Top           浮世絵文献資料館          
             『名人忌辰録』関根只誠(黙庵)著・吉川半七・明治二十七年(1894)刊                   国立国会図書館 近代デジタルライブラリー
     原本のルビは歴史的仮名遣い・ひらがな表記であるが、本HPでは()内に現代仮名遣いに直し半      角カタカナにして付けた。また、読みやすくするために、ルビを削ったり、新たに付けたりした。      その場合は(*カタカナ)という形で示した。同様に、句読点についても適宜補った    ☆ あいがい たかく 高久 靄厓    ◯『名人忌辰録』上巻32   〝高久靄厓    号疎林外史、名徴一、称秋輔。下野佐野の人、号学梅斎、文晁門人、後一家を成す、天保十四卯年四月    八日歿す、歳四十八。谷中天龍院に葬る〟    ☆ あつまる こがね 黄金 厚丸    ◯『名人忌辰録』上巻25   〝神田菴厚丸    御普請方、請負方、神田鍋町に住す。文政十二丑年十月廿一日歿す〟    ☆ あやたり たけべ 建部 綾足(寒葉斎)    ◯『名人忌辰録』上巻34   〝建部綾足 涼岱    字孟喬、号寒葉斎、吸露菴、南部の人。俳諧絵画に名あり。又小説文を善くす。安永三午年三月十八日    歿す、歳五十六。牛島弘福寺に葬る(涼岱性磊落不覇、品行上議すべき者ありと雖も、秀才多能抜群な    り。曾て連歌の片歌をいふを主唱して、さる貴顕より片歌道守の名をかきて賜りしが、片歌は行はれず    してやみぬ)〟    ☆ いけづき げいたざえもん 生月 鯨太左衞門    ◯『名人忌辰録』上巻4   〝生月鯨太左衞門    肥前平戸の産にして、玉垣額之助門弟、角力なり。身丈七尺三寸。嘉永四亥年五月廿三日、瘡毒にて死    す、歳廿四。本所竹町天祥寺に葬る。法号晴光院巨海生月居士〟    ☆ いさい こう 高 頥斎    ◯『名人忌辰録』上巻31   〝高玄融、玄岱男、別号高頭斎。明治六丑年正月五日歿す、歳八十。牛込原町経王寺に葬る〟     ☆ いざん つきのもと 月の本 為山    ◯『名人忌辰録』上巻36   〝月の本為山 明治十一年一月十九日歿す、歳七十五。品川本光寺に葬る。法号月本院為山日晴(為山妻    の身まかりし時の狂歌「よの中のさかさまことはきらへども順にいつてはおれがたまらぬ」)〟     ☆ いちが おき 沖 一峨    ◯『名人忌辰録』上巻19   〝沖淵泉 一峨    字子仰、号靖斎、後静斎、鳥取藩士、安政二卯年八月十一日歿す。麻布六本木光専寺に葬る〟    ☆ いっけい うきた 浮田 一蕙    ◯『名人忌辰録』下巻3   〝浮田一蕙    名可為、称蔵之助、京の人。画所寄人たり。時勢を慨して東西に奔走し勤皇攘夷論を唱へて、江戸の    獄に囚はれ、後免されて、安政六未年十一月十四日歿す、歳六十五。洛西華光寺に葬る。明治廿四年    正四位を贈らる〟     ☆ いっけい はなぶさ 英 一桂    ◯『名人忌辰録』上巻8   〝英一桂    名信重、北窓翁四世孫。天保十四卯年十二月廿一日歿す、歳八十五。二本榎願乗院に葬る。法号英寿院    一桂日仙      辞世 二三百生きやうとこそおもひしに八十五にて不時の若死〟    ☆ いっく じっぺんしゃ 十返舎 一九    ◯『名人忌辰録』下巻31   〝十返舎一九 酔斎    名貞一、通称重旧(*ママ)与七、幼名幾五郎。天保二卯年八月七日歿す、歳六十八。浅草土富店善龍寺地    中東陽院に葬る。      辞世 此世をばどりやおいとまに線香のけむりと共にはい佐様なら〟    ☆ いつし かさや 笠家 逸志    ◯『名人忌辰録』上巻26   〝笠家逸志 号素竹軒、亦半局菴、致曲菴。延享四卯年五月廿七日歿す、歳五十八。浅草報恩寺地中高徳    寺に葬る〟    ☆ いっしゅう はなぶさ 英 一舟    ◯『名人忌辰録』上巻8   〝英一舟 東窓翁    英一蝶養子長八の嗣、又号潮窓。通称弥三郎、名信種。明和五子年正月廿三日歿す、歳七十二、二本榎    承教寺中願乗院に葬る〟    ☆ いっちょう はなぶさ 英 一蝶 初代    ◯『名人忌辰録』上巻8   〝英一蝶 北窓翁    通称猪三郎、後次右衛門、初多賀潮湖、狩野安信門人、後一家を起す。俳号暁雲亭、享保九辰年正月十    二日歿す、歳七十三、二本榎木承教寺中、顕乗院に葬る〟    ☆ いっちょう はなぶさ 英 一蝶 二代    ◯『名人忌辰録』上巻8   〝英一蝶 二世 信勝    通称長八、号栗舎、北窓翁長男。元文二巳年閏十一月十一日歿す、歳四十七。深川陽嶽寺に葬る〟    ☆ いっぽう はなぶさ 英 一蜂 初代    ◯『名人忌辰録』上巻8   〝英一蜂 春窓翁    通称彦輔、宝暦十辰年四月廿八日歿す、歳六十四〟    ☆ いっぽう はなぶさ 英 一蜂 二代    ◯『名人忌辰録』上巻8   〝英一蜂 二世 一挺    一蜂男、天明八申年六月十二日歿す、西本願寺真光寺に葬る〟    ☆ いなぎ おうぎや 稲木 扇屋    ◯『名人忌辰録』下巻19   〝扇屋稲城女 千广路    鈴木墨河妻。歌書とも千蔭の門人。文政八酉年五月廿六日歿す、歳六十六。浅草常福寺に葬る〟    ☆ いんてい きたむら 喜多村 筠庭    ◯『名人忌辰録』下巻25   〝喜多村節信 筠居    通称彦助、後彦兵衛、名又信節とも云ふ、号静園、又静々舎。安政三辰年六月廿三日歿す、歳七十三。    浅草田圃幸龍寺に葬る〟    ☆ うたがわ 歌川    ◯『名人忌辰録』上巻10   〝泊瀬川 遊女 歌川    越前三国出村【花街】荒町屋多七抱遊女なりしが中途にして東武に来り、拝師と往来せり。半年にして    帰り、再び勤め期満ちて後、薙髪して歌川と云ふ。同所に庵を結ひ、安永六酉年七月十七日歿す、歳六    十一〟    ☆ うたまろ きたがわ 喜多川 歌麿    ◯『名人忌辰録』下巻24   〝喜多川歌麿 柴(*ママ)の屋    称勇助、後勇記、号燕岱斎、名信美、武州川越の人。文化二巳年五月三日歿す、歳五十三。(始め狩野    家の画を学び、後鳥山石燕の門に入り、一格をなし浮世絵の妙手、男女の時勢の粧を写す事、尤上手に    して、近世錦絵の花美を極めたり。文化元年五月十六日、豊臣太閤と五婦人を画き、錦絵にして売出せ    し事に付き、御吟味の上三日入牢の上、手鎖の罪を得、七月七日落着、歌麿此時馬喰町に住居す)〟    ☆ うまなり こがねの 小金 馬成    ◯『名人忌辰録』下巻14   〝鏋井(コガネイ)北梅 未得    軍談師桃林亭東玉門人玉梅、号遅開道人、狂名小金ノ馬成。文久二亥年十二月五日歿す、歳六十三〟      ☆ うらずみ おおやの 大屋 裏住    ◯『名人忌辰録』上巻21   〝大屋裏住 萩の屋    通称大須美孫右衛門。文化七午年五月十一日歿す、歳七十七。深川法禅寺地中南龍院に葬る。狂歌師な    り(裏住は坂本町二丁目、更紗屋孫右衛門と云、後金吹町、中井新右衛門の家守と成る。故に狂名大屋    裏住と号す。寛政元年、中納言定家卿御遠忌の節、追福の為、会集の折の狂歌「鴬も」の一首堂上に聞    え、忝くも萩の屋の号を賜る。寛政二年八月六十一才の時、新よし原大文字屋の楼上にて、酒宴を催し    たる上、仝楼の遊女禿芸者等七十余人に一剃つゝそらせて落髪したる奇人なり)〟     ☆ うんけい むらた 村田 雲渓     ◯『名人忌辰録』上巻41   〝村田永年 雲渓    字伯慶、号梅花都尉、通称正七。万延元申年閏三月四日歿す、歳六十三。小日向本法寺に葬る〟    ☆ うんしつしょうにん 雲室上人    ◯『名人忌辰録』下巻2   〝雲室上人    名了軏、字公軏、信州飯山光蓮寺に生る。儒学は宇佐見潜水門、画は玄対に学ぶ。後西久保光明寺住職    たり。文政十年五月九日寂す、歳七十五〟     ☆ うんぜん くしろ 釧 雲泉    ◯『名人忌辰録』下巻5   〝釧(クシロ)雲泉    名就、字仲孚、肥前島原の人、画仙と号す、又釧雲泉の称を以て行はる。文化八未年十一月十六日歿す、    歳五十三。越後出雲崎浄法寺に葬る〟    ☆ えいいち せいさい 英一 静斎    ◯『名人忌辰録』下巻14   〝小林静斎 英一    通称市太郎、画家なり。嘉永元申年十月廿四日歿す、歳三十一〟    ☆ えいし さわき 佐脇 英之    ◯『名人忌辰録』下巻21   〝佐脇英之    嵩雪の女、幼名満佐。画をよくす。寛政三亥年六月三日歿す。浅草誓願寺地中称名院に葬る〟    ☆ えいせんいん かのう 狩野 栄川院    ◯『名人忌辰録』上巻26   〝狩野栄川院 典信    栄川古信男、寛政二戌年八月廿六日卒す、歳六十二〟    ☆ えいせん けいさい 渓斎 英泉    ◯『名人忌辰録』上巻4   〝池田英泉 一筆庵    通称池田善次郎、後里介と改む。号渓斎。小説家にして画を能くす。嘉永元申年八月廿六日歿、歳五十    七。四谷福寿院に葬る。辞世「色どれる五色の空に法の道こゝろにかゝるくまどりもなし」〟    ☆ えいたく こばやし 小林 永濯    ◯『名人忌辰録』下巻14   〝小林永濯 鮮斎    称秀次郎、狩野永悳門、後一派の画風を興す。明治廿三年五月廿七日歿す、歳四十八〟    ☆ えがお みずがき 美図垣 笑顔    ◯『名人忌辰録』下巻27   〝美図垣笑顔 愛亭    新橋加賀町の質商、美濃屋甚三郎と云ふ、後書肆と成り、涌泉堂と称す。狂歌を嗜み真顔の門に入り、    涌泉堂真清と云へり。晩年芝田町に移り、弘化三午年九月歿す、歳五十八〟     ☆ えんば たてかわ 立川 焉馬    ◯『名人忌辰録』上巻34   〝立川焉馬 談洲楼    本所相生町五丁目に住す、本姓中村氏、俗称和泉屋和助と云ふ。文政五午年六月二日歿す、歳八十。本    所表町最勝寺に葬る(焉馬は大工職棟梁なり、依て狂名を鑿釿言(ノミノチョウナゴン)墨曲尺(スミカネ)といふ。    戯号烏亭、天明六午年四月十一日、昔噺の会を始て向島の武蔵屋権三郎方にて催し、其後寛政四年正月    廿一日を例会とす。落噺中興の開祖とす)〟    ☆ えんば たてかわ 立川 焉馬 二代    ◯『名人忌辰録』上巻34   〝立川焉馬【二世】    通称山崎常次郎、町与力山崎助左衞門の男。深川古石場に住す、其家を七国楼と云。初名蓬莱山人、文    政十三年二代目焉馬と改む。弘化三年、近松門左衛門と名乗り、中村座へ出勤、翌年退座。文久二戌年    七月廿三歿す、歳七十一。小石川極楽水大雲寺に葬る〟     ☆ おうが まんてい 万亭 応賀    ◯『名人忌辰録』下巻10   〝万亭応賀    服部長狭男、通称幸三郎。草双紙の作者なり。明治廿三年年八月三十日歿す、歳七十二。入谷良感寺に    葬る〟    ☆ おうきょ まるやま 円山 応挙    ◯『名人忌辰録』下巻8   〝円山応挙    姓源、幼名岩次郎、後称主水、号仙嶺、亦価斎、丹波国桑田郡穴田村、農家の子なり。京都石田幽汀の    門、後一家を為す。寛政七卯年七月七日歿す、歳六十三。洛の四條智恩院末寺悟真院に葬る。法号円誉    無三一妙居士〟    ☆ おうさい やまざき 山崎 桜斎    ◯『名人忌辰録』下巻7   〝山崎桜斎    本姓橘氏、名春秀、称平三郎、幕府の大御番小普請、高二百俵。拳の指戦に名を得て山の手の大関なり。    筆才ありて一家をなす、又俳諧を善す。天保十四卯年七月廿日歿す、歳四十七。小日向上水日輪寺に葬    る。(桜斎拳の名弘めに団扇を配りしが、自詠の狂歌「うつけんの指もあうんの仁王尊握るこぶしに開    く手のうち」桜斎の父は名を春方、号栗園、画を善くす、又狂歌の名人にて地形堂堅丸と云、橘洲の門    下なりき)〟    ☆ おうずい まるやま 円山 応瑞    ◯『名人忌辰録』下巻8   〝円山応瑞    円山応挙男、文政十二丑年十二月十九日歿す。悟真院に葬る〟    ☆ おうほ うかあん 鴬浦 雨花菴    ◯『名人忌辰録』下巻3   〝雨華菴鴬浦 獅現    二世雨華菴、抱一の猶子。名詮真、号伴清。天保十二丑年歿す、歳三十四〟     ☆ おにたけ かんわてい 感和亭 鬼武    ◯『名人忌辰録』上巻25   〝感和亭鬼武     通称前野曼助、小笠原某の臣、後浪人して浅草聖天町に寓居し、戯作を業とす。文化十五年二月廿一日    歿す、歳五十九〟     ☆ かいあん めがた 目賀田 介庵    ◯『名人忌辰録』下巻27   〝目賀田文村 介庵    名宇隆、字士蝶、通称帯次郎、後帯刀、清水家御用人、文晁門人。明治十三年四月廿七日歿す、歳七十    七〟    ☆ かくし うめや 梅屋 鶴子    ◯『名人忌辰録』下巻3   〝梅屋鶴子 鶴寿    通称宝田又兵衛、後左助、一号鶴芝之。慶応元丑年正月十一日歿す、歳六十三。     辞世 つまづくがさいご此世のいとまごひひま行く駒におくりおほかみ〟    ☆ がくれん なかむら 中村 岳蓮    ◯『名人忌辰録』上巻38   〝中村轍外    名は公成、号無限道人、掛川藩士、富士を画くに妙にして、画名岳蓮といふ。天保十四卯年三月廿八日    歿す、年六十八〟     ☆ がこ すずき 鈴木 鵞湖    ◯『名人忌辰録』下巻38   〝鈴木鵞湖 雄飛    名雄、称漸造、文晁門人、下総の人。明治三年四月廿三日歿す、歳五十五〟     ☆ かざん よこやま 横山 華山    ◯『名人忌辰録』上巻27   〝横山華山    松村呉春の門人、名一章、後岸駒の画風を学ぶ天保八酉年三月十七日歿す歳五十四〟    ☆ かざん わたなべ 渡辺 崋山    ◯『名人忌辰録』上巻22   〝渡辺登 華山    名定静、字子安、号全楽堂。天保十二年丑年十月十一日自殺、歳四十九。三州田原城南城宝寺に葬る〟    ☆ かしんさい みわ 三輪 花信斎    ◯『名人忌辰録』下巻27   〝三輪花信斎 在栄    猿を描くに妙なり。寛政九巳年四月二十七日歿す、四ッ谷勝興寺に葬る〟    ☆ かてい ほうじょう 北条 霞亭    ◯『名人忌辰録』上巻12   〝北条霞亭    名譲、号天放生、通称譲四郎。志州の人。文政六未年八月十七日没す、歳四十四。巣鴨真姓寺に葬る〟    ☆ がてい うちやま 内山 賀邸    ◯『名人忌辰録』下巻2   〝内山賀邸 椿軒    名淳時、称伝蔵、賀邸は号也。儒にして和歌を善くす。幕府の士、橘洲蜀山菅江等此人に学ぶと云ふ。    天明八申年十一月九日歿す。市谷七軒町鳳林寺に葬る〟    ☆ かにこまる ぶんぶんしゃ 文々舎 蟹子丸    ◯『名人忌辰録』下巻13   〝文々舎蟹子丸 諧遊    通称久保泰十郎、幕府賄方。始め俳諧をなす時、諧遊号文々舎、後狂歌師と成て、蜀山の蟹子丸と名付    し也。又号葛飾、名匡寛、本所割下水に住す。天保八年二月九日歿す、歳五十八〟     ☆ かねなり あかつきの 暁 鐘成    ◯『名人忌辰録』下巻18   〝暁鐘成 真萩    本姓木村氏、称弥四郎、大坂元福井町、和泉屋太兵衛と云ふ。醤油造商なり、若年に家出して天王寺寺    町に住し、鹿を飼養して鹿の屋と云ふ戯作を好み、巡島記の続編をも綴れり。晩年丹波に旅行して百姓    一揆の檄文を草せし事により京に拘引せられ、万延元年十二月十九日牢内にて死す、歳六十八。摂州西    成郡正覚寺に葬る〟    ☆ かめなり うやあん 雨夜菴 亀成    ◯『名人忌辰録』下巻3   〝雨夜菴亀成    明和六丑年六月廿五日歿す。牛島弘福寺に葬る〟    ☆ からまる つたの 蔦 唐丸    ◯『名人忌辰録』上巻36   〝蔦ノ唐丸 柯理    喜多川氏、通称蔦屋重三郎、烟羅館唐丸は狂歌の号也。寛政九年巳五月六日歿す、歳四十八。浅草山谷    正法寺に葬る〟    ☆ かんかん たに 谷 幹々    ◯『名人忌辰録』上巻9   〝林幹々女 幹々    谷文晁の妻、称波満。寛政十一年己未七月廿三日歿す。浅草北寺町源空寺に葬る〟    ☆ がんく 岸駒    ◯『名人忌辰録』下巻20   〝佐伯岸駒 可観堂    名駒、字賁然、号同功館、又虎頭館、天開翁の号あり。初め雅楽助、後越前守従五位下に叙す。天保九    戌年十二月五日歿す、歳九十。(岸駒は加賀の人、初め華陽と号す、沈南蘋の風を慕ひ、後自から一家    をなし名海内に轟けり、然れども性質多欲卑陋、且虚名を貪る癖あり、其画料の価を定めて取るなど、    文人にあるまじき心なりとの世評もあり、文政中東寺の天井に雲龍の揮毫を頼まれ、二拾両の謝礼を得    しを不足とし、我れより百両納めたる由に取りなして、百両の寄進札を出さしめき。これ又世間批判あ    りて此時の落首に「百両が岸か寄進かしらねども当時(東寺)画料(我龍)の高い天井」)〟    ☆ かんこう あけら 朱楽 菅江    ◯『名人忌辰録』下巻19   〝朱楽菅江 道甫    通称山崎郷之輔、名貫、後景貫、寛政十午年十二月十二日歿す、歳六十三。青山久保町青原寺に葬る。    (菅江は四ッ谷廿騎町に住せし御先手与力なり。漢籍を内山淳時に学び又和歌をも能くして本名を景基    といひしが、家基公の御諱を避けて景貫と改む。又初め俳名を貫立といひしかば、人皆貫公と呼びしを    遂に菅江の字に書き改しなり。朱楽の字を冠することは、曾て太(ママ)田南畝宅にて諸人酒宴の、菅江戯    れに「我のみひとりあけら菅江」と詠ぜしより、遂に朱楽を渾名の如く呼ぶやうになりしなり。寛政七    年六十一にて薙髪せし時、産神市谷八幡社前にて「まさかきのはたち余りの男山かみさへすつる身とは    なりにき」辞世の狂歌は「執着の心や娑婆にのこるらむ吉野の桜更しなの月」)〟    ☆ きいつ けい 慶 紀逸    ◯『名人忌辰録』下巻11   〝慶紀逸    俳諧稲津祇空門、倚柱子、又四時菴と云ふ、江戸の人。宝暦十一巳年五月八日歿す、六十八。谷中龍泉    寺に葬る〟    ☆ きいつ すずき 鈴木 其一    ◯『名人忌辰録』下巻39   〝鈴木其一 噲々    名元長、字子淵、必菴、又為三堂、画をよくす。安政五午年九月十日歿す、年六十三。浅草寺町正法寺    に葬る。法号菁々院元誉其一〟    ☆ きえん やなぎさわ 柳沢 淇園    ◯『名人忌辰録』下巻6   〝柳沢淇園 里恭    本姓曽根氏、郡山世臣、名公美、号玉桂、通称権太夫、宝暦八寅年九月五日歿す、歳五十三〟    ☆ きぎょく くろかわ 黒川 亀玉    ◯『名人忌辰録』下巻4   〝黒川亀玉 松羅館    名安定、字子保、通称観五郎。画法唐宋による。宝暦六子年六月十一日歿す、歳五十八。白山心光寺に    葬る〟    ☆ きぎょく まつだ 松田 亀玉    ◯『名人忌辰録』下巻9   〝松田亀玉 清風館    名英、文化十一戌年正月廿五日歿す、歳六十一。駒込土物店高林寺に葬る〟    ☆ きくう うめや 梅屋 鞠塢    ◯『名人忌辰録』下巻3   〝梅屋鞠塢 平兵衛    本姓佐原氏、向島梅屋敷の発起人なり。天保二卯年八月廿九日歿す、歳七十。浅草阿部川町称念寺塔中    観名寺に葬る。(鞠塢は仙台の人、平八とて若年にして江戸に来り、堺町芝居茶屋和泉屋勘十郎の雇人    と成り平蔵と改む。貯財して享和初年住吉町に骨董店を開き、北野屋平兵衛と改名し、諸大家に立入り    大に利潤を得て長谷川町に転居す、日に茶人文墨の名家つどひて益々賑はへり。文化七年一会を催し道    具市せり売と名付く博奕に紛敷とて忽ち御咎をうけ所払の刑を申付らる。依て家を子に譲り、其身は菊    屋卯兵衛と改め、中の郷にひそみ菊卯といへり。翌年秋、剃髪して鞠塢と名乗り、同九年、諸先生の恵    により寺島村の田地を二千余坪買求て開拓し広庭とせり。諸大家より梅樹を三百六十本恵まれ、外に秋    草を添へて園地とせり。是を花屋敷とも新梅屋敷とも云ふ。五代目白猿、戯れに「山師来て何やら植ゑ    し隅田川)〟    ☆ きさんじ ほうせいどう 朋誠堂 喜三二    ◯『名人忌辰録』下巻17   〝手柄岡持 明(*ママ)誠堂    秋田侯の臣、通称平沢平格、文化十酉年五月廿日歿す、歳七十九。深川浄心寺地中一乗院に葬る。(平    格、名常富、号齢山人、俳諧に月成、狂詩に韓長亀、又天寿、戯作の号を喜三二、晩年薙髪して、自ら    平格と名く、歿する五日前に知己へ辞世を詠みて送れり、其狂歌に     狂歌よむうちは手柄の岡持よよまぬだんでは日がらの牡丹餅〟    ☆ きしゅん たなか 田中 帰春    ◯『名人忌辰録』上巻32   〝田中帰春 五英    通称喜右衛門、字清友、書家なり。文化九申年十一月十七日歿す、歳五十九。深川霊岸寺に葬る〟    ☆ きつじゅう からごろも 唐衣 橘洲    ◯『名人忌辰録』上巻25   〝唐衣橘洲    通称小嶋源之助、字温之、後謙之、号酔竹庵、田安家の臣。狂歌中興の巨擘。享和二戌年七月十八日歿    す、歳六十。赤坂一ッ木浄土寺に葬る。法名心眼院暁開誉聞〟    ☆ きばく ろうおうそう 老鴬巣 宜麦    ◯『名人忌辰録』上巻40   〝老鴬巣宜麦    通称川路弥三郎、幕府御家人にて俳諧宗匠となる。文政十一子年十二月二十二日歿す、歳七十八。下谷    仲町福成寺に葬る〟    ☆ きょうすい いわせ 磐瀬 京水  ◯『名人忌辰録』上巻1   〝磐瀬京水    通称梅作 京山の男、蒔絵を以て業とす、慶応三卯年三月九日没す、歳五十二、本所回向院に葬る〟    ☆ きょうざん いわせ 磐瀬 京山  ◯『名人忌辰録』上巻1   〝磐瀬京山 凉仙    通称利一郎、京伝義弟、名は百樹、号は鐵筆堂。安政五年九月廿四日没す、九十七。本所回向院に葬る。    法号修崔院自點(京山もと篠山侯に仕へしが辞して京橋太刀売に住し、再び兄京伝宅に移りて印刻を業    とし、傍ら戯作をなせり。天保九戌年二月晦日、齢七十に及び剃髪して凉仙と改め、年賀の書画会を催    せり。安政五年九月廿四日、娘の井伊侯へ奉公せし方へ参りて一泊し、夜明て更に起出す、其娘いぶか    りて行て見しに事きれたり、卒中風なりといふ)〟〈法号 修崔院自點居士〉  ☆ ぎょくどう うらがみ 浦上 玉堂    ◯『名人忌辰録』下巻2   〝浦上玉堂    紀氏、備前の人、京に住し、文人画を能くす。文政三辰年九月四日歿す、歳七十六。京本能寺に葬る〟    ☆ ぎょくほう たなか 田中 玉峯    ◯『名人忌辰録』上巻33   〝田中収蔵 玉峯    名為則、字子翼、書を能す。文政十一子年十月十八日歿す。歳七十〟    ☆ きよなが とりい 鳥居 清長    ◯『名人忌辰録』上巻13   〝鳥居清長 四世    通称新助、後市兵衛。本材木町に住す。新場の清長といふ、是なり。文化十二年六月五日没す、歳六十    四余。墓所未詳〟    ☆ きよのぶ とりい 鳥居 清信    ◯『名人忌辰録』上巻13   〝鳥居清信 元祖    俗称庄兵衛。父を庄七清元といふ。難波町に住して、浮世絵の一派を開く。享保十四年七月廿八日没す。    浅草寺町法成寺に葬る〟    ☆ きよます とりい 鳥居 清倍    ◯『名人忌辰録』上巻13   〝鳥居清倍 二世    俗称庄助、清信男。宝暦十三未年十二月二日歿す、歳五十八。浅草寺町法成寺に葬る〟    ☆ きよみつ とりい 鳥居 清満    ◯『名人忌辰録』上巻13   〝鳥居清満 三世    俗称半三。始め清元芳師三味線所、後鳥居養子と成る。天明五巳年四月三日歿す、歳五十一。    浅草寺町法成寺に葬る〟     ☆ きよみつ とりい 鳥居 清満    ◯『名人忌辰録』上巻13   〝鳥居清満 五世    三代目世満の孫、然れども清長に学び、始め清峯と云ふ。文化十二年、五代目清満と改む。明治元辰年    十一月廿一日没す、歳八十二。浅草寺町(今南松山町と改)法成寺に葬る〟    ☆ きよみつ とりい 鳥居 清満    ◯『名人忌辰録』上巻13   〝鳥居清満 六世    五代目男。明治廿五年八月十九日歿す、歳六十一。浅草南松山町法成寺に葬る〟    ☆ きゅうこく おぎの 荻野 鳩谷    ◯『名人忌辰録』上巻19   〝荻野喜内 鳩谷    名信敏、号天愚孔平、一号草鞋大王、又万坧君。文化十四年丑年四月朔日歿す、歳百十。下谷泰宗寺に    葬る。雲州の世臣。幼年の時、徂徠の門に入、後遂に儒臣と成(喜内家世々藩の番師たり。秩三百石を    食む。此人博物宏覧を事とし、種々の奇行あり、衆技に旁通し、殊更に医事を能くし、衛生の説を唱ふ。    江戸にて品題の画を著し神社仏刹に小札をはりて千社詣でなど称すこと此人より始る。是天明の末と云    ふ。又継竿をに刷毛を付て数丈のたかきに用ふることも此人の工夫なり)〟    ☆ きゅうじょ とう 董 九如    ◯『名人忌辰録』上巻14    〝董 九如 広川    本姓井戸、称平助、名弘梁、字仲魚、号翠軒、幕府の士なり、画を宗紫石に学び、後一家を成す。著色    花鳥墨竹尤妙なり。享和二戌七月廿三日歿す、歳五十九。浅草法養寺に葬る〟     ☆ ぎゅうどん べいあん 米庵 牛呑    ◯『名人忌辰録』上巻12   〝米庵牛呑    号牛放庵、米仲の門人。寛政四子年三月五日歿す、歳七十〟    ☆ きょうさい かわなべ 河鍋 暁斎    ◯『名人忌辰録』上巻23   〝河鍋洞郁 暁斎    俗称周三郎、土井侯藩士、号在斎、後暁斎と改む。初め井草国芳の門に入り、後前村洞和に従へり、長    じて狩野寅洞白の門弟と成る。明治廿二年四月廿六日歿す、歳五十九。谷中瑞林寺地中正行院に葬る〟     ☆ きらん りつしてい 栗枝亭 鬼卵    ◯『名人忌辰録』上巻39   〝中山鬼卵 栗枝亭    東海道日坂の人。煙草商にて、傍ら戯作を為し、別号日之中道人と云ふ。文政六未年二月廿三日歿す、    歳八十三〟    ☆ きりつ えいじつあん 永日菴 其律    ◯『名人忌辰録』下巻5   〝久野其律 兀斎    尾州の人、通称与四郎、号永日庵、家号橘屋。松尾流茶人。狂歌は油烟斎門。宝暦十年十月十七日歿す、    歳四十七。辞世「魂飛でいづれへさると尋ねたらおらも知らぬで事は済むなり」〟       ☆ きんぎょ れきてい 櫟亭 琴魚    ◯『名人忌辰録』上巻35   〝櫟亭琴魚    名守親、殿村氏、通称精吉、勢州松坂の人にて、曲亭馬琴の門人となりて戯作をなしぬ。天保二卯年十    一日歿す、年四十四。松坂なる寂光山願證寺に葬る〟    ☆ きんけい はた 畑 金鶏    ◯『名人忌辰録』上巻8   〝畑金鶏 道雲    上毛の人、号観奕道人、別号燕石、又奇々羅と称す。文化六巳年正月廿一日歿す、歳四十二〟    ☆ ぎんけい はた 畑 銀鶏    ◯『名人忌辰録』上巻8   〝畑銀鶏 平亭    上毛の人、通称数馬、字毛義。金鶏の子なり。嘉永元申年五月廿日、歳四十九、上野に於て歿す。高尾    村に葬る〟    ☆ きんすい しょうてい 松亭 金水    ◯『名人忌辰録』下巻30   〝松亭金水 積翠道人    名経年、又保定、通称中村源八郎、幕府御家人。神田大和町に住し、手跡の師たり。金川の門に入り、    筆耕をなし春水の人情本を浄書して、自らも人情本を著述す。金川の金に春水の水をとり。金水と云ふ。    文久二戌年十二月十二日歿す、年六十六。牛込榎町大法寺に葬る〟    ☆ きんだい とうじょう 東條 琴台    ◯『名人忌辰録』上巻14   〝東條琴台 呑海堂    東條亭哲三男。幼名幸蔵、後文左衞門、名耕、字子蔵。明治十一年九月廿七日歿す、歳八十四。四谷中    天眼寺に葬る〟    ☆ きんどう とうちょうろう 東蝶楼 欣堂    ◯『名人忌辰録』上巻14   〝東蝶楼欣堂 寿仙    神田白壁町質屋にて、称貞次郎、号向栄楼、又欣堂閑人、後狂言作者と成り、宝田寿助と改む。天保九    戌年二月十九日没す、歳四十二〟    ☆ きんりょう かねこ 金子 金陵    ◯『名人忌辰録』上巻25   〝金子 金陵    名允圭、字璋、谷文晁門人。文化十四丑年二月九日歿す、芝伊皿子、長応寺に葬る〟    ☆ くうくう こだま 児玉 空々    ◯『名人忌辰録』下巻6   〝宿屋喜太郎 空々    本姓児玉氏、名慎、字黙甫。田安の近習番、後広鋪用人に転ず。文化九申年七月廿一日歿す、歳七十七。    下谷北寺町玉泉に葬る〟    ☆ くにさだ うたがわ 歌川 国貞 二代    ◯『名人忌辰録』下巻2   〝歌川国貞 一雄斎    二世豊国門人、始め一寿斎国政。安政二年故豊国長女なべ女の聟と成り、二世国貞と改む。明治十三年    七月二十日歿す、歳五十八。亀戸村光明寺に葬る〟    ☆ くにしげ うたがわ 歌川 国重    ◯『名人忌辰録』下巻2   〝歌川国重 一龍斎    初代豊国門人、俗称源蔵、後二世豊国と改め、障有て又元の国重と成る。天保六未年十一月朔日歿す、    歳五十九〟       〈三代目歌川豊国(初代国貞)の項目にある国重記事〉   〝一龍斎国重、故豊国の号を嗣て二世と称し夭死す、故に国貞は則三世豊国なり。(中略)    国重、文政の末、故豊国の後家に通じて此名を貰ひ二世豊国と名乗る、此時にや或人の吟に「歌川をう    たがはしくも名のりえて二世の豊国贋の豊くに」かくて同門一同不承知にて遂に素人と成り本郷三丁目    に住し瀬戸物商をなす)〟    〈二世豊国の前名は豊重。『名人忌辰録』の関根只誠は国重とするが、豊重の誤りではないか〉    ☆ くにてる うたがわ 歌川 国輝    ◯『名人忌辰録』下巻2   〝歌川国輝 一雄斎    明治七年十二月十五日歿す、歳四十五。亀戸村法蓮寺に葬る〟    〈これは二代目の国輝〉    ☆ くにまさ うたがわ 歌川 国政    ◯『名人忌辰録』下巻2   〝歌川国政 一寿斎    本姓会津氏、奥州会津の人。初代豊国高弟。此人より豊国の門人に国の字を付ることを始む。文化七年    午十一月晦日歿す、歳三十八〟    ☆ くによし うたがわ 歌川 国芳    ◯『名人忌辰録』下巻2   〝歌川国芳 朝桜楼    俗称井草孫三郎、号一勇斎。文久元酉年三月四日歿す、歳六十五。浅草八軒幸町大仙寺に葬る。法号深    修院法山信士。(国芳は初代豊国門人。父は本銀町一丁目染物職柳屋吉右衛門。始め勝川春英が画風を    学び、文化八年豊国が門に入り、居を米沢町、後和泉町に移す。一時二世豊国を凌ぐの勢ありしかば、    某の狂句に「よしがはびこつて渡し場の邪魔になり」よしは国芳、渡し場は五渡亭なり)〟    ☆ くれたけ まどの 窓の呉竹    ◯『名人忌辰録』下巻8   〝窓の呉竹 青峨堂    多田氏、称千次郎、野菜商、青山熊野横町に住す。文政七申年十一月廿二日歿す、歳八十二。青山智覚    院に葬る。(文化十年秋十九才なる娘を先だてゝよめる「死んだ子の年を十九とかぞふれば親指ばかり    のこるかなしさ」又辞世の狂歌「詩も歌も達者な時に読ておけとても辞世は出来ぬ死ぎは」)〟    ☆ けいさい くわがた 鍬形 蕙斎    ◯『名人忌辰録』下巻4   〝鍬形蕙斎 紹真    俗称三次郎、竃川岸畳職の子也。号杉皐、画家。北尾重政の門人北尾政義と云ふ。一派を成し、後福井    侯の藩に在り。文政七申年三月廿一日歿す、歳六十四。法号彩淡蕙斎〟    ☆ けいぶん まつむら 松村 景文    ◯『名人忌辰録』下巻9   〝松村華渓 景文    字士藻、称要人、呉春弟。天保十四卯年四月廿六日歿す、歳六十五。【表向は弘化元年辰年三月二十一    日なり】城南大通寺に葬る〟    ☆ けいほ たかだ 高田 敬輔    ◯『名人忌辰録』上巻31   〝高田敬輔 隆久    初称徳右衛門、近江の人。狩野永敬に学び、後法眼に叙。宝暦五巳年某月日歿、歳八十二(近世逸人画    史に高田敬輔は江州日野杉の上の人也。製薬を以て活業とす。幼にして画事を好めり、因て水口侯に仕    ふ。侯、狩野永真をして是が師たらしむ、後故里に帰省して此業愈つとむ。善画の聞えあり、其写す処    富士峯及鮎魚鯉魚等を珍玩とす。後降福寺古礀和尚に画の法を学べり。竹隠斎眉間毫翁の号あり。男を    三経と云)〟    ☆ げっせん 月仙    ◯『名人忌辰録』下巻11   〝月僊老師 白雲    勢州山田寂勝寺の住職。応挙門人。文化六巳年正月十二日寂す、年八十九〟    ☆ げっそう たにぐち 谷口 月窓    ◯『名人忌辰録』上巻30   〝谷口月窓     号痴絶菴、勢州山田、寂照寺月僊の門人、名世遠、字孟泉。江戸に出て、芝高輪に住す。慶応元丑年四    月十三日歿す。歳九十二〟    ☆ げっちろうじん 月池老人    ◯『名人忌辰録』上巻25   〝桂川甫周    名国瑞、字公鑑、号月池老人。文化六巳年六月廿一日歿す、歳五十六。白銀上行寺に葬る〟    ☆ げんき 源琦    ◯『名人忌辰録』下巻15   〝駒井琦 源琦    字子韞、平安の人、円山応挙門人。寛政九巳年八月八日歿す、歳四十八〟    ☆ げんぎょ みやぎ 宮城 玄魚    ◯『名人忌辰録』下巻29   〝宮城玄魚 梅素    通称三郎、号玉杓子、器用なる質にして書画篆刻をもなし、戯文戯作をもしたり。明治十三年二月七日    歿す、歳六十四。谷中天王寺に葬る〟    ☆ げんげんいち たけうち 竹内 玄々一    ◯『名人忌辰録』上巻33   〝竹内玄々一 竹窓    号有無軒、後勾当。俳家奇人談の編者。播州高野人。文化元子年八月廿五日歿す、歳八十三。谷中長久    寺に葬る。     辞世 朝かほやしぼめは又の朝ぼらけ〟    ☆ げんたい わたなべ 渡辺 玄対    ◯『名人忌辰録』上巻22   〝渡辺玄対 松台    名瑛、通称又蔵、湊水の男、後薙髪して内田玄対と改む。文晁門人。文政五午年四月四日没す、歳七十    七。広尾光林寺に葬る〟    ☆ げんない ひらが 平賀 源内    ◯『名人忌辰録』下巻33   〝平賀源内 鳩渓    名国倫、風来山人、天竺老人、又紙鳶堂、戯曲には福内鬼外と号す。安永八亥年十二月十八日、獄中に    病死す、歳五十四。橋場総泉寺に碑を立つ(一説安永子九年二月十八日牢死と云々)〟    ☆ こうかん しば 司馬 江漢    ◯『名人忌辰録』下巻30   〝司馬江漢 春波楼    名峻、字君岳、号不言道人、俗称勝三郎、後孫太夫、本邦油画の祖。文政元寅年十月廿一日歿す、歳八    十二。麻布浄林寺に葬る。(本村慈眼寺にも墓碑ありと云へり)(江漢は始め浮世絵師鈴木春信の門に    入て重春と号し、師歿後二世春信と名のれり。後長崎に行き、蘭画を学び油絵銅板の術を得たり。文才    もありいさゝか蘭学をも窺ひ、天文地理暦数の事にも心得ありてその筋の著述もあり。又鯨を捕る法に    尤巧みなりきとぞ。委しきことは略す)〟    ☆ こうけん やしろ 屋代 弘賢    ◯『名人忌辰録』下巻8   〝屋代弘賢 輪池    多々良氏、初名太郎、詮文、天保十二丑年五月十八日歿す、歳八十四。白山妙清寺に葬る。(詮文、初    名詮虎、又詮賢、又弘賢と改む。入木一道の先達尹祥伝右衛門に学び一家をなし、屋代流と称す。元御    台所人なりしが、寛政五年六月五日、支配勘定格奥御右筆所手付を成り、其後御勘定格御右筆所詰に転    じ、文化八年五月朝鮮人来聘の時、彼国王への御返翰を認めし事、此人の規模と云べし【御別幅の執筆    は表御右筆男谷彦四郎思孝なり】天保十九年正月十九日、百俵高に御加恩有て奥御右筆を命せられ部屋    を給はる是を太郎部屋と云)〟    ☆ こうとん よしだ 吉田 篁墩    ◯『名人忌辰録』上巻28   〝吉田坦蔵 篁墩    名漢官、字は学生、常陸の人、考拠学の祖。寛政十午年九月朔日歿す、歳六十八。谷中大雄寺に葬る。    (東條琴台云、余が近世の人にて畏服せしは吉田坦蔵なり。故ありえ久しく佐々木氏を称し、佐々木坦    蔵と呼べり。其父常陸の人にて水府の医官なり。坦蔵、始めは医に志有て江戸に来り、処々漂白し遂に    井上金峨に従て学べり。学成て水府を去し、江戸浅草馬道に僑居し、教授して業とせり。其生涯、他の    儒者のやうに聞達を不求、又官に就くを不欲、其故に世人の知る者少なし。今の高名の士家、太田錦城、    亀田鵬斎、中村仏庵、屋代臨池、市野観叟など、皆其誨督を受し程の事なり。学術は古屋昔陽などゝ同    趣にて古学をなせども、清人の考拠を尊崇して学問が至て手強し。従来鑑識の有る人にて、古書画より    百の器物などに至る迄、能く目利を為し、古道具を売買する商估は、近世の目利者とて、疑似の物は鑑    識を請しとなり。故に書肆古書画などを商ふ者は佐坦などゝ呼て誰も知らぬ者なし。近世の人々の宋板    のもの元板のものと古代影鈔本抔を珍重せる事は篁墩より開けたり)〟    ☆ こうけい よしむら 吉村 孝敬    ◯『名人忌辰録』上巻29   〝吉村孝敬    吉村孝文の父。円山応挙門人。天保七申年七月十六に歿す、歳六十八〟    ☆ こがい 壺外    ◯『名人忌辰録』下巻15   〝壺外散人    俳人。文政三辰年十一月廿四日歿す、歳七十。高田誓閑寺に葬る〟    ☆ こくが うめぼり 梅暮里 谷峨    ◯『名人忌辰録』下巻3   〝梅暮里谷峨 蕣亭    久留米藩士、通称反町三郎助、後改て与左衞門(本所埋堀邸に住す大目付役)文政四巳年九月三日歿す、    歳七十二。麻布古川曹渓寺に葬る〟    ☆ ござん きくち 菊池 五山    ◯『名人忌辰録』下巻26   〝菊池五山    名桐孫、字無弦、又号小釣雪、一号娯菴、称左太夫、讃岐の人、詩を好くす。嘉永二酉年六月廿七日歿    す、歳八十一。下谷広徳寺に葬る〟    ☆ こさんば しきてい 式亭 小三馬    ◯『名人忌辰録』下巻31   〝式亭小三馬 本町菴    通称菊池虎之助、後大輔、名徳基、三馬の男。嘉永六丑年正月十一日歿す、歳七十四。深川雲光院地中    長源院に葬る〟    ☆ こしたゆう たけもと 竹本 越太夫    ◯『名人忌辰録』上巻34    〝竹本越太夫 為声     大坂の人、元祖越太夫門人、初名要太夫、天明四年江戸に下り世に愛せられ富饒の身と成り、居付地主    となれり。文政元年八月三日歿す、歳五十七。本所柳島法成寺に葬る。法号本立院善開日寿。     辞世 浪華より大江戸に下りて早三十五年の今、門葉の繁る事ありがたく何か思ひ残さん        御当地の恵みにふしもかれにけり扇拍子のうち納めかな〟     ☆ ごしゅん まつむら 松村 呉春    ◯『名人忌辰録』下巻9   〝松村呉春 渓月    円山応挙門人、景文兄。文化八未年七月十七日歿す、歳六十。城南大通寺の葬る〟    ☆ こじゅう ふかがわ 深川 湖十    ◯『名人忌辰録』下巻12   〝深川湖十 老鼠    曾氏、号木者庵、又鼠軒。其角門人。晋子点式、秋色より譲受け、又永機とも云ふ。元文三午年七月廿    七日歿す、歳六十二。山谷宗林寺に葬る〟    ☆ ごちょう 五町    ◯『名人忌辰録』上巻26   〝交五町 娯遊    質渡世伊勢屋の某の子俗称磯八、吉原の幇間即ち男芸者の始なり。役者の身振をなし、亦落語も上手な    り。寛政七卯年四月二日歿す、歳五十。下谷坂本村英信寺に葬る。法名高顕院名誉寿楽五町居士。     辞世 卯の花も道は迷はじ西の宿〟    ☆ ごへい なみき 並木 五瓶    ◯『名人忌辰録』上巻40   〝並木五瓶 並木舎    並木正三門人。初五兵衛、又五平と改む。文化五年辰二月二日歿す、歳六十二。深川霊岸寺地中正覚院    に葬る。法号彩嶽院英藻。辞世「梅はさく我はちり行くきさらぎや」(大坂道修町の産。辰岡万作の門    人なりしが、又並木正三に随従し、始吾八と云ひ、追々立身して一家をなせり。寛政六年十月、江戸都    座に下り五大力の狂言に大当せり。並木と云名より思ひよせ、浅草堂とも云へり。横店に風薬の振出し    の売薬店を出せり。門人の雷次風次といへるものに預け、おのれは高砂町に住せり。委しきことは略す)〟    ☆ ごへい なみき 並木 五瓶 二世    ◯『名人忌辰録』上巻40   〝並木五瓶 二世 葛葉山人    初代五瓶門人初め篠田金次。文政二卯年七月七日歿す、歳五十二。寺同上(*深川霊岸寺)法号善岳浄    功。(二代目五瓶は元祖の門弟にして、初名は篠山正三郎と云ふ。是は実家本所割下水に住する御旗本    野々山大膳殿二男なれば、本姓野々山の一字に師の本姓をとりて斯く名付しなり。師五瓶は篠田藤次郎    といへり。後二代目相続し、又傍ら戯作を兼たり。歿後菩提所并梅若地内二ヶ所の碑は狂歌堂、京山、    国芳の三大世話人となられ勧化帳に各狂文を筆して配られたり)〟    ☆ ごへい なみき 並木 五瓶 三世    ◯『名人忌辰録』上巻40   〝並木五瓶 三世 並木舎    二代目門人、始篠田総六、後文政七年金次と改む。天保十四年十一月、河原崎座にて三代目相続。安政    二卯年七月十四日歿す、歳六七十、寺同上(*深川霊岸寺)法号得法直誉〟    ☆ さいば らくてい 楽亭 西馬    ◯『名人忌辰録』上巻40   〝楽亭西馬    通称西宮新六、号西窓庵。安政五午年八月十四日歿す、歳六十〟    ☆ さくらだ じすけ 桜田 治助 元祖    ◯『名人忌辰録』下巻23   〝桜田治助【元祖】左交    通称笠倉善兵衛、幼名治三郎。文化三寅年六月廿七日歿す、歳七十三。下谷わら店法養寺に葬る。法号    黙了院左交日念。辞世 花清し散ても浮む水のうへ    (左交は濠越二三治(後に菜陽と改)の門弟にして中興名誉の一人なり。宝暦八年、戯場へ出勤せしよ    り五十余年、狂言の作意一変し、殊更二番目世話物に妙を得、又名題小書等至巧なり、世人呼んで桜田    風と云ふ一流を残せり。又浄瑠璃を著すこと百廿余段、何れも佳作なり。殊更狂言せりふ、時好の詞、    或ははやり物などを道具に遣ひ、見物の耳目を悦ばしゝ趣向思い付きなど、俗に芝居通の悦ぶこと尤多    し)〟     ☆ さだまる きの 紀 定丸    ◯『名人忌辰録』上巻29   〝吉見定丸 紀ノ定丸    通称吉見儀助、名義方、幕臣。狂歌仲間に入て、始め野原雲介と云ふ。天保十二丑年正月十六日歿す。    歳八十三。本郷元町三念寺に葬る。昇進院平生日勤敏翁。     辞世 狂歌師もけふかあすかとなりにけり紀の定丸もさだめなき世に〟    ☆ されん かさや 笠家 左簾    ◯『名人忌辰録』上巻26   〝笠家左簾    江戸の人、半局菴逸志門人。安永八亥年十一月廿三日歿す、歳六十六。下谷山下啓運寺に葬る〟    ☆ されん みうら 三浦 左簾    ◯『名人忌辰録』下巻28   〝三浦左簾 笠舎    通称四郎左衞門、号幽雲斎。寛政五丑年五月廿一日歿す、歳六十五。浅草黒舟町正覚寺に葬る。(左簾    は江戸吉原有名の娼家三浦屋四郎左衞門とて大家なり。高尾薄雲其他多くの名妓を出せり。元和四年に    其家起りて宝暦六年秋、家絶えたり。始京町一丁目右側角に住す、後俳諧師と成り、浅草山谷に菴を結    べり〟    ☆ さんだらほうし 三陀羅法師    ◯『名人忌辰録』下巻22   〝三陀羅法師    姓清野氏、内神田に住す、狂歌の名人。文化十一子年八月八日歿す、歳八十四。本郷元町等正寺に葬る。    「きぬ/\の情をしらば今ひとつうそをもつけよ明むつの鐘」又「すかし見ればひるかとぞまで武蔵野    のくさきをわけて出し月哉」など世上に云ひはやさる〟    ☆ さんちょう おか 岡 三鳥    ◯『名人忌辰録』上巻17   〝岡 三鳥 丹前舎    通称岡芳右衛門、名長盈、字哲甫、近藤金之丞臣。文政十一年歿す。戯作は始馬琴を師とし後三馬に従    ふ〟    ☆ さんな とうらい 唐来 三和    ◯『名人忌辰録』上巻33   〝唐来三和 伊豆亭    本姓加藤、通称和泉屋源蔵。草双紙黄表紙の作者。本所松井町に住せり。文化十二年亥年八月五日歿す、    歳六十七。深川浄心寺に葬る〟    ☆ さんば しきてい 式亭 三馬    ◯『名人忌辰録』下巻31   〝式亭三馬 本町庵    通称菊池大輔、四季山人、洒落斎、遊戯堂、哆囉哩楼の数号有り。文政五午年閏正月六日歿す、歳四十    八。深川雲光院地中長源院に葬る〟    ☆ しげなが にしむら 西村 重長    ◯『名人忌辰録』上巻11   〝西村重長    通称孫三郎、号仙花堂。通油町に住す、浮世絵師なり。宝暦六子年六月廿七日歿す、歳六十余〟    ☆ しげのぶ やながわ 柳川 重信    ◯『名人忌辰録』下巻6   〝柳川重信 雷斗    俗称鈴木重兵衛。実父は志賀理斎。北斎門人となりし。天保三辰年閏十一月廿八日歿す、歳四十六。下    谷坂本宗慶寺に葬る〟    ☆ しげまさ きたお 北尾 重政    ◯『名人忌辰録』下巻24   〝北尾重政 花藍    別号台嶺、又紅翠斎、一陽井、称左助、北畠氏、伊勢の人、書画共に好し。文政二卯年二月十一日歿す、    歳八十一。(重政はもと日本橋通一丁目須原屋茂兵衛方の雇人にて清助といへり。同人はもと紀州北畠    村に在るを以て我が姓とせり。画法を好くして暦の版下は老年に至る迄かきたり。版下は筆工中、当時    三都に及ぶ者なしといふ。画も又妙手なり。歿後、浮世絵の品格落ちたりといふ評さへありき)〟    ☆ しげる こえだ 小枝 繁    ◯『名人忌辰録』下巻15   〝小枝繁 綘山    通称露木七郎次、号歠酸陳人。小説戯作を好みて、小栗外伝、橋供養等、其外読本を多く著し、又撃剣    に長じ、水府御守殿附と成り、四谷忍原横町に住す。文政九戌年八月七日歿す、歳六十八〟    〈この記事は「この部」所収のものであるが、「さの部」にも同文が載る。小枝を「さえだ」と読むこともあったのだろう〉    ☆ しこう そう 宋 紫岡    ◯『名人忌辰録』上巻35   〝宋紫岡    称楠本雪渓紫山男、嘉永三戌年六月六日歿す、歳七十。法号誠性院釈覚玄。浅草本願寺中徳本寺に葬る〟    ☆ しこう みくま 三熊思孝  .  ◯『名人忌辰録』下巻28   〝三熊思孝 花顛    字介堂、称主計、加賀の人。初月湖の門に入り好んで桜花を写すに絶妙なり。洛西に住し行状奇なり、    畸人伝を起草して世に行ふ。(文の刪潤は蒿渓也)寛政六寅年八月廿六日歿す、歳六十五〟    ☆ しこう わたなべ 渡辺 始興    ◯『名人忌辰録』上巻22    〝渡辺始興    通称求馬、平安の人。尾形光琳門人。宝暦五亥年七月廿九日歿す、歳七十三〟    ☆ しざん そう 宋 紫山    ◯『名人忌辰録』上巻35   〝宋紫山    宋紫石の男、名白圭、字君錫、号苔渓。文化二丑年十一月十九日歿す、歳七十三。寺同上。法号寿性院    釈覚誠〟    ☆ しせき そう 宋 紫石(楠本雪渓参照)    ◯『名人忌辰録』上巻35   〝宋紫石 雪渓    字君赫、姓楠本。東都の人、長崎に遊び、熊斐に学ぶ。後清人床人宋紫岩に学ぶ。安永九子年五月廿日    歿す、歳六十五。寺同上、法号諦量院釈誠意〟    ☆ しどうけん ふかい 深井 志道軒    ◯『名人忌辰録』下巻12   〝深井志道軒 栄山    号無一堂、明和二酉年三月七日歿す、歳八十四。浅草寺中金剛院に葬る。(延明見聞記に深井志道軒、    名栄山、無一堂。元知足院の僧玄栄と云うふ。蔭間野良の事に付、寺放ぜられ、本所石原に住し、始め    著述又は貸本の敵討ものを編述せり。其後浅草寺境内にて軍書の講ず、其間に戯言を交へ、聞く人をし    て絶倒せしむ。一座に僧と女あれば必ず譏る事尤(*も)甚し。日々多くの銭を得るといへども、皆酒に    かへて一銭も残さず。在世の日、自ら肖像を画て種々の戯言を書して人に与ふ。此頃は浅草寺中金剛院    中に住せしが、いさゝかの事より争論して、同所を立退(*き)、馬道裏通り俗に大長屋といへる所に移    れり。晩年、男三之助、父が前坐を講じ評判能かりしが早世す。此時金剛院と和談して爰に葬す云々)〟    ☆ しばます たけもと 竹本 芝枡 初代    ◯『名人忌辰録』上巻33   〝竹本於伝【初代】芝枡    江戸人形町に生る。婦人に稀成る上手諸侯に召され大に行はる。文化十三子年五月廿七日歿す、歳五十    九。浅草千念寺に葬る〟    ☆ しばます たけもと 竹本 芝枡 二代    ◯『名人忌辰録』上巻34   〝竹本おでん【二世】    木挽町船宿扇屋万五郎娘、母は元祖お伝、三代目板東三津五郎妻、後五代目瀬川菊之丞妻と成る。文政    十一子年二月六日歿す、歳三十九西本願寺中に葬る〟    ☆ しもどけ うめの 梅 霜解    ◯『名人忌辰録』上巻15   〝千種庵恒海     通称山中要助、書林也。狂歌を嗜みて梅ノ霜解と号す。文化八未年四月廿六日歿す、歳五十一。浅草今    戸称福寺に葬る〟    ☆ しもどけ ちぐさあん 千種庵 霜解    ◯『名人忌辰録』下巻32   〝霜解道和留 千種庵    書肆にて通称山中要助といふ。文化八未年四月廿六日歿す。浅草今戸称福寺に葬る〟     ☆ しゅうしき おおめ 大目 秋色    ◯『名人忌辰録』下巻26   〝菊后亭秋女 秋色    其角門人、大目氏、寒玉の妻。享保十巳年四月十九日歿す、歳五十七〟    ☆ じゅあみ ながしま 長島 寿阿弥    ◯『名人忌辰録』下巻32   〝寿阿弥雲奝 月所    本姓長島、又江間氏、称五郎作、名秋邦、字爽、又得入。嘉永元申年八月廿九日歿す、歳八十。小石川    伝通院寺中林昌院に葬る。法号東陽院寿阿弥陀仏曇奝和尚、     辞世 孫彦に別るゝことのかなしあもまた父母にあふぞうれしき    (曇奝は始め俗称を真志屋とて神田新石町に住し菓子商(水戸殿御用達)なり、後業を弟に譲り隠居し    戯場を好み、遂に狂言作者宝田寿来が名を受けて二代目戯神仙と云ふ。長唄浄瑠璃の作多し、又儒学を    山本北山に学び、後薙髪して五郎八新発知と呼び、日輪堂に入て僧と成り、寿阿弥と号す、幕府御連歌    の執事を弐拾五年間勤めたり。平常狂人の如く、人号て狂寿といへり。板東秀佳、松本錦升、岩井杜若、    市川三升抔出入して狂言等の相談をなせり。又往来するに身に墨染の衣を着して鉦を前に提げ、銀輪の    花手桶を片手に錫杖を突き、五枚のわらじをはきて鼠木綿の頭巾を冠り、松本幸四郎が身振りをして、    修行に歩行せし事ありと、是は文政の初め頃と云へり。節信云、寿阿弥はまし屋と云ふ菓子屋の二男な    り、五郎作と称す。北山の弟子なりしが、勤学もせず遊山あるきのみせり。戯場を好み田舎抔に出て旅    役者となりし事もあり。一度千葉氏の聟と成り、蒔絵師の株を求めて貰ひしが、気違の様成男とていと    はれて分れたり。歌も詠み文書く事は漢文を読む様成る仮名書きたり併一奇人なり云々)〟    〈節信は風俗考証『嬉遊笑覧』の著者として知られる喜多村筠庭。北山は儒者・山本北山〉    ☆ じゅすけ たからだ 宝田 寿助    ◯『名人忌辰録』上巻31   〝宝田寿助 寿仙    始松川実作と云ふ、松井幸三弟弟子、天保三年実作を改めて、宝田寿助と成る。天保九戌年二月十九日    歿す、歳四十二。戯作の名向栄楼傾堂、又東蝶山人〟    ☆ じゅらい たからだ 宝田 寿莱    ◯『名人忌辰録』上巻31   〝宝田 寿莱    本姓鈴木氏、俗称和八郎、神田に住す、俳名を閑雅と云ふ。寛政八辰年八月十七日歿す、歳五十七〟    ☆ しゅんぎょうさい はやみ 速見 春暁斎    ◯『名人忌辰録』上巻10   〝速見春暁斎 春暁    大坂北の新地一丁目幾竹屋源兵衛の事なり。文政六未年五月十日歿す、歳六十余〟     ☆ しゅんきん うらがみ 浦上 春琴    ◯『名人忌辰録』下巻2   〝浦上春琴    玉堂男、称喜一郎、号紀選、字伯挙。弘化三午年五月二日歿す、歳六十八。京本能寺に葬る〟    ☆ しゅんこう かつかわ 勝川 春好    ◯『名人忌辰録』上巻25   〝勝川春好    春章門人、俗称伝次郎、長谷川町に住し、後遁世して麻布善福寺に寓す。文政十亥年六月歿す。麻布善    福寺地中に葬る〟    ☆ しゅんこう ためなが 為永 春江    ◯『名人忌辰録』上巻35   〝為永春江    明治二十年十二月廿日歿す〟     ☆ しゅんしょう かつかわ 勝川 春章    ◯『名人忌辰録』上巻25   〝勝川春章    勝川春水門人、俗称祐助、号李休、旭朗、又井(ママ)酉爾と云、浮世絵の妙手たり。始め嵩谷に学ぶ。寛    政四子年十二月八日歿す、歳六十七。浅草西福寺に葬る〟     ☆ しゅんすい ためなが 為永 春水    ◯『名人忌辰録』上巻34   〝為永春水 狂訓亭    本姓佐々木氏、長次郎と云、後鷦鵲正輔と改む。天保十三寅年七月十三日歿す、歳五十四。西本願寺地    中妙伝寺尼葬る(春水は元書賈にて、青林堂越前屋長次郎と云、初め式亭三馬門人三鷺と云、後二世振    鷺亭と号す。故人楚満人が女に乞ひて二代目楚満人となりしが、故有て其名を返し、文政十一子年、為    永春水と改む。居所数多替れり、初橘町、油町新道、又弁慶橋、牛島と移り、後下谷池の端に移り、又    多町二丁目に移る。中頃舌耕師と成り金龍山人と号す。天保十三年四月公より咎を蒙り、手鎖中に病死    す)〟    ☆ しゅんすい ためなが 為永 春水 二代    ◯『名人忌辰録』上巻35   〝為永春水【二世】    本名染崎延房、対州巌原藩士。狂訓亭の門に入りう、師歿後其称を襲ふ。性質素朴謹直なりき。明治十    九年九月廿七日歿す、歳六十四。坂本一丁目養玉院に葬る〟    ☆ しゅんまん くぼ 窪 俊満    ◯『名人忌辰録』下巻4   〝窪 俊満 尚左堂    通称易兵衛、始春海と云。画を魚彦、又重政に学び、狂文狂歌を著す。戯号南陀迦紫蘭。文政三年に歿    すと聞く〟     ☆ しゅれい やまもと 山本 守礼    ◯『名人忌辰録』下巻7   〝山本守礼 猶亭    名豫章、字子風、称数馬、平安の人。円山応挙に学び一家を成す。天保五午年六月廿日歿す、歳八十〟  ☆ じょうすいけん いしかわ 石川 畳翠軒 総誼  ◯『名人忌辰録』上巻5   〝石川畳翠軒 総誼    通称左金吾、三千石を領す。三田古川町に住し、松樹を愛す。蔵書数多の聞え高し。天保十二丑年五月    某日没す、歳三十八〟    ☆ しょうぞう はやしや 林屋 正蔵    ◯『名人忌辰録』上巻10   〝林屋正蔵 林泉    三笑亭可楽門人、楽我と云ふ、可龍又笑三とも正三ともいひ、後林屋正蔵と改む。怪談師の祖なり。天    保十三寅年二月六日歿す、歳六十二〟    ☆ しょうどう むらかみ 村上 松堂    ◯『名人忌辰録』上巻40   〝村上松堂 元篤    字士厚、京の人、峯(*ママ)駒の門。天保十二丑年九月廿四日歿す、歳六十六〟     ☆ しょうりんさんじん 松林山人    ◯『名人忌辰録』下巻30   〝松林山人 儼    長崎の人、江戸に来り、画を以て鳴る。晩年僧と成り諸州を周游し、江戸に帰る。俗称松林羽矢二。寛    政四子年八月十二日歿す、大川端東江寺に葬る。(此人沈南蘋・方西園が花鳥の画法を得て、筆跡世に    高し。浅草日音院の地内に掛堂をかまへ爰に終れり)〟    ☆ しょくさんじん 蜀山人    ◯『名人忌辰録』上巻20   〝太(*ママ)田南畝 蜀山人    名覃、字子耜、通称直次郎、後七右衛門、号杏花園、又巴人亭、遠桜山人、竹羅山人、南極老人。始め    狂歌の号を四方赤良といふ。文政六未年四月六日歿す、行年七十五。小石川白山本念寺に葬る。(南畝    は寛延二巳年三月三日生れ、牛込廿騎町、後小日向金剛寺下、又駿河台太田姫稲荷の向へ移り住す。初    め賀邸先生に学び、後観海先生に従学す。明和二年、御徒組へ出勤、寛政六年、聖堂学舎へ出、同八年、    支配勘定に転じ、同十一年大坂銅座へ出役、同十二年竹橋御書物調、文化元年、長崎出役、同五年、房    総出役、同七年職を辞す)法号杏華園心逸日休。     辞世 時鳥鳴つるかた身初松魚春と夏との入相のかね〟    〈寛政六年は学問吟味(官吏登用試験)に及第した年。大坂銅座に勤務したのは享和元年~翌二年にかけて。文化五年     の出張は房総ではなく多摩川の巡視〉    ☆ じょけい よこた 横田 如圭    ◯『名人忌辰録』上巻27   〝横田如圭 復庵    号盤礴居士、字大復如圭、又汝圭に作る。画家なり。天保十三寅年六月十八日歿す、歳七十八〟    ☆ しんな みつい 三井 親和    ◯『名人忌辰録』下巻27   〝三井親和 龍湖    字孺々、又号万玉亭、称孫兵衛、信州の人、細井広沢門人。天明二寅年三月七日歿す、歳八十三。深川    寺町増林寺に葬る〟    ☆ すいけい こまつばら 小松原 翠渓    ◯『名人忌辰録』下巻15   〝小松原翠渓    名貞、字廓大、号希唐菴。天保五午年十二月晦日歿す、歳五十六〟     ☆ すうげつ 嵩月    ◯『名人忌辰録』下巻5   〝観嵩月    英一峰門人、名常雄、天保元寅年十一月歿す。歳七十二。深川陽泉(*ママ)寺に葬る〟    ☆ すうげつ こう 高 嵩月    ◯『名人忌辰録』上巻32   〝高 嵩月 常雄    号景納、嵩谷門人。天保元寅年十一月廿日歿す、歳七十六〟    ☆ すうこく こう 高 嵩谷    ◯『名人忌辰録』上巻32   〝高 嵩谷 一雄    佐脇嵩之門人。楽只斎、翠雲堂、又屠龍翁の数号有り。文化元子年八月廿三日歿す、歳七十五。浅草西    福寺地中智光院に葬る〟    ☆ すうし さわき 佐脇 嵩之    ◯『名人忌辰録』下巻21   〝佐脇嵩之 一翠斎    名道賢、字子嶽、通称甚蔵、号果々観、又東窓翁。初代英一蝶の門人。安永元辰年七月三日歿す、歳六    十六。浅草誓願時地中称名院に葬る〟     ☆ すうせつ さわき 佐脇 嵩雪    ◯『名人忌辰録』下巻21   〝佐脇嵩雪 中岳堂    名貫多、称倉治、号仔止楼、嵩之の男。文化元子年十一月廿二日歿す、歳六十九。浅草誓願時地中称名    院に葬る〟     ☆ すえたか かも 加茂 季鷹    ◯『名人忌辰録』上巻27   〝加茂季鷹 雲錦    本姓山本氏、正四位下、安房守。天保十三寅年九月十八日卒す、歳九十一〟    ☆ すけただ にしかわ 西川 祐尹    ◯『名人忌辰録』上巻11   〝西川祐尹 得祐斎    祐信の男、通称祐蔵。宝暦十二午年八月廿五日歿す、歳五十七〟    ☆ すけのぶ にしかわ 西川 祐信    ◯『名人忌辰録』上巻11   〝西川祐信 自徳斎    通称右京、初名祐助。京の人。号文華堂。初め狩野永納の門人、後土佐光祐に学ぶ、自ら大和絵師と称    す。宝暦四卯年九月十一日歿す、歳八十一〟    ☆ すはらや もへい 須原屋 茂兵衛    ◯『名人忌辰録』下巻24   〝北圃(キタバタケ)恪斎    名恭、字仲温、北畠氏、紀州在田郡栖原村の人。天明二寅年八月十三日歿す、歳五十二。(貞享の頃、    書肆を江戸に開き、須原屋茂兵衛と称すること、恪斎に至る迄既に六世)〟    ☆ すみたゆう たけもと 竹本 住太夫    ◯『名人忌辰録』上巻34   〝竹本住太夫【初代】文雅    通称田中文蔵。文化七午年三月十八日歿す、歳五十二。西本願寺地中妙延寺に葬る〟    ☆ せいが まえだ 前田 青峨    ◯『名人忌辰録』下巻8   〝前田青峨 紫子菴    号二柳軒、始泰室、東都薬研堀に住す。水間沾徳派俳人。宝暦九辰年四月十六日歿す〟     ☆ せいざん まつうら 松浦 静山    ◯『名人忌辰録』下巻9関根只誠著・明治二十七年(1894)刊)   〝松浦静山 雪州    従五位下壱岐守、名清。文化三年十一月、総髪して号静山、後薙髪す。天保十二丑年六月廿九日卒、年    八十二。本所天祥寺に葬る〟font>    ☆ せいび なつめ 夏目 成美    ◯『名人忌辰録』上巻39   〝夏目成美 不随斎    通称井筒屋八郎右衛門。白雄門人。又書を善くす。文化十三子年十一月十九日歿す、歳六十四。山崎町    蓮光寺に葬る〟    ☆ せいべえ おか 岡 清兵衛     ◯『名人忌辰録』上巻18   〝岡 清兵衛 重俊    江戸和泉太夫の浄瑠璃作者、又金平本の作者、京操の作もあり、貞享四卯年七月没〟  ☆ せきてい たけもと 竹本 石亭    ◯『名人忌辰録』上巻34   〝竹本石亭    俗称又八郎、名正興。明治廿一年一月一日歿す、歳六十七。小石川光円寺に葬る〟    ☆ ぜしん しばた 柴田 是真    ◯『名人忌辰録』下巻30   〝柴田是真 令哉    称順蔵、字儃然、号枕流亭、鈴木南嶺門人。最初円山派、後一家を成す。明治廿四年七月十三日歿す、    歳八十五。浅草今戸称徳寺に葬る。     ☆ せったん はせがわ 長谷川 雪旦    ◯『名人忌辰録』上巻10   〝長谷川雪旦 一陽庵    名宗秀、一号厳岳斎、天保十四卯年正月廿八(*ママ)歿す、歳六十六。浅草田圃幸龍寺に葬る〟    ☆ せっかん さくらい 桜井 雪館    ◯『名人忌辰録』下巻23   〝桜井雪館    寛政二戌年二月廿二日歿す、歳七十四〟    ☆ せっけい くすもと 楠本 雪渓(宋紫石参照)    ◯『名人忌辰録』下巻5   〝楠本雪渓 宋紫石    字君赫、初熊斐に学び、後清人宗紫岩に画法を聞て一変す。天明六午年三月十三日歿す、歳八十二。東    本願寺地中宗恩寺に葬る〟    ☆ せっけい くすもと 楠本 雪渓 二世    ◯『名人忌辰録』下巻5   〝楠本雪渓【二世】紫山    紫石の男、文化二巳年十一月十九日歿す、歳七十三。寺同上(*東本願寺地中徳本寺)〟     ☆ せっけい くすもと 楠本 雪渓 三世    ◯『名人忌辰録』下巻5   〝楠本雪渓【三世】紫岡    紫山の男、名琳、字玉林、号聴松堂。嘉永三戌年六月六日歿す、歳七十。寺同上(*東本願寺地中徳本寺)〟    ☆ せっしん ふくおう 福王 雪岑    ◯『名人忌辰録』下巻13   〝福王雪岑 白鳳軒    御能役者、通称茂右衛門、名盛勝。英家の画を学ぶ。小川破笠の弟分となる。天明五巳年三月十八日歿    す。深川浄心寺に葬る〟     ☆ せってい つきおか 月岡 雪鼎    ◯『名人忌辰録』上巻36   〝月岡丹下 昌信    高田敬甫門人、浪華の人。号雪鼎、又信夫翁とも云ふ。天明六午年十二月四日歿す、歳七十七。本姓は    水田氏大坂に住せり〟    ☆ せってい はせがわ 長谷川 雪堤    ◯『名人忌辰録』上巻10   〝長谷川雪堤    名宗一、字松斎、雪旦男、明治十五年六月十五日歿す、歳六十四。浅草幸龍寺に葬る〟    ☆ せつどう はせがわ 長谷川 雪洞    ◯『名人忌辰録』上巻10   〝長谷川雪洞 等運    名信行。安永九子年九月五日歿す、浅草崇福寺に葬る〟    ☆ せんか りゅうりゅうてい 笠々亭 仙果    ◯『名人忌辰録』上巻16   〝笠々亭仙果    初代仙果門人。通称篠田久次郎と云ふ。初め万石亭積丸。明治十七年三月五日歿す、歳四十八。広徳寺    地中に葬る〟     ☆ ぜんこう しば 芝 全交    ◯『名人忌辰録』下巻30   〝芝全交 交遊    通称山本藤十郎と云ふ、大蔵流の狂言師なり。西の久保神谷町に住す。寛政五丑年六月十八日歿す〟    ☆ ぜんこう しば 芝 全交 二世    ◯『名人忌辰録』下巻30   〝司馬全交【二世】普米斎    名林信、号藍亭、又米斎。文政八酉年五月二日歿す、歳五十一〟    ☆ せんりゅう りょくてい 緑亭 川柳 初代    ◯『名人忌辰録』上巻16   〝緑亭 川柳 初代    前句附、川柳点の組、浅草新堀阿部川町里正。通称柄井八右衛門。寛政二戌年九月廿三日歿す、歳六十    三浅草新堀龍宝寺に葬る〟    ☆ せんりゅう りょくてい 緑亭 川柳 五代    ◯『名人忌辰録』上巻16   〝緑亭 川柳 五代    五代目川柳の子、俗称金次郎。後金蔵、狂名田作り、明治十五年六月十五日歿す、歳六十九。西本願寺    に葬る。みめぐりの碑に「つまらぬといふはちいさな知恵袋」〟    ☆ せんりょう きくおか 菊岡 沾涼    ◯『名人忌辰録』下巻26   〝菊岡沾凉 崔下菴     内藤露沾門人、通称藤兵衛、名房行、号南仙斎、伊賀上野の人。延享四卯年十月廿四日歿す、歳六十二。    浅草誓願寺に葬る〟    ☆ そうえん さくま 佐久間 草偃    ◯『名人忌辰録』下巻23   〝佐久間草偃 艸顕    名顕、字叔徳、松村呉春門人。安政元寅年四月廿六日、奥州棚倉にて歿す、歳八十七〟    ☆ そうきゅう なりた 成田 蒼虬    ◯『名人忌辰録』上巻37   〝成田蒼虬 対塔菴    天保十三寅年三月十三日歿す。歳八十三〟    ☆ そうずい なかがわ 中川 宗瑞 初代    ◯『名人忌辰録』上巻38   〝中川宗瑞 白兎園    通称三郎兵衛。延享元年子七月晦日歿す、歳六十。下谷幡随院に葬る〟    ☆ そうずい なかがわ 中川 宗瑞 二代    ◯『名人忌辰録』上巻38   〝中川宗瑞【二世】    広岡氏一叟と号す。通称戸太夫。明和九年八月九日歿す。音羽本浄寺に葬る〟    ☆ そうずい なかがわ 中川 宗瑞 三代    ◯『名人忌辰録』上巻38   〝中川宗瑞【三世】    松井忠吾、目匂山人と号す。文化十一年二月十五日歿す。雑司ヶ谷真乗寺に葬る〟    ☆ そうすけ なみき 並木 宗輔    ◯『名人忌辰録』上巻40   〝並木宗輔 市中庵    通称松屋宗助、後号を舎柳と改む。寛延三年巳九月七日歿す、歳五十七。(始田中千柳と云。元祖一鳳    門人。竹本座の作者と成り並木と改む)〟    ☆ そうちょう たけべ 建部 巣兆    ◯『名人忌辰録』上巻34   〝建部巣兆    号秋香菴、江戸千住に住す。一号松甫、又黄雀菴。白雄門人。書画及俳諧を能す。文化十一戌年十一月    十七日歿す。浅草日輪寺に葬る〟     ☆ そうみん よこや 横谷 宗珉    ◯『名人忌辰録』上巻27   〝横谷宗珉    友常、号遯庵、通称長次郎、宗与養子、家世々彫刻を業とす。享保十八丑年八月六日歿す、歳八十三、    東本願寺中等覚院に葬る〟    ☆ そけん やまぐち 山口 素絢    ◯『名人忌辰録』下巻7   〝山口素絢    円山応挙門人、文政元寅年十月廿四日歿す、歳六十〟    ☆ そせん もり 森 狙仙    ◯『名人忌辰録』下巻35   〝森狙仙 守象    字叔牙、浪華西宮の人、初め祖仙、後狙仙とかく。文政四巳年七月廿一日歿す、歳七十五〟    ☆ そまひと なんせんしょう 南仙笑 楚満人    ◯『名人忌辰録』上巻39   〝南仙笑楚満人    通称楠彦太郎、始手跡師、後宇田川町に住し書肆と成る。文化四卯年三月九日歿す、歳五十九。西久保    心光院に葬る〟    ☆ だいばい こじま 小島 大梅    ◯『名人忌辰録』上巻29   〝大梅居大梅    通称小島酉之助、号梅外、下野人。天保十二丑年五月廿九日歿す、歳七十。浅草寺地中修善院に葬る。     辞世 七十やあやめの中の枯尾花〟    ☆ たかみ むねあげの 棟上 高見    ◯『名人忌辰録』下巻19   〝扇屋宇右衛門 墨河    本姓鈴木氏、号五明楼、娼家に楼号を付けし始なり。狂名棟上高見と云、寛政十三酉年正月十一日歿す、    歳五十八。浅草常福寺に葬る。(扇屋は江戸吉原江戸町一丁目に住みし妓楼の大見勢を好み、風雅に心    を委ね身を慎み行を正し、抱へ遊女等を遭するに慈愛あり、家の妓女には花扇瀧川など尤名高し。是等    の妓女皆手跡よく歌をもよみたり。墨河の奨めにて千蔭東江などを師とせしによる高尚雅麗なりとの世    評高かりき。寛政六年の春、本石町河岸に飯田屋文之助と云若者あり。花扇と馴染て勘当の身となり。    花扇の情義にて浅草山の宿に仮住居させ置きしが、逢ふせの絶間あるをかこちて、ある夜、花扇は姿を    かへ、大門をぬけ出でゝ忍びて文之助の許に至り、共にかけ落して行くへ知れざりしを、様々尋ねて主    家に戻しぬ。然るに花扇は其夜より病気と称し籠り居て勤めせず。墨河さま/\いたはり諭して「散ら    さじとしめし心もしら梅のかばかり風の吹きつのるらん」と詠じて遣しければ、花扇もさすがに恥ぢ、    且感涙を流して「ちらさじとしめし垣根の梅の花また来る春に咲かざらめやは」と返歌して元の如く勤    めしとぞ)〟    ☆ たづまる あしべの 蘆辺 田鶴丸    ◯『名人忌辰録』下巻25   〝橘庵田鶴丸    唐衣橘州の門人、狂名蘆辺田鶴丸、俗称次郎兵衛、天保六未年十月六日溺死す。歳七十七〟    ☆ たつみやそうべい 辰巳屋惣兵衛    ◯『名人忌辰録』上巻32   〝辰巳屋惣兵衛 踊狂    小石川伝通院前の茶店。文政四巳年十月廿四日歿す、歳八十八。同所久保町慈照院に葬る。法名快楽遊    仙人(翁の葬送の時のさま、真先は此頃流行せるかん/\の唐人踊り也、夫より唐人のねりもの数人管    弦にて西道と書たる幟四本、棺の前後に押立、棺の上にはうるはしき振袖を掛け道をねり行く、観る者、    猪の如し、斯て寺に至ればきやり歌にて葬りしと云、実に此翁昔より年毎の祭りにおかしきさまして踊    り興じたり。此頃の一奇人也。踊狂の名は蜀山より送りしなり。此頃の人は老若の異様に化粧せしを見    ては、辰巳屋のやうなりなどいひたる程にもてはやせれし江戸の名物也)〟     ☆ たにかぜ 谷風    ◯『名人忌辰録』上巻30   〝谷風梶之助 守胤    本性増田氏、幼名与四郎。寛政七卯年正月九日歿す、歳四十八。高輪東漸寺に葬る(谷風は奥州宮城郡    霞目村の産。寛延二巳年八月八日生る。明和四年十九才にして相撲となり、秀の山と名乗る、後伊達ヶ    関と改め、安永五年二月、谷風梶之助守胤と号す。寛政元年酉十一月廿九日、日之下開山となりて、横    綱免許。角力年中行事に八年の間三都中にて組合、弐百弐拾番此中にて十一勝負に頭取預り、無勝負廿    七番、勝百八十三番と云。身の丈六尺三寸、重さ四十八貫目、腰めくり七尺余)〟     ☆ たねかず りゅうかてい 柳下亭 種員    ◯『名人忌辰録』上巻16   〝柳下亭種員    本姓坂倉氏、幼名金次郎。又万太郎とも云ふ。後通称坂本屋新七、始め酒売、後小間物商、又書估とも    なりしが、乾坤坊良斎の弟子となりて紀ノ海音と名のり講談の席にも出でたり。後柳亭種彦の門に入て    種員と改む。安政五午年八月廿一日歿す、歳五十二。深川霊厳寺地中安禅寺に葬る〟    ☆ たねひこ りゅうてい 柳亭 種彦    ◯『名人忌辰録』上巻16   〝柳亭種彦 足薪翁    通称高屋彦四郎。幕府の旗本二百俸を賜る。名知久、戯号愛雀軒亦偐紫楼。狂名柳の風成。作名、初め    三彦、後種彦と改む。天保十三寅年七月十八日歿す【実は十三日】歳六十。赤坂浄土寺に葬る〟    ☆ たねひこ りゅうてい 柳亭 種彦 二世    ◯『名人忌辰録』上巻16   〝柳亭種彦【二世】仙果    通称高橋弥太郎、尾州熱田神官、名広道。戯号笠亭仙果、号狗々山人、貂録翁、後種彦と称す。初代の    親戚及び柳門より種彦の名を止めらる、依て柳亭種秀と改む。慶応四辰年二月九日歿す、歳六十三。本    所東盛寺に葬る〟    ☆ たねひこ りゅうてい 柳亭 種彦 三世    ◯『名人忌辰録』上巻16   〝柳亭種彦【三世】藍泉    本姓高畠、通称瓶三郎。幕府の坊主衆。浅草七軒町組屋敷に生る。画を高橋波藍に学びて藍泉と云ふ。    戯作を好み転々堂と号す。明治十五年一月、三世種彦と改む。明治十八年十一月十八日歿す。歳四十八。    浅草松葉町正定寺に葬る〟    ☆ たまがき 玉垣    ◯『名人忌辰録』上巻33   〝玉垣額之助    角力年寄、もと士籍より出でたりといふ。其故か人品よかりき。明治十四巳年八月廿五日歿す、歳六十    九〟    ☆ たまぎく 玉菊    ◯『名人忌辰録』上巻33   〝玉菊【遊女】    新吉原角町中万字屋勘兵衛抱、本名たね。享保十一午年三月廿九日歿す、歳二十五。浅草光感寺に葬る。    (光感寺の墓碑には、光岸明秀信女。宝永元年甲申五月十九日とあり)〟     ☆ だるまや ごいち 達磨屋 語一    ◯『名人忌辰録』上巻31   〝達磨屋語一 蛙麿    本姓岩本氏、号花の屋、亦無物閑人、前名伊三郎。明治元辰年七月十八日歿す、歳五十二。赤坂一ッ木    浄土寺に葬る〟    ☆ だんご ももたろう 百多楼 団子    ◯『名人忌辰録』下巻35   〝百多楼団子    俗称茂吉郎、又号子遊庵、落語家なり。文政十亥年九月廿一日歿す、年六十二。     辞世 けふの身の千秋楽と先の世の席へ行くには日延だになし〟    ☆ ちがげ かとう 加藤 千蔭    ◯『名人忌辰録』上巻24   〝加藤千蔭    枝直の男、通称又左衞門、号芳宜園、又耳梨山人、逸楽窩江翁等の号有り。真淵門人。近世和歌の名人    と称せらる。文化五辰年九月二日歿す、歳七十二本所回向院に葬る〟     ☆ ちくこく よだ 依田 竹谷    ◯『名人忌辰録』上巻28   〝依田竹谷 名瑾、号凌寒道人、又三谷菴、画人。天保十四卯年四月七日歿、歳五十四〟    ☆ ちはる たかしま 高嶋 千春    ◯『名人忌辰録』上巻32   〝高嶋千春    画有職に精し。号融斎、又鼎湖、称寿一郎。安政六未年十一月十一日歿す、歳八十。浅草雄念寺地中願    寿寺に葬る〟     ☆ ちぶみ おおくら 大蔵 千文    ◯『名人忌辰録』下巻6   〝山岡俊明    俗称左治右衛門、山岡道阿弥末孫、幕下の士にて四百石賜る。安永九子年十月十五日歿す、歳六十九。    江戸菩提寺は麻布藪下龍沢寺なり(俊明剃髪隠居して明阿弥陀仏と云、狂名大蔵千文と称す。安永九年    四月微行して京都の遊び病死す。江州三井寺は山岡氏の祖道阿弥の墳地なり、依て道阿弥の墓の側に葬    す)〟    ☆ ちょうしゅん みやがわ 宮川 長春    ◯『名人忌辰録』下巻28   〝宮川長春 春旭堂    称長左衞門、尾州の人。宝暦二申年十一月十三日歿す、歳七十一。(長春は尾州宮川村の人。正徳年間    江戸両国広小路に住す。土佐家門人、菱川氏の風を慕ふ。長春曾て狩野家の下請負をなして、日光御用    を勤め中口論なし、狩野の門弟等大勢にて長春を打擲し、其上荒縄にていましめ芥溜に入置く、然るに    宮川宅にては帰宅せざる故、其子尋に出て父を芥溜より助け帰り、姓(*ママ)命別條なしといへども、老    人の事故、足腰いたみ難渋の体を見て、其子大に怒り一刀を携へ、狩野の家に切込み三人切殺す。依て    其子は死罪、長春は流罪、狩野家は闕所となり、其後長春は御赦免を得、本所に住す。此頃門人春水等    は上を憚り恐れて、氏を勝宮川と改む。延寛日記五の巻に、寛延三年午十二月廿九日、八丁堀同心町に    住める同業宮川長春といへる者、払方金子の儀に付、段々申募り候処、春賀家内にて長春を取すくめ候    儀を、忰長助承り早速走付、家内大勢に手を負せ、内両人即死、自分は自殺致候云々)〟    ☆ ちんざん つばき 椿 椿山    ◯『名人忌辰録』上巻35   〝椿仲太 椿山    名弼、字篤甫、号琢華堂。幕府の先手同心たり。始め金子金陵の門、後華山に学ぶ。安政元寅年閏七月    十三日(表向九月十日)歿す、歳五十四。牛込円福寺に葬る〟    ☆ ちんちょう はねかわ 羽川 珍重    ◯『名人忌辰録』上巻8   〝羽川珍重 三同    真中氏、名仲信、俗称太田幹五郎【太田ハ川口邑ノ旧名】号宣観居士。鳥居清信の門人。宝暦四戌年七    月廿二日歿す、歳七十六。下谷池端東淵寺に葬る〟    ☆ つうしょう いちば 市場 通笑    ◯『名人忌辰録』上巻2   〝市場通笑 橘雫    名は寧一、字子彦、俗称小平次。塩町に住す。もと経師屋にして、戯作を好めり。文化九申年八月廿七    日歿す、歳七十四。浅草祝言寺に葬る、法号覚具法念〟    ☆ つゆのごろうべい 露の五郎兵衛    ◯『名人忌辰録』上巻36   〝露の五郎兵衛    軽口話しの祖とも称すべき人。元禄十六年未五月歿す、歳六十一〟    ☆ つるぎやまたにえもん 剣山谷右衛門    ◯『名人忌辰録』上巻36   〝剱山谷右衛門    始鰐石文蔵、後二十山要石衞門と改む。嘉永五年子正月朔日歿す、歳五十三〟    ☆ ていさ くわおか 桑岡 貞佐    ◯『名人忌辰録』下巻4   〝桑岡貞佐 桑々畔    通称平三郎、初名了我、号平沙、江戸の人。其角門、俳人。享保十九寅年、九月十日歿す、歳六十五。    本所法恩寺に葬る〟    ☆ ていさ なかがわ 中川 貞佐    ◯『名人忌辰録』上巻38   〝中川貞佐 姓水原ともいへり。号一寸軒、又自短頭翁。俳諧を能くせり。延享四卯年十二月六日歿す、    歳六十八。河東法林寺に葬る〟     ☆ てんじゅ かん 韓 天寿    ◯『名人忌辰録』上巻37   〝中川長四郎 韓天寿    号酔普斎、伊勢の人、烏石門人、韓氏。寛政七年寅三月廿三日歿す、歳六十九〟    ☆ でんぜん あおうどう 亜欧堂 田善    ◯『名人忌辰録』上巻38   〝永田田善 亜欧堂 通称永田善吉。岩代国岩瀬郡須賀川駅の人にて紺屋業なり。江戸に出て司馬江漢の    門人に入り、銅版画の祖と称す。本画は谷文晁門人。文政五年午五月七日歿す、歳七十二〟    ☆ どうえい たなか 田中 道栄    ◯『名人忌辰録』上巻32   〝田中道栄    通称太兵衛、神田弁慶橋に住し、狂歌を嗜めり。文政八酉年二月六日歿す、歳八十。下谷金杉世尊寺に    葬る。     辞世 今迄の業も勤もつきはてゝ嬉しく替るもとの古郷〟     ☆ とうきゅう うちだ 内田 陶丘    ◯『名人忌辰録』下巻1   〝内田陶丘 廷輝    本姓渡辺、内田に改む。文化五年三月七日歿す。歳四十八。広尾光林寺に葬る〟    ☆ とうこう さわだ 沢田 東江    ◯『名人忌辰録』下巻20   〝沢田東江 源鱗    名鱗、字文龍、初名景瑞、称文二郎、号玉島山人、高頥斎門人、書を能くす。寛政八辰年六月十五日歿    す、歳六十五。東本願寺に葬る〟    ☆ とうさく へづつ 平秩 東作    ◯『名人忌辰録』上巻13   〝平秩東作 東蒙山人    立松氏、字子玉、号嘉穂庵、名は懐之、俗称稲毛屋金右衛門。尾州の人、元内藤新宿旅籠屋、後烟草商。    寛政元酉年三月八日歿す、歳四十二。市谷善慶寺に葬る。法号釈宗専〟    ☆ どうちき なるしま 成島 道筑    ◯『名人忌辰録』上巻37   〝成島道筑 鳳卿    名信遍、字帰徳、号芙蓉道人、又錦江。成島道雪養子、宝暦十年辰九月十九日歿す、歳七十二。本所本    法寺に葬る〟     ☆ とうどう なかい 中井 董堂    ◯『名人忌辰録』上巻38   〝中井董堂 敬義    通称嘉右衛門、号春星、又小笠宜松。文政四巳年七月廿六日歿す、歳六十四、西本願寺地中浄見寺に葬    る(敬義は其かみ腹唐秋人といへる狂歌師なり。一とせ夏日団扇に「定九郎こざるに暗の与一兵衛ひと    りで行はあぶなかん平」といふ狂歌して人々に贈れり詩歌俳能狂言をも善くせり)〟    ☆ とうりさんじん 東里山人    ◯『名人忌辰録』上巻14   〝東里山人 鼻山人    通称細川浪次郎。幕府の与力麻布三軒家に住す。戯作は京伝門人、号九陽亭、後奇方伝授屋となる。安    政五午年三月廿五日没す、歳六十八〟    ☆ とうれつ やまさき 山崎 董烈    ◯『名人忌辰録』下巻7   〝山崎薫(*ママ)烈 莆田    号槐雲堂、本姓井戸氏。天保八酉年正月廿九日歿、歳五十二〟    ☆ とくしょう ごりゅうてい 五柳亭 徳升    ◯『名人忌辰録』下巻14   〝五柳亭徳升 戯楽    通称関根甚蔵、家号豊島屋、鎌倉河岸に住せし紙商なり。後貸本商と成る。又典山門人山楽と云て、講    釈師と成り、其後御肴役所書役となれり。嘉永六巳年七月廿五日歿す、歳六十一〟    ☆ とくもとしょうにん 徳本上人    ◯『名人忌辰録』上巻14   〝徳本上人    紀州日高郡志賀谷櫛村の農、田伏三太夫の子、廿七歳にして出家し、同郡往生寺大円に従ひ、剃髪し徳    本と称す。文化十五寅年九月廿七日迁化、年六十一。巣鴨一行院に葬る。清浄菩薩現身如来と謚す。    「我庵は草履のうへに笠の下杖を柱と墨染のそで」の歌、人口に膾炙す〟    ☆ とつげん たなか 田中 訥言    ◯『名人忌辰録』上巻32   〝田中訥言 大孝斎    名痴、字虎頭法橋に叙せらる。尾張の人、平安に住す。古画の風致を得しは此人を魁とす。文政六未年    三月廿一日歿す〟    ☆ とよくに うたがわ 歌川 豊国 初代    ◯『名人忌辰録』下巻2   〝歌川豊国 一陽斎    俗称熊吉、歌川豊春の門人、文政八酉年正月七日歿す、歳五十七。三田聖坂功運寺に葬る〟    ☆ とよくに うたがわ 歌川 豊国 三代    ◯『名人忌辰録』下巻2   〝歌川豊国【二世(ママ)】香蝶楼    通称角田庄蔵、始め号一進斎、後一陽斎、又五渡亭、樹園、月波楼、富堂山人、富眺庵等の号有り。元    治元子年十二月十五日歿す、歳七十九。本所亀戸村光明寺に葬る。(此翁は初代豊国門人にて、初名国    貞。父は角田庄兵衛、俳諧を能くし五橋亭琴雷と云ふ。天明七未年八月十六日歿す、歳六十九。国貞、    本所五ッ目に在りて渡舟の株式を所有する、故に五渡亭の号あり。(蜀山人此号を送りしと云ふ)又天    保四年より英一桂の門に入て英一蝶と号す(香蝶楼と号するも一蝶が字詰め信香の香と一蝶の蝶をとり    て名づけたるよし)近来浮世絵の名人と称す。文化の初年、亀戸村に移住す。天保十五年正月、師一陽    斎豊国の号を嗣ぎ、二世豊国と称す。曩に一龍斎国重、故豊国の号を嗣て二世と称し夭死す、故に国貞    は則三世豊国なり。弘化二年春、薙髪して肖造と改め、亀戸村の居を門人国久(次女の婿)に譲り、柳    島に隠居す。因に云、国重、文政の末、故豊国の後家に通じて此名を貰ひ二世豊国と名乗る、此時にや    或人の吟に「歌川をうたがはしくも名のりえて二世の豊国贋の豊くに」かくて同門一同不承知にて遂に    素人と成り本郷三丁目に住し瀬戸物商をなす)〟    ☆ とよのぶ いしかわ 石川 豊信    ◯『名人忌辰録』上巻4   〝石川豊信 秀葩    俗通糠屋七兵衛。小伝馬町に住し、旅人宿と業とす。六樹国雅望の父なり。天明五巳年五月廿五日歿、    年七十五。浅草黒船町正覚寺に葬る(豊信は浮世画師西村重長に従ひて絵を学び、宝暦の頃紅絵を描き    て名誉ありき。性質温和謹直にして酒楼に登らず、娼門に入らず。然れども男女の風俗情態を写すに至    て、頗る真に迫りて遊閲に通ぜしものゝ如くなりきとぞ)〟    ☆ とよのぶ うたがわ 歌川 豊宣    ◯『名人忌辰録』下巻2   〝歌川豊宣     明治十九年八月十日歿す、歳二十九〟     ☆ とよはる うたがわ 歌川 豊春    ◯『名人忌辰録』下巻2   〝歌川豊春 一龍斎    俗称但馬屋庄三郎。別号潜龍斎。歌川流の祖。文化十一戌年正月十二日歿す、歳七十八。浅草菊屋橋本    立寺に葬る。本所押上春慶寺にも碑有り。(豊春は豊後臼杵の人。京師に来て鶴沢探鯨を師とす。後江    戸に来て石川豊信の門に入り流行す。時装を画き一家を為せり。又操芝居土佐結城両座の看板を画く、    是安永中の事なり。始め芝三島町に住し、後剃髪して潜翁と改め、赤坂田町に住す)〟    ☆ とよひろ うたがわ 歌川 豊広    ◯『名人忌辰録』下巻2   〝歌川豊広 一柳斎    俗称藤次郎、豊春門弟、江戸の人、芝片門前に住し、生涯役者を画かず。又草双紙合巻の長篇類を画き    しは豊広に始る。文政十一年子五月廿三日歿す、歳五十六。(著作堂雑記には六月廿日歿す、廿二日葬    送、年六十余とあり)〟    ☆ とらく みやこや 都屋 都楽    ◯『名人忌辰録』下巻29   〝都屋都楽 亀徳    三笑亭可楽門人、初三笑亭都楽、後都屋、又亀屋とも云ふ、うつし絵の元祖。嘉永五子年十二月廿七日    歿す、歳七十三。浅草報恩寺中光照寺に葬る。(都屋都楽は小石川伝通院門前の生れにて、上絵職高松    熊吉と云ふ。元素人咄のむれに入り、又茶番狂言鳴物を好み、諸方を遊びあるきてありしが、爰に享和    元年春、上野山下へ阿蘭陀ヱキマン鏡とて見世物小屋出来たり。是は舞台やうの物しつらひ五尺程向ふ    の方へ正面に美濃紙八枚継ぎ位のもの掛物様にぶら下げ、此内に色々の絵をさし入れて見しむ。人々珍    らしく思ひ、日々大勢の見物にて評判高かりし。或日熊吉も見物して面白く思ひ、又翌日も見物せしに、    品々替りたる画姿を視て、種々の技芸に感服し、如何もして是を学ばんと日々見物して、遂に此仕方を    発明し、知れざる処は其道の人に尋ね、又飯田町辺に住める高橋玄養は朋友にて、倶に此技を好みけれ    ば(此人蘭科医師玄荘の子なり)終に薬用を伝授せられ、元上絵師なれば、自ら画をかきて写したるに    思ひのまゝに出来しかば、是より猶工夫をこらし、右画中に彩色を加へ、其外火焔の光りを発明し、自    ら口上を述べ、又唄ひて所作を写しゝに、玄養是を見て大に感じ、此中へ鳴物を加へたらんには、又一    層面白からんとすゝしめしかば、夫に習ひ鳴物に合せ、亦口上も福助の人形を出し、又はお岩の怪談の    すごみなどして見せければ、諸人も驚き或は不思議なりといへり。中には魔法遣ひなり抔と種々の噂高    く、是れらの為諸方に招かれて大に利得を得たり。遂には三笑亭の門に入り、都楽と名乗りて始めて、    牛込神楽坂春井といへる茶店にて木戸銭廿文と記し出席さり。享和三年三月なり)〟    ☆ ないし ちえの 智恵 内子    ◯『名人忌辰録』上巻15   〝智恵ノ内子    元の木網の妻、俗称通女、狂歌を嗜む。文化四卯年五月廿日歿す、歳六十三。深川正覚寺に葬る〟    ☆ ながね しゃくやくてい 芍薬亭 長根    ◯『名人忌辰録』下巻31   〝芍薬亭長根 喜三二    本阿弥光悦七世孫、刀剣鑑定と業とす。幼名三太郎、後次郎右衛門と云ふ。享和二年、狂歌を好み狂文    を善くし、喜三二の称をつぐ。弘化二巳年二月十日歿す、歳七十八。谷中妙法寺に葬る〟    ☆ なひこ かとり 楫取 魚彦    ◯『名人忌辰録』上巻4・24   〝稲生魚彦    通称茂右衛門、楫取氏、常州香取の人、加茂真淵の門人。天明二寅年三月廿三日没す、歳六十。同郡牧    野村観福亭に葬る〟   〝楫取魚彦 茅生庵    本姓稲生氏、茂右衛門、下総香取の人。加茂真淵門人。天明二寅年三月廿三日歿す、歳六十〟    ☆ ならやもざえもん 奈良屋茂左衞門    ◯『名人忌辰録』上巻39   〝奈良屋茂左衞門 我泰    姓神田氏、幼名戌松五十七才の時剃髪して安休と云ふ。享保十巳年九月三日歿す。歳六十三。深川霊岸    寺塔中雄松院に葬る〟    ☆ なんざん なかがわ 中川 南山    ◯『名人忌辰録』上巻38   〝中川由儀 南山    字茂、号不騫斎、又若海。文政八年酉八月九日歿す。歳七十二。浅草唯念寺に葬る。     辞世 愚知といふ心に心まとはれて此世の別れ今ぞしりぬる〟    ☆ なんぼく つるや 鶴屋 南北 四代    ◯『名人忌辰録』上巻36   〝鶴屋南北【四世】北寿    通称伊之助、金井三笑の門に入り、狂言作者となり、始め勝俵蔵と称す。文政十二年丑十一月廿七日歿    す、歳七十五。本所押上春慶寺に葬る(鶴屋南北と名のる者数人あり、前三代は俳優道化方なりしが、    四代に至り、始て狂言作者となる。四世南北は幼名源蔵、後伊之助、父を伊三郎とて紺かきの形付を業    せり。安永四年金井三笑の門に入り、勝俵蔵と称し、後故有て鶴屋南北の名跡を嗣ぐ。演劇脚本を作る    こと五十余年、佳作多し。又稗史の作も有て、姥尉助と書名せり。高砂町に住みたるに因て也)〟    ☆ なんぼく つるや 鶴屋 南北 五代    ◯『名人忌辰録』上巻36   〝鶴屋南北【五世】可祐    四代目南北孫、称孫太郎。嘉永五子年正月廿一日歿す、歳五十七。深川寺町心行寺に葬る〟    ☆ なんぼく とうざいあん 東西庵 南北    ◯『名人忌辰録』上巻14   〝東西庵南北     剞劂師にて、始め本所竹町に住す。通称朝倉力蔵、後に藤八と改む。後芝金杉に移れり。戯作を好みて    著書もあり。文政十亥年七月歿す〟     ☆ なんがく わたなべ 渡辺 南岳    ◯『名人忌辰録』上巻22   〝渡辺南岳    円山応挙門人。平安の人。字維石。文化十酉年正月廿四日歿す。歳四十七〟     ☆ なんれい すずき 鈴木 南嶺    ◯『名人忌辰録』下巻38   〝鈴木南嶺 観水軒    名順、字子信、称猪三郎、東洋門人。始め月僊門人。弘化元辰年十月十二日歿す、歳七十。深川雲光院    に葬る。法号俊功院赫誉南嶺居士〟     ☆ にしみやしんろく 西宮新六    ◯『名人忌辰録』上巻40   〝楽亭西馬    通称西宮新六、号西窓庵。安政五午年八月十四日歿す、歳六十〟    ☆ にそうじ みますや 三升屋 二三治    ◯『名人忌辰録』下巻29   〝三升屋二三治、思声    狂言作者、通称伊勢屋宗三郎、姓青地、俳号和島、後栄思、又思声といへり。安政三辰年八月五日歿す、    年七十二。深川亀住町心行寺地中正寿院に葬る。(二三治の家は浅草瓦町二番組札差、五代目伊勢屋四    郎左衞門(本姓青地氏、米蔵宿の起立人にして旧家なり。人悪言して乞食四郎と云ふ)の出見世にして、    同町西側に住す、此二三次事、弐代目宗三郎実子、幼名宗蔵と云、母は其頃富家の聞え高かりし三平八    の(三平八と云へるは、則、渡辺平八、松本平八、水野平八なり)一人、水野平八が女ちせ(此頃評判    の美人にて錦絵にも出でしと云ふ)当家へ嫁して男子一(*ママ)人を生めり。惣領は宗蔵(是二三次也)    二男宗吉(放蕩にして家出をなし後、画人となり名を月松と呼べり)女は早世す。長男宗蔵は文化元年    家督して三世伊勢屋宗三郎と改め家相続せり。妻は金座改役後藤四郎兵衛弟只吉女、ことをいへるを迎    へぬ。これに男女出生す。男は後四代目宗三郎と成り、娘は早世す。又妻ことは文化五年閏六月晦日歿    す、歳廿三。実母ちせは七代目団十郎を贔屓して折々出入せしとぞ。宗三郎(二三次也)も時々三升宅    へ行て遊びくらしける内、遂に吉原抔にも遊び放蕩の身と成り、此頃全盛の噂高かりし角海老楼の遊女    大井といへるに馴染、妻歿後身を購ひて出廓させ妻とせり。此頃より戯場の作者に成らむと望み、三升    を頼みて、文化九年、市村座へ名前を三升屋二三次と出せしが始なり(此時は未だ芝居へは出勤せず)    翌十酉年二月、三座の作者并囃子方の者七十人余を山谷の八百善へ招き、振舞と号し歌妓其他にて百人    斗りの人数を集め、近辺の座敷迄借切宴会せし費二百金余も散財せりと云ふ。此事市中にて専ら噂とな    りしより、本家伊勢屋四郎并親類は以の外の立腹にて、終に文化十二年三月中、北町奉行所永田備後守    役所へ、宗三郎事久離御帳付相願、同四月聞届けられ、忰宗蔵相続して宗三郎と改め、幼年に付後見人    相添、爰に於て宗三郎(三代目)名跡は取上げ、本名を改め二三治と名乗り、一家親類義絶の上、本宅    近辺へ立廻り申間識とて、聊かの分金を貰ひ、大井を連れて本所亀沢町へ転居す。此翌年大井は死す。    其後深川仲町の芸妓きくといへるを妻とせり。此者に男子三人女四人出生す。此内二男捨吉は幼少の折、    清元延寿太夫(後太兵衛)へ養子と成り、栄寿太夫と改め芝居へも出勤し評判もよかりしが、嘉永の始    め離縁と成り、葺屋町新道に移り、永寿と名乗り稽古を業とせり。此頃は二三治も零落して此に同居せ    り。然るに永寿は嘉永四年五月歿し、又実家瓦町の家も他へ譲りて黒舟町へ引移り、追々衰弊して札差    の株も同組の鹿島利助へ譲渡し、是にて宗三郎の家は絶えたり。二三治作者としての履歴は、文化十三    年子の顔見世より桐座にて二枚目と成り、文政十巳年十一月より河原崎座にて立作者に進み、嘉永元申    年春、市村座興行の砌より退座、出勤凡三十七ヶ年なり。二三治の素姓知る人稀なれば言長けれど記す)〟    ☆ にょごがしま 女護嶋    ◯『名人忌辰録』上巻31   〝高橋与市 女護嶋    名閔慎、字正卿、称八丈島屋、歳十一才にて島を出で、廿八にて学に志し、東江源鱗の門に入る。文政    五年十二月十三日歿す、歳七十。西本願寺中に葬る〟     ☆ ばいいつ やまもと 山本 梅逸    ◯『名人忌辰録』下巻7   〝山本梅逸    名亮、字明卿、尾張の人。京師に出て一家を成す。安政四巳年正月二日歿す、歳六十八〟    ☆ ばいがい ととき 十時 梅厓    ◯『名人忌辰録』上巻13   〝十時梅厓 顧亭    名半蔵、浪花の儒者、又書画を能くす。忍頂寺梅谷の父。文政元子年正月廿五日没す、歳七十二〟    ☆ ばいけい かぶらぎ 鏑木 梅渓    ◯『名人忌辰録』上巻26   〝鏑木梅渓    通称弥十郎、名世胤、字君冑、長崎の人、画家なり。享和三亥年正月二日歿す、歳五十四、三田長運寺    に葬る〟    ☆ ばいりさんじん 梅里山人    ◯『名人忌辰録』上巻33   〝陶梅里 梅里山人    名酉、字沖巳、本所中の郷に住める瓦方用達なりしが、画を好み、山水花卉を画くを得意とせり。寛政    十午年六月廿八日歿す、歳六十五。中の郷成就寺に葬る〟    ☆ ばきん きょくてい 馬琴 曲亭    ◯『名人忌辰録』上巻34   〝瀧沢馬琴 篁民    通称清左衞門。後瑣吉、名解、号著作堂、又曲亭、玄同陳人、簑笠隠居。嘉永元申年十一月六日歿す、    歳八十二。小石川茗荷谷深光寺に葬る〟    ☆ ばこく もりかわ 森川 馬谷    ◯『名人忌辰録』下巻35   〝森川馬谷    俗称伝吉、馬場文耕門人、軍談師なり。寛政三亥年正月八日歿す、歳七十八。浅草松葉町清光山涼源寺    に葬る。法名松誉栄順〟    ☆ はせがわ かんべい 長谷川 勘兵衛    ◯『名人忌辰録』上巻10   〝長谷川勘兵衛    戯場の道具仕掛其他小道具、怪談物の工夫に妙を得たり。中にも千人廻し三方せり上げ等に名高し。天    保十二丑年八月歿す、歳六十三。浅草橋場保元寺に葬る。其孫長谷川勘兵衛、明治二十三年二月八日に    葬る〟    ☆ はらとみ 原富    ◯『名人忌辰録』上巻8   〝原武太夫 盛和    幕府御手先与力の隠居。初名富次郎、渾名原富といふ。牛込清水町に住す。寛政四子年二月二十二日歿    す、歳九十五。(隣の疝気奈良柴等の著者)〟    ☆ はりがね あみのはそん 網の破損 針金    ◯『名人忌辰録』下巻25   〝北静廬 梅園    名慎言、字有和、通称三左衞門、四当書屋、山岡俊明門人。嘉永元申年二月廿九日歿す、歳八十四。西    久保天徳寺中教受院葬る。(静蘆は元芝辺のすゝきといへる料理兼待合茶屋の子なり。幼名定次郎と云、    家根方棟梁の家に聟となりて茶屋はやめたり。木阿弥が社中にて狂歌師となり、網の破損針金といへり。    一度古本のせどりと云ふにもなり、後又狂歌を廃して学に耽り、終に博識となりぬ。曲亭馬琴も此翁に    事物等をまゝ聞きたりと云ふ。此人博学宏識なるは其著梅園日記を見ても知らる。さしも根底深き学者    に似ず風雅の心乏しく、神祭りなどの繁華なることを見るをこのめりとぞ)〟    ☆ はりつ おがわ 小川 破笠    ◯『名人忌辰録』上巻16   〝小川破笠 笠翁    名観、号夢中庵、又卯観子、通称平助。俳名宗宇、江戸桶町に住す、後津軽侯に仕ふ。延享四年六月三    日歿す、歳八十七。画は一蝶の門にて一蝉と云ふ〟    ☆ はるあきら なるかわ 生川 春明    ◯『名人忌辰録』上巻36   〝生川(ナルカハ)春明    名は正香、通称三郎助、伊勢津岩田町薬種商、俳諧を嗜み、俳家大系図、発句係辞等の著あり、又近世    風俗考も此翁の編なり。明治廿三年八月七日歿す、歳八十七。伊勢津教円寺に葬る〟    ☆ はるき やまざき 山崎 春樹    ◯『名人忌辰録』下巻7   〝山崎春樹 宝山居士    天保二卯年四月廿四日歿す、駒込海蔵寺に葬る〟    ☆ はるのぶ すずき 鈴木 春信    ◯『名人忌辰録』下巻38   〝鈴木春信 長栄軒    通称次兵衛、号湖龍斎、江戸の人。浮世絵師、西村重長門人。明和七寅年六月十五日歿す、歳五十三〟    ☆ はるまち こいかわ 恋川 春町    ◯『名人忌辰録』下巻15   〝恋川春町 寿山人    通称倉橋寿平、狂名酒の上の不埒。駿州小島侯の臣、小石川春日町邸に在り、恋川と云は、住居地名に    よれるなり。画は石燕の門。寛政元酉年七月七日歿す、歳四十六。四谷新宿成覚寺に葬に葬る〟    ☆ はるみち ちよの 千代 春道    ◯『名人忌辰録』上巻15   〝千代ノ春道    板下書にて橋本徳瓶と云ふ。馬喰町に住み、義太夫稽古本の板下尤能し、傍戯作を為し、浮世喜楽とも    云へり。文政八酉年十一月三日没す〟    ☆ ばんずいいんちょうべい 幡随院 長兵衛    ◯『名人忌辰録』上巻9   〝幡随意院長兵衛    本姓塚本氏。慶安三寅年四月十三日歿す、歳三十六。下谷北寺町源空寺に葬る〟     ☆ はんせん なかね 中根 半仙    ◯『名人忌辰録』上巻38   〝中根半仙 訊斎    名玄石、書并印刻を能くす。嘉永二酉年八月四日歿す、歳五十二。本郷町弓町等正寺に葬る〟     ☆ ひかる そうようあん 桑楊庵 光    ◯『名人忌辰録』下巻22   〝桑揚(*ママ)庵光 識之    通称岸宇右衛門、又光甫、狂名つぶりの光。寛政八辰年四月十二日歿す、歳七十(*ママ)。駒込瑞泰寺に    葬る。     辞世 一声はまるでは聞かぬほとゝぎす半分夢の暁の空〟    ☆ ひろしげ うたがわ 歌川 広重    ◯『名人忌辰録』上巻2   〝一立斎広重 立斎    通称安藤徳兵衛。幕府の小吏なり。歌川豊広の門人にして浮世絵を能くす。安政五午年九月六日歿す、    歳六十二。浅草松山町東岳寺に葬る〟    ☆ ぶせい きた 喜多 武清    ◯『名人忌辰録』下巻25   〝喜多武清 可菴    字子慎、号五清堂、谷文晁門人。安政三辰年十二月廿日歿す、歳八十一。芝二本榎清林寺に葬る。法号    道玄院幽誉可菴武清      辞世 来てみればこゝ二本の面白き噺相手に其角一蝶〟    ☆ ぶつあん なかむら 中村 仏菴    ◯『名人忌辰録』上巻38   〝中村仏菴    通称弥太夫、字景璉、号至観、御畳御用達。天保五午年正月七日歿す、歳八十四〟    ☆ ふよう こう 高 芙蓉    ◯『名人忌辰録』上巻32   〝高逸記 芙蓉    名孟彪、字孺皮、初宇作、本姓大島。篆刻の名人なり。天明四申年四月廿四日歿す、歳六十三。小石川    無量院葬る〟    ☆ ふよう すずき 鈴木 芙蓉    ◯『名人忌辰録』下巻38   〝鈴木芙蓉 老蓮    名雍、字文煕、通称新兵衛、信濃の人、阿波侯に仕ふ。文化十三子年五月廿七日歿す、歳六十八。浅草    八軒寺町大仙寺に葬る。(芙蓉は画家の中にては文字もある人なり。其男文蔵詩をよくす、上京して皆    川淇園に学び、江戸に帰り程なく父に先て歿せり小蓮と号す)〟    ☆ ぶんいち たに 谷 文一    ◯『名人忌辰録』上巻30   〝谷文一郎 文一    文晁義子、号痴斎。文政元寅年三月八日歿す、歳三十六。浅草寺町源空寺に葬る〟    ☆ ぶんぎょ よしだ 吉田 文魚    ◯『名人忌辰録』上巻29   〝吉田文魚    浅草蔵宿、大和屋与兵衛、謂はゆる十八大通の首長、一号大通散人。寛政十二申年四月十九日歿す、歳    六十八。浅草田圃長国寺に葬る〟    ☆ ぶんきょう はながさ 花笠 文京    ◯『名人忌辰録』上巻8   〝花笠魯助 文京    本姓東條氏、琴台の実兄にて、号鈍亭、豊島新造と称す、戯作者なり。万延元申年三月二日歿す、歳七    十六。深川霊巌寺地中に葬る。法号魯鈍齢筆。     辞世「山の端にしら雪と見し花は根にかへりし後のはるの古さと」〟    ☆ ぶんじ たに 谷 文二    ◯『名人忌辰録』上巻30   〝谷文二    文晁男、幼にして奇才あり、号萍所、嘉永三年五月十一日歿す、歳三十九。浅草源空寺に葬る〟     ☆ ぶんせつ なかがわ 中川 文雪    ◯『名人忌辰録』上巻38   〝中川美濃子 文雪    号文雪女史、画を善くす。嘉永六年丑正月十一日歿す、歳五十〟    ☆ ぶんちょう たに 谷 文晁    ◯『名人忌辰録』上巻30   〝谷文五郎 文晁    麓谷の男、号写山楼、又画学斎、薙髪して文阿弥。天保十二丑年十二月十四日【表向同日(ママ)二十五日】    歿す、歳七十八。浅草源空寺に葬る〟    ☆ ぶんぽう かめや 亀屋 文宝    ◯『名人忌辰録』下巻   〝文宝堂文宝    通称亀屋文右衛門、大田南畝の門人、号を譲られて後の蜀山人と号す。飯田町中坂の薬店なり。文政十    二丑年三月廿三日歿す、歳六十二〟     ☆ ぶんよう とおざか 遠坂 文雍    ◯『名人忌辰録』上巻13   〝遠坂文雍 雪堂    称庄司、号十友園。谷文晁門人。嘉永五子年七月廿日歿す、歳七十〟    ☆ ぶんれい かとう 加藤 文麗    ◯『名人忌辰録』上巻24   〝加藤文麗    伊予守、名泰都、従五位下、号藤予斎。天明二寅年三月五日卒す、歳七十七。広尾光林寺に葬る〟    ☆ ほういつ さかい 酒井 抱一    ◯『名人忌辰録』下巻3   〝雨華庵抱一 文詮    本姓酒井氏、名暉真、号屠龍、又庭伯。文政十一子年十一月廿九日寂す、歳六十八。西本願寺に葬る。    (抱一師は酒井忠恭侯の男。初名忠因、寛政七年秋、京本願寺に入り、文和上人の準連枝と成り、剃髪    して等覚院文詮と称す。僧官権大僧都に昇進す。其後江戸に下り、浅草千束村に居り、又金杉村鴬塚に    移る。依て鴬邨と云ふ。始め宗紫石に学び、後尾形光琳を慕ひ、遂に其蘊奥を極む。文化十三年光琳が    百年忌に梅荘鞠塢を京小川妙顕寺に遺し、其墓に奠せしむ。又石碑を墳上に建つ。俳諧は馬場存義を師    とす。亦狂名を尻明(*ママ)猿人と云ふ)〟    ☆ ほうかいし いしづか 石塚 豊芥子  ◯『名人忌辰録』上巻5   〝石塚豊芥子 豊亭    通称鎌倉屋十兵衛、からしやと云ひ、集古堂と号す。文久元酉年十二月十五日没す、歳六十二。該博家    なりき。浅草報恩寺中専念寺に葬る。法号釈豊芥〟  ☆ ほうぎ もりむら 守村 抱義    ◯『名人忌辰録』下巻35   〝守村抱義 真実菴    名約、号鷗嶼、通称森村屋次郎兵衛。文久二戌年正月十六日歿す、歳五十八。阿部川町龍福院に葬る〟    ☆ ぼうさい かめだ 亀田 鵬斎    ◯『名人忌辰録』上巻27   〝亀田文左衞門 鵬斎    名長興、字穉龍、号善身堂、井上金峨に従て学ぶ、後酒間に放浪す。故有て官途に絶し、誓て権貴の門    に至らず。文政九戌年三月九日歿す、歳七十三浅草今戸称福寺に葬る〟     ☆ ほうじ たなか 田中 抱二    ◯『名人忌辰録』上巻32   〝田中抱二 青々葊    通称金兵衛。画風抱一の流也。明治十八年正月廿三日歿す、歳七十一寺嶋村法善寺に葬る〟    ☆ ほうかいし いしづか 石塚 豊芥子    ◯『名人忌辰録』上巻5   〝石塚豊芥子 豊亭    通称鎌倉屋十兵衛。からしやと云ひ集古堂と号す。文久元酉年十二月十五日歿す、歳六十二。該博家な    りき。浅草報恩寺中、専念寺に葬る、法号釈豊芥〟     ☆ ほうろう たがわ 田川 鳳朗    ◯『名人忌辰録』上巻31   〝田川鳳朗    号自然堂、弘化二巳年十一月廿八日歿す、歳八十。四谷中天王寺に葬る〟    ☆ ほきいち はなわ 塙 保己一    ◯『名人忌辰録』上巻8   〝塙検校 保己一    武州児玉郡保己村の産、始め萩原宗固門人、後暫く真淵に従ふ。文政四巳年九月十日歿す、歳七十六。    四ッ谷南寺町安楽寺に葬る〟    ☆ ぼくおうこ 朴黄狐    ◯『名人忌辰録』上巻32   〝田中良斎 存生斎    名栄治、通称多兵衛、尾州名古屋の人。狩野常信門人。画名朴黄狐、又茶道にも精し、宝暦十三年十二    月六日歿す、歳八十二〟    ☆ ほくさい かつしか 葛飾 北斎    ◯『名人忌辰録』上巻25   〝葛飾北斎 戴斗    本姓中島氏、幼名時太郎、後鉄三郎、又八右衛門、始春朗、又宗理、此他数号有り。嘉永二酉年四月十    三日歿す、歳九十。浅草八軒寺町、誓教寺に葬る〟    ☆ ほくば ていさい 蹄斎 北馬    ◯『名人忌辰録』下巻16   〝蹄斎北馬 駿々亭    俗称有坂五郎八、北斎門人。御家人の隠居。弘化元辰年八月六日歿す、歳七十四。(北馬は戯れに左筆    を揮て曲画を作り、或は席上の草画に奇才の聞え高し、又彩色に巧なるを以て、谷文晁に愛せられ密画    の模様を手伝ひて大に筆硯を潤すと云ふ。晩年薙髪して下谷二長町に住せり)〟    ☆ ほっか やまざき 山崎 北華    ◯『名人忌辰録』下巻7   〝山崎北華    名俊明、字桓、称三郎右衛門、自堕落先生と云ふ、江戸の人、別号不思菴、不量軒、捨楽斎、確蓮房等    の狂号有り。元文四未年十二月三十日歿す、歳四十。谷中養福寺に葬る〟    ☆ ほっけい ととや 魚屋 北渓    ◯『名人忌辰録』上巻13   〝魚屋北渓 葵園    名辰行、号拱斎、俗称岩窪金右衛門。始め養川院門人、後北斎の門に入る。家業生魚を鬻ぐ、仍て氏を    魚屋と改む、故に鯉魚を画くに妙を得たり。嘉永三年没す、歳七十。青山千駄谷立法寺に埋葬つ〟    ☆ まがお しかつべの 鹿津部 真顔    ◯『名人忌辰録』下巻24   〝北川真顔 狂歌堂    通称北川嘉兵衛、姓紀氏、後号俳諧歌場、文政十二丑年六月六日歿す、歳七十七。小石川極楽水上光円    寺に葬る。(真顔は数寄屋河岸に住して家守たり、旁ら汁粉餅を鬻て業にせしが、竟には廃業せり。始    め戯作を好み、恋川春町に就て稗史を著す、故に師の名に擬へて好町と号す。又寛政中、鹿杖山人と著    名して青本の作有り。狂歌を四方赤良に学びて鹿津部真顔と云ふ。後年俳諧歌を中興して大に行はる。    又口上茶番を巧にして好屋の翁と云ふ。景物を段返しにつかふ事は此翁より始ると云)〟    ☆ まさたゆう たけもと 竹本 政太夫 三代    ◯『名人忌辰録』上巻34   〝竹本政太夫 三世    二代目魚屋十兵衛政太夫門人。通称藤本利兵衛。文化八未年七月十四日歿す、歳五十九。浅草阿部川町    密蔵院に葬る〟     ☆ まさのぶ おくむら 奥村 政信    ◯『名人忌辰録』上巻22   〝奥村政信    通称本屋源六。通油町に住す。号芳月堂、又丹鳥斎観妙。浮世絵師。明和五子年二月十一日歿す、歳七    十九(美成の名誉往来には明和元年申年七十九才と有り)〟    ☆ まさのり つつい 筒井 政憲    ◯『名人忌辰録』上巻36   〝筒井憲 鑾渓    始め紀伊守、後伊賀守と称す。書を能くす。安政六年未六月朔日卒す、歳八十二。鳴子常円寺に葬る〟     ☆ まとら おおいし 大石 真虎    ◯『名人忌辰録』上巻20   〝大石真虎 鞆屋    尾州名古屋の人。幼名小泉門吉、後大石門太、又衞門七と改む。天保四巳年四月十四日歿す、歳四十二。    名古屋大頂真福寺に葬る〟     ☆ まるまる しおどめてい 汐留亭 丸々    ◯『名人忌辰録』上巻22   〝脇坂丸々 汐留亭    脇坂氏、名安董。天保十二年二月七日歿す、歳六十余。青山青源寺に葬る〟    ☆ みつる やすだ 安田 躬弦    ◯『名人忌辰録』下巻8   〝安田躬弦 一菴    号棗本、加茂季鷹門人、文化十三子年正月五日歿す。深川寺町蕙然寺に葬る〟    ☆ みゃくあん にしむら 西村 藐菴    ◯『名人忌辰録』   ◇上巻 11   〝西村藐菴    通称西村左兵衛、号花柳園。新吉原の坊主なりき。嘉永六丑年十一月廿四日歿す。浅草等学寺に葬る。    (花街漫録を著述せし人なり)〟      ◇下巻 20   〝西院藐菴 宗光    名伊之、号歌仙菴、浅草翁、新吉原江戸町里正にして西村左兵衛と称す。五十二才の時、隠居して、浅    草寺地中人丸堂に住し、西院と号す。嘉永六丑年十一月廿四日歿す、歳七十。浅草等覚寺に葬る(西村    参看)〟     ☆ めきち いずみ 泉 目吉    ◯『名人忌辰録』上巻3   〝泉目吉 守一    俗称吉兵衛、号香斎。本郷一丁目に居住す、続浮世絵類考に始め、古等琳門人、後狩野探信の門に入り、    守の字を許さると云ふ。文化十二年十二月五日歿す、無縁坂講安寺に葬る〟    ☆ もくあみ もとの 元 木阿弥    ◯『名人忌辰録』下巻34   〝元ノ木網 珠阿弥    名政雄、通称金子喜三郎、武州松山の人、狂歌師として知られる。文化八未年六月廿八日歿す、歳八十    一。深川正覚寺に葬る。(寛政三亥年五月廿一日、六十一才の時、木阿弥発心して遊行上人の弟子とな    り、珠阿弥と改む。此時、上人「願ひえて御のりの道にけふいりてさぞな心も墨染の袖」珠阿弥「願ひ    えて心もけふはすみそめの袖もなみだも身にぞあまれる」蜀山の筆記に、木網はよき男にして、すみを    ぬきたるあとあり。常に居士衣を着し紫の服紗につゝみし物を背負ひてあるきけり。其頃、本芝弐丁目    に三河屋半兵衛といへる本屋、剃髪して歯を黒く染め青き道服を着たり。色黒くふとりたる男なり。狂    名を浜辺の黒人と呼ぶ。人皆歯までの黒人とあだ名せり。此人狂歌の点をして半紙に摺て出す。板料を    取るを入花といへり。【今の狂歌の点料を入花といふはじめなり】)時の人、木網は兼好を一へん湯が    きたるやうなり、黒人は文覚を油揚にしたるが如しといへり云々。木網、水神の森にてかしらをおろし    ける時、「けふよりは衣を染つ角田川流れ渡りの世をわたらばや」折ふし時鳥の声を聞て「我年もほと    ゝぎ過ぬさらばとててつへんかけて剃こぼつなり」因に云、木網妻俗名みちと云、狂名智恵の内子【文    化四年五月十八日歿】     辞世 六十あまり見はてぬ夢のさむるかと思ふもうつゝ暁の空〟    ☆ もとなり かぼちゃの 加保茶 元成    ◯『名人忌辰録』上巻24   〝加保茶ノ元成 宗園    新吉原京町娼家大文字屋市兵衛。本姓村田氏。安永元子年十一月六日歿す、歳六十余。浅草本行寺に葬    る(初代は勢州川曲郡上箕田村農、松本某男也)〟    ☆ もりくに たちばな 橘 守国    ◯『名人忌辰録』上巻30   〝橘守国 素軒    本性楢林氏、名有税、大坂の人。始め狩野探山守見門人、師と絶交して、後一家を為す。寛延元辰年七    月十九日歿す、歳七十〟    ☆ もろのぶ ひしかわ 菱川 師宣    ◯『名人忌辰録』下巻35   〝菱川師宣 友竹    吉左衞門の男、保田町に生れ、後江戸に出で村松町に住す、縫箔の上絵を業とす、後土佐の画を学び、    後浮世絵の一派を開きて大に行はる。正徳四午年八月二日歿す、歳七十七(寺は日蓮宗にて谷中と聞け    り)〟     ☆ やゆう よこい 横井 也有    ◯『名人忌辰録』上巻27   〝横井也有 暮水     通称孫兵衛。号又野有とも書く。尾州侯世臣にて食禄千石を領す。俳句俳文に名高し。天明三卯年六月    十六日歿す、歳八十二。尾州海西郡藤瀬村西音寺に葬る〟     ☆ ゆうき ちょう 晁 有輝    ◯『名人忌辰録』下巻17   〝晁有輝 詩叔    本姓浅岡氏、名豊興、宋紫石門に入り画を学べり。文化八未年七月四日歿す。麹町心法寺に葬る〟    ☆ ゆうひ くましろ 熊代 熊斐    ◯『名人忌辰録』下巻5   〝熊代熊斐    名は斐、字は淇膽、通称始彦之進、後甚左衞門。もと長崎の人にして訳官なりしが、沈南蘋に学びて画    名熊斐といふ。安永元辰年十二月廿八日歿す、歳七十九    ☆ ゆきまる ぼくせんてい 墨川亭 雪麿    ◯『名人忌辰録』上巻12   〝黒川亭雪麿 敬丹舎     越後高田の人、通称田中善三郎。墨川亭月麿の門に入り画を学ぶ、後戯作を兼たり。安政三辰年十二月    五日歿ず、歳六十。白金台町九丁目妙縁寺に葬る〟    ☆ ゆずる きしもと 岸本 由豆流    ◯『名人忌辰録』下巻26   〝岸本由豆流 讃岐    字大隅、号尚古、考証園、又◎園、本姓朝田、伊勢の人。故ありて幕府御弓弦師岸本家を嗣ぐ。和学を    村田春海に受く。弘化三午年閏五月十七日歿す、歳五十八。浅草誓願寺地中林宗院に葬る〟    〈◎は木+在、読みは「やまぶき」〉     ☆ ようさい きくち 菊池 容斎    ◯『名人忌辰録』下巻26   〝菊池容斎 武保    通称菊池量平、幕府御先手与力、本姓河原氏、明治十一年六月十六日歿す、歳九十一。谷中天王寺墓地    に葬る〟     ☆ ようゆうさい はら 原 羊遊斎    ◯『名人忌辰録』上巻28   〝羊遊斎 更山     原氏、俗称久米次郎、蒔絵を善くす。弘化二巳年十二月廿四日歿す、歳七十四。本郷無縁坂講安寺に葬    る〟    ☆ よしとし つきおか 月岡 芳年    ◯『名人忌辰録』上巻36   〝月岡芳年 大蘇    本姓吉岡氏、月岡雪斎の養子と成る。元一勇斎国芳門人。明治廿五年六月九日歿す、歳五十四。東大久    保村専福寺に葬る〟    ☆ よししげ やまざき 山崎 美成    ◯『名人忌辰録』下巻7   〝山崎美成 北峯    通称長崎屋新兵衛、後久作、字久卿、号好問堂、下谷長者町薬種商人。該博にして著述多し。晩年零落    す。文久三年七月七日歿す、歳六十七。浅草松清町大松寺に葬る〟    ☆ らいでんためえもん 雷電 為右衛門    ◯『名人忌辰録』上巻40   〝雷電為右衛門    信州山県郡大石村の人、本姓関氏半兵衛の子、十九歳の時江戸に出て、浦風林右衛門の弟子と成り、雲    州侯角力たり。文政八酉年二月十一日歿す、歳五十九。法号雷声院釈関高為輪信士。赤坂台町報土寺に    葬る。(為右衛門が手形を扇面に押たるに蜀山の讃あり、百里をも驚かすべき雷電が手形をもつて通る    関とり)〟    ☆ らんこう よしだ 吉田 蘭香    ◯『名人忌辰録』上巻29   〝吉田蘭香 東牛斎    画を以て業とせり。寛政十一未年六月九日歿す、四ッ谷全長寺に葬る〟    ☆ らんさい もり 森 蘭斎    ◯『名人忌辰録』下巻35   〝森文祥 蘭斎    字九紅、加州の人、熊代熊斐門人、又子禎。享和元酉年九月十八日歿す、東本願寺地中妙清寺に葬る〟    ☆ らんざん たかい 高井 蘭山    ◯『名人忌辰録』上巻31   〝高井蘭山    名伴寛、字思明、称文左衞門、芝伊皿子に住す、幕府与力。小説演義類の著多し。天保九戌年十二月廿    三日歿、歳七十七。白銀戒法寺に葬る〟    ☆ りゅうあん くりはら 栗原 柳庵    ◯『名人忌辰録』下巻4   〝栗原信充 柳菴    通称孫之丞、別号又楽、明治元辰年、本姓武田に改む。明治三年十一月廿八日歿す、歳八十九。京都栂    尾高山寺地中清瀧川の傍に葬る。代々は上野護国院に墓碑有り。(翁の七十年来丹精せしものは令講義    全部の著述にて島津久光公の力に依て開板す、序文同公の撰する処なり。職原抄全部【薩州藩島津帯刀    氏の開板】日本紀全部【同島津家に於て開板になる、但私読本と称するもの】大内裡指図及京師の地図    御陵模考全部【但し世上未詳の分迄を調せしものにて其外親王以下陵墓の地位を調しもの】清和天皇御    陵之事【但し水尾山円覚寺則天皇御陵墓なり水尾考誌を著述し円覚寺を再興す】)〟     ☆ りゅうば どきょうてい 土橋亭 龍馬    ◯『名人忌辰録』上巻13   〝土橋亭りう馬 龍馬    俗称弥太郎。元祖龍生門人にて落語家なり。始めりん馬、後二代目龍生、後りう馬と改め、植木店に住    す。嘉永四年亥六月十日歿す。歳五十三。浅草寺仲常林寺に葬る〟    ☆ りゅうほ ののぐち 野々口 立圃    ◯『名人忌辰録』下巻3   〝野々口立圃 松翁    通称鄙屋庄左衞門、名親重、京師の人。俳諧を貞徳に学び、又絵を能くす。延宝九酉年九月三十日歿す、    歳七十一。洛東鳥部山に葬る〟     ☆ りゅうぼく なるしま 成島 柳北    ◯『名人忌辰録』上巻37   〝成島柳北 名弘、字保民、称甲子太郎。明治十七年十一月三十日歿す、歳四十八。寺本所本法寺〟    ☆ りょうあ むらた 村田 了阿    ◯『名人忌辰録』上巻40   〝村田了阿 春風    通称小左衞門、号春枝堂、又一枝堂。台麓、清原雄風の門、書は東江の門。下谷金杉西蔵院に葬る。天    保十四卯年十一月十四日歿す、歳七十二〟    ☆ りょうわ 蓼和    ◯『名人忌辰録』上巻35   〝蓼和居士    号咫尺軒。享和三年亥十月五日歿す。大塚大慈寺に葬る〟    ☆ りんしゅん ふくしま 福嶋 隣春    ◯『名人忌辰録』下巻13     〝福嶋隣春 雨の屋    字吉人、号花所、称左平、画人。明治十五年九月十三日歿す、歳七十二。浅草阿部川町称年寺地中観名    寺に葬る〟    ☆ ろうせん たにぐち 谷口 楼川    ◯『名人忌辰録』上巻30   〝谷口楼川    号無事庵。天明二寅年十一月廿九日歿す。浅草本願寺に葬る〟    ☆ ろうちょけん 老樗軒    ◯『名人忌辰録』上巻17   〝岡田平冶(ママ)郎 樗軒    本姓立野氏、通称伊勢屋平次郎、号老樗軒、又読考庵。墓所一覧の編者なり。文政元寅年八月十四日歿    す、歳四十六。池の端宗賢に葬る〟    ☆ ろくじゅえん 六樹園    ◯『名人忌辰録』上巻5   〝石川六樹園 雅望    通称糠屋七兵衛、後五郎兵衛と改む。字は子相、五老又蛾術斎と号す。小伝馬町三丁目、旅人宿糠屋七    兵衛、画名石川豊信が五男にして、宝暦三年正月十五日、神田明神下に生る。幼名清の助、天明の末、    七兵衛と改む。始(*め)佐竹侯の用達、津村三郎兵衛宗菴(和書を読て和歌を能くす)に就いて学ぶ、    此後、狂歌を好みて蜀山に従ふ、狂名を宿屋飯盛と称す。文化の頃に馬喰町辺に宿屋共公事に出てたる    旅人を長く止むる事に付て咎められたる時、六樹園も所を払はれ、変名して五郎兵衛と名のれり。四谷    内藤新宿に居りしが其宅を清澄に譲り与へて、其辺の裏通り上ヶ池と云所に隠居したり。夫より程経て    霊岸島本湊町中村屋梅太郎(清澄が男、六樹園の孫也)が家に寓居し紙など商ひたり。文政十一年、真    顔と共に京都より宗匠考免許有り。文学の才狂歌師にはすぐれたり。其著雅言集覧は世益多し、都の手    ぶり抔文才を見るに足る。天保元寅年閏三月廿四日歿す、歳七十八。浅草黒船町正覚寺中哲相院に葬る〟    ☆ ろしゅう ながさわ 長沢 芦洲    ◯『名人忌辰録』上巻39   〝長沢芦洲 呑江    芦雪の義子。弘化四未年十月廿四日歿す、歳八十一〟    ☆ ろせつ ながさわ 長沢 芦雪    ◯『名人忌辰録』上巻39   〝長沢芦雪 主計    名魚、通称主計、城州淀藩士。円山応挙門人。円山門の巨孹といふ。寛政十一年未年六月八日歿す。歳    四十五〟