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☆ しげのぶ やながわ 柳川 重信浮世絵師名一覧
〔 ? ~ 天保3年(1832)閏11月28日・46歳〕
(雷斗参照)
 〈没年月日は曲亭馬琴の殿村篠斎宛書翰(天保3年12月8日付)による。☆天保三年の項参照〉  ※①〔目録DB〕〔国書DB〕:「日本古典籍総合目録」「国書データベース」国文学研究資料館   ②〔早稲田〕 :『早稲田大学所蔵合巻集覧稿』    ⑤〔東大〕  :『【東京大学/所蔵】草雙紙目録』    〔中本型読本〕 :「中本型読本書目年表稿」     〔江戸読本〕:「江戸読本書目年表稿(文化期)    〔漆山年表〕:『日本木版挿絵本年代順目録』 〔狂歌書目〕:『狂歌書目集成』    〔日文研・艶本〕:「艶本資料データベース」 〔白倉〕  :『絵入春画艶本目録』     角書は省略。①~⑥は「合巻年表」の出典。◎は表示不能文字  ☆ 文化二年(1805)     ◯「絵本年表」(文化二年刊)    柳川重信画『狂歌五手船』柳川重信画 芍薬亭等編 ①    ☆ 文化九年(1812)    ◯「合巻年表」(文化九年刊)    柳川重信画『京一番娘羽子板』柳川重信画 柳亭種彦作 西与板 ①     ☆ 文化十年(1813)    ◯「合巻年表」(文化十年刊)    柳川重信画    『鼻木討誓羽団扇』「柳川重信画」竹塚東子作 西与板 ②    『春霞布袋本地』 「柳川重信画」柳亭種彦作 西与板 ②    『早便梅川物語』 「柳川重信画」山東京伝作 西与板 ⑤    『錦帯准無間』  「柳川重信画」柳亭種彦作 西与板 ①    ◯「読本年表」(文化十年刊)    柳川重信画『綟手摺昔木偶』柳川重信画 柳亭種彦作〔江戸読本〕    ◯『馬琴書翰集成』⑥323「文化十年刊作者画工番付断片」(第六巻・書翰番号-来133)
   「文化十年刊作者画工番付断片」    〈書き入れによると、三馬がこの番付を入手したのは文化十年如月(二月)のこと〉    ☆ 文化十一年(1814)    ◯「合巻年表」(文化十一年刊)    柳川重信画    『梅若丸花の一つ家』歌川国直・柳川重信画 東西庵南北作 板元未詳 ①    『信夫売対婦理袖』「柳川重信画」山東京山作  西与板  ⑤    『堀川歌女猿曳』 「柳川重信画」柳亭種彦作  西与板  ②    『忠臣蔵跡祭』  「柳川重信画」十返舎一九作 鶴喜板  ⑤    『梅川物語』    柳川重信画 山東京山作  板元未詳 ①    ◯「読本年表」(文化十一年刊)    柳川重信画『南總里見八犬傳』初輯 柳川重信画 曲亭馬琴作〔江戸読本〕    〈大長編の始まり〉    ☆ 文化十二年(1815)    ◯「合巻年表」(文化十二年刊)    柳川重信画『赫奕媛竹節話説』柳川重信画 曲亭馬琴作 岩戸屋板 ①    ◯「絵入狂歌本年表」(文化十二刊)    柳川重信画『狂歌水滸伝画像集』一冊 柳川画 西来居未仏等撰〔目録DB〕    ☆ 文化十三年(1816)    ◯「合巻年表」(文化十三年刊)    柳川重信画    『黄金花万宝全書』「画僕人 柳川重信画」山東京伝作 岩戸屋板 ①⑤     「十四ウ~十五オ」「此処 柳川重政画」「二十八ウ~二十九オ」「門人柳川重政画     (備考、文化三年鶴喜板『敵討両輌車』北尾重政画の改題改作本とする)    『花紅葉一対若衆』「柳川重信画」柳亭種彦作  西与板 ⑤    『女模様稲妻染』 「重信画」  柳亭種彦作  西与板 ①    『紅染女達磨』  「歌川重信画」東西庵南北作 西与板 ①    『梅桜対権八』  「柳川重信画」東西庵南北作 西宮新 ①    ◯「読本年表」(文化十三年刊)    柳川重信画『南總里見八犬傳』第二輯 柳川重信画 曲亭馬琴作〔江戸読本〕    ◯『柳亭種彦日記』p166 文化十三年閏八月廿六日   〝夜柳川子来ル、将棊段画皆出来〟    〈『【山崎余次兵衛将棊段】忠ト孝義理詰物』(種彦作・柳川重信画・文化十四年刊)〉    ☆ 文化十四年(1817)    ◯「合巻年表」(文化十四年刊)    柳川重信画    『高野山万年草紙』「柳川画」「柳川重信画」柳亭種彦作 岩戸屋板 ②    『鳴戸越出世嶋鯛』「柳川重信画」東西庵南北作 西宮新板 ①    『忠ト孝義理詰物』「柳川重信画」柳亭種彦作  西与板  ①    『吾妻花娘◎』  「柳川画」「柳川重信画」山東京山作 丸甚板 ②     〈◎は「気+形」読みは「カタギ」舩舩〉    『昔唄猿狂言』  「画僕人柳川重信」山東京山作 泉市板 ⑤    『契情畸人伝』  「柳川重信画」  式亭三馬作 森治板 ①    ◯「日本古典籍総合目録」(文化十四年刊)   ◇滑稽本    柳川重信画『願懸注文帳』一冊 柳川重信画 東西庵南北作    ☆ 文化年間(1804~1817)
 ◯『増訂武江年表』(斎藤月岑著・嘉永元年脱稿・同三年刊)   (「文化年間記事」)2p58   〝浮世絵 葛飾戴斗、歌川豊国、同豊広、同国貞、同国丸、蹄斎北馬、鳥居清峯、柳々居辰斎、柳川重信、    泉守一(渾名目吉)、深川斎堤等琳、月麿、菊川英山、勝川春亭、同春扇、喜多川美丸。     筠庭云ふ(中略)重信は至つて後輩なり〟    ☆ 文政元年(文化十五年・1818)    ◯「読本年表」(文政元年刊)    柳川重信画『犬夷評判記』柳川重信画 曲亭馬琴答述〔目録DB〕    ☆ 文政二年(1819)    ◯「絵暦年表」(本HP・Top)(文政二年)   「重信〔柳川〕印」(兎と金太郎)狂歌賛〈絵暦、兎図・扇子に小の月を示す紋様〉   (「鴨川市所蔵 藤沢衛彦コレクション 摺物 江戸の風雅な年賀状」展カタログ 156)    ◯「読本年表」(文政二年刊)    柳川重信画『南総里見八犬伝』三輯 柳川重信画 曲亭馬琴作〔目録DB〕    ☆ 文政三年(1820)    ◯「合巻年表」(文政三年刊)    柳川重信画    『三人若衆独権八』「柳川重信画」東西庵南北作 丸甚板 ①    『浅間嶽煙之姿絵』「柳川重信画」柳亭種彦作  西与板 ①    『合三国小女郎狐』「柳川重信画」柳亭種彦作  丸文板 ①    『南色梅早咲』  「柳川重信画」柳亭種彦作  鶴金板 ④    ◯「読本年表」(文政三年刊)    柳川重信画『南総里見八犬伝』四輯 柳川重信画 曲亭馬琴作〔目録DB〕    ◯「咄本年表」(文政三年刊)    柳川重信画『生鯖船』柳川重信画 玉紅楼一泉作 西与板〔目録DB〕    ☆ 文政四年(1821)    ◯「合巻年表」(文政四年刊)    柳川重信画    『宝寿玉岩井模様』「柳川重信画」表紙 豊国画 東西庵南北作 丸甚板  ④    『安達原男一軒家』 歌川国直・柳川重信画   東里山人作  板元未詳 ①    ☆ 文政五年(1822)    ◯「合巻年表」(文政五年刊)    柳川重信画『傾城草履討』「柳川重信画」表紙「国貞・柳川画」東西庵南北 西宮新板 ⑤    ◯『著作堂雑記』246/275(曲亭馬琴・文政五年記)   〝こゝろは直かるべく、かたちは常盤なるべく、行ひは一ふしあるべし、上見ぬ為の笠、ころはぬ先の杖、    唯この君をのみ友とすれば、清風耳にみちて、秀色目にあり【壬午四月二十八日画工柳川画】      うち霞む門の柳のけぶりより           もゆるともなき庭のくれ竹〟    〈柳川重信画は竹の図か〉    △『増訂浮世絵』p204(藤懸静也著・雄山閣・昭和二十一年(1946)刊)   〝浪花錦絵と柳川重信の系統    北斎の門下で有名な柳川重信が、文政五年頃に長くはなかつたのであるが、大坂に滞在して役者絵の類    を作つた。大坂版で東都柳川重信と署名してゐるものがある。当時は大坂に江戸風の錦絵の流行した時    であつたから、重信の大坂滞在は、浪花錦絵に大きな影響を与へたのである。従つて来り学ぶものがあ    つて重春、雪信、国直の如きはその門下と思はれるものであり(云々)〟
   「柳川重信の大坂系図」    ☆ 文政六年(1823)     ◯「絵本年表」(文政六年刊)    柳川重信画『狂歌五十人一首』一冊 柳川重信画 紀乎佐丸編 田宮楼藏板〔漆山年表〕    ◯「読本年表」(文政六年刊)    柳川重信画『南総里見八犬伝』五輯 柳川重信・渓斎英泉画 曲亭馬琴作〔目録DB〕    ◯「絵入狂歌本年表」(文政六年刊)    柳川重信画『狂歌五十人一首』一冊 柳川重信画 紀乎佐丸編 大坂 田家楼〔狂歌書目〕    〈〔目録DB〕には団字楼蔵。(彫摺工)浪花居(末武朝倉宇八郞門人)谷清好とあり〉      ◯『馬琴書翰集成』①136 文政六年正月九日 殿村篠斎宛(第一巻・書翰番号-23)   〝(『南総里見八犬伝』の出版について、版元と彫師にトラブルがあって)人を以板木とり戻し、外へ誂    候へども、昨冬十一月比の事ニ候へバ、諸方ニて受取不申候。埒もなき仁ニほらせ候上、只管ニ急ギ候    ニ付、甚しくほり崩し、一向よめぬ様ニしちらし申候。其上、画工柳川ハ、当春より上京ニて、四の巻    より末は、いまだ画も出来不申候。去冬十月に及び、画工英泉に画せ、絵ハ早速出来致候得ども、板木    之方、右之仕合故、画も甚しくほり崩し申候〟    〈これは「八犬伝」の五輯のトラブル。挿絵は柳川重信他に渓斎英泉が担当した。重信の上京は文政五年春〉    ☆ 文政七年(1824)    ◯「読本年表」(文政七年刊)    柳川重信画    『絵本雙忠録』柳川重信画 池田東籬亭作〔目録DB〕    『明月夜話』 柳川重信画 畠山保躬作〔目録DB〕    ☆ 文政八年(1825)    ◯「読本年表」(文政八年刊)    柳川重信画『月桂新話』柳川重信・葛飾北明画 栗杖亭鬼卵作〔目録DB〕      ☆ 文政九年(1826)     ◯「艶本年表」(文政九年刊)    柳川重信画『からくり十二段』小錦 十二枚組物 文政九年〔白倉〕     (白倉注「名所巡り。大木戸、たかなわ、王子、浅草、不忍、飛鳥山、あたご、双か岡、両国、潮浜、他二図」  ☆ 文政十年(1827)     ◯「絵本年表」(文政十年刊)    柳川重信画    『狂歌人物誌』一冊 柳川重信画 芍薬亭序 菅原連蔵板〔漆山年表〕    『狂歌毛毬俵』初編 柳川画 朝艸庵門人富山 月夜房持前気成輯 紅屋伝兵衛板〔漆山年表〕    ◯「読本年表」(文政八年刊)    柳川重信画『南総里見八犬伝』六輯 柳川重信・渓斎英泉画 曲亭馬琴作〔目録DB〕    ◯「絵入狂歌本年表」(文政十年刊)    柳川重信画    『狂歌百人一首』一冊 柳川重信画 西来居未仏編〔目録DB〕    『狂歌人物誌』 二冊 柳川重信画 芍薬亭撰 菅原連他〔狂歌書目〕    『文政歌集』  一冊 柳川重信画 西来居未仏編〔目録DB〕    ◯「文政十年丁亥日記」①208 十月廿三日(『馬琴日記』第一巻)   〝美濃屋甚三郎来ル。八犬伝五之巻画割、被為成御渡候。柳川方ぇ持参致旨、依申也。無程、帰去〟    〈美濃屋甚三郎は『南総里見八犬伝』の板元。柳川重信が挿画を担当していた〉    ☆ 文政十一年(1828)      ◯「文政十一年戊子日記」①419 十月十日(『馬琴日記』巻一)   〝松前老侯御使太田九吉来ル。予、対面。此節元古地ニて、牧士并ニ蝦夷馬上炮打ならひ、専熊ヲ捕候ニ    付、右之図柳川ニ画せ、かけ物出来、予、見せ候様被申付候趣、被伝之〟    〈松前老侯は松前道広。長子宗伯は同藩出入の医師。松前老侯と交際はその縁によるもの。柳川は柳川重信。蝦夷地で     の熊捕獲図を掛け軸にしたものらしい。しかし十月十二日の記事には〝北馬画松前ウズ牧士と蝦夷と騎炮ニて熊ヲ打     図〟とあり、こちらは北馬がとなっている。いずれが是か非か〉     ☆ 文政十二年(1829)    ◯「絵入狂歌本年表」(文政十二年刊)    柳川重信画    『狂歌水滸画伝集』一冊? 柳川重信画 琴樹園二喜編(文政一二石川雅望序)〔目録DB〕    『狂歌水滸伝集』 一冊 柳川重信画 芍薬亭長根編〔目録DB〕       ◯「日本古典籍総合目録」(文政十二年刊)   ◇狂歌    柳川重信画『狂歌水滸伝集』一冊 柳川重信画 芍薬亭長根編〔目録DB〕    ☆ 文政年間(1818~1829)    ◯「絵入狂歌本年表」(文政年間刊)    柳川重信画    『狂歌水滸画像集』二冊 柳川重信画 秋長堂撰 岡田屋嘉七板〔目録DB〕    『狂歌人名録』後編一冊 柳川重信画 西来居未仏編  〔目録DB画像〕    『狂歌美人集』  一冊 柳川重信画 芍薬亭編 琴樹園〔狂歌書目〕    『美人歌僊集』  一冊 柳川重信画〔目録DB〕     ☆ 天保元年(文政十三年・1830)    ◯「絵本年表」(天保元年刊)    柳川重信画    『狂歌百千鳥』一冊 柳川重信 芍薬亭序 臥龍園撰 琴樹園蔵板〔漆山年表〕〔目録DB〕    ◯「読本年表」(天保元年刊)    柳川重信画『南総里見八犬伝』七輯 柳川重信画 曲亭馬琴作〔目録DB〕    ◯「百人一首年表」(本HP・Top)(天保元年刊)    柳川重信『狂歌百千鳥』画帖 色摺美人画 柳川重信画 芍薬亭序    巻末「文政十三年庚寅正月発行 琴寿園蔵版」〔跡見1927〕    (〔目録DB〕の識語「文政十三年春新刻・撰臥竜園・画柳川重信・江戸琴樹園蔵」)    〈尾崎久弥の識語〉    ◯「絵入狂歌本年表」(天保元年刊)    柳川重信画『狂歌百千鳥』一冊 重信画 臥竜園編 琴樹園〔狂歌書目〕    ◯「日本古典籍総合目録」(天保元年刊)   ◇狂歌    柳川重信画『狂歌水滸画伝集』柳川重信画 琴樹園二喜編(文政十三年秋、芍薬亭序)〔目録DB〕    ◇人情本    柳川重信画『寝覚繰言』三~五編 柳川重信画 為永春水画    ◯『俗曲挿絵本目録』(漆山又四郎著)    柳川重信画?    『第二番目九変化』(常盤津)重信風画 勝俵蔵・松本幸二作 伊賀屋板〔文政13/03/11〕    〈漆山又四郎は「重信風」と保留している。〔~〕は立命館大学アート・リサーチセンター「歌舞伎・浄瑠璃興行年表」     の上演データ〉    ◯「艶本年表」(天保元年刊)    柳川重信画『天野浮橋』色摺 大本 三冊 天保元年〔日文研・艶本〕          序「大門口より見わたせば寅の年なり 出多羅坊 運突著」          序「応好席上 艶本大道具の元祖 猿猴坊月成」          2冊2図「一開斎好信画」    ☆ 天保二年(1831)    ◯「絵本年表」(天保二年刊)    柳川重信画『玉撰狂歌集』一冊 柳川重信画 鶴廼や・泥田坊撰 北窓藏板〔漆山年表〕    ◯「天保二年辛卯日記」②420 八月十八日(『馬琴日記』第二巻)   〝丁子屋平兵衛同道にて、画工柳川来ル(中略)右八犬伝八編、近々稿にとりかゝり候ニ付、右さし絵、    此度は柳川一人に画せ度よし。過日、平兵衛申といへ共、先年不落着のいたし方、度々有之候ニ付、一    応面談にて、ともかくも可致旨、丁平へ申聞置候間、今日同道のよし也。依之、右の趣かけ合に及び、    無滞画き可申旨、うけ合候に付、其趣に治定し畢〟    〈『南総里見八犬伝』七輯の画工は柳川重信と渓斎英泉が担当。八輯は柳川重信が単独で当たる。英泉がはずされたの     は板元丁子屋平兵衛の意向のようだが、どんな事情があったのであろうか。もっとも、重信の方にも問題があった、     板元同道の上で遅滞無く画くことを約束しているところをみると、「不落着のいたし方」とは、遅筆による一悶着で     もあったのかもしれない〉    ◯「天保二年辛卯日記」②440 九月十三日(『馬琴日記』第二巻)   〝(『近世説美少年録』)三之巻さし画の内、稿本とぢかひ以前、五郎書写候処有之、当書林年番、北し    ま長四郎、かれ是やかましく申ニ付、入木直し致させ可哉之旨、申之。その意ニ任せ、右之処斗入木い    たし候様、示談。画かき直しの注文、図之直シ、今夕持参の三之巻、右の画の処へ朱を入レ、丁平(丁    子屋平兵衛)ニわたし遣ス。画工、北渓にては埒明かね可申候間、柳川ニ画き直させ候つもり、示談〟    〈結局、柳川重信の起用はなく全て北渓が担当した〉      ◯「天保二年辛卯日記」②447 九月廿二日(『馬琴日記』第二巻)   〝画工柳川重信来ル。俠客伝表紙板下、墨がき致し、持参、見せらる。いろさし等相談之上、丁子やへ持    参、平兵衛ニのみこませ、今夕、大坂ぇ登せ可然旨、并に、俠客伝一の巻出来候間、今夕、人差越候様、    伝言たのミ遣ス。右用談畢て、帰去。柳川、手みやげ、被贈之〟    〈『開巻驚奇俠客伝』の挿画、柳川重信の担当は第二輯。初輯(天保三年正月刊)は渓斎英泉が担当した〉    ◯「天保二年辛卯日記」②496 十二月二日(『馬琴日記』巻二巻)   〝画工柳川重信来ル。予、対面。八犬伝八輯一の巻さし画二丁出来、持参〟    ◯「天保二年辛卯日記」②499 十二月七日(『馬琴日記』巻二巻)   〝画工柳川重信来ル。予、対面。八犬伝八輯壱・弐の巻の内、さし画弐丁出来、見せらる。丁字やぇ持参    のよしニ付、稿本差置、見本はわたし遣ス。寒中見舞として、手拭二、被贈〟    ☆ 天保三年(1832)(閏十一月廿八日没・四十六歳)    〈忌日は『馬琴書翰集成』②265 天保3年12月8日 殿村篠斎宛(第二巻・書翰番号-63)参照〉    ◯「絵本年表」(天保三年刊)    柳川重信画    『今様源氏狂歌合』一冊 柳川重信画 千種庵諸持序 臥竜園跋〔漆山年表〕    『狂歌劇場百首』 一冊 柳川重信画 芍薬亭撰 菅原連蔵板〔漆山年表〕    『狂歌花街百首』 二冊 柳川重信画 芍薬亭撰 菅原連蔵板〔漆山年表〕    ◯「読本年表」(天保三年刊)    柳川重信画『南総里見八犬伝』八輯上 柳川重信画 曲亭馬琴作〔目録DB〕    ◯「日本古典籍総合目録」(天保三年刊)   ◇人情本    柳川重信画『春色梅暦』初・二編 重信・重山画 教訓亭主人作    ◯「絵入狂歌本年表」(天保三年刊)    柳川重信画    『狂歌花街百首』二冊 柳川重信画 芍薬亭長根編    〔目録DB〕    『狂歌戯場百首』一冊 重信画   芍薬亭・琴樹園編  〔目録DB〕    『俳諧歌古新集』二冊 重信画   俳諧堂撰 国字垣社中〔狂歌書目〕    『狂歌今様源氏』一冊 重信画   青雲亭撰      〔狂歌書目〕    『兼題恋百首』 一冊 重信画   芍薬亭撰 菅原連  〔狂歌書目〕    『狂歌広陵集』 二冊 重信?   芍薬亭詠 菅原連  〔狂歌書目〕    ◯「百人一首年表」(本HP・Top)(天保三年刊)    柳川重信画『狂歌劇場百首』色摺挿絵 柳川重信画 芍薬亭長根序・撰〔目録DB〕〔跡見222〕    奥付「于時天保三壬辰仲秋 菅原連蔵/輯者 琴樹園二喜」    〈画工名未確認。〔跡見〕は書誌のみで、重信のほかに英泉画とする〉    ◯「艶本年表」(天保三年刊)    柳川重信画    『恋のかけはし』色摺 半紙本 三冊「艶川好信画」野暮天正銘序 好色山人(花笠文京)作 天保三年〔白倉〕     (白倉注「序「吾嬬風流後編 恋の桟橋」本文題「戯場眺望後日」、国芳画『当世吾妻婦理』の後編である」)    『艶本極楽遊』 色摺 半紙本 三冊 女好庵主人(松亭金水)作 天保三年頃〔白倉〕    『柳の嵐』(仮題)大錦 十二枚組物 淫蕩山人序 天保三年頃〔白倉〕     (白倉注「重信唯一の組物だが、唐人、異人のカップルが出てきたりと、意欲的な趣向の目立つ傑作」)  ◯『春色梅児誉美』(柳川重信画・為永春水作)   ◇人情本(天保三年刊)   (為永春水自序)   〝この三四年の災厄も、やゝ解そむる薄氷、春水四澤にみつるといふ、時をゑがほや花の兄、文永堂の引    立に、柳川重信画(ルビねぎしのふで)の愛敬で、何卒あたれ大当(ルビおおあたり)〟    〈「亀戸」と云えば五渡亭国貞を指す、同様に根岸住の柳川重信もまた「ねぎしのふで」と呼ばれていた〉  ◯「天保三年壬辰日記」③16 正月十六日(『馬琴日記』第三巻)   〝画工柳川来ル。余、対面。とし玉二種持参。八犬伝八輯、二の巻さし画遣り二丁出来、見せらる〟    ◯「天保三年壬辰日記」③26 二月朔日(『馬琴日記』第三巻)   〝(宗伯を以て)根岸画工柳川重信方へ、年賀礼ニ立寄候様、申付、とし玉二種もたせ遣ス。依之、柳川    方へ立寄、夕七時前帰宅〟    〈この年、浮世絵師の中で、馬琴と年賀の礼を交わしたのは柳川重信だけである〉    ◯「天保三年壬辰日記」③33 二月十二日(『馬琴日記』第三巻)   〝八犬伝八輯三の巻さし画、旅人馬上之図、右旅人きせるを持居候ニ付、きせるハ不宜候。扇ニ画キ直さ    せ候様、申遣ス〟    〈版本は確かに扇になっている。「八犬伝」の時代設定に煙草も煙管も存在しないからである〉     ◯「天保三年壬辰日記」③36 二月十七日(『馬琴日記』第三巻)   〝画工柳川重信来ル。八犬伝八輯四の下さし画の壱、一枚出来、見せらる。是より、板元丁子やぇ罷越候    よしニ付、右さし画直ニわたし遣ス。柳川手みやげ二種、被送之〟      ◯「天保三年壬辰日記」③55 三月十一日(『馬琴日記』第三巻)   〝画工柳川重信来ル。予、対面。手みやげ、被贈之。且、八犬伝八輯四の下残り画写本、并ニふくろ画写    本出来、見せらる。是より板元へ持参のよし、稿本もそのまゝさし添遣す〟    ◯「天保三年壬辰日記」③70-71 四月五日(『馬琴日記』第三巻)   〝画工柳川重信来ル。予、対面。右ハかねて頼置候根岸ニ売地面有之、百坪弱ニて、代金百両のよし。六    十両ニつけ候もの有之候へ共、未売場所は比丘尼寺辺ニて、不宜候へ共、望も有之候ハヾ、一覧いたし    候様、被申之。いづれ一両日中、宗伯可遣旨、及約束、則、帰去。柳川、此節脚気ニて休筆、右ニ付、    八犬伝さし画、出来かね候よし也〟     〝(宗伯)柳川方へ罷越、右売地、一覧可致之処、売主他行ニ付、来ル八日ニ可罷越よし、やくそくいた    し候よし也〟    〈文政十二年(1829)の根岸転居騒動以降、馬琴の移住願望は沈静化したかに見えるが、〝かねて頼置候〟という書きぶ     りから想像すると、依然として意欲は継続していたのである。馬琴が頼りとしたのは、前回あれほど熱心に動いた英     泉ではなく、今回は柳川重信であった。当時、重信は根岸大塚村に住んでいた。その関係であろうか。それにしても、     重信の脚気、休筆するほどであるからひどい病状なのであろう〉      ◯「天保三年壬辰日記」③71 四月六日(『馬琴日記』第三巻)   〝丁子や平兵衛来ル(中略)是より根岸柳川方へ罷越候間、さし画壱丁ヅヽも方便を以、画せ候様、示談〟    〈柳川重信の「八犬伝」挿絵またまた滞りがちになったようである〉     ◯「天保三年壬辰日記」③72 四月八日(『馬琴日記』第三巻)   〝宗伯、根岸柳川重信方へ罷越、同人紹介の売地面一見いたし、夕七時比帰宅〟    ◯「天保三年壬辰日記」③73 四月九日(『馬琴日記』第三巻)   〝(宗伯)昨日根岸へ罷越、柳川口入之売地一見いたし候処、七畳の間一ヶ所母屋ニて、外ハ茶ノ湯坐敷    のみニて、住居になりかね候よし(中略、もう一件、別人口入れの売家の記事あり)先見合せ候様、談    じおく〟    ◯『馬琴書翰集成』②122 天保三年四月二十六日 小津桂窓宛(第二巻・第二巻-32)     〝(「八犬伝」八輯)下帙も引つゞき、八九月比出板のつもりニて、五六の巻ハ板木師ニわたし(三字ム    シ)ほらせ候得ども、画工柳川病気のよしニて、下帙ハ画は一枚も出来不申、板元も甚困り候得ども、    いたし方なく、又画ニて幕つかへ候。〟    〈文化十一年の初輯以来、「八犬伝」の挿絵をひとりで担当してきた柳川重信、このところの体調不良で、挿絵がまま     ならず、八輯の上帙の出板が四月下旬から五月下旬にずれ込んだり、また八九月出板予定の下帙の画が一枚も出来て     いなかったりで、とうとう「幕がつかへ」てしまった。またしても画工で延引か、という馬琴たちのため息である。     重信に限らないが、戯作者は画工の病気・我が儘に手を焼いたようである。五月二十一日付、篠斎宛書翰によると八     輯上帙の発売は五月二十日であった〉     ◯『馬琴書翰集成』②136 天保三年四月二十八日 殿村篠斎宛(第二巻・書翰番号-33)   〝(「八犬伝」第八輯)上帙五冊は、まづ申さば、下帙の仕入趣向にて、うまみは下帙の方に可有之候。    下帙も八九月中迄にうり出し度とヤ、板元連りに急ギ候故、五ノ巻ははやほりに出し候へ共、画工柳川    労下地のやうなる病症にて、机にかゝるとふさぎて筆がとられぬと申、下帙の画、一枚も出来不申候。    又画工にて幕つかへ候故、いそぎ稿し候かひもなく、中だるみいたし候。此画工は、画にて飯をくはぬ    人故、かやうの病気も起り候事と存候。何とぞ、はやく画せたく存候へ共、病気と申事故、さいそくも    いたしかね、板元も大困りに御座候。とかく障り出来たがり、こまり申候〟    〈柳川重信は「此画工は、画にて飯をくはぬ人」とある。これは本業を別に持っているという意味であろうか。『滝沢     家訪問往来人名録』(天保六年四月頃)〝根岸中村御玄関番鈴木忠次郎養子重信婿養嗣 鈴木佐源次事 二代目 柳     川重信〟の記事からすると、初代の重信は「根岸中村御玄関番鈴木忠次郎養子」ということになる。すると本業は     「根岸中村御玄関番」か。「根岸中村」は重信の住所、役職は「御玄関番」ということであろうか〉     ◯『馬琴書翰集成』②144 天保三年五月二十一日 殿村篠斎宛(第二巻・書翰番号-35)   〝(「八犬伝」第八輯下帙)此節八ノ下、不残稿し畢、但つけがなのミ、半分遺り候。筆工も七の巻出来    候へ共、画工不快のよしニて、今に一枚も画キ不申、はり合無之候へ共、もはや下帙五冊、あらまし稿    し畢候間、一安心ニ御座候〟    〈画工柳川重信の不快は馬琴の精神状態にまで影響したのである〉      ◯「天保三年壬辰日記」③113 五月廿八日(『馬琴日記』第三巻)   〝画工柳川重信来ル。予、対面。八犬伝八輯五ノさし画の弐、出来、被為見之(中略)柳川へは、八ノ上    下さし画稿、四丁わたし、画ぐみ注文、示談畢〟    ◯「天保三年壬辰日記」③121 六月八日(『馬琴日記』第三巻)   〝画工柳川重信来ル。予、対面。八犬伝八輯六の巻さし画の弐、画写本一枚出来、見せらる(中略)去冬、    大和八滝村ニてほり出し候文忌寸禰丸の骨龕の図説写し一綴、見せらる。去冬、松前大野幸治郎より贈    候ハ右図のみ也。柳川の写しの方、精細ニ付、しばらくかりおく。兎園別集へかき入るべき為也〟    〈壬申の乱の功臣・文忌寸禰麻呂の墓碑が発掘されたのは天保二年九月。重信は版本の挿絵だけでなく、こうした珍し     い図の模写も請け負っていたのである。この図は馬琴著『兎園小説別集』の「文忌寸禰麿骨龕所掘図説」に収められ     ている。(『日本随筆大成』第二期4所収)〉      ◯『馬琴書翰集成』天保三年六月二十一日 殿村篠斎宛(第二巻・書翰番号-37)   ◇ ②150   〝(「八犬伝」第八輯下帙五冊。原稿出来、筆耕も終わり、彫は八月下旬に仕上がる予定)但、画工柳川、    素人狂言などに耽り候よしニて、画ニ身を不入、やう/\七ノ巻の内、壱のさし画迄出来、今に六七枚    画キ残り有之。板元大に気をもミ、せわり候へども、今に出来かね、困り申候〟    〈柳川重信「素人狂言などに耽り候よしニて、画ニ身を不入」。昨年八月十八日、「八犬伝」の板元丁子屋平兵衛、重     信を同道して、馬琴に以後遅滞なく画くことを約束していたのに、このていたらくである。病気なのか怠慢なのか。     国貞、北渓しかり、どうも画工だけは、馬琴をもってしても、板元をもってしても、制御しにくい存在であったよう     だ〉     ◇ ②153   〝先年、英平吉ほりかけ候『水滸画伝』の板株ハ、大坂河内や茂兵衛買取候よし、此度初て聞知申候。右    蘭山作ハ、百回迄稿本出来、北斎画も三十五冊め迄出来居候而、右板ニ添、かひ取候間、ほり立、当節    河茂方ニて、又十冊うり出し候よしニ御座候。乍去、英平吉うり出し候節、二編の評判宜しからず候間、    丁子屋ニてハ引受不申、断候ニ付、河茂甚こまり候よし申候。右ニ付、『水滸略伝』と申ものヲ被頼候。    是ハ、柳川画キ候『水滸伝』百八人の像、略画のやうニ画キ候もの、先年狂歌連ニて出来いたし候。右    板を、丁子やかひ取候よりの思ひ付ニ御座候。なれ共、『水滸伝』ハ株物ニ付、丁平のミにてハ出板い    たしかね候間、河茂と合刻ニいたし、右百八人の像を口画ニいたし度旨申候。この略伝ハ、少々著し可    申心も有之、且附録ニ「水滸伝略評」を加へ、五六冊ニ書とり可申候旨、約束いたし候。稿本出来次第、    来年彫刻いたし度旨、両板元申居候。此附録の「水滸伝の評」ハ、後世へ遣し度心も御座候間、手透次    第、来年より創し可申存候事に御座候〟    〈『新編水滸画伝』はもともと馬琴と北斎の組み合わせで、文化二年と四年に初編として出していたもの。ところが、     板元の角丸屋甚助及び北斎と馬琴との間にトラブルが生じて、この出板から馬琴が降りてしまい、以降途絶していた。     それを文政十一年、板元英平吉が高井蘭山訳・北斎画の組み合わせで二編として出版した。(文政十一年正月十七日     付、殿村篠斎宛(『馬琴書翰集成』第一巻・書翰番号-41))こんどの出版はそれ以来のものであるが、二編の評判     があまりよくないこともあって、英平吉にかわってこの板株の持ち主になった河内屋茂兵衛が『水滸略伝』なる企画     を馬琴に持ち込んだのであった。これは狂歌連が制作した略画のような『水滸伝』すなわち『狂歌水滸画伝』(芍薬     亭長根編・柳川重政画・文政十三年跋)に着想を得たものらしい〉    ◯「天保三年壬辰日記」③134 六月廿三日(『馬琴日記』第三巻)   〝画工柳川重信、為暑中見廻、来ル。団扇四柄、被贈之。八犬伝八輯七の巻さし絵の三出来、持参。今日    ハ板元へ不参よし申ニ付、預置、筆工へ廻し可申旨、示談。此後、水滸略伝画の事、其外、及示談〟    ◯「天保三年壬辰日記」③147 七月九日(『馬琴日記』第三巻)   〝画工柳川重信来ル。予、対面。八犬伝八輯八ノ上さし画の弐出来、見せらる。(中略)水滸伝、狂歌師    ニて出来の柳川が水滸百八人の像古板、丁子やかひ入、今日取引相済、金子請取、板主へわたし参候よ    し、物語也。八犬伝八輯の上とびらの画、紅毛狗画キ候様、示談。外わくもやう注文いたし、紅毛画箋    一枚かし遣す〟    〈丁子屋平兵衛は『狂歌水滸伝集』(重信画)の板木を入手して、いよいよ『水滸略伝』の出版に向けて準備が整った     のである〉    ◯「天保三年壬辰日記」③153 七月十六日(『馬琴日記』第三巻)   〝丁子や平兵衛、富士登山紀行、今朝出立いたし、柳川も同道のよし〟    〈七月晦日の日記、丁子屋平兵衛来訪記事に〝富士登山、去ル十六日出立ニて、廿七日ニ帰府のよし〟とあり、柳川重    信も同着であろう〉      ◯『馬琴書翰集成』②174 天保三年七月二十一日 殿村篠斎宛(第二巻・書翰番号-40)   〝(「八犬伝」)画者病気も、先比痊可ニて、やう/\本月十六日ニ惣さし画・とびら共、不残出来揃ひ    申候〟    〈仕事の遅れで板元のみならず馬琴をもやきもきさせたこの画者は柳川重信、病が癒えてやっと仕事に復帰したのであ     る。しかも七月十六日には「八犬伝」の挿画等全て仕上げて、富士登山に出かけている〉     ◯『馬琴書翰集成』 天保三年八月十一日 殿村篠斎宛(第二巻・書翰番号-42)   ◇②184   〝清の陸謙が画キ候『水滸伝』百八人の像を、南溟が摸し候画巻一巻、黙老購得候よし。おく書をたのま    れ、右之巻物差越され候間、一覧いたし候。かやうのものを見候毎に、柳川が画き候は、素人好キ可致    候へども、天罡地煞の順もなく、半和半唐にて、いやなるものに御座候。阮小二抔は、定九郎に似より    候。あまりわろきは、入木直しいたさせ可申哉とも存候。公孫勝は、魔法つかひのやうに御座候。それ    を板元はじめ、うれしがり候もの多し〟    〈南溟は春木南溟か。黙老は高松藩家老・木村黙老。殿村篠斎や小津桂窓と同様、馬琴作品の書評仲間にして書籍愛好     家。「天罡地煞」とは天罡星・地煞星の意味。『水滸伝』に登場する百八人を象徴するの星である。「順もなく」と     は、天罡星の人三十六人、地煞星の人七十二人、柳川重信は、これをかき分けてないというのであろうか。また「半     和半唐」とは和漢折衷の中途半端な描き方をいうのだろう。馬琴が苦々しげにいう重信の『水滸伝』とは『狂歌水滸     画伝』(芍薬亭長根編・文政十三年跋)であろうか〉      ◇②184   〝恩貺の本居翁画像かしらの事、いぬる比、柳川に相談いたし候処、柳川申候は、画は拙からず宜く候。    かくまで画きながら、毛がきをせざりしは心得がたし。忘れたるにても候はん。六十翁にて白髪なく候    はゞ、髪際はまばらにかきおこしをいたし、それより段々あつく毛がきをいたし候はゞ、年齢位に見え    可申よし申候に付、則毛がきをたのみ遣す置候〟    〈馬琴は本居宣長肖像の「毛がき」を柳川重信に依頼する。九月中旬までには完成している。九月二十一日付、殿村篠     斎宛書翰(番号49)参照〉      ◯『馬琴書翰集成』②199 天保三年九月十六日 河内屋茂兵衛宛(第二巻・書翰番号-46)   〝(『開巻驚奇俠客伝』二集)柳川へもきびしく申談じ、此度ハずるけなしニ画せ候つもりニとり極メ申    候〟    〈河内屋茂兵衛は『開巻驚奇€侠客伝』の板元。またしても、画工柳川重信の「ずるけ」のため「幕につかえ」が生じて     いる。そこで今度こそはと「ずるけなし」の約束を重信と取り決めたのであるが、実は、昨年の八月十八日、「八犬     伝」の板元丁子屋平兵衛、重信を同道して、馬琴に以後遅滞なく画くことを約束していた。にもかかわらず、六月二     十一日付、殿村篠斎宛書翰には、重信が「素人狂言などに耽り候よしニて、画ニ身を不入」と記されいる。あてには     ならないようだ〉     ◯『馬琴書翰集成』②212 天保三年九月二十一日 殿村篠斎宛(第二巻・書翰番号-49)   〝本居翁像頭毛がき、やう/\過日、柳川より出来申候。白髪少々まじへ、六十歳の恰好ニ成り、格別よ    ろしく成候。御歓び可被下候。柳川も、賛どもすきうつしにうつしとり候よし。此節、その下画を壁に    張り置、日々ながめ、尚又工夫を以清画いたし、秘蔵可致度(ママ)と申候。頭毛がきの故を以、彼人幸ひ    を得候事に御座候〟    〈柳川重信、本居宣長肖像の頭の「毛がき」の方は早速仕上げた。九月十六日書翰にある、以降「ずるけなし」の約束     を果たそうとしているのかもしれない〉    ◯『馬琴書翰集成』②216 天保三年十月十八日 殿村篠斎宛(第二巻・書翰番号-50)   〝(『開巻驚奇€侠客伝』二集)柳川の画、埒あき不申、やう/\画ハ弐の巻迄出来故、暮うり出しの間    に合可申哉、心もとなく存候。いかなれば、かゝるせわしき世をわたるやと、われながらあやしうもつ    ぶやかれ、自笑いたし候事ニ御座候〟    ◯『馬琴書翰集成』②222 天保三年十月十八日 小津桂窓宛(第二巻・書翰番号-52)   〝(『開巻驚奇€侠客伝』二集)画工柳川の画、埒明かね候故、暮うり出しの間に合可申候哉、是又不安    心ニ御座候〟    ◯『馬琴書翰集成』 天保三年十月十八日 河内屋茂兵衛宛(第二巻・書翰番号-53)   ◇②224   〝『俠客伝』稿本、追々出来、四の巻迄出来、只今五の巻ニ取かゝり居申候。もはや末少しニいたし候間、    当月中ニハ、不残出来可致候。但、画工柳川画埒明かね、やう/\二の巻迄出来申候。丁平殿、油断な    くさいそくいたし候間、どうやら間ニ合せ候半と存候へども、心ならず候〟
  ◇②225   〝画工のふやくそくニハ、ほとんどこまり申候。何分暮うり出しの間ニ合候様、せり立候事ニ御座候〟    〈「丁平」は河内屋茂兵衛と共に「俠客伝」の板元である丁子屋平兵衛。心配の種は依然として重信の挿絵〉  ◯『馬琴日記』巻三p227(天保三年十一月朔日記)   〝柳川重信来ル。予、対面。手みやげ持参。右の人風邪の処、快方ニ候へども、持参(ママ)の鬱滞ニて筆硯    ニ不親、気分不宜候間、宗伯ニ様子見もらひ度よし也。宗伯、今日ハ別して寒熱つよく打臥居候へども、    懇意之事故、胗(ママ)脈いたし、尚又、薬を乞候間、明朝とりニ人遣し候様、及約束〟  ◯『馬琴日記』巻三p232(天保三年十一月七日記)   〝柳川重信来ル。予、対面。手みやげ持参。右の人風邪の処、快方ニ候へども、持参(ママ)の鬱滞ニて筆硯    ニ不親、気分不宜候間、宗伯ニ様子見もらひ度よし也。宗伯、今日ハ別して寒熱つよく打臥居候へども、    懇意之事故、胗(ママ)脈いたし、尚又、薬を乞候間、明朝とりニ人遣し候様、及約束〟    ◯『馬琴日記』三巻p232(天保三年十一月七日記)   〝柳川忰、今朝薬取罷越、柳川昨夕より腹痛いたし、困申候よし、申之〟   〝(宗伯)根岸柳川重信方へ罷越、胗(ママ)脉いたし、薄暮帰宅〟    〈体調悪化が進む〉  ◯『馬琴日記』三巻p237(天保三年十一月十四日記)   〝丁子やより、手代来る(中略)重信画延引に付、暮うり出しの間に合かね可申、左候はゞ、三集は引つゞ    き綴まじき旨、丁平へ申遣之〟  ◯『馬琴日記』三巻p241(天保三年十一月十九日記)   〝丁子や平兵衛来る。昨夕、根岸柳川方へ罷越候処、他行ニ付、尚又罷越、対面の上、俠客伝二輯残りさし    画の事、くはしく面談いたし候処、柳川疝積(ママ)とかく同様に候へども、推て出精いたし、当月中、不残    画終り可申旨、申ニ付、ぜひ/\当暮うり出可申、序文之事、何分御急ぎ被下候様、仕度旨、申之〟    〈丁字屋平兵衛は重信の意欲を感じ取ったのであろう。『開巻驚奇俠客伝』二輯の年内発売をするべく馬琴に序文を乞     うたのである〉  ◯『馬琴書翰集成』②237 天保三年十一月二十五日 河内屋茂兵衛宛(第二巻・書翰番号-59)   〝『俠客伝』二集五冊の稿本、五冊不残出来いたし候。筆工も大かた出来候へども、画工重信病気のよし    ニて、何分画出来不申候。扨々、是ニハ困り入候。打臥候程の病気にハ無之候へども、とかくふさぎ候    て、机にかゝるがいやと申病気ニ御座候。右画工ニて差支、当暮うれ出しの間ニ合かね候ハヾ、御地ハ    春うり出し不宜よしニ付、来巳の暮迄もちこしニ可成候。左候へバ、作者の勢ひもぬけ候て、引つゞき    三集の作いたし候ちからもおち候間、来夏秋の比より取かゝり可申候旨、丁平殿ぇ申聞候処、丁平殿承    知不致、画工之義は何分ニもいたし、間ニ合せ可申候間、三集稿本、引つゞき綴りくれ候様、達而被申    候〟    ◯『馬琴書翰集成』 天保三年十一月二十五日 殿村篠斎宛(第二巻・書翰番号-60)   ◇②250   〝『俠客伝』二集、八月廿日頃より取かゝり、十一月廿日頃迄に、塵ものこさず稿し畢り候。壱弐の巻は、    彫刻も大抵出来候よしに候へども、何分画工、持病の疝にて気が塞ギ、机にかゝるがものうしと申候て、    一向に画キ不申候。画ヲ以飯をくはぬ人故、かやう成ルずるけ病ひも起り候事と存候。忰被頼、薬遣し    候へども、煎薬嫌ひにて、少しばかり飲候て、休薬いたし候故、実にせんかたなく候。只今さし画出来    不致候へば、とれもくれうり出しの間に合不申候間、作者の勢ひ大にぬけ、三集を引つゞき綴り候心も    なく候間、三集は、来年夏秋の比より取かゝり可申候旨、申断候処、上方板元とは申ながら、丁子やの    算盤へ大に拘り候事故、丁子や何分承知不致、ともかくもいたし、年内間に合せ可申候間、御任せ被下、    何分三集を引つゞき御綴り被下様にとくどき立、両三日前、三集の潤筆内金十枚持参致候〟    〈「画ヲ以飯をくはぬ人」「ずるけ病ひ」の画工とは柳川重信のことである。長子宗伯の調合した薬もすぐ止めてしま     う、画は仕上がらないでは、愚痴も出るというもの。経営上年内売り出しにこだわる丁子屋はなお一層気が気でない     様子〉    ◯『馬琴書翰集成』②258 天保三年十一月二十六日 小津桂窓宛(第二巻・書翰番号-62)   〝(『俠客伝』二集)画工病気のよしニて、一向ニ画が出来不申候。只今画が出来かねてハ、とても当暮    うり出しニ成不申候。大坂板元ニ付、浪花ハ暮ニ出し不申候て、春出し候てハ、捌ヶ宜しからざるよし    にて、わづかの遅速のわけを以、来年巳のくれのうり出しに成候。左様ニ成ゆき候てハ、作者の勢ひヌ    ケ、はり合無之間、三集は引つゞき書候心もなくなり候ニ不、来夏秋の間、綴り候半と存、其段、丁子    やぇ申聞候処、丁子や何分承知いたし不申、ともかくも仕り、暮うり出しの間ニ合せ可申候間、何とぞ    三集、引つゞき綴り被下候へと口説立、三四日前、潤筆内金多分持参いたし、『俠客伝』三集出来次第、    引つゞき『美少年録』四輯を御書可被下候。その跡へ、『八犬伝』九輯を願候よし、勝手のミ被申候。    尤、『巡島記』は昨今被頼候事、且年来打捨置候間、急ニハ趣向も立不申候上、丁子屋のごとく、身に    しミ候板元ハ多く得がたく、今日のまゝにうけ引申候。依之、只今の内、合巻もの、今年のおこたり、    二三部稿し遣し、来早春より『俠客伝』三集を稿し候つもり、取極め候。なれども二輯年内ニ出板可致    哉、未詳。来暮迄延び候てハ、第一丁子やの懐、大ちがひニ成候間、如才あるまじく候へども、画にて    飯をたべぬ画工のずるけ病ひ、故障に成候事故、実におぼつかなく存候也〟  ◯『馬琴日記』三巻p259(天保三年閏十一月十四日記)   〝丁子や平兵衛来ル。予、対面。画工重信病気、とかくむづかしき様子ニ付、今日根岸に罷越、俠客伝二集    さし画残り四丁、画稿うつしとらせ、稿本の付の分、請取、罷帰候。早々稿本改ニ出し度よし申ニ付、右    画稿四丁、稿本へはり入、稿本五冊ふくろかけ拵置候間、今日わたし遣ス。残りさし画四丁は、重信婿重    政に画せ候よし也〟    〈柳川重信の病状が思わしくない。婿重政は天保四年三月八日記事〝古人柳川重信壻、鈴木左源二事柳川重正初て来ル〟     の重正と同人か。ただ柳川重政(重正)の画名は「日本古典籍総合目録」には見あたらない。しかるに渓斎英泉の     『無名翁随筆』(別名『続浮世絵類考』)柳川重信の項に〝重山は師重信の聟となれり、馬琴作の俠客伝二篇五ノ巻     の末二丁、重信病おもりし其時、重山続て画しものなり〟とあり、これは馬琴日記の「残りさし画四丁は、重信婿重     政に画せ候よし也」と吻合する。してみると、馬琴の言う重正(重政)と重山とは同人ではないのか。馬琴は来年の     十月二十一日記事に〝鈴木左源二事柳川重信〟とするまで、重正(重政)名を使用する。なぜか分からないが、馬琴     の記事中に重山名は見あたらない〉  ◯『見ぬ世の友』巻三 東都掃墓会 明治三十三年(1900)刊   (国立国会図書館デジタルコレクション)(巻1-5 35/55コマ)   〝詞林 名家辞世 其三 兼子伴雨稿       柳川重信 天保三年閏十一月二十八日 下谷坂本 宗慶寺     投いれの水もとゝかず柳かな〟  ◯『馬琴書翰集成』②265 天保三年十二月八日 殿村篠斎宛(第二巻・書翰番号-63)   〝画工重信、九十月両月ハ、外板元より急ニさし込たのまれ候春画とやらニ取かゝり、『俠客伝』のさし    画、一向ニ出来不申、十一月ニ至り、少々画キかゝり候内、同人、気分勝れ不申よしニて、又出来不申    候。これは、ずるけ病ひならんとのミ存候処、閏月より不食の病症に変じ、打臥候ニハ至らず候へ共、    日々不食故、段々おとろへ、閏十一月廿八日夜五時、物没いたし候。享年四十六。さし画の残り四丁有    之。【三の巻の内一丁、五の巻三丁】重信婿重正といふもの、若輩未熟に候へども、重信生前のたのミ    故、これニ画せ候へども、同居の事故、重信死去の取込にて、これも出来不申、やうやく三丁ハ出来候    へども、甚わろく画キ候処あり、残り壱丁ニてせり詰申候〟    〈当初、馬琴は「俠客伝」の挿画が出来ないのは柳川重信の「ずるけ病ひ」のせいだと思っていた。実は春画の仕事が     急に入り「俠客伝」に影響が及んだようだ。十一月に入って「俠客伝」にとりかかり始めたものの、閏十一月から極     度の食欲不振に陥り、遂に閏十一月二十八日死亡した。享年四十六才。残りの挿画は重信生前からの依頼で婿重正が     担当することになった。この「婿重正」は後に二代重信を襲名するので、重山のことと思われるが、馬琴はなぜか重     山と記すことはなかった。その間の事情は不明である〉      ◯『馬琴書翰集成』②279 天保三年十二月八日 小津桂窓宛(第二巻・書翰番号-64)   〝画工柳川重信、九月より十月迄、外の板元に、いそぎの春画とやらをたのまれ、俄にうけ込ミ、その画    にのみ取かゝり居、『俠客伝』の前約を等閑にせし故、さし画半分ほど不出来、十一月に至り、やう    /\『俠客伝』の画を画候処、いく程もなく気分あしく塞ギ候よしニて、埒明不申、忰たのまれ、療治    いたし候へども、身にしミて薬を飲ず。そのゝち両三人に見せ、転薬両三度に及び候よし、閏十一月に    至り、不食の症に変じ、病臥ハ不致候へども、ふら/\として日をおくる内、段々におとろへ、閏十一    月廿八日の夜五時に身まかり候。享年四十六也。『俠客伝』のさし画、三の巻の内【くどき画稿】壱丁    ・五の巻のさし画三丁、四丁残り、不画有之。此四丁の内弐丁ハ、重信婿重政、弱官未熟ながら、重信    柳川氏さしづいたし、弐丁画せ候。五柳村のさし画など、主従の差別もなく、大不出来ニて、にが/\    敷候得ども、無是非、そのまゝにほりニ出し候処、重信没し候故、此取込にて、代画も今に不出来候。    ケ様之仕合故、年内出板いたしがたく候。然ル上は、来巳の十二月うり出しにいたし候。大坂板元にハ    勝手に候へども、左候てハ合板の丁平、ふところ大ちがひにて、世話いたし候かひもなく候間、無理に    おしすくめ候て、大坂・江戸共、来正月中うり出し申度よし、むなだくみにて、筆工、彫刻出来の分、    先月より校合、今以最中也。画ハ口画三丁・さし画弐丁、彫刻出来致し候のミ。筆工ハ五冊不残、彫刻    出来いたし候内、四の巻迄、追々校合いたし遣し、此節すり込せ候へども、さし画一丁、いまだ板下出    来不申、不都合、御賢察可被成候。弥来正月のうり出しのつもりニは候へども、大坂板元不の字を可申    哉難斗、いまだ何とも取極め候てハ申がたく候〟    〈柳川重信の後を引き継いだ重正(重山)の挿画は「主従の差別もなく、大不出来ニて、にが/\敷」思うのだが、い     かんともしがたかった。この時点で挿絵一丁まだならず、年内の出版は無理、それでも江戸の板元丁子屋平兵衛は、     経済的事情から正月出版を目指す。だが、大坂では江戸と違い、年の暮れのほうが勝手がよいという理由で、板元河     内屋茂兵衛は翌四年の暮れ出版を望んでいた。しかしこの商習慣の相違が調整された様子はない。ともかく大急ぎで     「俠客伝」の仕上げにかかっていたのである。このあたり丁子屋平兵衛の執念が事態を動かしていたのである。この     年、画工の歌川国安と柳川重信が亡くなって、それぞれ北尾重政二代と柳川重正(重山)に代わったが、どうも力量     に問題があって国安や重信ほどの出来を期待出来ない、その上江戸と大坂の思惑違いもあって出版時期がハッキリし     ない、そのため馬琴の苛立ちはなお一層募っていったようだ〉    ◯『増訂武江年表』(斎藤月岑著・嘉永元年脱稿・同三年刊)   (「天保三年」)2p85   〝十一月二十八日、浮世絵師柳川重信卒す(四十六歳)。     筠庭云ふ、柳川重信は志賀理斎の子なり。師なくして画をよくせり。北斎の風なりしが、本所一ッ目     弁天の前なる髪結床の障子に、午の時参りする女を野ぶせりの乞食等が犯さんとする図を書きて、い     と能く出来たり。北渓これを見て、画は社中の風なるが、かばかり書かんものを覚へずとて、其所に     問ひしとぞ。夫より相知りて、北渓これを引きて北斎が弟子とす。其の後北斎これを養子とせしが、     如何したりけん、義絶におよべり。夫より重信頻りに板下を書きしを、北斎これを板下に禁じて、互     いに意趣を含みけるを、柳亭種彦双方をなだめて事和らげり。柳川といへるは柳亭の字をとるなり。     この時より柳川と号したり。八犬伝も初めはこれが筆にてよし(無声云ふ、志賀理斎が子は重山とい     ひ、後二代目重信となりしなり)〟    ◯『無可有郷』〔百花苑〕⑦402(詩瀑山人(鈴木桃野)著・天保期成立)   〝同じき(天保三年)十一月廿七日比か、画師柳川重信没す。葛飾北齋翁の婿なり。葛門にしてまた歌川に    入る。大の時に行る。年未だ四十よし(ママ)。惜むべし。此人常々自から沐浴して死なんといひしが、果    して死期をしりて、医にむかひ、此度の病気全快すべからずといひて、沐浴して二階へ上りしが、奄然    として逝すと、銀鶏畑君語る〟    〈畑銀鶏は狂歌師奇々羅金鶏の子。金鶏は寛政二年の狂歌絵本『吾妻遊』(歌麿画)、また寛政十二年刊の狂歌狂文集     『燭夜文庫』(中村芳中画)で知られる〉    ◯『江戸現存名家一覧』〔人名録〕②309(天保初年刊)   〝東都画 池田英泉・鳥居清満・立斎広重・勝川春亭・葛飾北斉(ママ)・歌川国貞・歌川国芳・歌川国直・        柳川重信・柳川梅麿・葵岡北渓・静斎英一〟    ☆ 刊年未詳    ◯「絵入狂歌本年表」(刊年未詳)    柳川重信画    『狂歌名所図会/五畿内之部』一冊 柳川重信画 琴樹園二喜編 〔目録DB〕    『五百題狂歌集/二字題之部』   柳川重信画 芍薬亭長根等編〔目録DB〕    『五百題狂歌集』一冊 柳川重信画 芍薬亭・楽聖庵撰〔目録DB〕    『狂歌百千鳥』 二帖 柳川重信画? 芍薬亭長根編 〔目録DB〕    『狂歌貫珠集』 一冊 柳川重信画 琴樹園二喜編〔目録DB画像〕  ◯「艶本年表」(刊年未詳)    柳川重信画    『重信欠題大錦画帖』一帖 柳川重信画 淫蕩山人序〔目録DB〕                    (注記「日本艶本目録(未定稿)による」)    『五ツ雁』三冊 柳川重信画〔目録DB〕(注記「艶本目録による」)  参考  ◯『本之話』(三村竹清著・昭和五年(1930)十月刊)   (出典『三村竹清集一』日本書誌学大系23-(2)・青裳堂・昭和57年刊)   〝和合神といふ書、挿絵は北斎と伝ふれど、実は柳川重信なるべし、北斎ならばもつと胴がつまつてゐま    すと、先代の村幸主人いひし事あり 此版木一枚 某士大阪にて求めたりとて秘めもたりけるが、それ    は其の書の末の方なりし、今は如何しけむと、或人かたれり〟    〈白倉敬彦著『絵入春画艶本目録』の書誌は〝『万福和合神』色摺 半紙本 三冊「和合堂主人」序 北斎画・作 文     政四年〟とする。村幸主人とは芝の古書店主・村田幸吉。古書店主の直感が是か非か、参考までに言えば、この艶本     は無署名〉    ☆ 没後資料    ☆ 天保四年(1833)    ◯「絵本年表」(天保四年刊)    柳川重信画『草庵五百人一首』 三冊 狂歌 柳川重信ノ画 黒川春村撰〔漆山年表〕     〈〔目録DB〕は重信一世画とする〉    ◯「百人一首年表」(本HP・Top)(天保四年刊)    柳川重信画『草庵五百人一首』狂歌 肖像 柳川重信画 黒川春村著・天保四年序〔目録DB〕    〈浅草庵市人の門流五百人の狂歌集。巻三の目録に天保5年11月没の詠者あり。刊年はそれ以降〉    ◯「合巻年表」(天保四年刊)    柳川重信画『男一ッ家』柳川重信画 東里山人作〔目録DB〕    ◯「読本年表」(天保四年刊)    柳川重信画    『開巻驚奇俠客伝』二集  柳川重信画 曲亭馬琴作〔目録DB〕    『南総里見八犬伝』八輯下 柳川重信画 曲亭馬琴作〔目録DB〕    『七国士伝』 柳川重信画 教訓亭主人・松亭金水作〔目録DB〕〈教訓亭主人は為永春水〉    ◯「絵入狂歌本年表」(天保四年刊)    柳川重信一世画『草庵五百人一首』三冊 柳川重信画 黒川春村編〔目録DB〕     〈〔狂歌書目〕は北馬画とする〉    ◯「日本古典籍総合目録」(国文学研究資料館)   ◇人情本(天保四年刊)    柳川重信画『春色梅暦』三・四編 重信・重山画 為永春水作   ◯『無名翁随筆』〔燕石〕(池田義信(渓斎英泉)著・天保四年成立)   ◇「葛飾為一」の項③312
   「葛飾為一系譜」〝辰斎(北斎)門人〟     〝辰斎ト云シ頃ノ門人    雷斗【柳川重信ト云、別記】〟     ◇「柳川重信」の項 ③314   〝柳川重信【文化、文政ヨリ、天保三年歿ス、年五十余】     俗称(空白)、本姓鈴木氏ノ男、江戸ノ人也、号雷斗、居始本所柳川町、後根岸大塚村、    北斎の門に入て画法を受て、北斎の娘を妻とし、聟となり、雷斗の名を続て、【始メ居ヲ本所柳川町ニ 在シユヘ、柳川ヲ以テ姓氏ノ如クセリ】板刻の密画に妙手ナリ、師の画法をよくせしが、一派の風意を 画り、彩色画は画風大に異り、浪花の玉山が筆法を慕ひ、亦、国貞の浮世絵を似せたり、草双紙も多く 画り、【柳亭種彦初テノ作、重信初テノ画、京一番娘羽板、西村与八板、文政四五年ノ比ナリ】読本も 書けり、【柳亭始テノ作、奴ノ小まん「中本」、文字手摺「大本」山崎平八ト云書林板元、昔人形】    草双紙、読本ともに大に世に行れて、数十部を発市す、一家をなして、世に重信風を云ふ、浪花に至て 用られしが、僅にして帰郷す、常に人形細工上等製作に奇巧あり、また南嶺が草画の筆法を画り、天保 三年十一月歿す、門人重山、続て其業をなせり、     按るに、重山は師重信の聟となれり、馬琴作の侠客伝二篇五ノ巻の末二丁、重信病おもりし其時、重 山続て画しものなり、【初編は英泉画ナリ、八犬伝、重信、英泉両画ナリ】その他読本アリ、彩色摺 にて、藤ばかまと云画本あり、【麹町衆星閣角丸屋甚助板、小枝繁翁作ナリ】〟    ☆ 天保五年(1834)    ◯「日本古典籍総合目録」(天保五年刊)   ◇人情本    柳川重信画『合世鏡』初編 重信画・重山画 東里山人(鼻山人)作    ☆ 天保六年(1835)    ◯「日本古典籍総合目録」(天保六年刊)   ◇人情本    柳川重信画『合世鏡』二編 重信・重山画 東里山人(鼻山人)作    ☆ 天保八年(1837)    ◯「日本古典籍総合目録」(天保八年刊)   ◇人情本    柳川重信画『合世鏡』三編 重信画・重山画 東里山人(鼻山人)作    ◯『無可有郷』〔百花苑〕⑦382(詩瀑山人(鈴木桃野)著・天保期成立)   (「浮世絵評」の項)   〝予が論ずる所は浮世絵なれば、右の論(画に王道覇道のありしこと)益なしといへども、筆意の説論ぜ    ざるべからざるものあり。北斎似をかゝず、あたはざるにあらず。せざるなり。国貞山水花鳥をなさ    ず、あたはざるにあらず、是またせざる也。これ王道ならざる故なり。此二人覇気の甚しきもの故、下    してやすきにつく事能はず、おもふまゝに、おのれが長をずる所は各古今一人なり。其餘名人多しとい    へども、みな王覇をかねて而して漸なるゆゑに、何にても出来ると雖も、彼二人長ずるところの如くな    らず。世北斎筆意よし国貞形似よしといふ。皆誤りなり。北斎の画ところ山水花鳥人物みな如此、筆者    (ママ)ならざるべからず。是を哥川家にて絵かゝばあしからん。国貞の画く俳優人物、その餘の器械また    如此。筆意ならざるべからず。是を北斎流にて画けばあしゝ、ゆゑに各相容れず、一流を立ること其宜    しきを得たり。然るに柳川重信、哥川国直の徒相混じて用ゆ。愈其至らざるを見る〟    〈鈴木桃野によれば、柳川重信も歌川国直も、北斎の方向と国貞の方向と追ったがために北斎・国貞に及ばないという     のである〉  ☆ 天保十四年(1843)    ◯『筠庭雑考』〔大成Ⅱ〕⑧187(喜多村筠庭著・天保十四年序)   (「浮世人形」記事)   〝此雛骨董集に図を出せる女人形に似たれども、面相ほりかたは勝れたり。還魂紙料に出たる若衆人形と    一双にて、つとの形などいとよく似たり。同時の物にて同じ細工師が作とみゆ。但し柳亭子が所蔵のも    のは、古き頭ばかりを得て作りしなり。一とせ柳川重信が細工にて、両国橋広小路に、見せ物に、柱隠    しに種々の物を作れり。其時くづれたる古人形の頭をもとめて、二ツに破て押絵のやうに板をつけたり。    柳亭子が人形の頭は、此時得たり〟    〈『骨董集』は山東京伝の考証(文化十年序)。『還魂紙料』は柳亭子こと柳亭種彦の考証(文政九年刊)である〉    ◯『嗚呼矣草』〔大成Ⅰ〕⑲274(大坂書林、河内屋茂兵衛出版目録・年代未詳)   〝柳川前重信画/絵手本水滸画伝/全二冊    此画は前の柳川先生の筆にして水滸伝一百八人の英雄を図にあらはし、おの/\その小伝を附して童蒙    の慰(なぐさみ)画を好める人の便ならしむ〟    〈「国書基本DB」に『絵本水滸伝』二巻二冊・柳川重信画とあるのがこれか。ただ刊年を載せていない〉    ☆ 天保年間(1830-1844)  ◯「江戸自慢 文人五大力」(番付 天保期)   (東京都立図書館デジタルアーカイブ 番付)   〝風流時勢粧 倭画    香蝶楼国貞 歌川国直 歌川国芳 柳川重信 渓斎英泉〟    〈「時勢粧」とは現代流行の風俗という意味、それを画く「倭画」とはすなわち「浮世絵」のこと。国貞を筆頭とするこれら     の面々が当時の浮世絵界を代表する大立者であった。ただ不審なのは北斎の不在。北馬のように画家として別に登場     するわけでもなく、この番付には北斎の痕跡がないのである〉  ☆ 弘化元年(天保十五年・1844)    ◯『増補浮世絵類考』(ケンブリッジ本)(斎藤月岑編・天保十五年序)   (( )は割註・〈 〉は書入れ・〔 〕は見せ消ち)   〝柳川重信 文化文政より天保三辰年(空白)月歿、五十余     俗称(空白)  本姓 鈴木氏の男  江戸の人なり     号  雷斗   居 始本所柳川町、後根岸大塚村    北斎の門に入て画を学び、北斎の娘を娵て聟となり、雷斗の名を継ぐ(始柳川町に在し故、柳川を以て    姓の如くせり)板刻の密画をよく書り。〈江戸の南嶺が草筆〉浪花の玉山を慕ひ、又国貞の風をも似せ    たり。草双紙を多く画き(柳亭種彦始ての作、重信初ての画、京一番娘羽子板、文政四五年也)読本を    も書り(柳亭始の作中本、奴の小まん、文字手摺昔人形、山崎平八と書林板元なり)浪花に至りて用ら    れしが僅にして帰郷す。常に人形細工等の製作に奇巧あり。天保三年十一月歿す、門人重山、続て画り。     按るに、重山は師重信の聟となれり〈種彦作の綟手摺昔木偶五冊を画き、馬琴作の侠客伝二篇五巻末     二丁、重信病おもく、重山続て画しものなり(初編は英泉画なり、八犬伝、重信、英泉両筆也)其他、     重山の筆、読本あり。彩色摺にて藤袴といふ画本あり(麹町衆星閣角丸や甚助板、小枝繁翁作)    〈月岑云 柳川重信は志賀理斎、称理介の男なり、根岸に住せりと〉〟    〈国文学研究資料館の「日本古典籍総合目録」は『京一番娘羽子板』を文化九年刊とする。また志賀理斎は二代目重信     (初名重山)の父。月岑は初代と二代を区別していない。柳川重信二代参照〉    ☆ 嘉永三年(1850)  ◯『古画備考』三十一「浮世絵師伝」中p1411(朝岡興禎編・嘉永三年四月十七日起筆)   〝柳川重信 天保三年十一月死、五十餘歳、武江年表〟
 ◯『新増補浮世絵類考』〔大成Ⅱ〕⑪219(竜田舎秋錦編・慶応四年成立)   〝本姓鈴木氏、父を志賀理斎(称理介)といふ。江戸の産也。始め本所柳川町に住す〔割註 故に柳川を    姓の如くにせり〕。後根岸大塚村へ移る。北斎の門に入て画を学び、北斎の娘を娶て聟となり。雷斗の    名を続て板刻の密画を能せり。江戸の南嶺、浪花の玉山等を慕ひ、又国貞の風をも似せたり。草双紙を    多く画く。〔割註 柳亭種彦始ての作、重信始ての画は京一番娘羽子板と云草双紙也。文化四年板〕浪    花に至りて用られしが、僅にして帰郷す。常に人形細工等の制作に奇功あり。天保三年十一月歿す。     綟手摺昔人形  種彦作         濡燕柄傘雨談  雪麿作     七国士伝    為永春水、松亭金水作  里見八犬伝   馬琴作 英泉補筆〟    ☆ 明治二十二年(1889)  ◯『近古浮世絵師小伝便覧』(谷口正太郎著・明治二十二年刊)   〝文化 柳川重信    の頃、多く読本の板下等を画    は北斎の女也と、二代重信有り〟  ☆ 明治二十五年(1892)    ◯『日本美術画家人名詳伝』下p332(樋口文山編・赤志忠雅堂・明治二十五年刊)   〝柳川雷斗    名ハ重信、本姓鈴木氏、初メ本所柳川町ニ居ル故ニ柳川ヲ以て別氏トス、後根岸大塚村ニ移ル、画ヲ葛    飾北斎ノ門ニ学ビ、其ノ女ヲ以テ妻トナシ、雷斗ノ名ヲ続グ、板刻ノ密画ハ大ニ師風ト異ナリ、浪花ノ    玉山ガ筆意ヲ慕ヒ、亦タ国貞ノ浮世絵ニ傚フ、多ク草双紙ヲ画キ、読本ヲモ出セリ、草双紙読本共ニ大    ニ世ニ行ハルゝ、世ニ之レヲ重信風ト曰フ、嘗ニ浪花ニ遊ビテ大ニ用ヒラルゝ、居ルコト幾クナラズシ    テ還ル、亦南嵓ガ草書ノ筆法ヲ画ケリ、馬琴作ノ里見八犬伝ノ画ハ雷斗ト英泉ノ筆ナリ、傍ラ人形細工    等ノ製作ニ奇巧ナリ、天保三年十一月歿ス、年五十余、門人重山続キテ其ノ画風ヲ能クセリ(燕石十種)〟    ☆ 明治二十六年(1893)  ◯『古代浮世絵買入必携』p14(酒井松之助編・明治二十六年刊)   〝柳川重信    本名〔空欄〕   号〔空欄〕   師匠の名 葛飾北斎  年代 凡六七十年前    女絵髪の結ひ方 第十二図・第十三図 (国立国会図書館 近代デジタルライブラリー)    絵の種類 並判、小判、摺物、絵本、肉筆    備考  〔空欄〕〟    ◯『葛飾北斎伝』(飯島半十郞(虚心)著・蓬枢閣・明治二十六年刊)    ※( )は底本のルビ。〈 〉は本HPの注記   ◇北斎の長女(柳川重信の妻)記事 p307   〝〈北斎〉長女名は詳ならず。一説に、阿美与、門人柳川重信、鈴木重兵衛に嫁せしが、睦まじからずし    て、家に帰りて死す。喜多村節信の筆記に、北斎一旦重信を養子とせしが、何の故にや、後に義絶せり。    夫れより、重信独立して、頻(シキリ)に板下を画きしが、北斎これを拒みたり。柳亭種彦其の間に入り    て、双方をなだめたりとあり。これに拠れぱ、重信に長女をあはせて、聟とせしものゝごとし。この女、    一男を生む。其の名詳ならざれども、即翁の孫にして、前に載せたる翁が手簡中に、孫放蕩云々は、即    この孫なり〟    〈喜多村節信は正しくは信節、筠庭。江戸町年寄・喜多村彦右衛門の弟。考証学者。この筆記とは、岩波文庫本『葛飾     北斎伝』の校注者・鈴木重三氏によると『武江年表補正略』の由。前出『増訂武江年表』の天保三年の項に同様の記     事あり、参照のこと〉     ◇重信伝記 p315    〝柳川重信 重信は、鈴木氏、俗称重兵衛、江戸の人初め本所柳川町に住す。人呼びて柳川町の重信とひ、    後には、町字を省きて、柳川重信といふ。よりて柳川は、終に氏のごとくなりたるなり。後に根岸の大    塚に移る。夙(ツト)に北斎の門に入り、画法を学び、師の骨髄を得たり。師の娘を妻とし、雷斗の名を    譲らる。後更浪花の玉山、江戸の南嶺を慕ひて画く。又歌川の風を善くし、最(モツトモ)板刻の密画に長    じ、読本を画く多し。(以下、読本四作の書名あり、略)又草双紙を画く多し。(以下、重信初筆の文    化九年刊『京一番娘羽子板』をはじめとする合巻二十作品の書名あり、略)嘗浪花に到り、画きて大に    行はれしが、幾許ならずして、江戸に帰る。絵画の余暇に、人形細工を工夫し、新奇なる製作をなせし    とぞ。天保三年十一月死、五十余歳。子なし。門人重山【博覧家志賀理斎の男、俗称谷城季三太】養子    となりて、家を継ぐ。重信の病むや、馬琴作の『俠客伝』二編、五巻の二丁を画きて、死したれば、重    山あとを継ぎ、画きたり。重山の画、彩色摺にて、小枝繁作の「藤袴」といへる絵本あり〟    ◯『浮世絵師便覧』p234(飯島半十郎(虚心)著・明治二十六年刊)   〝重信(シゲノブ)    柳川、◯鈴木氏、北斎門人、後に北斎が娘を娶り、雷斗の名を譲らる、◯文化〟  ☆ 明治二十七年(1894)    ◯『名人忌辰録』下巻p6(関根只誠著・明治二十七年刊)   〝柳川重信 雷斗    俗称鈴木重兵衛。実父は志賀理斎。北斎門人となりし。天保三辰年閏十一月廿八日歿す、歳四十六。下    谷坂本宗慶寺に葬る〟  ☆ 明治三十一年(1898)  ◯『浮世絵備考』(梅山塵山編・東陽堂・明治三十一年刊)   (国立国会図書館デジタルコレクション)(57/103コマ)   〝柳川重信【文化元~十四年 1804-1817】    本姓は鈴木氏、江戸の産なり、為一の門に入りて画を画ぶ、後その女を娶りて、聟となり、雷斗の号を    譲らる、初め本所柳川町に住みしより、柳川を以て姓の如くせりとぞ、後に根岸大塚村に移りて、板刻    の密画を多く描き、また江戸の南嶺、浪花の玉山等が画風を慕ひ、国貞の筆意をも似せて、草双紙の挿    絵を画けり、此の人常に木偶を製作して巧みなりしと云ふ、天保三年辰十一月没す、享年五十余歳     (板本リスト四作 書名省略)〟    『増補浮世絵類考』に重信を以て、志賀理斎の男とするは非なり、理斎の男は二世重信にて、初号を重    山と云ひし人なり〟  ☆ 明治三十二年(1899)    ◯『新撰日本書画人名辞書』下 画家門(青蓋居士編 松栄堂 明治三十二年三月刊)   (国立国会図書館デジタルコレクション)(152/218コマ)   〝柳川重信    本姓は鈴木氏 本所柳川町に住するが故に 柳川を以て別氏となす 雷斗と号す 後根岸大塚村に移る    画を好み葛飾北斎に師事す 北斎其の才を愛し 女を以て之れを妻(めあ)はす 此の人刻苦研磋して     其の技に達し 悉く師の画風を得たり 後自ら工夫して一新格を出し 稍其の風を変ず 殊に彩色画に    至りては 全く師の画風と異なれり 又浪華の玉山が筆意を喜び 且つ国貞の浮世絵に倣ふて 之れを    描く 当時重信風と称して頗る愛翫し 大に世に行はる 後又南嵒が草画の筆法を描けり 傍ら人形制    作に名あり 天保三年十一月没す 年五十余(燕石十種)〟  ◯『浮世画人伝』(関根黙庵著・明治三十二年五月刊)   ◇「葛飾北斎系譜」p121   〝北斎長女、門人柳川重信ノ妻トナリシガ、重信ガ画ノ拙ナルヲ疎ミ家ニ帰テ夭死ス〟   〝重信 北斎門人 柳川氏、二世雷斗〟
     「葛飾北斎系譜」     ◇「柳川重信」の項 p122   〝柳川重信(ルビやながわ)    重信は俗称を鈴木重兵衛と呼びて、志賀理斎(通称理助)の子なり、師なくして北斎風の画を能くせり。    或年、本所一ッ目弁天の前なる、髪結床の障子に牛の時参りする女を、のぶせりの乞食が、犯さんとす    る図を画けるを、魚屋北渓之れを見て、画は社中の風なるが、かばかりに画んものを覚えず、何人が画    きしにかと、其家にて問ひしに、重信の筆になりしとの事に、夫より重信に会ひて、遂に我師北斎の門    弟とせしが、如何しけん北斎と確執を生じければ、北渓師の北斎をなだめ、頻りに仲裁を試みたれど、    北斎いかり強く、断然義絶に及びぬ、重信今は是非なく板下を画て筆硯を潤せしが、北斎是をも板元に    通じて禁じたれば、ます/\不和となりしにより、初代柳亭種彦種々とりなし双方を解いて、爰に和す    る事となり、後北斎の長女を娶り雷斗の号を譲られき。重信の姓を柳川と称するは、その住居本所柳川    町なればなりと、又一説に種彦の仲裁により和解に及びたれば、柳亭の一字を冠りて、此時より柳川と    呼ぶとも云へり。重信初めて草双紙を描きしは、文化四年の板にて、柳亭種彦が草双紙の初作なりと聞    へし『京一番娘羽子板』なりとか。晩年に至り、鈴木南嶺及び浪花の法橋玉山を慕ひ、又国貞の風に法    (*ノットリ)り、稗史の密画に巧なりき。又木偶の彫刻を好みて精工なりしと聞く。天保三年閏十一月廿八    日歿す、歳四十六、下谷坂本宗慶寺に葬りぬ〟    〈志賀理斎の子は重信の弟子重山(二代目重信)〉  ☆ 明治三十五年(1902)  ◯「集古会」第三十九回 明治三十五年九月(『集古会記事』明治35年11月刊)   〝清水晴風(出品者)大田蜀山肖像 柳川重信筆 一幅〟  ☆ 明治三十八年(1905)  ◯「集古会」第五十五回 明治三十八年十一月(『集古会誌』丙午巻之一 明治39年1月)   〝村田幸吉(出品者)芍薬亭撰『狂歌百千鳥』一枚 柳川重信筆にして文政頃の市中の女風俗挿絵あり〟  ☆ 明治四十四年(1911)  ◯『浮世絵画集』第一~三輯(田中増蔵編 聚精堂 明治44年~大正2年(1913)刊)   「徳川時代婦人風俗及服飾器具展覧会」目録〔4月3日~4月30日 東京帝室博物館〕   (国立国会図書館デジタルコレクション)   ◇『浮世絵画集』第二輯(明治四十五年(1912)五月刊)    (絵師)  (画題) (制作年代) (所蔵者)    〝柳川   「秋の夜」 文化文政頃  高嶺俊夫     柳川重信 「大原女」 文化文政頃  東京帝室博物館〟  ☆ 大正年間(1912~1925)    ◯「百人一首年表」(本HP・Top)(大正五年(1916)刊)    柳川重信画『習字兼用 小倉百人一首』肖像〔跡見2065〕    見返し「柳川重信画」晩翠堂主人書 東京書肆 籃外堂 大正五年刊〈原本未確認〉  ◯「集古会」第百二十九回 大正九年(1920)九月(『集古』庚申第五号 大正9年10月刊)   〝赤松磐田(出品者)柳川重信図 蜀山人肖像 一幅     くち/\にねぼけ/\といふ人のねほけぬ顔をわらふねほけ子 飯盛〟  ◯「集古会」第百三十三回 大正十年(1921)五月(『集古』辛酉第四号 大正10年8月刊)   〝矢島隆教(出品者)重信画 願掛注文帳 一冊 南北作 文化十四年刊〟  ☆ 昭和以降(1926~)    ◯『狂歌人名辞書』p98(狩野快庵編・昭和三年(1828)刊)   〝柳川重信(初代)、通称鈴木重兵衛、東都本所柳川町に住せしを以て終に柳川を氏名とす、初め北斎に    浮世絵を学び、北斎の娘を娶りて雷斗と号せり、後ち東都の南嶺、浪花の玉山等の画風を慕ひて一派を    為す、狂歌集に此人の挿画あるもの数部あり、天保三年閏十一月廿八日歿す、年四十六、下谷宗慶寺に    葬る〟    ◯『浮世絵師伝』p82(井上和雄著・昭和六年(1931)刊)   〝重信    【生】天明七年(1787) 【歿】天保三年(1832)閏十一月廿八日-四十六    【画系】北斎門人    【作画期】文化~天保    柳川を称す、鈴木氏、俗称重兵衛、曾て北斎の養子となり、其が長女(名は美與)と結婚して一子(男)    を儲けしが、故ありて離縁となり実家に帰りし由、雷斗の号は初め師北斎より与へられしものなりと云    ふ、彼れ本所柳川町に居住せしかば、人これを柳川重信と呼べり、よつて画姓とす、別に琴斎・鈴斎・    雨蕉斎等の号あり。彼が画く所、美人画及び読本草双紙の挿絵などありしが、文政五年大阪に行き、彼    地にて役者絵を画きし事あり、其の間、彼が門人となりて教へを受けし者(重春・信貞・国直及び其他)    もあり、当時大阪の斯界に相当の影響を与へしものゝ如し、されど滞在久しからずして帰東せしとぞ。    墓所下谷坂本、宗慶寺。彼が享年は、一説に五十余歳を伝へたり〟    ◯『浮世絵年表』(漆山天童著・昭和九年(1934)刊)   ◇「文化八年 辛未」(1811)p181   〝此年、柳川重信の画としての処女作『京一番娘羽子板子』成る。(出版は翌文化九年なり)按ずるに    『無名翁随筆』『増補浮世絵類考』等に、柳亭種彦初めての作、重信初めての画、京一番娘羽子板、西    村与八板、文化四五年の比なりとあるが、本書を実見するに序文に文化辛未(文化八年)秋稿成、壬申    (文化九年)孟春発販柳亭種彦誌と署せり〟
  ◇「文化一一年 甲戌」(1814)p185   〝此年、柳川重信の挿画に成る曲亭馬琴の『南総里見八犬伝』第一輯出版〟
  ◇「文政一〇年 丁亥」(1827)p203   〝正月、柳川重信の画ける『狂歌人物誌』出版〟
  ◇「天保元年(十二月十日改元)庚寅」(1830)p208   〝正月、柳川重信の画ける『狂歌百千鳥』出版〟
  ◇「天保三年 壬辰」(1832)     〝閏十一月二十八日、柳川重信歿。行年四十六歳。或はいふ五十余歳と。(重信は北斎の門人にして、そ    の女婿となり雷斗の号を譲らる。俗称鈴木重兵衛といひ、本所柳川町に住せしより柳川の姓とせり。馬    琴の里見八犬伝の挿画は重信・英泉・貞秀等の画くところなり)    正月、柳川重信の画ける『狂歌花街百首』出版。    七月、柳川重信の画ける『狂歌劇場百首』出版〟
  ◇「天保七年 丙申」(1836)p215   〝四月、国貞・国直・北馬・国芳・柳川重信・北渓・武清等の挿画に成る『とふの菅薦』出版〟    ◯「集古会」第二百十回 昭和十二年三月(『集古』丁丑第三号 昭和12年5月刊)   〝中沢澄男(出品者)柳川重信画 花紅葉一対若衆 合巻 一冊 柳亭種彦作 文化十三年板〟  △『増訂浮世絵』p238(藤懸静也著・雄山閣・昭和二十一年(1946)刊)   〝柳川重信    俗称は鈴木重兵衛、江戸の生で、本所柳川町に居住してゐたので、人呼んで、柳川重信といふた。よつ    てそれを画名とした。夙に北斎の門に学び、師法に熟し、師の長女美與と結婚して、北斎の養子となり、    雷斗の号を譲られたが、故ありて離縁となり、実家にかへつたといふ。    文政五年大坂へ行き、彼地で役者絵を画き、好評を博した。因つて来つてその門に学ぶもの多く、その    名あるものは重春、信貞、国直等である。大坂にその影響を与へたことは、注目すべきことである。    重信は北斎の門下でも、重信その人の特色があり、特殊な風格をもつてゐた。然し佶屈な点の多かつた    ことは惜しい。錦絵、読本の挿話の作が少くない。天保三年閏十一月廿八日四十六歳で没した。一説に    五十余歳と伝へられる〟
   「柳川重信-大坂弟子」    ◯「日本古典籍総合目録」(国文学研究資料館)   〔柳川重信画版本〕    作品数:65点(「作品数」は必ずしも「分類」や「成立年」の点数合計と一致するとは限りません)    画号他:重信・柳川・柳川重信    分 類:合巻33・狂歌16・読本8・人情本2・滑稽本2・艶本1・咄本1・絵本1・教訓1    成立年:文化2・9~14年   (29点)        文政1~8・10~13年(23点)(文政年間合計26点)        天保1・3~4年    (10点)    〈文化二年の作品として、「日本古典籍総合目録」は、芍薬亭等編の『狂歌五手船』をあげるが、渓斎英泉の『無名翁     随筆』以来、重信の初筆は文化九年刊の合巻『京一番娘羽子板』(柳亭種彦作)とされているのだが〉