Top浮世絵文献資料館浮世絵師総覧
 
☆ すうこく こう 高 嵩谷 初代浮世絵師名一覧
〔享保15年(1730) ~ 文化1年(1804)8月23日・75歳〕
 別称 楽只斎 翠雲堂 屠龍翁 通称 高一雄  ☆ 宝暦九年(1759)      ◯「絵本年表」〔漆山年表〕(宝暦九年刊)    高嵩谷画『桑岡集』二巻 龍水画 砂丘画 嵩谷図 貞佐選 平砂校刊    ☆ 明和七年(1771)    ◯『古今諸家人物志』「英画」〔人名録〕③47(奥村意語編・明和七年十一月刊)    〝嵩之先生門人    門人 湖蓮舎     姓(空白)名嵩谷 字子盈 号楽只斎    東都人。画を以て行る。居東都〟    ☆ 天明七年(1787)    ◯『増訂武江年表』(斎藤月岑著・嘉永元年脱稿・同三年刊)   ◇「天明七年」1p219   〝五月、屠竜翁高嵩谷、浅草観音堂へ頼政猪早太鵺退治の図を画きたる額を納む(横二間、竪九尺もある    べし。此の額に付きて、色々の評判あり。甲冑其の外、故実を失ひたる由いふ人あれど、古画を潤色せ    る所にして、人物の活動、普通の画匠の及ぶ所にあらず〟      ◯『武江扁額集』(斎藤月岑編・文久二年(1862)自序)   ◇天明七年(1787)五月奉納   (画題記さず。ただ月岑の『武江年表』天明七年五月の記事には「頼政猪早太鵺退治の図」とある。い    わゆる「源三位頼政鵺退治」である)    落款 〝天明七丁未夏五月穀旦 屠龍翁高嵩谷藤原一雄敬画〟    識語 「浅草寺観音堂所掛」「嘉永五年子秋写之」    「石塚豊芥の話に、北尾蕙斎、此額を見て、頼政の右乃手、少々短きとて、嵩谷に告ければ、よく見出     したりとて、うべなはれけるとぞ」    「嚮に文鳳堂が弆蔵せる細井氏の絵馬文車といへる随筆を見たりしが、此額の評判を載せたり、惜ひ哉、     うつさずしてかへしたり。他日ふたゝひ借得てしるし願ふべし」    〈石塚豊芥子は蔵書家・雑学者。月岑とは親密な交友関係があり、月岑の『増補浮世絵類考』は豊芥子の所蔵する渓斎     英泉の『無名翁随筆(続浮世絵類考)』を基に増補してなったものである。この額は嵩谷五十八歳の天明七年(1787)     に奉納されたもの、この北尾政美とのエピソードはその頃、政美二十四歳頃のものであろう。嵩谷は親子ほども年齢     差のある政美の指摘を認め受け入れたのである。文鳳堂は江戸の書肆で山城屋忠兵衛。「細井氏の絵馬文車」は国学     者・細井貞雄の『文車集』であろうか〉
   『武江扁額集』「頼政猪早太鵺退治の図」高嵩谷画 (国立国会図書館・近代デジタルライブラリー)    ☆ 天明年間(1781~1789)    ◯『増訂武江年表』1p221(斎藤月岑著・嘉永元年脱稿・同三年刊)   (「天明の頃名家」として)   〝画家 宋紫石、嵩谷、嵩渓、芙蓉、山興(桜氏)、秋山(桜井氏)〟    ☆ 寛政年間(1789~1801)    ◯『増訂武江年表』2p18(斎藤月岑著・嘉永元年脱稿・同三年刊)   (寛政年間)   〝画家 高嵩谷、谷文晁、董九如、長谷川雪嶺、鈴木芙蓉、森蘭斎〟    ☆ 文化元年(1804)(八月二十三日没・七十五歳)  ◯『増訂武江年表』2p30(斎藤月岑著・嘉永元年脱稿・同三年刊)   (文化元年・1804)   〝八月二十三日、画人高嵩谷卒す(七十五歳。名一雄、号屠龍翁。浅草西福寺に葬す)〟    ☆ 年代未詳    ◯『武江扁額集』(斎藤月岑編・文久二年(1862)自序)   ◇奉納年未詳    (画題記さず。図柄から牛若丸と弁慶の図)     落款 〝楽只斎 高嵩谷筆〟     識語 「三囲稲荷社拝殿」
   『武江扁額集』「牛若丸弁慶図」高嵩谷筆 (国立国会図書館・近代デジタルライブラリー)    ☆ 没後資料    ☆ 文化五年(1808)  ◯『浮世絵師之考』(石川雅望編・文化五年補記)   (「英一蝶四季絵之絵跋」)   〝嵩谷がもとにこの絵跋ありしこと元木阿弥より聞しことあり。嵩谷は一蝶の門人にして、木阿弥はまた    嵩谷の弟子たり【画名嵩松】〟  ☆ 文化十四年(1817)    ◯『【諸家人名】江戸方角分』(瀬川富三郎著・文化十四年~十五年成立)   「両国 古人・画家」〝高(ママ嵩)谷 名一雄 字子盈 号楽只斎 薬研堀 高久屠龍翁〟    ☆ 文化十五年(1818)    ◯『江都諸名家墓所一覧』「浅草」「画」〔人名録〕②260(老樗軒編・文化十五年一月刊)   〝高嵩谷、名一雄、号屠龍翁、文化元年八月廿三日、西福寺〟    ☆ 文政二年(1819)    ◯『半日閑話 次五』〔南畝〕⑱205(文政二年十月)  (杉本茂十郎旧宅、恵比須庵の書画目録)   〝東ノ方 十畳    小松に鳩 椿年筆。釘隠、ツイ朱、香合の蓋形。引手雲鶴鋳。床、月下碪 嵩谷筆。袋戸、金、探信筆〟    ◯『藤岡屋日記 第一巻』①234(藤岡屋由蔵・文政二年記)   (文政二年六月、杉本茂十郎、町奉行用達・十組問屋頭取の地位剥奪)   〝杉本茂十郎旧宅、料理茶屋買て、修覆して恵比寿庵と云。恵比寿庵座敷    七福神(之間) 真山水、長(雲カ)谷雪舟 (中略)恵比寿、大雅堂大掛物    福禄寿之間 文晁筆  床 素川  袋戸 金富士、探信(ママ)斎    東の方十畳 小松ニ鳩、椿年筆 床 下月碪 嵩谷筆    二階    素川、草木水墨画 床 応挙の龍 袋戸 素川四季の花〟  ☆ 文政七年(1824)    ◯『近世逸人画史』(無帛散人(岡田老樗軒)著・文政七年以前成稿・『日本画論大観』中)   〝嵩谷 高久氏、名は一雄、屠龍翁と号す、画を嵩之に学び後一家をなす。〔喜多村氏書入に、文化元年    甲子八月二十三日、嵩谷歿、七十五歳、葬浅草西福寺)〟    ☆ 文政八年(1825)  ◯『仮名世説』〔南畝〕⑩529(文政八年一月刊)  “英一蝶、晩年に及び手ふるへて、月などを画くにはぶんまはしを用ひたるが、それしもこゝろのままに    あらざりければ、     おのづからいざよふ月のぶんまはし    これは高嵩谷の話なり。嵩谷は町絵師にて近来の上手なり。誹諧を好み発句をよくせり。海鼠の自画賛    は、望む人あればたれにてもすみやかにかきて与へし也。その発句、     天地いまだひらき尽さでなまこかな〟    〈この記事は、一蝶晩年の挿話を南畝に語った嵩谷自身に関するもの。嵩谷は俳諧を好むなど一蝶に範を求めたようだ     が、前述のように初代一蝶の許に出入りすることは不可能であったから、一蝶の没後、挿話の類を集めたのではある     まいか。嵩谷は文化元年の没、したがって、この南畝の聞書きはそれ以前のもの。一蝶の項参照〉    ◯「南畝文庫蔵書目」〔南畝〕⑲408(年月日なし)  〝中近江屋半太夫肖像 高嵩谷粉本 文宝亭模〟    〈この遊女の肖像は嵩谷自筆ではなく、亀屋文宝が模写したもの。文宝亭とは南畝が代筆(贋筆)を半ば公然と認めた     人で、亀屋久右衛門といい二代目蜀山人を称した〉    ☆ 文政十二年(1829)    ◯『続諸家人物志』(青柳文蔵編・北沢貞助 文政十二年七月刻成)   (国立国会図書館デジタルコレクション)   〝高嵩谷    名ハ一雄、一ニ屠龍翁ト号シ、嵩谷ト称ス。江戸ノ人。嵩之ノ門人ナリ。當時青藍ノ称アリ。尤山水ニ    長ジ、濃淡墨自ラ五色ヲ具フルガ如ク、甚ダ逸致アリ。中年ノ後、我邦ノ武者ノ図ニ刻意シテ、其画ヲ    求ル人至テ多シ。故ニ神社仏閣学匾ノ類極テ多シ。文化元年歳六十余ニシテ歿ス。楽只斎画譜、屠龍百    富士図ナドアラワス〟    〈「国書基本DB」は「楽只斎画譜」を記載せず〉  ☆ 天保三年(1832)    ◯『画乗要略』(白井華陽著・天保三年刊・『日本画論大観』中)   〝一蝶〔一峯、一舟、一川、嵩谷附〕    一蝶の子を一峯と為す。一峯の義子を一舟と為す、一舟の子を一川と為す。皆家学を能くす。近来嵩谷    なる者有り、其の法を学び、江戸に住す。浅草観音堂に頼政鵺を射るの図有り。設色高古、布置頗(スコ    ブ)る工なり、世に能手と称す〟    ☆ 天保四年(1833)    ◯『無名翁随筆』〔燕石〕③284(池田義信(渓斎英泉)著・天保四年成立)   (「英一蝶」の項、一水門人)
   「英一蝶系譜」〝門人現 高嵩谷【別号屠竜翁、号一雄】〟    ☆ 天保七年(1836)    ◯『【江戸現在】広益諸家人名録』初編「画家」〔人名録〕②58(天保七年刊)   〝嵩谷【名一雄、号屠龍斎、文化元年八月廿三日歿、七十五】高嵩谷〟    ☆ 天保八年(1837)  ◯『一蝶流謫考』〔続燕石〕①345(涼仙老樵(山東京山)編・天保八年八月成立)    (「一蝶家譜之略」)   〝一蜂門人高嵩谷〟    〈『一蝶流謫考』所収「英一蝶略伝」「一蝶家譜」を所蔵〉  ☆ 天保十一年(1840)  ◯『古今雑談思出草紙』〔大成Ⅲ〕(東随舎著・天保十一年序)   ◇「画難坊、絵を論ずる事」の項 ④92   〝庵主いわく、浅草寺に奉納ありし英流嵩谷が筆にて、鵺頼政の額は何も笑しき節もなし。然れども、狂    画と申ものにて是あるまじ、唯正風体の絵と見へたり。依て俗人は悦び候へども、世上一流に浮世絵な    りとて評議なすは、いかゞの訳にて候ぞ。画難坊いわく、なる程、世上の鑑定通り浮世絵なり。然れど    も、勇威たくましく書たるゆへ、児女子は大に悦び思ふ也。(中略)右の頼政の額を浮世絵と申事なれ    ども、席上の戯れ絵とは違ひ、大造なる奉納の額なれば、疎忽なる趣向にてもあるまじ。年来の大望に    て、已に成就の事と存じらる。其身の器量ありたけの事か。又は一蝶が極意にて、俗人の悦びを専用と    して画を売の手段か。胸中いまだ謀るべからず。(下略)〟    〈画難坊は、この文の前で、狩野派を「正風」あるいは「和歌」とし、英一蝶の流れを「狂画」あるいは「狂歌」とし     て説明していた。浮世絵の位置づけはもちろん後者である。そこで庵主は、一蝶の弟子である嵩谷の頼政鵺退治の絵     を持ち出して、この絵には狂歌の可笑しさがないにもかかわらず、この絵を世上が浮世絵というのは、どういう訳か     と、画難坊に尋ねたのである。東随舎によれば、浮世絵たる由縁は源頼政や猪の早太の装束が土佐派などの本絵と違     って故実に基づいてないという点にあるようだ〉       ◇「画難坊、絵を論ずる事」の項 ④95   〝(浅草寺奉納、英流高嵩谷筆、頼政鵺退治の額)    是誠に浮世絵に紛れなきといふ看板を、自ら大ひなる額に書して、神社仏閣こそ多き中に、江戸第一の    繁花の霊場浅草の観音へかけ、これは万人の嘲弄のがるべきよふなく、末世までも恥辱を残せり。俗人    をあざむき得たりとも、達人をば欺むくべからず。庵主問て申けるは、彼額、浮世絵なる事は其意を得    たり。右の筆者常々、草木花鳥などは生を写すを以て専要の事と致せるよし、右の生を写す心よりは、    古事を以て穿鑿も有べき義に候わずや。画難坊答へて曰く、生写しの事は、一蝶が主意には通ぜざる也。    了簡の取違ひとみへたり。花実鳥獣の何よらず、生写しは俗人の甚だ悦ぶ物なる故、一蝶は狂画をば書    し、人の機嫌を取心より書たるなり。然るに、生を写すは画の本意なりと心得違ひたるにて候べし。又    頼政の古事に、吟味の届かぬ事は、記録の詮義すべき事共なり。元来一蝶しらぬ所が、浮世絵師同様の    気分にて、習ひのなき所に候ぞ。鎧ひの袖をはじめ、納豆ゑぼし、弓矢等、何から何まで取集め生写し    に仕たる所か。本鳥を生摸しにする物と心得たる所なり。庵主がいわく、頼政の筆者、絵の学問甚だ狭    きよふに聞ゆるなり。此義いかゞに候や。画難坊がいわく、仰せの如く狭き筈なり。書籍と違ひ古画の    粉本は写し物にて、容易に出来ざる事故、画の学問成就し難し。漸々板行の絵本などを取集て、拠ろな    く最上の事と心得たりと見へ候なり。誠に井の中の蛙といふべし。勿論、名画の図を小さく地どり板本    にしたるも、たま/\是ありといへども、天下の名画大図どふ写すべきよふもなし。実に九牛が一毛た    り。近世、大坂に守国と申板下書是あり。自己の才覚を以て書したる絵本はあり。本絵師の用ゆべき物    にはあらず。皆浮世絵師小児等の手本とする物なり。頼政の筆者も右同様に、絵本のなきまゝ、彼板本    のうちの写宝袋と申絵本を最上の物と心得、其誤りを学びたる必定せり。其故は、写宝袋に、近製の武    器甲冑を写し是あり。然し古代の武者絵などに用ゆべき物にて是なし〟       参照  『古今雑談思出草紙』    ☆ 弘化元年(天保十五年・1844)  ◯『増補浮世絵類考』(ケンブリッジ本)(斎藤月岑編・天保十五年序)   「高嵩谷所蔵 英氏系図之略」
   「英一蝶系譜」(英一水(佐脇嵩之)門人)      〝高嵩谷 別号 屠龍翁 楽只斎【子盈 号翠雲堂】        名一雄        【英一文化元年八月廿三日卒ス 浅草西福寺ニ葬ス 七十五歳〔種彦本〕】〟    〈『総校日本浮世絵類考』は柳亭種彦本を引き「文化元年八月廿三日卒ス 浅草西福寺ニ葬ス 七十五歳」とする〉    ☆ 弘化四年(1847)  ◯『貴賤上下考』〔未刊随筆〕(三升屋二三治著・弘化四年序)   ◇「高嵩谷先生」⑩152    嵩谷は一蝶流を学びて近代の名人、左嵩之の門人なり、薬研堀に住して世に人の知る先生、観音の頼政    の額に名高し、ある年に吉原の類焼にて、山谷堀に丁字屋仮宅を出せし時、先生此度の仮宅にて、此先    きはもはや仮宅には出あふまいと、さらば名に高き丁字屋の雛鶴に近つきと成て一ツ呑たしと、老人杖    を突て絵筆を持、小包をさげて、ひとり仮宅の山谷堀丁字屋の見世ぇ行、雛鶴どのに近付に成りに来た、    嵩谷といふ者だといへば、若者肝をつぶして、此よしを主へいふ、さつそく二階へ通して、雛鶴に伝ふ、    かのおいらん、名にしおふ全盛に高名なる当時の雛鶴なれば、嵩谷先生を客に取んと、さつそく座敷へ    通して、その夜は酒盛して浮世のはなしに遊ぶ、頃しも五月雨のふり来れば、あくる朝につゞきて雨も    ゆかしく降りぬれば、その日は居つゞけして座敷に遊ぶ、亭主、今日は御遊興に、いかゞなれど、能き    折からの御光来、何卒して席画を願はんと、雛鶴が座敷に毛氈敷て席画を催す、其画にわら家を画て、    木(ママ)森に五月雨の降りける画をして、雛鶴に讃をせよと出しぬ、雛鶴とりあへず、此の画のうへに、    唯「ひとしほゆかし」とばかり書く、雨の降る夜をかくして、ひとしほゆかしとはかきも書たり、先生    といゝ、雛鶴といゝ、さすがの両人高名としらるべし【此画今所持せし者あり】〟    〈左嵩之は佐脇嵩之。この吉原仮宅は寛政十二年と思われる〉   ◇「一蝶が極メ両家より出す」⑩153   〝嵩谷の婿に沢嵩渓、後に高を名のる。同門人に観嵩月とて、両人その流儀の流を汲む、嵩谷没したる後、    一蝶の極メ札は両家より出す、一蝶流は英を名乗る門人あれども、みな嵩谷が門弟なり、英一蜂、同一    蛙と、その外英を唱へる者数多あり〟  ☆ 嘉永三年(1850)    ◯『古画備考』四十四「英流」(朝岡興禎編)   ◇「英流」系譜 下p1934   〝(佐脇嵩之)門人 高嵩谷、字子盈、号楽只斎、又湖蓮舎、東都人、以画行、古人物志    高久氏、名一雄、号屠龍翁、逸人画史    文化元年八月廿三日歿、遺跡志    年七十五歳、武江年表
  ◇「英流」系譜 下p1935
   「英流」(英一蝶系譜)〝高嵩谷 嵩之門人、文化元年八月廿五日歿、五十七〟    ☆ 嘉永七年(1854)  ◯『扶桑名画伝』写本(堀直格著 嘉永七年序)   (国立国会図書館デジタルコレクション)   ◇高嵩谷([34]巻十之六 雑家 6/138コマ)   〝一雄 姓しられず 高氏【或は高久】名は一雄 嵩谷はた楽只斎また屠龍翁【或は斎】と号す 佐脇嵩    之の門人 或は一蜂の弟子をいへり よく英一蝶の画格を得て時に称せらる 文化元年八月廿三日死す    年七十五    (以下『続諸家人物誌』『江都諸名家墓所一覧』『一蝶流謫考』『増補近世逸人画史』『異本諸家人名録』記事      省略 上掲参照)    「掌中書画年契」云 文化元年八月廿三日 高嵩谷没 年七十五〟  ☆ 安政二年(1855)  ◯『古今墨跡鑒定便覧』「画家之部」〔人名録〕④208(川喜多真一郎編・安政二年春刊)   〝高嵩谷【名ハ一雄、屠竜斎ト号ス、英一蝶ノ画風ヲ慕フテ、能其風致ヲ得タリ、故ニ世ニ称誉ス、文化    八年八月廿三日歿ス、年七十五】〟    ☆ 文久二年(1862)  ◯『本朝古今新増書画便覧』「ス之部」〔人名録〕④375(河津山白原他編・文化十五年原刻、文久二年増補)   〝嵩谷【高氏、名ハ一雄、号ハ屠龍斎、英一蝶ノ画ヲ慕フ、文化元年没ス、七十五】〟    ☆ 明治元年(慶応四年・1868)  ◯『新増補浮世絵類考』〔大成Ⅱ〕⑪182(竜田舎秋錦編・慶応四年成立)   (「英氏系譜」の項)
   「英一蝶系譜」     〝(英一蝶)門人 嵩谷    高氏、本姓本国、名一雄子盈、号楽只斎、翠雲堂、屠竜翁。    英一、文化元年八月廿三日卒ス。浅草西福寺ニ葬ス。七十五歳〟    ☆ 明治十三年(1880)  ◯『観古美術会出品目録』第1-9号(竜池会編 有隣堂 明治14年刊)   (観古美術会(第一回) 4月1日~5月30日 上野公園)   (国立国会図書館デジタルコレクション)   ◇第八号(明治十三年五月序)   〝高嵩谷 中西王母 左右山水図 嵩谷筆 三幅(出品者)塩田真〟   ◇第九号(明治十三年五月序)   〝高嵩谷 官女之図       嵩谷筆 一幅(出品者)博物局蔵〟  ☆ 明治十四年(1881)  ◯『第二回観古美術会出品目録』(竜池会編 有隣堂 明治14年刊)   (第二回 観古美術会 5月1日~6月30日 浅草海禅寺)   (国立国会図書館デジタルコレクション)   ◇第一号(明治十四年五月序)   〝高嵩谷 神馬図 一幅(出品者)宮内省〟   ◇第二号(明治十四年五月序)   〝高嵩谷 津守国久参籠図 一幅(出品者)野村高明〟   ◇第四号(明治十四年五月序)   〝高嵩谷 春遊図     一幅(出品者)渡辺政行〟  ◯『明治十四年八月 博物館列品目録 芸術部』(内務省博物局 明治十五年刊)   (国立国会図書館デジタルコレクション)   〝第四区 舶載品    高嵩谷画 画扇 大神楽  一本         画扇 藤ノ花見 一本         画扇 荒神舞  一本〟  ◯『新撰書画一覧』(伴源平編 赤志忠雅堂 明治十四年五月刊)   (国立国会図書館デジタルコレクション)   〝高嵩谷 名ハ一雄、屠龍翁ト号ス、英一蝶ノ画風ヲ慕ヒ、其風致ヲ能得タリ、文化八年中秋ニ没ス、年        七十五〟  ☆ 明治十五年(1882)  ◯『第三回観古美術会出品目録』(竜池会編 有隣堂 明治15年4月序)   (第三回 観古美術会 4月1日~5月31日 浅草本願寺)   (国立国会図書館デジタルコレクション)   ◇第一号(明治十五年四月)   〝高嵩谷 官女羽遊図     一幅(田沢静雲献品)        高嵩(ママ)千春舞楽図 二幅(田沢静雲献品)〟〈高嵩は高島の誤記だろうか〉  ☆ 明治十六年(1883)  ◯『第四回観古美術会出品目録』(竜池会編 有隣堂 明治16年刊)   (第四回 観古美術会 11月1日~11月30日 日比谷大神宮内)   (国立国会図書館デジタルコレクション)   ◇第一号(明治十六年十一月序)   〝高嵩谷 中天之岩戸 左右伊勢名所 三幅対(出品者)城多薫〟   ◇第二号(明治十六年十一月序)   〝高嵩谷 中天岩戸 左宇治橋 右明星茶屋(空白)(出品者)城多薫〟  ☆ 明治十七年(1884)    ◯『石亭雅談』〔続大成〕⑨206(竹本石亭著・明治十七年七月刊)   〝九刀は何の史ぞ  高嵩谷    高嵩谷、名は雄、号は屠龍(トリヤウ)翁、一蝶の門人佐嵩之の弟子也。曾て頼政恠物を射る図を浅艸観音堂    の楣間に懸け、潜(ヒソカ)に群集の衆中に紛れ入て其図を品評するを聞く。一日或曰、平家物語に猪の早    太九刀(ココノカタナ)ぞ刺たりけるとあり。今此画刀を閃(ヒラメ)かして高く頭上に過ぐ。本文に合せざるに似    たりと。嵩谷素(モト)より本書を見ずして漫然と図を作る也。慙悔して遂に是を削り改む。戴安道仏像を    作り、自ら帳中に隠れて世人の褒貶(ホメソシル)をなすを聞き、研思積年也と云。安道嵩谷意を絵事につく    す。是其域を異にして其意を同うするもの乎。    嵩谷頼政の額を画ける後、多年をへて堤等琳画を以て自負す。韓信胯間を出づる図を写し、又これを同    所に掲げ、嵩谷の画額に比例す。当時、物は附(ヅケ)【謎語の類】問目鉄面皮(アツカマシキ)ものはとあるに、    答者曰、源三位に対する淮陰(ワイイン)侯、人多く其意を解せず、判者其批判に窮す。一日偶浅艸観音に詣、    嵩谷等琳筆する所の匾額をみて始て其答の意を了解すと云。世人嵩谷を重(オモン)じて等琳を軽(カロン)ずる    事、以て知べき也    蜀山人仮名世説、嵩谷は町画家にて近来の上手也。俳諧を好み発句をよくせり。海鼠の自画賛は望人有    れば、誰にも速に書て与へしと云。天地いまだひらき尽さでなまこかな〟    〈淮陰侯は韓信を指す。鉄面皮のものはと問われて、ある人答えて曰く、源三位頼政(嵩谷画・鵺退治の図)に対抗する     淮陰侯韓信(等琳画・股潜りの図)だと。つまり自ら嵩谷と同格だとする等琳は厚かましいというのである〉  ◯『扶桑画人伝』巻之二(古筆了仲編 阪昌員・明治十七年八月刊)   (国立国会図書館デジタルコレクション)   〝嵩谷    高氏、名ハ一雄、屠龍翁嵩谷ト号ス、江戸ノ人ナリ。英一蝶ノ画風ヲ慕ヒテ、嵩之ノ門ニ入リ、大ニ画    法ヲ研究シ、遂ニ其奥旨ヲ極ムルニ至ル。時ニ出藍ノ称アリ。尤画ク所、山水人物花鳥草獣トモニ、設    色或ハ水墨ヲ以テ、麁密自在ニ揮毫ス。就中、武者画ニハ大ニ刻苦シ、古土佐及探幽等ノ画法ヲ追慕シ    テ、往々画ク所又一種ノ風韻奇骨アリ。殊ニ浅草観音ノ本堂ニ掲グル匾額、源三位頼政鵺ヲ射ル図アリ。    即チ人口ニ膾炙スル所ナリ。此画土佐・狩野・一蝶風ノ三ツヲ混交シテ画ガキシモノナレバ、通常ノ作    トハ異ナリ。爰ヲ以テ嵩谷ノ腕力ヲ観ルベシ。一蝶風ノ画モ中頃漸ク衰微ニ至シガ、此人出シヨリ再盛    ノ機ニ至レリト云ベシ。文化元年八月二十三日没ス、七十五歳。浅草新堀西福寺ニ葬ル。明治十六年迄    九十年〟  ◯『東洋絵画叢誌』第二集・明治十七年十一月刊(復刻「近代美術雑誌叢書」3・ゆまに書房・1991刊)   〝嵩谷図を改    嵩谷姓は高、名は一雄、屠龍と号す。英一蝶の門人佐嵩之の門弟なり。頼政鵺を射る図の額を画きて浅    草観音堂に懸け潜に群集の中に紛れて、人の之を品評するを聞くに、一日人見て曰く、平家物語に猪早    太九刀(こゝのたち)ぞ反(そり)たりけるとあり、今此画は刀を閃かして高く頭に過ぐ、本文に合ざるに    似たりと、嵩谷素より本書を見ずして漫然図を作りたるを慙悔し、直に之を削りて改め画きしと云ふ。    今に同中に存し、頗る有名の物なり〟     〈浅草観音堂の頼政鵺退治の図は、天明7(1787)年の奉納当初から評判だが、平家物語本文の相違を指摘されて画き直し     たという挿話は当初からのものだろうか。下掲明治19年刊『香亭雅談』参照〉    ☆ 明治十九年(1886)    ◯『香亭雅談』上p26(中根淑著・明治十九年刊)   〝屠龍翁嵩谷、画を佐脇嵩之に学ぶ。嵩之は英一蜨の門人なり。江都の大姓三井氏、額を浅草観世音に献    げんと欲して、嵩谷をして其の画を作さしむ、嵩谷先ず稿本を写す、日々之を竿頭に懸け、仰ぎ観て晷    (かげ)を移す、以て其の意に称(かな)はざるものを改む、歳を踰えて初めて成る、即ち今存する所の源    三位怪獣を射る図是なり。或は謂ふ、嵩谷稿を草する時、獣已(すで)に成り、懸けて之を観る、毛細辨    つべからず、乃ち更に麤(粗)筆を執り、軽軽として掃き去り、再び懸けて之を観る、始めて尨茸(ふさ    ふさ)の状に見ゆ、図中の三位、黒帽蒼袍、弓矢を挟みて立つ、猪隼太戎装怪獣を搏(う)ち、騎りて之    を刺す、怪獣猿頭狸身、而して蛇尾と為る、蛇首を昂げ舌を吐きて顧視す、或は謔句を作りて云ふ、猪    之隼太(ヰノハヤタ)為尾噛頭(シッポニアタマヲクヒツカレ)と〟(29/40コマ)    〈浅草観音堂に奉納された嵩谷画「頼政猪早太鵺退治の図」のエピソード〉  ☆ 明治二十一年(1888)  ◯『明治廿一年美術展覧会出品目録』1-5号(松井忠兵衛・志村政則編 明治21年4~6月刊)   (日本美術協会美術展覧会 4月10日~5月31日 上野公園列品館)   (国立国会図書館デジタルコレクション)   〝高嵩谷 七幅神 三幅(出品者)田辺長次郎〟  ◯『境町美術展覧会出品目録』(田口専之助編集・出版 明治二十一年刊)   (国立国会図書館デジタルコレクション)   〝(明治廿一年十一月二十五六両日)     書画之部    世良田村 阿久津盛為 高嵩谷筆 児島高徳図 一幅〟    〈境町は群馬県佐位郡境町。世良田村は群馬県新田郡世良田村。現在は共に伊勢崎市〉  ☆ 明治二十三年(1890)  ◯『明治廿三年美術展覧会出品目録』3-5号(松井忠兵衛・志村政則編 明治23年4-6月刊)   (日本美術協会美術展覧会 3月25日~5月31日 日本美術協会)   (国立国会図書館デジタルコレクション)   〝浮世画扇子 扇掛共 十本(出品者)帝国博物館          北斎・歌丸・豊国・一珪・国貞・国芳・清信・清長・栄之・嵩谷〟  ◯「【新撰古今】書画家競」(奈良嘉十郎編 天真堂 江川仙太郎 明治23年6月刊)    (『美術番付集成』瀬木慎一著・異文出版・平成12年刊)   〝東前頭 文化 高 嵩谷 屠龍(上から五段目。俵屋宗達・野々口立圃・山口素絢等)    〈位置づけは浮世絵師ではない〉    浮世絵師 歴代大家番付    ☆ 明治二十四年(1891)  ◯『近世画史』巻二(細川潤次郎著・出版 明治二十四年六月刊)   (国立国会図書館デジタルコレクション)   (原文は返り点のみの漢文。書き下し文は本HPのもの。(文字)は本HPの読みや意味)   〝高久嵩谷 名一雄、又屠龍翁と号す。江戸の人なり。英一蝶の画風を慕ひ、佐脇嵩之に従ひて学ぶ。氷(ママ)    藍の誉有り。後ち又佐狩二家の筆法を以て、英氏の未だ足らざる所を助く。是より先、一蝶の画風、人    々寖(やや)之を厭ふも、嵩谷に至りて再び盛んになる。文化元年八月没、年七十五〟  ◯『聴雨堂書画図録』巻二(渡辺省亭著・画 稲茂登長三郎 明治二十四年十月刊)   (国立国会図書館デジタルコレクション)   〝高嵩谷 山水 紙本横幅 竪一尺四寸 濶三尺一寸     (摸写図 款記「(数文字不読)之図 屠龍翁高嵩谷(一字不読)」)    嵩谷の師を佐脇嵩之と為す。嵩之の師を英一蝶と為す。一蝶彩具を用るに妙、故に嵩之・嵩谷相続て着    色に工なり。又好んで水墨画を作す。筆力沉勁、雪舟に髣髴たり。姓は高、名は雄、屠龍翁と号す〟    ☆ 明治二十五年(1892)  ◯『日本美術画家人名詳伝』上p216(樋口文山編・赤志忠雅堂・明治二十五年刊)   〝高嵩谷    名ハ雄、嵩谷ハ其号、又タ屠龍翁ト号ス、一蝶ノ門人佐嵩(ママ)ニ就キテ学ブ、当時出藍ノ称アリ、最モ    山水ニ長ズ、曽テ頼政恠物ヲ射ル図ヲ画キ、之レヲ浅草観音堂ノ楣間ニ懸ケ、潜ニ群集ノ中ニ紛レ入テ、    其ノ図ノ品評スルヲ聞クニ、一人アリ曰、平家物語ニ猪ノ早太九刀ヲ刺タリケルトアリ、今マ此画、刀    ヲ閃カシテ高ク頭上ヲ過グ、本文ニ合ザルニ似タリト、嵩谷素ヨリ本書ヲ見ズシテ、漫然ト図ヲ作ル故    ニ慙悔シテ、遂ニ是ヲ削リ改ム、堤等琳画ヲ以テ自負ス、韓信胯下ヲ出ル図ヲ写シ、又之レヲ同処ニ掲    ゲ嵩谷ノ画額ニ比較ス、然レドモ世人嵩谷ヲ重シテ等琳ヲ軽ンズルト云フ、文化元年八月廿三日歿ス、    年七十五、著ス処、楽天斎画譜・屠龍富士図等アリ(古今石亭画談・続諸家人物誌)〟  ☆ 明治二十六年(1893)      ◯『明治廿六年秋季美術展覧会出品目録』上下(志村政則編 明治26年10月刊)   (日本美術協会美術展覧会 10月1日~10月31日 上野公園桜ヶ岡)   (国立国会図書館デジタルコレクション)   〝高嵩谷     良経卿 定家卿山荘図 双幅(出品者)藤井茂利治     能因法師図      一幅(出品者)藤井茂利治     江ノ島富士図     一幅(出品者)藤井茂利治     龍虎         双幅(出品者)藤井茂利治     蛭子像        一幅(出品者)藤井茂利治     中翁 左右百鶴百亀  三幅(出品者)藤井茂利治〟    ◯『浮世絵師便覧』p241(飯島半十郎(虚心)著・明治二十六年刊)   〝嵩谷(コク)    高氏、本姓は本国、名は一雄、楽只斎、翠雲堂、屠龍翁等の号あり、嵩之門人、一説に一蝶門人とする    は非なり、年代合はず、文化元年死、七十五〟    ☆ 明治二十七年(1894)  ◯『名人忌辰録』上巻p32(関根只誠著・明治二十七年刊)   〝高 嵩谷 一雄    佐脇嵩之門人。楽只斎、翠雲堂、又屠龍翁の数号有り。文化元子年八月廿三日歿す、歳七十五。浅草西    福寺地中智光院に葬る〟    ☆ 明治三十年(1897)  ◯『古今名家印譜古今美術家鑑書画名家一覧』番付 京都    (木村重三郎著・清水幾之助出版 明治三十年六月刊)   (東京文化財研究所・明治大正期書画家番付データベース)   〝近代国画名家〈故人と現存とを分けている〉    ※Ⅰ~Ⅳは字が大きさの順。(絵師名)は同一グループ内の別格絵師。    〈故人の部は字の大きさでⅠ~Ⅳに分類。(絵師名)はそのグループ内の別格絵師〉    Ⅰ(狩野探幽・土佐光起・円山応挙)酒井抱一 渡辺崋山  伊藤若沖    Ⅱ(谷文晁 ・英一蝶 ・葛飾北斎)田中訥言 長谷川雪旦    Ⅲ(尾形光琳・菊池容斎・曽我蕭白)岡田玉山 司馬江漢  浮田一蕙 月岡雪鼎 高嵩谷      蔀関月    Ⅳ 大石真虎 河辺暁斎 上田公長 柴田是真 長山孔寅 英一蜻  英一蜂 佐脇嵩之      高田敬甫 西川祐信 橘守国  嵩渓宣信 英一舟  葛飾為斎〟    〈江戸時代を代表する絵師としての格付けである〉  ☆ 明治三十一年(1898)    ◯『書画名器古今評伝』桜巻(西島・高森編 岩本忠蔵 明治三十一年刊)   (国立国会図書館デジタルコレクション)(59/72コマ)   〝(佐脇)嵩谷 名ハ一雄、字ハ子盈、湖蓮斎、楽只斎、屠龍斎等ト号ス。嵩之ガ門人ニテ、其統ヲ継    グ。実ハ高階氏、故ニ世人、高嵩谷ト呼ブ、江戸ノ人ナリ。文化元年八月廿三日没ス、歳七十五〟  ◯『高名聞人/東京古跡志』(一名『古墓廼露』)(微笑小史 大橋義著 明治三十一年六月刊)   (国立国会図書館デジタルコレクション)(25/119コマ)   ※(原文は漢字に振り仮名付だが、本HPは取捨選択。半角括弧(かな)で示す)    〝高嵩谷 (浅草)新堀 西福寺    浅草観音堂に掲げし、頼政の額にて頗る名高し、墓の正面篆書にて横に高家親眷とし、竪に逝水元朕楽、    邦何東西咄と二行に識し、台石に屠龍翁と刻せり、此人の師嵩之が墓は誓願寺中称名院にありし由なる    が、如何しけん今不見〟    〈嵩谷の師は佐脇嵩之〉  ☆ 明治三十二年(1899)  ◯『新撰日本書画人名辞書』下 画家門(青蓋居士編 松栄堂 明治三十二年三月刊)   (国立国会図書館デジタルコレクション)(77/218コマ)   〝高嵩谷    名は一雄といふ 又屠龍斎と号す 江戸の人なり 佐脇嵩之の門に画法を研究し 悉く其の深奥を得た    り 嘗て頼政鵺(ぬえ)を射るの図を 浅草観音堂に掲ぐ 堤等琳其の技を競はんと欲し 韓信胯下を出    るの図を掲げ自ら誇る 然れども世人嵩谷を重んじて等琳を軽ろんず 此の人画く所の山水・人物・花    草・鳥獣皆共に絶妙なり 且つ設色水墨両(ふたつ)ながら之を能くし 麁密自在にして到らざる所なし    就中(なかんづく)武者絵に至りては 最も其の妙を極め 古土佐及び探幽の画法を追慕し 之に英一蝶    の画風を加へて 一種の風韻奇骨あり 一蝶の画風一たび衰微せりと雖(いへど)も 此の人に至りて     亦其の盛を見るを得たり 文化元年八月二十三日没す 年七十五 浅草新堀西福寺に葬る(扶桑画人伝    古今雅俗石亭画談 名家全書 続諸家人物志 鑑定便覧)〟  ◯『浮世画人伝』p20(関根黙庵著・明治三十二年五月刊)   〝高嵩谷(ルビたかすうこく)    嵩谷、名は一雄、楽只斎と号し、又屠龍(トリウ)斎とも云へり。英一水〔一説に佐脇嵩之とも云ふ〕の門    人にして、頗(*スコブ)る出藍の誉ありしが、後、画格を改め新意を加へ、終(ツヒ)に一機軸を出し、最も    着色に巧なりきと。一年浅草観音堂に、源三位頼政射鵺図の絵馬を献じて、高手の名を著したり。文化    八年八月廿三日、享年七十五にして卒し、浅草新堀西福寺へ葬る、法号、盈誉嵩谷一雄居士、辞世の句    と聞こえしは、      墓建てなき名観する寒(サムサ)かな〟
   「英一蝶系譜」  ◯「集古会」第八十七回 明治四十五(1912)年三月(『集古会誌』壬子巻三 大正2年9月刊)   〝三村清三郞(出品者)高嵩谷筆 英一蝶肖像 一幅〟  ☆ 大正十二年(1923)  ◯『罹災美術品目録』(大正十二年九月一日の関東大地震に滅亡したる美術品の記録)   (国華倶楽部遍 吉川忠志 昭和八年八月刊)    高嵩谷画(◇は所蔵者)   ◇田村謹寿「群鶴図」一双 金地屏風   ◇別府金七    「月下砧図」絹本淡色 巾一尺八寸七分 立三尺五寸一分    「万歳図」 二曲屏風 一隻 紙本淡彩(国華)   ◇太田徳九郎「松竹梅図」金地 屏風 一双   ◇小林亮一所蔵〈小林文七嗣子〉    春章、高嵩谷合作「美人閻魔図」春章美人 嵩谷閻王  ☆ 昭和以降(1826~)    ◯『狂歌人名辞書』p106(狩野快庵編・昭和三年(182)刊)   〝高嵩谷(初代)、名は一雄、只楽斎、又、屠龍翁と号す、江戸の人、佐脇嵩之の門より出て、出藍の誉    あり、曽て頼政怪獣を射るの図を描き浅草観音堂に掲げて大に世評に上れり、後ち堤等琳韓信股を潜る    の絵馬を作り暗に其技を競はんとせしも、世人は嵩谷を以て筆力の優なるものと評定せり、文化元年八    月廿三日歿す、年七十五〟    ◯「金龍山景物百詩」(二)(文久仙人戯稿 『集古』所収 昭和六年九月刊)   (国立国会図書館デジタルコレクション『集古』辛未(4) 9-10/13コマ)より収録)   (※ 返り点と送り仮名は省略)   〝頼政射鵺額 屠竜翁高嵩谷筆 江戸三井家の納むる所、此画意とする処と称(かな)はず、数回描を改め、          歳を踰(こ)えて始て成ると云ふ     射鵺源三位 屠龍描額存 図成数回改 応見苦心痕〟  ◯『浮世絵師伝』p106(井上和雄著・昭和六年(1931)刊)   〝嵩谷    【生】享保十五年(1730)  【歿】文化元年(1804)八月廿三日-七十五    【画系】嵩之門人      【作画期】明和~寛政    本姓本国、高久氏、後に修して高といふ、名は一雄、字は子盈、楽只斎・翠雲堂・屠龍翁等の号あり。    曾て浅草観音堂に源三位頼政鵺退治の図(扁額)を納む。墓は浅草西福寺中智光院にあり〟    ◯『ほんの話』(三村竹清著「書物展望」2-9・昭和七年(1932)九月)   (『三村竹清集三』日本書誌学大系23-(3)・青裳堂・昭和57年刊)   ◇「石燕の雅号」   〝俳書東西雑化、絵入俳書にて、英窓紀逸の題字あり(序文の一部あり:本HP省略)雪と紅葉の句をあつ    めしものなり、後篇出でしや否を知らず、調べても見ず、画は嵩谷、風窓、蘭谷、常佐、石燕にて、石    燕最も多く、末に石燕子興燕十などの句も見えたり、石燕俳諧の道に遊びて、辞世の句をも伝へ、俳書    に画けるも多き由なれど、此の書には色々の別号を用ひて、飛雨郷、梧柳庵、零陵主人、月窗主人、石    散人などとあり、この初の二つの号は、石燕伝中に洩れしかと思はれし故、記し置けるなりけり     初雪は花の手本に降やらん   石燕     酒いれぬ寺もゆるしてもみぢ哉 子興     紅葉見の顔や夕日の落る頃   燕十〟    〈「東西雑化」は未詳。「日本古典藉総合DB」には「東西雑記【写】竹清」とあり。「東西雑化」は「東西雑記」の誤記と     も考えられなくもないが、未確認〉  ◯「集古会」第百八十七回 昭和七年九月(『集古』壬申第五号 昭和7年11月刊)   〝三村清三郞(出品者)高嵩谷画 節分の図 紙本 一幅 款「法眼高嵩谷書画」          題賛「不苦者有智遠仁者疎遠」(ふくはうち おにはそと)  ◯「集古会」第百八十八回 昭和七年十一月(『集古』癸酉第一号 昭和8年1月刊)   〝守田重次郎(出品者)高嵩谷画 中福禄寿左右鶴絵 三幅対 款「行年七十一高嵩谷画」  ◯「集古会」第百九十七回 昭和九年九月(『集古』甲戌第五号 昭和9年11月刊)   〝三村清三郞(出品者)高嵩谷画 紙本 節分豆撒図 一幅 安政六年暦をもつて表装せり  ◯『浮世絵年表』(漆山天童著・昭和九年(1934)刊)   ◇「宝暦九年 己卯」(1759)p114   〝十月、勝間龍水・高嵩谷等の画ける俳書『桑岡集』出版〟     ◇「天明七年 丁未」(1787)p144   〝此年、屠龍翁高嵩谷、浅草寺観音堂へ源三位頼政猪早太と鵺退治の図を額とし掛く。(武江年表にいは    く横二間竪九尺もあるべし、此額に付て色々の評判あり、甲冑其外故実を失ひたる由いふ人あれど、古    画を潤色せる所にして、人物の活動普通の画匠の及び所にあらずと)〟     ◇「文化元年(二月十九日改元)甲子」(1804)p171   〝八月二十三日、高嵩谷歿す。行年七十五歳。(嵩谷は英流の画工にして佐脇嵩之の高弟なり。屠龍斎・    楽只斎等の号あり。浅草観音堂の源三位頼政主従の鵺退治の図の額は其の筆なり)〟     ◇「文化八年 辛未」(1811)p181   〝此年、高嵩谷歿せりといふ説あり〟    △『東京掃苔録』(藤浪和子著・昭和十五年序)   「浅草区」法林寺(南元町五二)浄土宗   〝高嵩谷(画家)名雄、屠龍翁、楽只斎と号す。勝川春章はその門より出づ。文化元年八月二十三日歿。    年七十五。     墓石右側面に、墓建ててなき世観ずる寒さかな、とあり〟    △『増訂浮世絵』p82(藤懸静也著・雄山閣・昭和二十一年(1946)刊)   〝高嵩谷    一蝶流で最も優れたのは嵩谷である。楽只斎と号し、又屠龍斎ともいふた。英一水の門人である。一水    は佐脇嵩之といふたとも伝へられる。出藍の誉があり。一画風を創めた。浅草観音堂に源三位頼政射鵺    図の大きな絵馬を献じて名を挙げた。文化八年八月二十三日享年七十五で没した。浅草新堀西福寺へ葬    る。法号は盈誉嵩谷一雄居士。