感応寺。ただしなぜこの図   様が感応寺か説明はない。   50 閻魔の持つ剣   Aは、おそらく剣の形が不動明王の持つ倶利伽羅剣(くりからけん)に似ているので、「成田山」(成田   不動)としたのであろう。成田不動を信仰すると言えば、市川家。あるいはこの剣で海老蔵の江戸払いを   匂わせたものか。   『開版指針』には「頭に剱の有るは先達て江戸十里四方御構に相成候歌舞妓者市川海老蔵、成田不動の剱   より存付候由」とある。剱→不動明王→成田不動尊→市川家→改革の犠牲者→市川海老蔵という連想なの   であろう。ただ「頭に剱の有る」ものという図像がどれをさすものやら判然としない。海老蔵の江戸追放   は天保十三年六月で、奢侈を咎められた。「19口先の尖った大目玉のもの」参照のこと。   51 御幣模様のある幟   Bは「御弊はおどりのかたち、後藤也」、Dは「幟【二品切さき怖と幣とかきたる二割下げと云事也、後   藤の紋なり】」とある。文意不明のところもあるが、御幣の模様から後藤三右衛門と解釈したようだ。幟   には二ヶ所ハサミの切れ目がある。これをDは物価の二割引き下げ令と解釈した。物価の引き下げは天保   改革の大きな柱だから、物価の統制にも関与しているのだろうが、なぜ妖怪のところに後藤三右衛門が出   てくるのか、よく分からない。後藤は、文政小判と天保通宝と天保小判の改鋳で巨万の富を築いた。水野   改革派の一員である。後の弘化二年(1845)、水野等改革派が一掃されたとき、町人の後藤だけが死罪と   なった。しかしこの天保十四年(1843)の時点では改革の犠牲者ではない。   Eの小札は「半田」とある。石井研堂は半田稲荷のことかとする。この小札はこの幟そのものから「半田」   としたのではなく、その幟をもっているらしい狐を見て「半田」としたのかも知れない。しかしなぜ半田   稲荷が妖怪として登場するのか不明。   F-1の大坂付箋は「十組問屋」、これは江戸問屋仲間の解散令を指すのだろう。F-2は狐と旗とを一   体と見て「淫祠邪教の金」とする。   52 狐   狐を単独で判じたものはAのみ。「稲荷」神社と解釈した。狐は稲荷神の使いだからこの解釈はごく自然   だが、なぜ稲荷が妖怪として登場するのかは不明。狐は人を誑かすから妖怪に組み込んだのであろうか。   53 蝸牛   Aは「一名テヽ虫/見世物類」と解釈。「テヽ虫」はでで虫(でんでん虫)。ただ「一名てヽ虫」の意味   がよく分からない。天保十三年(1842)二月、開帳時の大がかりな見世物が禁止された。「今世孝子競」に   「開帳場【境内上ケ物大きなる見せ物止】」とある。   Dの「角細工」はまだ理に適っている。蝸牛にはなるほど角はある。それで動物の角細工と解釈したのだ   ろう。象牙などと同様、贅沢品として取締りの対象とされた。   54 目玉一つ   35の「一つ目」参照。本所一つ目弁天の門前、天保十三年(1842)三月、岡場所(私娼街)として撤去・   商売替えを命じられている。   55 鳥追い笠   この図様に着目したのはEとF-2。Eは「女太夫」とし、石井研堂は、女師匠が男の弟子取りを禁じた   天保十三年(1842)三月の禁令と解釈した。   F-2は「鳥追」と見て、その格好から女太夫とするが、その他に役者の外出時の編み笠着用令かとする。   天保十二年十二月、三芝居の移転とともに、役者は外出時編み笠を被り、素人と交わらないよう命じられ   ている。   56 緋衣達磨   緋色の法衣を着た達磨。右手に払子、額の上部に小さな木菟(みみずく)の面を被っている。この解釈は   なかなか面白いので、原文をそのまま引用する。     A「緋衣、払子ハ中山法花寺、大達磨、大鴟鵂、当時相不成」(鴟鵂はミミズク)   B「達磨は鼠山の坊主疱瘡の祈祷致候故也、天盃のみゝつくは疱瘡の印、達磨の目は市川海老蔵の目、赤     衣小象に乗る故、海老蔵と云なぞ也」   C「達磨如きもの朱衣を着し、象に乗、蛸魚の馬印を持たせしあり。こは感応寺ならんと云こと也」   D「達磨の象に乗、海老蔵と云事也」   E「南蔵院」   F-2「南蔵院」   Aは「中山法花寺」とする。下総中山の法華経寺の僧守玄院日啓と、その実子智泉院日尚を擬えると解釈   した。日啓は将軍家斉の側室お美代の方の実父、その関係で家斉に取り入り、遂には家斉の帰依を受け、   専ら加持祈祷を引き受けていた。ところが、天保十二年(1841)一月、家斉が死去するや、不如法(恐ら   く女犯の罪)の露顕を恐れてか、忽ち行衛をくらました。しかしその六月、越後の高田で妻と一緒に逮捕   される。十月、一件落着、日啓は密通・女犯の罪で遠島を命じられ、日尚もやはり密通・女犯の罪で三日   間、日本橋に晒された。   さて「大達磨、大鴟鵂(ミミヅク)」の意味だが、明治の淡島寒月に、次のような証言があるから引いてお   こう。   「何故昔はかるやき屋が多かったかというに、疱瘡(ホウソウ)、痲疹(ハシカ)の見舞には必ずこの軽焼(カルヤキ)    と達磨(ダルマ)と紅摺画(ベニズリエ)を持って行ったものである。このかるやきを入れる袋がやはり紅摺、    疱瘡神を退治る鎮西八郎為朝(チンゼイハチロウタメトモ)や、達磨、木菟(ミミズク)等を英泉や国芳(クニヨシ)等が画    いているが、袋へ署名したのはあまり見かけない」(注32)   軽焼きは食事を制限された疱瘡・麻疹患者には必須の煎餅菓子。それを入れる贈答用の袋に、寒月の淡島屋   は英泉や国芳を起用したようだ。紅摺の赤い為朝・金太郎・達磨・木菟、これらはみな疱瘡(痘瘡=天然痘)   や麻疹除けだ。   『井関隆子日記』の天保十三年十二月十六日記事には「此頃痘瘡(もがさ)やむもの多しときくに、稚児   (ちご)どもあればいとおそろし」とある。この頃、疱瘡が流行っていたらしい。ちょうど国芳が「土蜘妖   怪図」の図様を案じていた頃にあたる。疱瘡は痘痕(あばた)を残す、女児の親なら、なおさら心配だ。お   そらく、国芳はそれを念頭において、「土蜘妖怪図」を疱瘡除けとしても画いたのだろう。これまた国芳の   周到な用意と見るべきか。作画の動機を尋ねられたら、疱瘡除けと答えるだけで、「土蜘妖怪図」の名分は   立つ。   Aはこの緋衣の達磨を日啓とした。日啓は子沢山の大御所家斉のために疱瘡除けの祈祷を行ったと解釈した   のだろう。   BとCは同じ。雑司ヶ谷の鼠山にあった感応寺と解釈した。感応寺は家斉が建てた日蓮宗の寺。その建立に   は側室お美代の方や日啓の強い勧めがあったとされる。天保七年(1836)、大伽藍が完成をみたが、天保十二   年十月、奇しくも日啓や日尚の刑が確定したと同じ日に、廃寺と堂塔の破却が決定した。ただし感応寺の僧   はお構いなし。Bも感応寺の僧が疱瘡除けの祈祷を行ったとするのだが、このあたり中山法華経寺の僧と鼠   山感応寺の僧とを、Bは混同しているような気がする。「加持祈祷訳は中山鼠山 三晒」という当時の狂句   がある。中山法華経寺も鼠山の感応寺もいずれも加持祈祷をする。前述のように中山法華経寺の日啓は感応   寺の建立にも関わっていた。それで両寺には密接な関係があると見えたのかもしれない。なお狂句の「三晒」   とは日本橋に三日間晒された日尚のことを踏まえた戯号である。   Cは「朱衣を着し、象に乗、鮹魚の馬印をもたせしあり、こは感応寺ならん」と云う。   この感応寺もB同様破戒僧日啓を指しているようだ。馬印は総大将の印、朱衣(緋衣)は法衣、つまり達磨   が左軍の妖怪どもの総大将ということらしい。しかし僧衣である緋衣はまだしも、象に乗ることと鮹の馬印   で、なぜ日啓としたのか。Cは右軍の総大将を中野碩翁とする。そして左軍の総大将を日啓とした。なぜこ   の二人を対置したのであろうか。鍵を握るのはまたしても大御所家斉の側室お美代の方。前述のように、お   美代の方にとって、日啓は実父(兄)で、中野碩翁は養父。しかも家斉の重用された点で、また家斉の死後、   水野によって直ちに失脚させられた点でも、両者は共通する。Cは二人を好一対とみて、左右の大将と解釈   したのであろう。   BとDは「市川海老蔵」とも解釈。Bはその根拠を「達磨の目は市川海老蔵の目、赤衣小象に乗る故、海老   蔵と云なぞ也」とする。達磨の目を市川家の目力の暗喩と受け取り、赤衣は海老色を連想させ、象は蔵に通   じる、それで市川海老蔵というのだろう。前述のように、天保十三年三月、海老蔵は「牢破りの景清」の出   演中に逮捕された。「身のほどを白猿(しらざる)ゆへのおとがめを手にしつかりと市川海老錠(じょう)」   (白猿(はくえん)は海老蔵の俳名)とは、そのときの落首で、お縄ならぬ手錠つきの逮捕であった。そし   て六月、分不相応の贅沢を咎められて江戸十里四方の追放に遭っている。   EとF-2の「南蔵院」、この解釈は「象は蔵に通ず」に拠るとF-2は云う。   『開版指針』は「象に乗候達磨は先達て貪欲一件ニて遠島に相成候牛込御箪笥町真言宗ニて歓喜天守護いた   し候南蔵院の由」との巷説を記し、南蔵院の慶源とする。慶源は天保十三年六月、奢侈及び賄賂の廉で逮捕   されている。南蔵院については「47象」を参照のこと。   57 柄の先が鮹の纏(まとい)   E以外、すべて「凧」と解釈する。天保十二年(1841)十一月、八枚張り以上の大凧及び彩色等無益に手を   込めた凧を禁じている。   Eの小札は「大家」とする。その根拠は不明。石井研堂も手遊びの「凧」とする。F-2も一応は「口も八   丁」の大家と解釈してみるものの、やはり「凧」としている。ただ天保十三年七月に家賃引き下げ令は出て   いるから、妖怪の中に大家がいても不思議ではない。   『開版指針』は「纏に相成居候鮹は足の先きより存付高利貸」高利貸しとする。「足の先きより存付」とあ   るから、足をお足(お金)と解して高利貸しとしたか。「今世孝子競」に「金利【二十五両一分に成、高利   止】」とある。天保十三年十月、貸借金利を年一割五分から一割二分に引き下げた。   58 大口・歯並み・子供顔   この図様に着目したのはEとF-2だけ。しかしEの小札の「◯山」の◯のところが蝕んで、石井研堂も読   めず。F-2はこれを「南瓜」と見て、右軍の「西瓜」と一対とし、初物の禁令と解釈した。そのうえでE   の小札「◯山」を野菜の産地ではないかという。   59 大目玉二つ裂けた口の怪獣   D「其後にあるとらなどは砂村の化物なるよし」。「其」が指す図様を、象に乗った達磨と理解したのだが、   あるいは違うかもしれない。Dは虎とみて「砂村の化け物」と解釈。砂村とは富ヶ岡八幡付近の青物産地を   いうのだろうが、虎を砂村とを結びつける根拠は不明。Bにも「砂村化け物」なるものがあるが、図様を特   定できない。   EとF-2は「座頭」とする。つまり幕府公認の高利貸し。「31軍配を持つ三ッ目坊主」で前述したよう   に、天保十三(1842)年十月、貸出金利制限令が出ている。   60 大口の禿頭   解釈したのはF-2のみ。「願人。出家社人に加へた禁令の一例とする」願人とは大道芸や門付をする願人   坊主を云うのだろう。天保十三年(1842)六月、陰陽師・普化僧・道心者・尼僧・行人・舞太夫らとともに、   願人も、弟子であることを示す確かな証明書を、本寺・師家から取っておくよう命じられている。また居住   も裏店に限られた。   61 竹箒を持つもの   Eの小札に「前はけ」とある。石井研堂は化粧用眉刷毛のことかとするものの、これには首をかしげている。   F-2は箒で「はく」は「刷毛(はけ)」に通ずるから、化粧用眉刷毛とし、お洒落禁止の一例とする。   62 分銅模様の顔のもの   AとBとF-2は分銅から「銀座」と解釈する。天保十三年(1842)六月、通用停止となった古金銀を所持   しているものに対して、金銀座に提出して引き替えるよう命じている。   Eの小札が「願人」とする。「60大口の禿頭」参照   『開版指針』は「分銅は両替屋」と至って明解。天保十三年八月、これまでの変動相場から、金一両=銭六   千五百文の固定相場へ移行。   63 雁首のもの   Eの小札及びF-2は「煙管や」とする。「孝子競」に「喜世留象眼彫物止」とあり、金銀はもちろん象眼   細工の煙管も禁じられている。天保十三年(1842)六月には、金銀の煙管を所持する者は金銀座に提出して   引き替えるよう触書が出ている。   64 蟇の穂をもつ蛙   Aは「蟇【姥が池】」とする。この図様を蛙とせず蟇(がま)としたのは、手にしている蒲(がま)の穂に   合わせたからだろう。それをAは「姥が池」と解釈した。これは少々複雑な解釈で、これ自体が謎解きに近   い。ヒントは次の落書にあった。   「八月、姥が池かぶ木と化る」(天保十三年八月)   「古池や歌舞伎飛込水野おと」   姥が池とは浅草の小出伊勢守の下屋敷内にあった池、そこに歌舞伎が飛び込んできたとする。言外に水野の   改革で……という余韻がある。そして「浅草【山宿乳母池埋芝居町ニ成】」で、猿若町が誕生した。   天保十二年(1841)十月、堺町の中村座と葺屋町の市村座がともに全焼。同年十二月、両座に移転命令が下   る。その代替地が浅草の小出伊勢守の下屋敷。そこを猿若町と命名し、興行を再開したのが翌天保十三年の   九月。(注33)上記の「八月」とあるのは両座の普請がなったということであろう。そのとき役者の居住も   猿若町に限定され、外出には編笠を被るよう義務づけられる。「今世孝子競」に「役者共【不残猿若町え引   移】」とある。また参考までに言うと、守田座の猿若町興行は天保十四年の九月から。それにしても、蟇や   蒲からなぜ「姥が池」に、Aの連想が直結するのだろうか。他の解釈は必ずしもそうなってないのだから、   一種のこじつけには違いない。   次のBの「かいるは夜たかのぎゆう」もCの「蛙【惣嫁のきゆう】」も同じ解釈。江戸では夜鷹、上方では   惣嫁と呼ぶ、別名を辻君、路上で客をとる私娼である。「ぎゆう」は牛で、客引きする牛太郎の略。この図   様を蛙と見て牛太郎と解釈したのは、あるいは牛蛙という言葉を念頭においているのかもしれない。   Eの小札は夜鷹そのものとしている。F-2も夜鷹で同じ。根拠は「夜鷹は夕方から這出るので蛙に見立て   たか」とする。夜鷹が出没するあたりは、夏の夜など、蛙の鳴き声頻りという連想が働くのであろうか。天   保十四年三月、私娼が禁じられたことは前述の通り。   Cの解釈はかなり異質で「かいるは百姓なるべし」とある。「蛙」は「帰る」に通ずる。天保十四年三月、   当時江戸に流入していた農民を郷里に帰す「人返しの令」が出る。Cはこの天保改革の目玉ともいうべき強   制帰農を踏まえたのだろう。   F-1の大坂付箋は「女医師、子おろし」。これも異質だが、なぜこの図様が堕胎禁止と結びつくのか不明。   以下、どの図様の解釈か不明のものをあげる。   65 具足着用のもの   具足姿の図様は二つある。Aは「具足着【牧野侯、鳥屋/尾上菊五郎】」と解釈する。牧野侯とは、当時の   京都所司代牧野備前守忠雅か。天保十二年(1841)五月、太田備中守が老中職を辞任する。そのとき後任と   しては、長岡藩主牧野備前守が有力視されていた。ところが大方の予想に反して、外様大名の真田信濃守が   就任した。この前例のない起用の裏には水野忠邦の強力な推挙があったとされる。それに先立つ天保十一年、   水野忠邦は、武蔵国川越藩主松平大和守斉典を出羽国庄内へ、庄内藩主酒井左衛門尉忠器を越後国長岡へ、   長岡藩主牧野備前守忠雅を川越へ転封しようした。いわゆる三方領知替えである。だがこれは庄内藩の猛反   対等もあって撤回に追い込まれた。Aはこれらを踏まえて、真田信濃守の老中就任に、牧野備前守に対する   水野忠邦の意趣返しのようなものを感じ取ったのであろうか。なお「鳥屋」は未詳。   もう一つの解釈は尾上菊五郎。天保十三年九月、菊五郎は外出時に義務づけられていた編み笠着用を怠って、   銭三貫文(3000文=0.46両)の罰金刑に処せられた。ただ具足着がなぜ菊五郎なのかは不明。   66 幟   「土蜘妖怪図」に幟は四本たっている。そのうちのどの幟のものか分かりかねるが、Aは「神道上論散銭半   分」と解釈する。散銭(さんせん)は賽銭、改革のせいで賽銭が半分になったということなのであろうか。   「神道上論」は未詳。   67 蔦   Aは「蔦ハ「棚倉侯なり」とする。この棚倉侯とは松平康爵(やすたか)。父の松平康任(やすとう)が、   天保六年(1835)の千石騒動で老中を失脚し、翌七年には国禁である竹島の密貿易が発覚して永蟄居。その   跡を康爵が継いだが、父康任が水野忠邦の政敵だったこともあって、康爵は石見の浜田藩から陸奥の棚倉藩   へと懲罰的転封を命じられた。これも水野に意趣返しとされる。ただ「蔦」の図様が問題で、この図様がど   こにあるかよく分からない。   68(貂・狼)刷牙   Aに「同刷牙【寺の帷 質屋/小呉服】」とある。「同」は貂(てん)と狼を指しているように思うが、確   証はない。「刷牙」の意味不明。寺や質屋や呉服屋は、葬礼の簡略化や質の利息制限や着物の質素化等、改   革の規制を受けているから、ここに出てくるのは不思議でないが、図様との関係はやはり不明だ。   69 下達磨   下達磨なるものがどの図様を云うのか分からないが、Aは「御趣意掛、名主熊井利七郎」とする。熊井名の   名主は深川熊井町の熊井理左衛門しかいないから、「利七郎」は誤記と思われる。「御趣意掛」とは改革を   徹底するために新設された「市中取締掛」。天保十二年(1841)十月、熊井理左衛門・石塚三九郎・鈴木市   郎右衛門三名が任命される。翌十三年二月、物価監視役の諸色掛を兼帯。同年十月、熊井は「市中取締懸掛   惣代」。同年十二月、精勤につき三名とも苗字一代御免。翌天保十四年四月、町奉行鳥居耀蔵に従行して市   中巡見。同年七月には精勤ぶりが認められて、新規の支配地を頂戴している。   「諸色懸りの名主時めく おべっか」という狂句がある。熊井たち町名主は、市民の目からみれば「おべっ   か」使いとしか見えなかったのだろう。「孝子競」にも「苗字御免 深川熊井町 熊井理左衛門」とある。   水野の手先となって、市中の情勢や物価の動向に目を光らせることで、熊井は「苗字」を手に入れたと言い   たいのだろう。   70 貧僧の福耳   これもどの図様を云うのか分からない。Aはこれを「御城坊主衆」と解釈。天保十二年(1841)九月、諸家   登城する際、坊主部屋に立ち入ることを禁じている。   71 丸   Aは「丸のハ【楊弓】」とする。しかし「丸のハ」がよく分からない。図様もどれか分からない。楊弓は土   弓。前述のように、天保十三年(1842)五月、土弓場での若い矢拾い女禁止令をいうのだろう。左図に柳製   の弓らしきものが見えているが、「丸のハ」と形状が合わない。   72 図様不明   「山伏」の居住制限。20「白髪鼻高のもの」参照   『武江年表』によれば、天保十四年(1843)五月「市井居住の巫覡(ミコ)修験をして、浅草(書替所の脇、測   量所の脇)渋谷豊沢村鼠山等へ地を賜はり、残らず此所へ移る」とある。修験者を収容した浅草の施設は、   書替所(蔵前の米手形書替所)と測量所(浅草天文台)の脇にあったようだ。   73 図様不明   B「砂村化け物」とする。砂村は富ヶ岡八幡付近の野菜の産地として知られる砂村新田をいうのであろうか。   すると初物野菜への規制を暗示するとも考えられるが、よく分からない。   74 図様不明   Dが「百まなと【可山といへるものなり】」とするのだが、これも未詳。「百まなと」は「百目(まなこ)」   の誤記であろうか。可山も不明。   75 図様不明   Eの小札に「水場所」。貼ってあった札がはがれて所在不明になったようだ。石井研堂は河岸・橋際・堀端   における葭簀張りの露店禁止をあげている。   76~77 図様不明   Eの小札。これらも札が剥がれてしまたっのだろう。「日なし」「がん人」とある。つまり、高利貸と願人   坊主のこと。これは「60大口の禿頭」の項参照のこと。利息の制限は「31軍配を持つ三つ目坊主」の項   参照。   78~79 図様不明   Aに「婆々」「大将の狼」とある。どの図様か不明。   80 図様のみで解釈なし   Aに「青龍刀」と「骸骨」とあるが、解釈できなかったらしく、図様のみ記している。必ず何ものかを踏ま   えているはずだから、取りあえず図様だけでも取り出しておこうということなのだろう。   以上、諸解釈をみてきたが、腑に落ちるものもあれば、首をひねるものもある。ただ図様と現実とを何が何   でも結びつけようとする執念のようなものは伝わってくる。   そもそも「判じ物」とはどんなものか。辞書によると、図様にある意味を隠し、人に判断させ当てさせるも   のとある。しかしそういう意味からいうと、「土蜘妖怪図」は辞書のいう「判じ物」とはだいぶ趣が違う。   もちろん辞書通り「判じ物」になっている図様もある。国芳、そういう図様に対しては、紋様のような判断   の根拠となるものをしっかり画いて、自ら託したものが見る側に確実に伝わるように画いている。だが図様   の多くはそうなっていない。何らかの意味が託されていることは匂わすが、それが何であるか、明確に判断   できるような根拠は与えない。しかし見る側は、隠れた意味があると思っているから、結局「観者サマザマ   ニ推度シ、牽強附会シテコレヲ玩ブ」ということになる。(注8)   国芳は図様の解釈を見る側に委ねる。国芳は紋様などを使って解釈の基本的な方向性(「土蜘妖怪図」の場   合は、水野と改革の被害者・犠牲者)は明確にするが、具体的な解釈は見る側に任せて、素知らぬ顔をする。   その結果、「土蜘妖怪図」は、国芳のコントロールを離れ、見る側が主役の判じ物、つまり読み物となる。    五 作者   「土蜘妖怪図」の画工は当然歌川国芳だが、合巻や読本に作者と画工がいるように、この「土蜘妖怪図」に   も作者、つまり判じ物の作者がいると考えるのは自然である。   嘉永六年(1853)、国芳の「浮世又平名画奇特」(二枚続・越村屋板)が評判になって、さまざまな臆測が   飛んだことがあった。そのとき町奉行の隠密廻りは、国芳の身辺を探索して次のような報告をしている。   「板元より注文受候絵類、図取を佐七に相談いたし候間、浮世絵好候ものは、図取之模様にて推考之浮評    を生じ候由」(注34)   これによると、国芳は判じ物の注文がくると、佐七こと狂歌師・梅廼家鶴寿(1801−1865)と相談して作画   するとある。天保十四年(1843)の「土蜘妖怪図」もまた、おそらくこのような過程を経て制作されたもの   と考えられる。そうすると「土蜘妖怪図」の企画制作は板元伊場屋仙三郎、作者は梅廼家と国芳、画工国芳   ということになろう。   ところが作者に関して、次のような噂も流れていた。   「板元を召捕吟味有りしに、其作者といへるは麾下に有てこれをしらべぬる時は、大変に及びぬるやうす    なるにぞ、板木并にこれまで仕込有し絵をば悉く御取上にて焼捨となり、板元居町払にて手軽く相済し    と云」(注6)   板元を逮捕して尋問したら、作者は「麾下」、つまり直参旗本だという。もしこれを捜査するとなると大ご   とになる。そこで町奉行は、板木と在庫の絵を没収して焼却、板元は町払い(町追放)にして「手軽く」幕   引きにしたというのだ。   しかしこの記事は疑わしい。『藤岡屋日記』には、板元伊場屋仙三郎の逮捕や吟味はなかったとする。これ   は信じてよいと思う。というのも、このあと「土蜘妖怪図」の模造版(貞秀画)が摘発をされたき、『藤岡   屋日記』はその処分内容を記録している。したがって、もし国芳の「土蜘妖怪図」がお咎めに遭っていたら、   『藤岡屋日記』はその処分内容も残しているはず。貞秀画の処分内容だけ記して、それを誘発した「土蜘妖   怪図」の処分内容を残さないということはないと思う。   この逮捕云々の噂は大坂でのもの。おそらく江戸から大坂に流れる過程で、作者が旗本に格上げされたと考   えられる。その方がよりセンセーショナルであり、好奇心をくすぐり、また売れ行きもよいからだ。   ただしこの旗本説、まんざら根も葉もない噂ではない。当時、武家屋敷内の家臣が筆耕や彫りや摺りの内職   をして、浮世絵制作に関わっていたのは事実である。   天保十四年七月、ちょうど「土蜘妖怪図」が脚光を浴びつつあった頃、国芳の「駒くらべ盤上太平棊」(大   判三枚続・具足屋板)が、絵草紙掛名主の改(あらため=検閲)を経て出版された。言うまでもなく、この   国芳画には問題ない。ところがその後に出回った海賊版の方は問題ありで、それが実は「武家方家来内職板   行致し候由の品」であった。これは無断出版だから摘発されて、小売りの辻屋と加賀屋の在庫は没収、そし   て二度と武家方の品物を扱わないよう命じられた。(注35)また同年の冬、歌川芳虎の春画版「土蜘蛛」が   出回る。これまた武家方の制作で、「板元松平阿波守家中、板摺内職にて 高橋喜三郎」とあり、阿波徳島   藩の家臣がこの春画の板元だった。これは禁制の春画だから当然処分、板元高橋が藩追放、芳虎は三貫文の   罰金、小売はこれも辻屋だが「八ヶ月手鎖、五十日咎」(注1)に処せられる。どうやら町奉行の目の届かな   い武家屋敷内で、海賊版や春画が作られている様子だ。   こんな背景があったからこそ旗本説が生まれたのであろうが、おそらくこれもまた浮説で、ためにする話題   づくりといってよいのだろう。後述するが、当時、摘発・没収・絶板という噂が流れると、かえって評判が   出て高値で取引された。この浮説もあるいはそれを狙った輩が流したのかもしれない。    六 判じ物の誕生   かつて坪内逍遙は、歌舞伎・遊里・戯作・浮世絵を、徳川期の民間文芸の四角関係と呼び、「題材も、趣味   も、情調も、連想も、理想も、感興も、主として狭斜か劇場かに関係を持っていて、戯作(文学)と浮世絵   (美術)とは、これを表現する手段、様式に外ならなかったのである」 と論じた。(注36、「狭斜」は遊   里)それほど密接であった四角関係を、天保の改革はずたずたにしてしまう。   予兆はまず人情本の世界に現れた。天保十二年(1841)の十二月、かねて密偵を放って出版界の動向を探っ   ていた町奉行は、人情本と好色本(春画本)を摘発した。翌春出版予定の新刊から旧版にいたるまで、押収   は大量に及んだ。内訳は人情本が新旧併せて六十六点。作者では為永春水が圧倒的に多く、松亭金水、鼻山   人が続く。画工では歌川国直が一番多く、渓斎英泉、歌川国貞、歌川貞重、静斎英一、そして国芳。一方、   春画本の押収は二十六点、そのうち画工名のある作品は十七点。こちらは国貞が断然多くて十点(署名は   「不器用又平」など)、次いで国芳の六点(署名は「一妙開程芳」など)、英泉が一点。(注37)   馬琴によれば、押収版本は車五台ほどの量とか。そして翌十三年正月下旬、人情本作者為永春水や板元丁子   屋平兵衛などへの吟味が始まる。ただこの時点では、春水以外の戯作者や画工には、まだ何の沙汰もなかっ   た。しかし不穏な予感はあったようで、巷間には「春絵本ハ中本より猶御吟味厳敷候間、国貞抔(など)も   罪可蒙哉といふ噂聞え候」(注38)という噂が流れた。つまり春画本の方は人情本(中本)より吟味が厳し   いので、押収量の一番多い歌川国貞は罪を免れない、いずれ画工にも累が及ぶと予測されていた。   天保十三年六月四日、錦絵と団扇絵と合巻に関して、次のような出版統制令が出る。    一 錦絵 団扇絵      歌舞伎役者・遊女・女芸者などの一枚絵は、風俗上好ましくないので、出版禁止。      また在庫のものも売買禁止。    一 合巻(草双紙)      絵柄の複雑なもの、役者の似顔や歌舞伎狂言の趣向のもの、表紙や上包の彩色摺り      にしたものなどは禁止。在庫品は売買禁止。    一 忠孝貞節・勧善懲悪を専らとすること。    一 新版は町年寄に差し出し改(あらため=検閲)を受けること。(注39)   「今世孝子競」にも「役者遊女ノ一枚絵止」「役者遊女ノ団扇絵止」とあり、市中の役者絵・遊女絵に対す   る関心の高さを示しているが、改革はそれを禁じた。   浮世絵師にとって、役者絵や遊女・女芸者の絵は生業の大黒柱。また合巻の表紙は江戸の正月を彩る風物詩   である。この出版統制は、画く対象を厳しく制限したばかりではない。似顔絵、色摺り、浮世絵が最も得意   とする表現方法にも禁止・制限を加えた。こうして水野の改革は、坪内逍遙の云う歌舞伎・遊里・戯作・浮   世絵の四角関係を完全に分断した。   事実、この天保十三年の夏、国芳の「飛騨内匠棟上ゲ図」(大判三枚続・伊賀屋板)と国貞の「菅原操人形   之図」(古賀屋板)が、この方針の下、早速手入れに遭っている。容疑はともに役者の似顔絵を画いたとい   うもの。国芳の「飛騨内匠棟上ゲ図」は、浅草の猿若町に移転させられた芝居の建前(上棟式)を画いたも   のだが、「見物商人其外を役者の似顔ニ致し」たという廉で摘発された。(馬琴によれば、両画とも改(検   閲)を受けていない無題出版という)結局、国芳と国貞は板元ともども三貫文の罰金刑に処せられた。(注40)      同年六月十一日、昨年暮れ以来の人情本一件が落着する。板木は破却、製本は焼却。作者為永春水は手鎖五   十日、丁子屋平兵衛等の板元と国芳は罰金五貫文であった。(注41)   なお余談になるが、歌川国貞や柳川重信について、馬琴は次のように記す。   「春画中本之画工ハ、多く国貞と重信ニ候得ども、重信ハ御家人、国貞ハ遠方ニ居候間、国芳壱人引受、    過料差出し候」(注40、「中本」は人情本)   柳川重信は御家人(幕臣)、亀戸在住の国貞は「遠方」ということで、国芳一人だけ罰金刑に服したのだと   いう。御家人である重信は町奉行の支配下にないから、この落着に出てこないのも理解できるが、「遠方」   の国貞の処遇はどうなのであろうか。ちなみに、五月の「菅原操人形之図」の役者似顔絵の件では、国貞も   過料三貫文であったのだが。(注40)   同年六月、今度は合巻が槍玉にあがる。標的にされたのは柳亭種彦作・歌川国貞画の『偐紫田舎源氏』。合   巻の大ベストセラーである。町奉行は板元鶴屋喜右衛門を召喚して板木の提出を命じる。ところが当時の鶴   屋は家運が傾き板木は質に入ったまま、手許は不如意、金策に手間取ったか、辛うじて請け出したのが翌七   月下旬。そのまま町奉行に差し出したが、結局、板木は取り上げられてしまう。(注42)名門の地本問屋、   鶴屋喜右衛門、このあと衰退の一途を辿る。   余談になるが、画工国貞と板元鶴屋が出たついでに、作者柳亭種彦(旗本・高屋彦四郎)の消息にも触れて   おこう。種彦はこの件で譴責処分を受けたが、その譴責の仕方が面白い。「其の方に柳亭種彦と云う者差し   置き候由、右の者戯作致す事宜しからず、早々外へ遣わし、相止めさせ申すべし」(注24)というもの、こ   れは気の利いた沙汰であった。(もっとも町人からすれば、不公平ということになるが)早速、高屋家は居   候の戯作者・柳亭種彦を追い出した。こうして高屋家の家格は保たれた。しかしその直後の七月十九日、種   彦を追いやった高屋彦四郎は死亡する。死因については、病死説・自殺説などもあるが、真相はよく分から   ないようだ。   七月七日   「人情本と唱候者流行致候処、風俗ニ拘り不宜候ニ付、本屋共所持之本并板木は取上ゲ候間、以来売買貸    借決而令停止候事」(注43)   風俗に宜しくないという理由で、再度、人情本の売買及び貸借を禁ずる触書が出る。「今世孝子競」にも   「近年流行人情本止」とある。   同年十一月晦日、さらに追い打ちがかかる。    一 一枚絵の彩色摺は七八編以内、小売値は一枚十六文以内。    一 三枚続以上は禁止。(注44)   錦絵の摺り数は七~八編まで、小売値は一枚十六文以内にせよというもの。参考までに云うと、当時の錦絵   の小売値は、摺り数十三~五編の美人画が三十二文、役者似顔絵が二十四文位。(注45)要するに手間を掛   けないで安く売れというのだ。また三枚続以上は禁止とある。では七賢人のようなものはどうするかという   と、三枚ずつ(これにも一二三・上中下などと印を入れる)二度に分けて改に出し、残りの一枚には一枚絵   と彫り付けよと、かなり面倒なことを要求している。   さらに十二月には、六月四日と十一月晦日の統制令の更なる徹底を求めるとともに、絵草紙屋の見世先の絵   の並べかたや釣るし方に至るまで、実に事細かな指示を出している。曰く「上中下三段共四枚以上堅無用之   事」、上中下三段にして、一段あたり四枚以上は無用。また女絵も幼女に限るべしと念を押している。(注44)   浮世絵界は、天保十二年の末から同十三年にかけて、題材面、技術面、両面にわたって、禁止や厳しい制限   を科せられてきた。題材面で残るはわずかに武者絵・相撲絵・名所絵など、これに頼るほかない。しかしこ   のまま手をこまねいていては、浮世絵師稼業は成り立たない。浮世絵界はこんな厳しい閉塞状況に直面して   いた。そこへ目立たない形で「土蜘妖怪図」が姿を現す。   旗本夫人の井関隆子はこう見ていた。   「かの御咎(みとがめ)有し司、いちはやき政(まつり)事申されつる中に、錦(にしき)絵あるは団扇   (うちは)などに、わざをぎ共の似顔書ことを厳(きび)しう制(せい)ありき。近きころ豊国、国貞、    今も国芳など其名聞(きこ)えたり。此似顔なりかはるわざの度(たび)ごとに害変(かふ)れば、筆    おく間もまれなりしを、止(とゞ)められつればいたう生業(なりはひ)にこうじためり。此春のころ    あやしき絵を南書出たる(云々)」(注4)   (先頃免職になったあの役人は情け容赦のない政治を行いましたが、とりわけ役者似顔絵や団扇絵などを    禁じたのは酷い仕打ちでした。最近では豊国、国貞、今は国芳などが役者似顔の名手、彼らは興行のた    びに画き替えるので、筆を置く間もないくらい急がしかったのですが、禁じられてからは仕事にも困っ    てしまったようです。それがこの春の頃、怪しい絵が出回った)   水野の苛酷な執政が役者似顔絵を禁じたため、国貞、国芳らの生活は一変、生業が立たなくなってしまった。   しかしそれが結局「あやしき絵」(「土蜘妖怪図」)を生み出したという見方である。これは井関隆子に限   らない。大御番の旗本もそう見ていた。   「江戸錦絵は(中略)役者傾城を禁ぜられ、わづか美人絵のみゆるされてより、多く武者古戦の形様を専    らとする中に、去年は頼光が病床、四天王宿直、土蜘蛛霊の形は権家のもよふ(云々)」(注7)   これもまた役者絵・遊女絵が禁じられたため、画くものといえば武者絵しかない、そんな状況の中から「土   蜘妖怪図」が生まれてきたとみている。なお「美人絵のみゆるされて」とあるが大人の女絵は禁止。女児の   み可。   このような認識は市中ばかりではなかった。実は取り締まる側も共有していた。   「天保十二(1841)丑年以来、絵類御取締廉々之内遊女・歌舞妓役者似顔御制禁之御沙汰ニ付、武者・女    絵又は景色之絵類等板元注文受候得共、右絵類ニては、下々市中之もの并在方商ひ高格別ニ相減候故、    国芳義は画才有之者ニ付、奇怪之図板下認候絵類売出し候得は、種々推考之浮評を生候より、下々之も    のとも競買求候間、板元絵双紙屋共格別之利潤相成候」(注34)   (天保十二年以降の絵の取締令の中で、役者と遊女の絵が禁じられたため、武者絵や女絵(幼女)や景色    絵の類の注文しかなく、売上げが大幅に減った、そこで国芳の画才を頼んで「奇怪之図」を売り出せば、    様々な浮説が生まれて、人々は競って買うに違いない、そうすれば儲けも出るだろう)   ここでも、役者絵と遊女絵を禁じたために国芳の「奇怪之図」が生まれたとする。   売り物にも事欠き、生活が立ちゆかなくなった板元たちが、国芳の画才に託した窮余の一策、それが「土蜘   妖怪図」であった。皮肉にも天保改革が「土蜘妖怪図」を生み出したのである。   七 評判・流行   「土蜘妖怪図」の出版後も緊張は続く。天保十四年(1843)三月、国芳・英泉・国貞・貞秀・広重・芳虎た   ちは連名で、役者・遊女・女芸者の絵はもちろんのこと「禁忌・好色本之類」も、今後は一切画かないとい   う誓約書を提出させられている。(注46)浮世絵師は依然として当局の厳しい監視下にあった。   それが八月頃になって「土蜘妖怪図」がどこからともなく評判があがる。   井関隆子も気になって取り寄せて見た。すると確かに、これは並の錦絵ではなかった。   「変化(へんぐゑ)どもいとあまたあらはれたるが、それが顔(かほ)形ち世の常とかはりて百鬼夜行な    どいふ古き鬼(おに)共の様(さま)ならず、今様(やう)めきたる筆づかひあやしともあやし」(注4)   (化け物がたくさん画かれています、ところがその顔かたちが、古画にある百鬼夜行の鬼などと違って、    当世風に画かれているものですから、いよいよ怪しげな感じがします)   「さるは近きころ罪せられたる公(おほやけ)人はさら也、法師のたぐひわざをぎども、あるは町々を追   (おは)れてたつぎにこうじたる男女(をんな)ら、大方かの司に恨みある者ども数しらず書出たれど、    判じ物とかいふらむやうにて、ふと打見るにはえも解(とけ)がたきなむ多かる」   (実は、最近罰せられた役人はもちろん、僧侶や役者、あるいは町を追われて生活に窮した男女など、お    そらくあの役人に恨みをもつ人たちを沢山画いたらしいのですが、判じ物とかいうらしく、ちょっと見    ただけではとても解きがたいものも多いようです)   それであれやこれやの穿鑿が始まる。閏九月十三日、水野忠邦が失脚すると、解放感からか、穿鑿にいよい   よ拍車がかかり、ますます喧しくなっていく。   「えもあるまじきわざながらあまねく世にゝくまるゝ人なれば、今は憚(はゞか)りもなうをかしうなむ」(注4)   (まったくもってあってはならないことですが、(水野は)市中のすべてに憎まれた人なので、(罷免さ    れた)今は遠慮もなく打ち興じています)    水野忠邦の老中罷免後もこの判じ物騒動は暫く続いた。井関隆子の言葉を借りれば、皆で「もて遊びぐさと    なしぬ」という状態であった。    以上が「土蜘妖怪図」をめぐる市井の反応。一方、取締る側の当局はどう見ていたのであろうか。    天保十五年(弘化元年・1844)三月付、絵草紙掛りが作成した市中からの聞き取り(『開版指針』)を見て    みよう。それによると、「土蜘妖怪図」は巷説を「附会(コジツケ)」たものにすぎないと断じたうえでこう記    す。   「諺(コトワザ)にいふ天ニ口なし人をもつて云わしむると申事あれバ、若自然右を案じ又乍承夫を紛敷画候は、    不とゞき至極」(注2)   (天は口をもたぬから自ら話さないが、意志は人の口を使って伝えるという諺がある。もしこれらのこじ    つけを天の声のように紛らわしく画いているとしたら、実に不届至極である)   取り締まる側からすれば、ここが微妙なところで、単なるこじつけだとしながら、一方でその真意を図りかね   ている。児戯に等しいと一笑に付したいところだが、どうやら天からお告げとして画いているようなフシもあ   る。しかしそこのところの見極めがなかなか難しい。   弘化四年(1747)の隠密廻りの報告書も同様のことを述べている。「土蜘妖怪図」を「趣意弁別致し兼候絵」   (考えやねらいのよく分からない絵)としながら、   「何となく御政事向、御役人江比喩いたし候事ニも相聞、以之外不宜筋」(注47)   (どうやら政治や役人を喩えているとの風聞もあり、以ての外である)   「似顔絵よりハ尤不宜筋」   (むしろ禁じている役者似顔絵よりも宜しくない)   という見方をしていた。   余談になるが、「土蜘妖怪図」がお咎めを免れたのは、『藤岡屋日記』によれば、板元が商品を回収し板木を   削ったためという。しかしそればかりではないのだろう。当局側からすれば、絵の趣旨を見極められないため、   児戯か天の声めかしたものかの判断がつかない、それで結局、浮説が出てから対処するほかないのかもしれな   い。また改(検閲)の名主にしても、検閲の段階で、つまり作品が市中に出回る前に、御法度の「時之風俗人   之批判」(注48)を自ら口にするのも憚られる。「趣意弁別致し兼候」だから、ひょとしたら見立て違いだっ   てありうる、それで名主の検閲にもためらいが生ずるのだろう。後述するが、最近名主の検閲が弛んでいると   して、改掛りの変更を検討する町奉行の文書も残されている。(「十 新ジャンルの誕生」注55参照)   さて、さきほど「土蜘妖怪図」は処罰を免れたと記したが、実は諸書の記事には微妙な違いがある。『井関隆   子日記』は「此絵うる事を止められ」と記し、『事々録』には「厳しく絶板せられし」)と記す。これだと絶   板に処せられたという感じがする。だが『寒檠璅綴』の「絶板ニナリテ」の方だと、当局の処分で絶板になっ   たのか、『藤岡屋日記』の云うように、板元自ら削って絶板にしたのかよく分からない。しかもこれが大坂だ   と、話がもっと大きくなって、前述のように、板木と商品は没収焼却、板元は町払い(町追放)、京大坂では   販売禁止とされる。(「五 作者」参照)   お咎めの噂は、板木・商品の処分に止まらず、国芳の身の上にも及んでいる。   「此絵書いましめられぬなど聞えしが、よさまにいひのがれけむ許(ゆる)されぬともきこゆ」(注4)   (この絵かきが逮捕されたなどという噂も聞きましたが、うまい具合に言い逃れしたのでしょうか、許され    たとも聞きます)   逮捕されたがうまく言い逃れたとか、取りようによっては、ずいぶんお上を軽んじた噂である。まあ、こんな   噂が流れるというのも、国芳は権威に屈しないという印象があるからなのだろう。   これも後年のことだが、弘化三年(1846)五月、町奉行の隠密廻りはこう報告している。   「浮世絵師(歌川)国芳と申者、種々出板之内、其頃猫之絵を書候ても矢張役者似顔ニ認(め)(中略)国    芳儀ハ厳敷御察斗をも恐怖不致体ニ相聞」(注49)   国芳は猫の絵にかこつけて禁制の役者似顔絵を画いている、そのうえ町奉行の「御察斗(お咎め)」など少し   も恐れてない様子だと。やはり国芳は一筋縄ではいかないようだ。(この報告書では、国貞(三代豊国)もま   た「極尊大ニ相構」尊大で「多分之絵工代等受取候」とかなり高額な画料を受け取っているとされる)   ともあれ、「土蜘妖怪図」は、図様ばかりか国芳自身の上にも噂が飛び交い、それがますます評判を煽って大   変売れたようだ。国芳の画才に賭けた板元の読みは当たった。「土蜘妖怪図」は売り物にも事欠く板元の期待   に見事応えたのである。   八 売れ行き   それではどれくらいの量が出回ったのか。直接それを示す史料は残念ながら見つからない。ただ大坂での記録   があり、それよると「其絵京大坂へ二千枚づゝ登せしと云」(注6)とある。京大坂へ二千枚づつ計四千枚、   三枚続だから約千三百組である。江戸の方ははっきり分からない。しかし「土蜘妖怪図」は、板元印の有無や   色違いの作品も多いというから、何度も摺られたことは確かだ。絵草紙屋や競り売りなど正規ルートで出回っ   たものはもちろん、店頭から消えた後、密かに高値で取引されたものまで含めると、相当の数が出回ったもの   と思われる。参考までに、少し時代が下がるが、二つの例を見てよう。   五年後の嘉永元年(1848)、玉蘭斎貞秀の「富士の裾野巻狩之図」(大判三枚続・山口屋板)が判じ物という   ことで大評判になった。これが大変な売れ行きで、最初五千組、次ぎに三千組の売上げがあったという。枚数   にすると二万四千枚になる。(注50)   もう一つは国芳自身の判じ物で、嘉永六年(1853)七月刊の「浮世又平名画奇特」(二枚続・越村屋板)の売   れ具合。「七月十八日配り候所、種々の評判ニ相成売れ出し、八月朔日頃より大売れニて、毎日千六百枚宛摺   出し」とある。(注51)   一日に千六百枚ずつとある。これは二枚続であるから一日八百組になる。   「土蜘妖怪図」はどれくらいの期間売りに出されたのであろうか。当初は話題に成らなかったというからその   間は除外する。評判が出て爆発的に売れ始めるのが八月。そして『井関隆子日記』の「今は秘(ひめ)置て売   (うら)ざれば、求めがたし」とあるのが十一月五日の記事。つまり十一月には店頭から姿を消している様子   だ。また『開版指針』には、閏九月(『藤岡屋日記』は冬十月とある)、「土蜘妖怪図」にあやかろうとした   王蘭斎貞秀画の模造版「土蜘蛛」(三枚続)が摘発を受けて、その十月の二十三日には判決が出たとあるから、   これを考慮すると「土蜘妖怪図」も十月の店頭売りはなかったように思う。すると小売りの期間は、およそ八   月、九月、閏九月の三ヶ月を考えられる。日数にすると、約九十日(厳密には九月だけが小の月だから八十九   日)。摺り職人に定休日があったかどうか分からないが、仕事自体は続いたとして、これに嘉永六年の「浮世   又平名画奇特」の一日1600枚を単純に当てはめると、144000枚(4800組)になる。      次に売上げを見てみよう。天保十三年十一月晦日の触書によって、錦絵の小売値は一枚十六文以内と定められ   た。ちょうど「土蜘妖怪図」の改(あらため=検閲)が通った頃のことだ。翌十四年春の「土蜘妖怪図」も当   然一枚十六文、三枚続であるから一組四十八文で売られたはず。上記のように八月以降の三ヶ月で144000枚   (4800組)出回ったと仮定すると、2304000文となる。これを改革で定められた銭相場1両=6500文で換算す   ると、約354両となる。   三ヶ月で三百五十四両。これだけでも凄い売上げだが、実はそれだけではない。先ほど引いた『井関隆子日記』   の「此絵うる事を止められ、今は秘(ひめ)置て売(うら)ざれば、求めがたし」の文には続きがあって、   「求めがたしと聞(きゝ)しを、ある人のつてもて童(わらべ)どもの得てしを見るに」となっている。店頭   から消えて入手困難というのだが、どうやら隠し持ってこっそり売っている様子もある。この私的な取引の中   に、板元や絵草紙屋の在庫が紛れ込んでいる可能性は十分ありえよう。そしてそのときの取引価格が、お上の   求める一枚十六文以上であろうことは言うまでもない。いやどうもとてもそんな比ではないらしい。「絶板ニ   ナリテハ、愈(筆者注、いよいよ)狩野家ノ名画ヨリ尊シ」という証言もある。絶板ともなると価格は桁外れ   にあがる。(注8)   参考までに、どれくらいの高値になるか見てみよう。これは弘化四年(1847)の「頼光四天王之絵」「天上地   獄之絵」など判じ物に関する隠密廻りの報告。      「纔(わずか)三枚ツヾキ之絵、二朱一分位ニも素人同士売買致し候由ニ相聞」(注47)      市中では三枚続が二朱と一分である。一分二朱は3/8両、当時の公定相場(1両=6500文)で換算すると、約   2438文に相当する。改革では錦絵の小売り価格が一枚十六文以下とされているから、仮に十六文としても三枚   で四十八文。それが二千四百三十八文にもなるのである。実に五十倍である。なお上記「天上地獄之絵」とは   歌川貞重(国輝)画「教訓三界図絵」(天保十五年冬刊)をいう。(注7)   絶板処分・販売禁止となれば言うまでもない、そうした噂が流れただけでも、取引価格は高騰する。「土蜘妖   怪図」が絶板処分の噂とともに大坂に着いたとき、制作に旗本が関与しているらしいとの浮説まで加わった。   これは要するに最初から高値で取引するための情報操作なのであろう。また『藤岡屋日記』によれば、板元伊   場屋は回収したとあるが、ひょっとしたらそれは表向きのポーズ、実は裏のルートに流していたのかもしれな   い。   九 余波   当然、「土蜘妖怪図」の評判にあやかろうとするものが出てくる。      「又々同年の冬に至りて、堀江町新道、板摺の久太郎、右土蜘蛛の画を小形ニ致し、貞秀の画ニて、絵双紙    懸りの名主の改割印を取、出板し、外ニ隠して化物の所を以前の如ニ板木をこしらえ、絵双紙屋見せ売に    は化物のなき所をつるし置、三枚続き三十六文に商内、御化の入しハ隠置て、尋来ル者へ三枚続百文宛ニ    売たり。是も又評判になりて、板元久太郎召捕になるなり。     廿日手鎖、家主預ケ、落着ハ板元過料、三貫文也、画師貞秀過料、右同断也」(注1)   天保十四年(1843)の冬、玉蘭斎貞秀の「土蜘蛛」(小形・三枚続)が売りに出された。『開版指針』による   と、こちらの妖怪は国芳のものとは多少絵柄を替えたが、通い帳で質屋の利下げ、座頭で高利貸、亀の子で鼈   甲屋、紋所を使って三芝居、天狗で修験者、達磨で南蔵院、提灯で当百銭を踏まえるなど、ほぼ国芳の二番煎   じ。しかしこの模造版は摘発された。ただし咎められたのは絵それ自体ではなく、改(あらため=検閲)と売   直に違犯があったから。   板元の山本屋久太郎、決められた手順通り、下絵を絵草紙の改掛りに提出して出版許可を取った。ところがこ   れから先が極めて悪質。実は妖怪入りとないもの二種類の下絵を用意していた。改に出したのは無論妖怪のな   い方。そして絵草紙屋の店先では妖怪のない絵柄をつるし、指示を守って一枚十二文、三枚続三十六文で売っ   た。(指示は一枚十六文以内だが、小型だから十二文)一方、妖怪入りの方は店頭には出さず、わざわざ訪ね   てくる者に限って内密に百文で売った。こちらは無届けのうえに一枚三十三文だから明らかに違犯。十月二十   三日、判決がくだり、板元の山本屋久太郎は手鎖二十日(三十日の誤りか)、身柄は家主に預けられ、三貫文   (3000文)の罰金。貞秀も同様に罰金三貫文。(注1『続泰平年表』では五貫文)余談を言うと、この判決は   あの妖怪(耀+甲斐)鳥居甲斐守耀蔵が申し渡した由である。(注2)   さらにこの年、歌川芳虎の「土蜘蛛」が出回る。   「又々小形十二板の四ッ切の大小に致し、芳虎の画ニて、たとふ入ニ致し、外ニ替絵にて頼光土蜘蛛のわら    いを添て、壱組ニて三匁宛ニ売出せし也」(注1)   「わらいを添て」とあるから「土蜘蛛」の春画版である。春画はもちろん非合法。小売り価格は小型十二枚一   組で三匁。銀三匁は当時の相場(1両=銭6500文=銀約65匁)で換算すると、三百文に相当する。判決は以下   の通り。     板元  松平阿波守家中(板摺内職)高橋喜三郎、阿波藩屋敷門前払(追放)     卸売り 糴(セリ)売問屋  直吉    江戸御構(追放)      小売り 絵双紙問屋   辻屋安兵衛 手鎖八ヶ月 咎五十日     画工  芳虎  罰金三貫(銭3000)文   板元は阿波藩の家臣。武家屋敷内は町奉行の管轄外、春画がそこで密かに作られていた。そればかりではない。   実は海賊版にも手を出している。前出、天保十五年(弘化元年・1844)三月作成の聞き書きはこう記す。   「春頃武家方ニて内證板ニ同様の壱枚摺拵、夫々手筋を以て売々致候由ニ候得共、一見不致候」(注2)   (春頃(天保十五年春)、武家方が内密に同様の一枚絵を拵えて、それぞれの手筋(販売ルート)を通して    売買しているとの噂もあったので、探してみたが見当たらない)   しかし見当たらないとは言うものの、こういう噂が出ること自体、武家方の海賊版がそう珍しくないことを物   語るのであろう。「五作者」でも述べたように、この年(天保十四年)の七月、国芳画「駒くらべ盤上太平棊」   (大判三枚続・具足屋板)が出た時も、やはり武家方の海賊版が作られた。(注35)そして今回の芳虎の春画   版「土蜘蛛」もまた武家方の制作。   嘉永三年正月の隠密の報告書にはこうあった。   「当春春画之義出来致し候風聞ハ有之候得共、重ニ山之手軽キ御家人又ハ藩中もの抔、板元摺立とも内職ニ    致し候義ニ付、何分板元突留り不申」   (当春、春画が出回ったとの噂があったが、主に山の手の身分の軽い御家人あるいは藩中の家臣などが、板    元や摺りを内職としているので、板元を突き止めることができない)(注52)   市中に禁じた春画制作を、他ならぬ幕臣・藩臣が密かに作っていた。しかも売り捌くルートまであるらしい。   前述、七月の海賊版のときは、小売りの絵草紙屋、辻屋と加賀屋が摘発され、そして芳虎の春画ではまたして   も辻屋が逮捕。おそらく『開版指針』にいう「夫々手筋を以て売々致候」の手筋とは、その辻屋や加賀屋のよ   うな絵草紙屋を指すものと思われる。どうやら糴売り(せりうり=行商)や絵草紙屋のなかに、武家方の春画   や海賊版を捌くルートが出来ていたと思われる。    十 新ジャンルの誕生   天保十四年(1843)八月以降、国芳の「土蜘妖怪図」が評判を呼んで、図様の穿鑿が始まり、あれこれ風評が   飛び交っていた頃、一方でこういう動きもあった。   「其頃、風評を消さんと四天王并保昌五人ニて、土蜘蛛退治の絵、同画ニて出板いたし候得共、蜘蛛の眼ニ    矢張三ッ巴を画候なり、然れ共、四天王直宿、妖怪の絵は人々望候得共、土蜘退治は売レも不宜候由」(注2)   (「土蜘妖怪図」の風評を鎮めようと、四天王に平井保昌を加えて、土蜘蛛退治の絵を、国芳画で出しては    みたが、土蜘の眼が三つ巴で矢部駿河守を思わせるものの、少しも売れず、人々の望むものはやはり四天    王の直宿に妖怪入りの方であった)   人々は従来と違うものを浮世絵に求め始めた。役者似顔絵も美人画も禁じられた今、武者絵などに活路を求め   ざるをえないが、説話の絵解きのようなありきたりの図様では人気は取れなかった。   「頼光の土蜘蛛の怪も、一つ眼の禿が茶を持出ると見越入道ハ御定りの画也、然ルを先年国芳が趣向にて百    鬼夜行を書出して大評判を取る」   「当世せちがらき世の人気ニて、兎角ニむつかしかろと思ふでなければ売れぬ」(注50)   一つ目の禿(カブロ)が茶を運んだり、金棒や縄を持った見越し入道が屛風ごしに四天王を覗き込むといった図   様では、もはや人気を得ることは出来ない。それを「土蜘妖怪図」は打開した。何だかよく分からないが、あ   れこれ考えさせるような難しい絵柄を持ち込むことによって、人の耳目を集めることに成功した。   少し後年になるが、嘉永元年(1848)、玉蘭斎貞秀の「富士の裾野巻狩之図」(大判三枚続・山口屋板)でも、   やはり同様のことが起こる。従来、富士の巻狩の絵と言えば、仁田(にたん)の四郎が猪に逆様に跨ってこれ   を仕留め、その様子を頼朝が馬上から眺めるという構図が定型とされてきた。実際、この時もそのような絵を   併行して売っていたが、「これは一向うれず」であった。貞秀のものは、確かに富士が大きく画かれ裾野にも   猪がたくさんいるから、富士の牧狩りには違いないが、逆様に跨って猪を仕留める仁田四郎の図様は取って付   けたように小さいし、馬上の頼朝像も見当たらない。そのうえ、よくみると「男躰女躰の形を少々ぎざ/\と   付」けて男体・女体一対の筑波山を思わせたり、大きな築山を配して、その山上には竹矢来を廻らした仮屋を   画いている。筑波・築山・狩屋・竹矢来、それらが暗示するものを穿鑿するとしたら、どう考えても、来年に   予定されている将軍の小金が原の鹿狩り、これしか思い浮かばないはず。(注50)こちらは大当たりで、前述   のようにわずか一ヶ月ほどで八千組(二万四千枚)も売れた。時世の何事かを画中に潜ませないと、どうやら   市中では人気が出ない様子だ。   当時の人々は「土蜘妖怪図」を判じ物という、しかしこの判じ物、葱を四本を画いて地名の「根岸」を想起さ   せるような判じ絵とは違う。また歌麿の「高名美人六歌仙」のように、コマ絵に「竜・蛇・櫓・線香」を画い   て「辰巳路考」と読ませるといった、いわば言葉遊びのような判じ絵とも異なる。   この判じ物は見る側にそもそも解釈を委ねる。ここに浮説が生まれる余地がある。   「不分り之絵柄など差出、人々の目ニ留り、是は何に当たり可申抔(ナド)判断を為附候様ニ致シ成、奇を好候    人情ニ付、新絵出候度毎争て買求、彼是雑説いたし候」(注47)   (よく分からない絵柄にすることで、人々の目に留り、これは何に相当するかなど、判断させるようにする、    すると新奇を好むのが人情というものだから、新作が出るごとに争って買い求め、あれこれ様々な説を生    み出す)   しかし「土蜘妖怪図」以降、判じ物生み出す浮説は穏やかでない。取締り当局が禁止する「時之風俗人之批判」、   つまり時世・人事に関するものである。(注53)当局としても、児戯に等しき慰みものと、一笑に付して済ま   すわけにはいかない。   嘉永三年七月、国芳画の「【きたいなめい医】難病療治」(三枚続・遠州屋板)が出回る。この判じ物は大奥   (御殿女中)や将軍家定の正室(寿明(すめ)姫)、そして老中阿部伊勢守などを諷したとされる。しかもそ   れが格好の「もて遊びぐさ」となったのか、「絵は残らず売切、摺方間に合不申候」で、摺りも追いつかない   ほどの売れ行きを示した。ただ当局の処分はなかった。板元が板木を奉行に差し出したためとされる。もっと   も板木と摺本は没収になった。(注15)   ともあれ、ことここに至っては、諷刺の対象が幕府中枢に向かっている。早速、取締り当局も手を打った。   一ヶ月後の嘉永三年(1850)八月、町奉行は国芳や芳藤、芳虎、芳艶、貞秀等を召喚して、次のような誓約書   を提出させた。   「人物不似合之紋所等認入、又は異形之亡霊等紋所を付、其外時代違之武器取合、其外ニも紛敷、兎角為考    合、買人ニ疑察為致候」もの「世評ニ拘候儀は勿論、板元より注文請候共、如何と心付候廉之下絵決て相    認不申」(注54)   (その人物に不相応の紋を入れたり、異形の亡霊に紋を付けたり、時代違いの武器を取り合わせたり、ほか    のものに紛らわしくして考えさせ、買う人に疑念を起こさせる)もの、あるいは(世の評判に関するもの    はもちろん、たとえ板元より注文を請けても、疑わしく思ったものは決して下絵を画かない)   国芳、芳虎、貞秀の誓約書提出はこれで二度目か。前述のように、天保十四年(1843)三月、役者似顔絵・遊   女、芸者等の女絵・好色本(春画)を画かない旨誓約していた。(注46)   今回のは「紋所・異形の亡霊・世評に拘わるもの」とあるから、これは明らかに判じ物を念頭に置いての誓約   だ。「【きたいなめい医】難病療治」の評判を受けての措置と思われる。   しかしそれでも判じ物が止むことはなかった。   三年後の嘉永六年(1853)七月、またしても国芳の判じ物「浮世又平名画奇特」(二枚続・越村屋板)が評判   になって、様々な浮説が市中を賑わした。   今度は大津絵にかこつけた。例えば、国芳は「鬼の念仏」や「藤娘」を役者の似顔で画いて役者に見立てる。   それを見る側がさらに将軍や幕閣、御殿女中などと解釈する。『藤岡屋日記』の例を見ると、例えば「鬼の念   仏」の場合、これを国芳は嵐音八に見立てる。それを巷間では「十二代の親玉」(将軍家慶)と解釈するとい   った具合。同様に「藤娘」は役者中村愛蔵、これを「新下御台所」(家慶の正室楽宮喬子)または「姉の小路」   (大奥上臈)とする。因みに画題の「浮世又平」は見立てが市川左団次で、解釈は「水戸のご隠居」(水戸斉   昭)。(注51)   判じ物の対象が将軍・正室・大奥上臈・御三家に及んでいる。   実は、これとは全く別な解釈もある。しかしお上の世界にくちばしを入れるという点では共通する。宮武外骨   の『筆禍史』が引用する『続々泰平年表』にはこうある。   「癸丑(嘉永六年)七月国芳筆の大津絵流布す、此絵は当御時世柄不容易の事共差含み相認候判詞物のよし」(注55)   「国芳筆の大津絵」とあるのが「浮世又平名画奇特」。これは「当御時世柄不容易の事共」(当時の容易なら   ざる事態)を判じ物にしたとする。では容易ならざる事態とは何か。『続々泰平年表』は具体的に語らない。   しかしこれを知る手掛かりが『藤岡屋日記』の方にあった。   「右は此節、異国船浦賀渡来之騒動、其上ニ御他界の混雑被持込、世上物騒、右一件を書候ニは有之間敷候    得共(中略)恐多き御方ニ引当、種々様々ニ評を附、判段(断)致申候ニ付、如斯大評判ニ相成候」(注51)   (この度の異国船の浦賀来航や将軍の逝去で世上は騒然としている。(「浮世又平名画奇特」)がそれを判    じ物にしたとは思えないが、(中略)市中では、貴人の方々を当てはめ、種々様々に評を加えて判じたの    で大評判になっている)   これでみると、「容易ならざること」とは、六月三日のベリーの浦賀来航と、同月二十二日の十二代将軍家慶   逝去を指す。藤岡屋由蔵は否定的だが、「浮世又平名画奇特」の中に国家緊急の一大事を読み取る人もいたの   である。   判じ物として「もてあそぶ」対象が、将軍・大奥・老中ばかりでなく、国家の一大事に及んでいる。もはや看   過しがたいというのであろうか、同年(嘉永六年~八月、つまり発売から一ヶ月、北町奉行の井戸対馬守が南   町奉行の池田播磨守にこんな相談をしている。以下、意訳してみよう。   (老中阿部伊勢守から、国芳画「浮世又平名画奇特」について、怪しげな浮説が流布しているとの指摘があ    った。それで調査させたところ、これは改(あらため=検閲)も通っているので、板元・画工とも分かって    いるが、深意があるとも思えないので、取り決め通り吟味はしなかった由である。(ただし怪しからぬ風    聞もあるので)改名主の権限で売買禁止、板木と在庫の品は没収した。近頃、時世の雑説や絵柄のよく分    からぬものを画いて、人々に考えさせ、買い手を競わせるような類の絵が時折出回るが、これは改の名主    がキチンと処理すれば問題はないはず。弘化三年、下絵の改は入念に行い、疑わしいものは町年寄の館市    右衛門に提出するよう通達した。にもかかわらず、今回、このような不分明の絵柄に改印を押し、そのう    え浮説が生じても放置するとは甚だ職務怠慢である。よって絵双紙改掛りの入れ替えを行ってはどうか)(注56)   時の老中、直々の調査依頼である。これは判じ物の影響力が幕閣にまで及んでいることを物語る。もはや判じ   物は児戯に等しい慰みものでは無くなっていた。天保十四年の「土蜘妖怪図」は、まだしも水野忠邦憎しから   生まれてきた側面がある。つまり水野忠邦という個人に対する批判が「土蜘妖怪図」を作らせた。しかしその   後の判じ物をみると、時の将軍や老中は誰であろうと、その地位にいる者が判じ物の対象とされる。「土蜘妖   怪図」の水野の個人批判なら、幕臣の中にもその執政を苦々しく思う人はいたから、距離を取って自ら「もて   遊びぐさ」にすることも一興である。しかし誰であれその地位に対する批判となると、放っておけばやがては   体制批判にもなっていく。そう悠長にもしておれないはずだ。   老中阿部伊勢守は、三年前、国芳画の「【きたいなめい医】難病療治」で、近視眼と諷刺されたこともあった   から、「浮世又平名画奇特」の画工は同じ国芳でもあるし、個人的にもこの判じ物が気になったのかもしれな   い。しかし自ら町奉行に調査を命じたということは、この頃の判じ物に、体制維持の観点から由々しきものを   感じていたのではないだろうか。   この八月(前出阿部伊勢守が南北の町奉行に調査を依頼したのと同じ月)、おそらく前述の阿部伊勢守の依頼   を受けてのものと思われるが、町奉行の隠密回りが国芳の身辺を探索している。調査は多方面に亘り、「浮世   又平名画奇特」の改(あらため)の過程や、狂歌師梅廼家鶴寿(佐七)との関係、家族構成、人柄、国芳の家   の間取りなどに及んでいる。その報告書の最後のくだりに、国芳に不正行為があるはずだと睨んで探索したが、   差しあたり不審なところは見つからないとあった。(注34)   国芳は不正を働いているように見えるが、指摘することは出来なかった。心証は黒だが確証がないというのだ   ろう。国芳はなかなか尻尾を掴ませないのである。国芳は画中に自らの身体は画いても顔だけは絶対に画かな   いという。どうやらこの「浮世又平名画奇特」も同様で、国芳が図様に何かを託したことは明白だが、しかし   その託したものが何なのか、案外見えそうで見えないのだろう。   ともあれ、判じ物を世相を映し出す鏡として受け止める、そういう人々が官民を問わず出現したことは事実で   あろう。   ところで、この錦絵がその後どうなったか見ておこう。『藤岡屋日記』は記さないが、前出、北町奉行・井戸   対馬守が南町奉行の池田播磨守宛に出した文書の中にはこうある。   「深意有之儀とも不相聞侯間、兼て及御相談候通、吟昧ニは不取掛、名主共限先ツ売捌差留、板木摺溜之分    共取集置候様組廻之者より為及沙汰候」(注56)   (深意があるとも思えないので、取り決め通り吟味はしなかった。(ただし怪しからぬ風聞もあるので)改    名主の権限で売買禁止、板木と在庫の品は没収した)   この町奉行の文書では、販売禁止、板木・在庫品は没収。ただ過料(罰金)等には触れていない。   これに対して、宮武外骨の『筆禍史』の引く『続々泰平年表』はこれとは違っていた。   「癸丑七月、国芳筆の大津絵流布す、此絵は当御時世柄不容易の事共含相認候判詞物のよし、依之売捌被差    留、筆者板元過料銭被申候」   販売禁止は上記文書と同じ、だがこちらは筆者と板元とも過料(銭何貫か記載なし、五貫が一般的)に処せら   れたとある。    おわりに   「天保十三壬寅年八月(ママ)、錦絵遊女其外女ノ絵役者絵皆被制禁、同十五、弘化元年ト改元、此比よりそろ    /\女の絵はじまりし也」(注2、八月は六月の誤り)   弘化元年(1844)への改元は天保十五年十二月二日、この頃から天保十三年(1842)六月の出版統制令で禁じ   られた女絵が出回り始めた。水野忠邦の老中失脚が天保十四年閏九月十三日、それから約一年後のこと。途中   の天保十五年六月、水野忠邦が再び老中に返り咲いて、再び恐怖政治へ戻るのかと身構えた人々もいたには違   いない。しかしどうやら水野に往年の勢いはないと見切ったのだろう、禁制の女絵が、権力の出方を試すがご   とく出てきた。面白いことに、ほぼ時を同じくして夜鷹(私娼)もまた復活してくる。(注57)   水野の執政はまだ続いていたが(再辞職は弘化二年二月)、徐々に規制の緩みが進行する。しかし役者似顔絵   の復活は大分遅れた。弘化四年(1847)二月の隠密廻りの「市中風聞書」はいう。   「哥舞妓役者共似顔錦絵の儀は御制度の品ニ候処、昨年の春頃より役者共の名前は認不申候へ共摺出し、去    年秋の頃より甚敷相成、新狂言の似顔を商候」(注58)   隠密の報告によると、役者似顔絵の復活は弘化三年の春ということになる。これは役者の名前を出さない形で   出回った。もっとも復活の時期が異なる史料もある。      「錦絵役者絵の禁ぜられては、武者絵専ら行はれしが、今年にいたり名にはあらはさねど、役者似顔絵ひさ    ぐ事に成たり」(注7)   ここにいう「今年」とは弘化四年(1847)。   また前述の隠密の報告では、弘化三年の春復活、秋から旧に復したかの勢だが、嘉永六年(1853)三月の『藤   岡屋日記』によると、前年、三代目豊国(国貞)が、東海道の宿駅を役者に見立てるという趣向で、役者似顔   絵を売り出したところ、「珍敷故大評判」になったとあるから、嘉永五年当時でもまだ珍しかったのかもしれ   ない。   ともあれ、弘化元年暮れの女絵(美人画)の復活、そして弘化三四年頃から、役者似顔絵の復活、弘化の中頃   から、浮世絵の二つの大黒柱が戻ってきたことは確かのようだ。   判じ物は、天保の改革によって役者絵や美人画を禁じられた浮世絵界が案じた窮余の一策である。いわば緊急   避難措置であった。したがって、それらが復活し始めれば役割を終えて、退場してもよいはずである。しかし   これまで見てきたように、間歇泉のように時折出現して、市中の話題をさらう。浮世絵界は改革によって生じ   た奇禍をむしろ奇貨とした。このあたりが浮世絵の逞しさなのだろう。寄りかかる伝統も権威も持たない浮世   絵は、利用できるものは何であれ、利用して生業の糧とする。   浮世絵の第一義は、当世のものをリアルタイムで画き、市中に提供することにある。その点からすると、当世   の役者絵や美人画を禁じられた浮世絵師たちが、画題をあくまで当世に求め、時世に注目してそれを画こうと   したのは当然といえば当然である。したがって、判じ物は浮世絵の第一義から逸脱したものではない。ただそ   の役割は違う。役者絵は役者とその芸を讃え、女絵は遊女・芸者・町娘の女の美を讃え、名所絵は名所を讃え   る。しかし判じ物は、下々がお上の世界にくちばしを挟み、時に時世を批判するのである。
  


   (注1)『藤岡屋日記』第二巻・弘化元年(1844)記事(三一書房・1988刊)      別添資料に全文あり  (注2)『開版指針』所収「辰三月 絵草紙掛り」の「流行錦絵之聞書」(国会図書館蔵)      別添資料に全文あり  (注3)『没後150年 歌川国芳』展カタログ(2011年12月、森アーツセンターギャラリー)  (注4)『井関隆子日記』中巻(勉誠社・昭和55年刊)      別添資料に全文あり  (注5)「天保改革と浮世絵」岩切友里子著・『浮世絵芸術』№143・2002年刊  (注6)『浮世の有様』十「四三、一勇斎の錦絵」天保十四年十月記事。      (『日本庶民生活史料集成』第十一巻「世相」・三一書房・1970年刊)  (注7)『事々録』大御番某記、天保十五年(1844)冬記(『未刊随筆百種』第三巻所収)  (注8)『寒檠璅綴』浅野梅堂著・安政二年(1855)頃成稿。『続日本随筆大成』第三巻所収  (注9)『五月雨草紙』喜多村香城著・慶応四年(1868)稿・『新燕石十種』第三巻所収      天保十四年(1843)記事。  (注10)『天保雑記』所収「土蜘妖怪図解 錦絵聞書」藤川整斎記      (内閣文庫所蔵史籍叢刊・汲古書院・1983年刊)  (注11)『浮世の有様』十「四四、浜御殿拝観の記」      (『日本庶民生活史料集成』・三一書房・1970年刊)  (注12)『水野閣老』菊地桜痴著・一二三館・明治二十八年(1895)刊      (国立国会図書館「近代デジタルライブラリー」所収)  (注13)『【江戸時代】落書類聚』中巻「意見早字引」及び「苗売り」など。      (矢野隆教編、鈴木棠三、岡田哲校訂・東京堂出版・1984年刊)  (注14)『浮世絵志』30号「史料としての錦絵(六)」古堀栄著・芸艸堂・昭和六年(1931)刊。       また古堀のいう春亭画の文化版「頼光四天王土蜘退治(無題)」(三枚続)とは萩原板       をいうのであろう  (注15)「【きたいなめい医】難病療治」記事『藤岡屋日記』第四巻・嘉永三年(1850)八月記事  (注16)『浮世の有様』十一「二九、水野批判」(注10参照)  (注17)「今世孝子競」(狸穴八丈亭・卯年(天保十四)初秋刊(1843年7月)一枚摺番付)       石井研堂著『天保改革鬼譚』(春陽堂・大正十五年刊)所収。       全文は「一勇斎国芳画「源頼光公館土蜘作妖怪図」(天保十四年癸卯(1843)春刊)解釈一       覧」の参考史料にあり。  (注18)『著作堂雑記』曲亭馬琴記・『落書聚成』中巻所収  (注19)『藤岡屋日記』第二巻、天保十三(1842)、四年記事   (注20)『浮世の有様』九下「七、家斉薨去に付て種々の洒落・狂文」及び 同九下 補註  (注21)『水野忠邦』北島正元著・吉川弘文館、人物叢書・昭和44年刊  (注22)『浮世の有様』十「四四 浜御殿拝観の記」「頭書」(注11参照)  (注23)『続泰平年表』竹舎主人編・嘉永五年(1852)序      (続群書類従完成会・昭和五十七年刊)       天保十四年十二月二十六日付記事 別添資料に全文あり  (注24)『きゝのまにまに』天保十三年(1842)六月記事・喜多村筠庭著     (『未刊随筆百種』第六巻所収・中央公論社・昭和五十二年刊)  (注25)『黄梁一夢』木村芥舟著・明治十六年刊(国立国会図書館・近代デジタルライブラリー)  (注26)『浮世の有様』十「三五 能興行などの世相」(注11参照)  (注27)『洗湯手引草』向晦亭等琳著・嘉永四年(1851)刊      (「国立国会図書館デジタル資料」所収)  (注28)『泥と汗と涙と』「第4回「忍従の日々.各藩の江戸藩邸、準備に追われる.残酷な夏②」      高崎哲郎著・水資源機構広報誌『水とともに』2010年09月号  (注29)『三田村鳶魚全集』第一巻「帝国大学赤門由来」「感応寺の奪還」。      (初出は『日本及日本人』大正八年刊)  (注30)『藤岡屋日記』第二巻、天保十年三月記事  (注31)『浮世の有様』九「五 諸士処罰を蒙る」「八 林肥後守・水野美濃守に関する記事」      「三三 江州一揆」の項  (注32)『梵雲庵雑話』「淡島屋のかるやき袋」淡島寒月著・岩波書店・1999年刊  (注33)『【増訂】武江年表』斎藤月岑著(平凡社、東洋文庫・昭和43年刊)  (注34)「新和泉町画師国芳行状等風聞承探候義申上候書付」嘉永六年(1853)八月      (『大日本近世史料』「市中取締類集二十一」「書物錦絵之部」第二六七件)  (注35)「名主改印相違錦絵組通達之儀ニ付館市右衛門伺調」      (『大日本近世史料』「市中取締類集十八」「書物錦絵之部」第二六件)  (注36)「新旧過渡期の回想」坪内逍遙著・『明治文学回想集(上)』岩波文庫・1998年刊      (初出は『早稲田文学』大正十四年二月刊)  (注37)「絵草紙并人情本好色本等之義ニ付申上候書付」      (『大日本近世史料』「市中取締類集十八」「書物錦絵之部」第二件)    この史料には作者画工名ないので、国文学研究資料館の「日本古典籍総合目録」に拠っ    て特定した。なお春画本には同名の作品が二つあるものがあり、いずれか決めかねるの    で、両方を採用した。したがって、春画の画工名のある作品は正確には十九点となって    いる。  (注38)『馬琴書翰集成』第六巻・天保十三年二月十一日付、殿村篠斎宛書翰・書翰番号-2  (注39)『江戸町触集成』一三六四三(近世史料研究会編・塙書房)  (注40)「飛騨内匠棟上ゲ之図」に関しては二つの史料がある。『藤岡屋日記』第二巻と『馬琴書翰集成』第六       巻(書翰番号-10)。前者は天保十三年五月の出版とし、絶板処分の理由を、昨年末(天保十二年       十一月)に禁じられた役者似顔絵を出版したためとしている。これによると、天保十三年六月四日の       触書(出版統制令)に先立って役者似顔絵が禁じられていたことになる。後者は「役者似顔絵停止ニ       成候間、其人物の頭ハ入木直しいたし」とあるので、六月四日に出た触書後の出版と思われる。ただ       絶板の理由が前者と違い、似顔ではないものの衣裳には役者の紋があり、富本・常磐津の太夫名が載       るなど、役者絵に紛らわしいというのがその理由であった。なお改(検閲)については、前者はその       有無を記さないが、後者は国芳画国貞画ともに受けていないとする。  (注41)『馬琴書翰集成』第六巻・天保十三年六月十九日付、殿村篠斎・小津桂窓宛(書翰番号-6)(柴田光彦、       神田正行編・八木書店・2002~2004年刊)  (注42)『馬琴書翰集成』第六巻。天保十三年八月二十一日付、殿村篠斎宛書翰(書翰番号-8)  (注43)『江戸町触集成』一三六七四(近世史料研究会編・塙書房)  (注44)『江戸町触集成』一三八〇七  (注45)『近世風俗志』喜多川守貞著(別名『守貞謾稿』)巻之二十八「遊戯」      (『近世風俗志』(四)岩波文庫本・2001年刊)      「『田舎源氏』等、その他ともに合巻一紙二冊入、価銭大略百二十四文。毎冊各二十枚なり。二冊入の       表囊にも五、六編摺りの画を用ひたり。一枚画すなはち錦絵、あるひは江戸絵と云ふ物、伊予正(イヨ       マサ)と云ひ、紙半枚摺りなり。美人等十三五編摺の物一枚、価三十二銭ばかり。役者肖像等、わづか       に粗なるもの、一枚二十四銭なり」『田舎源氏』とあるから、天保年間の値段と考えてよいのであろ       う。二冊からなる合巻の値段が124文。錦絵の美人画が32文、役者似顔絵が24文であった。  (注46)「五八 画師請書」天保十四年三月廿九日付      (『大日本近世史料』「市中取締類集十八」「書物錦絵之部」第一七件)       別添資料に誓約文全文あり  (注47)「市中風聞書」弘化四年(1847)五月十三日付      (『大日本近世史料』「市中取締類集二」「市中取締之部二」第二三件)  (注48)『江戸町触集成』一三六四二      「異教妄説等を取交え作出、時之風俗人之批判等を認候類、好色画本等堅可為無用事」とある。  (注49)「市中風聞書」弘化三年(1846)五月十六日付      (『大日本近世史料』「市中取締類集一」「市中取締之部一」第二二件)  (注50)「嘉永元申年九月出板右大将頼朝卿富士の牧(巻)狩之図 三枚続之絵出板之事」      (『藤岡屋日記』第三巻 嘉永元年(1848)記事))  (注51)「嘉永六癸丑年七月 浮世又平津絵のはんじもの」    (『藤岡屋日記』第三巻 嘉永六年(1853)記事)  (注52)「三廻上申書」嘉永三年(1850)正月      (『大日本近世史料』「市中取締類集二」「市中取締之部二」第三三件)  (注53)『江戸町触集成』天保十三年六月四日付・触書番号13642  (注54)「嘉永三戌年八月 錦絵之内人物不似合紋所を付時代違之武器其外取合紛敷儀ニ付調」      (『大日本近世史料』「市中取締類集十九」「書物錦絵之部」第一五一件)       別添資料に全文あり  (注55)『筆禍史』「浮世又平名画奇特」宮武外骨著・明治四十四年刊  (注56) 嘉永六年八月付。『嘉永撰要類集』より      (『未刊史料による日本出版文化』第三巻「江戸町奉行と本屋仲間」「史料編」弥吉光長編)       北町奉行・井戸対馬守が南町奉行・池田播磨守宛に出した相談文書 別添資料に全文あり  (注57)『藤岡屋日記』天保十五年十一月廿七日付記事      「十一月廿七日、今晩より両国ぇ夜鷹五人初て出る也、大繁昌にして五十文宛なりとの評判也」  (注58)「市中風聞書」弘化四年二月      (『大日本近世史料』「市中取締類集二」「市中取締之部二」第二三件)  参考文献  『天保改革鬼譚』石井研堂著・春陽堂・大正十五年刊  『浮世絵志』第三十号「史料としての錦絵(六)」古堀栄著・芸艸堂・昭和六年刊  『柳亭種彦』伊狩章著・吉川弘文館「人物叢書」昭和40年刊  『武江年表』斎藤月岑著・平凡社「東洋文庫」昭和43年刊  『水野忠邦』北島正元著・吉川弘文館「人物叢書」昭和44年刊  『幕末江戸の文化』南和男著・塙書房・1998年刊  図版  ◯『原色浮世絵大百科事典』第四巻「画題-説話・伝説・戯曲-」1981年刊   ・歌川豊春画「浮画源頼光土蜘蛛変化退治図」大判    署名「哥川豊春画」西村屋板・安永年間(1772~1780)刊   ・北尾政美画「無題(大江山酒顚童子)」大判    署名「北尾政美画」泉市板・寛政  ◯『国芳』鈴木重三著・平凡社・1992年刊   ・歌川国芳画「大江山【酒天童子酒エン図】」大判三枚続・    署名「一勇斎国芳画」大黒屋板・文政年間(1818~1829)刊   ・歌川国芳画「源頼光の四天王土蜘退治之図」大判三枚続    署名「一勇斎国芳画」丸屋板・天保九年(1838)刊   ・歌川国芳画「耀武八景 市原野晴嵐」大判三枚続    署名「朝桜楼国芳画」鶴屋板・天保中期刊  ◯『浮世絵 大武者絵展』カタログ 町田市立国際版画美術館・2003年刊   ・歌川豊春画「新板浮絵四天王土蜘蛛退治之図」大判    署名「絵師哥川豊春画」岩戸屋板・安永年間(1772~1780)刊   ・歌川豊春画「浮絵大江山酒呑童子酒エン図」大判    署名「哥川豊春画」西村屋板・安永年間(1772~1780)刊   ・勝川春亭画「無題(土蜘蛛退治)」大判三枚続    署名「春亭画」萩原板・文化中期(1804~1817)刊  ◯『没後150年 歌川国芳展』カタログ 森アーツセンターギャラリー 2011年12月   ・歌川国芳画「源頼光」大判二枚続    署名「採芳舎国芳画」西村屋板・文化十三~四年(1816~7)刊   ・歌川国芳画「飛騨匠柱立之図」大判三枚続    署名「一勇斎国芳画」伊賀屋板・天保十三年(1842)刊   ・歌川国芳画「駒くらべ盤上太平棊」大判三枚続    署名「一勇斎国芳戯画」具足屋板・天保十四年(1844)刊  ◯『菱川師宣展』カタログ 千葉市美術館・2000年刊   ・菱川師宣画「酒呑童子」横大判墨絵    無署名・十八枚組・延宝八年(1680)頃刊   ・菱川師宣画「大江山鬼退治絵巻」紙本著色三巻    下巻署名「元禄五 壬申 四月日 房国菱川師宣画」1692年  ◯「舞鶴市糸井文庫閲覧システム 酒呑童子」   ・奥村政信画『頼光山入』古浄瑠璃本    署名「ゑし 奥村政信」享保六年(1721)刊   ・北尾政美画『絵本大江山』黄表紙    奥付「東都画者 北尾政美」万象亭序・須原屋、永楽屋板・天明六年(1786)刊   ・北尾政美画『絵本英雄鑑』絵本    「画工 蕙斎北尾政美図」前川、河内屋板・寛政三年(1791)刊   ・勝川春亭画『頼光山入一代記』黄表紙    署名「春亭画」二世恋川春町作・森屋板・寛政年間(1789~1800)刊   ・歌川国安画『四天王其源』合巻    署名「国安画」五柳亭徳升作・文政十年(1827)刊  ◯「小田原デジタルアーカイブ」    ・勝川春亭画「無題(四天王土蜘蛛退治の図)」大判錦絵    署名「春亭画」岩戸屋板・文化後期(1804~1817)   ◯「花猫浮世絵美術館」   ・歌川国芳画「大江山福壽酒盛」大判三枚続    署名「国芳画」木屋板・嘉永六年(1853)刊  ◯ 早稲田大学「古典籍総合データベース」   ・歌川国芳画「源頼光公館土蜘作妖怪図」大判三枚続    署名「一勇斎国芳画」伊場屋板・天保十四年(1844)刊   ・歌川貞秀画「富士の裾野巻狩之図」大判三枚続    署名「玉蘭斎貞秀画」山口屋板・嘉永元年(1848)刊   ・歌川国芳画「【きたいなめい医】難病療治」大判三枚続    署名「一勇斎国芳戯画」遠州屋板・嘉永三年(1850)刊  ◯ 山口県立萩美術館・浦上記念館 作品検索システム    ・歌川国芳画「浮世又平名画奇特」大判二枚続    署名「一勇斎国芳画」越村屋板・嘉永六年(1853)刊  別添資料  (注1)『藤岡屋日記』第二巻・弘化元年(1844)記事(三一書房・1988刊)  「最早(ママ)去卯ノ八月、堀江町伊場屋板元にて、哥川国芳の画、蜘蛛の巣の中に薄墨ニて百鬼夜行を書たり、是   ハはんじ物にて、其節御仕置に相なりし、南蔵院・堂前の店頭・堺町名主・中山知泉院・隠売女・女浄るり、   女髪ゆいなどの化ものなり、その評判になり、頼光は親玉、四天王は御役人なりとの、江戸中大評判故ニ、板   元よりくばり絵を取もどし、板木もけずりし故ニ、此度は板元・画師共ニさわりなし。   又々同年の冬に至りて、堀江町新道、板摺の久太郎、右土蜘蛛の画を小形ニ致し、貞秀の画ニて、絵双紙懸り   の名主の改割印を取、出板し、外ニ隠して化物の所を以前の如ニ板木をこしらえ、絵双紙屋見せ売には化物の   なき所をつるし置、三枚続き三十六文に商内、御化の入しハ隠置て、尋来ル者へ三枚続百文宛ニ売たり。是も   又評判になりて、板元久太郎召捕になるなり。    廿日手鎖、家主預ケ、落着ハ板元過料、三貫文也 画師貞秀(過脱)料 右同断也   其後又々小形十二板の四ッ切の大小に致し、芳虎の画ニて、たとふ入ニ致し、外ニ替絵にて頼光土蜘蛛のわら   いを添て、壱組ニて三匁宛ニ売出せし也。    板元松平阿波守家中 板摺内職にて、高橋喜三郎    右之品引請、卸売致し候絵双紙屋、せりの問屋、呉服町 直吉    右直吉方よりせりニ出候売手三人、右品を小売致候南伝馬町二丁目、絵双紙問屋 辻屋安兵衛   今十日夜、右之者共召捕、小売の者、八ヶ月手鎖、五十日の咎、手鎖にて十月十日に十ヶ月目にて落着也。    絵双紙や辻屋安兵衛外売手三人也。板元高橋喜三郎、阿波屋敷門前払、卸売直吉は召捕候節、土蔵之内にめ    くり札五十両分計、京都より仕入有之、右に付、江戸御構也。画師芳虎は三貫文之過料也」      (注2)『開版指針』所収「辰三月 絵草紙掛り」の「流行錦絵之聞書」(国会図書館蔵)  「流行錦絵の聞書   一 天保十二丑年五月中、御改革被仰出、諸向問屋仲間組合と申名目御停止ニ相成、其外高価の商人并身分不    相応驕奢のもの、又は不届成もの御咎被仰付、或ハ市中端々売女の類女医師の堕胎(ダタイ)【俗に子をろし    と云】御制禁ニ相成、都て風俗等享保寛政度の古風ニ立戻り候様被仰渡候処、其後同十四卯年八九月の比、    堀江町壱丁目絵草(ママ)屋伊波屋専次郎板元、田所町治兵衛店孫三郎事画名歌川国芳【国芳ハ歌川豊国の弟子    也】画ニて、頼光(ヨリミツ)公御不例(レイ)四天王直宿(トノヒ)種々成不取留異形の妖怪(ヨウカイ)出居候図出    板いたし候、然る処、右絵ニ市中ニて評到候は、四天王は其比四人の御老中【水野越前守様、真田信濃守様、    堀田備中守様、土井大炊頭様】にて、公時(キントキ)渡辺両人打居候碁盤は横ニ成居、盤面の目嶋なれば、此    両人共邪(ヨコシマ)に有之べく、扨妖怪の内土蜘は先達て南町御奉行所御役御免ニ相成候矢部駿河守様の【但    定紋三ツ巴也】由、蜘の眼巴ニ相成居候、又引立居候小夜着は冨士の形を、冨士は駿河の名山なれば駿河守    と云判事物の由、飛頭蛮(ヒトウバン/ロクロクビ)は御暇ニ相成候中野関翁【播磨守父隠居なり】にて、其比世上    見越したると申事の由、天狗は市中住居不相成鼠山渋谷豊沢村え引移被仰付候修験、鼻の黒きは夜鷹と【市    中明地又は原抔え出候辻売女也】申売女也、長ノ字の付候杓子を持、鱣(ママ鰻?)にて鉢巻いたし候坊主は芝    邊寺号失念日蓮宗にて鱣屋の娘を囲妾ニいたし、其上品川宿にてお長と申飯売と女犯ニて御遠島に相成候も    のゝ由、筆を持居候は御役御免ニ相成候奥御祐筆の由、頭に剱の有るは先達て江戸十里四方御構に相成候歌    舞妓者市川海老蔵、成田不動の剱より存付候由、頭に赤子の乗居候は子おろし、當の字付候提灯は當百銭の    由、纏に相成居候鮹は足の先きより存付高利貸、分銅は両替屋、象に乗候達磨は先達て貪欲一件ニて遠島に    相成候牛込御箪笥町真言宗ニて歓喜天守護いたし候南蔵院の由、其外家業御差留御咎等ニ相成候者に付、市    中好事の者調度、絵草屋(ヱソウシ)屋え、日々弐三人宛尋候得共、絵草紙屋にても、最早売々不仕候、右は    全下説ニ程能附会(コジツケ)風評致候共恐入候事ニ有之候、乍併諺にいふ天ニ口なし人をもつて云わしむる    と申事あれバ、若自然右を案じ、又乍承夫を紛敷画候ハ不とゞき至極のもの共也。   一 其頃風評を消んと四天王并保昌五人ニて土蜘蛛退治の絵、同画ニて出板いたし候得共、蜘の眼に矢張三ッ    巴を画候なり、然れ共四天王直宿(トノヒ)妖怪の絵は人ニ届候共、土蜘退治は売れも不宜候由。右ニ付存付    候哉   一 同年閏九月中の由、間錦(アイニシキ)と唱候小さき絵ニて、四天王直宿頼光公御脳(ノウ)の図、最初と同様    ニて、後え一図土蜘居候図ニて堀江町【右は里俗おやじ橋角と申候】山本屋久太郎板本、本所亀戸町画師歌    川貞秀事伊三郎【貞秀は歌川国貞の弟子ニて前出国芳より絵は筆意劣り候なり】右は下画にて御改を受、相    済候上出板いたし候、右へ二重板工夫いたし、土蜘を除き其跡に如何の妖怪を画、二様にいたし売出し候、    右化物は前書と少々書振を替、質物利下げハ通ひ帳を冠り、高利貸は座頭、亀の子鼈甲屋、猿若町に替地被    仰付候三芝居は紋所、高料の植木鉢、其外天狗は修験、達磨は南蔵院、富百銭の提灯、夜鷹子おろし等、凡    最初は似寄候画売ニいたし候処、好事の者争ひ買求候由、右も同様の御調ニ相成、同年十月廿三日、南番所    に【御奉行鳥居甲斐守也】御呼出の上、改受候錦絵え増板いたし候は上を偽候事不届の由ニて、画師貞秀事    伊三郎、板元山本屋久太郎手鎖御預ケ被仰付、御吟味に相成候、春頃或屋敷方ニて内証板ニ同様の一枚摺拵、    夫々手筋を以て売々致候由に候得共一見不致候」       「錦絵ハ明和二年の比、唐の彩色ずりに習て板木師金六と云もの板木へ目当をつけることを工風して初て創出    す。天保十三壬寅年八月、錦絵遊女其外女ノ絵役者絵皆被制禁、同十五、弘化元年ト改元、此比よりそろ/\    女の絵はじまりし也」    (注4)『井関隆子日記』下巻(勉誠社・昭和55年刊)     (天保十四年十一月五日記事)  「かの御咎(みとがめ)有し司いちはやき政(まつり)事申されつる中に、錦(にしき)絵あるは団扇(うちは)   などにわざをぎ共の似顔書ことを厳(きび)しう制(せい)ありき。近きころ豊国、国貞、今も国芳など其名   聞(きこ)えたり。此似顔なりかはるわざの度(たび)ごとに書変(かふ)れば、筆おく間もまれなりしを、   止(とゞ)められつればいたう生業(なりはひ)にこうじためり、此春のころあやしき絵を南書出たる。され   ど其初は人こゝろ付ざりしが、ある人画書国芳に間(とひ)しに、是は誰(た)そ、かれは何ぞと、絵解(ゑ   とき)聞しより次々いひつぎしかば、世の人珍らしみいみじく求めてもて遊びぐさとなしぬ。此沙汰あまねか   りしかば、此絵うる事を止められ、今は秘(ひめ)置て売(うら)ざれば、求めがたしと聞(きゝ)しを、あ   る人のつてもて童(わらべ)どもの得てしを見るに、稚児のもて遊びの文(ふみ)などにみゆる、源ノ頼光   (みつ)朝臣の土蜘になやまされたる様(さま)、はたかの四天王とか聞ゆる猛(たけ)きをのこどもの宿直   (とのゐ)する様(さま)書て、其かしらの上に土蜘はさる物にてえもいはぬ変化(へんぐゑ)どもいとあま   たあらはれたるが、それが顔(かほ)形ち世の常とかはりて百鬼夜行などいふ古き鬼(おに)共の様(さま)   ならず、今様(やう)めきたる筆づかひあやしともあやし。さるは近きころ罪せられたる公(おほやけ)人は   さら也法師のたぐひわざをぎども、あるは町々を追(おは)れてたつぎにこうじたる男女(をんな)ら、大方   かの司に恨みある者ども数しらず書出たれど、判じ物とかいふらむやうにて、ふと打見るにはえも解(とけ)   がたきなむ多かる。かつ定光、金時などがともがら其面影かのいちはやき司はさら也、ほかも似たるがありと   か。はたそが着たる衣(きぬ)のあやなど、おふな/\其紋どもを、あらはにはあらで紛(まぎ)らはしつけ   など、げにたゞならぬ絵の様也。此絵書いましめられぬなど聞えしが、よさまにいひのがれけむ許(ゆる)さ   れぬともきこゆ。其ころいみじうきびしかりしかば、わざをぎどもの顔こそかゝね、中/\にいましめられた   る人の有様(さま)をまねび出けむ、えもあるまじきわざながらあまねく世にゝくまるゝ人なれば、今は憚   (はゞか)りもなうをかしうなむ」     (注23)『続泰平年表』天保十四年十二月二十六日付(竹舎主人編・嘉永五年(1852)序)      (続群書類従完成会・昭和五十七年刊)  「戯絵に携候者共御咎一件、(堀江町二丁目弥助店)久太郎・重蔵・(貞秀事)兼次郎・(神田御台所町五人組)   長吉、右過料五貫文ツヽ、(室町三丁目絵双紙屋)桜井安兵衛(売徳代銭取上ヶ過料三貫文 右は(歌川)国   芳画、(源)頼光四天王之上ニ化物在之、絵二種々浮絵を書合候、彫刻絵商人共、売方宜敷候二付、又候右之   絵ニ似寄候中、錦絵仕置候ハヽ、可宜旨久太郎存付、最初四天王・土蜘計之下絵を以、改を請相済候後(貞秀   と)見考之申談、四天王之上土蜘を除き、種々妄説を付、化物ニ仕替、改を不請摺上売捌候段、不埒之次第ニ   付、右之通過料申付」     (注46)「五八 画師請書」天保十四年三月廿九日付     (『大日本近世史料』「市中取締類集十八」「書物錦絵之部」第一七件)  「私共儀錦絵・艸双紙絵類重立相認候ニ付、今般左之通被仰渡候    一 禁忌・好色本之類     一 歌舞妓役者ニ似寄候類    一 遊女・女芸者ニ似寄候類  一 狂言趣向紛敷類    一 女子供踊大人ニ紛敷類   一 賢女烈婦伝・女忠節之類   右の廉々、其筋渡世之者又ハ素人より頼請候共、賢女烈婦伝之類、絵柄不相当今様姿ニ一切書申間敷候、其外   都て男女入交り風俗ニ拘り候絵は勿論、聊ニても役者・女芸者ニ紛敷躰無之様、厚心附可申旨被仰渡奉畏、為   後日仍如件    天保十四年卯三月廿九日      坂本町壱丁目 太右衛門店 英泉事 画師 善次郎(印) 家主 太右衛門(印)      田所町久兵衛店      国芳事 画師 孫三郎(印) 家主 久兵衛 (印)      亀戸町友三郎店      国貞事 画師 庄 蔵(印) 家主 友三郎 (印)      同町金蔵店        貞秀事 画師 兼次郎(印) 家主 金 蔵 (印)      大鋸町長七店       広重事 画師 徳兵衛(印) 家主 長 七 (印)      柳町鉄右衛門店 亀次郎伜 芳虎事 画師 辰二郎(印) 家主 鐵右衛門(印)」        (注54)「嘉永三戌年八月 錦絵之内人物不似合紋所を付時代違之武器其外取合紛敷儀ニ付調」      (『大日本近世史料』「市中取締類集十九」「書物錦絵之部」第一五一件)  「嘉永三戊年八月    錦絵之内、人物不似合紋所を付、時代違之武器其外取合紛敷儀ニ付調乍恐以書付奉申上候   一 私共儀錦絵板下認来候処、今日被召呼、右絵類認方御尋之上、一体絵類之内、人物不似合之紋所等認入、    又は異形之亡霊等紋所を付、其外時代違之武器取合、其外ニも紛敷、兎角為考合、買人ニ疑察為致候様、専    ラ心掛候哉ニ相聞、以之外之儀、縦令板元注文有之候共、絵師相慎候得は、如何之絵出板は不相成道理、全    私共心得方不宜故之旨、厳重御察斗受可申上様無之、殊ニ総師共之内、私共別て所業不宜段入御聴、重々奉    恐入候、今般之御沙汰心魂ニ徴し恐縮仕、向後右体世評ニ拘候儀は勿論、板元より注文請候共、如何と心付    候廉之下絵決て相認不申、厚相慎候様可仕候間、是迄之儀は格別之御憐愁を以、御仁恕之御沙汰被成下置候    様、一同奉願上候、尤、今般御沙汰有之候迚、板下頼受候節及断、為差支候様之取計決て仕間敷、何分ニも    御聞済奉願上候、以上      嘉永三戌年八月五日        新和泉町  又兵衛店 国芳事 孫三郎 印                       同人方同居      芳藤事 藤太郎 印                       家主又兵衛煩ニ付代  五人組 伝兵衛 印                       同   安兵衛 印                       南鞘町 六左衞門店  芳虎事 辰五郎 印                                  家主 六左衞門 印                                  五人組 宇兵衛 印                 本町弐丁目 久次郎店 清三郎弟 芳艶事 万 吉 爪印                       亀戸町 孫兵衛店   貞秀事 菊次郎 印                       家主孫兵衛煩ニ付代  五人組 常 吉 印                       同              友三郎 印    南 隠密御廻    定御廻   御役人衆中様」      (注56)『嘉永撰要類集』所収。嘉永六年八月付     (北町奉行・井戸対馬守の南町奉行・池田播磨守宛相談文書)     (『未刊史料による日本出版文化』第三巻「江戸町奉行と本屋仲間」「史料編」弥吉光長編)  「絵草紙改方之儀ニ付ては、度々申渡置候趣も有之候処、近頃取締向相弛候哉と相聞、既此程浮世又平名画奇特   と題号いたし候二枚継錦絵仕、如何之浮説を唱流布致し候由、伊勢守殿より御沙汰有之候ニ付、組廻之者共え   申付、風聞為相礼候処、掛名主とも改済之品ニて、板元並画工等も相分り候え共、素深意有之儀とも不相聞侯   間、兼て及御相談候通、吟昧ニは不取掛、名主共限先ツ売捌差留、板木摺溜之分共取集置候様組廻之者より為   及沙汰候、一体絵類之内、時之雑説又は絵柄不分様相認、人々ニ為考、買人を為競侯様之類、間々有之、右は   掛名主共心附候えは、不取締之儀は無之訳ニ付、下絵改方等弥入念弁別、紛敷方ハ館市右衛門え可申聞旨、去   ル午年同人より為申渡置候処、如今般不分明之絵柄ニ有之を名主共改印いたし、殊ニ彼是浮説を生し候ても差   留候心付も無之段、掛申付置候詮無之、甚等閑ニ付、此上改方之規則申渡侯のみニては、取締相定問敷候間、   一同掛引替候方ニも可有之哉、以後取締方等之儀をも勘弁いたし可申聞も旨、別紙之通、館市右衛門え可申渡   候哉と存候、依之錦絵其外風聞等相添、此段及御相談候     丑八月」  
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