Top浮世絵文献資料館浮世絵師総覧
 
☆ きよのぶ とりい 鳥居 清信(鳥居家初代)浮世絵師名一覧
〔寛文4年(1664) ~ 享保14年(1729)7月28日・66歳〕
 ※〔目録DB〕:「日本古典籍総合目録」国文学研究資料館   〔漆山年表〕:『日本木版挿絵本年代順目録』   〔狂歌書目〕:『狂歌書目集成』   〔霞亭文庫〕:東京大学附属図書館・電子版霞亭文庫   〔日文研・艶本〕:「艶本資料データベース」   〔白倉〕  :『絵入春画艶本目録』   『初期浮世草子年表』野間光辰著 日本書誌学大系40   『赤本黒本青本書誌』「赤本以前之部」木村八重子著   『洒落本大成』1-29巻・補巻 中央公論社    角書は省略  ☆ 貞享四年(1687)     ◯『色の染衣』(吉田幸一編・古典文庫「初期浮世草子Ⅰ」昭和六十三年刊)   (刊記)   〝貞享四丁卯歳仲秋下旬           作者松月堂不角           大和絵師庄兵衛図         日本橋南二丁目式部小路 近江屋重兵衛板行〟     ◯「識語集」〔南畝〕⑲725(年月日未詳)   (松月堂不角選の『色の染衣』に南畝の識語)   〝蜀山按、貞享四年丁卯歳也。大和絵師庄兵衛者鳥居庄兵衛清信也。蓋書林削貞享四字及大和絵師以下字    而作新版也。今以異本訂正。蜀山人〟    〈南畝の「大和絵師庄兵衛」を鳥居清信とする説に従うと、清信の作画期は元禄以前の貞享四年(1687)に溯ることに     なる。しかし『原色浮世絵大百科事典』(第二巻「浮世絵師」)はこれを否定している〉     ◯『初期浮世草子年表』(貞享四年)   『【新板】色のそめ絹』半紙本 四冊 貞享四年八月刊     著者 松月堂不角     画工「大和絵師庄兵衛図」        江戸近江屋重兵衛板    〈「年表」には「画工ならびに板元名は京大藏本蜀山人書入に拠る。種彦の『好色本目録』には『男色の染衣』として     掲出」とあり。上記大田南畝の「識語集」参照〉     ☆ 元禄四年(1691)     ◯『好色染下地』(吉田幸一編・古典文庫「初期浮世草子Ⅰ」昭和六十三年刊)   (序)〝松の月(松明堂)〟(刊記)〝于時元禄四辛未天 五月 日〟    〈作者は松月堂不角、画工は署名はないが「鳥居庄兵衛か」とする。ただ国文学研究資料館の「日本古典籍総合目録」     は古山師重画とする〉     ☆ 元禄六年(1693)     ◯「絵本年表」〔漆山年表〕(元禄六年刊)    鳥居清信画『芝居百人一首』大本一巻 鳥居清信画 古今四芝居色競序 性悪軒四泥子序之    ◯「絵入狂歌本年表」〔狂歌書目〕(元禄六年刊)    鳥居清信画『四芝居百人一首』一冊 鳥居清信画 童戯堂四囀撰 版元不記載    〈備考、本書を「絶板を命じられた筆禍本」をする〉     ◯『筆禍史』「古今四場居百人一首」(元禄六年)p31(宮武外骨著・明治四十四年刊)   〝此書は浮世絵版画の祖菱川師宣に私淑せし鳥居清信筆にして、稀代の珍本なり。現今存在するものにし    て世に知らるゝは、東京松廼舎主人こと安田善之助所蔵と、予の所蔵との二部あるのみ、同氏所蔵本の    奥書に曰く     この書は元禄六年夏五月の開板にして、はじめは芝居百人一首と題号しゝが、河原者をやんことなき     小倉の撰に擬してものせるよし、尤憚あるよし、時の書物奉行脇部甚太夫より沙汰ありけば、四場居     色競と改題したり、此書に序跋もまた発開の年号を記さゞるにても、もとありけむを、此ゆゑに削り     たるなるべし、されどなほ体裁をかへざりければにや、更に町奉行能勢出雲守より発売を禁ぜられし、     梓主平兵衛といへるは軽追放に処せられぬ、かくて製本僅に数十部に満ずして、世に稀有の冊子にて     ありき、亡友豊芥子さしも奇冊珍本の秘蔵多かりし人ながら、此書ばかりはその名を聞くのみなりと     かたられき、おのれも年頃いかで見まほしかりしを、明治十年の頃、これも今はなき友なる元木魁望     子が秘蔵さるよし、ゆくりなく聞きでて、漸くにしておのがものとはなりぬるを、こたび文殊庵紫香     君の、強てといはれつるに、いなみがたうて、終に望みたまふにまかせ参らしつ      明治十七年甲申菊月 かくいふもとの持ぬし   関根 只誠    これに拠って、其絶版となりし理由を知るべし、出版者は軽追放の刑に処せられたれども、著画者は其    署名をせざりしがためか、何等の咎めを受る事もなかりしが如し    其記事体裁は左の如く、当時の名優一百人の評判記にして、市村竹之丞、中村伝九郎、市川団十郎、生    島新五郎、上村吉弥、猿若山左衛門、坊主小兵衛、森田勘弥等も其中に加はりあり、是等の記事は山東    京伝の『近世奇跡考』、烏亭焉馬の『歌舞伎年代記』其他にも考証として引用されたり     但し原本は縦九寸横六寸余の大冊なれども茲には写真にて宿刻せるものを出す。
   『古今四場居色競百人一首』 童戯堂四囀、恋雀亭四染作・鳥居清信画     (東京大学付属図書館・電子版「霞亭文庫」)              〔頭注〕古今しばゐ百人一首    此書の挿画は鳥居清信壮年の筆なり、後世鳥居風と称さるる特殊の筆意に変化せざりし前のものなれば、    一見菱川派の画なるが如し    予の蔵本には十二枚に渉れる数名の序跋ありて、改題『古今四場居色競』の序跋も添へり、其一に于時    癸酉正月日(元禄六年)とあり    絶版即ち発売禁止となりし理由として『此花』第一枝に掲出したる一條は、全く予の誤見なりしこと関    根翁の記にて知れり    元木魁望子は烏亭焉馬の蔵本なりしを所持されたるならんか、安田氏は先年吉田文淵堂主人の手を経て、    大久保紫香氏の蔵本を百金にて購ひたるなりと聞く、その珍本なることを察すべし     安田氏の蔵本は先年の大地震にて烏有にきせり、予の蔵本は七円にて購入せしを、大正二年百二十円     にて売却せしが、今年春東京帝国大学図書館が購入せし渡辺霞亭の蔵本中に右の品なり、評価一千円     なりし〟     ☆ 元禄十年(1697)     ◯「絵本年表」〔漆山年表〕(元禄十年刊)    鳥居清信画『本朝二十四孝』半紙本三巻 絵師 鳥井庄兵衛 平野屋松倉宇兵衛板     ◯『初期浮世草子年表』(元禄十年刊)   『好色大ふく帳』半紙本 五冊 元禄十年正月刊     著者 桃の林 印記「琴子」「紫石」     奥付「元禄十丑年正月吉旦 絵師 鳥居庄兵衛」    ◯「艶本年表」〔白倉〕(元禄十年刊)    鳥居清信画    『好色大ふく帳』墨摺 半紙本 五冊「鳥居庄兵衛画」桃の林唯楽軒(蝶麿)作 元禄十年     ◯「日本古典籍総合目録」(元禄十年刊)   ◇仮名草子    鳥居清信画『本朝二十四孝』鳥井清信画   ◇浮世草子    鳥居清信画    『好色大福帳』 五巻五冊 鳥居清信画 桃の林作    『好色松はやし』     鳥居清信画 桃林堂紫石(蝶麿)作     ☆ 元禄十一年(1698)     ◯「絵本年表」〔漆山年表〕(元禄十一年刊)    鳥居派『太閤記』半紙本三冊 画工不明 鳥居或ハ奥村 うろこ形や板     ☆ 元禄十三年(1700)     ◯「絵本年表」〔漆山年表〕(元禄十三年刊)    鳥居清信画    『風流四方屏風』大本二冊 和画工 鳥居庄兵衛清信図 天禄十三歳辰三月吉日 板木屋七郎兵衛板    『娼妓画幉』  遊君鑑  和画工 鳥居庄兵衛清信図 元禄十三歳辰四月吉日 板木屋七郎兵衛板     ☆ 元禄十四年(1701)     ◯「日本古典籍総合目録」(元禄十四年刊)   ◇狂言本    鳥居清信画『出世隅田川』一冊 鳥居清信画 市川団十郎作     ☆ 元禄十六年(1703)     ◯『初期浮世草子年表』(元禄十六年刊)   『好色桐の小枕』半紙本 五冊 元禄十六年正月刊     著者 桃のはやし 自序 印記「蝶麿」     画工 鳥居清信画     版元 板本燕雀堂(江戸 平野屋吉兵衛)     ◯「艶本年表」〔白倉〕(元禄十六年刊)    鳥居清信画    『好色桐の小枕』墨摺 半紙本 五冊 桃のはやし(桃林堂蝶麿)作 元禄十六年     (白倉注「他に蝶麿作の浮世草子『好色赤烏帽子』(読和・豆男物、元禄八年(1695)が知られている)」)    『閨の盃』   墨摺 手彩色一帖 元禄十六年(白倉注「京都板といわれているが、詳細不明」)     ◯「日本古典籍総合目録」(元禄十六年刊)   ◇狂言本     鳥居清信画『成田山分身不動』一冊 鳥居清信画 三升屋兵庫(市川団十郎)作 正本屋小兵衛板     ☆ 元禄年間(1688~1703)     ◯『初期浮世草子年表』(元禄年間刊)   『ぬれ万歳』半紙本 五冊 元禄年間刊     著者 桃のはやし 自序 印記「紫石」     (「年表」は「挿絵鳥居庄兵衛風」とする)     ◯『増訂武江年表』1p105(斎藤月岑著・嘉永元年脱稿・同三年刊)   (「元禄年間記事」)   〝浮世絵師 橘町菱川吉兵衛、同吉左衛門、古山太郎兵衛、石川伊左衛門、杉村治兵衛、石川流宣、鳥井    (ママ)清信、菱川作之条〟     ◯「日本古典籍総合目録」(元禄年間刊)   ◇浮世草子    鳥居清信画『ぬれ万歳』五冊(注記「鳥居庄兵衛風画 浮世草子年表による」)     ☆ 宝永元年(元禄十七年・1704)     ◯『好色本目録』柳亭種彦著(『新群書類従』巻七・p170)   〝【好色】夕顔利生草 絵入 半紙本五冊 元禄十七年 印本    夕顔観音の利生にて、父の仇を討ちし物語にて江戸作なり。夕顔観音の事、予随筆に委し、強て好色本    といふにはあらねど、標題に好色の宇あればここに加ふ〟    〈国文学研究資料館の「日本古典籍総合目録」は、松の緑作・鳥居清信(一世)画とする〉     ◯「日本古典籍総合目録」(宝永元年刊)   ◇狂言本    鳥居清信画『平安城都定』一冊 鳥居清信画 藤本平左衛門作     ☆ 宝永二年(1705)     ◯「日本古典籍総合目録」(宝永二年年刊)   ◇浮世草子    鳥居清信画『武道色八景』五巻五冊 鳥居清信画 桃の林紫石作     ☆ 宝永二年(1705      ◯『改訂日本小説書目年表』(宝永二年刊)   ◇浮世草紙   『武道色八景』鳥居清信画 桃の林作 宝永二年刊  ☆ 宝永五年(1708)    ◯「艶本年表」〔白倉〕(宝永五年刊)    鳥居清信画    『野郎帽子』(仮題)墨摺 大判 十二枚組物「清信」宝永五年頃     (白倉注「野郎=役者の売色風俗を描いたもの。清信画「欠題組物Ⅴ」に同じ」)  ☆ 正徳元年(1711)    ◯「艶本年表」〔白倉〕(正徳元年刊)    鳥居清信画『閨屏風』(仮題)墨摺 大判 十二枚組物「清信」竹田長右衛門板 寛保二年頃     (白倉注「清信画『欠題組物Ⅷ』に同じ」)     ☆ 正徳六年(1716)     ◯『武江扁額集』(斎藤月岑編・文久二年(1862)自序)   (正徳六年二月奉納。月岑の識語から画題を「二朱判吉兵衛」とする)    落款等 〝絵師〈*以下落剥〉〟〝所願成就 皆令満足〟〝中村吉兵衛〟〝正徳六歳丙申二月吉日〟    識語 「雑司谷稲荷社 鬼子母神境内 横四尺余 嘉永五子初冬縮図」    「俳優中村吉兵衛 諢名(アダナ)二朱判ガ納タル処ナリ。今ヲ去ル事百(空白あり)年ノ昔ナレド、其質朴     オモフベシ、彩色剥落シタルトコロ多シ、絵師ノ名剥落シタレド鳥居何某ナルベシ。此額近キコロ迄、     稲荷社ニ掛テアリシガ、万延中普請ノ後見ヘズ」     〈この扁額については、式亭三馬の文化八年(1811)の記録が残っていて、絵師は元祖鳥居清信とされている。以下参      考までにその記事を引いておく〉      (『式亭雑記』〔続燕石〕①70(式亭三馬記・文化八年(1811)四月一日))    〝(雑司谷鬼子母神)本堂左の方なる稲荷の社【地主神のよし】正面より右の方に、中村吉兵衛が奉納     したりし丹前狂言の額あり、絵師は元祖鳥居清信の筆、     (三馬の模写絵に〝正徳六歳丙申五月五日 鳥居清信〔清信の印〕〟〝願主中村吉兵衛〟とあり)     中村吉兵衛は、正徳の頃、上上吉の位付にて、だうけ形の上手なり、異名を二朱判吉兵衛と呼びて、     後年役者を廃て、たいこもちとなりしよし、今の世にいふ江戸神ミといふものいなるべし、     (「大尽舞」のこと及び歌詞あり、中略)〟    〈実は三馬と月岑の記事には相違がある。奉納の月日が、三馬は五月五日、月岑は二月吉日。なぜ食い違っているのか     は分からない。しかし両者の図柄は全く同じ。したがって嘉永五年(1852)に見たとき落剥していた絵師名は鳥居清信     ということになる。二朱判吉兵衛については本HP「浮世絵事典」参照〉
   『武江扁額集』「中村吉兵衛」鳥居清信画(国立国会図書館・近代デジタルライブラリー)    ☆ 享保八年(1723)     ◯「絵本年表」〔漆山年表〕(享保八年刊)   ◇俳諧    鳥居清信画『百華実』清信筆一図     ☆ 享保九年(1724)     ◯『独寝』〔燕石〕③105(柳沢淇園著・享保九年序)   〝又、浮世絵にて英一蝶などよし、奥村政信、鳥井清信、羽川珍重、懐月堂などあれども、絵の名人とい    ふたは、西川祐信より外なし、西川祐信はうき世絵の聖手なり〟    〈序の享保九年は岩波書店の「日本古典文学大系」『近世随想集』所収の「ひとりね」に拠る〉    ☆ 享保十年 乙巳(1725)    ◯「絵暦年表」(本HP・Top)(享保十年刊)   ⑧「鳥居清信筆」墨摺絵 図10「沢村宗十郎」近江屋板    「享保十乙巳年役者評判」〈画中に大小月の漢数字を表示しつつ沢村宗十郎の評判を記す〉  ☆ 享保十一年(1726)    ◯「浄瑠璃年表」〔霞亭文庫〕(享保十一年刊)   ◇浄瑠璃本    鳥居清信画『朝敵橋弁慶』署名なし 刊記「享保十一丙午正月吉日」村田屋板    〈見返しの貼り紙に「『浮世絵派画集』に朝敵橋弁慶虱本古上るり鳥居庄兵衛清信の筆なるを明かに記せり」とあり。     「日本古典籍総合目録」も鳥居清信とする〉
   『朝敵橋弁慶』鳥居清信画(東京大学附属図書館・電子版霞亭文庫・古浄瑠璃)     ☆ 享保十二年(1727)     ◯『赤本黒本青本書誌』「赤本以前之部」(享保十二年)刊   ◇赤本   『女はちの木』 署名「鳥居清信正筆」 商標「◯の三鱗」鱗形屋板    〈解題「享保十一年初演の浄瑠璃『北条時頼記』五段目「雪の段」(女鉢の木)に関係の深い作品。江戸での興行に伴     う刊行か〉      ☆ 享保十三年(1728)     ◯『洒落本大成』第一巻(享保十三年)    鳥居清信図『両巴巵言』撃鉦先生作。刊記、漢戯文末「享保戊申孟春穀旦」。細見末「享保十三年毎    月改」    〈『両巴巵言』は漢戯文付き「吉原細見」。清信の挿絵は遊女立像四葉。黄色と茶の手彩色がほどこされ、署名は「鳥     居清信図」とある〉  ☆ 享保十四年(1729)(七月二十八日没・六十六歳)     ☆ 享保年間(1716~1736)     ◯『増訂武江年表』1p139(斎藤月岑著・嘉永元年脱稿・同三年刊)   (「享保年間記事」)   〝浮世絵師、奥村文角政信(芳月堂)、西村重長(仙花堂)、鳥居清信、同清倍、近藤助五郎清春、富川    吟雪房信等行はる〟    ☆ 刊年未詳    ◯「艶本年表」〔日文研・艶本〕(刊年未詳)    鳥居清信画    「逸題組物」墨摺 大判 八枚  署名「清信〔「清信」印〕」    「欠題組物」漆絵 間板 十二枚 署名「鳥居清信〔印〕」板元「長谷川町 本屋三良兵衛」    ☆ 没後資料     ☆ 享保十八年(1733)     ◯『吉原細見年表』(享保十八年)   『両都妓品』享保十八年秋 縦小本      序「癸丑之秋 烟蘿舘主人題」     署名「鳥居清信図」(遊女立像)    〈この鳥居清信画の遊女立像は享保十三年刊『両巴巵言』の再利用したもの〉      ☆ 享保十九年(1734)     ◯『老のたのしみ抄』〔燕石〕⑤307(市川栢莚(二世団十郎)著・享保十九年~寛延三年記事)   〝(享保十九年)十月九日、晴天、里江来る、鳥居庄兵衛が絵を持参し、予にくるゝ〟    〈「予」は二代目市川団十郎。この鳥居庄兵衛は初代清信ではないが、参考までに挙げておいた〉     ◯『続飛鳥川』〔新燕石〕①29(著者未詳・成立年未詳)   〝寛延、宝暦の頃、文化の頃まで売物。元日に番付売、初狂言、正月二日始る、番付題代六文、一枚絵草 紙うり、うるし画、うき絵、金平本、赤本、糊入ずり、鳥居清信筆、其外、奥村、石川〟     ◯『遊戯三昧』〔南畝〕②564(天明~寛政年間)  〝鳥居清信役者画考 鈴木政房記〟    〈『遊戯三昧』は諸家の狂文を、南畝が集めて収録したもの。全集の解説によると、その中に鈴木政房の記す「鳥居清     信役者画考」があるという。本文は編者未見〉  ☆ 寛政年間     ◯『浮世絵考証(浮世絵類考)』〔南畝〕⑱441(寛政十二年五月以前記)  〝鳥居庄兵衛【元禄十年の板、好色大福帳五冊/絵師の名なり】  鳥居清信【庄兵衛は元祖清信俗称也。鳥居/庄兵衛清信と書たる絵本おほし】  弟子同清満 同 同清倍  同 同清経 同 同清長  鳥居清信は江戸絵の祖といふべし。はじめは菱川のごとき昔絵の風俗なりしが、中比より絵風を書かへ    しなり。此のち絵風さまざまに変化せしかども江戸歌舞伎の絵看板は鳥居風に画く事也〟     ◯『古今大和絵浮世絵始系』(笹屋邦教編・寛政十二年五月写)    (本ホームページ・Top「浮世絵類考」の項参照)
   「鳥居派系図」  ◯ 享和二年(1802)     △『稗史億説年代記』(式亭三馬作・享和二年)〔「日本名著全集」『黄表紙二十五種』所収〕   〝草双紙の画工に限らず、一枚絵の名ある画工、新古共に載する。尤も当時の人は直弟(ヂキデシ)又一流あ    るを出して末流(マタデシ)の分はこゝに省く。但、次第不同なり。但し西川祐信は京都の部故、追て後編    に委しくすべし    倭絵巧(やまとゑしの)名尽(なづくし)     昔絵は奥村鈴木富川や湖龍石川鳥居絵まで 清長に北尾勝川歌川と麿に北斎これは当世      鳥居庄兵衛清信  清倍  清重  清満  清秀  清経  清広      とりゐ清長 関   (他派の絵師は省略)〟
   『稗史億説年代記』 式亭三馬自画作(早稲田大学図書館・古典籍総合データベース)      〝赤本 表紙一面(イツパイ)の表題に絵を画かず、紙を黄色に染める〟    同 赤紙の外題に、白紙の表題をはる。この時、表題に絵を画入るゝ事はじまる〟   〝画工 鳥居庄兵衛といふ者大きにはやる。つゞいて清倍行はる〟     ◯『浮世絵類考追考』(山東京伝編・享和二年十月記・文政元年六月写)    (本ホームページ・Top「浮世絵類考」の項参照)       始祖     鳥居庄兵衛清信【門人ニアラザレド、其始師宣ノ画風ヲカキテ、後一家ヲナス元禄ヨリ享保ノ比ノ人】  ☆ 文化初年    ◯『反故籠』〔続燕石〕②169(万象亭(森島中良)著・文化年中前半)   (「江戸絵」の項)   〝享保の比の江戸絵と称するもの、浅草御門同朋町和泉屋権四郎、通塩町奥村源六郎【画名を懐月堂文角    政信といふ、地本問屋なり】など板にて、元祖鳥居清信が絵を、西の内の紙へ摺、煎じ蘇木、黄汁、膠    黒に藍蝋にてざつと彩色、砂箔を振ひたる【或は藍を吹く】ものなり、【此彩色する者多き中、深川洲    先に住める老婆至て上手なりし、と蔦屋重三郎が母かたりき】神明前の江見屋【今は博労町へ転宅】と    いへる絵草紙屋に、其比の役者絵【海老蔵、山中平九郎などなり】の板、近年まで有しなり、夫より後、    清信色摺の紅絵を工夫し、紅、藍紙、黄汁、の三色を板に、以て売出せし所、余り華美なる物なりとて、    差留られしが、幾程もなくゆるされぬ、宝暦の頃まで、皆是なり。其比の画工は清信が子清倍、門人清    広、石川秀信、富川房信などなり〟    〈「懐月堂文角政信」は「芳月堂」の誤り。「煎じ蘇木黄汁膠黒に藍蝋にてざつと彩色、砂箔を振ひたる【或は藍を     吹く】もの」とは漆絵のことをいうのだろう〉  ☆ 文化五年(1808)  ◯『浮世絵師之考』(石川雅望編・文化五年補記)   〔「浮世絵類考論究10」北小路健著『萌春』207号所収〕   〝鳥居氏     初代 鳥居庄兵衛清信 難波町       元禄十年板好色大福帳五冊の画者       四座歌舞看板画の名人にして、元禄享保の人なり    鳥居清長(ママ信)は江戸絵の祖といふべし。はじめは菱川の如き昔絵の風俗なりしが、中比より絵風を書    かへしなり、この後絵風さま/\に変化せしかども、江戸歌舞伎の絵看板は鳥居風に画く事なり〟     ☆ 文化八年(1811)  ◯『式亭雑記』〔続燕石〕①70(式亭三馬記・文化八年四月一日)   〝(雑司谷鬼子母神)本堂左の方なる稲荷の社【地主神のよし】正面より右の方に、中村吉兵衛が奉納し    たりし丹前狂言の額あり、絵師は元祖鳥居清信の筆、    (模写絵に〝正徳六歳丙申五月五日 鳥居清信〔清信の印〕〟〝願主中村吉兵衛〟とあり)    中村吉兵衛は、正徳の頃、上上吉の位付にて、だうけ形の上手なり、異名を二朱判吉兵衛と呼びて、後    年役者を廃て、たいこもちとなりしよし、今の世にいふ江戸神ミといふものいなるべし、    (「大尽舞」のこと及び歌詞あり、中略)    鳥居庄兵衛清信は、当時鳥居清長の元祖なり、      元祖清信 男二代目清倍 三代目清満       四代目清長 清満の門人  清重といふものは、清信門人       清経といふものは、清満門人、 清長と同盟なり、    清信の家は、今和泉町ぬひはくやなり、清信の孫鳥居清峰、これ則ぬひはく屋の男、清長門人なり、     存在、おなじ和泉町に住る鳥居清元といふ画工は、清満門人なれども、晩年の弟子故、後に清長に随     従す、存在、清長は本材木町新肴場に在り、家主にて、鳥居市兵衛清長、予と懇意〟    ◯『一話一言 補遺参考編一』〔南畝〕⑯9 (文化八年四月二日明記)  (「雲茶会」初集。海棠園(佐々木万彦)出品) 〝丹絵二枚 竹ぬき五郎 草ずり引 鳥居清信画〟    〈文化年間、鳥居清信画の丹絵は既に珍品になっていたようだ〉  ☆ 文化十年(1813)    ◯『骨董集』〔大成Ⅰ〕(山東京伝著・文化十年序)   ◇「臙脂絵売(べにゑうり)」の考証 ⑮376(模写あり)   〝(芝居の絵)元禄のはじめより丹黄汁にて彩色す。これを丹絵といふ。元禄のすゑつころより鳥居清信、    其子清倍等これを画けり。宝永、正徳に至て近藤清春出たり”
 ◇「雛絵櫃」の考証 ⑮478(模写あり)   〝元禄十年印本鳥居清信がかける絵のうちに此図あり〟     ◯『寸錦雑綴』〔大成Ⅰ〕⑦175(森羅亭主人序・刊年未詳)   〝娼妓画幉(けいせいえほん)初丁に跋”    (遊女「薄雲」「高尾」の模写)
  〝和画工 鳥居庄兵衛 清信図(方円に清信の印)    元禄十三歳辰四月吉日 和泉町板木屋 七郎兵衛板〟
  〝此ころ名たゝるあそびどもをあつめて冊子となせり。其中にも此二君は人の知るところなれば摸写す。    画工鳥居清信といふは今の清長か師清満の祖父なり〟    〈「国書基本DB」は『娼妓画幉』を元禄十四年刊、奥村政信とする〉   ☆ 文政初年     ◯『浮世絵類考』(式亭三馬按記・文政元~四年)    (本ホームページ・Top「浮世絵類考」の項参照)      〝三馬按、清信ハ元祖庄兵衛一人ニ限レリ。此事委ク別記ニ録ス〟  〝三馬按、三芝居看板ヲ受継タル順当ハ       元祖  庄兵衛清信      四代  清長  清満門人也       二代  清倍  清信男也   五代  清峯  清満孫也、今清満ト改ム。清長門人也。       三代  清満  清倍男也      三代清満ノ実子ハ、浮世絵ヲ学バズシテ縫箔屋ヲ業トシ、和泉町ニ住ス。仍之清長姑ク看板絵      ヲ相続セリ。其縫箔屋ニ忰アリテ、清長門人トナリ清峯トナル。今二代目清満ト改テ三芝居番      附絵、看板ヲ画ク。是即三代清満ガ為ニハ実ノ孫ナリ〟  ☆ 文政八年(1825)    ◯『元吉原の記』〔新燕石〕②312(曲亭馬琴著・文政八年四月中旬記)   〝菱川師宣、鳥居清信、及予が旧族羽川珍重等が画きしは、みな今の吉原になりての画図なれば、元吉原 のにはえうなし。ふるき絵巻の残欠などにも、元吉原の図の伝らざりしは、元和、寛永のころまで、江 戸はなほしかるべき浮世絵師のなかりし故也〟    〈「予」とは曲亭馬琴のこと。『兎園小説別集』(「日本随筆大成」2期4巻所収)に同文あり〉     ☆ 文政十三年(1830)     ◯『嬉遊笑覧』巻三「書画」p409(喜多村筠庭信節著・文政十三年自序)   〝江戸絵は菱川より起りて、後鳥居庄兵衛清信と云者あり。初め菱川やうを学びしが、中頃画風を書かへ    歌舞伎の看板をかく。今に相続きて其家の一流たり。勝川流は宮川長春を祖とす。長春は菱川の弟子に    はあらねども、よく其風を学びたる者也。勝川流にては春章すぐれたり。歌川流は豊春より起る。豊春    は西村重長の弟子なり【重長は初めの鳥居清信の弟子なり。後に石川豊信といふ】此流にてはこの頃ま    で歌麿が絵世にもてはやされたり。其外あまたあれ共枚挙にたえず〟  ☆ 天保四年(1833)    ◯『無名翁随筆』〔燕石〕③291(池田義信(渓斎英泉)著・天保四年成立)   (「鳥居清長」の項)
   「鳥居清信系譜」      〝鳥居氏 元祖清信【俗称庄兵衛 住居難町】元禄、享保の人   〝三馬云、元禄十年板好色大福帳五冊、画師ノ名有リ、庄兵衛ハ元祖清信ノ俗称也、鳥居庄兵衛清信ト書    タル画本多シ〟  ☆ 天保十年(1839)    ◯『画証録』〔続燕石〕①52(喜多村信節著・天保十年序)   〝絵の看板、もとはなし、鳥居庄兵衛清信より始る、是は元禄より享保の人なり〟  ☆ 天保十四年(1843)     ◯『新吉原細見記考』〔鼠璞〕上55(加藤雀庵著・天保十四年記)   〝両巴巵言 享保十三年細見記〟〝巻中、四妓女の像を画きし鳥居清信は、鳥居家の祖にして、元禄より    出て、世に行はれしものなり。此頃は清信晩年の筆なるべし〟  ☆ 弘化元年(天保十五年・1844)     ◯『増補浮世絵類考』(ケンブリッジ本)(斎藤月岑編・天保十五年序)
   「鳥居清信系譜」〝元祖 鳥居清信 俗称庄兵衛 難波町住 元禄、享保の人 四座看板画   〝三馬云、元禄十年板 好色大福帳 五冊 画師ノ名アリ、    庄兵衛ハ元祖清信ノ俗称也、鳥居庄兵衛清信ト書タル画本多シ〟  ☆ 嘉永三年(1850)     ◯ 『古画備考』三十一「浮世絵師伝」p中1364(朝岡興禎編・嘉永三年四月十七日起筆)    (「前書き」所収『風流鏡が池』独遊軒梅吟著・奥村政信画・宝永六年刊)   〝その(鳥井清高)門弟に、庄兵衛【清信ノコト歟】こまやかなるしきをかへて、なげ島田を書出して、    画にもまなぶ女の風、これ名人の名取川、にくらしからぬ筆故に、近代芝居の姿画は、どこの画馬の額    にも、あるが中にも、ある社、中村源太郎が、紫や小源になりし、おもかげにて、恋させ給ふ、七匁に    うらみの数をふくみける。その面ざしを、書たりしは、近代まれなる出来島絵と、皆立とまる色画とこ    そ、うけたまはり候なれ〟
   『古画備考』「前書き」     ◯『古画備考』三十一「浮世絵師伝」p中1379(朝岡興禎編・嘉永三年四月十七日起筆)   〝鳥居清信 称庄兵衛、住難波町、師宣弟子ニ非レドモ、其風ヲ画て一家ヲナス、元禄ヨリ享保ノ人、    清信は江戸絵の祖といふべし、初は菱川の風俗なりしが、中ごろより画風を書かへし也、此後画風さま    /\に変化せしかども、歌舞伎の画看板は鳥居風に画く事也、
   娼女画蝶 和画工鳥居庄兵衛清信画    [署名]元禄十三歳辰四月吉日、和泉屋杉本屋七郎兵衛板[印章]「清信」(朱文方郭内円印)
   「鳥居清信系譜」  ☆ 嘉永五年(1852)     ◯『高尾追々考』〔鼠璞〕上19(著者未詳・嘉永五年以降)   〝享保十三年細見記 両巴巵言(高尾が十代目であることと遊女玉菊の記事あり、略)此書、巻中妓女の    四像あり。【太夫、格子、さん茶、つぼね】鳥居の元祖清信が筆也。清信は元禄の頃より出て、世に行    はる。此頃は晩年の筆なるべし〟  ☆ 嘉永以降     ◯『画家大系図』(西村兼文編・嘉永年間以降未定稿・坂崎坦著『日本画論大観』所収)
   「鳥居氏並門人系図」  ☆ 明治元年(慶応四年・1868)     ◯『新増補浮世絵類考』〔大成Ⅱ〕(竜田舎秋錦編・慶応四年成立)   ◇「鳥居氏系譜」の項 ⑪192
   「鳥居清信系譜」      〝元祖鳥居清信    三馬、按庄兵衛、元祖清信、俗称也。鳥居庄兵衛清信ト書ケル多シ。 元禄十年板好色大福帳 五冊〟
  ◇「鳥居派」の項 ⑪193   〝鳥居清信ハ江戸絵ノ祖ト云フベシ。初ハ菱川ノ如キ古風ナリシガ、中頃ヨリ画風サマ/\ニ変化セシカ    共、江戸歌舞伎ノ絵看板ハ鳥居風ニ画ル也。〔割注 今按ニ(〈無名〉の添え書あり)、鳥居風ヲナク    ス也〕〟
    ◇「鳥居清信」の項 ⑪231   〝俗称庄兵衛、始め京師に住して後江戸に下る。鳥居派の元祖なり。難波町に住す。始は歌川流の如き似    顔に工みにして、別て市川団十郎の面を似せたり。此頃は盃抔に似顔面の行るゝ事、今の画猪口の如し。    後江戸四座の歌舞伎の看板を画きて名声大に鳴れり。元禄享保の人也〟    ☆ 明治十四年(1881)    ◯『明治十四年八月 博物館列品目録 芸術部』(内務省博物局 明治十五年刊)   (国立国会図書館デジタルコレクション)   〝第四区 舶載品(18コマ/71)    鳥居清信画 節分 画扇 一本〟  ☆ 明治十六年(1883)  ◯『明治画家略伝』(渡辺祥霞編 美術新報鴻盟社 明治十六年十一月版権免許)   (国立国会図書館デジタルコレクション)   〝祖宗略象 第四区 菱川・宮川派之類    鳥居清信     庄兵衛ト称ス、菱川師宣ノ門人ナリ、後一家ヲナス、俳優ノ肖像及劇場ノ看版ヲ画ク、元     禄中ノ人  ☆ 明治十七年(1884)  ◯『内国絵画共進会会場独案内』(村上奉一編 明治十七年四月刊)   (第二回 内国絵画共進会 4月11日~5月30日 上野公園)   (国立国会図書館デジタルコレクション)   〝鳥居清信 元禄年ノ人ニシテ一家ノ祖タリ〟  ◯『扶桑画人伝』巻之四(古筆了仲編 阪昌員・明治十七年八月刊)   (国立国会図書館デジタルコレクション)   〝清信    鳥居氏、名ハ清信、通称庄兵衛ト云フ。江戸難波町ニ住ス。初メ菱川風ノ画ヲ学ビ、後チ、画風ヲ一変    シテ遂ニ一家ヲナス。江戸歌舞妓劇場ノ看板ヲ画ガク、以来皆鳥居風ニテ画ガケリ。現今モ猶ホ然リ。    又草双紙等ノ板下ノ絵ヲ画ガクヲ巧ミニス。鳥居風ノ元祖ナリ。元禄享保間ノ人。明治十六年迄凡百八    十年余〟  ☆ 明治二十二年(1889)  ◯『明治廿二年美術展覧会出品目録』1-6号 追加(松井忠兵衛編 明治22年4・5月刊)   (日本美術協会美術展覧会 4月1日~5月15日 上野公園桜ヶ岡)   (国立国会図書館デジタルコレクション)   「第一~三・六号」    鳥居?清信      清信筆楊柳観音   一幅(出品者)葛城徹玄〈この清信が鳥居かどうか確信はない〉     浮世画扇子 扇掛共 十本(出品者)帝国博物館      北斎・歌丸・豊国・一珪・国貞・国芳・清信・清長・栄之・嵩谷     ◯『近古浮世絵師小伝便覧』(谷口正太郎著・明治二十二年刊)   〝宝永 鳥居清信    初め菱川の風を慕ひ、後画風を変じ、東都歌舞伎芝居の看板を専ら画く、以来、皆其風を写して、是を    鳥居風と云ふ、今猶然り〟  ☆ 明治二十三年(1890)  ◯『明治廿三年美術展覧会出品目録』3-5号(松井忠兵衛・志村政則編 明治23年4-6月刊)   (日本美術協会美術展覧会 3月25日~5月31日 日本美術協会)   (国立国会図書館デジタルコレクション)   〝鳥居清信 美人大黒図 一幅(出品者)戸沢精一郎 宮城県〟  ◯「【新撰古今】書画家競」(奈良嘉十郎編 天真堂 江川仙太郎 明治23年6月刊)   (『美術番付集成』瀬木慎一著・異文出版・平成12年刊)
   浮世絵師 歴代大家番付〝浮世派諸大家 享保 鳥居 清信 通称庄兵衛〟     ☆ 明治二十五年(1892)  ◯『日本美術画家人名詳伝』上p99(樋口文山編・赤志忠雅堂・明治二十五年刊)   〝鳥居清信    鳥居派風ノ開祖ナリ、庄兵衛ト称シ、江戸難波町ニ住シ、初メ菱川風ノ画ヲ学ビ、後一変シテ遂ニ一家    ヲ為ス、常ニ江戸歌舞妓劇場ノ看板ヲ画ク、爾来今日ニ至ルマデ、劇場ノ画図ヲ画クニ、皆鳥居風ヲ以    テス、又当時江戸絵ト称シテ一枚摺ノ絵ヲ発行ス、又草双紙ノ板下画ヲ巧ニス、元禄享保年間ノ人〟    ☆ 明治二十六年(1893)      ◯『明治廿六年秋季美術展覧会出品目録』上下(志村政則編 明治26年10月刊)   (日本美術協会美術展覧会 10月1日~10月31日 上野公園桜ヶ岡)   (国立国会図書館デジタルコレクション)   〝鳥居清信 五郎図 横物(出品者)小林文七〟  ◯『古代浮世絵買入必携』(酒井松之助編・明治二十六年刊)   ◇「鳥居清信」の項 p3   〝鳥居清信    本名 庄兵衛  号〔空欄〕  師匠の名〔空欄〕  年代 凡百七十年前より二百年迄    女絵髪の結ひ方 第三図・第四図 (国立国会図書館 近代デジタルライブラリー)    絵の種類 漆絵、丹絵、紅絵、墨摺絵本、肉筆    備考   鳥居家の元祖なり〟      ◇「図柄」の項 p21   〝墨絵にて豊広、豊丸等、凡て百年以後のものは買い入れざるを良しとす。最も菱川師宣、奥村政信、鳥    居清信等の百四五十年前後のものは墨摺にても高価なり〟       ◯『浮世絵師便覧』p230(飯島半十郎(虚心)著・明治二十六年刊)   〝清信(ノブ)    清元の男、鳥居流の祖、劇場画看板を画く、錦画あり、享保十四年死、六十六〟     ☆ 明治二十七年(1894)  ◯『名人忌辰録』上巻p13(関根只誠著・明治二十七年刊)   〝鳥居清信 元祖    俗称庄兵衛。父を庄七清元といふ。難波町に住して、浮世絵の一派を開く。享保十四年七月廿八日没す。    浅草寺町法成寺に葬る〟  ☆ 明治三十一年(1898)  ◯『浮世絵備考』(梅山塵山編・東陽堂・明治三十一年刊)   (国立国会図書館デジタルコレクション)(22/103コマ)   〝鳥居清信【元禄元~十六年 1688-1703】    通称庄兵衛、清元の男なり、元禄のはじめ、京都より江戸に来り、難波町に住みて、歌川派のごとき似    顔絵を画き、殊に市川団十郎の面を似せしが、後終に一家を成す、これ実に鳥居流の始祖なり、江戸四    坐の歌舞伎の看板、番付類を画きて、名声大いに鳴りぬ、享保十四年没す、享年六十六〟     ☆ 明治三十二年(1899)  ◯『新撰日本書画人名辞書』下 画家門(青蓋居士編 松栄堂 明治三十二年三月刊)   (国立国会図書館デジタルコレクション)42/218コマ   〝鳥居清信    通称を庄兵衛といふ 江戸難波町に住す 初め菱川風の画法を学ぶ 後其の風を一変して一家を為し    大いに俚俗に賞嘆せらる 世に所謂江戸絵と称するものは此の人より始まれり 又草双紙等の板下絵を    画くに巧みにして 世に称せらる 鳥居風の画とは此の人を以て元祖となす 又劇場の看板を画き 爾    来累世皆鳥居風を画を以て描くに至れり 元禄享保年間の人なり(扶桑画人伝 鳥居系譜 燕石十種)〟  ◯『浮世画人伝』p22(関根黙庵著・明治三十二年五月刊)   〝鳥居清信(ルビとりゐきよのぶ)    鳥居清信は、通称を庄兵衛といひ、江戸難波町に住せり。清信が父は鳥居庄七とて、難波の演劇にて、    俳優の小旦たりしものなりき。この庄七こゝろの巧みあるものにて、曾て前額(ゼンガク)を蔽(オオ)ふに、    紫帽子を以てせしこと、此の優より始り、後には、野郎帽子とて、維新前まで、小旦たる俳優、一般に    用ふる事となれり。庄七また絵画の筆を把りて、頗(スコブ)る妙手なりければ、自から鳥居清元と称し、    大坂道頓堀なる、劇場の看板といふものを画き、貞享四年には、江戸に下りて、元禄三年、始めて江戸    市村座の看板をも画けり。それが子にして、清信又画に巧みに、父の画風を得たる上に、菱川師宣の筆    意を慕ひて、画名漸く高うなりぬ。元禄の末より、丹絵(タンカイ)と称して、丹と黄汁とを以て、板行の    画に設色をなし、販売するものありけるが、清信および子の清倍、専らこれを画きて、世に行はれき。    中にも俳優の小照(コテル)、劇場の看板は、鳥居風に物する事、定まれる習ひとなれり。一時江戸絵の風    は、鳥居の流に傾ける様なりき。清信は、享保十四年七月廿八日に身まかれり。浅草松山町清成寺に葬    り、法名浄光(*ママ)院清信日立といふ。其の子孫連綿として、家業を改めず。後世に至りては、俳優の    似せ絵かく事は止みにけれど、彼の看板といひ、番附といふものは、今日も猶その法を守れり。さて鳥    居の家系、本支の伝統は、浮世絵類考、同附録にも見えたれど、おの/\小異あり。こゝには、同家に    就いて問ひたゞしたる所を掲ぐ。
   「鳥居清信系譜」  ☆ 明治三十四年(1901)  ◯『日本帝国美術略史稿』(帝国博物館編 農商務省 明治三十四年七月刊)   (国立国会図書館デジタルコレクション)※半角カッコ(かな)は本HPの補記   〝第三章 徳川氏幕政時代 第三節 絵画 浮世絵派(167/225コマ)    鳥居清信    初め京都に住し、後ち江戸に移る。鳥居派の祖にて、初め菱川の画風に法(のっと)りて画き、後ち勇健    なる筆を以て、人物の如き、円く肥えて穏雅なる風貌を画き、自ら一家を成せり。爾後劇場の招牌(か    んばん)は多く鳥居風を以て画けり。又墨画丹画などの摺物を出だして世に行はれたり。享保の頃を盛    とす。其の弟清倍、清倍の子清満又相継ぎて鳥居風を画き、多くの摺物を出だせり〟  ☆ 明治四十二年(1909)  ◯「集古会」第七十三回 明治四十二年五月 於青柳亭(『集古会誌』己酉巻四 明治43年6月刊)   〝林若樹(出品者)     鳥居清信筆 細絵 相合傘三幅対 二枚          細絵 ねぐら三幅対 三枚〟  ☆ 明治四十三年(1910)  ◯「集古会」第七十六回 明治四十三年一月 於青柳亭(『集古会誌』庚戌巻二 明治44年1月刊)   〝村田幸吉(出品者)鳥居清信筆 緑青絵 一枚〟  ☆ 明治四十四年(1911)  ◯『浮世絵画集』第一~三輯(田中増蔵編 聚精堂 明治44年~大正2年(1913)刊)   「徳川時代婦人風俗及服飾器具展覧会」目録〔4月3日~4月30日 東京帝室博物館〕   (国立国会図書館デジタルコレクション)   ◇『浮世絵画集』第一輯(明治四十四年七月刊)   (絵師)鳥居清信(画題)「雨中婦女図」(制作年代)享保頃(所蔵者)高嶺俊夫〟  ◯「集古会」第八十五回 明治四十四年(1911)十一月 於青柳亭(『集古会誌』壬子巻一 大正2年4月刊)   〝村田幸吉(出品者)黒本鳥居清信画 逸題号 柱に安とあり 二冊〟  ☆ 大正十二年(1923)  ◯『罹災美術品目録』(大正十二年九月一日の関東大地震に滅亡したる美術品の記録)   (国華倶楽部遍 吉川忠志 昭和八年八月刊)    鳥居清信画(◇は所蔵者)   ◇大畑多右衛門「吉原茶屋店頭美人図」紙本着色 巾一尺三寸   ◇小林亮一〈小林文七嗣子〉    「美人読章図」(美人椽端に立ちて文をよみ 庭に紅葉あり)    「野郎立姿図」/「遊女草摺曳」二図二曲屏風 一隻  ☆ 昭和以降(1926~)     ◯『狂歌人名辞書』p59(狩野快庵編・昭和三年(1828)刊)   〝鳥居清信(初代)、通称庄兵衛、清元の次男、父の画風を伝へ、特に初代市川団十郎の似顏絵に長ず、    享保十四年七月廿八日歿す、年六十六〟     ◯『浮世絵師伝』p38(井上和雄著・昭和六年(1931)刊)   〝清信    【生】寛文四年(1664)  【歿】享保十四年(1729)七月廿八日-六十六    【画系】清元の第二子   【作画期】元禄~享保    鳥居氏、俗称庄兵衛、貞享四年の春、父清元と共に大阪より下りて江戸難波町に住す、初め父に学ぶ所    ありしが、漸次菱川派の特長を取り、又狩野、土佐等の画法をも斟酌して、遂に一家の風を成すに至れ    り、且つ父の衣鉢を継いで、江戸各劇場の看板絵及び番附を画き、こゝに劇場と鳥居派との関係を、永    く後世に存続せしむるの基礎を築きたり。    彼の作品中、殊に傑出したるものは、大判丹絵と称する掛物風の大形なる版画に多く、役者絵あり、美    人画あり、其等の製作年代は元禄末期より正徳年間に至れり、(一例として正徳年間の美人画を掲ぐ、    口絵第六図参照)、其の間、所謂瓢箪足とて勇士の剛力を表現せし描法、或は蚯蚓描と称する肥痩の差    ある線などを版画の上にも試みたり、蓋し、斯かる描法は既に彼が劇場の看板絵に用ゐしものなるべく、    かの懐月堂なども其が影響を受けて、線には肥痩の変化あり、肉筆画には看板絵風の濃彩を施せしもの    あり、以て当時の流行を想見すべし。    彼が作品には、歌舞伎の型と併行して流石に元禄の名殘たる豪放簡朴の気風を体現せり。例へば、荒事    の如き、丹前六方の如き、槍踊の如き、いづれも典型的風格を其が筆端より躍動せしめたり。    丹絵・漆絵などの一枚絵は之れを列挙するに遑あらず、乃ち彼が挿画本のみの大略を左に示さむ。     ◯色のま衣(貞享四年八月版) ◯古今四場居百人一首(元禄六年版)◯好色大福帳(同十年)      ◯本朝廿四孝(同十年)    ◯参会名古屋(同十年)      ◯兵根本曾我(同十年)      ◯関東小禄(同十一年)    ◯源平雷伝記(同十一年)     ◯景政雷問答(同十三年)      ◯和国御翠殿(同十三年)   ◯薄雪今中將姫(同十三年)    ◯風流四方屏風(同十三年)      ◯娼妓画帳(同十三年)    ◯傾城王昭君(同十四年)     ◯傾城三鱗形(同十四年)      ◯出世隅田川(同十四年)   ◯三世道成寺(同十四年)     ◯鬼城女山入(同十五年)      ◯信田会稽山(同十五年)   ◯傾城浅間曾我(同十六年)    ◯成田山分身不動(同十六年)      ◯小栗鹿目石(同十六年)   ◯小栗十二段(同十六年)     ◯夕顔利生草(同十七年)      ◯朝敵橋弁慶(享保十一年)  ◯艶詞両巴巵言(同十三年)    彼には三男一女或は(四男二女)あり、男子はそれぞれ父の指導を受けて画道にたづさはりき。彼が法    名は浄元院清信日立信士といひ、浅草南松山町(日蓮宗)法成寺に葬りしが、墓碑は既に市外染井墓地    に移されたり〟     ◯『浮世絵年表』p49(漆山天童著・昭和九年(1934)刊)   ◇「貞享四年 丁卯」(1687) p49   〝此年鳥居彦兵衛、松月堂不角の作なる浮世草子『男色花の染衣』に画く〟      ◇「元禄六年 癸酉」(1693) p54   〝正月、水木辰之助・萩野左馬等の肖像を挿絵とせる『雨夜三盃機嫌』二巻出版。又鳥居清信画にて『四       場居(シバヰ)百人一首』を出版せるに、此書俳優を小倉の撰に擬せしより、時の書物奉行のとが       めを蒙り、絶版され、版元は追放されたり〟     ◇「元禄一〇年 丁丑」(1697) p57   〝正月、鳥井庄兵衛の画ける『本朝二十四孝』三巻。杉村次兵衛の画ける『御成敗式目絵抄本』出版。    此頃より漸く鳥居清信の画ける狂言本世に出づ。即ち此年には『恵方男勢梅宿』『参会名古屋』『浅黄    裕黒小袖』『兵根元曾我』の如きもの出づ〟      ◇「元禄一一年 戊寅」(1698) p58   〝鳥居清信の画ける狂言本『関東小録』『雲絶間名残月』『源平雷伝記』等出版〟     ◇「元禄一二年 己卯」(1699) p58   〝鳥居清信の画ける狂言本『一心女雷神』『五頭大伴魔形』出版〟     ◇「元禄一三年 庚辰」(1700) p59   〝三月、鳥居清信の画本『風流四方屏風』二冊出版。    四月、鳥居清信の画本『娼妓画帳(ケイセイエホン)』出版。(此書未だ見ざれども寸錦雑綴によりて記せり。       或説に風流四方屏風の事なるべしとあれど、一は三月、一は四月なれば別本なるべし)    此頃より狂言本漸く多くなりて此年に『和国御翠殿』『薄雪今中将姫』『景政雷問答』(以上鳥居清信    画)〟     ◇「元禄一四年 辛巳」(1701) p60   〝此年、狂言本には鳥居清信の画とおぼしき『傾城王昭君』『頼政万年暦』『傾城三鱗形』『三世道成寺』    東あり〟     ◇「元禄一六年 癸未」(1703) p61   〝狂言本には清信の画ける『小栗かなめ石』『小栗十二段』『傾城浅間曾我』『成田山分身不動』等あり〟     ◇「享保八年 癸卯」(1723) p77   〝十一月、菊岡沾涼の俳書『百華実』に鳥居清信画きて出版。他の多くは素人の俳画なり〟     ◇「享保一四年 己酉」(1729) p83   〝七月二十八日、鳥居清信歿す。行年六十六歳。(清信は清元の子にして庄兵衛と称し、画は父及び菱川    師宣等に学びし如く、父清元にまさり出藍のほまれあり。鳥居家中清長以前にては最も重きを置かるゝ    人にして、芝居狂言絵としては清信の右に出づる者無かるべし。二代清信ありといふも詳ならず、門人    にては奥村政信・近藤清春等その最たる者なるべし〟  △『東京掃苔録』(藤浪和子著・昭和十五年序)   「豊島区」法成寺墓地(駒込六ノ七五六)寺は浅草松山町(顕本法華宗)   〝鳥居清信(画家)初代、通称庄兵衛。菱川師宣の筆意を学び、好色大福帳を版行し、俳優の小照、劇場    の看板は鳥居風に描く習慣となれり。享保十四年七月二十八日歿。年六十六。浄元院清信日立居士〟    △『増訂浮世絵』p48(藤懸静也著・雄山閣・昭和二十一年(1946)刊)   〝鳥居清信    清信は父に就いて画技を習ひ、家業を継いで看板絵を画き、また役者絵に筆を染めたのであると伝へら    れる。父清信の画風が如何なるものであつたかはわからない。絵看板はその性質上、後々まで保存され    にくいのであるから、清元の遺作は全く伝はつてゐないのであろう。処で清信の画風を見ると、最初の    頃は菱川師宣の感化が可なり著しい。貞享四年の春、出版されてゐる『色の末衣』といふ絵本は、清信    の画いたものであるが、その画は師宣の影響を多大に受けゐる。貞享四年と云へば清信が父と共に初め    て江戸に居を移した時である。されば、清信は大坂に在つた頃から既に菱川の画風に私淑して居たので    あらうと思はれる。然し清信は父が演劇に関係して居り、自分も江戸に来て、芝居絵えをかくやうにな    つて、菱川風から離れて、自己独特の画風を創めたのであらう。これが清信の偉大な所である。    清信は享保十四年七月二十八日に享年六十六歳で没した。浅草北松山町の法成寺に葬り、法号を浄元院    清信日立信士といつた。墳墓は先年、染井墓地に移転された〟   〝清信の版画の優れたものは丹絵に多いが、往々無落款である。多くは大胆な構図で、無造作な筆彩では    あるが、味ふべき趣致がある。細絵版の丹絵も少くないが、概して後の丹絵よりは筆彩が簡単で、構図    も大きい。清信の特色はその辺にも窺はれる。然し清信の作にも黄紅緑の外に金粉などを使用したもの    がある。漆絵の作品にも優れたものが少くない。然し漆絵の内には二代清信の作品が混じて居るから注    意すべきである。悉く二代清信の作である〟  ◯『改訂日本小説書目年表』(山崎麓編・昭和五十二年(1977)刊)   ◇浮世草紙   『色の染衣』     鳥居庄兵衛画 松月堂不角作 貞享四年刊(注記「庄兵衛は即清信」)   『古今四場居百人一首』鳥居清信画  童戯堂四転作 元禄六年刊    (注記「頭書ほめ言葉は恋雀亭四染云之、河原者を小倉に擬したるにより「四場居色競」と改題を命ぜ     られ、刊行後間もなく絶版を命ぜられた」)   『好色大福帳』    鳥居庄兵衛画 唯楽軒作  元禄十年刊   『武道色八景』    鳥居清信画  桃の林作  宝永二年刊    ◯「日本古典籍総合目録」(国文学研究資料館)   〔鳥居清信画版本〕    作品数:14点(「作品数」は必ずしも「分類」や「成立年」の点数合計と一致するとは限りません)    画号他:鳥居清信・鳥居清信一世・鳥井・鳥井清信・庄兵衛・鳥居庄兵衛・鳥居彦兵衛    分 類:絵本1・仮名草子1・浮世草子5・狂言本3・浄瑠璃1・艶本1・演劇1    成立年:貞享4年  (2点)        元禄6・10・13~14・16~17年(9点)        宝永1~2年(2点)        享保11年 (1点)   (鳥居彦兵衛名の作品)    作品数:1点    画号他:鳥居彦兵衛    分 類:記載なし    成立年:貞享4年         『男姿色の染衣』鳥居彦兵衛・貞享四年(1687)刊