Top              『未刊随筆百種』            浮世絵文献資料館
   未刊随筆百種               さ行                  ☆ しゅんしょう かつかわ 勝川 春章    ◯『岡場遊廓考』①99(石塚豊芥子著・成立年未詳)   (上野「山下」の項、「山下新談」より引く)   〝遊君見世に並び、前ひちひさき屏風を立、紅粉を粧ひ、其美しき事春章湖竜斎が筆にも及がたかるべし〟    〈安永の頃の上野山下の光景であろう〉    ☆ しゅんせん かつかわ 勝川 春扇    ◯『真佐喜のかつら』⑧309(青葱堂冬圃記・成立年未詳)   〝山東京伝、歌川豊国とは兄弟の睦びありて、弐人とも世に知られたり、京伝の著作は大かた豊国の画也、    いかなる者かいひ出しけん、京伝が作せしとて画師が下手ならば行れまじ、されば豊国の上手ゆへなりと    云、また或かたにてハ、譬へバ豊国が当時の名人たりとも、作があしければ、本をもとむるものもあるま    じ、さすれば京伝が妙作故なりと互に評しけるを、何者か尾に頭をそへて、色々と言葉を巧にして二人ぇ    告けれバ、何となく不和となり、次のとし、新刻絵草紙、京伝作、勝川春扇といふこのもしからぬ画師に    ゑがゝせ、豊国ハ橋本等瓶とかいふ名も知れぬものに著作いたさせ、画ハみづから筆をふるひゑがき売出    しけるに、いづれも甲乙なく大流行に而、板元ハ大に利を得たり、されバ此事世にいひふらし、ふたりと    も名誉たりし、地本問屋蔦屋重三郎、伊賀屋勘右衛門など取扱ふて、終に心直りしとぞ〟    〈山東京伝作・勝川春扇画の初出は文化七年の合巻『梅於由女丹前』。以降八、九、十一年まで六作、すべて合巻である。     橋本等瓶は橋本徳瓶の誤りか。徳瓶作・豊国画は文化七年刊の合巻『小野小町戯場化粧』。この挿話は文化六~七年も     のだが、京伝作・豊国画は文化七年にも六作品あり、六年の七作品、八年の六作品と比べて大きな変化は見られない。     春扇の起用は、京伝豊国不和の余波というより、それまで文化四年から七年まで合巻挿絵を担当していた勝川春亭が別     の戯作者と組むようになったことと関係しているのではないか。京伝・春亭の組み合わせは文化七年を最後に以降はな     い〉    ☆ しゅんまん くぼ 窪 俊満    ◯『きゝのまにまに』(喜多村筠庭記・文化七年以前の記事)   (文政九年五月の近藤重蔵父子による百姓一家殺害事件の記事に続いて)   〝金銀図録を著すころ、彫刻摺立などは尚左堂俊満請負たり、それ故俊満も頼れて古金所蔵人より借用し    て図を写しける時、其古金を典物などにして、俊満も迷惑したる由、其外手間代料請取事に付て、とり    合ければ、切捨んと近藤がいひしを、俊満は事ともせず、冷笑ひて有しに、事済たりと語りぬ〟    〈近藤重蔵の『金銀図録』は文化七年刊。蝦夷地探検でも知られる近藤正斎重蔵は才気煥発であったが、鳥取藩西館(若     桜)五代目藩主池田冠山に言わせると「近藤守重が正斎と号して不正なるは、恧爾として恥ぢずやあるべき」というこ     とで、その素行には問題があった(『思ひ出草』)。俊満との挿話も、写生のため借りた古金を質草にしたり、手間賃     を請求すると切り捨てるぞと嚇したりといった物騒な内容である。もっとも、奇矯な振る舞いに「事ともせず、冷笑     ひて有し」俊満の方も堂々たるものである。俊満は大田南畝(蜀山人)と親しいから、あるいは事前に重蔵の性向を南     畝から聞いていたのかもしれない。なお南畝と重蔵は寛政六年の幕府の登用試験(学問吟味)に同時に及第した以来の     仲である〉   ☆ すけのぶ にしかわ 西川 祐信   ◯『青楼年暦考』②211(著者・成立年未詳)   〝百人女良品定 享保八年卯正月 大和絵師西川祐信画〟    〈京・大坂・江戸の青楼の起源を考証するために、八文字屋自笑の序「三ヶの津色里の始」を引く〉  ☆ せきえん とりやま 鳥山 石燕    ◯『俗事百工起源』②93(宮川政運著・元治二年記事)   (「似顔画のはじまり」の項)   〝塵塚談に云、歌舞伎役者写真画の事は、宝暦の始の頃、画工鳥山石燕と云へる者、白木の粗末なる長さ    二尺四五寸幅八九寸の額に、女形中村喜代三郎か狂言似顔を画して、浅草観音堂の内、常香爐の脇なる    柱へ懸たり、諸人珍敷事とて沙汰に及しなり、是江戸にて似顔画の始なるべし、其頃迄は一枚絵とて役    者を一人をのり紙を三つ切にして、狂言の色どり三四遍摺にし、肩へ市川海老蔵、又は瀬川菊之丞など    と銘を記すのみにて、顔は少しも似ず、壱枚四文づつに売たり、近年は右体の壱枚絵は更になく、浮世    草紙迄も似面絵になれり、錦絵と名付、色どりも七八遍摺にするなり、歌舞伎役者に限らず、吉原遊女    水茶屋女角力取迄も似顔絵にして売ることゝなれり、右宝暦元年より当元治二丑年迄百十五年と成、     政運が云、当時似顔に名を得しものは、歌川豊国といふ、其外にも国芳国貞等の画人あり、又今は摺     の遍もなか/\七八遍にあらず、廿三四遍ずりに及び、代料も壱枚三拾六銭の分は至て粗末なり、是     等にても世の奢おもひやるべし〟    〈『塵塚談』は小川顕道著、文化十一年の成立。『燕石十種』第一巻所収。当ホームページ「燕石十種」参照。僅かだ     が相違あり〉    ☆ せってい つきおか 月岡 雪鼎    ◯『かくやいかにの記』④233(長谷川元寛編・成立年未詳)   〝宝暦明和の頃、難波浮世絵師月岡丹下、この人名を曲亭が〔常夏さうし〕の末にもちゆ、種員が〔妙々    車〕【合巻】にもちひたり〟