Top浮世絵文献資料館浮世絵師総覧
 
☆ しゃらく とうしゅうさい 東洲斎 写楽浮世絵師名一覧
〔生没年未詳〕
 ☆ 寛政六年・甲寅(1794)  ◯「大童山の土俵入」大判・蔦屋重三郎板   〝大童山文五郎 寅ノ七才 /目方 十九貫目余/丈 三尺七寸九分    此度於江戸 土俵入仕候〟    署名「写楽画」〈本HP「浮世絵事典」大童山の項参照〉    ☆ 寛政七年・乙卯(1795)
 ◯「大童山」間判・蔦屋重三郎板   〝羽州村上郡長瀞村産    高サ三尺九寸九分 /大童山文五郎 卯ノ八才     当年相増 目方二拾壱貫五百目余 /はら三尺九寸まハり〟    署名「写楽画」    〈「掛け矢を振り上げて鬼退治する図」と「碁盤を片手で差し上げる図」の二図あるが、ともに文面は同じ〉    ☆ 寛政年間(1789~1800)
 ◯『浮世絵考証(浮世絵類考)』〔南畝〕⑱446(寛政十二年五月以前記)  (「歌川国政」の項に続けて)  〝写楽  これまた歌舞伎役者の似顔をうつせしが、あまりに真を画かんとてあらぬさまにかきなせしかば、長く    世に行われず、一両年にして止ム〟    〈この南畝の批評をどう解釈したものか。役者の似顔絵とは《役者》と《その役者が扮する役柄》とを二重写しに描い     たものを言うのであろうが、写楽の場合はその《役者が扮した役柄》以上に《役者》の方に比重がかかりすぎバラン     スを欠いたと、南畝は言うのであろうか。つまり舞台上の何者かに扮した役者を写したものではなくて、役者そのも     のの肖像画になってしまったと。したがって〝あまりに真を画かんとてあらぬさまにかきなせし〟とは、役者の肖像     に重点がかかり、舞台上で役柄に変身している役者の放つ《はな》のようなものを画いていない、と解釈できるのか     もしれない。いわば写楽は《助六に扮した市川団十郎》を画いたのであって、《市川団十郎の演ずる助六》を画いた     ものではないと、南畝は言うのだろう。2014/11/18、記事修整〉    ◯『増訂武江年表』2p18(斎藤月岑著・嘉永元年脱稿・同三年刊)   (「寛政年間記事」)   〝浮世絵師 鳥文斎栄之、勝川春好、同春英(九徳斎)、東洲斎写楽、喜多川歌麿、北尾重政、同政演    (京伝)、同政美(蕙斎)、窪俊満(尚左堂と号す、狂歌師なり)葛飾北斎(狂歌の摺物読本等多く画    きて行はる)、歌舞伎堂艶鏡、栄松斎長喜、蘭徳斎春童、田中益信、古川三蝶、堤等琳、金長〟    ◯『江戸風俗総まくり』(著者・成立年未詳)〔『江戸叢書』巻の八 p28〕   (「絵双紙と作者」)   〝天明の頃は勝川春英、北川政信(ママ)、春章が輩、役者絵、女絵、風景を書て賞せられしが、寛改の末よ    り歌川豊国専ら歌舞妓役者の肖像に妙を得て、松本幸四郎か市川高麗威、助高屋高助か市川八百識、坂    本三津五郎か蓑助の頃、瀬川菊之丞か市川男女丞、岩井半四郎か久米三郎のむかし中村のしほ、嵐昔八、    片岡仁左衛門、物いふがごとし、舞台顔を絵かきて豊図が筆を振ひし跡を、国政又是につぎ、半に写楽    といふ絵師の別風を書き顔のすまひのくせをよく書たれど、その艶色を破るにいたりて役者にいまれけ    る〟    〈北川政信は未詳。役者の似顔絵は明和以来の勝川派より、寛政から登場してきた豊国、国政等歌川派の方が「物いふ     がごとし」でずっと刺激的であったようだ。写楽はよく顔立ちのよく写し取ったものの「艶色を破るにいたりて役者     にいまれける」役者としての色艶を破壊したとして役者たちから嫌われたいうのである〉    ☆ 享和二年(1802)
 △『稗史億説年代記』(式亭三馬作・享和二年)〔「日本名著全集」『黄表紙二十五種』所収〕   〝草双紙の画工に限らず、一枚絵の名ある画工、新古共に載する。尤も当時の人は直弟(ヂキデシ)又一流あ    るを出して末流(マタデシ)の分はこゝに省く。但、次第不同なり。但し西川祐信は京都の部故、追て後編    に委しくすべし    倭絵巧(やまとゑしの)名尽(なづくし)     昔絵は奥村鈴木富川や湖龍石川鳥居絵まで 清長に北尾勝川歌川と麿に北斎これは当世     写楽
   『稗史億説年代記』 式亭三馬自画作(早稲田大学図書館・古典籍総合データベース)    ☆ 文化四年(1807)
 ◯『【新撰】浮世絵年表』p176(漆山天童著・昭和九年(1934)刊)   (「文化四年」記事)   〝此頃、斎藤写楽歿す(写楽は東洲斎と号し、俗称十郎兵衛と呼べり。阿波藩の能役者にして、絵を能く    し殊に役者の似顔を画くに極端にその特色を発揮し、却つて時好に適せざりしものゝ如し)    〔『【新撰】浮世絵年表』〕    〈『【新撰】浮世絵年表』は何を典拠にして写楽死亡記事を書いたのであろうか〉    ☆ 没後資料    ☆ 文化十四・五年(1817-8)    ◯『【諸家人名】江戸方角分』(瀬川富三郎著・文化十四年~十五年成立)   「八町堀 古人・浮世画」〝(空欄)号写楽斎 地蔵橋(姓名空欄)〟    〈写楽、江戸八丁堀地蔵橋住説の初出。故人となっている〉    ☆ 文政初年(1818-21)
 ◯『浮世絵類考』(式亭三馬按記・文政元年~四年)   〝三馬按、写楽号東洲斎、江戸八丁掘ニ住ス。僅ニ半年余行ハルヽノミ〟   〝三馬按、写楽号東周斎、江戸八町掘に住す、はつか半年余行はるゝ而己〟    〈「東洲斎」と「東周斎」の表記がある。本HP・Top「浮世絵類考」の項参照〉    ☆ 天保四年(1833)
 ◯『無名翁随筆』〔燕石〕③296(池田義信(渓斎英泉)著・天保四年成立)   〝写楽【(空白)年ノ人】     俗称(空白)、号東洲斎、住居八丁堀、    歌舞伎役者の似顔を写せしに、あまりに真を画んとて、あらぬさまに画なせしかば、長く世に行れず、    一両年にして止む、類考     三馬云、僅に半年余行はるゝのみ、    五代目白猿幸四郎【後京十郎と改】半四郎、菊之丞、富十郎、広治、助五郎、鬼治、仲蔵の顔を半身に    画きたるを出せし也〟    ☆ 弘化元年(天保十五・1844)
 ◯『紙屑籠』〔続燕石〕③72(三升屋二三治著・天保十五年成立)   (「役者似顔絵師」の項)   〝外流 東洲斎写楽【きら摺の大錦役者絵、似顔一流の絵師】〟    ◯『増補浮世絵類考』(ケンブリッジ本)(斎藤月岑編・天保十五年序)     〝写楽 天明寛政中の人     俗称 斎藤十郎兵衛 居 江戸八丁堀に住す 阿波侯の能役者なり     号 東洲斎    歌舞伎役者の似顔を写せしが、あまりに真を画んとて、あらぬさまに書なせしかば、長く世に行れず、    一両年にして止む 類考     三馬云、僅に半年余行はるゝのみ      五代目白猿、幸四郎(後京十郎と改)半四郎、菊之丞、富十郎、広治、助五郎、鬼治、仲蔵の類を      半身に画、廻りに雲母を摺たるもの多し〟    〈阿波・徳島藩の能役者、俗称斎藤十郎兵衛説の初出。斎藤月岑は、江戸の町名主であるから巷間情報に通じていたし、     また『武江年表』『声曲類纂』等の著者であるから事実考証には慎重を期していたはずである。根拠や確信のない風     聞程度のものではそもそも載せないと思うし、もし載せたとしてもその旨を注記するに違いない。したがって、これ     は信頼に足る情報だと確信して、月岑は載せたのだと思う〉    ☆ 嘉永三年以降(1850~)
 ◯『古画備考』三十一「浮世絵師伝」中p1406(朝岡興禎編・嘉永三年四月十七日起筆)   〝写楽斎 号東州斎、歌舞伎役者の似貌をうつす、あまりに真を画かんとて、あらぬさまに、画なせしか    ば、長く世に行れず、一両年にして止ぬ【浮世絵類考】寛政間人〟    ☆ 明治元年(慶応四年・1868)
 ◯『新増補浮世絵類考』〔大成Ⅱ〕⑪204(竜田舎秋錦編・慶応四年成立)   〝写楽    号東州斎、俗称斎藤十郎兵衛、八丁堀に住す。阿州侯の能役者也。歌舞伎役者の似顔を写せしが、あま    り真を画んとしてあらぬさまを書なせしかば長く世に行れず。一両年にして止む。五代目白猿、幸四郎    〔割註 後京十郎と改む〕半四郎、菊之丞、仲蔵、冨十郎、広治、助五郎、鬼治の類を半身に画き回り、    雲母を摺たるもの多し。俗に雲母絵と云〟    ☆ 明治年間(1868~1911)    ◯『百戯述略』〔新燕石〕④226(斎藤月岑著・明治十一年(1878)成立)  〝寛政頃、鳥居清長巧者にて、専に行れ、歌川豊春、喜多川歌麻呂等も多分に画出し、勝川春章は歌舞伎 役者肖像を画き出し、門人多く、一枚絵多分に画き、世に被行申候、又其頃、東州斎写楽と申ものも、 似顔絵を画始候へども、格別行れ不申候〟  ◯『扶桑画人伝』巻之四 古筆了仲編 阪昌員・明治十七年(1884)八月刊   (国立国会図書館デジタルコレクション)   〝写楽    東周斎ト号ス、江戸八町堀ニ住ス。歌舞妓役者ノ似顔ヲ画クトモ其ノ技巧ミナラズ、一両年ニシテ廃止    セリ〟    ◯『近古浮世絵師小伝便覧』(谷口正太郎著・明治二十二年(1889)刊)   〝寛政 東洲斎写楽    工夫してきら絵と唱ふるうものを始めしが、世に行れず、暫時にして止む〟     ◯『日本美術画家人名詳伝』下p480(樋口文山編・赤志忠雅堂・明治二十五年(1892)刊)   〝写楽    東周斎ト号ス、一ニ東洲斎ニ作ル、江戸八町堀ニ住ス、歌舞伎役者ノ似顔ヲ学ヲ以テ業トス、然レドモ    其技巧ナラズ一両年ニシテ廃止ス(燕石十種)〟    ◯『本朝画家人名辞書』下(狩野寿信編・明治二十六(1893)年刊)   (国立国会図書館・近代デジタルライブラリー)   〝写楽    斎藤写楽、通称ヲ十郎兵衛ト称ス、別ニ東洲又東周斎ト号ス、江戸八町堀ニ住シ、専ラ俳優ヲ画キ、歌    舞妓堂ト号ス、其技甚ダ巧ナラズ、不年ニシテ画技ヲ廃セリ、文政頃〟    ◯『古代浮世絵買入必携』p5(酒井松之助編・明治二十六年(1893)刊)   〝東洲斎写楽    本名 十郎兵衛  号〔空欄〕   師匠の名〔空欄〕   年代 凡百年前    女絵髪の結ひ方 第七図(国立国会図書館・近代デジタルライブラリー)   絵の種類 並判、肉筆等    備考   雲母にて摺りたる役者絵多し〟    ◯『浮世絵師便覧』p237(飯島半十郎(虚心)著・明治二十六年(1893)刊)   〝寫楽(シヤラク)    東洲斎と号す、俗称八郎兵衛、一に十兵衛、斎藤氏、能役者なり、雲母摺の祖、◯寛政〟    ◯『浮世絵師歌川列伝』「一世歌川豊国伝」p86(飯島虚心著・明治二十七年(1894)新聞「小日本」に寄稿)   〝昔時東洲斎写楽、俳優の似貌を画くに巧にして、よく五代目白猿、幸四郎、半四郎、菊之丞、富三郎等    を画き、廻りに雲母をすり込み発行せり。これを雲母画という。一時大に行われしが、後にあまり真に    過ぎたりとて大に廃れたり〟    ◯『浮世絵備考』(梅本塵山編 東陽堂 明治三十一年(1898)六月刊)   (国立国会図書館デジタルコレクション)(40/103コマ)   〝東洲写楽【寛政元年~十二年 1789-1800】    一に東洲斎、通称斎藤十郎兵衛、一に八郎兵衛、阿州侯の能役者なりしが、俳優の似顔絵を画き、其の    真を写さむとして、却つてあらぬ様を画きなせしかば、世評よろしからず、一両年にて廃せり、雲母絵    を多く画けりと云ふ〟  ◯『読売新聞』(明治34年2月15日)   〝写樂の雲母絵  局外閑人    写樂の雲母絵(きらゑ)は、俳優(やくしや)の似顔絵にして、其の余白の所へ、雲母を摺りこみたるも    のなり、この雲母あるが為めに、似顔うきあがりて、真なるが如し、これ即ち写樂が発明にして、一    機軸を出だせるなり、其の似顔は、他の画工の画く所と大に異なり、真を写すを旨とし、当時の名優    五代白猿、幸四郎、半四郎、菊之丞、仲蔵、富十郎、広治、助五郎、鬼治の徒を半身に画き出だせり、    中に就き、中村富十郎の似顔最も世人の珍賞する所なり、富十郎が眼の小にして、口尖り、頬出でた    るさま、又額の皺、頬の黒子(ほくろ)までも画きて、遺す所なし、実に女形としての面貌には、醜く    けれど、画中自から愛嬌ありて、名優の名優たる態度を失はざるなり、富十郎が動作極めて柔軟にし    て、其の技、巧妙なりしかば、当時の人呼びてぐにや富といひ、大に賞美せしとぞ    従来俳優似顔絵は、欧米人の嗜まざる所にして、嘗てこれを購(あがな)ふ者あらざりけり、唯写樂が    雲母絵の似顔に至りては、皆争ふてこれを購ふ、故をもて、其の価甚だ貴(たつと)し、十余年前まで    は、一枚一円二円位にして、得られしが、今は十四五円の価となり、しかもこれを得る甚だ難し、曩    (さき)に奸商あり、この雲母絵を再刻し、ふるびをつけて売り出だし、一時巨利を得たりしが、絵の    具の色、雲母おきさま等、古への如くなる能はず、具眼者は、一目して、其の真偽を鑑別すること難    からざるなり、されど其のふるびをつけたる手際、頗る巧にして浮世絵売買を専業とせる者と雖も、    一時惑はされて買ひ入れたるものありといふ、一説に浮世絵にふるびをつけるには、煤を解きて薄く    画面に引くなりと、又竈の前につるしおきて、燻(くすぶ)らすなりと、果して然るや否や知らざれど    も、浮世絵のみならず、近来奸商贋物を製するの巧なること、実に驚くべし    雲母絵は、写樂の発明にして、当時大に行はれたるものと見えて、英山、栄之、豊国の徒、亦これを    学びて画き、俳優似顔をかゝずと自称せる、歌麿、北斎の徒といへども、亦これに倣ひ、風俗美人画    を画きたり、浮世絵類考 写樂の條に、歌舞伎役者の似顔を写せしが、あまり真を画かんとて、あら    ぬさまを書きなせしかば、長く世に行はれず、一両年にして止むとあり、按(あんずる)に、写樂が似    顔の雲母絵は、蓋し長く世に行はれざりしならん、されど其の発明の雲母を用ゐて余白を埋(うづ)む    ることは、伝へて世に行はれしなり、即ち北斎、歌麿、豊国の徒の画く所、これなり、しかして今日    写樂の雲母絵のみ行はるゝものは、これ其の発明者たる故をもてならん    写楽は、斎藤氏、俗称十郎兵衛、一に八郎兵衛、東洲斎と号す、阿州侯に仕へし能役者なり、其の節    詳(つまびらか)ならざれども、浮世絵を善くし、最も俳優似顔絵に長ぜり、風俗美人画および読本、    草双紙等を画きたるを見ず、亡友楢崎氏、嘗て五世白猿の肖顔(にがほ)を画きたる狂歌の摺物を蔵せ    しことありき、写樂の没年詳ならざれども、蓋し文化年間なるべし、今其の年齢、墳墓等を知るを得    ざるは遺憾なり〟    〈評者・局外閑人(飯島虚心)は写楽画の雲母摺に専ら焦点を当てている〉  ◯『明治東京逸聞史』②32「写楽の錦絵」明治三十四年(1901)(森銑三著・昭和44年(1969)刊)    〝写楽の錦絵〈読売新聞三四・二・一五〉     居外閑人こと飯島虚心が「写楽の雲母絵(キラエ)」という一文を寄せている。     日本の錦絵も、西洋人が欲しがるのは主として美人画で、役者の似顔絵の方は気がなかったのである    が、写楽だけは例外で、争うて購うものだから、以前は一二円だったその絵が、今では十四五円にもな    って居り、それでも入手が困難とせられる、などとしてある。ドイツ人のクルトが写楽の最初の発見者    だったのではない。写楽の錦絵は、それ以前から値が出ていたのである。     なお局外閑人は、亡友楢崎海運氏が、嘗て五世白猿の似顔を画いた狂歌の摺物を蔵したことなどをも    書いている。写楽にも、錦絵以外に、そうしたものなどもあったのである〟    ◯『明治東京逸聞史』②368「写楽」明治四十三年(1910)(森銑三著・昭和44年(1969)刊)    〝『写楽』〈浮世絵辞典(吉田暎二著)〉     この年、ドイツ人クルトの著「写楽」が刊行せられて、写楽役者絵という、本国の日本でもその芸術    的の価値を認めずにいたものの真価を教えられることとなった。日本で写楽を騒ぐようになったのは、    その後のことで、われわれ日本人としては、恥ずかしい次第であるが、事実は事実として、われわれは    クルトに感謝するところがあって然るべきであろう。寛政の浮世絵師写楽は、降って明治時代に、知己    を欧人に得た〟    ☆ 大正年間(1912~1825)  ◯『読売新聞』(大正4年8月22日)   〝東洲斎写樂  野口米次郎     浮世絵備考に「一に東州斎、通称斎藤十郎兵衛、一に八郎兵衛、阿州侯の能役者なりしが、俳優の    似顔絵を画き、其の真を写さむとして、却つてあらぬ様を画きしかば、世評よろしからず、一両年に    て廃せり」と、無惨にも、三四行で蹴り出された写樂は、近代欧米に数多き浮世絵蒐集者並びに評論    家が共に許して「大写樂」と呼ぶその人である。写樂が浮世画家の群を抜いて(一部の連中は彼を歌    麿清長春信の三大看板の上にさへ据ゑて居る)議論多き好奇心を一身に集めて来たのは、つい近頃の    ことである。如何なる芸術でもはじめてそれを問題として、正当不正当とに係はらず、興味ある議論    を提供するのは巴里で「大写樂」も巴里(パリー)に負ふ所甚大である。フェネロサが写樂を「野卑の親    玉」と呼んで東洋美術の権威であると澄まし込んで居た時代に、巴里の浮世絵蒐集者は既に此の写樂    に着眼していたのである。先見の明があつた報酬として少なくも写樂に関しては、その数の少い作品    の大部分は彼等の掌中に落ちてゐる。勿論立ち後れではあるし又確的な批評眼も具備して居らぬが、    金力で一も二も押さうといふ米国の蒐集者中で、スポルディングなどは写樂の第一人者として一般か    ら許されてゐる。一枚所謂「出板時の状態」(出版当時に於ける画の状態)を備へてゐる絵となると千    円は普通の相場、「蒐集者の状態」(絵が転々人手に渡つて或は裏打されてゐたり或は洗はれしては    ゐても絵の具の色合も左程変つて居らぬ状態)の絵でも、四五百円はする、如何に破損してゐても写    樂の俤が分かれば三四十円の価のある此の大写樂は 何(ど)うして斯(か)くもその声価を上て来たの    であるか。     紐育(ニューヨーク)の蒐集者ハパーが自分の蒐集を倫敦(ロンドン)の市場へ出して売却した時の表を見ると    「煙管を手にする二代目松本幸四郎」これは侠客長兵衛の図で、所謂雲母絵の一枚です。代価三百四     十円。今は英国の国会議員ハームスウオルスの所有である。其他の二枚、一は「扇子を持って居る     老人」(表では役者の誰だが又其役は何であるか不分明)と他は忠臣蔵の高師直の絵 前者は三百円     後者は百三十円で売れて居る。後者は私がサウス ケンシントン博物館で一昨年開いたハームスウ     オルス蒐集の展覧会で見た画であらうと思ひます。     私が先年の渡英で予期せぬ喜びを感じた二事件の一は、此のハームスウオルス蒐集を見たのと、他    は「私の親愛なる詩人ブレーキ」の絵画展覧会をテート画館で見たことであつた。エーツの句を用ゐ    ると、未来を情婦の様に愛してその呼吸を自分のものとし 長いその髪に眼を蔽はれて 自分の時代    を理解することが出来無かつた詩人ブレーキと我が東洲斎写樂先生。如何にも興味深い取り合わせで    ある。私は着英すると間も無く、ブレーキを評価する力が無いと自由に入り込むことの出来ぬ幾多の    芸術家の引見室(アロウイング・ルーム)があるのを発見しました、と同時に不用意に軽く写樂の芸術を語つて     人から笑はれた失敗を演じたのであつた。倫敦有数の新聞ウエストミンスター・ガゼツトから依頼さ    れて、私はハームスウオルス蒐集の拙評を試みました其の文中に、私は嘗て「写楽には力はあるが雅    美が無い」と云つて僅々七行を与へるに止(とゞ)まつた私の友ストレージに賛成して、私には「写楽    は不可解である」と筆を滑べらしたです。するとマンチエスター市の某批評家が、「日本の詩人で写    樂が分らぬとは意外である。分ら無ければ僕が教へてやる」と早速手厳しい矢一本向けられた。私と    ても失礼ながら普通の美術眼は備へて居るつもりであるが、「写楽不可解」の意味は写樂に正当なる    価を付けるには 尚十五年は待たねばならぬを信じたのである。今でも一昨英国に於けると等しく、    今日彼が持つて居る市場の価、延(ひ)いて評家の説は聊か変調の傾向であらうと思つて居る。少くも    彼等は写樂の絵の少数といふ(それは如何にも大なる動心点(アトラクション)!)事実に捕はれて居ると云    ても返事は出来まいと思つて居る。     然し兎に角欧米に於ける我が浮世絵研究が最早やフエノロサやストレージの時代で無く、写樂の絵    の所謂(いはゆる)野師(やし)式(チャラタニスム)を見ずして、彼の特質を備へた芸術を 彼の描いた役者の    円るくて小い横を瞰んだ眼や太く一の字を引いた口、全く普通の欧米人が夢想だもすることの出来ぬ    眼や口の裡(うち)にも発見しようとする時代まで進んで来て居るのを私は感謝します。十一年前 私    が米国から帰朝せる時同じ船で初めて日本を訪問した米国の青年詩人フヰケといふ多少独逸の血統を    受けた男があつた。此の男が近頃倫敦から出した『浮世絵の閑話(チヤト ヲン ジヤパニーズプリント)』(実際    閑話どころじや無い四百五十頁の一廉の研究者です)の中に、非常に通がつて「大写樂」を連発して    居ます。西欧でも近頃の写樂研究者は皆五六年前 独逸はミユンヘンの書店から出版したカース博士    (此の発音は間違つて居るかも知れません 綴字はKurth)の著作『写楽』に依ります。絵も少なけ    れば、一生の事実も殆ど知れて居らぬ写樂のことですから、誰の筆でも述説を事実の上に基(もとづ)    かせること不可能である結果、能役者であつた事実を彼の絵と心理的に連結せしめざるを得無いので    す。フヰケもカース博士の著者から其点を理論付けた箇所を英訳して引用して居る。博士の文は殆ん    ど所謂美文の域に入つたものであると云へばその述説が想像に近いものであるのは推度されませう。    その節にこう書いてある。    「奇怪な力が能面の皺や歪み面の裡に潜んで居る、如何にも奇異ではあるが、一種表象的な苦しい表     現を持て居る。彼写樂は能なる悲劇の舞台から普通の俳優、有名な春信が呼んだ如く、何処から来     たかを知らぬ陋劣漢、自分等の如く荘厳な錦襴を纏ふ堂々たる芸術家でなく 唯舞台を気取つて歩     むで その劣性を無智な観客に誇らうとする下等の俳優を見下したのである。彼が彼等と見てたゞ     軽蔑して居るばかりで無く、人民の権さへ奪はれた賤民と成し、或は赤ら顔に彩色したり、或は女     に扮しては死人の如く蒼白に白粉を塗つたりして、賤しい虚栄心の満足や無智な賞賛を渇望する一     階級と取扱つた。所で如何に此の写樂が俳優の画家として終に無慈悲な諷刺家となつたかを理解す     るであらう」(原文の抄訳)        欧米で正当と見られて居る写樂観は、その諷刺的な皮肉という点を重大視して居るが、果たして写樂   は左ういふ積りで役者絵を描いたであらうか。或は或る一部の評論家の固執する如く 彼の全部の作を   以て写実をとする方が遙かに正当に写樂を見るものと云へるかも知れぬ。我々日本人で在来のお芝居の   舞台美--写実と理想を握手せしめた中性的な模様美を了解して居るものには、写樂必ずしも諷刺的眼   光を以て絵を描いたとも思はれぬ。私は彼は諷刺家たるより寧ろ写実家たるに近いと思ふ。よし彼を諷   刺家として見ても、彼の無意識な諷刺は一種の座興程度たるに過ぎぬ。フヰケは「近代の諷刺画の最も   残忍なるものでも写樂に比較すると、その崩壊せしめずんば止まぬ解析と 描かんとする人物に与へる   悪魔的色彩の点に於て、殆ど児戯に近いのを思はしむる」と極言して居るが、我々少くも、私には左う   は見えません。唯私は一寸驚かされ又瞞着でもされる位の感じを得るのみで、私の写樂を喜ぶ点は、彼   の作が近代的解釈を許す点に於けるよりは、寧ろ彼が現代と没交渉で、我々に不思議な奇怪な自由な無   責任な余裕のある一境地を与へる点にある。全く彼はフヰケの評する如く写実家としても清長以上でな   い。フヰケは書いて居る。   「彼は眼前に美と恐怖の原質たる可きものをみて、それを模様画に象どり整斉した。結果は御伽噺の春    信の如く、空想的画心の真実なる理想的創造である」       私はその言葉には非常に賛成します。然しフヰケがある所で宛(あたか)もポー評論し 或はボードレ   ールを評論するが如き 悪魔観やら所謂現代観を説述するに於ては 聊か色眼鏡で見る西洋人たるのみ   と云いたいと思ひます。又写樂の絵が西洋人の色眼鏡で見ると、絵そのものに含まれて居らぬ一種の意   義と色彩を与へるに至るといふ不思議な作品たるには相違が無い。その点で写樂は近来めき/\欧米の   数寄者(すきしや)の尊重を増して来たのである。生前画家としては不幸であった彼が 一躍群を抜いて   「大写樂」と云はれに至つては、彼自身は彼の役者の似顔の如く、果たして笑つて居るやら又泣いて居   るやら分りますまい。    私の英国で見た写樂の絵は 彼をして今日の名声有らしめた二十四枚ものゝ忠臣蔵の絵の一部である。   写樂時代の役者の似顔を描いた画家で 多少なりとも勝川春章の影響を受けて居らぬは稀であるが、写   樂の忠臣蔵に至つては 春章を想起せしめるよりは寧ろ春英(磯田氏通称久次郎九徳斎と号す 明和五   年新和泉町新道に生る 春章の門弟と成り似顔絵を描く)に近い所があると 一部の人は云つて居る。   詰(つま)りもつと適切に云へば 写樂は春英の止(や)めた所から出発して、春英の芸術に或る大なる写   樂自身を加へたのである。春英には詳細は有つても写樂の劇的の力が無い。春英には穏健はあるが 写   樂の如く大胆自由が無い。ある評者に云はせると、写樂の忠臣蔵二十四枚はさることながら、彼の彼た   る所は所謂細絵に彼が表現した芸術を見ねばならぬさうであるが、私は不運にしてその一枚たりとも見   たことが無い。細絵の写樂は半身の役者の以前だといふものもあれば 又後だといふ論者もあるが、何   にせよカース博士の断定に依ると 彼は千七百八十七年から千七百九十五年より彼の時代は長くないと   いふことであれば、十年、然し浮世絵備考の「一両年」に比すれば殆ど十倍になるが 如何(どう)見て   も余り長い年限ではないから、前期両者の前後問題は措いて問ふ必要はあるまい。   細絵の中に嵐龍三(?)と瀬川菊三郞(後者は青と紫の衣服を付けて手に扇子を持つて居る)の二枚が   最も卓越してるさうだ。それ等の後では誇張した諷刺的皮肉は第二としたものであるさうだ。    或る西欧の評者は云つた。   「清長には神を見る。写樂には神と戦ふ所のものを見る。数千枚もある日本浮世絵中より 最後の破壊    を免かれしめん為め一枚を選(えら)めと 命ぜられたならば、余は何を選択するであらうか。春信の    欠点のない「笛吹き」か或は清長の「海辺の二階家」か、或は又カース博士や Musée des Arts déco    ratifs展覧の目録に挿絵として入れられた写樂の恐ろしき木版画 中山富三郞の黄色の衣物(きもの)    来た姿が、人の肉を跳(おど)らしめる熱情をたゝへて忍び寄る画で、美と恐怖の両極点を握る線と色    と感情の震動を現して居るものを撰ぶか、殆どその選択に苦しむ」    写樂も大変な芸術問題になつたものだ〟  ◯『浮世絵』第十六号 (酒井庄吉編 浮世絵社 大正五年(1916)九月刊)   (国立国会図書館デジタルコレクション)   ◇「問答」   〝問 小生儀、東洲斎画とある肉筆美人画を二枚所持いたし居候、東洲斎とは何人の号なるや、御教示      の程願い上げ候(神戸飴田生    答 東洲斎とは昨今一枚の雲母摺版画が数百円に売買される有名な写楽の別号です 偽物でない正真      の肉筆ならば、頗る高価のものですから御大切になさい〟    〈この肉筆美人画、その後の消息について何らかの情報があるのだろうか〉  ◯『梵雲庵雑話』(淡島寒月著)   ◇「幕末時代の錦絵」p121(大正六年(1917)二月『浮世絵』第二十一号)   〝(御維新当時)    新版の錦絵を刷出(スリダ)しますと、必ずそれを糸に吊るし竹で挟(ハサ)み、店頭に陳列してみせたもので    す。大道(ダイドウ)などで新らしい錦絵を売るという事はありませんでした。その頃はもう写楽だとか、    歌麿だとかいう錦絵は、余り歓迎されませんで、蔵前(クラマエ)の須原屋の前に夜になると店を出す坊主と    いう古本屋が、一枚一銭位で売っていたものです。それでも余り買う人もなくって、それよりも国芳    (クニヨシ)とか芳年などの新らしいものが歓迎されたのです〟
  ◇「古版画趣味の昔話」p127(大正七年(1920)一月『浮世絵』第三十二号)   〝(明治維新当時の錦絵・古書の閑却、排斥ぶりから、大正期の錦絵価格の暴騰や古版画趣味の隆盛へと     変遷する世相について)    明治初年頃には、浅草見附の辺などの路傍に出た露店の店頭に、つまらぬ黄表紙類を並べた傍へ、尺余    の高さに積んだ錦絵を、選(ヨ)り取(ド)り一枚金一銭位で売っていたのである。この中には、素(モト)よ    り下らぬ絵もあったが、今から考えれば、嘘のようだが、写楽の雲母摺(キラズリ)なども確かに交ってお    った。一枚一銭の絵が、僅か四、五十年の間に、幾百円に騰(アガ)るとは、如何(イカ)に時世の変遷(ヘンセ    ン)とはいいながら、夢のような話である〟  ◯『日本絵画名家詳伝』下(竹内楓橋著 春潮書院 大正六年(1917)二月刊)   (国立国会図書館デジタルコレクション)   〝写楽    浮世絵を善くす 斎藤氏 俗称十郎兵衛 一に八郎兵衛と云ふ 江戸八丁堀に住す 阿州侯の能役者な    り 東州斎と号し 俳優の似顔画を描く 五代目白猿・幸四郎・半四郎・菊之丞・仲蔵等を画き 最も    富十郎の似顔を善くす 皆半身の図にして 明治に至り 欧州人之を珍重し 其の価甚だ貴し〟  ◯『浮世絵』第弐拾二(22)号(酒井庄吉編 浮世絵社 大正六年(1917)三月刊)   (国立国会図書館デジタルコレクション)   ◇「浮世絵漫録(四)」桑原羊次郎(14/24コマ)   〝「写楽の肉筆」    写楽の版行物が一枚四百円や五百円するなど云へど、さて其肉筆に慥(しか)と落款あるものは実に稀中    の稀、珍中の珍也。小林氏所蔵に一幅あり、即ち七代目団十郎の「暫」の図にして紙本聊(いさゝ)か落    位の幅なり、図の上に賛あり曰く       五代目市川白猿が肖像を見てむかしよみてつかはしけるうたを書つく      花みちのつらねに四方(よも)のゑひすうた東夷南蛮北狄西戎 四方山人    とあり。左方には      顔見世やわれもゑひさことゝましり(ママ)    とあり 即ち七代目団十郎なり。而(しか)して筆者名は右方下部に      東洲斎写楽〔花押〕    とあり。画風は顔の輪郭も鼻の輪廓も無線にして、唯だ色隈ひて之を現はせり〟    〈四方山人の狂歌は天明7年(1787)刊の『狂歌才蔵集』所収のもので、天明期の詠。この頃、五代目団十郎が「暫」を     演じたのは、『江戸芝居年代記』(〔未刊随筆〕⑪231)によれば、天明4年正月中村座顔見世興行の「筆初勧進帳」。     狂歌はこの時のものか。ただし写楽の作画の時期についてはよく分からない。五代目団十郎の蝦蔵襲名および俳名を     白猿としたのが寛政3年(1791)だから、この紙本掛軸は寛政3年以降の作画とも考えられる。また五代目は寛政8年引     退の後、寛政11年六代目が急死するや、翌12年11月の顔見世には、市川白猿の名で再び舞台に立っているから、この     画賛が寛政12年以降の可能性もある。ここでも七代目とあるのは不審〉  ◯『鸚鵡石』p186(吉井勇著 玄文社 大正七年(1918)十月刊)   (近代書誌・近代画像データベース)   〝国貞     もの思へば国貞描く似顔絵の路考に似たる君が横顔     国貞の描(か)きし死絵に見入りつつ路考思へば涙ながるる     わが君は国貞描(ゑが)く似顔絵を好みたまへばわれもこのみぬ〟   〝写楽     われを見て嘲けるごとく笑ひゐる 写楽の絵さへいとほしきかな     東州斎写楽の絵こそをかしけれ 凝視(みつ)むるほどにかなしみの湧く     雲母摺(きらずり)の雲母の黒きもはかなしと 写楽の絵をば見てもなげきぬ〟    〈役者絵における国貞と写楽の相違を、吉井勇の感性を参考にして言うと、国貞の似顔絵の主人公は「役者」だが、写     楽の絵のそれは「役者」ではなく役者の「人となり」なのだろうと思う。舞台上の華は役者が役柄を演ずることによ     ってが生まれる。国貞の似顔絵はその華をそえて役者を画くから、後日になっても絵を見返せば、舞台上の役者と華     が髣髴と蘇る。一方、写楽が画くのは演技する役者ではなく役者の「人となり」である。だからそこに華はない、し     かしその代わり、その「人となり」に対する人間的な共感のようなものが見る側には生まれる。ただ、江戸の多くの     人々が役者絵に求めていたのは役者の華なのであろう。その点、役者絵というより人間を表現する肖像画に近い写楽     の絵が、江戸の人々の目に奇異なものとして写ったことは容易に想像できる〉      ◯『罹災美術品目録』(大正十二年(1923)九月一日の関東大地震に滅亡したる美術品の記録)   (国華倶楽部遍 吉川忠志 昭和八年八月刊)   ◇小林亮一所蔵〈小林文七嗣子〉    東洲斎写楽    「七代目団十郎暫図」蜀山団十郎賛    「七代目団十郎扮装下絵」「寛政戊寅年 写楽筆」と款記あり〈寛政期に「戊寅」はなし〉    「力士図下絵」九枚(玉垣、陣幕等にして総て写生的なり)    〈「暫図」は肉筆か。以下は版画用の下絵。これらの写真がどこかに残っているのだろうか〉  ◯『浮世絵師人名辞書』(桑原羊次郎著・教文館・大正十二年(1923)刊)   (国立国会図書館・近代デジタルライブラリー所収)   〝写楽 東洲斎と号す、俗称八郎兵衛、一に十兵衛、斎藤氏、阿波侯抱の能役者なり、雲母絵の祖、寛政    七八年頃、或は享和元年に没せしと〟    ☆ 昭和年間(1826~1988)
 ◯『狂歌人名辞書』p101(狩野快庵編・昭和三年(1828)刊)   〝東洲斎写楽、通称春藤次左衛門、阿州侯抱への能役者にして一種の俳優似顔絵に巧みなり、雲母摺の錦    絵を画くこと多し、文化頃の人、歿年末詳、阿波徳島本行寺に墓あり〟    ◯『浮世絵師伝』p85(井上和雄著・昭和六年(1931)刊)   〝写楽    【生】           【歿】文政末或は天保頃    【画系】          【作画期】寛政    斎藤氏、俗称十郎兵衛、東洲斎と号す、阿波蜂須賀侯抱への能役者にして、春藤流の家筋なり、彼は江    戸南八丁堀蜂須賀邸の長屋に住せしと云ふ。写本『浮世絵類考』に「是又歌舞伎役者の似顔を写せしが    余りに真を画かんとてあらぬさまにかきなせしかば長く世に行はれず一両年にして止む」とあり、また    別の写本『浮世絵類考』には「以画俳優肖像得時名、又能油画号有隣、享和元年卒」と書入れせり。蓋    し、彼の画きし所の役者似顏絵には、当時の江戸に於ける名優の殆ど全部を網羅し、其の描写の深刻な    る点は、時人をして或は「あらぬさま」と思はしめしやも知るべからざれど、該書別本(文化十二年加    藤曳尾庵手写)には、写楽の項の最後に「しかしながら筆力雅趣ありて賞すべし」と附記せられ居り、    一面具眼の士の好評を受けしことを察するに足れり。また、享和二年正月出版の式亭三馬作『稗史憶説    年代記』には「倭画巧名尽(ヤマトヱシナヅクシ)」と題して、師宣以降北斎辰政等に至る各著名の絵師を地    図に擬して画きたる中に、歌麿・北斎辰政と同じく「写楽」を海上の孤島として挙げたるは、当時彼の    技倆を認めたる一証なり(挿版参照)。而して、其が作画期の一両年にして止みしと云へるは、彼の版    画を帰納的に推考せし結果と一致する所にして、実に寛政六年及び七年に該当せり。    彼の作品中、大判雲母地の錦絵は皆寛政六年の作にして、画中の人物は半身及び全身の両図あり、また    一人のみと二人を画きしものとあり、雲母摺は白地と黒地の両種ありて、白地は全身図に、黒地は半身    図(例外として全身図一図あり)に取られたり(口絵第四十三図参照)。次に細判錦絵に於ては、悉く    全身図にして、三枚続若しくは五枚続とせり、背色は黄摺にしたるものと、背景を添へて地は無色の侭    にしたるものとあり、黄摺は寛政六年のうち十月までの作に係り、然らざるものは同年十一月より翌七    年に亘りて発表せしものなり。今一種は間判錦絵(黄地半身図)にして、これには各俳優の替へ紋と家    号俳名等を現はしたり、蓋し、寛政七年の作なり。以上、大判・細判・間判の各図を通じて、彼が落款    の形式は「東洲斎写楽画」と、「写楽画」の二種以外に出でず、而して、其の使用年代は前者は寛政六    年のうち十月以前に属し、後者は同年十一月以後翌七年に亘れり。茲に彼が版画の全作品に終始一貫せ    るものは、即ち其が版元を一軒に限れる一事なり。版元は富士やま形に蔦の印を用ゐし蔦屋重三郎(通    油町)にして、当時同業中一流の店なりき。    抑も、浮世絵師として画系甚だ明瞭ならざるに、しかも版画の妙諦を会得するに巧みなる彼の如きは蓋    し稀なり。彼の準備時代のことは殆ど不明なるが、狩野派の手法も多少は学びしものゝ如く、似顏の描    写に就ては、或は勝川春英などに得る所ありしかと思はるれど、其が作品の生命とする所は、全く彼れ    独特の奇警なる筆致に存せり。かの『類考』の一本に書入されし「油画ヲ能クス」と云へるは、恐らく    事実なるべく、版画の上にも其の閃きを見る。しかも、彼が能役者たりし素養は、俳優の舞台姿を写す    上にも影響して、或は歌舞伎以上の型に厳粛化せしめたる点無きにしもあらず。彼の作品に於ける描写    の確実性は、実に能楽と油絵(現今称する所の泥絵)とに基礎を置けるものと謂ひ得べきが如し。各人    毎に眼、眉毛、鼻、口等役者の特徴を捉へて表情を現はし、似顔絵画家としては浮世絵師随一なり。    欧米の具眼者は、夙に彼の似顔絵を模範的肖像画なりと推賞し、特に独逸のクルト氏の如きは、千九百    十年に挿絵入単行本の『写楽』を公表して、世界に於ける写楽紹介の先駆を成せり。    尚ほ、彼の版画には、役者絵以外に、大童山文五郎の図(二種)・夜討曾我・紅葉狩(黄地間判)・惠    比須(大黒と二図か)などあり。また版下には役者絵と角力絵とありて、共に未刊の侭となれり。肉筆    は市川鰕藏(五代目団十郎)の「暫」を以て、確証ある唯一のものとせしが、大正十二年の大震災に焼    失せり。其他、無落款にて彼の肉筆と称するものゝうち、寛政年間の俳優似顔半身図(間判、版画下絵)    約十図許り、十数年前に偶ま入札会に出でしことあり。    彼は、彗星の如く現はれて彗星の如く退きしと雖も、其が背後には然るべき後援者の存せしことは推察    に難からず、そは他なし、当時の藩主蜂須賀十二代重喜侯其の人にして、詳細なる記述は他日、文学博    士鳥居龍蔵氏の発表さるゝ所あるべし。鳥居博士は写楽と同郷の故を以て、数年来彼に関する調査を続    けられ、曾て、郷里阿波徳島に於て、彼が一族の墓及び過去帳等を実地に研究され、尚ほ最近には、森    敬介氏の買払求められたる江戸蜂須賀邸に於ける能番組(徳島新井儀八氏の家に伝はりしもの)中より、    斎藤十郎兵衛(写楽)が喜多流の能楽「巴」のワキ役(「大蛇」にも関係す)を勤めし実証を発見され    たり。この番組中彼は喜多六平太の「半蔀」のシテを勤め居れり、また六平太は七太夫の四男にして文    政八年十月二十一日嗣子となり、同十二月六日家督相続六平太となりたれば、この能は文政八年を溯る    能はず其以後のものなり。これに拠つて、写楽は廃筆後再び能楽に復帰し、確かに文政八年以後に未だ    活動力を失はざりし事を証するに足るべく、彼の歿年は文政八年以後たること論を俟たず。蓋し、博士    今囘の発見は、まさに写楽研究上に一道の光明を与ふるものと謂ふべし。    [挿図]稗史億説年代記所載〟    ◯『浮世絵年表』(漆山天童著・昭和九年(1934)刊)
 ◇「文化四年 丁卯」(1807)p176   〝此頃、斎藤写楽歿す(写楽は東洲斎と号し、俗称十郎兵衛と呼べり。阿波藩の能役者にして、絵を能く       し殊に役者の似顔を画くに極端にその特色を発揮し、却つて時好に適せざりしものゝ如し)〟      〈漆山天童の文化四年頃死亡説は何に拠ったものであろうか〉    ◯『明治世相百話』(山本笑月著・第一書房・昭和十一年(1936)刊   ◇「五厘から一万円に 写楽の役者絵暴騰順序」p243   〝東洲斎写楽の役者絵は、今日こそ芸術的に取り扱われ、かつ品少なのために大した価格に上つているが、    元来特殊の画風で豊国や国貞と異なり、役者にも世間にもこびぬところは変っているが、それだけに不    人気で、浮世絵沈滞時代には誰も手な出さなかった。    古書通の幸堂得知翁の談に、明治の初年出入りの書籍屋が持って来た錦絵の中に写楽が十枚ばかりあっ    た。一枚ただの一銭だったが、私は写楽は嫌いだから五厘ならついでに買っておこうといって、とうと    う五厘で置いて行きましたと、全くうそのような話。    このことを後年内田魯庵氏に話すと、私も先年(二十五年頃)写楽を一枚一円ずつで五、六枚買いまし    たが、友人が売ってくれというので二円ずつで譲ってしまったら、間もなくだんだん高くなったので惜    しいことをしたと思います、との述懐。それでも五厘から思えぱだいぶ出世した。    以上二つの話をさらに、芝の村幸で通った古書店の主人村田幸吉老に語ると、私も写楽では失敗した。    三十五、六年頃のことですが、一外人が来て五十円ずつに買うという、こんなうまい話はないとすぐに    売りましたが、今では一枚三百円以上ですから結局大損をしたわけですと、これは明治四十年頃の話。    その後は鰻上りに上る一方、それがまた大正七、八年の成金相場で一躍数千円乃至一万円という騒ぎ、    昭和の今日では少し下火になったが、ともかくも五厘からここまで漕ぎつけた写楽先生一代の出世物語〟    ◯『改訂古今書画名家一覧表』大阪 東楓荘散人編 益井文英堂 昭和十二年刊   (東京文化財研究所・明治大正期書画家番付データベース)   〝故人浮世絵名家   (筆頭)    東京 喜多川歌麿 東京 岩佐又兵衛 阿波 東洲斎写楽   (次席)    東京 月岡芳年  東京 尾形月耕 東京 池田英泉 京都 北尾重政    東京 鳥山石燕  安房 菱川師宣   (三席以下略)    〈明治大正の番付には写楽の名はない。この手の番付に写楽の名が登場するのはこれが初めてか。なお北斎の名は三席にある。     この番付の全体像は本HP「浮世絵事典・う」「浮世絵師番付」の昭和十二年の項参照〉  ◯『集古』(辛巳第四号 昭和十六年九月刊)   (国立国会図書館デジタルコレクション)(12/13コマ)   ◇「随縁聞記」   〝世界的に知られてゐる東洲斎写楽の役者似顔絵は、一昨年の暮に米国で刊行した写樂遺作集に、七枚の    新発見を加へた一百二十八枚が、現在の数であると記してある。所が最近にその遺作集編輯の同人であ    る紐育(ニュウヨーク)のルジニー氏から、南アフリカから出て米国ボストン美術館に納まつたといふ写樂の役    者絵版画の写真を送られた。それは細絵で寛政六年十一月、中村座の「潤訥子名和歌誉」に出演した二    世坂東三津五郎(後に荻野伊三郞となつた)の桂金吾を画いたものである。さて背景に梅樹があるが、    その枝の描き振りは、従来知られてゐる同狂言の細絵の内のどれに対照してもピタリと合致しない。さ    うすると是迄のものに連続すべきものと、又今回発見されたものに続くべきものなど、未発見のものが    沢山残つてゐるわけである(仙秀)〟  △『増訂浮世絵』p173(藤懸静也著・雄山閣・昭和二十一年(1946)刊)   〝(写楽)の作風は春章流の写生よりも、更に進んで、役者の表情と、その人々の個性を、深刻に描出す    ることに、努めたものである。よほど、性癖を誇張したのであるが、個性を判然と現はし得た点は、特    筆すべきである。    写楽は俗称を斎藤十郎兵衛と呼び、阿波藩邸のお抱え能役者であつた。製作は大抵役者絵で、それ以外    の諸種の題材には余り及ばなかつたが、錦絵黄金時代の版画家中、最も注目すべき一人で、役者絵とし    ては最も特色ある描写法に一新洋式を立てたものである。     (中略)    元来役者絵を画いたものは、誰も役者に同情して頗る美化して画くのであるが、写楽のは批評的であり、    且つ皮肉で、然かもその短所欠点を、誇張的に、表現したのであるから、役者の似顔は、観客が見物席    から見た役者の顔ではない。役者に近いて、ぢつと見つめて、写した役者絵である。そこに役者の個性    が、写されるのであるが、いやな癖が赤裸々にかゝれる。それが写楽の興味の一部である。能役者であ    る写楽には、色々役者の欠点を見えて、批評的な描写を敢てしたのであらう。「    然し役者のある刹那の面白い態度を捉へることは巧である。大首に至ると、顔面の表情が、如何にも巧    である。目の配り方、手の運動など、その人の個性を発揮させるのに、最も適当な描写法を以てした。    画家の多くは往々手と足の描写に、もてあますことがあるのに、写楽はそれをも利用して、顔面の表情    の助けとしている。手を開いて居るのは、驚きの相貌を助け、手を握つて居るのは、物思の情を表はさ    せるといふやうに、手が物をいふて居る感がある。か程に手を利用した人は少い。唯手ばかりではない。    総てのものが、ある特殊の表情を、遺憾なく表はそうとして、働いて居るかの感がある。かくて写楽の    絵は、他人の追随を許さない独特のものとなつたのである。    また色彩の用法にも、頗る注意したもので、背色に雲母を用ひたのは、写楽一流の人物を浮き出させて    見せるには、よい工夫である。然かも荘重な版画的効果を加へたことは大きな成功である。    (井上和雄の)説によると、写楽の作品を演劇の役柄の上から調べると、寛政の六年七年以外のものは    殆どないといふことである。そうすれば、一二年にして止むと浮世絵類考にあるのは、事実を記したも    のである。     (中略)    写楽の絵は風刺的な皮肉な見方をして居るので、画かれる役者の迷惑は、想像の外である。人気を専一    にする役者がこの迷惑から免れやうと努めたであらうことは想像するに難くない。従つて蜂須賀侯に手    をまはして、写楽をして役者絵をかゝせないやうに、所謂筆どめをさせたのかも知れない。これは想像    ではあるが、何かある事情の為に、筆を断つたことは事実である。     (中略)    写楽の肉筆画を見たことはない。徳島に肉筆画があつたといふ伝はあるが、遺つてゐない。版下絵で開    版しなかつた相撲絵十幾枚か、故小林文七氏の蔵品中にあつたが、惜しいことに、大正大震災で烏有に    帰した。    写楽は独特の天才者であるから、これの後継者として、その衣鉢をついだものはない。然し役者絵界に、    大きな刺激を与へたのであるから、その影響は、後の役者絵に関係する所が少くない。その内に最も写    楽に私淑して、写楽風を祖述したのは、歌舞伎堂艶鏡である。後に役者絵の大家として、名声を揚げた    歌川豊国も、写楽に学ぶ所が少くない。若い時の作には写楽式のものが、往々にある。また長喜の役者    絵には写楽の役者絵には写楽の影響が著しい。(中略)また東洲一保といふ人がいる。写楽との関係は    不明であるが、その作に相似た所がある〟     〈斎藤月岑が『増補浮世絵類考』において、東洲斎写楽を江戸八丁堀に住む阿波藩の能役者・斎藤十郎兵衛であると記して以来、    少なくとも明治昭和初期まで、それに疑いをはさむ人はいなかったようである〉