Top浮世絵文献資料館浮世絵師総覧
 
大田南畝の観た書画・長崎滞在編-黄檗の書画大田南畝関係
             底本:『大田南畝全集』全二十巻・別巻 編集委員代表 濱田義一郎                 岩波書店 一九八五年~九〇年刊・別巻二〇〇〇年刊                ※ 以下〔南畝〕と略記。例 ①10 は第一巻の10ページを示す                 【~】は原文の二行割り書き     二 黄檗の書画      近世初期の元和~寛永期の1620年代、明の貿易商人達は、競うように自らの菩提寺を長崎に建立した。   興福寺、福済寺、崇福寺である。これを長崎黄檗三山という。   折から明王朝は清の攻勢の前に存亡の危機にあったが、正保元年(1644)遂に滅亡する。それもあって   か、次第に亡命する人々が増え、僧達も長崎の三山をめざして来日した。   明滅亡の年に逸然、以下、道者元、独立が来日した。そして承和三年(1684)いよいよ隠元がやって   きた。彼の移住は本格的なもので、独堪らの僧侶たちを引き連れてきたばかりではない、画師、仏師、   建築師、料理師、いわば教団ぐるみの大移動であった。つまり日常生活をも含む明全体の文化、それを   彼は日本に持ち込んだのである。   寛文元年(1661)隠元は宇治に万福寺を建立した。これで日本の黄檗宗の拠点が確保された。そこに   木庵、即非、高泉ら高僧の来日が引き続く。幕府の支持も理解も相俟って、黄檗宗は急速に広まってい   った。それとともに「唐様」文化もまた各地に伝播していった。      嫡子定吉宛ての書簡に「福済寺、聖福寺等の唐寺 唐人建立いたし候寺 一覧いたし候処、一体堂の造   よりして唐画の如く、門の傍額に竜の彫物のふち書は木庵即非(金剛寺額思出候き)等堂門とも一々に   聯有之、門前の石欄、石等日本のやうには思はれず、是計は三都に無之驚目申候」とある。(注1)      南畝の生きた時代(1747~1823)黄檗宗にかつてのような勢いはなくなっていた。しかし彼らがもた   らした「唐様」文化は依然として輝きを失ってなかった。また南畝の興味・関心も一通りのものではな   かった。南畝は長崎滞在中、「末次忠助所蔵長崎旧記」や「長崎実録」の中から、黄檗僧の消息などを   書き留めている。また江戸に帰省した後も、例えば多摩川巡視(文化五~六年)の折など、黄檗の書画   があれば即座にメモをとって書き残していた。      以下、黄檗僧の書画を取り上げていく。が、すべてを見渡すことはても出来ない。ここでは、名筆が称   えられている黄檗三筆、隠元・木庵・即非を中心に見ていきたい。    ☆ 隠元【いんげん】(1592~1693)承応三年(1654)来日      〈隠元の名は当然聞いていたし注目もしていた。しかし実際にその墨蹟に出合ったことはほとんどなかった。大坂滞在    中の享和元年(1801)六月、この日南畝は自撰の「江戸金石雑誌」を編集していたが、その中に「隠元禅師草書の鐘    銘」という一項がある。駒込養源寺の鐘銘であった。(注2)この鐘銘は南畝自ら採集した。しかし江戸で直接隠元    に接したのはこの鐘銘くらいだ。それが大坂だと少し増えて、享和元年三月、瑞竜寺仏殿の額字「光明幢」と妙徳寺    客殿の額字「万福殿」を見、そして七月には、国分寺仏殿に「玉毫光」の額字を見ていた。ただしすべて寺院の額で    あって、掛軸や巻物の墨蹟には縁がなかった。(注3)〉      ① 崇福寺 額題字〔文化1年11月〕(『瓊浦雑綴』⑧530    「不二門 隠元」    〈題字の「不二門」は縦書き。嵩福寺の堂宇の額は即非の手になるものが多いが、隠元のものも一つあった〉     ②「阿羅漢」巻子本〔文化2年2月〕嵩福寺所蔵(『瓊浦雑綴』⑧531)    「阿羅漢 甲辰季春望後、臨済正伝三十二世黄檗隠元手書     十八大比丘、右証阿羅漢、行詞不尋常、筆舌難慶讃、或鉄中降竜、或伏霓巌畔、     或嘲月吟風、或兀坐達旦、或常転真経、或策眉目味、或頂牧塔光、或騎獅瀟散、     千変万化、神霊莫算、識得此老面門、亀毛払子、一貫縛住無影、枝頭撩向感音     那畔娘見風、都作略便知、忝辣手数(段カ)        玉壷齋画           隠元琦漢題〔隆琦〕〔隠元之印〕」    〈この巻子本には、木庵と即非の「題」がそれぞれ九編ずつと、木庵の「羅漢図捴賛」と即非の跋文がついている。     この隠元ものはそれらの序にあたる。甲辰、寛文四年(1664)の成立である。ちょうど黄檗三筆が揃っている。南畝     はこれを見て「木庵・即非の書は伯仲の間也。隠元の書二子にまさり、玉壷斎の画は書にまされるがごとし。その     画探幽草画の人物に似たり」と評している。隠元の書を一段高く評価していたのである。玉壺斎は広渡湖笛、長崎     奉行の唐絵目利兼御用絵師と思われる。狩野探幽に比す位だから、相当の腕前をもった絵師なのであろう〉       ③「臥遊」掛幅〔文化2年4月5日〕観音寺所蔵(『瓊浦雑綴』⑧563)     「観音寺といへる額に震旦独湛をあり(中略)床にかけし横幅に臥遊の大字ありて、一法水半榻風光     老僧隠元書とあり」    〈黄檗宗観音寺は文化年間の廃寺とされるから、南畝は廃寺になる前の観音寺を訪れたことになる。現在は徳三寺と     して再興されている。     ④「七言絶句」掛幅〔文化2年5月19日〕崇福寺所蔵 (『瓊浦雑綴』⑧582)    「隠元禅師詩【竪幅】     聖寿柴門八字開 天風払浄惹人来 無端一吼三冬雪 咲破千巌万壑梅 老僧隠元書」      ⑤「即非追悼 七言古詩」掛幅〔文化2年5月19日〕崇福寺所蔵 (『瓊浦雑綴』⑧582)    「明日は即非和尚の忌なりとて、本堂に供物をさゝげたり。左に隠元禅師、即非を悼める七言古詩を     【横幅】をかけて、右に即非の詩を掛て、辞世の詩とみへて、病中の筆ことに奇なり(以下略)」    〈④⑤は同日一見。即非は寛文十一年(1671)没、隠元は寛文十三年没。南畝、即非の辞世は写したが、隠元の追悼七     言古詩のほうは写し取っていなかったようだ〉      ⑥「列仙図」巻子本〔文化2年5月27日〕聖福寺所蔵(『瓊浦雑綴』⑧586)    「列祖図 一巻 釈迦、達磨、文殊、普賢、阿難、迦葉等也。賛アリ。隠元ノ序アリ」    〈残念なことに画者の名がない。南畝の書き漏らしたとも思えないので無款か〉      〈長崎から帰還中の文化二年五月二十七日、南畝は近州甲賀郡前野村の地安寺の山門に隠元の書を見て、「福慧山 黄    檗隠元書」のメモを残している。(注4)また、文化五年(1808)五月、小石川の青木家に立軸、横軸の「書」計三    本。(注5)文化六年三月、多摩川巡視中、瀬田村名主長崎四郎右衛門の許に「水濺竜蛇動」の書一幅、また「黄檗    諸禅書巻」の中に書跡を認めた。(注6、この書巻の全文あり)さらに、文化十年頃には、護国寺什宝の中に、画人    名はないが隠元の自賛が入った竪幅「隠元子禅師像」と、「桜花」と題された「七言絶句」一幅を見ている(注7)〉     ☆ 木庵【もくあん】(1611~1684)明暦元年(1655)来日     〈この人は隠元を嗣いで黄檗二世になった人、その書画は「雄渾な書とともに洒脱の墨画」と称されている。(注8)    隠元同様、大坂滞在中に見る機会があった。まず享和元年(1801)三月、瑞竜寺の表門、それが最初の出会いのよう    である。同年四月、正徳寺の額、後述の即非の書と共に見ていた。また七月には、舎利寺の表門・仏殿・太子堂の額    に筆跡を見てる。隠元もそうだが、南畝の大坂滞在中、黄檗僧達の書を見たのは、紙や絹上の自筆ではなく、ほとん    どは寺院堂宇の題字。(注9)嫡子定吉宛て書簡に「即非、木庵、道栄抔と満目申候。客居の一楽事に候」(注10)    とあるから、後述の即非、林道栄等と共にずいぶんその書に出会ったような口振りであるが、南畝の書留は存外少な    い〉     ①「阿羅漢」題九編「羅漢図捴賛」巻子本〔文化2年2月〕嵩福寺所蔵(『瓊浦雑綴』⑧531)    〈隠元の項の②を参照〉    「一巻心経 捲舒自在 休臾宣揚 焼香頂戴  木庵題     (以下、題八編あり。省略。玉壺斎画羅漢図に対する賛は以下の通り)      羅漢図捴賛     七横八縦 各展其用 優遊自在 無遮無障 神通鏡汝 風顛鸞弄 仏法便還 木庵和尚      甲辰春三日  黄檗木庵題」     ② 清水寺興成院 扁額題字〔文化2年3月〕(『瓊浦雑綴』⑧538)    「長崎山清水寺興成院 本堂内陣の正面      清水寺     明暦二年丙申六月 日 頴川藤左衛門◯◯建立     臨済正伝三十三世 黄檗木庵瑫書」     ③「偈」掛幅〔文化2年5月27日〕聖福寺所蔵(『瓊浦雑綴』⑧586)    「薬師寺氏にいざなはれて聖福寺にゆく。書画をみる事夥し。胸臆のまゝに左にしるす     木庵 竪幅 三幅     偈中ハ福京客ト題ス」    〈自らを「福京客」としたのは、中国の黄檗宗万福寺が福建省の福州府福清県にあったからか。この日はあまりにも     見るものが多すぎて、墨蹟を写す暇もなかったのだろう〉       〈長崎帰省後では、文化三年(1806)十月初め、西丸御小姓組之番衆の建部六右衛門の朝白園において、その書を見    (注11)、翌四年八月、旗本間宮士信の許に寛文八年(1668)の偈を認め(注12)、文化五年五月、小石川の青木久    右衛門家蔵の中に「月光和雲白」の書(注5)、そして文化六年二月、多摩川巡視中、拝島村の龍津寺に「達摩」画    (若芝画)の賛を(注13)、さらに同年三月には瀬田村名主長崎氏の所蔵に隠元、即非と共に書を認めている(注6)    なお、若芝は河村蘭渓(不祥~1704)という人。渡辺秀石などと共に長崎派の先駆者として知られる。南畝は長崎で    この画人の作品を見ても不思議ではないが、書留はないようだ〉    ☆ 即非【そくひ】(1616~1695)明暦三年(1657)来日     〈即非の書は、江戸においては寛政十一年(1799)頃、浅草鳥越の伊勢屋源右衛門宅において(注14)、また、大坂で    は享和元年(1801)大坂正徳寺の本堂に「吉祥殿」の額字を見ていた。(注15)即非は崇福寺中興の開山ともいわれ    ているので、崇福寺にその所蔵が多いようだ〉     ① 崇福寺 額題字・聯〔文化1年11月〕(『瓊浦雑綴』⑧529)    「正門竪額   第一峰  即非     関帝堂内ノ額 護法蔵  雪峰額書即非     観音堂    威徳荘厳 沙門即非敬書  臨下有赫 雲(雪)峰沙門即非敬書     聯      揚帆登宝所 慈愛見婆心 即非」     ②「阿羅漢」題九編・跋 巻子本〔文化2年2月〕嵩福寺所蔵(『瓊浦雑綴』⑧531)     〈隠元の項の②を参照〉    「囊蔵大地 坐断古今 百千日月 流出胸襟     (以下、題八編あり。省略)     十八位大尊者 倶是霊山記茢之儔、叱応真故、各展遊戯三昧、神通伎倆、被入看破       (以下略)      甲辰春望前  雪峯頭陀即非書」     ③「草木花画巻」巻子本〔文化2年2月〕崇福寺所蔵(『瓊浦雑綴』⑧535)    「嵩福寺の什物にて、草木の花の画巻あり。即非禅師の賛也      香光艶素洛陽塵 筆庭花開眼界春   深霞衛官間草木    可勝紅紫説君臣      (以下、即非の七言絶句十六首。省略)     山桃花咲玉欄干 卯酔卯醒羅(尽)合歓 多謝三即(郎カ)深見惜 沈香亭畔夜来看      (以下、天間独立の跋)      是巻瑞禅兄相命手題、存之笥仲、踰◯迨至此、寒落通従子赤暁作撿書、方知筆債未償、     遂丞是◯報命、率然草疾 自恨(恨カ)、書之々為非書、句之々為非句 聊当噴飯而己         己酉嘉平月天間独立雲(ママ)并識      万治元年戊戌南呂下浣  応人需狩野益信図」    〈狩野益信の作画は万治元年(1658)八月で三十七歳の時のもの。これに黄檗僧・独立が即非の詩を画賛として加え     たのが寛文九年(1669)十二月ということか〉     ④「花開万国春」掛幅?〔文化2年3月12日〕嵩福寺所蔵(『瓊浦雑綴』⑧539)    「花開万国春、即非書藁筆の大書にて見事也。嵩福寺什物のうち也」     ⑤ 観音寺 額題字〔文化2年4月5日〕(『瓊浦雑綴』⑧563)    「高着眼の額に即非書とあり」     ⑥「花図・人物図」掛幅〔文化2年5月19日〕嵩福寺所蔵(『瓊浦雑綴』⑧581)    「五月十九日、聖寿山嵩福寺にて見る所書画左のごとし     即非和尚自画賛三幅 竪幅      左 秋露滴芙蓉    画芙蓉           冬日 即非筆      中 栽松翁去小児帰  咲敬枝頭千歳鶴 画栽松道者 春日 雪峰酔社即非敬筆      右 元亮先生画 画印 趣新               非筆」     ⑦「松石霊之図」掛幅〔文化2年5月19日〕嵩福寺所蔵(『瓊浦雑綴』⑧581)    「張復 松石霊之図 竪幅     春風影裏自忘 蝋白玉堂中 起蟄竜【画の落款ニ庚午秋日写張復トアリ】      歳己酉孟春 雪峯即非題」    〈霊之は霊芝か。この張復は明の張復陽(1403-1490)なのだろうか。己酉は寛文九年(1669)〉       ⑧「辞世」掛幅〔文化2年5月19日〕嵩福寺所蔵(『瓊浦雑綴』⑧582)    「明日は即非和尚の忌なりとて、本堂に供物をさゝげたり。左に隠元禅師、即非を悼める七言古詩を     【横幅】をかけて、右に即非の詩を掛て、辞世の詩とみへて、病中の筆ことに奇なり。      吾若火化如空合空、真空不空、青山依洞(旧カ)白雲中 示諸弟子挙◯秉炬 不敢欲尊宿也      即非とありし歟。(中略)     即非は万暦辰五月十四日誕し、寛文十一月五月廿日に死す」     〈⑥⑦⑧は同日に一見。長崎から帰省後では、文化六年(1809)の多摩川巡視のおり、瀬田村名主長崎氏の所蔵「黄檗諸    禅書巻」の中に五言絶句を認めている。(注6、下記参照)〉       〈以上、隠元・木庵・即非の「黄檗三筆」、以下は来日順に見ていきたい〉    ☆ 道者超元【どうじゃ ちょうげん】(1602~1662)慶安三年(1650)来日     ◯ 書蹟 形態不明〔文化2年2月19日〕南畝入手    ◇『瓊浦雑綴』⑧523     「牙人のもて来し書画を得たり。書は道者元【欄外。時過無言花月開 道者元】画は伊孚九なり。     書画一覧云、超元、字道者、号南山、明人。寛永中帰化、寓長崎、後帰レリ。世称道者元。書家人     名録云、釈超元、字道者、号南山、草書、とあり」      ◇『南畝集15』漢詩番号2644 ④373    「道者元の書を得たり。一如字を大書して、傍らに「時過ぎて無言花自ら開く」の句を書す。乃ち補     ひて一絶を成す。道者、名は超元。道者は其の字なり      時過無言花自開 花開花落委青苔 人間未解如々理 但道春風去又来」    〈この日、牙人(仲買人)から道者元の書を購入した南畝は、早速、道者元の句を起句に用いて七言絶句を賦した。     「書画人名録」は彭城百川の『元明清書画人名録』(安永六年(1777)刊)。「書画一覧」は未詳〉    ☆ 独立【どくりゅう】(1596~1672)承応二年(1653)来日       〈この人は後述の高玄岱に書法を教えたことでも有名。書を見るのは長崎が初体験ではない。寛政十一年頃、前出の     浅草伊勢屋方で「抱月」の額を見ている。また、独立の「就老庵草」という詩にも目を通していた。これが考証に     役立った。享和元~二年の大坂銅座勤務のおり、南畝は当地の木村蒹葭堂に、日本と同じ「桜」が中国にもあるか     どうか質問をしている。その時、南畝は上記の独立の詩を引いて、中国の桜が日本の桜とは違うらしいと考証して     いたから、確認のために質問したようだ。ちなみに蒹葭堂も別の典拠と引いて「彼土ニアルコトヲ聞カズ」と回答     していた(注16)〉       ①「草木の花」の識語 画巻〔文化2年2月〕嵩福寺所蔵(『瓊浦雑綴』⑧535)    「嵩福寺の什物にて、草木の花の画巻あり。即非禅師の賛也     香光艶素洛陽塵 筆庭花開眼界春   深霞衛官間草木    可勝紅紫説君臣      (以下、即非の七言絶句十六首。省略)     山桃花咲玉欄干 卯酔卯醒羅(尽)合歓 多謝三即(郎カ)深見惜 沈香亭畔夜来看      (以下、天間独立の跋)      是巻瑞禅兄相命手題、存之笥仲、踰◯迨至此、寒落通従子赤暁作撿書、方知筆債未償、     遂丞是◯報命、率然草疾 自恨(恨カ)、書之々為非書、句之々為非句 聊当噴飯而己         己酉嘉平月天間独立雲(ママ)并識      万治元年戊戌南呂下浣  応人需狩野益信図」    〈狩野益信の作画は万治元年(1658)八月で三十七歳の時のもの。これに黄檗僧・独立が即非の詩を画賛として加え     たのが寛文九年(1669)十二月ということか〉     ②「七言絶句」掛幅〔文化2年5月〕嵩福寺所蔵?(『瓊浦雑綴』⑧583)    「独立禅師横幅        誰道春情不著堪(ママ) 閉門索句了尋常 思聞幾隊看花約 来絜(ママ)無機老潔郎        喜看桜花約至        天間老野独立草」      〈文化二年六月十日、独立の自筆本『有譙別緒自剡分宗』を田辺亀遊という人から借りて写している。また文化八年     秋、江戸の鎌倉河岸の酒家、豊島屋の額に「樵雲楼」の書を見ていた。ただ、なぜこの酒楼にこの額があるのか、     その由来は記されていない(注17)〉    ☆ 独堪【どくたん】(1629~1709)承応三年(1654)来日   ◯観音寺 扁額題字〔文化2年4月5日〕(『瓊浦雑綴』⑧563)    「観音寺 震旦独堪」     〈長崎後では文化八年、江戸の護国寺什宝「黄檗僧書三幅」の中に「白桃」と題された書を、隠元や大眉の書と共に見    ていた(注18)〉    ☆ 悦山【えつざん】(1628~1706)明暦三年(1657)来日   〈田能村竹田の『山中人饒舌』によると、明の張瑞図の書画が日本に多いのは、この悦山が来日の際もたらしたからだ    という。悦山は張瑞図・張潜図兄弟と相識の間がらであった。(注19)悦山は「能筆で唐様書道を代表する一人」と    称され、現在の中国での評価はしらず、日本では張瑞図に劣らず高いようだ。(注8)享和元年五月、大坂江口(こ    こは遊女江口と西行の歌の贈答で有名な場所)に建つ普門院の鐘銘(元禄十年)に書を見ていた。また同年七月には    舎利寺にて木庵の書と共に門の聯、堂の額に書を見た(注20)〉  ◯「七絶」掛幅?〔文化1年10月5日〕田口保兵衛携来(『百舌の草茎』⑧471)    「正円慧観上座四十初度偈以賀之     堂上推花甲 初登不惑年 誕逢六月朔 香閙満池蓮      渾撲超時輩 精操契古賢 頂門開慧眼 覷破未生前       南岳悦山宗書〔悦山宗印〕〔南岳主人〕     右田口保兵衛携来示」    〈田口保兵衛は長崎の乙名(町役人=名主)で、田口清民とも。長崎後では、文化六年二月、高泉同様、芝崎村万願     寺の仏堂の扁額に「医王山」の書蹟。(注21)また同年三月には、大森村にて、宝永丁亥四年の書一幅。(注22)     そして文化六年三月、例の多摩川巡視中、瀬田村名主長崎家にて、寛文丁未七年の五言律詩の書蹟を見ている(注6)〉    ☆ 高泉【こうせん】(1633~1695)寛文五年(1665)来日     〈寛政十二年(1800)三月、南畝は高泉の『仏国高泉禅師詩偈輯要』(貞享二年刊)を引用しているから、高泉の詩は    既に見ていた。(注23)また、享和二年(1802)四月、大坂からの帰省中、木曾街道・熊谷の蓮生寺において、本堂    の額に「熊谷寺」の題字を見ている(注24)〉     ◯「七言律詩」掛幅〔文化2年5月19日〕嵩福寺所蔵(『瓊浦雑綴』⑧582)    「高泉和尚賀即非和尚五十詩 竪幅 七律」    〈即非の五十歳を祝った詩だが、南畝は詩句を写していないようだ。高泉、現在の評価では「洒脱な書風を珍重され     た」とあるが、南畝は特別な感慨を残していない。長崎後では、比較的多く目にしている。(注8)文化五年十二     月、例の多摩川巡視の最中、古川薬師の本堂の額に高泉筆の題字「医王山」を見、翌六年二月には、芝崎村万願寺     に後述の悦山と共に高泉の聯を見ていた。(注25)(注21)また、瀬田村名主所蔵の「黄檗諸禅書巻」の中に寛文     丙午六年の手蹟を見ている。(注6)なお、書ではないが、文化十三年(1816)九月の南畝書留に、高泉著『釈門     孝伝』から「孝子」として、隠元、独堪の名を拾っている(注26)〉    ☆ 大鵬【たいほう】(1691~1774)享保七年(1722)来日     〈長崎以前には見ていないようだ〉     ①「蝦図」掛幅?〔文化2年6月23日〕福済寺所蔵?(『瓊浦又綴』⑧606)    「大鵬蝦の図      壬寅仲春 清明前三日       月江墨仙写于十善寺之望楼深処           白字〔竹林寄興〕〔何(一字欠)此君〕     十善寺は福済寺の事なり」    〈壬寅仲春は享保七年二月、来日したばかりのものだが、これは、月江墨仙なる者が大鵬の蝦図を写したというのだ     ろうか。すると、南畝が見たものは摸写ということになるのだろうが、参考までに取り上げておきたい〉     ②「竹図」掛幅〔文化2年9月8日〕南畝入手(『南畝集15』漢詩番号2746 ④405)    「重陽前一夕、大鵬の画竹、宋紫岩の画蘭の二幅を得たり。喜びて賦す     鵬公は独生竹 宋子は数茎蘭      願はくは明日の菊を添へて 此の盟(ちか)ひをして寒(そむ)くこと無からしめん」    〈明日は菊の節句だから、蘭・竹・菊の三君子が揃う。盟友を誓ったのであるが「南畝文庫蔵書目」をみても、この     蘭・竹は見当たらない〉     〈ひとわたり来日黄檗僧のものを見てきたが、これも中国の画同様、南畝の書き留めたものは現在の書画史にその名を    遺すものばかり。南畝の当時は、隠元に代表される近世初頭の来日書画僧の評価が既に定まってい から、南畝もそれ    に拠ったのだろうといえばそれまでだ。しかし、それにしてもただ漠然と諸寺諸家の所蔵を見ていたのではないこと    は明らかである。    ただ、不思議なこともある。例えば、正保元年(1644)来日の逸然(1601~1668)、南畝は『長崎実録大成』から来    日年次をメモしたくらいで、他に何の書留も残していないい。南畝が赴任したころ、文化期の長崎には、逸然の画が    なかったのであろうか。ところで、逸然には二つの功績があるとされる。一つは隠元招請に力を尽くしたこと。もう    一つは画人として江戸の絵画に新しい空気を伝え、後に長崎派の先駆者となる渡辺秀石(1639~1707)や河村若芝    (?~1707)を育てたことにあるようだ。(注27)ところが、これも不思議な符合だが、その渡辺秀石や河村若芝の    作品についても、南畝に書留はない〉   〈以上、黄檗集。最後に曹洞宗の心越禅師と道霈禅師を取り上げ〉    ☆ 道霈【どうはい】(1615—1688)     〈享和三年(1803)白山の吉祥寺の門額に道霈の書とされる「栴檀林」の題字を見ている(注34)〉     ◯ 皓台寺 扁額題字・掛幅〔文化2年3月15日〕(『瓊浦雑綴』⑧548)    「中門の額は       尾道崐敬立      皓台禅寺     鼓山比丘道雨(霈)師書〔釈印道雨(霈)〕〔為霖氏〕」      「道霈禅師の書る大幅のものとりいでゝ見せしに、      海国宗風擅皓台 中華側千韵如雷 道伝曹洞源流遠 日丑(ママ)扶桑天地開      化雨霏々尤渥沢 雲山畳々更崔嵬 謾言隔岸遥相見 枯木花敷春正回       寄贈      海雲山逆流大禅師 閩皷山道霈」   〈皓台寺は曹洞宗。尾道崐は未詳。鼓山は福建省福州にある地名。海雲山は皓台寺の山号。閩は福建省の古称。逆流は    悟りへの道を進むという意味。彭城百川の『元明清書画人名録』(安永六年刊・1777)に「釈道霈 シャクドウハイ 字為    霖 住皷山 行書」とある。なお道霈については「大田南畝の観た書画・長崎滞在編-中国書画」の明代にも同じ記    事を載せている〉       〈皓台寺の扁額が出たついでに、この日見た他の額字について触れておきたい〉      ◯ 同寺 本堂扁額題字     「堀元輔拝立 万徳殿 閩中陳禎書」    〈堀元輔は未詳。陳禎は、彭城百川の『元明清書画人名録』(安永六年刊・1777)の「清人来舶」の部に出ている     「陳楨(ママ) チンテイ 字克士 号竹侶 行書」と同人であろうか〉        ◯ 同寺 扁額題字     「選仏場 月舟書」    〈月舟は、能書で知られる曹洞宗の禅僧、金沢大乗寺の月舟宗胡(1618~1696)か〉       ◯ 同寺 大仏殿額題字     「華蔵海」「愚谷書トアリ。サダカニ見ヘワカタズ」    〈愚谷は未詳〉         〈以上「黄檗の書画」終了 2012/12/17(次回は「来舶人書画」〉     ◇「黄檗の書画」補遺    ☆ 大城禅師【だいじょう】     ◯「題画」掛幅〔文化2年10月11日〕嬉野宿にて一見(『南畝集15』漢詩番号2760・④410)    「嬉野駅に宿す。壁上、黄檗大城禅師の題画二句を掛く。足して一絶を為す      翠黛秋容帰点綴 茅廬冷静足金風 【原句】金風吹尽玄冬至 霜白寒煙駅舎中」     大城禅師の二句は【原句】の「金風吹尽玄冬至 霜白寒煙駅舎中」       〈以上「黄檗は書画」補遺、2013/02/15 追加〉    注 、南畝自身の資料はすべて岩波書店の『大田南畝全集』による。また漢詩の訓読は同全集に従った。   (注1) 「書簡番号83」大田定吉宛・文化元年11月6日付 ⑲111 (注2) 『一話一言』補遺参考編1「江戸金石雑誌」享和1年6月24日記。これは江戸諸寺の鐘銘・石碑を探索し      て記録したものだが、「未成書」とあり未完成のもの。なお銘文そのものは、南畝の江戸地誌書      『武江披沙』附録」に出ている。⑯180 (注3) 『蘆の若葉』享和1年(1801)3月22日記「光明幢」⑧146      同月25日「万福殿」署名「乙巳年猛秋吉日黄檗隠元書」⑧147      7月7日「玉毫光」⑧229 (注4) 『小春紀行』文化2年5月27日記「福慧山」署名「黄檗隠元書」⑨73        録山居之作 道人軸賢」            なぜ多摩川の瀬田村に黄檗僧の書巻が残されているのか、南畝はその由来を伝えていない。 (注7) 『一話一言』巻49 「護国寺什宝 黄檗僧書三幅」「桜花(七言絶句)未年仲春 隠元書」文化8年7月記?⑮329 (注8) 『日本の美術』至文堂。No.47「近世の禅林美術」竹内尚次編。本稿の黄檗僧の生歿や書画の評価はこ      れに拠っている。 (注9) 『蘆の若葉』享和1年3月22日記 ⑧146・同4月16日記「正徳寺」署名「延宝乙未春吉旦黄檗木庵書」⑧181      同7月7日「南岳山」署名「延宝戊午秋日黄檗山木庵書」⑧229 (注10)「書簡番号84」大田定吉宛・文化1年11月17日付 ⑲115     (注11)『南畝集16』漢詩2960、文化3年10月賦「天共白雲暁」の注に「朝白園に木庵禅師所有する所の「天、白      雲と共に暁く」の掛け軸あり」とある。⑤39 (注12)『一話一言』巻25「槐蔭亭所見の古書」文化4年8月記 ⑬458  (注13)『調布日記』文化6年2月14日記 ⑨183・『玉川披砂』同前 ⑨275     (注14)『一話一言』巻22「浅草鳥越伊勢屋源右衛門所蔵書画」寛政11年?⑬358 (注15)『蘆の若葉』享和1年4月16日記「吉祥殿」署名「広寿即非書」⑧181      (注16)『遡遊従之』享和1年記 ⑰398 (注17)『放歌集』文化8年7月記「樵雲楼といふ額は独立の書にして鎌倉河岸豊嶋屋十右衛門二階にあり」②161 (注18)『一話一言』巻49「護国寺什宝 黄檗僧書三幅」「独湛書」文化8年7月記?⑮329 (注19)『山中人饒舌』田能村竹田著・文化10年(1813)成立(坂崎坦著『日本画の精神』所収) (注20)『蘆の若葉』享和1年5月5日記 銘文署名「元禄十丁丑然三月十一日 南岳悦山道宗敬書」⑧195      同7月7日記 ⑧229 (注21)『調布日記』文化6年2月21日記 聯の署名「仲園高泉敬題」⑨195 (注22)『調布日記』文化6年3月14日記「愛松留得礙人枝」署名「丁亥首夏望前三日黄檗悦山書」とある。⑨243 (注23)『石楠堂随筆』高泉の七言絶句「霊雁」を写す。寛政12年(1800)3月12日記 ⑩65 (注24)『壬戌紀行』享和2年4月5日記「熊谷寺」署名「支那伝法沙門高泉書」⑧322 (注25)『調布日記』文化5年12月23日記 ⑨115 (注26)『丙子掌記』高泉著『釈門孝伝』(寛文6年(1666)刊)を写す ⑨596 (注27)『日本の美術』至文堂 No.209「江戸絵画Ⅰ」佐々木丞平編。 (注28)『蘆の若葉』享和1年9月3日記「第一義」署名「東皐越杜多」⑧239 (注29)『瓊浦又綴』文化2年6月1日記 ⑧599 (注30)『南畝集16』漢詩番号3144「花時遍游諸園」文化5年3月16日賦 ⑤94     『一話一言』巻28「花見の記」所収「浄光禅院鐘銘并序」⑭481 (注31)『一話一言』巻30「心越禅師」⑭168 (注32)『仮名世説』「雅量」の部にあり。文政8年(1825)刊 ⑩541 (注33)『一話一言』補遺参考編3「諸人物誌」(川岡氏筆記)⑯483 (注34)『細推物理』享和3年2月21日 ⑧355