Top浮世絵文献資料館浮世絵師総覧
 
☆ しげのぶ やながわ 柳川 重信 二代浮世絵師名一覧
〔生没年未詳〕
 ※〔漆山年表〕:『日本木版挿絵本年代順目録』 〔目録DB〕  :「日本古典籍総合目録」国文学研究資料館   〔狂歌書目〕:『狂歌書目集成』       〔東大〕    :『【東京大学/所蔵】草雙紙目録』   〔早稲田〕 :『早稲田大学所蔵合巻集覧稿』 〔中本型読本〕 :「中本型読本書目年表稿」    〔江戸読本〕:「江戸読本書目年表稿(文化期)〔書目年表〕  :『【改訂】日本小説書目年表』   〔白倉〕  :『絵入春画艶本目録』     〔日文研・艶本〕:「艶本資料データベース」  ☆ 文政六年(1823)    ◯「絵本年表」〔漆山年表〕(文政六年刊)    柳川重信二世画『絵本ふぢはかま』二冊 柳川重山画 絳山樵夫撰 衆星閣原板    ☆ 文政七年(1824)    ◯「日本古典籍総合目録」(文政七年刊)   ◇狂歌    柳川重信二世画『狂歌武蔵野百首』一冊 北馬・谷城柳川画 浅草庵守舎等撰 浅草庵藏板  ☆ 文政九年(1826)    ◯「読本年表」〔目録DB〕(文政九年刊)    柳川重山画『絵本梅花春水』柳川重山画 南仙笑楚満人作    ◯「人情本年表」〔書目年表〕   ◇人情本(文政九年刊)    柳川重山作『恋情穿語』初二編 春川英笑画 柳川重山・南仙笑楚満人作     〈〔目録DB〕の柳川重山作。画工ではないが収録した。〔事典〕の書名は『三人娘』〉    ☆ 天保三年(1832)    ◯「日本古典籍総合目録」(天保三年刊)   ◇人情本    柳川重山画『春色梅暦』初・二編 重信・重山画 教訓亭主人作    ◯「艶本年表」〔目録DB〕(天保三年刊)    柳川重信二世画『恋のかけはし』三冊 艶川好信画 好色山人作 天保三頃      (注記「吾妻婦理の続編、日本艶本目録(未定稿)による」)    ◯ 天保三年十二月八日 殿村篠斎宛(第二巻・書翰番号-63)②265   〝画工重信、九十月両月ハ、外板元より急ニさし込たのまれ候春画とやらニ取かゝり、『俠客伝』のさし    画、一向ニ出来不申、十一月ニ至り、少々画キかゝり候内、同人、気分勝れ不申よしニて、又出来不申    候。これは、ずるけ病ひならんとのミ存候処、閏月より不食の病症に変じ、打臥候ニハ至らず候へ共、    日々不食故、段々おとろへ、閏十一月廿八日夜五時、物没いたし候。享年四十六。さし画の残り四丁有    之。【三の巻の内一丁、五の巻三丁】重信婿重正といふもの、若輩未熟に候へども、重信生前のたのミ    故、これニ画せ候へども、同居の事故、重信死去の取込にて、これも出来不申、やうやく三丁ハ出来候    へども、甚わろく画キ候処あり、残り壱丁ニてせり詰申候〟    〈当初、馬琴は「俠客伝」の挿画が出来ないのは柳川重信の「ずるけ病ひ」のせいだと思っていた。実は春画の仕事が     急に入り「俠客伝」に影響が及んだようだ。十一月に入って「俠客伝」にとりかかり始めたものの、閏十一月から極     度の食欲不振に陥り、遂に閏十一月二十八日死亡した。享年四十六才。残りの挿画は重信生前からの依頼で婿重正が     担当することになった。この「婿重正」は後に二代重信を襲名するので、重山のことと思われるが、馬琴はなぜか重     山と記すことはなかった。その間の事情は不明である〉    ◯『馬琴書翰集成』②279 天保三年十二月八日 小津桂窓宛(第二巻・書翰番号-64)   〝(柳川重信初代、閏十一月二十八日、逝去)『俠客伝』のさし画、三の巻の内【くどき画稿】壱丁・五    の巻のさし画三丁、四丁残り、不画有之。此四丁の内弐丁ハ、重信婿重政、弱官未熟ながら、重信柳川    氏さしづいたし、弐丁画せ候。五柳村のさし画など、主従の差別もなく、大不出来ニて、にが/\敷候    得ども、無是非、そのまゝにほりニ出し候処、重信没し候故、此取込にて、代画も今に不出来候〟    〈柳川重信の後を引き継いだ重正(重山)の挿画は「主従の差別もなく、大不出来ニて、にが/\敷」思うのだが、い     かんともしがたかった〉    ◯『馬琴書翰集成』②289 天保三年十二月十一日 殿村篠斎宛(第二巻・書翰番号-66)   〝『俠客伝』二輯、さし画残四丁、柳川婿重政代画、やう/\一昨九日雪中ニ出来いたし候〟    ◯『増訂武江年表』2p85(斎藤月岑著・嘉永元年脱稿・同三年刊)   (天保三年十一月二十八日、柳川重信逝去の記事中)   〝無声云ふ、志賀理斎が子は重山といひ、後二代目重信となりしなり〟    〈「無声」とは『増訂武江年表』の編者・朝倉無声〉    ☆ 天保四年(1833)    ◯「絵本年表」〔漆山年表〕(天保四年刊)    柳川重信画『芍薬亭詠藻広陵集』二冊 柳川重信画 菅原長根詠 三猿蔵板     〈〔目録DB〕は二世重信画とする〉    ◯「絵入狂歌本年表」〔狂歌書目〕(天保四年刊)    柳川重信二世画    『芍薬亭詠藻広陵集』二冊 柳川重信二世画 芍薬亭長根編 菅原連     〈〔目録DB〕フリーア美プルヴェラー本の書誌に柳川重信二世画〉    ◯『歌舞伎年表』③182(伊原敏郎著・昭和三十三年刊)   (「宝暦三年」の項。十二月十八日、大阪三條座「けいせい天羽衣」興行記事中に)   〝此の「けいせい天羽衣」の台帳は、後に天保四年、大阪にて版本として発行す。其巻首に曰く「(宝暦    ・明和・安永・文化年間、大阪での興行記事あり、略)其余、浜芝居、子供芝居までも、度々出して大    入をとりし狂言なれども、年経て知る人も稀也。依之、古を新しく今様の俳優に引き直し、画工柳斎重    春の筆力をあらはし、何卒御意に相叶ひ候やう、早う開いて巳の歳の初物とす」云々〟    〈天保四年(1833)刊、絵入根本『契情天羽衣』の序は梅枝軒泊鶯〉    ◯「天保四年癸巳日記」③418 六月廿九日(『馬琴日記』第三巻)   〝丁子や平兵衛来ル。予、対面。(中略)柳川重正、雪丸作よミ本のさし画を見せらる。追て、重正にも    書せ度よし也〟    〈丁子屋が柳川重正の読本挿画を馬琴に見せたのは、『開巻驚奇俠客伝』四集の画工に重正を起用しようという意図か     らであろう。三月十八日の取り決め通り三~四集十冊続きの出版となると、三集の挿画もままならない国貞ではとて     も間に合わないと判断したのである。それに四集の原稿の方も七月までには仕上げる約束であったのに、三集の画工     国貞の大幅な遅れに気をそがれたのか、馬琴もまだ手をつけていない。おそらく丁子屋は馬琴の執筆を促す意味合い     もかねて、画工の手当を考えたのであろう。ところで「柳川重正、雪丸作よミ本」とは何であろうか。国文学研究資     料館「日本古典籍総合目録」によると、墨川亭雪丸(雪麿)作の読本は二つ、一つは『濡玄鳥栖傘雨談』(柳川重信     二代画・天保七年(1836)刊)。もう一つは『絵本国性爺合戦』(国虎画・嘉永年間(天保五年刊の合巻『国姓爺合戦』     の縮綴という))。いづれも画工名と刊行年が合致しない。また「日本古典籍総合目録」に「重正」の作画作品は見     あたらない〉    ◯「天保四年癸巳日記」③455 八月廿一日(『馬琴日記』第三巻)   〝鈴木左源二事、画名柳川重正来ル。手みやげおくらる。予、対面。俠客伝四集壱の巻、稿本追々出来に    付、近日、右さし画稿、版元へ可渡旨、示談。并に、画きやう注文等、申聞ケ、右用事畢て、帰去〟    〈国貞の『開巻驚奇俠客伝』三集が遅れる中、四集の重正(重政)担当が始まる。重正はこの十月に二代目柳川重信を     襲名することになるのだが、それに先立つ馬琴の挿画担当である。異例の抜擢であろう。とにかく三~四集を続けて     出版するためにはやむを得ない起用であった。重正は〝画ハ未熟也。なれどもはやく出来候上、丁平懇意ニて、大ニ     ひいきに候〟とある(十一月六日付小津桂窓宛書翰(番号28))なお重正の二代目重信襲名は十月二十一日記事参照〉    ◯「天保四年癸巳日記」③466 九月十日(『馬琴日記』第三巻)   〝丁子や平兵衛方より、使ヲ以、今朝の俠客伝四集一の巻、さし画の壱、かしら直し并ニ枕かきそえ、柳    川重政方へ遣し、出来のよしにて、見せらる。外ニ、同さし画の弐・三出来、見せらる。右弐・三もか    たち直し等有之、依之、付札いたし、右三丁とも、使ぇわたし遣ス。さし画の壱ハ直し相済候間、ほり    ニ出し候様、申遣ス〟    〈柳川重正、挿画に着手。『開巻驚奇俠客伝』第四集巻之一である〉    ◯「天保四年癸巳日記」③475 九月廿日(『馬琴日記』第三巻)   〝鈴木左源二事、画工重政来ル。予、対面。俠客伝四集二の巻の壱、かしら其外画直し、持参、見せらる。    一覧の処、玄関前ニ砂利画キ有之、蛇足也。八重ニ成候間、小石入候はりかごハ、此方ニてはりけし畢。    同さし画の弐下画も見せらる。それ/\示教、右用談畢て、帰去〟    〈これは「有像第四十六」の場面。「かしら」の描きようが馬琴が望むものと合っていないのだろう。不満なのである。     九月十八日記事同様、馬琴の重政に対する評価は厳しい〉  〇「天保四年癸巳日記」③492 十月十三日(『馬琴日記』第三巻)   〝(『開巻驚奇侠客伝』四集三之巻「第三十六回」柳川重信(二世)の挿絵について)まくぐし并ニ幕内の人    物ちやせんがミ、画き不宜候間其処直し候様、書画供付札いたし(云々)〟    〈これは「有像第五十一」の場面。馬琴は二世重信の幕串と隅谷安次の茶筅髷の図様が気に入らなかった〉    ◯「天保四年癸巳日記」③496 十月十六日(『馬琴日記』第三巻)   〝(丁子屋の小者)根岸重正方へ直しニ遣ス。(中略)根ぎしより帰来。重正方ニて直し出来、直し様未    佳といへども、そのまゝ写本へとぢ入、同巻十五丁より廿七丁迄、校合済、写本わたし遣す〟    〈『開巻驚奇俠客伝』四集担当の重正(重政)の方は、馬琴の望むような方向に挿画がいかないようで、直しが多い。     しかしこれ以上やっても無駄と思ったのか「直し様未佳といへども」と未練を残しながらも校合済にしてしまった〉    ◯「天保四年癸巳日記」③500 十月廿一日(『馬琴日記』第三巻)   〝鈴木左源二事、画名柳川重信(ママ)来ル。予、対面。俠客伝四集五の巻さしゑの弐、猿の処出来、見せら    る。但、四の巻さし画の弐ふりかへに成候趣、示談〟    〈馬琴はこの日からこれまでの記名・重政(重山)を柳川重信に改める。この日の来訪は襲名の挨拶廻りであろうから、     十月二十一日の直前に襲名したのであろう〉    ◯『馬琴書翰集成』③118 天保四年十一月六日 小津桂窓宛(第三巻・書翰番号-28)   〝八月上旬、江戸板元丁子や平兵衛参り、『俠客伝』四集之事、画ハいかやうニもいたし、間ニ合せ候間、    何とぞ、四集を引つゞき出板にいたし度候。依之、願ひ出候。何分、早々御とりかゝり被下候様ニ申候    間、答ニ、潤筆も夏中過半請取置候上ハ、いなむにあらず候得ども、しばらく打捨置候故、急ニも筆と    りがたく、いづれ八月中旬比よりならでハ、取かゝりがたく候。左候へバ、年内彫刻出来かね可申哉之    旨ヲ以、推し候処、板木師の義ハ、一冊づゝ引わけ、速ニほらせ候つもり、手当いたし置候間、ぜひ/\    間ニ合せ可申ト、かたく申候間、八月十五日より筆とりはじめ候処、丁平ひたいそぎに急ぎ候間、一回    づゝ稿し候へバ、直ニ筆工ニわたし申候。尤、筆工両人ニかゝせ候間、よほど精出し不申候てハ、筆工    ニ追れ候まゝ、昼夜只これのミにて日をくらし候。八九月中迄は、忰もとかく同様ニて、よほどの大病    ニ候へ共、見かへるいとまもはく精出し候。画ハ柳川重信婿重政、二代め柳川重信と改名いたし候へど    も、画ハ未熟也。なれどもはやく出来候上、丁平懇意ニて、大ニひいきに候間、是ニ画せ候。既にして、    十月廿九日迄ニ、五冊不残稿し畢り、板下書画共、四冊め迄出来、五冊めの前三十九回半冊、筆工最中    ニ書居候よしの節、右廿九日夕方、丁子屋拙宅ぇ罷越候て申スやう、扨、彫刻之義ハ、年内ほり上候て    も、江戸・大坂ハ第二集のごとく、来正月下旬うり出しニ成り可申候。然処、大坂ニてハ、十二月下旬    ニうり出し不申候てハ、捌甚不宜候ニ付、第四集ハ、明々年未ノ正月二日うり出しニ可致旨、申来り候〟    〈「俠客伝」の出版をめぐる騒動を報じた書翰の一部。全文は『馬琴書翰集成』参照。二代目柳川重信はこの騒動に直     接の関係はないが、三集を担当した国貞の挿画の遅れが、重信に四集の挿画をもたらしたとはいえよう〉    ☆ 天保五年(1834)    ◯「絵本年表」〔漆山年表〕(天保五年刊)    柳川重信二世画    『言葉のやちまた』 一冊 柳川重信画歟 武熊菴双樹編 武熊連蔵板    『芍薬亭文集』初編 一冊 柳川重信画  芍薬亭長根著 梨花園蔵板    ◯「絵入狂歌本年表」〔目録DB〕(天保五年刊)    柳川重信二世画    『狂歌言葉のやちまた』一冊 重信画 武隈庵雙樹編    『狂歌名所百首』   一冊 重信画 芍薬亭長根編 武隈菴板    ◯「日本古典籍総合目録」(天保五年刊)   ◇人情本    柳川重信二世画    『花物がたり』柳川重信二世画 鼻山人作    『娘消息』  初・二編 柳川重信二世画 三文舎自楽(曲山人)作    『合世鏡』  初編 重信・重山画  東里山人(鼻山人)作  ◯「艶本年表」〔白倉〕(天保五年刊)    二代柳川重信画    『艶本四季時計』間錦 十二枚組物 天保五年     (白倉注「『艶画四季時計』としたものあり」)  ◯「天保五年甲午日記」④15 正月十三日(『馬琴日記』第四巻)   〝鈴木右(ママ)源二事、画工柳川重信、為年礼、来ル。礼服也〟    〈この柳川重信は二代。柳川重山。馬琴の日記では重政(重正)として昨年出る〉    ◯「天保五年甲午日記」④16 正月十五日(『馬琴日記』第四巻)   〝(長子・宗伯を以て)根ぎし鈴木右(ママ)源二事、柳川重信へ年始答礼申入、とし玉二包づゝ、遣之〟    ◯「天保五年甲午日記」④77 四月 五日   〝根岸左源二事、画工柳川重信来ル。手みやげ持参。予、対面。八犬伝九輯壱の巻、さし画の壱一枚、外    に、同さし画の弐下画一枚持参、見せらる〟    ◯「天保五年甲午日記」④92 四月廿四日(『馬琴日記』第四巻)   〝(丁子屋平兵衛方より使いの者、八犬伝九輯壱の巻、重信の挿画持参)一覧の処、道節乗馬ハ、前に出    候仁田山晋五の馬ニ候処、毛いろちがひ候間、不宜、前のごとく黒馬にいたし候様、付札いたし、右使    ぇわたし遣ス。使之もの、直ニ根岸重信方へ罷越、直させ可申旨、伝言。重信、左右のわけ書我注、細    不見候哉、ふのミ込ニて、かやうの間違、度々有之。右使之者、昼前、重信方より直させ来ル。一覧の    上、右画写本、筆工とも二丁、使ぇわたし畢。定正馬も、くろく画キ候故、敵味方黒馬ニてわからず、    不宜候得ども、今さらせんかたなし。今の重信、画才なし〟    〈騎馬にて犬山道節が扇谷定正を追撃する場面。「品革の原に道節定正を赶ふ」とある。この「画才なし」の非難は、     作者の意に対する配慮が足りないということか〉    ◯「天保五年甲午日記」④138 六月廿日(『馬琴日記』第四巻)   〝根岸鈴木左源二事、画工柳川重信、来訪。予、対面。(中略)昨朝申遣し候俠客伝四集、とびらニ画キ    候異獣の写真見度よし、申ニ付、則、取出し、席上ニて、写させ畢。同書五之巻、さし画の壱・弐出来、    過日、丁や使ぇわたし候よし、被申之。なれども、此方へ見せず、筆工ニ滞り在之なるべし。同さし画    之三も出来、宿所ニ有之よし也。今日、尚又、俠客伝四集、ふくろ稿、ひやうしもやう稿、外題稿等弐    丁、ふくろかけ候て、渡し畢。且、右画いそぎ候趣、委曲、示談畢て、帰去〟    〈当時、二代目重信は馬琴作読本『開巻驚奇俠客伝』四集と『南総里見八犬伝』九輯を担当していた。馬琴はなるほど     挿画だけでなく袋や表紙・外題にまで自らの意匠を貫こうとしている〉    ◯「天保五年甲午日記」④203 九月十七日(『馬琴日記』第四巻)   〝根岸鈴木左源二事、柳川重信来ル。予、対面。八犬伝九輯六之巻、さし画の三壱丁、同書惣もくろくわ    く写本出来、見せらる。さし画の武者ちひさく、且、城に塹なし、画ざま不宣候へども、直させ候もき    のどく故、そのまゝ預かりおく。尚又、同人所望ニ付、酔芙蓉三冊の内、一冊、宋の徽宋(ママ)唐犬の図    有之処、かし遣ス〟    〈自ら画稿を作って画工にこと細かな指示を繰り出す馬琴にしては珍しく、諦めというか、これ以上要求しても期待す     るものはできないというか、そんな脱力感を二代目重信に対して抱いているようだ。また、馬琴が重信に貸し出した     宋代の徽宗が画いた唐犬図を載せる「酔芙蓉」とは、鈴木芙蓉画の『画図酔芙蓉』(文化六年(1809)刊)である。下     巻に「宋徽宗 乳犬図」として出ている〉      <インターネット上では、金沢美術工芸大学付属図書館「絵手本DB」で見ることが出来る>    ☆ 天保六年(1835)    ◯「絵本年表」〔漆山年表〕(天保六年刊)    柳川重信二世画    『近世名家狂歌之巻』一冊 二世柳川重信画 菅原長根序    『狂歌節用集』一冊 柳川画 芍薬亭宗匠撰 菅原総連輯    『狂歌紅絲集』一冊 柳川重信画 芍薬亭撰 菅原連蔵板    『山水画帖』 初編 柳川風ノ画 皓月堂久助板    ◯「読本年表」〔目録DB〕(天保六年刊)    柳川重信二代画    『開巻驚奇俠客伝』四集  柳川重信二世画 曲亭馬琴作    『南総里見八犬伝』九輯上 柳川重信画 曲亭馬琴作    ☆ 天保六年(1835)    ◯「絵入狂歌本年表」(天保六年刊)    柳川重信二世画〔目録DB〕    『近世名家狂歌之巻』一冊 柳川重信画 芍薬亭長根編    『興歌二荒風流』一冊 柳川重信画 鳳鳴閣大人編    『柳川山水画帖』一冊〈一世か二世か不明〉    柳川重信二世画〔狂歌書目〕    『狂歌紅糸集』 一冊 重信画 芍薬亭長根編 菅原連    ◯「日本古典籍総合目録」(天保六年刊)   ◇人情本    柳川重山画『合世鏡』二編 重信・重山画 東里山人(鼻山人)作    ◯『滝沢家訪問往来人名録』下p125(曲亭馬琴記・天保六年四月頃)   〝前々より相識 根岸中村御玄関番鈴木忠次郎養子重信婿養嗣 鈴木佐源次事 二代目 柳川重信    〈この二代重信記事と天保13年刊『【江戸現在】広益諸家名人録』二編の記事〝画 柳川【名重信、字子義、一号雪蕉     斎】谷中天王寺北 谷城季三太〟とは符合しない。馬琴の認識に問題がありそうだが判然としない〉    ☆ 天保七年(1836)    ◯「絵本年表」〔漆山年表〕(天保七年刊)    柳川重信二世画    『とふの菅薦』一冊 香蝶楼国貞・後素園国直・朝桜楼国芳・柳川重信・葵岡北渓・              法橋雪旦・雲峯・行年六十翁可庵武清筆 梅多楼藏板     ◯「読本年表」〔目録DB〕(天保七年刊)    柳川重信二代画    『南総里見八犬伝』九輯中 柳川重信画 曲亭馬琴作    『濡燕栖傘雨談』 柳川重信画 墨川亭雪麿作    ◯「艶本年表」〔白倉〕(天保七年刊)    柳川重信二代画    『三味線十二調子』色摺 大本 二冊「開斎画 好信筆」猿猴坊月成(烏亭焉馬二世)作     (白倉注「好信」は初代歌川(一礼斎)国信ではとの説あり。国芳画の『筑紫松藤柵』にも出てくる)    ◯「天保七年丙申日記」④290 三月三日(『馬琴日記』巻四)   〝八犬伝九輯下帙、十三・十四の巻の内、さし画の壱、各壱丁、重信より画写本出来、見せらる。然る所、    画きやう悪しく、多く本文と相違に付、川の幅ひろく、両人の賊左右へ引わけ、画き直し候様、下げ札    いたし、右写本并に稿本、丁子屋使へわたし、且、口上も申示し畢〟    ◯「天保七年丙申日記」④292 四月十日(『馬琴日記』第四巻)   〝重信より、十五の巻さし画のみ出来(中略)右さし画の二に、稿本に無之傘画き有之、過日見おとし、    今日心づき候に付、右傘は本文に不合、甚不宜候間、傘をはりけし、画のつなぎをつけさせ、彫刻にい    たし候様、つけ札いたし(云々)〟    〈二代目柳川重信の『南総里見八犬伝』挿画、折角のアイディアも、馬琴からするといらざるもの〉    ◯『馬琴書翰集成』④221 天保七年八月十四日 馬琴、古稀の賀会、於両国万八楼   (絵師の参加者のみ。天保七年十月二十六日、殿村篠斎宛(第四巻・書翰番号-65)④221参照)   〝画工 本画ハ      長谷川雪旦 有坂蹄斎【今ハ本画師になれり】 鈴木有年【病臥ニ付名代】      一蛾 武清 谷文晁【老衰ニ付、幼年の孫女を出せり】 谷文一 南溟      南嶺 渡辺花山    浮世画工ハ      歌川国貞【貞秀等弟子八九人を将て出席ス】 同国直 同国芳 英泉 広重 北渓 柳川重信      此外、高名ならざるものハ略之〟    ◯『馬琴書翰集成』④232 天保七年十月二十六日 殿村篠斎宛(第四巻・書翰番号-65)   (「八犬伝」九輯下帙)   〝九月中旬に至り、やうやく右の綴り残しを果して、下旬にハ附言・惣もくろく・口画等迄、不残稿し遣    し候処、画工重信養祖鈴木氏病死ニ付、又画ニて幕つかへ、口画ハ今に一枚も出来不申候〟    〈この重信は二代目(始め重山、馬琴は重政と呼ぶ)。その養祖父鈴木氏とは初代重信の父にあたる鈴木忠次郎〉    ◯『馬琴書翰集成』④236 天保七年十一月三日 小津桂窓宛(第四巻・書翰番号-67)   〝先月下旬、丁平病中ながら、駕籠にて拙宅ぇ参候而、談じ候ハ、『八犬伝』のうり出し、当年の荒凶に    て、十二月に至り候てハ、捌方不便利ニて、部数いかばかりも捌ケまじく候。いかで、十一月下旬迄に    うり出し度候。画工柳川ハ不達者にて、口画四丁、十一月十日比ならでハ、画キ終りがたしと申候間、    稿本をとりかへし、国直ニ画せ候。いかで、すり本校合を、はやく被成下候様ニと被頼候て、十五の巻    一冊、校合すり本持参いたし候間、受取置候へ共、野生方、転宅前ニていよ/\多用、机にかゝり候暇    無之候間、いまだ一丁も校訂不致候。且国直とても、口画速ニハ出来ざる様子ニ候間、十一月ニうり出    しハ心許まく候へども、板元甚しくいそぎ候間、十二月にハ出板可被致候〟    〈柳川重信がなんとか間に合わせたと見え、結局、国直が「八犬伝」の画工を担当することはなかった。馬琴の四谷信     濃坂転居は十一月十一日である。(天保八年三月十五日記事に〝去冬十一日転宅以来〟とあり、同年十二月晦日記事     に〝去年十一月転宅後〟とある)〉    ☆ 天保八年(1837)    ◯「絵本年表」(天保八年刊)    柳川重信二世画    『江戸名所図会』二冊 柳川重信画 黒川春村撰 千束庵藏板〔目録DB〕    『理斎随筆』  六冊 画工柳川谷城重信 志賀忍撰〔漆山年表〕              (凡例に、柳川重信は志賀理斎の三男とある由)    『日光山志』  五冊 花菱斎北雅筆 可庵武清筆 齢七十二画狂老人卍筆〔漆山年表〕               二世柳川重信 文晁 須原屋伊八他板    ◯「読本年表」〔目録DB〕(天保八年刊)    柳川重信二代画『南総里見八犬伝』九輯下帙上 柳川重信画 曲亭馬琴作    ◯「絵入狂歌本年表」〔目録DB〕(天保八年刊)    柳川重信二世画    『江戸名所図会』二冊 柳川重信画 黒川春村撰 千束庵    『興歌詞花集』 二冊 重信画?  鳳鳴閣大人編    ◯「日本古典籍総合目録」(天保八年刊)   ◇人情本    柳川重山画『合世鏡』三編 重信画・重山画 東里山人(鼻山人)作    ◯「天保八年丁酉日記」④300 九月廿五日(『馬琴日記』第四巻)   〝足利義尚とし十六七と注文書いたし遣し候所、重信未熟にて、四五十才の面体に画がき、犬江親兵衛素    袍の紋所は、先日迄注文に告之候処、そのかひなく、元のまゝに画き、差越候間、両様とも直し候様、    付札いたし(云々)〟    〈八犬伝の挿画、馬琴の意のままにならないようである〉    ☆ 天保九年(1838)    ◯「絵本年表」〔漆山年表〕(天保九年刊)    柳川重信画『日用心法鈔』後編 柳川重信画 寿福軒述    ◯「読本年表」〔目録DB〕(天保九年刊)    柳川重信二代画『南総里見八犬伝』九輯下帙中 柳川重信画 曲亭馬琴作    ◯『金杉日記』〔続燕石〕③30(山崎美成・天保九年閏四月廿六日)   〝廿六日は、両国柳ばしなる河内屋の楼にて、柳川重信の書画会あり、かねて、原徳斎のねもごろに、か    のまどゐに出よかし、といはるゝものから、諺にいふ、貧しきの隙なきといへるをりからなれど、より    どころなくて、その日のまどゐにいたれば、会集る人々のなかば計は知る人なれば、日ごろのうさも少    しははるゝこゝちにて、そのまどゐより、天野政徳ぬしの、おのれをいざなひ給ひて、川ぞひの楼にて    あそび、はては清水躬行が家に行て、酒にえひしれて、かへるさもおぼろなりし〟    〈『続燕石十種』第三巻の「後記」によると、重信と原徳斎とは兄弟。重信は志賀理斎の第三子、徳斎は第四子の由〉    ◯『馬琴書翰集成』⑤30 天保九年六月二十八日 殿村篠斎宛(第五巻・書翰番号-6)   〝(「八犬伝」九輯下帙、筆工金川、多忙の由にて一向に出来ず、代わりに音成という筆工に依頼するも)    何分ニも字をしらず、大杜撰人ニて、毎行悞字多く、且脱字脱文も多く、此板下校合ニ七八日のいとま    を費し、やう/\無疵ニいたし候。(中略)画も重信ハ多病、且不実等閑の本性ニて出来かね候間、半    分ハ英泉ニ画せ候。画ハ両面ニてもよろしく候へ共、筆工ニハこまり果候事ニ御座候〟    〈九輯下帙の筆工は谷金川の他に白馬台音成。画工も従来の二代目柳川重信の他に渓斎英泉が担当した。なお、天保九     年七月朔日、小津桂窓宛((第五巻・書翰番号-8)⑤39)に同記事あり〉    ◯『理斎随筆』〔大成Ⅲ〕(志賀理斎著・天保九年刊)   ◇「副言」①230   〝この冊子巻ごとのはじめに、六玉川の図を画かしむること、いさゝかこゝに関らざることなれど、巻の    員(カヅのルビ)を玉川の六つにかたどり。または玉に比すべき古人の辞もあれば、玉のえんなきにしもあ    らず。また三男柳川重信に命じて、ところ/\に掲げ出さしむるものは、半ば文の意をも助け、見ん人    の睡魔を駆らんとてのわざなり〟     ◇「奥付」①385   〝天保丙申冬官許 編輯 理斎志賀 忍    同 丁酉冬刻成     同 戊戌春発行 校閲 徳斎原 義            画工 柳川谷城重信〟    ☆ 天保十年(1839)    ◯「絵本年表」〔漆山年表〕(天保十年刊)    柳川重信二世画    『狂歌百人一首』一冊 重信画   伊勢荻の屋撰 浜荻連蔵板    『名数狂歌集』 一冊 柳川重信画 芍薬亭撰    ◯「読本年表」〔目録DB〕(天保十年刊)    柳川重信二代画『南総里見八犬伝』九輯下帙下の上編 柳川重信・渓斎英泉画 曲亭馬琴作    ◯「絵入狂歌本年表」(天保十年刊)    柳川重信二世画    『伊勢狂歌百人一首』二冊 柳川重信画 荻廼屋音信撰 伊勢津浜荻連〔目録DB画像〕    『名所遊覧狂歌集』二冊 重信画? 梅明撰 桧垣連〔狂歌書目〕    ◯「百人一首年表」(本HP・Top)(天保十年刊)    柳川重信二世画『狂歌百人一首』肖像〔跡見1540 異種〕〔目録DB〕    見返し「柳川重信大人画」萩屋音信大人撰 天保十年刊    〈この重信は二代目。刊年は〔目録DB〕の書誌による〉  ◯『馬琴書翰集成』⑤97 天保十年六月九日 殿村篠斎宛(第五巻・書翰番号-24)   〝(「八犬伝」九輯下帙)筆工板下も、追々ニ出来候へども、只画工重信、外事ニて幕つかへ候間、国貞    弟子の貞秀ニ助させて間を合せ候〟    〈天保十一年刊「八犬伝」奥書「八犬伝第九輯下帙下中編乙號上分巻五冊書画剞劂目次」に「出像 柳川重信」「補助     画 巻之三十一末ヨリ 歌川貞秀」とある。また同じ年に刊行されたもう一編の奥書「南総里見八犬伝第九輯下帙下     乙號中画工筆耕彫匠名號目次」には「出像画工 玉蘭斎貞秀」とある。つまり天保十一年刊行の「八犬伝」の挿絵は     重信の都合がつかなくなり、途中から貞秀が担当することになったのである。では重信の支障「外事」とは何であろ     うか〉    ☆ 天保十一年(1840)    ◯「絵本年表」〔漆山年表〕(天保十一年刊)    柳川重信二世画    『理斎翁子弟戒』一冊 柳川 志賀理斎肖像 無量◎人肖像      〈〔目録DB〕は天保十二年刊とする〉    『日用心法鈔』 三編 柳川重信 寿福軒述    ◯「読本年表」〔目録DB〕(天保十一年刊)    柳川重信二代画『南総里見八犬伝』九輯下帙下の中編の一 柳川重信・歌川貞秀画 曲亭馬琴作    ◯「艶本年表」〔白倉〕(天保十一年頃刊)    柳川重信二世画    『一休禅師諸色問答』色摺 半紙本 三冊「開斎画」吾妻雄兎子(梅亭金鵞)作  ◯『馬琴書翰集成』⑤151 天保十一年正月八日 小津桂窓宛(第五巻・書翰番号-40)   〝(「八犬伝」)先板(第九輯下帙下)ハ丁平たのミに付、無是非貞秀に画せ候処、果して拙画にて、看    官評判不宜候間、後輯ハ又柳川重信に画せ候。重信ハ遅筆にて、且多病無精の画工に候へバ、中々速ニ    ハ不出来候〟    ☆ 天保十二年(1841)    ◯「絵本年表」〔漆山年表〕(天保十二年刊)    柳川重信画『興歌金玉集』一冊 柳川重信画 鳳鳴閣主人撰 山水連蔵板    ◯「読本年表」〔目録DB〕(天保十二年刊)    柳川重信二代画    『南総里見八犬伝』九輯下帙下の下編の上 柳川重信・渓斎英泉画 曲亭馬琴作    『南総里見八犬伝』九輯下帙下の下編の中 柳川重信画 曲亭馬琴作    ◯「絵入狂歌本年表」〔目録DB〕(天保十二年刊)    柳川重信二世画    『二荒風体興歌金玉集』一冊 柳川重信画 鳳鳴閣・順天居士編    『狂歌秋帛集』 一冊 柳川重信画 千束庵章雄・武隈庵双樹編    ◯『馬琴書翰集成』⑤250 天保十二年正月二十八日 殿村篠斎宛(第五巻・書翰番号-75)   〝(「八犬伝」九輯)去冬十月中稿了畢候迄ハ、不眼ながら自筆ニ綴り候て、読かね候所ハ愚媳に補せ、    筆工ニ渡候。さし画ハ自筆ニ出来兼候間、其方斗を画キ、訳を委しく印させ、画工ぇ渡し候処、柳川重    信ハ、画ハ上手ニ候得共画才なく、機(ママ)之きかぬ男ニ候間、心得違致、本文ニたがい候口絵。さし絵    抔、多有之候由ニ御座候。小子ニハ写本摺本とも、さらに見へわかず候得共、家内之者に見せ候て、其    趣ヲ聞候得バ、口絵の次麿、四十四ノ巻毛野の立姿抔、如何心得候て画キ候哉、実ニわらふべきゑがき    ざまニ御座候。右之御心得ニて可成御覧候。此外、作者の意ニあわぬ事枚挙に遑あらず候〟    〈視力を失ったため「八犬伝」の稿本に苦心惨憺する馬琴の姿である。挿絵は画工柳川重信二代に詳しく指示を出すの     であるが、意図するものと違う図になるらしく、画才のない気の利かない男だと愚痴を云っている〉    ◯『馬琴書翰集成』⑤315 天保十二年十月朔日 殿村篠斎宛(第五巻・書翰番号-91)   〝(「八犬伝」九輯)さし絵ハ柳川重信、家内病難ニ付出来兼候間、英泉ニ絵がゝせ、末壱丁、小子肖像    ある所ハ国貞ニ画かせ、右さし画板下共、昨今不残出来、追々彫立候事ニ御座候〟    〈文化十一年(1814)から続いた『南総里見八犬伝』は、天保十三年(1842)正月の「結局編」と同年三月の「結局下編」     をもって漸く終幕を迎える。最終巻「巻之五十三下」「囘外剰筆」において、馬琴は二十八年間を振り返って感慨や     ら楽屋話などをかたる。そして最後の挿絵には香蝶楼国貞の筆になる馬琴自身の肖像を掲載して締めくくったのであ     った。同日付、小津桂窓宛にも同記事あり(第五巻・書翰番号-93)〉    ◯『馬琴書翰集成』⑤322 天保十二年十一月十六日 殿村篠斎宛(第五巻・書翰番号-94)   〝(「八犬伝」九輯)画工も此度ハ重信・英泉両人ニて、小子画わりいたし、注文書のミにて画せ候事故、    不如意之所も可有之候得共、是又見候事成難候間、無心許存候のミに御座候〟    〈馬琴は失明してなお言葉で画割りを画工に注文していたのである〉    ☆ 天保十三年(1842)    ◯「絵本年表」〔漆山年表〕(天保十三年刊)    柳川重信画『主従心得草』後編 柳川重信画 安楽寺真鏡著    ◯「読本年表」〔目録DB〕(天保十三年刊)    柳川重信二代画『南総里見八犬伝』九輯下帙下の下編の下 柳川重信・渓斎英泉画 曲亭馬琴作    ◯『馬琴書翰集成』⑥60 天保十三年六月十九日 殿村篠斎・小津桂窓宛(第六巻・書翰番号-6)   〝中本一件落着之事、六月十五日、清右衛門罷越、実説初て聞知り候。九日より三日うちつゞき御呼出し、    御取しらべニて、十一日ニ落着致候。板元七人并ニ画工国芳、板木師三人ハ過料各五〆文、作者春水ハ    尚又咎手鎖五十日、板木ハ不残手斧にてけづり取、或ハうち砕き、製本ハ破却之上、焼捨被仰付候。是    にて一件相済候。右は北奉行所遠山殿御かゝり御裁許に候。春画本も右同断の由ニ候。寛政のしやれ本    一件より、板元ハ軽相済候。春画中本之画工ハ、多く国貞と重信ニ候得ども、重信ハ御家人、国貞ハ遠    方ニ居候間、国芳壱人引受、過料差出し候。春画之板元ニ成候板木師、并ニ中本之板木師ハ、こしらへ    者ニ候間、過料ハ丁平差出し候半と存候。右一件ハ相済候へ共、又丁子屋とかり金屋を南町奉行へ被召    出、当春板元無名ニて売出し候、ドヽイツぶしの中本之御吟味有之由聞え候。是ハ去年中、深川遊処ニ    て男芸者之うたひ候、ドヽイツといふさハぎ歌流行ニ付、春水夫ヲ集メ、深川芸者之名ヲ記、画を英泉    ニ画せ、中本ニ致、板元無名ニて売出し候所、よく売候由聞え候間、此御吟味ニて、丁子屋・雁がね屋    被召出候由聞え候へ共、是ハ風聞のミにて、虚実ハ未ダ不詳候。前文之役者似㒵、遊女・芸者之画、不    相成候ニ付、地本屋・団扇屋等致当惑、内々日々寄合致、生娘を板し候事、御免ヲ願候半歟抔申候由聞    え候。左様之義願出候ハヾ、又御咎ヲ蒙り候半と、苦々敷存候。『田舎源氏』重板致候者有之由聞え候    得ども、是も売候事成間敷候。『八犬伝』ヲ合巻ニ致、春水ニ綴らせ、森屋・丁子屋合板にて、近日出    来之由聞え候得ども、長篇之続キ物御禁制ニ候へバ、是も売候事成間敷候〟    〈中本(人情本)一件の決着は、遠山北町奉行の裁許で、作者為永春水は手鎖五十日。画工歌川国芳は過料五貫文。春     画と中本の画は歌川国貞と柳川重信の手になるものが多いが、「重信ハ御家人、国貞ハ遠方ニ居候間、国芳壱人引受     過料差出候」とあり、なぜか重信と国貞はお咎めなしのようである。御家人と亀戸居住は江戸町奉行の管轄外という     ことなのであろうか。春水編・英泉画の「ドヾイツぶしの中本」とは「日本古典籍総合目録」に『度々一図会』とあ     るものであろうか。この板元らしい丁子屋・雁金屋が召喚されたようだが、これも風聞のみで真偽不明。『八犬伝』     を合巻化したという春水の作品は未詳〉     ◯『【江戸現在】広益諸家名人録〕二編「ヤ部」〔人名録〕②82(天保十三年夏刊)   〝画 柳川【名重信、字子義、一号雪蕉斎】谷中天王寺北 谷城季三太〟    ☆ 天保十四年(1843)    ◯「絵本年表」〔漆山年表〕(天保十四年刊)    柳川重信画    『狂歌堀川次郎百首』一冊 柳川重信画 芍薬亭長根選    『狂歌一字題百首』 一冊 柳川画   芍薬亭撰    ☆ 天保年間(1830~1843)    ◯「絵入狂歌本年表」(天保年間刊)    柳川重信画〔狂歌書目〕    『狂歌三十六歌仙』二巻 重信画 高吟社修徳編 檉廼屋等版    『狂歌新部領使』一冊 重信風 芍薬亭撰    『狂歌画友集』一冊 重信画 琴樹園二喜編 武隈連    『狂歌連玉集』一冊 重信画? 芍薬亭・桧園・花月堂 花月堂主人版    柳川重信画〔目録DB〕    『午年春』一冊 柳川重信画 芍薬亭・武隈庵撰    ◯「艶本年表」〔日文研・艶本〕(天保年間刊)    柳川重信二世画『春色一休問答』色摺 半紙本 三冊 天保末期(1841-43)吾妻雄兎子編集    ◯「日本古典籍総合目録」〔目録DB〕(天保年間刊)   ◇地誌    柳川重信画『絵本東名所』一冊 柳川重信画・作    ☆ 弘化元年(天保十五年・1844)    ◯「絵本年表」〔漆山年表〕(弘化元年刊)    柳川重信画    『芍薬亭文集』二編 柳川重信 芍薬亭菅原長根編〈初編は天保五年刊〉    『拾遺広陵集』一冊 柳川筆  菅原長根詠    ◯「読本年表」〔目録DB〕(弘化元年刊)    柳川重信二代画『鎌倉年代記』柳川重信画 高井蘭山作    ☆ 弘化二年(1845)    ◯「往来物年表」(本HP・Top)    柳川重信画『絵本古状揃注釈』北江老漁訳 平林収文堂板 弘化二年刊〔目録DB〕    奥付「画図 今川状 手習状 歌川国直/腰越状 含状 柳川重信/弁慶状ヨリ末 玉蘭斎貞秀」      「弘化二丙午年初開板 安政四丁巳年末増補」  ☆ 弘化四年(1847)    ◯「絵本年表」〔漆山年表〕(弘化四年刊)    柳川重信画    『主従心得草』三編  柳川重信歟 東都下谷金杉安楽精舎主述 和泉屋庄兵衛板           四編  柳川    安楽精舎主述           五編  柳川重信  安楽精舎主述    『左以義無物語』一冊 柳川重信歟 積玉堂    ☆ 弘化年間(1843~1847)    ◯「艶本年表」〔目録DB〕(弘化年間刊)    柳川重信二世画『春のかり寐』三冊 艶川好信画 好色山人作 弘化以降刊      (注記「日本艶本目録(未定稿)による」)    ☆ 嘉永元年(弘化五年・1848)    ◯「絵本年表」〔漆山年表〕(嘉永元年刊)    柳川重信画    『秀雅百人一首』一冊 画工渓斎英泉 柳川重信 一陽斎豊国 一勇斎国芳 前北斎卍老人    ◯「百人一首年表」(本HP・Top)(弘化五年刊)    柳川重信画『秀雅百人一首』色摺口絵・挿絵・肖像〔目録DB〕〔国会〕    奥付「画工(口絵・肖像)前北斎卍老人(肖像)一勇斎国芳 柳川重信 渓斎英泉 一陽斎豊国」    1ウ2オ口絵の署名「八十八歳卍筆」    緑亭川柳編 山口屋藤兵衛板 弘化五年正月刊  ◯『名聞面赤本(なをきけばかおもあかほん)』一冊 渓斎英泉画 英魯文作〔目録DB〕    〈野崎左文の「仮名垣魯文伝」によると、この摺本は英魯文(後の仮名垣魯文)の戯号披露の摺物で、本来は嘉永元     年(1848)の頒布を予定していたが、資力不足で延引、刊行は同二年の春の由。(明治28年2月刊『早稲田文学』81     号所収)したがって弘化四年(1847)の詠と思われる〉    〝柳川重信 精出せと清書見せたり花の兄〟    〈浮世絵師で歌と句を寄せた人々は以下の通り〉    柳川重信・葵岡北渓・一筆庵英泉・朝桜楼国芳・墨川亭雪麿・為一百翁(北斎)・香蝶楼豊国    ☆ 嘉永二年(1849)    ◯「絵本年表」〔漆山年表〕(嘉永二年刊)    柳川重信画    『続英雄百人一首』一冊 画工玉蘭斎貞秀 一勇斎国芳 柳川重信 一陽斎豊国 前北斎卍老人                緑亭川柳編 山口屋藤兵衛板    『武勇芸能名誉』 一冊 一立斎広重 口画柳川重信 寿山翁序 平林堂他板    ◯「百人一首年表」(本HP・Top)(嘉永二年刊)    柳川重信画『続英雄百人一首』上中下 口絵・肖像〔跡見91-93 異種〕    奥付「画工 口絵出像 前北斎卍老人 出像 一勇斎国芳 玉蘭斎貞秀 柳川重信 一陽斎豊国」    緑亭川柳編 山口屋藤兵衛板 嘉永二年正月刊    ◯「読本年表」〔目録DB〕(嘉永二年刊)    柳川重信二代画『開巻驚奇俠客伝』五集 柳川重信二世画 蒜園主人作    ◯「【俳優画師】高名競」嘉永二年刊(『浮世絵』第十八号  大正五年(1916)十一月刊)   (国立国会図書館デジタルコレクション)(21/25コマ)   (番付西方)最上段    〝兼ル 一勇斎国芳 景色 一立斎広重 櫓下 鳥居清満  画本 柳川重信 合巻 玉蘭斎貞秀〟    〈この重信は二代目〉  ◯『増補 私の見た明治文壇1』「稗史年代記の一部」所収、嘉永二年刊『名聞面赤本』p148   (野崎左文著・原本1927年刊・底本2007年〔平凡社・東洋文庫本〕)   〝 精出せと清書見せたりはなの兄         柳川重信    魯曰、こは二代目重信にて曲亭翁が八犬伝第九輯以下の挿画に名あれど其姓氏住所歿年を詳(ツマビラ)か    にせず。〔追補〕この重信は初号重山(ヂウザン)又雪蕉(セツセウ)、通称谷城季(ヤギキ)三太字は子義(シギ)、    初代重信の高弟にして師の歿後、其名を襲(ツ)ぎて二世となれり、曲亭翁が著作俠客伝第二輯の挿画を    作るに当つて師の重信病(ヤマヒ)革(アラタ)まりし為め重山代りて之の画き又八犬伝終巻のさし画を描きた    るは前章の如〟    〈仮名垣魯文は嘉永元年和堂珍海から英魯文へと改名した。『名聞面赤本』はそれを披露するため諸家から狂歌・発句     を集めて配った小冊摺物で、嘉永二年春の刊行。「魯」は仮名垣魯文。魯文は歌や句を寄せた戯作者・絵師の小伝を     記している。〔追補〕は野崎左文が後年追考補注したもの〉
   〈野崎左文の「仮名垣魯文伝」によると、この摺本、本来は嘉永元年(1848)の頒布を予定していたが、資力不足で延引、     刊行は同二年の春の由。したがってこの句は弘化四年頃の詠と思われる。(明治28年2月刊『早稲田文学』81号所収)     2017/11/13追記〉
   ☆ 嘉永三年(1850)    ◯「絵本年表」〔漆山年表〕(嘉永三年刊)    歌川国直画    『義士肖像賛詞』文晁 北渓〔「葵」「岡」印〕蹄斎〔「北」「馬」印」秀旭斎蘭暎〔「政直」印〕            法橋雪旦画〔「長谷川」印〕武清筆〔「可庵」印〕後素園写国直 柳川重信他筆    ◯「読本年表」〔目録DB〕(嘉永三年刊)    柳川重信二代画『平将門退治図会』北斎為一・柳川重信二世・玉蘭斎貞秀画 中村定保編    ◯「【高名時花】三幅対」(番付・嘉永三年五月刊『日本庶民文化史集成』第八巻所収)   (上から三段目、東筆頭から二番目)    〝招画 ムロ丁 鳥井(ママ)清満 ・画工 ネギシ 柳川重信 ・山水 アカサカ 葵岡北渓〟    〈招画は招牌画で看板絵、芝居看板の鳥居清満は日本橋室町住。根岸の柳川重信は二世重信。赤坂住魚屋北渓の「山     水」とは漢画の山水ではなく、現在の風景画に近いニュアンスなのだろう〉    ☆ 嘉永四年(1851)    ◯「読本年表」〔目録DB〕(嘉永四年刊)    柳川重信二代画    『敵討勝山草紙』 柳川重信画   花笠京英作    『仙蛙奇録』初輯 柳川重信二世画 桜井某作    ☆ 嘉永五年(1852)    ◯「読本年表」〔目録DB〕(嘉永五年刊)    柳川重信二代画『絵本烈戦功記』前編 柳川重信二世画 小沢東陽作    ◯『大日本近世史料』「市中取締類集 二十」p226(東京大学史料編纂所編・1992年刊)   (「書物錦絵之部」・嘉永五年(1852)五月付)   〝【日夜必用】群玉大雑書万宝選 壹冊   本石町貳丁目半次郎店      大坂京町堀貳丁目           書物問屋      錦屋勝次郎事 柳園種春著      願人 大助(英屋)〟    〈これは町年寄・館市右衛門が江戸町奉行に提出した書付で、柳園種春著『【日夜必用】群玉大雑書万宝選』の「彫刻     売弘」許可を、板元・英屋大助が願い出たもの。「日本古典籍総合目録」を見ると、往来物『国宝大雑書万宝選』と     あり、嘉永六年成立・柳川重信二世画とある。なぜ上記願書に画工名がないのであろうか〉    ☆ 嘉永六年(1853)    ◯「読本年表」〔目録DB〕(嘉永六年刊)    柳川重信二代画『絵本呉越軍談』柳川重信画 池田正韶(東籬)作    ☆ 安政元年(嘉永七年・1854)    ◯「読本年表」〔目録DB〕(安政元年刊)    柳川重信二代画『仙蛙奇録』二輯 柳川重信二世画 為永春水二世作    ☆ 安政二年(1855)    ◯「読本年表」〔目録DB〕(安政二年刊)    柳川重信二代画『絵本烈戦功記』後編 柳川重信二世画 小沢東陽作    ☆ 安政三年(1856)    ◯「絵本年表」〔漆山年表〕(安政三年刊)    柳川重信画    『柳川画譜』花鳥之部 一冊 柳川重信筆 静廬序   平林庄五郎     同    山水之部 一冊 同筆    竹の舎序  同板     同    獣之部  一冊 同筆    小楊主人序 同板    ◯「読本年表」〔目録DB〕(安政三年刊)    柳川重信二代画    『善知安方忠義伝』三編 重信二世画 松亭金水作    『太平記図会』  二編 柳川重信・岩瀬広隆 堀経信作    ☆ 安政五年(1858)    ◯「読本年表」〔目録DB〕(安政五年刊)    柳川重信二代画『仙蛙奇録』三輯 柳川重信二世画 為永春水二世作    ☆ 安政年間(1854~1859)    ◯「絵本年表」〔漆山年表〕(安政年間刊)    柳川重信二代画『器財集』一冊 一勇斎国芳 渓斎英泉 柳川画 梅ノ屋撰    ◯「絵入狂歌本年表」〔狂歌書目〕(安政年間刊)    柳川重信画『狂歌器財集』一冊 柳川重信画 梅農屋鶴子編 本町連版    ☆ 万延元年(安政七年・1860)    ◯「読本年表」〔目録DB〕(万延元年刊)    柳川重信二代画『善知安方忠義伝』三編 重信二世画 松亭金水作    ◯「日本古典籍総合目録」(万延元年刊)   ◇狂歌    柳川重信画『五十瀬作楽』一冊 柳川重信 三村春門画 五十瀬廼屋津葉丸斎編    ☆ 文久二年(1862)    ◯「絵本年表」〔漆山年表〕(文久二年刊)    柳川重信二世画『宮川漫筆』前編 柳川重信画図 宮川政運著 三笠堂板    ☆ 刊年未詳    ◯「艶本年表」〔日文研・艶本〕(刊年未詳)    柳川重信二世画『艶画四季時計』錦絵 大判 十二枚 序「飯寄好成題」    ☆ 没後資料    ☆ 文久二年(1862)    ◯『宮川舎漫筆』〔大成Ⅰ〕⑯242(宮川政運著・文久二年刊)   〝宮川舎政運著/徳斎原義補訂/柳川重信画図   宮川舎漫筆 【前編五巻】     文久二壬戌年新刻 江都 三笠堂蔵梓〟  ☆ 明治十四年(1881)  ◯「国立国会図書館デジタルコレクション」(明治十四年刊)   ◇絵本    柳川重信画『柳川漫画』1-5編 柳川重信 万笈閣(3月)〈3編に安政3年の序あり〉    ◯『葛飾北斎伝』p317(飯島半十郞(虚心)著・蓬枢閣・明治二十六年(1893)刊)    ※ 〈 〉は本HPの注記   〝〈天保三年十一月、初代柳川重信死す〉子なし。門人重山【博覧家志賀理斎の男、俗称谷城季三太】養    子となりて、家を継ぐ。重信の病むや、馬琴作の『俠客伝』二編、五巻の二丁を画きて、死したれば、    重山あとを継ぎ、画きたり。重山の画、彩色摺にて、小枝繁作の「藤袴」といへる絵本あり〟    ◯『浮世絵備考』(梅本塵山編 東陽堂 明治三十一年(1898)六月刊)   (国立国会図書館デジタルコレクション)(70/103コマ)   〝二世 柳川重信【文政元~十二年 1818-1829】    通称谷城季三太、重信の門弟にて、初号重山、馬琴が『侠客伝』二編五巻の末二枚は、師の重信画き終    らずして、病の重りし為めい、重山続きてこれを画けり、又『藤袴』といふ絵本を画けりとぞ。志賀理    斎の男なり〟  ◯『浮世画人伝』(関根黙庵著・明治三十二年(1899)刊)   ◇「葛飾北斎系譜」p121
   「葛飾北斎系譜」〝二世 重信(初代重信門人)初名重山〟    ☆ 昭和年間(1926~1987)    ◯『狂歌人名辞書』p98(狩野快庵編・昭和三年(1828)刊)   〝柳川重信(二代)、通称谷城季三太、字は子義、初号重山、初代重信門人にして、志賀理斎の三男なり    と云ふ、嘉永頃の人、歿年未詳〟    ◯『浮世絵師伝』p82(井上和雄著・昭和六年(1931)刊)   〝重信 二代    【生】  【歿】  【画系】初代柳川重信門人  【作画期】文政~天保    柳川を称し、初め重山と号す、谷城(一に代)氏、名は重信、字は子儀、俗称季三太、別号を雪蕉斎・    松影といふ、実は志賀理斎の三男なり、谷中天王寺北に居住せり。文政六年版『絵本ふぢばかま』(重    山)・天保八年版『理斎隨筆』挿画(重信)〟    ◯『浮世絵年表』(漆山天童著・昭和九年(1934)刊)   ◇「天保七年 丙申」(1836)p215   〝四月、国貞・国直・北馬・国芳・柳川重信・北渓・武清等の挿画に成る『とふの菅薦』出版。      ◇「天保八年 丁酉」(1837)p216   〝正月、北斎・柳川重信・北雅等の挿画に成れる『日光山志』出版〟     ◇「天保一〇年 己亥」(1839)p218   〝三月、柳川重信の画ける『名数狂歌集』出版〟     ◇「安政三年 丙辰」(1856)p235   〝二月、柳川重信(二代)の『柳川画譜』三冊出版〟    ◯「集古会」第二百四回 昭和十一年一月(『集古』丙子第二号 昭和11年3月刊)   〝和田千吉(出品者)柳川重信筆 鼠の絵 一枚 重信画譜之部の内 乙卯初春 収文堂板    〈乙卯は安政2年『柳川画譜』か〔国書DB〕は安政3年序とする〉  △『増訂浮世絵』p239(藤懸静也著・雄山閣・昭和二十一年(1946)刊)   〝二代重信    柳川を称し、初め重山と号し、重信の門人で二代目重信を名乗つた。志賀理斎の三男である。字は子儀、    俗称は季三太、別号を雪焦斎、松影といふ〟    ◯「日本古典籍総合目録」(国文学研究資料館)   〔柳川重信二世画版本〕    作品数:35点(「作品数」は必ずしも「分類」や「成立年」の点数合計と一致するとは限りません)    画号他:重山・柳川重山・重信・重信二世・柳川重信・艶川好信・谷城柳川    分 類:狂歌11・読本11・人情本4・艶本2・往来物2・絵本1・伝記1・実録1・絵画1    成立年:文政7・9年(3点)        天保3~8・10・15年(18点)        弘化以降  (1点)        嘉永2~7年(8点)        安政2~3・5年(4点)(安政年間合計5点)        万延1年  (2点)   (重山名の作品)    作品数:3点    画号他:柳川重山    分 類:人情本2・読本1    成立年:文政9年  (2点)        天保3~4年(1点)   (谷城柳川名の作品)    作品数:1点    画号他:谷城柳川    分 類:狂歌1    成立年:文政7年   (艶川好信名の作品)    作品数:2点    画号他:艶川好信    分 類:艶本2    成立年:天保3年頃(1点)        弘化以降 (1点)    (重信名の作品)    作品数:29点    画号他:重信・重信二世・柳川重信    分 類:狂歌10・読本10・人情本2・往来物2・絵本1・伝記1・実録1    成立年:天保4~8・10・15年(16点)        嘉永2~7年 (8点)        安政2~3・5年(4点)(安政年間合計5点)        万延1    (2点)