Top浮世絵文献資料館浮世絵師総覧
 
☆ ぜしん しばた 柴田 是真浮世絵師名一覧
〔文化4年(1807)2月7日 ~ 明治24年(1891)7月13日・85歳〕
 ※〔漆山年表〕:『日本木版挿絵本年代順目録』〔目録DB〕:「日本古典籍総合目録」   〔狂歌書目〕:『狂歌書目集成』   『【明治前期】戯作本書目』山口武美著 日本書誌学大系10  ☆ 天保五年(1834)    ◯「絵本年表」〔漆山年表〕(天保五年刊)    柴田是真画『狂歌尋蹤集』三冊 是真・文晁画 花の屋光枝選    ◯「絵入狂歌本年表」〔目録DB〕(天保五年刊)    柴田是真画『狂歌尋蹤集』三冊 柴田是真画 花の屋光枝編    ☆ 天保末年(1840~)    ◯『武江扁額集』(斎藤月岑編・文久二年(1862)自序)   ◇天保末年奉納   (月岑の識語に「綱の伯母」とあり)    落款 〝是真〟    識語 「王子稲荷額堂 柴田是真筆 天保中〈「末」の添え書き〉掲之 嘉永五子年三月写之」    「綱の伯母」    〈渡辺綱によって片腕を切り落とされた一条戻橋の鬼女、綱の伯母になりすまして奪い返す場面〉
   『武江扁額集』「綱の伯母」是真画(国立国会図書館・近代デジタルライブラリー)    ☆ 天保年間(1830~1843)    ◯「絵入狂歌本年表」〔狂歌書目〕(天保年間刊)    柴田是真画『俳諧歌新玉集』一冊 其一・是真・広重等画 燕栗園撰 燕門連    ☆ 嘉永二年(1849)    ◯『【現存雷鳴】江戸文人寿命附』初編〔人名録〕②333(畑銀雞編・嘉永二年刊)   〝柴田是真    年々に其雷鳴は高砂の尾上の松にまさる祇成 極上々吉 寿九百五十年 浅草平右衛門町〟     ☆ 嘉永六年(1853)     ◯「絵本年表」〔漆山年表〕(嘉永六年刊)    柴田是真画『本朝二十四孝』一冊 柴田是真画 何の舎素枝等編    ◯「絵入狂歌本年表」(嘉永六年)    『狂歌本朝二十四孝』一冊 柴田是真画 細木香以・何乃舎素枝等編 本町側〔目録DB〕    『狂歌戯場百首初会』一冊 柴田是真画 三都栄連編〔狂歌書目〕     ☆ 安政二年(1855)    ◯「絵本年表」〔漆山年表〕(安政二年刊)    柴田是真画『東都花競』三帖 惺々菴狂斎 雷酔 是真ほか    ☆ 安政年間(1854~1859)     ◯「絵本年表」〔目録DB〕(安政年間刊)    柴田是真画『ふくへねはんの図』一軸 柴田是真画    ☆ 文久元年(万延二年・1861)     ◯「東都自慢華競(えどじまんはなくらべ)」番付(文久元年八月刊『日本庶民文化史集成』第八巻所収)       〝名画 百年も  柴田是真  〈この年55歳〉    美筆 長いき歟 一陽斎豊国〈この年76歳〉    〈絵にはまだまだ勢いが感じられるという評である〉    ☆ 元治元年(文久四年・1864)     ◯「絵本年表」〔漆山年表〕(文久四年刊)    柴田是真画『水魚連狂歌双六』一冊 国芳・是真画 鶴廬序    ☆ 慶応元年(元治二年・1865)     ◯「絵本年表」〔漆山年表〕(慶応元年刊)    柴田是真画    『四季のながめ』一冊 是真・広重等画    『瑞兎奇談』  一冊 是真・藤原隣春 大畑春国編    『花吹雪』二冊 一恵斎芳幾画・藍泉画・是真・一葉斎幾年女画・山東庵京水筆・梅恵斎幾丸            鳥居清満筆・梅素・鈍阿弥魯文・芳春・ちかはるゑかく等画            一葉舎主人編      ◯『噺本大系』巻十六「所収書目解題」(慶応元年刊)   ◇咄本    柴田是真・落合芳幾画『梅屋集』署名「是真」「一恵斎芳幾画」石橋静舎序(板元名なし)  ◯「東都諸先生高名方独案内 元治二」元治二年刊(TOKYO DIGITAL MUSEUM)   〝蒔絵 浅艸 柴田是真    錦画 本町 一英斎芳艶    錦画 本所 一陽斎豊国    〈この豊国は三代(初代国貞)。しかし前年の元治元年十二月既に亡くなっていた。文久元年(1961)、国芳が亡くなり。     そして豊国をも失う。芳艶がいるとはいえ、彼も慶応二年、四十五歳で亡くなる〉  ☆ 慶応三年(1867)    ◯「絵本年表」〔漆山年表〕(慶応三年刊)    柴田是真画『俳諧歌広幡集』一冊 是真・綾岡画 岩上亭蔵梓    ◯「日本古典籍総合目録」(慶応三年刊)   ◇絵俳書    柴田是真画『くまなき影』皎々梅崕編 彩色口絵(花雪肖像影絵)是真画    (波月亭花雪の三回忌追善集 方阿弥陀仏香以序 山々亭有人序 仮名垣魯文跋)  ☆ 明治三年(1869)  ◯「東京諸先生高名方独案内」(英蘭斎五翁編 明治三年刊)   (早稲田大学・古典籍総合データベース)   〝美作 下 谷 為永春水  〈戯作者・春水二世・染崎延房〉    美画 堀田原 一鶯斎国周〟   〝知文 福井丁 山々亭有人 〈戯作者・条野採菊・鏑木清方の実父〉    新画 松川丁 一孟斎芳虎〟   〝名文 浅 草 仮名垣魯文 〈戯作者〉    当画 両 国 一蕙斎芳幾〟   〝蒔絵 浅草石切カシ 柴田是真    鞘塗 芝シンセンザ  橋本市蔵〟〈漆芸家・市蔵初代〉  ☆ 明治五年(1872)  ◯「高名三幅対」(番付)   (東京都立図書館デジタルアーカイブ 番付)   〝軍談 今戸 伊東潮花/良◎宝丹 下谷仲丁 守田治兵衛/蒔絵画家 石切涯 柴田是真〟  ☆ 明治七年(1874)    ◯「双六年表」〔本HP・Top〕(明治七年刊)   「華古代美」「柴是真画」板元名なし 明治7年 ② 晋永機撰  ◯「聖堂 書画大展観目録」第二号(博覧会事務局 明治七年五月一日開催)   (『博覧会出品目録』国立国会図書館デジタルコレクション)    〝現今筆者    瀑布之図   柴田是真    人物     鮮斎永濯    五節句美人図 落合芳幾〟  ※ 明治の博覧会や展覧会における全体の出展状況は本HP浮世絵事典の「博覧会」か「展覧会」の項にあります  ☆ 明治八年(1875)    ◯「双六年表」〔本HP・Top〕(明治八年刊)    柴田是真    「華古代美」「柴是真画」宝山堂「紀元二千五百三十五年(明治8年)」④     〈前年の「華古代美」と図様は同じ〉    「花こよみ」「柴是真画」板元名なし 刊記なし②〈図様は④と同じ〉  ☆ 明治八年(1875)  ◯「皇国名誉君方独案内」(日明社 明治八年刊)   (東京都立図書館デジタルアーカイブ 番付)   〝蒔絵 石切河岸 柴田是真/金物彫 青山 田中東龍斎〟  ☆ 明治九年(1876)  ◯『米国博覧会報告書』第2巻「日本出品目録」(米国博覧会事務局 明治9年刊)   (国立国会図書館デジタルコレクション)   (フィラデルフィア万国博覧会 明治9年(1876)5月10日~11月10日)   〝出品職工人名表     自費出品之部     東京 起立工商会社      漆画 東京 柴田是真      画  同  渡辺省亭〟   〝賞牌受領人名表〟      水墨画 東京 菊池容斎      漆画  東京 柴田是真〟   〝日本出品賞牌授附ノ辞令中審査官薦告ノ評語     漆画  東京 柴田是真      薄紙上ノ漆画ナリ。奇異ニシテ法トスベシ。且ツ天然物ノ図頗ル真ニ逼リ又勢力アリ〟  〇『東京書画人名一覧』番付(永島辰五郎編集・版「明治九年第八月新刻」)   (東京文化財研究所・明治大正期書画家番付データベース)    ※(「前後順次不論」とあり、名前の位置は序列と無関係という)   〝画 菊池容斎 於玉ヶ池    画 柴田是真 浅艸平右衛門丁    画 松本楓湖 浅草スハ丁〟    〈編集した永島辰五郎はつまり孟斎芳虎。この番付には歌川派のような浮世絵師は登場しない。芳虎は浮世絵師を除いて編集     しているらしい。是真は容斎と同じく最上段の位置づけ〉  ◯『画家一覧』番付 東京(永楽堂「明治九年第十二月新刻」)   (東京文化財研究所・明治大正期書画家番付データベース)    ※(相撲番付と同じ体裁)   〝行事 柴田是真 石切河岸/勧進元 菊地(ママ)容斎 於玉ヶ池〟〈番付中央〉    〈石切河岸は浅草平右衛門町にある〉  ☆ 明治初年    ◯「双六年表」〔本HP・Top〕(明治初年)   「初日影名所双六」「是真」板元未詳 明治初年 ⑧  ☆ 明治十年(1877)  ◯「内国勧業博覧会」(明治10年(1877)8月21日~11月30日・於上野公園)      ◇『明治十年内国勧業博覧会出品目録』1(内国勧業博覧会事務局)   (国立国会図書館デジタルコレクション)   〝第三区 美術 第二類 書画     画 絹枠張◎◎◎ 養老滝図 東京銀座三丁目 川喜多忠兵衛 画工 上平右衛門町 柴田是真     懐紙掛 桧 桐水◎草花蒔絵塗地 柴田是真     (以上二点、出品者)日本橋通一丁目 榛原直次郎〟     蒔絵額 春色植木室ノ図 蕗燕ノ図(出品者)浅草上平右衛門 柴田是真〟   ◇『明治十年内国勧業博覧会出品解説』(山本五郎纂輯)    (国立国会図書館デジタルコレクション)    〝第三区 美術 第二類 書画」      柴田是真 柴田順蔵 号是真 蒔絵額 浅草上平右衛門町      文化十四年二月、歳十一ニシテ古満寛哉ノ門ニ入リ蒔絵ノ法ヲ学フ〟      蒔絵 額 三百円 文政十年 柴田順蔵〈出品人は本人〉      ◇『明治十年内国勧業博覧会賞牌褒状授与人名録』(内国勧業博覧会事務局版)    (国立国会図書館デジタルコレクション)     〝東京府     龍紋賞牌 蒔絵 柴田順蔵、業名是真〈龍紋賞牌は最上位の賞〉   ◇『明治十年内国勧業博覧会審査評語』(2)(内国勧業博覧会事務局)    (国立国会図書館デジタルコレクション)※◎は難読漢字    〝第三区 第二類 美術     東京府     龍紋 蒔絵 盆栽蔭室ノ図及ビ採蕈ノ図二種 東京浅草上平右衛門町 柴田順蔵       水彩ヲ用ヒテ絹素ニ画キタルノ趣アリ、而シテ毫モ粘漆ノ難キヲ覚ヘズ。其妙大ニ称スベシ〟  ◯『懐中東京案内』二編(福田栄造編 同盟舎 明治十年十月刊)    (国立国会図書館デジタルコレクション)   〝廿三 有名の画家    今様 柴田是真 浅草上平右エ門町〟  ☆ 明治十一年(1878)    ◯『【明治前期】戯作本書目』(明治十一年刊)   ◇教訓    柴田是真画『文明余響』初編一冊 是真・暁斎画 三尾重定編 東崖堂  ◯『書画人名録』番付(大村福次郎 明治十一年二月刊)   (国立国会図書館デジタルコレクション・番付その1・図書館送信限定)   〝行司 菊池容斎    名家 石切ガシ 柴田是真  (張出)名家 本郷 猩々坊暁斎    名家 スハ丁   松本楓湖〟    〈石切河岸は浅草上平右衛門町にあった〉  ☆ 明治十二年(1879)    ◯「絵本年表」(明治十二年刊)    柴田是真画『画本鷹かゝみ』初二編 三冊 河鍋洞郁・容斎 是真画〔漆山年表〕  ◯『京都博覧会出品目録』上巻(博覧会社編 明治十二年序)   (国立国会図書館デジタルコレクション)   〝第三区 美術 第二類 各精好品     画之部     晴潭游鯉図【絹本淡彩】東京府下 柴田是真     三番叟図 【絹本淡彩】(同上)     鶴鷹図【絹本淡彩扁額】(同上)    漆器之部     扁額 黒髹描金 山田春色図 東京府下 柴田是真        黒髹描金 橘中仙碁図(同上)〟   〝明治十二年京都博覧会授賞人名一覧表     妙技賞銀牌 描金 柴田是真   〝京都博覧会出品目録附録 博覧会社編纂      第三区 美術 第五類 画之部     画幅     【絹本着色】三番叟   柴田是真哉 東京府下 柴田是真     【紙本淡彩】牛若丸弁慶(同上)〟  ◯『現今書画人名録』(高崎脩助編 椿窓堂 明治12年3月刊)   (国立国会図書館デジタルコレクション)〈浮世絵師以外は浮世絵と縁のある画人〉   〝画家之部  柴田是真  浅草上平右衛門町          松本楓湖  浅草〟  ◯『東京名工鑑』(東京府勧業課編 有隣堂 明治十二年十二月刊)   (国立国会図書館デジタルコレクション)   〝乾之巻 蒔絵工     柴田順蔵 七十二歳 業名 是真 浅草上平右衛門町     流派    古満派      所長    青海波     製造種類  漆絵 印籠 香函 額 外大小器好ミニ応     助工人員  実子一人 弟子一人     博覧会出品       澳国博覧会ヘ匾額【田子ノ浦ノ景】一個幷ニ水彩画ヲ出品シ賞状ヲ受ケ、内国博覧会ヘ額五面【梅      花窖ノ図・採◎ノ図・月ニ氷柱ノ図・菓実ノ図・月ニ燕ノ図】ヲ出品シ、本人は龍紋賞牌、長男亀      太郎ハ鳳紋賞牌、次男◎次郎ハ花紋賞牌ヲ受ケタリ     開業及沿革      十一歳ノトキ、画工鈴木南嶺、蒔画工坂内寛哉ノ両氏ニ就ヒテ学ブコト五年、尋テ古満休伯ニ就キ      五年許、蒔画法ヲ研究シ、廿一歳ノトキ開業、爾来諸家ノ嘱品ヲ経営シ、曾テ隆替ヲ覚ヘズト〟  ◯『明治文雅姓名録』(清水信夫編 出版社不明 明治十二年序)   (国立国会図書館デジタルコレクション)   〝書画  梅素 宮城玄魚 浅草三好町二番地    詩文書 藍泉 高畠藍泉 南茅場町四十番地    画   楓湖 松本楓湖 浅草栄久町四十二番地    画   是真 柴田是真 浅草上平右衛門町十一番地〟  ◯『皇国名誉書画価表』番付 東京(小谷誠之版 明治十二年十月届)   (東京文化財研究所・明治大正期書画家番付データベース)   〝人物 柴田是真 全紙金一円    山水 松本楓湖 全紙金一円    画  高畠藍泉 金三拾五銭    書  三木光斎 金三拾五銭〟  ☆ 明治十三年(1880)  ◯『観古美術会出品目録』第1-9号(竜池会編 有隣堂 明治14年刊)   (観古美術会(第一回) 4月1日~5月30日 上野公園)   (国立国会図書館デジタルコレクション)   ◇第一号(明治十三年三月序)   〝柴田是真(出品)羅漢之像 李龍眠筆 十六幅〟  ◯『観古美術会聚英』(博物局 明治13年刊)   (国立国会図書館デジタルコレクション)   〝羅漢之像 伝云、宋李龍眠筆 柴田是真蔵     十六幅 絹本 竪物 着色 画工名無シ     評ニ曰ク、眉目精神、顧眄笑語ノ態、高風韻致實ニ能品ト云フ可シ〟     〈『観古美術会出品目録』第1号「柴田是真(出品)羅漢之像 李龍眠筆 十六幅」〉  ◯『皇国名誉書画人名録』番付 東京(北尾卯三郎編集・出版 明治十三年一月届)   (東京文化財研究所・明治大正期書画家番付データベース)   〝画     柴田是真  浅草上平ヱ門町  松本楓湖  浅草栄久町    高畠藍泉  コヒキ丁三丁目  三木光斎  下ヤカヤ丁〟  ◯『東京商人録』(横山錦柵編 大日本商人録社 明治十三年七月刊)   (国立国会図書館デジタルコレクション)   (「め之部」「名家」の項 196コマ~/227)   〝詩 文 書  高畠藍泉 西鳥越町三番地    書 画 梅素 宮城玄魚 蛎殻町二丁目四番地 香楠居    画   是真 柴田順蔵 浅草上平右衛門町十一番地〟  ◯『大日本現在名誉諸大家/獨案内/平判優劣 第一編』番付 大阪    (中川利八郎編 吉岡平助出版 明治十三年十月刊)   (東京文化財研究所「明治大正期書画家番付データベース」)   〝南北混淆画  川上冬崖  柴田是真  松本楓湖 久保田米僊〟  ☆ 明治十四年(1881)    ◯『【明治前期】戯作本書目』(明治十四年刊)   ◇開化滑稽風刺    柴田是真画『三遊春の風俗』一冊 是真画 三遊亭円朝戯作  ◯『第二回観古美術会出品目録』(竜池会編 有隣堂 明治14年刊)   (第二回 観古美術会 5月1日~6月30日 浅草海禅寺)   (国立国会図書館デジタルコレクション)   ◇第二号(明治十四年五月序)   〝柴田是真(出品 竜池会々員)     松村呉春 鴛鴦画 一幅・黄荃 草花画 一幅・小柄     応挙   花鳥画 一幅・呉春画 賛  一幅・蘆雪筆 柳狗画・木米作 筆洗  ◯『第二回 内国勧業博覧会報告書 第1-4区』(農商務省博覧会掛 明治十六年五月刊)   (第二回 内国勧業博覧会 明治14年3月1日~6月30日・於上野公園)    (国立国会図書館デジタルコレクション)※◎は難読漢字   (「第三区 美術 第三類 各種書画」の報告。柴田是真 妙技一等の評)   〝妙技一等 花卉帖蒔絵 東京府下浅草上平右衛門町 柴田是真〟   〝描金ノ額・設色花卉帖・漆画帖等ハ柴田是真ノ製出ナリ。妙技一等ノ薦文ニ、花卉廿九帖、態致ヲ曲尽    シ、古意ヲ参ジテ新案ヲ出ス。綽然意匠ニ裕ナリ。蒔絵モ亦巧妙抦(ママ)州鵜舟ノ額、其精熟ヲ徴ス。刷    法ヲ創案シテ、髹面善ク波紋ヲ成ス。出品中之レヲ見ル独諸ノ妙、他人企テ及バザル処、胸中画アリ漆    中筆アリト云フ。是真青年岡本豊彦ニ東宗ノ画ヲ学ビ、又描金ハ巨満寛斎ヲ師トシ技倆衆工ニ勝レタリ。    長柄川鵜飼ノ額ハ、漆刷ヲ以テ画山水ノ気脈皺擦ノ筆痕ニ転用シ、小瀑ノ水源、新月ノ波紋精ニシテ韻    粗ニシテ雅漆中ニ筆アルノ名工ナリ。或ハ漆画ヲ創製シ、或ハ設色花卉ヲ筆シ、奇趣アリト雖ドモ、雅    韻ニ富メル作ヲ看ル少シ。然レドモ描金ハ正法ニ従事スル数年熟後、遂ニ描金変則ノ画奇巧ヲ習発ス。    此人ニシテ此技アル、妙ハ妙ナリト雖ドモ、若シ凡手ノ生徒誤テ斯ノ途ニ先入スル時ハ学鵜ノ技ニ流レ    正路ニ帰スル遠キニ至ルモノアランカ。然レドモ其子弟製作正美ニシテ、各ノ妙技ノ賞ヲ獲ルモノ多シ。    描金一派方今ノ巨家タルベシ〟  ◯『明治十四年八月 博物館列品目録 芸術部』(内務省博物局 明治十五年刊)   (国立国会図書館デジタルコレクション)   〝第四区 舶載品(18コマ/71)    柴田是真画 雪中鷺図 一頁〟  ◯「東京書画詩文人名一覧」(番付 平野伝吉編・出版 明治十四年三月届)   (東京都立図書館デジタルアーカイブ)   〝画 大家〈番付中央、行事・勧進元に相当する欄〉    猩々暁斎 ユシマ 柴田是真 平右衛門丁〟  ◯『明治文雅都鄙人名録』(岡田霞船編 聚栄堂 明治十四年四月刊)   (国立国会図書館デジタルコレクション)    浮世絵師 人名録〝画 柴田是真 順蔵 浅草上平右エ門町十一番地〟  ◯『皇国名誉人名富録』番付 東京(竹村貞治郎編・山屋清三郎出版 明治十四年四月届)   (東京文化財研究所・明治大正期書画家番付データベース)    ※欄外に「席順前後御用捨希上候」とあり   〝画 花洛高名家 巻画 柴田是真 石切カシ〟〈花洛は東京。巻画は蒔絵の意味か〉     (他に芳年・国周・芳虎)  ◯『現今東京文雅人名録』(竹原得良編 橋本定吉 明治十四年六月刊)   (国立国会図書館デジタルコレクション)   〝画 柴田是真 順蔵 浅艸上平右ヱ門町十一番地〟  ◯『東京じまん』(加藤岡孫八編 加藤岡孫八出版 明治十四年九月刊)   (国立国会図書館デジタルコレクション)   「皇国古今名誉競」   〝新画白 猩々坊暁斎  上画罪 英一蝶    新画  柴田是真   仏画  どもの又平〟    〈現在と過去のその道の名人をいろいろな観点から面白おかしく対照する遊び。暁斎の「白」は明治三年(1870)の泥酔     騒動の顛末を暗示したもので、一蝶の「罪」は元禄十一年(1698)の流罪を踏まえる。ただ一蝶の「上画」の意味がよ     くわからない。次の是真と吃の又平との組み合わせ、前者は実在で後者は芝居の登場人物、しかも又平が生業として     いたものは仏画ではなく大津絵、また「傾城反魂香」の芝居で画いたのは自画像である。これもどのような観点で一     対としたものかよく分からない〉  ☆ 明治十五年(1882)  ◯『第三回観古美術会出品目録』(竜池会編 有隣堂 明治15年4月序)   (第三回 観古美術会 4月1日~5月31日 浅草本願寺)   (国立国会図書館デジタルコレクション)   ◇第三号(明治十五年四月序)   〝柴田是真(出品)    光琳 六月祓図 一幅・光起 書画 一帖・硯箱 光琳作〟  ◯『明治名人伝』初編(岡大次郎編 鮮斎永濯画 小林鉄次郎版 明治十五年四月)   (国立国会図書館デジタルコレクション)    ※( )の読み仮名は原文のもの   〝柴田(しばた)是真(ぜしん) (肖像に賛)      くむ水の底にも影のふかみどり 岸の柳にむかふ菴(いほり)有    通称は順蔵、また山巾(さんきん)と号す、神田川の北石切河岸に住むを以て、対柳居(たいりうきよ)    ともいふ、大工職某氏(なにがし)が子にして幼少より画を好み、蒔絵師寛哉(くわんさい)の門弟とな    りて京都に遊歴し、岡本豊彦に就て四条風の画を学び、累年研究して一種の漆画を発明し、其名海外    にまで轟(とどろ)けり、齢ひ古稀を六年過て大酒(たいしゆ)を好み、蒔絵の細密なる物を作るは、老    (おひ)てます/\盛(さかん)なる者といふべし、其子真哉(しんさい)門人泰真(たいしん)いづれも翁    (おう)に次(つぐ)の名工なり〟  ◯『明治文雅都鄙人名録』(岡田霞船編 聚栄堂 明治十五年五月刊)   (国立国会図書館デジタルコレクション)   〝画 柴田是真 順蔵 浅草上平右エ門町十一番地〟    〈明治14年版人名録と同じ〉  ◯『絵画出品目録』初版(農商務省編 国文社第一支店 明治十五年十月刊)   (内国絵画共進会 明治十五年十月開催 於上野公園)   〝第五区(円山・四條派等)    東京府    柴田順蔵 円山派 号是真 瀑布・洗馬図    ☆ 明治十六年(1883)  ◯「国立国会図書館デジタルコレクション」(明治十六年刊)    柴田是真画    『現存名家画譜』中村惟徳編 中村佐太郎(上下 2月)            挿絵 上巻 柴田是真ほか 下巻 惺々暁斎・鮮斎永濯ほか   ◯『絵画共進現存画家人名一覧表』(広瀬藤助編 赤志忠雅堂 明治十六年二月)   (国立国会図書館デジタルコレクション)   〝円山四條及雑派    東京  柴田是真    西京(ママ)  月岡芳年    西京  久保田米僯(ママ) トウケイ    渡辺省亭〟   〝古流及狩野派    トウケイ  河鍋暁斎    トウケイ    鍬形蕙林〟   〝歌川派 大阪 笹木芳瀧〟  ◯『東京大家二人揃 雷名見立鏡』番付(東京 東花堂(宮田宇平)明治十六年五月刊)   (東京文化財研究所・明治大正期書画家番付データベース)   〝銘画 浅草 柴田是真 / 狂二世 代地 梅屋香寿〟〈梅屋香寿は狂歌師か〉    〈他の絵師は楓湖・暁斎・永濯・国周〉      ◯『龍池会報告』第壱号(明治十六年十月刊)   (国立国会図書館デジタルコレクション)   「第一回巴里府日本美術縦覧会記事」    〈明治十六年六月、日本美術の展覧会がパリで開催される。それに向けて龍地会が選定した作品は、狩野・土佐・四條・     浮世絵を中心に、新画五十一幅、古画の二十二幅の合計七十三幅。そのうち浮世絵に関係ある作品は以下の通り〉    〝新画    河鍋暁斎  龍頭観音図  柴田是真  藤花ニ小禽図    小林永濯  少婦戯猫図  渡邊省亭  雪竹ニ鶏図    橋本周延  美人泛舟図  久保田米仙 宇治秋景図    中井芳瀧  婦女観花図〟    〈東京・京都の画家から三十余名を選抜して作画(全て懸幅)を依頼、それを榛原直次郎がすべて表装して送り出した〉   ◯『第四回観古美術会出品目録』(竜池会編 有隣堂 明治16年刊)   (第四回 観古美術会 11月1日~11月30日 日比谷大神宮内)   (国立国会図書館デジタルコレクション)   ◇第一号(明治十六年十一月序)   〝柴田是真(出品)宋 李龍眠 十六羅漢之内 三幅〟  ◯『明治画家略伝』(渡辺祥霞編 美術新報鴻盟社 明治十六年十一月版権免許)   (国立国会図書館デジタルコレクション)   〝現今略伝 第五区 円山四條派ノ類    柴田是真 円山 山水 浅草区上平右衛門町十一番地     名ハ順蔵 字ハ儃然枕流亭ト号ス 文化四年二月七日生ル 父ヲ市五郎ト曰フ 鈴木南     嶺ノ弟子ナリ 第二博覧会妙技一等ヲ賜フ 第一共進会ノ審査官トナル 因テ出品ノ審     査ヲ辞ス〟  ◯『明治文雅姓名録』東京(清水信夫編集・出版 明治十六年十二月)   (国立国会図書館デジタルコレクション)   〝是真 柴田順蔵 浅草上平右衛門丁十一番地〟  ☆ 明治十七年(1884)    ◯『【明治前期】戯作本書目』(明治十七年刊)   ◇戯作小説    柴田是真画『塩原太助一代記』十八編十八冊 是真・芳幾・国峯画 三遊亭円朝演述 速記法研究会  ◯「国立国会図書館デジタルコレクション」(明治十七年刊)    是真画『塩原多助一代記』挿絵 朝霞亭芳幾・表紙 是真 三遊亭円朝 速記法研究会(1-4編 12月)  ◯『東京案内』(児玉永成編 錦栄堂 明治十七年一月刊)   (国立国会図書館デジタルコレクション)   (「東京大家書家人名録」の項)   〝河鍋暁斎  画 湯島四丁目    松本楓湖    浅草栄久丁    五姓田芳柳   浅草公園地    柴田是真    上平右衛門丁〟  ◯『絵画振起論並名家独案内』(岡村清吉編集・出版 明治十七年四月刊)   (国立国会図書館デジタルコレクション)   〝是真 柴田順蔵 浅草上平右衛門町十一番地〟  ◯「第二回 内国絵画共進会」明治十七年四月開催・於上野公園)    1『第二回内国絵画共進会/出品人略譜』(農商務省博覧会掛編・国文社・五月刊)   〝第五区(円山四条派等)東京府    柴田順蔵 是真ト号ス。東京府浅草区上平右衛門町ニ住ス。柴田市五郎ノ男ニシテ、文化四年二月七日    生ナリ。画ヲ鈴木猪三郎(号南嶺)岡本主馬(号豊彦)等ニ学ビ、東海道、畿内諸国・紀伊・肥前・播磨・    備前・讃岐、木曽路、陸前ヲ遊歴シ、嘗テ東福寺什宝・季(ママ)龍眠ノ十六羅漢ヲ臨摸シ、明治十四年、    内国勧業博覧会ニ於テ妙技壹等賞牌ヲ領受ス〟     2『第二回内国絵画共進会褒賞授与人名表』(農商務省博覧会掛 明治十七年五月刊)    (国立国会図書館デジタルコレクション画像)   〝銅章    柴田是真 柴田順蔵 東京府浅草区上平右衛門町〟  ◯『大日本書画価額表』番付 東京(清水嘉兵衛編集・出版 明治十七年六月届)   (東京文化財研究所・明治大正期書画家番付データベース)   〝精密画一葉価額    暁斎 金七円 猩々暁斎 東京 湯島    是真 金七円 柴田順蔵 東京 上平右ヱ門町    楓湖 金四円 松本楓湖 東京 浅草栄久町〟  ◯『第五回観古美術会出品目録』(竜池会編 有隣堂 明治17年刊)   (第五回 観古美術会 11月1日~11月21日 日比谷門内神宮教院)   (国立国会図書館デジタルコレクション)   ◇第二号(明治十七年十月届)   〝柴田是真(出品)宋李龍眠筆十八天像 一幅〟  ◯『現今日本画家人名録』大阪(赤志忠七編 赤志忠雅堂 明治十八年三月刊)    (国立国会図書館デジタルコレクション)   〝円山派     東京 人物 渡辺省亭 良助    東京 人物 新井芳宗 周二郎     東京 人物 三島蕉窓 雄之助   東京 山水 柴田是真 順蔵     東京 人物 鈴木華邨 宗太郎〟    〈凡例によると、この人名録が収録するのは明治15年・同17年に開催された内国絵画共進会に出品した絵師〉  ☆ 明治十八年(1885)  ◯『大日本儒詩書画一覧』番付 東京(倉島伊左衛門編集・出版  明治十八年二月)   (東京文化財研究所・明治大正期書画家番付データベース)   〝画家部 東京 松本楓湖 五円以上        東京 勝川春亭 三円以下〟   〝画才  東京 柴田是真 二十円以上  画力  東京 猩々坊暁斎 二十円以上〟   〝画筆  東京 鮮斎永濯 十五円以下  画勢  東京 大蘇芳年  二十円以下〟   〝美画  東京 豊原国周 二十円以上  新画  東京 落合芳幾  二十円以上〟  ◯『東京高名鑑』(加藤新編 滝沢次郎吉出版 明治十八年十一月刊)   (国立国会図書館デジタルコレクション)   〝生田芳春 早川松山 橋本周延 長谷川雪光 長谷川周春 蜂須賀国明 梅素薫  豊原国周    大村一蜻 大竹国房 恩田幹延 尾形月耕  落合芳幾  渡辺省亭  河鍋暁斎 金木年景    竹内国政 月岡芳年 永島孟斎 村井房種  歌川芳藤  歌川国松  歌川国久 野坂年晴    松本楓湖 松本豊宣 松本芳延 小林清親  小林永濯  安藤広近  安藤広重 安達吟光    新井年雪 荒川国周 柴田是真 鳥居清満  守川国重  鈴木華邨〟  ☆ 明治十九年(1886)  ◯「東洋絵画共進会」(4月1日~5月20日 上野竹の台)   1『東洋絵画共進会出品目録』(滝川守朗編 今古堂 明治19年4月刊)    (国立国会図書館デジタルコレクション)   〝第四区 四條・円山・容斎・呉春・望月派    号 是真 円山派 田家雛祭 柴田順蔵 浅草区上平右衛門町             福禄寿  八十年  十一番地〟   2『東洋絵画共進会論評』(清水市兵衛編 絵画堂刊 七月刊)    銀賞 柴田是真   〝銀章を得し柴田是真の福禄寿の運筆は年老ひたりと雖とも練熟の力は自から翁の真面目を顕せり。農家    の密画は惣体不出来なれども間々名家に非されば此筆なしと思ふ箇所もあり〟  ◯『第七回観古美術会出品目録』(竜池会編 有隣堂 明治19年刊)   (第七回 観古美術大阪会 5月1日~5月31日 築地本願寺)   (国立国会図書館デジタルコレクション)   ◇第二号(明治十九年五月序)   〝柴田是真 是真旧製 黒地菊蒔絵印籠 一個(出品者)徳田多助         唐墨宝露台印籠 一個(出品者)斎藤政吉         羊置物 乾漆製 一個(出品者)森島修太郎〟   〝柴田是真(出品)山水游車図 絹本 自画 一枚            鴨蒔絵 桐木引戸 自描 二枚〟   ◇第三号(明治十九年五月序)   〝  ◯『書画一覧』番付 東京(児玉又七編集・出版 明治十九年届)   (東京文化財研究所・明治大正期書画家番付データベース)   〝画之部 浅草 大村英一 三円位        浅草 柴田是真 十円以上        ユシマ  河鍋暁斎 七円以上        浅クサ 松本楓湖 二円位        浅クサ 荒川国周 二円位〟  ☆ 明治前期  ※◎は判読できなかった文字   ◯「名家見立鑑」(発行人・鈴木繁)(『美術番付集成』瀬木慎一著・異文出版・平成12年刊)   〝当画屋新治郎    (見立ての文字判読できず)    小梅  鮮斎永濯(明治23年(1890)没)    福井丁 柴田是真(明治24年(1891)没)    浅クサ 淡島椿岳(日本画家・梵雲庵淡島寒月の父。明治22年(1889)没)    米沢丁 小林清親(大正4年(1915)没)    ◎◎丁 荒川国周(明治33年(1900)没)    浅クサ 松本芳延(明治23年(1890)没)    神田  月岡雪貢(切金砂子師、月岡儀兵衛。没年未詳)    本郷  猩々暁斎(明治22年(1889)没)    〈この番付は明治十年代のものか。福井丁は浅草〉  ☆ 明治二十年(1887)  ◯『東京府工芸品共進会出品目録』上(東京府工芸品共進会編 有隣堂 明治二十年三月刊)   (東京府工芸品共進会 上野公園内 3月25日~5月25日)   (国立国会図書館デジタルコレクション)   〝第六類 各種絵画(262/327コマ~281/327コマ)   〝柴田是真 密画 高砂 一枚 疎画 虎 一枚 浅草区上平右衛門町〟  ◯『東京府工芸品共進会品評報告』(山崎楽編 敬業書院 明治二十年十月刊)   (国立国会図書館デジタルコレクション)   「第六類(各種絵画)品評」   〝同派(円山派)柴田是真ノ虎ノ瀑ヲ望ムノ図及高砂ノ図ハ共ニ意匠好キ方ナリ、八十一年モ高齢ニテ此    技倆アルハ実ニ感服スベシ 但翁若シ日今ニ於テ筆ヲ止メタランニハ 是迄描キタル絵画ニ一層ノ声価    ヲ得ベシ〟(25/48コマ)  ☆ 明治二十一年(1888)  ◯『明治廿一年美術展覧会出品目録』1-5号(松井忠兵衛・志村政則編 明治21年4~6月刊)   (日本美術協会美術展覧会 上野公園列品館 4月10日~5月31日)   (国立国会図書館デジタルコレクション)   「新製品 第五号」    柴田是真     深山幽渓図  一幅(出品者)榛原直次郎     漆絵農家図額 一面〟  ◯「読売新聞」(明治21年10月27日付)   〝是真翁の訓語(おしへ) 柴田是真翁は近ごろ微恙に罹られ矍鑠たる気力は減ぜねど 八十二歳の高齢な    れば 養生最も肝要なりと 医者は当分絵を書く事と 酒を呑む事を禁じたり 翁にとりては此の禁は    最も堪へがたきものにて 我年来右の手に筆を持たねば 必ず左の手に盃を持つ 絵と酒が即ち我性命    なり 是を禁(と)めては死ぬの優れるに如かざるなりと かたられたりと 我日(あるひ)見舞に来たる    門弟を集め 真斎は子なれど道につきては同じく弟子なり 我れ八十余歳まで随分骨を折りたれども     まだ心に満足せず 古人に対して恥づる所あり 御身等(おんみら)一層勉強して 彼人(あのひと)の師    匠は是真といふもので有りしと云はれて呉れよ 是真の弟子に云々(これ/\)の弟子の者ありしと云は    るゝにて終る莫(なか)れ 医師の詞に病は重からずといへど 百まで生きても先は知れたものなり 此    詞長く忘れ玉ふなと 機嫌よげに語りたりと 一芸に秀(ひい)づる者の詞 まことに味ひありといふべ    し 宜(むべ)なり 翁の門に子息の外 応真 泰真 竹真 島女其他の高手を出だせしことや〟  ☆ 明治二十二年(1889)  ◯『明治廿二年改正新版書画名家一覧』番付 東京(児玉又七編集・出版 明治二十二年一月刊)   (東京文化財研究所・明治大正期書画家番付データベース)   〝(上段 東西筆頭:服部波山 瀧和亭)    本所 豊原国周  石切河岸 柴田是真    銀坐 鮮斎永濯  根岸   河鍋暁斎    (中段)    アサクサ 大蘇芳年     (下段)    アサクサ 松本楓湖  ヤゲンボリ 梅堂国政  アサクサ 五姓田芳柳〟    〈石切河岸は浅草平右衛門町にある〉  ◯『古今名家新撰書画一覧』番付 大阪(吉川重俊編集・出版 明治二十二年二月刊)   (東京文化財研究所・明治大正期書画家番付データベース」   ※( )はグループの左右筆頭    和画諸流    (京都 円山応挙) 京都 抱一上人  京都 田中訥言   東京 月岡雪鼎  大阪 岡田玉山     大阪 長山孔寅  画  菊池蓉斎  尾州 浮田一蕙  (京都 尾形光琳)    (東京 瀧和亭)  大阪 松川半山  尾州 小田切春江  大阪 鈴木雷斎     大阪 長谷川貞信(京都 久保田米僊)    (東京 月岡芳年) 大阪 藤原信一  東京 歌川国松   東京 河辺暁斎/サカイ 中井芳瀧     東京 小林清親  大阪 若林長栄  東京 柴田是真  (東京 尾形月耕)  ◯『東京大画家派分一覧表』東京 児玉友三郎編輯・出版 明治二十二年十二月刊   (東京文化財研究所・明治大正期書画家番付データベース)   〝円山派 柴田是真 上平右衛門丁〟  ◯『皇国古今名誉競』東京(児玉又七編集・出版 明治二十二年十月刊)   (国立国会図書館デジタルコレクション)(『番附集』所収)   (例 智仁忠 勝安房  智仁孝 平 重盛)   〝新画白 猩々坊暁斎  上画罪 英 一蝶    新画  柴田是真   仏画  どもの又平    細画  葛飾北斎   名画  瀧 和亭〟    〈この「皇国古今名誉競」は。明治14年の番付集『東京じまん』が収録する同名番付を踏襲したものだが、今回は     北斎と瀧和亭が加わる〉  ◯『書画集覧』「明治廿二年改正新版」番付 東京(長谷川常治郎編集・出版 明治二十二年刊)   (東京文化財研究所・明治大正期書画家番付データベース)    欄外「順席不同御容赦下され候」〈相撲番付のように字の大きさは異なる〉   〝書画高名家     柴田是真 平右ヱ門町  松本楓湖 栄久町   鮮斎永濯 小梅村  河鍋暁斎 金杉村     尾形月耕 ヤサエ門丁    英一晴  平右ヱ門丁     渡辺省亭 東三スジ丁〟  ☆ 明治二十三年(1890)  ◯『東京市中案内大全』東京(磯江潤他編 哲学書院 明治二十三年三月)   (国立国会図書館デジタルコレクション)   「第十七章 諸名家 書画名家」152/170 コマ   〝英一晴  浅草平右衛門町   梅堂国政 日本橋薬研堀町 豊原国周 本所    尾形月耕 京橋弥左衛門町   渡辺省亭 浅草東三筋町  大蘇芳年 浅草    柴田是真 小石川石切川岸(ママ) 鮮斎永濯 京橋銀座〟    〈浅草平右衛門町石切河岸が正しい〉  ◯『東京名勝独案内』東京(豊栄堂 明治二十三年四月)   (国立国会図書館デジタルコレクション)   「書画之部」23/29 コマ   〝豊原国周  三筋町  柴田是真 石切河岸  鮮斎永濯 銀座    香朝楼国貞 両国   後藤芳景 日本橋   大蘇芳年 浅草〟  〇『新編東京独案内』(伊藤栄次郎 金麟堂 明治二十三年四月刊)   (国立国会図書館デジタルコレクション)   「書画有名家居所」   〝松本楓湖 浅草区栄久町   尾形月耕 京橋区桶町     歌川国松 京橋区銀座二丁目裏通    梶田半古 本所亀沢町    英一晴  浅草新平右衛門町  月岡芳年 根岸宮永町    柴田是真 浅草新平右衛門町〟  ◯『至極重宝』(森知幾編 内田書店 明治二十三年五月刊)   (国立国会図書館デジタルコレクション)   「東京著名書画及詩文家住所姓名」の項   〝柴田是真 浅草上平右衛門町十一番地    松本楓湖 浅草栄久町四十二番地    鮮斎永濯 小梅村〟  ◯『東京百事便』東京(永井良知編 三三文房 明治二十三年七月)   (国立国会図書館デジタルコレクション)   「画家」262/413 コマ   〝柴田是真 浅草区上平右衛門町十一番地 円山派にして得意は人物なり                       画法多く洋人の為に賞賛せらる〟  ◯『明治諸大家書画人名一覧』東京 松雲堂出版 明治二十三年刊〈凡例に「庚寅初秋」とあり〉   (東京文化財研究所・明治大正期書画家番付データベース)   〝絵画ノ部〈原典の金額は漢数字だが算用数字に改めた〉    是真 金3円  (凡1円50銭以上8円迄)柴田是真    省亭 金2円50銭(凡1円25銭以上6円迄)渡辺省亭    芳年 金2円50銭(凡1円25銭以上6円迄)月岡芳年    周延 金2円  (凡1円以上5円迄)  橋本直義    国松 金2円  (凡1円以上5円迄)  歌川国松    月耕 金1円50銭(凡75銭以上3円迄)  尾形月耕    国周 金1円50銭(凡75銭以上3円迄)  豊原国周    米僊 金2円  (凡1円以上5円迄)  久保田米僊〟   「本表ノ価格ハ凡テ小画仙紙、聯落ニテ執筆家ノ随意ニ依頼スルノ格トス。全紙ハ右ニ二割半或ハ三割ヲ    増シ半折四五、字額ハ同二割半或ハ三割ヲ減ズ、絖地絹地ハ別ニ其代価ヲ加フ〈以下、屏風や画賛物などへ    の規定あり〉」  ☆ 明治二十四年(1891)(七月十三日没・八十五歳)  ◯『第三回内国勧業博覧会審査報告』p120(第二部美術、第四類美術工業、漆器)   (国立国会図書館デジタルコレクション)   〝妙技一等 海浜図額 柴田順蔵〟〈柴田是真〉   〝柴田順蔵氏ノ蒔絵ハ一機軸ヲ出セルモノニシテ、髹面専ラ筆意ヲ寓シ、巌石水波毎ニ奇峭ノ状ヲ呈シ、    奔流ノ勢ヲ現ハシ、ソレノ細密ノ曲線ヲ驟メテ水トナシ、濃厚ノ金髹ヲ堆(うづたかく)シテ石トナセル    古来ノ描法ヲ変ジ、新ニ一派ノ是真風ヲ開キタリ、而シテ其余技又漆画ナルモノヲ発明シ、墨画ト同ジ    ク一種ノ紙面ニ揮灑スルコトニ至レリ。出品中海浜ノ図ハ潮流将ニ退カントシテ、岸ヲ拍テ巌ニ激シテ    飛花ヲナス、蝦児留後(ママ注)シテ其間ニ一躍ス、硬甲長鬚宛然トシテ真ニ逼レリ、其図意ノ奇警ナル翁    ニアラザレバ能ハズ。翁夙ニ絵画ヲ以テ名アリ。其数十年図スル所悉ク自家ノ新案ナラザルハナシ。胸    中既ニ画アリ、而シテ漆中又筆アリ、故ニ以テ此奇製ヲ作スヲ得ルナリ、其一等妙技賞ヲ賜ハルモノハ、    唯ニ翁ガ意匠ヲ尚ブノミナラズ、其髹法モ亦自カラ一世ヲ超出スレバナリ、翁ノ技ハ愛ス可ク、翁ノ人    ト為ナリハ重ズ可シ。然レドモ我邦蒔絵ノ悉ク翁ノ風ニ傚ハンコトヲ願ハズ。抑(そもそ)モ翁ノ蒔絵ハ    実ニ清新慧巧ノ観ヲ成スト雖ドモ、稍精緻温厚ノ趣ニ乏シク、且ツ其工ヲ施スヤ、古来描金ノ法ニ比ス    レバ大ニ同ジカラザルモノアリ。故ニ他人若シ此ニ傚フテ一タビ誤レバ、陥リテ奇僻トナルモ亦未ダ知    ルベカラズ。翁ノ技アレバ則チ可ナリ、翁ノ技ナケレバ不可ナリ。翁ニ学ブ者勉テ其取捨ヲ詳カニセザ    ルベカラズ〟    〈(注)別評ニハ「銀波巌ヲ掠メテ去リ、蝦児落後ス」ともあり〉   「美術総論」博覧会受賞歴     漆工 柴田是真(p281)    明治6年 墺国維納府大博覧会  進歩賞 〈1873年・ウィーン万国博覧会〉      9年 米国費府大博覧会   賞牌  〈1876年・フィラデルフィア万国博覧会〉      22年 仏国巴里大博覧会   金賞  〈1889年・バリ万国博覧会〉      10年 第一回内国勧業博覧会 龍紋賞 〈1877年・博覧会・上野公園〉      14年 第二回同上      妙技一等〈1881年・博覧会・上野公園〉      23年 第三回同上      一等妙技〈1890年・博覧会・上野公園〉    四条派 柴田是真(p283)      14年 第二回内国勧業博覧会 妙技一等      17年 第二回内国絵画共進会 銅賞  〈1884年・展覧会・上野公園〉  ◯『古今博識一覧』番付 大坂(樋口正三朗編集・出版 明治二十四年六月)   (東京文化財研究所「明治大正期書画家番付データベース」)   〝方今現存画人円山派人名一覧     円山派 東京 渡辺省亭 新井芳宗 三島蕉窓 柴田是真 鈴木華邨〟    〈この番付が出て約一ヶ月後の明治24年(1891)7月13日、是真は85歳で亡くなる〉  ◯『東京掃苔録』(藤波和子著・昭和十五年(1840)四月序 八木書店 昭和48年版)   〝浅草区 称福寺(今戸町二ノ八)真宗本願寺派    柴田是真(漆芸家)通称順蔵、対柳居と号す。蒔絵、絵画共に優れ、漆画もよくす、帝室技芸員。明治    二十四年七月十三日没、年八十五。弘道院釈是真居士〟    ☆ 没後資料  ☆ 明治二十五年(1892)     ◯「双六年表」〔本HP・Top〕   「花こよみ」「是真画」玉明堂 明治25年12月 ②⑥⑪  ☆ 明治二十六年(1893)  ◯『新撰東京実地案内』東京(一二三散史 薫志堂 明治二十六年十月)   (国立国会図書館デジタルコレクション)   「府下雷名書画文人一覧」   〝英 一晴 浅草新平右衛門町  渡辺省亭 浅草西鳥越町     松本楓湖 浅草永久町四十二  柴田是真 浅草上平右衛門町〟  ☆ 年代未詳    ◯『武江扁額集』(斎藤月岑編・文久二年(1862)自序)   ◇奉納年未詳   (月岑の識語に「遍昭図」とあり)    落款 〝是真〟    識語 「大川端細川侯御◎清正公社 額堂」「遍昭図」    「幅一間 柴田是真筆 壬戌十月廿四日◎◎摸之」    〈「名にめでて 折れるばかりぞ 女郎花 われ落ちにきと 人にかたるな」いわゆる「僧正遍昭落馬図」である。「壬戌」     は文久二年(1862)〉
   『武江扁額集』「遍昭図」是真画(国立国会図書館・近代デジタルライブラリー)    ◯「双六年表」〔本HP・Top〕   「花こよみ」「是真画」桐葉社 ② 此中庵編     ◯「日本古典籍総合目録」(国文学研究資料館)   ◇分類なし(刊年未詳)    柴田是真画『四方のしをり』一冊 今井主人編          綾岡・是真・狂・輝久・嶋洲・一漁人・千・永海・圭岳・覧雪・雪僊画    ☆ 没後資料  ☆ 明治二十六年(1893)      ◯『明治廿六年秋季美術展覧会出品目録』上下(志村政則編 明治26年10月刊)   (日本美術協会美術展覧会 上野公園桜ヶ岡 10月1日~10月31日)   (国立国会図書館デジタルコレクション)   〝柴田是真 秋草小禽図 一幅(出品者)大畑多右衛門〟  ☆ 明治二十七年(1894)  ◯『日本美術画家人名詳伝』補遺(樋口文山編 赤志忠雅堂 明治二十七年一月刊)   (国立国会図書館デジタルコレクション)   〝柴田是真    対柳居と号す 幼名順蔵 其の父は祠堂の彫刻師市五郎と云ふ者の男也 幼時蒔絵を坂内重兵衛に習い    画を鈴木南嶺に学び 又西京へ出て岡本豊彦の門に入る 洛東三聖の什物李龍眠の筆十六羅漢を臨模す    皆成ずして帰国す 其の後画を益々勉励なす 其の時南嶺より是真の号を贈る 其の後三聖寺什物羅漢    の幅 売品となる 是二百五十金を投じて夫れを購求して摸写の跡を続ぐ 明治五年に延達館の屏壁を    画き 且つ内外の図画博覧会に出品して 褒賞を得る事数度 明治廿三年帝室技芸委員となる 近年内    国美術の進歩を補助せし事枚挙に遑あらず 明治廿四年七月十三日没す 年八十五〟  ◯『明治節用大全』博文館編輯局 明治二十七年四月刊   (国立国会図書館デジタルコレクション)※(かな)は原文の読み仮名   「古今名人列伝 技芸家の部」(113/644コマより)   〝柴田是真伝    氏は江戸の人。文化四年二月生る。幼名を亀太郎と云ひ、後ち順蔵と称す。是真は其号なり。又対柳居    とも号す。文化十四年、坂内寛哉(くわんさい)の門に入りて蒔絵を学び、又鈴木南嶺に随ふて画を学ぶ。    文政七年、京都に上り岡本豊彦の家に遊びて、猶ほ画法を究め、天保二年江戸に帰り、初めて蒔絵を業    とす。当時南嶺氏に贈るに是真の号を以てす。又奈良に遊び有名なる蒔絵師・穂井田(ほいだ)忠友に就    きて、故実有職の事を質問し、頗る古書に通ず。天保十二年、東北に遊び名山勝地を巡遊し、帰りて後    ち青海波塗を発明す。爾来、氏の蒔絵及び絵画を需(もとむ)るもの多く、画名天下に鳴る。明治廿二年、    憲法発布の際、八十三年の高齢を以て養老の盛典に与かり、廿三年中賞勲局より銀盃を賜はり、絵画に    於ける熱心を賞し玉ふ。明治廿四年歿す。門人頗る多し〟   〈明治22年2月、明治憲法の発布を祝って、80歳以上の高齢者に養老賜金が下付された〉  ☆ 明治二十八年(1895)  ◯『時代品展覧会出品目録』第一~六 京都版(大沢敬之編 村上勘兵衛 明治二十八年六~九月)   (時代品展覧会 3月25日~7月17日 御苑内博覧会館)   (国立国会図書館デジタルコレクション)   〝「第一」明治大家ノ製作品(50/310コマ)    一 春秋田畝・雀図 柴田是真筆 伊吹義八郎君蔵 滋賀県東浅井郡    一 三條相国画   柴田是真筆 嘉楽校蔵    京都市上京区〟   〝「第五」明治大家ノ製作品(247/310コマ)    一 春秋田畝雀図 双幅 帝室技芸員 故柴田是真 伊吹義八郎君蔵 滋賀県東浅井郡〟  ◯『新古美術展覧会出品目録』(藤井孫兵衛編 合資商法会社 明治28年10月刊)   (京郵美術協会 新古美術品展覧会 10月15日~11月25日 元勧業博覧会場内美術館)   (国立国会図書館デジタルコレクション)   〝古物品之部    柴田是真 飛泉図 一幅(出品者)東京 森清右衛門君蔵〟  ☆ 明治二十九年(1896)  ◯『名家画譜』上中下 金港堂(12月)   (国立国会図書館デジタルコレクション)   〝上巻 目録 故柴田是真「幕廷張能楽」〟  ☆ 明治三十年(1897)  ◯『古今名家印譜古今美術家鑑書画名家一覧』番付 京都    (木村重三郎著・清水幾之助出版 明治三十年六月刊)   (東京文化財研究所・明治大正期書画家番付データベース)   〝近代国画名家〈故人と現存とを分けている〉    ※Ⅰ~Ⅳは字が大きさの順。(絵師名)は同一グループ内の別格絵師。    〈故人の部は字の大きさでⅠ~Ⅳに分類。(絵師名)はそのグループ内の別格絵師〉    Ⅰ(狩野探幽・土佐光起・円山応挙)酒井抱一 渡辺崋山  伊藤若沖    Ⅱ(谷文晁 ・英一蝶 ・葛飾北斎)田中訥言 長谷川雪旦    Ⅲ(尾形光琳・菊池容斎・曽我蕭白)岡田玉山 司馬江漢  浮田一蕙 月岡雪鼎 高嵩谷      蔀関月    Ⅳ 大石真虎 河辺暁斎 上田公長 柴田是真 長山孔寅 英一蜻  英一蜂 佐脇嵩之      高田敬甫 西川祐信 橘守国  嵩渓宣信 英一舟  葛飾為斎〟    〈江戸時代の大家に匹敵するとの格付けである〉  ☆ 明治三十四年(1901)    ◯『明治東京逸聞史』②p66「文録堂」明治三十四年(森銑三著・昭和44年(1969)刊)    〝文禄堂 〈東京名物誌(松本道別著)〉     文禄堂の主人堀野文禄は、京の藁兵衛の名で知られる滑稽文学者であるが、その人が一昨年から出版    業を始め、意匠に体裁に工夫を凝らし、用紙から印刷まで、五分の隙もない、灰汁抜けした本を出して、    「団々珍聞」をして、「凝り屋の総本家」と呼ばしめるに至った。文禄堂の処女出版は「滑稽類纂」で、    それが大いに好評を博した。それについて堀野氏は、「日本五大噺」を版にした。これは馬琴の戯作を    作り替え、桃太郎、花咲爺、舌切雀、猿蟹合戦、かちかち山の五つの話を打ってまろめて一つの話とし    た面白いもので、表装にも、口絵にも、挿絵にも善美が尽してある。     堀野氏が昔話に熱心なことは全くの予想外で、その店は昔話風の装飾で充たしてある。格子戸を開け    て入ると、店の正面には是真が丹青を凝らした桃太郎の絵が掲げてある。月耕その他の昔話の絵の貼交    ぜがあり、それが額にもなっている。左方の楣間に、抱一の筆の「昔噺亭」とした額がある。氏はその    間に在って筆を執り、牙籌にも携わっている。     こうした特色のある書肆も、十年と続かないで閉店するに至ったのが惜しい。道楽の勝ち過ぎていた    のが禍したのかも知れない。    「滑稽類纂」「日本五大噺」とは、共に堀野文禄その人の編著で、今見てもなつかしい書物となってい    る。その他文禄堂の出版物には、この店一流の凝り方が、それぞれにあって、一つ一つが楽しい書物に    なっているのに感心する〟  ☆ 明治三十九年(1906)  ◯「集古会」第五十八回 明治三十九年五月 於福田家(『集古会誌』丙午巻之四 明治39年9月)   〝村田幸吉(出品者)是真肉筆 水虫之図 団扇 一本〟  ☆ 明治四十年(1907)  ◯「集古会」第六十二回 明治四十年三月 於青柳亭(『集古会誌』丁未巻之三 明治40年11月刊)   〝有田兎毛三(出品者)是真筆 追灘図 一幅〟  ☆ 明治四十二年(1909)  ◯「集古会」第七十三回 明治四十二年(1909)五月 於青柳亭(『集古会誌』己酉巻四 明治43年6月刊)   〝大橋微笑(出品者)是真・広重 富士真景合装 一幅〟  ◯『滑稽百話』(加藤教栄著 文学同志会 明治四十二年十一月刊)   (国立国会図書館デジタルコレクション)   ◇柴田是真(39/123コマ)   〝柴田是真其の子の教訓す    饗庭篁村が読売新聞の編輯に従事せし頃、柴田是真が日の出の勢あるを、石切河岸に訪ひしが、偶々不    在なりしを以つて、せめては是真が平生の様子にても聞かんと、長男の令哉が応接に出てたるに「御尊    父のお噂はかねて承はつて居るが、不幸にして未だ御目にかかつた事がない、子供衆に対しては定めて    有益なる御教訓もあるべし、一体どういふ様に導かれるか、お差支なくば後学のため、小生への御伝へ    下されたい」と、尋ねければ、令哉頭を掻きながら「エ-、別に之と申して御話をする程のことも御ざ    らぬが、父は平生私に向つて、貴様は後世から是真の子に令哉ありと云はれるな、令哉の父は是真と云    ふ者ぢやと言はれろ」と、口喧しく申し居れり、其の外のことは一寸考へ出せずと、答へたれば、篁村    座を退つて平伏し「天晴名匠の御教訓、小生までも有益の学問を致しました、御尊父が言葉づかひの意    匠の巧なことは、又格別のことと感服仕る」とて厚く謝して帰りしといふ〟    ◯「集古会」第七十九回 明治四十三年(1910)九月(『集古会誌』庚戌巻五 明治44年7月刊)   〝吉田久兵衛(出品者)是真図案 富士筑波手拭 一筋〟  ◯「集古会」第八十七回 明治四十五(1912)年三月(『集古会誌』壬子巻三 大正2年9月刊)   〝池田金太郎(出品者)是真筆 三谷堀芸妓小まんの影絵 一幅〟  ◯『浮世絵』第二号(酒井庄吉編 浮世絵社 大正四年(1915)七月刊)   (国立国会図書館デジタルコレクション)   ◇「千社札と浮世絵」扇のひろ麿(13/24コマ)   〝(文化時代から慶応末年にかけて浮世絵の納札(おさめふだ・千社札)を画いた画工)    国貞 国周 国輝 国峰 歌綱 是真 狂斎 綾岡 光峨(その他の画工名略)〟    〈本HP「浮世絵事典」【せ】「千社札・色札」参照〉  ◯「集古会」第九十六回 大正三年(1914)一月(『集古会志』甲寅二 大正4年10月刊)   〝高橋長秋(出品者)是真筆 虎尾扇 一柄〟  ◯「集古会」第百一回 大正四年(1915)一月(『集古』庚辰第四号 昭和15年9月刊)   〝有田兎毛三(出品者)是真画 七福神 摺物 三枚続〟  ◯『こしかたの記』(鏑木清方著・原本昭和三十六年刊・底本昭和五十二年〔中公文庫〕)   ◇「発端」p8   〝(幼児期、鍋屋の媼(ウバ)に茨木童子の絵をせがむ)そうだとすると前以って私に予備知識が無けれ    ばならないことになる。そこで考えられるのは、絵か芝居でその前に茨木童子を知っているということ    で、絵なら王子稲荷にある有名な是真の絵か、芝居なら明治十六年四月の新冨座に、黙阿弥が新しく書    いた「茨木」がある。それと同じ図でやはり是真の絵馬が浅草観音堂にもあったのだが、これはその時    に是真が菊五郎の為にかいて、新冨座からそこへ納めたものと記憶している。菊五郎の茨木はその扮装    (コシラエ)を是真の絵に拠ったと見て謬(アヤマ)りはないであろう。同じ年の十月興行「実録十人斬」で、菊    五郎が白塗でない惣髪の福岡貢を演じたのも憶えているから、鍋屋の媼に註文を出したのは、恐らく    「茨木」の芝居を見てからのことであったろう〟     ◇「柴田是真とその一門」p60   〝 わたしの家と柴田是真の一門とは、近しい付合があった上に、父がとりわけ是真びいきであったから    季節に応じて床の間に幅の多くは是真のものであり、また母が好んで挿した櫛等や、手廻りの調度は、    悉く是真の高弟泰真の手になる蒔絵であった。そんな関係で、幼少から眼に触れて来たこの派の作物に    は今以て格別な親しみを覚えるのである。     文化四年(1807)に江戸両国橘町の宮彫師、柴田市五郎の子に生れた是真は、十一歳で古満(コマ)派    の蒔絵師坂内寛哉の弟子になり、十五の年には江戸の四条派鈴木南嶺に画を学んだ。蒔絵師にとって、    ひととおり画をかく素養は必要とされていたからであろうが、四条派を習っているうちに、凡ならぬ是    真の画才は、工芸の下地としての学習にとどまるのを許さなかったのは自明の理であったろう。恐らく    南嶺の慫慂(ショウヨウ)もあったと見てよいであろうが、二十四で、南嶺の添書を携え、京に上って岡本豊    彦の教えを受けた。その頃は何芸によらず、修行をするには上方でと云うのが常識になっていたので、    その過程を了えて江戸へ帰った是真は時好に適って、画でも、蒔絵でも、すばらしい躍進を遂げて世に    持て囃され、明治の新時代にはいって名声はいよいよ高まるばかりであった。初めて国会の開かれた明    治二十三年(*1890)には美術奨励の為めに、帝室の思召とあって「帝室技芸員」制度が宮内省に設けら    れたが、画家としては寛斎、草雲、永悳(トク)、雅邦、貫魚の五名が選に上り、是真は蒔絵の方で選ばれ    ている。この時是真は八十四歳、あくる二十四年に歿しているが、もうごく晩年には殆ど蒔絵の作は無    かったのだと思うし、世間では画名の方が高かったので、恐らく銓衡に当たった人達の間にも各論あっ    たに相違ない。     画にしても、蒔絵にしても、是真の特色は機智に富んで意匠にすぐれたところのある。是真が生れて    育った文化、文政は、江戸文明がいくたびか開花した、その最後の、爛熟し、洗練され、粋(イキ)だとか、    洒落(シャレ)だとか言って、当時の文化人が覓(モト)めていた花の、触(サワ)らば散らん花盛りであった。そ    れで思い寄るのは酒井抱一で、抱一と是真とは文献で伝えられる直接の交渉はとんと見ていないが、本    人は意識したか、しないかは問わず、是真を抱一に続けて考えることは許されてよかろう。一方が大名    の家に生れ、一方は市井の職人の家に生れた差と、天明と文政との時代差が、そのまま作品に影響して    いるのは当然として、蒔かれた種子は属を同じくすると見える。抱一は狩野も土佐も円山も修めて琳派    に赴いたが、是真の前の師匠南嶺の師南岳にも就いたことがあると伝えられる。是真の生れた年に抱一    は四十七、是真が豊彦に入門するのに僅か先立って抱一は六十八で歿しているが、上人の敬称で最も世    間に騒がれた時代を共に生きていたのである。抱一は「屠龍の技」で知られるように俳人としても著名    であるが、是真もまた俳句を嗜んで、画中に俳味の漲るのは共通した特長と誰も見る。私の経て来た時    代には、この抱一から是真に通(カヨ)って来た一派の風流がそこはかとなく漂っていた。旧幕臣の洋画家、    渡辺省亭はそれぞれ画の流儀は違っても、心はどこかで一つに触れ合うものを持ち伝えていた。     今日のように力作偏重の時世でもなかった上に、是真の妙所は軽快、洒脱、特に意匠に優れたところ    を賞するので、勢い大作は尠く、没後三、四回開かれた遺作展の出品をみても、覆紗画(フクサガ)きのも    のに、この人ならではと掌を拍(ウ)って讃嘆するのを多く見出すのであった。蒔絵には、榛原の葡萄の    飾棚を見ているが、画の方では壮時の作、王子稲荷扁額の「茨木の図」が代表作とされている。「国華」    百九十五号に色刷りの縮写があって、その解説によると、天保十一年(1840)、二十四歳の作とあるが、    その年齢は生年の文化四年と歿年の明治二十四年(1891)から推算して三十四歳の誤記であろう。     少し岐路にはいるが、この額について伝えて置きたい挿話がある。今は故人となったが私と同門の友    人で、後に日本美術院の同人になった荒井寛方が、ある時、王子稲荷の社頭に掲げてあるこの有名な額    の下地の金箔がところどころ浮き上っているのを見つけて、この儘に放置して年を一日も放って置くべ    きでないと説得した上、何の報酬も要らないから自分に補修させるようにと申し出た。社司もこの奇特    な申出を容れて、荒井君は相当長く掛ってこの面倒な仕事を仕了(オオ)せた。額を下ろして、剥がれかか    った箔と板との間に膠を差し込み押さえてゆくのは容易な業ではなかったろう。荒井君は若い頃国華社    に勤めて古画の模写に励み、後にはアジャンタ壁画の大規模な模写に当たったことは有名であるが、そ    ういう人だから従って古画の補修にも自信がはあったにしても、頼まれもしないのに我から進んで難儀    な仕事を買って出た芸術家の良心と勇気とは、称讃されていいことと今でも快い思い出に残っている。    古人は総じて律義(リチギ)だから、是真も地下で、これを徳としているであろう。     私が年々五月の五日に欠かさず掛ける「鍾馗」の小幅がある。濃朱に白く円窓を抜いて、そこに半身    の鍾馗が、逃げる小鬼を睨んでいる図で、七十七是真とある。これは私の初の節句に画いてもらったも    のと聴いていたが、年を繰って見ると明治十六年(1883)、私が六歳の時になる。それにしても震災だ    の戦災だのに遭いながら、七十何年か端午の節句にこの掛物を掛け通して来たことは感慨深いものがあ    る。この他に小指二節ほどのごく小さな竹の文筥(フバコ)の拭漆(フキウルシ)したものに、小菊の折枝と、文    筥を結ぶ組紐に紙片をゆわえた蒔絵のしてある、これも是真の作である。硬い織物に金糸で定紋を縫い    などした守袋の巾着を、昔の子供は角帯を通して誰しも提げるのが慣いになっていた。この蒔絵の文筥    はその緒締にしたものである。     こうした話をするとたいそう富裕に育ったように聞えるかも知れないが、その時分趣味のよい暮らし    方をするのには、格別巨万の富を必要としないでも出来たので、下町に多かった是真愛好者の間では、    割合に汎くその作が行き亘っていたのである。     画と蒔絵のほかに、木版の絵と、独得の漆絵もあったが、それは鳥の子か雁皮のような面の滑らかな    紙へ、墨や絵具(エノグ)でなく漆を使って画を描くので、材料の性質から云っても、装飾的で工芸味に富    んだものになる。雛屏風(ヒナビョウブ)などが用途として最も好もしく思われた。木版画はその灰汁(アク)脱    (ヌケ)のした彼一流の奇才を揮うのに誂え向の素材で、嘗つて日本橋の榛原の主人が是真芸術の有名な愛    好者だった関係で、一枚摺のものや、団扇、扇子、また配りものにする刷物がいろいろあった。この刷    ものと云うのは、俳人が年の始に自句を披露する「春興」の刷物とか、文人、役者、その他の芸人が名    びろめ、引退、追善、などに当たってそれぞれ関係者の間に配るもので、いずれも紙を択り、摺を吟味    し、趣向を競ったが、誰も彼も是真の筆を得るのを誇りにした。河竹黙阿弥が明治十四年(1881)十一    月に一世一代の作として「島鵆(チドリ)月白浪」を残して、立作者から引退する時に出来た「引しほ」と    云う題の、岩がくれの砂地に颯と汐が退(ヒ)いて、弁慶蟹が鋏を立てている是真の図は、こうした刷物    の代表的なものとして評判になったものである。     私などの経験に依ると、何に限らず昔の人は物を大切にしたこと今人の考え及ばないものがあった。    是真もたいそう紙を大切にする人で、こまかい裁ち落としでも、丸めて捨てるようなことをせず、始末    よく溜めて置いては、時に応じて興の赴くままに、例の俳味横溢した市井風物詩的な小品を、メモでも    付けるように心易くかきのこして行ったらしいのが、他のいろいろな筆跡と共に、死後はるかに年を隔    ててからまで、長持に収められて子孫を霑(ウルオ)すこと久かったそうである。私の手元にもそうしたも    ののいくつかを蔵している。     逸話のたぐいも折々散見するけれど、ここには少年時に家人から聴いたままのものを書き付けて置こ    う。是真の没年は私が画を習い始めたのと同時であったが、直接にも、間接にも知る機を得なかった。    今までにもついぞ写真を見たこともないが、至って小男で、いつ頃からかズッと坊主天窓(アタマ)であっ    たらしい。いつも雪駄穿(バ)きで、踵が隠れるほどの着流しに、黒縮緬の門付を裾長に着ていたという。    ある文献には黒羽二重とある。これは職分としてそれが普通と考えられるが、私には祖母から聴かされ    た、黒縮緬のゾロリとしたちょっと異様な風体が、いかにもその人と時代を窺わされる気がしてならな    い。私の祖母は鉄砂洲稲荷の社司の家から代地の第六天の社司鏑木の家に嫁いで来た人であるが、その    境内に是真の一の弟子池田泰真が住んでいて、そこへ折々前に云ったような様子をした是真が訪ねてく    るのに出合うことがあったそうである。江戸育ちには、あまり高名な人に接するのを何となく避ける性    分があるので、そんなふうを目敏く見付けると、許前の高声で「御新造」と呼びとめて、「柴田是真は    何も取って咥(ク)おうとは申さぬのに、」と皮肉を云われて当惑するとのことであった。     維新前後にかけて、朝日鶴之助と云う美男の人気力士があった。父採菊が小説にも書いているが、常    に芸人の好きな是真は殊のほかこの力士を贔屓にして何処へでも連れて行く。偶(タマ)に機嫌ききに来合    せた時、潤筆料が手にはいると、水引の懸かったまま懐中に捻じ込んで、石切河岸の川沿いに柳橋まで、    前に云った通の坊主で小男の、黒縮緬の、雪駄穿きの、老人が、見上げるような相撲取、然も力士切っ    ての美男と云われる朝日嶽を随えての道行には、振り返って見ない人はなかったと云うが、さもあろう。     是真は俳諧にも長じ、茶人でもあった。茶の宗匠の後家が良人に先立たれて手元もうすく乏しい勝ち    な生活を気の毒に思って、弟子を世話をしたり、自分も茶会に出るようにして後援していたが、ある大    名華族の隠居が、大様な殿様形式で思いやりがなく、懐石の席へも毎々来て「世話であった」と云った    調子でぬっと構えている上に、そこの家に迷惑をかけることが度重なるのを腹に据えかねて、「後家の    ところへ来て始終食い倒して、何が大名だ、」と面罵したので、隠居は怒りに顫(フル)えて、世が世なら    ただは置かぬ、と云ったがどうもならず、是真はひとり溜飲を下げていい心持になっていたという。     御一新からそう間もない時であったろう。皇室から是真に蒔絵の御用命があった。東京府知事の楠本    正隆からそのことを伝えられたところが、光栄を欣ぶかと思いの外、是真はそれに難色を示した。自分    はきのうまで前公方(クボウ)様の御治世に人と成ったもので、云わばそれを倒した朝廷方の御仕事をする    のは気が済まないとの言分であった。維新早々の東京人にとっては恐らく在り得る心境と察しられる。    この楠本と云う人は、新潟県令をした時に市民から大層慕われたそうで、私どもでも御付合をしていた    が、お時さんと云われた美しい夫人も寔(マコト)に優しい人であった。     楠本知事は懇々と情理を尽して説得されたので、然らば御時世も違うこと故、忰令哉に御用命あれば    果報の至りとなかなかウンを言わなかったそうであるが、明治五年芝御浜離宮に延遼館に壁画を画いた    と云う記録もあるから遂に時世には勝てなかったものと見える。     是真の長男令哉は蒔絵を継承し、次男の真哉は画道で立った。令哉はまた竹木の細工に特殊な技能を    持っていたので、父の蒔絵に使う素材は概してこの人の手になったと云われる。私の手許にある二、三    の品に見ても巧みなものと感心されるが、蒔絵の遺品はまだ一つも接していない。真哉の画には寧(ムシ)    ろ謹直を云える、素質が窺えて、父の軽妙洒脱とは全く反対の風格を見る。私が八九歳の時、この人の    手本を貰って、白玉の椿、硯と筆、鏝と植木鉢の三枚を習ったことがある。稽古には年齢が早過ぎたと    見えて、あとは続かずそれきりになって了った。真哉は父の高弟池田泰真の養子になって池田姓を名乗    ったが、私はたぶん母に連れられて云ったのであろうが、それは養子縁組の前か後か分明でない。泰真    とは前にも述べたように古い付合があったので、私も何度か薬研堀の住居へは行ったことがある。この    人は明治二十九年(1896)に帝室技芸員になったが、是真が浅草上平右衛門町の石切河岸を通称で呼ば    れたように、薬研堀派を以って呼ばれていた。私の明確な記憶はごく晩年であるが、丈の高い、江戸の    生き残りの人によく見る長顔で、半白と云うよりは白髪の多いのを伸ばしたまゝ掻きあげた、温顔で物    静かな、見るから名匠と呼ぶにふさわしい好(ヨ)い風格を具えていた。工人、芸人、その職の何たるを    問わず、道を究めて到り尽した人のみに見られるゆたけさを、今にしてかえり見ると、先ずこの人の表    情が思い泛かぶ。久次郎と云って天保六年(1835)、十一の年で内弟子にはいって二十五の安政六年(185    9)に自立したという、第六天社内に一戸を構えたのがその時らしく思われる。是真は長生した母によく    仕えたということで、泰真がまだ内弟子でいた時分その実直さが老母の気に適って、銭湯の御供にまで    連れて行かれるので、これにはほとほと当惑したと後日によく述懐していたそうである。     真哉を養子に迎えた泰真は、師匠の息子のことではあり、泰真の人柄から推しても疎略のあるべき筈    はなかったが、惜しいことに、その結果は不幸に終わった。     私の幽かな記憶によると、真哉はごく寡言で、真面目な、ムッツリしたふうにも取られる、そんな点    は私の師年方にも似通っているが、師匠の方が明るかった。ああいう風格はいつの時でも画家や工芸家    には稀に見かけるところである。明治二十四年に「青年絵画協会」と云う、その名が示すように、同じ    伝統派ではあるが、極端な保守に慊(アキタ)らないで起った青年画家の芸術運動には、岡倉天心を会頭に    推し、真哉は同志の先頭に立って衆望を荷っていた。     真哉が柴田性に復帰したのは二十六、七年の内であったらしく、二十七年の絵画協会第三回共進会に    出て首賞になった「興福寺大塔図」には柴田姓になっている。翌二十八年の第四回には「加茂葵祭」を    出し、この時は全体の受賞率が低く、真哉、広業、丹陵等の幹部悉く一等褒状になっている。この展覧    会の終了して間もなく六月二十三日に真哉は突如自刃して世を去った。その動機については、揣摩憶測    が行われるばかりで真相は分からなかった。     芸術家に悩みの多いのは当然だけれど、真哉にも当時として断ち切り難い煩悶のかずかずが重なり合    ったことが想像される。そのなかの一つに父の画名のあまりに高く、その数寄者、後援者と云った層が    大きく、且つ経済上にも有力であったと推されるが、そういう間には真哉が、いわゆる是真風の画を継    承しないところになかなか強い抵抗があったように聴いている。私も真哉の作品にはごく僅かしか接し    ていないが、「興福寺大塔」は極めて正格な丸山派の描法で、この作品を見ただけでは革新的な野心は    認められないが、協会の統率者である岡倉天心の直接指導している美術学校には、観山、大観、春草等    の英才が満を侍して出番を待つ時期でもあった。真哉の死んだ翌年に、青年絵画協会は解体して日本絵    画協会となり、学校系の俊秀が脚光を浴びて、三十一年日本美術院が出来てから絵画協会はこれに併合    される形となった。真哉の享年は三十八歳である〟  ◯『罹災美術品目録』(大正十二年九月一日の関東大地震に滅亡したる美術品の記録)   (国華倶楽部遍 吉川忠志 昭和八年八月刊)    柴田是真画(◇は所蔵者)   ◇森岡平右衛門「浪兎図」蒔絵 残菜入 是真翁画鑑   ◇水天宮   「祇園油坊主図」額 明治六癸酉四月五日、東京和田平 横浜和田源 竪四尺 横五尺   ◇三越呉服店 「松亀図」風呂先   ◇中村茂八  「内宮外宮図」絹本着色 巾一尺三寸   ◇酒井正吉  「青海波図」漆絵 雛屏風 絹本金地貝尽   ◇細田安兵衛 「寿老鹿図」大幅 紙本着色 巾約五尺 立約一丈   ◇若尾謹之助 「絵具尽図」二曲屏風 一双   ◇松木平吉      「李龍眠写羅漢図」二幅/「富士三保松原図」金地漆絵    「御殿山花見図」   /「水墨四睡図」横物    「田園雑興図」双幅    浮世絵版画多数   ◇濤川惣助  「山水其他」漆絵 画冊 十二幀(八十余歳作 柴田家伝来)   ◇村越庄左衛門「梅樹鶴図」二曲屏風 絹本着色/「鳩に雁足跡図」蒔絵 文箱 是真翁画鑑   ◇中村直次郎※絵画以外は省略    「漆絵大画冊十八幀」一帖 孔雀 瀧山水 千鳥 秋草 梅 春草 天満宮等図 巾一尺五寸 竪一尺二寸    「中源氏絵端午図左右須磨明石図」絹本極彩色左右淡彩 巾一尺三寸    「草花画冊三十六幀」一帖 絹本極彩色 美濃紙大 佐野常民題字    「青竹図二曲屏風」 一隻 紙本青緑極彩色 裏墨画若松図    「彦根屏風写風俗図」六曲屏風 一隻 紙本極彩色密画     自選八画 八幅 絹本極彩色密画 幅各一尺三寸    「寿星宮図」「翠雀長春図」「武陵桃源図」「加茂神事図」    「水臨虎図」「瀧に郭公図」「仙山桃花図」「四季野菜図」    「養老孝子図」絹本極彩色密画 巾二尺三寸/「寿星宮図」 絹本極彩色密画 巾一尺二寸    「寿老図」  絹本極彩色密画 巾一尺二寸/「薔薇小禽図」絹本極彩色密画 巾一尺五寸    「香魚釣図」 絹本極彩色密画 巾一尺五寸/「文昌星図」 絹本極彩色   巾一尺三寸    「雲中鍾馗図」絹本淡彩    巾一尺三寸/「八仙人図」 絹本極彩色密画 巾一尺五寸    「月下萩図」 絹本黒地胡粉絵 巾一尺五寸/「富士筑波図」紙本墨画    巾一尺一寸    「瀧ニ小鳥図」絹本極彩色   巾一尺三寸/「舌切雀図」 絹本着色 軸是真 蒔絵鳥羽根張    「魚尽画冊五十幀」一帖 絹本極彩色   /「動物山水画冊五十幀」一帖 絹本極彩色    「漆絵地紙短冊画冊」二帖 /「漆絵小画冊」四帖    「金地蒔絵鶏図」額 一面 /「茅に鴨図」桐木地蒔絵 引戸    「山水図」 紙地漆絵 大額/「鶏図」  紙地漆絵 大額    「獅子図」 墨画   額 /「漆絵団扇」柄うるし絵 三十組    其の他是真作品各種大小数十点   ◇堀越福三郞(市川三升)    「表花車裏貝尽蒔絵」小襖   ◇平井恒之助    「四季花鳥」着色屏風 一双/「十二支図」二曲屏風 一双     蒔絵文庫/秋草蒔絵五重々箱   ◇船橋理三郞  尉姥蒔絵印籠   ◇松沢八右衛門 漆絵鯉図 横物   ◇金田兼次郎    「鵜飼図」絹本着色 巾一尺五寸 明治初年頃作     漆絵画帖 十二幀/欅材素彫福女 高一尺 天保二年作 是真翁画鑑   ◇喜谷市郎右衛門     四分一塗研出蒔絵秋草料紙硯箱     (長方形、高一尺、懸子あり、見込に銀にて月を嵌す、條野伝平の為に作る所)     扇面散図袋戸 二枚 桐地髹漆 立二尺四寸 巾一枚一尺四寸     (各扇面には高蒔絵、梨地、青海波、螺鈿等各種の手法を網羅せるもの也、国華二五一)   ◇別府金七    「雪柳鴛鴦図」絹本設色 巾一尺三寸六分 立三尺六寸六分    「蘆花鴛鴦図」紙本設色 巾一尺九寸五分 立四尺三寸七分    「青海波貝尽図」引戸 黒地貝入 高約三尺 是真翁画鑑   ◇神崎平二 漆絵書冊 二十余幀   ◇高木利八「風俗図」四曲屏風 一双 紙本設色 高約四尺五寸(国華九七)    (彦根屏風の翻案図にして、群女の墨画山水屏風を展観してゐるところ、石川光明旧蔵)   ◇小菅丹治 蒔絵波月文台/龍虎図料紙硯箱   ◇柴田敬哉 下平右衛門町(是真の孫にして、祖父伝来の蔵品の若干は持出したるが、大部分は焼失したり)    「水草図」/「荘子図」(右二点、絹本設色 京都の大典博に出陳せるもの)    ◯『狂歌人名辞書』p111(狩野快庵編・昭和三年(1828)刊)   〝柴田是真、通称順蔵、対柳居と号す、画を坂内寛斎、鈴木南嶺に学びて一家の画風を起し、特に漆画に    巧みなり、明治廿四年七月十三日歿す、年八十五〟    ◯「金龍山景物百詩」(二)(文久仙人戯稿 『集古』所収 昭和六年九月刊)   (国立国会図書館デジタルコレクション『集古』辛未(4) 9-10/13コマ)より収録)   (※ 返り点と送り仮名は省略)   〝鬼女額 柴田是真筆、五代目音羽屋の納むる所     羅生門鬼女 音羽屋於箱 額倩是真筆 奉懸大士堂〟〈「倩」は「雇(やと)う」と同義〉  ◯『浮世絵師伝』p114(井上和雄著・昭和六年(1931)刊)   〝是真    【生】文化四年二月七日   【歿】明治廿四年七月十三日-八十五    【画系】鈴木南嶺門人    【作画期】天保~明治    宮彫工柴田市五郎の子、幼名亀太郎、後ち順蔵と改む、文化十四年始めて坂内寛哉に就て蒔絵を学び、    後ち鈴木南嶺の門に入りて画技を修む、乃ち両師の偏号を取りて令哉と号す。文政十三年南嶺の紹介を    得て京都に赴き、岡本豊彦及び穂井田忠友の門に入り、また香川景樹を訪ひ、頼山陽の門に寓す、周遊    多年の後江戸に帰りて画業大に進む。是真夙に俳諧を好み、また茶道にも志す所あり、気節高潔にして    権門に諛ることを屑しとせざりき。一生の行状伝ふべきこと甚だ多し。法名釈是真居士、墓所浅草今戸    称福寺。(『大日本人名辭書』に拠る)    彼の画風は四條派を基礎とするものなれど、肉筆及び摺物などの彼が画蹟を見るに、筆勢意匠等に於て、    彼独自の妙趣を具へたり。時に団扇絵の烏の図などには、巧みに漆を応用して新案を凝らせしものあり、    蓋し。蒔絵に自信ありしが故あり。門弟数人のうち国芳は最初の入門者にして、仙真の号を与へられた    り〟  ◯「集古会」第百九十二回 昭和八年九月(『集古』癸酉第五号 昭和8年11月刊)   〝木戸忠太郎 京都(出品者)是真画 だるま 川柳句会催状 一枚 二世五葉堂由催〟    ◯『浮世絵年表』(漆山天童著・昭和九年(1934)刊)   ◇「嘉永六年 癸丑」(1853)p232   〝三月、柴田是真の画ける『狂歌本朝二十四孝』出版〟   ◇「慶応元年(四月十八日)乙丑」(1865)p242   〝此頃より、絵合流行し、此年芳幾・是真・京水・幾丸・鳥居清満(六代歟)鄰春・玄魚等の合作『花吹    雪』二冊出版、蓋し絵合なり〟   ◇「慶応三年 丁卯」(1867)p243   〝四月、綾岡と是真の画ける『俳諧歌広幡集』出版〟  ◯「集古会」第二百一回 昭和十年五月(『集古』乙亥第四号 昭和10年5月刊)   〝中沢澄男(出品者)是真 団扇絵 鯉の図 三枚〟  ◯「集古会」第二百二回 昭和十年九月(『集古』乙亥第五号 昭和10年10月刊)   〝中沢澄男(出品者)是真 団扇絵 菊の絵 一枚〟  ◯「集古会」第二百四回 昭和十一年一月(『集古』丙子第二号 昭和11年3月刊)   〝中沢澄男(出品者)団扇絵 大黒天に鼠の図 柴田是真 二枚〟  ◯『明治世相百話』(山本笑月著・第一書房・昭和十一年(1936)刊   ◇「風雅界の新年摺物 宗匠や画伯が得意の試筆」p157   〝〈新年の摺物〉画家方面では柴田是真の一門や浮世絵派の人々が、こうした趣昧に富んで佳作が多い。    中にも尾形月耕翁は干支と勅題とを描いた短冊二枚、あるいは色紙形の一枚摺など念入りの木版極彩色、    さすが版画家としての特色を示して面白い。その後、絵葉書の流行に伴って、大小の画家たいていは木    版石版いろいろ自画の年賀状に凝ったものだ。それさえ近年はずっと減じて普通の恭賀新年になってし    まった〟  ◯「集古会」第二百二十一回 昭和十四年五月(『集古』己卯第四号 昭和14年9月刊)   〝中沢澄男(出品者)是真画 魚煎餅 色摺広告 一枚 山本捨蔵 東京(明治)〟  ◯「集古会」第二百二十八回 昭和十五年十一月(『集古』辛巳第一号 昭和16年1月刊)   〝三村清三郞(出品者)柴田是真 漆絵 梅松図香筒(竹材) 款に「八十翁是真」一本〟  ◯「集古会」第二百三十七回 昭和十七年十一月 (『集古』昭和十八年第一号 昭和18年1月刊)   〝木村捨三(出品者)柴田是真画 桐一葉 忍部葊足追討狂歌集の表紙    (梅素亭玄魚が父のために出版せるもの)〟  ◯「幕末明治の浮世絵師伝」『幕末明治の浮世絵師集成』p89(樋口弘著・昭和37年改訂増補版)   〝是真(ぜしん)    柴田氏、幼名亀太郎、のち順蔵と改めた。鈴木南嶺の門人となり、やがて京都に赴き、諸大家の門を叩    き、周遊多年、江戸に帰り、画業が大いに進んだ、蒔絵にも新生命を開拓した。摺物の他には、錦絵版    画に自ら筆を下したものは少ない。しかし門人には国芳、清親その他の浮世絵師があり、幕末、明治期    の浮世絵界に与えた影響は大きかつた。文化四年生れ、明治二十四年、八十五才で歿している〟