Top浮世絵文献資料館浮世絵師総覧
 
☆ しゅんまん くぼ 窪 俊満浮世絵師名一覧
〔宝暦7年(1757) ~ 文政3年(1820)9月20日・64歳〕
 ※〔漆山年表〕  :『日本木版挿絵本年代順目録』 〔目録DB〕:「日本古典籍総合目録」国文学研究資料館   〔狂歌書目〕  :『狂歌書目集成』       〔白倉〕  :『絵入春画艶本目録』   〔日文研・艶本〕:「艶本資料データベース」   『黄表紙總覧』棚橋正博著・日本書誌学大系48   『稗史提要』 比志島文軒(漣水散人)編   『洒落本大成』1-29巻・補巻 中央公論社    ☆ 安永九年(1780)      ◯『稗史提要』p357   ◇黄表紙(安永九年刊)    作者の部 通笑 文渓堂 四国子 錦鱗 可笑 山東京伝 臍下逸人 窪田春満 常磐松    画工の部 清長 春町 政演 春常 北尾三次郎 春朗 闇牛斎秋童 春旭 松泉堂    板元の部 鶴屋 蔦屋 伊世次 奥村 松村 西村 山本 岩戸 村田 鱗形    〈窪田春満、画工としてではなく戯作者として名を連ねる。この年は二点出版、画工はともに北尾三二郎(政美)〉    ◯『黄表紙總覧』前編(安永九年刊)〔 〕は著者未見、諸書によるもの。角書は省略した    窪 春満画    〔針程物棒程目鏡〕〔南陀伽紫蘭画〕「南陀伽紫蘭作」松村板   (戯作者としての作品)    『龍宮巻』   署名「北尾門人三二良画」「窪田春満作」  松村板    『噺之画有多』 署名「画工北尾政演」  「戯作南陀加紫蘭」松村板    『実恋ハ譬物語』署名「清長画」     「窪田春満作」  松村板 序「南陀伽紫蘭戯作(春満)印」    ◯『江戸吉原叢刊』第六巻(安永九年刊『咄の絵有多』の奥付。板元・松村弥兵衛の新板広告より)   ◇黄表紙(安永九年刊)    「針程物棒程眼鏡 紫蘭作 出板     【げに恋は】癖物がたり  鳥居清長画  紫蘭作 出板」     【うら山太郎兵衛】竜宮巻 北尾三次郎画 紫蘭作 出板」   ◇洒落本(安永九年刊)    「【古今青楼】咄の絵有多 画工 北尾政演 戯作 南陀加紫蘭」    ◯『洒落本大成』第十巻(安永九年刊)    南陀伽紫蘭画『玉菊燈籠辨』自作    南陀伽紫蘭作『咄の絵有多』北尾政演画    ☆ 安永年間(1772~1781)    ◯『増訂武江年表』1p206(斎藤月岑著・嘉永元年脱稿・同三年刊)   (「安永年間記事」)   〝浮世絵師鳥居清長(彩色摺鈴木春信の頃より次第に巧みに成しを、清長が工夫より殊に美麗に成たり)、    尚左堂、春潮、恋川春町(倉橋寿平)、歌川豊春(一竜斎)等行はる〟    ☆ 天明元年(安永十年・1781)
 ◯『菊寿草』〔南畝〕⑦227(安永十年一月刊)   ◇黄表紙  〝作者之部   喜 三 二  芝 全 交   通  笑  可  笑   南陀伽紫蘭 是 和 斎   風  車  婦人亀遊〟    〈南陀伽紫蘭が俊満の戯作・狂歌名。是和斎が後の北斎〉       ◯『稗史提要』p359   ◇黄表紙(安永十年刊)    作者の部 喜三二 通笑 芝全交 可笑 南陀伽紫蘭 是和斎 風車 蓬莱山人亀遊女    画工の部 清長 重政 政演 政美 春常    板元の部 鶴屋 蔦屋 伊世次 奥村 松村 西村 村田 岩戸    時評〝南陀伽紫蘭は、前年に窪田春満といへる同人なり。後年に狂歌を専らにし、尚左堂俊満と号す〟    〈この年は戯作者として四点出版。そのうち自画は一点のみ、二点政美、政演(京伝)、一点は不明〉    ◯『洒落本大成』第十一巻(天明元年刊)    南陀伽紫蘭画『舌講油通汚』署名なし(南陀伽紫蘭画とする)南陀伽紫蘭作           〈画工に春町・紫蘭の二説あるも、解題は紫蘭の自画とする〉    ◯『江戸小咄辞典』「所収書目解題」(天明元年刊)    窪俊満画?『売集御座寿』南陀伽紫蘭序            〈序者・南陀伽紫蘭は窪俊満。挿絵が一図ある由だが画工名についての記載はない〉    ◯「日本古典籍総合目録」(国文学研究資料館)   ◇黄表紙(安永十年刊)    南陀伽紫蘭画『針程物棒程目鏡』(自作自画)〈紫蘭は窪俊満〉    南陀伽紫蘭作『実恋は癖物がたり』『異国出見世吉原』北尾政美画          『遊客古事附太平記』北尾政演画    ☆ 天明二年(1782)
 ◯『岡目八目』〔南畝〕⑦262(天明二年一月刊)   ◇黄表紙  〝作者之部   喜 三 二  恋川春町  芝 全 交   京 伝  可  笑  通  笑   岸田杜芳  宇 三 太  南陀伽しらん   雪  岨  豊 里 舟  から井さんせう   魚  仏  風  物  古  風〟    〈『岡目八目』は南畝による天明二年出版の黄表紙評判記。南陀伽紫蘭は俊満の戯作名。この年の紫蘭作『五郎兵衛商     売』(松村板)は〝上上吉〟の評判を得ている。天明初年の頃、俊満は文芸の人でもあったのだ〉    ◯『稗史提要』p361(天明二年刊)   ◇黄表紙    作者の部 春町 喜三二 通笑 京伝 全交 可笑 岸田杜芳 紫蘭 宇三太 雪岨 豊里舟 三椒         魚仏 風物 古風    画工の部 清長 重政 政演 政美 春常 春朗 国信    板元の部 鶴屋 蔦屋 伊世次 奥村 松村 西村 村田 岩戸    〈この年は三点出版。全て戯作、画工は政演二点、清長一点〉    ◯「日本古典籍総合目録」(天明二年刊)   ◇黄表紙    南陀伽紫蘭作『五郎兵衛商売』北尾政演画・『芳野の由来』北尾政演画・『通人癖物語』鳥居清長画    ☆ 天明三年(1783)     ◯「絵本年表」〔漆山年表〕(天明三年刊)    窪俊満画『画鵠』二巻 窪俊満画 燕市◎鯨郎主人序 万屋忠右衛門板    ◯『稗史提要』p363(天明三年刊)   ◇黄表紙    作者の部 春町 喜三二 通笑 京伝 全交 杜芳 紫蘭 里舟 四方山人 南杣笑楚満人         奈蒔野馬鹿人・在原艶美・四方門人新社・春卯    画工の部 清長 重政 政演 政美 春潮    板元の部 鶴屋 蔦屋 伊世次 奥村 松村 西村 村田 岩戸    〈この年は一点のみ。これも戯作、画工は政演〉           ◯『巴人集』〔江戸狂歌・第二巻〕四方赤良詠・天明三年(1784)   〝一トふしのちつえにおくる      一ふしにちよをこめたる竹の子の比はしゆんかんお名は俊満〟    ◯「日本古典籍総合目録」(天明三年刊)   ◇黄表紙    南陀伽紫蘭作『仇名草伊達下谷』北尾政演画    〈「日本古典籍総合目録」上では紫蘭作・画の黄表紙は天明三年まで、以降の出版はない。寛政十二年(1800)、窪田     春満作・鳥居清長画の黄表紙『昔男意気成平』が出版されるが、これは天明二年刊『通人癖物語』の解題本とのこと。     なぜ黄表紙を作らなくなったのだろうか。黄表紙に限らない、翌四年、自作・自画の洒落本『浮世の四時』を最後に     戯作から身を引いたようである。次に南陀伽紫蘭(窪俊満)の板本が登場するのは寛政四年(1792)の狂歌本『狂歌     虫合』である〉    ◯『狂歌知足振』〔人名録〕③521(普栗釣方編・天明三年四月刊)   〝一節千杖 南陀迦紫蘭〟    〈一節千杖は俊満の狂名〉    ◯『巴人集』〔南畝〕②399(天明三年四月詠)  〝一トふしのちつえにおくる   一ふしにちよをこめたる竹の子の比はしゆんかんお名は俊満〟    △『狂文宝合記』(もとのもく網・平秩東作・竹杖為軽校合、北尾葎斎政演・北尾政美画・天明三年六月刊)   〔天明三年(1783)四月二十五日、両国柳橋河内屋において開催された宝合会の記録。主催は竹杖為軽〕   〝鎮西八郎為朝大鏑矢 一名棟上ノ板羽ノ矢 一節千杖 家蔵〟   (画の説明文)〝為朝の大かぶら矢〟〝一名 棟上の板羽の矢〟   (狂文)〝大名題保元物語三之巻に、鎮西八郎為朝腕に力を覚へたり、と木場の親玉が声色にて、永万元    年三月鬼が島へ渡りしに、日覆の穴より出てはふを飛ぶトヒヨ/\と鳴鳥を射落シ、異人を稲荷町のご    とくしたがへ、その後都より討入の実悪敵役三百余人、張抜にもあらぬ大船に乗つたるを御ぞうし御覧    ぜられ、矢ごろ少し遠けれど、大かぶら矢を取てつがひ、ひこぢの廻るほど引ッ詰メて、ひやうどはな    つ。〔此所市川/\と声のかゝる事切落のごとし〕水際五寸斗と射て、大船の腹をあなたへ射通ふぜば、    惣切迄十六文のごとく、どやどやと水ニ入て、船は底にぞしづみける。此為朝十三にして小しやく息子    と浮名立、それより保元の狂言物いで、国々在々隠れもなく、鬼がしまのおによと呼れ、黒ふござへす    極りやすと大きに大金大もふけ、蔵建まつる御宝前、予その時大工にもあらぬ口チ先の棟梁にて、また    矢をもらひうけ、すなはち家のたからものとする。大願成就かたじけない。先ヅ我記録は是ぎり〟    〈この宝合会に出品参加した浮世絵師は、窪俊満(一節千杖)のほかに、北尾政演(身軽織輔・山東京伝)、北尾政美     (麦原雄魯智)、歌麿(筆綾麿)、喜多川行麿。また、浮世絵師ではないが、浮世絵を画いた絵師までいれると、恋     川春町(酒上不埒)、高嵩松(元の木阿弥)、つむりの光など名が見える〉    △『判取帳』(天明三年成)   (浜田義一郎著「『蜀山人判取帳』補正<補正>」「大妻女子大学文学部紀要」第2号・昭和45年)   〝生酔神祇   かくかヽん呑んではくらす生酔のつみてふつみも中臣の友〟   (酒杯の画) 一ふしの千杖〟    〈赤良の注で〝窪田安兵衛住通塩町〟とあり〉    △『狂歌師細見』(平秩東作作・天明三年刊)   (巻末「戯作之部」)   〝南陀伽紫蘭〟    ☆ 天明四年(1784)
 ◯『稗史提要』p366(天明三年刊)   ◇黄表紙    作者の部 春町 喜三二 通笑 京伝 全交 杜芳 亀遊女 楚満人 四方山人 窪春満 万象亭         唐来三和 黒鳶式部 二本坊寉志芸 飛田琴太 古河三蝶 幾治茂内 里山 邦杏李          紀定丸    画工の部 清長 重政 政演 政美 春町 春朗 古河三蝶 勝川春道 哥丸    板元の部 鶴屋 蔦屋 伊世次 奥村 松村 西村 鱗形 岩戸    〈『稗史提要』は窪俊満の作として「浦山太郎兵衛竜宮の巻」(政美画・松村板)をあげるが、「日本古典籍総合目録」     は『『浦山太郎兵衛 竜宮の巻』を安永九年刊とする。「日本古典籍総合目録」にこの年の紫蘭の黄表紙はない〉      ◯『狂歌すまひ草』〔江戸狂歌・第二巻〕天明四年(1784)刊   〝大和巡   斑鳩やせみ川草履ふみきれてたびの日あしも西の大寺     一節千杖〟   〝社頭雨売  神垣のかた野のみせのさくら飴こなの雪吹(ママ)に暖簾はる風  一節千杖〟   〝柳原こは飯 盛る形りはあたちはかりのこはめしや目もしほしりにこし柳原 一節千杖〟   〝中田甫虫音 虫の音のこゝにいつこと白露はおほかる稲の中たんぼかな   一節千杖〟   〝せり出し  蒼木のもゆる思ひにせり出してみえは二重の帯引の所作    一節千杖〟   〝道哲月   馬道をこへたる土手の紅葉はや月のさんこの鞭に照そふ    一節千杖〟   〝菫     むらさきの帽子の色をすみれとはくろにゆかりの位なるべし  一節千杖〟    ◯『洒落本大成』第十三巻(天明四年刊)    南陀伽紫蘭画?『浮世の四時』署名なし 南陀伽紫蘭作・自画?    〈紫蘭の洒落本はこれが最後〉    ☆ 天明五年(1785)    ◯『徳和哥後万載集』〔江戸狂歌・第二巻〕四方山人(赤良)編・天明五年)刊   〝寄生酔神祇 かくかゝんのんではくらす生酔のつみてふつみもなかとみの友 一節千杖〟    ☆ 天明七年(1787)
 ◯『狂歌才蔵集』〔江戸狂歌・第三巻〕四方赤良編・天明七年刊   〝題しらず かよふ神なけれどぬしをたのむ身は客をまろめてくれよとの文 一節千杖〟    ◯『狂歌千里同風』〔江戸狂歌・第三巻〕四方山人序・天明七年)刊   〝歳旦 きのうまでせはしかりつる女さへしろく明ゆく遠山のまゆ 一ふし千杖〟    ☆ 天明八年(1788)    ◯『鸚鵡盃』〔江戸狂歌・第三巻〕朱楽菅江編・天明八年刊   〝立春 わりなにて結ひし去年の昆布巻を春たつけふやとく若のさい 窪俊満〟      〈窪俊満が狂歌名を一節千杖から窪俊満にかえたのは天明八年からか〉    ☆ 天明年間(1781~1789)
 ◯『増訂武江年表』1p221(斎藤月岑著・嘉永元年脱稿・同三年刊)   (「天明年間記事」)   〝戯作者 通笑、喜三二、恋川春町(狂歌并びに浮世絵)、芝全交、万象亭(二代目風来山人)、唐来三    和、右六人を戯作者の六家撰といへり。其の外、可笑、七珍万宝、蔦の唐丸、観水堂丈阿、芝蘭、樹下    石上などあまた〟     〈「芝蘭」が窪俊満の戯作名・南陀伽紫蘭〉    ☆ 寛政三年(1891)    ◯『狂歌部領使』〔江戸狂歌・第三巻〕つふり光序・寛政三年(1891)   〝恋   うき人をみちひく文の封めにぼさつののりをたのむ也けり  窪俊満〟   〝恋   くどけども四角四面なあいさつに百夜も同じ丸寝するなり  窪俊満〟   〝更衣  くれて行春のかたみの花色を袷の裏に見る斗也       窪俊満〟   〝五月雨 ゆく水のそのはげしさは見よりもわけておとます五月雨の跡 窪俊満〟   〝恋   弘法にわびても今はくどかなん石ほどかたきいもが心を   窪俊満〟   〝納涼  深みゐて秋の夕きり思なり吹かよふ風のかほる今宵は    窪俊満〟   〝荒和祓 神前の御燈の油二あらしみたらし川に名を更たり      窪俊満〟   〝初秋  けさは早鳩ふく秋となりぬれば豆粒ほどに露のをくらん   窪俊満〟   〝萩   もろ人のわたらぬ先に玉河をきて見よ秋の七くさの萩    窪俊満〟   〝(秋)恋 労咳といひ立られて胸のみ歟四火のやいとにせもごがすなり 窪俊満〟   〝雁   山田寺僧都は数珠を持ねども祈と見へてをつる雁かね    窪俊満〟   〝老後恋 清水のちかひもなくて恋風の吹は飛ほど身はやせにけり   窪俊満〟   〝九月尽 とりこみし綿の手わさにつみてゆく秋のひと日を打のばしたき 窪俊満〟   〝(秋)恋 やる文の百にひとつは実を結べ冬瓜の花のむだ書にせで   窪俊満〟   〝雪   信濃路や賤がおもての蕎麦かすを隠す化粧かつもるしら雪  窪俊満〟   〝歳暮  松風や春のしたくのかざり藁なう拍子さへさつ/\の声   窪俊満〟   〝雪   月花のさてもその後ふる雪はみなおしなべてかんしこそすれ 窪俊満〟   ◇「狂歌とこりつかひ 附録」
  〝恋   返事せし君か手形のしるしありて恋やせし身に肉はつきけり 窪俊満〟   〝祈恋  いかつちの加茂にいのりしかひあらばふみはづしても落よあだ人 窪俊満〟   〝落葉  吹たつる風の力は唐獅子か谷へ木の葉をおとすはげしさ   窪俊満〟    ☆ 寛政四年(1792)     ◯「絵本年表」〔漆山年表〕(寛政四年刊)    尚左同俊満画    『狂歌桑之弓』狂歌 一巻 尚左堂俊満画 雪山堤等琳画 桑柳菴光序            (伯楽春帖同本なり)    『狂歌虫合』 狂歌 一巻 尚左堂俊満「(角書)向島秋葉奉納」藤田屋太兵衛板    ◯「絵入狂歌本年表」〔狂歌書目〕(寛政四年刊)    窪俊満画    『狂歌桑之弓』一帖 堤等琳・窪俊満画 桑楊庵光編 伯楽連蔵板    『狂歌虫合』 一冊 窪俊満画・編       藤田屋太兵衛板    『狂歌思艸』 一冊 窪俊満画 方寸斎長丸編      配り本     〈表紙裏に俊満の画。横本の配り物という〉    ◯『狂歌桑之弓』〔江戸狂歌・第三巻〕桑楊庵光編・寛政四年(1792)刊   〝空よりぞくだし給へる春雨のめぐみにめぐむ野への若草  窪俊満〟   (奥付)   〝華渓稲貞隆書/雪山堤等琳画/尚左堂窪俊満画/彫工藤亀水〟    ◯『狂歌四本柱』〔江戸狂歌・第三巻〕桑楊庵あるじ(つふり光)序・寛政四年(1792)刊   〝時鳥 都ほどまちまうけねど郭公聞山里はくらしよきかな   窪俊満〟   〝恋  精進と昼はにげてもうき人よ七つ下りは落て給はれ   窪俊満〟   〝鹿  なく鹿のあいだに一ッ鉄炮の音に哀をますらおのわさ  窪俊満〟   〝擣衣 あたたかに人はきよとてから衣うち明しけり賤は夜寒を 窪俊満〟    ☆ 寛政五年(1793)    ◯「絵本年表」〔漆山年表〕(寛政五年刊)    窪俊満画『春帖』一冊 等琳筆 窪俊満写 鄰松 桑楊菴光序 蔦屋重三郎板     〈〔目録DB〕の注に旧署名は『癸丑春帖』の由〉    ◯「絵入狂歌本年表」〔狂歌書目〕(寛政五年刊)    窪俊満画『春帖』一冊 俊満・等琳画 桑揚庵光撰 蔦屋重三郎板    ◯『太郎殿犬百首』〔江戸狂歌・第三巻〕桑楊庵光編・寛政五年(1793)刊   〝霞   かちん染ひくはけよりも春霞しかまの海のかたきぬに立つ   窪俊満〟   〝鶯   村竹になく鶯を杖にして春やたてると思ふやまざと      窪俊満〟   〝梅   をみなのみすむ嶋ならでみんなみにむかひてはらむ梅の花びら 窪俊満〟   〝柳   見惚つゝをぢ坊主さへ立とまる雨の柳の洗髪には       窪俊満   〝苗代  せきいるゝ苗代水をへらさじとあら田の烏芋ほり捨るなり   窪俊満〟   〝菫   とふ火野の土は素焼か手遊のつぼ/\すみれ摘るおさな子   窪俊満〟   〝三月尽 行春はしきりにおしくいつもよりはやめと思ふけふの汐時   窪俊満〟   〝卯花  うの花の雪のはしゐに縁先の青すだれをぞかゝげては見る   窪俊満〟   〝葵   神山のあふひのかつらとてこふと未明に出る中の酉の日    窪俊満〟   〝時鳥  小鳥香二三とつゝく手記録に書く子規四月にぞきく      窪俊満〟   〝早苗  暦ほとこまかに植よはしこ田の中段の日ははんけしやうとて  窪俊満〟   〝蛍   池水にほたるのあかりてら/\と灯心になる藺もみゆるなり  窪俊満〟   〝荒和祓 かけそめるきりこ灯籠のあさの葉に肩をなてゝやみそぎするらし  窪俊満〟   〝初恋  涙雨ふると社(こそ)しれおもふ事けふはつせんのはじめよりして 窪俊満〟    ◯『狂歌上段集』〔江戸狂歌・第四巻〕桑楊庵頭光・尚左堂俊満等編・寛政五年(1793)   〝元日  井のふたを結ひしよべは去年となりて若水桶にけさはとく汲  窪俊満〟   〝牡丹  手いれせし牡丹は園のうちばにて春と夏とのきをかねてさく  窪俊満〟   〝首夏  あふひ草からねばけさも春かとて夏のくるまをあらそひやする         茶坊主が着たる袷のひとつもんむかふ卯月とけさはなりにき  窪俊満〟   〝早苗  人まねに早苗の唄をはりあげて声をからすの水呑百性(ママ)            田にうつる雲かきわけてりやうの手にとる玉苗のいきほひぞよき 窪俊満〟   〝七夕  鞠垣の紅葉のはしに七夕のおはこびなさる沓音やせん              織姫の機の糸ほど日をへつゝあふ夜はわづかさをなくる間ぞ  窪俊満〟   〝砧   砧うつ雨だれ拍子ほと/\と耳にもる家の寝つかれもせぬ   窪俊満〟   〝菊   星合のそらとも花を詠めなん名によぶあまのかはらよもぎに         黄と白のその花足袋の庭もせをはかせていとふ菊の霜やけ   窪俊満〟   〝炭竃  みやま木をてゝにこらせて焼かゝはあつはれ炭の竃将軍    窪俊満   〝追儺  四方拝ちかき追儺に雲の上は星ととなへん数の灯台         しばしでもとめたき年の丑の月追儺の弓の桃につなかれ    窪俊満〟   〝別   人形の腰をれとなる別路はみやこの手ふり思ひ出にせよ       〝旅   たべ付ぬ道中すればことさらに箱根の山はむねにつかへる   窪俊満〟        大井川さかまく水に蓮台をおりてやう/\うかみあかれり   窪俊満〟   〝無常  たれ人も不沙汰はならぬかりの宿すむ帳面のきゆるものとて  尚左堂俊満〟   〝恋   ひちかさのうちより落る涙雨それと人目にえもりこそすれ   窪俊満〟   〝神祇  そり橋はいくよへの字をかんなにてかける筆意のすみよしの神 尚左堂俊満〟   〝万歳  雨風をうけ負ならば万歳にことしの花の頃をたのまん     窪俊満〟    ◯『四方の巴流』〔江戸狂歌・第四巻〕狂歌堂真顔編・寛政五年(1795)刊(推定)   〝取合す料理も春の色なれや和布は蛙をこはうぐひす  尚左堂俊満〟    ☆ 寛政六年(1794)    ◯「絵暦年表」(本HP・Top)(寛政六年)   ①「尚左堂俊満画」(横兵庫髷の花魁に長煙管を持つ飄客の図)5/68    「刈穂庵丸」戯作〈男の羽織に大の月、戯文に大小月〉    ◯「絵入狂歌本年表」〔狂歌書目〕(寛政六年刊)    窪俊満画    『狂歌春の色』一冊 等琳・隣松・重政・歌麿・俊満画 つむりの光撰 蔦屋重三郎板    ☆ 寛政七年(1795)     ◯「絵本年表」〔漆山年表〕(寛政七年刊)    窪俊満画    『春の色』狂歌 窪俊満(江戸物語ニヨル)    ◯「絵入狂歌本年表」〔狂歌書目〕(寛政七年刊)    窪俊満画『月のえ月の止』一冊 尚左堂俊満画 白鯉館撰 伯楽連板    ◯『四方の巴流』〔江戸狂歌・第四巻〕鹿津部真顔編・寛政七年(1795)刊   (四方赤良(後の蜀山人)が狂歌堂鹿津部真顔に古今伝授めかして判者をゆずるを寿ぐ狂歌集の詠)   〝春たてばつくれるまゆの玉柳にたるを既に糸といふらん  尚左堂俊満〟    ◯『二妙集』〔江戸狂歌・第四巻〕唐衣橘洲序・寛政七年(1797)刊   〝松魚(かつお) はつものゝ中にもひての松の魚ふしに油はまだのらねども  窪俊満〟     ◯『壺菫』〔続燕石〕③125(黒川春村著・天保八年脱稿、同十二年追加成稿)   〝寛政のはじめの頃にや、とものむれふたつに分れて、南の方は、真顔、金埒、米人、江戸住など、ひと    まとひとなりて、執事は物梁なり、北のかたは、市人、笛成、霜解、干則、一葉などひとむれにて、光    翁に随従して、執事は俊満【窪氏、号尚左堂】、長清なり〟     (俊満以外の二行割書き、略)   〝寛政七年乙卯夏、堀川二百題大会、選者、光、勧進、俊満〟    ☆ 寛政八年(1796)     ◯「絵本年表」〔漆山年表〕(寛政八年刊)    窪俊満画    『百さへつり』一帖 尚左堂窪俊満画・等琳筆・雲峰山夏部筆 後巴人亭光序 蔦屋重三郎板    ◯「絵入狂歌本年表」〔目録DB〕(寛政八年刊)    窪俊満画    『四季扇絵合』一冊 窪俊満画 狂歌連中編    『百さへづり』一帖 等琳筆〔雪山印〕尚左堂窪俊満画・雲峰山夏部筆・尚峰◎画 後巴人亭光序 蔦屋重三郎他板    ◯「国書データベース」(寛政八年刊)    窪俊満画?『絵本多能志美種(たのしみぐさ)』三冊 谷素外編 清線館主画 蔦屋重三郎板  ◯『狂歌晴天闘歌集』〔江戸狂歌・第四巻〕後巴人亭つむりの光編・寛政八年(1796)刊   〝桃の花 手折るゝ事をきにして中央の土に咲たるにか桃の花     尚左堂〟   〝更衣  はや夏へこせのあふみよ梅壺の絵合をめす女中周も有    尚左堂〟   〝余花  新かつほくれはそ春にわかれ霜しもふりの句はなき桜花   尚左堂〟   〝神楽  夜もすがら神をはすかし登す也てん/\太鼓にきにきてにて 尚左堂〟    ◯『来訪諸子姓名住国并聞名諸子』本居宣長記・寛政八年十一月十三日   (岩切信一郎氏論文「本居宣長の来訪者記録にみる」『浮世絵芸術』89号)   〝(寛政八年十一月)十三日来ル 一、江戸小伝馬町 窪易(ヤス)兵衛 尚左堂俊満 画工 狂歌師〟    ☆ 寛政九年(1797)     ◯「絵本年表」〔漆山年表〕(寛政九年刊)    窪春満画『団扇合美人揃』一巻 全図三十番 細工【尚左堂俊満/勝東橘】        (浅草観音地内、天神開帳奉納、寛政九年)〈〔目録DB〕は『団扇美人揃』〉    ◯『よものはる』〔江戸狂歌・第四巻〕四方歌垣編・寛政九年刊(一説に同八年)   〝梅がもとかをりに酔ふてこち風の顔にさはるもよい心地也 尚左堂〟    ◯『芦荻集』〔江戸狂歌・第十巻〕紀真顔著・文化十三年(1816)刊   (紀真顔詠)   〝後巴人亭光が三回の忌に集つくるとて俊満がよませければ      三廻りの月日は夢の沢渡のいでゆゝしくもわく涙かな〟    〈つぶり光が亡くなったのは寛政八年四月十二日。その翌年の寛政九年、窪俊満は三回忌にあたって光の追善集を企画     したようである〉    ◯『壺菫』〔続燕石〕③125(黒川春村著・天保八年脱稿、同十二年追加成稿)   〝寛政九年丁巳正月、初て、市人一評の月次会たつ、光翁没せられて、俊満は真顔にしたがひ、長清は浅    草の執事となる。たゞし取重は竹節丸なり〟   〈伯楽連、桑楊庵光は寛政八年四月十二日没〉    ☆ 寛政十年(1798)    ◯「絵本年表」〔目録DB〕(寛政十年刊)    窪俊満画『男踏歌』一冊 鳥文斎栄之・窪俊満・北尾政演・歌麿・北斎宗理画    ◯『狂歌東来集』初編〔江戸狂歌・第五巻〕酒月米人編・寛政十一年刊   〝梅が香もとめる姿のわか菜つみふりの袂を帯へはさめば  尚左堂〟    ◯『狂歌杓子栗』〔江戸狂歌・第五巻〕便々館湖鯉鮒編・寛政十一年序、文化五年(1808)刊   ◇巻之上   〝夜梅  夜の梅みて戻りしと女房にいひわけくらき袖のうつり香   尚左堂俊満〟   〝更衣  くれて行春のかたみの花いろを袷のうらにみるばかりなり  俊満〟   〝関月  てる月のかゞみにむかふ関守はなかめなからに髭やぬくらん 俊満〟   〝氷   さめて又百度も寝る寒き夜のいらふさつきの鏡ほとにて   俊満〟   ◇巻之下   〝逢恋  たきつけはさてやはらかな君がはだ今まで情のこはきには似ず  尚左堂俊満〟   〝片思  わが思ひかた野のみのゝかたうつらふに落ぬ人のかりにたにこす 俊満〟   〝魚   夜かつをやまだ蚊は出ねど夏めきてさしみにほうをたゝく初もの 俊満〟    ◯『古寿恵のゆき』〔江戸狂歌・第六巻〕朱楽菅江門人編・寛政十一年序   (朱楽菅江一周忌追悼集)   〝同じこといふておなかせ申よりはたゝそう/\の供にたつなり  尚左堂俊満〟    ◯『増訂武江年表』2p49(斎藤月岑著・嘉永元年脱稿・同三年刊)   (「文化十一年」の記事だが、俊満の三囲稲荷開帳時のくだりは寛政十一年二月時のもの)   〝三月朔日より、永代寺にて成田不動尊開帳。(奉納の幟、大挑灯、米俵、造り物等夥しく有り、此の時    より奉納目録に絵を加え、板行して売歩行(ウリアルクのルビ)事はじまる)。     筠庭云ふ 開帳奉納物の目録に画を加ふるは、ふるくもあるべし。そのかみ三囲稲荷開帳の時、尚左     堂俊満がうちは合はせ細工物に、柱かくしの如き板に付けたるものなりき。これ目録絵なり〟    〈この三囲稲荷開帳は『武江年表』によると寛政十一年二月十五日からの開帳である。曰く〝奉納造り物品々あり、日     本橋白木屋より天鵞縅(ビロウドのルビ)にて張りたる牛、黒木売りの木偶(ニンギョウのルビ)を収む。開帳の飾物に美をつく     すの始なり〟とある〉    ☆ 寛政十一年(1799)    ◯「絵暦年表」(本HP・Top)(寛政十一年)   ③「俊満」(恵比須と大黒)1-8/23    「丸久友一門」狂歌賛「己未」とあり〈大小表示不明〉   ③「俊満」(鳥居 狩衣の武士と太刀持ち小姓? 初詣)1-12/23    「卯雲」狂歌賛「己未のとし」〈大小表示不明〉   ⑧「俊満」Ⅵ-4「官女と掛け時計」(檜扇をかざして日の出を迎える官女と柱に掛け時計)    「隺辺菴佐保丸」狂歌賛〈時計の文字盤に大の月〉    ◯『今日歌白猿一首』(立川焉馬編・寛政十一年刊)   〝杜若白猿の閑居◯◯せちにすゝめて此座附をつとむるといへることを     江戸の花今は秋葉のさる人を よぶ四季咲のかきつはた哉 尚左堂〟    〈寛政十年十一月、中村座の顔見世興行において、二十一歳の六代目団十郎が初めて座頭を務めることのなった。その     とき、寛政八年の引退以来、成田屋七左衛門と称して隠居していた五代目が、約二年ぶりに舞台に復帰して市川白猿     の名で口上を述べた。これを江戸の人々がこぞって大歓迎した。そして狂歌を詠んで祝意を表した。この狂歌集はそ     のとき披露された口上や白猿自身の狂歌、また人々から寄せられた狂歌などを編集してなったもの。「秋葉のさる人」     とは市川白猿を指す。(秋葉は秋葉社で白猿が隠棲していた向島の五百埼にあった)その白猿の口上は岩井半四郎     (杜若=かきつばた)の強い要請があって実現したとされる。狂歌はそれを踏まえたのである。なおこの時狂歌を寄     せた浮世絵師は他に、勝川春潮・歌川豊国。また勝川春好・勝川春英・俵屋宗理(北斎)・歌川国政は狂歌のほかに     挿絵も画いている〉    ◯『狂歌杓子栗』〔江戸狂歌・第五巻〕便々館湖鯉鮒編・寛政十一年序、文化五年(1808)刊   ◇巻之上   〝夜梅  夜の梅みて戻りしと女房にいひわけくらき袖のうつり香   尚左堂俊満〟   〝更衣  くれて行春のかたみの花いろを袷のうらにみるばかりなり  俊満〟   〝関月  てる月のかゞみにむかふ関守はなかめなからに髭やぬくらん 俊満〟   〝氷   さめて又百度も寝る寒き夜のいらふさつきの鏡ほとにて   俊満〟
  ◇巻之下   〝逢恋  たきつけはさてやはらかな君がはだ今まで情のこはきには似ず  尚左堂俊満〟   〝片思  わが思ひかた野のみのゝかたうつらふに落ぬ人のかりにたにこす 俊満〟   〝魚   夜かつをやまだ蚊は出ねど夏めきてさしみにほうをたゝく初もの 俊満〟    ◯『狂歌東西集』〔江戸狂歌・第五巻〕千秋庵三陀羅法師編・寛政十一年刊   〝雪   住吉の雪はながめの一の宮松に津守の社家もましろに 尚左堂俊満〟   〝納涼  祇園会の頃は四条へ天神のおやまもいづる夕涼哉   尚左堂〟   〝七夕  機やめて星のあふ夜は一とせに一葉の桐生風の西陣  尚左堂俊満〟   〝五月雨 五月雨はさうふ刀の鮫鞘にほち/\はねる軒の玉水  尚左堂〟    ◯『古寿恵のゆき』〔江戸狂歌・第六巻〕朱楽菅江門人編・寛政十一年序   (朱楽菅江一周忌追悼集)   〝同じこといふておなかせ申よりはたゝそう/\の供にたつなり  尚左堂俊満〟    ◯『狂歌東来集』初編〔江戸狂歌・第五巻〕酒月米人編・寛政十一年刊   〝梅が香もとめる姿のわか菜つみふりの袂を帯へはさめば  尚左堂〟     ☆ 寛政十二年(1800)    ◯『狂歌東来集』二編〔江戸狂歌・第五巻〕吾友軒米人編・寛政十二年刊   〝野遊 しるしらぬ野に汲かはす瓢酒きじのほろ酔雲雀舞しつ 尚左堂俊満〟    ☆ 寛政年間(1789~1801)    ◯『浮世絵考証(浮世絵類考)』〔南畝〕⑱446(寛政十二年五月以前記)   〝窪俊満〈以下一行朱筆〉        始北尾重政ニ学ビ 後春章ニ学ブ    亀井町に住す。狂歌すり物の絵のみをかく。左筆也。尚左堂と云〟    〈〝重政に学ぶ〟とあるのは入門して師弟関係を結んだという意味であろうか。『浮世絵考証』は〝西川氏の筆意を学     びて〟というように私淑の意味でも使う。もし重政門人であるとすれば、重政の項に政美・政演とともに名があって     よいと思うのだが、いかがであろうか。春章との関係は、後出のように、俊満自ら門人であることを否定している〉      ◯『増訂武江年表』2p18(斎藤月岑著・嘉永元年脱稿・同三年刊)   ◇「寛政年間記事」   〝狂歌師 唐衣橘洲、尚左堂俊満(又浮世絵をよくす)、狂歌堂真顔、六樹園飯盛、蜀山人、芍薬亭長根〟
  〝浮世絵師 鳥文斎栄之、勝川春好、同春英(九徳斎)、東洲斎写楽、喜多川歌麿、北尾重政、同政演    (京伝)、同政美(蕙斎)、窪俊満(尚左堂と号す、狂歌師なり)葛飾北斎(狂歌の摺物読本等多く画    きて行はる)、歌舞伎堂艶鏡、栄松斎長喜、蘭徳斎春童、田中益信、古川三蝶、堤等琳、金長〟
  〝俊満は只職人をよくつかひて、誂への摺物を請取りて巧者に注文したるものなり。政演も画は自分には    其の志あるまでにて、書くことはならず。大方代筆をたのめり。俊満は左手にて手は達者にかきたり。    よきにはあらず〟    ☆ 刊年未詳(寛政~文化)    ◯「絵暦年表」(本HP・Top)(刊年未詳)   ③「俊満」(銚子・三宝に盃)1-18/23〈大小表示不明〉    「新玉の盃とつて百薬の調度をうけたる元日の屠蘇 卯初春 丈夫鬼成」     〈この卯は文化4年か文政2年か…。春興の配り物か〉  ☆ 享和元年(寛政十三年・1801)     ◯「絵本年表」〔漆山年表〕(享和元年刊)    窪俊満画『布毛等濃夷詞』一冊 狂歌 曲木正墨・宗理・尚左堂俊満画 山陽堂撰 和泉屋市兵衛板          〈〔目録DB〕は『浅間山麓の石』〉    ◯「絵入狂歌本年表」〔目録DB〕(享和元年刊)    窪俊満画『浅間山麓の石』一冊 曲木正墨・尚左堂俊満・北斎宗理画 芝の屋山陽編 和泉屋市兵衛板    ◯「艶本年表」〔白倉〕(享和元年刊)    尚左堂俊満画『意佐鴛鴦具砂』墨摺 半紙本 三冊     (白倉注「現在までに知られている俊満の唯一の艶本。彼には他に組物の一、二があるらしい」)    ☆ 享和元~二年(1801~02)    ◯『一筆斎文調』(「早稲田大学演劇博物館所蔵 芝居絵図録1」1991年刊)   〝一筆斎守氏文調子は、石川幸元叟を師として倭画をよくし、又みづから浮世絵を好てわざをぎの人の面    を写す事きはめて妙なり。そのかみ奥村鳥居などが丹画漆画といひしも、紅粉ゑに押移たる、世に守氏    生れ出て、あらたにきめ出しといふことを工夫し、奉書にすりしより、さながら戯場の舞台にあるをみ    るが如し。百吐一瓢かたち芸ともいかで此筆には及べきと思はる。栢莚か後の五粒盛なる比は、是をよ    く肖せたれば、実に木場の親玉が筆の親玉かとわきがたきまでにて、暫の篠塚がゆるぎ出す御神輿には    足利の足を空にして迯るかと思はれ、景清が清水のさつたを信仰するせりふには右幕下のなさけもをの    づからしらる(数字空白)める所作の手のこまやかなるも画中にみゆ。かゝる妙手なりしも己が号の一    筆を残して七とせ先、黄なる泉におもむき今は釈尊閻王の似顔かく仏画師となりぬるぞかなしき。扨こ    たみその未亡人の刀自、門葉の文康舟調など聞ゆる人々追福のいとなみせんとて、楊柳橋辺の万発楼に    水無月十二日を卜し、知己の名だゝる画家を請し席画を催し、諸君子をねぎらひ、且は墨水の流に暑を    さけ、かはほりの風のまにまに文調が噂なし玉はらば、大乗妙典のくりきにもまさらましと催主のもと    めに応じてしるすことゝなりぬ                                            尚左堂俊満      かきのこす筆の似顔の七へん化早かはりなるきのふけふかな〟          (摺物の上部には、当日の席画に参加したであろう絵師の絵があって、それぞれに次の落款が記されている)          「豊廣画・堤孫二筆・豊国画・春秀蝶・寿香亭目吉筆・画狂人北斎画・歌麿筆・雪旦・春英画」       〈この摺物は文調の七回忌に配られたものだが、何年のものか明記がない。それでも北斎が「画狂人」を名乗っている     ことから、ある程度推定が可能のようで、『浮世絵大事典』の項目「一筆斎文調」は「享和元年~二年(1801~02)     頃のもの」としている〉    ☆ 享和二年(1802)     ◯「絵本年表」〔漆山年表〕(享和二年刊)    窪俊満画    『月の元津㐂の止』一帖 狂歌 尚左堂    『狂歌左鞆絵』  三巻 窪俊満画并著 蔦屋重三郎板     ◯『狂歌左鞆絵』〔江戸狂歌・第六巻〕尚左堂俊満・享和二年序    〈書名の「左鞆絵」は「左巴(ともゑ)」に同じ。「巴」は四方赤良が使用した印章。俊満はこの書名で自らが四方赤     良の門流であることを示したのである。また「左」としたのは自身左利きのためと序にいう〉   (序)「此さき神風の伊勢の国に出たつ馬のはなむけとて、五十々々集といへるを、大人のたまひし其奥       書にも、桑楊の薪継火ひろこり巴字のなかれをくむ尚左堂にあたふと書給へば、やかてましりな       しと四方の赤の一本気を請つたへたるしるしにもなさばと、巻の題名にかふゝらせし事とはなり       ぬ        享和二のとし六月 尚左堂俊満かいふ」    〈序文にある伊勢行きは寛政八年十一月。本居宣長の『来訪諸子姓名住国并聞名諸子』「寛政八」十一月の項に「同月     十三日来ル 一、江戸小伝馬町 窪易(ヤス)兵衛 尚左堂俊満 画工 狂歌師」とある由。(岩切信一郎氏論文「本居     宣長の来訪者記録にみる」『浮世絵芸術』89号)桑楊庵光は寛政八年四月十二日没。この序によると、その当時、     光の跡を継ぐのは俊満だと、四方赤良(後の蜀山人)は考えていたというのである。「五十々々集」は未詳〉   (挿絵)三巻、合計九十四図、すべて俊満画。但し署名はなし    〝題元日  としの朝十より上の雛ごとを笑へる山にかすむ紫          ふるとしに〆て置たる下帯のみつのあしたはゆるむゆたけさ  尚左堂俊満〟    〝春神祇  けんにもる梅は花貝ふたみ潟なますもそれとみゆる伊勢構(ママ) 尚左堂俊満〟    〝初桜   西行忌とむらふころに白かねのねこして植し庭の初花          よしの山こゝろみの桜さく日より名所香ほときいてくる人   尚左堂俊満〟    〝雛祭   ありかたうかさる延喜の古今雛御衣をぬかする京細工人    尚左堂俊満〟    〝夜鰹   高くともねにうなされぬはつ松魚けして胸には手をおかで買ふ           晋子にも見せたし夏の月に又畳へ影のさす松の魚          夜かつをやまた蚊は出ねと夏めきてさし身に頬をたゝく初物  尚左堂俊満〟    〝茶摘   手ぬくひを腰にはさみてしつのをか茶をつむ手つき手前めてみゆ          しほらしや鬼も十六うちむれて山茶もにはな百茶まで摘          今につむ葉上僧正背振山ふりにしよゝに匂ふ茶どころ     尚左堂俊満〟    〝時鳥   仲景を本尊とさけふほとゝきすうの花下しきいて気味よし           ひち笠もつゞかぬ雨のほとゝきす声はほね身にしみるうれしさ          郭公てう左の耳のあか堀の小舟に心よくきく         尚左堂俊満〟
  「狂歌ひたり巴 前編 毛」    〝端伍   呑はやな仙家にいるときくからにこゝの節ぎの石菖のみき   尚左堂俊満〟    〝富士詣  参けいの笠はならひか岡なして法師もみゆる吉田口哉     同〟    〝山伏峰入 泥川を越ても清し俗ながら法に心のそみかくたとて      同〟    〝蚊やり火 すたく蚊はあらおそろしの般若声たちされとたくけふり護摩ほと 同〟    〝短夜   のみに蚊にせめられてねぬ其上に水鶏は口をたゝくみしか夜  同    〝鵜川   夜を丸てうのみにさせつ鵜にはかすねん魚に何の念も夏川   同    〝夏虫   鶏は舌をやすめてゐれとともし火の丁子に夏のむしのとらるゝ 同    〝葛水   涼しさは茶碗の水の浄御原これもよしのゝくすのはたらき   同    〝橋辺納涼 蝋そくのしんら百済百匁かけ高麗はしの夕すゝみ茶屋     同    〝扇    日をよけてすゝめははたか百官名扇をかなめ風をちからに   同    〝納涼   はしゐしてひとへのうへにうちかけの小袖に夏のみへぬすゝしさ          涼しさは露の巻葉や蝋燭のはすに流るゝ池の夕風       尚左堂俊満    〝七夕   こよひきく七夕香の記録にも御の手からのふたつ星かな          機やめてほしの逢夜は一とせに一葉の桐生風の西陣      尚左堂俊満〟    〝月    とり合せす浜にかさる趣向さへ丸めおほせしけふの月影    尚左堂俊満〟    〝重陽   其花はすくに肴歟けふ給ふ氷魚とも御酒にうかふしら菊          舞鶴とみる白菊の上の蝶費長房かと思ふ重陽          盃も庭も九月の九日やかしこの香まてみな菊にして      尚左堂俊満    〝秋菊花  むらさきの花は下緒の結びにてぶしのかはりを烏頭はつとむる 同     〝◎(いしぶし)水にすむ蛙河鹿のあらそひの其いしぶしをやめて音をきく〟    〝紅葉   丹波鍛冶焼やかけゝん焔めく山の紅葉はのこきり刃にて 尚左堂俊満〟    〝秋のくさ/\のうた 露をすふ虫に盛りかふけるかとあぶ/\思ふしらきくの花               御遷宮のおはします日はにきやかに涙こほるゝ秋の夕暮                心なき柿の梢に弓はれはついはむ鳥も秋もとまらす 尚左堂俊満〟    〝初冬   秋作とふりかはりたる鄙のさま冬菜の畑に今朝のしも◎    同〟〈「菌」の「禾」が「必」〉    〝残菊   初冬の発句合に淋しくもさきのこりたるふくろもちきく   同〟    〝会式   お命講かさる桜は焼香に花くもりする小春月かな      同〟    〝山時雨  冬来ても桧原は青く枯やらてしくれにけふるまき向の山   同〟    〝峰雪   名にも似す紅葉の後の雪に又をくらの山のみねのあかるさ  同〟    〝野雪   玉たれのこすの大野ゝ白妙に小便をして雪な黄にせそ    同〟    〝海辺雪  つめたさや雪に同行二見潟かたにかけたるこりもとられす            鳥のあとふみる(ママ)るはかりともし火のあかしの浦の雪をつかねて 同〟    〝月照銀砂 降やみてさへわたる影は月の中のうさきを雪てつくりもやせん 同〟    〝鴛鴦   ねはりあふ油にやにのちやんとして水も漏らさぬをし鳥の中 同〟    〝鷹狩  くるゝのもしらす拳に鷹居てはりしかたのゝ月をみる哉    同〟    〝神楽  宮つこかきる白丁の一徳利はや明ちかくふる鈴のおと     同〟    〝しくれ 傘をさす嶋原駕も江戸目にはぬかるみてみゆる時雨みち哉   尚左堂俊満〟     「狂歌ともゑ 前編 ゑ」    〝十月のくさ/\  尚左堂俊満        観念のねんにもあらす十夜にはたゝ法然のねんに念仏        いろさめし花野はよるのにしきにて残れる菊をほし入とみん〟    〝雪  頭痛さへわすれて見てし松の葉の針にいたゝく雪のまつしま 尚左堂俊満〟    〝冬のくさ/\のうた  尚左堂俊満        きゝがたの左正宗お火たきにみかんよりまづ燗の湯かげん        小夜ふけて縄手をもとる足音や木履ぼく/\ひさこ聞ゆる〟    〝師走之雑歌  尚左堂俊満        一とせもとゞのつまりとなりにけり名よしの頭門にさしては        樽ほとに腹へは酒をつめ置てそとから縄に巻る寒ごり        さなきたにせはしき暮に玉まつるむかしはさそな盆と正月〟    〝冬神祇  尚左堂俊満        たつ春はこかねの田丸越せんとみちをかせきて伊勢のつこもり        おはらひを袖にうけたる煤とりの妹は其まゝ倭ひめかも〟    ◯『十方庵遊歴雑記』二編(釈敬順著・文化十一年(1814)記)   〝駒込瑞泰寺中頭ひかるが墳墓    東武駒込四軒町桂芳山瑞泰寺 浄土 に、近年杏花園六樹園の俊哲取たて、ざれ歌行はれてより是も世    に名高かりし狂歌よび、頭(ツムリ)の光(ヒカル)といへるものゝ墳墓あり、此大人の苗跡は今亀井町にて、    家ぬし宇右衛門とかやいふ、当寺の本堂の脇に、左の図するごとき墓をたてゝ自詠を刻し、同じく碑    の裏には同人の行状素性を鍛付置たる事、左の如し、    (墓及び自詠の碑の図あり)      寛政八丙辰年四月十三日      恕真斎徳誉素光居士      巴人亭つぶりの光       ひとこえも丸ではきかぬほとゝぎす半分ゆめのあかつきのころ    (碑の裏面)      翁、名識之、姓岸氏、俗称宇右衛門、其父仕豊岡侯、生翁于亀井街之寓居、翁至中年好狂歌称頭      光、又号桑揚(*ママ)菴、牛門先生以其巴人亭之号与之、自是門徒益進声震海内、嗚呼名玉易砕宝      器難全、寛政八年丙辰四月十二日暁病卒、葬于駒込瑞泰寺後山、今茲壬戌七年之追遠、翁友人尚      左堂俊満与其社中諸子謀、立翁之墓碑、董堂井敬義為之記、併書                  伯楽  尚左堂 俊満                      鶴辺菴 左保丸                      不断  匕持                      白鶴亭 羽風                      一巻亭 長文                      唐橋  和足                      青陽亭 万歳                   愛樹 露頂軒 芳貫                      庭訓舎 綾人〟    〈この墓碑は、頭光の七回忌にあたる享和二(壬戌)年、俊満が伯楽連の諸子に呼びかけて建立したもの。「董堂井敬     義」は中井董堂、狂歌名は腹唐秋人。「愛樹」とは頭光と格別ゆかりのある人という意味か〉    ☆ 享和三年(1803)    ◯「絵暦年表」(本HP・Top)(享和三年)   ③「俊満」(緑毛亀甲羅の根付けと早舟にのる飄客)1-6/23    「東海堂」狂歌賛〈詞書きに大小月〉  ◯『細推物理』〔南畝〕⑧341(享和三年一月七日明記)  〝馬蘭亭にて年々の会あり。浪花より来れる泉屋直蔵をともなひ行に、狂歌堂真顔、吾友軒米人、尚左堂    俊満その外の好士来り集れり〟    〈馬蘭亭(山道高彦)の狂歌会〉    ◯『細推物理』〔南畝〕⑧359(享和三年三月十五日明記) 〝窪俊満がやどりをとふに、萩の屋の翁(大屋裏住)にあへり、二人ともなひて、もと柳橋のもとより舟    でして、亀沢町にゆく、半道にして、一盃をすゝめんとて、米沢町竹明(酒楼)にむかへて、酒をすゝ    む。二人の客はこゝよりかへれり。烏亭焉馬はとくより別荘にて、北斎をも呼びて席画あり〟    〈亀沢町には南畝の友人にして蔵書家、竹垣柳塘の別荘があった。交遊関係が違うのか、俊満と大屋裏住(狂歌師)は行     かず、焉馬と北斎は南畝と柳塘別荘に合流した〉     ◯『細推物理』〔南畝〕⑧378(享和三年七月一日明記)   〝髙橋万里とゝもに小伝馬町なる尚左堂をとふ。あるじ【窪俊満】盃とり出、みさかな調じてすゝむ。雨    もまたやゝをやみぬ。酔心地にともなひ出て、柳橋のわたり、例のよし田屋おますがもとをとふ。竹明    がもとに酒くまんといひをきて〟いそぎ竹明をとふに、門さしていれず。小女出て、けふは魚なければ、    まらうどをひかずといふ。お益が来りたづねん事を思ひて、暫く門にたゝずむ。稍ありて、ともに広小    路に出て、菊屋が高楼にて酒くむ。俊満がしれる並木五瓶に、道にてあひしをも、よびいれてかたる。    五大力の根本をからん事を約す。この日は柳長も本店のもとに来るときゝて、呼びよせて酒くむ。酩酊    の後、舟にのりて北里にゆく。静玉楼に酔ふてかへれり。髙橋万里がいざなふによれり〟    〈高橋万里は高橋茂貫と同人か。吉田屋お益は南畝お気に入りの柳橋芸者。菊屋は両国広小路の酒楼。俊満が吉原の静     玉楼まで同道したか不明〉    ◯『細推物理』〔南畝〕⑧380(享和三年七月七日明記)   〝(七夕、南畝、馬蘭亭、甘露門の舟遊山)柳橋にとゞめて、馬蘭亭舟より上り、例の吉田屋お益をとふ。    俊満もともに来れり。(参加を約していた)柳長はさはる事あれば、俊満に命じて、おますが方にその    事をいはしめしといふ。俊満が東隣の酒家何がしもまた来りて、又おいとゝいへるうたひめをめす。舟    子をも壱人くはへて、両国橋より南ざまにこぎゆく。八幡掘にいり、富が岡なる尾花楼の主人をとふに、    外に出てあはず。まづ座敷に入て、此春めしたるお竹といへる女をよびて、三絃を引かしむ。宵のほど    に、舟にのりてかへれり〟    〈甘露門は市ヶ谷浄栄寺僧侶。柳長は柳屋長次郎(酒泉亭)。ともに南畝とは親しい風流人。尾花楼は門仲町の料理茶屋、     主人は「置酒洞」号す。『あやめ草』文化七年記事参照 ②59〉    ◯『細推物理』〔南畝〕⑧381(享和三年七月九日明記)  〝尚左堂俊満と十日に舟行せん事を約せしが(南畝に支障が出来)そのことはりをいひながらまかりける    に、あるじ例の酒すゝむるに、酔てまた立出づ。浅草のわたり賑わしからんと、柳橋の若竹屋といへる    舟やどにいりて、屋根舟を命ぜしむ。又吉田屋おますをも携へて舟にのり、大川橋より岸に上りて、浅    草庵をとふ。【浅草市人が別荘伝法院の裏にあり】市人よろこび、肴もとめて酒をすゝむ。(安楽院逝    去のため浅草寺境内の借地は五十日間鳴り物停止)故にうたひめの携へし箱も、いたづらになりぬ〟    〈狂歌師浅草庵市人は伊勢屋久右衛門。南畝は十二月の浅草市には年毎に市人のもとへ立ち寄っている〉    ◯『細推物理』〔南畝〕⑧382(享和三年七月十五日明記)   〝(中元、南畝)馬蘭亭、名和氏ととも、市兵衛河岸より丸屋の舟にのり、柳橋にいたり、馬蘭亭岸に上    りて、俊満と約せし舟宿の若竹屋をとふ。若竹屋より屋根舟を出し、こなたの舟とならべて、両国のは    しのもとにかゝる。若竹の舟には三木正栄【お花師なり。長うたよく/うたふ。お花小僧と称す】錺屋    【亀井町に住す/錺久と称す】岡安喜三郎、名見崎予惣次、その外医者何がし等乗れり。月出るまで、    橋のもとにかゝりて、歌うたひ絃ひかせ、暮過るより、大のしやが高どのに酒くみ、月をめづ。(この    日歌う番組あり、略)〟    〈名和氏もこの当時南畝と風流をともにした人。三木・錺屋・岡安・名見崎は所謂男芸者のようである〉    ◯『狂歌觽』初編(式亭三馬著・享和三年刊)(〔目録DB〕画像)   〝判者之部 伯楽側 尚左堂俊満〟   〝尚左堂 小伝馬町三丁目河岸 窪俊満〟   〝楫取魚彦先師より伝来印〔東家西/西家東〕    如灌菖蒲水 尚左堂〟    ☆ 制作年未詳(寛政~文化)    ◯「絵暦年表」(本HP・Top)(寛政~文化)   ③「俊満」(香り袋・香皿・香木?)1-11/23    「大江都辰巳」狂歌賛〈大小表示不明〉   ③「俊満」(芝垣 梅に鴬)1/14/23〈大小表示不明〉    「楽葉菴した女・四方歌垣」狂歌賛   ③「俊満」(天秤棒・なべ売りの行商人 腰に「未ノ十一」とあり)1-22-23    「正徳寿喜成」狂歌賛〈大小表示不明〉  ☆ 文化元年(享和四年・1804)
 ◯『狂歌茅花集』〔江戸狂歌・第六巻〕四方歌垣(真顔)編・享和四年(文化元年)刊   〝四方先生判 春のくさ/\のうた  尚左堂      あらそふて通へる虎にみけむかふみなふち猫のつまいとみして〟    ◯『革令紀行』〔南畝〕⑧421(文化一年八月二〇・二十一日明記)  〝(南畝の長崎赴任中、播磨国室津港にて)今宵は尚左堂・奇南堂など酒くみかわし、夜ふけてふせり〟 〝(翌日)尚左堂はこれよりわかれて讃岐の国象頭山にまうでんとて、手をわかつ。ふるさとへの文ども、    浪花の便にことづてやる〟    〈俊満は金毘羅宮参詣の途中であった。奇南堂(蘭麝亭薫)の方はこの後直ぐ重病に陥った南畝を看病しながら長崎ま     で同行した。なお粕谷宏紀氏の『石川雅望研究』によると、これ以前の八月五日、桑名において、俊満は石川雅望     (宿屋飯盛)と出会っていた。飯盛は京・大坂入りを目前にして発病し、やむをえず江戸に戻る途中であった。南畝     は俊満から飯盛の消息も聞いたに違いない〉    ◯「書簡 50」〔南畝〕⑲83(文化一年九月十一日付)  (南畝、九月十日長崎着、翌日の江戸馬蘭亭宛書簡)  〝俊満も四日市より参り居り候間、牡丹と菊を画がヽせ遣候。俊満は金毘羅参詣、押付帰可申候〟    〈長崎入りした俊満画の消息について、南畝の記事は見当たらない。またいつ戻ったのか、俊満の江戸帰省についても     記事はないようだ〉    ◯『南畝集 十四』〔南畝〕④348(文化一年十月中旬賦)(漢詩番号2567)  〝尚左堂二覧浦図   二覧遥連浦 双巌対若門 欲知神所在 勢海浴朝暾〟    〈俊満画の伊勢二見ケ浦の図に長崎において賦詩。室津で南畝は俊満自身から入手したものか。この絵も前項同様消息     は不明である〉    ☆ 文化四年(1807)    ◯「絵暦年表」(本HP・Top)(文化四年)   ③「尚左堂」(「竹とり物かたり・うつほ物語」の絵巻二巻)1-11/23    「味凍綾彦・花のや道頼」狂歌賛「丁卯のとし」〈大小表示不明〉   ③「俊満」(銚子・三宝に盃)1-18/23〈大小表示不明〉    「新玉の盃とつて百薬の調度をうけたる元日の屠蘇 卯初春 丈夫鬼成」     〈この時代の卯は文化4年か文政2年かだが、画帖の位置から文化4年のものと思われる〉    ◯「絵入狂歌本年表」〔狂歌書目〕(文化四年刊)    窪俊満画『狂歌月の都』一冊 窪俊満画 酒月米人撰 松亭素行板  ◯『市川白猿追善数珠親玉』(立川談州楼序・文化四年正月刊)    〈白猿追悼の肖像画。早稲田大学図書館「古典籍総合データベース」所収の画像より〉    (豊国画・鳥居清長筆・笑艸筆・六十四歳春好左筆 菱川宗理画・政奴画・辰斎画・北鵞画・     向島隠居之像葛飾北斎写之)〈俊満の挿画はない〉    〈追悼詠〉    〝鳴神のをとに涙の大雨は此世の注連のきれてゆく雲 歌川豊国〟    〝いにしへ一切経を取得たるハ三蔵法師 今台遊法子と戒名もいとたふとし      念仏の百首をよみて西遊記孫悟空にもまさる石猿 かつしか北斎〟    〝写してもうつりてかなし氷面鏡 春好〟    〝はつ雪やきゆるものとハ知ながら 菱川宗理〟    〝我みちの筆も涙のこほりかな 清長〟    〝秀鶴が身まかりし比の句をおもひいでゝ 今又念仏百首     よまれて極楽の舞台に同座せらるゝ御仏にゑかう申て      仲蔵がましじやとおもふ暑哉といひしましらも南無阿弥陀仏 尚左堂俊満〟    ◯『をみなへし』〔南畝〕②25(文化四年四月上旬詠明記)  〝(卯月のはじめ)尚左堂にて初鰹をくふ    ほとヽぎす聞(く)みヽのみか初鰹ひだり箸にてくふべかりける〟    〈俊満は左利きであった〉    ◯『をみなへし』〔南畝〕②28(文化四年九月詠)  〝尚左堂のもとにまどゐして   霊宝は左へといふことのはも此やどよりやいひはじめけん〟    〈これも左利きを詠んだもの〉    ◯『一話一言 巻二十四』〔南畝〕⑬432(文化四年四月二十五日明記)   〝吾友窪俊満 易兵衛 はじめ魚彦の門に入て、蘭竹梅菊の四君子を学ぶ。後うき世絵を北尾重政花藍に 学ぶ。魚彦より春満といへる画名をあたへしが、勝川春章といへるうき世絵の門人と人のいふをいとひ て、春の字を俊の字に改めしといへり〟    〈「浮世絵考証」の〝春章に学ぶ〟と矛盾する記述だが、享和期以降頻繁な交遊を経た上での南畝記事だから、俊満自     ら語ったこちらの方が信憑性はある。それにしてもなぜ俊満は春章の門人と見なされるのを嫌ったのであろうか〉   ◯『夢の浮き橋』④178(文化四年八月記)     〈文化四年八月十九日、富岡八幡祭礼の時、永代橋墜落。「夢の浮き橋」はその被害状況を南畝が緒家より集めて記した    もの。窪俊満は亀沢町八百屋の娘の死骸について報告している〉    ☆ 文化五年(1808)    ◯「絵暦年表」(本HP・Top)(文化五年)   ⑧「〔俊満〕印」143(万歳図)〈太夫の扇面に大の月、才蔵の着物文様に小の月〉    「自在杖成」狂歌賛   ⑧「〔俊満〕印」144(双六に興じる子供たち)〈絵暦、着物の図柄が大小月を表す〉    「入船風好」狂歌賛  ◯『浮世絵師之考』(石川雅望編・文化五年補記)   〔「浮世絵類考論究10」北小路健著『萌春』207号所収〕   〝窪俊満【尚左堂・南陀加紫蘭・一節千杖 亀井町住】    狂歌を能くし、狂歌すりんものゝ絵多し、左筆なり 重政門人     【弾手数多】空音本調子 【三巻・窪田俊満作 北尾門人三二郎画】     【思ひ付たり替つたり】五郎兵衛商売 【三巻・南陀伽紫蘭作 北尾政演画】〟    〈大田南畝の『浮世絵考証』をベースにして、南陀加紫蘭の戯作名と一節千杖の狂歌名及び黄表紙二作『空音本調子』     (安永九年刊)『五郎兵衛商売』(天明二年刊)を加筆。なお「後春章ニ学ブ」は削除した〉    ☆ 文化六年(1809)    ◯「絵暦年表」(本HP・Top)(文化六年)   ⑧「〔俊満〕印」(年礼図)142    「自在杖成」俳句・狂歌賛〈俳句の漢字の位置が大の月、ひらがなが小の月を表す〉    ◯「絵入狂歌本年表」〔狂歌書目〕   ◇狂歌(文化六年刊)    柳々居辰斎画『四方戯歌名尽』一冊 辰斎・豊広画 芝の屋山陽編 山陽堂板     俊満詠「うめかゝを日こととめたるもろ袖を打はらはせるきさらぎの雪」     〈〔目録DB〕は四方歌垣真顔著。国立国会図書館デジタルコレクション所蔵の画像によると、浮世絵師としては柳々      居辰斎と尚左堂俊満の狂歌が入集〉    ◯『新撰狂歌百人一首』〔江戸狂歌・第七巻〕六樹園宿屋飯盛編・文化六年(1809)刊   〝紅毛もめづらん花の江戸桜いりあひをしむ石町の鐘  俊満〟    ☆ 文化七年(1810)以前    ◯「読本年表」〔目録DB〕(文化七年刊)    窪俊満画『朧月夜物語』尚左堂俊満画 稗海亭柳浪作    ◯「絵入狂歌本年表」〔目録DB〕(文化七年刊)    窪俊満編『狂歌言葉の滝水』二冊 尚左堂俊満等編 鶴屋金助板    ◯『きゝのまにまに』(喜多村筠庭記・文化七年以前の記事)   (文政九年五月の近藤重蔵父子による百姓一家殺害事件の記事に続いて)   〝金銀図録を著すころ、彫刻摺立などは尚左堂俊満請負たり、それ故俊満も頼れて古金所蔵人より借用し    て図を写しける時、其古金を典物などにして、俊満も迷惑したる由、其外手間代料請取事に付て、とり    合ければ、切捨んと近藤がいひしを、俊満は事ともせず、冷笑ひて有しに、事済たりと語りぬ〟    〈近藤重蔵の『金銀図録』は文化七年刊。蝦夷地探検でも知られる近藤正斎重蔵は才気煥発であったが、鳥取藩西館     (若桜)五代目藩主池田冠山に言わせると「近藤守重が正斎と号して不正なるは、恧爾として恥ぢずやあるべき」と     いうことで、その素行には問題があった。(『思ひ出草』)俊満との挿話も、写生のため借りた古金を質草にしたり、     手間賃を請求すると切り捨てるという物騒な内容である。もっとも、奇矯な振る舞いに「事ともせず、冷笑ひて有し」     と、俊満の方も堂々たるものである。俊満は大田南畝(蜀山人)と親しいから、あるいは事前に重蔵の性向を南畝か     ら聞いていたのかもしれない。なお、南畝と重蔵は寛政六年の幕府の登用試験(学問吟味)に同時に及第した以来の     仲である。重蔵の末路については「浮世絵用語」の「富士(目黒)」を参照〉      ◯『馬琴書翰集成』年月不詳二十三日 馬琴宛・窪俊満(書翰番号・第六巻-来56)⑥275   〝(貼紙「久保俊満【馬喰町新道住】」)〟      〝一昨日は得貴顔、奉大慶候。然ば、相願ひ申上候御染筆、明朝もたせ上候間、何分/\奉希上候。今朝    さし上候はづに御座候へども、すきやがし手など入候ニ付、明朝さし上可申候。御繁多之御中、何とも    奉恐入候へども、唯々奉希上候。以上      氷月廿三日       曲亭先生                       俊満拝          尊下〟    〈「すきやがし」は狂歌堂鹿津部真顔のこと。持ち回りで狂歌でも揮毫しているのであろうか。狂歌堂のもとで支えて、     馬琴に届くのは予定より一日遅れると、俊満が連絡したのである〉    ☆ 文化八年(1811)     ◯「絵本年表」(文化八年刊)    窪俊満画    『自讃狂歌集』初編 柳々居辰斎 俊満 素羅◎瓢天馬 広昌画 北渓画 抱亭五清画               額輔写 北寿画 蹄斎北馬画 蜂房秋艃画 菅川亭画               宿屋飯盛撰〔漆山年表〕    ◯「絵入狂歌本年表」〔狂歌書目〕(文化八年刊)       窪俊満画『自讃狂歌集』一冊 俊満・北渓等画 六樹園編    ◯『狂歌画像作者部類』抱亭五清画・六樹園編・文化八年刊〔目録DB画像〕   〝俊満 号尚左堂 窪氏 住馬喰町 窪俊満    つめたさや雪に同行ふたみがたかたにかけたるこりもとられず〟    ☆ 文化九年(1812)    ◯『万代狂歌集』〔江戸狂歌・第八巻〕宿屋飯盛編・文化九年(1812)刊   〝梅をよめる  女のみすむ島ならでみんなみに向ひてはらむうめの花ひら  窪春満〟   〝夜梅を    浪華津にさくや此花一昨夜さくやこよひかにほふ只中    窪春満           よるのうめ見てもどりしと女房にいひわけくらき袖の移り香〟   〝梅有喜色をいふを 姫桃の台にほさきえんつけて親木のうめのよろこひの顔 窪春満〟   〝江戸花を   紅毛もめづらん花の江戸さくらいりあひをしむ石町の鐘   窪俊満〟   〝郭公を    ほとゝきす初声きけば大隅のなげきの森の中のよろこび   窪春満〟   〝洛外蛍を   夕すゝの宮川町をゆくほたる尻の光りぞ何ま(ママ)花     窪春満〟   〝盆踊りを   あしなかを長刀なりにふみ出して巴にめぐる木曽の輪をどり 窪春満〟   〝鹿を     春日山鹿はつまこふ外に又せんべいねだる音もあはれなり  窪春満〟   〝旅館聞鹿といふことを  旅は目のうるみ椀なるゆふけ時鹿のねころをきくにつけても 窪春満〟   〝報恩講を   いわしにた鍋までかりてなまくさい中のお寺もまねく報恩  窪春満〟   〝吹革祭を   きゝかたの左正宗御火焚にみかんより先(酉+間)の湯加減  窪春満〟   〝箱根の湯治にまかりて  かまかりて勝手元するたのしさは若衆まじりの底倉の宿 窪春満〟   〝柳原向がもとにて尾上松助が玉藻の前に出たちたる姿を俊満がかけるを見て めしもり    中々に人は狐と化にけりこや九つの尾上松助〟    〈尾上松助が玉藻の前を演じた「三国妖婦伝」は文化四年六月の市村座公演〉    ☆ 文化十年(1813)    ◯「絵本年表」〔漆山年表〕(文化十年刊)    尚左堂画『狂歌関東百題集』二冊 芍薬亭長根編 竹窓亭蔵板     画工 辰斎老人画・柳斎画・十返舎一九画・卓嵩画・辰光画・文鼎画・辰潮画・三馬画        辰一・蜂房秋艃画・均郷・京伝筆・北嵩毫・北馬・辰暁画・北寿画・尚左堂    ◯『狂歌あきの野ら』〔江戸狂歌・第八巻〕萩の屋裏住編・文化十年刊   〝花   吸筒のさゝをかついて隅田川気違水も花の一興      尚左堂〟   〝蚊遣火 すだく蚊はあらおそろしの般若声立されとたく煙は護摩程 尚左堂俊満〟   〝寄蛍恋 狩といふ名を借る夜るの弁当も蛍をだしに恋のうまこと  尚左堂〟   〝寄蝶恋 はつとたつなの葉はまゝのかはひらこあふての後はとまれかくまれ 左尚堂春満〟   〝寄蚤恋 愛敬のこぼれる君に喰つかんむねをこかしの蚤となりても 尚左堂〟    ◯『狂歌関東百題集』〔江戸狂歌・第八巻〕鈍々亭和樽編・文化十年序    挿絵署名「尚左堂」   〝七夕 はたやめて星のあふ夜は一とせにひとはの桐生風のにし陣 尚左堂〟   〝秋夕 御遷宮におはします日は賑やかに泪こぼるゝ秋の夕暮   尚左堂春満〟    ☆ 文化十一年(1814)    ◯「絵入狂歌本年表」〔狂歌書目〕(文化十一年刊)    窪俊満画『狂歌水薦集』一冊 窪俊満画 瀧水楼米人選 二世吾友軒板    ◯『狂歌水薦集』〔江戸狂歌・第九巻〕四方瀧水楼米人編・文化十一年序    挿絵署名「尚左堂俊満写」「俊満写」    ☆ 文化十二年(1815)    ◯「絵本年表」〔漆山年表〕(文化十二年刊)    窪俊満画?    『多満廼以左吾』一冊 画工不明(俊満風)清風亭白銀伊佐子 狂歌堂真顔序 鶴屋喜右衛門板    ☆ 文化十三年(1816)    ◯「絵暦年表」(本HP・Top)(文化十三年)   ②「俊満」(蔵鍵の図)1-14/28〈鍵に大小月〉    「霜芳軒白萬」「五梅葊畔季」句賛  ☆ 文化十四年(1817)    ◯『紅梅集』〔南畝〕②319(文化十四年十二月詠) 〝関宿の君の春のすりものヽ奥にことば書そへよとこふに、又鈍々亭和樽の社中白木屋何がしのすりもの に歌をこふ。二つともに尚左堂俊満のたくみなり  橘のはなの先より遠責の面しろ木やの鈍々の音 ふたつともにいなみて狂名をばかヽず〟    〈「関宿の君」は久世大和守。「白木や何がし」は日本橋白木屋の奉公人重兵衛か。摺り物に評判の高い俊満画に蜀山     人の狂歌を配したものだが、狂名を入れるのは拒否したとあり。気乗りしない理由は不明である〉    ☆ 文化年間(1804~1818)    ◯『【諸家人名】江戸方角分』(瀬川富三郎著・文化十四年~十五年成立)   「伝馬町 狂歌師・浮世画・画家・戯作者」〝俊満 一筋千杖 号尚左堂 新シ橋通リ富松丁 窪田安兵衛〟    ☆ 文政二年(1819)    ◯『半日閑話 次五』〔南畝〕⑱183(文政二年三月二十日付)  (大坂在住重岡真兵衛の南畝宛書簡) 〝当表大江橋辺に蜀山せんべい売弘、せんべいに尊君様御狂歌抔相認メ御座候由、求に遣し候処、昨日は 売切候由にて手に入不申候。去冬俊満登坂にて、同人の趣向と察居申候〟    〈大坂にて評判の「蜀山せんべい」なるものを案じ出したのは、文政一年の冬、大坂入りしていた俊満というのである。     前項もそうだが、俊満は蜀山人の名前をずいぶんあちこちで利用しているような気配だ。     南畝が浮世絵師のなかで一番親しかったのは山東京伝だが、俊満はそれに次ぐ。交渉は狂歌・摺物といった出版の関     係を超えた私的な領域にまで及んでいる。どうしてこんなにウマがあったのか分からないが大変親密だ。しかし文政     三年九月二十日の俊満逝去について、南畝に書き留めはない〉    ☆ 文政三年(1820)(九月二十日没・六十四歳)    ◯「読本年表」〔目録DB〕(文政三年刊)    窪俊満画『朧月夜恋香繡史』尚左堂俊満画 稗海亭柳浪作    ☆ 刊年未詳    ◯「絵入狂歌本年表」(刊年未詳)    窪俊満画〔目録DB〕    『連月高点集』尚左堂俊満・春陽亭万来判〈作画ではないようだ〉    『一会相撲』 一冊 尚左堂俊満画    『寿』一冊 窪俊満画(注記「分露米寿祝賀狂歌集」)    窪俊満画〔狂歌書目〕    『時鳥三十六歌仙』一冊 俊満・京伝・辰斎等 淮南堂撰 催主 不尽亭員俊     〈〔目録DB〕の同名本は「六樹園・鈍々亭・淮南堂編 勝川春暁等画 天保二年刊」とある〉    ◯「艶本年表」〔目録DB〕(刊年未詳)    窪俊満画『女護が島絵巻』一軸 尚左堂俊満画(注記「日本艶本目録(未定稿)による」)    ☆ 没後資料  ☆ 文政元年(1818)    ◯『浮世絵類考』(式亭三馬按記・文政元年~四年)    (本ホームページ・Top「浮世絵類考」の項参照)       〝三馬按、俊満戯作アリ、作名ヲ南陀加紫蘭ト号ス。油通汚、玉菊燈籠弁、其他ノ草双紙四五種アリ〟  ☆ 天保四年(1833)   ◯『無名翁随筆』〔燕石〕③296(池田義信(渓斎英泉)著・天保四年成立)   〝窪俊満【(空白)年中歿ス】     俗称(空白)、住居亀井町、尚左堂と云、    俊満は狂歌を能す、画を北尾重政に学び、後春章に学ぶ、狂歌摺物絵、写真摺の画に妙なり、左筆にて かけり     三馬云、俊満戯作あり、南陀伽紫蘭と号す、青楼油汚、玉菊燈籠の弁と名る小冊、其他草双紙四五種 あり〟  ☆ 天保十五年(1844)  ◯『増補浮世絵類考』(ケンブリッジ本)(斎藤月岑編・天保十五年(1844)序)   (( )は割註・〈 〉は書入れ・〔 〕は見せ消ち)   ◇「北尾重政」の項、(重政門人)
   「北尾重政系譜」     ◇「窪俊満」の項   〝窪俊満 寛政年中より文化頃迄     俗称(空白) 居住 亀井町     尚左堂と云    俊満は狂歌をよくす。画を北尾重政に学〔び、後春章に学〕ぶ。狂歌摺物絵〈一枚絵〉写真摺の画に妙    なり、左筆にてかけり。     三馬云、俊満戯作あり。作名南陀伽紫蘭と号す。青楼油通汚、玉菊燈籠の弁、等小冊あり。其他草双     紙数類あり    〈月岑補〉南畝翁の一話一言に云、楫取魚彦〈カトリナヒコ〉は下総香取の人也。俗〔称〕〈姓〉を稲    生茂左衛門と云、加茂県主真淵翁につきて国学を学ぶ。又画を建孟喬綾足に学びて、よく鯉を画しとぞ。    吾友窪俊満易〈ヤス〉兵衛はじめ魚彦の門に入て、蘭竹梅菊の四君子を学ぶ。後浮世絵を北尾重政に学    ぶ。魚彦より春満といへる画名をあたへしが、勝川春章といへる浮世絵の門人と人のいふをいとひて、    春の字を俊の字に改めしといへり。(以上文化三年四月、先生の筆記也。類考、春章にも学ぶとあれど、    この説によれば、春章の門人にあらず)〟    △『戯作者撰集』p64(石塚豊芥子編・天保末頃~弘化初年成立、後、嘉永期まで加筆)   (安永八年記事)   〝窪田春満  作名 南陀伽紫蘭と浮世類考に三馬云    為一翁云、通けり猫のわざくれと云、回向院前猫茶屋を戯作せし草そうしあるよし、予未見〟    〈「日本古典籍総合目録」によると『通鳧寝子の美女 (かよいけりねこのわざくれ)』は安永八年(1779)刊の黄表紙で、     俊満は黄山堂の名称で戯作、作画は北川豊章(歌麿)。「三馬云」とは、俊満の戯作名が南陀伽紫蘭であることを     「浮世絵類考」の三馬按記から引いたということだろう。為一翁は北斎。『戯作者撰集』の編者・石塚豊芥子は、     この北斎の証言を、おそらく俊満戯作の初筆として、受け取ったものと思われる〉    〈『黄表紙總覧』は安永七年刊とする。2011/11/11追記〉  ☆ 嘉永三年(1850)    ◯『古画備考』三十一「浮世絵師伝」中p1405(朝岡興禎編・嘉永三年四月十七日起筆)   〝窪俊満 北尾重政門人、後春章ニ学ブトモ云、亀井町ニ住、狂歌摺物ノ画計書く、左手ニテ画ク故、自    尚左堂ト号【浮世絵類考】寛政年間人
   (千虎補)[署名]「尚左堂窪俊満画」[印章](二顆、方印、枠のみ刻字なし)    (千虎補)[署名]「窪俊満画」[印章]「俊」(朱文方印)「刻字未詳」(方印)山水、蜀山人賛    (補)名所画富士[署名]「俊満」[印章]「俊満」(朱文丸印)〟    ☆ 安政三年(1856)   ◯『戯作者小伝』〔燕石〕②35(岩本活東子編・安政三年成立) 〝窪田俊満     尚左堂と号し、安兵衛と称す、作名を南陀伽紫蘭といふ、神田富松町に住居す、狂歌をよくし、画をも よくす、為一翁いふ、回向院前猫茶屋の事を戯作して、「通りけり猫のわざくれ」といへる草双紙ある よし、予未見〟    〈『戯作者撰集』は「窪田春満」とし、「為一翁いふ」以下同文あり。「為一翁」は北斎、「予」は『戯作者撰集』の     撰者・石塚豊芥子か、あるいはその原本『稗史通』の選者・墨川亭雪麿か。「通りけり猫のわざくれ」は安永八年の     黄表紙『通鳧寝子の美女(かよいけりねこのわざくれ)』か。「国書基本DB」は黄山堂(南陀伽紫蘭)著、北川豊章     (喜多川歌麿)画とする〉  ☆ 安政六年(1859)  ◯『翟巣漫筆』〔新燕石〕②附録「随筆雑記の写本叢書(二)」p7(斎藤月岑書留・安政六年記)   (本町谷屋新蔵の張交中に見た窪俊満画おたふく、四方山人題詩)   〝美女不如悪女情 莫嫌二満与三平 阿亀阿徳阿多福 尽是息災延命名〟    ☆ 明治元年(慶応四年・1868)  ◯『新増補浮世絵類考』〔大成Ⅱ〕⑪211(竜田舎秋錦編・慶応四年成立)   〝窪 俊満    号尚左堂、俗称易兵衛と云。性狂歌をよくす。又戯作を好んで、作名を南陀伽紫蘭と号す。居住亀井町、    始め画を揖取魚彦に学ぶ。〔割註 魚彦は下総香取の人也。俗称稲生茂右衛門、茅生菴と号す。真淵翁    につきて国学を学ぶ。又画を建孟綾足に学びて鯉を画しとぞ。天明二年三月歿す。年六十歳〕魚彦より    春満といへる画名をあたへしが、勝川春章といへる浮世絵師の門人と人の云をいとひて、俊満と改めし    といへり。後浮世絵を重政学びて、狂歌摺物絵写真の画に妙なり。能く左筆にて画り。      青楼油通汚     玉菊燈籠の弁〟    ☆ 明治三年(1870)
 ◯『睡余操瓢』〔新燕石〕⑦附録「随筆雑記の写本叢書(七)」p6(斎藤月岑書留・明治三年頃記)   〝本町一丁目谷屋張交      窪俊満画     美女不如悪女情 莫嫌二満与三平 阿亀阿徳阿多福 尽是息災延命名 四方山人〟    〈四方山人(大田南畝・後に蜀山人)の狂詩の初出は『壇那山人藝舎集』(天明四年三月序)所収「七言絶句」「題阿     福女図」。詩句は全く同じ〉  ☆ 明治十七年(1884)  ◯『扶桑画人伝』巻之四(古筆了仲編 阪昌員・明治十七年八月刊)   (国立国会図書館デジタルコレクション)   〝俊満    窪氏、名ハ俊満、尚左堂ト号ス。又戯作ノ名ヲ南陀伽紫蘭ト云フ。江戸亀井町ニ住ス。画法ヲ北尾重政    ニ学ビ、後チ勝川春章ニ就学ス。常ニ狂歌摺物ノ画ノミヲ画ク。左筆ナリ。著書四五アリテ世ニ行ハル〟  ☆ 明治十九年(1886)  ◯「読売新聞」(明治19年5月16日付)   〝第七回観古美術会品評 全号続き      喜多川哥麿 窪俊満合作 遊女の図 淡彩    俊満は始め春満といひ 俗称を易兵衛といふ 左筆なりし故に 尚左堂と号す 狂歌をよみ 又戯作に    も長ず、隠名を南陀迦紫蘭と号す 山東京伝・宿屋飯盛その他数十名の狂歌の賛あり〟    〈上掲「目録」参照〉  ☆ 明治二十一年(1888)  ◯『古今名家書画景況一覧』番付 大阪(広瀬藤助編 真部武助出版 明治二十一年一月刊)   (東京文化財研究所・明治大正期書画家番付データベース)   ※( )はグループを代表する絵師。◎は判読できなかった文字   (番付冒頭に「無論時代 不判優劣」とあり)   〝大日本絵師     (西川祐信)勝川春章 菱川師房  西村重長 鈴木春信  勝川春好 竹原春朝 菱川友房 古山師重     宮川春水 勝川薪水 石川豊信  窪俊満    (葛飾北斎 川枝豊信 角田国貞  歌川豊広 五渡亭国政 菱川師永 古山師政 倉橋豊国 北川歌麿     勝川春水 宮川長春 磯田湖龍斎 富川房信    (菱川師宣)〟    ◯『明治廿一年美術展覧会出品目録』1-5号(松井忠兵衛・志村政則編 明治21年4~6月刊)   (日本美術協会美術展覧会〔4月10日~5月31日 上野公園列品館〕)     (国立国会図書館デジタルコレクション)   「古製品 第一~四号」   〝窪俊満 小原女 一幅(出品者)若井兼三郎〟  ◯「読売新聞」(明治21年5月31日付)   〝美術展覧会私評(第廿五回古物 若井兼三郞出品)     窪俊満の大原女は蜀山人の讃あり      黒木めせめせ/\くろぎさゝをめせこくもうすくもきこしめせ/\       これは何がしの門院の御歌をなん 蜀山人書〟  ☆ 明治二十二年(1889)  ◯『近古浮世絵師小伝便覧』(谷口正太郎著・明治二十二年刊)   〝文化 尚左堂俊満    窪氏、画を吉左堂に学び、草木花鳥等を写し、蜀山人等の賛なす者多し〟    〈吉左堂は吉左堂俊潮で、勝川春潮晩年の号とされる〉  ☆ 明治二十四年(1891)  ◯『聴雨堂書画図録』巻二(渡辺省亭著・画 稲茂登長三郎 明治二十四年十月刊)   (国立国会図書館デジタルコレクション)   〝窪俊満 奴子菖蒲刀図 絹本 蜀山人題歌 竪一尺六寸五分 濶一尺七分     (摸写図 落款「俊満」)     幟たけすぐなる代とは上下のあさの中なる蓬にぞしる 蜀山人    俊満、姓は窪、尚左堂と号す。俊満は其の名なり。江戸の人。太(ママ)田南畝等と交り、能く諧謔歌を    賦す。戯れに号して南陀伽紫蘭と曰ふ。北尾重政・勝川春章に就て、浮世絵を学ぶ。諧謔歌集の巻頭    に画くもの頗る多し。皆左筆なり〟  ☆ 明治二十五年(1892)    ◯『日本美術画家人名詳伝』下p317(樋口文山編・赤志忠雅堂・明治二十五年刊)   〝窪俊満    戯作者ナリ、狂歌ヲ能クシ、尚左堂ト号ス、通称安兵衛、戯作ノ名ヲ南陀伽柴(ママ)蘭ト云フ、江戸亀井    町ニ住ス、著書四五種アリ世ニ行ナハル、又北尾重政、勝川春章ニ就キテ浮世絵ヲ学ブ、常ニ狂歌ノ画    ノミヲ画ク、左筆ナリ(燕石十種)〟  ☆ 明治二十六年(1893)    ◯『明治廿六年秋季美術展覧会出品目録』上下(志村政則編 明治26年10月刊)   (日本美術協会美術展覧会 10月1日~10月31日 上野公園桜ヶ岡)   (国立国会図書館デジタルコレクション)   〝窪春満 擣衣美人図 一幅(出品者)小林文七〟  ◯『古代浮世絵買入必携』p14(酒井松之助編・明治二十六年刊)   〝窪俊満    本名 易兵衛  号〔空欄〕  師匠の名〔空欄〕  年代 凡百年前後    女絵髪の結ひ方 第七図・第八図 (国立国会図書館 近代デジタルライブラリー)    絵の種類 並判、中判、小判、細絵、長絵、縫取絵、摺物、絵本、肉筆    備考  〔空欄〕〟    ◯『浮世絵師便覧』p237(飯島半十郎(虚心)著・明治二十六年刊)   〝俊満(シユンマン)    俗称易兵衛、始め春満、後に春字を改めて、俊字とす、重政門人、尚左堂と号す、左筆なり、◯寛政〟  ☆ 明治二十七年(1894)    ◯『名人忌辰録』下巻p4(関根只誠著・明治二十七年刊)   〝窪 俊満 尚左堂    通称易兵衛、始春海と云。画を魚彦、又重政に学び、狂文狂歌を著す。戯号南陀迦紫蘭。文政三年に歿    すと聞く〟  ☆ 明治三十一年(1898)  ◯『浮世絵備考』(梅本塵山編 東陽堂 明治三十一年六月刊)   (国立国会図書館デジタルコレクション)(41/103コマ)   〝窪俊満【寛政元年~十二年 1789-1800】    通称易兵衛、尚左堂と号す、神田富松町に住み、また小伝馬町三丁目河岸に住めり、はじめ楫取魚彦に    四君子の画を学び、後に北尾重政に浮世絵を学べり、嘗て魚彦より、春満といふ画名を与へしが、勝川    春章の門弟と人のいふを厭ひて、春の字を俊の字に改めしと云ふ、俊満は狂歌を善くして、人口に膾炙    する秀詠多く、また南陀伽紫蘭と戯名して、草双紙を著作しけり、よく左筆にて画き、魚彦より伝来の    印章を用ゐたり(版本リスト二作、書名省略)〟  ☆ 明治三十二年(1899)    ◯『新撰日本書画人名辞書』下 画家門(青蓋居士編 松栄堂 明治三十二年三月刊)   (国立国会図書館デジタルコレクション)(146/218コマ)   〝窪俊満    通称を安兵衛といふ 尚左堂と号す 江戸亀井町に住す 北尾重政に師事して浮世絵を研究し 之れを    能くす 後勝川春章に就きて 益々之れを研究す 此の人左手を以て画を描き 趣味最も高し 其の画    皆狂歌摺物のみなり 又好みて戯作を為す 戯名を南陀伽紫蘭といふ 著書四五種あり 世に行はる    (扶桑画人伝 燕石十種)〟  ◯『浮世画人伝』p48(関根黙庵著・明治三十二年五月刊)   〝窪俊満(ルビくぼとしみつ)    窪俊満、俗称は易兵衛と云ふ、楫取魚彦に就きて画を学ぶ、魚彦は下総佐原の人、稲生茂左(*ママ)衞は    其通称なり。加茂真淵に就きて国学を修め、建部綾足に就きて画を学び、鯉魚(リギョ)を描くに妙を得た    る人にして、天明二年三月、六十歳にて歿しぬ。易兵衛、師魚彦より春海(シュンカイ)の号を授けられしも、    当時画家に春字を称するもの甚だ多く、勝川春章が門人と誤らるゝを厭(イト)ひて、自ら俊満と改称せり、    又尚左堂と号す、浮世絵は、北尾重政に学びしなり。俊満(トシミツ)左筆を揮ふに妙なり、狂文狂歌戯作を    よくし、戯号を南陀迦紫蘭(ナンダカシラン)と称せり。寓居の地は本所亀沢町なりしとぞ〟    ☆ 明治三十三年(1900)  ◯『見ぬ世の友』巻一(東都掃墓会 明治三十三年六月刊)   (国立国会図書館デジタルコレクション)(巻1-5 10/55コマ)   〝尚左堂俊満墓  絵馬屋拝掃 明治三十三年五月二十八日     浅草黒船町 浄土宗正覚寺 総卵塔中央にありて竪石にて惣高さ五尺位    (表)「善誉尚左俊満居士 文政辰三年九月廿日        相誉善心妙月大姉 文化十四年丑年六月十五日」〈八戒名のうちの二つ〉     尚左堂俊満小伝  絵馬屋額助    俊満は姓窪田氏、名は俊満、通称を易兵衛、幼児父を喪ひ、伯父何某の許に養はれて人と為り、小伝馬    町河岸亀井町に住す、常に左腕にて自在に用便を為す故、尚左堂と号せり、性風流にして初め楫取魚彦    に就て後素の道を学び、魚彦より春満といふ画名を授りしが、勝川春章の門人ならむと人に疑はるゝを    厭ひて俊満と改めり、浮世画は北尾重政に教を受け、其名世に喧伝せり、又沈金彫を工みにす、狂歌は    六樹園の社中にて伯楽側の判者たり、戯作には南陀加紫蘭といひ、曾て回向院前なる猫茶屋の事を著作    し、通ひけり猫のわざくれと題して刊行せしに大に世に行はれしといふ      夜るの梅見て戻りしといひわけくらき袖のうつり香    といふ歌は今の斯道に感吟せらるゝ所の秀逸なり、文政三年九月廿日没す、享年六十四歳、浅草黒船町    正覚寺に葬る、法号「善誉尚左俊満居士」〟  ☆ 明治三十四年(1901)  ◯『日本帝国美術略史稿』(帝国博物館編 農商務省 明治三十四年七月刊)   (国立国会図書館デジタルコレクション)※半角カッコ(かな)は本HPの補記   〝第三章 徳川氏幕政時代 第三節 絵画 浮世絵派(168/225コマ)    窪俊満    狂歌を善くし、又好みて稗史(はいし)を作る。画を揖(ママ)取魚彦に学び、後ち浮世絵を北尾重政に学び    て、寛政の頃多く狂歌の榻本(とうほん)を画く、頗る奇趣あり。俊満もと左筆に巧なりしと云ふ〟    〈「稗史」は民間の小説。この場合は黄表紙。「榻本」は摺本の意味〉  ☆ 明治四十四年(1911)  ◯『浮世絵画集』第一~三輯(田中増蔵編 聚精堂 明治44年~大正2年(1913)刊)   「徳川時代婦人風俗及服飾器具展覧会」目録〔4月3日~4月30日 東京帝室博物館〕   (国立国会図書館デジタルコレクション)   ◇『浮世絵画集』第二輯(明治四十五年(1912)五月刊)   (絵師)窪俊満(画題)「音つれ」(制作年代)寛政頃(所蔵者)東京帝室博物館〟  ☆ 大正以降(1912~)  ◯『近世文雅伝』三村竹清著(『三村竹清集六』日本書誌学大系23-(6)・青裳堂・昭和59年刊)   ◇「沾涼と俊満の本業 人物小話(一)」p329(「江戸趣味」3・大正五年九月。原題「江戸文人の職業」)   〝若樹文庫蔵引札張込帖に      慶寿杯【沈金彫/厚貝細工】尚左堂製(中略ママ)     御刀脇ざしや塗一色、並にかわりぬり仕候、尤酒器文宝御手道具るい何によらず、破笠まきゑ唐貝青     かいさいく、御望にまかせ奉差上候、◯(ママ)きぬ地 極さいしき並黒さいしき、うきよ絵相したゝめ     申候、是亦風流は御好にまかせ候          東都横山町二丁目北側中程   窪田英次郎/同俊満    とあるものあり。沈金彫は、漆器に花卉鳥獣等を筋ほりに陰刻し、金末を施し沈めしもの。破笠まきゑ    青貝細工は、漆器に種々なる物、青貝等を嵌入して、或形状をあらはすものなり、さては俊満塗師であ    りし歟〟〈沾涼記事割愛〉  ◯『罹災美術品目録』(大正十二年(1923)九月一日の関東大地震に滅亡したる美術品の記録)   (国華倶楽部遍 吉川忠志 昭和八年八月刊)   ◇小林亮一所蔵〈小林文七嗣子〉    窪俊満    「宮女観桜図」 絹本極彩色 /「遊女弄羽子図」蜀山狂歌賛    「遊女図」   蜀山狂歌賛 /「美人擣衣図」    「美人蛍籠図」  ☆ 昭和以降(1926~)    ◯『狂歌人名辞書』(狩野快庵編・昭和三年(1828)刊)   ◇「俊満」の項 p95   〝尚左堂俊満、戯作に南陀加紫蘭といひ、狂歌に一筋千杖と号し、川柳に塩辛坊の名あり、通称窪田易兵    衛、東都小伝馬町三丁目に住す、画を揖取魚彦、北尾重政に学び、狂歌はつむり光に隨ひ、光の歿後、    伯楽側を主宰して其幹部たり、書画共に左筆なり、別に蒔絵の沈金彫に長じ、其作品世に伝はる、文政    三年九月二十日歿す、年六十四、浅草正覚寺に葬る〟     ◇「紫蘭」の項 p99   〝南陀加紫蘭、通称窪田易兵衛、尚左堂俊満、戯作の号。(俊満を看よ)〟    ◯「日本小説作家人名辞書」(山崎麓編『日本小説書目年表』所収、昭和四年(1929)刊)   ◇「春満」p734   〝窪田春満    南陀加紫蘭を見よ。「空音本調子」(安永九年(1780)刊)の作者〟
  ◇「俊満」p734   〝窪田俊満    南陀加紫蘭を見よ〟
  ◇「黄山堂」p735   〝黄山堂    南陀加紫蘭を見よ。『通鳬寐子美女』(安永八年(1779)刊)の作者〟
  ◇「南陀加紫蘭」p804    〝南陀加紫蘭    通称窪田易兵衛、又安兵衛、窪田春満、俊満、黄山堂、尚左堂等の号がある。狂名一筋千杖、川柳に塩    辛坊と称す。本所、神田富沢町、小伝馬町と転住した。画を楫取魚彦、北尾重政に学び、狂歌をつむり    光に学ぶ。文政三年九月二十日没、享年六十四、浅草正覚寺に葬る。「玉菊燈籠弁」(安永九年刊)    「浮世の四時」(天明四年刊)の作者〟     ◯『浮世絵師伝』p98(井上和雄著・昭和六年(1931)刊)   〝春満 窪俊満の初名〟  ◯『浮世絵師伝』p99(井上和雄著・昭和六年(1931)刊)   〝俊満    【生】宝暦七年(1757)     【歿】文政三年(1820)九月二十日-六十四    【画系】楫取魚彦及び北尾重政門人【作画期】安永~文化    北尾を称す、窪田(修して窪といふ)氏、俗称易(一に安とす)兵衛、幼年にして父を喪ひ、伯父何某    の許に養はれて成長す、初めの師魚彦より春満の号を与へられしが、後ち世人より春章の門人ならむと    云はるゝを厭ひて俊満と改む、生来左筆なりしかば、別号を尚左堂と云へり、其他、黄山堂・南陀伽紫    蘭(戯作号)・一節千杖(狂歌号)・塩辛房(俳号)等の号あり。    彼は、安永の初期より浮世絵師生活に入り、美人画を主とせる錦絵と自画作の黄表紙若干種を発表せし    が、作画の傍ら狂歌を六樹園(石川雅望)に学びて、後ち伯楽側の判者と成り其の機縁にょりて絵入狂    歌本及び狂歌の摺物等に筆を執りたり、晩年益々狂歌道に親しみ、且つ長子嫡孫共に摺師たりしを以て、    摺物の製作上に便宜を蒙る所尠からざりき、而してそは単に自己の娯楽とせしに止まらず、一般の需め    に応じて殆ど専門的に工夫を凝らしゝものゝ如し、今其等の作に従事する以前に発表せし錦絵中にあり    て、世に傑作と称せらるゝものは、春霄図(【茶亭の黒塀の内外に人物を配置したるもの】)・曲水の    宴・四季庵楼上の酒宴(以上各三枚続)・美人六玉川(六枚物)(口絵第三十四図参照)等なるが、其    他の諸図に就て見るも、多くは天明年間の作なり。尚ほ中年、晩年を通じて、肉筆画は頗る多数の作あ    り。    右の外彼は沈金彫の技に長じ、又貝細工を巧みにせり、加之、文藻甚だ豊かなるものあり、実に多芸多    能の人と謂ふべし。居所初め通塩町、後ち小伝馬町三丁目河岸に移りし事は確証あれど、其の他にも、    亀井町・神田富松町・本所亀沢町などに住みしとする説あり。法名を善譽尚左俊満居士といひ、浅草黒    船町正覚寺に葬る。  ◯『近世文雅伝』三村竹清著(『三村竹清集六』日本書誌学大系23-(6)・青裳堂・昭和59年刊)   ◇「夷曲同好筆者小伝」p444(昭和六年九月十六日記)   〝尚左堂俊満 窪田安兵衛【一作易兵衛】初学画楫取魚彦、号春満、後従北尾重政、学狂歌頭光、号一節          千杖、更南陀伽紫蘭、住通塩町、住馬喰町、住本所亀井町、文政三年庚辰九月廿日没、年          六十四 葬浅草正覚寺  ◯『浮世絵年表』(漆山天童著・昭和九年(1934)刊)   ◇「安永九年 庚子」(1780)p136   〝此年、窪俊満二十四歳、南陀伽紫蘭の名を以て、『玉菊灯籠弁』に画けるあり〟    〈「日本古典籍総合目録」によると、この年、南陀伽紫蘭の作品は四点あるが、作画はこの『玉菊灯籠弁』のみ。他は     戯作のみで、作画は北尾三二郎(政美)・北尾政演(山東京伝)。なおこの当時に戯作名は俊満ではなく「春満」で     ある〉   ◇「天明三年(癸卯)」(1783)p139   〝正月、窪俊満の『画鵠』出版〟
  ◇「寛政四年 壬子」(1792)p154   〝正月、窪俊満・堤等琳等の画ける『狂歌桑之弓』出版〟
  ◇「寛政八年 丙辰」(1796)p159   〝正月、窪俊満・堤等琳等の挿画に成れる『狂歌百さへずり』出版〟
  ◇「享和二年 壬戌」(1802)p168   〝六月、窪俊満の『狂歌左鞆絵』出版〟
  ◇「文化八年 辛未」(1811)p181   〝十月、俊満・辰斎・北馬・北渓・北寿等の挿画に成れる『自讃狂歌集』出版〟
  ◇「文化一〇年 癸酉」(1813)p184   〝五月、辰斎・一九・柳斎・辰湖・京伝・三馬・北嵩・北馬・北寿・俊満・辰光・辰一・辰暁・秋艃の挿    画に成れる『狂歌関東百題集』出版〟
  ◇「文政三年 甲辰」(1820)p194   〝九月二十日、窪俊満歿す。行年六十四歳。(俊満は北尾重政の門人なり。又狂歌を宿屋飯盛に学びて狂    名を南陀伽紫蘭と称せり。又文才あり青本を作り同じく南陀伽紫蘭と署せり。通称安兵衛、尚左堂・黄    山堂等の号あり。本姓窪田を修して窪と称せり。尚左堂の号は左筆なりしを以て号せるなるべし〟  ◯「集古会」第二百回 昭和十年三月(『集古』乙亥第三号 昭和10年5月刊)   〝中沢澄男(出品者)三村清三郞(出品者)窪俊満画 絹本 花下傾城図 一幅 蜀山人外諸家賛〟  ◯「集古会」第二百二回 昭和十年九月(『集古』乙亥第五号 昭和10年10月刊)   〝木村捨三(出品者)窪俊満画 三代目瀬川菊之丞一周忌追善摺物 牡丹に獅子頭の図〟  ◯「浮世絵雑考」島田筑波著(『島田筑波集』上巻・日本書誌学大系49)   △(「文調と俊満」林若樹所蔵、俊満の沈金彫の引札)p319   〝慶寿杯【沈金彫/厚貝細工】尚左堂製(中略)    御刀脇ざしさや塗一色、並にわかさぬり仕候。尤酒器文宝御手道具るい何によらず、破笠まきゑ唐貝青    貝さいく御望にまかせ奉差上候。◯きぬ地極彩色並墨さいしき、うきよ絵相したゝめ申候。是亦風流は    御好にまかせ候       東都横山町二丁目北側中程/窪田英次郎/同俊満〟    △『東京掃苔録』(藤浪和子著・昭和十五年序)   「浅草区」正覚寺(蔵前三ノ九ノ一)浄土宗、俗に榧寺といふ。   〝窪俊満(画家)本姓窪田安兵衛、左手利きなる為に尚左堂と号す。北尾重政に従ひて浮世画に巧みなり。    六樹園に狂歌を学び、戯作に南陀加紫蘭と号し、通ひけり猫のわざくれ大に世に行はる。文政三年九月    二十日歿。年六十四。誉善尚左俊満居士〟      △『増訂浮世絵』p179(藤懸静也著・雄山閣・昭和二十一年(1946)刊)   〝窪俊満    氏を窪田、通称を安兵衛と呼び、自ら窪俊満と称した。一節千杖、黄山堂などとも号し、又黄表紙をも    作つたが、それには南陀伽紫蘭といふ名を用ひて居る。性来、左筆に巧みなので、尚左堂とも左尚堂と    も云つた。宝暦七年、江戸に生れ、幼時父に死別し、伯父の手で育てられた。掫取魚彦に就いて画道を    修め、春満の号を与へられたが、当時世に時めきける勝川流の門葉に紛れるのを厭ひて、春を俊に改め    たのであつた。浮世絵は北尾重政の門で学んだのである。又、狂歌の道を石川雅望に受け、多才多能の    人であつた。    初め本所の亀井町に住んだが、小伝馬町三丁目河岸、神田富松町、本所亀沢町等に居を移したと伝へら    れて居る。俊満の遺作としては、錦絵の数はあまり多くはないが、皆相当に優れたものである。また肉    筆にも観るべき作例が乏しくない。前記の如く他流に在りて、一通りの技術を習得した人であるから、    一般の浮世絵師に比べて、聊か選を異にしたる点があり、殊に背景たる樹木屋台などの描法には堅実の    趣があつて、然かもそれが艶麗なる浮世絵式美人と相当によく調和されてゐる。    晩年には狂歌師として世に立ち、狂歌入摺物や狂歌本の挿絵を多く画いて居る。之れは自ら進んで狂歌    の道に投じたと見てもいゝが、一方では当時、浮世絵界には、稀代の名家相並んで雄飛した時代である    から、俊満の伎倆は、敢て拙くはなかつたとしても、其の間に伍して輸贏を争ふことは、大なる苦心で    あつたに相違ない。此の形勢を見て取つた彼は、自らその才能の長ずる所に向ひ、狂歌で世に立つ志を    決したのではあるまいかとも思はれる。兎に角、自画自作の黄表紙を幾種類か遺してゐる点から推して    も、その多能の程が察せられる。    俊満は文政三年九月二十日、享年六十四歳で没した。浅草黒船町の正覚寺に葬り、法号を善誉尚左俊満    居士と云つた。俊満の男や孫は、摺物職人を渡世としたと伝へられて居る。大正九年十月正覚寺に百年    祭を営み、遺作の展観を催した。    俊満の画風に就ては(中略)肉筆版画両方面に優れて居る。始め魚彦に学んだだけに筆の運用も巧であ    り、次で重政の画風を学び、清長の感化をうくるに及んで、著しく優美な画風になつて。婉柔な筆致は、    当時の名家でも中々及び難い所がある。従つて肉筆画に長じて居たので、作る所も少くなかつたと見え    る。その内にも優秀な作としては(中略)砧図を挙げることができる。これなどには清長の影響が著し    い。然し晩年には筆力が落ち粗笨に流れたのは惜しい。    版画にも優れたものが少くない。まづその構図に面白いものがある。例へば春宵図で、黒塀の隅から、    奥の二階で酒宴に打ち興じて居る所を三枚続に図したものがある。また野外の景を巧に写したものなど    は、その例に乏しくない。巧に遠近法を利用して居るので、家屋の角隅を好んで図中に収めて居る。    また版画の色彩には華美でなく、淡雅な趣のものがある。所謂紅嫌いといふて、藍、紫、草、黄、鼠色    等を淡く用ひ、適度の渲摺を施したものである。三枚続で優秀な作は、前に述べた春宵図や、曲水宴、    四季菴楼上の酒宴、金龍山額堂図などは世に知られ、六玉川六枚揃も優れて居る。何れも構図のよいも    ので、人物は清長の風を帯び、婉妖な態をなしたものが多い〟    ◯「日本古典籍総合目録」(国文学研究資料館)   〔窪春満版本〕    作品数:41点(「作品数」は必ずしも「分類」や「成立年」の点数合計と一致するとは限りません)    画号他:南陀伽紫蘭・窪・窪田・春満・窪田春満・俊満・尚左堂・尚左堂俊満・窪俊満・黄山堂    分 類:狂歌17・黄表紙12・洒落本4・読本3・絵画2・咄本1・艶本1・絵本1・俳諧1    成立年:安永8~10年     (6点)        天明1~4年      (10点)        寛政4~8・10・12年(10点)        享和1~2年      (3点)        文化4・7・11年   (4点)        文政3年        (1点)   (黄山堂名の作品)    作品数:1点    画号他:黄山堂    分 類:黄表紙1    成立年:安永8年    〈戯作のみ、作画は北川豊章〉   (春満名の作品)    作品数:4点    画号他:窪田春満    分 類:黄表紙4    成立年:安永9年 (2点)        天明2年 (1点)        寛政12年(1点)    〈四点、戯作のみ。作画は、安永九年(1780)の二点はともに北尾門人三二郎(北尾政美)。天明二年(1782)刊の方は     鳥居清長。そして、寛政十二年(1790)の本は天明二年の改題本の由〉   (南陀伽紫蘭作・画の作品)    作品数:2点    画号他:南陀伽紫蘭    分 類:洒落本1・黄表紙1    成立年:安永9年(1点)        天明1年(1点)    〈南陀伽紫蘭は専ら戯作名として使われているが、当初は画工名としても使われたのである。さて、安永九年(1780)     の洒落本『玉菊灯籠弁』が版本画工としての初出であろうか。しかし、天明三年以降、版本上からすると、南陀伽紫     蘭名は画工名には使用されなくなったようである〉   (窪俊満名の作品)    作品数:11点    画号他:窪俊満    分 類:狂歌9・絵画1・俳諧1    成立年:天明3年(1点)        寛政4・8・10年(6点)        享和2年(1点)        文化4・11年(2点)     〈窪俊満画の作品は十一点中九点。画工名のない作品二点のうち、寛政八年(1796)の『百さへづり』には「尚左堂俊      満画」の挿絵が入っている。(インターネット国文学研究資料館トップ「今月の一冊」2005年1月に画像あり)もう      一点は、文化四年(1807)の『狂歌月の都』。こちらは作画者か編者か不明であるが、十一点中十点が作画、窪俊満      名は専ら画工名として使用されたようである〉   (俊満名の作品)    作品数:3点    画号他:俊満    分 類:狂歌3    成立年:寛政5~6年(2点)     〈三点とも作画〉   (尚左堂俊満名の作品)    作品数:10点    画号他:尚左堂俊満    分 類:狂歌5・読本3・絵画1・艶本1    成立年:寛政7年(1点)        享和1年(1点)        文化7年(2点)        文政3年(1年)    〈「日本古典籍総合目録」には画工名を記載しない狂歌本が二点ある。ただ、そのうちの一つ、文化七年(1810)の     『狂歌言葉の滝水』について、菅竹浦撰『狂歌書目集成』は、これを享和二年(1802)『狂歌左登毛絵(左鞆絵)』     の改装本であるとし、尚左堂俊満の自撰自画としている。もう一点の『連月高点集』は、尚左堂俊満・春陽亭万来     判とあるのみで、これが編者なのか画者なのか判然としない。ともあれ、十点中九点は、作画の署名として尚左堂     俊満名を使用している。俊満・窪俊満・尚左堂俊満、俊満名は専ら画工名として使われており、戯作名とは区別し     ている様子である〉