Top          早稲田文学         その他(明治以降の浮世絵記事)  ☆ 明治四年(1871)    ◯『早稲田文学』第25号p14(明治30年(1897)1月3日刊)   〝今年(明治四年)の名人案内に、    戯作 は春水、応賀、有人、魯文    浮世絵国周、芳幾、芳虎、広重、豊国、暁斎    銅版 は玄々堂緑山等五人〟    〈この豊国は四代目・二代目国貞。この「名人案内」は明治三年の上掲「東京諸先生高名方独案内」と同様のもの     と思われるが未詳〉  ☆ 明治五年(1872)    ◯『早稲田文学』第25号p16(明治30年(1897)1月3日刊)   〝(四月)府下に令して、男女混浴、春画売買、及び刺繍を禁ず〟〈刺繍は刺青。他に裸体・性具を禁止〉   〝(七月)此の頃より兎を弄ぶ事はやる〟  ☆ 明治六年(1873)  ◯『早稲田文学』第26号p22(明治30年(1897)1月18日刊)   〝(五月)狂斎、楊橋に於て千枚画を催す〟    ☆ 明治八年(1875)  ◯『早稲田文学』第32号p191(明治30年(1897)4月15日刊)   〝(四月)先年の春画売買禁止令ゆるみて貸本屋必ず二三冊を携ふを嘆ずる者あり〟   〝(六月)『大坂日々新聞』といふ錦絵に妻、妾を殺して其の肉を良人へ薦め自殺すといふ世説を描き出    版停止〟  ☆ 明治二十五年(1892)  ◯『早稲田文学』第25号p28「文学彙報」(明治25年(1892)10月15日刊)※句読点は本HPのもの   〝吉沢の輸出    神田なる吉沢某、屡々新聞紙に広告して、頻に古錦絵古絵本の類を買求む。三四の新聞紙は伝ふらく、    本所辺の一貧民、屑屋の五銭に買はんといひし古錦絵二百余枚と古絵本二冊とを吉沢の許に持ち行きて、    四百余円を得たりと。蓋し吉沢は斯くして買集めたるを何も海外へ輸出すといふ。因りて思ふに、今五    六十年を経ば、黄表紙蒟蒻本はいふに及ぱず、柳亭以下の艸ざうしの如きも、大に騰貴する時あらん、    必竟我が古画の欧米にてもてはやさるゝは、例のジャバニース、クレーズの影響なるべし。     附記     吉沢商店は神田紺屋町五番地にあり。今同店にて錦絵類を買求むる直段を聞くに、古錦絵(江戸絵又は    絵がみ)は古きほど高価にて、一枚二円より最高は三円を出だし。古絵本は一冊八円より最高は二十円    に及び、浮世絵即ち美人画の掛物巻物等はもとより俳諧名びろめ等のすり物も画の美麗なるほど価高し    といふ〟    〈この吉沢商店は、翌明治26年『古代浮世絵買入必携』(酒井松之助編)を出版した浮世絵商。蒟蒻本とは洒落本。柳亭は柳亭     種彦。「艸ざうし」はここでは合巻を指す。この時点では古錦絵1枚が2~3円の由である〉  ☆ 明治二十六年(1893)  ◯『早稲田文学』第41号p242「文界現象」(明治26年(1893)6月刊)   〝古美術品の輸出    (前略)去月末の『読売』によれば、海外にてこの頃最も声価を博するは歌丸浮世絵にて、今は偽物    をさへ続出するに至れり。明治七八年の頃、古仏像の画幅が海外に賞翫せられし時も、同じく偽物を輸    出して巨利貪りしが為、件の輸出は全く絶えたる例しもあればとて、これら売買に従事するものゝ中に    は、私に苦慮するものありとか〟  ☆ 明治二十七年(1894)  ◯『早稲田文学』第76号p54「彙報」(明治27年(1893)11月刊)   〝絵草紙店の近況 も美術界の一現象として報道するの価値あるべし。錦絵石版画、写真石版画、小冊    子類みな世間に連れて戦争に因めい、従来俳優の肖像、新古風俗などを主題とせりし錦絵、今は一変し    て殆ど日清戦争及び之れに縁故ある歴史上の人物事件のみにて、普通の風俗画、肖顔画も多くは戦争芝    居のにて普通の風俗画、肖顔画は目下大店ならでは品切れの姿となれり。錦画(ママ)には上下二種ありて、    下の品は婦幼の眼を喜ばしむるため只管濃彩を施したるもの、上の品は之れに比すれば、趣向用筆共に    やゝ美術的なり。例へば同じく戦争の景を画けるにも、一は只人馬剣銃の縦横する様を写し、他は全幅    の釣合、場面の結構等にも注意せるが如し。又戦争画の局面大なるに随ひて、小国の太孤山沖海戦図六    枚続き、年英の平壌激戦図九枚続き等の大物も現れたり。    石版画はもと/\写真を以て優れるもの故、絵草紙の範囲は肖像画、景色画の小部に止まりたれど、戦    争画行はれ初めしより稍々盛に刷出するに至れり、此にも上下の二等ありて、上等のものは往々名家の    筆に成るを見る。要するに戦争画の実に近きは無論石版の方なれど、概して趣味に乏しきため、錦絵に    消しおさるゝおもむきあり。また一般に錦絵は背景の心を用ふること少なけれど、石版画は此の用意深    し、而して画題が兎角剣銃格闘の一面に傾きて「垂死の喇叭手」「定遠は沈まずや」など裏面の好題目    に及ばざるは二者同轍なり。其他写真石版は原版が絵画の複写なるため、写真の名に副ふもの尠し、又    小冊子にては、端唄、都々逸、はやり唄、仮声独稽古などいへるもの跡を潜め『絵入日清戦記』『ちや    ん/\ぶし』『支那征伐軍歌』『日清韓会話独稽古』のたぐひ之れに代れり。双六、かるた、落話集、    謎づくしの如き、はた日清事件に因みて仕組めるが多し〟    ☆ 明治二十八年(1895)    ◯『早稲田文学』第98号p462「彙報」(明治28年(1895)10月25日刊)   〝先ごろ美術育英会は麹町区有楽町三井集会所にて浮世絵展覧会を開きしが凡て二百五十点、中につき黒    田侯爵の所有にかゝる菱川師宣筆浮世絵人物巻物、津軽伯爵の所有にかゝる岩佐又兵衛筆、浮世絵人物    三幅対等は殊に逸品なりしよし〟      ◯『早稲田文学』第100号p524「彙報」(明治28年(1895)11月25日刊)   (橋本雅邦の浮世絵評)   〝近ごろの浮世絵の概して繊弱なるは一は其の筆のはらを使ふて健腕直筆を用ひざるによれり、故に浮世    絵改良の一着手はまづ線の繊弱なるを嬌めて健腕を用ふるにあり云々〟  ☆ 明治二十九年(1896)  ◯『早稲田文学』第1号p21「彙報」(明治29年(1896)1月5日刊)   〝浮世絵派    北斎、暁斎、芳年等の逝きしこのかた、浮世絵派には僅々一二家を除かば、これと名指すほどの名家も    なく、まづ衰微の状態なり、殊に現時の浮世絵家の用ふる線はます/\繊弱に流れ、所謂懸腕直筆を用    ふるもの殆ど無きに至れり    蓋し現時の浮世絵家は、多くは新聞雑誌及び小説の挿絵、口絵等に筆を援れるものなれば、自然俗尚に    投ぜんとするに至り、随うて其のます/\細𧸐繊巧に流れ、毫も気力なく風韻なき薄ツペラのものとな    れるは自然の結果ならんか、(本紙第百号「彙報」欄内「近時の二大画伯」参照)尚浮世絵派の現況に    つきては他日改めて詳報することあるべし〟    青年画家    近時青年画家中鏘々の名あるものは、梶田半古、寺崎広業、村田丹陵、山田敬中、池田真哉、島崎柳塢    等の諸氏なり、此等一団の青年画家、和合して青年絵画協会といふを組織し、岡倉覚三氏これが会頭た    り、この頃さる美術鑑賞家、青年画派の消息を伝へていはく     容斎派と浮世絵派との中間にあるもの今の大部分を占めたり、青年絵画協会の一般の傾向よりいへば、     むしろ東京四條派ともいふべくや、流名(ママ流石?)に錚々たる青年画家の会合なれば、何となく活気に     富み且つ筆の達者なる、実に感すべきものもあれど、其の未だ浮世絵の小区域に止まりて広く他に及     ばざる、又新聞の挿絵などに従事する連中の兎角何事にも勢力を占めんとする現時の状態なれば、此     の会の未だ刮目すべき事業なき異しむに足らざらんか、要するに今の青年画派にして今少しく着眼を     高く大きくせずば、将来の望なからん云々〟  ◯『早稲田文学』第2号p64「彙報」(明治29年(1896)1月21日刊)   〝絵艸紙屋の店頭に立ちて目につくは錦絵の変遷なり、維新以前に錦絵の大部分を占めし芸娼妓の美人画    の著く減少せしこと、芝居の流行の甚しきにも似ず役者絵の割合に尠くなりしこと、美術石版と称する    古画伯(応挙探幽等)の名画の翻刻流行すること、石版肖像画の殖えしこと、幼年者流のもてあそびに    供する小冊子類のいちじるしく殖えしこと、遊芸独稽古用のクダラヌ書類のおびたゞしきこと、『造化    機論』やうの書類今のあまた陳列しあること、錦絵の彩具及び紙質のわるくなりしこと、浄瑠璃本稽古    の売足よきこと、其の他は今思ひいださず〟    〈「幼年者流のもてあそびに供する小冊子類」とは子供向け絵本のいわゆる「赤本」。『造化機論』の「造化機」     とは生殖器のことで、明治9年(1876)図版入りで出版されて以来、隠れた性のベストセラーであったようである〉  ◯『早稲田文学』第4号p133「彙報」(明治29年(1896)2月15日刊)   〝橋本氏が浮世絵に対する意見といふを聞くに、曰はく     絵には一定の規則なし、洪繊細大、如何なる方法もて描くも可也、近ごろの浮世絵師が浮世絵といへ     ば、一も二もなく軽き薄べらのものに定まれりと思へるが如きは如何ぞや、予はこれに代ふるに今少     しく重々しき高尚なる画を以てせんを望むもの也、而してしかせんにはまづ線の改良より着手せざる     べからず、線に定線なし或は勇士、或は美人、画題の変ずるにつれて、其の線をも剛又柔ならしむべ     し、然るに今日の浮世絵師は勇士と美人とを問はず、一概に繊弱針の如き線をもて描き去らんとす、     誤らずとせんや        云々と、今日の浮世絵の一大弊処は其の線のハラを用ひて線の繊弱なるにあること皆人の知る所、あは    れ又兵衛、師宣の懸腕直筆はまた今日の浮世絵家中に見るを得ざるか〟    〈橋本雅邦の見解では、当時の浮世絵の悪弊は「勇士と美人とを問はず、一概に繊弱針の如き線をもて描き去らんとす」ると     ころあり、即ちこの千篇一律のごとき描線の改良こそまず取り組まねばならない緊急の課題だというのである〉  ◯『早稲田文学』第8号p288-290「彙報」(明治29(1896)年4月15日刊)   〝新聞の風俗画    所謂小新聞の続き物を挿む事は以前より行はれて、こも一種の風俗画たるに相違なしと雖も、其の画工    は皆浮世絵師と称する一派に属し十中八九はたゞ歌川風の余睡を舐るに過ぎざりき、故芳年出でゝ西洋    の写生を折衷してより、現に其の高弟たる年方は『やまと』に健筆を揮ひ、同じき年英は『朝日』に従    事し、故永濯の衣鉢を襲げる永洗また『都』に筆を揮へり、此等は地歩を歌川以外に逸して、明治の新    風俗を描くに拙なからずと雖も、其の画すでに続き物の賓たり、画題は本文に依りて択ばざるべからず、    小説家の図案に支吾せざる限りに於て意匠を設けざるべからず    続き物が御家物なれば挿画も上下を着けたる人物ならざるべからず、本文が時代物なれば、其の図も兵    馬甲兵のさまならざるべからず、よし其の続き物が世話物なるにもせよ、作者の立案必ずしも今の風俗    と矛盾することなからんや、而も画工は此の矛盾に盲従して筆を執らざるべからず。されば続き物も挿    画は画手をして文章と独立して、現代の風俗を現はすこと能はざらしむ    加之、只管粉本に齷齪して現代の風俗などには殆ど重きを置かざる浮世絵師の多数には、如何に画題と    意匠との自由を与ふるも、今日の風俗画として見るに足るべきを製出するの手腕を欠けり。    見よ、浮世画師の最も得意とする錦絵に於ても斬髪物を描けるは戦争絵もしくは如何はしき名所絵の外    殆ど皆無にして、大奥の女中にあらざれば則ち役者の似顔、歌麿が美人絵の模写にあらざれば、則ち容    斎が武者絵の剽窃のみ〈容斎は菊池容斎〉    たゞ近日所謂中新聞若しくは大新聞に、続き物の挿画にあらざる純粋の風俗画を載することゝなれるは    めでたし、其の画風も小新聞の浮世絵とは別にして、純粋の西洋風もしくは西洋風を折衷せる略画の多    きは、浮世画の風俗画に適せざればならん、素より花やかなること、婀娜なることに於ては在来の浮世    絵に劣り、又往往写生又はをかしみを主として気韻も筆力も殊に版のよからぬため乏しけれど、観風察    俗の料として屡々取るべきの価あり    戦争の当時は『日々』『日本』等まで此種の画(特に戦争に関するものを挟みたりしが、近来は見当ら    ず、たゞ『国民』は例に依て米僊一派の筆に成れる都鄙の景色、地方の風俗などを掲げ、「露店素見」    と題して府下の露店のさまを続け出せる、面白し、『時事』には往々時弊を諷せる戯画を出だし、『毎    日』は重に景色絵を掲げ、『読売』の「意外千万」は社会下層の時事とを対偶し、例へば古下駄が歯磨    き箱になる所と雨宮某が獄中にて論語を合せたる如き面白し、『報知』の「嘘の世の中」「裏と表」な    ども矢張これと似寄りたる趣向なり、尚同紙は広告欄の輪郭に風俗画を加へて、日々新しきものと挿し    替ふるは工風也〈米僊は久保田米僊〉    されど今日の風俗画は尚幼稚なり、其の運筆上の技倆は措きても、観察の浅き、滑稽の露なる、見るに    足るもの尠し、洋画家某氏慨然として曰く     今の風俗は実に奇態なり、西洋の事物が多く輸入されたる傍、一方に於ては旧時代の事物存す、例へ     ば洋服に下駄を穿くといふが如き不調法は今の風俗のいづれの部分にも見る所にして、而かも此の不     調和は追々に消え行くべきものなり、されば今日に当りて仔細に此様を描がゝずんば終に駟も及ばず     の憾みあるべし。悲しいかな、浮世絵師には此緊急なる好画題あることを自覚せるものなく、洋画家     はた日本の風俗画に熟せず、現に余の如き数々之を試みると雖も、髷の形、衣服の着こなしなど、ト     テも浮世絵に及ばす、さりとて東西画風の折衷を待つまでには、今の風俗は跡方もなくなるべし、云     々      ポンチ画の如きも西洋に比べて其の諷諧の浅薄なること殆ど同日に論じ難し、日本にても昔しは鳥羽     僧正の如き名手ありたり、之を思へば御同前に今の画家ほど腑甲斐なきものはあるまじ云々        蓋し此の嘆を発するもの、他にも尚多かるべし〟    〈「支吾」は抵抗。「駟も及ばず」は追いつけないの意味。当世風俗を写しだすことこそ新聞の挿絵の使命、それを担う画工     の殆どは浮世絵師だが、芳年とその門弟および永濯門弟の永洗がなんとかその使命に応えているものの、その他は歌川派の     遺産を粉本視して泥むばかり、現代の風俗などには無頓着だというのである。それに応じて、洋画家某はいう、文明開化以     降、和洋の風俗が混在するという世にも稀な当世なのに、肝心の浮世絵師がそのことに無自覚で活写しようとしない、ある     いは活写するに足る描法を追求しようとしない。では洋画家にそれが可能かというと、これが残念ながら浮世絵にも及びつ     かない、しかし世相はめまぐるしい、手を拱いているうちに今の風俗は跡形もなくなってしまうだろうと〉  ◯『早稲田文学』第9号p314「彙報」(明治29(1896)年5月1日刊)   〝浮世絵の現況は如何、芳年、永濯の二家逝きしこのかた、所謂老株はひたすら頑冥固陋に安じ、また青    年家は徒に異を樹て派を争ふの風あり、而してこれと共に浮世絵なるものます/\其の旧面目を失はん    とす    かの新聞の続き物若くは小説の口絵等に筆を執るものは、小説家の意匠に制せられて、自由に其の技倆    を揮ふを得ず、また此等の箝制なしとするも、彼等の多くは唯古粉本の模写にとゞまり、更に新意匠を    以て明治の風俗を描きいだせるものゝ如きは、絶無の姿なり(本紙前号彙報欄雑界参照)    此のごろ彫刻家高村光雲氏が、所謂江戸絵の現状に対する説を『読売』誌上に見る、其の要にいふ、       今の錦画を好む人は、多くは古画を賞して新画に身を入れず、注文主たる板元最も昔と相違せり、近     くは三代豊国の存せる頃までは、其の注文主たる板元は、自身に下図を着け、精々細かに注文して、     其の余を画工に委すの風なりしが、今は注文者に寸毫の考案なく、画工に向て何か売れそうな品をと、     注文するのが常なり、随うて画工も筆に任せてなぐり書きし、理にも法にも叶はぬ画を作りて、識者     の笑ひを受くるに至る(中略)、要するに、小梅堂の古実に乏しきは、注文人の放任に過ぎずとする     も、国周翁の滅茶/\なるは、翁自ら責なくばあらず        此の勢もて推すときは、今後十年を出ずして、東錦といふ江戸絵なるものは、単に玩具屋の附属品とな    り、終に美術としての価値なきに至るべしと    〈高村光雲の言は辛辣である。小梅堂とは梅堂小国政のことであろうか、彼の絵が故実にもとるのは注文する板元側の責任だ     が、国周のこの方面の目茶苦茶ぶりは国周自身に責任があると断じている。この「彙報」記事は明治29年時点のものだが、     「今後十年を出ずして、東錦といふ江戸絵なるものは、単に玩具屋の附属品となり、終に美術としての価値なきに至るべし」     という予言は見事に的中する。明治の当世風俗を活写するに足る「新意匠」を追求しようとしないものは、凧絵や羽子板の     押絵のような粉本で事足りる玩具絵をなりわいとするほかない時代がやってきたのである〉    ※以下の(ヨミガナ)は本HPが施したもの   〝思ふに、浮世絵の本領とする所は、当社会の風俗を活写するにあり、美術としての価値は姑(シバラク)く    措き、浮世絵にして当社会の風俗を忠実に写すことなく、所謂全くの「絵そらごと」たるに止まらんか、    浮世絵としての価値なきものなり、此の点において、浮世絵は一脚を実用美術に投ぜるもの、即ち社会    の時様風尚を描出するが、其の主なる目的たる也、所謂歴史画も此の意味において浮世絵中に摂すべき    ものなり    浮世絵の第一義は、社会の状態を描くにあり、之れを彩む(ママ)るに、縹渺たる美術的光彩を以てせば、    浮世絵の能事了れるに庶幾(チカ)し、かの又兵衛、師宣、長春、祐信諸家の筆は、優に此の妙域に詣(イタ)    れるなり、然るに今日の浮世絵を見るに、啻に美術としての価値を闕けるのみならず、忠実に社会の風    俗を描写せるものすら幾ど稀なり、或は事実を錯(カザ)り、一時の妄想に成れるものまた尠からず、頃    日橋本雅邦氏が浮世絵に対する意見を聞く、曰はく    〈「能事畢(オハ)れり」はすべきことは全て尽くしたという意味〉          浮世絵は一般に婦人小児に見せるものゆゑ、成るべく理のつみて形の整へるを善とす、理屈に合はぬ     虚偽を描きたるものは、婦女子に取りて甚だ危険なるものなれば也、もとより画としては、更に此の     以外に出でゝ、筆力風致等に重きを置かざるべからざれど、浮世絵としては、むしろ形の無理のなき     やう整へるを要す    と、又今の浮世絵に靄然たる風趣の掬すべきなきを論じて曰く     今の浮世絵師には、所謂芸人風、即ち意気がるといふ風残れるが故に、筆端に変化なく、また高尚な     る画も出来ざるなり、総じて胸に或主義といふが如きものありては甚だ筆の邪魔となるものなり、虚     心坦懐が肝心なり、美術に所謂高尚といひ、品位といひ、貫目といふは,詮じつむれば美術家の品行     (心がけの意?)に帰す、品行を正しくし、物の意味を重んじ、澄心以て之れを手椀に運用せば、お     のづから高尚なる作をいだすを得べし、よし其の筆は拙なりとも,一種高尚なる趣を有するを得べし    此の如く画としての品位は貴ぶべきものなれど、浮世絵の如きにありては、愸(ナマジヒ)に事実を誤るの    画を作らんよりも、理のつみたる方をよしとす、これむしろ穏健にして浮世絵の本領に合へるものなり、    云々と、又曰はく          所謂品位もしくは意味といふものに二義あり、一は土佐、狩野派等の筆意にして、高く、一は役者の     肖顔絵の心持にして、卑し、今の浮世絵家の多くは、役者の肖顔絵を書く心持にて、何物をも描くが     故に、筆に癖ありて面白からず、絵画の能事は十二分の力もて、癖のなきものを描くにあり、然(シ)     かせんには、平常心を養ひ、機を練り、一旦物に応ずれば、或は婉柔、或は剛克、自由に其の筆を変     化せざるべからず、常に力を肚裡に醞醸し、一旦事に会へば、直に全力を傾倒して之を描く、これ古     大家成功の秘訣なり云々       詩人に己を自由ひ変化し得る性能なかるべからざるが如く、美術家はた之れを要するなり、氏はまた形    即ち理屈を重ずると、物の趣を描くの心持ちとが、所謂技術家と美術家との岐頭なることをいひ、二者    をかねたる天才の出でん時、二者の争(アラソヒ)熄(ヤ)むべしと説きたり、さて橋本氏の論旨と、おのづか    相通ずるふしありて面白きは、浮世絵家後藤芳景氏の説なり、氏このごろ語りていふ         浮世絵の真意義は、写生の画になほすにあり、然れども今日の急務は、まづ写生に専心するにあり、     徒に畸状妄想をゑがきて、実際を離るゝは人を誤るもの、写生に熟達するに至らば、おのづから美術     の秘義の写生にあらざるを悟らん        と、さもあれ、所謂浮世絵の写生的傾向は、今四五年前かたより、一般に隆興し来たれるは、事実也、    而して容斎派及び西洋画は、明に此の傾向を誘致するの一縁たりしなり、芳景氏の語る所のよれば、所    謂役者の長顔(ながづら)を描くは、田舎むきにて、売れ行きわるし、是れと異なりて写生画の方は、一    般に景気よしといふ、されば浮世絵としては、其の品位よりいふも、形状よりいふも、立派なものは甚    だ尠けれど、四五年このかたの傾向は、概して善き方なりといふも過言にあらざるべし    さて、現今の浮世絵家として世に知られたるは、桂舟、永洗(永濯の門人)年方、年英(芳年の門人)    月耕、芳景の諸氏にして、此等諸氏は多くは新聞の続きもの、又は小説の口絵等に筆を執れり、或は実    技を以て勝り、或を意匠を以て秀で、或は着色に巧なるもの、疎画に長ぜるものなど、おの/\其の特    長ありといふ、芳景氏の語る所によれば、今の浮世絵家の筆は甚だ乱れたり、浮世絵家といふも、円山    派の筆をもたざるもの殆ど無く、円山派の画家また浮世絵の筆を執るもの尠からずといふ、省亭、米仙    は浮世絵に入り、月耕、永洗等はた絹本に筆を執れり、此の頃某浮世絵家はいふ、          米仙、省亭、華村、蕉窓諸家は、皆浮世絵を以て世に出でたり、否浮世絵の艶麗を藉(カリ)るにあらさ     れば、自ら世に售(ウ)る能はざりし也、彼等は浮世絵を利用し、自己の踏台として世に出づるを得たり     し也、されば今日に至りては、彼等は最早浮世絵をかゝざるべし、純粋の浮世絵家中には豪傑あれど、     彼等の如き円滑なる交際的技倆を有せず、唯空しく社会の一隅にくすぶり居る也        と、因(チナミ)に記す、近時錦絵の顔料甚だ悪しくなり、外国へ輸送するものゝうち、赤道直下に至れば全    く褪色するものあり、されば永遠に保存せんと欲する人は、少しも彩色を加へざる素画を買ふといふ〟    〈某浮世絵師の云う「純粋の浮世絵家中には豪傑あれど」交際が苦手で「唯空しく社会の一隅にくすぶり居る」絵師とは、芳年     を欠いた今、誰を念頭に置いているのだろうか。また某浮世絵師とはこの文章の流れからすると後藤芳景のような気がするの     だが、どうであろうか〉  ◯『早稲田文学』第18号p157「彙報」(明治29年(1896)10月1日刊)    (本文改行なし、本HPが施した。また読点を若干おぎなった)   〝小説の挿画は作者の筆にて悉し難き所を補ひ、作中の人物及び事柄を有形に現はし、読者の目を悦ばし    むると共に、一層感動を深からしむるが本旨なるべし、然るに、近頃は殆ど見世物の招牌に等しく、極    彩色の口絵は、客を釣る店肆が商略の方便たるが主たるに似たり、されば、作中の事柄と全く無関係の    も、往々見受けらる、此等は一方より云へば弊なれども、粗末なる挿絵を以て満足せる往年のに比して    は、兎に角、著き進歩には相違なし、    今記臆に探ぐりて、過去二十年間、小説の挿画(口絵も含む)が奈何の変遷を経て、今日に到れるかを    見ん、今精神の取調べをなすの遑なければ、只大体の趨勢を窺はんに、    仮に第一期を明治十年前後に据ゑ、仮名垣魯文、山々亭有人(採菊)、高畠藍泉等が全盛時代より起算    せんに、当時は、例へば魯文が『鳥追阿松』某が『五月雨日記』など云ふ、漢字まじりに傍訓を附せる    一種の草双紙流行し、之れに国周等が筆に成れる似顔絵の口絵挿絵を加へたり、いづれもいと粗末なる    ものなりき、彼の魯文、芳幾提携の時代も此の前後なり、    〈合巻『鳥追阿松海上新話』久保田彦作・仮名垣魯文著 周延画 錦栄堂(大倉孫兵衛)版 明治11年刊。      合巻『五月雨日記』花笠文京著 芳年画 絵入自由出版社 明治16年刊〉    さて新聞雑誌等の小説に挿絵を加ふること盛んになりて、やう/\挿絵に一変革を来たし、引続いて芳    年、永濯(少しおくれて)月耕、国松、吟光等の名、作者の名と共に現はれそめたり、魯文、藍泉、染    崎延房、松村操諸氏の著の頻出せしころなり、而して当時は尚幼稚なる木版時代なりき、    〈仮名垣魯文・山々亭有人(条野採菊)・高畠藍泉(転々堂主人・三世柳亭種彦)・染崎延房(二世為永春水)・松村操(春輔)     いづれも明治十年代まで活躍して戯作者。以上いずれも木版挿絵〉    其の後明治十七八年頃、矢野龍渓氏が『経国美談』出でゝ、広く愛読せらるゝに及び、泰西の文学趣味    の輸入と共に、小説の挿絵にも一変革を来たし、是れより石版画時代となりぬ、    坪内逍遥訳『慨世士伝』、牛山鶴堂『梅蕾余薫』、井上勤訳『三十五日間空中旅行』『狐の裁判』など、    いづれも石版画也、藤田鳴鶴訳『繋思談』、尾崎学堂著『新日本』、末広鉄腸著『雪中梅』『花間鶯』、    服部誠一訳『二十世紀』など皆此の系統に属す、    〈石版挿絵『経国美談』明治16-7年刊・『慨世士伝』同18年刊・『梅蕾余薫』同19-20年刊・『三十五日間空中旅行』同     17年刊・『狐の裁判』同17年刊・『繋思談』同18年刊・『新日本』同20年刊・『雪中梅』同19年刊・『花間鶯』20-21年     刊・『第二十世紀』同19-21。翻訳物かいわゆる政治小説〉    石版時代に少し先立ちて、織田純一郎氏訳『花柳春話』其の他銅版を用ひたるものありて、石版時代ま    で一隅には尚行はれたり、木版画の如きも当時尤も流行せる予約出版の翻刻物には用ひられ、兎屋本ま    た之れを挿入し、木版は石版画全盛期みの衰へたるにあらず、亜鉛版画の如きも石版と相並びて一側に    は稍々用ひられたれど、勢力を得るに至らず、今吾人の記臆せるは僅々に過ぎず、関直彦氏訳『春鶯囀』    などは其の一例なり、小説以外にて云へば『団々珍聞』尤も之れを用ふるを得意とせり、斯く銅版画、    亜鉛版画なども多少は小説に用ひられたりきと雖も、石版画の如く特に一時期を劃するに足るものにあ    らざれば、之れを石版時代に含めて見るを穏当とす。    按ずるに、石版が浮世絵を圧倒して、小説壇に跋扈するに到れるは、従来の戯作者以外、即ち学者政治    家など云ふ方面より、小説に指を染めたる紳士の力に由れるが如し、此等の人々は、自家の品位を保た    んが為めに、在来の小説と同一視せらるゝを恐れ旗幟を明にする必要より、先づ浮世絵を擯けたると同    時に、此等の人々は、多く洋学を修め、洋画にも目馴れたれば、さてこそ石版画採用の機運をつくるに    至れるなれ、    〈『花柳春話』明治11年刊。兎屋本とは望月誠が出版した活版印刷本。前金で予約すると値引をしたり、景品を付き販売     をするなど特異な経営で有名だった(石塚純一論文「「うさぎ屋誠」考-明治初期のある出版人をめぐって」(比較文化論     叢・札幌大学文化学部紀要・2000年刊)『春鶯囀』明治17年刊。明治10年創刊の『団々珍聞』は時局風刺の戯画入り週刊     雑誌〉    春の舎主人、此の時期に際し『書生気質』『妹と背鏡』『内地雑居未来之夢』などを著はし、国峰、年    恒、吟光等の筆に成れる彩色摺の口絵、長原孝太郎、桂舟、金光諸氏の挿絵などを用ひ、読本風の木版    画復興を試みたれど、未だ勢力を得るに至らざりき、続いて須藤南翠『改進新聞』に拠り、『緑簑談』    などに文名嘖々たるに及び、周延南翠の為に描けるも別に花々敷ことなし、    〈春の舎主人は坪内逍遥。『書生気質』国峯・葛飾(為斎)・長原孝太郎・桂舟画 明治18-9年刊・『妹と背鏡』松斎吟光画      同18-9刊・『内地雑居未来之夢』年恒画 明治19年刊。『改進新聞』は明治17年『開花新聞』(前身『有喜世新聞』)を改     題。南翠はその記者を経て小説を執筆。政治小説『緑簑談』は春陽堂版の挿絵豊宣画 明治19年刊(国立国会図書館デジタルコ     レクション)。「周延南翠の為に描ける」ものは未詳〉    明治二十年前後に及び日本画いたく声価を高め、古画珍襲の風の熾んなりしと共に、『国華』以下絵画    の雑誌の出づるもの尠なからず、是れ共に一度衰へたる木版画の彫刻及び摺りかた著しく進歩し、加ふ    るに青年浮世絵師等の筆も漸く練熟の域に進めり、    此の機(明治二十二三年頃)に乗じ、春陽堂主人、紅葉が『伽羅枕』以下の作を出版し、口絵に二十度    三十度の極彩色木版画を附するに到り、小説の挿絵はこゝに面目を一新し、復興の実を挙げ得たり、紅    葉及び春陽堂が功没すべからず、爾来春陽堂は勿論、博文館、嵩山堂、桃華堂などより出づる小説も殆    ど之れに傚はざるはなく、之れに彩筆を揮へるは省亭、桂舟、華村、蕉窓等の諸家なりき、紅葉著『冷    熱』の口絵は、実にこの木版極彩色画時代の絶頂を表せるものとも見るべし、    近頃春陽堂より『新小説』現れ、洋画家浅井忠、小山正太郎、岡村政子等諸氏の彩色入の挿画を(石版)    を採用して好評を博し、又同誌第三号の口絵には永洗筆の彩色入写真版を添へたり、思ふに、小説の挿    画は今や一転機の機運に向へるものゝ如し、挿画の進歩は印刷術の進歩と伴ひて、此の好結果を見るに    到れりと云ふ、    〈『国華』は明治22年創刊。春陽堂の単行版『伽羅枕』(尾崎紅葉作 口絵 桂舟・素岳画)は明治24年刊。『冷熱』(口絵     永洗画)は明治29年刊。春陽堂の雑誌『新小説』は明治22年刊〉    因に、製本の変遷を一言せん、『花柳春話』『経国美談』時代にはボールの厚表紙をつかひ、其れより    一転して、金港堂より小説頻出せる頃は、白き薄表紙に、有合せの花紋輪郭を用ふるが一般の風となり    き、其頃出でたる二葉亭が『浮雲』、学海が『侠美人』、青萍が『谷間の姫百合』、嵯峨の舎が『涙の    谷』など釘装いづれも右の種類に属す、当時までは、小説は殆ど四六版に限れり、然るに紅葉山人が作、    春陽堂より続々あらはるゝに至り、口絵挿絵に意匠を凝らせたると共に、何時か本の大さも菊版にせら    れ、房々と色糸もて綴ぢ合はせするなどの華美(はで)なる流行も出でたり、然るに、今や水車版物の赤    本と其の表装混同せらるに至りたれば、何となく読者厭き気味あり、人気に投じて好評を博せんとせば、    書肆たるもの当に一工夫すべき時期にはあらぬか〟    〈二葉亭四迷著『浮雲』(初編、芳年画。二編、月耕画、三編,芳年画)は明治20-2年刊。依田学海著『侠美人』(月耕画)は同20     年刊。末松謙澄(青萍)訳『谷間の姫百合』(月耕画)は同21-3年刊)。『涙の谷』の著者は嵯峨の舎お室ではなく、天香外史で     同21年刊。以上金港堂〉