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一立斎広重旅日記その他-江戸
   原本:『浮世絵師歌川列伝』所収 飯島虚心著「歌川広重伝」新聞「小日本」明治二十七年(1894)連載    底本:『一立斎広重旅日記』『近世文芸叢書』第12巻所収 国書刊行会編・出版 大正元年(1912)刊       (国立国会図書館デジタルコレクション)(202/259コマ)    参考:『浮世絵師歌川列伝』玉林晴朗校訂 中公文庫本 1993年刊       (中公文庫本は畝傍書房本(玉林晴朗校訂・昭和16年(1941)刊)を文庫本化したもの。玉林によると、初出は         明治27年4月1日から7月15日かけて連載された新聞「小日本」の由)    天保十二年(1841) 甲斐 甲府旅日記   〝標題 天保十二年丑年卯月、日々の記 一立斎    卯月 二日、目出度発足、朝うす曇、昼頃より天気、朝五ッ時出立、丸之内より四谷新宿追分より曲る、    此辺道甚悪し、四ッ谷新町、右に十二さう道あり、此所にて休、荻窪堀之内道、是より十八町といふ、両    側茶屋あり、休、同所十丁許先に、相州大山道、二子の渡しへの近道ありと、きゝて戯れ      近道は一トこに二タ子三わたしへ 何ほどあるとこゝの屋でとふ    下高井戸、上高井戸、石原村にて休、布田宿、此道たいくつ、堀之内辺の人男女三人と道連になる、面白    からず、府中宿六社宮を拝す、日野迄二里、甚だ長し、一休、玉河舟渡し、日野の原、日野宿を過ぎ、信    州諏訪の侍と連立行、休、八王子宿は、八日町徳利亀屋見世の目印此の如し(酒樽図)    此家にて断、先隣山上重郎左衛門方泊、此家甲州武田のざんとう也。甲城の隠居鈴木氏に出会、種々物語、    奇談少々のろけ咄しを聞、掛り合女へ遣すいやみの狂歌を代作す、右色男足袋屋ときゝて      たびの紐かたく結びし君があし、我にはとけぬそこのこゝろね    此人入船舟頭と申す狂歌師に似たり、茶菓子馳走になる。        三日 晴天、八王子千人町より、散田村というあたり、両側建仁寺垣にて、農家至てきれい、休、此辺の    農家小用所図の如し(厠図)此辺より先、すべてはたおる家多し、筑前まがひのはたを織る、至てよし、    村中に流れありて、小さき水車を仕かけ、尺四五寸位のうすにて米を搗く、水車の孫というべきか、その    図左のごとし(図は省略す)    夫より小なじといふ宿【虚心按ずるに、小なし宿今詳ならず、館といふ処にこれなきや、猶考ふべし、下    に相の宿なる由いへり】右側に山口といふ茶屋あり、至てきれい、江戸料理番をつかひて、なんでも出来    るといふ、此宿に高尾山へのわかれ道あり、ここより一里八町といふ、駒木野御関所を越し駒木の宿、こ    こにも高尾へ近道あり、此所も家毎にはたをおる、此処より江戸身延参り三人と道連になる、又小なし宿、    柏屋の女房と連になり、以上五人にてはなし行、小仏峠にさしかかる、小仏峠にて休、こゝにて信州いな    へ【按ずるに、いなへは誤り、伊奈なるべし】郡の者を供につれて、峠の茶屋に休、中喰一ぜんめし。平    きざみこんぶ、あぶらげにふきなり。甚だまずし、此処武蔵さがみの境木あり    小仏の峠を下り道に、照手の姫の出生地あり、谷をへだてて、向にわづかに村あり、印ありといふ、坂を    下りて人家あり、こゝにて道連の男女にわかれる、小原の宿よりよせの宿、入口茶屋に休、あゆのすしを    のぞむ、三人手つだいて出来上り出す、甚だ高直、その代りまづし、夫より少々近道を行て、よせの町に    至る、此宿かどやといふ茶やの脇よりまがりて近道へかゝる、此道本道より二十丁程近しという。少々難    処あり、相模川の流れ緩々たり、舟渡しあり、渡守に川の名を問へば、さくら川といへり(図は略す)此    川二度渡りてほどなく吉野の宿なり、此川ふじの裾より出るなれば、不二の雪とけて此川に水ます、雪花    に似たるもの故、さくら川の名ありと里人の言なり      つひの花の先によしのゝ宿を見て さくらは川の名にながれけり    吉野の宿を過ぎ、関野の宿入口、梅沢といふ所にて休む、小松屋、陰陽の石、女夫石あり。其先の茶屋に    て大まんぢう、塩あんを喰ひ、関野の宿を越て境川に至る、津久井郡内の境なり、川を見はらし絶景なり、    ここに茶屋三軒あり、上の方よろし。中の茶屋に休む、少々くうふくに成、四人食事する、あゆの煮付、    さくら飯、又うどん一ぜん喰、酒一杯のむ、壱合廿四文なり、夫より諏訪の番所、すわ村すわの社、此辺    より先、家毎に機織るなり、郡内しま紬もねん色々の織物売る家あり、上の原よき宿、鶴川流れましかけ    橋を渡りて、鶴川の駅、此川水ます時、留るといふ、絶景なり、夫より野田尻まで一里半、山道長し、尤    も見晴らし景よし。度々休、のだ尻の駅にて泊、ここにて江戸者三人に別れる、小松屋といえるにとまる、    広いばかりにてきたなき事おびたゞし      へのやうな茶をくんで出す旅籠屋は さてもきたなき野田尻の宿    此夜相宿となり。座敷に桑名藩中の武士、妻子をつれて下りの人居る。此武士妻子を寝かし、楽しみに居    合をぬくといいければ、我言葉を頼みて見物す。然らばとてものごとに訳を申さんとて、先流義は四天流    にて、何某の弟子なり、さて居合の抜方一々口訳す、その図あら/\しるす(居合い図)    旅中にて道具なければ自刃を以てす、居合立合色々有て後噺に成る、砲術のはなし、日本に二ヶ所に有と    いう火術の秘書を所持する由なり、天学をまなびしといふ、忍ひ術の咄しなどする。其夜の膳献立     皿 塩あじ半切、口 汁 菜、平 氷とうふ、いも菜、飯    四日 晴天、のだ尻を立て犬目峠にかゝる。此坂道ふじを見て行く(図は省略す)座頭ころばしといふ道    あり、犬目峠の宿、しがら木のいふ茶屋に休、この茶屋、当三月一日見世ひらきしよし。女夫とも江戸新    橋者、仕立屋職人なりとのはなし、居候一人これも江戸者なり、だんご、にしめ、桂川白酒、ふじの甘酒、    すみざけ、みりんなどうる、見世少々きれいなり、犬目より上鳥沢まで、帰り馬一里十二町乗、鳥沢にて    下り猿橋まで行、道二十六町の間、甲斐の山々遠近に連り、山高くして谷深く、桂川の流れ清麗なり、十    歩二十歩行間にかわる絶景、言語にたえたり、拙筆に写しがたし、猿橋より駒ばしまで十六町、谷川を右    になし、高山遠近につらなり、近村の人家まばらに見えて、風景たぐひなし、さる橋に向う茶屋にて昼喰、    やまめの焼びたし、菜びたしなり、大月の宿、ふじ登山の追分あり、右へ行て坂を下り、大なる橋あり、    谷川流れすさまじく奇石多し、岩石聳へ樹木茂り、四方山にして屏風を立しごとく、山水面白くまた物凄    し、此大橋朽損じて、わきにかりに掛しとみえる橋あり、是を渡りて道左右に分れあり、がてんゆかず、    聞べき人家もなく、往来もたえて人なし、途方にくれてしばらくたゞずゐる、しばらくして、山中より材    木をおひ来る人にきゝて、下花沢に至り、又縄手をへだてゝ上花ざわに至り休、かしくと云茶屋なり、初    狩の手前にて休む、江戸品川の人四人連に逢ふ、上初狩宿はづれに茶屋あり、団子四本喰ふ、この処の女    房甲府八日町の生れにて、江戸へも行しとなり、且珍らしき茶釜にて茶を煮る(茶釜の図)    白野宿へ一里、天神坂をこえて宿に入る、夫よりよしが窪という所あり、こゝに此の如き碑あり(「毒蛇    済度の旧地」と記せし碑図省略す)一丁程のぼりて、百姓勝左衛門といえる者の家に立寄り休み、右毒蛇    の由来を尋れば、奥より老婆出て物語る。昔此所に小俣左衛門という大百姓あり、娘およしは至て美女な    れども、心悪しくけんどん邪けんにて、ついに蛇身となる、其頃此辺に大沼あり、よなよな出で里人をな    やます。しんらん上人来給ひて、これを教化し給ひしより、此うれいやみしとなり、小俣の家今にありと、    今は二里程脇今沢という所の一向宗の寺にて、右の縁起を出すよし、此婆七十七八にて、去年信州善光寺    より、江戸見物、江のしま、かまくら大山へ参り帰るよし、尤も一人にてあるきしなり、其外いろ/\    物語る、粉麦の焼餅をちそうに成、此所を出て黒のだ宿扇屋へ行、断り故若松屋といへるに泊、此家古今    きたなし、前の小松屋に倍して、むさい事いはんかたなし、壁崩れゆか落ち、地虫座敷をはひて、畳あれ    どもほこりうずみ、蜘の巣まとひ、しやれあんどん、かけ火鉢一つ、湯呑形の茶碗のみ家に過ぎたり、黒    野田泊、料理献立     皿 めざしいわし四つ、   汁、平 わらび、牛蒡、とうふ、いも、飯     皿 牛蒡さゝがし、醤油かけ、汁、平 とうふ、赤はら干物、飯    此日江戸品川の人三四人と、度々出合、少々咄する、きざある故はづす        五日 晴天、黒野田を立てさゝご峠にかゝる、半分頃のぼりに休む、江戸男女姉弟連、遠州掛川の人男女    三人連、甲州市川禅坊主と俗一人にあひ物いふ、夫より又のぼりに矢立の杉左にあり、樹木生茂り、谷川    の音諸鳥の声いと面白く、うか/\と峠を越て休、下りにかかる      行あしをまたとゞめけりほとゝぎす    鶴瀬の宿を過ぎ、細き山道十三町行て、つるせの番所を通る、女は切手あり、此所にて飯喰ふ、山うど煮    付平なり、夫より横吹といふ原へかゝる、此辺より江戸講中一むれ連だつ、右は山にて山の腰をゆく、左    に谷川、高山に岩石そびへ樹木しげり、向ふに白根が嶽、地蔵が嶽、八つが嶽、高峰見えて古今絶景也、    こゝに柏尾山大ぜん寺といふ寺あり、門前に鳥居あり、額に「馬一疋 ☆の一筆書き 牛一頭」とあり、    由来きかず    此辺より先勝沼の辺まで名物葡萄を作り、棚あまた掛あり、かつ沼の宿、此町長し、こゝにて江戸連中と    ともに常盤屋といふ茶屋にて支度、玉子とじにて飯、めし安し、江戸ものは此道にはいる、茶屋出ると、    又江戸姉弟と市川の人にあふ、此道連甚だ面白し、夫より栗原をすぎて、田中といえる処、ここに此の如    き碑あり(「節婦之碑」の碑図省略)昔享保十三巳年、此所に洪水ありて、一村難儀に及ぶ、此時安兵衛    お栗といへる夫婦の者あり、安兵衛らい病を煩ひ、其母も病に臥し、家貧しくしてなんぎなるに、妻おく    りわずかのあきなひ、或は袖乞して、夫を介抱せしに、母はすでにむなしくなり、安兵衛申けるは、とて    も全快なりがたく、此世にて人交りなりがたきごう病なれば、川に入りて死すべし、汝は子もなく年も若    ければ、ながらえて他に縁付、身を全ふすべしといふ、妻聞いれず、此家に嫁せしより、生て爰を出んと    思はず、とても覚悟を極め給はゞ、我も共に死んとて、帯にて二人のからだを巻き、洪水に飛入て死す、    此事上聞に達し、公より節婦の碑といふ印を御立下されたるよし、夫より石和の宿に至る、入口の茶屋に、    江戸講中大勢休ゐる、殊の外賑やか、こゝにて、焼酎一盃、うどん一ぜん喰、江戸姉弟の道連は浅草にて、    梅川平蔵お仲をよく知る人なり、勝沼よりこの辺平地にて道至てよし、夫より縄手をこえて甲府の町にと    りつく、ここに酒折の宮という旧跡あり、御神体の図前に写す、柳町にて連にわかれて、七ッ時分緑町一    丁目いせや栄八宅に着く、此日入湯、髪月代(さかやき)す、是より伊勢屋に逗留        六日 晴天、朝かひや町芝居へ行、狂言伊達の大木戸二幕見物、用事これあり帰る、幕御世話人衆中に対    面す。酒盛あり    〈甲府行きの目的の一つはこの芝居の幕の作画。手付け金5両(14日参照)〉         七日 晴天、朝、さの川市蔵にあふ、朝より芝居見物。知らぬ女中より茶菓子もらふ、返礼す。お俊伝兵    衛二まく、いろは四十七人新まく         八日 晴天、朝荷物到着、幕霞の色漸くきまる、世話人衆中、竹正殿 万定殿 岩彦殿 福勇殿 辻仁殿    岩久殿 村権殿 松弥殿 川善殿 鳴太殿     夜、吉岡舎亀雄大人来、長物語。        九日 晴天、細工所極る、昼過より芝居見物、狂言いろは四十七人、中幕(勧進帳の学びは、万屋生を寿    ぎて)こゝに又安宅問答、契情阿波の鳴門一まく、打出し、夫より町々ぶらつき、一蓮寺へ行、境内稲荷    天神其外末社あり、土弓場、料理茶屋などあり、忍光寺前料理屋にて夜食、常さん御馳走になる        十日 朝曇晴、二間に一間鍾馗かく、幕世話人衆奥にて酒盛、少々馳走になる、夕方亀雄大人同道、一蓮    寺かし座敷にて酒盛、三桂法師同道、石橋庵にてさわぎ    〈3.6m×1.8mの鍾馗、11日の記事によると画料は200疋(1疋=10文)、依頼主未詳〉         十一日 曇、五尺屏風認め、鍾馗画料金二百疋、鰻一重もらふ、夜市蔵と酒盛    〈高さ五尺の屏風 図様未詳 依頼主未詳〉      十二日 雨天、襖四枚認め、きゅうり一かご、なまり一本、辻甚より到来、夜そば馳走になる    〈襖四枚 図様未詳 依頼主辻屋か〉          十三日 晴天、柳町たび屋槌の屋十文宅にて狂歌びらき、出席         十四日 晴天、襖二枚認め、不快にて休、幕手附金五両請取、四両一分二朱江戸へ送る    〈襖二枚 図様未詳 依頼主は辻屋か〉      十五日 晴天、朝肴町三丁目村田幸兵衛殿宅へ行、昼過より御幸祭礼見物に行、甲府町々、近郷近在の老    若男女群集、少々時候あたり、薬品二帖飲(祭礼の図あれど略す)夜芝居見物、桟敷なし、芝居の内屋敷    見世出る、狂言一の谷二まく勧進帳なり         同十六日 晴天、夕立あり、病気全快、書ものする、村幸より手打そば貰ふ。極上々なり、夜祭礼のはな    し聞く、並祝義を出す事         同十七日 晴天、辻屋殿襖出来遣す、茶菓子到来す、二間に一間の幟孔明かきかゝる    〈3.6m×1.8mの幟 図様 諸葛孔明、依頼主未詳〉     十八日 晴天、孔明のぼり出来、昼後より幕かきかかる、夜なべ、佐の衣写本、江戸状二度来る         十九日 晴天、さの衣写本出来、江戸状遣す、村幸襖四枚認め、村幸よりすし到来す。夕かた辻屋にて酒そ    ば馳走に成、夜芝居見物、岩井風呂三幕    〈「さの衣」は未詳、襖絵四枚 図様未詳 依頼主 肴町三丁目村田幸兵衛〉         廿日 晴曇。まく墨かき出来。唐木綿鐘馗したため、夜肴町村幸へ行。帰り芝居へよる。打出し後三階に    て酒盛。みそ漬香の物辻屋よりもらう。    〈幕の墨画き、唐木綿 図様 鍾馗 依頼主未詳〉         廿一日 晴曇。辻屋にてゆかた誂る。さの衣色さし其外だめ仕事         廿二日 同、休         廿三日 同、辻屋、小鐘馗認め    〈画材未詳 図様「鍾馗」 依頼主未詳〉    〈以下、『浮世絵師歌川列伝』の著者・飯島虚心の補記〉      是より日記なし。されど甲府滞在中には、御嶽身延などへものぼりしと見えて、別冊に甲州御嶽、外道     の原、鞍掛岩、象が鼻、御嶽大門、鰍沢、不二川、洗澤(濯)石、屏風岩、釜無川、早川等の図あり、裏     不二の図をかきて狂歌あり       夢山はゆめばかりにて 聞しより目の覚る甲斐のうらふじ       かくばかり甲斐のあるじをみな人の うらというこそうらみなりけり     又藤巻という処を画きて句あり       夏旅やゆめはどこやら朝峠     末に高尾山本社、並に勝沼の柏尾山、大善寺の図ありて、十一月十三日よりの日記あり〈以上、虚心補記〉        霜月十三日 晴天、幕すみがき、夜辻屋にて招く、肴はよし、酒そば悪し、早々帰る、夜江戸状認         十四日 晴天、さびしき夜(数字欠く)夫より鳴海屋へ招かれる、八日町永楽やの後家来客         十五日 晴天、まく残らず出来、昼過より休。夜万屋にて酒。四つ過まく張初め、夫々より又々酒飲        十六日 晴天半曇、朝幕仕事少々、鳴海屋隠居所にて酒盛、市川の人きざもの万定源兵衛同道にて、うな    ぎやへ行、夜芝居二まくみる、此日大酔なり。         十七日 晴天。芝居看板かきかゝる。鳴海屋屏風出来。夜なべ少々。夜中まくはり初、酒明方まで、別や    に泊る、栄八殿方臺なり、解し難し    〈芝居看板の作画。「方臺」は不明〉         十八日 晴天、看板彩色仕上げ、夜別屋にて立ぶるまいする         十九日 晴天、朝筆納、まく書付書、昼過ぎ皆々連中わかれ酒、夜荷物出す、鳴海や、万屋にて夜ふけま    で酒         廿日 曇少々雪降る、朝六つ半時頃、みどり町伊勢屋出立、松黒同道甲府はずれにて別れ、一人道をいそ    ぎて、六ッ時頃上花咲問屋に泊、此宿上々、信州の人相宿也         廿一日 晴天、朝六ッ半頃出立、犬目しがらき休、酒汁(二字欠)まづし、上の原大ちとや休。昼喰。    七ッ半頃与瀬いなりや泊。上辻屋兵助、役者川蔵相宿。上の原小沢源蔵という郷士大家のはなしきく。         廿二日 晴天、朝、与瀬出立。川蔵同道、度々休、酒飲いづれも悪酒也、暮六ッ時分、府中明神前松本屋    に泊、酒甚悪し。         天保十五年(1844) 上総 鹿野山旅日記(206/259コマ)   〝標題 日記 天保十五年辰年弥生の末    三月廿三日、夜四ッ時、江戸橋より船出、海上風なく船ひまどり、廿四日昼頃、上総木更津着        廿四日 晴天、長閑なり、不斗卯八殿に逢ふ、此人なかつかやとて荒物屋なり、小泉八十郎方に休、爰に    て昼飯仕度す、久津間道、左に海辺見晴しよし、八ッ過頃早松清右衛門殿宅に着、夜庄兵衛殿来る、酒盛、    夜中より風雨。        廿五日 雨天、風雨一日止まず退屈        廿六日 天気昼後少々曇、仁右衛門殿宅にて、麦飯芋汁馳走になる。八ッ頃江戸状着        廿七日 天気。四ッ時頃より鹿野山参詣。庄兵衛殿勇吉殿同道四人連、七ッ過頃鹿野山に着、(◯に七の    字模様)泊、旅人込合夜具不足にて、二人もやひなり、同日、箕尾天王の社参詣、夜中合宿、同国富津の    人二人、酒盛大にさわぐ        廿八日、天気。同所白鳥大明神祭礼にて、商人参詣群集す。帰り道南子安村、釣鐘淵池中不思議なり、木    更津二組屋にて昼食、此家少々江戸風の料理屋なり、夕七つ時頃、久津間村に帰、        廿九日、天気、坂戸市場、坂戸大明神の社、祭神手力雄尊、此山より海辺眺望よし、同所山中に戸隠大明    神、天の岩戸なげ給ふという石あり、甚左衛門殿宅立派なり、種々馳走になる。夫れより瓜倉弥兵衛殿宅    に至る、又々馳走になる、此家の人僻邑のまゝにて、かざりなき体、真実にしてよし、勇吉殿同道にて、    夜五ッ時久津間に帰る。くるり川ふみこみ、少々めいわく、この夜大酔、        四月 朔日、晴天、朝四ッ半頃、久津間村出立、勇吉殿送る、小泉にて支度、九ッ頃木更津出船、順風に    て日暮頃、鉄砲洲湊町に着        嘉永五年(1852) 安房小湊 誕生寺参詣旅日記(206/259コマ)   〝嘉永五子年閏二月二十五日、夜四ッ時、江戸橋出舟、永代橋に掛り、是にて風待、朝六ッ頃、西北風出で    乗出す、追々風止み、舟ははかどらず、九ッ頃空あしく、雨少々降来る、舟人さわぐ、程なく雨止み、風    少し出、八ッ頃木更津に着、雨ふり出す、昼飯食、ひ鹿野山に赴く、夕刻宿に着、房州滑谷(ぬかりや)村    の人勘左衛門、娘同道合宿す、翌日雨、少々見合出立、道悪し、セキという所より先、山道殊の外難所、    小塚にて昼仕度、大日の手前にて、勘左衛門に別て一人となり、大日宿はずれにて馬をとり、六ッ半ころ    日高子の宅に宿        廿八日 晴天、一日休足。    廿九日 小湊誕生寺参詣、日高宗兵衛同道、行く道何方も絶景なり、しん坂下り道に朝日の御堂とて、日    蓮上人日りん来迎を拝し給ふ旧跡あり、海辺島山の眺望絶景なり、      風景は奇々妙法の朝日堂 はるかに祖師の御堂輝く     誕生寺堂前の桜の木ぶり梅によく似たるを見て      梅の木に似たる桜のかたへには 鴬に似し法華経の声          三月朔日 清澄寺参詣、おり上案内、余程の高山風景よし、登り口一の鳥居坂道、是より道法一里登る、    清澄寺門前坂道、料理茶屋多くあり、いずれも田舎めかずいきなり、境内桜多く花盛、金比羅眺望あり、    此所にて烟草飲しばらく休、升屋といえる茶屋にて仕度、此時向の茶屋にて、当地地頭の家来御奉行とい    う人、名主二人、其外けんもんの人大勢大じやれなり、本堂額面古代の画、武者画のがく二ッ、其外天神    記、車引の絵おかしな風なり、この辺の町家建具屋多し。亦在家の賤女、頭に物をいただきて商いに下る    者たえず。老若交り風俗すこぶる風韻あり、七ッ半頃浜荻にもどる、其夜餅搗あり、草粟米なり、雛節句    のもうけとて此地の風なり、        同二日、朝少々不快、出立見合逗留、唐紙三枚かく        同三日 雨天、伯父という人より酒一升貰ひ酒宴、唐紙不二其外書物、夜床源来り酒宴        同四日、昼頃出立、馬にて行、前原、磯村、浪太、天面、弁天島、しまの仁右衛門、庄太夫崎、江見、和    田、此辺すべて磯辺浪打岩石多く、風景尤も絶妙にて、筆につくしがたし(大夫崎と云所に、名馬大夫黒    の出たる洞穴あり、又ヒヅメの跡つきたる石多くあり「ぬけ出たと穴のいはれに螺をふき」)和田にて下    馬、松田にて泊り、松田駅油屋泊(さんげ/\法師ほうきうり)相宿、        (同五日)朝画少々認め、夫より馬にて那古まで行、那古より下馬、観世音参詣、山上風景よし、夫より    道間違にて、田舎道一里程損、馬をやとひて行、木の根坂峠の風景よし、一部の宿昼休、又々馬にて行く、    勝山風景よし、保田羅漢寺参詣、金谷の宿泊、房州の人六人相宿、夜不図(はからず)図画の事あり、大勢    色々の雑談あり、其夜雨朝まで降る        (同六日)雨具なく其儘(そのまま)出立、百首天神山一切舟なし、大急にて木更津まで来る、一足ちがひ    にて舟間に合はず。伊勢久にて昼食、長須賀屋にて泊        (同七日)天気中位、画少々認、風悪しきとて留められ、舟にのらず、四艘の舟出帆を見て大きにくやむ、    薬師堂山の桜を見に一向ふさぎ、無拠こぢ付、      葉桜や木更津舟ともろともに 乗りおくれてぞ眺めやりけり      菜の花やけふも上総のそこ一里