Top浮世絵文献資料館浮世絵師総覧
 
大田南畝が書き留めた浮世絵師達大田南畝関係
  〈本論文の初出は『浮世絵芸術』126巻(日本浮世絵協会編 1998年刊)〉    底本:『大田南畝全集』全二十巻・別巻 編集委員代表 濱田義一郎 岩波書店 1985-90年刊・別巻2000年刊    ※ 例 ①10 は第一巻の10ページを示す 【~】は原文の二行割り書き        はじめに    大田南畝〔寛延二年~文政六年(1749~1823)〕の浮世絵に対する関心はずいぶん若い時分からのもの   で、彼が浮世絵師達と関わりを持ちはじめる安永期以前、すでにその兆しはあった。錦絵が誕生した明和   二年(1765)、この時南畝は十七才の少年であったが、さすがにこの版画史上の革新を見逃していなかっ   た。   「忽ち吾妻錦絵と移つてより  一枚の紅摺沽れざる時     鳥居は何ぞ敢て春信に勝わん 男女写し成す当世の姿」(「寝惚先生文集」)   と狂詩を賦して、江戸生まれの錦絵を讃えていた。紅摺の鳥居派から錦絵の鈴木春信へという主役交代の   様子を南畝はしっかり捉えていたのである。    そして寛政十二年(1800)頃には「浮世絵類考」の源流とも言うべき「浮世絵考証」を成立させる。こ   の構想がいつの頃より兆したものかよく分からないが、寛政期に入って南畝が力を入れはじめる江戸の地   誌・人・事物の考証、おそらくこれらの探索の中から「浮世絵考証」が派生したものと思われる。つまり   「江戸っ子」の「江戸」たる所以は何かと、南畝が自ら問う過程の中から生まれて来たと言えようか。    南畝はこの考証の中で、浮世絵の元祖として岩佐又兵衛をとり上げ、以下、菱川師宣、英一蝶、鳥居派、   奥村政信、西川祐信、鈴木春信へと浮世絵師の系譜を跡付けている。注目したいのは南畝の提示した流れ   が、現在想起する浮世絵師の系譜と基本的には変わらないという点である。してみると、南畝は日本の   「浮世絵師」観に大きな影響を及ぼした一人と言ってもよいのではないか。    さて、南畝と浮世絵師達との関わりはどうであったか。こちらの方もずいぶん賑やかで、青年期から晩   年までほぼ生涯にわたり、しかも多彩であった。南畝自作の咄本・洒落本・黄表紙・狂詩本等の挿絵を介   して交渉があったのは、明和から天明にかけて、そして寛政を除く天明および化政期にかけては、彼が江   戸文芸の一分野に育て上げた狂歌を通して、題画や席画・席書などいずれも浅からぬ関係が続いた。さら   には浮世絵師の絵本に南畝が序を寄せるというかたちの関わりもあった。    鈴木春信・勝川春章・北尾重政・同政演(山東京伝)・同政美(鍬形蕙斎)・喜多川歌麿・窪俊満・鳥   文斎栄之・葛飾北斎等との交渉がさしあたって目に付くところだが、とりわけ京伝・俊満との交遊は私生   活にもおよぶ極めて親密なものであった。    本稿は以下、南畝の書留に登場する浮世絵師達を拾い集めてゆくことになるが、しかしその前に解決し   ておかなければならない難問があった。実のところ「浮世絵師」の範囲をどうとるのか、これが大問題で   あった。ことは「浮世絵」の定義とも関係してくる。そもそも南畝の「浮世絵考証」にしてからが実に不   明瞭である。明確なのは、狩野派や土佐派のようないわゆる本絵系の絵師を除外していること、逆に言え   ば町絵師を対象とするということだけで、その他は曖昧である。    例えば浮世絵の元祖が岩佐又兵衛だとなぜ言えるのか、またなぜ菱川師宣から英一蝶以下の流れになっ   ていくのか、南畝に明瞭な説明はない。(「浮世絵考証」所収、英一蝶の「四季絵」跋には「岩佐、菱川   が上にたヽん事をおもひて」とあるから、これを引用することで、南畝は一蝶の想定した系譜を踏襲した   とも言えようが)    現代から見て曖昧なのはさらにある。例えば鳥山石燕の扱いである。門人の歌麿の方は言うまでもない   が、師匠の石燕の方は「浮世絵考証」に採っていない。つまり南畝は石燕を浮世絵師と見なしていないの   だ。南畝が石燕を知らないわけではない。それどころか安永八年(1779)刊・「続百鬼夜行」の序を認め   さえしている。したがって漏れたのではない。自覚の上の選択である。しかし筆者には南畝のこの自覚、   別に言えば浮世絵師か否かの基準そのものが、何なのかよく分からない。したがって本来なら南畝の想定   する浮世絵師像を明確にして、そこから浮世絵師を抽出する手順を踏まねばならないのであるが、それは   残念ながら出来ない。南畝の物差しが判然としない以上、大変困難なのである。    そこで本稿は、便宜上「原色 浮世絵大百科事典全十一巻」(昭和五十七年刊。大修館書)の第二巻   「浮世絵師」所収の「浮世絵師人名」に拠ることにした。この事典は池大雅を採るなど、浮世絵師をずい   ぶん広い範囲で網羅しており、ここに異論の余地もないではないが、とりあえず従い、南畝・書留の収録   範囲もそれに合わせた。また人名の配列も従った。また同事典の凡例には「本巻は浮世絵師および浮世絵   派に近い作品をのこした絵師、版本の下絵を描いた絵師を採録した」とあるので、筆者もそれを踏襲し、   「浮世絵師人名」になくとも同凡例を満たす絵師はとりあげた。    南畝は実に筆まめな人であった。日記・紀行・書簡・書留・抄録・考証等、膨大な量の文書を書き遺し   ている。そこには雅俗、貴賎、そしておそらく軽重の別さえ吟味されることなく、実にさまざまな人物や   事物の断片が、あたかも後人の整理を待つかのように散在している。    本稿は浮世絵師達の事跡を、岩波書店の「大田南畝全集」二十巻より拾い集めたものである。もとより   筆者の管見である。錯誤や遺漏のないはずもない。指摘をしていただければ幸いである。    凡例   ・引用は「大田南畝全集」二十巻。岩波書店刊。   ・〝全集〟とは「大田南畝全集」のこと。   ・名前の欄の◎は南畝と交渉のあった人。   ・◯は全集所収本文の出典。   ・□は全集所収「月報」および全集以外の出典。   ・表記例    (月報1 巻1)は第一巻所収の月報1のこと。〝⑧123〟は第八巻123ページのこと。   ・(年月日)は南畝が書き留めた年月。また南畝が序跋等で関係した書籍、あるいは自作品の刊行年月。年月には原文に     明記してあるものと、筆者が推定したものとがあり、基本的には記事の前後関係から推定したものが多い。    (~記)は南畝が記事を書き留めた年月。    (~詠)は南畝が狂歌・和歌を詠んだ年月。    (~賦)は南畝が漢詩・狂詩を賦した年月。    (~以前記)は記事がその年月以前の書き留め。    (~以後記)は記事がその年月以後の書き留め。    (~刊)は出版物の刊行年月。    (~明記)は原文に年月が明記してあるもの。    (~?)は留保付きのもの。    (年月なし)は年月を推定する材料のないもの。    (年月未詳)は年月を推定する材料はあるものの特定できないもの。   ・年次は元号のみにした。一応南畝の生きた時代の元号と西暦との関係を以下に挙げておく。    宝暦1年~14年 (1751~1764)    明和1年~ 9年 (1764~1772)    安永1年~10年 (1772~1781)    天明1年~ 9年 (1781~1789)    寛政1年~13年 (1789~1801)    享和1年~ 4年 (1801~1804)    文化1年~15年 (1804~1818)    文政1年~13年 (1818~1830)   ・〈 〉は筆者の記述あるいは注記   ・〝 〟は引用の原文   ・漢文の返り点、送り仮名は省略した   ・南畝の〝題画〟や〝画賛〟の類は、当然のことだが、その全てが画中に揮毫された〝題〟や〝賛〟ではない。南畝が実    際に画中に筆を運んだかどうか、全集の文面からは判然としないものが多い。現在残されている作品に当たればよいの    だが、筆者の手に余るため出来かねた   ・南畝の呼称でなるべく通したが、漢詩以外狂歌等の文芸面では享和年間以前を赤良、以降を蜀山人とした。   ・「浮世絵考証」の成立を(寛政12年5月以前記)としたのは、全集第十八巻の中野三敏氏解説に従ったもの。なお細字     二行の割注や朱注には南畝以外の文も混じるという。すなわち寛政十二年以降の記事もあることになる。また「浮世     絵考証」の解題(⑱436)は〝朱の○を付した細字注は享和二年十月の京伝「追考」などより後の人の注記であろう〟     とする   ・「判取帖」(天明3年頃成)とあるのは、浜田義一郎氏の「『蜀山人判取帳』補正〈翻刻〉」(昭和四十五年・大妻女子     大学文学部・紀要)を用いた。   ・「雲茶会」とあるのは参加者自ら所蔵品を持ち寄って鑑賞する古書画器物の会。出品を二百年以内の〝青楼、戯場其外     之俗ナル古物〟と限定。つまり江戸時代を特徴づけるともいうべき悪所ゆかりの作品を鑑賞する会である。催主は青     山堂。「雲茶会」とは会場の神田明神前茶屋・雲茶店からとった。参加者は南畝・山東京伝・京山・談洲楼焉馬・佐     々木万彦・老樗庵・反故庵・紀束等が参加。毎月二日を会日として発足したが、文化八年四月二日(初集)と同年五月     二日(二集)の二回だけ行われて終わったようだ。詳細は「書簡163・166・172」(⑲227・229・233)および「一話一言補     遺1」(⑲89-112)参照のこと。   ・「瑣々千巻」は書肆・青山堂・雁金屋の千巻文庫(「慶長已来の稗史野乗、古器古書画」を収蔵)を南畝が点検して表     題を与え識語等を記したもの。   ・(南畝耕読)とあるのは、南畝編の「杏園余芳」と「香炉峰」を、中野三敏氏が「全集」の月報上に解題したもの     読み  絵師名  〔生没年〕  1 あしふね 蘆ふね 〔生没年未詳〕  ◯『壬申掌記』⑨576(文化九年八月記)   〝浪花戯場、三やく 嵐吉三郎 中納言行平 左甚五郎 孔雀三郎    おやま人形 金太郎作 葩洲補助〈松島検校調べの歌詞あり、略〉    人形 芦州画 甚五郎 蘆ふね画〟    〈大坂絵師。嵐吉三郎扮する左甚五郎役の芝居絵を画いたようである。おやま人形を作成したらしい金太郎と葩洲は未詳〉  2 あしくに? 芦州 〔生没年未詳〕  ◯『壬申掌記』⑨576(文化九年八月記)   (大坂絵師。上掲「蘆ふね」と同文。前項参照。「おやま人形」を画いたか)  3 いっちょう はなぶさ 英 一蝶 〔承応元年(1652)~享保九年(1724)〕  ◯「一話一言 巻四」⑫185(安永八年記)   (某氏所蔵の〝北窓翁賛画〟を書写。一蝶と其角が深川の芭蕉庵に遊んで帰る夕べに吟じた発句と付け句    の写し)    〈南畝は詞書と句の書留を見て写したようで一蝶の原画を見ていないようだ。一蝶と蕉門との親密な交遊を示す資料で     ある〉  ◯『通詩選諺解』①498(天明七年一月刊)   (南畝の狂詩「永久夜泊」の詞書)   〝英一蝶朝妻舟賛 あだしあだなみよせてはかへる波枕といへるもこの類にしてひんのよき物なり〟    〈南畝の狂詩は『唐詩選』所収、張継の詩「楓橋夜泊」を踏まえて、箱崎町辺に出没する「船饅頭(娼婦)」を賦した     もの。その「船饅頭」を一蝶の画く「朝妻船」の遊女に見立て、「ひんのよき物」としたところが狂詩たる所以。一     蝶絵画の代表作である「朝妻船」と「あだしあだなみ~」で知られた一蝶作の音曲「朝妻船」ともに江戸人にとって     はごく身近な作品なのである〉  ◯「一話一言 巻十一」⑫456(天明八年八月記)   (芝二本榎「来(ママ)教寺」にある一蝶の墓の書留め)   〈その向かいの上行寺には其角の墓がある由。二人の仲は死後に至るまで親しい間柄だと、江戸人は連想したのである〉  ◯「瀬田問答」⑰380(寛政二年八月以前)   (南畝の一蝶の三宅島流罪時期に関する質問に対して、瀬名貞雄が与えた返事)   〝一蝶が事書留メ無御座候。猶亦可相尋候。凡元禄、宝永、正徳時分〟    〈「瀬田問答」は故実考証家・瀬名貞雄と南畝との問答書。題名は瀬名と大田の名字からとったもの。この流罪には将     軍家の関わりも噂されていたから、おそらく差し障りがあったのだろう、貞雄の返答は誠にそっけないものであった。     この項目には他に「古今人物志」から一蝶の諸号・略伝および「まぎらはす~」の辞世などが書き留められている〉  ◯「半日閑話 巻四」⑪146(寛政三年頃記か?)   〝多賀信賀(香)・暁雲堂・北窓翁・簔翠(ママ)翁・潮湖斎・摂州人。事狩野安信、后立一家〟    〈没年および「まぎらはす~」の辞世を書き留める。この書留の典拠は不明〉  ◯「半日閑話 巻三」⑪104(寛政五年記)   (南畝、尾州藩の戸山屋敷にて一蝶画「釣瓶に燕」(掛物一幅)を一見したとの書留)    〈絵の内容等記述なし〉    ◯「一話一言 巻二十二」⑬353(寛政十一年記)   (石野広通の考証の書留め。一蝶が狩野安信門を追放されて近江に流された時、多賀長湖と称した事、ま    た小歌「朝妻船」を作詞した事等の記事)   〝此一蝶が小歌、絵の上に書てあさづま舟とて世に賞玩す〟    〈一蝶の「朝妻船」は文字どおり自画自賛なのであった〉  ◯「浮世絵考証」⑱444(寛政十二年五月以前記)   (「英一蝶四季絵跋」全文を載せる。省略)   〝一蝶はもと多賀朝湖と云絵師也 姓は藤原名は信香 字は暁雲、翠簔翁、暁雲堂とも云。表徳は和央。    呉服町壱丁目新道に住せし頃罪ありて、元禄十一寅年十二月、三宅島に流さる。時に歳四十六也。宝永    六年丑九月御赦免、江戸深川に住す。これ〈四季絵跋〉謫居よりかへりての文なり。享保九辰年正月十    三日没。     湯原氏記に云、元禄七年四月二日従桂昌院様六角越前守御使被遣之、     金屏風一双 芳野 竜田 多賀朝湖筆      本願寺へ     同 一双 大和耕作 同人筆      新門え〟    〈岩佐~菱川~英一蝶という南畝の浮世絵系譜は、一蝶の「四季絵」の跋に拠っているのではあるまいか。なお「湯原     氏日記」にある「新門え」桂昌院(三代家光の側室)より贈られた品については記述がない〉  ◯「序跋等拾遺」⑱629(文化三年記)   〝一蝶画浅妻船に寄せて中車に送る扇面〟〝酔沙鴎一潮書〟    〈中車は役者市川八百蔵か。酔沙鴎一潮は南畝の仮号であろう。扇面に一蝶の自筆画があったわけではあるまい〉  ◯「一話一言 巻二十五」⑬464(文化四年十月上旬記)   (英一蝶の画系図あり。ただし典拠不明)  ◯「一話一言 補遺三」⑯435 (文化七年記)   (南畝が過去に惜しくも買い漏らした「奇書」)   〝英一蝶が藤原信香の(一字欠)大神楽の画〟    〈南畝個人の好みか、江戸人共通の趣味か、一蝶画の人気は高い〉  ◯「書簡 212」⑲266(文化九年十一月十六日明記)   (この日、芭蕉以下蕉門の書画を夥しく所蔵する深川の「こいや伊兵衛」宅に一蝶画を見る)   〝朝湖〈一蝶〉之朝顔之画に翁〈芭蕉〉之色紙などは奇々妙々〟    〈鯉屋は芭蕉の門人杉風の子孫〉  ◯「一話一言 補遺一」⑯84(文化九年十一月記)   (前項参照。深川鯉屋にて)   〝一蝶の朝顔画(紙地・立軸)を一見(芭蕉の「朝顔にわれは食(メシ)くふおとこ哉」発句あり〟  ◯「壬申掌記」⑨566(文化九年十二月上旬記)   〝薛球、字君授といふものヽ彫し印を、英一蝶所持せし也。今三河町三文字屋に蔵す〟  ◯「南畝集 十八」⑤281(文化十年四月上旬賦 漢詩番号3768)   (かつて一蝶が仮寓したという宜雲寺(一蝶寺とも称す)に、南畝、友人中井董堂と訪れ賦詩)    〈ただし詩は一蝶と無関係なので省略〉  ◯「万紅千紫」①269(文化十一年頃の詠か?)   〝英一蝶がゑがける太神楽の賛  から獅子の舞はぬ先から里の子が 手の舞足のふむを覚えず〟    〈この「太神楽」の画は、前出「一話一言 補遺3」⑯435にある南畝の買い漏らした「奇書」のことであろうか〉  ◯「半日閑話 次五」⑱205(文政二年十月記)   (杉本茂十郎旧宅、恵比須庵の書画目録。松竹梅の間に〝床掛物、一蝶、飛獅子〟の画ありという)    〈ただし南畝が実見したわけではないようだ。杉本茂十郎とはこの年冥加金不正で役職剥奪された人。庵は元料亭を贅     を凝らして改装したもので、大雅堂、応挙、酒井抱一らの絵画で飾られていたという〉  ◯『仮名世説』⑩529(文政八年一月刊)   〝英一蝶、晩年に及び手がふるへて、月などを画くにはぶんまはしを用ひたるが、それしもこヽろのまヽ    にもあらざりければ、      おのづからいざよふ月のぶんまはし〟    〈これは南畝が絵師高嵩谷から聞いた挿話。しかし初代一蝶は享保九年(1724)七十三才没、一方、嵩谷の生年は享保十     五年(1730)とされる。したがって二人に面識のあろうはずもない。嵩谷にとってもこれは伝聞なのである。なおこの     挿話が二代一蝶のことだとすると、二代目は元文二年(1737)四十七才の没(「江都墓所一覧」は元文一年没)である     から、嵩谷は当時六~七才。相識の可能性もないではないが、「仮名世説」に取り上げられた他の人物の知名度や、     発句の引用などを考慮すると、この挿話はやはり初代一蝶のものと見なしてよいのだろう〉  ◯「一話一言 補遺三」⑯493(年月日なし)   (南畝、「川岡氏筆記」より英一蝶関係の記事を書写。記事は、一蝶流罪の原因が、将軍綱吉と寵愛のお    伝の方を画いたとされる「百人女臈」の絵にあるのではなく、一蝶の無益な殺生にあるとするもの)    〈しかし真相は謎のようだ。「瀬田問答」にもあるように、流罪の穿鑿は南畝の関心事で有り続けたようだ〉  ◯「麓の塵 巻三」⑲510(年月日なし)   〝短夜の早歌 北窗翁一蝶事 和央作〟   〝一蝶の小歌 右は一蝶の花の歌なりと井上蟻雄の物がたり也〟    〈一蝶の和央名で詠んだ歌詞二点、南畝書写。井上蟻雄は南畝の友人であろうが未詳〉    ◯「麓の塵 巻五」⑲517(年月日なし)   〝四季絵跋 英一蝶〟〈「浮世絵考証」参照。全文書写あり〉  ◯「続三十輻 巻九」⑲554(年月日なし)   〝朝清水記 英一蝶〟    〈「続三十輻」は南畝の和文関係の写本叢書。元禄十五年(1702)刊の「朝清水記」もこの叢書に所収。南畝は一蝶を音     曲の作詞家としても高く評価しているようだ〉    ◯「杏花園叢書目」⑲497(年月日なし)   〝続三十輻 二集 朝清水記 英一蝶〟〈「杏花園叢書目」は南畝の蔵書目録。前項と同じものである〉    〈南畝の個人的興味なのか、それとも江戸人共通の関心なのか、流人画家・英一蝶に関する書留は多い。絵はもとより     その生き方まで注目された絵師というのも珍しいのではないか。蛇足ながら言えば、天明四年刊、四方山人(南畝)     作の黄表紙に「此奴和日本」という作品がある。挿絵は北尾政美が担当した。その中に一蝶の掛け軸「女達磨」の絵     が床の間に掛かっている場面がある。この「女達磨」は吉原・中近江屋遊女半太夫をモデルにして一蝶が画いたとさ     れ、彼の代表作「朝妻船」に匹敵する人気の高い絵柄であった。これをさりげなく黄表紙の挿絵に登場させたアイデ     ィアは、はたして南畝のものなのか、政美のものなのかよく分からないが、いずれにせよ一蝶が江戸人の脳裏から離     れることのない存在であったことは確かなようである〉  4 うたまろ きたがわ 喜多川 歌麿 ◎〔宝暦三年(1753)?~文化三年(1806)〕  □「判取帳」(天明三年頃成)   〝(屏風の版画貼込)    口演 此度画工哥麿義と申すり物にて 去ぬる天明二のとし秋忍が岡にて 戯作者の会行いたし候より    作者とさく者の中よく 今はみなみな親身のごとく成候も 偏に縁をむすぶの神人々うた麿大明神と尊    契し 御うやまひ可被下 候以上 四方作者どもへ うた麿大明神〟    〈南畝の注には「画工哥麿」とあり〉    〈南畝と歌麿との交渉は天明二年秋には始まっていた。歌麿が縁結びの神となったらしいこの会の参加者は、「判取帳」     の翻刻者・浜田義一郎氏によると、「屏風の版画貼込」の中にある名前の人々がそうであるらしく、次の顔ぶれとの     こと。四方赤良・朱楽菅江・市場通笑・芝全交・里舟・岸田杜芳・恋川春町・朋誠堂喜三二・森羅万象・山の手馬鹿     人・南陀加紫蘭(窪俊満)・烏亭焉馬・志水燕十・伊庭可笑・雲楽斎・田螺金魚・風車、以上が戯作者。そして絵師の     出席者としては、北尾、勝川、清長の名ありとする。この「北尾、勝川」は重政と春章であろうか〉  ◯『源平総勘定』(黄表紙) ⑦501 (天明三年刊)   〝四方山人著、うた麿画〟(蔦屋板)  ◯「序跋等拾遺」⑳52(天明四年刊)   (「古湊道中記」歌麿筆、南畝跋。天明四年四月十三日付、山谷不可勝序。蔦屋板。本書は房州小湊にあ    る誕生寺の案内記)    〈南畝が跋を認めたのは大田家自身日蓮宗だからであろう〉  ◯『二度の賭』(黄表紙) ⑦296 (天明四年刊)   (「源平総勘定」の再版)  ◯「浮世絵考証」⑱445(寛政十二年五月以前記)   〝喜多川歌麿 俗称勇助    はじめは鳥山石燕門人にして狩野家の画を学ぶ。後男女の風俗を画がきて絵草紙屋蔦屋重三郎方に寓居    す。今弁慶橋に住す。錦絵多し〟  ◯「半日閑話 巻八」⑪245(文化元年五月十六日明記)   〝文化元年五月十六日、絵本太閤記絶板被仰付候趣、大坂板元に被仰渡、江戸にて右太閤記の中より抜き    出し錦画に出候分を不残御取上、右錦画書候喜多川歌麿、豊国など手鎖、板元を十五貫文過料のよ    し、絵草子屋への申渡書付有之〟    〈歌麿、豊国が連座した「絵本太閤記」事件の書き留め。南畝と歌麿との交遊は天明期だけのようである〉  5 うんぽう おおおか 大岡 雲峰 ◎〔明和二年(1765)~嘉永元年(1848)〕  ◯「寸紙不遺」⑯口絵(文化八年三月二十日明記)   (「寸紙不遺」は南畝の貼込帳。文化八年三月二十日、村田雲渓主催の書画会(於池之端蓬莱亭)を報知    する引札。山本北山の書と雲峯の花鳥画が刷り込まれている)    出品者 書家 北山 ・桂園・詩仏(大窪)・米菴(市川)・牛山(筧田)・東洲(佐藤)・南畝        画家 翠雲(山本?)・金陵(金子)・曲阿(清水)・閑林(岡田?)・痴斎(谷文一)・董烈(井戸?)           (大岡)雲峯  ◯「あやめ草」②93(文政四年十一月詠)   〝雲峯のゑがける雲に郭公     ほととぎすなくてふ夏の雲の峰 たてたる筆のひとはしり書〟    〈南畝はこの雲峰を大岡雲峰と明記しているわけではないのだが〉  6 えいし ちょうぶんさい 鳥文斎 栄之 ◎〔宝暦六年(1756)~文政十二年(1829)〕  ◯「浮世絵考証」⑱445(寛政十二年五月以前記)   〝栄こく(ママ) 細田氏。弟子 栄理 栄昌     遊女の姿絵をうつす事妙なり。錦画多し〟  ◯「南畝集 十四」④341(文化元年十月上旬賦 漢詩番号2545)   〝戯題栄之娼妓図     脱却華袿羅帯垂 画屏風外歩遅々 双眸斂鬢掻頭正 応是紅閨進寝時〟    〈遊女、髪・簪を正して閨に入る図である〉  ◯「放歌集」②162(文化八年七月詠)   〝鳥文斎栄之三幅対の画の表具に書ちらせり     左 つとにしたる赤貝より傾城のすがたを吹出したる表具に、大尽舞のうたをかきて一文字に        花さかば御げんといひしあか貝のしほひの留守に使は来たり     中 蛤貝より青楼の屋根の形と土手を四ツ手駕籠の通ふるかた吹出したる絵書きたる表具に       まことはうその皮、うそは誠のほね、のことば書とたはれ歌をかきて一文字に        遊君五町廓 苦海十年流 二十七明夢 嗚呼蜃気楼     右 苞にしたる蜆貝よりかぶろ二人ふきいだしたるに、表具には河東節の禿万歳の文句をかきさして        しヾみ貝つとめせぬ間にさく梅の雪だまされし風情なり平〟    〈貝から蜃気楼が立ち上るように、遊女・日本堤・二人禿が吹き出された図柄の三幅対である〉  ◯「千紅万紫」①241(文化八年七月詠)   (前項「放歌集」②162に同じ)  ◯「一話一言 補遺一」⑯112 (文化十年三月7日明記)   (安田躬弦の「やよひばかりすみだ川にあそぶ記」によると、この日桂雲院主催の遊山があった。藤堂良    道、躬弦、南畝等が参加。この時、栄之は南畝の勧めで三囲稲荷から白髭社の傍ら西蔵院まで合流する。    同院では栄之が注連を張った黒い大石を畳紙に写している。南畝はその絵に和歌と狂歌を寄せたようだ。    栄之は南畝の口利きでこの一行に合流したのだから、二人はよほど親しい仲であったのである〉  ◯「大田南畝全集 巻一」口絵(文化十一年7~九月明記)   (栄之、南畝の肖像画を画く)    詞書〝天明の四方赤良、文化の蜀山人〟    狂歌二首〝鏡にて見しりごしなる此親父おめにかゝるも久ぶりなり         年もはやすでに日本の国の数なを万国の図をやひらかむ〟    款記〝甲戌秋日書于緇林楼中 鳥文斎栄之画〟    〈現在東京国立博物館蔵〉  □『蜀山人の研究』所収 玉林晴男著(文化十一年)   (栄之、南畝の肖像画を画く)    狂歌〝鏡にて見しりこしなるこの親父お目にかゝるも久ふりなり〟    款記〝天明の比の四方赤良、享和已来の蜀山人、六十六歳書 鳥文斎栄之画〟    〈前項の肖像画に比べると詞書と狂歌の数および南畝の署名に違いがある。不審なのは絵柄が全く同じという点だ。な     ぜ二種類の賛を持つ栄之の同一画が存在するのであろうか〉    ◯「六々集」②221(文化十二年一月賦)   〝題栄之画 一入大門口 栽桜花若人 中町多茶屋 七軒七福神〟    〈吉原を描いたものに、南畝の狂詩〉  ◯「書簡 225」⑲278(文化十二年三月二十六日付)   (長崎の知人宛書簡)   〝栄之 細田弥三郎、画人、狩野栄川院門人、浮世絵名人〟    〈当時、南畝が交遊する江戸在住の「名人」として、酒井抱一らとともに栄之の名もあり〉  ◯「七々集」②269(文化十二年十月上旬詠)   〝栄之がゑがける柳に白ふの鷹に     右にすえ左にすゆるひともとの 山気はみどり鷹はましらふ    同く紅梅に鷹     くれなゐの梅咲匂軒ばうち とまれるはたが屋かた尾の鷹〟  ◯「七々集」②270(文化十二年十月二十二日詠明記)   〝白木や夷講 十月廿二日    白木屋にて栄之のかける黄金の竜の富士の山こす絵に     としヾヽにこがねの竜ののぼり行 ふじの高ねの雪のしろきや〟    〈日本橋・白木屋の「売子」(手代?)重兵衛という人が狂歌を詠むらしく、南畝と交渉があった。夷講に招かれたのは     その縁なのだろう。ところで夷講は十月二十日が一般、それが白木屋では二十二日、何か特別な事情でもあるのだろ     うか〉  ◯「万紫千紅」①293(文化十二年十月二十二日詠明記)   〝白木屋夷講 日本橋白木屋〟〈以下前項「七々集」②270に同じ〉  ◯「七々集」②275(文化十二年十一月中旬詠)   〝栄之のゑに瀬戸物町のおのぶと駿河町のおかつをかけるをみて     われものヽ瀬戸物町もさだ過ぬ 島田も丸くするが町より〟    〈「おのぶ」も「おかつ」も当時高名の芸者。特に「おかつ」は「詩は五山役者は杜若傾はかの芸者はおかつ料理八百     善」(蜀山人作)と狂歌に詠まれるほどの売れっ子芸者。南畝はよほど気に入ったとみえ、数多くの狂歌・狂詩・漢詩     を作ってその美貌と芸を称えている。なおこの狂歌に詠みこまれているその他の人々は、詩の菊池五山、役者の岩井     半四郎、遊女かの(吉原若菜楼抱え・私衣(なれきぬ)そして料亭の八百善である〉  ◯「七々集」②290(文化十二年十二月記?)   〝豆男画巻序    (上略)豆右衛門のむかしがたりを、鳥文斎の筆まめにゑがヽれし一巻に、わが口まめの序をそえよと    (以下略)〟  ◯「万紫千紅」①293(文化十二年十二月記か?)   「豆男画巻序」前項「七々集」②290に同じ  ◯「南畝莠言 巻上」⑩397 (文化十四年十月刊)   「(七十五)戻摺石并図」署名「鳥文斎写」  ◯「南畝集 二十」⑤492(文政二年九月中旬賦 漢詩番号4503~4)   〝題鳥文斎細田栄之画山水     陳琳一檄粲成章 曹瞞頭風起臥床 瞥見栄之山水賦 当治愈疾与膏肓〟    其二     貴戚王侯何不明 紛々画院費経営 一時名手避三舎 養朴探幽疑再生〟    〈狩野養朴、探幽の再生かと、南畝は栄之の山水画を高く評価している〉  ◯「紅梅集」②383(文政三年一月中旬詠)   〝吉原桜 栄之画。太田姫いなり奉納     よし原もよし野の花の白雲を みるやまがきのもとの人丸〟    〈太田姫稲荷は駿河台淡路坂上にある太田道灌が勧請したという社〉  ◯「南畝文庫蔵書目」⑲418(年月日なし)   (「巻軸」の項に栄之画二点所蔵)   〝吉原八景    一巻 鳥文斎栄之〟   〝吉原漏刻(ドケ)  一巻 同上〟   (「巻軸書画」の項に一点所蔵)   〝雪天遊覧 一巻 鳥文斎栄之画〟    〈作品の成立時期および南畝の所蔵時期は不明。また「巻軸」と「巻軸書画」との相違も未詳〉  ◯「かくれ里の記」①318(年月日未詳)   〈四方赤良の狂文「かくれ里の記」は天明一年三月の成立。それを天保七年(1836)、花笠文京が「鳥文斎栄之翁古図」に    拠ったとする「香蝶楼国貞」の挿絵を添えて出版したもの。ただ栄之がこの「古図」をいつ画いたか未詳。天明元年当    時でないことは確かだが〉  ◯「書簡 327」甘左衛門宛、蜀山人の返書 ⑲340(年月日未詳)   〝栄之巻物よろしく出来候由大慶仕候。京城四時楽は栄之へ遣候節取出し、例の地獄箱へ入置候間、早々    見出し上可申候〟    〈宛名の甘左衛門は未詳。栄之と南畝の交渉は文化八年以降のようだ。「京城四時楽」も「地獄箱」もともに未詳〉    〈南畝と栄之の交渉は、山東京伝や北尾政美(鍬形蕙斎)そして窪俊満は別として、他の浮世絵師に比べるとより親密     である。栄之の名は文化八年頃から南畝の書留に登場してくるが、文化十一年から十二年にかけて頻出する。なかに     は栄之の席画に蜀山人の即吟・席書ということも結構あったのではないか〉  7 えいしょう 栄昌〔生没年未詳〕   ◯「浮世絵考証」⑱445(寛政十二年五月以前記)  〝栄こく(ママ) 細田氏 弟子 栄理 栄昌〟  8 えいり 栄理〔生没年未詳〕   ◯「浮世絵考証」⑱445(寛政十二年五月以前記)   〝栄こく(ママ) 細田氏 弟子 栄理 栄昌〟  9 えんじゅ 燕寿〔生没年未詳〕  ◯「月露草」⑱9(安永八年八月十七日明記)   (安永八年八月十三日から十七日にかけて、南畝の呼びかけによって、高田馬場五夜連続月見の宴が行わ    れた)    〈「月露草」はその折り参加者が作った歌・連歌・俳諧・狂歌・狂詩・狂文を集めたもの。燕寿は石燕等とともに「新     長庵ばろく」と「米汁」の句へ挿絵を二葉。燕寿は石燕門人と思われる〉  10 えんじゅう しみず 志水 燕十 ◎〔生没年未詳〕  ◯「序跋等拾遺」⑱528(天明三年一月刊)   (燕十作 洒落本『滸都洒美選』(蔦屋板)に「四方山人」の署名で南畝の序あり)  ◯「杏園稗史目録」⑲463 (天明三年一月刊)   〝『滸都洒美選』南畝所蔵〟    □「判取帳」(天明三年六月十九日明記)   〝入置申判取帳 (中略)天明三年卯年六月十九日 志水燕十    (赤良の注)鈴木庄之助住根津〟    〈南畝に絵師燕十としての記事は見当たらない〉  11 おうきょ まるやま 円山 応挙〔享保十八年(1733)~寛政七年(1795)〕  ◯「南畝集 二十」⑤485(文政二年五月下旬賦 漢詩番号4477)   〝題応挙画鶴  聯翩何処鶴 鑑影立汀洲 一片葦間雪 漣漪清不流〟    〈どこで見たものか記述がない〉  ◯「半日閑話 次五」⑱205(文政二年十月記)   (杉本茂十郎旧宅、恵比寿庵の座敷(英一蝶の項参照)の床の間に「応挙の竜」とあり)  12 おくむらは 奥村派  ◯「放歌集」②174(文化八年十二月賦)   〝題古一枚絵  北廓大門肩上開 奥村筆力鳥居才 風流紅彩色姿絵 五町遊君各一枚〟    〈奥村派、鳥居派の全盛時代は紅摺の一枚絵であった。この絵は吉原の遊女〉  13 かしんさい みわ 三輪 花信斎 ◎〔?~寛政九年(1797)〕  ◯「徳和歌後万歳集 11」①32(天明三年詠)   〝何がしの大守、下着にもろ人の狂歌をかヽしめて狂歌衣と名づけ給ひしに、その衣のそびらに花信斎が    筆して猿をかきたるをみて     誹諧の猿の小蓑もこの比は狂歌衣をほしげなり〟    〈花信斎は三輪花信斎。『江都諸名家墓所一覧』(文化十五年刊)に「三輪在栄、号花信斎」『東京掃苔録』に「名在栄、     狩野家の門に入り、猿を画くに妙を得たりといふ」絵師である。寛政9年4月27日没。「何がしの大守」は未詳〉  14 かぶきどう 歌舞伎堂〔生没年未詳〕    ◯「浮世絵考証」⑱447(寛政十二年五月以前記)   〝歌舞伎堂 役者似顔のみかきたれど甚しくなければ、半年斗にておこなわれず〟    〈南畝の記事に〝歌舞伎堂とあるのみで「艶鏡」の名は見えない。なお歌舞伎堂は狂言作者・中村重助の画工名だとす     る説がある。そうだとすると狂名を歌舞伎の工と称する人で、南畝とは面識があった。天明3年5月頃、南畝の方から     面会を請うと、重助は恐縮したか自ら南畝宅に来て逆に狂歌の入門を請う、南畝も入門を許した。後日南畝も重助宅     を訪問し、庭を言祝ぐ狂歌を贈っている。表徳を故一という(以上「巴人集」②408参照)また「判取帳」にも「へ     っつい河岸住」の「きやうかよもの門人」として名を連ねている。しかし、南畝の中村重助記事はこれだけのようで、     歌舞伎堂艶鏡と結び付くような記述は見当たらない〉  15 きゅうき 宮喜〔未詳〕  ◯「杏園稗史目録」⑲486(文政二年明記)   (文政二己卯年、南畝の収得書籍として)   〝吾妻曲狂歌文庫 五十人一首 天明 宮喜所画〟    〈『吾妻曲狂歌文庫』(宿屋飯盛編・四方赤良板下・天明六年刊・蔦屋板)の狂歌師肖像は北尾政演(山東京伝)画とされ     る。「宮喜所画」とは誤記か。南畝もこの狂歌本には関係しているのであるから不審である。宮喜は未詳。それにし     てもこの狂歌本を文政二年に至るまで所蔵していなかったには驚く。或いは途中で喪失したのであろうか〉  16 (きょせん)おおくぼ 大久保(巨川)〔享保七年(1722)~安永六年(1777)〕    ◯「金曾木」⑩309(文化六年十二月記)   〝明和の初、旗下の士大久保氏、飯田町薬屋小松屋三右衛門等と大小のすり物をなして、大小の会をなせ    しよりその事盛になり、明和二年より、鈴木春信、吾妻錦絵といふをゑがきはじめて、紅絵の風一変す〟    〈明和二年、南畝は十七才。この大小摺り物会のことは後年の伝聞であろう。南畝は鈴木春信とは明和三年十月から交     渉が始まり、小松屋三右衛門百亀は安永頃から南畝の記録に出始めるからだ。しかし巨川と思われる旗本大久保氏と     は面識がないようで、記事もこれだけのようだ。なお南畝の記述に「巨川」の名は未見〉  17 きよつね とりい 鳥居 清経〔生没年未詳〕  ◯「浮世絵考証」⑱441(寛政十二年五月以前記)   〝鳥居清信弟子 一枚絵草双紙をかけり〟〈この「一枚絵」は紅摺の一枚絵〉  ◯「一話一言 補遺一」⑯104(文化八年五月二日明記)   (「雲茶会」二集。雲茶店主量山の出品)   〝下総八幡不知之標題黒表紙 稗史作者四方赤人 画工鳥居清経〟   〝此本古板の草双子に標題を新にかへたるもの也。中に作者呉増左とあり〟    〈『改訂日本小説書目年表』によると『下総八幡不知』は天明三年刊、作者画工名なし。この本の古板に相当するもの     未詳。なお古板の「作者呉増左」には同小説年表の安永七~八年に黄表紙の作品がある。不審なのは「稗史作者四方     赤人」なる人。南畝が「四方のあか人」と称したは明和十年の『江戸二色』の序に例があるが、「稗史作者四方赤人」     が南畝かどうか、関係は未詳。またこの書が珍書画会である「雲茶会」になぜ出品されたのかもよく分らない。「雲     茶会」は凡例参照〉  18 きよとも とりい 鳥居 清朝〔生没年未詳〕  ◯「瑣々千巻」⑩349(文化八年四月記)   〝鎌倉(虫)五代記 七巻、卯ノ正月吉日 通油町藤田忠兵衛板。第一(角書)鶴岡東日記 かまくらのゆ    らい 西行法師の事  画工鳥居清朝〟   〝蜀山云、此書古きものヽ様に見ゆれど、此文によりてみれば、宝永以後に作れる書也〟    〈『鶴岡東日記』文中に、大仏殿は「宝永六年」(1709)の成就という記述あり、南畝の注記もこれに拠った。「瑣々千     巻」は凡例参照〉    19 きよなが とりい 鳥居 清長〔宝暦二年(1752)~文化十二年(1815)〕  ◯『菊寿草』⑦227・239(安永十年一月刊)   〝絵師之部 鳥居清長〟   〝さすがは鳥居をこした絵師、清長さん出来ました〟    〈「さすがは~」はこの年出版の黄表紙『化物世継鉢木』(伊庭可笑作)に対する南畝の評。ただ「鳥居をこした」の意     味が判然としない。画風が鳥居から春信・重政風に変わったことを言うのか、あるいは後出のように、鳥居派には紅     摺絵の印象が強いから、錦絵で登場した清長をそう言ったものか〉  ◯『岡目八目』⑦262(天明二年一月刊)   〝画工之部 鳥居清長〟  ◯「浮世絵考証」⑱441(寛政十二年五月以前記)   〝鳥居清信門人 清長は俗称新助、近頃錦絵彩色の名手なり〟〈南畝は清長とは面識がなかったようだ〉  20 きよのぶ とりい 鳥居 清信〔寛文四年(1664)~享保十四年(1729)〕  ◯「浮世絵考証」⑱441(寛政十二年五月以前記)   〝鳥居庄兵衛 元禄十年の板、好色大福帳五冊 絵師の名なり    鳥居清信 庄兵衛は元祖清信俗称也。鳥居庄兵衛清信と書たる絵本おほし     弟子同清満 同 同清倍     同 同清経 同 同清長    鳥居清信は江戸絵の祖といふべし。はじめは菱川のごとき昔絵の風俗なりしが、中比より絵風を書かへ    しなり。此のち絵風さまざまに変化せしかども江戸歌舞伎の絵看板は鳥居風に画く事也〟  ◯「一話一言 補遺一」⑯90(文化八年四月二日明記)   (「雲茶会」初集。海棠園(佐々木万彦)出品)   〝丹絵二枚 竹ぬき五郎 草ずり引 鳥居清信画〟文化年間、鳥居清信画の丹絵は既に珍品になっていたようだ〉  ◯「識語集」⑲725(年月日未詳)   (松月堂不角選の「色の染衣」に南畝の識語)   〝蜀山按、貞享四年丁卯歳也。大和絵師庄兵衛者 鳥居庄兵衛清信也。蓋書林削貞享四字及大和絵師以下    字而作新版也。今以異本訂正。蜀山人〟    〈南畝の「大和絵師庄兵衛」を鳥居清信とする説に従うと、清信の作画期は元禄以前の貞享四年(1687)に溯ることにな     る。しかし『原色浮世絵大百科事典』(第二巻「浮世絵師人名」)はこれを否定している〉    ◯「遊戯三昧」②564(年月日なし)   〝鳥居清信役者画考 鈴木政房記〟    〈「遊戯三昧」は諸家の狂文を、南畝が集めて収録したもの。全集の解説によると、その中に鈴木政房の記す「鳥居清     信役者画考」があるという。本文は筆者未見〉  21 きよはる こんどう 近藤 清春〔生没年未詳〕  ◯「浮世絵考証」⑱442(寛政十二年五月以前記)   〝近藤助五郎清春 赤本、金平本などにあり。正徳、享保の頃なり〟  ◯「瑣々千巻」⑩331・332(文化八年四月八日)   〝いせ物語 画工近藤清春 土佐上るり本のごとき本也〟   〝かる口もみじ傘 画工近藤助五郎清春筆 もと石町 いがや板〟    〈『国書総目録』によると、「いせ物語」は享保十四年(1729)の刊、「かる口もみじ傘」の方は元禄年間の刊とある。     ただし「かる口もみじ傘」の画工名は記載なし〉    〈南畝は清春の版本しか見ていないようだ。「瑣々千巻」は凡例参照〉  22 きよます とりい 鳥居 清倍〔生没年未詳〕  ◯「浮世絵考証」⑱441(寛政十二年五月以前記)   〝鳥居清信弟子〟〝一枚絵、草双紙をかけり〟 〈この〝一枚絵〟も紅摺の一枚絵の意味。次項も同様〉  23 きよみつ とりい 鳥居 清満〔享保二十年(1735)~天明五年(1785)〕  ◯「浮世絵考証」⑱441(寛政十二年五月以前記)   〝鳥居清信弟子〟〝一枚絵、草双紙をかけり〟    〈「原色浮世絵大百科事典」第二巻「浮世絵師人名」によると、初代清満は鳥居清倍の弟子とされる〉  24 くにさだ うたがわ 歌川 国貞 〔天明六年(1786)~元治元年(1864)〕  ◯「書簡 202」⑲259(牛込御門外薬屋、亀屋勘兵衛(壺天主人)宛 文化九年八月四日付)   〝只今画工国貞来談候間、席画をたのみ罷在候〟    〈この席画は実現したのであろうが、その後の消息記事は見当たらない〉  ◯「かくれ里の記」①318(天保七年刊)  (鳥文斎栄之の古図を模写し、香蝶楼国貞の名で挿絵)〈栄之の項参照〉  25 くにのぶ 国信〔生没年未詳〕  ◯『岡目八目』⑦262(天明二年一月刊)   (『岡目八目』は天明二年正月刊の黄表紙評判記〝画工之部〟に名あり)    〈〔国書DB〕画像 天明二年刊『擲討鼻上野』岸田杜芳作に「画工 勝春山国信」の署名あり〉  26 くにまさ うたがわ 歌川 国政〔安永二年(1773)?~文化七年(1810)〕  ◯「浮世絵考証」⑱445(寛政十二年五月以前記)   〝国政(以下朱筆)中山富三郎似皃ヲ画テヨリ板下ヲ画く。歌舞伎役者の似顔をうつす事をよくす〟  27 けいさい くわがた 鍬形 蕙斎〔明和元年(1764)~文政七年(1827)〕   〈北尾政美の名で出ているものは〟まさよし〟の項に一括した〉  ◯「細推物理」⑧386(享和三年八月十四日明記)   〝(南畝)南隣の中川氏の約におもむく。鍬形紹真来りて、略画をゑがく。中川修理太夫殿の臣何がし、    郡山の臣何がしなど相客なり〟    〈いわゆる席画のようである。何を画いたか記述なし。また南畝が画賛を行ったかどうかも記述がない〉  ◯「画巻詞書」②510(文化元年三月上旬明記)   〝鍬形紹真蕙斎画也 文化ときこゆる年のはじめやよひの比 杏花園 詞書〟    〈「游戯三昧」所収。次項巻子本「職人尽絵詞」の南畝詞書の原稿。全集は全文を掲載する〉  ◯「職人尽絵詞」②520(文化元年三月上旬明記)   (松平定信の依頼。鍬形蕙斎画、杏花園詞書)    〈「画巻詞書」とほぼ同文。全集は写真と翻刻を掲載する〉  ◯「書簡 122」⑲266(文化九年十一月十六日付)   (竹垣柳塘宛。英一蝶の項で触れた鯉屋伊兵衛所蔵の書画に関して)   〝蕙斎、武清など参候て少々図を写し申候〟    〈鯉屋は一蝶や許六の画などを所蔵しているから、蕙斎と武清が模写に通ってくるというのだろう。なおこの「武清」     は喜多武清のことと思うが、蕙斎との関係は未詳〉  ◯「序跋等拾遺」⑱559(文化十一年十月七日明記)   (鍬形蕙斎画『心機一払』に南畝の序)   〝一たび筆を下して心のごとくならざる事なきもの、今蕙斎をすてヽたそや(中略)     文化甲戌仲冬陽月甲子 蜀山人〟    〈南畝は蕙斎の画業を高く評価している。なお「国書総目録・著者別索引」には『心機一掃』とあり〉    ◯「六々集」②210(文化十一年十月七日記)    〈前項の「心機一払」と同文。ただ書名が違うようで「画意筆先序」とあり。最初の書名は『画意筆先』だったか。こ     の序に日付書名はない〉  ◯「六々集」②217(文化十一年十一月下旬詠)   〝蕙斎のゑがけるお徳、子の日の松を引所     おたふくのをのが名におふ福引に ひくや子の日の松のすり小木〟   〝同じく女三の宮のかたちにて猫をひいてたてり     思ひきや女三の宮の猫背中 頬たかくして鼻ひくしとは〟   〝同じく蝙蝠をまねく所     鳥にあらず鼠にあらずおふく女の まねくに来る蝙蝠の福〟  ◯「六々集」②223(文化十二年一月詠)   〝紹真のかける小松に松露のゑに     ひろへどもつきぬ千秋万歳の ちはこの玉や松露なるらん〟  ◯「丙子掌記」⑨615(文化十三年十月下旬記)   (南畝、市川米菴の「丙子秋日拙静写蘭蕙賛」を書写。その欄外注に)   〝五山致地氏蕙斎蘭蕙図請予賛、賛曰、蓬蒿満廬 隠士不除 蘭蕙当門 何人不除〟    〈この菊池五山が持参した蘭蕙図の絵師「地氏蕙斎」が鍬形蕙斎らしく思われるが、未詳。また欄外注も南畝の筆と推定     されるがこれも未詳。とりあえずあげておいた〉    ◯「あやめ草」②100(文政五年二月下旬詠)   〝いせ伝のもとより、蕙斎が画がける料理通のさし画の賛をこふ     蝶や夢鶯いかヾ八百善が 料理通にてみたやうなかほ〟    〈『料理通』は八百善著、文政五年の刊行。「いせ伝」(伊勢伝)は文化十一年頃から南畝と交遊頻りで、南畝の資料で     は新橋住の書画所蔵家とあり〉  28 こうかん しば 司馬 江漢 ◎〔延享四年(1747)~文政元年(1818)〕  ◯「会計私記」⑰36(寛政八年十二月九日)   (この日、江戸城入りする琉球人を見物するため、南畝は芝の増上寺門前に至る。次いで「司馬江(一字    欠)」宅を訪問した)  ◯「玉川余波」②123(文化六年1下旬賦)   〝司馬江漢のかける猿橋の画に     ましらなく名におふはしはあし引の 山のかひある国とこそきけ〟    〈文化五年十二月から翌年四月にかけて、南畝は玉川巡視に公務出張。一月二十五日頃、登戸村~宮内村間の宿舎か名     主の家で一見した〉  ◯「一話一言 補遺一」⑯102(文化八年五月二日明記)   (「雲茶会」二集。青山堂の出品)   〝相州鎌倉七里浜図 江漢司馬峻 愛宕山額 大一幅〟    〈以下二項も同じ絵についての記事〉    ◯「南畝集 十八」漢詩番号3518 ⑤209 (文化八年五月賦 漢詩番号35618)   〝青山堂観司馬江漢所画鎌倉七里浜図     昔掲城南愛宕廟 今帰郭北青山堂 泰西画法描江島 縮得煙波七里長〟    〈かつては芝の愛宕山権現社に奉納されていたようだ。詩は五月二日の「雲茶会」当日の賦か〉    ◯「一話一言 巻三十六」⑭416(文化八年五月)   〝近頃まで愛宕山にかけてありし絵馬をはりかへ時、青山堂これを得てヒョウハイして携来   〝相州鎌倉七里濱図 寛政丙辰夏六月二十四日 西洋画士 東都 江漢司馬峻描写〟    〈南畝、前項の詩を「杏花園」の名で題し、絵のあらましを書き留める。丙辰は寛政八年〉    ◯「南畝文庫蔵書目」⑲387・389   〝紀行 西遊旅譚 一巻 司馬江漢〟〈寛政五年刊〉   〝外国 和蘭天説 一巻 司馬江漢 〈寛政七年刊〉       銅板十図 一巻 同上   〈不明〉       天球図  一巻 同上〟  〈寛政八年刊〉    〈明和の頃、南畝は平賀源内の許に出入りしていたから、やはり源内と関係のあった江漢とは面識があったかもしれな     い。また後年には近藤重蔵という両者に共通する友人もいた。したがってもっと交渉があっても不思議はない。だが     南畝の江漢記事はほとんどない。もっとも江漢の著作を所蔵しているのだから、南畝の視界に江漢が入っていたとは     言えようか〉  29 こりゅうさい いそだ 磯田 湖竜斎〔生没年未詳〕  ◯「浮世絵考証」⑱445(寛政十二年五月以前記)   〝湖竜斎 後に法橋となり浮世絵をかヽず 両国橋広小路薬研堀に住せり。是又文調の類也〟    〈「文調の類」という意味は〝男女風俗、歌舞伎役者画ともにつたなき方なり〟である〉  30 しげなが にしむら 西村 重長〔?~宝暦六年(1756)〕  ◯「仮名世説 下」⑩569(文政八年刊)   (新吉原・大文字屋市兵衛(かぼちゃ市兵衛)を画く一枚絵を模写して掲載)    〈ただし南畝の模写ではなく、南畝公認の贋筆・文宝亭の模写。それには「西村重長筆 駿河屋板」とあり。『武江年     表』によると、かぼちゃ市兵衛の評判は宝暦三年頃よりあがるという。原画は当然紅摺絵である〉  31 しげのぶ にしむら 西村 重信〔生没年未詳〕  ◯「瑣々千巻」⑩332(文化八年四月八日記)   〝忠臣身替公平 六段 絵師 西村重信図〟    〈「六段」とは古浄瑠璃の事。この書籍のことは「書簡 167」(文化八年四月八日付青山堂宛)にもあり、「丹表紙之中点     検いたし、表題或は序書候分」として「忠臣身替公平」の書名をあげる。丹表紙は赤本のこと。「忠臣身替公平」は土佐     節の浄瑠璃本らしいのだが未詳〉  32 しげまさ きたお 北尾 重政 ◎〔元文四年(1739)~文政三年(1820)〕    ◯「四方の留粕」①193(明和十年一月記)   (安永二年刊『江戸二色』(鱗形屋板)に南畝の序)   〝北尾氏の筆に写し、弄籟子の狂歌を添て、一ツの草紙とはなりぬ(中略)明和十年睦月のころ、四方の    あか人、飲懸山の麓に記〟    〈「弄籟子」とは笛を愛ずる者という意味だが、誰のことか未詳〉  ◯『菊寿草』⑦227・240(安永十年一月刊)   〝絵師之部 北尾重政〟〈重政画『大違宝船』(芝全交作)の評判〉   〝絵は西東みんなみに北尾の親玉花藍の絵、物いはずに巻頭にすゑました〟    〈『菊寿草』は南畝による天明一年出版の黄表紙評判記。この年の絵師之部には他に鳥居清長、北尾政演、同政美、同     三二郎、勝川春常の名をあげる。政美と三二郎とは同人にしても、北尾派は他派を圧する勢いだから、確かに挿画界     の「親玉」であろうし、実績から言っても「物いはずに巻頭にすゑる」ほかあるまい。花藍は重政の俳号〉  □「杏園余芳」(月報4 巻3 南畝耕読)   「耕書堂夜会出席者名録」(天明二年十二月十七日明記)   (天明二年十二月十七日、吉原大門口の耕書堂・蔦屋重三郎宅にてふぐ汁の会あり。参会者は南畝・重政    ・政演・政美・安田梅順・藤田金六・朱楽菅江・唐来参和・恋川春町・田阿)    〈後に蔦屋の出版を支えることになる狂歌師・黄表紙作家と北尾派の挿絵師達である。安田梅順は未詳。藤田金六は彫     師かと、全集の月報は推定。田阿は河口田阿(河益之)という町絵師で、南畝とはごく親しい間柄。この後、一座は吉     原・大文字楼に宴席を移すが、なぜか重政と金六は参加していない。ともあれこの会は蔦屋の本格的文壇進出工作の     一環なのであろう〉  □「杏園余芳」(月報4 巻3 南畝耕読)   (「北尾重政 花藍 紅翠斎」書簡 天明二年十二月十六日付)   〝御紙上拝誦仕候。然梅之色さし則認差上申候。尤紅之事如仰にて可然候。為筆料被懸貴意慎落手仕候。    万々拝眉可申上候。以上 蝋月十六日〟    〈宛名がないが、南畝宛なのであろうか。また年時もないが、全集・月報所収(南畝耕読)の筆者・中野三敏氏は前項蔦     屋主催の夜会の前日とる。書簡の内容は判然としない〉  □「香炉峰」(月報10 巻9 南畝耕読)(天明六年以降)   〝北尾重政 左助 席画 華藍画(花押)     香炉峰の雪はとヽへば玉簾 あかりたる世も見る斗なり 橘洲〟    〈狂歌は「枕草子」二百五十三段を踏まえたもの。重政の画は清少納言が簾を揚げる場面である。「橘洲」は明和六年     頃、狂歌会を創始した酔竹連の総帥・唐衣橘洲。ところで「橘洲」の読みだが、これは「きつじゅう」とすべきだろ     う。南畝も「南畝莠言」⑩385で「小島橘州」に「こじまきつじう」のルビをふり、また橘州の十三回忌には「むか     しみし人はもぬけのからころもきつ十三のとしやたちけん」と詠んでいる〉    ◯『絵本八十宇治川』⑱540(天明六年刊)   (南畝、四方山人名の序。蔦屋板)   〝こヽに北尾の何がし、あらぶるゑびす姿をもて敷島の大和ゑにうつしたる〟   〝将その画の工なる、巨勢のかなをかもつめをくはえ、其こと葉のおかしき方朔、艾子も頤を解べし〟    〈重政の武者絵は平安時代の巨勢金岡を超えると、南畝は重政の画業を称える〉  ◯「浮世絵考証」⑱441(寛政1二年五月以前記)   〝本姓北畠(朱筆)北尾重政 紅翠斎、花藍、俗名左助、根岸に住す    (弟子、政演、政美の記事あり、略)    重政は近来錦絵の名手なり。男女風俗、武者絵、また刻板の文字をよくかけり〟  ◯「一話一言 巻二十四」⑬432(文化四年四月二十五日明記)   〝(窪俊満)うき世絵を北尾重政 花藍に学ぶ〟    〈もっとも政演(山東京伝)や政美(鍬形蕙斎)のような正式な門人ではないのだろう。窪俊満の項参照〉  33 しせき そう 宋 紫石(楠本雪渓)〔享保十一年(1726)~天明六年(1786)〕  ◯「一話一言 巻七」⑫281(天明四年記)   〝桜棠花(挿画あり)右南蘋沈銓画 見宋紫石画譜〟    〈沈南蘋を模写した宋紫石の画譜を引いて、日本の「桜」が漢語表記では「桜棠」となる事、南畝の考証である〉  ◯「壬戌紀行」⑧267(享和元年三月二十二日明記)   (大坂銅座出張の帰路、京都北野天満宮にて、紫石の画碑を一見)   〝表門を出、影向の松をみる。宋紫石が竹を画けるを石にきざみてたてるあり〟    〈建立の由来等について記述なし〉  ◯「一話一言 巻三十四」⑭287(文化七年四月十六日明記)   (平賀源内の博物書『物類品隲』(宝暦十三年刊)より、南畝、絵具「コヲルド」の記事を写して注記する)   〝按、此画具の事は鳩渓の知己楠本雲(ママ)渓に 聞けるなるべし〟    〈『物類品隲』の挿絵は楠本雪渓(紫石)が担当した。南畝もまた源内とは文芸の先輩・知己であったから、明和の頃、     宋紫石とも面識のあった可能性はある。しかし記述は見当たらない〉  34 じへい すぎむら 杉村 治兵衛〔生没年未詳〕  ◯「浮世絵考証」⑱439(寛政十二年五月以前記)   〝元禄二巳年板の江戸図鑑に、浮世絵師 通油町 杉村治兵衛正高〟    〈元禄二年(1689)当時、杉村治兵衛は日本橋通油町住で「浮世絵師」と呼ばれていた〉  35 じゃくちゅう 若冲〔享保十一年(1726)~寛政十二年(1800)〕  ◯「南畝集 十三」④216(享和二年五月賦 漢詩番号2130)   〝若沖(ママ)居士画鶏     誰画鑽籬菜 更添眉豆花 有人呼喌々 飛去入隣家〟    〈これを伊藤若冲の鶏画と見た。若冲は寛政十二年九月八日没。南畝の大坂銅座着任は翌年の享和元年三月十一日。南     畝は生前の若冲を知らなかったようだ。この詩は大坂から戻った頃詠まれた。所有者への言及はない〉  36 しゃらく とうしゅうさい 東洲斎 写楽〔生没年未詳〕  ◯「浮世絵考証」⑱446(寛政十二年五月以前記)   (歌川国政の項に続けて)   〝写楽 これまた歌舞伎役者の似顔をうつせしが、あまりに真を画かんとてあらぬさまにかきなせしかば、    長く世に行われず、一両年にして止ム〟    〈この南畝の批評をどう解釈したものか。役者の似顔絵とは役者とその役者が扮する役柄とを二重写しに描いたものを     言うのであろうが、写楽の場合はその役者が扮した役柄以上に役者の方に比重がかかりすぎバランスを欠いたと、南     畝は言うのであろうか。つまり舞台上の何者かに扮した役者を写したものではなくて、役者そのもの肖像画になって     しまったと。したがって「あまりに真を画かんとてあらぬさまにかきなせし」とは、役者の肖像に重点がかかり、舞     台上で役柄に変身している役者の放つ「花(はな)」のようなものを画いていない、と解釈できるのかもしれない。い     わば写楽は助六を演ずる市川団十郎を画いたのであって、市川団十郎扮する助六を画いたものではないと、南畝は言     うのだろう。そしてそのような写楽画の姿勢は、南畝のみならず「世に行われず」とあるので江戸人のと言ってよい     のかもしれないが、彼らの歌舞伎の見方とはおよそ違っていたのだろう。南畝・江戸人は舞台上に間違いなく「市川     団十郎の扮する助六」を見るのであろうから〉  37 しゅうしゃ 秀車〔生没年未詳〕    ◯『世説新語茶』⑦108(安永五~六年刊)    署名「山手馬鹿人」挿絵「秀車画」富田屋板〈南畝の洒落本。秀車は未詳〉  38 しゅんえい かつかわ 勝川 春英〔宝暦十二年(1762)~文政二年(1819)〕  ◯「浮世絵考証」⑱444(寛政十二年五月以前記)   〝勝川春章 又勝宮川氏とも 弟子 春好 春英 〟  39 しゅんこう かつかわ 勝川 春好〔寛保三年(1743)~文化九年(1812)〕  ◯「浮世絵考証」⑱444(寛政十二年五月以前記)   〝勝川春章 又勝宮川氏とも 弟子 春好 春英〟   〝(春章を)人呼て壷やといひ、弟子春好を小壷といひき〟  40 しゅんしょう かつかわ 勝川 春章 ◎〔享保十一年(1726)~寛政四年(1792)〕  ◯「半日閑話 巻十二」⑪343(明和七年七月記)   〝役者絵は春章が五人男の絵を始とす〟  ◯『甲駅新話』⑦6(安永四年秋刊)    署名〝風鈴山人〟挿画〝春章画〟富田屋板〈南畝の洒落本〉  ◯『粋町甲閨』⑦35(安永八年刊)    署名「山手の馬鹿人」挿画「春章画」富田屋板〈南畝の洒落本〉  ◯『南郭先生文集』⑦80(安永八~九年頃刊)    署名「南楼坊路銭」挿画「春章画」版元不明〈南畝の洒落本〉  ◯『道中粋語録』⑦129(安永八~九年刊)    署名「姥捨山人」挿絵「春章画」版元不明〈南畝の洒落本〉  ◯『通詩選笑知』①418(天明三年一月刊)   〝春章 つぼやの人也。但あは雪とは同名異物なり。一説、いづれの子とは、どこのおひめ様という事。    然らばいろ事ではねへじやァねへじやァねへか〟    〈『通詩選笑知』は「唐詩選」のパロディ狂詩とその戯注からなる南畝の狂詩本。この戯注は杜甫の詩「絶句」のパロ     ディ「悦喜」について付けられたもの。狂詩の中に「春草看又画(しゅんしょうみすみすまたぐはす) 何子是目好     (いづれのこがこれめずき)の句があり、これの戯注である。壺屋は春章の異称。また泡雪豆腐を売る壺屋という店も     あったか、狂詩は春章の美人画を見て、どの娘が好みなどと品評してる様子か。また戯注はお姫様じゃ色事どころじ     ゃないということか〉    ◯『通詩選』①440(天明四年一月刊)   〝勝春章図屏風賦得市川太刀〟    〈「通詩選」も前項同様、「唐詩選」のパロデイ狂詩集。この狂詩は、春章画、五代目市川団十郎の「暫」に、李キの     七言古詩「崔五丈図屏風各賦一物得烏孫佩刀」を踏まえて賦したもの。その句の中で「壷屋の似顔奇状を写し 天地     乾坤儼として相向かふ 筆を運(めぐ)らし画と為して時に一枚すれば、人の心をして桟敷の上に在らしむ」と春章画     の似顔絵の出来栄えを賞賛している。南畝は春章画に「人の心をして桟敷の上に在らしむ」と言う。これを写楽の項     目で試みた言い回しで表現すれば、春章画は「市川団十郎の扮する助六」つまり「その役者が扮する役柄」を描いた     ということが出来ようか。南畝の役者似顔絵のイメージはおそらく春章画によっ形成されたと考えてよい。とすると     確かに、南畝の目には写楽の画が役者の肖像そのものに見えたに違いないのだ〉  ◯「浮世絵考証」⑱444(寛政十二年五月以前記)   〝勝川春章 又勝宮川氏とも 弟子 春好 春英    これも明和の頃、歌舞伎役者の似顔をゑがきて大に行わる。五人男の画を始とす。その頃人形町林屋七    右衛門といへる者の方に寓居して、画名もなかりしかば、林屋の請取判に壷のうちに林といへる文字あ    りしをおしでとせり。人呼て壷やといひ、弟子春好を小壷といひき。武者もよく画し也〟   〈南畝は「浮世絵考証」において、錦絵登場以降の絵師として二十余名の浮世絵師とりあげているが、その中で歌舞伎役    者の似顔絵師として、春章、文調、国政、写楽、豊国、歌舞伎堂の名をあげる。役者似顔画絵が浮世絵の中でいかに大    きな比重をもっているか、これでも理解できよう。やはり遊女絵と役者絵という悪所を題材とする絵は浮世絵の重要な    柱なのである。春章はその役者似顔絵の元祖である。錦絵においてその分野を似顔絵で確立した功績は大変大きいとい    わねばならない〉  ◯「杏園稗史目録」⑲485(文化十三年明記)   (文化十三(丙子)年収得した書目中に)   〝舞台扇 三冊 明和七年庚寅 春章 文調画〟    〈浮世絵史を画する本作品の取得が、出版後四十六年も経つ文化十三年とは意外である〉  ◯「南畝文庫蔵書目」⑲414(年月日なし)   〝勝川春章絵本 一巻〟    〈絵本の題名未詳。南畝と春章は安永の頃、洒落本の作者と挿絵師という関係で交渉があった。この組み合わせはおそ     らく版元の富田屋新兵衛(狂名・文屋安雄)によるものであろう。南畝の春章画の版本は絵本を除くと洒落本と咄本     に僅かあるばかり、すべて安永期のものである。天明期に入ると蔦屋との関係が出来たせいか春章の挿絵は見当たら     ない。なお烏亭焉馬の『江戸芝居年代記』寛政元年の項に、役者・中村仲蔵の白拍子免許受領時の摺物があり、筆者     焉馬の談として、仲蔵が先祖の年忌について〝鼎足の友勝川春章と不佞(焉馬)に是を問ふ〟とあり。焉馬と春章と仲     蔵はごく親しい関係にあったようだ〉  41 しゅんじょう かつかわ 勝川春常〔?~天明七年(1787)〕  ◯『菊寿草』⑦227(安永十年一月刊)   〝絵師之部 勝川春常〟  ◯『岡目八目』⑦262(天明二年一月刊)   〝画工之部 勝川春常〟〈名前のみ〉  42 しゅんちょう かつかわ 勝川 春潮〔生没年未詳〕      ◯『頭てん天口有』⑦350(天明四年刊)   (南畝の黄表紙)「四方作 春潮画」西村与八板  ◯『返々目出鯛春参』⑦382(天明四年刊)   (南畝の黄表紙)「四方山人作 春潮画」西村与八板  ◯『拳角力』⑦404(天明四年刊)   (南畝の黄表紙)「四方山人作 春潮画」西村与八板  ◯「浮世絵考証」⑱447(寛政十二年五月以前記)   〝春潮 鳥居清長の筆意をよく贋たり。にしき絵、また草双紙多し〟    〈南畝の黄表紙は確認出来るもの六種、全て天明三から六年の作品で、版元が二つあり蔦屋と西村与八。絵師は蔦屋板     の時は歌麿か北尾政美、西村板の時にはこの春潮である〉  43 しゅんどう らんとくさい 蘭徳斎 春童〔生没年未詳〕  ◯『通詩選諺解』①491(天明五年成)   (「唐詩選」のパロディ狂詩。王昌齢の七言絶句「青楼曲」を踏まえたパロディ「蒸籠曲」の「諺解」    に、大江山伝説に取材した黄表紙として春童作品を引く)   〝菱(ママ)川春童が大通山入〟    〈天明四年刊の『大江山大通山入』は『改訂日本小説年表』には蘭徳斎とあり。菱川は勝川の誤記か〉  44 しゅんまん くぼ 窪 俊満 ◎〔宝暦七年(1757)~文政三年(1820)  ◯『菊寿草』⑦227(安永十年一月刊)   〝作者之部 南陀伽紫蘭〟  ◯『岡目八目』⑦262(天明二年一月刊)   〝作者之部 南陀伽しらん〟    〈『岡目八目』は南畝による天明二年出版の黄表紙評判記。南陀伽紫蘭は俊満の戯作名。この年の紫蘭作『五郎兵衛商     売』(松村板)は「上上吉」の評判を得ている。天明初年の頃、俊満は文芸の人でもあったのだ〉  ◯「巴人集」②399(天明三年四月詠)   〝一トふしのちつえにおくる     一ふしにちよをこめたる竹の子の比はしゆんかんお名は俊満〟    〈一節千杖は俊満の狂名〉  □「判取帳」(天明三年頃成)   〝生酔神祇     かくかヽん呑んではくらす生酔のつみてふつみも中臣の友      (酒杯の画) 一ふしの千杖〟    (赤良の注「窪田安兵衛住通塩町」とあり)  ◯「浮世絵考証」⑱446(寛政十二年五月以前記)   〝窪俊満〈以下二行分朱筆〉始北尾重政ニ学ビ 後春章ニ学ブ    亀井町に住す。狂歌すり物の絵のみをかく。左筆也。尚左堂と云〟    〈「重政に学ぶ」とあるのは入門して師弟関係を結んだという意味であろうか。「浮世絵考証」は「西川氏の筆意を学び     て」というように私淑の意味でも使う。もし重政門人であるとすれば、重政の項に政美・政演とともに名があってよ     いと思うのだが、いかがであろうか。春章との関係は、後出のように、俊満自ら門人であることを否定している〉  ◯「細推物理」⑧341(享和三年一月七日明記)   (馬蘭亭(山道高彦)にて狂歌会あり。南畝、大坂の泉屋直蔵を伴い参加。狂歌堂真顔、吾友軒米人らに混    じって尚左堂俊満も参加)  ◯「細推物理」⑧359(享和三年三月十五日明記)   (南畝、窪俊満を訪問、同所で萩の屋の翁(大屋裏住)に逢う、その後三人連れ立って本所米沢町竹明(酒    楼)に宴)  ◯「細推物理」⑧378(享和三年七月一日明記)   (南畝、高橋万里とともに「小伝馬町」の俊満を訪問。俊満、酒肴にてもてなす。その後俊満の知人で狂言    作家の並木五瓶や柳屋長二郎(酒泉亭)も合流し、両国広小路菊屋に宴)  ◯「細推物理」⑧380(享和三年七月七日明記)   (七夕、南畝、馬蘭亭、甘露門、俊満と墨水に遊船。その後、深川富が岡・尾花楼に宴)  ◯「細推物理」⑧381(享和三年七月九日明記)   (かねて約束の明日の遊船、南畝に支障が出来、断りに俊満の許に行き飲)  ◯「細推物理」⑧382(享和三年七月十五日明記)   (中元、南畝、馬蘭亭、名和氏とともに俊満と約束の柳橋舟宿・若竹屋に行き、屋根舟にて宴)  ◯「革令紀行」⑧421(文化元年八月20・二十一日明記)   〝今宵は尚左堂・奇南堂など酒くみかわし、夜ふけてふせり〟   〝(翌日)尚左堂はこれよりわかれて讃岐の国象頭山にまうでんとて、手をわかつ。ふるさとへの文ども、    浪花の便にことづてやる〟    〈南畝は長崎へ赴任中、播磨国室津港にて俊満、奇南堂(蘭奢亭薫)と宴席をともにする。俊満は金毘羅宮参詣の途中で     あった。奇南堂の方はこの後直ぐ重病に陥った南畝を看病しながら長崎まで同行した。なお粕谷宏紀氏の『石川雅望     研究』によると、これ以前の八月五日、桑名において、俊満は石川雅望(宿屋飯盛)と出会っていた。飯盛は京・大坂     入りを目前にして発病し、やむをえず江戸に戻る途中であった。南畝は俊満から飯盛の消息も聞いたに違いない〉  ◯「書簡 50」⑲83 (文化元年九月十一日付)   (南畝、長崎着(九月十日)翌日付、江戸の馬蘭亭宛書簡)   〝俊満も四日市より参り居り候間、牡丹と菊を画がヽせ遣候。俊満は金毘羅参詣、押付帰可申候〟    〈長崎入りした俊満画の消息について、南畝の記事は見当たらない。またいつ戻ったのか、俊満の江戸帰省についても     記事はないようだ〉  ◯「南畝集 十四」④348(文化元年十月中旬賦 漢詩番号2567)   〝尚左堂二覧浦図  二覧遥連浦 双巌対若門 欲知神所在 勢海浴朝暾〟    〈俊満画の伊勢二見ケ浦の図に長崎において賦詩。室津で南畝は俊満自身から入手したものか。この絵も前項同様消息     は不明である〉  ◯「をみなへし」②25(文化四年四月上旬詠明記)   〝(卯月のはじめ)尚左堂にて初鰹をくふ     ほとヽぎす聞(く)みヽのみか初鰹 ひだり箸にてくふべかりける〟    〈俊満は左利きであった〉  ◯「をみなへし」②28(文化四年九月詠)   〝尚左堂のもとにまどゐして     霊宝は左へといふことのはも 此やどよりやいひはじめけん〟    〈これも左利きを詠んだもの〉  ◯「一話一言 巻二十四」⑬432(文化四年四月二十五日明記)   〝吾友窪俊満 易兵衛 はじめ魚彦の門に入て、蘭竹梅菊の四君子を学ぶ。後うき世絵を北尾重政花藍に    学ぶ。魚彦より春満といへる画名をあたへしが、勝川春章といへるうき世絵の門人と人のいふをいとひ    て、春の字を俊の字に改めしといへり〟    〈「浮世絵考証」の「春章に学ぶ」と矛盾する記述だが、享和期以降頻繁な交遊を経た上での南畝記事だから、俊満自ら語     ったこちらの方が信憑性はある。それにしてもなぜ俊満は春章の門人と見なされるのを嫌ったのであろうか〉  □「夢の浮き橋」(文化四年八月記)   (文化四年八月十九日、富岡八幡祭礼の時、永代橋墜落。「夢の浮き橋」はその被害状況を南畝が緒家よ    り集めて記したもの。窪俊満からは亀沢町八百屋の娘の被害を聞書きしている)    〈「夢の浮橋」の全文は「燕石十種」第四巻(中央公論社刊)に所収〉  ◯「紅梅集」②319 (文化十四年十二月詠)   〝関宿の君の春のすりものヽ奥にことば書そへよとこふに、又鈍々亭和樽の社中白木屋何がしのすりもの    に歌をこふ。二つともに尚左堂俊満のたくみなり     橘のはなの先より遠責の 面しろ木やの鈍々の音    ふたつともにいなみて狂名をばかヽず〟    〈「関宿の君」は久世大和守。「白木や何がし」は日本橋白木屋の奉公人重兵衛か。摺り物に評判の高い俊満画に蜀山人の     狂歌を配したものだが、狂名を入れるのは拒否したとあり。気乗りしない理由は不明である〉  ◯「半日閑話 次五」⑱183(文政二年三月二十日付)   (大坂在住重岡真兵衛の南畝宛書簡)   〝当表大江橋辺に蜀山せんべい売弘、せんべいに尊君様御狂歌抔相認メ御座候由、求に遣し候処、昨日は    売切候由にて手に入不申候。去冬俊満登坂にて、同人の趣向と察居申候〟    〈大坂にて評判の「蜀山せんべい」なるものを案じ出したのは、文政元年の冬、大坂入りしていた俊満というのである。     前項もそうだが、俊満は「蜀山人」の名前をずいぶんあちこちで利用しているような気配だ〉   〈南畝が浮世絵師のなかで一番親しかったのは山東京伝だが、俊満はそれに次ぐ。交渉は狂歌・摺物といった出版の関係    を超えた私的な領域にまで及んでいる。どうしてこんなにウマがあったのか分からないが大変親密だ。しかし文政三年    九月二十日の俊満逝去について、南畝に書き留めはないようだ〉  45 しょうしょうけん 小松軒 百亀 ◎〔享保五年(1720)~寛政五年(1793)〕   〈画業に関する記事と南畝との交渉記事のみ〉  ◯「識語集」⑲690(安永二年十二月十二日明記)   (細井広沢の和歌書「広沢和歌」を書写した時の南畝の識語)   〝飯田町に薬ひさぐ小松やの翁のもとより借りもとめて写し置もの也。安永二年季冬十二日〟    〈南畝との交渉は安永二年から始まったか。この年の春、小松百亀は『鹿の子餅』(木室卯雲作、明和九年刊)と並んで     江戸咄本の祖ともされる『聞上手』を出版し、評判を得ていた〉  □「全集 巻一 解説」①525(安永三年二月四日)   (浜田義一郎氏の解説によると、安永三年二月四日、牛込恵光寺にて開催された滑稽版「宝合」の会に、    南畝や塙保己一等とともに、小松百亀も和気春画(ワケノハルエ)の狂名で参加の由)  ◯「四方の留粕」①203(安永八年一月四日明記)   (狂文「春の遊びの記」によると、正月四日、絵師・吉田蘭香宅にて「写絵(うつしゑ)の書ぞめ」会あり。    絵師の隣松、蟷車、狂歌の赤良、橘洲、菅江等とともに小松軒も参加。この会で小松軒は「小松はみど    りの亀のを、泥中にひきしりぞき」とある)    〈小松の苗字そのものが正月にふさわしくそもそも目出たいのだが、なおそのうえに名前百亀にちなんで亀の絵を画き、     新年を言祝いだのだ。小松百亀の即席画である〉  □「判取帳」(天明三年四月七日明記)   〝天明三卯月七ツの日 予が大草のかくれ家を小草庵と名付たまはりしは     かぎりなきよろこびなりけらし 小松百亀六十四才書     (小松百亀の自画像)〟   (南畝の注に「小松屋三右衛門飯田町中坂薬舗住大草屋舗」とあり)  ◯「巴人集」②399(天明三年四月詠)   〝小松軒が大草のかくれ家をとひて     山中にひきこもりたる小松やと思ひの外に大草の庵〟    〈これは前項「判取帳」の四月七日と同じ日か〉  ◯『檀那山人藝舎集』①461(天明四年三月序成)   〝七月二十六日夜過小松軒遇雨     飯田町上小松軒 新話枝栄葉亦繁 風雨闇雲廿六夜 不知何処拝三尊〟    〈月の出を賞して阿弥陀以下三尊を拝むこの小松軒での「六夜待ち」は天明三年のこと。あいにく「風雨闇雲」の空模様で     あったが〉  ◯「会計私記」⑰52(寛政九年一月十日明記)   (南畝は年始の挨拶に小松屋三右衛門宅を訪問)    〈ただし百亀は寛政五年十二月九日没であるから、この三右衛門は次代である〉  ◯「浮世絵考証」⑱443(寛政十二年五月以前記)   〝小松屋 俗名三右衛門 後百亀と云     明和の頃大小のすり物の画、多く小松屋のかけるなり。西川氏の筆意を学びて春画をかけり。元飯田     町薬舗なり。肉蒲団、ぬくめ夜着等の本あり〟    〈西川氏とは祐信の事〉  ◯「一話一言 巻二十九」⑭123(文化五年頃記)   (牛込七軒寺町弁天社の相撲取り肖像絵馬の事)   〝飯田町小松軒 小松屋三右衛門薬店 これを模写して世継稲荷社の絵馬に上しが、其後の回禄にうせて今    はなし〟    〈焼失して文化五年当時は既になしという〉  ◯「金曾木」⑩309(文化六年十二月記)   (旗本の大久保(巨川)と摺物の大小会こと)    〈巨川の項参照〉  ◯「奴凧」⑩480(文化十五年成)   〝元飯田町中坂にすめる薬店、剃髪して百亀といふ。若き時より春画をこのみて、西川祐信のかける画本、    春画ともにことごとくおさめけり。その自ら絵がける春画、板行になりしは、肉蒲団、ぬくめ夜着、此    外にも猶あるべし。落とし咄しの本も多し。小本に書しは、卯雲の鹿の子餅をはじめとして、百亀が聞    上手という本、大に行れたり。其後小本おびただしく出し也〟   〝文武丸といへる丸薬は小松屋が秘方也。老人など大便秘結するによろし。委くは予が板下をかける効能    書にみゆ〟    〈明和期、江戸における西川祐信画の受容には小松百亀の存在も大きいようだ。一方百亀は木室卯雲とともに江戸小咄     の創始者でもあった。卯雲の『鹿の子餅』(春章画)は明和九年刊、『聞上手』(挿絵も百亀か)は翌安永二年の出版と、     あい次いでいる。また南畝と百亀の交渉は、薬の効能を書いてあげるくらいであるから相当親密であった〉  ◯『仮名世説』⑩533(文政七年刊)   〝百亀は八十余歳にて寛政の比終れり。此人落し咄の上手にて、聞上手といひしはなしの小冊大きに行れ    たり。これ落し咄小本のはじめなるべし〟  ◯「あやめ草」②81(年月未詳)   〝名にしおふ文武丸をも用ひずによく通じたる小松教訓    これは飯田町小松屋といふ薬屋にある文武丸といへる通薬を年比用ひたればなり〟    〈文武丸の効能を書したばかりでなく、南畝は自らも服用した〉  ◯「南畝文庫蔵書目」⑲415(日付なし)   〝画部 女容婦美硯 一巻 不知足堂〟  ◯「杏園稗史目録」⑲467(日付なし)   〝春画并好色本 女容婦美硯 一巻 不知足堂選 艶堂散人画 娯楽堂蔵〟    〈この不知足堂は百亀か。安永二年刊『聞上手』二編の自序に「不知足散人」の名が見え、これは百亀である。「娯楽堂」     「艶堂散人」も百亀の 仮名だろう〉   〈百亀と南畝との交渉は安永二年頃から寛政五年、百亀の死まで約二十年にわたったようだ。南畝の印象では、百亀は木    室卯雲と並ぶ江戸咄本の創始者であり、また祐信を信奉する春画の百亀ということになろうか〉  46 しんさい りゅうりゅうきょ 柳々居 辰斎 ◎〔生没年未詳〕  ◯「万紫千紅」①294(文化十二年十月下旬詠)   〝かまくらがし春の屋のもとにて夷講の日、辰斎、夷の鰹つりたる所を画きければ     名にしおふ鎌倉がしの魚なれば鯛より先にゑび寿三郎〟    〈「春の屋」は鎌倉河岸の酒家・豊島屋。辰斎が恵比寿に鯛ならぬ「鰹」を画いたのは、豊島屋が他ならぬ鎌倉河岸にあっ     たからだ。鎌倉と言えば、江戸の人々は鰹を連想し、兼好法師の『徒然草』(119段)を想起する。もっとも江戸人の     鰹は、兼好法師が卑下するような下魚ではない。南畝の書留によれば、文化九年三月二十五日、役者・中村歌右衛門     が買った初鰹は三両であった〉  ◯「七々集」②271(文化十二年十月下旬詠)   〝酒ぐらは鎌倉がしにたえせじなとよとしま屋の稲の数々〟    〈前出の豊島屋の夷講と詞書、狂歌とも同じ。但し「春の屋」が「豊島屋」になっており、狂歌も一首多い〉  ◯「紅梅集」②348(文政元年七月下旬詠)   〝江島岩本院新居の額に辰斎の桜の画あり     蓬莱に桜をゑがく寿も江の島台の花にこそみれ    同じく紅葉のゑに     夕日影させるかた瀬の村紅葉みなくれなゐにうつしゑの島〟    〈南畝が相州江の島に立ち寄ったのは文化元年七月二十六日頃、長崎に赴任中であった。この時詩を賦しているが、辰     斎の奉納額には触れていない。それとも帰路の文化二年十一月十七日頃見たのであろうか、しかしこれも記述はない。     この時以外南畝が江の島に行った形跡はない。この狂歌の前後に配された狂歌は文政元年七月のものである。奉納さ     れる前に絵を見て詠んだものか。いずれにせよ辰斎の作画時期は未詳〉  47 すうげつ こう 高 嵩月 ◎〔宝暦五年(1755)~天保元年(1830)〕  ◯「書簡 135」⑲198(文化三年八月十七日付)   (この日南畝宅に月見の宴)   〝画人嵩谷門人嵩月、柳橋歌妓おしげ来三弦。詩もなく歌もなし。唯酒斗〟    〈席画も南畝の画賛もなし。ひたすら飲むばかりの宴だった〉  48 すうこく こう  高 嵩谷〔享保十五年(1730)~文化元年(1803)〕  ◯「半日閑話 次五」⑱205(文政二年十月)   〝(杉本茂十郎旧宅、恵比寿庵の座敷)床 月下碪 嵩谷筆〟〈一蝶の項に前出〉  ◯『仮名世説』⑩529(文政八年一月刊)   〝町絵師にて近来の上手なり。俳諧を好み発句をよくせり。海鼠の自画賛は、望む人あればたれにてもす    みやかにかきて与へし也。その発句、天地いまだひらき尽さでなまこかな〟    〈この記事は、一蝶晩年の挿話を南畝に語った嵩谷自身に関するもの。嵩谷は俳諧を好むなど一蝶に範を求めたようだ     が、前述のように初代一蝶の許に出入りすることは不可能であったから、一蝶の没後、挿話の類を集めたのではある     まいか。嵩谷は文化元年の没、したがってこの南畝の聞書きはそれ以前のもの。一蝶の項参照〉  ◯「南畝文庫蔵書目」⑲408(年月日なし)   〝中近江屋半太夫肖像 高嵩谷粉本 文宝亭模〟    〈この遊女の肖像は嵩谷自筆ではなく、亀屋文宝が模写したもの。文宝亭とは南畝が代筆(贋筆)を半ば公然と認めた人     で、亀屋久右衛門といい二代目蜀山人を称した〉  49 すうじゅ 嵩樹〔生没年未詳〕  ◯「玉川砂利」⑨297(文化六年二月五日記)   〝森嵩樹が画賛 峯村漁峯翁〟    (五種の絵柄は以下の通り)   〝夕立に馬士明俵をかぶりて行〟   〝薪おへる山人ほとヽぎすをきく〟   〝ぶの山に紅葉あり〟   〝蜂房が遊客の画に〟   〝芸者のゑ〟    〈南畝、玉川巡視中、峰村にて一見。この「森嵩樹」は『原色浮世絵大百科事典』の「浮世絵師」にいう高嵩樹と同一人か。     狂歌は「峯村漁翁」の作だが、南畝の仮名であろうか。なお画賛の狂歌は省略〉  50 すうしょう 嵩松 ◎〔享保九年(1724)~文化八年(1811)〕    〈狂歌師、元木阿弥。ここでは嵩松名の記事と画業に関する記事のみあげる〉  ◯「をみなへし」②14(天明元年詠)   〝嵩松子かしらおろして土器町のほとりにすめるよし     おつぶりに毛のないゆへか若やぎてかはらけ町にちかきかくれ家〟    〈飯倉土器町の元木阿弥の隠居を「土碗房」と呼ぶ〉  □「判取帳」(天明三年頃成)   〝もとのもくあみ自画賛 (老人の像)     かくばかりかはるすがたや梅ぼしも花をさかせしすいのみのはて〟   (南畝の注)〝渡嵩松住西窪神谷町号落栗庵〟    〈この年の嵩松の年齢はちょうど還暦を迎えたくらいか〉  ◯『檀那山人藝舎集』①465(天明四年三月刊)   〝題嵩松朱買臣画    鉈子一丁一把薪 傍開一巻更無人 知君能覆盆中水 墨画々成朱買臣〟    〈いわゆる大器晩成の喩えである。「朱買臣五十富貴」の故事に取材した嵩松の画に南畝の狂詩〉  ◯「一簾春雨」⑩507(文政頃記か)   〝薮へ来て鳴ならへどもそのなかにいちこゑ二ふく竹の鶯     右、自画自讃 元杢網〟    〈南畝との交渉は、明和七年以来のもので、ずいぶん長い。もちろん狂歌を介してのものだが、文化八年六月二十八日     の木阿弥逝去の際も、南畝は狂歌を詠んで追悼している〉  51 すけのぶ にしかわ 西川 祐信〔寛文十一年(1671)~寛延三年(1750)〕    ◯「一話一言 補遺二」⑯224(安永初年以前記)   〝今の春画に女の孔門を画ざるは、西川祐信よりこのかたなりと山岡澹斎の話なり〟    〈山岡澹斎浚明は安永九年十月十五日没〉  ◯「俗耳鼓吹」⑩17(天明初年~八年七月二日記)   〈前項、山岡談の書留に同じ。ただ「孔門」に「シリノアナ」のルビ、「山岡澹斎」が「山岡明阿」となる〉  ◯「浮世絵考証」⑱442(寛政十二年五月以前記)   〝西川祐信(以下二行分朱筆)号自得斎、一号文華堂 京狩野永納門人ト云    京都(余白)に住す。中興浮世絵の祖といふべし。絵本数多ある中にも絵本倭比事すぐれたり〟    〈『絵本倭比事』は寛保二年(1742)の刊行〉  ◯「南畝集 十三」④235(享和二年十一月頃賦 漢詩番号2192)   〝十千亭主人、二帖を寄す。一は則ち北村季吟翁の冠服図考、一は則ち西川祐信の秘戯図なり。      戯れに賦して謝と為す    北叟衣冠象 西川秘戯図 併投南畝子 東壁供遊娯〟    〈この時の秘戯画が何かは不明。十千亭主人は南 畝の風雅の友で万屋助二郎という人。「北叟」 は季吟の号〉  ◯「書簡 167」⑲230(文化八年四月八日 青山堂宛)   〝参居候丹表紙之中点検いたし、表題或は序書候分、(書名列記、略)西川百人女郎〟    〈丹表紙は赤い表紙の事だが、いわゆる「赤本」ばかりでもないようだ。文面からは「百人女郎」の表題や序を書いたら     しいが、その内容は分ない。書肆・青山堂が書誌鑑定を、南畝に依頼しているらしい。南畝も気に入ったものは購入     したのだろう。「西川百人女郎」は享保八年(1723)刊行の「百人女郎品定」のことか〉  ◯「杏園稗史目録」⑲485(文化十三年明記)   (文化十三年(丙子)に南畝が取得した書籍)   〝絵本答話鑑 三巻 享保十四年 西川祐信画 其碩述〟   〝絵本常盤草 三冊 享保十五年庚戌 西川祐信〟   〝絵本喩草〟   〈『国書総目録・著者別索引』では『絵本喩草』の刊年を享保十六年(1731)とする。なお「絵本」の項に「絵本浅香山 一巻」    とあり、西川祐信の絵本と思われるが、南畝に西川の記載はない。『絵本浅香山』は元文四年(1739)刊〉  ◯「奴凧」⑩480 (文化十五年四月二十六日以前)   〝(小松百亀)若き時より春画をこのみて、西川祐信のかける画本、春画ともにことごとくおさめおけり〟    〈小松百亀の祐信画への心酔ぶりを示すもの。小松軒の項参照〉  ◯「紅梅集」②335(文化十五年四月下旬)   〝春の色 [欄外。西川祐信全文](本文略)    夏の旦 [欄外。此分略而不題](本文略)    秋の題(本文略)    冬の品 [欄外。此文略](本文略)    右節録西川氏風流長枕四季詞以為跋尾耳 蜀山人〟    〈この春画『風流御長枕』は南畝の蔵書。欄外注によれば、南畝の書写は「春の色」以外は部分のみ。『風流御長枕』は     宝永七年(1710)刊〉  ◯「南畝文庫蔵書目」⑲414・415・418(日付なし)   (絵本の項)   〝絵本常盤草 三巻 享保十五年月 西川祐信〟   〝絵本答話鑑 三巻 西川画 其碩作〟   〝絵本喩草   三巻 同上〟   (画部の項)〈これは春画の意味〉   〝西川春画肉筆 一帖 粉本〟   〝風流御長枕、遊色絹フルイ 野傾文反故 一巻 西川画〟 (巻軸の項)   〝百人女郎 二巻 西川祐信板本〟    〈この〝百人女郎〟とは、上記のように享保八年(1723)刊行の『百人女郎品定』か〉  ◯「杏園稗史目録」⑲452・466(日付なし)   (画本部の項)   〝百人女郎 西川 二巻〟   〝春画并好色本 但し読ミ本にてもさし画に春画あるは春画の部に入〟   〝風流御長枕 遊色絹ふるひ 野傾文反故     宝永七年寅三月吉日 絵師西川祐信図     右横本三部合巻 寺町通松原上ル町 菱屋治兵衛板〈宝永七年(1710)〉   〝無題号 まくら画詞書入 男女相生の善悪 東山桜つりとる女     右横本画は西川と見ゆ〟   〝西川春意 十八番 箱入折本 西川祐信筆〟 〈「西川春意」は未詳〉    〈江戸における祐信画の人気には根強いものがあったようだ。しかも絵本ばかりでなく枕絵まで注目されていた。した     がって鈴木春信による江戸の錦絵誕生には、その色刷り技術は別としても、小松軒を中心とする上方絵師・西川祐信     受容の気運が下地としてあったのである〉  52 せいこう たに 谷 清好 ◎〔生没年未詳〕  ◯「清好帖」⑳388(文政七年二月下旬明記)   (「清好帖」は、前年没した南畝を追悼するため谷清好が南畝の詩・狂歌を自刻刊行したもの)    〈清好自身の跋には大坂住の「彫刻摺物師」とあり。享和一、二年の大坂銅座勤務の時に知り合ったのであろうか。南     畝とは親密のようで「酒の友」ともある〉  53 せきえん とりやま 鳥山 石燕 ◎〔正徳二年(1712)~天明元年(1781)〕  ◯「南畝集 四」③195(安永七年六月賦 漢詩番号553)   〝雨中過石燕丈人梧柳庵     碧柳千条梧十尋 池亭更入芰荷深 自逢風雨多幽興 石舞零陵古洞陰〟    〈石燕丈人は鳥山石燕と思われる。住居を梧柳庵と呼んだらしい。折りからの風雨にいっそうゆかしさを増した石燕の     庵を、南畝は訪問したのである〉  ◯「四方のあか」①134(安永七年十月十五日)   (狂文「日ぐらしの日記」牛込~駒込~日暮里遊山記。十月十五日は遊山当日)   〝あるまばらなる垣のやぶれより(修業者の)白き腕さしいでて布施するさま、近比石燕翁のゑがける百    鬼夜行の図に似たり。錦江おかしがりて     石燕にみせたらすぐにかきねから手ばかり出して内にまちぶせ〟    〈『百鬼夜行』は安永五年刊。後出のように、安永八年刊行の『続百鬼夜行』は南畝の序。錦江とあるのは春日部錦江     という人で、南畝の風雅の友であった〉  ◯「月露草」⑱3・4・15(安永八年八月13~十七日明記)   (安永八年八月十三日から十七日にかけて、南畝の呼びかけで、高田馬場五夜連続月見の宴が行われた。    「月露草」は参加した諸家の詩歌連俳・狂詩狂文狂歌を集めたもの)    〈石燕は挿画を門人の燕寿、石柳女、石仲女等とともに担当した。石燕自身は源孟雅(浜辺黒人)と呉竹と黒人の狂歌に     それぞれ「石燕画」と署名して画いている。ただこの風流な詩歌集の挿絵を、石燕派が担当することになった経緯は未     詳である〉  ◯「南畝集 五」③298(安永七年十月賦 漢詩番号866)   〝題石燕丈人幽居  庭陰都入画 林景好山水 一望足山水 清音無尽時〟    〈庭もまた画題とするに足る風情のようだ〉  ◯「四方の留粕」①188(安永八年刊)   (南畝の「続百鬼夜行序」   〝今此続編百鬼夜行も、石燕叟が絵そらごとを見て〟    〈「丈人」も前出の「叟」も尊称〉  ◯「浮世絵考証」⑱445(寛政十二年五月以前)   〝(歌麿)はじめは鳥山石燕門人にして〟    〈南畝は歌麿の項を立てているが、石燕の項を設けていない。浮世絵師と見ていないのである〉    54 せきし 石子〔生没年未詳〕  ◯「月露草」⑱39(安永八年八月13~十七日明記)   (高田馬場五夜連続月見宴。浜辺黒人の狂歌)    〝石子画〟〈石燕の項参照〉  55 せきちゅうじょ 石仲女〔生没年未詳〕  ◯「月露草」⑱32(安永八年八月13~十七日明記)   (高田馬場五夜連続月見宴。浜辺黒人の狂歌)   〝石仲女画〟〈石燕の項参照〉  56 せきりゅうじょ 石柳女〔生没年未詳〕  ◯「月露草」⑱13・14(安永八年八月13~十七日明記)   (高田馬場五夜連続月見宴。呉竹の発句と浜辺黒人の狂歌)   〝十二才石柳女画〟と署名〉〈石燕の項参照〉  57 そうかく つちやま 土山宗角 雙角 ◎〔生没年未詳〕    ◯「江戸花海老」①96(天明二年十一月一日刊)   (「江戸の花海老」は、五代目市川団十郎の倅・徳蔵(五才)の海老蔵襲名を祝うとともに、狂名を花道つ    らねとも称する五代目のわざおぎぶりを祝福した南畝の狂歌集)    挿絵一葉に〝宗角十三才書〟    〈出版は襲名披露のある顔見世興行に合わせたようだ。もう一葉は宗角の父で絵師の吉田蘭香か。絵師の方も役者親子     同様に息子を披露したのであろう〉  □「判取帳」(天明三年頃成)   〝雙角十四歳画〟(赤良の注「吉田蘭香子土山宗角」)    〈この宗角が父のように絵を画き続けたかどうかは不明。吉田蘭香の項参照〉  58 たいがどう 大雅堂(池霞樵)〔享保八年(1723)~安永五年(1776)〕    ◯「南畝集 十二」④197(享和二年一月上旬賦 漢詩番号2085)   〝題池霞樵漠々水田飛白鷺図     水気汪々千頃田 山光曖々遠村煙 一行属玉飛無迹 満目秧針緑刺天〟    〈南畝大坂赴任中に一見。大雅堂生前(安永五年没)の記事は見当たらない。これが初出記事だが、寛政二年刊の『近世     畸人伝』などを通じてこれ以前に名前は知っていたに違いない。また大阪赴任中、南畝は木村蒹葭堂と頻繁に交遊し     ているから、蒹葭堂の画業の師匠・大雅堂について聞かなかったはずはない。ところで蒹葭堂は享和二年一月二十五     日の逝去。突然だったようだ。というのも一月八日、蒹葭堂は南畝の宿舎を訪問して劇談数刻に及んだばかり。この     詩は詩の配列から言うと、ちょうどその日あたりに相当する。またこの詩のひとつ前の詩(漢詩番号2084)には十時梅     厓梅の山水画に対する題詩もある。二本とも蒹葭堂が持参したのかもしれない〉  ◯「一話一言 補遺参考編」⑯436 (文化七年頃記?)   (南畝が過去買いもらした奇書として)   〝大雅堂山水二幅 大坂〟   〝その値を購ずる事ならずして、買い失ひしもの胸臆の中に往来して、時々忘るヽ事あたはず〟    〈南畝の述懐、この山水画の値段に関する記述はない。大坂の書肆で見たのは享和一、二年の大坂銅座赴任中か〉  ◯「七々集」②253(文化十二年八月下旬記)   〝得大雅堂書     魚麗于罶鱨鯊  君子有酒旨且多 署名三嶽霞樵印 大雅堂奈無名何     日本橋南四日市 買得青銭二十波 請看世上文無者 千人万客日往過〟    〈これは日本橋四日市の書肆で「書」を購入した時の賦。大雅堂の名がなく三嶽の署名。目の利いた南畝は四文銭で二     十、僅か八十文で購入した。「魚麗~」の句は『詩経』「小雅」の句で、大雅堂の書面文字か。なお「巴人集 拾遺」②4     92にも同じ記事あり〉  ◯「半日閑話 次五」⑱204(文政二年十月記)   (前出杉本茂十郎旧宅、恵比須庵の書画目録。一蝶の項参照)   〝恵比寿、大雅堂大掛物〟〈これも絵ではなく「恵比寿」の書か〉  ◯『仮名世説』⑩567(文政八年一月刊)   〝名の実にかなへるは大雅堂なるべし。◯◯の風、軽薄の習、つゆばかりもなし(中略)大雅が書画は逸    品に入るべし。畢竟一点の俗悪の気なし〟    〈南畝の大雅堂書画の評価は高い〉  ◯「杏園稗史目録」⑲452・466(年月日なし)   〝詩歌部 春臠拆甲 大雅堂戯述 一〟   〝漢字狂文狂詩 春臠拆甲 大雅堂戯作〟    〈この〝大雅堂〟が池大雅である確証はない。また南畝が同一視している確証もないが、とりあえず挙げておく。『国     書総目録』には「一冊・艶本」著者「活々庵撤溌」とあり、池大雅らしくない。明和五年の刊行という〉  59 たろべい ひしかわ 菱川 太郎兵衛〔生没年未詳〕  ◯「浮世絵考証」⑱439(寛政十二年五月以前記)   〝元禄五年板 買物調方三合集覧 横切本一冊    江戸浮世絵町 橘町 菱川吉兵衛/同吉左衛門/同太郎兵衛〟    〈吉兵衛は師宣、吉左衛門は師房、太郎兵衛の号は師重か〉  60 ちょうしゅん みやがわ 宮川 長春〔天和二年(1682)~宝暦二年(1752)〕    ◯「調布日記」⑨240(文化六年三月十日)   (多摩川巡視中、市場村専念寺(無住)の古い絵馬の中に)   〝日本絵宮川長春のかけるおせん物ぐるひに、三線ひく女と小女の絵ことにうるはしければうつし置きぬ。    絵馬のはしつかたに、宝永三歳四月日江戸宇田川町佐藤佐兵衛(中略、以下四名の名あり)又三の女を    画がける絵馬に、于時宝永四丁亥歳四月下旬施主江戸芝井町斎藤三郎兵衛とあり〟    〈宝永四年(1707)の「三の女」も長春の絵馬のようである。なお同寺の宝永三年奉納絵馬には、このほか蝉吟斎守英の画     く「樊噲門破」もあるという〉  ◯「一話一言 補遺一」⑯90・100(文化八年四月二日)   (「雲茶会」初集、老樗菴主人の出品)   〝宮川長春自画自像 一軸〟   〝寛保二正月元旦 宮川長春六十一歳自像自画 老樗菴蔵〟    〈寛保二年(1742)、六十一才の自画像。出品者の老樗菴は未詳〉  61 としのぶ おくむら 奥村 利信〔生没年未詳〕    ◯「浮世絵考証」⑱442(寛政十二年五月以前記)   〝奥村文角政信、同利信 江戸通垣(ママ)町本屋なり。瓢箪の印をせり。漆絵に多し〟    〈名前の後に続く「江戸通垣町」以下の文は政信と利信二人に対する説明なのか、それとも政信のみの説明なのか未詳〉  62 とよくに うたがわ 歌川 豊国〔明和六年(1769)~文政八年(1825)〕  ◯「浮世絵考証」⑱445(寛政十二年五月以前)   〝豊国 錦絵をかかず、墨と紫斗にて彩色のにしき絵をかきはじむ。歌舞伎役者の似顔をもよくかけり〟    〈文意未詳。この場合、南畝の「錦絵」は彩色摺の美人画を指しているようだが〉  ◯「半日閑話 巻8」⑪245(文化元年五月十六日明記)   (『絵本太閤記』絶版、豊国連座手鎖の記事)    〈歌麿の項参照〉  ◯「あやめ草」②63(文化七年一月詠)   〝出女の化粧をするかたかきたる豊国の画に     頬べにの赤坂ちかき黒髪の油じみたる御油の出女〟    〈「出女」と言えば、当時は誰しも東海道・御油の客引き女郎を連想したようだ〉  ◯「六々集」②225(文化十二年二月詠)   〝岩井杜若がうつし絵姫のわざおぎをよめる     豊国がうつし絵姫のうつし画も及ばぬ筆の毛延寿哉〟    〈市村座正月狂言「増補富士見西行」より岩井半四郎の写絵姫役〉  ◯「七々集」②252(文化十二年八月詠)   〝ことしの春中村芝翫のわざをぎに其九重彩色桜といふ九変化のかたかきたる豊国が絵に、四季のうたよ    めと芝翫のもとより乞けるに、よみてつかはしける     春 文使 老女の花見 酒屋調市       けそう文つかひは来り酒かふて頭の雪の花やながめん     夏 雨乞小町 雷さみせんをひく       雨乞の空にさみせんなる神のとヾろとヾろとてんつてんてん     秋 やりもち奴 月の辻君       辻君の背中あはせのやつこらさやりもち月の前うしろめん     冬 江口の君 石橋       冬牡丹さくやさくらの花の名の普賢象かも石橋の獅子〟    〈中村座春三月興行大切所作事、中村歌右衛門の「其九絵彩色桜」(烏亭焉馬著『江戸芝居年代記』)における九変化。     南畝は歌舞伎好きだが、上方役者の歌右衛門を贔屓する事はなかった。その歌右衛門から狂歌の依頼、心中はいかに。     しかし九役を巧みに詠み込んだのはさすがである〉  63 とうしゃ 蟷車 ◎〔生没年未詳〕  ◯「四方の留粕」①203(安永八年一月四日明記)   (「春の遊びの記」)   〝蟷車が役者の似づらには、壷屋が壷も底ぬけなるべし〟    〈壷屋は役者似顔画の勝川春章。酒宴の席上、蟷車が戯れに役者似顔画を真似たようだ。小松軒の項参照〉  64 ともあき ひしかわ 菱川 友章〔生没年未詳〕  ◯「丙子掌記」⑨611(文化十三年十月中旬記)   〝日本絵菱川友章図(華谿漁長の印)     よしや吉野の花より香より見せはかく袖むらさきのあけをうばへる世の中の     あゆみすがたのしほらしや     文殊氏女しけ    右立軸 大西氏携来〟    〈画中の「文殊氏女しけ」およびこの軸物を携来した大西氏ともに未詳〉  65 とよのぶ いしかわ 石川 豊信〔正徳元年(1711)~天明五年(1785)〕  ◯「序跋等拾遺」⑱580(天明五年五月二十五日以降記)   (「史氏備考」所収)   〝石川豊信秀葩墓碣銘 大田覃    嗚呼余齔時。聞石川秀葩之名久矣。凡都下児女所玩図画人物花卉。至於繊姿弱質、意穠容冶、袨服靚粧、    綺麗粲目者(中略) 翁事親孝。居家倹素。行修潔。足不渉倡門酒肆。而挙腕能描人物。曲尽其姿態。抑    可謂奇矣(後略)〟    〈豊信は小伝馬町旅人宿主人糠屋七兵衛。天明五年五月二十五日逝去、七十五才であった。南畝が石川豊信の墓碣銘を     作ったのは、豊信の嫡子石川雅望(狂名宿屋飯盛)との縁によるもの。豊信は孝を重んじ質素でしかも遊廓酒楼にも足     を踏み入れない実直な人柄であったという〉  □「万代狂歌集 巻六」(天明五年五月二十五日以降詠)   (『万代狂歌集』(六樹園編 文化九年九月刊)所収の豊信追悼狂歌)   〝飯盛が父の死しけるときいしかわしうはをとぶらふといへる十二の文字を上下の句の上におきてよみて    つかはしける    四方赤良     いしふみをたつる飛脚はゆきとヽけ しらぬ根の国底の国まて     かしつきし父のみひとりさきたてヽ はヽとそはから気をやいたむる     しての山こへて七日になりぬれと  うちは涙の川つかえかな     はてしなき涙てのりをこへぬらん  老たるとしに不足なければ     とよのふとかきし紅絵のすり物も  ふてのあととへかたみとぞなる     来世には蓮のうてなをきつき置きて ふしんもいらすすぐに極楽 〟    〈ずいぶん手の込んだ追悼である 出典は粕谷宏紀氏の『石川雅望研究』に拠った〉  ◯「浮世絵考証」⑱443(寛政十二年五月以前記)   〝石川豊信秀葩 西村重長ガ門人也 宝暦のはじめ紅絵に多し。小伝馬町旅人宿ゐ(ママ)かや七兵衛といひ    しもの也。一生倡門酒楼にあそばず。しかるによく男女の風俗をうつせり。一枚絵多し。画本もあり〟    〈通称は糠屋七兵衛〉  66 とよはる うたがわ 歌川 豊春〔享保二十年(1735)~文化十一年(1814)〕  ◯「半日閑話 巻十二」⑪343(年月不明)   (明和七年六月十五日の鈴木春信死亡記事中に後年、次のような注記あり)   〝浮世絵は歌川豊春死して後養子春信と名のりて錦絵を出す〟    〈豊春の死は文化十一年とされる。この養子春信とは誰の事か未詳。鈴木春信の項参照〉  ◯「浮世絵考証」⑱445(寛政十二年五月以前記)   〝近来うき世絵をにしき絵にかき出せり。宝暦の頃のうき世絵にまされり。日本橋に住ス〟    〈南畝のこの「うき世絵」の意味が前項同様はっきりしない〉  67 とよひろ うたがわ 歌川 豊広〔?~文政十二年(1829)〕  ◯「浮世絵考証」⑱447(寛政十二年五月以前記)   〝豊広 張まぜ、小サキ一枚絵、墨絵などかけり〟  68 とりいは 鳥居派  ◯『寝惚先生文集』①353(明和四年九月刊)   〝詠東錦絵     忽自吾妻錦絵移 一枚紅摺不沽時 鳥居何敢勝春信 男女写成当世姿〟    〈紅摺絵の鳥居から錦絵の春信時代へ浮世絵の主役は移っていった様子〉  ◯「半日閑話 巻十三」⑪396(安永五年一月明記)   〝今年より鱗形屋草双紙の絵并に表紙の標書ともに風を変ず。表紙の上は例年青紙に題号をかき、赤き紙    に絵を書きしが今年は紅絵摺にす(注あり、省略)絵も鳥居風の絵を変じて、当世錦 絵風の絵となす〟    〈安永四年刊「金々先生栄花夢」(恋川春町画作・鱗形屋板)の出現より、青本の作風・画風とも一変して黄表紙の時代     に入る。今年は草双紙の古風を守っていた表紙の体裁も変わった。次項もそうだが、鳥居派といえば誰しも紅摺絵・     黒本・青本を連想するのだろう〉  ◯『菊寿草』⑦232(安永十年一月刊)   (地本問屋鱗形屋の変遷を書いた狂文「北条の三鱗を一寸と葛西の太郎月」の中に)   〝青本々々ともてはやされ、かまくらの一の鳥居のほとりに住居し、清信きよ倍清満などヽ力をあはせ、    年々の新板世上に流布す〟    〈これは安永四年以前、鳥居派全盛の黒本・青本時代のこと。「かまくら」とは黄表紙の通例で江戸を指す〉  ◯「浮世絵考証」⑱441(寛政十二年五月以前記)   (鳥居庄兵衛・清信。清信弟子、 清満・清倍・清経・清長の名あり)   〝江戸歌舞伎の絵看板は鳥居風に画く事也〟  ◯「放歌集」②172(文化八年十二月賦)   〝題古一枚絵  北廓大門肩上開 奥村筆力鳥居才 風流紅彩色姿絵 五町遊君各一枚〟    〈紅摺絵時代の奥村派と鳥居派の隆盛を賦す。この一枚絵は吉原の遊女。鳥居派項参照〉  69 なひこ かとり 楫取 魚彦〔享保八年(1723)~天明二年(1782)〕    ◯「一話一言 巻二十四」⑬432(文化四年四月二十五日明記)   〝楫取魚彦は下総香取の人也。俗姓を稲生茂左衛門と云、加茂県主真淵翁につきて国学をまなぶ。又画を    建孟喬綾足に学びてよく鯉を画しとぞ。吾友窪俊満易兵衛 はじめ魚彦門に入て蘭竹梅菊の四君子を学    ぶ〟    〈南畝は魚彦とは面識がないようで、この略歴は友人の窪俊満から聞いたらしい。国学は賀茂真淵門、画の方は同門の     建部綾足に学んだ。窪俊満の項参照〉  70 なんめい 南溟 ◎〔寛政六年(1794)~明治十一年(1878)〕  ◯「南畝集 十三」④217(享和二年五月賦 漢詩番号3133)   〝題八歳童南溟画山水     八歳称奇童 纔看意匠工 残山与剰水 已在経営中〟    〈この南溟は春木南溟であろう。寛政六年生であるから享和二年の八才は符合する〉  71 にちょうさい 耳鳥斎〔?~享和二・三年頃(1802・3)〕  ◯「をみなへし」②13(天明元年賦)   〝浪花の耳鳥斎とかやかける牛若浄るり御前の絵の扇に狂歌せよと、浜辺の黒人のいひければ、とりあへ    ずよめる     しヽをみて矢はぎの里の琴の音にこヽろひかるヽ虎のしり鞘〟    〈『十二段草子』に取材した耳鳥斎の扇面。奥州へ下る義経、矢矧の里で浄瑠璃姫を見染た場面。浜辺の黒人が携来し     て狂歌を乞う。南畝は耳鳥斎とは面識がない〉  72 はりつ おがわ 小川 破笠〔寛文三年(1663)~延享四年(1747)〕  ◯「武江披砂 巻三」⑰499(寛政二年頃記)   〝麹町天神 社内の扉に青螺にて作りたる飾象有。工人破笠なり。妙はなはだし。近頃火災に焼失〟    〈これは小川破立の絵でなく螺鈿細工。なお「武江披砂」とは南畝の未刊江戸地誌〉  73 はるのぶ すずき 鈴木 春信 ◎〔享保十年(1725)~明和七年(1770)〕  ◯「金曾木」⑩309(明和二年の事・文化六年十二月記)   〝明和三四年の比、予が十八九歳の時作りし狂詩あり、その時の事を記せり     大小会終錦絵新 又看洲崎闢塩浜 天文台上調新暦 医学館前哀古人     宗滅出山御蔵講 参多稲荷大明神 又聞巣鴨挑灯集 応是当時◯立身    明和の初、旗下の士大久保氏、飯田町薬屋小松屋三右衛門等と大小のすり物をなして、大小の会をなせ    しよりその事盛になり、明和二年より鈴木春信吾妻錦絵といふをゑがきはじめて紅絵の風一変す(後略)〟    〈江戸人にとって、錦絵の出現は明和期を代表する出来事なのである。巨川の項参照〉  ◯『寝惚先生文集』①353(明和四年九月刊)   〝詠東錦絵     忽自吾妻錦絵移 一枚紅摺不沽時 鳥居何敢勝春信 男女写成当世姿〟    〈明和期、吾妻錦絵といえば春信画。紅摺の一枚絵に活躍していた鳥居派は衰退する〉  ◯『売飴土平伝』①373・385(明和六年春刊)    署名「舳羅山人」(南畝) 挿絵〝春信画〟    〈南畝の漢文戯作。平賀源内と平秩東作の序跋があり。須原屋市兵衛板。春信の挿絵は、当時評判の飴売り土平と鍵屋     お仙・柳屋お藤を画く。この評判娘二人の優劣を論じた狂文が「阿仙阿藤優劣弁并序」で、南畝はお藤の美貌を次の     ように表現している。「雑劇(キョウゲン)趣を写し、錦画世に伝ふ。春信も幾たびか筆を投げ、文調も面(カホ)を肖(ニ)せ     難し」と〉  ◯「半日閑話 巻十二」⑪343(明和七年六月十五日)   〝(六月)十五日、大和絵師鈴木春信死す。この人浮世絵に妙を得たり。今の錦絵といふ物はこの人を祖    とす。明和二年乙酉の頃よりして其名高く、この人一生役者絵をかヽずして云、われは大和絵師也、何    ぞや川原者の形を画にたへんと。其志かくのごとし。役者絵は春章が五人男の絵を始とす。浮世絵は歌    川豊春死して後養子春信と名のりて錦絵を出す〟    〈南畝は春信より直接聞いたのであろうか。春信画の役者絵は存在する。豊春の項で言及したように、この「役者絵」と     対になっている「浮世絵は」の意味がよく分からない。前出豊春の項参照〉  ◯「浮世絵考証」⑱443(寛政十二年五月以前記)   〝明和のはじめより吾妻錦絵をゑがき出して今にこれを祖とす。これは其頃初春大小のすり物大に流行し    て、五六遍ずりはじめて出来より工夫して今の錦絵とはなれり。春信一生歌舞妓役者の絵をかヽずして    いはく、われは大和絵師なり、何ぞ河原者のかたちをゑがくにたへんやと。その志かくの如し。明和六    年の頃、湯島天神に泉洲石津笑姿開帳ありし時、二人の巫女みめよきをえらびて舞しむ。名をお波、お    みつといふ。又谷中笠森稲荷の前なる茶屋鍵屋の娘おせん、浅草楊枝や柳屋仁兵衛娘おふじの絵を錦絵    にゑがきて出せしに、世の人大にもてはやせり〟  ◯「南畝文庫蔵書目」⑲415(年月日なし)   〝画部 遊色妹背種 二巻 春信画〟  ◯「杏園稗史目録」⑲452(年月日なし)   〝画本部 遊色妹背種 春信画 二〟  ◯「杏園稗史目録」⑲467(年月日なし)   〝春画并好色本 遊色妹背種 二巻 鈴木春信と見ゆ〟    〈南畝は春画「遊色妹背種」を春信画とする。『国書総目録・著者別索引』には見えない〉   〈南畝と春信の交渉は、明和六年刊の南畝著『売飴土平伝』に春信が挿絵を画く以前からのものであろう。明和三年十月、    南畝は川名林助を介して神田白壁町に住む平賀源内に初めて会ったが、源内の門人・万象亭の「反古籠」によると、そ    の頃源内は同町の戸主でもあった春信と常に往来する仲であった由。するとその頃から二人に面識があっても不思議で    はない。したがって「浮世絵考証」にいう春信が一生役者絵を画かずの話も、絵が実際に残されているから事実とは違    うが、春信が自らそう語ったというのは事実ではないか〉  74 はるまち こいかわ 恋川 春町 ◎〔延享元年(1744)~寛政元年(1789)〕   (画業に関する記事のみ収録)  ◯「杏園稗史目録」⑲462   〝巾箱本 第二嚢 当世風俗通 安永二年 春町 続編女風俗通 安永四年 春町〟    〈「巾箱本」とは小本の意味で洒落本をいう〉  ◯「半日閑話 巻十三」⑪396 (安永五年一月明記)   (「鱗形屋双紙」の項の欄外注に追考として)   〝去年夏か秋の頃絵草紙二冊出る。金々先生栄花夢て云名也。此絵草紙より風を変ず〟    〈春町作『金々先生栄花夢』(鱗形屋板)は、草双紙を子供の慰み物から大人の読み物に一変させた黄表紙の記念碑的作     品。安永四年の出版、南畝は早速反応したのである〉   〝今年新板の内高慢斎行脚日記といへる本行われる。画工恋川春町作也〟    〈春町作『高慢斎行脚日記』(鱗形屋板)は安永五年刊。黒本の出版に混じって、春町作品が新しい分野を確立しつつあ     ることを、南畝は感じていたのではないか。南畝はさすがに文学史上の節目を見逃すことはなかったのだ。なお「高     慢斎」は以後春町の別号にもなった〉  ◯「半日閑話 巻十三」⑪413(安永六年一月明記)   〝当年の絵草紙、鱗形屋新板、恋川春町画并作あり。また、気(ママ)三二作大に行はる〟    〈朋誠堂喜三二の初登場も見逃していない。二人の登場で黄表紙はその地位を確実なものとしたのだ〉  ◯『菊寿草』⑦232(安永十年一月刊)   〝二十余年の栄花の夢、きんきん先生といへる通人いでヽ、鎌倉中の草双紙これがために一変して、どう    やら草双紙といかのぼりは、おとな物となつたるもおかし〟    〈前出「金々先生栄花夢」のこと。「鎌倉中」とあるのは黄表紙の常套で「江戸中」の意味〉   〝作者恋川氏休まれて後は、当時のきヽもの喜三二丈の狂言、板元の細工は流々、仕上の仕打を御覧なさ    れい〟    〈これは喜三二作『見徳一炊夢』に対する南畝の評判だが、これによるとこの天明一年、どういう事情があったものか、     春町は黄表紙を作っていないようだ。「作者之部」にも名前はない〉  ◯『岡目八目』⑦268(天明二年一月刊)   〝春町さん打ちませう。祝ふて三冊うりませう。近年袋入斗おつとめゆへ、青本では久ぶり〟    〈天明二年、春町作者に復帰。「作者之部」にも名があり。この「青本」は現在の黄表紙のこと。また「袋入」とは再版本と     いうことか〉  □「杏園余芳」(月報4 巻3 南畝耕読)   「耕書堂夜会出席者名録」(天明二年十二月十七日)    〈蔦屋主催の夜会に参加。北尾重政の項参照〉  ◯「巴人集」②396(天明三年三月詠)   (南畝、酒上不埒(春町)の日暮里狂歌会にて三首詠む)   〝花     しら雲と見る人丸で無理ならず花はよしのゝ山のてつぺん    乞食恋い  乞食を三日してよりわすられぬ姿は小屋に落ぬ君かな    寄生酔祝  生酔の行たふれても辻番のよく世話をする御代ぞめでたき〟  ◯「巴人集」②410(天明三年六月上旬詠)   〝酒上不埒・地口有武などヽ、むかふ島の酒家むさしやのもとにてさヽげをよめる  初物をさヽげし膳のむかふ島是も十六むさし屋が見せ〟    〈地口有武は星野文竿という人。向島の武蔵屋は鯉料理で有名な料亭〉  □「判取帳」(天明三年頃成)   (赤良の注)〝高慢斎倉橋寿平住小石川春日街狂名酒上不埒 松平豊後守臣〟   〝高慢斎恋川春町於子子孫彦宅応需写之     (遊女の後頭部の絵)     身あがりのまつにおもひをたきましてにくらしゐ柴こるばかりなり  もとのもくあみ〟    〈この頃、毎月十二日行われていた子子孫彦の狂歌会の席上であろうか。春町の戯画に元の木阿弥の狂歌を配したので     ある〉  ◯「浮世絵考証」⑱444(寛政十二年五月以前記)   〝恋川春町 倉橋寿平 自作の青本の絵あり。小石川春日町に居れるゆへ、勝川春章の名を戯れにかれるなり〟    〈寛政元年七月七日、春町逝去。その死因等について色々憶測も飛んだようであるが、南畝に書留はないようだ〉  75 ふさのぶ とみかわ 富川 房信〔生没年未詳〕  ◯「浮世絵考証」⑱443(寛政十二年五月以前記)   〝富川房信 吟雪 一枚絵、草双紙などにあり。つたなきかたなり〟    〈絵師の配列等からして、一枚絵は紅摺絵の一枚絵、草双紙は黄表紙ではなく黒本を指しているようだ〉  76 ぶせい きた 喜多 武清〔安永五年(1776)~安政三年(1856)〕  ◯「書簡 212」⑲266(文化九年十一月十六日付)   (蕉門の書画所蔵家、深川鯉屋伊兵衛宅の記事に)   〝蕙斎、武清など参候て少々図を写し候〟    〈この武清を喜多武清と見た。模写は鍬形蕙斎と同道か否か。英一蝶と蕙斎の項参照〉  77 ぶんいつ たに 谷 文一 ◎〔天明七年(1787)~文化十五年(1818)〕  ◯「寸紙不遺」⑯口絵(文化八年三月二十日明記)   (池之端蓬莱亭において行われる村田雲渓主催の書画会。参加者 山本北山、大窪詩仏、南畝等。    書画会引札には「痴斎」とあり)〈雲峰の項参照〉  ◯「七々集」②261(文化十二年十月上旬詠)   〝市川蝦十郎浪花にかへるを送るとて、文一子の画ける蝦に題するうた    市川市蔵市鶴、ことし蝦十郎新升と改名して難波にかへるを祝して     あらたなるかへ名をみます市のつるなにはの芦はいせの大蝦 〟  ◯「紅梅集」②330(文化十五年三月九日詠明記)   〝弥生九日、人の来て、よべ谷文一子身まかりしといふ。その夜の暁のゆめにその人をみて     あかつきのみはてぬゆめに書させる文ひとつだになきぞかなしき〟    〈三月八日、谷文一は父の文晁に先立って、三十二才の若さで逝った。南畝の夢に出るくらいであるから文晁同様、親     密な交遊であった〉  ◯「南畝集 二十」⑤446(文化十五年三月中賦 漢詩番号4346)   〝聞谷痴斎訃 臥疾不能会葬 其睡夢見痴斎 痴斎諱文一     病裏聞君遊岱宗 孤雲飛隔丈人峰 枕頭残夢難為続 画手空埋馬鬣封〟    〈南畝は病気のため会葬できなかった〉  78 ぶんしょう きし 岸 文笑 ◎〔宝暦四年(1754)~寛政八年(1796)〕   〈南畝と交渉のあった記事のみ〉  ◯「巴人集」②399(天明三年四月詠)   〝つぶりの光におくる  夕顔のやど屋の軒におつぶりの光源氏とあやまたれぬる〟    〈馬喰町奈万須盛方宅、伯楽連の狂歌会か〉  □「判取帳」(天明三年四月八日頃)   〝四方先生をとひ侍りけるとき御茶の水をすぎける時ほとゝぎすを聞きてよめる     御仏の産湯にあらでお茶の水てつぺんかけてほとゝぎす鳴  つむりの光〟   (南畝注「号文笑」とあり)    〈また襖の明立の狂歌「転寝のあさきゆめみしゑびす様~」に「つむりの光画」の「ゑびす」絵がある由。襖の明立は     南畝の注に「橋本町唐紙屋久二郎」とあり〉  ◯「四方の留粕」①207(天明四年六月明記)   (狂文「角田川に三船をうかべる記」宿屋飯盛、鹿津部真顔等四方側の狂歌師による船上狂詩狂歌合わせ。    つぶり光も参加。判者は四方赤良。主催は蔦屋〉  ◯「三保の松」②508(天明六年九月記)   (宿屋飯盛とつぶり光、南畝の妾(しづ)宅逍遥楼を訪問する)    〈しづは吉原・松葉屋の新造・三穂崎。南畝は同年七月十五日に身請けしたばかり〉  ◯『狂歌才蔵集』①50(天明七年一月刊)   〝紀みじか、二歩只取、宿屋めし盛、つぷり光、鹿津部真顔、紀定丸等よみかうがへす      天明七のとし初春〟    〈四方赤良序。文笑は狂名つぶり光として校訂者に名を連ねる〉  ◯「識語集」⑲701(寛政八年五月記)   〝「新吉原遊女町規定証文」    北里規定証文一冊、城東亀井町桑揚庵岸氏 岸名教明。称宇右衛門、善夷曲、又号後巴人亭、法諱恕真    斎徳誉素光 病中使人繕写、将以贈予。未達而死。友人六樹園斉来伝遺命、因紀其事。字雖数行、涙亦    数行矣。政辰夏五 杏花園〟    〈つぶり光は吉原に関する古文書を南畝のために病気をおして写し繕い贈ろうとした。しかし果たさないまま四月十二     日逝去。つぶり光の友人宿屋飯盛が遺命とともにこの「証文」を齎したのである〉  ◯「浮世絵考証」⑱444(寛政十二年五月以前記)   (一筆斎文調の項に朱筆にて)   〝門人岸文笑 絵冊子ニ此名アリ。狂歌士頭光〟    〈南畝の資料に狂歌師としての記事はあるが、絵に関する記事は「判取帳」と「浮世絵考証」だけか〉  79 ぶんちょう いっぴつさい 一筆斎文調〔生没年未詳〕  ◯「浮世絵考証」⑱444(寛政十二年五月以前記)   〝一筆斎文調(以下朱筆)門人岸文笑 絵冊子ニ此名アリ 狂歌士頭光     男女風俗、歌舞伎役者画ともにつたなき方なり〟  ◯『売飴土平伝』①385(明和六年三月刊)   (「阿仙阿藤優劣の弁」にお仙とお藤の二美人を)   〝雑劇(キョウゲン)趣を写し、錦画世に伝ふ。春信も幾たびか筆を投げ、文調も面(カホ)を肖(ニ)せ難し〟    〈文調の評判は似顔絵にあったようだ。春信の項参照〉  ◯「一話一言 補遺一」⑯110(文化八年五月三日明記)   (雲茶会記事)老樗庵主人出品〝大谷十町 似顔文調筆一片〟   〈文化八年で明和期の文調は珍重すべき作品になっていたのか〉  ◯「杏園稗史目録」⑲485(文化十三年明記)   (この年の収得書目)   〝舞台扇 三冊 明和七年庚寅 春章 文調画〟    〈『絵本舞台扇』を入手したのは出版後四十六年の後であった。この記念すべき作品の存在を、南畝はずっと気に留め     ていたのであろう〉  80 ぶんちょう たに 谷 文晁 ◎〔宝暦十三年(1763)~天保十一年(1840)〕  ◯「識語集」⑲710(寛政四年一月十七日明記)   (「二水七画画巻」)   〝(巻首)近世所謂書画会従此始也。文化庚午孟夏 遠桜山人。    (巻末)右柳橋万屋宴集、画人席上所題、集以為巻。時寛政四年壬子春正月十七日也。杏花園〟    〈巻首は文化庚午七年四月の書入れ。料亭での書画会の始りは、寛政四年一月十七日、谷文晁の柳橋万屋の書画会だと     南畝は言う〉  ◯「南畝集 十四」④311(文化元年三月二十日賦 漢詩番号2439)   〝暮春廿日谷文晁約諸友展観古画于南泉寺     南泉精舎借簷楹 詩自無声画有声 乍見雲煙眼前起 還聞百鳥耳辺鳴〟    〈日暮里の南泉寺においてどのような古画を観賞したのか記述は見当たらない。また「諸友」も未詳〉  ◯「南畝集 十五」④392(文化二年七月下旬賦 漢詩番号2706~7)   〝和清人銭徳位吉題谷文晁二画韻     安座罷牛背 飄風何律々 村笛雑樵歌 如従金石出 右牧童     半日芦中客 長江雨後天 得魚還買酒 帰去楽天然 右漁夫〟    〈南畝の長崎赴任中(文化一・二年)、来日中の清人のうちもっとも親しく交遊したのは、医師胡兆新と船頭張秋琴とこ     の銭位吉であった。長崎まで持参した文晁画に銭位吉の詩を請うて、それに南畝が和したのである〉  ◯「一話一言 巻二十八」⑭59(文化五年五月二十七日明記)   (小石川百間長屋前、幕臣青木久右衛門宅に南畝、文晁、飯田茗陽と董其昌、探幽等の古書画を見る)    〈これは五月七日に続いての鑑賞。この両日に見た古書画の詳細は「一話一言 巻29」⑭127に所収の「青木氏所蔵書画     目」にあり〉  ◯「南畝集 十七」⑤173(文化七年九月上旬賦 漢詩番号3403)   〝河世寧寛斎集 同天民五山谷文晁賦     怪石疎松不受塵 小山書屋宴嘉賓 酔郷何憾封侯晩 盤有嘉魚席有珍〟    〈市河寛斎宅の詩会。寛斎の主宰した江湖詩社から輩出した大窪天民と菊池五山、そして文晁と南畝の賦〉  □「年譜」⑳268(文化八年?)   〝此の年、文晁に寿像を描かるか〟(出典は東京国立博物館蔵「名家肖像図巻」)    〈ただしそれには「文化五壬午六十三年寿像」とある由。これだと文化五年は戊辰だから干支が合わない。全集の年譜     は南畝の年令に信をおき、文化八年の作としたようだ〉  ◯「書簡 192」⑲253(文化九年五月五日付)   〝今夕は文晁子初幟によばれ〈云々〉〟    〈初節句に呼ばれるというのは相当親密な仲といってよいのであろう。おそらく言祝ぎの狂歌くらいは詠んでいそうな     ものである〉  ◯「一話一言 巻四十九」⑮292(文化十年四月二十七日明記)   (南畝所蔵の「南朝賸粉図一幅」について、文晁が行った考証を写す)    〈この絵は明末南京の名妓・李香の肖像画という。文晁はこの李香のことを考証したのである。南畝は長崎在住の会所     役人・春孫二郎という人からこの絵を贈られたとある〉  ◯「南畝集 十八」⑤296(文化十年十月頃賦 漢詩番号3823)   〝題写山楼主人図     曾為筑石行 有嶺字寒水 今見写山図 覚与彼山似〟    〈文化二年十月十四日、長崎からの帰路、南畝は筑前の寒水嶺(冷水峠)を越えた。文化十年の今、その景色が文晁画か     ら彷彿として蘇ってくるという。やはり文晁の山水画は胸中の山水ではなくて、写実的な山水なのであろう〉  ◯「南畝集 十八」⑤310(文化十一年二月賦 漢詩番号3877)   〝東叡山看花邂逅谷文晁諸子     放衙偸得片時閑 独往看花東叡山 山上偶逢同好士 有樽可酌有荊班〟    〈役所を退出して独り上野の花見に行くと、文晁の一行とばったり。次いで飲に及んだ〉  ◯「七々集」②279 (文化十二年十一月二十一日明記)   (狂文「後水鳥記」より。この日千住にて酒戦あり。酒井抱一・亀田鵬斎・文晁・南畝等、どういう縁で    結ばれたものか立会人となった)    〈ひたすら呑んで酒量を競うというこの実にたわいもない催しに、江戸を代表する錚々たる文人が参加したのである。     無駄とはいえ賭けるエネルギーは相当なものである。ところでこの酒戦には先蹤があった。慶安二年(1649)、川崎の     池上太郎左衛門底深と地黄坊樽次との酒戦がそれで、様子は「水鳥記」に記されている。千住の酒戦記を「後水鳥記」     としたのはそれに倣ったからである。なお蛇足を言えば「水鳥」とは「水の酉」つまり酒を指す〉  ◯「巴人集 拾遺」②491(文化十二年頃?賦)   〝写山楼の祝に     鶴亀期千寿 亀齢約万秋 蓬瀛与方丈 併属写山楼〟  ◯「丙子掌記」⑨596(文化十三年九月三日明記)   〝白川老侯、白川へ湯治にゆき給ひし比、谷文晁、木犀一本を鉢植して奉りければ(九月三日御発途ト云)     月かげをうつす桂の一枝は名だたる山の玉とこそみれ 楽翁〟    〈文晁と松平定信との交渉を示す一断片である〉  ◯「紅梅集」 ②315(文化十四年十一月詠)   〝沢村源平が名を源之助と改るを祝して、文晁の寒菊の画にかきて贈る     寒菊の花のかほみせ霜月の春まつ曽我の源之介成〟    〈南畝の手許にはいつも文晁画があったのであろうか〉  ◯「南畝集 二十」⑤443(文化十五年一月下旬 漢詩番号4333)   〝田安府の中村子寅、歴代名公画譜を恵む。云ふ、是れ其の君の賜なりと     歴代名公各擅場 千秋画手有余光 密分恩賜佳公子 七十侯生仰大梁〟    〈『国書総目録』によれば、文晁の『歴代名公画譜』は明・顧画黯の編を模写したもので、寛政十年の成立とある。詩     題によると当初は田安家の所蔵だったらしい。それが家臣の中村子寅に下賜され、そして密かに南畝へ贈られたよう     である。詩は南畝を「七十侯生」に、また田安家を「大梁」に擬したのだろう。ただし南畝の蔵書目録にはない。中村子     寅(荷堂)は田安家の儒臣で『東京掃苔録』には文政四年、四十二才没とある。南畝とは享和の頃から交遊がある。北     斎が護国寺にて大達磨像を画いた様子を南畝に伝えたのはこの人である。北斎の項参照〉  □「年譜」⑳303(文化十五年一月二十五日)   〝擁書楼発会。文晁・北馬・鶴陵・岸本由豆流・京山・山崎美成等と会す〟    〈「年譜」は高田与清の『擁書楼日記』より収録。擁書楼は蔵書家・高田与清の書庫のこと。この会には考証学の学者お     よび愛好者がたくさん集まっていたようである。南畝・屋代弘賢・菊池五山・岸本由豆流・谷文晁・京伝・京山・山     崎美成等の名が見える。もっともこの日の会合に京伝はいない。既に故人となっていた〉  ◯「紅梅集」②362(文政二年三月下旬)   〝助六狂言ありし時、文晁の画る桜の扇に     花の雲鐘は上野か浅草の風情なりけるけしきなりけり〟  ◯「紅梅集」②386(文政二年十月二十二日)   〝文政三年庚辰大小をしる句 二八そば極ひきさげて十五文  小月    此年、市令より市中に令して、よろづの直段を下よといへる事によりてなるべし。己卯の小春廿二日の    夜、写山楼主人の話也〟    〈月の大小を示す句にも、世知辛く世相は反映するらしい〉  ◯「半日閑話 次五」⑱204(文政二年十月記)   (「杉本茂十郎旧宅恵比寿庵所蔵書画」)    〝福禄寿の間 文晁筆〟〈一蝶の項参照〉  ◯「あやめ草」②85・86(文政四年六月中旬詠)   〝文晁のかける鬼箭のゑに     一筋に思ふ心は目にみへぬ鬼の箭ながらたつる錦木〟   〝文晁の画がけるかんかんおどり     かんかんの踊をみても本つめのむかしの人の名こそわすれね    文晁の故妻幹々といふ、唐画をよくせり〟    〈「かんかん踊り」は文政四年の春より流行の唐人踊り。翌年春には禁止される。なお文晁の妻・幹々の「唐画」に寄せた     南畝の題・賛の類は見当たらない〉  ◯「南畝集 二十」⑤523(文政四年八月下旬賦 漢詩番号4614)   〝題谷文晁山水画  曾伝院画風 後入南蘋局 酔墨淋漓中 時々見本色〟    〈文晁は清の南蘋派に学んだが、山水画だと宋の院画風が現れると南畝は見ているようだ〉  ◯「南畝集 二十」⑤524(文政四年九月上旬賦 漢詩番号4618)   〝題谷文晁画山水  数間茅屋両三松 雖有柴門不見蹤 金殿玉楼何足羨 南窓寄傲膝堪容〟  ◯「書簡」⑳62(文化年間 九月十八日付 筆丹宛)   (九月二十九日に行われる書家秦星池の二階新築祝の案内。南畝、文晁も参加の由申し添える。南畝の署    名は「蜀山人」)  ◯「杏園集」⑥264(年月日なし)   〝谷文晁画賛     于以結網 于以垂綸 得魚則止 不肯売人 漁夫     采薪々々 可以代酒 富貴巧名 於吾何有 樵夫〟    〈南畝の文晁との交渉は文化年間から始まる。関係は親密で、南畝肖像画の存在はそれを如実に示していよう。また清     人の題画を貰うべく長崎まで文晁画を持参したらしいことは、南畝の文晁評価の高さを物語るものでもあろう〉  81 ぶんれい かとう 加藤 文麗〔宝永三年(1706)~天明二年(1782)〕  ◯「杏園集」⑥183(安永八年賛)   〝賛文麗翁所画六祖手杵図     八月踏碓、是非汝耶、碓本無碓、杵亦非杵、粉々粃糠、数米而炊、見汝手杵、謂之阿誰〟  ◯「一話一言 巻五」⑫219 (天明二年三月五日明記)   〝加藤予斎の死 天明二年三月五日加藤予斎殿死去。    文麗翁、名は都、草画に名あり。従五位下加藤伊予守殿。    [付箋。加藤伊予守藤原泰都、法名以心院殿前予洲刺史天慶了山大居士。葬于麻布広尾慈眼山光林寺]〟  82 ほういつ さかい 酒井 抱一 ◎〔宝暦十一年(1761)~文政十一年(1828)〕    〈画業と交遊に関する記事のみ〉  ◯「南畝集 七」③484(天明八年一月十五日賦明記 漢詩番号1400)   〝上元宴屠竜公子館  金馬門前白日開 上元春色満楼台 和令飛蓋遊西苑 天下誰当八斗才〟    〈新年早々、酒井雅楽頭の家に招かれたようだ。目出度い席である。南畝は屠竜公子(抱一)の詩文の才能を高く評価し     祝福した〉  ◯「南畝集 九」④93(寛政三年八月頃賦 漢詩番号1750)   〝秋日過屠竜公子  屠竜公子在江皐 百尺楼頭臥自高 晩命漁人聊下網 得魚新欲酌醇醪〟    〈前出の荘厳な館と違って、こちらは水辺の別荘らしい。とはいえ百尺楼頭であるから、庵などという代物ではない。     姫路侯・酒井雅楽頭の次男ともなるとさすがに豪勢である〉  ◯「南畝集 九」④138(寛政三年賦 漢詩番号1890)   〝屠竜公子席上 題妬婦夜祈貴船祠図     香羅曾結両同心 海誓山盟契濶深 溝水応須無断絶 谷風何事変晴陰     伐柯斧使良媒失 積羽舟随旧怨沈 苦向叢祠将告訴 松杉夜色気蕭森〟    〈いわゆる丑の時参りの図に南畝の題〉  ◯「会計私記」⑰48(寛政九年一月一日)   (南畝、年始の挨拶に行く。酒井栄八殿と記す)  ◯「細推物理」⑧366(享和三年六月一日明記)   〝伝法院にて、開帳の前にぬかづき、矢大臣門前を出て、富士浅間の宮にまうで、等覚院殿をとふにあは    ず〟    〈「等覚院殿」がすなわち抱一〉  ◯「細推物理」⑧371(享和三年六月十五日詠明記)   (狂歌師花の屋道頼の宅にて)   〝襖に屠竜子の画き給ふといふ一つの柿の実あり。たはぶれに筆とりて     歌の道に熟したる人丸かぶりたつた一つの柿のもとにて〟    〈南畝、新材木町の花の屋少々道頼の家に、抱一の画く柿の絵を一見。花の屋は文化七年四月逝去、南畝は追悼歌を詠     んでいるから、親密な交渉であったようだ〉  ◯「放歌集」②177(文化九年一月上旬詠)   〝鶯村君の松の画は金川宿羽根沢といふ楼の庭にある松なり     かな川の松の青木の台の物洲浜にたてる鶴の羽根沢〟    〈鶯村君とあるのが抱一。この松の画をどこで見たものか記述がない〉  ◯「序跋等拾遺」⑱556(文化十年三月八日記)   (文化十年刊の抱一著「屠竜之技」に南畝の跋)   〝覃(南畝)識抱一隠君 蓋三十有余年。隠君之操。終始如一。性好誹諧。善図画(以下略)     文化癸酉晴明後日 南畝覃書于緇林楼中〟    〈文化十年の「三十有余年」前となると、安永の末年ということになる。しかし管見では、安永期・天明初年の交遊記事     は見当たらない〉  ◯「六々集」②222(文化十二年一月詠)   〝抱一君の梅のずあえの図に     如意々々と素枝の出しもとよりも宝珠のごとき梅の花さく〟  ◯「南畝集 十九」⑤341(文化十二年二月上旬賦 漢詩番号3972)   〝春日尋抱一隠君     狂風処々起清芬 不是探梅偶訪君 幽谷孤鶯求友入 片時閑話洗塵氛〟    〈南畝、根岸の里に抱一を訪問するのは、俗塵を洗い流すためでもあったようだ〉  ◯「万紅千紫」①279(文化十二年二月記)   (〝根岸の抱一隠君〟を訪問したという詞書あり。欄外注に等覚院抱一君称鶯邨〟とあり)    〈この詞書は前項と同じ日のものか〉  ◯「七々集」②279(文化十二年十一月二十一日明記)   (「後水鳥記」より。この日千住にて酒戦あり。抱一、亀田鵬斎、谷文晁、南畝等立会う)    〈不断は幽谷に住む隠君抱一も、時折はこうした戯れにうち興じたのである。谷文晁の項参照〉  ◯「七々集」②298(文化十三年二月中旬詠)   〝抱一上人、月と鼈のゑに 大空に月にむかへるすつぽんの甲のまろきや地丸なるらん〟  ◯「紅梅集」②338(文化十五年四月十二日詠明記)   〝卯月十二日、鶯邨上人のやどりに晋子のかける光陰の道行といふものをみて     光陰の道行はやかくれ家は鶯村も山ほとヽぎす     所からちかき山屋の若楓岡べのまくづかヽるもてなし     夕ぐれに山の根ぎしをいでくればいそぐ四つ手に帰る安茀(あんぽつ)〟    〈晋子は俳諧師・榎本其角のことか。山屋は吉原の名物豆腐屋〉  ◯「紅梅集」②349(文政元年七月詠)   〝抱一上人より三幅対の画讃をこひ来る    中は遊女の形にして、花に権現の事をよむべきむねをこふ     おいらんの中座の蔵王権現はこがねのみねの山にこそすめ    左右は里の藝者の形して、手に桜のはなをもてり。子守勝手の明神のうたよめといふ     一きりに千代をこもりの神ならばいざせん香をたて直さばや いにしへの静がまへる法楽も花をもらふが勝手なるべし〟  ◯「半日閑話 次五」⑱204(文政二年十月記)   (杉本茂十郎旧宅恵比寿庵所蔵書画)    〝松竹梅の間 十畳 抱一筆、袋戸、松竹梅、同筆〟〈一蝶の項参照〉  ◯「麓の塵 巻三」⑲510(日付なし)   〝袖移香 古きうたのよし、土佐画の図あり。    次君 名忠因 称栄八、姫路大守乃二郎君のもとにて見侍りし〟    〈酒井抱一と南畝の交渉は天明初年、狂歌の関係から始まるのであろう。以来題画も多く、身分の違いを越えて息の長     い交遊が続いた〉  83 ほくさい かつしか 葛飾 北斎 ◎〔宝暦十年(1760)~嘉永二年(1849)〕  ◯『岡目八目』⑦262(天明二年一月刊)   〝画工之部 春朗〟  ◯「浮世絵考証」⑱447(寛政十二年五月以前記)   〝古俵屋宗理名ヲ続     二代目 宗理 寛政十年の頃北斎と改ム     三代目 宗理 北斎門人    これまた狂歌摺物の画に名高し。浅草に住す。すべてすりものヽ画は錦画に似ざるを尊ぶとぞ〟  ◯「細推物理」⑧351(享和三年閏一月十九日明記)   〝名和氏にて、北斎をむかへて席画あり。山道高彦なども来れり。島氏の女、ならびに赤坂の歌妓お久米    来れり〟    〈名和氏は「細推物理」に頻出、遊山や酒宴での交遊が多い。山道高彦は狂歌名で山口彦三郎という田安家臣、馬蘭亭     とも称した。南畝とは天明初年以来の交渉がある。この頃、馬蘭亭での狂歌会は毎月二十五日に行われており、南畝     もよく参加していた。「島氏の女」は島田お香といい南畝の妾とされる人。そして赤坂の芸者。この席画は賑やかなこ     と、芸者の三絃付きであった〉  ◯「細推物理」⑧359(享和三年三月十五日明記)   (竹垣柳塘の亀沢町別荘にて)   〝烏亭焉馬はとくより別荘にして、北斎をもよびて席画あり〟    〈竹垣柳塘は幕臣、南畝とは古書画等で同好の士。烏亭焉馬とも南畝は大変親密であった。この頃の北斎の生活の糧の     中にはこのような席画もあったのであろうか〉  ◯「一話一言 巻四十一」⑭595(文化元年四月十三日明記)   (文化元年四月十三日、護国寺境内において、北斎は巨大な達磨の半身像を画いた。その様子を中村文蔵    という人が書き留めていた)   〝北斎画大達磨紀事    文化甲子三月、護国寺観音大士、啓龕縦人瞻拝、士女雲集、率無虚日、四月十三日、画人北斎、就其堂    側之地、画半身達磨、接紙為巨幅、下鋪烏麦◯、以襯紙底、紙大百二十筵、画者攘臂◯裳、縦横斡旋、    意之所向筆亦随之、蓋胸中已有成局、不持擬議而為也、画成、観者環立、嘖々賞歎、然唯見一班、未能    尽其情状、登座堂俯瞰、所見始全、口大如弓、眼中可坐一人、其所用、四斗酒◯一、胴盆、皆以貯墨、    水桶一、以貯水、為筆者凡六、而藁箒居三、大者如罍、小者如瓶、棕箒二、地膚箒一、皆以代筆     右中村文蔵所記〟    〈中村文蔵(子寅)は文晁の項参照〉  ◯「書簡 76」⑲104(文化元年十月十二日付)   〝近藤重蔵へ北斎画五十三次摺物壱帖(中略)貸し置候〟    〈長崎滞在中の南畝より長男宛の書簡。近藤重蔵は北方領土の探検で知られた幕臣。南畝とは同僚であり、書籍収集お     よび書誌等の面で同好の士。「東海道五十三次」の摺物は享和四年正月(二月十一日改元して文化一年)の出版。南畝     は発売と同時に入手したのであろう。もっとも南畝の蔵書目録等には見えない〉  ◯「六々集」②234(文化十二年三月記?)   〝北斎漫画後編序    目に見へぬ鬼神をゑがきやすく(以下略)〟    〈南畝の序。初編は文化十一年刊であった〉  ◯「七々集」②277(文化十二年十一月記)   〝載斗子三体画法序     書に真行草の三体あり。画も又しかり(以下略)文化乙亥のとし雪のあした 蜀山人〟    〈天明の黄表紙評判記『岡目八目』に「画工之部 春朗」と記して以来、南畝は北斎の存在を意識していたようだ。絵     本の序を依頼されたのは、南畝の北斎画に対する高い評価の現れと考えてよいのだろう。ことに寛政期の北斎摺物へ     の評価は俊満とともに高い。また席画記事は享和三年のものしか残されていないが、これは日記の残っている年がた     またまその年しかなかったからなのであって、おそらく記録のない他の年にも機会はけっこうあったような気がする〉  84 ほくば ていさい 蹄斎 北馬 ◎〔明和八年(1771)~弘化元年(1844)〕     ◯「千紅万紫」①232「あやめ草」②69(文化七年三月詠)   〝北馬子の外一人とヽもに巴屋の酒楼に酒のみけるに、一人は下戸なりければ     みつ巴ひとつどもえはき下戸にてふたつ巴はゆらゆらの助〟    〈巴屋は浅草の料理茶屋。書画会もよく行われた。狂歌は「仮名手本忠臣蔵」の大星由良之助気きどり〉  ◯「千紅万紫」①233(文化七年三月詠)   〝北馬のゑがける傾城の二人禿つれたるに     北馬の絵北里と対の禿ふでたくさんそうに見る事なかれ〟    〈これは狂歌を揮毫したのであろう。前出と同じ日の詠か〉    ◯「あやめ草」②71(文化七年四月詠)   〝庸軒流生花の師五英女一周忌に     いつまでも猶いけ花と思ひしにはや一めぐり水ぎはぞたつ    吟蝉女二十七回忌     かぞふればはたとせあまり七とせの春秋しらぬ空蝉のそら    右の二うたは北馬のもとめによりてよめり〟    〈五英女、吟蝉女ともに北馬ゆかりの人なのだろうが未詳〉  ◯「六々集」②232(文化十二年二月下旬記)   〝春雨宴柳花苑狂歌并序    (前略)今日こヽにあつまりて、酒をのむものはたそ、文蝶北馬の画にたくみなる人、伊勢伝福甚の興    にのる人、詩は五山、役者は杜若と、世にきこえたる駿河町の名妓になんありける     春雨にぬるヽとかつはしりながらおりたつ脛のしろきをぞみる     雨ふれば柳の糸の長々と長さかもりもかつはうれしき〟    〈新橋の料亭柳花苑(いづ喜)での席画。文蝶は未詳。伊勢伝は新橋住の知人。福甚も未詳。駿河町の名妓とは前出(栄     之の項)のように、当時全盛を誇っていた芸者お勝〉  □「年譜」⑳303(文化十五年一月二十五日)   〝擁書楼発会。文晁・北馬・鶴陵・岸本由豆流・京山・山崎美成等と会す〟    〈「擁書楼」については谷文晁の項参照。北馬がどの程度かかわっていたのか分からないが、民間考証学の拠点ともいう     べきこの擁書楼の会に、南畝や岸本由豆流、山崎美成などに伍して参会していたのである〉  ◯「杏園稗史目録」⑲486(文政二年)   〝話(ママ)本 (十二部のうち)水の行衛 享和二年 北馬〟    〈南畝と北馬との交渉は師匠の北斎より親密であったようで、単に席画上の交渉にとどまらなかったのは、北馬ゆかり     の人に追悼狂歌を詠んでいることでも明らか〉  85 ほっけい ととや 魚屋 北渓〔生没年未詳〕  ◯「南畝文庫蔵書目」⑲408(年月日なし)   〝青楼 吉原十二時 一巻 六樹園文 北渓画〟    〈「青楼」の部は吉原に関する史料、評判記、洒落本、吉原細見の目録。但し若干吉原以外も交じる。六樹園は宿屋飯盛〉  86 まさのぶ おくむら 奥村 政信〔貞享三年(1686)~明和元年(1764)〕  ◯「浮世絵考証」⑱442(寛政十二年五月以前記)   〝号芳月堂、一号丹鳥斎 奥村文角政信 同利信    江戸通垣(ママ)町本屋なり。瓢箪の印をなせり。漆絵に多し〟  ◯「一話一言 補遺一」⑯92(文化八年四月二日明記)   (「雲茶会」初集。紀束(西川権)の出品)   〝志道軒 芳月堂 奥村文角政信 はしら絵版元〟    〈深井志道軒は享保から明和の初年にかけて活躍した講釈師。「雲茶会」は凡例参照〉  ◯「瑣々千巻」⑩332(文化八年四月八日明記)   〝わか草物語 あぜち少将若草のまへ 大和絵師 奥村政信〟    〈『国書総目録・著者別索引』が載せる『若草源氏物語』がこれに相当するか。そうだとすると、宝永四年(1707)の刊     行。「瑣々千巻」は凡例参照〉  ◯「南畝文庫蔵書目」⑲414(日付なし)   〝絵本 遊君仙人絵本 一巻 奥村政信筆〟    〈『国書総目録・著者別索引』には同名の絵本が見当たらない〉  ◯「杏園稗史目録」⑲452(日付なし)   〝画本部 折本 無名 奥村政信 一〟〈題名なしの折本ということか〉  87 まさのぶ きたお 北尾 政演 ◎〔宝暦十一年(1761)~文化十三年(1816)〕   〈絵画記事および交遊関係のみ。京伝著の所蔵書目録も全て省略〉    ◯『菊寿草』⑦227(安永十年一月刊)   〝絵師之部 北尾政演〟  ◯『岡目八目』⑦262・271(天明二年一月刊)   〝作者之部 京伝〟   〝画工之部 政演〟    〈天明二年の黄表紙で「青本惣巻軸」を飾った京伝の出世作『御存商売物』について〉   〝作者京伝とはかりの名、まことは紅翠斎門人政演丈の自画自作〟〈「紅翠斎」は北尾重政〉  □「杏園余芳」(月報4 巻3 南畝耕読)   「耕書堂夜会出席者名録」(天明二年十二月十七日明記)   (蔦屋主催のふぐ汁の会に師匠北尾重政と参加)    〈南畝との交遊はこのあたりから始まるか。北尾重政の項参照〉     □「判取帳」(天明三年成)   〝◯斎政演画 一名身がるの折輔(松の梅の絵)〟    〈天明三年頃は戯作者京伝より、絵師政演の方が通りがよかったのであろう〉  ◯「四方の留粕」①197(天明四年一月刊)   〝山東京伝画美人号序    花の色をうつせるものは(以下略)天明四ッのとし辰の初春〟    〈南畝の京伝作品初めての序か〉  □「吾妻曲狂歌文庫」(天明六年一月刊)   (京伝、南畝の肖像を画く)  □「古今狂歌袋」(天明七年一月刊)   (京伝、南畝の肖像を画く)  ◯「南畝集 九」④141(寛政五年九月下旬 漢詩番号1898)〉   〝聞京伝生新開煙袋舗賦贈     児童走卒識京伝 更掲高標列百鄽 煙火神仙製煙袋 風流不譲薛涛牋〟    〈京伝の煙草屋開店は弟京山の「山東京伝一代記」によれば同年四月、京橋銀座一丁目に店開きしたとある。南畝が民     間人の商売に関して漢詩を寄せることは極めて珍しい。特別の思い入れがあったと見てよいのだろう〉  ◯「浮世絵考証」⑱444(寛政十二年五月以前記)   〝(北尾重政)弟子 同政演 京橋山京(ママ)屋伝蔵、所謂京伝なり。葎斎と云。戯作に名高し (朱丸)◯擁書漫筆に岩瀬醒字ハ田蔵トアリ。 (以下二行分朱筆)姓岩瀬、名田蔵、字伯慶、号醒世老人、一号山東、江戸深川木場丁産、幼名甚太郎    本文朱注恐ラクハ誤ナルベシ。尚後人ノ考ヲ俟ノミ〟    〈凡例にあるように「(朱丸)◯擁書漫筆」以下は南畝以外の注記。なお小山田与清の『擁書漫筆』は文化十四年の刊行。     与清と京伝は極めて交渉が頻繁で、様子は文化十三、四年の与清の日記「擁書楼日記」に詳しい〉  □「浮世絵追考」⑱689(享和二年十月明記)   (京伝の「浮世絵追考」成る)  ◯「細推物理」⑧346(享和三年一月十九日明記)   〝狂歌堂真顔・吾友軒米人・山東京伝・曲亭馬琴来。馬蘭亭の息・及柳長、かほる、吉田やおますを携へ    来りて、三線をひかしむ〟   〈南畝宅での狂歌会。豪華な参加者である。柳長は酒泉亭柳屋長二郎。かほるは蘭奢亭薫。吉田屋お益は芸者だが、狂歌    師・人真似小真似のわすれがたみと南畝は言う〉    ◯「細推物理」⑧351(享和三年閏一月二十五日明記)   〝馬蘭亭会。狂歌堂真顔・山東京伝・曲亭馬琴・烏亭焉馬・吾友軒米人等来。六樹園 五老・島田氏の女・    為川氏も又来れり〟    〈馬蘭亭での例会。前項の顔ぶれに六樹園(五老・宿屋飯盛)が加わる。「島田氏の女」とは芸者お香、南畝の妾になる人〉  ◯「細推物理」⑧361(享和三年四月十日明記)   〝山東京伝をとひ、酒くみかはし、所著の骨董集をみる〟    〈京伝著『骨董集』の出版は後年の文化十二年。南畝は文化十年冬に序を認めている〉  ◯「細推物理」⑧364(享和三年五月十五日賦)   〝亀沢別業の会。烏亭焉馬・狂歌堂真顔・山東京伝・馬蘭亭高彦来、八重川勾当来弾筝     曲裏薫風可解慍 月臨亀沢又黄昏 請看第二橋頭水 交淡談清酒一樽〟    〈次項参照。竹垣柳塘の別荘での会。南畝をはじめいつもの顔ぶれ。琴を弾く八重川勾当は、この頃の宴席に頻りに登     場する〉    ◯「南畝集 十三」④263(享和三年五月十五日明記 漢詩番号2286)   〝五月望 同馬蘭亭・狂歌堂・山東窟烏亭集 竹柳塘亀沢別業 瞽八重川勾当筝〟   〈詩は前項に同じ〉    ◯「書簡 135」⑲198(文化三年八月十五日明記)   (本所の近藤重蔵正斎寓居にて月見の宴。当日の参加者)   〝京伝・馬琴・焉馬・飯盛・馬蘭亭・唐画人芙蓉(阿波ノ臣)・柳橋歌妓お増・大橋歌妓・義太夫ぶし手妻    遣も有之、中村勘三郎座へ出候歌うたひ等来〟    〈芙蓉は鈴木芙蓉。南畝とは安永以来の交渉あり。この日の亭主は近藤重蔵だが、参加者はおそらく南畝の招集に応じ     たもの。芸者に下座の者、 義太夫手妻とあるからずいぶん賑やかな中秋の宴である〉  ◯「書簡 163」⑲227(文化八年三月三日明記)   〝去上巳山東京伝、京山に内会いたし曲水にかへ申候。珍書珍画会いたし、来月より月々二日と相定、神    田明神前雲茶店と申候茶店之楼上へ、二百年来の古物、青楼、戯場其外之俗ナル古物を持ちより申候。    尤大連成候へばあしく候間十人迄に限り、一人五品を限り申候。素見物は禁じ申候。御閑暇に候はヾ御    出会奉待申候。近隣書肆青山堂雁がねや発起に御座候。俗物は一切入不申、小連に限り申候。京伝、京    山は是非来るよしに候〟    〈竹垣柳塘宛。上巳三月三日、京伝・京山と「雲茶会」のことを相談したのであろう。凡例および次項以下、四月二日・     五月二日の会参照〉  ◯「一話一言 補遺一」⑯91(文化八年四月二日)   (「雲茶会」初集、京伝の出品)   〝一 万治高尾自筆色紙 揚屋さし紙二張 高尾 うす雲    一 延宝年間よし原の図 菱川師宣筆    一 雛屋立圃作美少年人形〟    〈凡例参照〉  ◯「一話一言 補遺一」⑯107・108(文化八年五月二日)   (「雲茶会」二集、京伝の出品三品)   〝海西子休甫戯筆(京伝識語)休甫ハ泉州堺ノ俳諧師也。貞徳ト時ヲ同ジウセリ(中略)則此絵ハ寛永正    保ノ比ノモノ也。画者詳ナラズトイヘドモ六尺袖紫足袋ノ古風ヲミルニタレリ〟   〝蒔絵香合考(京伝識語)是寛永時代の蒔絵也。洛北修学寺村或は松ケ崎等の題目踊の図なるべし(後略)〟   〝新撰御ひいながたの序 瓢水子(京伝の欄外注「瓢水子ハ浅井了意ノ号也」)    (序文省略)     于時寛文六年七月吉日 山田市郎兵衛開板      絵様以上二百     寛文六丙午年八月吉日 寺町通二条上ル町 山田市郎兵衛板〟  ◯「松楼私語」⑩12(文化九年記)   〈「松楼私語」とは、南畝の妾しづ(賎)が吉原・松葉屋内の年中行事や風俗・習慣について語ったものを、南畝が筆記し    たもの。筆記は天明七年の春のことであった。しづはもと松葉屋の新造・三穂埼。天明六年七月十五日、南畝が身請け    した。この筆記を文化八年、南畝が清書し、翌九年、京伝が一覧した。天明七年春と言えば、この年出版の京伝作・洒    落本『総籬』も松葉屋が舞台であった。京伝は当時二十五才、この筆記を読んで青春時代が彷彿と蘇った違いない。そ    れかあらぬか、京伝は「総籬」の主人公・仇気屋艶次郎ならぬ〝艶示老人〟の名で識語を書いている。ところで「松楼    私語」は、南畝自ら〝一切他見無用〟(書簡211⑲11)と言う秘本であった。それを見ることができた京伝は、やはり    南畝にとって特別な間柄であったのだろう〉  ◯「序跋等拾遺」⑱556(文化十年冬明記)   (南畝、京伝の『骨董集』(文化十一年刊)に序 序文省略)   〝文化癸酉冬日 杏園主人書于緇帷之林下〟    ◯「一話一言 巻50」⑮346(文化十三年三月明記)   (南畝、京伝宅に〝琉球雛〟見る)  ◯「丙子掌記」⑨599(文化十三年九月七日明記)   〝丙子九月七日暁、醒々老人山東京伝 岩瀬氏頓滅。翌八日葬于本所廻向院無縁寺 歳五十六 法号智嶽    恵海(欄外注に法号、墓石の事等あり 省略)    六日の夜、弟京山のやどに狂歌堂真顔・北静廬などヽともに円居して物くいなどし、子の刻すぐるまで    物語せしが、狂歌堂は久しくやめるのちなれば、竹輿にのりて帰り、京伝は静廬とヽもに家に帰る道す    がら心地あしければ、下駄ぬぎてゆかんといふにまかせて、静廬かた手に左の下駄をもち、京伝を肩に    かけて帰りしが、わづか道に三たびばかりもやすみ、やうやうやどに帰りてなやみつよく、つゐに丑の    刻半すぐる比に息たえぬ。脚気衝心とかやいふなる病なるべしと静廬ものがたりしを、八日廻向院にて    きけり。    七日の夕、児定吉、柳原の書攤にて京伝か作の小本三部并青本数巻を得てかへれり    (以下、小本(洒落本)名および南畝所蔵の京伝作・洒落本名あり 省略)〟    〈不思議にも青本(黄表紙)の記載はない。これは京伝作に限らない。南畝の蔵書目録にも黄表紙作品は一切ない。不思     議である〉   〈南畝が京伝の臨終の様子を聞いた北静廬は、国学者としても著名な京橋住の伊勢屋勝助。狂名を網破損針金という。南    畝とは天明三年以来の旧知である〉  ◯ 「一話一言 補遺一」⑯154(文化十四年二月以前)   〝京伝机塚碑文相願候に付口上之覚〟    〈山東京山、兄の「京伝机塚」建立を計画。記事は碑文を南畝に依頼する口上書の写し。書面及び京伝自身の「古机の     記」は省略〉  ◯「序跋等拾遺」⑱646(文化十四年二月明記)   (南畝、弟京山の依頼にて「京伝机塚」(浅草寺境内現存)を撰す。碑文は省略)   〝文化十四年丁丑春二月 江戸南畝覃撰〟    〈浮世絵師の中で、南畝が一番親密だったのは山東京伝であった。交渉は南畝が天明二年の黄表紙評判『岡目八目』で     京伝作を激賞して以来のもの。文化十四年の南畝撰「京伝机塚」碑文にも「余識翁三十余年」とある。黄表紙・洒落本・     読本等の「稗史作者」京伝を高く評価するとともに、『近世奇跡考』や『骨董集』のような考証物についても「考拠精     確、可以補小史矣」と南畝は評価していた。ただ絵師としての評価に直接言及したものを見ない。やはり文芸の人・     京伝なのだろう〉  88 まさよし きたお 北尾政美 ◎    〈鍬形蕙斎の項参照〉  ◯『菊寿草』⑦227(安永十年一月刊)   〝絵師之部 北尾三二郎〟  ◯『岡目八目』⑦262(天明二年一月刊)   〝画工の部 北尾政美〟  □「杏園余芳」(月報4 巻3 南畝耕読)   「耕書堂夜会出席者名録」(天明二年十二月十七日明記)   (天明二年十二月十七日、吉原大門口蔦屋重三郎宅のふぐ汁会に参加)    〈この会のことは北尾重政の項参照〉  ◯『寿塩商婚礼』⑦501(天明三年刊)   〝四方作 北尾政美画 蔦屋板〟〈次項『此奴和日本』の初版本〉   『此奴和日本』⑦318(天明四年刊)   〝四方作 北尾政美画〟〈岩波の「全集」は『此奴和日本』を所収〉  ◯「浮世絵考証」⑱444(寛政十二年五月以前記)   〝政美 杉皐、俗称三次郎、後蕙斎と号、落髪して浮世絵をやめ一種の画をなす。名を紹真ト改〟    〈南畝との交渉は鍬形蕙斎を名乗るようになってからの方が多く、政美時代は少ない〉  89 またべえ いわさ 岩佐 又兵衛〔天文六年(1578)~慶安三年(1650)〕  ◯「浮世絵考証」⑱438 ⑱440(寛政十二年五月以前)   (父、荒木摂津守村重、二才の時自殺し、母方の岩佐氏を称す。成人して織田信雄に仕えるという内容の    前文あり。省略)   〝画図ヲ好テ一家をナス。能当ノ風俗ヲ写スヲ以テ世人呼テ浮世又衛ト云。世ニ又平ト呼ハ誤也。画所預    家ニ又兵衛略伝アリ。藤貞幹好古日録ニ見ユ。    【無仏斎ガ此説信ジガタシ、四季画ノ跋ニ越前ノ産云々ト有ニモ不叶。疑ラクハ誤ナルベシ】    按ずるに、是いわゆる浮世絵のはじめなるべし。又大津絵も此人の書出せるなりといふ〟    〈無仏斎とは『好古日録』(寛政九年刊)の著者・藤貞幹(藤井貞幹)。「四季画ノ跋」は英一蝶の項参照。以下、浮世又平、     浮世又兵衛、大津又兵衛と続くが、南畝自身この三者の関係について整理がついてないようだ〉  90 またへい うきよ 浮世 又平〔未詳〕  ◯「一話一言 巻九」⑫385(天明八年六月中旬記)   (「三国遊女歌川の歌」の項にある、年月日未詳の欄外注に)   〝或説、東海寺に浮世又平がかけるうかれめの障子あり。一休の賛とて、高尾示曰、仏売法、僧売仏、汝    以五尺体休衆生煩悩、遮莫     池水に月はよなよなかよへどもひかりもぬれず水もそのまヽ    一休といひて高尾示曰も可笑。いづれ偽作なるものなり〟    〈確かに一休宗純と遊女・高尾とでは時代違いである〉  ◯「一話一言 補遺一」⑯47(寛政六年六月二十一日明記)   (「池田氏筆記」所収、京都「高台寺」の項)   〝屏風片シ 泉州堺エ昔唐船入津の図也。浮世又平筆〟  ◯「浮世絵考証」⑱440(寛政十二年五月以前記)   (「英一蝶四季絵跋」文中に)   〝近頃越前の産、岩佐の某となんいふもの、歌舞白拍子の時勢粧をおのづから写し得て、世人うき世又平    とあだ名す〟  91 またべえ うきよ 浮世 又兵衛〔未詳〕  ◯「紅梅集」②354(文政元年九月詠)   〝大津絵うき世又兵衛が古き図をみて     小ふくろの一つあまれば大津画の筆たて傘にくヽりつけたり〟  92 またべい おおつ 大津 又兵衛〔未詳〕  ◯「一話一言 補遺一」⑯91・110(文化八年四月二日)   (「雲茶会」出品目録)   〝大津又牛(ママ) 画鷹〟   〝大津又兵衛画鷹ノ絵〟    〈「雲茶会」は凡例参照。出品は反故庵。反故庵は市川白猿(五代目団十郎)の隠居名であるが、白猿は文化三年に没し     ている。この反故庵は白猿ゆかりの人だろうが未詳〉  93 みつさだ とさ 土佐 光貞〔元文三年(1738)~文化三年(1806)〕  ◯「蜀山余録」⑩119(享和元年七月中旬記)   (京都の某が土佐光貞画の五幅対を加賀公に進呈したという記事)    〈五幅対には正親町公明・日野資矩・資枝・芝山持豊・烏丸光祖の歌がそれぞれ詠まれており、南畝は歌も書き留めて     いる。ただし南畝がその光貞画を直接見たか否かは、記事上からは定かでない〉  ◯「一話一言 巻四十九」⑮327(文化八年七月?記)   〝護国寺什宝 慈童 光貞画〟    〈この「光貞画」を土佐光貞とみた。諸寺の虫干しは一種の展覧会のようなものであった〉  94 みつなり とさ 土佐 光成〔正保三年(1646)~宝永七年(1710)〕  ◯「一話一言 巻二十九」⑭140(文化五年五月二十七日明記)   (「青木氏蔵古書画目」〉   〝小町画 横幅 土左従五位下刑部権大輔藤原光成筆     たれをかもまつちの山の女郎花秋とちぎれる人ぞあるらし〟    〈谷文晁の項参照〉  95 もりくに たちばな 橘 守国〔延宝七年(1679)~寛延元年(1748)〕  ◯「浮世絵考証」⑱442(寛政十二年五月)   〝これまた町絵なれども世のつねの浮世絵にあらず。世に所伝の絵本通宝志、絵本故事談、謡曲画史、絵    本写宝袋等を見てしるべし〟    〈『絵本故事談』は正徳四年(1714)の刊行。以下、『絵本写宝袋』享保五年(1720)、『絵本通宝志』享保十四年(1729)、     『謡曲画史」享保十五年(1730)の刊行〉  ◯「小春紀行」⑨44(文化二年十月二十二日)   〝むかし我十一二歳の頃、橘守国が図の画る絵本故事談といふものを見しに、いつくしまの図有て、弥山    といへる山の名をもおぼえしが、今年今日此島を見る事を得たりと思ふに涙さへ落ぬ〟    〈南畝の蔵書目録には橘守国の『絵本故事談』は見当たらない〉  96 もろしげ ふるやま 古山 師重〔生没年未詳〕    ◯「浮世絵考証」⑱439(寛政十二年五月以前記)   〝元禄二巳年板の江戸図鑑に、浮世絵師 長谷川丁 古山太郎兵衛師重〟    〈菱川師宣の項参照〉  97 もろなが ひしかわ 菱川 師永〔生没年未詳〕  ◯「浮世絵考証」⑱439(寛政十二年五月以前記)   〝元禄二巳年板の江戸図鑑に、浮世絵師 橘町 菱川作之丞師永〟    〈菱川師宣の項参照〉  98 もろのぶ ひしかわ 菱川 師宣〔?~元禄七年(1694)〕  ◯「俗耳鼓吹」⑩18(天明八年六月以前記)   〝元禄の比の板にて月次の遊といへる絵本あり。菱川吉兵衛也。中に芝居の顔見世の事をしるして、つら    みせといへり〟   〈『月次の遊』は元禄四年(1691)の刊行。南畝は師宣画を江戸の風俗資料として見ている〉  ◯「浮世絵考証」⑱438(寛政十二年五月以前記)   〝菱川吉兵衛師宣 大和絵師又は日本絵師とも称ス。房州の人なり。    和国百女 三冊、元禄八年板  月次の遊び 一冊、元禄四年板    やまの(ママ)大寄 一冊  恋のみなかみ 一冊 其外天和、貞享の頃板本多し     貞享四年板の江戸鹿子に 浮世絵師 堺町横丁 菱川吉兵衛 同吉左衛門                  イニ(ママ)村松町二丁目(朱筆)     元禄二年巳年板の江戸図鑑に      浮世絵師      橘町   菱川吉兵衛師宣  同所 同吉左衛門師房      長谷川丁 古山太郎兵衛師重 浅草 石川伊左衛門俊之      通油町  杉村治兵衛正高  橘丁 菱川作之丞師永     (以下上段六行分朱筆)     元禄五年板 買物調方三合収覧 横切本一冊   江戸浮世絵町 橘町 菱川吉兵衛 同吉左衛門 同太郎兵衛 〟    〈『やまとの大寄』および『恋のみなかみ』はともに天和三年(1683)の刊行〉  ◯「一話一言 巻三十」⑭177(文化六年八月下旬記)   〝やまとめいしょ絵本尽 駒形堂他江戸名所    菱河師宣の絵本に、やまとめいしょ絵本尽といふ三巻あり〟    〈南畝は「駒掛堂」を駒形堂と見做し抄書した。ここでの師宣画は江戸地誌の資料であった。なお「やまとめいしょ絵     本尽」は『国書総目録・著者別索引』の菱川師宣にはない〉  ◯「一話一言 巻三十四」⑭282(文化七年一月七日明記)   〝元禄四年板 月次の遊といふ菱川の画本に江戸山王祭の体をゑがきて(後略)〟    〈この山王祭の絵は、室町時代の僧万里が編集した「帳中香」の記事「竹枝歌(コキリコ)」を、南畝が考証する資料として     使われている〉  ◯「一話一言 補遺一」⑯91(文化八年四月二日)   (「雲茶会初集」山東京伝の出品)   〝延宝年間よし原の図 菱川師宣筆〟  ◯「瑣々千巻」⑩339~40(文化八年四月八日)   〝姿絵百人一首 菱川 残本〟   〝和国名所鑑 闕本 菱川師宣〟    〈「瑣々千巻」は、書肆青山堂・雁金屋の千巻文庫(慶長已来の稗史野乗、古器古書画を収蔵)を、南畝が点検して表題     を与え、識語等を記したもの。『姿絵百人一首』は元禄八年(1695)年、『和国名所鑑』天和二年(1682)の刊行〉  ◯「杏園稗史目録」⑲484(文政四年明記)   〝収得書目 和 辛巳 大和絵つくし 三巻 大内 武者 浮世 菱川吉兵衛〟    〈「辛巳」は南畝取得の文政四年。『大和絵つくし』は延宝八年(1680)の刊行〉    ◯「一話一言 巻二十一」⑬320(年月日未詳)   〝信武 狂歌たび枕 上下     (南畝の抄書あり、略)     天和弐年戌初秋上旬 絵師 菱河吉兵衛  江戸おやぢ橋 酒田屋開板     (南畝注記)此たびまくらは永井信斎といふ人 歟〟  ◯「識語集」⑲722(文政元年九月)   〝信武 狂歌旅枕二巻、先年一見之。文政改元戊寅九月尽前於本石町◯書堂収得。七十翁蜀山人    此書不題作者姓字、按此中のうたに、永井ことをおもひあつめてさまざまに信濃よきこと信斎ぢなれと    いふあり。永井信斎といふ人にや。蜀山人又識〟  ◯「杏園稗史目録」⑲468   〝(狂歌たび枕)一巻 寛文五年 永井信斎 天和二年板〟  ◯「南畝文庫蔵書目」⑲413~5(年月日なし)   〝絵本     恋のみなもと  一巻 菱川吉兵衛  月次の遊    一巻 同     岩木絵つくし  一巻 同      やまとの大寄  一巻 同     和国百女    三巻 同      余景作り庭の図 一巻 同     やまと絵つくし 三巻 同 〟   〝画部     そのまヽ   一巻 穴村法印 菱川師宣  遊姿枕ゑつし 一巻 天和二 菱川     きやらまくら 一巻 菱川 〟  ◯「杏園稗史目録」⑲452(年月日なし)   〝画本部     和国百女  元禄八年 菱川 三  やまとの大寄 天和二年 菱川 一     岩木絵尽   天和三年 菱川 一  月次の遊   元禄四年 菱川 一     余慶作庭図 延宝八年 一     そのまヽ 一     遊姿枕 一            きやらまくら 一〟    〈『きやらまくら』寛文年間(1661-1672)刊 『やまと絵つくし』延宝八年(1680)刊     『やまとの大寄』天和二年(1682)刊    『恋のみなもと』が『恋のみなかみ』であるなら天和三年(1683)刊     『月次の遊』元禄四年(1691)刊      『余慶作庭図』延宝八年(1680)刊     『岩木絵尽』天和三年(1683)刊      『遊姿枕ゑつくし』天和二年(1862)刊     『和国百女』元禄八年(1698)刊     「そのまヽ」は『国書総目録・著者別索引』に見当たらない     南畝の菱川師宣画に対する関心は、絵そのものつまり鑑賞用というより、近世初期の江戸風俗を知る格好の資料、考     証の資料としてあったようだ〉  99 らんう 蘭雨 ◎〔生没年未詳〕  ◯「四方の留粕」①203(安永八年一月四日明記)   (南畝の狂文「春の遊びの記」より。吉田蘭香宅の「写絵の書き初め」会に参加)    〈吉田蘭香の項参照〉  100 らんこう よしだ 吉田 蘭香(東牛斎)◎〔享保九年(1724)~寛政十一年(1799)〕  ◯「一話一言 巻3」⑫131(安永七年秋頃記)   〝典具帖といへる紙あり。膚はよしの紙又みす紙に似てかたく、大サ美濃紙ほどあり。画家にて古画を臨    写するに用ゆ。価一帖二銭目也といへりと画人吉田蘭香云(以下略)〟  ◯「識語集」⑲694(安永七年秋明記)   (「後三年軍記」(大本三巻一冊、南畝自筆写本)の下巻末識語)   〝右後三年軍絵巻物、飛騨守惟久所図写而某侯所蔵也。安永戊戌秋過、画人吉田蘭香斎中而一見焉。展玩    不已謄写。其文以蔵篋笥。按林春斎日本書籍考、載後三年合戦草子三巻、即此物也。南畝主人〟    〈後序末にある天明一年五月の識語は省略。飛騨守巨勢惟久の原画を写した某侯所蔵のものを更に蘭香が模写したよう     である〉  ◯「四方の留粕」①203(安永八年一月四日)   (赤良の狂文「春の遊びの記」より。安永八年一月四日、牛込若宮の吉田蘭香宅にて「写絵の書ぞめ」会    あり。参加者は絵師が隣松(鰹画)・蟷車(役者似顔絵)・蘭雨(画不明)、蘭香は美人画。狂歌師が    赤良の他、小松百亀・唐衣橘州・雁奴(大根太木)・朱楽菅江の参加)    〈この狂文は天明狂歌運動が勃興する前夜の雰囲気を伝えているのだろう。「巴人集」②451に同文あり〉  ◯「南畝集 五」③301(安永九年十一月二十六日明記 漢詩番号878)   〝至日同吉蘭香諸子宴官医安子潤一壷亭     席上清談木屑飛 一壷春酒覚寒微 何唯綵線添長日 繋得同心不遣帰〟    〈安子潤は幕府医師・大膳亮好庵、一壷亭、牛峡と号した。安永七年~天明二年にかけて、詩会での交遊あり。これは     冬至の日、牛込の安子潤の宅における詩会での賦〉  ◯「江戸花海老」①89(天明二年十月明記)   (南畝と東牛斎(蘭香)、住吉町の五代目市川団十郎を訪問し、倅徳蔵の海老蔵襲名を祝う)   〈①91の挿絵は蘭香の画か。宗角の項参照〉  ◯「序跋等拾遺」⑱530(天明三年一月刊)   (蘭香画「画本綺麗扇」。南畝の題言)   〝便面之画尚於真率、而真率者新奇可賞、或乏綺麗、吾郷吉田蘭香、以画鳴于東都、門人輯其所画数十扇、    刻而伝之、名曰綺麗扇、其画情新幽奇、亦自綺麗、使人流観忘倦也、蓋蘭香所法狩氏、立筆命意、自成    一家、如此譜也、蘭香之余、待清風而発耳     天明癸卯孟春  南畝大田覃題 東江 鱗 書〟    〈『画本綺麗扇』は天明三年正月、須原屋茂兵衛他三都三肆相板の刊行。この題言によると、蘭香は狩野派に画法を学     んで、一家をなした町絵師であるらしい。なおこの題言の「書」を担当した「東江 鱗」は南畝の友人で、東江流の書     で一家をなした沢田東江のこと。東江はまた吉原の指南書とも言うべき『古今吉原大全』(春信画・明和七年刊)の作     者としても知られている〉  ◯「めでた百首夷歌」①71(天明三年一月刊)   (四方赤良の狂歌百首「蘭香画」の挿絵一葉あり。今福屋勇助板)  ◯「巴人集」②418(天明三年九月二十日詠明記)   〝長月廿日、吉田蘭香のもとにてはじめて市村家橘にあひて     よい風が葺屋町から来客は今宵の月をめで太夫元〟    〈市村花橘は九代目市村羽左衛門。なお翌二十一日、羽左衛門は赤良宅を来訪して狂名を請う。南畝、橘大夫元家と命     名するという(「巴人集」②419)〉  ◯「徳和歌後万歳集 十一」①33(天明三年九月二十日詠)   〝東牛斎にて布留糸道のさみせんにあはせて誌仲といへる翁、源平つはもの揃蓮生道行の段をかたりけるに、    橘大夫の舞れば     蓮生の道ゆきかヽりとりあへずうたふもまふもつはもの揃〟    〈布留糸道は三絃の名人観流斎原富(幕臣原武太夫)の狂名、橘大夫は市村羽左衛門の狂名で、ともに赤良の命名。誌     仲は当時八十四才、「判取帖」に「八百屋隠居」とあり。「蓮生の~」 の狂歌は「巴人集」②419に同詠あり。「巴人     集」の配列からこの狂歌は前項と同日の九月二十日の詠と思われる〉  ◯「巴人集」②420(天明三年十月頃詠)   〝大草屋しき袖すりの松見のもとにて、吉田蘭香・布留糸道・橘太夫元家など酒のみけるに、あるじの庭    ちかき一本の松の大きなる袖すり松といへるよしをききて、かの太夫はいかいのほく、肌寒さ袖すり松    にわすれけり、といふをきヽて     橘のかほりをそへて袖すりの松も太夫の昔わすれじ〟    〈「大草屋敷袖すりの松見のもと」とあるは小松百亀(飯田町大草屋敷住)であろうか。蘭香という人は歌舞伎役者や音曲     の方面に知人が多いらしい〉  □「判取帳」(天明三年成)   〝東牛斎蘭香(亀の絵)(南畝注)吉田氏住牛込若宮〟  ◯「会計私記」⑰52(寛政十一年六月九日明記)   (南畝、年始の挨拶に蘭香宅を訪問)  ◯「半日閑話 巻17」⑪519(寛政十一年六月九日)   〝哭画人吉田蘭香     壮年辞仕隠林扉 盤◯余風慕解衣 法妙寺中図仏滅 大悲楼上画補威     都人野客名皆熟 酒席歌筵興已違 憶昨経営随意匠 一時千紙彩雲飛    六月九日没、十一日葬四谷禅長寺、歳七十六、初名衛守、剃髪曰蘭香、曰東午(ママ)斎、晩称五木、学画    於狩野玉栄、復為栄川典信門人、所著有綺麗扇六巻〟    〈狩野玉栄に学び、栄川典信の門人でもあったようだ。法妙寺に「仏滅」の図(涅槃図のことか)を画き、浅草観音堂の     楼上画の補修もおこなったようである〉  ◯「調布日記」⑨198(文化六年二月二十二日明記)   (南畝、玉川巡視中、石田村(現在日野市石田)の土方隼太方に蘭香の「山水」を見る)  ◯「一話一言 巻30」⑭155(文化六年五月二十一日明記)   (牛込船河原より出土した古瓦の持主土屋清三郎は故吉田蘭香の弟子なりし事)    〈「半日閑話 巻一」⑪29に同文〉  ◯「一話一言 補遺一」⑯104 (文化八年五月二日)   (「雲茶会」二集、雲茶店主の出品)   〝吉田蘭香謾筆鷹之絵〟  101 りふう とうせんどう 東川堂 里風〔生没年未詳〕  ◯「一話一言 補遺1」⑯100 (文化八年四月二日)   (「雲茶会」初集、青山堂の出品)   〝美人図 大和絵師 東川堂里風図也〟  102 りゅうせん いしかわ 石川流宣〔生没年未詳〕  ◯「杏園稗史目録」⑲477(年月日なし)   〝武道続穂の梅 三巻 石川流宣〟    〈『国書総目録』は元禄年間(1688-1703)刊とする〉  ◯「南畝文庫蔵書目」⑲406(年月日なし)   〝青楼 吉原大黒舞 五巻 横本 武陽豊島郡真土山之住流宣 宝永六年己丑春〟  ◯「武江披砂」⑰512(寛政二年頃成?)   (巻四「竜土」記事)   〝江戸図鑑 石川流宣俊之云、流道(中略)元禄二年己巳板也〟    〈「武江披砂」は南畝の江戸地誌。これも菱川師宣画同様、江戸地誌の資料として重宝がられている〉  ◯「瑣々千巻」⑩340(文化八年四月記)   〝かたきうちの本 無題号 紙破て不見    (中略)作者 画之大和絵師 石川流宣  武江城下書林 相模屋太郎〟    〈次項「古野瀧津かたき討」参照〉  ◯「識語集」⑳69(文化八年四月以降記)   (「古野瀧津かたき討」(石川流宣作、相模屋太兵衛板。青山堂本)の南畝識語)   〝石川流宣は真土山のふもてにすみて、江戸図鑑、吉原大黒舞等の作あり。此書題号やぶれて見えず。し    ばらく古野瀧津かたき討と題す。元禄・宝永・正徳の頃、三浦の遊女に立起といふ名見えず。猶たづぬ    べし〟    〈『国書総目録』は『吉野瀧津かたき討』刊年なしとする〉  103 りんしょう 隣松 ◎〔生没年未詳〕  ◯「四方の留粕」①203(安永八年一月四日明記)   (南畝の狂文「春の遊びの記」より。吉田蘭香宅の「写絵の書き初め」会に参加)   〝隣松が画がける松魚(かつを)は左慈が鱸よりあたらしく〟    〈「左慈が鱸」は故事。魏の曹操が美味で名高い呉の松江の鱸を所望した時、妖術使いの左慈が水をはった銅盤から忽ち     鱸を釣って献上したという故事。文意は隣松の画く鰹は「左慈の鱸」より新鮮で生き生きしているという意味か。吉田     蘭香の項参照〉  ◯「巴人集」②396(天明三年三月下旬詠)   〝隣松子の席画を見侍りて     毛氈の花の赤らをたべ過ぎてとなりの松の前もはづかし〟  ◯「玉川余波」②148(文化六年三月二日記)   〝下布田村の掛物に隣松がかける鰹あり  絵にかける隣の松の魚をみてたヾいたづらに舌をうごかす〟    〈南畝、玉川巡視中、現在の調布市にて一見。隣松の鰹は江戸を越えて流通していたようだ〉  ◯「あやめ草」②70(文化七年三月頃詠)   〝桜のもとに三猿あり。一ッの白猿口をとぢて両の手にて二ッの猿の耳と目をふたぎたるは、見ざるきか    ざるいはざるの心なるべし。隣松の筆なり。     面白い事をも見ざるきかざるは 桜を花といはざるの智慧〟    〈この隣松の三猿の画をどこで一見したものか、記述はない〉  ◯「半日閑話 巻二十」⑪596(日付未詳)   (「空也僧鉢敲考」鉢叩きの考証の項 南畝の注記と思われる記事に)   〝隣松といへる画人の画がける群蝶画英といへる草画の本二巻あり。其上巻にのする所空也僧の図あり〟     (挿絵(⑪597)あり。その中に)     融通念仏縁起所蔵 群蝶画英所載茶筅賣空也僧 文政辛巳八月廿一日借抄于南畝翁〟    〈『群蝶画英』はそもそも英一蝶の画譜。それを隣松が模写したもの二巻があって、この「空也僧鉢敲考」の挿画は、     さらに誰かが南畝から借りて写したものらしい。なお南畝の蔵書目録に『群蝶画英』はない。『国書総目録』は安永     七年刊〉