Top浮世絵文献資料館浮世絵師総覧
 
大田南畝の観た書画・長崎滞在編-中国書画大田南畝関係
             底本:『大田南畝全集』全二十巻・別巻 編集委員代表 濱田義一郎                 岩波書店 一九八五年~九〇年刊・別巻二〇〇〇年刊                ※ 以下〔南畝〕と略記。例 ①10 は第一巻の10ページを示す                 【~】は原文の二行割り書き       南畝は文化元年(1804)九月十日、長崎に着任した。   そして一ケ月ほど経ったある日、江戸の嫡子・定吉に宛てて次のような手紙を書き送っている。     「役やしきへ参り候乙名二人隔日に相つとめ申候。いづれも和歌をよみ書画を好み、風流にてめづらし    き書画ども掛物持参見せ申候」(注1)     支配勘定・大田直次郎というより、狂歌師・四方赤良(蜀山人)として持てはやされていたに違いない。   乙名(名主)達が入れ替わり立ち替りあらわれては、新旧内外の書画を見せにくるというのである。長   崎には内外の文物が集ってくる。書画も例外ではない。その多くは日本各地に流通していくのだろう。   しかしすぐ流通しないまでも、機会を待って長崎に蓄積していたものも多いにちがいない。あるいは異   国の文化に触れようとして各地から来た人々が、揮毫して遺していった書画もまた劣らず多かったはず   だ。では、どんなところに書画は蓄積していたのか。長崎会所役人・春孫次郎の談を、南畝はこう書き   留めていた。     「当地に多く書画を蔵せるを、諺に一に高木【県令作右衛門】二に薬師寺【年寄久左衛門】三に鉅鹿   【酒屋町乙名】四に崇福寺」(注2)      長崎代官にして当地きっての名門、高木作右衛門家を筆頭に所蔵家ベスト4の名が挙っている。もちろ   ん南畝が機会を逃すはずもない。各家皆訪問して所蔵書画を見ている。ただ、三の「鉅鹿(オオガ)」につ   いては、同記述の欄外注に「鉅鹿氏災後、所蔵多為烏有云々」とあり、鑑賞しようにもその所蔵が無か   った。この注記がいつのものか判然としないが、南畝の滞在よりさかのぼること十六年、天明八年(17   88)司馬江漢の『江漢西遊日記』の記述に、当鉅鹿家の主人が火災焼失後の零落を涙ながらに語るとあ   るから、南畝が長崎入りした文化初年には、江漢の「一向の貧乏人とはなりぬ」という悲惨な状態が続   いたままだった。(注3)なるほど南畝の記述をみると、この明国の末裔という鉅鹿家が登場するのは、   この春孫次郎の談以外にはなかった。   さて、書画は先方からもやってきた。「古筆の売物日々数十枚持参候打内、書画等面白きものは求め置   可申存候」ともある。(注4) 仲買人が頻繁にやって来ては売込みをはかっていたようだ。加えて役得   というものもあった。南畝には清船の荷解きに立合って積み荷を検査監督する仕事がある。立場上舶来   の書画をいち早く見分することが可能なのだ。しかも石崎融思のような、長崎派画人としても名高い唐   絵目利と回って見ることも出来た。当然真贋鑑定にも立合う。(注5)ここにも眼福にあずかる機会は   あった。   このように南畝は公私両面で書画鑑賞の機会に恵まれていた。南畝の生涯で、短期間にこれだけ数多く   の書画を見のことが出来たのはおそらく長崎だけだろう。南畝にとって長崎は、その都市自体が美術・   博物館だったといっても過言でない。     以下、具体的に見ていきたい。なお特に断らない限り、出典は『瓊浦雑綴』(文化元年(1804)十一月十   七日~文化二年五月二十八日までの雑録)『瓊浦又綴』(文化二年六月十七日~同年九月二十四日まで)   のいづれかである。また〔◯月◯日〕は鑑賞した日付。     一 中国書画       A 宋代    ☆ 蘇軾【そしょく】(蘇東坡)(1036~1101)     ①「東坡左板」左版〔文化1年10月24日〕所蔵者不明(「書簡」82・⑲111)    〈これにはいささか問題がある。実のところ蘇東坡を鑑賞したと断言してよいものか、躊躇せざるをえない。という     のも、小川文庵書簡に「仇英偽物、東坡左板いかゞ鑑定候哉、東坡は今日相返し候間此ものへ御渡し可被下候」     (注6)とあって真贋微妙だからだ。「仇英」は後述するとして、南畝はどこからか「東坡左板」なるものを持込     まれた。おそらく買わないかというのであろう。しかし独りで真贋を決めかねたものか、あるいは文庵にも「東坡」     を紹介したかったものかよく分からないが、いったん小川文庵の許にやって鑑定というか、彼の意見を求めたよう     である。この書簡は文庵にその返却を求めたもののようだ。で、肝心の真贋はどうだったのか。残念ながら南畝の     記述はこれのみ。その後の消息はない。「南畝文庫蔵書目」にもなかった。「仇英偽物」については仇英の項参照。     左板は黒字白抜きの印刷物〉     ②「東坡酔翁亭墨本」法帖〔文化1年11月23日〕所蔵者不明(南畝収得)(「書簡」87・⑲118)    〈これも文庵宛書簡に「奇書奇画に日々驚目申候。東坡酔翁亭墨本、雪山人柿本人丸の歌等入手申候」とある。(注7)     つまり押し寄せる「奇書奇画」の中に蘇東坡もあったのだ。酔翁亭とは東坡の師にあたる欧陽脩の号である。欧陽     脩も宋を代表する大詩人。蘇東坡と共に唐宋八家のひとり。この墨本は酔欧亭の詩を蘇東坡が書したというのであ     ろうか。これは入手とある。例によって「南畝文庫蔵書目」を見るが、この表記のものはないようだ。ただ「法帖」     のところに「酔翁亭記 一帖」というものがある。これは「東坡酔翁亭墨本」と同じものなのだろうか。ところで     「雪山人」とは北島雪山のことだが、これは「日本書画」で後述。また小川文庵は幕府御抱え医者。偶然長崎行に     同道、赴任途中から一ケ月以上も南畝は病気に呻吟するが、その時往診・投薬等治療に当たってくれたのが小川文     庵。いわば命の恩人である。文庵の長崎行は、来日中の胡兆新という清人医師に就いて医術を学ぶのが目的でった。     とはいえわずか四か月足らず、慌ただしい滞在であった。墨本は法帖(折本)と同じ〉     ③「東坡竹仏印讃」掛幅〔文化2年3月18日〕薬師寺久左衛門所蔵(『瓊浦雑綴』⑧551)    「崎陽【年寄調役】薬師寺久左衛門家に蔵する所の、東坡竹仏印讃といふものをみしに、紙も古くみ     へて、竹葉のさま、なべての絵の及ぶところにあらず。讃はおさなきかたちの筆してかけり。       金山仏印       葉々随雲動 枝々趂水声 風清裏(襄)帝夢 月白普玉(王)情      その書を熟視するに、此方五山の僧の書に似たり。しらず、仏印なりやいなや。極札をいふものを     みるに、     画、蘇東坡居士筆 絵竹/賛、金山仏印禅師 葉々随雲〔印字〕/竪物地唐紙(二図)九〔印字〕     東坡墨竹賛起句/風清襄帝夢有之/軸 遂拝覧/仏印禅師真蹟/無猶予、不渉異診者也、不宣/     林鐘廿一日 真珠菴宗玄〔花押〕/均表率師     此画もと細川越中守殿用達取次にて、加州本田阿波守殿金拾枚に売し由也」    〈蘇東坡居士の画竹に、彼の親友とされる金山寺の了元(号仏印)の讃が入っているもの。東坡の竹は江戸時代にも     有名らしく、中山高陽もその画論『画譚鶏肋』(1775)において称揚している。(注8)南畝の感想も「紙も古く     みへて、竹葉のさま、なべての絵の及ぶところにあらず」と、画には感心の態だ。しかし仏印の讃の方には「おさ     なきかたちの筆してかけり(中略)その書を熟視するに、此方五山の僧の書に似たり。しらず、仏印なりやいなや」     とあって、かなり疑問に思っている様子。南畝の鑑識眼がどの程度なのか知る由もないが、親友の讃ありというの     は少し出来すぎた取り合せなのかもしれない。所蔵者は薬師寺久左衛門、金十枚にて入手の由である〉      ④「東坡竹」掛幅〔文化2年5月27日〕聖福寺所蔵(『瓊浦雑綴』⑧586)    「東坡竹 竪幅 四幅  四季の趣也。春は筍生ひ、夏は風を帯、秋は月出、冬は雪竹也。写」    〈これを蘇東坡画の竹の図と見なした。     南畝の蘇東坡体験はこれが初めてではない。過去二度ほど機会を得ていた。ひとつは享和二年(1802)三月、大坂     銅座勤務を終えて江戸に帰る際、京都東福寺で一見。この年はちょうど開帳の年に当たっていたようで、全山「こ     とごとく、もろもろの宝物をかゞげて人々に拝せしむ」と一般に開放していた。(注9) その中に蘇東坡があった。     もうひとつも同年十一月、伊勢の神戸藩主(本多伊予守。以下、神戸侯と表記)の席上に「酔翁亭記」一巻を見る。     (注10)しかし東福寺や神戸侯で見た東坡は「書」の方だから、「画」を見るのは長崎が初めてであった〉    ☆ 米芾【べいふつ】(米元章)(1051~1107)     ①「米南宮自書詩真蹟」法帖〔文化2年2月13日〕宿老徳見氏持参(『瓊浦雑綴』⑧541)    〈これは米芾の『蜀素帖』を写したもの。米芾の「擬古」「呉江垂虹亭作」等の詩及び記の全てを写し、明の沈周・     祝允明・文徴明・董其昌・胡完夫・邵子中・研山居士といった錚々たる顔触れが寄せた題跋識語を写している。た     だ「書」に関する感想は何も記していない。これは長崎の乙名(町役人)徳見氏が持参したもの。「南畝文庫蔵書     目」を見ると、「法帖」の部に「米南宮自書詩真蹟 一帖」と出ている。この長崎で写した『蜀素帖』のことであ     ろう。参考までに、台湾の国立故宮博物院の『蜀素帖』と比較してみると、南畝が見たものには、乾隆己酉年(54     年・1789・寛政元年)、清の董詰が勅を奉じ敬して書したという「御製題東竺庵慈柏」がない。また南畝は「右一     帖」と記しているから法帖だろうが、故宮博物院のものは巻子本である〉     ②「米南宮書継錦堂蔵帖」法帖〔文化2年3月〕高木作右衛門所蔵?(『瓊浦雑綴』⑧556)    「人皆趨世 出世者誰 人皆遣世 世誰為之(十二句省略)     雲披月満 遺像在此 誰其賛之 惟唐坡子      元豊四年、余至恵州、訪天竺浄恵師、見其堂、張海月弁公真像、坡公賛於其上、書法遵勁、余不      覚見猟、索紙疾書、匪敢並駕坡公、亦聊以広好人所好之意云爾  襄陽米芾     右一帖、唐訳司柳屋新兵衛携来」    〈これは蘇軾(東坡)の賛を見て感激した米芾の賛。蘇軾の賛は宋の高僧海月の画像上にあった。これも賛と識語を     写しただけて南畝の感想はない。持参した柳屋新兵衛は唐通事〉       ③「七言律詩(二首)」掛幅〔文化2年4月28日〕薬師寺久左衛門所蔵(『瓊浦雑綴』⑧570)    「崎陽年寄薬師寺家の所蔵米元章書 一幅紙地      主家林館御溝西 楊柳芙蓉映舞衣   玉沼該開魚上躍 繍簾花安燕低飛     微風翠輦宮中出 澹月霓旋(旌)苑外帰 四梅昇平尚此日 万年行楽莫相違     翠蓋竜旗出建章 鴬啼百囀柳初黄   昆池水泮三山近 阿閣花深九陌香     逕転虹栥(梁)通紫極 庭含玉樹隠霓裳 侍臣緩歩随鑾軌 図上応看集凰鳳(ママ) 襄陽米芾」    〈これには元人鄭元祐の識語と明人楊維禎の跋がある。南畝はこれも写している。米芾も南畝、初体験ではない。享     和二年、蘇軾同様、神戸侯の席上に見ていた。「間情賦一帖」とあった。(注10)しかし結局、南畝が米芾で見た     ものは「書」のみで「画」はなかった〉       〈蘇軾、米芾は、宋代四大書家と称されている。あと二人は黄庭堅と蔡襄だが、二人とも長崎では見ていないようだ。    しかし黄庭堅(山谷)の方は他所で見ていた。享和二年、前出の東福寺開帳、この時は「真跡の巻物などもあり」と    書き留めていた。(注11)また将来をいえば、文化八年(1811)六月、江戸の護持院において什宝虫干しの際にも一    見。それには「元禄十三年三月六日上様より参る」とある(注12)〉    ☆ 蘇漢臣【そかんしん】(12世紀)     ◯「嬰児図」掛物二幅〔文化2年3月〕高木作右衛門所蔵(『瓊浦雑綴』⑧556)    「嬰二幅【蘇漢臣筆】 竪物 大幅なり」    〈蘇漢臣は宣和画院の画人。宋の徽宗に仕えたいわゆる宮廷画家とされる。蘇漢臣は嬰児の画に評判があったという     から、この高木家の収集は一応きまっていたのだろう。なお『随筆百花苑』第四巻所収の頼春水著『掌録』には、     「長崎古名画」として「面かけ唐子、挂物 高島作兵衛/蘇漢臣」という記事がある。年寄・高島作兵衛所蔵、面     をかぶった唐子図像の掛幅という意味であろう。この記事は寛政十一年(1799)のもの。南畝は長崎出張中(文化元     年~二年)、高島作兵衛とは交渉があったから、この唐子像をみる機会があってもおかしくないが、記事は見当た     らない〉    ☆ 毛松【もうしょう】(12世紀)     ◯「竜図」掛幅〔文化2年3月〕高木作右衛門所蔵(『瓊浦雑綴』⑧556)    「竜虎【竜毛松筆/虎趙廉筆】竪物 大幅なり」    〈画人毛松は前出『画譚鶏肋』に「宋人にて花鳥をよくす」とある人だろうか。それともまた同書にいう「虎に毛松」     というところの宋人にあらざる「毛松」なのであろうか。「猿図」で知られる毛松は南宋の画家であるが〉       ☆ 李迪【りてき】(12~3世紀)     ◯「菊図」掛幅〔文化2年3月〕高木作右衛門所蔵(『瓊浦雑綴』⑧556)    「菊横幅筆【李迪筆】」    〈李迪は蘇漢臣同様宣和画院の画人で、花鳥画に優れていたとされる〉     ☆ 陳居中【ちんきょちゅう】(13世紀)     ◯「鬼子母神図」巻子本〔文化2年5月27日〕聖福寺所蔵(『瓊浦雑綴』⑧587・589)    「鬼子母神 一巻 陳虚(ママ)中画也。宝積経を紺地金泥にて引首に書り。跋は末に記す」     〈その跋は以下の通り〉    「聖福寺什物鬼子母神一巻跋      夫絵画高人逸士之所遊戯也、而居中此巻、又游戯中之游戯乎(以下略) 紫芝山人兪和題     画巻の末に陳居中製とあり」    〈陳居中は宋の画院に所属した画人。跋の「紫芝山人兪和」は未詳〉     ☆ 陳容【ちんよう】(陳所翁)(13世紀)   ◯「龍図」掛福 長崎奉行所所蔵(『一話一言』巻28・⑭47)    「長崎鎮台立山の府に所翁の龍、牧渓の虎の画大幅の二幅対あり。ある鎮台携へ帰りし事ありしを、     土人後の鎮台に訴へて取りかへしていまにあり。予も一見せしが至て見事なるもの也、所翁の竜に     賛あり。牧渓の虎は雨の虎なり」    〈この龍虎を南畝は長崎奉行所内で常に見ていた。所翁(陳容)は「龍」の画で知られる。記事は文化五年(1808)の     もの(注13)〉    ☆ 牧谿【もっけい】(13世紀)       ◯「龍図」所翁画・「虎図」牧谿画 二幅対 長崎奉行所所蔵(『一話一言』巻28・⑭47)    「長崎鎮台立山の府に所翁の龍、牧渓の虎の画大幅の二幅対あり。ある鎮台携へ帰りし事ありしを、     土人後の鎮台に訴へて取りかへしていまにあり。予も一見せしが至て見事なるもの也、所翁の竜に     賛あり。牧渓の虎は雨の虎なり」    〈この龍虎を南畝は長崎奉行所内で常に見ていた。ところで、長崎皓台寺の書院の「豹」の図(無落款)を見て、南     畝は「筆勢妙なり」とする一方、「西鎮台にある所の牧渓の画虎に敵すべし」というメモを残している。これは牧     谿の「虎」が評価の基準になっていることを示す。南畝の牧谿評価は高いのである。牧谿といえば、足利義満の愛     蔵品であったという「瀟湘八景」を思い浮べるが、南畝の見たのは山水画ではなかった。記事は文化五年(1808)     のもの(注13)〉       B 元代    ☆ 趙孟覜【ちょうもうふ】(趙子昂)(1254~1322)     ①「趙魏公春意図三十一景図」巻子本〔文化1年12月14日〕所蔵者記載なし(『瓊浦雑綴』⑧490)    〈南畝、長崎にて春画一巻をみる。これには明の文人解縉の跋があり、それによるとこの春画は「趙魏公春意図三十     一景」というものらしい。これに「春意詩」という作者未詳の詩が二十首、跋者の解縉の手によって書き加えられ     ていた〉    「啼鴬談燕豓陽天 小院相陰集女仙 一局囲碁争勝負 羞将時態逐鞦韆      (十八首省略)     炉烟裊々衣沈々 漫払匡牀展繍衾 何処王孫来倚玉 一天涼月照同心」     〈跋文は以下の通り。なお趙魏公とは宋末元初の文人趙孟頫〉    「右春意詩二十首、誰氏の作る所と為るかを記さず。偶々客有りて趙魏公の春意図三十一景を持示す、     余に命じて是の詩を後に書せしむ、為に之を録すこと右の如し。夫れ趙魏公の字画古今に冠たり、     声名宇宙に盈つ、何ぞ亦此の淫媒の図を屑(ヨ)しとするか。曾て聞く、此の図古より有する所、     宮闕庫蔵必ず一二を置き、以て火災を避く、名公高士の亦淫媒を以て廃(ス)て得ざる所以なりと。     烏(イヅ)くんぞ魏公の詔旨を奉じて此を図し以て文庫を鎮めるものに非らざるを知らんや。況や     其の筆意の工緻、設色の清深にして神情の煥発たるを閲するをや。真に以て目を眩まして心を蠱(マ     ド)はす、魏公に非ずんば孰れか能く此を為さん、庚午夏五月解縉跋〔大字十印〕〔負墨林監賞章〕」(原漢文)    〈明の文人・解縉によれば、春画を古来信じてきた火災を避けるためのものと考えると、趙魏公(趙孟頫、子昂とも     いう)の狙いは理解できないだろうし、彼の絵が放つ興奮や耀きを感じることもできないだろうという。解縉の趙     孟頫に対する評価は高い。この目眩くような妖しい魅力を表現しえるのは彼をおいて他にいないとまでいう。加え     て、春画を呪いという効用の面から捉えるのではなく、絵画それ自体、つまり表現行為の一形態として捉えようと     いう視点が、宋末元初の趙孟頫には既に備わっていたと指摘しているのである〉     ②「重遊何将軍山林五首」〔文化2年1月13日〕所蔵者記載なし(『瓊浦雑綴』⑧503)    「趙子昂書とて人の見せしが     重遊何将軍山林【五首】皇慶二年五月晦日書子昂〔趙氏子昂〕〔天水郡図書印〕〔栄陽仲章〕      未知真偽 正月十三日」    〈趙子昂は四大家(王蒙・雲林・黄公望・呉鎮)を凌ぐ元代の随一の書画家。贋作も多かったのだろう。南畝もこれ     に悩んだ様子、ためつすがめつ見たであろうに、その都度首をひねるありさま。これでは元代のものを確実に見た     といえるかどうか怪しい〉     ③「後赤壁賦一巻」巻子本〔文化2年7月3日〕所蔵者記載なし(『瓊浦又綴』⑧612)    「水晶道人書の後赤壁賦一巻をみる【未知真偽】」    〈もう一つ、文化二年七月三日、水晶道人書の「後赤壁賦一巻」なるもの。この水晶道人というのが趙子昂らしい。     らしいというのは『大漢和辞典』には「水晶宮道人」とあり、ちょっと違うからだ。しかし他に考えられない。だ     がこれにも南畝は「未知真偽」と書き留めている。かの趙子昂がまさかここに、というのが南畝の心境なのであろ     うか〉      〈実はこの趙子昂もこれが初めてではない。寛政の末年の頃の南畝の記録に「横幅 馬 三 趙子昂写」とあり、名高    い馬の絵を見ていた。これは浅草伊勢屋という家で一見。この家は後述するように、どういう経緯で所蔵したものか    分からないが、中国の古書画をずいぶん所蔵している。(注14)ともあれ、この「馬」がやはり問題だった。陳舜臣    の『中国画人伝』によると「馬についていえば、彼の真筆はおびただしい贋作や伝承のそれに埋もれてしまったかの    ようである」とあるから、この伊勢屋のものは真贋いずれであったのか、いささか心配ではある。(注15)享和二年    (1802)十月には、今度は友人の杉浦西厓という人が南畝の仕事場、勘定奉行所に持参してきた。こちらは墨帖で    「草菴紀遊詩」というもの。(注16)長崎後にも出合っている。文化八年、前出の護持院什宝虫干の時、やはり「竹    里館図」(横一幅)を一見、「白描著色 大徳元年趙[ ](ママ)人物甚奇ナリ」と書留。こちらは真筆と信じてい    る口振りだ(注12)また『南畝莠言』所収の「酢吸の三聖并図」の中には、「趙子昂が東坡懿蹟の図といふもの一巻    あり」という記述もある。(注17)これには門人亀屋文宝の縮図まで載せている。ただし実見した年月は不明〉     ☆ 王振鵬【おうしんぽう】(13~4世紀)     ◯「孔子家語図」巻子本〔文化2年2月14日〕薬師寺久左衛門所蔵(『瓊浦雑綴』⑧531)    「孔子家語図【元王振鵬/一巻】」    〈「孔子家語」は孔子と門人の言行録。それを絵画化したものだろう。画人王振鵬については不詳〉       C 明代     明代となるとさすがに多くなる。まず明代四大画家のなかでは、文徴明と仇英だ。しかし沈石田(沈周)   や唐寅(伯虎)には出会っていない。(もっとも米芾の①「米南宮自書詩真蹟」(『蜀素帖』)の識語   のとことで沈周の書を見ているともいえるのだが)長尾雨山の『中國書畫話』(注18)によると、沈石   田は日本に佳いものが沢山渡ってきたというから、長崎にあっても不思議はない。おそらく南畝も長崎   に期待していたと思う。というのも沈石田も唐寅も過去に見ていたからだ。沈石田は前出の伊勢屋にて   一見。これは寛政末年のこと。「雪中山水」とあり、七絶を書写している。唐寅、これも伊勢屋方。   「玄宗侍女」横幅「唐寅 名無し」とある。「名無し」とは落款はないが「唐寅」と認められる、ある   いは唐寅作と伝承されて来たという意味なのであろう。(注14)     ☆ 劉節【りゅうせつ】(15世紀)     ◯「鯉図」掛幅〔文化2年3月〕高木作右衛門所蔵(『瓊浦雑綴』⑧556)    「鯉一幅【劉節筆】竪物 大幅なり」    〈劉節は「藻魚図」で知られた明代の画家〉     ☆ 劉俊【りゅうしゅん】(15世紀)     ◯「三教図」掛幅〔文化2年3月〕高木作右衛門所蔵(『瓊浦雑綴』⑧556)    「三教一幅【劉俊筆】竪物 大幅なり」    〈「三経」は三経図で、すなわち孔子・釈迦・老子を一緒に画いたもの。劉俊は人物を得意とした明の宮廷画家〉    ☆ 趙廉【ちょうれん】(15世紀)     ◯「虎図」掛幅〔文化2年3月〕高木作右衛門所蔵(『瓊浦雑綴』⑧556)    「竜虎【竜毛松筆/虎趙廉筆】竪物 大幅なり」    〈『大漢和辞典』によると、山水画を得意とする宋人と、「虎」を得意とする明人と二人いる。だから宋代の画なの     か明代の画なのか分からない。ここでは一応「虎」が得意ということ考慮して明代にしておく〉     ☆ 林良【りんりょう】(15世紀)     ①「双鶴図」掛幅 〔文化2年5月27日〕聖福寺所蔵(「瓊浦雑綴」⑧586)    「林良 双鶴 竪幅 一幅 小鳥もあり。落款なし」     ②「花鳥図」掛幅〔文化2年5月27日〕聖福寺所蔵(「瓊浦雑綴」⑧586)    「林良 花鳥画 竪幅 一幅」    〈田能村竹田「山中人饒舌」(1813)には、谷文晁の花鳥画は林良を師とするとある。すると文晁は長崎遊学時、こ     れらを見て習っていたのかもしれない。これも呂紀の画同様、享和二年の東福寺開帳に見ていた〉    ☆ 呂紀【りょき】(15~16世紀)     ◯「鷹兎を追ふ図」掛幅二〔文化2年5月27日〕聖福寺所蔵(『瓊浦雑綴』⑧586)    「呂紀画 竪幅 二軸  鷹兎を追ふ。一兎は草にかくれ。小鳥みだれ飛」    〈呂紀(廷振)は江戸時代の画論に時々登場する名で、渡辺華山の言を借りれば「是(気韵の気に陰陽二気あり、そ     の陽気を指す 筆者注)は屏障に宜く巻冊に不宜、呂紀、林良の流に御座候」とあって、障屏に名のある画人であ     る。(注21)ただし、南畝の見たものは掛幅であった。呂紀も初めてではない。寛政末年、前出の伊勢屋に「巌草     竹薔薇雁翡翠」の画を、また享和二年、前出の東福寺開帳に見ていた。後年では文化五年(1808)五月、小石川の青     木家で「高麗雉」梅に山茶の大立軸を「呂紀歟」と推測ながら記録している。また文化六年(1809)、前出「護持     院什宝」の中に「花鳥」大立二幅を見る。南畝の鑑賞した漢画の中では、書き留めの多い画人のひとりである。お     そらく南畝の趣味にあっていたのだろう〉     ☆ 祝允明【しゅくいんめい】(1460~1526)     ◯「七言絶句」掛幅〔文化2年2月27日〕聖福寺所蔵(『瓊浦雑綴』⑧586)    「祝允明 詩 竪幅 一幅 七絶草書奇也」    〈草書に感銘をうけた様子。祝允明は書に名のあった人。この人の書もかつて見ていた。前出の神戸侯の席上である。     この時は巻物二巻。ひとつは「上林賦図」一巻、趙仲穆の画に允明の識語。もうひとつは「秋興詩」一巻、杜甫の     「秋興」八首のうち六首を書したものという。さらに後年の文政二年(1819)頃、詩家・菊池五山から聞いた話と     して、彼の詩集に「桜」の詩があることを書き留めている。(注20)なお、前出米芾の①「米南宮自書詩真蹟」     (『蜀素帖』)に祝允明の識語を見ている〉    ☆ 仇英【きゅうえい】(?~1552?)     ◯「池亭に仕女の図」巻子本〔文化2年6月27日〕長崎新地の倉庫にて一見(『瓊浦又綴』⑧608)    「巻物あり(中略)仇英、池亭に仕女の図。贋物ナリト融思云」    〈新地は唐人居留地。仇英は美人画に評判のあった人だが、前述(注6) のように贋物が数多く出まわっていた。出     会いはこうであった。六月二十七日、清船の荷解きを監督したが、ちょうどその時、仇英の画が目前を通りかかっ     た。うまい具合に唐絵目利の石崎融思が同行していたので、聞いたところ「贋物なり」との回答であった。長崎で     の仇英の偽物については、これが初めてではない。蘇東坡のところにも引いたように、前年の文化元年十月二十五     日付、小川文庵宛の書簡にも「仇英偽物、東坡左板いかゞ鑑定に候哉」とある。日本人の仇英好みを狙った贋作の     持ち込みが行われている様子である。案の定というか、結局、長崎では本物の仇英に出会うことがなかった。     仇英も初体験ではない。贋物だから再び体験したというのもおかしいが、これも前出の伊勢屋、その時、南畝は     「張敝画眉図 円窓中 仇英」と書き留めていた。「張敝」という画人は不詳。これだけではどんな画なのか想像     もつかない。     その後も南畝は辛抱強く仇英を待ち続けた。そして三年後の文化五年(1808)五月、前出の小石川青木家、ここに     仇英は文衡明と一緒にいた。この青木家の先祖は近世初頭の漢詩人石川丈山と深い交友があって、丈山の書を多く     所蔵している。その中に文徴明書「美人詞八首」付き、仇英画「美人画図巻」があったというわけだ。しかもこれ     には石川丈山の題辞まで添えてあった。この時、南畝はこの真贋に言及していない。しかし問題にならないだろう。     南畝は漢詩を詠むものとして、丈山には少なからぬ関心と敬意を抱いていた。そのお墨つきがあるとなれば、疑い     はなかったはずた。真相はしらない。が、南畝の認識では贋物であるはずはなかっただろう〉     ☆ 文徴明【ぶんちょうめい】(1470~1559)     ◯「列僊詩」巻子本〔文化2年2月〕長崎奉行・成瀨因幡守所蔵(『瓊浦雑綴』⑧523)    「列僊詩       扶桑残月挂梢頭 鶴背簫声度弱流 紫気如雲光照地 回仙繞過鳳麟洲(以下、七首あり。省略)        嘉靖辛丑秋日   徴明書〔文印帳明〕〔衡山〕     右一巻文衡山真蹟、西鎮台成瀨因州所収得、乙丑二月観     鎮台君明画の八仙図を得て、此文衡山の書巻と一函とし、予をして函の蓋に題せしむ。予、七言絶     句を書す      雲烟軽逐八仙遊 更瀈衡山墨水流 借問駿螭朝王府 何如騎鶴右陽州 乙丑春日 南畝田覃題」    〈文徴明の「列僊詩」と画者不明の「八仙図」を入手した当時の長崎奉行・成瀨因幡守が、これを一函にして、南畝     にその箱書きを依頼した。南畝は七絶を書して題とし、これに応えたのである。     これは成瀬因幡守の個人の鑑定というより、世襲専門職である当地の唐絵目利の鑑定なのだろうから。真偽は問題     にならないだろう。地役人の唐絵目利職が、当地の最高司令官たる長崎奉行に、贋物を本物と偽って保証するとは     考えられない。     南畝の文徴明体験はこれだけではない。三年後の文化五年(1808)五月、小石川の青木久右衛門という幕臣の家で、     南畝は書をみている。それは仇英の「美人図巻」に「美人詞八首」を書したものであった。(注19)付け加えると、     これまた上記沈周同様、米芾の①「米南宮自書詩真蹟」(『蜀素帖』)の識語中に徴明の書は見ている〉    ☆ 董其昌【とうきしょう】(1555~1636)     ①「七言絶句」掛幅〔文化2年3月〕高木作右衛門所蔵(『瓊浦雑綴』⑧556)    「一幅に、為愛看山到翠微 偶逢佳勝坐忘帰 千年松響濤声湧 百丈泉流練影飛 其昌とあり」     ②「七言絶句」掛幅〔文化2年5月27日〕聖福寺所蔵(『瓊浦雑綴』⑧587)    「董其昌詩 竪幅 一幅 七絶草書奇也」    〈この日は夥しい数の書画をみたせいか、詩句は写さず「七絶草書奇也」と短い書留を残したのみ。董其昌は沈石田     以降の第一者といわれ、画の方でも名が高いのだが、南畝に画を見る機会はなかった。書はこれも過去を手繰れば     見ていた。例の伊勢屋に七絶の「書」。そして神戸侯の席上に「七律詩」一巻を見ていた。また文化五年五月に例     の青木家に一見。この時は江戸文人画の大家、谷文晁も同道している。所蔵は「山水横幅」画であった。(注19)     陳瞬臣の『中国画人伝』に「彼の生存中から、贋作が横行したものである」というくだりがある。南畝は知らず、     渡辺華山の先生にして松平定信の庇護下にあった谷文晁、ずいぶん古書画をみる機会も多かったろうに、一体どん     な感想をもったのであろうか。付け加えると、例の米芾の①「米南宮自書詩真蹟」(『蜀素帖』)に董其昌の題と     識語を見ていた〉    ☆ 藍瑛【らんえい】(17世紀)     ◯「山水画」掛幅〔文化2年5月19日〕嵩福寺所蔵(『瓊浦雑綴』⑧582)    「藍瑛山水の画【米虎児筆意とあり】竪幅」    〈虎児は北宋末から南宋初期にかけての画家・米友仁の幼名。その筆意にならったというのであろう。藍瑛は北宗画     系の明末画人で出身地から浙派と呼ばれる〉    ☆ 道霈【どうはい】(1615—1702)     長崎以前では享和三年(1803)、白山の吉祥寺の門額に道霈の書とされる「栴檀林」の題字を見ている。(注22)     ◯ 皓台寺 扁額題字・掛幅〔文化2年3月15日〕(『瓊浦雑綴』⑧548)    「中門の額は       尾道崐敬立      皓台禅寺     鼓山比丘道雨(霈)師書〔釈印道雨(霈)〕〔為霖氏〕」      「道霈禅師の書る大幅のものとりいでゝ見せしに、      海国宗風擅皓台 中華側千韵如雷 道伝曹洞源流遠 日丑(ママ)扶桑天地開      化雨霏々尤渥沢 雲山畳々更崔嵬 謾言隔岸遥相見 枯木花敷春正回       寄贈      海雲山逆流大禅師 閩皷山道霈」    〈道霈は明代の曹洞宗の僧。福建省建安生。字は為霖、号は旅泊・非家叟。皓台寺も曹洞宗、その縁で寄贈されたよ     うだ。尾道崐は未詳。鼓山は福建省福州にある地名。海雲山は皓台寺の山号。閩は福建省の古称。逆流は悟りへの     道を進むという意味。彭城百川の『元明清書画人名録』(安永六年刊・1777)に「釈道霈 シャクドウハイ 字為霖      住皷山 行書」とある〉        D 清代  ☆ 王翬【おうき】(1632~1720)     ◯「竹間に廬ある図」巻子本〔文化2年6月27日〕長崎新地の倉庫にて一見(『瓊浦雑綴』⑧608)    「巻物あり。竹間に廬ある図 法郭照筆意石谷子王翬トアリ」    〈この日、南畝は唐絵目利石崎融思と一緒に清船の荷ほどきを監督した。役得というか、市中に出回る舶来品を前の     舶来品に接することができた。「法郭照」は未詳。石谷は王翬の字(アザナ)。清代初期の文人画家「四王呉惲」の一     人だが、南畝に感想はない〉    ☆ 惲寿平【うんじゅへい】(1633~1690)     ◯「南山華十種」画帖〔文化2年6月27日〕長崎新地の倉庫にて一見(『瓊浦雑綴』⑧608)    「白雲外史寿平画賛ナリ。寿平姓ハ惲氏。沈南蘋ヨリ以前ノ人也ト。石崎融思云」    〈これも王翬画同様、清船の荷ほどきの時に見たもの。惲寿平(南田)は清の「四王呉惲」として知られている。南     畝が見たのは上記の二人だけで、「四王呉惲」の他の王時敏、王鑑、王原祁、呉歴などは見ていないようだ。石崎     融思は唐絵目利きで画家〉    ☆ 徐葆光【じょほこう】(?~1723)     ◯「詩巻」巻子本〔文化2年3月15日〕長崎、皓台寺にて一見(『瓊浦雑綴』⑧549)    「(長崎、皓台寺の)僧董隆、外よりかり得たるとて、清の徐葆光が書し詩巻をみせしむ。末に中山     の使院に書すとありしなり」    〈僧董隆はその昔江戸駒込の吉祥寺や牛込の幡松院に居った由。南畝を訪問したこともあると云うも、南畝は覚えず。     徐葆光は清人で『中山伝信録』の著者として知られる。1719年(享保四年)中山王の琉球に冊封副使として来航。     この詩巻はその時のもの。ただ、これがどういう経緯で長崎に伝来したものか未詳。詩巻の所蔵者は不明〉    ☆ 楊晋【ようしん】(1644~1728)     ◯「牧童」〔文化1年11月〕南畝入手(「書簡」84・⑲115)    「楊晋が牧童図【此童鎌太郎に似申候間求メ置候】」    〈鎌太郎は南畝の孫。購入の動機はこの牧童が孫に似ていることにあった。『大漢和辞典』に「王翬の高弟、画に巧」     とある。彭城百川の『元明清書画人名録』(安永六年刊・1777)には「楊晋【ヤウジン】字子寉、海虞人」海虞は江     蘇省蘇州にある〉    ☆ 孫億【そんおく】(18世紀)     ◯「梅萑」〔文化2年5月19日〕長崎にて一見(『瓊浦雑綴』⑧580)     「梅萑 監物 康煕辛卯殈(ママ)夏干峰孫億写」    〈干峰孫億は清の画家。康煕辛卯は康煕五十年(1711)。梅と萑(オギ)の図か。だが「監物」の意味がよく分からない。     掛幅と思われるが記載はない。また所有者の記載もなし〉    ☆ 沈志祖【しんしそ】(18世紀)     ◯「七言絶句(二首)」掛幅 〔文化2年3月14日〕南畝入手(『瓊浦雑綴』⑧550)    「一幅 清人沈志祖之詩       憶昔狂童犯順年 玉虯間暇出甘泉 宗虯欲舞千金剣 追騎猜観七室鞭       星背紫垣終掃地 日陽黄道卻当天 至今南嶺諸耆旧 猶拮榛蕪心异(ママ)田      鵲帰燕去雨悠々 青瑣西南月似鉤 天上歳時星又転 人間離別水東流      金風玉樹千門夜 銀漢横空万象融 蘇小回塘通桂檝 未々廻応清辺牽牛(此句衍字アリ読ガタシ)        沈志祖〔沈志祖印〕〔毅斎〕」    〈三月十四日、南畝は村上如登という長崎奉行所の役人から、この掛幅を入れて計四幅入手した。廉価ということも     あってか、翌日喜んで書すとあるから大変喜んだものと見える。しかしその一方で「貧児暴富と謂うべし」ともあ     る。これは『菜根譚』の「暴富の貧児」と同じ意味で引いたのであろう。要するに、これくらいで自慢してはにわ     か成り金のようでみっともないよと自戒したのである。ネット上の「百度百科」によると「沈志祖 清人、号咏楼、     又号太瘦生、杭州人。能詩詞、善画人物・士女・花草」とある〉    ☆ 僊源程凁【せんげんていそう?】(18世紀)     ◯「山水」画帖〔文化1年12月10日〕長崎新地の倉庫にて一見、後南畝入手    (『瓊浦雑綴』⑧485「書簡」92・⑲130)    〈この日唐船の舶来物を検査。僊源散人程凁という画人の山水画二帖をみる〉    「桃源の図あり。僊源散人程凁の画にして子俊の字印院あり。      乾坤何処托身安 洞口桃江上巳山 今古冥々難借問 定知長到夢魂間       集宋人句画靖節先生桃花源記意  僊源散人併題     又夏景に      江潭四月熟梅天 頃刻陰晴逓変遷 払地焚香清画永 一牕修竹正森然       法高房山筆意詩用張拭      僊源散人     又一帖は、己未秋日撫南宋諸名人筆、僊源程凁と落款ありて、嘉慶己未冬書于薇軒春橋王臣といへ     る賛あり。皆画人の小伝なり。(以下省略)」    〈一帖は「桃源の図」と「夏景」の入った山水画帖。靖節先生(陶潜)の「桃花源記」を念頭において画いた絵に、     宋詩の句を集めて七絶を作り賛としたもの。「夏景」は、元の文人画家高克恭(房山)の筆意に倣った山水に、     宋の詩人張拭の詩を配したということか。もう一つの山水画帖は嘉慶己未年(寛政十一年・1799)成立の南宋画     の諸名人に倣った山水画に画人小伝を添えたもののようだ。これは南畝の興味をとても引いたらしく、嫡子定吉     宛に「売物ゆへ何卒来春求め申度候」とあり、南畝は自身で購入する積りであった。(注23)ところが翌年春に     なると、肝心の売値と買値が合わずあわや返送という事態に陥った。その時、長崎奉行の成瀬因幡守、南畝の願     いを察したか、家臣を遣わして二帖とも買い請け、南畝に下賜した。(『瓊浦雑綴』の欄外注参照)ところでこ     の二画帖のうち、「南宋諸名人」に倣った画帖は、文化四年(1807)西久保光明寺主の雲室道人に譲っている。     (注24)もう一つ「桃源の図」入りの山水画帖の行方は分からない〉     ☆ 陳鳳占【ちんほうせん】(18世紀)      ◯ 書蹟 形態不明〔文化1年11月〕南畝入手(「書簡」84・⑲115)    「古筆の売物日々数十枚持参候内、書画等面白きものは求め置可申存候(中略)林屋陳鳳占書と有之     候。東坡承天夜遊と記申候。陳鳳占書の春夜宴桃李園序一幅琉球人とも可申(後略)」    〈蘇軾の「承天寺夜遊」と李白の「春夜宴桃李園序」を陳鳳占という人が書したものであろう。「琉球人とも可申」、     南畝はこの陳鳳占を琉球人とみたのであろうか。『元明清書画人名録』の「清人来舶」の部には「陳鳳占【チンホウ     セン】号林屋 行(乾隆)」とある。南畝はこの人名録を見ていたはずだが、見落としたか〉    ☆ 金坤【きんこん】(18世紀)     ◯「寿星駕鶴図」一幅〔文化1年冬〕南畝入手(『瓊浦雑綴』⑧562)    「寿星駕鶴図一幅、丙寅桂月雲間金坤写〔金坤之印〕〔雪居〕の印あるを得たり。     按書画人名録、清人来舶部に、金坤、字寧仲、雲間人とあり。是なり。甲子冬日所得」    〈「書画人名録」は彭城百川の『元明清書画人名録』(安永六年刊・1777)図柄は鶴を伴う寿老人。「丙寅桂月」     は乾隆十一年八月であろうか。上記人名録には【キンコン】のルビがある〉     ☆ 董元基【とうげんき】(立山)(18世紀)     ◯「虎渓三笑」一幅〔文化2年4月〕南畝入手(『瓊浦雑綴』⑧561)    「虎渓三笑の画一幅、立山といへる名あるを得たり。賛あり〔欄外注、立山〔胡処方〕の印あり〕      冥契虎渓辺 相恐勝自援 一高(尊)倶撫掌 大噱動乾坤〔直印〕〔字云天〕     書画人名録に清人来舶の条下、董元基 字処方、号立山、浙江人、行書とあり、此人にあらずや」    〈「書画人名録」は前記『元明清書画人名録』(【ドウゲンキ】のルビあり)賛の立山(董元基)は行書を良くしたよ     うだ。すると画者は誰であろうか〉       ☆ 繆瑞英【りょうずいえい?】(18~19世紀)     ①「牡丹図」絹地十枚〔文化2年6月27日〕長崎新地の倉庫にて一見(『瓊浦又綴』⑧608)    「牡丹絹地の画十枚。嘉慶癸亥春三月江香本淡如女史擬之     彩画にて見事に見ゆ」     ②「飲中八仙」八枚「八仙人」八枚〔文化2年6月27日〕長崎新地の倉庫にて一見(『瓊浦又綴』⑧608)    「飲中八仙八枚、八仙人八枚あり。白描にて至てよろし。      嘉慶甲子春仲平江女史繆瑞英画〔澹〕〔如〕の印あり」    〈繆瑞英はネット上、中華博物審編委員會の「中國古代名人錄」には「〔清〕女。字淡如、乾隆(一七三六至一七     九五)時、呉県(今江蘇蘇州)人、周笠妻。工畫花鳥、尤長寫菊」とあり。①の「淡如」は字(あざな)。花鳥     が巧く菊に長じていたとある。乾隆帝の頃活躍とあるが、①は嘉慶癸亥(享和元年・1803)三月の牡丹図、②は     翌嘉慶甲子(文化元年・1804)二月の仙人図。二作品ともに南畝の評価は好意的である。特に②の「飲中八仙」     図については格別な思いがあったようで、文化五年刊行の中井董堂著『飲中八仙歌』に、前年の文化四年十二月、     南畝は次のような跋を寄せていた。「前に瓊浦に在りて、嘉慶甲子春仲平江女史繆瑞英の飲中八仙図を視る。蕭     散秀雅、価を講じて値(ア)はず、今に三年、胸中を廻環す(以下略)」(注25)〉    ☆ 凝芬【ぎょうふん?】(未詳)     ◯「花鳥図」画帖〔文化1年11月25日〕長崎新地の倉庫にて一見(『瓊浦雑綴』⑧484)    「凝芬女史 画帖の落款なり。女筆とみゆ。花鳥也。十一月廿五日於新地観」    〈新地とは清船の倉庫のある清人居留地〉    ☆ 常禎【じょうてい】(未詳)     ◯「山水図」〔文化2年3月21日〕長崎にて一見(『瓊浦雑綴』⑧555)    「胡兆新、常禎画山水図に題する詩      遠渚高山欲挑天 微風細雨一邨烟 何時結個漁樵侶 好向滄江自在賦」    〈常禎は未詳。胡兆新は清の医師。当時、長崎に滞在中。民間診療の傍ら、幕府から派遣された三医師の質問にも     対応していた。また、書にも優れていた。胡兆新については「四 来舶書画人」の稿で再び取り上げる〉    ☆ 孫桐【そんとう】(未詳)     ◯「絵画」〔文化1年12月6日〕唐人屋敷新地にて一見(『瓊浦雑綴』⑧785)    「新地起貨【丸荷役】の日、絹地の画をみる事左のごとし     嘯谷孫桐 董舟散人沈存 張秋穀【書も又よし。鋤雲館に写すとあり】十二月六日」    〈丸荷役は輸入品の陸揚げ。嘯谷孫桐 董舟散人沈存の絹地の画を見たとあるが、二人とも未詳。張秋穀は「三      来舶人書画」の方に収録した〉      ☆ 潘元臨【はんげんりん】(未詳)     ◯「七言絶句」掛幅〔文化2年閏8月10日〕大徳寺所蔵(『瓊浦又綴』⑧630)    「柳条金嫩不勝鴉 青粉牆頭道韞家 燕子不来春寂寞 小窓和雨夢梨花 潘元臨     右の一幅、青竜山大徳寺にあり。乙丑閏月十日観」    ☆ 王履階【おうりかい】(未詳)     ◯「額字」扁額〔文化2年2月24日〕長崎清水寺にて一見(『瓊浦雑綴』⑧528・537)    「二月廿四日(中略)清水に遊ぶ。長崎山の額は王履階の書也」(⑧528)    「長崎山清水寺興成院は高野平郷の辺にありて、祇園社の東にあり。     本堂(題字)長崎山 乾隆二十六年歳次辛巳孟夏穀旦 浙江仁和弟子王(一字欠)階敬立」(⑧537)     乾隆二十六年は宝暦十一年(1761)にあたる。王履階は浙江省仁和県の商人。      以下、画人名不明の作品     ◯「曲靖府属夷人図」画帖〔文化2年6月27日〕新地の倉庫にて一見、後南畝入手(『瓊浦雑綴』⑧608)    「曲靖府属夷人図 毎図記有り、夷人種類衣服飲食等の事を記す。猓◎◎夷等往々之有り【欄外、予     此画帖を購ひ得て家に蔵す】」       同画帖〔文化2年閏8月19日〕入手(『瓊浦又綴』⑧642)    「曲靖府属夷人図一帖 図アリ、乙巳閏八月十九日、自会所購得、蔵于家      按、文献通考曰、自曲州靖州西南、昆州・曲軛・晋寧・喩献・安寧、隔竜和城、謂之東爨烏蛮土。      多駿馬犀象明珠云々【淵鑑類函二百三十二苗ノ次ニアリ】」    〈どうも民俗的・地誌的な記録らしい。「曲靖府」とは曲州靖州政府。「夷人」は雲南省の「東爨烏蛮」族をいう     ようだ。これは閏八月十九日、長崎会所にて購入した。これは南畝にとってよくよく貴重なものだったようで、     「南畝文庫蔵書目」にもあるから、後に手放すこともなかった。しかし何故、日本とまったく関係ありそうもな     いこの土地の画帖に興味をもったのかは分からない〉     ◯「牡丹図」画帖〔文化1年12月10日〕長崎新地の倉庫にて一見(『瓊浦雑綴』⑧485「書簡」92・⑲130)    「又一大帖あり。牡丹を画く。画は古くして小楷の賛【名ハ于嘉福と歟】あり。絹地なり。紅白黄等     種々あり。別に一紙づゝ賛ありし中に【蓬莱相公といへる名の牡丹なり】      依稀降雪駐都丹 寄跡呉仲始一看(七言絶句、以下略)       嘉慶甲子十月作     客問滕震◎」     けふは十二月十日なり。僅か一閲月にして海外の近詩をみる事、昇平の大幸といふべし」     ◎の字、嫡子定吉宛「書簡番号92」は「隷」とある。嘉慶甲子は文化元年にあたる。その十月の作が十二月十日     には長崎へ舶来、その間僅か二ヶ月足らず、まさに墨跡乾く間もあらばこそである〉     (以上「中国書画」終了 次回は「黄檗の書画」)       ◇「中国書画」補遺    ☆ 雲門禅師【うんもん】     ◯「五言絶句」〔文化2年5月27日〕長崎聖福寺にて一見(『瓊浦雑綴』⑧586)    「雲門禅師詩 竪幅 落款なし 草書甚奇也      説到窓欲(ママ)処        無詩可贈君      復(一時欠)臨別(落字アルベシ) 一片落黄雲」    〈雲門文偃(864~949)は唐末から五代にかけての禅僧か〉       ☆ 鄭成功【ていせいこう】     ◯「七言絶句」〔文化1年11月23日〕長崎にて一見(『瓊浦雑綴』⑧482)    「鄭成功詩      一年点検魯論足     更向此中応有真 活潑道機魚躍水 淵源又(文カ)字鳥啼春      尾頭洞徹学而留(恐習訛) 体用通貫勿急仁 二万聖言無隠爾 読来未解旧時身        〔鄭森之章〕〔成功〕      中村作五郎携示十一月廿三日、其主真贋未訂」    〈鄭成功はこれが初めてではなく、寛政十一年(1799)六月、湯島聖堂の虫干で「鄭森之」「成功」の印章のある書     (柳宗元の「独釣寒江雪」)を見ていた。(注29)〉     ☆ 王竹斎【おうちくさい】     ◯「七言絶句」扇面〔文化1年10月5日〕長崎にて一見(『百舌の草茎』⑧474)    「雪浄渓山歳暮天 茆斎夜読自相便 旧交尽結朱門伴 更有誰乗剡曲船      書応長達吉田先生清鑑     当湖王竹斎の書る扇面にみゆ」    〈吉田長達は小川文庵や千賀道栄らと共に、長崎滞在中の胡兆新に医業上の質問するため、江戸から派遣された官医。     南畝とは長崎まで同道した。当湖は浙江省平湖の別称という。王竹斎の出身地であろう。吉田長達に求めに応じて     書した。清鑑とは自分の書画等を見てもらう時に使う敬語で、王竹斎は吉田が官医であることを意識して使ったの     であろう〉    ☆ 正詣【しょうけい】     ◯「七言絶句」〔文化1年11月23日〕長崎にて一見(『瓊浦雑綴』⑧482)    「明僧掄香墨蹟      林影参差話夕陽 松根風細茯苓香 依稀記得曾経過 疑是虚嶋旧草堂  釈正詣書     中村作五郎携示十一月廿三日、其主真贋未訂」     明の僧侶掄香という人の墨蹟を正詣という僧侶が書写したのであろうか。掄香、正詣ともに未詳。中村作五郎は長     崎奉行所の用達。号は李囿。長崎後も、舶来唐本の購入を依頼するなど、交流は続き、文化十五年(1818)までの     書簡が残されている〉    ☆ 呉銓【ごせん】     ◯「額字」扁額〔文化2年3月〕長崎にて一見(『瓊浦雑綴』⑧539)    「長崎山清水寺      護摩壇の外、欄間の上に掛る額【地紺青文字金彫上】      有求心(必)応   癸亥秋弟子呉銓立」    ☆ 徐朝潢【じょちょうこう】     ◯「聯」〔文化2年3月〕長崎にて一見(『瓊浦雑綴』⑧539)    「長崎山清水寺 祖師堂浄名庵      同内陳(陣)の柱       日月帰(暉)天盲不見       雷霆振地聾者不聞      清漳徐朝潢書」     〈以上「中国書画」補遺、2013/02/15 追加〉             注にあたって、南畝自身の資料はすべて岩波書店の『大田南畝全集」所収によった。また漢詩の訓読は同  全集に従った。   (注1) 「書簡番号77」大田定吉宛・文化1(1804)年10月16日付 ⑲107 (注2) 『瓊浦又綴』巻上・6月13日 ⑧607 (注3) 『江漢西遊日記』10月19日。平凡社『東洋文庫』所収 (注4) 「書簡番号84」大田定吉宛・文化1年11月17日付 ⑲115 (注5) 『瓊浦又綴』巻上・6月27日 ⑧608 (注6) 「書簡番号82」小川文庵宛・文化1年10月25日付 ⑲111 (注7) 「書簡番号87」大田定吉宛・文化1年11月23日付 ⑲118 (注8) 『画譚鶏肋』中山高陽著・安永4年(1775)刊(坂崎坦著『日本画の精神』所収)  (注9) 『壬戌紀行』享和2年(1802)3月22日 ⑧265  (注10)『杏園間筆』巻之二・享和2年11月20日 ⑩219 (注11)『奴凧』文化2年11月5日、南畝、大坂から京へ向かう。その途中に見たとある。⑩472 ただ『小春      紀行』の方には、この日黄山谷の書を見たという記事はない。見たら書きそうな物だが。 (注12)『一話一言』巻49「護持院什宝」文化8年(1811)6月14日記 ⑮315 (注13)『一話一言』巻28「南郭先生白賁墅の別荘」⑭46 (注14)『一話一言』巻22「浅草鳥越伊勢屋源右衛門所蔵書画」巻22は享和元年2月に終っているから、この      項は寛政12年(1800)頃に当たるか。⑬355 なお伊勢屋に古書画を見るのはこれが初めてではな      い。天明8年(1788)月29日既に見ていた。(『一話一言』巻9 ⑫369参照) (注15)『中国畫人伝』「趙子昂」昭和59年刊  (注16)『一話一言』巻26「草菴紀遊詩」享和2年10月20日写 ⑬491 (注17)『南畝莠言』文化14年(1817)刊。巻之上 ⑩374 (注18)「支那南畫について」筑摩叢書27 (注19)『一話一言』巻28「青木氏蔵古書画」および巻29の「青木氏蔵古書画目」に、文化5年(1808)5月7      日と27日両日見た書画に関する詳しい書留あり ⑭58~63・137~142 (注20)『一話一言』巻53「祝祝明の桜詩」⑮463 (注21)「華山書簡」天保10年頃(1839)(坂崎坦著『日本画の精神』所収) (注22)『細推物理』享和3年2月21日 ⑧355 (注23)「書簡番号92」大田定吉宛・文化1年12月16日付 ⑲130 (注24)『一話一言』巻25「山水画帖」⑬471 (注25)「序跋等拾遺」中井董堂著『飲中八仙家』の南畝跋。文化4(1807)年12月 ⑱551