Top浮世絵文献資料館浮世絵師総覧
 
☆ かざん わたなべ 渡辺 崋山浮世絵師名一覧
〔寛政5年(1793)9月16日 ~ 天保12年(1841)10月11日・49歳〕
 ☆ 文政元年(文化十五年・1818)      ◯「絵本年表」(〔目録DB〕は「日本古典籍総合目録」)   ◇絵本(文政元年刊)    渡辺崋山画『一掃百態図』一冊 渡辺崋山画 文政元自序〔目録DB〕    ◯『馬琴書翰集成』①42 文政元年(1818)五月十七日 鈴木牧之宛(第一巻・書翰番号-15)   (頭書)「ばせを像画賛の事」   〝ばせをの賛ハ作りおき申候。御用立候ハヾ、何時也とも可被仰下候。華(ママ)山と申唐絵かき、忰同門に    て、ことの外画執心の仁也。『玄同放言』ニも、右之仁の絵、二丁加入仕候。雪蜉も此仁ニうつさせ候    つもり、たのミおき申候。この仁へ画をたのミ、ばせをの像ハ、粟津義仲寺蔵板、杉風が筆の肖像を絵    せ可申哉と存候ひしが、止メ申候。粟津義仲寺蔵板の『ばせを終焉の記』も、只今の板にハ、像無之候。    三十年已然までハ、肖像のつき候板行なりしが、近来再板せし歟、今の本ニハなし。初代杉風が筆なれ    バ、肖像なるべし〟    〈渡辺崋山と馬琴の伜・宗伯はともに金子金陵門。その縁もあって、交友関係の少ない馬琴にしては珍しく、崋山とは     親しい関係にあった。馬琴筆の芭蕉句賛に、崋山筆の芭蕉肖像画を配して、牧之に贈ろうという計画であったが、当     時義仲寺で板行していた『ばせを終焉の記』には杉風筆の肖像画が収録されていないという理由で、沙汰止みになっ     たようである〉      ◯『馬琴書翰集成』文政元年(1818)七月二十九日 鈴木牧之宛(第一巻・書翰番号-16)   ◇①57   〝雪虫、又々来春おくり可被下候よし、忝被存候。右写真、花山子へたのミ置候処、めがねいまだ手ニ入    り不申哉、埒明不申候〟    〈鈴木牧之から送られてきた「雪虫」を、馬琴は渡辺崋山に写生してもらおうとしているのだが、「めがね」がなく作     画できないでいるらしい。『北越雪譜』には「雪蛆の図」として出ており、「験微鏡(ムシメガネ)にて観たる所をこゝに     図して物産家の説を俟つ」との説明がある。しかしこれはおそらく崋山のものではあるまい。『北越雪譜』は最終的     には馬琴の手を経ず、山東京山の手で出版されるが、その時、馬琴は牧之から送られてきて手許にあった資料を、牧     之や京山に渡していないからだ。崋山の写生図が制作されたとしても『北越雪譜』の出版には使われなかったものと     思われる〉      ◇①58   〝(蕉翁像賛之事)此説、忰画ハ出来申候へども、拙画故、一ぷくハ花山子へ画をたのミ、注文申遣しお    き候処、彼人甚精細人にて、古図を穿鑿いたされ候哉、折々さいそくいたし候へ共、今以出来不申候。    依之、忰画出来候分斗二幅、今便差下し申候。花山子画は出来次第、後便ニ上ゲ可申候〟    〈馬琴は忰の宗伯が死んだときその肖像画を崋山に依頼した。すると崋山は棺桶のふたを開けて宗伯を覗き、さらに火     葬後、頭蓋骨を観察してそれを写生したという。崋山の「精細」さは、恐らく納得のいく写実的な古図を必要とする     のであろう〉       ◯『馬琴書翰集成』文政元年(1818)十月二十八日 鈴木牧之宛(第一巻・書翰番号-17)   ◇①70   〝(蕉翁像賛之事)当月中旬より、折々催促の文通仕候処、彼人甚だながき人にて、未認申、だん/\催    促致候へバ、一昨日廿六日の夕方、漸く認被差越候ニ付、拙賛しるしつけ、今般差上申候。毎度申候如    く、花山と申仁ハ、俗名渡辺登と申し、三宅備前守様家老の子息にて、たしか御近習を勤被申候。三宅    ハ、備後三郎高徳が子孫と申す事にて、『藩翰譜』並ニ『武鑑』にも、系図は高徳より引有之候。右三    宅氏の家臣の画故、則備後三郎題詩句桜樹図を誂へ、画せ申候。高徳ハ南朝の忠臣、関羽ハ蜀漢の忠臣    なれば、和漢の二幅対ニ可然哉と存候故、先達而唐紙を一枚遣しおき候処、いかゞの義にや、雁皮紙へ    認、うら打を為致、差越被申候。紙の長短、先頃の関羽と出合不申候ハヾ、上の処、よキ程ニ御切除可    被成候。古土佐の図にて被画候由。この図のセンサクニ、大ニ骨を折候由ニ御座候。いかゞ、御意ニ叶    可申哉、難斗奉存候。御用立候ハヾ、本望之至ニ候。花山御主人の先祖を図し候故、「奉謹図」と落款    被致候と見へ申候。人物の向やうも、関羽と向合候様ニあつらへ申候。とくト御覧可被下候。忰より十    二分のうハてに候。いかゞ。忰などが筆ハ、画にては無之候。この人、古画の目利執心にて、ちと交易    利潤にも拘り候歟。気韻高く、画もとかくひねりちらし、素人好ハ不仕候と存候〟    〈渡辺崋山は「関羽」と一対となる「備後三郎題詩句桜樹図」を画くのに「古土佐」の図に拠ったという。古画の詮索     に骨を折ったとある。崋山の鑑定眼も自ずと確かなものになっていったのであろう〉     ◇①74   〝雪虫、来春ハ亦復被遣可被下よし、忝被存候。先達て花山子へうつしをたのミ置候へ共、今以沙汰なし。    目がね手に入不申故か。今の若人ハ、とかく前約を等閑にする癖あり。心のどかなる仁に候〟    ◯『【江戸当時】諸家人名録』二篇「和」〔人名録〕②21(文政元年十二月刊)   〝画 華山【名定静、字子安、一号全楽堂】麹街 渡邊登〟    ☆ 文政九年(1826)    ◯「文政九年丙戌日記抄」①13 文政九年(1826)四月十九日(『馬琴日記』第一巻)   〝渡辺登来る。余対面。閑談数刻。兎園別集下冊并に正徳金銀御定書一冊、小ぶろしき共、かし遣す〟    〈渡辺登が崋山。「兎園別集下冊」は文政八年成立の『兎園小説』の別集〉     ☆ 文政十年(1827)    ◯「文政十年丁亥日記」①65 文政十年(1827)三月十日(『馬琴日記』第一巻)   〝(土御門殿訪問の帰路)渡辺登・田口久吾方へも立寄〟    〈渡辺登が崋山。馬琴の嫡子宗伯と同じく画家金子金陵の門人。その縁で馬琴とも親しい。馬琴が山王社地内に陰陽師・     土御門(春親か)を訪問したのは、六日に使者を以て、新著の目録を求められていたからである。十二日には『南総     里見八犬伝』六編の校本と『傾城水滸伝』三編の稿本を貸し出している。田口久吾は馬琴の妹・菊の夫だから義弟に     あたる〉     ◯「文政十年丁亥日記」①182 文政十年(1827)九月二日(『馬琴日記』第一巻)   〝蜀山人来ル。過日御床上ゲ之節遣候赤飯之礼也。大空武左衛門写真大図、被為見。渡辺登写候をすき写    候由。一枚写シ呉候様、被為成御頼。則、紙・画之具料として、南鐐壱片被遣之〟    〈「大空武左衛門写真大図」(渡辺崋山原画)の透き写しを持参したこの蜀山人は亀屋文宝。馬琴はその文宝に南鐐一     片(八分の一両)でさらに模写を頼んだのである。九月二十六日、文宝はこの模写を馬琴に届けている。ところでこ     の図について、天保四年(1833)正月、馬琴自身は『兎園小説余録』の中で次のように書き残している。        「文政十年丁亥夏五月、江戸に来ぬる大男、大空武左衛門は、熊本侯の領分肥後州益城郡矢部庄田所村     なる農民の子也、今茲二十有五歳になりぬ、身の長左の如し、      一、身長七尺三分〔傍注、イ、寸〕 一、掌一尺      一、跖一尺一寸五分        一、身の重さ三十二貫目      一、衣類着丈け五尺一寸      一、身幅前九寸、後一尺、      一、袖一尺五寸五分        一、肩行二尺二寸五分     全身痩形にて頭小さく、帯より下いと長く見ゆ、右武左衛門は熊本老侯御供にて、当丁亥五月十一     日、江戸屋敷ぇ来着、当時巷街説には、牛をまたぎしにより、牛股と号するなどいへりしは、虚説     也、大空の号は、大坂にて相撲取等が願出しかば、侯より賜ふといふ、是実説也、武左衛門が父母     并兄弟は、尋常の身の長ヶ也とぞ、父は既に歿して、今は母のみあり、生来温柔にて小心也、力量     はいまだためし見たることなしといふ、右は同年の夏六月廿五日、亡友関東陽が柳河侯下谷の邸に     て、武左衛門に面話せし折、見聞のまに/\書つけたるを写すもの也、下に粘する武左衛門が指掌     の図は、右の席上にて紙に印したるを模写す、当時武左衛門が手形也とて、坊売の板せしもの両三     枚ありしが、皆これとおなじからず、又、武左衛門が肖像の錦画数十種出たり、【手拭にも染出せ     しもの一二種あり】、後には春画めきたる猥褻の画さへ摺出せしかば、その筋なる役人より、あな     ぐり禁じて、みだりがはしきものならぬも、彼が姿絵は皆絶板せられにけり、当時人口に膾炙して、     流行甚だしかりし事想像(オモヒヤのルビ)るべし、しかれども武左衛門は、只故郷をのみ恋したひて、     相撲取にならまく欲せず、この故に、江戸に至ること久しからず、さらに侯に願ひまつりて、肥後     の旧里にかへりゆきにき、(手形の模写あり)     当時この武左衛門を、林祭酒の見そなはさんとて、八代洲河岸の第に招かせ給ひし折、吾友渡辺花     山もまゐりて、その席末にあり、則蘭鏡を照らして、武左衛門が全身を図したる画幅あり、亡友文     宝携来て予に観せしかば、予は又そを文宝に模写せしめて、一幅を蔵めたり、この肖像は蘭法によ     り、二面の水晶鏡を掛照らして、写したるものなれば、一毫も差錯あることなし、錦絵に搨り出せ     しは、似ざるもの多かり、さばれ、件の肖像は、大幅なれば掛る処なし、今こそあれ、後々には、     話柄になるべきものにしあれば、その概略をしるすになん、(以下略)〟(『新燕石十種』⑥389)         この模写肖像の消息を尋ねていくと、天保三年(1832)十二月二十八日に「(宗伯、関忠蔵方を訪問)五六年已前(二字    ムシ)ニかし置候、大空武左衛門肖像大画幅とり戻し、かき入不被(三字ムシ)画まき一巻、ふくさともかり請」とあ    り、また、翌天保四年正月六日には「関氏より借用之巻物の内。大男大空武左衛門身長等。兎園余録へ加入。謄写之畢」    翌七日にも「旧臘見せられ候大男大空武左衛門画巻物ふくさともに返却ス」とある。肉筆の大空武左衛門肖像には画幅    の他に絵巻もあったようである。一方巷間に出回った大空武左衛門の錦絵では歌川国安の絵が知られる〉    ◯『兎園小説余録』〔新燕石〕⑥393(曲亭馬琴編・文政十年夏記事)   (「大空武左衛門」記事)   〝当時(文政十年夏)この武左衛門を、林祭酒の見そなはさんとて、八代州河の第に招かせ給ひし折り、    吾友渡辺花山もまゐりて、その末席にあり、則蘭鏡を照らして、武左衛門が全身を図したる画幅あり、    亡友文宝携来て予に観せしかば、予は又そを文宝に模写せしめて、一幅を蔵めたり、この肖像は蘭法に    より、二面の水晶鏡を掛照らして、写したるものなれば、一毫も差錯あることなし、錦絵に搨り出せし    は、似ざるもの多かり、さばれ、件の肖像は、大幅なれば、掛る処なし〟      ◯『馬琴書翰集成』①201 文政十年(1827)十一月二十三日 殿村篠斎宛(第一巻・書翰番号-39)   〝大男大空武左衛門事、定而御承知と奉存候。右写真の図、写し取申候。これは渡辺登【画名花山】が、    石盤にて蘭人の伝ヲ以、全体ヲうつし取に、図取寸法に相違無之候。拙蔵は、それヲ友人文宝に写させ    候ものに御座候。近来御出府も候はゞ、御めにかけ可申候〟    〈文宝は亀屋文宝。蜀山人自ら認めた蜀山人の偽筆としてしられた人〉    ☆ 文政十一年(1828)      ◯「文政十一戊子日記」①261 正月晦日(『馬琴日記』巻一)   〝渡辺登来訪。家君御対面。所要は、両国加賀屋某と申書林、家君御著述願候趣、同人懇意候三木某、筆    耕いたす人之由、兼て登旧識之旨、及聞、以三木某、登方迄被頼候趣、依申之、委細被遊御示談。其後、    雑談数刻。夕七時前帰去〟    〈渡辺崋山を介して著述を依頼してきた加賀屋某とは両国の加賀屋吉右衛門であろうか。歌川国芳を売り出した版元と     して知られている。馬琴とのその後の関係は未詳である〉    ☆ 文政十二年(1829)     ◯「文政十二己丑日記」②75 四月廿三日(『馬琴日記』巻二)   〝大坂屋半蔵来ル。過日申遣候画工之事也。其後、原田吉十郎を以、国貞方へ両三度かけ合候処、とかく    決着いたしかね候間、乃断候。然ル処、英泉義も、石魂録後集画せ候節、義絶同様之手紙差越候ニ付、    今更たのミ候事難儀の趣、申之。いづれ花山方、北渓事問に遣し、かけ合之上、何レとも取極可申間、    四五日見合せ可然旨、及相談〟    〈大坂屋半蔵は『近世説美少年録』の画工国貞を断念する。しかし何が原因かよく分からないが、大坂屋は英泉とも     『松浦佐用媛石魂録』後編(文政十一年(1828)刊)で義絶状態にあり、今更頼み難いとする。そこで北渓の起用を考     えたようである。ただ、どうして花山こと渡辺崋山経由で問い合わせるのか、不思議である〉    ◯「文政十二己丑日記」②78 四月廿九日(『馬琴日記』第二巻)     〝画工北渓来ル。則、美少年録第二輯さし画之事頼可申為、委細示談之。此方ニ差置候三より五迄之画稿    ・壱の口絵。惣もくろくのわく稿等渡し遣し、板元大坂や半蔵ぇ罷越候様申談じ、手紙差添、遣之〟    〈北渓との連絡に渡辺崋山が仲介するのであるから、北渓と崋山との関係は特別なものがあるのだろう〉      ◯『馬琴書翰集成』⑥257 文政十二年(1829)四月二十九日 馬琴宛・渡辺崋山(第六巻・書翰番号-来38)   〝拝読、如示、喧寒不定之候、審文御使、常勝奉欣聴候。然バ、被仰下候通、去月祝融氏之難、知人多延    焼仕候。私も武清方へ参、桑名侯邸ノ裏ニて蹻、危難将死三度、まことにこり果申候。扨復、北渓事御    尋被下、如仰、職匠町と申所にて、先日の回禄には幸のがれ申候。且かねて吹挙相願候ニ付、高著繍像    被仰付候半との御事にて、自私も聞御受可仕段、拝諾仕候。今日にも罷越、此段申述候ハヾ、定而雀躍    可仕候。早々当人にも御礼に罷越、拝眉御礼可申と奉存候。何も御報迄、如此御座候    拝復      四月廿九日      尚々、御丁寧之御端書、厚謝仕候       曲亭先生〟    〈「去月祝融之難」「先日の回禄」はともに三月二十三日の大火をさす。武清は絵師喜多武清。北渓が馬琴の挿画に起     用されたのは『近世説美少年録』の二輯。初輯は歌川国貞である。「定而雀躍可仕候」北渓にとっても、馬琴の読本     に挿絵をとることは名誉のことなのであろう。ただ、馬琴作・北渓画の作品はこの『近世説美少年録』二輯のみ。弘     化二年(1845)の続編・三輯以降は再び豊国三代(国貞)になる〉    ◯「文政十二己丑日記」②118 七月九日(『馬琴日記』第二巻)    〝花山事渡部(ママ)登来ル。予、対面。先月中、登舎弟、死去。其後、自分も中暑ニて、しばらく引籠居候    よし也。北渓美少年録のさし画延引ニ付、さいそくいたしくれ候様、頼みおく〟    〈北渓に対する影響力は馬琴より渡辺崋山の方があるのだろう〉    ☆ 天保初年(1830~)    ◯『江戸現存名家一覧』〔人名録〕②307(刊年未詳、天保初年か)      〈当時現存の「画家」として名があがる〉    ☆ 天保二年(1831)    ◯「天保二年辛卯日記」②285 正月十七日(『馬琴日記』巻二)   〝(宗伯、芝・赤坂年礼の帰路)半蔵御門外へ廻り、渡辺登方ぇ罷越し、同人妹不幸にて、引籠居る候よ    しに付、年始御礼、不申述〟    〈渡辺登(崋山)は宗伯の画友。三宅家田原藩の家老に就任するのは翌天保三年(1832)のことである〉      ◯「天保二年辛卯日記」②339 四月十六日(『馬琴日記』第二巻)    〝家主いせや久右衛門来る(中略)過日申付候手紙、渡辺登方へ持参、美少年録二篇め・商人画詞共、請    取之。美少年録はおゆうへかし候に付、とめ置、商人画詞・文政元年五月十三日相州うら賀へイギリス    大ふね着の略記、登返翰〟    〈「商人画詞」とは喜多村筠庭の『近世流行商人画詞』か。イギリス船の浦賀来航の略記とは馬琴所蔵で貸し出してい     るから機密文書とは思えない。かわら版か〉     ◯「天保二年辛卯日記」②347 四月廿七日 (『馬琴日記』第二巻)    〝渡辺登より使札。当春中松前アツケシ一件記録、有之候はゞ、借覧いたし度旨、申来ル。右記録等は無    之、勿論さしたる事ニ無之、世上いろ/\風聞いたし候へ共、手前には及承候事、無之旨、返翰ニ申遣    ス〟    〈天保二年春の松前アツケシ一件とは何であろうか。崋山にしてみれば、馬琴の長子宗伯が松前藩に仕官しているので、     この方面の情報が入りやすいとでも考えたのであろうか。〝手前には及承候事、無之〟と強く否定するのは、この手     の情報が国家機密となる場合が多いからであろう〉    ◯「天保二年辛卯日記」②376 六月廿四日(『馬琴日記』第二巻)    〝(清右衛門を以て)半蔵御門外三宅内、渡辺登へ返却のイギリス船図説、手紙差添、一封にいたし、右    登方へ持参〟    ◯「天保二年辛卯日記」②434 九月六日(『馬琴日記』第二巻)   〝麹町三宅内渡辺登より使礼。かねて頼置候、水滸伝全書新渡本四帙、被為見之。代金三両のよし。望も    無之候はゞ、本直にかへし候哉、申来ル。則、返書ニ弐両迄ニ候はゞ、かひ取可申趣、もし二両ニ引ヶ    付申候はゞ、今少々はのぼり候共、宜取斗くれ候様、申し遣し、右二帙は、そのまゝとめおく〟    長崎経由の「新渡本」は武士の方が入手しやすいのであろうか〉    ◯「天保二年辛卯日記」②445 九月十九日(『馬琴日記』第二巻)    〝渡辺登より使以(ママ)、過日、及掛合候、水滸伝全書、代金弐両壱分ニ引取候よしにて、遣り二帙、被差    越之。内五十四回・五十五回大磨滅あり。同人、明日上州辺へ出立のよし也〟    〈崋山の上州行。三河・田原藩の領地でもないのに何用であろうか〉      ◯「天保二年辛卯日記」②449 九月廿四日(『馬琴日記』第二巻)   〝小林怪(ママ)茂といふ人、易学者にて、花(ママ)山懇友のよし。初て来訪、面謁を乞はる。此節多用寸暇    なきにより、風邪に托して辞之。則、宗伯を以、及挨拶、同人手みやげとして、藤房卿真跡のよし手製    墨本、被贈之〟         ◯「天保二年辛卯日記」②456 十月三日(『馬琴日記』第二巻)   〝渡辺登手紙持参候仁、大川又吉といふもの、水滸全書代金取ニ来ル。(中略)同書あとより被差濃候二    帙の内、五十六・七回に白紙同様之大磨滅多く有之。依之、直段少々引き候義不相成哉とかけ合せ候処、    右の仁一向不弁、いづれ罷帰り、本主へ可申聞旨、申に付、今日金子を不渡、そのままかへし遣す〟    ◯「天保二年辛卯日記」②473 十一月朔日(『馬琴日記』第二巻)   〝(宗伯)半蔵御門外三宅内、渡辺登方へも罷越。九月中、彼仁せ話にて、かひ取候水滸伝全書、あとよ    り差越候本の内、大磨滅之事等申談じ、代金遣し候様申付、右金子弐両弐朱もたせ遣す(中略)渡辺登    は、先月廿七日相模より帰府。同廿八に又上州辺へ出立いたし、本月十五日ならでは不罷帰よし也〟    〈渡辺崋山は九月二十日上州へ出立、十月二十七日相模より江戸に戻り、同二十八日上州へ出立、十一月十五日に江戸     帰着という。約二ヶ月かけて江戸を起点に上州~相模間を往還しているのだが、何用か記載はない〉        ☆ 天保三年(1832)    ◯『画乗要略』(白井華陽著・天保三年(1832)刊・『日本画論大観』中)   〝渡邊華(ママ)山 名は定静、字は子安、江戸人。画譜に精し〟    ◯「天保三年壬辰日記」③121 六月八日(『馬琴日記』第三巻)   〝渡辺登来ル。年始答礼のおくれ也。予、対面。(中略)画工北渓、瘡毒古疾再発。此節大病のよし等、    聞之〟     〈北渓の消息が渡辺崋山経由で来るのは不思議である〉         ◯『書画薈粋』初編〔人名録〕④472(畑銀雞編・天保三年九月刊)   〝画 渡邊華山 華山人何レノ許ノ人ナルヲ不知、書画集会アルゴトニ突然トシテ来ル、酔ヘバ必揮洒ス、    身ノ丈九尺、長刀短袴(一字未詳)ノ所能(一字未詳)問ヘバ萬シルコトナシ〟    ☆ 天保四年(1833)     ◯「天保四年癸巳日記」③539 十二月八日(『馬琴日記』第三巻)   〝渡辺登来ル。予、対面(中略)当年初来也〟    〈渡辺崋山である。次項〝同刻、赤坂画工北渓来ル〟とあるが、馬琴が北渓に連絡を取るときはどういうわけか、崋山     経由でするから、両者同道して来訪したのかもしれない〉       〝同刻、赤坂画工北渓来る。手みやげ二種、被贈之。中村屋勝五郎頼ミ、武者画本之事并諸国名所の画序    文之事、被談之。愚意之趣、巨細に示談〟    ◯「天保四年癸巳日記」③540 十二月十日(『馬琴日記』第三巻)   〝山本宗慎より使札。先月頼置候瀬田問答写し出来、被差越之。且、菱川師宣遊女之像懸幅箱入一幅、代    二百疋のよし。真筆に候はゞ、かひ取申度よしにて、鑑定を乞はる。一覧の処、落款等宜見え候得ども、    卒爾ニ付、尚又、花山・文晁ニも見せ可然旨、申進ズ〟    〈菱川師宣「遊女之像」の掛け軸一幅。二百疋は二千文。約二分の一両。馬琴は真筆と見たようである。念のため渡辺     崋山と谷文晁にも鑑定してもらうよう進めたのである〉     ☆ 天保六年(1835)    ◯『著作堂雑記』237/275(曲亭馬琴・天保六年(1835)記)   〝五月六日、琴嶺が病痾漸々に奇窮に及びしかば、いかで肖像を書かして、嫡孫等が成長の日に見せばや    と思う程に、末後に至て、飯田町より清右衛門が来にければ、予その事をばいはで、急に手簡一通を書    て、こをけふ翌日までに、麹町一丁目なる三宅備中守殿の家老、渡辺登【画名崋山】へ届けよとて、ゆ    だね遣しけるに、清右衛門がものに紛れて、八日のあした渡辺氏へ遣はしたり、九日の哺時に登来訪し    て、きのふは貴翰を賜はりて、云々の義を命ぜられしかども、さりがたき主用ありて、けふも亦使者に    出たるが、箯輿は外にとどめて来つとて、手牌一折をもたらして、琴嶺が病の安危をば問はれしかば、    予答て、琴嶺はきのふ朝五つ時に身まかり候ひぬと告ぐるに、登いたくうち驚き悼みて、御亡骸いかに    と問ふ、昨夕既に龕に斂めたれども納戸に在りといふに、登點頭て、苦しからずばしばし蓋をひらきて    見せ賜はりてんやと云、素より望む所なれは、折からまう来たる清右衛門に案内をさして、納戸に伴ひ    て龕を開きて見するに、登則筆硯を請求めて、枯相を写すこと一時ばかり、写し果て出てゝ予にいふや    う、枯相なれば肖るべくもあらず、なれども骨格は写し得たり、異日画稿ならば見せまつらんと辞して    まかれり、抑々此渡辺生は、初に画を金陵に学びて、琴嶺と同門なりければ、二十七八年の友なり、後    に画は一家をなして、肖像を写すに、必蘭法により二面の鏡をもて照らし、その真を写すに、肖ざるこ    となし、たゞ画事のみならず、文字あり、且剛毅の本姓にて、曩にある人の酒宴の席にて、髑髏盃にて    多く酒を喫せしと聞えたり、さればこそ琴嶺が亡骸に手をかけて、よくその枯相を写したり、この挙は    実に千金なり、世に懇友はもつべかりきと思ふ、予が喜しるべし【渡辺登画名は崋山、古画の鑑定をよ    くす、学力あり見識ありて、主君に登用せられたり】寛政中孝妣の遠忌に、画像を作りて祀り奉らばや    と思ひつつ、北尾重政にあつらへて、たび/\画かせたれども、毫も知らぬ人を画く事なれば、竟に肖    たるものなかりき、肖像は、必生前に画せおくべき事ぞかし【乙未六月七日】〟    〈「乙未」は天保六年〉
    「滝沢琴嶺像」 渡辺崋山画 (ウィキぺディア「渡辺崋山」より)    ☆ 天保七年(1836)       ◯『馬琴書翰集成』④180 天保七年(1836)六月二十一日 殿村篠斎宛(第四巻・書翰番号-48)   〝古児肖像、花山子より五月上旬一周忌前、やう/\出来、被差越候。褙裱の間ニ不合候故、篗ニかけ候    まゝ、床の間ニ建候て、逮夜より祀り候〟    〈渡辺崋山画「滝沢琴嶺像」。棺桶の蓋を開けて容貌を観察し、火葬後には頭蓋骨を調べて描いたとされる琴嶺(馬琴     の長男宗伯)の肖像画である。宗伯は天保六年五月八日、三十八歳没〉    ◯『馬琴書翰集成』④221 天保七年(1836)八月十四日 馬琴、古稀の賀会、於両国万八楼   (絵師の参加者のみ。天保七年十月二十六日、殿村篠斎宛(第四巻・書翰番号-65)④221参照)   〝画工 本画ハ      長谷川雪旦 有坂蹄斎【今ハ本画師になれり】 鈴木有年【病臥ニ付名代】      一蛾 武清 谷文晁【老衰ニ付、幼年の孫女を出せり】 谷文一 南溟      南嶺 渡辺花山    浮世画工ハ      歌川国貞【貞秀等弟子八九人を将て出席ス】 同国直 同国芳 英泉 広重 北渓 柳川重信      此外、高名ならざるものハ略之〟    ◯『【江戸現在】広益諸家人名録』初編〔ワ部〕〔人名録〕②39(天保七年刊)   〝画学 崋山【名定静、字伯登、一字子安、号全楽堂、田原藩、会日一六】半蔵御門外 渡辺登〟    ☆ 天保八年(1837)    ◯「絵入狂歌本年表」(〔狂歌書目〕は『狂歌書目集成』・〔目録DB〕は「日本古典籍総合目録」)   ◇狂歌(天保八年刊)    渡辺崋山画『方寸舎匕人追福狂歌集』一冊 渡辺崋山画〔目録DB〕    ☆ 天保十年(1839)      ◯『馬琴書翰集成』天保十年(1839)八月十二日 小津桂窓宛(第五巻・書翰番号-30)   ◇⑤115   〝三宅侯家老渡辺登ハ号花山、初画を金陵に学びて、故児と同門也。後に一家の画風を起して、且古画の    鑑定をよくす。門人多し。漢学ハ佐藤捨蔵弟子にて、読書の人也。世間ニては学者の様にいへども、書    たる物を見ざれバ、己ハよくもしらず。蕃(バン)学をこのミて、多くその書を見て学び、魯西亜の懐中    鉄炮など造り出して売弄スと云。久しき相識なれども、面会ハ稀にて深く交わらざれバ、其学力を量り    知らざれども、蘭学ハ尤好む処にて、発明多しト云。終には、画と蘭学をもて一家をなさんと思ひしな    るべし。四年前、予転宅已前、肖像の謝礼ニゆきて対面せしまゝニて、予が新宅を一度も訪れし事なし。    然ルにこの人、当五月十五日、俄に町奉行ぇ召捕られ、且家捜しせられ、所蔵の書画ハさら也、壁の腰    張の反故までも剥して、御とり揚になさりしと云。(以下「蛮社の獄」の記事あり、略)〟    〈渡辺崋山と馬琴の嫡子宗伯はともに画を金子金陵に学んだ仲。その縁で馬琴とも以前から交友があった。「予転宅已     前、肖像の謝礼ニゆきて対面せしまま」とあるのは、馬琴が崋山に会った最後のことを言っている。その時期は、馬     琴一家が神田明神下から四ッ谷信濃坂に転居(天保七年十月四日)する前で、崋山に依頼した故宗伯の肖像画が完成     したあと間もなくである。宗伯の死は天保六年五月八日のこと。「滝沢琴嶺像」の完成は天保七年五月上旬一周忌前     (天保七年(1836)六月二十一日付殿村篠斎宛(第四巻・書翰番号-48参照)であるから、謝礼の対面は天保七年五     月中と思われる。佐藤捨蔵は朱子学及び陽明学に通じたので「陽朱陰王」と呼ばれた佐藤一斎。崋山は師一斎の肖像     画も画いている。なお崋山の逮捕は五月十五日ではなく、五月六日。馬琴自身が八月十六日付、殿村篠斎宛(書翰番     号-32)で訂正している)〉       ◇⑤117   〝(渡辺崋山記事)昔年窮する折々ハ、古人の偽画をつくりて、人を欺キて利を射る事あり。故児この事    を予に咡きて、花山ハ才子なれども、偽画の一条ハ不人物の事也といひにき。我嫡孫に我を学せんと思    ひし比、花山にはなし置けるが、よく思へバ、かの偽画の事あれバ、心術なつかしからず、この故に、    去秋より楠本雪渓の弟子にしたり。今思へバ、よくも花山の弟子にせざりきと、ひとりうち笑れぬ、只    後悔ハ、故児の友にて、肖像を画キたりし人故、五ヶ年前、『後の為の記』一本を贈りし事あり。彼人    所蔵の書籍ハ、みな御取上ゲになりしよしなれば、彼書も没官せられしなるべし。しかれども、夷狄の    事に干らぬ吾家の事なれば、こゝろ安かり。是に就ても、秘書ハ知音の外、謹て人に贈り、人にかすま    じき者也。平賀鳩渓・林子平・渡辺花山、皆蛮学をもて名をしられたる者、終りをよくせしハなし。も    て覆車の戒とすべし。予、交遊にハ必信を尽さんとす。こゝをもて忠告して、謹慎小心あれかしといふ    のミ。好て人の悪をいハん為にあらず〟    〈「故児」は馬琴の長子宗伯。崋山の贋作作りはどの程度に及んでいたものであろうか。馬琴の関心は崋山の身の上に     あるというより、孫を崋山の弟子にしなかった己の判断の正しさと、崋山に贈った『後の為の記』が没収されたこと     によって生ずるかもしれない一抹の不安の方にあった。平賀鳩渓(源内)は獄死、林子平は蟄居、崋山は揚屋入りに     なった。この後、崋山は同八年一月に蟄居、同十二年十月十一日には自害する〉    ☆ 天保十一年(1840)      ◯『馬琴書翰集成』⑤243 天保十一年(1840) 月日、宛名を欠く(第五巻・書翰番号-73)   〝花山ハ主君ぇ御預ヶ、三宅殿御留守居御呼出シ、御引渡シニ成り、在所ぇ遣シ、隠居之上、可致蟄居旨、    於奉行所筒井殿被仰渡、則箯轎・鑓・挟箱ニて迎の警固人付添、屋敷ぇめしつれ別屋敷へ入置、番人被    付置候間、妻子も不被許対面、況懇も面会いたしがたきよしニ候。但シ、主君三宅殿、三日遠慮ニて閉    門いたされ、三日の後花山ハ在所三州田原へ遣され、妻子ハあとより是亦田原へ被遣べしと云。尤にが    /\しき事ニ候〟    〈「蛮社の獄」の崋山、国許である三河の田原藩にて蟄居を言い渡されることになった〉    ☆ 没後資料  ☆ 天保十三年(1842)    ◯「天保十三年壬寅日記」④317 正月廿三日(『馬琴日記』第四巻)   〝三毛(ママ)備後守殿蟄居用人渡辺登事、華(ママ)山、旧冬十二月中旬、於三州田原、自殺の由、慥なる風聞    有之候由、山川白酒噂にて、初て是を聞、忠臣の志也と云。尤憐むべし。此故に、三毛殿を御奏者ばんに    なされしなるべし。崋山、老母あり、妻あり、娘あり、何れも薄命の至り也。痛むべし〟    〈蕃社の獄は天保十年五月。翌十一年一月より田原に蟄居していた。山川白酒は江戸後期の狂歌師で通称竹屋平八とい     う人か。三毛は三宅であろう、崋山が家老として仕えた田原藩主〉    ◯『著作堂雑記』243/275(曲亭馬琴・天保十三年(1842)正月二十三日記)   〝崋山は渡辺登なり、三宅肥後守用人なり、先年蘭学の事にて罪を得て、入牢久しかりしに、竟に三宅殿    に御預けに成て、三州田原に送られて蟄居す、然るに猶其侭にてあらば、主君の為あしかるべしと言ひ    聞せし者あり、時に天保十二年十二月中旬、崋山意衷を書残して自殺す、享年四十九歳ばかり成るべし、    此故にや、三宅殿いく程もなく御奏者番に成て勤めたまへり、崋山の忠死其甲斐ありといふべし、此儀    壬寅正月二十三日、御刀研御用達赤坂の竹屋平八殿事、狂名山川白酒来訪、語次に是を告て、伝聞なが    ら慥なる説を得たり〟  ☆ 弘化二年(1845)    ◯『馬琴書翰集成』⑥119 弘化二年(1845)正月六日 殿村篠斎宛(第六巻・書翰番号-30)   〝大空武左衛門肖像大幅壱枚、是は武左衛門江戸出府の時、渡辺花山於林大学頭殿席上ニ、蘭鏡二枚ヲ以    生写しニ致候を、小子亦文宝方ニ写させ候。其上の方へ、小子拙筆ニて記事一編を記置候。右三種ニて    価金三分二朱ならバ手放度存候〟    〈馬琴所蔵の「大空武左衛門肖像」は、文政十年(1827)、林大学頭述斎宅において渡辺崋山が写生した原画を、亀屋文     宝(二代目蜀山人)が模写したものである。『兎園小説余録』(「日本随筆大成」二期-五巻)及び『馬琴日記』九     月二日(第一巻p182)参照〉  ☆ 嘉永二年(1849)    ◯『【現存雷名】江戸文人寿命付』初編〔人名録〕②333(嘉永二年刊)   〝渡邊崋山 絵のみかは手跡の見事画論まで花も実もある崋山先生 大極上々吉、寿千載 麹町半蔵御門    外〟    ☆ 嘉永四年(1851)    ◯『古画備考』三十上「近世二」中p1271(朝岡興禎編・嘉永四年四月二日起筆)   〝渡邊華山 名定静、字子安、江戸人、精画譜、又名登、号全楽堂、会日一六、居半蔵門外、愛此楚江蘭、    蹇裳堪可采、長含大国香、好作君子佩、猗々数竿色、写出翠鮮明、坐疑清風夕、葉々送鳳鳴     写奉舒盫渡邊公、博咲甲午(「天保五年」の添え書き)春正月十六日 登[印章]「渡邊登」「華山」     絹本墨竹石蘭(*摸写あり)    (補)墨花鳥[印章]「登」(亀甲印)    (補)[署名]「華山外史登」〟  ☆ 安政二年(1855)     ◯『古今墨跡鑒定便覧』「画家之部」〔人名録〕④239(川喜多真一郎編・安政二年春刊)   〝渡辺華(ママ)山【名ハ定静、字ハ子安、通称登ト。江戸ノ人、山水人物ニ長ゼリ】〟    〔署名〕「華山渡邊登」    〔印章〕「崋山」  ☆ 明治十四年(1881)  ◯ 第二回 観古美術会〔5月1日~6月30日 浅草海禅寺〕   『第二回観古美術会出品目録』竜池会編 有隣堂 明治14年刊(国立国会図書館デジタルコレクション)   ◇第四号(明治十四年五月序)   〝渡辺崋山 崋山画賛 二幅(出品者)村松彦七〟  ☆ 明治十五年(1882)  ◯『写山楼記』〔新燕石〕⑤52(野村文紹著・明治十五年(1882)成立)   (谷文晁門人の項)   〝渡辺崋山 【天保十二年十月十一日歿、四十九、字伯登、号禅楽堂、名定静、称全登、男小華、旧田原藩          門人素堂】〟  ☆ 明治十九年(1886)  ◯ 第七回 観古美術会〔5月1日~5月31日 築地本願寺〕   『第七回観古美術会出品目録』竜池会編 有隣堂 明治19年刊(国立国会図書館デジタルコレクション)   ◇第三号(明治十九年五月序)   〝渡辺崋山 青緑山水 一幅(出品者)中村一蔵         人物   一幅(出品者)本間耕曹〟  ☆ 明治二十七年(1894)    ◯『名人忌辰録』上巻p22(関根只誠著・明治二十七年(1894)刊)   〝渡辺登 華山    名定静、字子安、号全楽堂。天保十二年丑年十月十一日自殺、歳四十九。三州田原城南城宝寺に葬る〟  ◯『古今名家印譜古今美術家鑑書画名家一覧』番付 京都     木村重三郎著・清水幾之助出版 明治三十年六月刊   (東京文化財研究所「明治大正期書画家番付データベース」)   〝近代国画名家〈故人と現存とを分けている〉    ※Ⅰ~Ⅳは字が大きさの順。(絵師名)は同一グループ内の別格絵師。    〈故人の部は字の大きさでⅠ~Ⅳに分類。(絵師名)はそのグループ内の別格絵師〉    Ⅰ(狩野探幽・土佐光起・円山応挙)酒井抱一 渡辺崋山  伊藤若沖    Ⅱ(谷文晁 ・英一蝶 ・葛飾北斎)田中訥言 長谷川雪旦    Ⅲ(尾形光琳・菊池容斎・曽我蕭白)岡田玉山 司馬江漢  浮田一蕙 月岡雪鼎 高嵩谷      蔀関月    Ⅳ 大石真虎 河辺暁斎 上田公長 柴田是真 長山孔寅 英一蜻  英一蜂 佐脇嵩之      高田敬甫 西川祐信 橘守国  嵩渓宣信 英一舟  葛飾為斎〟    〈江戸時代を代表する絵師としての格付けである〉  ☆ 明治三十五年(1902)    ◯『病牀六尺』(正岡子規著・底本岩波文庫本)   ◇「七」明治三十五年(1902)刊五月十日   〝文晁の絵は七福神如意宝珠の如き趣向の俗なるものはいふ迄もなく山水又は聖賢の像の如き絵を描ける    にも尚何処にか多少の俗気を含めり。崋山に至りては女郎雲助の類をさへ描きてしかも筆端に一点の俗    気を存せず。人品の高かりし為にやあらむ。到底文晁輩の及ぶ所に非ず〟    〈存命中を比較すれば谷文晁の方が渡辺崋山より高名であったのだが…。天才は天才を知るの例か〉     ◇「五十三」明治三十五年(1902)七月四日   〝川村文鳳の画いた画本は文鳳画譜といふのが三冊と、文鳳麁画といふのが一冊ある。そのうちで文鳳画    譜の第二編はまだ見たことがないがいづれも前にいふた手競画譜の如き大作ではない。しかし別に趣向    のないやうな簡単な絵のうちにも、自ら趣向もあり、趣味も現はれて居る。文鳳麁画といふのは極めて    略画であるが、人事の千態万状を窮めて居てこれを見ると殆ど人間社会の有様を一目に見尽すかと思ふ    位である。崋山の一掃百態は其筆勢のたくましきことと、形体の自由自在に変化しながら姿勢のくづれ    ぬ処とは、天下独歩といふてもよいが、しかし文鳳麁画に比すると、数に於て少なきのみならず趣味に    於てもいくらか乏しい処が見える。たゞ文鳳の大幅を見たことが無いのだ、大幅の伎倆を知ることが出    来ぬのは残念である〟    〈『文鳳画譜』は初編文化四年(1807)、二三編文化十年(1813)刊。『文鳳麁画』寛政十二年(1800)序。渡辺崋山の    『一掃百態図』は文政元年(1818)刊〉    ◯「日本古典籍総合目録」(国文学研究資料館)   〔渡辺崋山画版本〕(「分類」に「絵画」及び「華山画」とある作品)    作品数:26点(「作品数」は必ずしも「分類」や「成立年」の点数合計と一致するとは限りません)    画号他:登・定静・渡辺登・渡辺定静・渡辺崋山    分 類:絵画(画譜・画帖・画論)26    成立年:文政1・5・7・8年(5点)        天保2・3(2点)
Top浮世絵師総覧浮世絵師名一覧