Top浮世絵文献資料館浮世絵師総覧
 
☆ こうかん しば 司馬 江漢 浮世絵師名一覧
〔 延享4年(1747)~ 文政元年(1818)10月21日・72歳〕
(鈴木春信二代・春重参照)
 ☆ 明和六年(1769)     ◯「艶本年表」(〔国文研・艶本〕は「艶本資料データベース」)   ◇艶本(明和六年刊)    司馬江漢画『艶道増加が見』墨摺 中本 全一冊 明和六年          序「明和六巳(ママ)うしの初春」 5図の襖・20図の屏風に「春信画」〔国文研・艶本〕    ☆ 明和七年(1770)     ◯『生花百枝折』後編(明和七年刊「絵本年表」漆山又四郎著『日本木版挿絵本年代順目録』)    江漢司馬峻写 岳々斎春暁図画 月沙画 藤雪仙画 好文堂画 燕鳥画 燕十画 蘭谷画    〈「日本古典籍総合目録」は『瓶花百々枝折』岳々斎春暁画・清水宗兵衛板。但し刊年不記載。なお『生花百枝折』は     鳥山石燕等画・安永四年刊とする〉    ☆ 明和七~八年(1770~71)頃    ◯『春波楼筆記』〔大成Ⅰ〕②20(司馬江漢記・文化八年成稿)   〝其頃、鈴木春信と云ふ浮世画師、当世の女の風俗を描く事を妙とせり。四十余にして、俄に病死しぬ。    予此にせ物を描きて板行に彫りけるに、贋物と云ふ者なし。世人我を以て春信なりとす。予春信に非ざ    れば心伏せず、春重と号して唐画の仇英、或は周臣等が彩色の法を以て、吾国の美人を画く(中略)    其頃より婦人髪に鬢さしと云ふ者始めて出でき、爰において、髪の結び一変して之を写真して、世に甚    行はれける。吾名此画の為に失はん事を懼れて、筆を投じて描かず〟    ☆ 安永三年(1774)    ◯「艶本年表」   ◇艶本(安永三年刊)    司馬江漢画    『今様袖鑑』墨摺 半紙本 一冊 美江坊主人序 安政三年〔白倉〕          (注記「春信画とされてきたが、江漢の自画作と見るべきもの」)  ☆ 天明二年(1782)    ◯『宴遊日記』(柳沢信鴻記・天明二年(1782)四月三十日記)   〝四月三十日、素貫返書、家臣江漢司馬峻画行言讃二葉貰ふ〟    五月十八日、素貫へ再答書、此の間の画を返す〟    〈素貫は未詳、家臣司馬江漢とは素貫の家臣ということであろうか。また「行言讃」も未詳〉    ☆ 寛政八年(1796)    ◯「会計私記」〔南畝〕⑰36(寛政八年十二月九日)  〝琉球人見物ニ芝片門前セリ屋弥右衛門方エ参、同定吉並佐々木金十郎同道司馬江(一字欠)、大久保酉山 エ参申〟    〈定吉は南畝の嫡子。佐々木金十郎は南畝の娘・幸の夫金兵衛か。同道して司馬江漢宅に立ち寄ったものか。大久保酉     山は考証家。セリ屋弥右衛門は未詳〉    ☆ 享和年間(1801~1804)    ◯『増訂武江年表』2p27(斎藤月岑著・嘉永元年脱稿・同三年刊)   (「享和年間記事」)   〝浮世絵師二代の春信といひしもの、長崎に至り蘭画を学び、後江戸に帰り世に行はれ、名を司馬江漢と    改む。又銅板画を二本に草創せるも此の人の功也〟    ☆ 文化六年(1809)    ◯『玉川余波』〔南畝〕②123(文化六年一月下旬賦)  〝司馬江漢のかける猿橋の画に  ましらなく名におふはしはあし引の山のかひある国とこそきけ〟    〈文化五年十二月から翌年四月にかけて、南畝は玉川巡視に公務出張。一月二十五日頃、登戸村~宮内村間の宿舎か名     主の家で一見した〉    ☆ 文化八年(1811)    ◯『一話一言 補遺参考編一』〔南畝〕⑯102(文化八年五月二日明記)   (「雲茶会」二集。青山堂の出品)  〝相州鎌倉七里浜図 江漢司馬峻 愛宕山額 大一幅〟    〈以下二項も同じ「七里浜」についての記事〉    ◯『南畝集 十八』〔南畝〕⑤209(文化八年五月賦)(漢詩番号3518)  〝青山堂観司馬江漢所画鎌倉七里浜図   昔掲城南愛宕廟 今帰郭北青山堂 泰西画法描江島 縮得煙波七里長〟    〈かつては芝の愛宕山権現社に奉納されていたようだ。詩は五月二日の「雲茶会」当日の賦か〉   ◯『一話一言 巻三十六』〔南畝〕⑭416(文化八年五月)   〝近頃まで愛宕山にかけてありし絵馬をはりかへ時、青山堂これを得て裱褙して携来〟    (南畝の前項の詩を「杏花園」の名で題し、絵柄を書き留める)    相州鎌倉七里濱図/西洋画士 東都 江漢司馬峻 描写/寛政丙辰夏六月二十四日〟    〈「寛政丙辰」は寛政八年である〉    ☆ 文化九年(1812)     ◯『雨中の伽』⑮424(堤主礼著・文化八~九年記)   (「蛮学 蘭学とも云」の項)   〝近年江戸にて蛮学流行し、中にも司馬広(「江」カ)漢、【芝に住】是に村山藤九郎弟子付、斎直公命に依    て学。又城州臣島本良順、是は於長崎学。又同御代にて依て司馬広漢が画する所の油絵の蛮画を、村島    雪川、副島半十郎、増田宗閑などに学ぶ〟    〈同随筆の中村幸彦「解題」によると、著者・堤主礼は佐賀藩の歌人。宗魯、以心庵乙馬、藤原範房入道。文政三年十     月十二日、七十一才没。斎直公は鍋島九代藩主。島本良順は佐賀蘭学の始祖とされる医者〉    ☆ 文化十一年(1814)     ◯「絵本年表」(〔漆山年表〕は『日本木版挿絵本年代順目録』〔目録DB〕は「日本古典籍総合目録」)   ◇絵本(文化十一年刊)    司馬江漢画    『訓蒙画解集』一冊 司馬江漢画 〔目録DB〕    『京城画苑』 一帖 吉田新兵衛板〔漆山年表〕     素絢・原在明・豊彦・江漢司馬・芦洲・法橋正胤・応受・景文・松堂・白瑛・岸卓堂・     孝敬・南岳・玉◯・文鳴・琦鳳・壺仙・珉和・竹堂・古秀。月峯・応瑞・呉春     ☆ 文政元年(1818)    ◯『増訂武江年表』2p61(斎藤月岑著・嘉永元年脱稿・同三年刊)   (「文政元年」)   〝十月二十一日、司馬江漢峻卒す(七十二歳、不言道人と号す。江戸にて西洋画をなし行はる。文もあり    し人にて長崎の紀行をあらはし「西遊旅譚」と号し刊行せり)。     筠庭云ふ、司馬江漢、はじめ町絵師なりしが、長崎へ行き蘭画を学び、江漢と改名して江戸に顕はる。     文才もあり、「西遊旅譚」は鯨を猟る事尤もくはしくかきたり。いつの頃にか、仏国暦象編の作者に、     その著編の事をいひけるは、今漢土も我が国にも、暦法は西洋の法を御用ひなるに、天竺の暦の事を     いわるゝは如何とて、彼是論じたりとぞ。彼の作者もこれを恐れて、東叡山にたより首尾よく刊成る     よし聞きて、江漢またこれを恐れ、いづちへかうせたり。程へて又出たりといへり。度々出没したる     こそおかしけれ〟    ☆ 文政初年(1818~)    ◯『浮世絵類考』(式亭三馬按記・文政元年~四年)    (本ホームページ・Top「浮世絵類考」の項参照)      〝三馬按、此門人某、橋本町ニ在テ二代目春信ト成、後年長崎ニ至リ蘭画ヲ学ビ、再ビ江戸ニ帰リテ大ニ   行ハル。所謂司馬江漢是也。元祖春信ノ伝、並ニ錦絵ノ事等、別記ニアリ〟    ◯『総校日本浮世絵類考』p127(由良哲次編・画文堂・昭和54年刊)   〝〔故法室〕春信門人にて二代目鈴木春信となる、橋本町に住す、学識も有し人にて、後年長崎に至り、    蘭画を学びて後再び江戸に帰り、司馬江漢と名を改む。洋学年表の曰、芝に住せしを以て、司馬と改し    と。江漢名は峻、字君岳、号春波楼、又不言道人、皇朝にて銅板を草創すること此人より初む、大に行    れたり、文政元年戊寅十月廿一日歿す、行年七十二歳。(中略)    江漢将に死なんとするに望み、自像一葉を画き其上に辞世の歌をかき附たり。     江漢年がよったで死るなり浮世にのこす浮絵一枚    此画像今は美濃大垣の医師江馬活堂氏の家に存せり〟    ◯「南畝文庫蔵書目」〔南畝〕⑲387・389  〝紀行 西遊旅譚 一巻 司馬江漢〟(寛政五年刊)〟  〝外国 和蘭天説 一巻 司馬江漢 (寛政七年刊) 銅板十図 一巻 同上 (刊年不明) 天球図 一巻 同上〟   (寛政八年刊)〟    〈明和の頃、南畝は平賀源内の許に出入りしていたから、やはり源内と関係のあった江漢とは面識があったかもしれな     い。また、後年には近藤重蔵という両者に共通する友人もいた。したがってもっと交渉があっても不思議はない。だ     が南畝の江漢記事はほとんどない。もっとも江漢の著作を所蔵しているのだから、南畝の視界に江漢が入っていたと     は言えようか〉    ☆ 刊年未詳    ◯「艶本年表」(「国文研・艶本」)   ◇艶本(刊年未詳)    司馬江漢画『床すゞめ』墨摺 半紙本 三冊           中巻の画中画屏風に「春信画」  の署名あり          下巻の画中画屏風に「鈴木春信画」の署名あり    ☆ 没後資料    ☆ 天保三年(1832)    ◯『思ひ出草』〔百花苑〕(池田定常著・天保三年序)   ◇「奴婢の事」⑦155   〝(太田全斎曰く)儒者にてはなくとも書画技芸等に長じたるもの、藩士にても処士にても人をえらび、    折々君前にちかづきちかづかしめば、四方山のはなしのうちは人情世態を聞こしめすべきと。我が世子    にも司馬江漢といえる画工を推挙して出入とはしぬるが、藩臣にてはいひ難き直言をも献じ、下ざまの    情をものべしなりとなん〟    〈跡継ぎに世上指南役として司馬江漢を推挙したのは池田定常、則ち松平冠山である〉      ◇「喎蘭画之事」⑦210   〝喎蘭の画法、昔しより崎陽には伝へたりしかど、巧を極めたる人もなかりし、天明の頃、江戸の人司馬    江漢といふ画工、始めて精妙を盡し、油絵をも描し、銅版をもつくり、今は世に廣まり、是を業とする    ものいできて、頗る精妙を極め、彼国の真に逼るにいたれり。江漢少き時は染物屋の上は絵と云者を描    き、たつきとせしが、天稟聡敏にして物の理を窮むる事を好み、喎蘭流の医前野良沢、杉田玄白等に就    き、某書を読習ひ、遂に喎蘭画の一家を成せり。名は峻、字は君岳、江漢をもて通称とせり。    (中略)    江漢常に才智をくらまし、外には愚を示したれば、世人は庸人とのみ思ふもの多かりき。予は一見して    よく彼を知り、彼も亦我を知りたつ事、太田全斎は亦能く是を知れり。予一日彼が字を称し、君岳を呼    びしに答えず。又君岳々々と呼たれば、暫くにへいと答へ、我と我が字を忘れたり。さればこそ、日本    人の字の無用なる事をと相共に大笑ひせしなり。年老て後、相州江島にまうで龍窟に江漢先生羽化して    去と題銘し、其後は深く迹を隠くせしより、世にはなき人の数に入れしに、又忽然とあらわれて出、予    も逢しが、程なく麻布鉤鉤匙橋の寓居にて病死せり〟    〈江漢は文政元年、八十一歳没。「予」は池田定常〉    ☆ 天保十一年(1840)    ◯『増訂武江年表』2p95(斎藤月岑著・嘉永元年脱稿・同三年刊)   (「天保十一年」十月十三日、浅草寺本堂修復成就記事に続いて)   〝筠庭云ふ、浅草寺本堂の額、此の時より見えぬもの猶あり。古き額にて揚香が虎を逐ふ図なくなりて、    今岸良が画見えたり。蘭斎が孔雀などもなし、江漢が油画周防錦帯橋の図、これは本堂修復前より見え    ず〟    〈「岸良」は佐伯岸良。「蘭斎」は森蘭斎〉    ☆ 安政二年(1855)    ◯『古今墨蹟鑒定便覧』「画家之部」〔人名録〕④242(川喜多真一郎編・安政二年春刊)   〝司馬江漢【名ハ峻、字ハ君岳、春波楼ト号ス、画法一家、曾テ皇朝ニ銅板ノ図ヲ作ルハ此人ヨリ始マレ    リト、文政元年十月廿一日歿ス、年七十二】〟    ☆ 安政三年(1856)    ◯『寐ものがたり』〔続大成〕⑪12(鼠渓著・安政三年(1856)序)   〝司馬江漢 油絵に名あり と云る絵師、老後わが宿の向の家にかゝり居たり。折節父の許へ咄しに来り、    寒暖汁の筋引て給われと頼みし事あり。則引て与へしかば、その礼心にや、画を呉ぬ。表具して掛たり    しを幼少の時見たりしが、絹地に墨絵の富士也【江漢が画しなり】其後江漢、またその絵を外人に望れ、    召使し姥を以て、先達て進らせし富士の絵、御不用と見へてろく/\礼も申されず、返さるべしと、一    ト通り江漢のロ上を述、さて跡にて、かの姥気の毒そふに、私には右様の御使には参り難しと申けれど    も何分聞ず、一旦進上せしものを還せなどゝ誠にわからぬ老人也とて、散々に誹謗しける。それに搆し    事もなければ、右の図をとり出し帰シ遣りぬ。姥持帰り、江漢に渡しければ、江漢何と申されしぞと問。    何共申されずと云。江漢気の毒にや思ひけん、紅毛の松明とか云ものを、又姥に持せて、これは表具な    されしかわりなりとて遣シけるを、わが父請給わず、持て還るべしと云。かの姥むりに置て帰りぬ。返    して来よと、われらに申付られし故、又持て江漢の許へ行、返しければ、何やら小箪笥の引出しより出    し、これはおまへの持遊ぴに進ると云。われら幼少ながら、取ては悪しかりなんと思ひ、入り候はずと    云て暇乞して帰る跡より、又姥に彼品もたせ遣し、足非受納あれといふ。父なる人、面倒なり貰て置と    いわれしかば、礼いふて帰しぬ。江漢、姥の帰り遅しと待かね、どふした取たか/\と問。姥答へて、    礼言て御請被成しと云ければ、夫でよし/\漸く安心したりと云たるよし。    彼品は鉄にて作りし香箱の如き物也。至て麁品なれども紅毛細工のよし 今に所持。      江漢、元は芝新銭坐に住しが、子細ありて女房は離別し、娘一人もてり。その娘に持参三十両付て、わ    れら男子なき故、老後に引とり呉よと云約束にて、所惣左衛門と云人の許へ縁付し由也。聟惣左衛門、    先二没しぬ。その跡へ入夫して、これも惣左衛門と名乗。その男は越後者にて古今の俗人なり。或時江    漢に、惣左衛門はいかにと問ば、右様なる男といふは阿蘭陀にもなしと言り。    江漢、紅毛絵を画き、又蘭語も少々は知りて居たり    江漢の唱しに、平賀源内はおもしろき男なり、或時儒者来り、源内ニ対し、われら学文にては中々足下    には負まじと思へども、人足下を知りてわれを知らず、如何なる事ならんと云、源内答へて、名を高ふ    せんには著述をするがよし、貴所の学力にて著述せられなば暫時に名はあがるべきと云、彼儒者、著述    せんにも金子無くては叶わずといへば、それは人に借るがよしとと云、借りても返す事難しといへば、    返ず時分になりなば、外より又借りて返すがよし、又其金返す期にならば、ヌかりて返すべしと云、夫    にては始終借金になり、埋方なるまじといへば、源内面を正し、其内には貴所が死るか、借たる人が死    かして仕舞へしと云〟    ☆ 文久二年(1862)    ◯『本朝古今新増書画便覧』「コ之部」〔人名録〕④326(河津山白原他編・文化十五年原刻、文久二年増補)   〝江漢【司馬、名ハ俊、字ハ君岳、号ハ春波楼、江戸人、画風一家ヲナス、皇朝ニテ銅板ヲ製ス、此人ヨ    リ初ム、文政元年ニ歿ス】〟    ☆ 慶応元年(1865)    ◯『翟巣漫筆』〔新燕石〕③附録「随筆雑記の写本叢書(三)」p7(斎藤月岑書留・慶応元年記)   〝八月南なべ丁辺古書画商ひ候家ニ而司馬江漢の画、西王母のかけ物見る、江漢の人物ハめづらし、絹地    粉色なり〟  ☆ 明治十三年(1881)    ◯ 観古美術会(第一回)〔4月1日~5月30日 上野公園〕   『観古美術会出品目録』第1-9号 竜池会編 有隣堂 明治14年刊(国立国会図書館デジタルコレクション)   ◇第一号(明治十三年三月序)   〝司馬江漢 額 日本創製銅板 司馬江漢製 一面(出品者)武内久一〟   ◇第二号(明治十三年四月序)   〝司馬江漢 銅版画 司馬江漢鐫 一幅(出品者)松田敦朝         水彩画 司馬江漢画 二幅(出品者)松田敦朝〟   ◇第三号(明治十三年四月序)   〝司馬江漢 油絵屏風 司馬江漢 一隻(出品者)岩松善次郎〟  ☆ 明治十四年(1881)  ◯ 第二回 観古美術会〔5月1日~6月30日 浅草海禅寺〕   『第二回観古美術会出品目録』竜池会編 有隣堂 明治14年刊(国立国会図書館デジタルコレクション)   ◇第二号(明治十四年五月序)   〝司馬江漢 一幅(出品者)岩松善次郎〟  ◯『新撰書画一覧』伴源平編 赤志忠雅堂 明治十四年五月刊   (国立国会図書館デジタルコレクション)   〝司馬江漢 名ハ峻、字ハ君嶽、春波楼ト号ス、画ヲ善クシ、文亀二年、箱根旅亭ニ没ス、八十三〟  ☆ 明治十五年(1882)   ◯ 第三回 観古美術会〔4月1日~5月31日 浅草本願寺〕   『第三回観古美術会出品目録』竜池会編 有隣堂 明治15年4月序(国立国会図書館デジタルコレクション)   ◇第三号(明治十五年四月序)    司馬江漢 油絵額 一面(出品者)馬具兼〟  ☆ 明治十七年(1884)    ◯『石亭画談』初編〔続大成〕⑨206(竹本石亭著・明治十七年(1884)七月刊)   〝死人不言 司馬江漢    司馬江漢、名は一峻、字は君岳、春波楼と号す。江漢の時洋画いまだ開けず、蘭人僅に外科医法を伝ふ    るのみ。独江漢始て洋画を学び、銅板の画を製す。後世洋画の盛なる詢(マコト)に江漢を先学者と為也。    江漢曾て事故ありて、偽り已(スデ)に死せりとなして芝某町に潜居す。或人途上にて江漢の後背を見追    て共名を呼、江漢足を逸(イツ)して走る。追もの益呼て接近甚迫る。江漢首(コウベ)を回し目を張て叱(シ    ツ)して曰、死人豈言を吐(ハ)かんやと。再び顧(カヘリミ)ずして復走ると云〟  ◯『扶桑画人伝』巻之四 古筆了仲編 阪昌員・明治十七年八月刊   (国立国会図書館デジタルコレクション)   〝江漢    司馬氏、名ハ峻、字ハ君岳、春波楼ト号ス。始メ文晁ニ従学シ、後一変シテ一家ノ風ヲナス。皇朝ニテ    銅販ノ図ヲ製造スルハ此人ヨリルト云フ。油画風ノ画ヲ能ス。文政元年十月二十一日没ス、七十二歳。    明治十六年迄凡六十六年〟  ☆ 明治二十二年(1889)    ◯ 日本美術協会美術展覧会〔11月3日~ 日本美術協会〕   『明治廿二年臨時美術展覧会出品目録』1-2号 松井忠兵衛・志村政則編 明治22年11月刊    (国立国会図書館デジタルコレクション)   〝司馬江漢 鷺図 一幅(出品者)黒川新三郎〟  ◯『近古浮世絵師小伝便覧』(谷口正太郎著・明治二十二年(1889)刊)   〝日本銅版開祖 寛政 司馬江漢    名峻、字君岳、号不言道人、春波楼    始め邦画を学び、二世鈴木春信と称す。長崎に至り西洋画を学び、術を得て帰へり、名を司馬江漢と改    め一格を画き、銅版を製し始む。其名海内に賑ひ、人争ふて索め競て門に業を受る多しと、実に皇国の    銅版、爰に開創せり。殊に文才有り、西遊旅譚五冊を編す。嗚呼惜むべし、文政元年の冬を一期として    江戸に終る、時に年七十二〟  ☆ 明治二十四年(1891)  ◯『山武書画展観出品目録』杉元平六著 宍倉敬太郎 明治二十四年五月刊   (五月十六・十七日開催 会場:山辺郡東金小学校)   〝江漢 西洋人図 着色 絹本 小條 玉川忠兵衛 山辺郡東金町東金〟  ◯『近世画史』巻四 細川潤次郎著・出版 明治二十四年(1891)六月刊   (国立国会図書館デジタルコレクション)   (原文は返り点のみの漢文。書き下し文は本HPのもの。(文字)は本HPの読みや意味。茶文字は訓読できなかった箇所)   〝司馬江漢 名峻、字君嶽、一に春波楼と号す。江都の人なり。和蘭の学を以て聞こえ、画は西洋の烘染    法に傚ふ。又其の画を銅版に鐫(え)る。共に本邦の未だ嘗て有らざる所と為る。性游を好む。天明中江    都を発し、相模を経、伊豆に入り、熱海の温泉に浴す。日金山の絶頂に上り、繞(めぐ)りて三島に出づ。    駿州の庵原久能寺・遠州の秋葉山・参州の鳳来寺を過ぎり、勢州四日市より左折して皇太神廟に謁す。    志摩の鳥羽より海を航りて西して数里。岸に上りて、江州日野に抵(いた)る。石塔寺の大塔を観、八月    十五日夜を以て石山寺に宿り、月を観て去る。大坂に留まること数日、遂に播備の勝(地)を探り、芸州    の厳島の祠を瞻(み)る。防長の佳き処、大抵捜討せざる無し。赤間関に抵りて、海を渡り西す。肥前の    長崎に至り、笈を卸して久之(しばらくして)、又平戸に之き、生月島に航る。土人の鯨を捕るを観て反    (かえ)る。伊万里・唐津・博多を経て、再び赤間関に抵り、舟に乗る。備後の鞆津に至り、舟を捨てて    東す。京師に入り、道を岐岨(木曽)に取り、浅間・妙義の諸勝(地)を覧て帰る。途中、橐筆(筆袋)を抽    (ひ)きて之を記す。歴(へ)る所、都邑・山川の大略より、草木・歌謡の類に至るまで、畢(つい)に載せ    ざる靡(なし)し。間之、以図画、以便閲者。鏤板(ろうばん=版本)世に行はる。名づけて画図西游譚と    曰ふ。此の種の紀行、勝具(健脚)を有する者、之を作すこと難(かた)からず。而れども其の図の如きは    則ち画を能くする者に非ざれば弁ずること能はざるなり。又春波楼画譜及び雑著数種有り。文政元年十    一月歿、年七十二〟   〈「西洋の烘染(コウセン)法」とは陰影を使って物の形を強調することをいうのであろうか〉  ◯『聴雨堂書画図録』巻一 渡辺省亭著・画 稲茂登長三郎 明治二十四年十月刊   (国立国会図書館デジタルコレクション)   〝司馬江漢 人物 紙本 竪二尺五寸 濶尺五寸 (摸写図あり)〈省亭の評語なし〉〟  ☆ 明治二十五年(1892)    ◯『日本美術画家人名詳伝』下p478(樋口文山編・赤志忠雅堂・明治二十五年(1892)刊)   〝司馬江漢    名ハ峻、字ハ君岡、春波楼ト号ス、初メ恋川春町ニ学ビ二世春信ト号シ、亦谷文晁ニ学ブ(狩野古信宋    紫石ニ学ブト云)江漢ノ時、未ダ洋画開ケズ、蘭人僅ニ外科療法ヲ伝フルノミ、独リ江漢始メテ長崎ニ    至リ、洋画ヲ画ビ、油画及ビ銅版ノ画ヲ製ス、其ノ花押洋字ヲ用フ、始メテ銅刻ヲ以テ、天球全図・地    球全図及ビ東都八景ノ図ヲ製ス、後世洋画ノ盛ナル、実ニ江漢ヲ以テ率先者トナスナリ、江漢曾テ事故    アリテ、偽リ死セリトナシ、去リテ芝某町ニ潜居ス、一日某途上ノ後背ヲ見追テ呼ブ、足ヲ逸シテ走ル、    追フモノモ益々呼ビテ接近甚ダ迫ル、江漢首ヲ回シ目ヲ張テ叱シテ曰ク、死人豈言ヲ吐カンヤト、再ビ    顧ミズシテ復走ルト云フ、文政元年十月廿一日歿ス、年七十二、著ハス所春波楼画譜・和蘭奇工アリ    (古今雅俗石亭画談・鑑定便覧・嬉遊笑覧)〟  ☆ 明治二十六年(1893)    ◯『古代浮世絵買入必携』p18(酒井松之助編・明治二十六年(1893)刊)   〝司馬江漢    本名〔空欄〕   号 春波楼   師匠の名〔空欄〕   年代 凡八十年前より百年迄    女絵髪の結ひ方〔空欄〕    絵の種類 肉筆    備考  〔空欄〕〟    ◯『浮世絵師便覧』p226(飯島半十郎(虚心)著・明治二十六年(1893)刊)   〝江漢(コウカン)    名は峻、春波楼、不言道人、宋紫石の門人、油絵を善くし、我国銅版画の祖なり、此人をもて、二世春    信とするは、非なり、自著司馬江漢後悔記に詳なり、文政元年死、七十二〟  ☆ 明治二十七年(1894)    ◯『名人忌辰録』下巻p30(関根只誠著・明治二十七(1894)年刊)   〝司馬江漢 春波楼    名峻、字君岳、号不言道人、俗称勝三郎、後孫太夫、本邦油画の祖。文政元寅年十月廿一日歿す、歳八    十二。麻布浄林寺に葬る。(本村慈眼寺にも墓碑ありと云へり)(江漢は始め浮世絵師鈴木春信の門に    入て重春と号し、師歿後二世春信と名のれり。後長崎に行き、蘭画を学び油絵銅板の術を得たり。文才    もありいさゝか蘭学をも窺ひ、天文地理暦数の事にも心得ありてその筋の著述もあり。又鯨を捕る法に    尤巧みなりきとぞ。委しきことは略す)〟      ◯『浮世絵師歌川列伝』「歌川豊春伝」p76(飯島虚心著・明治二十七年、新聞「小日本」に寄稿)   〝享和年間司馬江漢長崎に至り、更に西洋油画の画法を伝えしより、其の法益々世に行わる。かの北斎、    広重の山水、またみなこの法によれるなり〟    〈司馬江漢の長崎平戸遊学は天明八年(1788)~寛政元年(1789)にかけて〉     ☆ 明治三十年(1897)  ◯『古今名家印譜古今美術家鑑書画名家一覧』番付 京都     木村重三郎著・清水幾之助出版 明治三十年六月刊   (東京文化財研究所「明治大正期書画家番付データベース」)   〝近代国画名家〈故人と現存とを分けている〉    ※Ⅰ~Ⅳは字が大きさの順。(絵師名)は同一グループ内の別格絵師。    〈故人の部は字の大きさでⅠ~Ⅳに分類。(絵師名)はそのグループ内の別格絵師〉    Ⅰ(狩野探幽・土佐光起・円山応挙)酒井抱一 渡辺崋山  伊藤若沖    Ⅱ(谷文晁 ・英一蝶 ・葛飾北斎)田中訥言 長谷川雪旦    Ⅲ(尾形光琳・菊池容斎・曽我蕭白)岡田玉山 司馬江漢  浮田一蕙 月岡雪鼎 高嵩谷      蔀関月    Ⅳ 大石真虎 河辺暁斎 上田公長 柴田是真 長山孔寅 英一蜻  英一蜂 佐脇嵩之      高田敬甫 西川祐信 橘守国  嵩渓宣信 英一舟  葛飾為斎〟    〈江戸時代を代表する絵師としての格付けである〉  ☆ 明治三十二年(1899)  ◯『浮世画人伝』p43(関根黙庵著・明治三十二年(1899)刊)     〝司馬江漢(ルビしばこうくわん)    司馬江漢、名は峻(シュン)、字は君岳(クンガク)、通称は勝三郎、後年孫太夫と改む、不言道人また春波楼    の号あり、延享四年に生る、初め鈴木春信の門に入りて、春重と称し、師の歿後其名を継ぎて二世春信    と称せり。当時洋画未(*ダ)行はれず、蘭人僅に外科医法を伝ふるのみ、江漢長崎に到り蘭語を研究し、    洋画を修む。後に江戸に帰り、専ら油画銅版画に従事し、天球図地球全図および、東都八景の図を作り    て其名世に高し。江漢幼年の時より、和漢の人物山水などを描きて、既に画才を顕(アラ)はせり。壮年に    及び筆力雄健にして益々精妙の域に進めり。或時仙台侯の召しに応じて、席画を試みけるに、侯は簾(ス    ダレ)屏風の内より御覧あり、用人役平賀蔵人其側に侍しけり、江漢命(メイ)に従ひて、先づ和美人を描き、    次にこれと一対の美男子を描く、侯はいと興に入りて、自ら其画を持ち簾屏風の内に入れり、是れより    筆を縦横に揮ひ、種々のものを描きて御感に預りしと云ふ。江漢既に名を成して洋画家の聞え都雛に喧    (*カマビス)し、若うして漢学を研修し、和漢の画法を会得し、了りて更に洋画の深趣を解す、されば其見    識尋常画家の比にあらず。江漢、唐和画家が富士山を画くを評するの言に、我国の画家に土佐家、狩野    家また近来唐画家あり、富士山を写す事をしらず。探幽富士の画多し、少しも富士に似ず、只筆意筆勢    を以てするのみ、又唐画とて日本の名山勝景を図する事能(*アタ)はず、名も無き山を画きて山水と称す、    唐の何と云ふ景色(ケイシヨク)、何と云ふ名山と云ふにもあらず、筆にまかせておもしろき様(ヨウ)に、山と    水を描きたる者なり、是は夢を画きたると同じ事なり、見る人も描く人も、一向理(リ)のわからぬと云    ふものなりと、其意見少しく偏するの嫌ひを免れずといへども、探幽を眼下に見、和唐の画家を論殺し    去るのところ、最も其識量のあがれるを見る。江漢は斯くの如く和漢の画法に達せり、殊に洋画に於て    は、これを我国に伝へし始祖にして、今日の洋画家たるものは、一日も江漢の功労を忘却すべからざる    なり。江漢又理学に通じ、哲理思想に乏しからず、人間の一生涯を論じて、それ人間の小慮を以て瞻(ミ)    れば、一生は永き夢、天の大理を以て視る時は、実に短き夢、夢を夢と思はぬうちこそ、人間の境界な    れ、我は夢も覚めかゝりて、何事にも迷はざればおもしろからず、さつぱり覚めては夢もむすばず、此    の世は夢の迷の中なれば、吾も夢中の人、向ふ人も夢の人、只迷ひ惑ふ事のみをして、是を楽しみ、或    は苦しみ、亦(*マタ)歓び患ひて、此の世に居るうちは、懼(オソロ)しき夢を見ぬ様にして安居すべし、大    なる歓楽をする時は、必また大なる困(*ママ)み心配あるなれば、其(ソノ)度(ド)を能く考ふべき事なり、    名利とて此の二に迷ふ事なれば、爰を知り給へ、巨万の富貴も、名の高く聞える人も、一世の中の事な    り、釈迦も孔子も名にみ残りて、其人なし、わが子、われ一人の者に非ず、夫婦の間より生ず、子また    孫を生ず、孫また曾孫(ヒコ)を生ず、漸々血脉の遠く浅く淡くなりて、末に至りては悉く他人となる、然    れば他人皆われなりと云へり、又儒者なるものを評して、今の儒者は儒者にあらず、躬の持ちやうも知    らず、大酒を呑み放蕩不埒者なりと誹(ソシ)る事なり、是は甚(ハナハダ)間違なり、儒者と云ふ者は、漢の    字を能く知り、読みがたきをも能く解し、和歌をも漢文とし、又は聖経をも能く解し、聖人の心を譬(*    タトヘ)て以て教示し、講釈すれば俗人は聖人の行を為(ス)るやうに思ふは甚間違なり、聖人の道を行ふは    儒者のあづかる所にあらず、是は人による事なり、いかほど利口にても邪悪の人あり、又愚にても聖人    のふるまひの人あり、文学を能く知り学者と他より誉らるゝ人にても、一向に理の分らぬ人あり、数万    巻の書を読み、博識なりと云はるゝ人にても、聖人の意を知らざる者あるなり、故に聖経を以て、其の    道を儒者に能く聴き、己に能く得(エ)て躬に行ふ者を、真の儒者と云ふなり、然れば世にある渡世儒者    の事には非ずと知るべしといへり。江漢が思想大率(*オオヨソ)斯(*カ)くの如し、其当時にありては寔(マコ    ト)に得難(エガタ)きの卓識と謂ひつべきなり、其他江漢が釈子・孔子・老子三家の学説を区別するとこ    ろ、仏教の経義を論議するところ、若(*モ)しくは宇宙人間を解釈するところ、宛然哲学者の如し、江    漢が学者としての伝記は、本伝の関するところにあらざれば、多くは略して記さず、只(タダ)其(ソノ)一    二を記して、本伝の副とし、其人となりの、一端を示すになん。江漢晩年に至り諸侯の召あれども、敢    て其聘に応ぜず、悠々山水を楽しみ、四方に漫遊し名山勝水を瞻(ミ)ては家に帰りて画に摸(モ)し、又    己の天文地転の説を歓び、聞くものに向ひて窮理を談じ、超然として凡俗を脱しぬ。江漢、文政元年十    月歿す、年七十二。因(*チナミ)に云ふ、江漢と云へる号は、己が祖先は紀州の人なりしにより、紀の大河    日高河、紀の河にちなみ洋々たる江漢は南の紀なりと云ふ、句より江漢と号せしとぞ〟    ☆ 大正年間(1912~1825)    ◯『梵雲庵雑話』p129「古版画趣味の昔話」(淡島寒月著・大正七年(1920)一月『浮世絵』第三十二号)   〝その時分(明治初年頃)、東京で名高い古書店で、私のよく買いに行ったのは、三久、京常、その他、    池の端の斎藤とてわれわれ同好者間では、「バイブル」と綽名(アダナ)を附けておった店、それと、その    頃藤堂前(和泉町)におった今の好古堂などである。京常は主に軟文学に関する古本を取扱っておった    店で、かつて久保田米僊(クボタベイセン)氏がこの店で、オランダ絵を一枚一銭ずつで買った事がある。そ    の頃は、新(アラタ)に流行し始めた万国覗(バンコクノゾキ)からくり眼鏡(メガネ)の看板に、司馬江漢等の銅版    画で、今ならば珍品として騒がれるほどのものを惜しげもなく使用しておった時代であるから、オラン    ダ絵の安価なことも、さまで驚くには足りないのである〟    〈久保田米僊は鈴木百年門の日本画家。日清戦争に画報記者として従軍。失明後は評論等に活躍する。明治三十九年(1     906)没、五十五歳〉    ☆ 昭和年間(1926~1987)    ◯『狂歌人名辞書』p39(狩野快庵編・昭和三年(1828)刊)   〝司馬江漢、名は俊、字は君岳、通称土田孫太夫、春波楼と号す、初め画を宋紫石に学び、後鈴木春信に    従ひ、別に洋画を学び、銅版画を製す、文政元年十月廿一日歿す、年七十二〟    ◯『浮世絵師伝』p67(井上和雄著・昭和六年(1931)刊)   〝江漢    【生】元文三年           【歿】文政元年十月廿一日-八十一    【画系】鈴木春信門人後ち宋紫石に学ぶ【作画期】明和~文化    江戸本芝に生る(其の先祖は紀州の人)、本姓安藤、司馬氏を称す、名は峻、字は君嶽、俗称勝三郎、    後に孫太夫と改む(藤岡作太郎氏の『近世日本江画史』には「俗称吉次郎、四十余歳の時、土田氏に入    夫す」とあり)、幼より画を好み、初め狩野古信に学び、中頃鈴木春信の門に入りて鈴木春重と称し    (口絵第廿二図参照)、錦絵美人画を作りしが、中には師春信の名を僣用して偽作せし錦絵もありしと    云ふ、後ち宋紫石の門人となりて画風を一変せり、彼が挿画せる安永二年版の『【俗談】口拍子』には    春重画とあり、同四年版の『瓶花百々枝折』には江漢の落款を用ゐたり、而して、安永四五年頃の作と    思はるる彼が肉筆遊女及禿の図に「蕭亭春重図」と落款して、印文には「春信」とあり、されば、当時    は図によりて江漢とし、或は春重として別に蕭亭(一に蘭亭とも)などの号を用ゐしものなるべし。彼    は又詩文を唐橋世済に学び、自作の詩などに必要の爲め、司馬氏(其の居所芝に因みて)云々と支那式    の名字等を附せしものなりと、彼の自著『後悔記』に記せり。彼は其の後、蘭人に就て洋画の法を学び、    又銅版画の製作法を習得して、之れを自作の風景画に応用し、邦人最初の試みを発表せり、蓋し天明乃    至七年の出版に係り、其が画題は、御茶水景・不忍池図・麻布おやぢ茶屋・中洲夕涼・三囲之景(口絵    第三十三図参照)等の如く、江戸名所を画きしものなれど、其他に「紀州和歌浦」及び外国風景などを    写せしものもあり、其等の落款に「日本創製」の肩書を用ゐしは、彼が、本邦最初の銅版画家たる事を    自認せしなり。    如上の外に彼の作品として見るべきものは、寛政年間に出せし天体地球を図せし銅版画、享和〈一字空白〉    年出版の自画自著『画図西遊譚』、寛政八年六月の款識ある肉筆(泥絵)の「相州鎌倉七里ケ浜図」    (もと芝愛宕神社に奉納せしを後ち民間に伝ふ)、其他泥絵風の肉筆画数点あり、最後に文化十一年正    月版『京城画苑』と題する諸家合筆の画帖中、彼の筆に成れる西洋人物図あり、款識に「東都江漢司馬    峻写於皇都客舎」とあるを見れば、当時幾回目かの西遊の途にありしものと想像せらる。『浮世絵師系    伝』(写本)に「江漢将に死なんとするに臨み自像一葉を画き其上に辞世の歌をかき附たり、江漢が年    がよつたで死ぬるなり浮世に残す浮絵一枚、此画像今(明治二十四年頃)は美濃大垣の医師江馬活堂氏    の家に存したりと云ふ」とあり。彼は晩年麻布笄町に住し其処にて歿す、法名は桃言院快栄寿延居士と    いひ、墓所は麻布本村町浄林寺なりとの説ありしが、先年某氏等の実地踏査によりて、其は浄林寺にあ    らず深川猿江の慈眼寺なる事、慈眼寺は大正元年に市外西巣鴨町に移転せし事など確かめられたり。因    みに、彼の享年に就ては八十二歳説と七十二歳説とありて、従来いづれとも決定せざりしが、近年相見    繁一氏の発見されたる肉筆「魚肆店頭の図」には「文化乙亥(十二年)春、七十八翁桃玄司馬峻」と落    款せる由、然らば其が歿時文政元年には八十一歳なりし事を確証するに足るべし〟    ◯『浮世絵年表』(漆山天童著・昭和九年(1934)刊)   ◇「天明六年 丙午」(1786) p143   〝正月、司馬江漢の挿画ある『六物新志』出版〟     ◇「文政元年(四月二十二日改元)戊寅」(1818) p191   〝十月二十一日、司馬江漢歿す。(江漢名は峻、春波楼と号す。初め鈴木春信の門人となりて春重と称し    浮世絵を画き、又二代春信とも称せりといふ。後長崎に至りて西洋画を学び盛んに油絵を画けり。又銅    版画を製作す。亜欧堂田善は実に其門人なりといふ。著書には西洋画談、西遊旅譚、長崎見聞志、春波    楼筆記、和蘭通舶、泰西諸国銭考等あり)〟    △『東京掃苔録』(藤浪和子著・昭和十五年序)   「豊島区」慈眼寺(西巣鴨四ノ三八)日蓮宗(旧深川本村町)   〝司馬江漢(画家)名峻、通称勝三郎。春波楼と号す。長崎にて洋画を学び、油絵、銅版画を創む。文政    元年十月二十一日歿。年八十一。桃言院快詠寿延居士。指定史跡〟    ◯「日本古典籍総合目録」(国文学研究資料館)   〔司馬江漢画版本〕    作品数:38点    画号他:俊・峻・春重・勝川春重・司馬峻・司馬俊・司馬江漢    分 野:天文12・地理3・絵画3・随筆3・地誌3・紀行2・咄本1・教訓1・工学1・書簡1・        外国語1・医学1・貨幣1・海運1・水産1    成立年:安永2年 (1点)        天明8年 (1点)        寛政4~5・7~8・10~11年(7点)        文化2・5・7~11・13年  (14点)    〈「勝川春重」名の作品は軽口耳抜作の咄本『口拍子』(安永二年刊)の一点。武藤禎夫編『江戸小話辞典』(東京堂     出版)は「春重画」とする〉
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