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浮世絵文献資料館
浮世絵師総覧
☆ おうきょ まるやま 円山 応挙
浮世絵師名一覧
〔享保18年(1733)5月1日 ~ 寛政7年(1795)7月17日・63歳〕
※〔漆山年表〕:『日本木版挿絵本年代順目録』 〔目録DB〕:「日本古典籍総合目録」
☆ 明和五年(1768) ◯『平安人物志』「画家」〔人名録〕①8(弄翰子編・明和五年三月刊) 〝藤 応挙【字仲選、号儃斎、四条麩屋町東ヘ入丁】円山主水〟 ☆ 安永四年(1775) ◯『平安人物志』「画家」〔人名録〕①18(弄翰子編・安永四年十一月刊) 〝藤 応挙【字仲選、号儃斎、四条麩屋町東ぇ入丁】円山主水〟 ◯『宴遊日記』(柳沢信鴻記・安永四年閏十二月二日記) 〝藩より
応挙画
□□ふすま、同画山水表装出来、来る〟 ☆ 安永六年(1777)
◯「絵本年表」
〔漆山年表〕(安永六年刊)
応挙画
『奈羅花の岡』一巻 応挙筆 武禅筆 流光斎筆 法橋周峯筆 呉春 関月 仙果亭嘉栗序 ☆ 安永九年(1780) ◯『宴遊日記』(柳沢信鴻記・安永九年二月二十八日記) 〝
応挙
横幅山水啜龍へ遣ハす〟
〈啜龍は信鴻の三男の号〉
☆ 天明二年(1782) ◯『平安人物志』「画家」〔人名録〕①31(弄翰子編・天明二年七月刊) 〝藤 応挙【字仲選、号儃斎、四条堺町東入町】円山主水〟 ☆ 寛政四年(1792) ◯『壬子作遊日記』〔百花苑〕④16(頼春水記・寛政四年三月二十九日記) 〝黄葉村舎 君啓、應挙、楠亭、白桃、狙仙ノ畫ヲミル〟
〈頼春水(山陽の父)が、福山藩神辺の菅茶山の塾・黄葉村舎にて一見したもの。京都の市川君啓、円山応挙、西村楠 亭・森狙仙。白桃は未詳〉
◯『壬子東下日程暦』〔百花苑〕④62(頼春水記・寛政四年八月二十四日記) (頼春水、江戸に下る途中、寛政四年八月二十四日、草津宿、藤屋與左衛門宅にて) 〝與左(編者注、藤屋與左衛門)所ニ圓山ガ朝ノ一幅ヲヲサム。此画ニ来由アリ。胡屋某ハ圓山ガ妻ノ 縁アル者ニテ、恩義ヲ謝スルコトアリテ朝ヲ画キテ贈レリ。ソノカミ圓山ニ仙洞御所ヨリ御用アリシ 時、禁裏ヨリ御下ノ絵具ノ餘ヲモツテ朝ヲ画ケリ。ソノ胡屋ナルモノニ難アリテ京ヲ出シ時、與左コ レヲ救フコトアリ。是ヲ謝スルトテ此画ヲ贈レリ。圓山自ラ云フハ、画ハ長進上達ノ日モアルベシ。如 此絵具ハマタ得ベカラズ。彼朝ヲカヘシタランニハ二幅対三幅対ハ望ニ任スベシト云ト〟
〈春水は翌年、帰省途中の九月二十四日、この地に再び一見している〉
☆ 寛政五年(1793) ◯『癸丑掌録』〔百花苑〕④89(頼春水記・寛政五年一月記) (頼春水、江戸滞在中、正月記事) 〝方氏墨譜ニ南山玄霧ニアル豹ヲ寫シテ、圓山應挙ガ虎トシテ畫タル、備後神邊ノ良平宅ニアリ。作者用 意ヲ見ルベシ。同上千歳苓ト云ニアル松ヲ、五井ノ深みどりニ寫シタリトミユ〟
〈『方氏墨譜』は明人の墨匠・方于魯の「墨譜」〉
☆ 没後資料
☆ 寛政年間(1789~1800) ◯『橘窓自語』〔鼠璞〕上224(橋本経亮著・寛政年間記) 〝天明回禄以前まで、あるやごとなきわたりの御殿の襖障子及天井の絵、狩野永徳がかける画、そら飛雁 の間といふあり。襖障子にはあしに雁をかき、さて雁の飛立いきほひなるかたもあり。天井に、雁の空 とぶと下よりむかひみるさまに、雁の腹つばさのうらをかきたりける故に、空とぶ雁の間といふよし、 藤井維済といふ人物語せり。近世丸山応挙など、孔雀の飛さまを巧にかけりしかど、こゝにはいまだい たらず、むかしより巧なる画様あるものなり〟 ◯『北窻瑣談』〔大成Ⅱ〕⑮331(橘春暉著・寛政年間記・文政十二年刊) 〝応挙出て画風又一変し、近来唐画家も、和画家も皆、其風味を自然にまじゆる様に成りたり〟 ☆ 享和二年(1802) ◯『画道金剛杵』「古今画人品評」(中村竹洞著・享和二年刊・『日本画論大観』上184) 〝下上品 和画 蕭伯 是れ己の才に任せ邪道に陥る者なり、其の品格、野を絶す
(原漢文)
応挙
人物畜獣 筆跡甜美にして骨無し 住吉慶舟〟
〈これは人物動物画ほ評価。蕭伯は曽我蕭白。唐画の「下上品」は、山口雪渓・黄檗僧鶴亭・寒葉斎・伊藤若冲〉
〝下下品 和画 守景
応挙
山水〟
〈こちらは山水画の評価。守景は久隅守景。唐画の「下下品」は、福原五岳・望月玉蟾(山水)・勝野范古・大西酔月〉
〝甜 応挙 宋紫石 松花堂〟 〈「甜」は甘い・心地よいの意味〉
古今画人品評
☆ 享和三年(1803) ◯『著作堂一夕話』〔大成Ⅰ〕(曲亭馬琴著・享和三年序) (曲亭馬琴の京・大坂遊学は享和二年。『著作堂一夕話』はその折の見聞記) ◇「富士の農男并浅間の弁」の項 ⑩307 〝近時俳諧師芭蕉生涯富士の発句なく、円山応挙富士を画ずといふ。ばせをは佳句の得がたきを嘆じ、応 挙は富士を見ざるをはづ。視て句のなきと、見ずして画(グワ)せざるとうらみそれ何(イヅレ)かふかき。 共に道に心を用る人といふべし〟
〈「写生」の応挙にふさわしい挿話ではある〉
◇「烟花城書画展覧の目録」の項 ⑩343 (〝寛政十二年九月廿五日、東山双林寺において展覧する所の烟花書画の目録〟) 〝画軸 翠雲楼図【円山応挙画紫山□卿賛】柳巷菱屋所蔵〟
◇「烟花城書画展覧の目録」の項 ⑩346 (寛政十二年九月廿五日、東山双林寺において行われた烟花書画の〝本日席に掲げざる品物【十二種】”) 〝円山応挙画吉野像 田中氏所蔵〟
〈この目録は、曲亭馬琴がこの展覧会を直接観て書き記したリストではない。〝京師の友人より借抄す〟とある〉
◇「応挙が臥猪并野馬の話」項 ⑩349 (嘯風亭の話として、応挙、己の写生画「猪」を見て「病猪」と指摘した老翁の言を容れ、再び「臥猪」 を描きしこと。また西定雅の話として、応挙若かりし時、自ら描いた「馬」画を「盲馬」なりと指摘し た老翁の言を容れて健常の「野馬」を描きしこと)
〈嘯風亭は未詳。西定雅は俳諧の西村定雅。全文は次項『卯七園漫録』所収参照〉
☆ 文化六年(1809) ◯『卯花園漫録』〔大成Ⅱ〕23巻 p216(石上宣続著・文化六年序) 〝丸山応挙に臥猪の画を乞ふものあり、応挙いまだ曾て野猪の臥たるを見ず。心に是をおもふ、矢背に老 婆あり、薪を負てつねに挙が家に来る、応挙婆に問ふ、儞野猪の臥たるを見たる歟、婆云、山中たま/\ これを視る、挙云、儞かさねて是を見ば、はやく我に知らせよ、篤く賞すべし、婆諾す。一月計ありて、 老婆が家のうしろなる竹篁の中に、野猪来りて臥を、婆これを見て大によろこび、京にはしり行て挙に これを告ぐ、挙が云、儞まづかへれ、必しも驚すべからず、といふて、俄頃に酒食をたづさへ、門人一 両輩を将て矢背に至れば、野猪はなを竹中に臥したり、挙側筆を採て是をうつし、婆に謝して、其夜家 にかへり、其後これを清書して、工描既にとゝのふ。時に挙が家に鞍馬より来る老翁あり、この翁めづ らしく来ぬ、挙こゝろに臥猪の事をおもふ、側問て云、汝野猪の臥たるを見たるか、翁云、山中につね にこれを見る、挙画する所の臥猪を示して云、此画如何、翁熟視する事やゝ久しくして云、此画よしと いへども臥猪にあらず、是病猪也、といふ、挙おどろきて其故を問ふ、翁云、凡野猪の叢中ひ眠るや、 毛髪憤起、四足屈蟠、おのづからいきほひあり、僕山中にして病猪を見たる事あり、実に此画のごとし、 挙はじめて暁て、翁に臥猪の形容を問ふ、翁是を説くことはなはだ詳也、こゝにおゐて、挙さきの画を すてゝ、更に臥猪を図す、工夫もつぱら翁が口伝によれり、四五日ありて、矢背の老婆来ぬ、挙さきに 見たりし野猪を問へば、婆云、あやしむべし彼野猪、その結朝竹中に死たり、挙是を聞て、いよ/\翁 が卓見を感じ、ふたゝび其おとづれをまつに、一旬計を経て翁又来ぬ、挙後に図するところの画幅をひ らきて、是を見せしむ。翁驚歎して云、是真の臥猪也と、挙よろこびて厚く翁に謝す、其画もつとも奇 絶也、今はを京師某に家にあり、挙が画に心をもちゐし事斯のごとし【嘯風新話】、亦西定雅の話に、 応挙わかゝりし時、馬の草をはむ所を図せり、一老翁見て難じていふ、是盲馬也、挙云、其故如何、翁 云、夫馬の草をくらはんとする、かならず目を閉、これ草じに目を傷ん事をいとへば也、其馬叢中に鼻 づらを入れながら、その両眼なを見ひらきてありき、盲馬にあらずして何ぞや、挙ふかく其説を感ず、 抑この翁何人ぞ、野夫にも巧者ありとは、これらをやいゝつべき〟 ☆ 文化八年(1811) ◯『式亭雑記』〔続燕石〕①76(式亭三馬記・文化八年四月五日) 〝円山応挙の図也とありて、 ◯大像のうしろむきたるかた ◯異形の竜の全体 右は清水庄三郎主人より借得たり、【清水氏の朋友安喜永之助といふ人、当時石町一丁目に旅宿せり、 彼人の所蔵なり、安喜氏は京都の住、もとは阿波の産なるよし】法帖模刻正面摺の達者也、同人より恵 投ありし石摺一枚、予が蔵にあり、 白紙一枚の石摺、 鍾馗像【応挙画 皆川淇園賛也】 右も安喜氏蔵板〟 ◯『春波楼筆記』〔大成Ⅰ〕②31(司馬江漢著・文化八年成立) 〝京師に応挙と云ひ画人あり。生は丹波の笹山の者なり。京に出でゝ一風の画を描出す。唐画にもあらず。 和風にもあらず。自己の工夫にて、新意を出だしければ、京中之を妙手として、皆真似をして、甚だ流 行せり。今に至りては、夫の見あきてすたりぬ。又江戸は奥州の方へ属して、気質も京人のやうにはな し。唐画にも、和画にも似ぬ風は、呑みこまぬ事にて、吾が自身工夫したりと云ひては、夫は法がない と云ひて、請け取らず。然れども、画は其物の形を見て、其形に似るをよしとす。法手本とする処は、 即其物なりと心得たる者も無きにもあらず(以下略)〟
〈「唐画にあらず。和風にもあらず」というる応挙の画は江戸ではあまり評判よくないようだが、司馬江漢自身は、西 洋画法にも通じた人らしく「画は其物の形を見て、其形に似るをよしとす」として、肯定的である〉
☆ 文化十三年(1816) ◯『芦荻集』〔江戸狂歌・第十巻〕紀真顔著・文化十三年刊 (紀真顔詠) 〝円山応挙がかける狗の子のゑに 此人の手によくなれしゑのころのゑのこゝろさへざれて見へかり〟 ☆ 文政二年(1819) ◯『南畝集 二十』〔南畝〕⑤485(文政二年五月下旬賦) 〝題応挙画鶴 聯翩何処鶴 鑑影立汀洲 一片葦間雪 漣漪清不幽〟
〈どこで一見したものか記述がない〉
◯『半日閑話 次五』〔南畝〕⑱205 (文政二年十月記) (杉本茂十郎旧宅、恵比須庵の書画目録) 〝二階 襖、ばせを布、銀押。素川□(ママ)山水墨画。 床、応挙の竜。袋戸、素川四季の花〟
(英一蝶の項参照)
☆ 天保三年(1832) ◯『続諸家人物志』「画家部」〔人名録〕③180(青柳文蔵編・天保三年) 〝円山応挙 名ハ応挙、字ハ仲選、儃斎ト号シ、主水ト称ス。京ノ人。始ハ石田幽亭ニ学ブ、後ニ南北ノ宋画ヲシテ、 我邦探幽以来ノ名筆ヲ一変シテ、新意ヲ出シ務テ前脩ト趣ヲ異ニシ、コレヲ以テ一家ヲナス。寛政七年 歳六十三ニニテ歿ス〟 ◯『画乗要略』(白井華陽著・天保三年(1832)刊・『日本画論大観』中) 〝
応挙
応瑞、応受、応震、南峯、来章附 円山応挙 初名は仙嶺、後、改て応挙と為す。字は仲選、僊斎と号す。丹波人。蚤(ハヤ)く京に入る。石 田友汀に学び、迥(ハルカニ)然として藍を出づ。多く古名蹟を摸す。然れども敢へて規傚〈マネ〉に泥まず。 自ら生面〈新機軸〉を開く。凡そ花鳥草獣蟲魚、皆な其の生を写す。曲(ツブサ)に其の状を尽くす。筆姿 娬媚、設色の精緻、匠心の微妙、畢(コトゴ)とく顕(アラハ)れて、遺すこと無し。兼ねて山水人物を工じ、 遂に一代の作者と為る。名海内に馳す。諸士争て之を慕ふ。是に由て平安の画格一変す。相ひ伝ふ。応 挙晩年、街を過(ヨギリ)て、鶏を見る毎(ゴト)に杖を駐めて、之を熟視すること久し。固より鶏の画に長 ず。祇園祠の歩障のごときは、観者歎美せざること莫し。而して尚を此の如し。宜(ムベ)なるかな、其 の精絶を得ること。歿する年六十三。其の子応瑞、字は儀鳳。家法を守る。応瑞の弟応受、字は君賚。 出て木下氏を継ぐ。早世す。人之を惜しむ。応瑞の子応震、字は仲恭。写景に長ず。応瑞の弟子、図司 南峯・中島来章、各画を能(ヨク)す 北汀先生曰く「応挙専ら動植に就いて其の形を写す。故に能く真に逼る。山水を写すが如きに至ては 形似の為に縛くせ(ククラレ)らるなり。全く真趣没し(ナシ)。山水の妙、烟靄有無明暗、摸すべく摸すべか らざるの間に在ることを知らず。又、竊(ヒソカ)に以謂(オモヘラク)、水墨の人物山水、皆な狩野氏の余臭を 為ることを免れず。余応挙が為めに深く之を惜しむ」と 梅泉曰く「古人言へる事有り、神韻を形似の外に求む。往昔の諸家、此の言に拘り、形似を遺し、徒 (イタヅラ)に伝来の模本に倣ふ。故に虎を画けば犬の如し。鶴雁鳫鳬鴨の属に至て、其の誤り尤も甚し。 応挙深く摸搓の非を歎き、専ら動植に就て其の形を写す。近世形似の精しきこと、往昔の諸家に過る は、乃ち応挙の力なり」と〟
(原漢文)
☆ 天保八年(1837)
◯「絵本年表」
〔漆山年表〕(天保八年刊)
円山応挙画
『円翁画譜』二冊 円山応挙翁図 海屋序 山口素絢跋 吉田新兵衛板 ☆ 天保十年(1839)
◯「絵本年表」
〔目録DB〕(天保十年刊)
円山応挙画
『欽慕画譜』一冊 応挙・呉春等画 源貞幹編 菱屋孫兵衛板 ☆ 天保十二年(1841) ◯『椎の実筆』〔百花苑〕⑪402(蜂屋椎園著・天保十二年序) 〝宗達、光琳が草花、松花堂布袋、英一蝶が人物、平安の四竹、大雅堂、謝春生山水、応挙幽霊、森祖猿、 祇園南海梅、柳里恭竹〟 ☆ 天保年間(1830~1843) ◯『無可有郷』〔百花苑〕⑦381(詩瀑山人(鈴木桃野)著・天保期成立) (「浮世絵評」の項) 〝浮世画の名人は、よく其時の風俗を写すをよしとす。然れども画の名ありてより此かた、筆意といふこ とを言ふ故に、蘭画のごときものは品を下して画に齢せず。是におゐて祖僲、応挙の輩写生より筆意を 加へて両全の謀をなす〟 ◯『反古のうらがき』〔鼠璞〕中85(鈴木桃野著・嘉永三年記) 〝大雅堂、文晁、応挙ナドノ画ハ偽シ易シ。椿山ノ画ニ至テハ、天真爛漫ニ企及スベカラズ。夫サヘ近時 偽物オビタヾシクアリテ、庸凡ハミナアザムカルヽ也。予鑑裁ニ暗シトイヘドモ、椿山ノ画ニ至ツテハ、 暗中模索スルモ失ハジ〟 ☆ 安政二年(1855) ◯『古今墨蹟鑒定便覧』「画家之部」〔人名録〕④229(川喜多真一郎編・安政二年春刊) 〝円山応挙【初ノ名ハ仙嶺、後応挙ト改ム、字ハ仲選、儃斎ト号ス、通称主水、京師ノ人ナリ、初メ友汀 ニ学ビ、出藍ノ才アリ、多ク古名蹟ヲ摸シテ、敢テ規傚ニ泥マズ、自ラ一見識ヲ開ク、凡ソ花鳥草獣蟲 魚、皆其生ヲ写シ、曲サニ其形状ヲ尽ス、筆姿娬媚、設色ノ精微、匠心ノ微妙、尽ク遺ス事ナシ、兼テ 山水人物ニ至ル、春画等ニ至ルマデ工ミナリ、故ニ海内ニ震ヒ、諸士争フテコレヲ索メ、競フテ門ニ入、 業ヲ受ル多シ、実ニ京阪ノ画風一変ス、探幽以来ノ一大家ト云フベシ、寛政七年七月十七日歿ス、年六 十三】 〔署名〕「應舉写」「應舉」 〔印章〕「應舉之印」・「源氏」・「應」「舉」・「仲選」・「僲嶺」・「仲選氏」・「醜」・「懐雲」 「皇都下藤氏字仲均」・「應舉之記」・「平安圓氏」・「儃斎」・「平安人圓氏字仲均」 「画鬼」・「皇都圓氏」・「圓氏之印」・「字仲選號儃斎」 ☆ 安政六年(1859) ◯『在阪漫録』〔百花苑〕⑭333(久須美祐雋著・安政六年七月) 〝今年己未の七月、尼崎又右衛門より払物のよしにて、丸山応挙が筆の幽霊の図を慰にさし越せしにより、 四五日留置、壁上へ展置て熟覧せしに、美しき幽霊にて其齢ひ十七八にもなるべき女の容貌なり、表具 も画きし物にて、幽霊は素り腰より末はなし。表具も是に效ひて岱表具をうし浅黄に彩り、幽霊と共に 下の方は淡く消て彩りなく、八角なる水晶の軸を附たり。此画き方思ひ付の様なれども、我等が目にて 見る時は面白からず。且何ゆへにかく表具迄も下の方は消し様に画きし事に哉、其意解し難し。是にて は全く懸ものに画し幽霊が懸ものともに幻出せし訳にて、真の幽霊とは思はれざる事にて、更に風致な く面白からざる趣向也。これに比れば、画工は劣るとも、先年先君の御好みにて、表装を脱し出し体に 表具の上の方へ幽霊の頭抽て出し如くに御注文ありて、其通りに出来せし所蔵の一軸の方、万々風致あ りて面白き事也。此応挙の幽霊、眼中之様子に正筆に相違もあるまじく思はるれども、是と感心する程 のものにあらず。素々応挙が画は写生の妙手にて、花鳥人物とも飛動の勢ひありて工手精筆には相違な けれども、風韵高到の見処は更になく、夫故予は此画風は強て好まざるゆへにや、偶其真筆出来よろし きものを借得て展覧するに、両三日も熟覧する時は自然あき厭ふ心ありて、永く愛観には堪ず。帰る処 は工手なれども、其筆力の及ぶ限りにて、筆外の風致余韵あらさるゆへなるべし。曽我蕭白が画を乞ふ ものあれば答ていふに、足下は真の画を珍るにや、絵図を所望せらるゝにや、多分絵図かく事は丸山応 挙が名人なり、同人に請ひ給へ、我は真の画のみにて絵図は不得手なりと云しも、誣言にはあらざる也〟 ☆ 文久元年(1861) ◯『雲錦随筆』〔大成Ⅰ〕③278(暁鐘成著・文久元年序) (赤穂義士関係の記事) 〝或家の蔵に忠臣蔵の始終を写せし画巻物あり、其中に刃傷の図に同朋の箒持たる形成(アリサマ)あり目新ら しきを以てこゝに模写す〟(模写図あり) 〝世に圓山應挙の画なりといひつたふ、左も有べき歟、実に名画なり〟 ☆ 文久二年(1862) ◯『本朝古今新増書画便覧』「ヲ之部」〔人名録〕④324(河津山白原他編・文化十五年原刻、文久二年増補) 〝応挙【円山氏、初名仙嶺、後改(空白)字ハ仲選、号ハ儃斎、又主水、初メ画ヲ右田幽汀ニ学、後新意 ヲ出シ一家ヲ成ス、探幽以来ノ名筆、近世此ノ筆意ヲ準的シテ一変ス、京師ノ人、寛政七年ニ歿ス、六 十三歳】〟 ☆ 明治十三年(1881) ◯『観古美術会出品目録』第1-9号(竜池会編 有隣堂 明治14年刊) (観古美術会(第一回)4月1日~5月30日 上野公園)
(国立国会図書館デジタルコレクション)
◇第三号(明治十三年四月序) 〝
円山応挙
盛衰小町之図 二幅(出品者)永岡善八 屏風 一隻(出品者)永岡善八 厳島之図 一幅(出品者)青木信寅〟 ◇第四号(明治十三年四月序) 〝
円山応挙
許由巣父之図 二幅(出品者)樋口敬明 ◇第五号(明治十三年四月序) 〝
円山応挙
屏風絵 水禽之図六枚・鯉魚之図六枚 十二枚(出品者)伊達宗城 鯉魚之図 三幅(出品者)大久保教興 龍之図 一幅(出品者)栗山善四郎〟 ◇第六号(明治十三年四月序) 〝
円山応挙
山水之図 一幅(出品者)山田鉎一郎 鶴之図 一幅(出品者)山田鉎一郎〟 ◇第七号(明治十三年五月序) 〝
円山応挙
鶺鴒之図 一幅(出品者)新◎啓次〟 ◇第八号(明治十三年五月序) 〝
円山応挙
鷺鴉之図 二幅(出品者)静岡県 山田鉎一郎〟 ◇第九号(明治十三年五月序) 〝
円山応挙
鯉之図 二幅(出品者)伊達宗城 亀之図 一幅(出品者)鈴木栄太郎 ☆ 明治十四年(1881) ◯『第二回観古美術会出品目録』(竜池会編 有隣堂 明治14年刊) (第二回 観古美術会 5月1日~6月30日 浅草海禅寺)
(国立国会図書館デジタルコレクション)
◇第一号(明治十四年五月序) 〝
円山応挙
芭蕉賛公美 一幅(出品者)都筑成幸 石上弾琴図 一幅(出品者)高木正年 富士越龍図 一幅(出品者)伊達宗城 龍虎図 二幅(出品者)伊達宗城〟 ◇第二号(明治十四年五月序) 〝
円山応挙
花鳥画 一幅(出品者)柴田是真 牛画 (空白)(出品者)杉山雞児 花鳥画 一幅(出品者)柴田是真 ◇第三号(明治十四年五月序) 〝
円山応挙
応挙 呉春 紹真合作 一幅(出品者)安藤星城 松鶴図 一幅(出品者)荒木寛一〟 ◇第四号(明治十四年五月序) 〝
円山応挙
日出虎画 一幅(出品者)三好重臣 狗子画 一幅(出品者)山越紫梅 ☆ 明治十五年(1882) ◯『第三回観古美術会出品目録』(竜池会編 有隣堂 明治15年4月序) (第三回 観古美術会 4月1日~5月31日 浅草本願寺)
(国立国会図書館デジタルコレクション)
◇第一号(明治十五年四月) 〝
円山応挙
猿図 一幅(出品者)新村七蔵〟 ◇第二号(明治十五年四月序) 〝
円山応挙
十六羅漢 一幅(出品者)丸山伝右衛門 円山主水画 三幅(出品者)水野忠敬〟 ◇第三号(明治十五年四月序) 〝
円山応挙
反魂香李夫人図 一幅(出品者)中沢千蔵 雞若竹図模古画 二幅(出品者)松方正義 梅渓遠雪図 一幅(出品者)中沢千蔵 牧童吹笛図 一幅(出品者)松方正義 鷹図 一幅(出品者)松方正義 小犬図 一幅(出品者)鴨下義復〟 ◇第四号(明治十五年四月序) 〝
円山応挙
五柳先生図 一幅(出品者)竹原左右 柳潭漁父図 一幅(出品者)九我通久 秋夜山水 一幅(出品者)吉川忠貞 鯉水鳥画 十二枚(出品者)伊達宗城 関羽像 一幅(出品者)九我通久 山水 一幅(出品者)九我通久 袋戸 四枚(出品者)田中四郎左衛門 応挙画 一幅(出品者)奈良勇徳〟 ☆ 明治十六年(1883) ◯『第四回観古美術会出品目録』(竜池会編 有隣堂 明治16年刊) (第四回 観古美術会 11月1日~11月30日 日比谷大神宮内)
(国立国会図書館デジタルコレクション)
◇第一号(明治十六年十一月序) 〝
円山応挙
山水画 一幅 (出品者)高畠藍泉 列子 一幅 (出品者)ヘノロサ〟 ◇第二号(明治十六年十一月序) 〝
円山応挙
楊貴妃 (空白)(出品者)九鬼隆義〟 ☆ 明治十七年(1884) ◯『第五回観古美術会出品目録』(竜池会編 有隣堂 明治17年刊) (第五回 観古美術会 11月1日~11月21日 日比谷門内神宮教院)
(国立国会図書館デジタルコレクション)
◇第一号(明治十七年十一月序) 〝
円山応挙
鯉魚図 三幅対(出品者)毛利元徳〟 ◇第二号(明治十七年十月届) 〝
円山応挙
琴棋書画図 一幅(出品者)原善三 深林夜月 一幅(出品者)藤井希璞 雪中山水 一幅(出品者)川端玉章 雲龍図 一幅(出品者)川端玉章 山水図 一幅(出品者)川端玉章 馬図 一幅(出品者)川端玉章 菊図 一幅(出品者)川端玉章 鴨図 一幅(出品者)川端玉章〟 ☆ 明治十八年(1885) ◯『第六回観古美術会出品目録』(竜池会編 有隣堂 明治18年刊) (第六回 観古美術会 10月1日~10月23日 築地本願寺)
(国立国会図書館デジタルコレクション)
◇第二号(明治十八年十月序) 〝
円山応挙
雪中戯狗図屏風 一双(出品者)二條基弘〟 ☆ 明治十九年(1886) ◯『第七回観古美術会出品目録』(竜池会編 有隣堂 明治19年刊) (第七回 観古美術会 5月1日~5月31日 築地本願寺)
(国立国会図書館デジタルコレクション)
◇第一号(明治十九年月序) 〝
円山応挙
京都婦女図 中応挙筆 成拙賛 左右源琦筆 千蔭、春海賛 三幅(出品者)大坂 鴻池善次郎 中人物 左右竹 三幅(出品者)徳川篤敬 文君黄壚図 一幅(出品者)大坂 指吸千太郎 山水 一幅(出品者)松尾四郎〟 ☆ 明治二十七年(1894) ◯『名人忌辰録』下巻p8(関根只誠著・明治二十七年刊) 〝円山応挙 姓源、幼名岩次郎、後称主水、号仙嶺、亦価斎、丹波国桑田郡穴田村、農家の子なり。京都石田幽汀の 門、後一家を為す。寛政七卯年七月七日歿す、歳六十三。洛の四條智恩院末寺悟真院に葬る。法号円誉 無三一妙居士〟 ☆ 明治二十九年(1896) ◯『諸画家系普鑑及年代図形高評品』(吉田竹次郎編 東京 前羽商店 明治二十九年十二月刊)
(国立国会図書館デジタルコレクション)
(円山ノ部)
〝
円山応挙ノ系
福地自(ママ)瑛
〈福智白瑛が正しい〉
〝
菊池容斎ノ系
菊地容斎
武田画法ヲ狩野円乗、円山応瑞ニ学ビ、終ニ一派ヲナス。明治廿年卒、東京谷中墓地ニ葬ル。著ストコロ 前賢故実アリ〟
勝川椿月 渡辺省亭 松本楓湖 甲田秀湖 鈴木華邨 三島蕉窓
〟 〝
呉春ノ系
豊彦
岡本子彦、葒村、澄神斎、弘化二年歿ス
長山孔寅
子亮
柴田是真
久保田桃水
落合芳幾
〈芳幾がなぜ呉春の系譜に入っているのか分からない〉
同玉女
〟
〈芳幾の娘という意味か〉
☆ 明治三十五年(1902) ◯『病牀六尺』「六」明治三十五年五月十二日(正岡子規著・底本岩波文庫本) 〝
呉春
はしやれたり、
応挙
は真面目なり、余は
応挙
の真面目なるを愛す〟
〈円山応挙と、与謝蕪村の流れから応挙に接近して四条派を起こした松村呉春との比較である。子規は短歌・俳句の世 界に写生の説を唱えて革新運動を起こしたが、やはり写生派である円山応挙や四条派には共感するところがあったの だろう〉
☆ 明治三十六年(1903) ◯『明治東京逸聞史』②p111「書籍」明治三十六年(森銑三著・昭和44年(1969)刊) 〝書籍 〈東京経済雑誌三六・二・七〉 田口鼎軒が「書籍と客室の粧飾」と題する一文を書いて、わが国の貴顕、紳士、豪商、大会社等は、 洋風の客室を作りながら、まだこれを飾るに書籍を以てすることを知らぬ。どうか一歩を進めて、書籍 が客室の飾りになることを知って貰いたいといい、贋物の
探幽
や
応挙
の絵を掲げるのを止めて、適当な 書籍を陳列して貰いたい、といっている。当時のわが国には、まだまだ装飾の役目を果すだけの美しい 洋装本は少なかったのであるが、客間に書棚を置くことなどは、考えられていなかった〟 ☆ 昭和年間(1926~1987) ◯『浮世絵師伝』p24(井上和雄著・昭和六年(1931)刊) 〝応挙 【生】享保十八年(1733) 【歿】寛政七年(1795)七月十七日-六十三 【画系】石田幽汀門人 【作画期】宝暦~寛政 姓は藤原、後ち源に改む、円山氏、幼名岩次郎(又は与吉)、後ち主水と称す。丹派国桑田郡穴太村の 農家に生れ、十一二歳の頃京都に出でて、四條通新町東入る岩城と云へる呉服店に雇はれしが、間もな く転じて四條通柳馬場東入る中島(尾張屋)勘兵衛方に仕ふ、蓋し、此家は玩具商にして、自然画家な どとも往来せしかば、彼は其機会に石田幽汀(狩野派)の門人となりしものなるべし。初め人形の彩色 などに従事せしが、画法を学び得て始めて夏雲と号す(後ち僊嶺、更に応挙と改む)。恰も其頃(宝暦 年間)、和蘭陀渡来の眼鏡絵を、中島方にて取扱ひ居りしが、其図の種類には限りあれば、何とか目先 を変へむものと考へ、遂に応挙をして種々の題材にて眼鏡絵を画かしめしなり。当時彼れは、中島の世 話にて四條道場(今の新京極の一部)に居を構へ、自筆の絵を店頭に並べて自から之れを鬻ぎ居りしが、 右の眼鏡絵を画くに方りて、偶然にも写生と遠近法などの暗示を受け、それより自己の画風に革新の第 一歩を進めしなり。されば、彼が後年の大成も、実に斯かる玩具に等しき眼鏡絵に胚胎せしは一奇と謂 ふべきか。(久保田米僊氏談話筆記参考) 彼が画きし眼鏡絵には、肉筆と版画(筆彩)とあり、肉筆には京都名所及び支那風景等数図、版画には 京都名所及び其他の図若干枚あり、而して、或る図には裏面に「応挙」(下に花押)としたる署名印を 黒肉にて押せし例あり。如上諸図の作画期は、宝暦末より明和年間に及びしものゝ如し。(黒田源次氏 著『西洋の影響を受けたる日本画』参考) 彼は、最初斯くの如き画歴を有し、後には円山風(或は四條風)の影響を後進に及ぼす所多く、其の間 上方浮世絵と相関聯する所尠からず、依てこゝに収録することゝしたり。彼が墓所は京都四條通大宮西 入る悟眞寺(俗稱応挙寺)、法名は円誉無三一妙居士と云ふ〟 ◯『浮世絵年表』(漆山天童著・昭和九年(1934)刊) ◇「寛政九年 丁巳」(1797)p161 〝十一月、北尾政美・竹原春泉斎・其他浮世絵師にあらぬ、石田友汀・西村中和・原在正・山口素絢・田 中訥言・円山応挙・同応受・月渓・奥文鳴・土佐光貞・佐久間艸偃・下河辺維恵・狩野永俊・ 大雅堂余夙夜の挿画に成れる『東海道名所図会』出版〟
〈大雅堂余夙夜は二世大雅堂・青木夙夜〉
◯「日本古典籍総合目録」
(国文学研究資料館)
〔丸山応挙画版本〕
作品数:11点(版本4)
(「作品数」は必ずしも「分類」や「成立年」の点数合計と一致するとは限りません)
画号他:応挙・円山応挙 分 野:絵画6・絵巻2・印章1・農業1・魚介1 成立年:天明6年 (1点) 天保8・10年(2点) 嘉永3年 (1点)