Top浮世絵文献資料館浮世絵師総覧
 
☆ まさのぶ おくむら 奥村 政信浮世絵師名一覧
〔貞享3年(1686) ~ 明和1年(1764) 一説2月14日・79歳〕
 ※〔漆山年表〕:『日本木版挿絵本年代順目録』〔目録DB〕:「日本古典籍総合目録」国文学研究資料館   〔白倉〕  :>『絵入春画艶本目録』   『赤本黒本青本書誌』「赤本以前之部」木村八重子著 日本書誌学大系95   『浮世草子考証年表-宝永以降』長谷川強著 日本書誌学大系42   『初期浮世草子年表』野間光辰著 日本書誌学大系40  ☆ 元禄十一年     ◯「絵本年表」〔漆山年表〕(元禄十一年刊)    奧村派『太閤記』半紙本三冊 画工不明 鳥居或ハ奥村 うろこ形や板     ☆ 元禄十四年(1701)     ◯「絵本年表」〔漆山年表〕(元禄十四年刊)    奥村政信画『娼妓画幉』大本一冊 和画工 奥村源八政信画 元禄十四歳辛巳八月吉辰 栗原長右衛門板          本書ハ前の清信のものを政信が模写して再刻したる也〈政信=源八〉     ◯『耽奇漫録』下246(日本随筆大成編輯部・吉川広文館・平成六年刊)    (「奥村政信遊女絵本」)   〝奥村政信遊女の画像折本一巻    外題の紙うせて署名詳ならず、刊行の年行の書肆の名、今は左の如きものなし。是いま茲より百廿八年    前の古風也、著作堂按ずるに、この書の開板は元禄十四年なり。夫より十一年をへて、書肆再刷せしと    き年号と支干を彫かへたり。予(馬琴)が外姪の祖父の時より其家に蔵(一字不明)せるもの、是と同    本にて奥に元禄十四歳辛巳云々とありければ、高尾薄雲等はみな元禄中の名妓なるものなり。巻中に図    する所の遊女すべて二十人、春日野に始りて薄雲に終わる。高尾は第六にあり。此中花紫と小倉の両妓    は古人山東庵が奇跡考に載たり。山東のもてるは折本の残缺にて、はつかに二枚ありしにやと思ふのみ、    久きことなれば忘れたり    (「高尾」の画像あり)    和画工奥村源八政信図(「(一字不明)信」印)     正徳元歳 辛卯八月吉辰      横山同朋町 竹田長右衛門板〟    〈出品は著作堂(馬琴)。正徳元年の再版の方を出品したのである〉     ☆ 元禄十六年(1703)     ◯『初期浮世草子年表』(元禄十六年刊)   『好色花すまふ』半紙本 五冊 元禄十六年刊     画工 奥村源八     版元 江戸 梅村八兵衛板     (「年表」は渋井清『初期板画』に拠るとする)    参考   『本之話』三村竹清著(三村竹清著・昭和五年(1930)十月刊)   (『三村竹清集一』日本書誌学大系23-(2)・青裳堂・昭和57年刊)   〝好色花すまふ、半紙本五冊、奥書    元禄十六年癸未正月吉日 絵師 奥村源八 江戸日本橋南一丁目 梅村八兵衛板〟     ◯『奥村政信画譜』(宮武外骨・明治四十三年(1910)刊)   ◇浄瑠璃本(元禄十六年刊)    奥村政信画『東鑑三代勝軍』六段本 其の挿画政信の筆に似たるものなりし    ◯「艶本年表」〔白倉〕(元禄十六年刊)    奥村政信画『好色花ずもふ』墨摺 半紙本 五冊「絵師奥村源八」梅村八兵衛板 元禄十六年     ☆ 宝永元年(元禄十七年・1704)     ◯「絵本年表」〔漆山年表〕(宝永元年刊)    奥村政信画『養老瀧』二巻 奥村政信画 有疑     ◯「日本古典籍総合目録」(元禄十七年)   ◇浮世草子    奥村政信画『夕顔利生草』五巻五冊 奥村政信画 松の緑作「宝永元序、同五刊」     ☆ 宝永二年(1705)     ◯『浮世草子考証年表-宝永以降』(宝永二年刊)    『好色又寝の床』半紙本 五巻五冊 宝永二年正月刊    (渋井清「近世小説と挿絵」より)     署名「絵師 奥村源八郎政信書之」     刊記「宝永乙酉歳正月吉日 日本橋南詰 万屋清兵衛板」     〈政信=源八郎。「日本古典籍総合目録」は作者を「佐つき」とする〉      ☆ 宝永三年(1706)     ◯「日本古典籍総合目録」(宝永三年年刊)   ◇絵本    奥村政信画『勇将御伽婢子』奥村政信画(注記「絵本の研究による」)   ◇浮世草子    奥村政信画『和気の裏甲』五巻一冊 奥村政信画 芦帆作     ◯『浮世草子考証年表-宝永以降』(宝永三年)   『裏甲(ウチカブト)』半紙本 五巻五冊 宝永三年正月刊     序 「如月」 跋「臨川亭舟月」     刊記「宝永三丙戌暦 孟春吉辰 大和絵師 奥村政信図之 書肆 須原屋茂兵衛刊板」     〈「古典籍総合目録」は『和気の裏甲』芦帆作とする〉     ☆ 宝永四年(1707)     ◯「絵本年表」〔漆山年表〕(宝永四年刊)    奥村政信画    『若草源氏物語』六巻「大和絵師奥村親妙政信図」須藤権兵衛板     『わかくさ物語』二巻「大和絵師奥村政信」   うろこかた屋孫兵衛板     ◯『浮世草子考証年表-宝永以降』(宝永四年刊)   『男女比翼鳥』大本 六巻六冊 東の紙子作 宝永四年正月刊     序 「東の紙子」     刊記「宝永四丁亥年正月吉祥日 風流大和絵師 奥村親妙政信(印記「奥(屯+邑)政信」)        東武書肆 芝神明門前 山田屋三四郎版行」   『好色むすび昆布』半紙本 五巻五冊 風短子鬼角作 宝永四年正月刊     序 「宝永四亥初春 風短子 すみ(印記「鬼角」)」     目録「大和画(一字表示不能)奥村親妙政信」     刊記「宝永四年亥正月日 書林板(印記「珍本」)」    ◯「艶本年表」〔白倉〕   ◇艶本(宝永四年刊)    奥村政信画『結び昆布』墨摺 半紙本 五冊「大和画師奥村新妙政信」風短子鬼角作 宝永四年     (白倉注「改題再摺本に『好色たま子ざけ』あり」)     ◯「日本古典籍総合目録」(宝永四年年刊)   ◇浮世草子    奥村政信画    『好色むすび昆布』五巻五冊 奥村政信画 風短子鬼角作    『若草源氏物語』 六巻   奥村政信画 梅翁(奥村政信)作    『男色比翼鳥』  六巻六冊 奥村政信画 東の紙子作    『比翼連理丸』  奥村政信画(注記「絵本の研究による」)     ☆ 宝永五年(1708)     ◯「霞亭文庫」(東京大学附属図書館)   ◇浄瑠璃本(宝永五年刊)   『唐玄宗』署名「ゑし 奥村政信」
   『唐玄宗』奥村政信画(電子版霞亭文庫・古浄瑠璃本)     ◯「絵本年表」〔漆山年表〕(宝永五年刊)    奥村政信画『元三大師御籤鈔』一冊 奥村政信画     ◯『初期浮世草子年表』(宝永五年刊)   『関東名残農袂』半紙本 五巻五冊 忍岡やつがれ作 宝永五年三月刊     序 「武陽忍岡やつがれ」     刊記「宝永五戊子三月大吉日 江戸駿河町 和長兵衛梓行」     (「年表」は「奥村政信画作で序は自序か」とする)   『遊貴之衣司香(ゆきのゑじかう)』大本 五巻五冊 種仙作 宝永五年三月刊     序 「宝永五戊子三月上烏 種仙」     署名「画師奥村政信図」     刊記「皇都書林 智恩院前 横山松之丞/江戸書林 浅草田町 辻村五兵衛 開板」   『風流門出加増藏』     画工 奥村政信      (「年表」は本書を元禄二年刊『【西鶴】彼岸桜』の解題改竄本とする)     ◯『赤本黒本青本書誌』「赤本以前之部」(宝永五年頃刊)   ◇赤本   『ぎおん大まつり』 署名「絵師奥村政信」 題簽「木下正利」    〈解題、内容から宝永五年頃の刊行とする〉     ◯「日本古典籍総合目録」(宝永五年刊)   ◇浮世草子    奥村政信画    『関東名残の袂』五巻五冊 奥村政信画 忍岡やつかれ作    『雛鶴源氏物語』六巻六冊 奥村政信画 梅翁(奥村政信)作    『遊貴之衣司香』五巻五冊 奥村政信画 種仙作    『風流呉竹男』 五冊   奥村政信画     ☆ 宝永六年(1709)     ◯「絵本年表」〔漆山年表〕(宝永六年刊)    奥村政信画    『紅白源氏物語』六冊「大和絵師奥村親妙政信図」梅翁作 須藤権兵衛板      序「容膝軒」(注記「若草源氏物語の改題本」)     ◯『浮世草子考証年表-宝永以降』(宝永六年刊)   『色羽二重』半紙本 五巻五冊 宝永六年     序 「東武大和画師 奥村政信(印記「政信」)」    (「年表」は「冊数・刊年は『日本小説年表』による」とする)     ◯「日本古典籍総合目録」(宝永六年刊)   ◇浮世草子    奥村政信画    『風流鏡か池』 六巻六冊 奥村政信画 独遊軒好文の梅吟作    『紅白源氏物語』六巻六冊 奥村政信画 梅翁(奥村政信)作    〈宝永六年序。宝永四年刊『若草源氏物語』の改題本〉     ☆ 宝永七年(1710)     ◯「絵本年表」〔漆山年表〕(宝永七年刊)    奥村政信画『若草げんじものがたり』六巻 奥村政信 隠士梅翁書 山口屋藤兵衛板          序「宝永七の年初春 梅翁書」  ◯『奥村政信画譜』(宮武外骨・明治四十三年(1910)刊)   ◇浄瑠璃本(宝永七年刊)    奥村政信画『八まん太郎』六段本 一冊 宝永七年版     ☆ 宝永年間(1704~1711)     ◯「絵本年表」〔漆山年表〕(宝永年間刊)    奥村政信画『きほひさくら』大折「東武大和画工奥村政信画」    『きおひさくら』奥村政信画(稀書複製会 米山堂 昭和7年刊 国立国会図書館デジタルコレクション画像)    〈この複製本は外題を「きおひさくら」としている〉  ◯『燕石雑志』〔大成Ⅱ〕⑲429(飯台簑笠翁(曲亭馬琴)著・文化七年刊)   〝(模写あり)坂田金平入道(署名)東武大和画工 奥村政信図〔政信〕印〟   〝きほひさくら 全一冊折本なり/綉梓の書肆/奥村源八郎政信画/発兌の年月日詳ならず〟   〝宝永の年間の絵本にしてきほひ桜と題す。図する所の猛者すべて十余人、将門純友にはじまりて金平入 道を巻尾とせり。金平が祝髪の図は、画工の滑稽歟。これらを見ても当時の流行をしらん〟     ◯『赤本黒本青本書誌』「赤本以前之部」   (宝永年間刊 赤本)〈刊年未詳であるが、仮に宝永年間に入れた〉   『豆まき男』 (奥村政信画)    〈解題、朝倉無声著『日本小説年表』「豆まき男 奥村政信画」を引く〉     ◯「艶本年表」(宝永年間刊)    奥村政信画    『蛤源氏歌仙貝』三冊 奥村政信画 宝永頃 〔目録DB〕(注記「日本艶本目録(未定稿)による」)    『好色三ツ盃』 一冊 奥村政信画 宝永頃刊〔目録DB〕(注記「日本艶本目録(未定稿)による」)    『夢物語講釈』 三冊 奥村政信画 宝永頃刊〔目録DB〕(注記「日本艶本目録(未定稿)による」)    『夢想頭巾』  墨摺 横本 三冊 口絵・筆彩色 宝永期〔白倉〕     (内題「愛敬三面大黒」白倉注「稀覯本のせいか、外題、内題とが別本のように記述されていることが多いが、同一      本。「豆男物」の一つ。だが、角書にもあるように『伊勢物語』から趣向をとり、それに自らの俳諧をもからめると      いう、卓越した趣向を示したものだ」)     ◯「日本古典籍総合目録(宝永年間刊)   ◇伝記    奥村政信画『絵本天神御一代記』二巻二冊 奥村政信画 宝永頃     ☆ 正徳元年(宝永八年・1711)     ◯『耽奇漫録』下246(日本随筆大成編輯部・吉川広文館・平成六年刊)    (「奥村政信遊女絵本」)   〝奥村政信遊女の画像折本一巻    (前略)著作堂按ずるに、この書の開板は元禄十四年なり。夫より十一年をへて、書肆再刷せしとき年    号と支干を彫かへたり。    (刊記)    和画工奥村源八政信図(「(一字不明)信」印)     正徳元歳 辛卯八月吉辰      横山同朋町 竹田長右衛門板〟    〈出品は著作堂(馬琴)。正徳元年の再版の方を出品したのである。政信=源八〉     ◯「日本古典籍総合目録」(正徳元年刊)   ◇風俗    奥村政信画『奥村政信遊女の像』一帖 奧村政信画     ◯『赤本黒本青本書誌』「赤本以前之部」   (正徳元年(宝永八年)赤本)   『【親孝行】幸太夫物語』 画作者名なし 刊記「宝永八年正月六日 うろこかたや三左衛門」    〈解題、水谷不倒は奥村政信風とする由を記す〉  ◯『奥村政信画譜』(宮武外骨・明治四十三年(1910)刊)   ◇浄瑠璃本(宝永八年刊)    奥村政信画『さんせう太夫』一冊 宝永八年版 浄瑠璃六段本なり     ☆ 正徳五年(1715)     ◯「絵本年表」〔漆山年表〕(正徳五年刊)    奧村政信画『あさかほのつゆのみや』二冊 画工不明 奧村  ◯「艶本年表」〔白倉〕(正徳五年刊)    奥村政信画    『浮世十界』墨摺 中判 十二枚組「大和画工」正徳五年頃     (白倉注「仏教の「十界」を、浮世の十界にやつしたもの」)    『浮世鉢木』墨摺 大判 十二枚組「大和絵師奥村政信図」正徳五年頃     (白倉注「江戸、京、大坂の三都を各四図にて描き分けている」)    『恋のたね』  墨摺 中判 十二枚組 正徳五年頃     (白倉注「この頃、自作の俳諧入り組物がいくつか存在するが、その一つ」)  ☆ 享保元年(正徳六年・1716)     ◯「絵本年表」〔漆山年表〕(享保元年刊)    奧村政信画『武家職原抄』小本二巻 政信筆 跋 橘重庸 丙申年二月 山田屋三四郎板     〈「日本古典籍総合目録」は享保二年刊〉    ◯「日本古典籍総合目録」(享保元年刊)   ◇絵本    奧村政信画『恋のゆかり』五冊 奧村政信画 古版小説挿画史による  ◯「艶本年表」〔白倉〕(享保元年刊)    奥村政信画『好色不老門』墨摺 半紙本 五冊 享保元年(白倉注「浮世草子の仕立て」)     ☆ 享保四年(1719)  ◯『奥村政信画譜』(宮武外骨・明治四十三年(1910)刊)    奥村政信画『弘法大師』一冊 享保四年版      ☆ 享保五年(1720)     ◯『赤本黒本青本書誌』「赤本以前之部」   (享保五年(1720)刊 赤本)   『福神寿命袋』 画作者名なし(奥村政信風) 一オの大福帳に「享保五年 正月吉日」    〈解題、「赤本 享保五年正月 湯島天神女坂さがみや板 奥村政信画 但名なし」という見返しの墨記を引く〉    ☆ 享保六年(1721)     ◯「絵本年表」〔漆山年表〕(享保六年刊)    奧村政信画『わかくさ物がたり』小本二巻 大和画工奧村政信   (宮武外骨著『奥村政信画譜』曰く)    〝奥書に「西村屋新板」とあり、別本に宝永四年丁亥正月吉日とある由聞けり〟    ◯「日本古典籍総合目録」(享保六年刊)   ◇浄瑠璃    奧村政信画『頼光山入』一冊 奧村政信画(注記「土佐少掾正本」)   ◇物語注釈    奧村政信画『俗解源氏物語』六巻六冊 奧村政信画 梅翁(奧村政信)著 宝永七年序     ☆ 享保九年(1724)  ◯『奥村政信画譜』(宮武外骨・明治四十三年(1910)刊)    奧村政信画『ていか』一冊 享保九年版     ◯『独寝』〔燕石〕③105(柳沢淇園著・享保九年序)   〝又、浮世絵にて英一蝶などよし、奥村政信、鳥井清信、羽川珍重、懐月堂などあれども、絵の名人とい    ふたは、西川祐信より外なし、西川祐信はうき世絵の聖手なり〟    〈序の享保九年は岩波書店の「日本古典文学大系」『近世随想集』所収の「ひとりね」に拠る〉    ☆ 享保十二年(1727)     ◯「絵本年表」〔漆山年表〕(享保十二年刊)    奧村政信画『百人一首』大本一巻 奧村政信筆 五重軒露月 午寂散人叙(奧村政信画譜による)     ◯『赤本黒本青本書誌』「赤本以前之部」(享保十二年刊)   ◇赤本   『風流なこや山三』 画作者名なし 刊記なし 題簽「ゑ奥村」    〈解題、「享保十一年盆中村座上演「末広名護屋」の影響により、享保十二年刊と推定」とする。画工は「ゑ奥村」か     ら奥村政信と推定した〉     ☆ 享保十六年(1731)     ◯『歌舞伎年表』②158(伊原敏郎著・昭和三十二年刊)   (「享保十六年(1731)」の項)   〝奥村政信筆六曲屏風に「此子役鞘当」の図あり(「浮世絵大成」三ノ一七八)〟     ☆ 享保十七年(1732)     ◯『浮世絵と板画の研究』(樋口二葉著・昭和六年七月~七年四月(1931~32))   ◇第一部「浮世絵の盛衰」「明和の彩色摺から錦絵の出るまで」p20   〝享保十七年板『近世百談』に「浮世絵は菱川師宣が書出し、現在は懐月堂、奥村政信等なり、富川吟雪    房信と云ふ人、丹絵の彩色を紅にて始めたるを珍らしく鮮かなりとて評判云々」とある〟    〈「日本古典籍総合目録」に『近世百談』は見当たらない。後出、享保十九年刊の随筆『本朝世事談綺』の誤りか〉    ☆ 享保十八年(1733)     ◯『歌舞伎年表』②187(伊原敏郎著・昭和三十二年刊)   (「享保十八年(1733)」の項)   〝二月、江戸版『役車ぢくち車』(一冊江戸役者だけ)森田勘弥を表して「花道や出端の見事な舞台つき」    云々。この時に花道のありし證なり。然るに十六年奥村政信筆子役鞘当図に花道なし。架空の絵か〟     ☆ 享保十九年(1734)     ◯「絵本年表」〔漆山年表〕(享保十九年刊)    奧村政信画『金龍山浅草千本桜』半紙本二巻「芳月堂奧村文角政信画」山崎金兵衛板          序「江戸おやまゑ画工芳月堂丹鳥斎奧村文角梅翁政信拝画」          (稀書複製会本・国立国会図書館デジタルコレクション)    (以下、宮武外骨著『奥村政信画譜』より引く)   〝上巻『絵本金龍山千本桜』いひ下巻を『絵本信吉原千本桜と云ふ(中略)『用捨箱』下巻に之を享保十    九年頃の印本なること明かなりと記せり〟   〈林若樹は「題名によりて判するに享保十八年に浅草寺に桜を植ゑたる事あり 出板もこの年なるべし」という。下掲    「集古会」第九十五回 大正二年(1913)参照〉  ◯『本朝世事談綺』〔大成Ⅱ〕⑫521(菊岡沾凉著・享保十九年刊)   〝浮世絵 江戸菱川吉兵衛と云人書はじむ。其後古山新九郎、此流を学ぶ。現在は懐月堂、奥村正(ママ)信    等なり。是を京都にては江戸絵と云〟     ☆ 享保年間(1716~1735)     ◯『赤本黒本青本書誌』「赤本以前之部」(享保年間刊)   ◇赤本〈刊年未詳ながら、とりあえず享保年間に入れておいた〉   『きよくのり』 画作者名なし(奥村風)    〈解題、実践女子大学文芸資料研究所本・東京都立中央図書館加賀文庫とも(奥村風)とある由を記す〉   「観世又次郎」(後補書題)署名「奥村」(奥村政信画作)    〈解題、蜂屋椎園の墨書と思われる識語「此観世又次郎の冊子の画中に奥村とあるをミれハ奥村政信の画にや、政信ハ     宝永中の人也」を引く〉   『花さきぢゝ 老楽(オイレ)のゑいぐわ』 (奥村政信画) 題簽「ゑ奥村」    〈解題、題簽に「ゑ奥村」とあることから「奥村版で、画工も奥村と解される」とする〉   『どうげ地口』 画作者名なし (奥村政信画作)    〈解題、井上和雄著『浮世絵師伝』の「政信」の項に「どうけ地口(赤本)一冊(享保年間出版)」を引く〉   『祇園祭』(奥村政信画)    〈解題、『浮世絵師伝』「政信」の項目から「祇園祭(赤本)一冊(享保年間出版)」を引く〉     ◯『赤本黒本青本書誌』「赤本以前之部」(享保年間刊)   ◇赤本〈刊年未詳ながら、とりあえず享保年間に入れておいた〉   『豆まき男』(奥村政信画)    〈解題、朝倉無声著『日本小説年表』「豆まき男 奥村政信画」を引く〉   『観世又次郎』 署名「奥村」(奥村政信画作)    〈解題、蜂屋椎園の墨書と思われる識語「此観世又次郎の冊子の画中に奥村とあるをミれハ奥村政信の画にや、政信ハ     宝永中の人也」を引く〉   『きよくのり』 画作者名なし (奥村風)   〈実践女子大学文芸資料研究所本・東京都立中央図書館加賀文庫とも(奥村風)とあり〉     ◯「艶本年表」〔目録DB〕(享保年間刊)    奧村政信画『篠田伝授の玉七色狐手習鑑』三冊 奧村政信画(注記「日本艶本目録(未定稿)による」)     ◯『増訂武江年表』1p139(斎藤月岑著・嘉永元年脱稿・同三年刊)   (「享保年間記事」)   〝浮世絵師、奥村文角政信(芳月堂)、西村重長(仙花堂)、鳥居清信、同清倍、近藤助五郎清春、富川    吟雪房信等行はる〟  ☆ 元文二年(1737)    ◯「艶本年表」〔白倉〕(元文二年刊)    奥村政信画『女酒呑童子枕言葉』墨摺 横本 口絵・紅摺絵 三冊 元文二年頃     (白倉注「近松門左衛門の操り浄瑠璃「酒呑童子枕言葉」のもじりか」)  ☆ 元文三年(1738)      ◯「絵本年表」〔漆山年表〕(元文三年刊)    奧村政信画『若竹源氏』十一冊「画工 奧村正信」伊丹屋新七板     ◯『赤本黒本青本書誌』「赤本以前之部」(元文三年刊)   〝なお、髪形については、例外かも知れないが、奥村政信筆「京四条下り いなばお松 辰岡久菊」    (『浮世絵大成』第二巻、第一五一図)が鴎髱(カモメヅト)に近く、これは元文三年十一月中村座「梅館    因幡ノ松」と考証される〟    ☆ 元文五年(1740)    ◯「日本古典籍総合目録」(元文五年刊)   ◇絵本    奧村政信画『絵本小倉錦』五巻 奧村政信画   (以下、宮武外骨著『奥村政信画譜』より引く)   〝第四巻を「女百人一首官女源氏絵」といひ、第五巻を「冠直衣源氏姿絵百人一首」といふ、絵本小倉    錦とは後摺解題なるべし〟  ☆ 元文年間(1736~1740)     ◯「艶本年表」〔目録DB〕(元文年間刊)    奧村政信画『三津蒲団』奧村政信画 元文頃刊?(注記「日本艶本目録(未定稿)による」)     ☆ 寛保二年(1742)    ◯「艶本年表」〔白倉〕(寛保二年刊)    奥村政信画    『どうじかぶろ松』墨摺 横本 三冊 寛保二年頃    『閨の雛形』漆絵 大判 十二枚組物 寛保二年頃     (白倉注「政信の春画の代表作。手彩色が色摺のように一定していて、その筆彩表現が美しい」)  ☆ 寛保三年(1743)    ◯「艶本年表」〔白倉〕(寛保三年刊)    奥村政信画『粟島雛形染』墨摺 横本 一冊 口絵・筆彩色 奥村政信画 寛保三年頃     (白倉注「着物の雛形本になぞらえたもの」)  ☆ 延享元年(寛保四年・1744)    ◯「艶本年表」〔白倉〕(寛保三年刊)    奥村政信画『徒然草物語夜講釈』墨摺 横本 三冊 口絵・筆彩色(漆絵) 延享元年頃  ☆ 延享三年(1746)     ◯「艶本年表」〔白倉〕(延享三年刊)    奥村政信画『影法師十二段』墨摺 横本 三冊 延享三年頃  ◯『後は昔物語』〔大成Ⅲ〕⑫278(てがらのおかもち(朋誠堂喜三二)著・享和三年序)   〝延享二丑か三寅かの顔見せかと覚ゆ。市村座へは(「延享二年」の朱の添え書あり)吉沢あやめ初下り、    【中村富十郎と吉沢崎之助が兄なり】大根漬の狂言をしたり。上手なれ共評判どつとなし。楠が妻菊水    の紋にて、大名題は女楠よそほひ鑑と、あやめを立たる名題也。其時中村座へは嵐小六初下り也。これ    は芸はあやめより劣たれども、美しく評判もよかりき。【上手雛助が父也。後嵐三右衛門といふ】され    ども見巧者はあやめは上手、ころくはお下手といひけり。これも下手にはあらず。下りの顔見せ、女に    てしばらく也。請は栢莚にて浅黄頭巾の上へ冠をのせたりとか聞えし。小六着付は鶴菱にて暫の着附と    見えたり。掛素袍計にて扇に栢莚が筋ぐまの角前髪の顔を画きたるを、顔にあててにらむと云趣向也。    其頃の能案じといふなるべし。我其一枚絵を貰て持たりしが、漸彩色摺の初りたる時也。され共墨と紅    と草の汁と、三枚板にて所々食ひ違もありき。小六が野郎帽子の所は、紅と草の汁と重ねてすりて、紫    にこぢ付たる物なりき。奥村文角政信が絵かと覚ゆ。画の上に発句に、かほ見せや鶴の巣ごもり小六染    とあり〟    〈「江戸時代 江戸歌舞伎興行年表」(立命館大学アート・リサーチセンターの公開アーカイブズ)によると、「女楠     よそほひ鑑」は延享二年の顔見世。嵐小六の「女しばらく」は延享三年の顔見世(外題は『天地太平記』)とある。     したがって、奥村政信の三色を使った紅摺の役者絵は延享三年十一月の売り出しである。墨線に紅と草と紫の三色、     このうち紫は紅と草との重ね摺り、見当がうまくいかなかったのか「所々食ひ違」いもあったとある。「かほ見せや     鶴の巣ごもり小六染」とある一枚絵を見いだすことはできなかったが、翌年、延享四年の嵐小六を画いた奥村政信画     は残されているから、参考までのにとりあげておきたい〉
   「市村宇左衞門・嵐小六」芳月堂正名奥村文角政信正筆(早稲田大学演劇博物館・浮世絵閲覧システム)      〈画中の文言〉   〝私方の絵を密に彫、まぎらハしきゑしの名印付◎せるい板致候、御(?)しらせ申候、正名奧村絵、御    召可被下候〟    〈奧村政信の類板が横行していたようである〉      ☆ 延享四年(1747)    ◯「艶本年表」〔白倉〕(延享三年刊)    奥村政信画    『占仕形道成寺』墨摺 横本 三冊 各巻口絵 紅摺絵 延享四年頃     (白倉注「副題に「三世相 女八卦」」)    『艶好虎之巻』墨摺 横本 三冊 奥村政信画 延享四年頃     (白倉注「外題に上巻「艶色/女熊坂虎之巻夢物語」下巻「艶色/梯子弁慶千人取」とあり、中巻不明。口絵・筆彩色」)  ☆ 寛延元年(延享五年・1748)    ◯「艶本年表」〔白倉〕(寛延元年刊)    奥村政信画    『篠田伝授の玉七色狐手習鑑』墨摺 横本 三冊 口絵 紅摺絵 寛延元年頃     (白倉注「篠田の森の伝説に「菅原伝授手習鑑」をからめたもの。ちなみに「天習鑑」は前年江戸中村座で歌舞伎上演された。      外題は『艶色妹背鳥』か」)    『志道軒恋の謎裸百貫』墨摺 小折帖十二図 口絵 紅摺絵 寛延元年頃     (白倉注「口絵の「志道軒像」が珍しい。裸百貫とは男は無一物でもなお百貫文の値打がある、ということ)    『唐冠華ういらう』墨摺 横本 三冊 口絵 紅摺絵 寛延元年頃     (白倉注「角書のあいだに各巻順に京・江戸・大坂と丸で囲んで記されている」)    『艶色吾妻鑑』墨摺 横本 五冊 政信画? 寛延元年頃 口絵 紅摺絵     (白倉注「『艶色姫鑑』の改題再摺本か。一説には鳥居清経かとある。また北尾重政にも同題の『艶色あづま賀々見』がある      ので注意」)〈〔日文研・艶本〕は絵師不明とする〉  ☆ 寛延二年(1749)    ◯「艶本年表」〔白倉〕(寛延二年刊)    奥村政信画    『源九郎狐千本桜』墨摺 横本 三冊 寛延二年 口絵・紅摺絵     (白倉注「延享四年(1747)の江戸中村座の歌舞伎「義経千本桜」上演に取材したもの)    『蛤源氏歌仙貝』 墨摺 横本 三冊 寛延二年     (白倉注「改題再摺本に『笑本姿葉奈』」)     ◯「日本古典籍総合目録」(寛延二年刊)   ◇(分類なし)    奧村政信画『松東枝の衣』一冊 奧村文角画(成立年「寛延二?」)    ☆ 寛延三年(1750)    ◯「艶本年表」〔白倉〕(寛延三年刊)    奥村政信画    『女物草太郎恋の重荷』墨摺 横本 三冊 口絵・紅摺絵 寛延三年頃     (白倉注「書名は『女物草太郎/恋のをも荷』が正しいか。浮世草子と艶本との混合形態」)    『結神仮名手本執心蔵』墨摺 横本 三冊 口絵・紅摺絵 寛延三年     (外題中巻「勘平ハ中村狐」下巻「儀平ハ市川狐」)  ☆ 宝暦二年(1752)    ◯「日本古典籍総合目録」(宝暦二年刊)   ◇絵本    奧村政信画『鶴の嘴』二冊 奧村政信画  ☆ 明和元年(1764)(この年没・一説二月十四日・七十九歳 明和五年二月十一日・七十九歳説あり)    ☆ 刊年未詳    ◯「日本古典籍総合目録」(刊年未詳)   ◇絵本・絵画    奥村政信画    『江戸おやま絵本/美人福徳三十二相』二冊 奥村政信画    『絵本江戸絵簾屏風』二巻 奥村政信画    『武者絵本金剛力士』二冊 奥村正信画(注記「絵本の研究による」)    『うき世のたとえ』一冊 奥村政信画    『きおひさくら』 一帖 奥村政信画    『吉原通ひ』一冊 奥村政信画(注記「絵本の研究による」)    ◯『奥村政信画譜』(宮武外骨・明治四十三年(1910)刊)   ◇雅俗文庫蔵本(宮武外骨所蔵)    『【武者絵本】江戸紫藻紺』二冊    『【絵本武者】兵勇士要石』二冊 『武道要石』と外題せるものある由、これと同本ならんか    『絵本天神御一代記』二冊    『北里遊戯帖』大一帖 明治再刻    『三好軍記』(六段本)一冊 太閤記第二、三好軍記とあり数冊ものなるべし、奥書に寅正月吉日     とあり、宝永七年版ならんか、署名なしといへども政信画なり    『千載和歌集』二十巻 挿画中に「奥村政信筆」とあり、奥書に「江戸通油町山形屋利平板行」と     あれど、後の入木なるが如し〟    『おぼこ業平京童子』三冊 上巻のみ所有せり   ◇永田文庫蔵本    『好色たまご酒』巻ノ一とあるもの一冊実見    『さるげんじ』六段本 二冊   ◇未見本(奥村政信の筆画あるものとして雑書中に散見するも、未だ見ざる本)    『花咲爺老楽の栄華』二冊 赤本    『絵本筆勢御伽草紙』五冊    『十二ヶ月』    『古事図式』(外題不詳)    『奥村政信風俗画帖』一帖 明治再刻    『折絵本 むさしあぶみ 福寿草 百代草』五冊    『遊画式』「浮世絵類考」に曰く「政信の画本也、狂画にして四巻あり、外題知れがたき古板を買     請て須原屋茂兵衛、文政末摺立、かく外題を改し也」    ◯「艶本年表」〔目録DB〕(刊年未詳)    奧村政信画    『春閨三世相うらなひ』一冊 奧村政信画?安産述                     (注記「日本艶本目録(未定稿)による」)    『艶色梯子辨慶千人取』一冊 奧村政信画 (注記「艶本目録による」)    『女酒天童子枕言葉』 三冊 奧村政信画     『源九郎狐千本桜』  一巻 奧村政信画 (注記「日本艶本目録(未定稿)による」)    『皺形越後屋筆染』  二冊 奧村政信画?(注記「日本艶本目録(未定稿)による」)    『店冠花ういろう』  三冊 奧村政信峨 (注記「日本艶本目録(未定稿)による」)    『陰陽秘伝犯内書』小本一冊 〔『林若樹集』「うまの春」所収。本稿末尾参照)     末尾〝大和絵師奥村新妙政信 山口屋権兵衛開板〟    『姫小松恋若草』 三巻三冊 奧村政信画 (注記「日本艶本目録(未定稿)による」)    『占仕形道成寺』   三冊 奧村政信画 (注記「好色浮世絵版画目録による」)    『好色床能内』    一冊 奧村政信画?(注記「日本艶本目録(未定稿)による」)    『好色御鬮筥』    一冊 奧村政信画 (注記「日本艶本目録(未定稿)による」)    『やつし源氏』    三冊 奧村政信画伝(注記「日本艶本目録(未定稿)による」)    『笑本姿葉奈』    三冊 奧村政信画     『絵本金衣鳥』       奧村政信画 (注記「艶本目録による」)    『夢想頭巾』     三冊 奧村政信画 八月堂沢村兎子身評(注記「日本艶本目録(未定稿)による」)    『床ひみつ』     三冊 奧村政信画?(注記「日本艶本目録(未定稿)による」)    『風流戯草』     一冊 奧村政信画 (注記「日本艶本目録(未定稿)による」)    『翠簾の内』     一冊 奧村政信画 (注記「日本艶本目録(未定稿)による」)    『好色組絵』        奧村政信画 (注記「日本艶本目録(未定稿)による」)    『浮世鉢木』     一帖 奧村政信画 (注記「艶本目録による」)    『媛め鳥』      一冊 奧村政信画 (注記「日本艶本目録(未定稿)による」)    『閨の錦』      三冊 奧村政信画 (注記「日本艶本目録(未定稿)による」)    ◯「往来物年表」(本HP・Top)(刊年未詳)    奥村政信画『筆海女用文書』奥村政信画 板元未詳 刊年未詳 ②244     ☆ 没後資料    ☆ 明和七年(1770)    ◯『役者裏彩色』明和七年刊役者評判記(八文字屋八左衞門著・『歌舞伎評判記集成』第二期十巻p31)   〝若女形之部    見立浮世絵師に寄ル左のごとし   【いわくあり開口】山下金作   森田座  何をされてもわつさりとする春信  〈鈴木春信〉    上上吉     吾妻藤蔵   市村座  武道にはちと角があつてよい菱川  〈菱川師宣〉    上上吉     中村喜代三郎 同座   どふみても上方風でござる西川   〈西川祐信〉    上上半白吉   中村松江   中村座  思ひのたけをかいてやりたい一筆斎 〈一筆斎文調〉    上上白吉    尾上松助   市村座  此たびはとかくひいきと鳥居    〈鳥居清満か〉    上上半白吉   瀬川七蔵   中村座  瀬川の流れをくんだ勝川      〈勝川春章〉    上上半白吉   山下京之助  森田座  風俗はてもやさしひ歌川      〈歌川豊春〉    上白上     尾上民蔵   市村座  うつくしひ君にこがれて北尾    〈北尾重政〉    上上      嵐小式部   森田座  いろ事にかけては心を奥村〟    〈奥村政信〉    ☆ 安永六年(1777)    ◯「絵本年表」〔漆山年表〕(安永六年刊)    奧村政信画『絵本小倉錦』五巻 東都画工 丹鳥斎政信図 山崎金兵衛板     ☆ 安永七年(1778)    ◯「書林山金堂蔵版絵本目録」(『絵本節操草』鈴木春信画・山崎金兵衛板・安永七年(1778)刊)   (板元山崎金兵衛の出版目録)   〝絵本天神一代記 奧村政信筆 二冊   同千本桜 同筆 二冊    同金剛力士   同筆    二冊   同紫裾紺 同筆 二冊    同要石     同筆    二冊〟    ☆ 寛政十二年(1800)     ◯『浮世絵考証(浮世絵類考)』〔南畝〕⑱442(寛政十二年五月以前記)   〝号芳月堂、一号丹鳥斎〈朱筆〉    奥村文角政信 同利信    江戸通垣(ママ)町本屋なり。瓢箪の印をなせり。漆絵に多し〟     ◯『古今大和絵浮世絵始系』(笹屋邦教編・寛政十二年五月写)    (本ホームページ・Top「浮世絵類考」の項参照)     〝元祖清信門弟        鍾馗名人 日本絵師(瓢箪印)文角        目ニ金箔置  奥村政信    享保比 并浮絵紅摺始メ        志道軒絵上手 同丁〟    ☆ 享和二年(1802)     ◯『稗史億説年代記』(式亭三馬作・享和二年刊)〔「日本名著全集」『黄表紙二十五種』所収〕   〝昔より青本の画をかゝざる人の名    奥村 鈴木春信 石川豊信 文調 湖龍斎 勝川春章 春好 春潮 春林 春山 春鶴 春常【勝川門    人数多あり】 歌川豊春【此外にも洩れたる画者多かるべし。追て加之】〟    〈この「奥村」を政信と見た。国文学研究資料館の「日本古典籍総合目録」は、政信の黒本・青本を一点あげる。『平     家物語』という作品だが、分類を見ると「黒本 青本」としている。三馬はこの本の存在を知らなかったのだろう。     三馬は「青本」を〝白紙又は赤紙の画外題に、黄表紙をかけたる本をはじめて製す。是を青本といふ〟とする。現在     の「黄表紙」を「青本」というのであるから、三馬がこの作品の存在を知っていたとしても青本とは見なさなかった     ようにも考えられる。なお政信は赤本の作品は残している〉    ☆ 文化初年(1804~)     ◯『反故籠』〔大成Ⅱ〕⑧252(万象亭(森島中良)著・文化初年成立)   〝江戸絵    享保の比の江戸絵と称するもの、浅草御門同朋町和泉屋権四郎、通塩町奥村源六郎【画名を懐月堂文角    政信といふ。地本問屋なり】など板にて、元祖鳥居清信が絵を西の内の紙へ摺り、煎じ蘇木黄汁膠黒に    藍蝋にてざつと彩色、砂箔を振ひたる【或は藍を吹く】ものなり。【この彩色する者多き中、深川洲先    に住める老婆至つて上手なりと、蔦屋重三郎が母かたりき】。神明前の江見屋【今は博労町へ転宅】と    いへる絵草紙屋に、その比の役者絵【海老蔵、山中平九郎などなり】の板、近年まで有りしなり〟    〈「懐月堂文角政信」は「芳月堂」の誤り。「煎じ蘇木黄汁膠黒に藍蝋にてざつと彩色、砂箔を振ひたる【或は藍を吹     く】もの」とは漆絵のことをいうのだろう。政信=源六郎説が登場するのはこの『反故籠』あたりからか〉    ☆ 文化五年(1808)  ◯『浮世絵師之考』(石川雅望編・文化五年補記)   〔「浮世絵類考論究10」北小路健著『萌春』207号所収〕   〝奥村文角政信【芳月堂 丹鳥斎】  同 利信    江戸通油町本屋なり。朱の瓢箪印をおせり。浮絵多し〟    〈大田南畝の『浮世絵考証』と同文〉    ☆ 文化七年(1810)     ◯『燕石雑志』〔大成Ⅱ〕⑲429(飯台簑笠翁(曲亭馬琴)著・文化七年刊)   〝(模写あり)坂田金平入道(署名)東武大和画工 奥村政信図〔政信(印)〕〟   〝きほひさくら 全一冊折本なり/綉梓の書肆/奥村源八郎政信画/発兌の年月日詳ならず〟   〝宝永の年間の絵本にしてきほひ桜と題す。図する所の猛者すべて十余人、将門純友にはじまりて金平入 道を巻尾とせり。金平が祝髪の図は、画工の滑稽歟。これらを見ても当時の流行をしらん〟    〈国立国会図書館・貴重書画蔵データーベース「浮世画帖」に収録されている武者像が「きほひ桜」の「猛者」にあた     るか。ただし「金平入道」図はない〉    ☆ 文化八年(1811)    ◯『式亭雑記』〔続燕石〕①70(文化八年四月一日)   〝雑司谷鬼子母神に詣、本堂右の方に、奥村政信の草摺曳の額あり、めずらし〟     ◯『一話一言 補遺参考編一』〔南畝〕⑯82(文化八年四月二日明記)  (「雲茶会」初集。紀束(西川権)の出品。凡例参照)  〝志道軒 芳月堂 奥村文角政信 はしら絵版元〟    〈深井志道軒は享保から明和の初年にかけて活躍した講釈師〉     ◯『瑣々千巻』〔南畝〕⑩332(文化八年四月八日明記)  〝わか草物語 あぜち少将若草のまへ  大和絵師 奥村政信〟    〈『国書総目録・著者別索引』が載せる『若草源氏物語』がこれに相当するか。そうだとすると、宝永四年(1707)の     刊行。『瑣々千巻』は凡例参照〉    ☆ 文化十年(1813)    ◯『骨董集』〔大成Ⅰ〕⑮376(山東京伝著・文化十年序)   (「臙脂絵売(べにゑうり)」の考証)   〝紅絵と云は、享保のはじめ創意(シイダセシのルビ)ものなり。墨に膠を引て光沢を出したるゆゑに、漆絵と    もいへり。奥村政信もはらこれをゑがけり〟    ☆ 文化十二年(1815)     ◯『街談文々集要』p410(石塚豊芥子編・文化年間記事・万延元年(1860)序)    (「文化十二年(1815)」記事「市松染起原」)    〝『筠庭雑考』巻五、喜多村翁随筆 市松染 紅絵漆絵    延享元年、本町二丁目ニ、寿字越後屋と云呉服店出きぬ、是が安売の引札せし事あり、中略 或老人の    の説ニ、元文頃、あふぎや染などゝひとしく、市松染もはやれりといひしハ、いかゞあるべき、奥村丹    鳥斎が一枚絵に、佐野川市松が呉服物売に出立たる図あり、則寿の字越後屋が小者の体なり【次ニ縮図    あり】石畳【古名霰なり】是を市松ととなへしハ、此時初としらる、又江戸絵錦絵とて、美麗の彩色を    出来はじめハ、この紅絵なり【下略】     按ニ、寿の字越後屋、直安の引札を、町々へ配り、猶また当時若衆方のきゝもの佐の川市松、石畳の     模様を着せ、舞台にて市松模様披露し、錦絵ニまでものして弘メしハ、多く鬻の計策なるべし【今も     まゝあり】     (中略)    『役者年越草』宝暦十一巳年評判記ニ云、     (中略)     御ぞんじの寿越後屋市松染の儀、霜月顔見せより改売ひろめ申候、わけて御ひゐきに思召、御評判遊     シ、忝奉存候、市松染紅摺正名奥村文角政信御召可被下候。     (奥村政信画、佐野川市松の呉服物売りの図、賛と落款)     (賛) 顔見せや札で入こむ呉服店     (落款)正名芳月堂 奥村文角政信正筆〔瓢簞に丹鳥斎の印〕〟    〈『筠庭雑考』の云う「紅絵」とは現在云うところの「紅摺絵」のこと。越後屋が佐野川市松を起用して市松染の呉服     を弘めたのは、筠庭の考証によると、延享元年(1744)。そして同時に、これを「紅絵」の一枚絵にして、宣伝に一役     買ったのが奥村政信ということのようだ。なおこの『筠庭雑考』の巻五「市松染 紅絵漆絵」は「日本随筆大成」第     二期八巻所収の『筠庭雑考』には見えない〉    ☆ 文化年間(1804~1817)  ◯『続飛鳥川』〔新燕石〕①29(著者未詳・成立年未詳)   〝寛延、宝暦の頃、文化の頃まで売物。元日に番付売、初狂言、正月二日始る、番付題代六文、一枚絵    草紙うり、うるし画、うき絵、金平本、赤本、糊入ずり、鳥居清信筆、其外、奥村、石川〟    ☆ 文政元年(文化十五年・1818)      ◯『浮世絵類考』(式亭三馬按記・文政元年~四年)    (本ホームページ・Top「浮世絵類考」の項参照)        〝三馬按、此三人(編者注、奥村政信・西村重長・近藤清春)ハ清信門人ニ非ズ。各独立ナリ。此時代ノ    浮世絵ハ、スベテ鳥居風ノ画風ヲ慕シモノナリ。既ニ北尾重政モ、壮年ノ画ハ鳥居流ナリ。コレヲ以テ    知ベシ。    ☆ 文政三年(1820)      ◯「絵本年表」〔漆山年表〕(文政三年刊)    奥村政信画    『遊画式』初編 一帖 奥村政信筆 須原屋茂兵衛補刻         二編 一帖 (狂画今日集)         三編 一帖 (むかしむかし)    ☆ 文政六年(1823)以前    ◯「南畝文庫蔵書目」〔南畝〕⑲414(日付なし)  (「絵本」の部) 〝遊君仙人絵本 一巻 奥村政信筆〟    〈「国書総目録・著者別索引」には同名の絵本が見当たらない〉     ◯「杏園稗史目録」〔南畝〕⑲452(日付なし)  (「画本部」) 〝折本 無名 奥村政信 一〟    〈題名なしの折本ということか〉    ☆ 文政七・八年(1824~25)     ◯『耽奇漫録』   ◇上51(「耽奇会」第一集・文政七年五月十五日)   (「志道軒肖像」)   〝此比(志道軒在世)奥村政信といふ画者志道軒が姿をゑがき刻して街に売、世人きそひてこれをもとむ〟    〈梅園・戸田美濃守出品〉       ◇下246(「耽奇会」第十三集・文政八年四月十五日)    (「奥村政信遊女絵本」)   〝奥村政信遊女の画像折本一巻    外題の紙うせて署名詳ならず、刊行の年行の書肆の名、今は左の如きものなし。是いま茲より百廿八年    前の古風也、著作堂按ずるに、この書の開板は元禄十四年なり。夫より十一年をへて、書肆再刷せしと    き年号と支干を彫かへたり。予(馬琴)が外姪の祖父の時より其家に蔵(一字不明)せるもの、是と同    本にて奥に元禄十四歳辛巳云々とありければ、高尾薄雲等はみな元禄中の名妓なるものなり。巻中に図    する所の遊女すべて二十人、春日野に始りて薄雲に終わる。高尾は第六にあり。此中花紫と小倉の両妓    は古人山東庵が奇跡考に載たり。山東のもてるは折本の残缺にて、はつかに二枚ありしにやと思ふのみ、    久きことなれば忘れたり    (「高尾」の画像あり)    和画工奥村源八政信図(「(一字不明)信」印)     正徳元歳 辛卯八月吉辰      横山同朋町 竹田長右衛門板〟    〈出品は著作堂(馬琴)。正徳元年の再版の方を出品したのである〉      ◇下320(「耽奇会」第十四集・文政八年五月十三日)   (「奥村文角画本」の項)   〝元禄年間奥村文角画本 競桜【折本】一巻    此本刊行の歳月なしといへとも、元禄中のものとするよしは石山源太と金平入道の二図あるによつて也。    当時堺町和泉太夫が操座を金平芝居と異名せしよしは人みなしれり。只金ひらのみならず石山源太の操    狂言も、亦いたく行れたるよしは、かの大夫の正本今なほ(一字不明)に遺るをもてしられたり。蓋石山    源太と称するよしは、悪源太義平平治の軍破れて石山寺に逃れしより、諸国を遍歴して武勇をあらはせ    しよしを作設たれば也。当時里巷の児輩といへども猶武勇をよろこびしとこれをもて想像するに足れり     (虎を退治する図)      石山源太     東武大和画工 奥村政信図(「政信」印)〟    〈馬琴はこの「石山源太」を含む「折本」『競桜』の刊行年代を元禄年間とする。しかし、同じ馬琴の随筆『燕石雑記』     に「坂田金平入道」図〝東都大和画工 奥村政信図(「政信」印)〟があり、これには「きほいさくら【全一冊折本     なり 奥村源八郎政信画/綉梓の書肆 発兌の年月詳ならず】」という記事を引いたうえで〝左に摸するもの(「坂     田金平入道」)は、宝永の年間の絵本にしてきほひ桜と題す。図するところの猛者すべて十余人、将門純友にはじま     り金平入道を巻尾とせり〟という解説をつけている。『燕石雑志』の「きほいさくら」と『耽奇漫録』の「競桜」は     ともに「折本」であり、同一のものであることがわかる。だが、馬琴は前者を「宝永の年間の絵本」と云い、後者を     「元禄年間」とする。『燕石雑志』は文化七年刊、「耽奇会」第十四集は文政八年、この間十五年の隔たりがあるが、     刊行の推定年代が宝永から元禄に変わったのは、その後、何か信のおける典拠でも見つかったのであろうか。なお、     この「石山源太」図は、現在国立国会図書館所蔵の『浮世画帖』の中に収められているものと同じものである。但し     『競桜』にある「東武大和画工 奥村政信図」の落款はない。また「金平入道」の図も見あたらない。『浮世画帖』     二帖は五十一図を収録する。したがって、この『浮世画帖』には「猛者十余人」の『競桜』以外のものも合わせて収     録されたということになる。「耽奇会」への出品は馬琴。なお「国書基本DB」は『きおひさくら』(一帖)を収録     するものの刊年を記さず。『燕石雑記』の「きほいさくら」記事は「日本随筆大成」第二期19巻p430参照〉     (稀書複製会本・国立国会図書館デジタルコレクション画像)  ☆ 文政九年(1826)     ◯『還魂紙料』〔大成Ⅰ〕⑫266(柳亭種彦編・文政九年刊)   (「七夕踊り 小町踊り、かけ踊り」の考証)   〝享保中まで小町踊りの名は残ながら、江戸にてはたゞ歌をうたひ、太鼓の拍子をとるのみにて踊事は絶    しならん〔割註 ちかく奥村政信が絵本に小町をどりの図あり〕〟    ☆ 文政十三年(1830)     ◯『嬉遊笑覧』巻六下「児戯」下p181(喜多村筠庭信節著・文政十三年自序)   〝〔五元集〕に【卯月十七日或人の愛子にねだり申されて】郭公幟そめよとすゝめけりと云もあれば、こ    の頃より下さまにても布のぼり行はれしにや。武者絵の版すりて蘇枋黄汁等にて彩れり。江戸にても鍾    馗のぼりは紙を用るもあれど、それも此ごろは少なきにや。版行の絵などは絶たり。【奥村文角などが    墨絵の鍾馗を版にて摺たる目玉に金箔置きたるなどありし】〟    ☆ 天保四年(1833)     ◯「天保四年癸巳日記」③519 十一月十七日(『馬琴日記』第三巻)   〝山本宗慎殿入来。予、対面。かし置候垣下徒然・金平双紙等、被返之。尚又、奥村文角遊女の内、同き    ほひたて右折本二本・兎園小説十五之巻かし遣す〟    〈奥村文角は奥村政信。『耽奇漫録』下巻をみると、文政八年(1811)四月十五日と五月十五日開催の「耽奇会」出品記     事に、「奥村政信遊女の画像折本一巻」と「元禄年間奥村文角画本 競桜【折本】一巻」がある。この「折本二本」     はその「耽奇会」に出したのと同じものである。本HP『耽奇漫録』か「浮世絵師総覧」の奥村政信の項参照。山本     宗慎は宗伯が就いた医師啓春院の嗣子。書籍愛好家〉     ◯『無名翁随筆』〔燕石〕③292(池田義信(渓斎英泉)著・天保四年成立)   〝奥村政信【享保ノ頃】     俗称【本屋奥村源六 江戸通塩町ニ住ス、一本ニ油町書肆也】号文角、【おやは絵師とかたがき有り】     芳日堂、丹鳥斎    文角政信は、自ら日本絵師とかけり、朱にて瓢箪の印を用ゆ、漆画にも多し、鍾馗の画を能かきて、眼    に金箔をおきけり、俗に浮絵を云て、名所、其の外牧狩の図、曽我十番切等、遠景を奥深くみゆる図を    書、板行にせしなり、其比は大に流行す、紅絵の始めなり、浅草に出し志道軒の容を写し画くに妙なり    と云々〟    〈「おやは絵師」は「おやま絵師」の誤記か〉    ☆ 天保七年(1836)     ◯『馬琴書翰集成』④209 天保七年(1836)十月六日 小津桂窓宛(第四巻・書翰番号-59)   (馬琴所蔵の書籍及び書画の売却リスト。書画以外省略)    一、十二匁ニかひ入候ヲ引く      『きほひざくら』  金弐朱    一、壱分ニかひ入、一朱引      元禄よし原遊君画像 金三朱〟    〈『きほひざくら』は馬琴が『燕石雑志』(文化七年刊)に「きほひさくら 全一冊折本なり/綉梓の書肆/奥村源八     郎政信画/発兌の年月日詳ならず」「宝永の年間の絵本にしてきほひ桜と題す。図する所の猛者すべて十余人、将門     純友にはじまりて金平入道を巻尾とせり。金平が祝髪の図は、画工の滑稽歟。これらを見ても当時の流行をしらん」     と解説したもの。「元禄よし原遊君画像」は未詳〉    ☆ 天保十年(1839)  △『声曲類纂』(斎藤月岑著・天保十年成立)   ◇「巻之三」「【天下一】桜井丹波少掾正信」の項。p176   (岡清兵衛作、和泉太夫(桜井丹波少掾)の金平浄瑠璃に関する記事)   〝中古金平本とて小児のもて遊ひし草紙は、肥前節の古上るりを絵入にせしより始れりと。此時代の正本皆絵入にして、    享保の頃にいたりても板本多く、近藤助五郎清春・奥村政信・羽川珍重等が画多し〟  ☆ 天保十二年(1841)     ◯『用捨箱』〔大成Ⅰ〕⑬221(柳亭種彦著・天保十二年刊)  (「袖頭巾」の考証。模写あり)   〝〔絵本金竜山千本桜〕に載たる図此そうしに、年号は見えざれども、桜鏡と同時なる事は標題にて明な    り。されば享保年間より此頭巾あり”“画人は奥村政信なり”    ☆ 天保十三年(1842)以前     ◯『柳亭筆記』〔大成Ⅰ〕④324(柳亭種彦著・成立年未詳)   (「おこそ頭巾」の考証)   〝〔画本金竜山千本桜〕〔割註 芳月堂丹鳥斎奥村文角、梅翁政信画〕〟   〝此冊子には年号は見えざれども【桜鑑】と同時なる事は標題に明か也。享保年間より此頭巾あり〟    〈「国書基本DB」には『絵本金竜山浅草千本桜』享保十九年刊とあり〉    ☆ 天保十四年(1843)     ◯『筠庭雑考』〔大成Ⅱ〕(喜多村筠庭著・天保十四年序)   ◇「薦僧笠」の考証 ⑧151   〝延享寛延の頃迄もあみ笠裾開けり。前に窓あり。今浪人体の乞児の着る是なり。奥村文角が画とみゆ〟
  ◇「重箱」の考証 ⑧164   〝奥村文角〟
  ◇「針箱」の考証 ⑧171   〝延宝寛延の頃 芳月堂文角画〟    ☆ 弘化元年(天保十五年・1844)     ◯『増補浮世絵類考』(ケンブリッジ本)(斎藤月岑編・天保十五年序)   (( )は割註・〈 〉は書入れ・〔 〕は見せ消ち)   〝奥村政信 享保の頃     俗称(本屋)奥村源六 通塩町〈に〉住す(一本に〈通〉油町)     号 文角〈梅翁〉 芳日堂、丹鳥斎(奥村観妙政信と書るものと見たり)    政信は自ら日本絵師とかけり、朱にて瓢箪の印を用ゆ漆画にも多し、鍾馗の画を能かきて眼に金箔をお    けり、俗に浮絵を云て、名所或は富士牧狩の図、曽我十番切に遠景を奥深く見ゆる図を書 板行にせし    なり。其頃は大ひに流行す、紅絵の始也。浅草寺境内に出し、講釈師志道軒の容を写し画く事、妙なり    しと〟    ☆ 嘉永三年(1850)     ◯『古画備考』三十一「浮世絵師伝」(朝岡興禎編・嘉永三年四月十七日起筆)   ◇「前書き」中p1364   〝風流鏡が池【宝永六年正月板】(上略)今の鳥井、奥村などが后官女むすめ遊女の品を書わけて、太夫    格子それより下つかた、その風俗をうつし画は、さりとは画とは思はれず、生たる人の如くなりしを、    (中略)扨奥村は取わけて京と難波の色をよく、おむくに立し娘のふう、さりとてはかわゆらしく、か    ず/\多き其中に、としま遊女をうつくしく、禿に灸をすゑける所を書たりしに、禿手をにぎりぢうめ    ん作り、貌は紅葉の色てりて、たへかねたりしを、姉女郎、灸を中ゆびにのせて、灸箸を紙にてなで、    のぞきてあつさをとひたりしを、動くばかりの筆勢、どう共たくみとやと、見る人門に一をなす〟    〈『風流鏡が池』は独遊軒梅吟著・奥村政信画・宝永六年刊。このところの全文は「前書き」参照)
   『古画備考』「前書き」      ◇中p1381   〝元祖清信門人    奥村文角政信【日本画師、号芳月堂、一号丹蔦(ママ)斎、江戸通塩町本屋也、瓢箪ノ印ヲ捺ル漆画ニ ┐           多シ、枕画上手、鍾馗名人、一云、浮世画紅摺始メ、志道軒ノ絵上手】    ┌─────────────────────────────────────────────    └ 同 利信
   きほひざくら、全一冊折本也、奥村源八政信画、むかし頼光朝臣に属したる平金時が一子に酒田金平と    いふものあり、勇敢膂力世に勝れたつよしを作り出せしは、和泉太夫が脚本を鼻祖とす、されば其名人    口に膾炙して云々、宝永年間の絵に、きほひざくらと題するところの猛者すべて十餘人、将門純友に始    りて金平入道を巻尾とせり、金平が薙髪の図は画工の滑稽か。
     (模写図あり)     坂田金平入道  床ニ達磨半身掛物  花生杜若  袈裟ヲ着     [署名]「東武大和画工 奥村政信図」[印章]「政信」(方郭丸印)     右燕石襍志三〟  ☆ 嘉永七年(1854)    ◯『扶桑名画伝』写本(堀直格著 嘉永七年序)   (国立国会図書館デジタルコレクション)   ◇奥村政信([31]巻十之五 雑家 26/108コマ)   〝政信    姓しられず 奥村氏 名政信 文角 或は志道軒 或は芳月堂 或は丹鳥斎と号す 通称源六 画風師    信に似たりといへり 鳥居庄兵衛清信門弟 よく鍾馗を絵かく 享保頃の人なり    (以下『浮世絵類考(浮世絵考証)』記事省略 上掲参照)〟  ☆ 安政二年(1855)    ◯『古今墨蹟鑒定便覧』「画家之部」(河喜多真彦編・安政二年刊)   (国立国会図書館デジタルコレクション)(3巻[2] 63/82コマ)   〝鍬形蕙斎【名ハ紹真、江戸ノ人 山水花鳥ヲ能クス 時ニ称誉ス 文政七年三月没ス】〔紹真〕印二顆〟  ☆ 明治元年(慶応四年・1868)     ◯『新増補浮世絵類考』〔大成Ⅱ〕⑪203(竜田舎秋錦編・慶応四年成立)   〝奥村政信    俗称本屋源六、或は源八、号文角、観妙。芳月堂。丹鳥斎といふ。通塩町に住す。一本通油町とも云。 自ら日本絵師とかけり。朱にて瓢箪の印を用る。漆絵にも多く、享保頃の人よく鍾馗を画きて、眼に金 箔を置り。俗に浮絵と云て、名所或は富士牧狩の図、曾我十番切に遠景を奥深く見ゆる図を書板行にせ しなり。其頃大ひに流行す。紅絵の始なり。浅草寺境内に出し、講釈師深井志道軒の容を写し画く事妙 なりしと云。此頃錦絵に三枚つゞきもの多し。和歌三神三夕三幅対など名付し物なり。彩色は紅と萌黄 のみなり。絵本新吉原千本桜倣画式〔割註 政信の画本也。狂画にして四巻あり。外題知れがたき古板 を買請て須原や茂兵衛文政末摺立かく外題を改し也〕〟    〈「国書基本DB」『絵本新吉原千本桜』享保十九年刊〉    ☆ 明治十一年(1878)    ◯『百戯述略』〔新燕石〕④226(斎藤月岑著・明治十一年成立)   〝正徳、享保の頃、羽川珍重、鳥居庄兵衛清信、西村重長、奥村政信、続て懐月堂安慶(ママ)、石川豊信等    が専に一枚絵画出し、梓に鏤めて世に行れ、彩色摺は紅と萌黄の二色に有之〟  ☆ 明治十七年(1884)  ◯『扶桑画人伝』巻之四(古筆了仲編 阪昌員・明治十七年八月刊)   (国立国会図書館デジタルコレクション)   〝政信    奥村氏、名ハ政信、始メ志道軒、後チ芳月堂又丹鳥斎ト号ス、通称ハ源六ト云フ。元祖清信ノ門人ニシ    テ、江戸通リ塩町ニ住ス本屋ナリ。能ク邦俗ノ浮世絵紅絵ヲ画カクニ巧ミナリ。又草双紙等ヲ多ク発行    セリ。当時上手ト云フ。享保年中ノ人。明治十六年迄凡百六十八年〟  ☆ 明治十九年(1886)  ◯『第七回観古美術会出品目録』(竜池会編 有隣堂 明治19年刊)   (第七回 観古美術会〔5月1日~5月31日 築地本願寺〕)   (国立国会図書館デジタルコレクション)   ◇第二号(明治十九年五月序)   〝奥村政信 女万歳 一幅(出品者)若井兼三郎〟  ◯「読売新聞」(明治19年5月16日付)   〝第七回観古美術会品評 全号続き      奥村政信 女万歳の図 着色    政信は俗称を本屋源六といひ 芳月堂 又丹鳥斎と号す 享保頃の人なり〟    〈上掲「目録」参照〉  ☆ 明治二十一年(1888)  ◯『明治廿一年美術展覧会出品目録』1-5号(松井忠兵衛・志村政則編 明治21年4~6月刊)   (日本美術協会美術展覧会 上野公園列品館 4月10日~5月31日)   (国立国会図書館デジタルコレクション)   「古製品 第一~四号」   〝奥村政信画     婦女春嬉図 一幅(出品者)若井兼三郎     萬歳図   一幅(出品者)若井兼三郎〟  ◯「読売新聞」(明治21年5月31日付)   〝美術展覧会私評(第廿五回古物品)    頃日陳列せられたる浮世絵数十幅のうち 本多忠敬君の西行と江口の君の横物は俗ならずして品位あり    これにつゞきては 若井兼(かね)三郞氏の奥村政信の女万歳 北尾重政の美人炬燵にあたる図なり 勝    川春章の花下傾城と 黒川新三郎氏の同筆の御殿女中とは 少しく筆意の異なるがごとく見ゆるは 遊    女と上﨟との品格あれば自然の事なるべし〟    〈「本多忠敬君の西行と江口の君の横物」とは宮川長春画〉    ☆ 明治二十二年(1889)    ◯『近古浮世絵師小伝便覧』(谷口正太郎著・明治二十二年刊)   〝享保 奥村政信    通称源八、芳月堂と号す、本屋を業とせり。鳥居清倍を師として善くす、多く草双紙等に行はれ、一枚    摺の紅画など、今も偶々見ること有り〟  ☆ 明治二十三年(1890)  ◯「【新撰古今】書画家競」(奈良嘉十郎編 天真堂 江川仙太郎 明治23年6月刊)    (『美術番付集成』瀬木慎一著・異文出版・平成12年刊))   〝浮世派諸大家     享保 奥村 政信〟 浮世絵師 歴代大家番付    ☆ 明治二十五年(1892)  ◯『日本美術画家人名詳伝』上p137(樋口文山編・赤志忠雅堂・明治二十五年刊)   〝奧村政信    東京ノ書誌ナリ、初メ志道軒ト号シ、後チ芳月堂ト改ム、又丹鳥斎ト云フ、文角又源六ト称ス、鳥居清    信初代ノ門人ニテ、能ク邦俗ノ浮世絵ヲ画キ、多ク草双紙等ヲ発行ス、又初テ紅画ヲ画ク、当時上手ト    云フ、享保年中ノ人(燕石十種)〟     ☆ 明治二十六年(1893)  ◯『古代浮世絵買入必携』(酒井松之助編・明治二十六年刊)   ◇「奥村政信」の項 p6   〝奥村政信    本名 源六  号 文角、芳月堂、丹鳥斎  師匠の名〔空欄〕  年代凡百七十年前より二百年迄    女絵髪の結ひ方 第三図・第四図 (国立国会図書館 近代デジタルライブラリー)    絵の種類 丹絵、漆絵、一枚絵、長絵、細絵、紅絵、絵本、肉筆    備考  〔空欄〕〟      ◇「図柄」p21   〝墨絵にて豊広、豊丸等、凡て百年以後のものは買い入れざるを良しとす。最も菱川師宣、奥村政信、鳥    居清信等の百四五十年前後のものは墨摺にても高価なり〟  ◯「読売新聞」(明治26年7月26日記事)   〝丹鳥斎の浮世絵    元禄の師宣に次いで画名を知れたるは享保の奥村政信なり 其吉原遊興の図併(ならび)に男女遊戯の図    十六葉は 元墨絵なりしを今度紅絵(あかゑ)として 下谷徒士町(かちまち)一丁目三番地 浮世絵商吉    田金兵衛より発売したり 世人歌麿を尚(たっと)ぶの目を一歩進めて玩味すべし〟  ◯『浮世絵師便覧』p224(飯島半十郎(虚心)著・明治二十六年刊)   〝政信    奥村氏、俗称源六、又源八、文角と号し、又観妙、芳月堂、丹鳥斎等の号あり、浮絵紅画の祖、◯享保〟  ☆ 明治二十七年(1894)     ◯『名人忌辰録』上巻p22(関根只誠著・明治二十七年刊)   〝奥村政信    通称本屋源六。通油町に住す。号芳月堂、又丹鳥斎観妙。浮世絵師。明和五子年二月十一日歿す、歳七    十九(美成の名誉往来には明和元年申年七十九才と有り)〟     ◯『浮世絵師歌川列伝』「歌川豊春伝」p76(飯島虚心著・明治二十七年、新聞「小日本」に寄稿)   〝元文延享の頃に至り、浮世絵師奥村政信、油画の法により、山水人物を画きて上木し、大に世に行わる。    これを浮画という。類考政信の條に、俗に浮画とて、名所或は富士牧狩の図、曾我十番切に遠景を奥深    くみゆる図をかき板行せしなり〟  ☆ 明治二十八年(1895)  ◯『時代品展覧会出品目録』第一~六 京都版(大沢敬之編 村上勘兵衛 明治二十八年六~九月)   (国立国会図書館デジタルコレクション)〈「時代品展覧会」3月25日~7月17日 御苑内博覧会館〉   〝「第一」【徳川時代】浮世絵画派(49/310コマ)    一 大内美人図 奥村政信筆 藤田伝三郞君蔵 大阪市東区〟   〝「第五」徳川時代浮世絵画派之部(244/310コマ)    一 幕府奥向婦人 歌留多遊図 一幅 奥村政信筆 藤田伝三郞君蔵 大阪市東区    一 美人図          一幅 奥村政信筆 上野理一君蔵  大阪市東区  ☆ 明治三十一年(1898)  ◯『浮世絵備考』(梅山塵山編・東陽堂・明治三十一年刊)   (国立国会図書館デジタルコレクション)(24/103コマ)   〝奥村政信【正徳元~五年 1711-1715】    通称本屋源六、一に源八、文角、観妙、梅翁、芳月堂、丹鳥斎等の数号あり、通塩町の書誌の主人にて、    浮世絵を善くし、自ら日本絵師と称して、落款には瓢形の朱印を捺せり、多く漆絵を画き、尤も鍾馗の    図に妙を得て、その眼に金箔を置く、また浮絵とて、富士の牧狩、曽我十番切の遠景の図を印行しける    に、大に流行せしと云ふ、また浅草寺の境内に出たる、講釈師深井志導軒の容を写すに頗る真に迫まり    しとぞ、政信は実に、浮絵、紅絵の始祖なりき、明和五年戊子二月十一日没す、享年七十九(本伝は    『増補浮世絵類考』『名人忌辰録』等に拠る)〟  ☆ 明治三十二年(1899)     ◯『新撰日本書画人名辞書』下 画家門(青蓋居士編 松栄堂 明治三十二年三月刊)   (国立国会図書館デジタルコレクション)(143/218コマ)   〝奥村政信    通称源六 又文角と号す 初め志導軒と号し 後芳月堂と改め 又丹鳥斎といふ 江戸通塩町に住す    初代鳥居清信の門に入りて浮世絵を学び 邦俗の画を能くす 此の人初めて紅絵を描く 時人皆名工と    称す 享保年間の人なり(燕石十種 扶桑画人伝)〟  ◯『浮世画人伝』p39(関根黙庵著・明治三十二年五月刊)   〝奥村政信(ルビおくむらまさのぶ)    政信は、通称源六、後に源八と改む。江戸通油町の書估(ショテン)なりしが、浮世絵を好み画工となり、文    角堂、観妙、芳月堂、丹鳥斎(タンチョウサイ)、倭画師(ヤマトエシ)などゝも号しき。政信元来師宣の風を慕ひ、そ    の技に達せるのみならず、当時版行の墨摺の画に、膠を加へて光沢を出すを工夫し、漆絵(ウルシヱ)と称    するものを、多く画けり。中にも、鍾馗の画をなすに妙あり。金箔を以て、眼に点じて光じて光を放つ    如き、いさゝかの事ながら、意匠あるにあらざれば能(アタ)はず。また横画にいさゝか遠近向配(コウバイ)    をとりて、一種の照影法を発明し、富士の牧狩の図などを画けり。世に之を浮絵(ウキエ)と称す。当時政    信が画ける、三枚続の美人絵、大に流行せしが、着色は尚、紅と草緑(ソウロク)との二種のみにして、而も    一々筆にて塗抹(トマツ)したるなり。是れより臙脂絵(ベニエ)といふもの始れり。かくて大(オホイ)に世にも    てはやされ、政信が絵を重版し、或は偽版(ギハン)して、売るものあるに至りしかば、遂には落款には    「正名奥村文角政信筆」と記したり。或は「又(ママ、又「?)芳月堂正名奥村政信正筆」と記して、画    面の下、左の方へ、さゝやかに版元の名を記し、それが次に、     私方の絵を、直に張、跡方(アトカタ)もなきゑかきの名印、まぎらわしく付け、似せるい重版(ジュウバン)     彫出し候、御しらせ申上候、正名(ショウメイ)奥村絵を御召可被下候、以上    とかけり、以て当時政信の絵の、流行を証すべし。さて政信は、明和元年二月十一日、享年七十九にて    歿しぬ〟    ☆ 明治三十四年(1901)  ◯『日本帝国美術略史稿』(帝国博物館編 農商務省 明治三十四年七月刊)   (国立国会図書館デジタルコレクション)※半角カッコ( ~ )は本HPが施した補記   〝第三章 徳川氏幕政時代 第三節 絵画 浮世絵派(167/225コマ)    奥村政信    江戸通塩町に住し、書肆を以て業と為し、傍ら浮世絵を能くし、自ら日本絵師と号す。美人画又鍾馗武    者等を画く。後ち浮世絵(ママ 浮絵)といへる遠近法に由れる名所の図、或は富士牧狩の絵等を梓に上    (のぼ)して、大に行はる。此れ蓋し紅絵の始めなり。享保前後の人なり〟  ☆ 明治四十三年(1910)    『奥村政信画譜』(宮武外骨著・明治四十三年刊)  ☆ 明治四十一年(1908)  ◯「集古会」第六十九回 明治四十一年九月(『集古会誌』戊申巻五 明治42年6月刊)   〝林若樹(出品者)奥村政信筆歟 雷に遊女図 古板木 一枚     賛 雪のうへなるかみなりどのも たいこうちつれて色ある里へ    黒川真道(出品者)青山堂本 奥村政信筆 遊女等図 一帖〟  ☆ 明治四十一年(1908)  ◯「集古会」第七十一回 明治四十二年一月(『集古会誌』己酉巻二 明治42年9月刊)   〝林若樹(出品者)奥村政信筆 将門純友捕鷲図板木 一枚〟  ☆ 明治四十四年(1911)  ◯「集古会」第八十二回 明治四十四年三月(『集古会誌』辛亥巻三 大正1年9月刊)   〝林若樹(出品者)政信筆歟 将門純友捕鷲図小板木 一枚〟  ◯『浮世絵画集』第一~三輯(田中増蔵編 聚精堂 明治44年~大正2年(1913)刊)   「徳川時代婦人風俗及服飾器具展覧会」目録〔4月3日~4月30日 東京帝室博物館〕   (国立国会図書館デジタルコレクション)   ◇『浮世絵画集』第一輯(明治四十四年七月刊)   (絵師)   (画題)   (制作年代) (所蔵者)   〝奥村政信  「占者図」   享保頃    九鬼周造    奥村政信  「婦女図」   享保頃    鍋倉直〟   ◇『浮世絵画集』第二輯(明治四十五年(1912)五月刊)   〝 奥村政信  「琴の音」   享保頃    高嶺俊夫〟  ◯「集古会」第八十七回 明治四十五(1912)年三月(『集古会誌』壬子巻三 大正2年9月刊)   〝広瀬菊雄(出品者)奥村政信筆 志道軒像 一枚〟  ☆ 大正年間(1912~1925)  ◯「集古会」第九十二回 大正二年(1913)三月(『集古会志』癸丑之三 大正4年7月刊)   〝川喜田久太夫 (出品者)奥村政信板画  菅神像 紙本 一幅    山口松香 京都(出品者)奥村政信画板画 天神像 一幅〟  ◯「集古会」第九十五回 大正二年(1913)十一月(『集古会志』甲寅一 大正4年10月刊)   〝林若樹(出品者)奥村政信絵 金龍山浅草千本桜 下巻十丁 一冊      題名によりて判するに享保十八年に浅草寺に桜を植ゑたる事あり 出板もこの年なるべし  ◯「集古会」第百二回 大正四年(1915)三月(『集古』庚辰第五号 昭和15年11月刊)   〝林若樹(出品者)奥村政信画 狂言一枚摺板木 一枚 享保頃〟  ◯『浮世絵』第七号 (酒井庄吉編 浮世絵社 大正四年(1915)十二月刊)   (国立国会図書館デジタルコレクション)   ◇「浮世絵手引草(二)」(23/25コマ)    ・奥村政信の板書は 以前は落款のみなりしを偽板現はれしため 落款の下に瓢箪印を押捺し 世人に     注意を与へたり 且これに丸形方一寸位ひの中に(これに依らず散し書のものもあり)付記して曰く     「通塩町此方のゑにせ版候間ひやうたん印いたし候こんげん奥村板本」されば此瓢箪なきもの前書に     して これ有るもの晩年書なり  ◯『名家墓所襍録』化蝶菴編 成立年未詳 ※(収録の最終没年は大正五年)   (国立国会図書館デジタルコレクション)   〝奥村政信 明和五年二月十一日 七十九 谷中 瑞林寺〟  ◯「集古会」第百三十二回 大正十年(1921)三月(『集古』辛酉第三号 大正10年4月刊)   〝林若樹(出品者)奥村政信画 金龍山浅草千本桜 下巻一冊 享保十八年〟  ◯『罹災美術品目録』(大正十二年九月一日の関東大地震に滅亡したる美術品の記録)   (国華倶楽部遍 吉川忠志 昭和八年八月刊)   ◇小林亮一所蔵〈小林文七嗣子〉    奥村政信    「宮女弄羽子図」(空中に鷹翔りて桃実を啣む) /「舟中布袋洗盃図」(七十一歳の筆)    「俳優美人弄笛図」     (玄宗貴妃の弄笛に擬したる図にして、上に正月松飾、五月幟、七夕、節季の四図を色紙形の如くにおく)    「遊女喫煙図」浙水茗園主人題詩 /「美人立姿図」(衣紋に盛の字の紋あり)    「草摺曳 牛若弁慶図」二曲屏風 /「女万歳図」双幅  ◯「集古会」第百四十九回 大正十四年(1925)一月(『集古』乙丑第二号 大正14年2月刊)   〝林若樹(出品者)奥村政信 漆絵 天神 一枚〟  ☆ 昭和年間(1926~1987)     ◯『狂歌人名辞書』p210(狩野快庵編・昭和三年(1828)刊)   〝奥村政信、通称源八、文角堂、芳月堂、丹鳥斎等の別号あり、江戸通油町に住し書肆を業とす、画を鳥    居清信に学び後ち菱川派、西川派の画風を折衷して一格を創む、風俗画に巧みにして殊に紅摺錦絵を工    夫す、世人紅絵の祖と称す、明和元年二月十一日歿す、年七十九〟     ◯「集古会」第百七十回 昭和四年三月(『集古』己巳第三号 昭和4年5月刊)   〝三村清三郞(出品者)奥村政信画 七小町 一帖 山中先生題簽 黄汁絵〟  ◯「日本小説作家人名辞書」(山崎麓編『日本小説書目年表』所収、昭和四年(1929)刊)   ◇「奥村政信」p715   〝奥村政信    通称は源六、後源八と改む。江戸通油町の書肆、後浮世画家となり、菱川師宣に私淑し文角堂、観妙、    芳月堂、丹鳥斎等の号がある、又文筆に巧で、自画作の浮世草子を発表した。独遊軒好文の梅吟、松の    緑、佐つき、東の紙子等は其の匿名である。明和元年二月十一日歿、享年七十九〟      ◇「佐つき」p749   〝佐つき    奥村政信の匿名。「好色又寝の牀」(宝永二年(1705)刊)の作者。奥村政信を見よ〟      ◇「独遊軒好文の梅吟」p796   〝独遊軒好文の梅吟    奥村政信の匿名。「風流鏡が池」(宝永六年(1709)刊)の作者。奥村政信を見よ〟      ◇「松の緑」p832   〝松の緑    奥村政信の匿名であらう。「好色夕顔利生草」(宝永五年(1708)刊)の作者。奥村政信を見よ〟     ◯『浮世絵師伝』p184(井上和雄著・昭和六年(1931)刊)   〝政信    【生】貞享三年(1686)   【歿】明和元年(1764)二月十一日-七十九    【画系】          【作画期】元禄~宝暦    奥村氏、名は親妙、俗称源八(稀に源八郎)、芳月堂・丹鳥斎・文角・梅翁等の号あり、蓋し、弱冠の    頃既に松月堂不角千翁(立羽氏)の門に入りて俳諧を学び、師より斯かる号を与へられしものなり(宮    武外骨氏の『奥村政信画譜』に拠る)。画は夙に鳥居清信に私淑し、よく読学して遂に一家の風を成せ    り、もとより文筆の才もありしかば、自作の浮世草紙数種を出だしき。彼の処女作は、元禄十四年六月、    栗原長右衛門枚の『遊女絵本』(題名未詳)にして、時に年十六歳なり、こは無落款にて画風清信に酷    似せり、按ずるに、元禄十三年四月、版木屋七郎兵衛校の『娼妓画幉』(仮題)は、即ち清信が画ぐ所    にして、政信は正に此の本を模倣せしなり、故に聊か憚る所ありて斯くは無落款とせしものならむ。次    に元禄十四年八月、同じく栗原長右衛門板の『遊女絵本』(題名未詳)には、初めて「奥村屋源八政信    図」と落款せり。前記の彼が処女作たる遊女絵本には、尚ほ左の如き類本あり。     元禄十五年正月(奥村源八郎政信図)小寺長兵衛板     元禄十五年正月(奥村源八政信図) 小寺長兵衛校     正徳元年八月 (奥村源八政信図) 竹田長右衛門板    即ち、前記の栗原板二種と、右の小寺板二種、及び竹田板一種等、都合五種行はれしなり。而して彼は、    右の五種中、最初の無落款本を除く外は、皆其が落款に「和画工」の肩書を用ゐたり、これ清信の『娼    妓画幉』に於ける落款の肩書に擬せしものならむが、後には次の如き肩書を用ゐし例あり。     風流大和絵師(宝永四年版『比翼連理丸』挿画)     大和絵師(正徳初頃、墨摺一枚絵、十二枚揃)     東武大和画師(正徳三年頃、墨摺大判、美人画)     日本画工(享保九年乃至十三年頃、細判漆絵)     日本東武画工(寛保四年頃「芝居狂言浮絵」)    以上の内、大和絵師・日本画工などの肩書は、当時の浮世絵師の多くが共通的に使用せしものなれど、    日本東武画工と自称せしは聊か異例とするに足れり。然るに、茲に一つ彼れ独特と称すべき肩書あり、    そは、享保末頃の『絵本千本桜』に「おやまゑ画工」とし、また寛延頃の紅摺柱絵遊女の図に「江戸お    やま絵」とせるもの即ちそれなり。按ずるに、京阪地方にては遊女を「おやま」と俗称せるを以て、お    やま絵即ち遊女絵といふ意味にて斯くは肩書せしものなるが、其の京阪の称呼に擬したる理由は、或は    彼が特に彼地との関係深かりしに因るか、又は京阪地方の顧客を本位として、版売政策上より案出せし    ものか、恐らくに、両者共に関聯する所あるべしと思はる。従来諸書に伝へられし、彼が伝記中には、    彼の俗称を「源六或は源八」とし、甚だしきに至つては「源六後に源八と改む」などゝ記載せり、此に    勿論誤りにして、政信は終始一貫して源八(稀には源八郎)を称し、源六を併用せし確証は絶無なり、    併し乍ら、源六を政信と同一人と見做せしは無理ならざる点あり、即ち、かの版元としての奥村源六と、    画工としての奥村政信が恰も同一人の如く一枚の版画に併記されたるを以てなり。しかも一方に「奥村    源六筆」と落款せる細判漆絵もありて、源八と源六の区別は頗る曖昧となりしものゝ如し、こゝに於て、    新たに両名別人説を設けて、兩者の関係を明かにせむと欲す。抑も源八の称は、政信の初期の作品に見    受くる所にして、享保以降の作には其の例を見ず、これ或は「初め源八後ち源六と改む」と称し得ベき    にも似たれど、具さに、其が作品を比較するときは、斯かる改称の理由を見出し得ざるのみならず、寧    ろこれを別人と認むるの自然なるを首肯し得べし。先づ、宮武外骨氏の自輯自刊(明治四十三年)に係    れる『奥村政信画譜』に考証さるゝ所を見るに、彼の名を諸書に「観妙」とせるは「親妙」を誤りしも    のなる事を明かにし、次に、「政信が芳月堂文角梅翁と号せしは、松月堂不角千翁(立羽氏)の俳諧門    人たりしに拠るなり」「政信は書肆(絵草紙問屋)にして画工を兼ねたりしなれども、そは享保初年後    の事なるべし、宝永正徳頃に出せし政信画作の浮世草紙、六段本等の版元は、いづれも皆自家にあらざ    りしにて知るべし」とあり、まことに正鵠を得たる説にして、最も信憑するに足れり。然れども、未だ    源八と源六の区別には言及されず、且つ、政信が最後まで版元を兼業したりしが如く解せられたれど、    事実は、源八即ち政信、源六即ち政信の子と区別し得るのみならず、源八は版元奥村屋の初代、源六は    其の二代と断定して可なるが如し。蓋し、政信は其子源六をして画系の後継者たらしむべく、初めは画    技を指導する所ありしが、途中にして方針を変へ、将来絵草紙問屋を以て専業たらしむることゝせしな    り。彼が絵草紙問屋となりて、自己の作品を初めて出版せしは、恐らく享保九年の春なりしと思はる、    其頃に近き彼が自画自刊の一例としては、細判漆絵「【浅草名物】藤のちや屋」の水茶屋女に扮せる佐    野川万菊の図あり、これ享保九年四月頃の作と推定すべきものなり。爾後、引きつゞきて自画自刊の一    枚絵あり、享保十年の細判漆絵には「日本画工奥村政信正筆、通塩町絵問屋、べにゑゝさうしおろし、    あかきひやうたんめじるし仕候、奥村」と長々しき説明を附し、翌十一年にはそれを多少添作して「浮    世絵一流根元」とし、或は瓢箪印の傍らに「るいなし」の四字を加ふる等、頻りに画名と店名の両宣伝    に意を用ゐしが、それに加へて、享保十三年よりは門人利信の作品をも彼が出版することゝなりて、創    業以来幾ばくをも経ざるに、早くも相当の成績を挙げしものゝ如く、彼の画才と並んで商才の傑れしこ    とを実証せり。彼が営業の全権を其子源六に譲りしは、何年頃なりしか不明なれど、寛保年間の「浮絵」    の数図には、明かに版元奥村屋源六の名を附刻せり、勿論画面の形式上、細絵には俗名「源六」を省き    しもの多かるべければ、実際は寛保以前に於て、源六が版元として父に代りしやも測りがたし。兎も角、    それ等の如何に拘らず、彼は益々作画に努力せしものゝ如く、又作品の上にて盛んに自家宣伝を行ひた    り、例へば延享年間に出だしゝ紅摺美人画の一図を見るに、「私方の絵を直に張跡方もなきゑかきの名    印まぎらはしく付にせるい重板彫出し候御しらせ申上候正名奥村絵を御召可被下候、以上」などゝ注意    書を附刻せり、勿論当時相当の模倣者は出でしならむも、多少事実を誇張せし点も無きにあらず。彼の    版画製作期は、元禄末より延享・寛延まで連続的に作品の発表ありしが、宝暦に入りては殆ど影をとゞ    めず、これ或は、石川豊信・鳥居清満等の如き、後進の輩出せし爲め、又一つには彼の老齢の然らしめ    し点もありて、とみに版画の製作を怠り、専ら肉筆画の方面に力を注ぎしものならむ。晩年の肉筆にて    女万歳を画きし双幅には「芳月堂丹鳥斎奥村文角政信行年七十二歳画」と落款せり、即ち宝暦七年の作    なり。いま彼の版画に於ける全作品を概観するに、初め元禄末より宝永半ば頃までは、鳥居清信の影響    を受けし所最も多く、それより宝永末-正徳年間に於ては、繊細なる描線にて彼れ独自の画風を示し、    享保に入りては、前半期までに全く彼の特徴を完成せり、享保年間に於ては、彼の称する「べにゑ」    (後に漆絵とも云ふ)に苦心の跡をとゞめ、最も役者絵に力を注ぎたり、また享保後半期に画きし漆絵    中には畳以上の大さある幟絵の鐘馗の図ありて、其の眼玉に金粉を塗りたるなど、単純ながら面白き考    案を示せり。爾後、元文を経て寛保年間に入りては、例の「浮絵」を案出して、従来未だ見ざる所の風    景画に遠近法を応用し、芝居の内部の全景、或は青楼の大広間、其他数多の図を画きて、著しき特色を    現はしたりき。寛保末頃には、幅広柱絵と称する竪長判のもの数図を画き、そのうち「尾上菊五郎(初    代)の女せきぞろ」には、落款の肩書に「芳月堂正名はしらゑ根元」と明記せり(口絵第九図參照)、    これは全く浮絵と共に彼の創案といふべきものなり。次で、延享より寛延に亘りて、所謂「紅摺絵」の    盛行を見るに至り、彼の作品も頗る多数に上りしが、此の期を一段落として、前述の如く彼は版画界を    徐々に引退せしものゝ如し。飜つて、彼が挿画本及び絵本類は、一々枚挙に遑あらざれば、凡そ大略を    示さむに、     ◯好色花すまふ   五冊(元禄十六年版)  ◯好色又寝の床  五冊(宝永二年版)     ◯男色比翼鳥    六冊(同四年版)    ◯若草源氏    六冊(同四年版・自作)     ◯風流呉竹男    五冊(同五年版)    ◯唐玄宗(六段本)一冊(同五年版)     ◯紅白源氏物語   五冊(同六年版・自作) ◯風流鏡ヶ池   六冊(同六年版・自作か)     〇八幡太郎(六段本)一冊(同七年版)    ◯武家職原抄   二冊(正徳六年版)     ◯俗解源氏物語   六冊(享保六年版・自作)◯雛鶴源氏    六冊(同六年版・自作)     ◯若草源氏     六冊(同六年再摺・自作)◯祇園祭(赤本) 一冊(享保年間出版)     ◯どうけ地口(同) 一冊(同上)      ◯平家物語(青本)五冊(延享年間出版)     ◯絵本風雅七小町  二冊          ◯絵本千本桜   一冊     ◯絵本天神御一代記 二冊          ◯絵本小倉錦   五冊     ◯絵本鶴の嘴    二冊(宝暦二年版)    斯くの如きものなり。彼の歿年に就ては、関根只誠の『名人忌辰録』に「明和五子年二月十一日歿す歳    七十九(美成の名誉往来には明和元申年七十九歳と有り)」とし、同著の『浮世絵人伝』(本朝浮世絵    名家詳伝と改め、近年更に浮世絵百家伝と改題す)には「さて政信は明和元年二月十一日享年七十九に    て歿しぬ」とあり、いま後説を採る〟    〈井上和雄は、源八を政信とし、源六は別人とする〉  ◯『随縁聞記』三村竹清著(『三村竹清集三』日本書誌学大系23-(3)・青裳堂・昭和57年刊)   ◇「癸酉第三」(『集古会誌』昭和八年第三号)   〝平亭銀鶏の『海潮音記』にある 将門純友が鷲を中に挟み武勇を争ふの絵は、誰の画く所であるか知れ    なかつたが、最近にそれが奥村政信の筆で「きほひざくら」といふ十二枚続きの第一図であることが知    れ、しかもその板木を林吉樹氏が所蔵されてゐるが、第二図の宇治橋鬼女と両面に彫られてゐるもので、    これがまた二代目団十郎と市村羽左衛門との狂言絵であることも分明した。その上に『燕石雑記』の金    平入道の絵が、第十二図に相当してゐるといふのであるから面白い。原本は馬琴旧蔵で某氏の架中に蔵    せられ、今春稀書複製会で出版した。待てば海路の日和とやら、物事は気を永くもてば、分つてくるも    のであらう、それには御寿命が万々歳でなければならぬ〟    〈『海潮音記』は本HP「浮世絵事典【き】」の「きおい桜」参照〉  ◯『浮世絵年表』(漆山天童著・昭和九年(1934)刊)   ◇「宝永元年(三月晦日改元)甲申」(1704)p63   〝此年奥村政信十九歳にして『養老瀧』といへるものに画けりといふ説あるも未だ見ず〟      ◇「宝永三年 丙戌」(1706)p64   〝正月、奥村政信の挿画に成れる浄瑠璃本『勇将御伽婢子』、浮世草子『和気の裏甲』等出版。政信此の     時二十一歳なり〟      ◇「宝永四年 丁亥」(1707)p65   〝正月、奥村政信の自作自画の『若草源氏物語』出版。    此年奥村政信の画ける浮世草子『男色比翼鳥』あり〟      ◇「宝永五年 戊子」(1708)p66   〝正月、奥村政信の挿画に成れる『関東名残の袂』『風流門出加増蔵』等出版。    狂言本には『愛兄墨田川』『凱陳十二段』『唐太宗』等あり。唐太宗は蓋し奥村政信の挿画なり〟      ◇「宝永六年 己丑」(1709)p67   〝正月、奥村政信の画作『紅白源氏物語』六巻。浮世草子『寛濶色羽二重』五冊。『風流鏡が池』六冊〟      ◇「宝永七年 庚寅」(1710)p68   〝正月、奥村政信の『若草源氏物語』再版〟      ◇「宝永年間」(1704~1711)p67   〝馬琴の随筆燕石雑志に、宝永年間奥村政信の画ける『きほひさくら』を載す、今小田久太郎氏の所蔵と    なる〟       ◇「正徳四年 甲午」(1714)p70   〝此年奥村政信の挿画に成る六段本『愛護の若』あり〟      ◇「享保六年 辛丑」(1721)p76   〝正月、奥村政信の『若草物語』二冊。石河流宣の『関東和讃(口偏+息)題目』出版。又羽川珍重の赤    本『三国志』、奥村政信の六段本『頼光山入』等出版〟      ◇「享保一九年 甲寅」(1734)p87   〝正月、奥村政信の『絵本金龍山浅草千本桜』二巻出版〟      ◇「明和元年(六月十三日改元)甲申」(1764)   〝此年、奥村政信歿す。行年七十九歳(或はいふ、明和五年二月十一日同じく七十九歳にて歿せりと)。    政信は原来書肆にして通油町奥村屋源六即ちこれなり。菱川師宣・鳥居清信等の絵を私淑して学びたる    ものゝ如く、又文字もありて著書あり、挿画も自ら成し、其著書は先に散見せるが如し。通称源六の外    源八ともいひ、芳月堂・丹鳥斎・文角・梅翁・親妙等の号あり。其才早熟にして三十歳前より盛んに製    作し、晩年に至りて却つて其作稀なり)〟      ◇「明和五年 戊子」(1768)p123   〝名人忌辰録に二月十一日奥村政信歿すとあり。蓋し疑あり、明和元年の歿なるべし〟     ◯『改訂日本小説書目年表』(山崎麓編・昭和52年(1977)刊)   ◇浮世草子   『好色花ずまふ』 元禄十六年刊(注記「巻末に絵師奥村源八とあり、源八は政信の事である」)   『好色夕顔利生草』奥村政信画 松の緑     宝永元年刊(注記「宝永五年版は宝永元年の再摺版」)   『好色又寝の床』 佐つき作 宝永二年    (注記「作者署名の下に踊如主人の捺印、又巻末万屋清兵衛板の次に、奥村源八郎政信書之とある」)   『和気の裏甲』  奥村政信画 臨川亭舟月作    宝永二年刊   『男色比翼鳥』  奥村政信画 東の紙子作     宝永四年刊   『紅白源氏物語』 奥村政信画 梅翁作       同上   『若草源氏物語』 奥村政信画           同上(注記「前書(『紅白源氏物語』)の増補改題」)   『風流呉竹男』  奥村政信画 飯山錦裳作     宝永五年刊   『関東名残袂』  奥村政信画 忍岡やつがれ作   同上   『風流鏡が池』  奥村政信画 独遊軒好文の梅吟作 宝永六年刊   『寛闊色羽二重』 奥村政信画           同上   『徒然時勢粧』  奥村政信画 梅翁作       享保六年   『雛鶴源氏物語』 奥村政信画 梅翁作       同上   『若草源氏』   奥村政信画           同上(注記「宝永四年版本の再摺」)    △『増訂浮世絵』p89(藤懸静也著・雄山閣・昭和二十一年(1946)刊)   〝絵師と版元とを兼ねたる奧村政信(中略)通油町奧村屋源六といふのがあるが、その源六が政信なので    ある。(中略)紅絵漆絵から紅摺絵時代に亘つて、長く作画した人であり(云々)    通称は源六、或は源八ともいふ。芳月堂、丹鳥斎、文角、親妙、梅翁などゝ号し、それ等の数号を重ね    て用ゆることがある。また、日本画師、風流倭画師、東武大和画工、おやま画工などの肩書を用ひたも    のもある。    政信の師に就いては異説あるが、鳥居清信の門人といふのが普通である。菱川流も鳥居流も、学んだこ    とは事実であらう。然し浮世絵師の特色として、師の風をそのままに承け継がないで、政信独特の作風    を大成したのである。なほ政信は絵画ばかりでなく、俳諧の嗜も深く、松月堂不角千翁の弟子である。    芳月堂文角梅翁といふのは即ち師名に因んで付けたものであらうといはれて居る。    政信は余程評判がよかつたと見えて、武江年表に、享保年間の浮世絵師を挙げて、政信をその首位に置    いて居る。かやうな勢であつたので、当時既に、政信を絵を翻刻して、売り出したものがあつたと見え    る。そこで政信は「浮世絵流根元奧村政信正筆」と署し、又赤き瓢簞を印として、偽物があるから此の    しるしに注意してくれといふ文句をかき、正名正筆など呼んでゐる。(中略)けわい坂少将(沢村小伝    次)曽我五郎(尾上菊五郎)の図には、芳月堂正名奧村文角政信正筆として、次のやうな注意がきが添    へてある。     私方の絵下を、直に彫、跡かたもなき絵かきの名印付、にせるい、重版致候、御しらせ申候、正名、     奧村正筆、御召可被下候、以上    これによつて見ても、政信の偽版或は版板が行はれたことが知られる。(中略)政信の筆に似たものに、    万月堂、東月堂、円月堂、松月堂、定月堂、光月堂といふのがある。政信の門人か否やは明かでないが、    これなどは芳月堂に倣つた偽名の一種であらう。     政信は名人忌辰録によれば明和五年二月十一日に、享年七十九で没したことゝなるが、又明和元年没と    いふ説もある。(中略)    浮絵を興したのは、特筆に値する。両国橋夕涼大浮絵や、海士龍宮玉取浮絵根元、新吉原大門口中之町    浮絵根元とあるものなどは、よい例である。(中略)何れも筆彩色で浮絵根元とあるから面白い。    (張良黄石公図・大黒が梅を取る図・富士見西行図・鍾馗図)これ等の図は余り世人には喜ばれないが、    美人、若衆、役者などの会心の作以外に、色々のものを画いて居るのは注意すべきである。(中略)    なほ肉筆画にも巧であるが、一方に優れた版画をかいて居るだけに、肉筆が稍版画的の傾向を帯びて居    るものゝあるのは注意すべきである。かやうな絵になると、用筆は暢達といふ域から離れて、一種の別    体となるものといへる。然し帝室博物館所蔵の小倉山荘園は、小品ながらも、立派なものである。遺作    の肉筆も折々存在する。然し政信は肉筆画家としてよりも、版画家としての方が傑出している〟    〈藤懸静也は政信=源六とし、源六とは源八は同人とする〉     ◯「日本古典籍総合目録」(国文学研究資料館)   〔奧村政信版本〕    作品数:89点(「作品数」は必ずしも「分類」や「成立年」の点数合計と一致するとは限りません)    画号他:奥村政信・文角・奥村文角・奥村正信・梅翁・源八    分 類:艶本27・絵本23・浮世草子14・赤本5・浄瑠璃3・物語2・絵画2・風俗2・        黒本青本1・往来物1・画帖1・仏教1・伝記1・注釈1    成立年:元禄14・16年 (2点)        宝永1・3~6・7年序(17点)(宝永年間合計20点)        正徳1・6年   (2点)        享保6・8・19年(4点)(享保年間合計5点)        元文5年     (1点)(元文年間合計2点)        寛延2年?    (1点)        宝暦2年     (1点)    〈元禄十四年(1701)刊の作品は『【異版】娼妓画幉』一帖。宝暦二年(1752)のものは『鶴の嘴』という絵本〉   (梅翁名の作品)    作品数:6点    画号他:梅翁    分 類:浮世草子3・物語注釈1    成立年:宝永4~7年序(3点)        享保6年  (1点)    〈梅翁の署名は画号ではなく著作上の使用であろうか。享保六年(1721)刊の『俗解源氏物語』は宝永七年(1710)の序     を有するという。すると、梅翁名は宝永年間の著作に使用されたようである〉    (正信名の作品)    作品数:1点    画号他:奥村正信    分 類:絵本    成立年:記載なし        『武者絵本金剛力士』絵本・奥村正信画   (文角名の作品)    作品数:1点    画号他:奥村文角    分 類:記載なし    成立年:寛延2年?        『松東枝の衣』奥村文角画・寛延二年(1749)?