Top浮世絵文献資料館浮世絵師総覧
 
☆ いっちょう はなぶさ 英 一蝶浮世絵師名一覧
〔承応1年(1652) ~ 享保9年(1724)1月13日・73歳〕
 ※〔漆山年表〕:『日本木版挿絵本年代順目録』 〔目録DB〕:「日本古典籍総合目録」  ☆ 元禄四年(1691)  ◯『筆禍史』「百人男」(元禄四年)p28(宮武外骨著・明治四十四年刊)   〝『御仕置裁許帳』に曰く     此者戸田山城守殿より御断に付、穿鑿の儀有之、当月十一日揚り屋入置候処、牢内にて相煩候に付、     養生の内、去廿日預置候へ共、同廿一召寄揚り屋に入、右之者人の噂を色々書立、百人男と記し、     其上行跡不宜、重々不届成故、同十月死罪            呉服町一丁目            松枝小兵衛            右同町長右衛門店          柳屋又八郎            同町茂右衛門店           笹本次良右衛門            本所三文字屋々敷又市店       桑原和翁     右四人之者共、山口宗倫儀に付、穿鑿之内揚り座敷     右四人之者共、山口宗倫と常々出合、人の噂を書記候節も指加り候様に相関候、不届成るに付、未十     月廿二日、日本橋より五里四方追放       元禄四年未十月
      此『百人男』の一件に就ては、異説紛々として、殆ど其真偽を判定すべからざる程なり    右の中にある「和翁」といへるは、菱川和翁(或は和央)といひし多賀朝湖、後に英一蝶と改名したる    者なりと云ひ、然して又『百人男』を一に『百人女臈』と書きて、山口宗倫などには関係なく、英一蝶、    仏師民部、村田半兵衛等三人のわざなりとし、又更に英一蝶が伊豆の三宅島(或は大島、或は八丈島)    に配流されたるは、『百人女臈』の事にあらずして、綱吉将軍の寵婦お伝の方に擬せし朝妻舟の図を画    きしがためなりと云ひ、又或はさにあらず一蝶が当時、(犬公方時代)禁制の殺生をなせしがためなり    など、其異説紛々として、いづれをも信じ難く、『近世逸人画史』の著者などは「一蝶は元禄中故あり    て配流せらる、其罪を知らず、区々の説あれども取るに足らず」と云へり    予は『墨水消夏録』『近世江都著聞集』『川岡雑筆』『江戸真砂六十帖』『浮世絵類考』等の雑説を排    して、『一蝶流謫考』に引用せる小宮山昌世の『龍渓小説』の一部分を採りて、左の如く断案を附せん    とす    『百人男』の一件は、『御仕置裁許帳』に拠れる前掲の記録を事実として、其『百人男』の内容は、当    時要路の役人たりし者及び其他市井の雑人を、小倉百人一首に擬して批評したるものにして、其中に幕    府の忌諱に触れたる廉ありしものと見、右の中にある桑原和央は英一蝶の前名にして、彼は追放処分を    受けたる後赦免となりしか、又は内密にて江戸に帰り、再び多賀朝湖と称して画作の外、遊里に入浸り    て野ダイコを本業の如くにし、終に仏師民部、村田半兵衛等と共に、井伊伯耆守直朝、本庄安芸守資俊、    六角越前守広治(以上三名藩翰譜続編に拠る)等、所謂馬鹿殿様に遊蕩をそのゝかせし罪にて(*「そゝ     のかせし」の誤植か)、元禄十一年伊豆の三宅島に配流されたるものと見るなり。       〔頭注〕英一蝶 『龍渓小説』の一節といへる記事は左の如し、    (以下、『龍渓小説』の「百人男」一件の記事を引く。同記事は、本TP「浮世絵師総覧」「英一蝶」の項目中、     『一蝶流謫考』所収の『竜渓小説』の一部分にあたる。
   『竜渓小説』「一蝶流謫」       『竜渓小説』での和翁は「百人男」の件で死罪になっている。とすると、和翁と一蝶は別人ということになるのだが、     このことに関して、宮武外骨の頭注記事は次のように続ける)    英一蝶が和央或は和翁といひし事は他書に二三の証拠もあるに、一蝶の蝶古(朝湖)と和翁を別人と見    しは、誤聞なること明なり、加之、和翁が死罪となりしにあらざる事は下に載せる古記録にて知るべし    諸説混同して紛々たるも、和翁の一蝶が此一件に関係ありしがためならんか〟  ☆ 元禄六年(1693)(八月十五日 詮議のため揚屋入り)  ◯『藤岡屋日記 第一巻』①307(藤岡屋由蔵・文政五年(1822)記)   (元禄之頃、御船手逸見八左衛門記録之内書付)   〝             呉服町壱丁目新道 勘左衛門店      北条安房守掛り    多賀 朝湖 四十二歳    元禄六年酉八月十五日入      是は御詮議之儀有之候ニ付、安房守宅より揚屋入〟  ☆ 元禄十一年(1698)(十二月二日 三宅島へ流罪)  ◯『藤岡屋日記 第一巻』①307(藤岡屋由蔵・文政五年(1822)記)   (元禄之頃、御船手逸見八左衛門記録之内書付)   〝             呉服町壱丁目新道 勘左衛門店      北条安房守掛り    多賀 朝湖 四十二歳    右之者、元禄十一年寅十二月二日三宅島へ流罪、御船手逸見八左衛門方ぇ渡ス〟    〈北条安房守は町奉行〉  ◯『増訂武江年表』1p99(斎藤月岑著・嘉永元年脱稿・同三年刊)   (元禄十一年・1698)   〝十二月、画工多賀潮湖謫せらる(四十六歳。呉服町一丁目新道に住ひし時なり)〟  ☆ 元禄年間(1688~1703)  ◯『増訂武江年表』1p106(斎藤月岑著・嘉永元年脱稿・同三年刊)   (元禄年間・1688~1703)   〝一蝶が作の朝妻船、しのゝめ一名かやつり草、などいふ小唄流行〟  ☆ 宝永六年(1709)(十二月 大赦 帰郷)  ◯『増訂武江年表』1p113(斎藤月岑著・嘉永元年脱稿・同三年刊)   (宝永六年・1709)   〝十二月、多賀潮湖帰郷をゆるさる。後英一蝶と号す(深川長堀町に住ひす)〟  ☆ 正徳元年(宝永八年・1711)  ◯「日本古典籍総合目録」(国文学研究資料館)   ◇絵画(正徳元年刊)    英一蝶画『四季日待巻』一軸 英一蝶画 成立年「正徳元追記」  ☆ 享保三年(1718)    ◯「四季絵跋」英一蝶の跋文。署名「享保戊戌 孟春日 北窻翁英一蝶書」    四季絵跋 北窻翁英一蝶書  ☆ 享保五年(1720)     ◯「絵本年表」〔漆山年表〕(享保五年刊)   ◇俳諧    英一蝶画『続福寿』北囱翁一蝶 八嶋宣信 英信古 菱川葉光伴 湖閑斎荷十 春水         一紫画図 露玉 木者庵湖十後序    ☆ 享保七年(1722)    ◯「絵本年表」〔漆山年表〕(享保七年刊    英一蝶画『俳度曲集』半紙本二巻 鳥居清倍一図 英一蝶二図 英一蛙一図    ☆ 享保九年(1724)    ◯「絵本年表」〔漆山年表〕(享保九年刊    英一蝶画『類姓草画』大本三巻 英一蝶 鳥羽風 大津屋与右衛門板  ◯『増訂武江年表』1p127(斎藤月岑著・嘉永元年脱稿・同三年刊)   (享保九年・1724)   〝正月十三日、英一蝶卒す(七十一歳。二本榎承敬寺中願乗院に葬す。辞世、まきらかす浮世のわざの色    とりも有りや月の薄墨の空)〟  ◯『独寝』〔燕石〕③105(柳沢淇園著・享保九年序)   〝又、浮世絵にて英一蝶などよし、奥村政信、鳥井清信、羽川珍重、懐月堂などあれども、絵の名人とい    ふたは、西川祐信より外なし、西川祐信はうき世絵の聖手なり〟    〈序の享保九年は岩波書店の「日本古典文学大系」『近世随想集』所収の「ひとりね」に拠る〉    ☆ 刊年未詳    ◯「日本古典籍総合目録」(刊年未詳   ◇絵本・絵画    英一蝶画    『一蝶衆画苑』三冊 英一蝶画(注記「大阪名家著述目録による」)    「蟻通図」写 一軸 英一蝶画  ☆ 没後資料    ☆ 享保十七年(1732)    ◯「絵本年表」〔漆山年表〕(享保十七年刊)    英一蝶画    『俳諧蔵の衆』半紙本三冊 白鳳軒雪岑筆 懐月堂指水書 英一蝶等画 露月撰 万屋清兵衛板    ☆ 享保十八年(1733)    ◯「絵本年表」〔漆山年表〕(享保十八年刊)    英一蝶画    『絵本東名物鹿子』半紙本三巻 白鳳軒雪岑筆 英一蝶 その他筆 伍重軒露月撰 午寂跋             (財峨ハ一蝶歟)    ☆ 享保十九年(1734)  ◯『本朝世事談綺』〔大成Ⅱ〕⑫522(菊岡沾凉著・享保十九年刊)   〝一蝶流 英一蝶は、一流を書て頃年の達人也。始調古と云。狩野永真の弟子也〟 ◯『老のたのしみ抄』〔燕石〕⑤304(市川栢莚(二世団十郎)著・享保一九年~寛延三年記事)   〝(享保十九年)五月廿一日、雨降、予芝居より帰り、座敷にて人参をきざむ、向に小屏風、某の為出し    置、屏風は一蝶牛馬の画なり、【〔頭書〕楓窓按、翠簑翁、謫居十二年、宝永六年帰郷して後、英一蝶    と称し、享保七年七十一歳なり】予が好みにて、往年書也、七十一歳とあり、予つく/\思ふに、予は    今年四十七歳なり、一蝶の年にくらぶれば、今年より廿五年生て七十一歳なり、しかればのたのもしき    事なり、七十一歳にて画の筆勢至極出来、言にのべがたし、まことに名物の術芸なり、常に生をやしな    はゞ、など七十一まで生ぬといふ事やあるべき、飲食、酒色、気の持ちよふ工夫有べき事ども也〟    〈『老のたのしみ』の「予」とは二代目市川団十郎(柏莚)。〔頭書〕の「楓窓」は文化五年これを写した「楓窓主人」〉    ☆ 寛保元年(1741)  ◯『老のたのしみ抄』〔燕石〕⑤311(寛保元年八月記事)   〝寛保元年八月二十七日、晴天、芝居大入大桟敷、此日、暁雨丈楽屋へ御出、沖中丈頼みのよしにて、顔    見世の図一蝶の画、父子発句を書、     顔見世や富士も筑波も朝日山 柏莚     顔見世や曙白きほしの花  三升〟    〈この三升は三代目市川団十郎。寛保二年二月二七日没(二二歳)したがって半年前の記事である。暁雨は初世団十郎     二七回忌に際して編まれた追善集『父の恩』(享保一五年刊。二世団十郎柏莚編)に二句あり。暁雨から暁翁と改名     したのは宝暦三年のこと。(『大尽舞考証』〔燕石〕⑤233〝宝暦三年、浅草の暁雨、暁翁と更名したる時の集冊、     新むさしぶりに〟という一文あり)また「古典文庫第二六六冊」『江戸座俳諧集四』(鈴木勝忠校訂)所収の俳諧師     「名録」には〝暁雨改暁翁、大口氏、琴筑堂、宝暦三年没〟とある。沖中は未詳〉    ☆ 寛延年間(1748~50)  ◯『八十翁疇昔話』〔大成Ⅱ〕④130(財津種ソウ(艸冠+爽)著・寛延年間記・天保八年刊)   〝獅子髪洗ひの図     英一蝶筆 徳田慶壽写〟    ☆ 宝暦初年(1751~) ◯『江戸真砂六十帖』〔燕石〕①142(元禄二年生の作者和泉屋某六十余歳執筆、宝暦初年成立)   〝村田半兵衛牽頭之事 本石町三丁目村田半兵衛、絵師和応、仏師式部とて、此三人は其頃の至り牽頭なり、其節、六角越前と    て新地一万石を給はり、屋敷は小川町にあり。此越前殿は桂昌院様甥のよし、京都より下り、俄大名な    り。金銀は沢山なり。吉原へ右三人召つれて通ひ給ふ。大かた浅草伝法院へ入り、裏道より田中へぬけ    通ひける。或時、田中に町人切殺しありて縮緬の単羽織片袖ちぎりしにや、落て片原に有り。紋所鶴の    丸なり。大方は六角殿と知る人申合ぬ。依て伝法院御吟味の上、遠慮して引籠り、六角殿も申わけ立が    たく知行召上られ、外の大名へ遠く御預に被成候。其頃、百人女﨟といふ書物一冊、本屋摺出しぬ、是    は、大名方の御本妻、器量のよしあし、また食物の好不好、其所/\を明白に仕たり、上より御咎有て、    本屋牢舎になりて、何者の作り出したるとの御詮議、村田半兵衛、絵師の和央【〔頭書〕活東子云、和    応、板本洞房語園に和央とあり】仏師の式部なりと訴る。右三人召捕られ、牢舎して伊豆の大島に流罪    す、十七八年目に帰参して、和央は英一蝶と名を替へて、しばらく暮しぬ、半兵衛も式部も程なく病死    す〟    〈〔頭書〕の活東子は「燕石十種」の編者岩本活東子〉    ☆ 宝暦七年(1757)    ◯「絵本年表」〔漆山年表〕   ◇俳諧(宝暦七年刊    英一蝶画『雨の恩』一冊 英一蝶等画 陳后編    ◯『当世武野俗談』〔燕石〕④120(馬場文耕著・宝暦七年序)   (「桑名屋嵐孝が女房悟の名言」の項、吉原遊女・中近江屋半太夫の談として)   〝人々集りて、達磨九年面壁の座禅の咄を致しけるを、此半太夫聞て、達磨九年の面壁は何程の事か有べき、    すべて女郎の身の上は、四季折ごとに、見世へ出て、昼夜面壁同然たり、達磨は九年、我は苦界十年あり、    達磨のうは手なり、と笑ひし、此事画工英一蝶が筆に、半身の達磨の顔を傾城に書初て、世上にてはやり、    団扇、たばこ入、柱がくしまでに、人々女郎達磨を用ひけり、半身達磨傾城の画の讃に、       そもさんかこなさんか     九年母のすゐより出たるあまみかな  柏莚       又     九年何苦界十年花の春  同〟     〈所謂「半身の女達磨」誕生の挿話である〉 ◯『近世江都著聞集』〔燕石〕⑤52(馬場文耕著・宝暦七年九月序)   〝多賀長湖百人女﨟を画きし御咎にて遠流并後年英一蝶となるの話〟   (原文長文のため要旨のみ記す。◎多賀長湖の時代、貴賤の女の絵姿をうつした『百人女﨟』の中に、     将軍綱吉寵愛の「おでんの方」を、船中鼓打つ姿に描いて、遠島処分になりしこと。◎配所にて英一     蝶と改名せしこと。またそこで生まれた一子を「島一蝶」と呼びしこと。◎「朝妻舟」の「小舟に女     の舞装束にてひとり鼓を打つ体」の絵は、「おでんの方」の舟中鼓打つ姿の「やつし」であること。     画賛の〝あだしあだ波、よせては帰る波 ~〟と後水尾院御製〝このねぬる朝妻舟のあさからぬ契を     たれに又かはすらむ〟を記す。◎西川祐信の『百人女﨟品定』は一蝶の『百人女﨟』に倣いしこと)〟    ☆ 明和六年(1769)  ◯『古今諸家人物志』「英画」〔人名録〕③346(奥村意語編・明和六年十一月刊)   〝英一蝶     暁雲堂、称北窗翁     姓多賀、名信賀、字暁雲、号一蝶      英氏、又称簑翠翁 又号潮湖斎     摂州の人、石川侯命を以て、狩野安信に師として事ふ。意匠運筆巧妙にして、遂に一家の作る。更に先    生画温良而して細密滋潤に而曽て妙処を竆き。承応三甲午年に生る、摂州に於在二子、長男長八、次男    源内。遂に先生病没す。時に享保九年甲辰正月十三日、享年七十一歳。居東武、初深川長掘町。墓は東    武麻布二本榎常教寺寺内顕乗院に葬る。明和六年迄四十五年に成る。      辞世曰    まぎらわす浮世のわざのいろどりもありとや月のうす墨の空〟    ☆ 安永二年(1773)    ◯「日本古典籍総合目録」(安永二年刊)   ◇絵本 絵画    英一蝶画『英林画鏡』三冊 英一蝶画(注記「大阪名家著述目録による」    ◯『宴遊日記』(柳沢信鴻記・安永二年五月二十日記)     〝英一蝶画十二枚の屏風はがし昨日啜龍持参、六枚高田・渡辺に透写を命じ、六枚ハ啜龍等に命じ、今日    出来持参    〈英一蝶の十二枚の屏風とは六曲一双「田園風俗図屏風」のことであろうか〉    ☆ 安永七年(1778)  ◯『宴遊日記』(柳沢信鴻記・安永七年十二月十四日記)   〝田原町小道具屋にて一蝶画坐頭之画を穴沢に買わせ(云々)〟    ◯「日本古典籍総合目録」(安永七年刊)   ◇絵本    英一蝶画『群蝶画英』三冊 英一蝶画    ☆ 安永八年(1779) ◯『一話一言 巻四』〔南畝〕⑫185(安永八年記)   (「英一蝶の発句」の項目)   〝北窓翁一蝶のかけるものとて人のうつし置しをみるに、      近曾螺舎其角とゝもに、深川なる芭蕉庵に遊ぶ夕にかへる途中の吟、     たが(箍)かけ(掛)のたが(誰)たが(箍)かけてかへるらん      螺舎此句にはづんで、     世(身)をうすの目と思ひきる世に      螢星うつりかはり、芭蕉もやぶれ螺舎もくだけたるに、われのみのこる深川の、今日思へばはから      ざる世や  北窓翁賛画     【欄外。一蝶ハ永代橋ノワキ深川長堀町ニ住セシト】〟    〈某氏所蔵の〝北窓翁賛画〟を書写。一蝶と其角が深川の芭蕉庵に遊んで帰る夕べに吟じた発句と付け句の写し。南畝     は詞書と句の書留を見て写したようで一蝶の原画を見ていないようだ。一蝶と蕉門との親密な交遊を示す資料である〉    ☆ 天明七年(1787) ◯『通詩選諺解』〔南畝〕①498(天明七年一月刊)  (南畝の狂詩「永久夜泊」に詞書) 〝永久夜泊【永久橋は崩橋の北にあり】     鼻落声鳴篷掩身 饅頭下戸抜銭緡 味噌田楽寒冷酒 夜半小船酔客人    船饅頭は食類にあらず、船中の遊女をいふ。古ぼちや/\のおちよといへる高名の遊女ありしとかや    英一蝶朝妻舟賛 あだしあだなみよせてはかへる波枕といへるもこの類にしてひんのよき物なり〟    〈南畝の狂詩は『唐詩選』所収、張継の詩「楓橋夜泊」を踏まえて、箱崎町辺に出没する「船饅頭(娼婦)」を賦したも     の。その「船饅頭」を一蝶の画く「朝妻船」の遊女に見立て、「ひんのよき物」としたところが狂詩たる所以。一蝶     絵画の代表作である「朝妻船」と、〝あだしあだなみ~〟で知られた一蝶画賛の小唄「朝妻船」、ともに江戸人にと     ってはごく身近な作品なのである〉    ☆ 天明八年(1788) ◯『一話一言 巻十一』〔南畝〕⑫456(天明八年八月記)   〝其角が墓は二本榎上行寺にあり。そのむかひ来(ママ)教寺に英一蝶が墓あり〟    〈其角と一蝶の墓は向かい合って建っている。二人の仲は生前ばかりでなく、死後に至るまで親しい間柄だと、江戸人     は連想したのである〉    ☆ 寛政二年(1790) ◯『瀬田問答』〔燕石〕①348(大田覃・瀬名貞雄問答・天明五年~寛政二年成立)   〝一、英一蝶、初は多賀長湖と申候由、大島へ被謫候年月、何頃に候や、 答、一蝶事、書留無御坐候、猶又可相尋候、凡、元禄、宝永、正徳時分の者と被存候、    覃後按に、古今人物志、英一蝶、姓多賀、名信香、字暁雲、称暁雲堂、北窻翁、号一蝶、又称簑笠翁、    又号潮湖斎、摂津人、以石州侯命師事狩野安信、意匠運筆巧玅、遂作一家、承応三甲午年、生於摂州、    有二子、長男信勝長八、次男源内、享保九庚申正月十三夜没、享年七十一、初居深川長堀町、葬東武麻    布二本榎承教寺内顕乗院、 辞世 まぎらはすうき世のわざの色どりもありとや月の薄墨の空     直政按、一蝶三宅島へ被流候は、元禄十一寅十二月なり、時四十六なり、表徳和央、呉服町一丁目新道    に住す、宝永六丑九月九日御赦免、夫より深川に住す〟    〈大田南畝の質問に瀬名貞雄が回答したもの。「覃後按」の「覃」は南畝。辞世まで記述は『大田南畝全集』(巻十七)     所収と同じだが、「直政按」以下の記述はなし。当ホームページ「大田南畝全集」の項参照。「直政」は未詳〉    ☆ 寛政三年(1791) ◯『半日閑話 巻四』〔南畝〕⑪146(寛政三年頃記か?)  (「英一蝶辞世」の項) 〝英一蝶    多賀信賀(香)、暁雲堂、北窓翁、簔翠(ママ)翁、潮湖斎、摂州人、事狩野安信、后立一家、享保九年正    十三卒、七十一。      辞世 まぎらはすうき世のわざの色どりもありとて月のうす墨の空〟    ☆ 寛政五年(1793) ◯『半日閑話 巻三』〔南畝〕⑪104(寛政五年三月十九日記)   (「尾州戸山屋敷」の項)   〝寛政五年癸丑三月十九日、見分に参申候。同廿三日御成有之    尾州戸山屋敷一見の事(以下「御茶屋飾付」記事あり、略)      和田戸明神神神主宅     掛物 壱幅      釣瓶に燕の画 一蝶筆〟    〈この記事は寛政五年三月一九日のものとあるが、これは南畝の実見記事ではない。書写したものである〉    ☆ 寛政十一年(1799) ◯『一話一言 巻二十二」〔南畝〕⑬353(寛政十一年記) (石野広通の英一蝶作「あさづまぶね」考証)   〝あだしあだ浪よせてはかへる浪、朝妻ふねのあさましや、あゝ又の日はたれに契をかはして色を、/\、    枕はづかし、偽がちなる我床の山、よしそれとても世の中。     此一蝶が小歌、絵の上の書てあさづま舟とて世に賞玩す。一蝶其はじめ狩野古永真安信が門に入て画    才絶倫一家をなす。こゝにをいて師家に擯出せらる。剰事にあたりて江州に貶謫、多賀長湖といふ。元    来好事のものなり。謫居のあひだつくれる小歌の中に、あだしあだ浪よせてはかへる浪あさ妻舟のあさ    ましや云々 此絵白拍子やうの美女、水干ゑぼうしを着てまへにつゞみあり、手に末広あり、江頭にう    かべる船に乗りたり。浪の上に月あり。【此月正筆にはなし、たゞし書たるもあり、数幅書たるにや】    (以下歌詞の考証あり、略)〟    〈一蝶の「朝妻船」は文字どおり自画自賛なのである〉    ☆ 寛政十二年(1800)  ◯『浮世絵考証(浮世絵類考)』〔南畝〕⑱444(寛政十二年五月以前記)   〝英一蝶四季絵跋    夫大和絵は、そのかみ土佐刑部大輔光信がすさみに、堂上のうや/\しきより田家のふつゝかなるさま、    岩木のたゝずまひ、やり水のめいぼく、これにはじまりて末/\にながれ、予が如きのつたなきまでこ    れをもとゝす。近頃越前の産、岩佐の某となんいふもの、歌舞白拍子の時勢粧をおのづから写し得て、    世人うき世又平とあだ名す。久く世に翫ぶに、また房州の菱川師宣といふもの、江府に出て梓におこし、    こぞって風流の目をよろこばしむ。此道予が学ぶ所にあらずといへども、若かりし時、あだしあだ波の    よるべにまよひ、時雨朝帰りのまばゆきをいとはざるころほひ、岩佐、菱川が上にたゝん事をおもひて、    はしなきうき名のねざしのこりて、はづかしのもりのしげきことぐさともなれり。さるが中にあたりて    謫居さすらへし事十とせにあまり、廿とせに近きを、ありがたき御恵のめでたきもとの都にかへり来る。    あるひとむかしの筆の四時のたわぶれ絵をふたゝび予に見す。其頃は心たくましく眼すゞろに、髪筋を    千すぢにわくる事くさもことたらざりけらし。しかし今の世のありさまにくらぶれば、髪のつとゑりを    こへず、ふり袖大路をすらず、たゞあまざかる田舎おうなの絵姿とも思ふべからん。蛍星うつりかわり    てこの一巻を見る事、浦嶼が七世のむま子に逢へるためしにひきて、かつはよろこびをそふるの心にす。    これがために跋書。 英一蝶     按ずるに、一蝶はもと多賀朝湖と云絵師也 姓は藤原名は信香 字は暁雲、翠簔翁、暁雲堂とも云。     表徳は和央。呉服町壱丁目新道に住せし頃罪ありて元禄十一寅年十二月、三宅島に流さる。時に歳四     十六也。宝永六年丑九月御赦免、江戸深川に住す。これ謫居よりかへりての文なり。     享保九辰年正月十三日没。     湯原氏記に云、元禄七年四月二日従桂昌院様六角越前守御使被遣之、      金屏風一双【芳野竜田】多賀朝湖筆      本願寺え     同 一双 大和耕作 同人筆      新門え〟    〈この「跋文」は享保三年(1718)正月に認められたもの。その年記入りの跋文は、本HP「浮世絵記事」の項の「四季     絵跋」に翻刻しているので参照のこと。南畝が写したものとは少し違っている。ところで『浮世絵考証』を見ると、     南畝は浮世絵の系譜を岩佐~菱川~英一蝶という流れで捉えている。これはこの一蝶の「四季絵」の跋に拠ったので     はあるまいか。なお「湯原氏日記」にある桂昌院(三代家光の側室)から〝新門え〟贈られた品については記述がな     い。2011/05/27追記〉  ◯『増訂武江年表』2p17(斎藤月岑著・嘉永元年脱稿・同三年刊)   (「寛政十二年」)   〝抑(ソモソモのルビ)浮世絵は大津又兵衛、英一蝶、宮川長春等を始祖とし、江戸に名人多し。又天明寛政の頃    より劂人(ホリニン)刷人(スリニン)の上手出て巧を尽し、次第に美麗の物出来て、方物の第一となれり。諸国に    まねぶものあれど及ばず〟    ☆ 享和二年(1802)  ◯『浮世絵類考追考』(山東京伝編・享和二年十月記・文政元年六月写)    (本ホームページ・Top「浮世絵類考」の項参照           英一蝶伝并系図       【一蝶が伝諸書に記すを見るに、大に誤る。故に今其実を記す。一蝶は浮世絵師にあらざれども        時世の人物をかき、元師信(ママ)が画風より出たるを以てしばらく浮世絵師に列す】    英一蝶は大坂の産。姓は藤原、多賀氏、父は医師也。一蝶十五歳の時、江戸に来り、狩野安信の門人と    なれり。名は信香、一に安雄、俗称を介之進と云、始、朝湖と号す。       翠蓑翁  牛丸【幼名と云は非なり】 暁雲【俳諧の名なり、暁雲堂とも云】       旧草堂 一蜂閑人【後門人にゆづる】 一閑散人 隣樵庵       鄰濤庵 北窓翁等    等の諸号あり。俳諧は芭蕉の門人にして、其角、嵐雪等と友たり。俳諧の名を暁雲と云。和央【一作和    央と云しは、花街におひて呼し名なりとぞ。            (一字未詳)云此年ハ入牢ノ年ナリ三年目ニ流罪ニナル    元禄十一年十二月【元禄八年とするは非なり】呉服町一丁目新道に居住の時、謫せらる、時に歳四十七    歳、謫居にある事十二年、宝永六年九月【宝永四年とするは非なり】帰郷せり。其後、英【一説花房母    の姓也】一蝶と称し、北窓翁と号す。享保九年甲辰正月十三日歿、享年七十三歳、二本榎、日蓮宗承教    寺塔中顕乗院に葬す、墳あり。      辞世 まぎらかすうき世の業の色どりもありとや月の薄墨の空 一蝶    一蝶に老母一人あり、剃髪して妙寿と云、蝶謫居にある間、蝶が友人横谷次兵衛宗珉が家にやしなわる。    正徳四年三月三十日歿す、顕乗院に葬す。宗珉の居、桧物町に有。    高嵩谷蔵板 「英氏系図之略」      (三行の朱筆あり、未詳)    嵐雪撰、其袋【元禄三年板】に一蝶が句あり【此句、其角が花つみに有】      花に来てあはせばほりの盛かな  暁雲      朝寝して桜にとまれ四日の雛  同   自画讃の句あまたあり、枚挙すべからず。    一蝶に小歌の作おほし。元禄六年板、松の葉にのするしのゝめと云小哥は一蝶の作なり。洞房語園には、  みじか夜の早歌、一名かやつり草と名づけてこれをのせたり。浅草(ママ)舟の賛も、其比ふしをつけてう  たひけるにか、松の葉のはうたの部にのせたり、宝永の比の写本、よし原つれ/\草といふものに、か  やつり草などの朝湖が哥こそ、又あはれなる事おほかんめれ云々。(『松の葉』は元禄十六年刊)  或説に、一蝶声よくてみづから小唄をよくうたひけるよし、老人となりても紀国や文左衛門などにつき  て、花街にのみくらしたるとなれば、さもあるべし。  ◯三谷何某、一蝶が謫居より母のもとへおくりし絵を蔵す。謫居の趣きをこまかに絵かきたる也。【横  谷宗珉の家にのこりしものとぞ】  ◯『画道金剛杵』「古今画人品評」(中村竹洞著・享和二年(1802)刊・『日本画論大観』上183)   〝中上品    和画 常信       英一蝶 品格高からずと雖も又妙処有り       光起 着色法の精絶なること喜ぶべし、只生韻無きを恨みと為す       松花堂〟    〈中村竹洞の一蝶評価は狩野常信・土佐光起・松花堂昭乗に匹敵すると。因みに和画の「上上品」は該当者なし。「上     中品」は探幽、「上下品」は宗達と光琳となっている。一蝶はこれに次ぐ「中上品」なのである。因みに唐画の「中     上品」は、望月玉蟾・章甫(丹羽嘉言)・玉畹梵芳〉   〝能画無俗気者    兆典子 玉蟾 雪舟 蕪村  探幽 寒葉斎 宗達    光琳  若冲 常信 太郎庵 光起 友松  一蝶    〈世俗を画いて俗気なし。俳画の妙所はここにある。中村竹洞の一蝶評である〉
   古今画人品評    ☆ 文化元年(享和四年・1804) ◯『大尽舞考証』〔燕石〕⑤239(山東京伝著・享和四年正月序)   (「大尽舞」の歌詞)   〝扨其次の大尽は奈良茂の君でとどめたり、(中略)附添たいこはたれ/\ぞ、一蝶民部にかくてふや(以    下略)〟    〈一蝶は大尽・奈良茂の取り巻き連として扱われている。「民部」は仏師、「かくてふ」は角蝶、俳諧を其角に学び、     画を一蝶に学んだ村田半兵衛である。前出『江戸真砂六十帖』参照。この山東京伝の考証では一蝶を〝世上に普くし     る所なれば〟として記さず〉  ◯『近世奇跡考』〔大成Ⅱ〕(山東京伝著・文化元年刊)   ◇「六尺袖」の考証 ⑥271   〝一蝶が四季絵跋に、髪のつとゑりをこえず、えり袖大路をすらずと書しも、延宝、天和の頃と、享保の    頃と大に風俗のかはりたることをいへるなりかし〟
  ◇「一蝶宗珉に贈る文」の項 ⑥338    (書簡に蝙蝠の図と文あり。文面未詳)   〝右書中かはほりの図は、ほりものゝ下絵なり。横谷宗珉、曾て一蝶が下絵をもつてほりものとしたる事、    人の知る所なり。一蝶が手紙、世におほしといへども、是等はことに珍とすべし。もとより嵩谷翁の鑑    定をへて、正筆のものなり〟    〈一蝶の書簡と称するものに偽物も多いのだろう。高崇谷の鑑定を仰いだのもそのためか〉   ◇「英一蝶大津絵讃 縮図」⑥350   〝此絵は一蝶が筆にあらず。常の大津絵に一蝶賛辞をのみかきつけたる也     (模写あり)山東軒所蔵    右絵の上に左の如く賛辞あり     大津絵に負なん老の流足        英一蝶讃(花押)〟
  ◇「英一蝶の伝」⑥356   〝諸書にのする所誤すくなからず。且もらせる事おほし。案るに、一蝶、承応元年摂州に生る。父を多賀    伯菴と云。某侯の侍医なり。一蝶、寛文六年十五歳の時江戸に下り、狩野安信を師とす。姓は藤原、多    賀氏、名は信香、一に安雄、幼名を猪三郎と云。後に次右衛門といひけるよし、〔望海毎談〕に見ゆ。    或云、助之進、剃髪して朝湖と称す。翠蓑翁、牛丸、暁雲堂、旧草堂、一蜂閑人〔割註 後門人にゆづ    る〕、一閑散人、隣樵菴、鄰濤菴、北窓翁等の諸号あり。書を佐玄竜に学びて、後一家の風をかきて書    名あり。俳諧を芭蕉に学び、其角、嵐雪等と交りふかし。俳号を暁雲、又和央〔洞房語園〕と云。元禄    十一年十二月〔割註 元禄八年トスルハ非ナリ〕呉服町一丁目新道に住し時故ありて謫せらる。時に年    四十七。謫所にある事十二年。宝永六年九月〔割註 宝永四年トスルハ非也〕帰郷して後英一蝶と称し、    北窓翁と号し、深川長堀町に住ぬ。〔人物志〕享保九年甲辰正月十三日病て歿せり。享年七十三。二本    榎承教寺〔日蓮宗〕塔中顕乗院に葬る。法名英受院一蝶日意。    辞世  まぎらかすうき世の業の色どりもありとや月の薄墨の空     英一蝶 ──┬── 門人養子師家を続く 一舟【名信種、号東窓翁、俗称弥三郎。明和五年正月廿      ┌────┘                七日歿】     ├─ 男二世 一蝶【名信勝、俗称長八】      └─ 次男  一蜩【俗称百松、又源内、一説ニ号孤雲】          嵐雪〔その袋〕花に来てあはせばおりの盛哉   暁雲     同      朝寐して桜にとまれ四日の雛   同     〔温故集〕 戸塚にて 此みぎりひだり鎌倉すぢ堅魚(カツヲ) 同    此余画讃の文或は句あまたあり。記しつくすべからず。    深川霊巌寺の後、海辺新田に、宜雲寺といふ禅院あり。一蝶帰郷して後、しばらく此寺に住みけるよし、    寺中の絵障子のたぐひ、すべて一蝶が筆なり。ゆゑに、世人一蝶寺と云。其絵、ちかごろの回禄にほろ    びしとぞ。一蝶の母剃髪して妙寿と云。一蝶謫居にある間、友人横谷宗珉の家にやしなふ。一蝶帰郷し    て後、六年をへて、正徳四年三月晦日歿せり〟    〈随筆『望海毎男』を「国書基本DB」は著者・成立年とも記載なし。『洞房語園』は庄司道恕斎著、元文三年序のも     のか。「人物志」は明和六年刊『古今諸家人物志』。不審なのは、京伝は「人物志」を引きながら七十三歳没として     いるが、同書は七十一歳とあること。嵐雪編『その袋』は元禄三年の自序。蓮谷編の『温故集』は延享五年刊〉   ◇「朝妻船の讃の考」⑥357~360   〝朝妻船讃 隆達がやぶれ菅笠、しめ緒のかつらながく伝りぬ。是から見ればあふみのや。     あだしあだ波、よせてはかへる浪、朝妻船の浅ましや。嗚呼またの日は、たれに契りをかはして、     色を、枕はづかし、偽がちなる我とこの山、よし夫とても世の中  北窓翁一蝶画讃    〔割註 右の文、世にうつし伝ふる所、あやまりおほし。今柳塘館所蔵の正筆を以てうつし出す〕    (以下、讃と小唄の詞の典拠を考証している。本稿では一蝶の絵に関する記述のみ挙げておく)   〝其角が句に      柳には鼓もうたず歌もなし    〔五元集〕にあり。おもふに、是も一蝶が絵に讃なるべし。(中略)かの朝妻舟の絵につきては、あら    ぬことゞもを云ひ伝ふるといへども、もとよりのそら言なり。人に見知りたる、船のうちに、くゞつ女    の烏帽子水干着たるかたをば、一蝶晩年にかきたり。始は只、小舟のうちに烏帽子つゞみなどとりちら    したるさまをかきけるとぞ。〔割註 以上、一蝶がながれをくむ、某の翁、其の師某のかたりつたへた    ることゝて、みづから筆記せる説なり。(以下略)〕〟   〝〔焦尾琴〕に、あさづま船に鼓を入て月を見侍る女の、水干に扇かざしたる絵にもかきて、      おもふ事なげふしはたれ月見船   其角    〔割註 これらの一蝶が絵の賛なるべし〕〟    〈「朝妻船」の図像も年齢とともに変化したという話をした「某」と「某の師某」とは誰のことであろうか。「柳塘館」     は大田南畝と親密な交渉をもった幕臣の蔵書家・竹垣庄蔵(柳塘)のことか。其角の句集『五元集』は延享四年刊、     『焦尾琴』は元禄十五年刊〉 ◯『大尽舞考余』〔燕石〕⑤252(谿舎龢山人補・成立年未詳)   〝〔一蝶〕多賀長湖と云よし、諸分名女煙草に、正徳年中の刻、波賀長歌など、至りな末社共が、万能に    達して、仕て取た跡なれば、さりとはむづかし、別に波賀長歌とも云たるにや、百人の美婦を刊本に造    りし故、一蝶、民部、角てふ、遠島〟    〈『大尽舞考余』は山東京伝の『大尽舞考証』を補ったもの〉    ☆ 文化二年(1805) ◯『墨水消夏録』〔燕石〕②253(伊東蘭洲著・文化二年六月序)   〝一蝶寺并伝     深川高橋黄竜山宜雲寺を、世に一蝶寺といふは、一蝶島より帰る時に、暫此寺に居、杉戸、屏風、掛物    等迄、悉一蝶が画なる故也、一蝶、本姓多賀、承応元年摂洲に生る、父は多賀伯庵といふ医者也。寛文    六年、十五歳の時、江戸に下り、画を好て狩野安信を師とす、名は信香といふ剃髪してより潮湖と称す、    後一家をなせり、書を佐々木玄竜に学び、俳諧を嗜て芭蕉にしたがふ、翠蓑翁、牛丸、暁雲、旧草堂、    隣松庵、隣濤庵、北窓翁等の称あり、性胆勇なれども、母につかへて孝あり、島より帰りて、其画ます    /\世に行はる、島に流されしは元禄六年十二月八日、三宅島に流さる、この時、本銀町三丁目村田平    兵衛、本石町四丁目仏師民部三人、百人女﨟といふ書物一冊、本屋摺出しぬ、これは、諸大名方奥形の    器量の好不好、其品々を明白に書たり、よりて詮議の上、右三人遠島となる、宝永六年に大赦にあひ、    帰国せり、島に居る間も、画を母に贈りて、衣食、小遣に充しとなり、一蝶母の名を妙寿といふ、一蝶    謫せられし後は、其友人横谷宗珉、檜物町の宅に養はる、一蝶肝勇なることは、或時、両大国の君、石    燈籠を争ひもとめ給ふと聞て、やがて走行て、数多の金を出しておのがもとめて、狭き庭のうちにうつ    しける、折しも、初茄子を売ものあり、価の貴をいはず需て、生漬といふものにして喰ひ、かの燈籠に    火をともし、天下第一の歓楽なり、といへり、其磊落豪放、凡此たぐひとぞ、或人云、島にありしとき、    ある朝、草花に蝶のとまりしを見居ける内に、赦免の船来りしかば、これより一蝶と改とぞ、文雅も有    し人故、其遺文、又発句、画賛等もあり
     朝清水記【島にありし時の作なり】     唐土に貧泉あり、和朝に紀の路に毒水あり、近江の也醒ヶ井、関の清水、大原也清和井、朧の清水な     ど、代々の歌人の、めでたき言のはのこゝろふかし、されば、往昔の伶僂人も、我が此島の浪のはな     れ鵜と、はなたれ来らずや、灘の塩焼蜑の衣はきても見ずや、のこれる歌枕もなく、とゞまれる日記     も見えず、ひたすらに神のうみ給へる島のそれがまゝの名所とて、まさきのかづらつたへきぬれば、     鳥の跡せし文字もさだかならず、山木森々たれども流るゝ河もなく、湛たる池もすくなし、一島水か     れて、只岩もる雫の、雨の朝の潦喝をしのべる便となれり、実や公のかしこき掟、殊にかく罪あるを     遷さるゝ地、宜なる哉、中に就て、我が住阿古の浦山は、猶あまさかる鄙の夷中路、漁樵交り隣すれ     ども、貢の塩の跡にたぐえて、朝なゆふなの烟みじかく、夜寒の床の明ることながし、然ば到景五村     に秀て、朝瞠ば天の原富士の高根、いくしま山の遠に聳へ、白扇を逆にかくる東海の天、と隠士丈山     子の詩にて聞く、法顕三蔵の、五尺に漢朝扇を見たりし心をかよひて、故郷に詠めなれし形見は、此     山のすがたばかりぞと、潮に泪にひぢまさる袂もうち覆ふ間に、浪の烟立ふたがれる雲に、髣髴とし     て見へず成もて行、已に夕陽浪にひたせるころ、富賀、今崎の釣をぶね、をのがじゝいどみあひて、     家路にかへる欸乃の声、心をいたましむる媒となれり、猿あらば叫つき、山峡後に峙つ、鶴あらば巣     つき、怪松門に存せり、月雪の眺望、あはれ罪なくて見まほし、松の木はしら、竹ある垣、不破には     あらぬ茅庇、荒行まゝに守り捨て、夏待つやどのなり瓢、雨に軒ふくいよすだれ、庭にちかき岩嶂に、     藤蘿をつたへる飛瀧を見つ、是や嵇康が山沢の水に、元微之が黄州の竹をもとめて、昼夜をすてぬ筧     をうけたり、杜子美が浣花渓に謫せられて、奴僕が運ぶ巫峡の水、消渇之疾を安じて、竹竿濃々とし     て細川流、と作れるなど、坐(イナガラ)流泉啄木の曲、枕に伝ふ、松のあらし棘が中をくゞる、水のみ     さほにおつる竹の滴、彼に恥、是を友とす、予は本武陵画工の庸人、されば三日詩をいはざれば口荊     棘を含と、年月の手なれ草も、忘草に根をかへて、朽木書の跡のごとくに、きえもて行もはかなしや、     せめてはと、巨勢千枝の古き跡を、たづねまほしきに、彩種覔るに疎ければ、丹青器に画き、紙墨机     に絶ぬ、高然暉が重れる山、季唐が野飼の牛も目前に見、傍になれ行ふことの静なるにつけては、捨     べき時に術をも得ぬべき、それは齢半百に向(ナンナン)とし、懶惰日にそひてまさり、斧をとり、鍬をも     つ勢ひもなければ、しばし世わたることわざに、鄙吝欺言の商家となりて、軒一宇の廥(クサグラ)を築     き、その中に陶朱公が富貴をこめて、伯倫が酒、陶潜が米をかさね、樵夫か糶に宛て、漁叟が簑に貸     侍る時は、徐福が船をたのみて、蓬莱に不死の薬を俟つ、捨る時は、孫晨が一束の藁をもたくはへず、     胡蘇台烏阿房宮狐の塒に空く、筧も竹くちたり、水は岩根のあるじとなりて、幾世絶ぬべき     埋むべきうき身はいかにながらへてけふまでむすぶ苔の下水      于時元禄壬午春      散人牛麿、執筆於阿古邑茅舎
      朝妻舟     あだしあだ波、よせてはかへる波、あさづま舟のあさましや、あゝまたのひは、たれにちぎりをかは     して、いろをかわして、いろを、まくらはづかし、いつはりがちなる、わがとこの山、よしそれとて     も世の中
     按ずるに、隆達が、破れ菅笠しめ緒方のかづら、ながくまはりぬ、これから見れば、あふみのや、      と前書したるもあり、元禄十六年板本松の葉のはうたの部に出、寛文十一年板本糸竹初心集に、破      れ菅笠やんや、しめ緒がきれて、いのならゑい、さらにきもせず、ゑひさんさ、すてもせず、中院      通勝入道也足軒の歌に、このねぬる朝妻舟の浅からぬ契りをたれにまたかはすらん、       おなじく     うきねつらさのまちつの山の風、ゆふこえくれてさゝを舟、あゝさだめなや、とこのうら波、友なき     ちどりちどり、たへぬおもひに月日をおくるも、あだ人ごゝろ、よしあふまでのうつりが、       おなじく     あだしあだなる身のうきまくら、ならはぬほどのとこのつゆ、あゝいくたびか、そでにあまれる涙の     色を、あゝたもとのいろを、みねのもみぢば、ひとりごがれて枕のなみだ、あはれと人のとへかし、       おなじく     うきをかたらん友さへなくて、なぐさめかねつわが心、あゝうつゝなや、すぎしつたへのその水ぐき     の、くろみしあとを見るにつらさの、いやますなみだはたれゆへぬるゝ、あわれとそでもとへかし、
      短夜の早歌     すみなす床の一構、鹿の投入ちがひ棚、梨絵(ナシヂ)の硯たま手匣、ふたり寐よとの ヤヨヤ 文枕、皆紅     の三ッ蒲団、くもをさそひて【〔傍注〕たたんで】うづ高く、一炉にたぎる松の風【合ノ手本調子】     ことにすぐるゝ【〔傍注〕いろある】さみせんの【〔傍注〕や】人たち帰る閨(ネヤ)のうち、折しく     莞莚(ゴザ)のかた/\に、語り残せしみじかよ、とてもねられぬうき枕、蚊屋の一重の薄月もる/\、     もれて淋しき【〔傍注〕や】終夜、ともに啼るゝほとゝぎす、      按ずるに、此歌、しのゝめ/\いつ夜が明た、といふ前の唱歌を、花都といふもの後に作り足し、      今はしのゝめといひ、又蚊屋つり草ともいふ、音曲集松の葉といふ双紙に、永唱(ナガウタ)の部に      のせり
      往時夢に似たり、さめたるにあらず、又うつゝにあらず、或日、螺舎其角とゝもに、       深川なる芭蕉庵に遊び、ゆふべ帰る途中の吟      たがかけのたがたがかけて帰るらん       螺子句にはづんで      身をうすのめと思ひきる世に       芭蕉も破れ、螺舎もくだけうせたるを、我のみ残る深川の今日思へば、はからざる世や【一蝶時       に六十九】
      戸塚にて      この砌ひだり鎌倉筋鰹【此句温故集にあり】
      大津絵川津俣野角力の画に      大津絵に負なん老の流足
      投節     待乳しづんで、こずへのりこむ今戸橋、土手の相傘、片身がわりの夕時雨、首尾を思へばあはぬ昔の     細布、どふ思ふてけふはござんした、そふいふことをきゝに      この時、奈良茂、紀文などに付添ひ吉原へ入こむに、いつも土手を行時は、これをうたひしとなん、     〔頭書〕投節、◯一蝶云、◯まつち沈んで、木末のりこむかぶろぶね、すあし自慢のかもめも寒し、      遠干潟、そなれ頭巾かわらたがやす今戸町、里出の落葉ちら/\と、舟路うかる角田は浮名、川が      よひしてつもる真土のやま/\、とやせんかくやと、里をしぐれのそめかねて、浅茅がはらに風そ      よぐ、◯右大田南畝先生ふもとの塵に見えたり
      画軸の跋      (*「英一蝶四季絵跋」のこと。『大田南畝全集』巻十八の「浮世絵考証」所収とほぼ同文なので、       省略した。寛政十二年五月以前の上記記事参照)
   一蝶帰国の後、宜雲寺の住僧へ、形見にとて、七十の齢にして、寺院の障壁にこと/\く画す。惜哉、    大水の時損じ、其後消失して今はなし、一蝶、享保九年【〔傍注〕正月十三日】七十三にて没す、墓は    麻布二本榎承教寺塔中顕乗院にあり、碑面に、英授院一蝶日意と記、〔頭書〕一蝶辞世、まぎらかすう    き世の業の花とりもありとや月の薄墨の空〟    〈遠島は元禄十一年が正しい。また、同時に謫せられた二名の名も異なっている。辞世の方も同様、『瀬田問答』とも     次項の『無名翁随筆』とも微妙に違っている。この「朝清水記」は『古画備考』所収の文と若干異なる。『古画備考』     の方が正確と思われる。以下『古画備考』の「朝清水記」を挙げておく〉
   「朝清水記」 ◯「序跋等拾遺」〔南畝〕⑱629(文化三年記)  〝一蝶画浅妻船に寄せて中車に送る扇面〟〝酔沙鴎一潮書〟    〈中車は役者市川八百蔵か。酔沙鴎一潮は南畝の仮号であろう。扇面に一蝶の自筆画があったわけではあるまい〉    ☆ 文化四年(1807) ◯『一話一言 巻二十五』〔南畝〕⑬464(文化四年十月上旬記)  (「英一蝶系図」の項)   〝【初 藤原信香多賀長湖 後 翠簑翁和央】 二代実子   弟子    弟子    弟子     英一蝶───────────────┬── 一蝶 ── 一舟 ── 一川 ── 一圭                      │   弟子    子                       ├── 一峰 ── 一蜒   │   弟子    弟子   └── 嵩之 ── 嵩谷    ☆ 文化五年(1808)  ◯『浮世絵師之考』(石川雅望編・文化五年補記)   〔「浮世絵類考論究10」北小路健著『萌春』207号所収〕   〝英一蝶    一蝶はもと多賀朝湖といふ絵師なり、姓は藤原、名は信香・和央・翠蓑翁・北窓翁・暁雲堂・牛麿の号    あり、呉服町一丁目新道に住せし頃、罪ありて元禄寅年十二月三宅島に流さる。時に四拾六なり、宝永    六丑年九月御赦免、江戸深川に住す。享保九辰年正月十三日没、七拾三、日本榎承教寺塔中顕乗院に葬    る      辞世 まぎらかすうき世の業の色どりもありてや月の薄墨の空  一蝶
    英一蝶四季絵跋    夫大和絵は、そのかみ土佐刑部大輔光信がすさみに、堂上のうや/\しきより田家のふつゝかなるさま、    岩木のたゝずまひ、やり水のめいぼく、これにはじまりて末/\にながれ、予が如きつたなきまでこれ    をもとゝす、近頃越前の産岩佐の某となんいふもの、歌舞白拍子の時勢粧をおのづから写し得て、世人    浮世又平とあだ名す、久しく世に翫ぶに、また房州の菱川師宣といふもの、江府に出て梓におこし、こ    ぞって風流の目をよろこばしむ、此道予が学ぶ所に非ずといへども、若かりし時、あだしあだ浪のよる    べにまよひ、時雨朝がへりのまばゆきをいとはざるころほひ、岩佐、菱川が上にたゝん事をおもひて、    はしなきうき名のねざしのこりて、はづかしの森のしげきことぐさともなれり、さるが中にあたりて、    謫居さすらへし事十とせにあまり、廿とせに近きを、ありがたき御恵のめでたきもとの都にかへりきぬ。    あるひとむかしの筆の四時のたわぶれ絵をふたゝび予に見す。其頃は心たくましく、眼すゞろに、髪筋    を千筋にわくることぐさも事たらざりけらし。しかし今の世のありさまにくらぶれば、髪のほどゑりを    こえず、ふり袖大路をすらず、たゞあまざかる田舎おうなの絵姿とも思ふべからん。蛍星うつりかはり    て、此一巻を見る事、浦嶋が七世のむまごに逢へるためしにひきて、かつはよろこびをそふるの心にす。    これがために跋す。  英一蝶書
    嵩谷がもとにこの絵跋ありしこと元木阿弥より聞しことあり、嵩谷は一蝶の門人にして、木阿弥はま     た嵩谷の弟子たり【画名 嵩松】〟    ☆ 文化六年(1809)  ◯『増訂武江年表』2p41(斎藤月岑著・嘉永元年脱稿・同三年刊)   (「文化六年」)   〝七月、深川宜雲寺に英一蝶の筆塚を築き碑を立つる(市野光彦文を選し、英一珪これを建つる。これは    一蝶寓居の所也し故なり)〟    ☆ 文化七年(1810)  ◯『楓軒偶記』〔大成Ⅱ〕⑲57(小宮山楓軒著・文化四年~七年成立)   〝画家英一蝶初ハ多賀東湖ト称ス。遠島ニ処セラレ、島ニテ生シ子ヲ島一蝶ト云フ。弟子ニ一蜂アリ。    〔割註 東湖万宝全書、作長湖、岡野行従曰、捃印補正、英一蝶、名信香、字暁、号簑翠翁、一号潮湖    斎、印ニ朝湖トアリ〕〟    〈「東湖」を「長湖」としている『万宝全書』はどの年代のものであろうか。「岡野行従」は岡野蓬原だが出典未詳〉  ◯『一話一言 補遺参考編三』〔南畝〕⑯435 (文化七年記) (「南畝が買いもらした奇書」の項)   〝予【南畝】生涯奇書をたしむ事甚し。家に蔵る処の奇書残本畸冊の類、書攤に得るもの多し。故にその    値を購ずる事ならずして、買失ひしもの胸臆の中に往来して、時々忘るゝ事あたはず。戯に其一二を書    つく〟   〝英一蝶が藤原信香の(一字欠)大神楽の画〟    〈南畝個人の好みか、江戸人共通の趣味か、一蝶画の人気は高い〉    ☆ 文化九年(1812) ◯『只今御笑草』〔続燕石〕③248(二代目瀬川如皐著・文化九年三月序)   (「山猫まわし 本名傀儡子」の項)   〝宝暦斎の句に、春雨や楽屋をかふるくわいらいし、その出立は能人の知れる者、英一蝶の画に見へて、 寸分違はぬもの也〟  ◯「書簡 212」〔南畝〕⑲266(文化九年十一月十六日明記) (この日、芭蕉以下蕉門の書画を夥しく所蔵する深川の〝こいや伊兵衛〟宅に一蝶画を見る。鯉屋は芭蕉 の門人杉風の子孫) 〝朝湖〈一蝶〉之朝顔之画に翁〈芭蕉〉之色紙などは奇々妙々〟  ◯『一話一言 補遺参考一』〔南畝〕⑯84(文化九年十一月記)   〈前項「書簡212」参照。深川鯉屋にて、芭蕉の〝朝顔にわれは食(メシ)くふおとこ哉〟の発句に、一蝶の朝顔画(紙地・    立軸)を一見〉  ◯『壬申掌記』〔南畝〕⑨566(文化九年十二月上旬記) 〝薛球、字君授といふものヽ彫し印を、英一蝶所持せし也。今三河町三文字屋に蔵す〟 ◯『南畝集 十八』〔南畝〕⑤281(文化十年四月上旬賦)(漢詩番号3768)    〈かつて一蝶が仮寓したという宜雲寺(一蝶寺とも称す)に、南畝、友人中井董堂と訪れ賦詩。ただし詩は一蝶と無関     係なので省略〉    ☆ 文化十年(1813)  ◯『骨董集』〔大成Ⅰ〕⑮375(山東京伝著・文化十年序)   (「耳の垢取」の考証)   〝英氏画譜にも耳の垢取の図あれども草画にて微細ならず、おもむきは此図(「耳垢取古図」)に異なる    ことなし〟    〈「英氏画譜」は鈴木鄰松摸写の『一蝶画譜』(明和七年刊)をいうか〉  ◯『万紅千紫』〔南畝〕①369(文化十一年頃の詠か?)  〝英一蝶がゑがける太神楽の賛   から獅子の舞はぬ先から里の子が   手の舞足のふむを覚えず〟    〈この〝太神楽〟の画は、前出『一話一言 補遺参考三』⑯四三五にある「南畝の買いもらした奇書」のことであろうか〉    ☆ 文化十一年(1814)  ◯『十方庵遊歴雑記』二編(釈敬順著・文化十一年記)   〝承敬(*ママ)寺地中顕乗院に名だゝる英一蝶が墓あり、此一蝶は承応元壬辰年摂州に生れ、幼年を猪三郎、    後に治右衛門或は助之進とも号す、父を多賀伯菴とて某侯の侍医とかや、寛文六丙午年一蝶十五才にし    て江戸へ下向し、狩野安信を師とたのみ狩野信香と名乗しが、後氏を返して多賀長湖とあらため、又一    蝶とも或は安雄とも、剃髪して潮湖斎と号し、又翠簑翁牛丸暁雲堂旧斗堂一蜂閑人【此一蝶をば後に門    人に譲れりと】一閑散人隣樵菴鄰濤菴小窓翁等の諸号ありて、書を佐玄龍に学びて、後又一家の風を書    入、俳諧を芭蕉菴桃青に学び其角嵐雪と交り深く、俳号を暁雲とも又和央ともいへり、元禄十一戊寅年    十二月日本橋呉服町壱丁目新道に住居せし節謫せらる、此年四十七才なりき、配所にある事十二年、そ    の間一蝶が母が朋友横谷宗珉引とりて養へり、斯て湖湖斎島にありしが、或朝草花に蝶の留りしを詠め    居し時、赦免の舟着岸せしかば吉瑞なりとて、是より英一蝶とあらたむ、画風一家をなし、母に仕えて    孝あり、宝永六己丑年九年赦免ありて帰郷しければ、画ます/\行はる、享保九甲辰年正月十三日七十    一歳にて病死す、島にて出生の二子あり、惣領長八を一蜂信勝と号し、二男を幼名百松後に源内とあら    ため一蜩孤雲と号す、画はおの/\親にも勝りしかど、野鄙にして実に島人なりけり、二子ともに世を    早ふし今残る画稀也、是を島一蝶と称し、又一説には親一蝶が島より母の衣食の料にとて送りし画は、    筆意殊に面しろく絵の具寂て一入よし、これを島一蝶と号るといふの両説あり、くわしくは古今人物志    に見ゆ、彼年より文化十一甲戌年にいたりて九十一ヶ年に及ぶ、墳墓二基ならべ建たり、左の如し。       英量院一舟日達  明和五年正月廿七日       英徳院一川日長  安永七年正月廿八日       量仙院妙寿日栄  安永六年三月上六日    此石碑の左の脇に一首の詠あり、      家も又本来空にかへるなり日にいさなへ(三字欠く)ふね  英一川
      本是院妙寿日量  正徳四甲午年三月三十日       英受院一蝶日意  享保九甲辰年正月十三日       建心院妙好日性  正徳三癸巳年十二月十二日    此石碑の左の脇に辞世の歌あり      まぎらはす浮世の業の色とりもありとや月の薄墨の空  英一蝶書       英覚院妙艶信女  寛政六年五月二日       英寿院一珪日仙信士(朱字)       英維院一暁信士  (朱字)    石のごとく石碑三本ならび建たり、此内逆朱に刻置し一珪といふは、今芝の土橋に住居して、右一蝶の    裔孫となん、又下谷に住る一峯一蜂一川等は、一蝶の弟子筋なりとぞ〟  ◯『読老庵日礼』〔鼠璞〕中132(老樗軒著・文化十一年記事)   (「三十六歌仙」の項)   〝勢州山田久保町一志正住太夫の家に、英一蝶著色の三十六歌仙の色紙あり。十八枚は多賀潮湖の款字あ    り。又十八枚は英一蝶の款字あり。此三十六歌仙は、一蝶流罪にて島にありける時、十八枚を写して、    帰島祈祷の為に写して、御師正住太郎におくる所なり。跡(ママ)の十八枚は、赦に遇ひて後、江戸に還り    写するところと云ふ。余、甲戌夏伊勢に遊び、目撃するところ也。英一蝶と称す事は、帰島以後の事な    るべし。江戸著聞集【馬文耕著】多賀潮湖、英一蝶といひけるは、島にながされて後、年をへて、ある    あした草花に蝶のとまりしを見て居けるとき、赦免の舟来りしかば、これより英一蝶とあらためしとい    ふ〟    〈「甲戌」は文化十一年。伊勢の御師、正住太夫家と多賀潮湖と英一蝶との関係はどのようなものであったのか〉    ☆ 文化十三年(1816)  ◯『近世叢語』(角田九華著・文化十三年刊・『日本画論大観』中1372)   〝英一蝶 為人豪放、市有奇石古龕、諸侯争且買之、一蝶即便馳往、傾槖取之、又覩新茄子、亦高価買之、    於是乃毎日古龕點火而噉茄子、傲然所人曰、此乃天下第一歓楽矣(原漢文)    (人と為り豪放。市に奇石の古龕有り、諸侯争ひて且(まさ)に之を買はんとす、一蝶即便(すなはち)馳    せ往き、槖(フクロ)を傾け之を取る。又、新茄子を鬻ぐを覩る、亦、高価にて之を買ふ。是に於て乃ち毎日    古龕に火を点じ茄子を噉(くら)ひ、傲然として人に謂ひて曰く、此れ乃ち天下代一の歓楽なりと)〟  
  〝英一蝶 本氏多賀、摂津人、遷居江都、初学画狩野安信、称狩野信香、後又復本氏、更名長湖、号翡翠    翁、別号暁雲北窓翁、画風為一家、名高一時、性豪放而事母致孝、元禄中有故謫於八丈島、恒贈画母許、    使衣食無之、居数年得反江都、其遭赦時、会視一蝶止草花上、由是更姓英名一蝶、其画益行、與俳歌人    其角親善、享保九年、七十一歿、子信勝号一蜂、又善画(巻六豪爽)(原漢文)    (英一蝶、本氏多賀、摂津人、居を江都に遷し、初め画を狩野安信に学び、狩野信香と称す、後、又、    本氏に復し、名を長湖と更へ、翡翠翁と号す。別に暁雲北窓翁と号す。画風一家を為し、名一時に高し。    性豪放、而して母に事(つか)へ孝を致す。元禄中故有りて八丈島に謫さる。恒に画を母許に贈り、衣食    をして乏しく無からしむ。居ること数年、江都に反るを得る、其の赦に遭ひし時、曾(すなは)ち一蝶の    草花上に止まるを視る、是に由りて姓英、名一蝶と更ふ。其の画益々行はれ、俳歌人其角と親善なり。    享保九年、七十一歿、子信勝一蜂と号し、亦、画を善くす)〟   〈国文学研究資料館「新日本古典籍総合データベース」に『近世叢語』文政十一年版の画像あり〉    ☆ 文政元年(文化十五年・1818)  ◯『瓦礫雑考』〔大成Ⅰ〕②165(喜多村信節著・文化十五年(1818)刊)   (「遊女が粧(ヨソホヒ)」)   〝いにしへの江口神崎などの遊女は皆小袿(コウチギ)着たりと見ゆれど、後世の遊女はしからず。岩佐又兵    衛が画、その後は菱川師宣・英一蝶が画にも、なほ遊女に打かけ着たるはなし。それらの絵にも稀には    打(ウチ)かけ姿かけるも見ゆれど、皆内に居る体(テイ)也。外(ト)に出たるは必ずうへに帯しめたり。より    て思ふに遊女が小袖を打かけ着たるは、褻(ケ)のことにて晴(ハレ)にはせざりしを、今は武家の婦人の打    かけのごとく礼服とせしは、粗(ホボ)僭上(センシヨウ)の義とやいはまじ〟    〈近世における岩佐又兵衛・菱川師宣・英一蝶の受容は、絵画としての鑑賞用であるとともに、風俗考証の資料として     も活用されている。彼らの絵は当世を写す浮世絵だとする了解がそこにはあったのである〉  ◯『凌雨漫録』〔大成Ⅲ〕⑧148(著者未詳・文化文政期成立)   (「榎本其角」の項)   〝詩を大巓和尚に学び、書は佐々木玄竜に学び、画は一蝶に学ぶ〟    ☆ 文政二年(1819)  ◯『半日閑話 次五』〔南畝〕⑱205(文政二年十月記) (杉本茂十郎旧宅、恵比須庵の書画目録)   〝松竹梅の間 同 抱一筆    袋戸、松竹梅、同筆。釘隠、鶴亀松竹。床掛物、一蝶、飛獅子〟    〈これは南畝の実見記事ではないようだ。杉本茂十郎とはこの年冥加金不正で役職剥奪された人。庵は元料亭を贅を凝     らして改装したもので、大雅堂、応挙、嵩谷、酒井抱一、谷文晁らの絵画で飾られていた〉  ◯『一話一言 補遺参考編三』〔南畝〕⑯493(年月日なし)    〈南畝、「川岡氏筆記」より英一蝶関係の記事を書写。記事は、一蝶流罪の原因が、将軍綱吉と寵愛のお伝の方を画い     たとされる「百人女臈」の絵にあるのではなく、一蝶の無益な殺生にあるとするもの。が、真相は謎のようだ。「瀬     田問答」にもあるように、流罪の穿鑿は南畝の関心事で有り続けたようだ〉  ◯『麓の塵 巻三』〔南畝〕⑲510(年月日なし)  〝短夜の早歌 北窗翁一蝶事 和央作〟  〝一蝶の小歌 右は一蝶の花の歌なりと井上蟻雄の物がたり也〟    〈一蝶の和央名で詠んだ歌詞二点、南畝書写。井上蟻雄は南畝の友人であろうが未詳〉  ◯『麓の塵 巻五』〔南畝〕⑲517(年月日なし)  〝四季絵跋 英一蝶〟    〈『浮世絵考証』参照。全文書写あり〉  ◯『続三十輻 巻九』〔南畝〕⑲554(年月日なし)  〝朝清水記 英一蝶〟    〈『続三十輻』は南畝の和文関係の写本叢書。元禄十五年(1702)刊の「朝清水記」もこの叢書に所収。南畝は一蝶を     音曲の作詞家としても高く評価しているようだ〉  ◯「杏花園叢書目」〔南畝〕⑲497(年月日なし)  〝続三十輻 二集 朝清水記 英一蝶〟    〈「杏花園叢書目」は南畝の蔵書目録。前項と同じものである〉      〈南畝の個人的興味なのか、それとも江戸人共通の関心なのか、流人画家・英一蝶に関する書留は多い。絵はもとより     その生き方まで注目された絵師というのも珍しいのではないか。蛇足ながら言えば、天明四年刊、四方山人(南畝)     作の黄表紙に「此奴和日本」という作品がある。挿絵は北尾政美が担当した。その中に一蝶の掛け軸「女達磨」の絵     が床の間に掛かっている場面がある。この「女達磨」は吉原・中近江屋遊女半太夫をモデルにして一蝶が画いたとさ     れ、彼の代表作「朝妻船」に匹敵する人気の高い絵柄であった。これをさりげなく黄表紙の挿絵に登場させたアイデ     ィアは、はたして南畝のものなのか、政美のものなのかよく分からないが、いずれにせよ、一蝶が江戸人の脳裏から     離れることのない存在であったことは確かなようである〉    ◯『増補和漢書画一覧』聚文堂主人編 聚文堂版 文政二年刊   (早稲田大学図書館「古典藉総合データベース」)   〝一蝶(イツテフ)    英氏、本姓多賀、名ハ信香、号一蝶(一字不明)暁雲 北窓翁 蓑翠翁等ノ号アリ。初名潮湖、画ヲ狩    野安信ニ学ブ。後一家ヲナス。摂州ノ人、江戸ニ住ス。元禄中八丈島ニ配流セラル。後赦ニアフ。俳人    其角ナド其友ナリ。子信勝、号一蜂、多賀長八郎ト称ス。又門人信種、号一舟ヲ子トス。一舟ノ男ヲ一    川ト云。〈以下欄外の朱書き〉    一蜩、一蝶ノ二男、名百松、号孤雲、通称源内〟  ☆ 文政五年(1822)  ◯『藤岡屋日記 第一巻』①307(藤岡屋由蔵・文政五年(1822)記)   〝文政五壬午年                   御留守居、柳生主膳正同心                        喜十郎事  大野応助 午四十四歳    右之者儀、九月廿五日遠島被申渡、同年十月廿五日八丈島へ流罪。     此者、八丈島の長菊池何某に英一蝶が源氏の絵画し婦人の帷子を貰ひ受、文政十年春の頃、     江戸ニ在し婦なるものゝ方に送りけるをこひ求て、其品々をわかちやるものハ、     空蝉・夕霧・椎本                佐野肥前守     夕顔                      牧野伊予守     小蝶                      能勢靫負佐     鈴虫                      酒井但馬守     橋姫・浮舟                   大島飛騨守     明石                      平岡越中守     桐壺                      村越伯耆守     須磨                     中島三左衛門     榊                     根岸九郎左衛門     若紫                      関  伝悦     箒木                      菅沼 林斎    右家々の宝と珍蔵するもの也。     文政十丁亥年六月                  成着記      元禄之頃、御船手逸見八左衛門記録之内書付あり、左之通り。                   呉服町壱丁目新道 勘左衛門店      北条安房守掛り      多賀 朝湖 四十二歳     元禄六年酉八月十五日入。      是は御詮議之儀有之候ニ付、安房守宅より揚屋入。    右之者、元禄十一年寅十二月二日三宅島へ流罪、御船手逸見八左衛門方ぇ渡ス。                    本石町四丁目、茂左衛門店     【宝永六、九月大赦依而帰国】           仏師民部                    本銀町二丁目、治郎左衛門店                             村田半兵衛     元禄六年酉八月十五日入。      是ハ朝湖一件之者ニ而御詮議有之候間、安房守方より揚屋ニ入。    右之者共、元禄十一年寅十二月二日、八丈島へ流罪、御船手逸見八左衛門へ渡ス。  
      英一蝶之伝并系図     一蝶が伝、諸書ニ記すを見るに、大ニ誤る故ニ今其実を記す。     一蝶は浮世絵師にあらずとも、時世の人物を画き、元師宣が画風より出たるを以てしばらく浮世絵師    ニ列す。     英一蝶は承応元年壬辰摂州ニ生ル、姓ハ藤原多賀氏、父は医師なり、名を伯庵といふ、一蝶十五才之    時江戸ニ来リ、狩野安信の門となれり、名ハ信香、一に安雄、幼名猪三郎、後次右衛門或ハ助之進とい    ふ。朝湖と号す。     翠蓑翁   牛丸 幼名と云ハ非也     暁雲【俳諧の名也/暁雲堂といふ】   旧草堂     一峰閑人 後門人ニ譲ル   一閑散人     隣樵庵   鄰濤庵   北窓翁    書を佐々木玄龍に学び、後一家の風をかけり、俳諧は芭蕉の門人にして其角・嵐雪と友たり、俳諧の名    を暁雲又ハ和央といふ【一作和応、又一説ニ和翁と云ハ別人なりといふ】、花街に於て呼し名なりとい    ふ、又薛国球、君受等の印あり、元禄十一戊寅年十二月【元禄八年トスルハ非也】呉服町壱丁目新道ニ    住居ス、謫セラルヽ時ニ年四十七、謫居ニある事十二年、宝永六己丑年九月【宝永四年ハ非ナリ】帰郷    せる、其後英【一説花房母の姓也】一蝶と称し、北窓翁と号す、深川霊巌寺のうしろ、海辺新田ニ宜雲    寺といふ寺あり、此寺ニ住けるよし、一蝶が筆多く残れりとて、世の人一蝶寺と言しとぞ、英一蝶、享    保九甲辰年正月十三日没す、行年七十三、日本榎日蓮宗承教寺塔頭、顕乗院ニ葬、墳在。      法名、英受院一蝶日意。       辞世        まぎらかす浮世の蘭の色どりも          ありとや月の薄墨の空     一蝶に老母壱人あり、剃髪して妙寿と云ふ、一蝶謫居ニある間、蝶が友人横谷次兵衛宗眠が【宗眠ハ     檜物町の居住なり】家ニやしなわる。     正徳四甲午年三月晦日没す、顕乗院ニ葬。      法名、本是院妙寿日量。  
    高嵩谷蔵板 英氏系図之略      英一蝶 ──┐                門人、養子続師家      ┌───────┴──────────────── 一舟 名信種 │ 二代目                    号東窓翁、俗称弥三郎 ├── 一蝶【名信勝、俗称長八】         明和五年正月十七日没す      │                        顕乗院ニ葬       │ 三男      └── 一蜩【俗称百松、後源内、一説狐雲】            一蝶晩年門人       一水 後嵩之ト更ム、本姓佐脇、名道賢、字子岳、号昇々観、号中岳堂又東宿一翠斎等の号アリ、          俗称甚内、明和九年七月六日没、年六十六。      門人          門人       一蜂 号春窓翁     高嵩谷      嵐雪撰 其袋【元禄三年の板に一蝶が句あり】          花に来てあわせはおりの盛かな     暁雲          朝寐して桜にとまれ四日の雛      同      自画讃の句余多あり、挙尽しがたし     一蝶に小歌の作多し、元禄六年板松の葉ニのする、しのゝめと言ふ小歌は一蝶の作なり、洞房語園ニ    ハ、ミじか夜の甲歌、一名かやつり草と名付而是をのせたり、朝妻船の讃も其頃ふしをつけてうたひけ    るに、松の葉にハうたの部ニのせたり、宝永の頃之写本吉原つれ/\といふものニ、かやつり草などの    朝湖が歌とぞ、又あわれなることおほかんめれと云々、或説ニ一蝶声がら能て、ミづからも小歌をうた    ひけるよし、老人に成ても紀伊国屋文左衛門などニつきて、花街ニのみくらしたとなれば、さもあるべ    し。     三谷何某、一蝶謫居より母の許へ贈りし絵を蔵す、謫居の趣をこまやかニ画きたるなり、横谷宗眠    (珉)が家に残りし物とぞ。  
      朝清水記     唐土ニ貪泉あり、和朝に紀の路の毒水あり、近江かや、醒が井関の清水、大原や清和井・朧の清水な    ど、代々の歌人のめでたき言の葉のこゝろふかし、されバ往昔の伶俜人も、我此島の浪のはなれ鵜とハ    ミなたれ来らずや、灘の汐焼、蜑の衣ハきても見ずや、残れる歌枕もなくとゞなれる日記も見へず、ひ    たすらニ神の産給へる島のそれか、満々之名所とれ、柾のかづら伝へきぬれど、島の跡せし文字も定か    ならず、山木森々たれども流るゝもなし、湛たる池もてもてなし、一島水涸てたゞ岩もるしづく、雨の    あしたの潦濁(ニハタズミ)を忍つるたよりとなれり、実にや、おほやけの賢きおきてごとニかく罪あるをう    つさるゝ地、宜なる哉、中ニ就て我すむ阿古の浦山ハ猶あまさかる鄙の夷中地(イナカジ)、漁樵交り隣す    れども、貢の塩の跡にたぐへて、朝な夕なの煙りミぢかく、夜寒之床の明ることなし、然はあれど、致    景五村ニ秀で、朝ニ晴れバ天の原富士の高根、幾島山の遠に聳え、白扇を逆ニかくる東海の天と、隠士    丈山が詩ニも曾て聞、法顕三蔵の五天ニ漢和の扇を見たりし心ニ通ひて、古郷にハ詠ね馴しかたミはこ    の山のすがたばかりぞと、湖ニ涙ニひぢまさる袂も打覆ふ間ニ浪の煙立ふたがれる雲ニ髣髴として見え    ずなりもてゆく、すでに夕陽浪ニひたせるころ、冨賀・今崎の釣舟おのがじゝいどミあひて、家路ニか    へる欵乃の声心を労しむる媒ともなれり、猿あるハ叫べき山峡うしろニそばだち、霞有バ巣くふべき怪    松門ニ存せり、月雪の眺望なけれ、罪はくしてミまほし、松の木柱竹を編る垣、不破にはあらぬ茅庇、    あれゆくまゝに守り捨て、夏待宿の生飄、雨ニ軒ふくいよすだれ、簾ニ近き岩嶂ニ藤蘿を伝へる飛瀑を    ミつ、是や嵆康が山沢の水ニ、元芝が黄州の竹をもとめて昼夜を捨ぬ筧をうけたり、杜子が浣花渓に謫    せられて、奴僕が運ぶ巫峡の水、消渇の疾をあたへて竹竿濃々として細川流るゝと作れるなどあらまし、    流泉啄木の曲枕ニ伝ふ松の嵐、蕀の中を潜る水、みさほニ落る竹の滴り、彼ニ恥彼を友とす、予ハ元武    陵画工の庸人、されバ三日詩をいわざれバ口荊蕀を含み、年月の手なれ草も忘草ニ根をかへて、朽木が    き跡の如くにきえもてゆくもはかなしや、せめては巨勢千枝の古き跡を尋ねまほしきに、彩種求るニ疎    ければ、丹に器に尽き、筆紙机ニ絶ぬる、高然暉が重ねる山、李唐が野飼の牛も目前ニ視、傍ニ馴行ふ    事の静なるニつけては、捨べき時ニ術をも得ぬべき、かぞふれば齢半百ニ何(ナン)々として、懶惰日々ニ    添ひて増り、斧を取、鍬をうつ勢ひもなければ、しばし世渡るたつきとて鄙吝欺言の商家ニなりて、僅    ニ一字の廥を開き、其中ニ陶朱公が富貴をこめて、伯倫が蓑ニ貸侍る時ハ、徐福が船をたのめて、蓬莱    ニ不死の薬を待詫る時、孫晨が一束の藁をも貯へず、胡蘇台烏棲て阿房狐の塒ニ空し、筧も竹も朽なバ    水は岩根の主となりて幾世へぬべき。         埋むべきうき身はいかにながらへて            けふまでむすぶ苔の下水       于時元禄壬午春           散人牛麿執筆                              阿古邑茅舎     右、朝清水記一巻、牛麿散人とハ画工英一蝶が遠き島辺の栖ニ於て書つらねつゝ、不二の画ニそへて    伝へたり、多賀孤雲【一蝶の孫也、或ハ二男といふ】のもとより写し得られしよし、武済のぬしの箱に    ひめ置れけるを写置ものなり。  
     (「四季絵跋」省略)  
    これは一蝶の島よりかゑりけるのち、或人のもとめニよりて、むかし絵がき置たる四季の絵のおくに    書くわへたる言葉なれバ、こゝにしるしおきぬ                                             成著       帷子のゑりにしるせし応斎が詞     英一蝶ハ画法を狩野某に学ぶといへども、天性出群の才ありて、万世其妙を称す、そもいかなる故有    けるにや、おほやけの罪をおかして此島にはなたる、島にあるつれ/\に図しおけるを島一蝶と号して    至翫とす、此うすものニ画ける物、一蝶が筆跡なる、げにうたがふ所なきものなり、今此島の菊池某が    求に応じ、こゝにことはり侍る。                                             応斎     此応斎が言葉は、八丈島の長菊地なるものゝつまの帷子のゑりにしるし置たる也、此うすものゝきぬ    に源氏の巻々を絵がきける一蝶が筆ハ、其家ニ伝りしを、文政五とせの冬、かの島ニいたりぬる大野何    某ニ与へけるを、あづまニありしゆかりのかたニおくりけるときゝつ、こはおなじ十とせの夏の頃、是    をこひ得て見るに、物語の中の十四巻をかきわけたる画才、世の常の及ぶ処ニあらず、たちまちたれか    れとわかち求て家々之宝となせしもいと興ありて、めづらかなる中二も此夕顔の巻はことニすぐれて、    やさしくも猶あまりある筆の、それかあらぬかと露をふくめる花の光ニいとゞ黄昏の名ニあはれをそへ    ぬるも、かゝる妙手のなせる処と、ふかく感称するにたへず、かの一ひらのきぬをよそひて、予の家の    一珍ニそなへたるは、おなじとのミな月なり。        ほのミえてめづるもふかしふりし世の          たへなる筆のはなの夕顔                                      伊予守牧野成著 しるす   
    按ずるニ帷子のゑりニしるせし応斎が詞に、一蝶此島ニはなたるとあるはあやまりならむか、菊地ハ    八丈島の長なれバ、此島にはなたるとある時ハ、一蝶も八丈に謫せしかと聞ゆ、一蝶は元禄十一戊寅年    十二月二日、三宅島へ流され、阿古邑といへる処ニありしよし、ミづから作れる朝清水記ニも、我住阿    古の浦山とあるを見てもうたがふべからず、帷子ハ八丈島の菊地が家ニ伝わりし事疑ひなきものなり、    応斎が伊豆日記ニも、八丈島ニなら晒しの帷子ニ源氏の絵を墨のミニていとすこやかに袖にも裾にも残    る処なく絵書たるあり、又七福神の画、ゑびすの鯛をさし上げてまふ風情いとおかし、松の鶴の二幅対    抔ミな三宅島ニて書たる也とあれバ、帷子も三宅ニて書、八丈の菊地が方ニおくりけるなるべし。     又、古松軒が八丈筆記ニ、一蝶ハ八丈へも渡りしとて画残れりとあれば、もし八丈にて書たるものな    らんか詳かならざるなり、応斎といへるハ三河口太忠輝昌が別宅也。代官職ニて官命を受、寛政八年ニ    伊豆の七島を巡視しけることありて、其時しるせし文を伊豆日記と号し、公にもこち/\御覧ニ備へた    る事もありしなりとしられたり。                           成著〟    ☆ 文政七年(1824)  ◯『近世逸人画史』(無帛散人(岡田老樗軒)著・文政七年以前成稿・『日本画論大観』中)   〝英一蝶 始多賀朝湖、京師の人なり、父は伯菴、江戸に寓居す〔加藤氏書入に、父は石川主殿頭家中の    医士にて多賀白雲といふ、観嵩月話、古備三十四〕、始め画を狩野永真に学ぶ、後一家をなす、其名一    時に高し。故ありて配流せらる、其罪をしらず、まち/\の浮説あれども取るに足らず、其配流中写す    所といひ、伊勢山田久保一志正治太夫の家に三十六歌仙の像あり、始め十八枚には多賀朝湖の名あり、    是は配流中写して大神宮に奉納して帰島の事を祈れり、残十八枚は赦に逢ひて後東都に在て写す所、英    一蝶の款字あり、されば一蝶は帰島後の名なる事明かなり〟    ☆ 文政八年(1825)  ◯『仮名世説』〔南畝〕⑩529(文政八年一月刊)  〝英一蝶、晩年に及び手がふるへて、月などを画くにはぶんまはしを用ひたるが、それしもこゝろのまゝ    にもあらざりければ、     おのづからいざよふ月のぶんまはし〟    〈これは南畝が絵師高崇谷から聞いた挿話。しかし初代一蝶は享保九年(1724)七十三才没、一方、崇谷の生年は享保     十五年(1730)とされる。したがって二人に面識のあろうはずもない。崇谷にとってもこれは伝聞なのである。なお     この挿話が二代一蝶のことだとすると、二代目は元文二年(1737)四十七才の没(「江都墓所一覧」は元文一年没)     であるから、崇谷は当時六~七才。相識の可能性もないではないが、「仮名世説」に取り上げられた他の人物の知名     度や、発句の引用などを考慮すると、この挿話はやはり初代一蝶のものと見なしてよいのだろう〉  ◯『花街漫録』〔大成Ⅰ〕(西村貘庵編・文政八年序)   ◇「安聰袖裡一蝶画文山之讃【絹地竪八寸二分横二尺六分】」(模写あり)⑨325~331     (梅の図に)〝香遠裳〟〝北窗翁一蝶画(篆字印あり不詳)〟    「同袖裡【竪八寸壹分横壱尺二寸】」     (牛牽く童子の図)〝若紫出重(一字不明)那良者引仁安加寸(「文山」印の讃)〟              〝北窗翁一蝶画(篆字印あり不詳)〟
  〝元禄の頃安聰といへる豪富の商家あり。紀文一蝶其角文山などゝ友たり。常にこの里に遊びて京町壱丁    め三浦屋孫三郎か抱遊女若紫に深くむつびにけり。ある時きぬ/\のあした、いとさむかりしを、若紫    がせつなる心にや、是をとておのが小袖をいだしたるを其侭きて帰りけるに、袖のせばさに白きかひね    りを袂にはきて、安聰下着とはなしたると也。其頃揚屋町海老屋次右衛門が宅にて、一蝶かの下着の袂    に戯に墨画をゑかきしかば、とりあへず文山讃をぞなしたりける。こは古今集とものりの歌に君ならで    誰にか見せん梅の花色をもかをもしる人ぞしるといへるを含みて香遠裳とかきたるなるべし。また片袖    に遊女若紫の葉をたちいれたる戯の詞なるか。是より漢語めきたるさまにものせるなるべし。これらは    風とおもひつきたる事なれともなみならぬぞかし〟    〈豪商・紀文(紀伊国屋文左衛門)、幇間にして絵師・英一蝶、江戸の俳諧師・宝井其角、書家・佐々木文山。元禄の     吉原はさながら、文化サロンである。遊女の着物に即興の揮毫、よく行われた趣向のひとつなのであろう〉   ◇「竹村菓子箱絵」(「もなかの月」「まきせんべい」の図の模写あり)⑨349   〝(吉原江戸町二丁目、菓子屋竹村伊勢大掾の菓子箱絵の解説文に)此うつし絵をみかし入の箱折などに    はりつけもて印とはなしけり。こは狩野氏の画けるにて、ひとひらは英一蝶のものせる也〟    〈「最中の月」「巻煎餅」ともに、喜多川守貞著『近世風俗志』(嘉永六年成立)第二十編娼家下にいう「吉原名物」     の七品に入る。但し、「最中の月」の製造元は竹村伊勢ではなく、松屋忠次郎になっている。進物用でもあるらしく     〝正月遊客得意の家に往くに年玉の進物皆必らず之を用ゐ他品を贈ること之無し〟とある〉    ☆ 文政十二年(1829)  ◯『続道聴塗説』〔鼠璞〕中334(大郷信斎著・文政十二年記)   (「己丑漫録 第一編」)   〝白雨滑稽    此程途中俄に白雨に遇ければ、爰こそ古歌の場所よと、急ぎ路傍なる陋居に立入て、しばし茶煙を喫し    ける内に、青天となりぬ。其床に掛たる一幅を見れば、北嵩といふ画士が、英一蝶の図を模写せし雨や    どりの上に「いそがずばぬれまじ物を夕立の跡より晴るゝ堪忍の虹、東都滑稽作者六十五翁立川談州楼    焉馬」と題せり。余が今日の心境と符号せし事、一奇といふべし〟    〈立川焉馬の六十五才は文化四年に当たる〉    ☆ 天保三年(1832)  ◯『画乗要略』(白井華陽著・天保三年刊・『日本画論大観』中)   〝一蝶〔一峯、一舟、一川、嵩谷附〕    英一蝶、初の氏は多賀、名は信香、故へ有て、八丈島に流謫せらる。時に蝴蝶の草花に集まるを見て、    忽ち赦書有ることを聞きて、大に喜び、乃ち其の姓名を更(アラタ)む。摂津の人。徙(ウツリ)て江都に居し、    狩野安信に学び、稍々(ヤヤ)其の格を更む。人物花鳥を善くす。又、狂画に長して、奇情異思、愈々出て    愈々妙なり。毎(ツネ)に以て人の頥(オトガイ)を解く。其の島に在るや、島中の石及び木皮を択び、以て設    色と為す。後、赦に遭ひて帰る。其の技倍々(マスマス)進み大に世に行はる。    一蝶の子を一峯と為す。一峯の義子を一舟と為す、一舟の子を一川と為す。皆家学を能くす。近来嵩谷    なる者有り、其の法を学び、江戸に住す。浅草観音堂に頼政鵺を射るの図有り。設色高古、布置頗(スコ    ブ)る工なり、世に能手と称す     梅泉曰く「一蝶遠謫の日、朋友門生と別る、一蝶涙を垂れて曰く「今より海島中に謫居す、死生測る     べからず。又、数々音信を通ずること能はざるなり。塩蔵(シホヅケ)の鰺は島産なり。島人遠く江都に     鬻(ヒサ)ぐ。苟も苞(ツト)中に竹葉を挿さむ者有らば、則ち是れ我が保命の證なり。是に於て朋友門生     皆泣(ナミ)だ下る、後、或は塩鰺の苞中に竹葉を挿したるを見て、則ち其の恙無(ツツガナ)きを喜ぶ。後、     以て常となす。一蝶てに在りて、母を慕ふの情に堪へず、窓を北に開きて、名づけて望郷窓と曰ふ。     又、其の画を江都に貽(オク)り、朋友に託して以て母の衣食に給す。故に島中画、北窓翁を以て落款と     為す」と〟(原漢文)   ◯『思ひ出草』〔百花苑〕⑦204(池田定常著・天保三年序)   (「宝井其角之事」の項)  〝新吉原の茶屋何某、新に壁を張り英一蝶に桜花の山に満てる図を画かしめ珍賞しけるを、酔客の酒に酔   ひ、硯を求め、其画のあきたる所に小便無用と書きける。主人甚怒りけれど客の事なれば、兎角に忍び   たれども、張たて壁と云ひ、一蝶が画といひ、朝夕悔みけるが、其角来りたる時、是見給へ、かくのご   とく狼藉如何ともしがたしと言ひしかば、其角硯を求め、用の字の下に花の山と三字を題しけり。かし   らよりよみて見れば、      此所に小便無用花の山    といふ発句になり画賛には殊に面白しとて、いよい珍賞せりとなん〟  ◯『思ひ出草 続編』〔百花苑〕⑦304(池田定常著・天保三年序)   (「英一蝶の事」の項)   〝英一蝶は画工多賀長湖と称せしもの。罪ありて遠島せられ、姓名を更め、帰島の後英一蝶とて大に名は    発したり。其放自恣いふべきもあらねど、画は一代を圧し、其丹青之妙、杜工部が引なきこそ恨なるべ    し。はじめは狩野安信が門人なりしが、狩野氏の家法を守らざるにより門を逐われ、遂に一風を画きい    だせしあさづま船といふ図は、此一蝶はじめてかきたるとぞ。その遠流せられしは、当世百美人といへ    る帖をものし、是を梓行せし嫌疑にかゝりたるかたもありたるにより、罪には処せられし。今画をよく    する人のいへらく、一蝶画法をも破りたれど、その実は画家の英雄ともいふべく、尋常の迹を履み株を    守る器にはあらず。その画くものをみるに、一として古図に拠りたるはなく、皆新図にして彼の方寸よ    り、山水、人物、鳥獣、草木を生じたるなりとなん。張旭、懐素も素より古によりたるはなく、我が猩    々房、探幽斎も、古にもとづきたりといふにてもなければ、ひとり一蝶を罪すべからず。唯その才思に    まかせ、縦横自在をきはめ、あたりに画家なきの見解なれば、人またその縄墨の外に出たるを謗るもあ    んなれ。余が住か近く深川海辺町といふに宜雲寺といへる禅刹あり。こゝに一蝶寓居して、壁障子にゑ    がきし所今に存せり。因て世に一蝶寺といへり。今は取去る輩のために半あまりうせぬといへり。一蝶    寺とはその墓地にやといふものあれど、彼墓所は伊皿子の承教寺といへる日蓮宗の寺にあり。先のとし    百回忌の時、その門葉のものども打寄て法会をなし、人群集せりとなん〟    ☆ 天保四年(1833) ◯『無名翁随筆』〔燕石〕③283(池田義信(渓斎英泉)著・天保四年成立)   〝英 一蝶【一蝶ノ伝諸書ニ記スルヲ見ルニ、誤リ多シ、浮世絵師ト云ニモ有ラネドモ、時世の人物を画    キ、師宣ガ絵風ニ出タル事モ見ユレバ、暫ク浮世画に列ス】     姓藤原、多賀氏、【一英氏ト云、母ノ姓花房ト云】摂州大坂の人也、俗称助之進、父は医師也、十五     歳の時、江戸に来り、狩野安信【古右京養子、探幽、尚信、常信、安信続、慶安、正徳の人】門人と     なる、名は信香、一に安雄、始め多賀朝湖と云、後に英一蝶と改め、一家をなす、書画ともに能す、     風流の秀才子也、号翠蓑翁、【一蓑翠ト云ハ誤ナリ】牛丸、【幼名ト云ハ非ナリ】暁雲、【俳諧ノ名     也、暁雲堂トモ云】旧草堂、一蜂閑人、【後ニ門人ニユヅル】隣樵庵、鄰濤庵、北窓翁等の数号アリ、    伝に曰、一蝶は親に孝なりし人と云り、俳諧は芭蕉翁の門人にして、其角、嵐雪等と友なり、名を暁雲    和央、一に作和央と云しは、花街に於て呼し名なりと云り、元禄十一年十二月、【八年とするは誤なり】    呉服町一丁目新道に居住の時、故有て謫せらる、時に歳四十七歳、謫居にある事十二年、宝永六年九月、    【四年とするは非なり】帰朝せり、其後、英【一説花房とす、母の姓なりと云】一蝶と称し、北窓翁と    号す、享保九年甲辰正月十三日歿す、行年七十三歳、麻布二本榎日蓮宗承教寺塔中顕乗院に葬る、     辞世 まぎらかすうき世の業の色どりもありとや月の薄墨の空 一蝶〟    一蝶に老母一人あり、剃髪して妙寿と云、一蝶八丈島に配流せられて後、一蝶が友宗珉が家にやしなは    る、宗珉俗称横谷次兵衛、檜物町に住す、正徳三巳年三月三十日歿す、顕乗院に葬す、【以上、類考追    考、京伝が記】     一説に曰、一蝶配流せられ、老母を養ふ親族なし、官舎へ此事を願ひ、謫居より画を売事を赦せられ     其価を以母を養ふ、島一蝶と云は是なりと云、未詳【誤ならんか、横谷宗珉へ謫居の図を母に見せ度     送りしは、私のことなり、ひさぐべき画の中へ入て送りたるを思へば、是とするところもあり】    嵐雪選其袋【元禄三年板一蝶句あり】     花に来てあはせ羽折の盛かな  暁雲     朝寐して桜にとまれ四日の雛  同 
   「英一蝶系譜」     一蝶の画鑑定するに、狩野安信の門人なれども、狩野氏にて是をせず、骨董画といやしめて不用、町     画となりしゆゑなり、土佐の又兵衛是に同じ、    或書に曰、元禄の比、五代将軍綱吉公【常憲院殿ト申ス、宝永六年薨去】好色に耽らせ給ひ、吹上御殿    にて御遊興に美を尽し給ふ、第一の御寵愛にて、五の丸お伝の方と申君の御心に叶ひける、【お伝の方    は、至極小身の十五俵一人扶持、黒鍬組白須才兵衛娘なり、后年に至り御旗本に昇進して、一度朝散大    夫白須遠江守に任ぜられたり】此お伝の方小鼓の上手にて、公御謡遊せば、御側にて一調を打つ、或時    は吹上御庭の池に舟を浮め、公は棹をさし御楽遊す、是平日のことにて、不知人はなし、其比、多賀朝    湖と云画師、百人女﨟と云絵を書て、貴賤の姿画を写し、其中に世上専ら風聞故、舟中に鼓を打、棹し、    謡給ふありさまを、うつくしく書たり、此事誰が公に訴奉りけん、立所に、奉行所に召捕れ、入牢す、    罪の表は、朝湖御禁制の殺生を好み、鳥を取、魚を釣ける御咎に、遠流仰付られける、朝湖願に寄、配    処へ絵具持参御免被仰付、配所にて一子を設けしを、島一蝶と云、后、御赦免ありけり、百人女﨟の内、    お伝の方舟遊びの体、至極の出来にて、御咎に逢しは、其業に依て刑せらるゝ事、本意にも近かるべし、    と憂ふる色もなかりしとなり、百人女﨟の絵は、我心にも、いみじく出来しとおもひしが、図を書改め    たり、今は十が七八は伝へず、英一蝶と名を改、朝妻船と云絵を書り、鼓を持舞装束の白拍子船に乗た    るは、以前の図をやつせしものなり、当時英一蝶など、専ら此図を画く、一蝶浅草寺境内にて千幅絵を    書し時も、人々是を好みけるとかや、    或書に、於伝の方実父白砂才兵衛、甲州士甲賀同心、三十俵二人扶持、新地千石に召出さる、甲賀与力    小山田弥市、才兵衛にいこん有て、討はたし行衛しれず、五の丸様御歎に付、御威光を以て、下総竜ヶ    崎にて召捕、江戸中引廻しの上、品川にて磔に掛られたり、才兵衛改易となり、五の丸様御願にて、美    濃八幡の城主遠藤右松、早世にて断絶す、才兵衛実子御取立にて、双方家名相立、新地一万石にて、江    州三上城主遠藤主膳正胤親と名乗る、窓のすさみに曰、山田弥七郎と有り、【此書ニ宝暦七年トアリ】    讃に云、あだしあだ波よせてはかへる浪、浅妻船のあさからぬ、嗚呼またの夜は、誰に契りをかはせて    色を、枕はづかし、うらみがちなるわが床の山     後水尾院御製      今宵寐ぬ浅妻船のあさからぬ契りをたれにまたかはすらん    讃の趣異り、隆達が破れすげ笠しめ緒のかつら、永く伝り有る、是から見れば、あふみのや、あだしあ    だなみよせてはかへすなみ、あゝまたの日は、たれに契りをかはせて色を、枕はづかし、よしそれとて    も、世の中うらみがちなる我床の山、と有り、世にしる所なり、    此英一蝶の百人女﨟の絵をもとゝして、後、洛陽の西川祐信と云浮世絵師、百人女﨟品さだめと云好色    本を書けるとぞ、以上、  
   近代絵事の巧、北窓翁に若くは莫し、其の気象の豪放、筆力の遒勁、以て古名人に追蹤するに足る。新    奇洒落、其れ独り得る所の者なり。翁姓多賀氏、諱信香、一名朝湖、又暁雲、翠蓑、隣樵等の別号有り。    考白庵と曰ふ、諱某、京師人。翁幼くして江戸に遊ぶ。某侯嘗て其の頴悟を愛で、画を牧心斎先生に学    ばしむ。居ること久しうして、尽く其の筆法を得。時に又戯れに岩佐重起、菱川師信に倣ひ、時世の風    俗を画く、春蠶糸を吐き雲行流水の姿有り、而して翁の名籍甚だし。元禄中事に坐し、三宅島に配流せ    らる    〈原漢文。『温知叢書』本には「北窓翁退筆塚記」とあり。「春蠶糸を吐き雲行流水の姿」は画筆軽妙自在の喩え〉     因曰、一蝶は小歌の作なども多く、自画賛の句枚挙すべからず、松の葉【元禄十六年の板行、小唄を     集たるものなり】しのゝめと云小唄は、一蝶の作也、洞房語園には、みじか夜の早唄、一名かやつり     草と号て、是をのせたり、浅妻舟の賛も、其比、節を付てうたひけるにや、松の葉【後編を松の落葉     と云】の端歌の部に載たり、宝永の比、吉原つれ/\草と云物にかやつり草の朝湖が歌こそ、又あは     れなる事おほかめれ云々、或説に、一蝶声よくて小唄をうたひけるよし、老人となりても、紀国や文     左衛門などに付て、廓中にのみ暮したるとなれば、左も有るべし、三谷何某が蔵する所、一蝶八丈島     【一本に三宅島】に在りて、母の元へ謫居の趣をこまかに画き送り越したる物有り、横谷宗珉の家に     のこりしものなりとぞ、【以上、追考説】
   「英一蝶四季之絵跋」     按るに、多賀朝湖呉服町一丁目新道に住せしに、元禄五寅年十二月、三宅島に流さる、時に歳四十六     也、宝永六丑年九月後赦免、深川に住す、是謫居より帰りての文なり、享保九年四月二日歿、【以上     類考】【深川藪の内一蝶と云者】    湯原氏記云、元禄七年四月二日、従桂昌院様六角越前守へ被進之、金屏風一双、吉野竜田の図、多賀朝    湖筆、本願寺へ同一双、大和耕作之図、同人筆、新門へ、以上〟    〈記事の多くは京伝の『浮世絵類考追考』によっている。ここに京伝及び渓斎英泉の「浮世絵」観を窺うことができる。     画題としては「時世の人物」、画風は菱川師宣風である。一蝶の立場は京伝には微妙に映っていた。「暫く浮世画に     列す」と留保がついている。とはいえ上記のように狩野派からは「町絵」と蔑まれて無視されている〉  ◯『愚雑俎』〔大成Ⅲ〕⑨266(田宮仲宣著・天保四年刊)   (「英一蝶辞世」の項)   〝画工英一蝶の事は、畸人伝に委しく出せればこゝに略す。志し奇特のおのこにて、終焉に辞世を吐。是    にていよ/\其雅機をおぼゆ。     紛らはす浮世の隈の一刷毛も有とや月に薄墨の空〟    〈「畸人伝」は『近世畸人伝』(伴高蹊著・寛政二年刊)〉    ◯『嵩鶴画談』巻之三(清筠舎著・天保四年成稿・『日本画談大観』「中編随筆」所収p974)   〝英一蝶之牛    東海寺塔中ししよう院に一蝶の牛を多く画く屏風あり    伝へ云、一蝶流罪之節島にあり、一日牛の野中に遊戯する形を見て其形状を写し時に菜花盛なり、蝶数    多ありて信香の頭に集り払へども又来り、或人是を評して云、蝶之集は人に愛せらるゝの兆なり、果し    て近き中赦免になるべしとて深切に云、これより名を改て英一蝶と云、果して赦に遇て帰国す、其時よ    りししよう院に寓居す、他日牛の遊戯の図を写し興と云、于今ししよう院に伝へありと云ふ〟    ☆ 天保七年(1836)  ◯『著作堂雑記』237/275(曲亭馬琴・天保七年五月十五日記)   〝木々の落葉といふ写本随筆やうの物に、英一蝶が遠島になり候訳は、或一諸侯甚だ記憶悪く、諸侯の面    を見識候事成りがたく、難儀の由一蝶へ咄候得ば、夫は心易き事とて、一蝶右の諸侯の供を致し、御城    へ参り、諸侯方の面貌を写真に致し候てまゐらせ候へば、殊の外歓び候処、右の儀聞伝へ候他の諸侯よ    り、我も我もと頼み参り、段々画き遣候に付、御役人の聴に達し、甚不届のよしにて、遠島に被処候由    有之候、行状先後考合せ候に、此説実事とも候哉、右抄録彼是取集一冊と致候て、近々致進上可申と心    掛居申候、    右は讃州高松家宰木村黙老手簡、丙申二月十九日の状中に申来候処、同年五月十三日到着、右の答書に    予云、英一蝶謫居の事は、英一蝶当時御庫門徒なりし故なりと、口碑に粗伝へたり、しかるにその木々    の落葉に載する所、又一説なり、虚実孰れか是なるをしずといへども、尚珍説といふべし、申五月十五    日記〟    〈「木々の落ち葉」という随筆に、一蝶の流謫は大・小名に頼まれて彼らの肖像(写真)を画いたこと、そこが原因だ     という記事があるらしい。高松藩家老の木村黙老がそのことを、馬琴に書状で伝えてきたのである。それに対して、     馬琴は、一蝶の流罪は一蝶が禁制の宗派、浄土真宗の異端派・御蔵門徒であったからという言い伝えがあることを、     黙老に示すと共に、「木々の落ち葉」の記事も又一説なりとしたのである。要するに、一蝶の遠島処分が何に拠った     ものなのか、依然として虚実不明のままなのである。ところでこの御蔵門徒説であるが、一蝶の墓がある承教寺顕乗     院は日蓮宗、こちらの禁制宗派だとすると不受不施派になるのだが……〉    ☆ 天保八年(1837)  ◯『一蝶流謫考』〔続燕石〕①343(涼仙老樵(山東京山)編・天保八年八月成立)   〝英一蝶は、承応元年壬辰、摂州に生る。姓は藤原、多賀氏、父は医師也、名を伯庵と云、一蝶十五歳の    時、父に随ひて東都に来り、狩野安信を師として画を学び、名を信香、一に安雄といへり、幼名猪三郎、    後治左衛門、或は助之進といふ、又朝潮の名あり、別に翠蘘翁、牛丸【幼名といふは非也】暁雲【俳号    也】旧草堂、一蜂閑人、隣松庵、隣濤菴、北窓翁等の諸号在り、(一蝶の印譜あり、略)一蝶、書を佐    々木玄竜【文山と号す】に学び、後一家を風をなす、俳諧は其角の門人也、俳号暁雲、或は和央といへ    り、仏師民部、村田半兵衛等を花街の友とす、音声よくて、唱歌をもなせしゆへ、葉歌といふ物の作多    し、洞房語園にのせたるかやつり草といふ葉歌も、一蝶が作也、こゝに元禄十一年戊寅十二月、【元禄    八年とするは非也】罪ありて謫せらる、【江戸呉服町に一丁目に住せし時也】時に年四十七、謫居に在    りし事【伊豆国三宅島】十二年、宝永六年己丑九月、大赦に寓ふて帰郷せり、其頃は、深川霊巖寺のう    しろ【俗に海辺新田と云】宜雲寺といへるに寄食せしよし、一蝶が筆、此寺に残れり、故に、俗呼て一    蝶寺といふ
    〔頭書〕斎藤長秋が江戸名所図絵巻之七曰、一蝶寺、海辺大工町新田藪の内に在り、宗蒼山宜雲寺と      いふ、元禄七年甲戌創建の梵園にして、卓禅和尚開山たり、英一蝶翁、曾て当寺に寓居す、其頃の      すさみに、仏殿、僧房の屏障、悉く翁の画也、故世俗一蝶寺と字す、以上
   そも/\英一蝶といへるは、帰島の後の名也、一説に、母の名を花房といひすゆゑ、英の名に作り、英    の文字より、一蝶と名つきたりといへり、世に英一蝶と落款したる画は、宝永六年以降の物也、宝永六    年は、今天保八年をさる事百二十六年也、一蝶、宜雲寺を去つて何れの所に住せしや、いまだその審な    る説を得ず、享保九年甲辰正月十三日没す、年七十三、二本榎日蓮宗承教寺塔頭顕乗院に葬墳在り、法    名英受院一蝶日意、      辞世 まぎらかす浮世の業の色どりもありとや月のうす墨の空    一蝶が母は、一蝶島に在りし間、彫物師横谷宗珉の家に養はる、【宗珉が家、日本橋檜物町に在り】正    徳四年甲午三月晦日没す、法名本是院妙寿日量、【妙寿は剃髪の名也】
    一蝶が文藻    一蝶に葉歌の作多し、元禄六年板松の葉といふ三弦の曲譜に載せたる、しのゝめといふ小歌は、一蝶が    作也、洞房語園には、みじか夜の早歌【一名かやつり草】とて、是をのせたり、朝妻の作は、普く人の    知る所也【此曲松の葉にものせたり】宝永年間、吉原仲之町の茶屋爾来といひしものゝ作【写本】、よ    し原つれ/\草といふものに、かやつり作なンどの朝潮が歌こそ、また哀れなることこそおほかんめれ、    とあり、朝清水の記は、謫居中の作也、和漢の故事どもを引いでて書つらねたる文章を視れば、学力も    ありしと覚ゆ、    嵐雪撰、其帒【元禄三年板本】に句あり、     花に来てあはせ羽織の盛かな    暁雲      此句、其角が花つみといふ句集にも載たり     朝寐して桜にとまれ四日の雛    同      河津又野角力の図【大津絵也山東庵蔵】     大津絵にまけなん老の流れ足    一蝶トアリ      此外、自画讃の句ども、挙尽しがたし
   一蝶家譜之略     初祖   英一蝶     二代目  一蝶 名信勝、俗称長八     一蜩(テウ)【俗称百松、後源内、一説孤雲】     一蜩門人 一舟【養子、続師家、名信種、東窓翁と号す、俗称三郎、明和五年正月廿五日没、二本榎             顕乗院に葬】     一舟門人 一水【後嵩之と改、本姓佐脇、名直賢、字子岳、昇々観、中岳堂、東宿、一翠斎の諸号あ             り、俗称甚内】     一水門人 一蜂【明和九年七月六日、年六十六没、春窓翁と号す】     一蜂門人 高嵩谷                       以上、嵩谷蔵
    一蝶流謫(「竜渓小説」)
   「一蝶流謫」
    秘録の写     北條安房守掛り 【呉服町一丁目、勘右衛門店之者】多賀朝湖【酉ノ四十二歳】      元禄六年酉八月十五日入る、      是は御詮義之儀有之候に付、安房守宅より揚り屋へ入る    右者、元禄十一年寅十二月二日、三宅島へ流罪、御船手逸見八左衛門方ぇ渡す、     同人掛り    【本石町四丁目、茂右衛門店之者】 仏師民部【酉ノ四十歳】             【本銀町三丁目、次郎右衛門店之者】村田半兵衛【酉ノ三十歳】      同断八月十五日入る     右者、朝湖一件之者共御詮議之義有之、安房守宅より揚り屋へ入る、    右之者共、元禄十一年十二月二日、八丈島へ流罪、御船手逸見八左衛門ぇ渡     右之者共、此度依大赦、流罪御免に付帰着仕、元支配名主共へ相渡、      宝永六年丑九月
   【〔頭書〕涼仙曰、此書稿成て後、或家の秘記を見しに、一蝶が事記あり、左の如し、元禄十一寅年、     三宅島ぇ流罪、呉服町一丁目新道勘右衛門店之者、絵師多賀朝湖、此朝湖、今度常憲院様御法事に付、     遠島赦免、宝永六年丑八月廿一日申渡】
    涼仙案に、右三人之者、元禄六年酉八月十五日入牢、獄に在りし事出入五ヶ年、元禄十一年寅十二月     二日、流罪に所(シヨ)せられ【一蝶は伊豆の三宅ノ島阿古村に在し也】在島十年にして帰国す、しかれ     ば、家を離れて罪人たりし事凡十五年也、宝永六年帰国して、家に在りし事十五ヶ年にして、享保九     年甲辰正月十三日没せり、年七十三、二本榎日蓮宗承教寺塔頭顕乗院に葬墳在り、しかれば、右十五     ヶ年の間に筆を採りたるは、一蝶、或北窓翁など落款したる物也、僅に十五ヶ年の間に画たるもの、     障屏、巻幅の類、幾品在らん、茲を以て、世に贋作(ニセモノ)の多を知るべし
    伊豆三島の図     こゝに三島の絵図を挙て、一蝶が謫居【〔左注〕シマニヲル】の地を知らしむ(三五二、三五三頁図)
    一蝶島画之縮図       (*図は省略)     此画幅、今本町辺の富家に蔵す、嘗、亡兄醒翁模本を得て、山東菴に蔵す     (右図)【古画備考に、三谷氏某ニ、一蝶謫居ヨリ母ノモトヘ贈シ画ヲ蔵ス、謫居ノ趣ヲ細ヤカニ絵          ガキタルモノ也、元宗珉ノ家ニ遺リシトゾ、とあるは、この画のことなるべし】       (*図に〝初松魚からしもなくげ泪かな 牛麿〟の自賛あり)    一蝶が母は、流罪の後、横谷宗珉に養はる、    一蝶、三宅島より母の許へ、ふみに、かやうなる所に居るとて、ふみに添て贈りたる画也といひ伝ふ、     涼仙案に、朝清水記を見れば、此図は、一蝶島に来りたる最初の謫居なるべし、後には、歳ごろし     たしみふかゝりし紀文などやうの、富家の助けを得て、島に在りながらも、穀物、酒などの商ひをも     なしたるさま、朝清水の記にてもしらる、島にて絵もかきし事、同じ記に見ゆ、今世に島一蝶といふ     もの、是なるべし
    一蝶が源氏の絵    御留主居柳生主膳正殿、同心喜十郎事大野応介【年四十四歳】文政五年午九月廿五日、罪ありて、同年    十月廿五日、八丈島へ流罪、此者、八丈島の名主菊地某といへる者の家に、白き麻の婦人の帷子へ、墨    画にえ源氏の絵を画しを貰ひうけて、文政十年の春、江戸に在し婦の方へ贈りけるを、請求て分ち得る    ものは【墨画の極細なるもの也】     空蝉 夕霧 椎本 佐野肥前守     夕顔       牧野伊予守     鈴虫       酒井但馬守     小蝶       能勢靱負守     橋姫 浮舟    大島飛騨守     明石       平岡越前守     桐壺       村越伯耆守     須磨       中島三左衛門     榊        根岸九郎右衛門     若紫       関伝悦     箒木       菅沼林斎    以上十四図、所分十一人、各々蔵家為珍     文政十一丁寅年六月  成着記
    朝清水記
   「朝清水記」
    天保八年丁酉之秋八月七日       筆を京橋の山東庵に採る     涼仙老樵     追加  四季絵辞
   「四季絵辞」    ☆ 天保十年(1839)  △『声曲類纂』〔岩波文庫本〕p286(斎藤月岑著・天保十年成立・弘化四年刊)   (「巻之五」「小唄之部」)   〝英一蝶朝妻舟の画讃    隆達がやふれ菅笠しめ緒のかつら長く伝りぬ。是からみれば近江のやあたしあた浪よせては帰る浪、あ    さつま舟のあさましや、アヽまたの日はたれにちぎりかはして色を、枕はづかしいつはりがちなる我床    の山、よしそれとてもよの中〟    〈「やぶれ菅笠しめ緒のかつら」は寛文の頃の隆達節の小唄。「近江のやあだしあだ浪よせては帰浪~」が一蝶の「朝     妻舟」の歌詞〉   ◯『三養雑記』〔大成Ⅱ〕⑥77(山崎美成著・天保十年序)   〝英一蝶女達磨の画    画工の英一蝶は、世に名高き人にて、その事跡は書に記したるも、人口に伝ふるも、多くは附会の説あ    り。罪をかふふりしことの由は、竜渓小説附録にしるすところ、やゝ実説に近し。さて世にあまねく、    画がきつたふる女達磨といふは、一蝶がかきはじめたりとぞ。そのかみ、新吉原中近江屋の抱に、半太    夫といふ遊女ありしが、後に大伝馬町の商人へ縁づきたり。その家に人々あつまりて、何くれとなくも    のがたりの序に、達磨の九年面壁のはなしをしいだしけるに、かの半太夫きゝて、九年面壁の坐禅は、    何ほどのことかはある。うかれ女の身のうへこそ、紋日もの日の心づかひに、昼夜見せをはること、面    壁にかはることなし。達磨は九年、われ/\は苦界十年なれば、達磨よりも悟道したりとて笑ひけると    ぞ。このはなしを、英一蝶がきゝて、やがて半身の達磨を、傾城の顔に絵きたるが、世上にはやりて、    扇、うちは、多葉粉入、はしらかくしなどのかきて、女達磨といひけるとかや。市川栢筵が、その画の    讃に、そもさんか是こなさんは誰と詞書して      九年母も粋よりいでしあまみかな    といふ句をしけるとぞ。俳人素外が手引艸に      九年何苦界十年はなごろも    といふ祇空が句あり〟    ☆ 天保十一年(1840)  ◯『古今雑談思出草紙』〔大成Ⅲ〕(東随舎著・天保十一年序)   ◇「画難坊、絵を論ずる事」の項 ④91   〝庵主問て曰く、英一蝶ははじめ多賀長湖とて、永真安信が門人にて、狂画を専要にして、一家をなした    るものにて候が、其末流に及んでは、浮世絵と混じたるよふなる義も是ある様に聞及びたるが、いかゞ    の事にや候ぞ。画難坊答へけるは、英流の末流に至っては、猶さら心得違ひの義も出来申べき義なり。    其故は狩野家の様に、画家連綿して相続致せば、数代伝来の絵本多く、古き弟子家も随身いたして、始    祖の規矩準縄を守り、画法乱るゝ事なけれども、又平、雪舟、一蝶がごときは、子孫相続も是なき故、    定まつたる画法と絵本も伝来是なく、何となく規矩を取失ひたる義と見へたり。庵主が曰く、何故、正    風を捨て狂画を用ひ候ぞ。其趣意うけたまわりたし。画難坊がいわく、狂画は和歌の道にたとはゞ狂題    なり。一蝶は弟子家の事なれば、所詮、筆法抜群たり共、狩野家の右に出べきよふなきを計つて、正風    体を捨て狂画の一風を書出して、世上に賞翫せられたり。譬へば歌の道しらぬ人も、狂歌の可笑は俗事    にもとけ安く、又たとへ筆意のつたなきも、狂画を書は絵の巧拙をしらぬ児女子の目にも、其画を持は    やすなり。況んや、一蝶が画才の筆力にて書したれば、今に至りても専ら好む人多し。前にいへる如く、    雅を好む人は少なく、俗人は多き世なれば、狂画はことわざに切落し落ちといへる所、見込で心を用ひ    たるは一蝶が極意、唯此事にて候ぞ〟    〈「庵主」は東随舎なる人物。「画難坊」も同人であろうか〉   ◇同上 ④95   〝庵主がいわく、一蝶が筆にて、名護屋山三郎と傾城かつらぎが事を書たる一巻は、全く浮世絵のよふに    候が、此義いかゞ。画難坊がいわく、成程浮世絵なり。右のかつらぎが始終のごとき、女郎買のたてひ    き事、国中の形勢、道行の風情、其頃の浮世絵に書なし、不破伴左衛門は芝居の敵きやくの姿に、月代    を百日かづらとやらんものに書し、名護屋山三郎は角前髪の色事師といふものに画書しは、風俗あしき    義にて、浮世絵に一蝶が筆力を以て、浮世絵を書く人々を悦ばしむるは、一蝶が本意なり。一蝶が絵巻    物の跋を自筆にて書たるものに、娼婦の姿を写して、浮世絵の右りに出ん事を思ひ、自負の言葉を顕わ    して、浮世絵書く事を隠さず。又朝比奈三郎の画に、鶴の丸の紋付たるは、其頃の芝居役者の紋所なる    を、児女子は朝比奈義秀が定紋なりと思へり。是らは絵師のすべき事にあらず。一蝶は鎌倉時代の古き    事をも当風に書なし、直垂、水干、又は小素袍なるべきものをも、上下長袴に画、下郎はしりまくりた    るすりさげやつこに書たるもの有。此故に画を好む人、一蝶を此道の異論なりと忌嫌ふは、此謂れにて    候ぞ〟    〈「一蝶が絵巻物の跋」とは「四季絵跋」か。大田南畝の『浮世絵考証』に全文あり〉       参照 『古今雑談思出草紙』    ☆ 天保十二年(1841)  ◯『椎の実筆』〔百花苑〕⑪402(蜂屋椎園著・天保十二年序)   〝宗達、光琳が草花、松花堂布袋、英一蝶が人物、平安の四竹、大雅堂、謝春生山水、応挙幽霊、森祖猿、    祇園南海梅、柳里恭竹〟  ◯『柳亭筆記』〔大成Ⅰ〕④308(柳亭種彦著・成立年未詳)  (「角兵衛獅子」の考証)   〝(菱川師宣画の角兵衛獅子記事に続き)〔割註〕又一蝶にも画あり〟    ☆ 天保十四年(1843)  ◯『筠庭雑考』〔大成Ⅱ〕(喜多村筠庭著・天保十四年序)   ◇「頭巾」の考証 ⑧144   〝竈婦女 英一蝶筆 大図を縮写す〟
  ◇「笠」の考証 ⑧146   〝同頃(貞享元禄)信香筆 一蝶也〟
  ◇「巾着」の考証 ⑧160   〝多賀朝湖筆 図は島原のやり手なり〟
  ◇「煙管」の考証 ⑧162   〝信香筆 賤小手巻懐中きせる〟
  ◇「煙草盆」の考証 ⑧164   〝信香筆〟
  ◇「看板類」の考証 ⑧174   〝信香図    酒ばやし麪類看板〟
  ◇「灯火」の考証 ⑧178   〝(行灯二図)此行燈二つ共に信香の筆也。上なるは島原出口の茶屋の処にみゆ〟〝是は難波新町揚屋の    傍にあり〟
  〝(提灯図)英一蝶 此提灯元禄頃迄今の箱提灯の如く用ひたり。絵双紙に多し〟
  ◇「雛の絵櫃」の考証 ⑧185   〝(雛の行器(ほかゐのルビ)の図)その図師宣がかけるもあり。又英一蝶がかきたるも見ゆ〟
  ◇「出茶屋」の考証 ⑧196   〝信香が絵に、伊勢の明星の茶屋にて、長き柄のひさくに茶碗をのせて客に出す処をかけり〟
  ◇「永代島茶屋」の考証 ⑧199   〝藤信香筆 深川八幡社頭図〟  ◯『新吉原細見記考』〔鼠璞〕上66(加藤雀庵著・天保十四年記)   (「女達磨」の項)   〝三養雑記に、女達磨といふは、新吉原中近江屋の抱半太夫といふ遊女の詞によりて、英一蝶が半身の達    磨を傾城の貌に絵きたるが、世上にはやりて、扇、うちは、多葉粉入、柱かくしなどにかきて、女達磨    といひけるとかや。栢筵が、その画の讃に「そもさんか、是こなさんはたて」と詞書して、「九年母も    粋よりいでしあまみかな」といふ句をしけるとぞ〟    〈「三養雑記」(山崎美成著、天保十一年成立)は「日本随筆大成」二期六巻所収〉    ☆ 弘化元年(天保十五年・1844)  ◯『近世名家書画談』二編(雲烟子著・天保十五年刊・『日本画論大観』上385)   「漢土浮世絵師の事」   〝和漢人物を画く者、画格の高き処にいたりてはまたかぞふるにいとまあらず、仇英は此邦の一蝶、舜挙    は此邦の応挙か、おのづから姓名の文宇の似たるも奇なりといふべし。     英一蝶女達磨の図      半身美人の図に題す   解大紳    千般軆態百般嬌      全身を画かず半腰を画く、    恠むべし画工の識見無きを 人情を動かす処曾て描かず      西施半身の像に題す   李笠翁    半紙天香満幅の温     心を捧げ餘態尚を捫するに堪へたり    丹青是れ完筆無きにあらず 寫して纖腰に到れば己に断魂    世に美人を達磨に画しは、右の詩などにより画工の工夫にて悟道の意をもて細腰に達磨を画しかと思ひ    しに、此頃山崎美成が随筆を見しに、女達磨といふは英一蝶が画初めしとぞ。昔時、新吉原中近江屋の    抱、半太夫と云遊女ありしが、後に大伝馬町の商家へ緑付たり、その家に人々集りて何くれとものがた    りの序に、達磨の九年面壁の話をしいだしけるに、かの半太夫、きゝて九年面壁の坐禅は何ほどのこと    あるべき、遊女の身の上こそ紋日もの日の心づかひに昼夜見せをはること面壁にかはることなし、達磨    は九年、われ/\は苦界十年なれば、逮磨よりも悟道したりとて笑ひけるとぞ。此話を一蝶がきゝて、    やがて半身の達磨を傾城の顔に画きたるが世上にはやりて、扇、団扇、煙草入などに女達磨といひける    とかや。市川白猿その絵の賛に      そもさんか是こなさんは誰ぞ        九年母も粋よりいでしあま味かな    といふ句を題しけるとぞ。又素外が手引草に、祇空      九年何苦界十年はなごろも    と是また面白き句なり。何さま英一蝶は何事にも頴敏の才ある人にして、世人の気をとる事も早くこゝ    に心付しにや〟  ◯『増補浮世絵類考』(ケンブリッジ本)(斎藤月岑編・天保十五年序)   (( )は割註・〈 〉は書入れ・〔 〕は見せ消ち   ◇「高嵩谷所蔵 英氏系図之略」「英一蝶系譜」   〝英一蝶 七十三 【承応元年生ル、享保九年歿す】〟   ◇「英一蝶」の項   〝英 一蝶(一蝶の伝諸書に記すを見るに、誤り多く、浮世画師には有ねども、時世の人物を画き、師宣         が絵風に出たる事も見ゆれば、暫く浮世画に列す)    姓 藤原 多賀氏(一に英氏と云、母の姓花房と云)摂州大坂の人也 俗称 助之進〈或は次右衛門、    幼名猪三郎。承応元年摂州大坂に生る〉父は〈多賀伯庵といへる某侯の侍〉医〔医〕也。〈寛文六年〉    十五歳の時、江戸に来り、狩野安信(古右京養子、探幽、尚信、常信、安信は続〈貞享二、九月四日卒    七十三才〉慶安正徳の人)門人となる、名は信香、一に安雄。始め多賀朝湖と云、後に英一蝶と改め、    一家をなす書画ともに能す。風流の秀才子也。欄外〔名信香、一に安雄〕     号 翠蓑翁(一簑翠と云は誤也)牛丸(幼名と云は非なり)和央〈和応〉一閑散人、暁雲(俳諧の名       なり暁雲とも云)旧草堂、一蜂閑人(後門人にゆづる)隣樵庵 鄰濤庵、北窓翁(数号あり)    伝に曰、一蝶は親に孝なりし人と云り〈書を佐々木玄龍に学び〉俳諧は芭蕉翁の門人にして、其角嵐雪    等と友なり。名を暁雲和央、一に和応と云しは、花街に於て呼し也と云り。元禄十一年十二月(八年と    するは非なり)呉服町〈一丁目〉新道に居住の時、故有て謫せらる。時に歳四十七歳、謫居になる事十    二年、宝永六年九月(四年とす るは非なり)帰江せり。其後英(一説花房とす、母の姓也と云)一蝶と    称〔す〕〈し〉北窓翁と号す。〈深川長堀町に住〉享保九年甲辰正月十三日歿す。行年七十三歳、〔麻    布〕〈芝〉二本榎日蓮宗承教寺塔〔中〕〈頭〉顕乗院に葬す。(法名英受院一蝶日意)     辞世 まぎら〔か〕〈は〉すうき世の業の色どりもありとや月の薄墨の空 一蝶〟    一蝶に老母一人あり、剃髪して妙寿と云、一蝶八丈島に配流せられて〈一に三宅島トモ〉後、一蝶が友    宗珉が家にやしなはる。〈宗珉〉俗称横谷次兵衛、檜物町に住す。正徳三巳年三月三十日歿す。顕乗院    に葬す。(以上、類考追考京伝が記)    一説に、一蝶配流せられ老母を養ふ親族なし。官舎へ此事を願ひ、謫居より画を売事を赦せられて〈よ    り謫居の図をこまやかに画きて、鬻くべき画の中に入て、母の許へ送り越したる〉其価を以母を養ふ。    島〈シマ〉一蝶と云は是なりと云。(未詳 横谷宗珉へ謫居の図を母に見せ度送りしは私の事也。ひさ    ぐべき画の中へ入て送りたると思へば是とするところもあり)      嵐雪選其袋(元禄三年板 一蝶の句あり)        花に来てあはせ羽折の盛かな  暁雲        朝寐して桜にとまれ四日の雛  同
     高嵩谷蔵 英氏系図之略        英一蝶  七十三  承応元生ル                  享保九年歿す
   「英一蝶系譜」
   欄外〈江戸真砂六十帖別ニ説有〉    或書に曰、元禄の頃、将軍家吹上御庭にして御遊興に美を尽し給ふ。三の丸お伝の方と申は、第一の御    寵愛にて、君の御心に叶ひける。〈阿伝の方は小身十五俵一人扶持黒鍬組白須才兵衛娘なり。後年に至    り、御旗本に昇進して、一度朝散大夫白須遠江守に任ぜられたり〉此お伝の方、小鼓の上手にて、公御    謡遊せば、御側にて鼓の一調を打つ。或時は吹上御庭の池に舟をうかべ、公は棹さし給へば、お伝の方    は鼓をしらべ、公謡遊しつつ棹さし御楽み遊す。是平日の事にて不知人はなし。其比多賀朝湖と云画師、    百人女﨟と云絵を書て、貴賤の姿画を写し、其中に世上専ら風聞故、舟中に鼓を打、棹さし謡ふありさ    まを、うつくしく書たり。此事誰が公に告奉りけん。立所に奉行所に召捕れ入牢す。罪の表は、朝湖御    禁制の殺生を好なり、鳥を取魚を釣ける御咎に遠島仰付られける。朝湖、願に寄、配所へ絵具持参御免    被仰付、配所にて一子を設しを島一蝶と云。後、御赦免ありけり。百人女﨟の内、お伝の方舟遊びの躰、    至極の出来にて、御咎に逢しは其業に依て刑せらるゝ事、本意にも近かるべしと、憂ふる色もなかりし    と也。百人女﨟の絵は我心にもいみじく出来しとおもひしが、図を書改めたり。今は十が七八は伝らず。    英一蝶と名を改、浅妻船と云絵を書り。欄外〈註、此書に宝暦七年と有〉鼓を持、舞装束の白拍子、船    に乗たるは以前の図をやつせしものなり。当時英一蝶など専ら此図を画く。一蝶浅草寺境内にて、千幅    絵を書し時も人々是を好みけるとかや。
   朝妻船讃に云 隆達が破れ菅笠しめ緒のかつら永く伝りぬ。是から見れば近江のや、あだしあだ波よせ    てはかへる浪、朝妻船のあさましやあゝまたの日は誰に契りをかわして色を枕はづかし、うらみ〈イい    つはり〉がちなる我床の山、よしそれとても世の中     後水尾院御製      今宵寝ぬる浅妻船のあさからぬ契りをたれにまたかはすらむ
   此一蝶が百人女﨟の絵をもとゝして、後、洛陽の西川祐信、百人女﨟品さだめと云好色本を書けるとぞ。     因曰 一蝶は小歌の作なども多し、自画賛の句枚挙すべからず。松の葉(元禄六年板、小唄の集)に     〈載る〉しのゝめと云小唄は一蝶の作也。洞房語園には、みじか夜の早唄(一名)かやつり草と号て     是をのせたり。浅妻舟の賛も、其頃、節を付うたひけるにや、松の葉(後偏を松の落葉と云)の端歌     の部に載たり。宝永の頃〈写本〉吉原つれ/\草と云物に、かやつり草の朝湖が歌こそ又あはれなる     事おほか〔ん〕めれ云々。或説に一蝶声よくて〈自ら〉も小唄を能うたひけるよし。老人になりても、     紀国や文左衛門などに付て、廓中にのみくらしたるとなれば、左も有べし。     三谷何某が蔵する所、一蝶八丈島(一本に三宅島とあり)に在りて、母の元へ謫居の趣をこまかに画     き送り越したる物あり。横谷宗珉の家にのこりしものなりとぞ(以上追考の説)      (以下、「英一蝶四季之絵跋」あり。省略。『大田南畝全集』十八巻『浮世絵考証』⑱444    (寛政十二年五月以前記)を参照のこと)    按るに、朝湖、呉服町一丁目新道に住せし頃、元禄十一寅年十二月、三宅島に流さる。時に歳四十六也。  宝永六丑年九月御赦免、深川に住す。是謫居より帰りての文なり。享保九辰年正月十三日歿(以上類考)
  湯原氏記云 元禄七年四月二日  従桂昌院様、六角越前守〈御使〉被遺之、金屏風一双、吉野立田之図、多賀朝湖筆、本願寺え、同一双、  大和耕作之図同人筆、新門え(以上)   〈月岑云 岩瀬百樹が編、一蝶翁流謫考一巻あり。摹して別に蔵せり〉〟    〈『無名翁随筆』(渓斎英泉著。別名『続浮世絵類考』)にほぼ同じだが、斎藤月岑はお万の方を寵愛した五代将軍綱     吉の名を削除。また、お万の方の実父の記事及び漢文の略伝を削除している。町名主としてお上を憚ったのである〉    ☆ 弘化三年(1846)  ◯「古今流行名人鏡」(番付 雪仙堂 弘化三年秋刊)   (東京都立図書館デジタルアーカイブ 番付)   (東 最上段)   〝作者 享保 近松門左エ門  画工 享保 英一蝶  一代能 正徳 福王茂右エ門(ほか略)〟  ☆ 弘化四年(1847) ◯『神代余波』〔燕石〕③122(斎藤彦麿著・弘化四年秋序) 〝二代目市川団十郎が日記だつ、老の楽といふ随筆の中に、我幼年の頃、始て吉原を見たる時、黒羽二重    の三升の紋の単物振袖を着て、右の手を英一蝶にひかれ、左の手を晋其角にひかれて、日本堤を行し事、    今に忘れず、この二人は世に名をひゞかせたれど、今はなき人也、我は、幸に世にありて、名も又頗る    聞えたり云々とあり、(以下略)〟    〈一蝶と其角に手を引かれたという二代目団十郎のこの挿話は「燕石十種」巻五所収の『老のたのしみ抄』にはない。     『神代余波』の編者斎藤彦麿は別系統の写本でもみたのであろうか。それにしても、其角・一蝶(暁雲)・団十郎(柏     莚)、芭蕉なき後、江戸座俳諧の場は、さながら流行の最先端を行く、文芸・画芸・演芸の達人たちの華やかな交流     の場であったようだ〉    ☆ 嘉永年間(1848~53)  ◯『古画備考』四十四「英流」(朝岡興禎編)   ◇「英流」系譜 下p1931   〝 英流    英一蝶 【名信香、一ニ安雄、俗称助之進、俳名暁雪、花街ニテハ和央、         一作和応、一蜂閑人、後門人ニ譲、大阪産、藤原多賀氏】    拾五歳ノ時江戸ニ下リ、安信門人トナル、呉服町一丁目新道住居、元禄十一年配流、年四十、宝永六年    九月帰郷、在島十二年、其後称英一蝶、号北窓翁、享保九年正月十三日歿、年七十三、墓在二本榎日蓮    宗承教寺塔中顕乗院、法号英受院一蝶日意、母為尼妙寿ト云、一蝶謫居ノ中、一蝶の友横谷次兵衛宗珉    方ニ養ハル、正徳四年三月卅日歿、葬于顕乗院、宗珉ノ居ハ檜物町    三谷氏某ニ、一蝶謫居ヨリ、母ノモトヘ贈シ画を蔵ス、謫居の趣ヲ細ヤカニ絵ガキタル也、元宗珉ノ家    ニ残シモノトゾ、一蝶短冊ノ名 夕寥、号旧草堂、隣樵庵、鄰濤庵
   「英流」(英一蝶系譜)   ◇「朝清水記」下p1935
   「朝清水記」   ◇「四季絵跋」下p1938
   「四季絵跋」   ◇「朝妻舟讃考」下p1939
   「朝妻舟讃考」      〈この「朝妻船讃考」は山東京伝の『近世奇跡考』(文化元年(1804)刊)と同文〉      箍懸讃考    近曾【イニ往事夢に似たり、さめたる又うつゝにあらず或日】螺舎其角と共に、深川なる芭蕉菴に遊ぶ、    夕に帰る途中の吟、たがゝけの、たがたがかけて、帰るらん、螺子此句にはづんで、身のうすのめと、    思ひきる世に、蛍星のうつりかはり、芭蕉もやぶれ、螺舎のくだけたるに、我のみ残る深川の、今日お    もへばはからざる世や、以上    案に貞享中、一蝶多賀朝湖といひて、呉服町一丁目新道に居住、年三十五六歳、其角は、てらふれ町に    居住年廿六七歳の比、両人芭蕉菴にいたりて、かへるさの口ずさみなりと、夢中庵夜話に見えたり    ◯ばせをもやぶれ螺舎もくだけたるに、我のみ残る深川と書たるは、一蝶晩年深川長堀町に居住の時、    懐旧の心をのべたるならん、右讃に六十九翁と書たるあり、是享保五年にあたれり、奇跡考    一蝶承応元年摂州に生る、父を多賀伯菴と云、某侯の侍医なり、一蝶寛文六年十五歳の時、江戸に下り、    狩野安信を師とす、姓は藤原、多賀氏、名は信香、一に安雄、幼名を猪三郎と言、後に次右衛門といひ    ける由、望海毎談に見ゆ、或云助之進、剃髪して朝湖と称す、翠簑翁、牛丸、暁雲堂、旧草堂、一蜂閑    人【後門人にゆづる】一閑散人、隣樵菴、隣濤庵、北窓翁等の諸号あり、書を佐玄龍に学びて、後一家    の風を書て書名あり、俳諧を芭蕉翁に学び、其角嵐雪等と交り深し、俳号暁雲、又和央【洞房語園】と    云、    元禄十一年十二月【元禄八年とするは非也】呉服町一丁目新道に住し時、故ありて謫せらる、時に年四    十七、謫居にある事十二年、宝永六年九月、【宝永四年とするは非也】帰郷して後、英一蝶と称し、北    窓翁と号し、深川長堀町に住す、享保九年甲辰正月十三日病て歿せり、享年七十三、二本榎承教寺【日    蓮宗】塔頭顕乗院に葬る、法名英受院一蝶日意、辞世、まぎらかす浮世のわざの色どりもありとや月の    薄墨の空、    深川霊岸寺の後、海辺新田に、宜雲寺といふ禅院あり、一蝶帰郷して後、しばらく此寺に住ける由、寺    中の絵障子のたぐひ、すべて一蝶が筆なり、故に世人一蝶寺と云、其画近比の回禄にほろびしとぞ
   一蝶の母剃髪して妙寿と云、一蝶謫居にある間、友人横谷宗珉の家に養ふ、一蝶帰郷して後六年を経て    正徳四年三月晦日歿せり
   嵐雪その袋  花に来てあはせ羽織の盛哉   暁雲    同      朝寐して桜にとまれ四日の雛  同    温故集    此みぎりひだり鎌倉すぢ鰹魚  同    この余画賛の文、或は句あまたあり、記し尽べからず、奇跡考
   ◯英一蝶、為人豪放、市有奇古石龕、諸侯争且買之、一蝶即便馳往傾囊取之、又覩鬻新茄子、亦高価買    之、於是毎日石龕点火噉茄子、傲然謂人曰、此乃天下第一歓楽矣、近世叢語    〈文化十三年の項『近世叢語』参照〉    ◯一蝶寺、深川海辺新田藪の内にあり、妙心寺派禅宗、号蒼龍山宜雲寺、元禄七年創建にて、卓禅和尚    開山なり、英一蝶帰島後、寓此寺、仏殿僧坊の屏障、悉蝶所画、世俗称一蝶寺、惜哉回禄為烏有矣     三養雑記 山崎美成著 天保十年    ◯英一蝶女達磨の画、画工の英一蝶は、世に名高き人にて、その事跡は書に記したるも、人口に伝ふる    も、多くは附会の説なり、罪をかうふりし由は、竜渓小説附録にしるす所、やゝ実説に近し、さて世に    あまねくゑがきつたふる、女達磨といふは、一蝶が書はじめたりとぞ。そのかみ、新吉原中近江屋の抱    に、半太夫といふ遊女ありしが、後に大伝馬町の商人へ縁づきたり、その家に人々あつまりて、何くれ    の物語の序に、達磨の九年面壁のはなしを、しいだしたるに、その半太夫きゝて、九年面壁の坐禅は、    何程のことかはある。うかれ女の身のうへこそ、紋日もの日の心づかひに、昼夜見せをはること、面壁    にかはることなし。達磨は九年、われ/\は苦界十年なれば、達磨よりも悟道したりとて、笑ひけると    ぞ、このはなしを、英一蝶がきゝて、やがて半身の達磨を、傾城の顔に絵きたるが、世上にはやりて、    扇うちは、多葉粉入、柱かくしなどのかきて、女達磨といひけるとかや、市川栢筵が、その画の讃、そ    もさんか、是こなさんは誰と、詞書して     九年母も粋よりいでしあまみかな、といふ句をしけるとぞ、俳人素外が手引艸に、九年何苦界、十年     はなごろも、といふ祇空が句あり、因にしるす
   ◯英一蝶晩年に及び手ふるへて、月などを画くには、ぶんまはしを用ひたるが、それもこゝろのまゝに    も、あらざりければ、おのづからいざよふ月のぶんまはし    これは高嵩谷の話なり、嵩谷は町絵師にて、近来の上手なり、俳諧を好み、発句をよくせり、    海鼠の自画賛は、望む人あれば、たれにても、すみやかにかきて與へし也、その発句     天地いまだひらき尽さでなまこかな、仮名世説【杏花園蜀山編、文宝堂散木補】
   一蝶始竹原喜八郎、八歳の時、安信大阪多賀伯庵よりもらひ来、十七歳に而安信より破門して帰りて何    十郎、或書
   観氏先生(*添え書き「嵩月也」)に而聞書    ◯二河白道の図妙也、    ◯一蝶始伊州亀山家中にて、多賀助之進と申也、     父は則石川侯(*添え書き「主殿頭」)家中の医師にて、多賀白雲と云て、刀術等も指南せしとなり、    安信門人ニテ画ヲ学、石川侯ト有馬侯ヨリ扶持ヲ受、其肖像ノ賛ニ、元禄六年遠流ノ事有、其時下谷広    徳寺ノ和尚モ罪アリテ、同船ニテ遠流セラル、
    奈良屋儀助子話    奈良屋本店に、先祖安休頃の茶客之日記有之、其中に何日御客、養朴様、一蝶様等と有之由、如斯なれ    ば、養朴共一席に出会有しとみゆ、
    観嵩月老話 文政十年十月廿五日聞之、    一蝶肖像二幅あり、    一は英一蜂【初代】画、賛無し、    一は英一舟画、賛あり、辞世と書て、世に伝る所の     まぎらかす浮世のわざの色どりもありとや月のうす墨の空     像はあとにて、紙を継て、一舟が画添しなり、       此二像年月隔りし故か不似、只目の大なると、鼻の大きくて丸き処ばかりは同じ、一舟書たる像は一     圭まで伝りしが、典物に入たるか、売たるか、一蝶の印も不残伝りしを、質に入候て、今は三河町な     る、三文字屋と云へる酒屋い伝へたり、    一蝶と、嫡子信勝【長八郎、後に一蝶と号】中あしき様になり、一圭方に伝はりし、一蝶の手紙に其趣    あり、長八郎銚子へ参り度よしに付、火事羽織も□□も遣し可申、別になり候て、家業致度由、是も其    意に任せ可申由の文体之由、家をば後に弟子の一舟を、養子として継たる也、次男の百松は、後に源内    と申、久留米の有馬侯に仕へしとなり、一圭方に一蝶自筆にて、百松御召抱被下候へとの、願書の草稿    ありて、御慰に御召抱られ候様と申事有之、
   ◯神田安休歿後、其家督より、一蝶へ聞合せの事有し時の、其返書今奈良屋にあり、云く、安休様より    絵の御挨拶、いまだ参り不申候哉との御尋、承知致候、乍去其儀は【私申候事にても無之とか、かれ是    申事にて無しとか、予失念】認し絵絹、はくの代も三十四五通り分有之とか申事候し、浅草様へ被遣候    屏風の事も、其中に有之、此浅草とは、人参座鈴木屋の事にて、嵩月老の曾祖父の兄なる由、今其跡も    なく、身だいを本口なくし候由、十畳敷の間に、絹布夜具一はい押こみ有之候所、夜になり候へば、皆    なくなり候、とまりに参り候程の者、ヶ様に多く有之候由、
   ◯一蝶有馬家の好にて、舞楽の六尺屏風一双被申付、其料として金二百両給り候を、帰る道にて、奇石    を買候て、宅迄ニ百両遣ひ候由、
   ◯一蝶龍虎の絵は拙なる事、先頃観氏にて聞り、今日又承り候は、鷹の絵至て不調法にて不画、それを    有馬侯存知られ、一蝶へ無理に鷹の三幅対かゝせしと、それより外には鷹無之候由
    乙丑二月嵩月方にて、御勘定より出たる書付を見、      呉服町一丁目新道、勘右衛門店 一蝶       元禄八年八月十五日、揚リヤニ行       元禄十一年(*添え書き「三年過テ」)寅十一月十二日遠島    右の一件ニ付、仏師民部、村田半兵衛、御咎有之、科の次第何れも無之、    申伝には桂昌院様御兄弟の御方、殊之外放蕩にて、□□郭中へ御遣ひ被成候、一蝶等は、其率頭なるゆ    ゑに如此となり
   ◯一蝶遠島十二年、始三宅、後寛而八丈、宝永六丑年遇赦帰、観氏談    ◯一蝶配流ノ後、其角ノ許ヘ送リシ発句ニ、初松魚カラシガナクテ涙カナ(*添え書き「イニノナキカ」    其角カヘシニ、其カラシキイテ涙ノ松魚カナ(*添え書き「イニ初魚松」三橋雑録
   一蝶配流の後、高弟一舟ハ、師の眷属を引受、はごくみける、一舟宅は、霊岸島奈良屋の表なりしと、    一蝶島より絵を書て、船のたよりに一舟かたへ送り、此方にて売候て、其価を以て米を買、島の通船に    つみて送りしと也、此島にて、役人其米を請取所の法ありて、一蝶の許へも届け候由、島中温気甚しく、    総て米類を得候へば、直ぐにいり候て、粉に挽て貯へ置事とぞ、さ様せざれば忽ち虫つきて、食用にな    りがたきよし、正月元日なども餅なしに、芋ばかり煮て、雑煮のかはりに食候由、一蝶御赦免ありて帰    りし後、私祖父【名五兵衛】世話致候て、近所深川霊巌寺門前に、宅を求候て、そこに一蝶を住はせ候    由、自分宅は六軒堀にて、道具商売致居候へども、殊之外のあい口にて、毎日一蝶の方へ参り咄し居候    由、帰島の後、猶又殊之外絵流行致、毎日諸方より、魚等の到来候事夥しく、喰余りめづらしからざれ    ば、魚売共三人出入有て、各半切桶を置、水を汲入置、到来の魚半切へ打込候と、やれ今度は己れが半    切なりとて、悦び引揚持行、後日に魚の来らざるとき、礼に代りの魚を納め、又は外の品などにて礼を    せしとぞ、大きくひこき台所にて、青物うり其外、其辺を商ふもの共、食事の時には、勝手に来りて食    けれども、さらに構はず置けるとぞ、其隣に狩野梅笑住居けれ共、甚さびしく、火の消たる如くにて有    しと、    在島の中出生せしは、長八郎とて、同道して帰りしなり、次男百松とて、是は後に立花侯へ召抱られ武    家になりし由、右の深川の宅もとめ候まで、五兵衛自分の菩提所、宜雲寺の奥の方に、隠居住れし所の、    明きたる座敷有しかば、そこへ暫くの内かり候て、一蝶寓居せしなり、和尚へ五兵衛すゝめて、此逗留    中にふすま等かゝせ候、一蝶自分の宅へ帰りし後、ます/\絵を求る者多く、諸侯等より厚き幣物を贈    り、さまざまの絵頼有しか共、気にむかざれば、いつまでも捨置書ざりしかば、家内の者より、五兵衛    方へ密に其事を告候て、何とぞ筆をとられ候様、計策頼候由申来候へば、其時五兵衛参候て、其頃諸侯    より頼来候絵様をかねて聞置、さて何々の絵図は、つひに見たる事無之、いかゞ致たる図に候哉と申時、    幸此節外よりも其図を頼参りたれば、いま書て見申さんとて、筆硯をとりよせ候へば、か様/\と咄な    がら画て見せ候由、誂人の絵忽ち出来せしと也、    親孤雲、幼少なるをつれて参候時、帰りには、必何か絵一枚書てくれ候由、道具屋の鼠屋何某、五兵衛    方へ来り、例の絵はたまり申さずやと問、何枚にても、一枚ニ付銀十匁の定めにて買候由、或時沢庵和    尚の画のうつしをば、これは珍敷絵に候とて、これ計りは、百疋置候由、    彫工横谷宗珉は、一蝶の画の弟子にて、常に其指揮をうけ候由、一蝶好みにて指料に、大工道具一式揃    の脇差出来候由、小尻には墨つぼを彫り候由、宗珉潔癖ありて、常に食事は勿論、美麗の服を着し、一    日の内にも、幾度となく着かへ候由、一蝶其事を笑、わざと近所の雁金□と云る、麁品の餅を出して、    自分一ッを喫してすゝめ候へば、宗珉止事を得ず、こらえてたべるを見て興に入候しとなり文政九年二    月八日、竹本五兵衛処より聞
     ◯英一蝶画隆達像、水墨 色紙傍有隆達直筆小唱、     一 こはだ山路に行暮て、月をふしみのくさまくら     一 いつもみたきは、はなの夕ばえ、雪の明ぼの、須磨や明石の月と、君よなう、     一 草のなはおしけれどなむぞ、わすれぐさはなう     一 し安してしよぞ、物/\し、しあむしもせで、     一 月はゑせもの、しのぶ其よは、なほさゆる     高三隆達は、もと日蓮宗の僧也、堺津顕本寺に住す、故ありて還俗し、高三氏の家にて薬種を賈ふ、     年を経て小歌節を一流謳ひ出しけり、世人隆達流とて大に謳ふ、
    [署名]「北窓翁一蝶図」[印章]「(一字未詳)在山雲一水石間」(朱文丸印)     [署名]「天和三年秋八月 旧草堂主人朝湖僭書」[印章]「刻字未詳」(方印)     [署名]「英一蝶書」[印章]「舊艸堂主人」(白文方印)
   英一蝶初名     多賀猪三郎十歳書、獣人物花鳥花卉巻物 紙本     多賀猪三郎十二歳書、宝船ノ横物上ニ鶴アリ、武清先生蔵
   ◯一蝶不動絹中竪、瀧にうたれ立たる図、背の火炎を瀧つぼの傍に置、縄と剣をひとつに岩穴の間に置    たり、不動片目をすがめたる体、面白く書たり、是も同人(*添え書き「河尻式部少輔」)の所持也
    [署名]「英一蝶写」[印章]「英師弟二川芳窗」(朱文丸印) 三幅対花鳥、紙本     [署名]「一峰閑人朝湖画」[印章]「藤原信香」 天竜川ノ富士、橋アリ     [印章]「天理之節文」(長方印)「雪蕉」(方印)     [署名]「藤信香書」[印章]「刻字不明」     [印章]「壺中天」(長方印)[署名]「己巳秋七月中元日(*添え書き「元禄二年也」)狩林散                        人朝湖臨図」                   [印章]「朝湖」(方印)「印字未詳」(方印)     [署名]「北窗翁図」[印章]「英一蜨虫」(方印)「君受」(方印)          富士川ノ富士、橋アリ、紙地箱書付、一珪、久松町はあしゝ     [署名]「北窻翁一峯書」[印章](丸枠のみ・刻字なし)     [署名]「英一蝶画」[印章」「刻字未詳」     [署名]「英一蝶書」(*添え書き「二代目」)[印章]「信勝之印」(朱文方印)    (補)[印章]「壺中天」(朱文長方印)・「朝湖」(白文方印)・「(一字未詳)摹山」    (補)「印章」「英一蜨」(白文方金)・「長煙一空」(朱文方印)〟    ☆ 嘉永六年(1853)  ◯『俳林小傳』「計部」〔人名録〕③507(中村光久編・嘉永六年刊)   〝暁雲【又和央トモ、姓ハ藤原、氏ハ多賀、名ハ信香、初名猪三郎、後次右衛門ト称ス、蕉翁門人、画ヲ    安信ニ学ビ、書ヲ佐玄龍ニ学フ、英一蝶、朝湖斎、北窓翁等ノ諸号アリ、東都深川長堀町ニ住ス、享保    九年甲辰正月十三日歿ス、七十三歳、二本榎承教寺ニ葬ス、法名英受院一蝶日意ト諡ス】〟    ☆ 安政元年(嘉永七年・1854)  ◯『扶桑名画伝』写本(堀直格著 嘉永七年序)   (国立国会図書館デジタルコレクション)   ◇英一蝶([30]巻十之四 雑家 85/109コマ)   〝信香(一蝶)雑家    姓は藤原英氏【本氏多賀】名は信香 或は安雄 幼名猪三郞また助之進【或は助之丞】後次右衛門と改    む 薙髪して朝湖と号す また一蝶 翠蓑翁牛麻呂 一蜂閑人【後門人に譲る】一門散人 旧草堂 暁    雲堂 北窓翁 隣樵庵 隣濤菴 狩林斎等の諸号あり 俳号を暁雲 或は和央 或は和応【こは花街に    て呼ばれし名といへり】と云ふ 浪花の人 父は医を業とし 多賀伯庵といへりとぞ 信香十五歳の時    江戸に下り 画を狩野安信に学び 後新意を加へて一家をなせり 元禄十一年十二月 故ありて三宅島    【或八丈島とす】に流謫せらる 時に年四十七 島にあること十二年 宝永六年九月帰郷して 江戸本    所深川宜雲寺に寓居し 北窓翁 英一蝶と改む【英氏に両説あり】 其後同所長堀町に住せしとぞ 享    保九年正月十三日死 年七十三    「画事備考」【四十六左】云 右京時信門弟多賀長湖 故あつて三宅島へ流人 後年島より帰て 英一     蝶とあらため江戸に住す    「土佐狩野両家系図」【十五右】云 安信門人 多賀朝湖 始助之丞 英一蝶 北窓翁 狩林斎信香     【有故破門】    (以下『増補近世逸人画史』『浮世絵類考』『浮世絵類考追考』『近世奇跡考』『画乗要略』『一蝶流謫考』記事省略 上掲参照)    「俳人系譜」云 桃青門 暁雲【旧草堂多賀氏】    「俳家人名録」云 暁雲 初和央 旧草堂 英一蝶 多賀氏 芭蕉門」〟  ◯『赤穂義士随筆』〔大成Ⅱ〕24-55(山崎美成著・嘉永七年序)   (「大石良雄肖像」記事)   〝この肖像は、何人か涙襟集を彫刻するの時、東雅と云人の、藤原興礼に縮摸せしめて、かの書の首めに    加へたるなり。画は法橋光琳が筆、賛は俳師去来がみづから句をしるしたるにて、世にめでたきものな    り。この二子は、その頃同じ時の人なり。     興礼云、曾て世に伝ふる所の良雄と老僕との自画像。英一蝶画、妓楼の良雄遊宴図の外、未だ写真の     像有るを見ず。更に模範と為すべきもの無し。是を以て逡巡して日を経る。偶々一友の画軸を携へ草     盧を訪ふ者有り。展観すれば則ち此図なり。予雀躍に堪へず。即刻筆を採り之を縮写す。(以下、略)〟    〈「涙襟集」は『赤穂義士人の鑑』(桜東雄著・嘉永四年自序)の別名。「東雅」は「東雄」の誤りか。藤原興礼は     未詳。大石良雄の肖像は英一蝶の「妓楼の良雄遊宴図」にあるものと光琳の肖像図と二点あるという記事である。     なお「興礼云」以下、原文は漢文〉    ☆ 安政二年  ◯『古今墨跡鑒定便覧』「画家之部」〔人名録〕④207(川喜多真一郎編・安政二年春刊)   〝英一蝶【初メ多賀氏、名ハ信香、朝湖ト号ス、故有テ八丈島ニ流謫セラレテ年アリ、時ニ胡蝶ノ草花ニ    集ルヲ見ル、忽赦書至来セルヲ聞テ、大イニ喜ヒ、乃チ其姓名ヲ更ユ、爰ニ江戸ニ出テ、狩野安信ニ従    ヒ学ンデ其格ヲ更ユ、人物花鳥ヲ善ス、又狂画ニ妙ヲ得、奇情異思見ル者ヲシテ頥ヲ解ク、其島ニ在ル    カ中、嶋中ノ石土及ヒ木皮ヲ以テ設色トス、又常ニ其角等ノ俳家ヲ友トシテ、其技ヲ能ス、翁、暁雲、    北窓翁、簑翠翁等ノ別号アリ、時ニ享保九年正月十三日没ス、年七十三】〟    〔署名〕「英一蝶」    〔印章〕「薛国球印」・「君受」・「中隠、北窓」・「趣在山雲泉石間」・「信香之印」・「薛君受氏」        「君受」・「英一蝶」・「朝湖」    ☆ 安政六年(1859)  ◯『雲烟所見略伝』(清宮秀堅著・安政六年序・『日本画論大観』中)   〝英一蝶、姓藤原、多賀氏、名信香、又安雄、字君受、小字猪三郎、長じて治右衛門、又助之進と称す。    翠蓑翁、牛丸、旧草堂、一蜂閑人〔後一蜂号を以て門人に授く〕、一閑散人、隣樵庵、隣濤庵、北窓翁    等の号有り。〔印譜、薛君受、薛国球印等文有り、薛国蓋し摂国の義、球其元名〕、貞享中薙髪して、    朝湖と称す。摂津の人、父多賀伯庵、某侯の侍医なり、母某氏、一蝶年十五、居を江都に徙し、呉服街    新道に住す。画を牧心斎に学び、名を安雄に改む。後其風を変じ一家を為す。書は佐玄龍を師とし、亦    能品と称す。誹歌を芭蕉に受け、暁雲、又和央蝸舎と号す、其角嵐雪等と友善、最も画に長じ、巧に人    物道釈を作す、更に狂画に長じ、奇態異状、愈出愈妙。元緑十一年十二月、故有りて三宅島に謫せらる。    母を横谷宗珉に托し、発に臨み涙を拭き、朋友門生に謂て曰く「今より海島中に謫居し、死生期すべか    らず、又音信を通ずる能はず、聞く彼の島の産物に塩鯵有り、島人遠く之を江都に鬻ぐと。若(モシ)鯵の    苞中に竹葉を挿む者有らば、則ち我生存の験なり」と。朋友門生皆泣て別る、爾後或は鯵苞中に竹葉を    挿す者を見るときは、則ち人皆其の恙無きを喜ぶと云ふ。人と為り至孝、島に在ること十二年、母を慕    ふの情に堪へず。島中の石及び木皮以て設色すべき者を採りて画を作す。之を江都の朋友に致し、売り    て以て母氏の衣食に給す。其の画北窓翁を以て款と為す、三宅島は江戸南方に在るを以て、母氏に背か    ざるを表すと云ふ。宝永六年己丑九月、赦に遇ひ都に帰る。相伝ふ島に在る日、瑚蝶の草花に集まるを    見る、偶々赦書の至るに会ふ。乃ち其の姓名を変じ、英一蝶と曰ふ。或いは曰ふ、是蓋し前厄を以て荘    周の夢蝶に比すのみ、深川海辺新田宜雲寺に寓す。〔今一蝶寺と称す。是なり〕後永堀に移る。正徳四    年三月晦日、母妙寿歿、哀毀礼を過ぐ、一蝶都に帰りて後、伎倆益々進み、大に世に行はる。享保九年    甲辰正月十三日歿、年七十三、〔二本榎承教寺塔中顕乗院に葬す。法名英受院一蝶日意〕一蝶少時奇を    好み、作る所朝妻舟画、是其の奇禍を得る所以と云ふ。子某、三宅島に在りて生む所早死。門人信勝を    以て養子と為し、一蜂と号し、長八郎と称す。一蜂の義子信種、一舟を号す。皆能く家格を守る。近来    高谷なる者有り、亦其の法を学び、頗る能手と称すと云ふ〔一説、一蝶男二世一蝶、名信勝長八郎を称    す、男一蜩百松又源一を称す、弧雲又一舟と号す。養子と為り一蝶の家名を嗣ぐ。信種一舟又東窓翁と    号し弥三郎と称す。明和五年正月七日歿〕     縑浦漁者曰く「画小技のみ、孝則ち大本、一蝶島に在りて猶数百里外の母を養ふ、岡田子羽、亦人其     の孝順を称す、縦今(タトヘ)二子画を善くせずとも当に不朽なるべきなり、辺華山、椿椿山亦能く親に     事へ、謂ふべし、書中の美事、千載に表見する者、徒然に非ざるなりと。又曰く「君受画価貴重、是     以贋造名に托する者、幾天下に偏り真本今一として得ず、人遂に之を以て之を厭ひ、豈真に君受を知     る者かな」と〟    ☆ 文久二年(1862)  ◯『本朝古今新増書画便覧』「イ之部」〔人名録〕④307(河津山白原他編・文化十五年原刻、文久二年増補)   〝一蝶【狩野探幽門人、英氏、名ハ信香、初メ多賀長湖ト称ス、又暁雲ト号ス、俳諧ヲ善ス、芭蕉ノ門人、    摂州ノ人、江戸ニ住ス、故有テ遠流ト成ル、後赦ニ遇テ帰リ、英一蝶ト改ム、享保九年正月十三日歿ス、    七十二歳】〟    ☆ 慶応二年(1866)  ◯『翟巣漫筆』〔新燕石〕①附録「随筆雑記の写本叢書(一)」p7(斎藤月岑書留・慶応二年記)   〝七月十六日、朝四時より夕七時迄湯島霊雲寺画軸虫払、本堂に掲て拝せしむ、両界曼荼羅其外色々アリ、    涅槃像ハ中大のもの也、八十余軸を見たり、英一蝶筆釈迦文殊普賢絵三軸、探幽筆六十九才書滝見観世    音、草画、見事也〟    ◯「川柳・雑俳上の浮世絵(出典は本HP Top特集の「川柳・雑俳上の浮世絵」参照)   1 一蝶と其角が中は貸し借りも 「五万才3」 文化1【雑】注「英一蝶」     〈英一蝶と俳人其角はかくのごとくに親しい仲〉   2 一蝶寺と菜の花の頃尋ね〟  「亀戸奉額狂句合」嘉永6【雑】     注「一蝶寺(デラ)、英一蝶の墓所。二本榎の承敬寺願乗院」    〈句意不明〉   3 虫干しに出す一蝶の八瀬の牛「柳多留114-35」天保2【川柳】     〈一蝶画、牛を牽く八瀬の黒木売り〉   4 朝妻の麁相一蝶船に乗り  「柳多留111-11」天保1【川柳】     〈「朝妻船」は一蝶作の小唄の題であるとともに、舞装束の女が船上で鼓を打つ一蝶画の題でもあった。加えて      一蝶は将軍綱吉寵愛のお伝の方を、船中鼓打つ姿に描いたために流罪に処せられたという浮説があった〉   5 一蝶の帰島墨絵のやうな形(な)り「柳多留143-4」天保7?【川柳】     〈三宅島から帰ったのちの一蝶は以前の幇間のような振る舞いから品行が改まったというのだろう〉   6 英もしほれて島に一つ蝶   「柳多留147-18」天保9-11【川柳】     〈実際のところ、英一蝶の呼称は帰島からのちのものだが〉   7 一蝶が落ち度我が身も船に乗り「柳多留148-19」天保9-11【川柳】     〈朝妻船を画いた落ち度で自身も流人船に乗るはめに〉   8 島便り哀れ名画の蝶一つ   「柳多留151-36」天保9-11【川柳】     〈一蝶は江戸の老母を養うため島から絵を送っていたという〉   9 蝶も来て吸ふ英の硯水 「柳風雅会狂句合」明治26【続雑】注「画家一蝶」    ☆ 成立年(刊年)未詳  ◯『筠庭雑録』〔続燕石〕(喜多村信節著・成立年未詳)   ◇「英一蝶 大仏師民部」の項 ②370   〝一蝶は多賀伯庵といひし医師の子也、信香といひ、朝湖と号せし頃、仏師民部、村田半兵衛と三人ひと    しく、故ありて、元禄八年遠島に謫せらる、【竜渓小説云、民部、半兵衛、八丈島、朝湖は三宅島に流    さるといへり、南島雑話、三宅島の条、富賀明神本地、薬師堂十二神像、一蝶が筆也、一蝶此島へ流罪    によりて、此外にも筆跡多しといへり、又同書八丈島の条、宗福寺の薬師如来、大日如来は、法橋民部    作とあれば、これ又、民部こゝに謫居の間作れりし事としるべし、◯(ママ)何の罪科といふ事さだかなら    ず、江戸真砂の説も信じがたく、又、竜渓小説にいへるは、殊更妄誕也、大田南畝の話に、不受不施法    華の故なりと、いへり、さもありしにや、委は聞だりき】宝永四年、御赦によりて帰郷しぬ、【一説に、    元禄十一年より宝永六年迄、十二年の間謫居せり、といへれど、予が家の日記、宝永五年子三月十二日    の処、民部が名見えたり、御赦にあへるも、三人同時なるべし】朝湖は姓名を変て、英一蝶といひしか    ど、民部などはなほもとの名にて有し、半兵衛も同きにや、詳ならず、この輩、わかきほどは遊里に戯    れ、大家の幇間ともなりしかど、さすらへの事の後は、昔の如き事あるべくもあらねど、そのかみより、    知己の家などの酒宴には招かれて、やみがたきには出会せしなるべし、其頃の酒席には、酌取女といふ    ものはなく、鳴ものは瞽者のわざにて、袴着て出たるもの也、朝湖もと呉服町一丁め新道に住しが、配    所より帰りては、しばし深川長堀町に居り、其後また、旧宅のあたりに帰住せしにや、(以下「四季絵    の跋」と一蝶の母妙寿尼、謫居の間横谷宗珉に養われて、帰省後正徳四年身まかりし記事、略)一蝶は    享保九年正月没す、享年七十三とぞ【二本榎なる承教寺の内顕乗院に葬る、日蓮宗也、墓所一覧に、字    は君受とあるは、法名の英受をまがへたる歟、(「柳川直政」の記事、略)】◯(ママ)按るに、一蝶が父    伯庵は、近江の産なるべいし、江洲に多賀氏あり、一蝶が朝湖と号せしも、朝妻舟の作もよしある也、    (中略)宝永八年辛卯三月十六日、暮より樽屋三右衛門へ振舞に参候、竹内徳庵、民部、一蝶、お留都    出会、八ッ半頃帰宅とあり、(中略)お留都といふは、三絃をならす盲法師也、民部は石町に居たりと    ぞ、江戸真砂に、村田半兵衛は、本石町山丁目に住りといへれば、近隣なるべし〟   ◇「横谷宗珉」の項 ②372   〝(筆者注、宗珉)四十歳の時【正徳年中】始て彫刻の法一家を立、専ら英一蝶が粉本を用、【草稿を一    蝶に書しめたるなり】これに依て、世に絵風と称せらる〟   〝朝妻船の小柄は、すべて銀の四分一がねにて、表は、人に知たる柳の蔭に遊女舟に乗たる図、裏は、四    分一がねに金と銀と二筋斜に入たる上に、彼小唄を毛彫にしたり、是も一蝶が書しなるべし、(中略)    宗珉が子孫のもたりし一蝶がかける蝙蝠の下絵は、美濃紙一枚にかはほり五ッばかりあり〟  ◯『筠庭雑録』〔大成Ⅱ〕(喜多村筠庭・成立年未詳)   ◇「英一蝶 仏工民部」の項 ⑦120   〝宝永八年辛卯三月十六日暮より、樽屋新右衛門へ振舞に参候。武内徳庵、民部、一蝶、お留都出会。八    半頃帰宅とあり。(略)一蝶はそのかみ多賀朝湖と称せし頃、仏師民部、村田半兵衛、三人ひとしく故    ありて、元禄八年遠島に謫せらる。〔割註 この故さだかならず。江戸真砂の説も信じがたく、又竜渓    小説などいへるは殊に妄誕也。大田南畝の話に、不受不施法華の故也といへり。さもあるにや〕宝永四    年御赦によりて帰郷せり。〔割註 一説に、元禄十一年より宝永六年迄、十二年の間謫居せりといへれ    ど、予が家の日記宝永五年子三月十二日の処、民部が名見へたり。御赦にあへるは三人同時なるべし〕    朝湖は姓名を変て、英一蝶といひしが、民部などはなほもとの名にて有しと見ゆ。〔割註 半兵衛も同    じきにや。詳ならず〕これらの輩、わかきほどは遊里に戯れ、大家の幇間ともなりしかど、さすらへの    事の後は、昔の如き事あるべくもあらねど、そのかみより知己の家などの酒宴に招れて、やみがたきあ    たりには出会せしなるべし。(略)一蝶もと、呉服町、一丁目新道に住ひしが、配所より帰りては、し    ばしが程深川長掘町に居れり。其後また旧宅のあたりに帰住せしにや。(以下「一蝶が四季の絵の跋」    省略。全文は「大田南畝全集」十八巻「英一蝶」の項「英一蝶四季絵跋」参照)    〔割註 此文(一蝶が四季の絵の跋)によれば、さすらへの間久かりしとみゆ。又世にいふ所の百人女    﨟に似たる事の咎めも有しにや〕一蝶が謫居の間、母妙寿尼〔割註 一蝶は多賀伯庵といひし医師の子    也〕は、友人横谷宗珉が家にやしなはる。一蝶帰りし後、正徳四年に身まかれり。宗珉が許に給仕せし    女(〔割註〕あり。略)の物語に、常に一蝶来りて三四日程止宿せし。大なる法師にて顔にもがさの跡    ありし也。また宗珉は痩がたちにてよき男なりといへり。一蝶は享保九年正月歿す。享年七十三といふ。    〔割註 二本榎なる承教寺の内顕乗院に葬る。日蓮宗也。墓所一覧に、字は君愛とあるは、法名の英受    をまがへたる歟(以下、略)〕     一蝶ハ近江産ナルベシ。按ルニ、江州ニ多賀氏アリ。朝湖ノ名モ、近江ノ人ナル故トシラル。浅妻舟     ノ作モヨシアル也。竜渓小説云、民部半兵衛ハ八丈島ニ流サル。南島雑話三宅島ノ条、富賀明神本地     薬師堂、十二神像一蝶ガ筆也。一蝶ハ此島ヘ流罪ニヨリテ、此外ニモ筆跡多シトイヘリ。又同書八丈     島ノ条ニ、宗福寺ノ薬師如来、大日如来ハ、法橋民部ノ作トアレバ、コレ又民部コヽニアリシ時作リ     シナルベシ。元禄四年日記、谷中感応寺、碑文谷法華寺、小湊誕生寺、悲田宗ト唱ヘ、御法度ノ不受     不施ノ類ナルニ依テ、御咎ヲ蒙ル事見エタリ     (以下、紀逸の雑話抄を引き、朝妻舟の画賛に言う近江の朝妻の江に関する記事あり。略)〟    〈「江戸真砂」は『江戸真砂六十帖』(「燕石十種」第一巻所収)。「百人女臈」の出版が原因で伊豆大島に流罪とす     る。竜渓小説」は未調査。横谷宗珉は彫金師〉   ◇「横谷宗珉」の項 ⑦125   〝朝妻舟の小柄は、すべて銀の四分一がねにて、表は人に知りたる柳の蔭に船ありて遊女が乗りたる図。    裏は四分一銀に、金と銀と二筋斜に入りたる上に、彼歌を毛彫にしたり、常に一蝶が絵を以て彫ものゝ    下絵とす。昔後藤光乗は、狩野元信が絵を用ひて彫鐫せしと一般也。宗珉が子孫のもたりし、一蝶がか    ける蝙蝠の下絵は、美濃紙一枚にかはほり五つばかりあり。是も奇跡考に出たると異なり〟    〈「奇跡考」は山東京伝の考証『近世奇跡考』(文化元年刊)。本稿参照〉  ◯『柳庵随筆』〔大成Ⅱ〕⑰210(栗原柳庵著・成立年未詳)   〝一蝶 江戸真砂〔割註 和泉屋某作、宝暦の頃の書〕云、本石町三丁目村田半兵衛、絵師和応、仏師式    部とて、此三人は其頃の至り牽頭なり、其節六角越前とて新地一万石賜はり、屋敷小川町にあり。此越    前殿は桂昌院様甥のよし(姪婿なり)、京都より下り俄大名なり。(桂昌院の姪、六角越前守の室の系    図あり。略)金銀は不足なし。吉原へ右三人めしつれて通ひ賜ふ。大かた浅草伝法院へ入、裏道より田    甫にぬけ通りける。或時田甫に町人切殺して縮緬羽織から袖ちぎりしや落てかたはらにあり。紋鶴の丸    なり。大かた六角殿と知人申合ぬ。是によつて伝法院御吟味の上遠慮して引籠る。六角殿も申訳立がた    く知行めし上られ、外の大名へ遠く御預に被成し。其頃百人女﨟といふ書物一冊、本屋摺出しぬ。是は    大名がたの御本妻の器量善悪をはじめ、食物の好不好、其品々を明白に仕たり、上より御咎ありて本屋    牢舎になりて、何者の作り出せるとの詮議になり、村田半兵衛、絵師の和央、仏師の式部の作なりと訴    る。右三人めし捕れ、牢舎して伊豆の大島に流罪、十七八年めに帰参して、和央は英一蝶と名を替へて    暫く暮しぬ、半兵衛も式部も程なく病死す。〔割註 珍説反故文庫第四にも此説あり。文体全く同じ。    反故文庫は享保元文の作なり〕二本榎承教寺過去帳云う、英一蝶名信香、字君受、号北窓翁。享保九年    正月十三日歿。〔割註 顕乗院也。七十三歳〕或書云、呉服町一丁目新道勘右衛門店の者多賀潮湖(四    十二歳)。元禄六年酉八月十五日入〔割註 北条安房守掛り〕。御詮議之儀有之に付安房守宅より揚り    屋へ入。元禄十一年寅十二月二日三宅島え流罪、御船手逸見八左衛門方え渡ス。本石町四丁目茂左衛門    店仏師民部(「上立式」の添書あり)、本銀町三丁目次郎左衛門之者村田半兵衛、元禄六年酉八月十五日    入〔割註 是者朝湖一巻之者にて、御詮議有之間、安房守方より揚り屋へ入。右之者共元禄十一年寅十    二月二日八丈島え流罪、御船手逸見八左衛門方え渡ス。宝永六年九月大赦之節御免にて参上〕秋興図奥    書、元禄己巳正月吉祥日、狩林散人潮湖参藤原信香謹書(「潮湖」印)(「多賀氏」印)深川宜雲寺伝    説、宜雲寺開山卓禅和尚に参禅して島より帰りてのちは、当時裏門脇の小庵に住居せしなり。客殿の障    子の裏に書たる松は、島にて常に見馴し松なりしとなり〟    〈「江戸真砂」は『江戸真砂六十帖』で『燕石十種』に所収。「村田半兵衛牽頭之事」の項参照〉  ◯『零砕雑筆』〔続大成〕(中根香亭著・成立年未詳)   ◇伝記 ④294   〝英一蝶が事    柳庵随筆に曰はく、江戸真砂【和泉屋某作宝永中の書】に云ふ、本石町三丁目、村田半兵衛・絵師応和    ・仏師式部とて、此三人其比索頭(タイコ)なり。其頃六角越前守とて、新地一万石賜はり、屋敷小川町に    在り。此越前は、桂昌院様甥の由、【姫婿】京都より下り、俄大名なり。金銀は不足なし。吉原へ右三    人召連れて通ひ給ふ。大方浅草伝法院へ、入り田甫へ抜けて通ひ給ふ。     北小路太郎兵衛藤原宗正─┬─ 道 芳     ├─ 女 桂昌院 ┌─ 資 俊     └─ 宗 資───┴─ 女六角越前室    其頃田甫に人殺ありて、六角殿申訳立たず、知行召上られ御預けとなる。其節百人女臈と云ふ書出板あ    り。是は大名方の奥方の善悪を評判したる本にて、忽ち差留らる。右詮議の処、村田半兵衛・絵師応和    ・仏師式部の作なること露顕し、伊豆の島へ流され、十七八年目に帰さる。半兵衛式部は、程なく病死    す。「元禄六年八月十五日、北条安房守掛り、十一年十二月二日遠島」、深川宜雲寺伝説、応和宜雲寺    開山卓禅和尚に参禅して、島より帰て後は、裏門脇の小奄に住せしとなり。客殿の障子の裏に画きたる    松は、島にて常に見馴し松なりとなり     淑按ずるに、一蝶が罪を得たる事は、種々に伝へ来りたれども、此の文尤も近きに似たり。但し其の     獄の初めを元禄六年としたるは如何にや。数字に誤りあらんと思はるゝに由り、他書と対校せんこと     を要す。応和は、一蝶が数号ある中の一なり〟   ◇三宅島 ④307   〝一蝶在島中の画    七島日記【寛政丙辰の筆記】に云はく、三宅島の中に薬師堂あり。今日詣でたるに、境内広く椎楢など    大木繁り合ひ、巌には玉蔦多く、苔むして草木のたゝずまひいとものふりたり。左右の扉に仁王の画あ    り、仏前の欄間に龍の画あり、共に英一蝶の筆なり。一蝶此の島に在る内、つれ/\なるまゝに何くれ    と画きたるなりといへば、猶あるべしと尋ぬるに絶えてなし。価の貴き故に、皆江戸へ出して売りたり    といふ。又神主が秘蔵したる菅神の画、松樹の本に神像を画けり。松が枝に御衣の袖を隠したる筆ぶり、    上手のしわざうち感じぬ。又浄土宗の寺に、善導大師円光大師の対画あり。真画にていとめでたけれど    も、仏画故に残りたるなるべし。八丈島に奈良ざらしの帳子へ、源氏絵を墨のみにていと細やかに袖に    も裾にも残る所なく画きたるあり。又七福神の画、えびすの鯛をさし上げて舞ふ風情いとをかし。松に    鶴の二幅対など、皆三宅島にてかきたるなりといひし〟   ◇小唄 ④311   〝一蝶の小唄     待乳しづんで、梢乗り込む今戸橋、土手の相傘片身がはりの夕しぐれ、首尾を思へば、逢はぬ昔しの     細布と、思ふてけふは御ざんした、さういふことを聞きに、    右は墨水消夏録に見へたるを、拙著歌謡字数考の中に収め置きたり。近き頃木村架空同書を上梓せよと    勧め、自ら校正の労を執りてくれられたるが、其の言に、此の唄末の方誤りあるべし、自分是に似たる    唄を聞きしかど、今は碇と覚え居らず、誰にか問ふべしとの事なりしが、やがて秀英舎の職工中に、其    の唄を知れるものありきとて、其の工人の書きたるを、其の儘贈りこされたり。即ち左の如し。     柳橋から小舟でいそがせ、山谷堀、土手の夜風が、ぞつと身にしむ衣紋坂、君を思へば、逢はぬ昔が     ましぞかし、どうして、今日は御ざんした、さふいふ初音を聞きに来た。    唄の品格は下れども、斯の如くなれば、意昧は能く通ず。思ふに此の唄は、前の唄を本として、更に俗    調に改めたるものと見えたり。さすれば前の唄の末の一句は、次ぎの唄の如く、「初音を聞きに来た」    の誤りなるべし。但ししか改むとしくも、猶「細布と」の下に脱語あるに似たり〟     ◯「本朝近世画工鑑」(番付 刊年未詳)〔番付集成 上〕    (最上段 東)    〝大関 寛文 自適尚信  関脇 正徳 養朴常信  小結 元禄 一蝶信香     前頭 文化 田中訥言〟  ◯「【中興/近代】流行名人鏡」(番付 一夢庵小蝶筆 板元未詳 刊年未詳)   (東京都立図書館デジタルアーカイブ 番付)   (上段 東)〝画工 享保 英一蝶(ほか略)〟  ◯「今昔名家奇人競-歌林文苑雅人遊客」(番付 快楽堂 刊年未詳)   (東京都立図書館デジタルアーカイブ 番付)   〝画人 英一蝶/金工 横谷宗眠〟    〈一蝶が罪をえて三宅島に流されたとき、江戸の老母の面倒をみたのが装剣金工家として名高い横谷宗珉〉  ☆ 明治元年(慶応四年・1868)  ◯『新増補浮世絵類考』〔大成Ⅱ〕(竜田舎秋錦編・慶応四年成立)   ◇「英氏系譜」の項 ⑪182
   「英一蝶系譜」   ◇「英一蝶」の項 ⑪183   〝英一蝶    姓藤原、多賀氏、名は信香、一に安雄、俗称助之進、或は次右衛門、幼名猪三郎といふ。承応元年摂州    大坂に生る。父を多賀伯菴と云。某侯の侍医也。寛文六年十五歳の時江戸に下り、狩野安信〔割注 安    信は狩野孝信の三男、名永真、称源四郎、号牧心斎、右京之進と称す。入道して法眼に叙す。貞享二年    九月四日卒、七十三才〕の門人となる。剃髪して朝潮と称す。翠蓑翁、牛丸、暁雲、旧草堂、一蜂閑人、    隣樵菴、鄰濤菴、北窓翁、和央、和応等数号あり。性親に孝心ふかし。書を佐玄竜に学びて、後一家の    風をかきて書名あり。俳諧を芭蕉に学び、其角、嵐雪を交り深し。元禄十一年十二月〔割注 八年とす    るは非なり〕、呉服町一丁目新道に住し時故ありて謫せらる。時に歳四十七歳。一蝶に老母あり、剃髪    して妙寿といふ。一蝶、八丈島〔割注 一説に三宅島と云〕に流せられて後、横谷宗珉が家にやしなは    る。〔割注 宗珉俗称弥次兵衛、桧物町に住す。正徳三巳年三月晦日に歿す〕一説に、一蝶配流せられ    老母を養ふ親族なし。官舎へ此事を願ひ、謫居より画を売事を免ぜられてより、謫居の図をこまかに画    て、ひさぐべき画の中へ入て母の元へ送り越したりしが、宗珉の家に残りしを後に、三谷某の蔵になり    しと云。一蝶謫居に在事十二年、宝永六年九月〔割注 四年と為は非なり〕、帰郷して後、英〔割注     一説に花房とす。母の姓也と云〕一蝶と称し、北窓翁と号す。深川長掘町に住ぬ。其母一蝶帰郷の後、    正徳四年三月晦日歿せり。深川霊岸寺の後ろ海辺新田宜雲寺といふ禅院あり。一蝶帰郷して後、したし    く此寺に住ける由、寺中の絵障子のたぐひすべて一蝶の筆なり。ゆゑに世人一蝶寺といふ。其絵近頃の    回禄に亡しとぞ。享保九年甲辰正月十三日病て歿せり。享年七十三歳。二本榎承教寺塔中(日蓮宗)顕    乗院に葬す。      法名 英受院一蝶日意  辞世        まぎらかす浮世の業の色どりもありてや月に薄墨の空
   「英一蝶四季之絵跋」    湯原氏記に云、元禄七年四月二日、従桂昌院様、六角越前守御使被遣し金屏風一双(吉野、立田)多賀    朝潮筆本願寺也。同一双(大和耕作)同人筆新門也〟    ☆ 明治二年(1869)  ◯『かくやいかにの記』〔百花苑〕⑥406(長谷川元寛著・明治二年正月跋)   〝松平周防守殿伯父巴豆友翁方より、三宅島へ流罪多賀長湖方へ【後英一蝶改】米三俵銭三貫文を賜る。    其節江戸にて時流る唄を載。唄に、      久太郎町の舂米や丸屋の手代の五兵衛、主人の娘子慮外して、なんにも慮外はしませぬが、帯して      しんじよと言たれば、あんなおなかにならんした。めいよなはらじやへ。    一蝶久しく島の住居こそいたせ、かよふなるいやしき唄はうたい不申と返し。返唄に、      日記にすぐれし名所は、丸屋の蘆のふしの間に、海原遠きいさり船。漁人の枝折へなんにも入江の      夕栄に、帯する富士の朝霞、ァゝ 心もうき島や。めいよなはらじやへ。     是は牧野何某が記されたる、一蝶記の文中に見へたり〟    ☆ 明治三年(1870)    ◯『睡余操瓢』〔新燕石〕⑦附録「随筆雑記の写本叢書(七)」p7(斎藤月岑書留・明治三年頃)   〝雪旦子話       英一蝶、師宣か画る婦人の張り物する図の傍に柳を画て     洗濯の相手にたゝぬ柳哉  一蝶〟    〈雪旦子とは斎藤月岑の『江戸名所図会』の挿絵を担当した長谷川雪旦。月岑との関係は親密であった。菱川師宣の画     に、一蝶が柳の画と発句の賛を添えたのである〉  ☆ 明治十三年(1881)    ◯『観古美術会出品目録』第1-9号(竜池会編 有隣堂 明治14年刊)   (観古美術会(第一回)〔4月1日~5月30日 上野公園〕)   (国立国会図書館デジタルコレクション)   ◇第三号(明治十三年四月序)      (出品者)   〝英一蝶 寒山拾得之図 英一蝶筆 二幅 永井利兵衛〟   ◇第五号(明治十三年四月序)   〝英一蝶 諸名家画稿 英一蝶筆 一巻 高木正年         西王母之像 一蝶筆 一幅 栗山善四郎         東方朔之像 一蝶筆 一幅 栗山善四郎〟   ◇第七号(明治十三年五月序)   〝英一蝶 仏画過去帳 恵心僧都筆 英一蝶筆 一帖 尾上菊五郎        橋姫之図        一蝶筆  一幅 市川団十郎        大黒天之像       英一蝶筆 一幅 大川通久〟   ◇第八号(明治十三年五月序)   〝英一蝶 小屏風 牛馬ノ図 英一蝶筆 一隻 高木正年        村橋秋色之図   英一蝶筆 一幅 矢代於菟        牛若麿弁慶之図  一蝶筆  一幅 小河一敏        女児弄雪之図   英一蝶筆 一幅 塩田真        霊昭女之像    一蝶筆  一幅 河鍋暁斎〟   ◇第九号(明治十三年五月序)   〝英一蝶 牟礼高松之図 英一蝶筆 一幅 伊達宗城〟  ☆ 明治十四年(1881)  ◯『第二回観古美術会出品目録』(竜池会編 有隣堂 明治14年刊)   (第二回 観古美術会〔5月1日~6月30日 浅草海禅寺〕)    (国立国会図書館デジタルコレクション)   ◇第一号(明治十四年五月序)(出品者)   〝英一蝶 義経高松図 一幅 伊達宗城〟   ◇第二号(明治十四年五月序)   〝英一蝶 乗牛布袋図 一幅 細田安兵衛〟   ◇第三号(明治十四年五月序)   〝英一蝶 孔明関羽画 二幅 土岐元魯        蟻通画   一幅 岡田龍◎        蹴鞠画   一幅 竜池会々員 山本五郎〟   ◇第四号(明治十四年五月序)   〝英一蝶 高砂翁嫗図 双幅 宇佐見惟新        増賀聖人  一幅 吉村安之助        商山四皓  一幅 安川平左衛門        英一蝶画  一幅 長島常三郎〟  ◯『明治十四年八月 博物館列品目録 芸術部』(内務省博物局 明治十五年刊)   (国立国会図書館デジタルコレクション)   〝第四区 舶載品(18コマ/71)    英一蝶画 松に白鷺 画扇 一本〟  ◯『新撰書画一覧』(伴源平編 赤志忠雅堂 明治十四年五月刊)   (国立国会図書館デジタルコレクション)   〝英一蝶  名ハ信香、初多賀長湖ト称ス、暁雲ト号ス、摂州ノ産、江戸ニ住ス。故ヘ在テ八丈島ニ流謫         セラル、一時胡蝶ノ草花ニ集見、忽赦遇 帰名英ノ一蝶ト、更画◎、狩野安信ニ学後 自ラ         一格ヲ成ス、享保九年没ス 七十二〟  ◯『東京じまん』(加藤岡孫八編 加藤岡孫八出版 明治十四年九月刊)   (国立国会図書館デジタルコレクション)   「皇国古今名誉競」   〝新画白 猩々坊暁斎  上画罪 英一蝶    新画  柴田是真   仏画  どもの又平〟    〈現在と過去のその道の名人をいろいろな観点から面白おかしく対照する戯れ。暁斎の「白」は明治三年(1870)の泥酔     騒動の顛末を暗示したもので、一蝶の「罪」は元禄十一年(1698)の流罪を踏まえる。ただ一蝶の「上画」の意味がよ     くわからない。次の是真と吃の又平との組み合わせ、前者は実在で後者は芝居の登場人物、しかも又平が生業として     いたものは仏画ではなく大津絵、また「傾城反魂香」の芝居で画いたのは自画像である。これもどのような観点で一     対としたものかよく分からない〉  ☆ 明治十五年(1882)  ◯『第三回観古美術会出品目録』(竜池会編 有隣堂 明治15年4月序)   (第三回 観古美術会〔4月1日~5月31日 浅草本願寺〕)   (国立国会図書館デジタルコレクション)   ◇第一号(明治十五年四月)(出品者)   〝英一蝶 兎念仏図 一幅 秋葉福次郎〟   ◇第二号(明治十五年四月序)   〝英一蝶 帷子裁源氏絵 一幅 畠山如心斎        万歳図    一幅 新井半十郎        英一蝶画   一幅 宇田川金蔵〟   ◇第三号(明治十五年四月序)   〝英一蝶 三十六歌仙 一帖 工商会社        円窓画   一帖 工商会社        狂画    一巻 瓜生寅〟   ◇第四号(明治十五年四月序)   〝一蝶  獅子舞図 一幅 長尾景弼〟   ◇第五号(明治十五年四月序)   〝一蝶  司馬温公図 一幅 竹原左右        四季画屏風 一双 佐竹義理        小屏風   一双 佐竹義理〟  ◯『内国絵画共進会 古画出品目録』(農商務省版・明治十五年刊)   (内国絵画共進会(第一回)〔10月1日~11月20日 上野公園〕)   (国立国会図書館デジタルコレクションより)    英一蝶筆            (出品者)     中蓬萊左右松ニ藤稲脊 三幅対 石川成徳     中寿星左右昇降鯉   三幅対 石川成徳     年中行事屏風     一双  岡部長職     鍬ニ苞菊       一幅  稲塚長敬     柳下人物       一幅  桜井忠興     雨宿り        一幅  久松定謨     朝妻舩        一幅  桜井忠興     朝妻舩        一幅  松平乗承     毘沙門        一幅  河鍋暁斎     山水         三幅対 黒田長戌     聖像         一幅  榊原政敬     山水         二幅  水野忠弘     釜払         一幅  桜井忠興     浅妻舩        一幅  丹羽長裕      近世奇跡考云、一蝶若かりし時友なる人、都よりのつとにとて、也足軒通勝卿、舩中妓女といふ題      にて「このねぬる朝妻舟のあさからぬ契りをたれにまたかはすらん」とみづから遊したる短冊を、      得させしをよろこびて秘蔵せしが、ある年近江の彦根にいたり、こゝかしこ名所見めぐりけるうち      に、朝妻(近江国坂田郡)の古跡に目とゞまり、通勝卿の詠歌をおもひいだして、懐旧のあまり、      やがてかの朝妻舟のかたをゑがき、且朝妻舟といふ小歌をつくりけるとなん    英一蝶・狩野尚信筆 表舞楽 裏獅子屏風 一双(出品者)有馬頼萬  ☆ 明治十六年(1883)  ◯『龍池会報告』第壱号 明治十六年十月刊    (国立国会図書館デジタルコレクション)   「第一回巴里府日本美術縦覧会記事」    〈明治十六年六月、日本美術の展覧会がパリで開催される。それに向けて龍地会が選定した作品は、狩野・土佐・四     條・浮世絵を中心に、新画五十一幅、古画の二十二幅の合計七十三幅。そのうち浮世絵に関係ある古画は次の一点〉    〝古画 英一蝶 大森彦七ノ図〟    〈参考までにほかの作品を引いておく。可翁「豊干禅師像」探幽「四睡図」光国「春日曼荼羅図」秋月「寒山拾徳図」     元信「山水図」相阿弥「鷹図(二幅対)」古永徳「霊昭女図」光起「鶉図(二福対)」元信筆「左右鷺/中釈迦図(三     幅対)」雪舟「山水図」光琳「鉄拐仙人図」常信「松ニ小鳥図」光起「左須磨関弥/右宇治網代(二幅対)」探幽「月     下山水図(三幅対)」〉  ◯『第四回観古美術会出品目録』(竜池会編 有隣堂 明治16年刊)   (第四回 観古美術会〔11月1日~11月30日 日比谷大神宮内〕)   (国立国会図書館デジタルコレクション)   ◇第一号(明治十六年十一月序)(出品者)    英一蝶      奴でんがくを喰ふ図 (空白) 黒川常徳     西王母画       一幅 高木正年   ◇第二号(明治十六年十一月序)    英一蝶 中李白 左右龍 三幅 佐野常民〟  ◯『明治画家略伝』(渡辺祥霞編 鴻盟社等 明治十六年十一月刊)   (国立国会図書館デジタルコレクション)   〝第一区 巨勢、土佐、住吉派之類    英一蝶       本姓ハ多賀、幼名ハ猪三郎、摂州ノ人ナリ、後治右ヱ門、又助之進ト称ス、画ヲ狩野安信ニ学ビ、信     香ト改メ、後安雄ト改ム、朝湖、暁雲、和央、旧章堂、一蜂、隣松庵等ノ諸号アリ、元禄中当世百人     一首ヲ著シ、執政者ヲ譏ルニ坐セラレ、大島ニ流サル、同十二年赦サレテ帰り、後英一蝶又北窓ト号     ス、享保九年正月死ス、年七十三、俳諧ノ号ヲ翠簑ト曰フ、又朝妻舟ノ謡ヲ作テ世ニ行ハル、始テ女     達磨ノ図ヲ画ク〟  ☆ 明治十七年(1884)  ◯ 第二回 内国絵画共進会〔4月11日~5月30日 上野公園〕   1『第二回絵画共進会古画出品目録』農商務省版・明治17年刊(国立国会図書館デジタルコレクション)   〝一蝶    中瀧 左右燕 三幅(出品者)稲葉正邦          朝妻舟    一幅(出品者)同上〟   2『(第二回)内国絵画共進会会場独案内』村上奉一編 明治十七年四月刊   (国立国会図書館デジタルコレクション)   〝英一蝶 画ハ狩野安信ヲ学ブ。一家ヲナス。名ハ信香、朝湖ト云フ。享保九年卒ス〟  ◯『第五回観古美術会出品目録』(竜池会編 有隣堂 明治17年刊)   (第五回 観古美術会〔11月1日~11月21日 日比谷門内神宮教院〕)   (国立国会図書館デジタルコレクション)   ◇第一号(明治十七年十一月序)   〝英一蝶 躍ノ図 一幅(出品者)池田輝知〟   ◇第二号(明治十七年十月届)   〝英一蝶 寒山拾特 双幅(出品者)松平乗承         牧童図  一幅(出品者)五島盛成〟  ◯『石亭雅談』〔続大成〕⑨206(竹本石亭著・明治十七年六月刊)   〝茄子侈を示す  英一蝶    画を作るに奇逸の態をなすものは其人となすも亦奇也。市肆に一の仏龕(がん)あり。奇古愛すべし。貴    客豪族争て之を買はんとす。英一蝶之を聞き、直に往て橐囔(さいふ)を傾け、以て吾が有となす。又新    茄子を販(う)るものあり。其価貴くして人只間看(すけん)して過ぐ。一蝶多銭を擲(まげう)ち、忽に之    を買得て乃(すなはち)古龕を置て燈を点じ、茄子を調理して之を噉(くら)ひ、傲然人に謂て曰く、是天    下第一の快楽也。    仮名世説に嵩谷が話とて曰く、一蝶晩年手ふるへて、月などかくにぶん廻し用ひたるが、夫さへ思まゝ    ならざりければ、おのづからいざよふ月のぶん廻し〟    〈文化十三年の項『近世叢語』参照〉  ◯『扶桑画人伝』巻之二(古筆了仲編 阪昌員・明治十七年八月刊)   (国立国会図書館デジタルコレクション)   〝一蝶    多賀氏、名ハ信香、又安雄、字ハ君受、幼名伊三郎、長ジテ治右衛門、又助之進ト云フ。翠蓑翁牛丸・    旧草堂一蜂閑人【後チコノ号ヲ門人ニ授ク】一閑山人・隣樵庵・鄰濤庵・暁雲・六巣・澗雪・宝蕉・和    央・狂雲堂等ノ数号アリ。大阪ノ人、父ハ多賀伯庵ト云フ。何某侯ノ侍医ナリ。貞享年中薙髪シテ朝湖    ト号ス。亦自ラ潮湖トモ書ス。一蝶十五ニシテ父トトモニ東都ニ移リ、呉服町新道ニ住ス。若年ヨリ画    ヲ好ミ、狩野安信ニ学ンデ研究ス。年久シフシテ遂ニ妙手ニ至ル。安雄ハ其時ノ名ナリ。当時書家ニ佐    玄龍・佐文山アリ、俳諧ニ芭蕉・其角・嵐雪アリ、金工ニ横谷宗珉アリ、通客ニ紀伊國屋文左衛門アリ、    皆親睦ノ友タリ。依テ画風ニ自ヅカラ俳興アリテ画毎ニ意外ノ狂図アリ、観ルモノ頤ヲ解クニ至ル。遠    ク鳥羽僧正ヲ去ルノ後チ、戯画ハ一蝶ヲ祖トスベシ。又俳諧ヲ好ミ、書ハ玄龍ニ学ンデ能シ、書画一筆    ノ名図アリ、則チ朝妻船浪越ノ松◎掛ノ図等ナリ。其余ハ挙テ計フベカラズ。一蝶ノ画風ハカリノ如ク    ナリ。或書ニ浮世絵ニ下スハ誤リナリ。狩野家正風ニシテ戯レニ奇画アリシノミ。元禄十一年十二月二    日、故アリテ三宅島ヘ謫セラレ阿古邑ニ居ス、四十七歳ナリ。在留十二年此間、島ニアリテ画キシヲ島    一蝶ト称シ、コトニ賞翫ス。帷子ノ服ニ画キシ源氏ノ図、今散ジテ稀ニ人之ヲ有ス。宝永六年九月赦ニ    遇フテ東都ニ帰ル、五十八歳。一蝶生涯ノ行状ニ奇談多クアリト雖モ、諸書ニアレバ爰ニ略ス。享保九    年正月十三日没ス、七十三歳。江戸二本榎承教寺中顕乗院ニ葬ル。法名英受院一蝶日意居士ト云フ。明    治十六年迄百五十九年〟(◎の漢字は「竹冠+輪」)  ☆ 明治十八年(1885)  ◯『第六回観古美術会出品目録』(竜池会編 有隣堂 明治18年刊)   (第六回 観古美術会〔10月1日~10月23日 築地本願寺〕)   (国立国会図書館デジタルコレクション)   ◇第一号(明治十八年十月序)  (出品者)   〝英一蝶 牧童図     一幅 五島盛成〟   ◇第二号(明治十八年十月序)   〝英一蝶 蛭子像染抜暖簾 一幅 日報社〟   ◇第三号(明治十八年十月序)   〝英一蝶 通夜物語図   一幅 赤塚輯  ☆ 明治十九年(1886)  ◯『第七回観古美術会出品目録』(竜池会編 有隣堂 明治19年刊)   (第七回 観古美術会〔5月1日~5月31日 築地本願寺〕)   (国立国会図書館デジタルコレクション)   ◇第一号(明治十九年月序)(出品者)   〝英一蝶 朝妻船図 一幅 松平乗承        朝妻舟  一幅 笠井庄兵衛        能楽図  二巻 内藤六十麿        牧童図  一幅 大関定次郎〟   ◇第二号(明治十九年五月序)   〝英一蝶 盆踊図  一幅 若井兼三郎〟   ◇第三号(明治十九年五月序)    英一蝶 菊慈童 左右ニ菊 三幅 渡辺六雄        耕作図   屏風 一双 若井兼三郎  ◯「読売新聞」(明治19年5月15日付)   〝第七回観古美術会品評      英一蝶 小町踊の図  着色    此小町踊の事は柳亭種彦が『還魂紙料』に委しく論(あげつら)へり 其中に中古風俗志を引て曰く 昔    は七月六日頃より小町躍といふ事はやりて 七八歳ごろの女子 紅絹(もみ)の裂(きれ)金入などにて鉢    巻をさせ 下髪頭に造花(つくりばな)をかざり 色美しき手襷(たすき)をかけて達(だて)なる染もやう    を着せ 団扇太鼓に房のつきたるを持せ 四五人も召使ふほどの町人の娘は肩車に乗せ 乳母抱守(だ    きもり)等つきそひて 日傘をさゝせ云々(しか/\) これによく符合せり    英一蝶 姓は藤原 名は信香 俗称を多賀助之進 又次右衛門といふ 始め狩野安信門人となり 剃髪    して潮湖と号し 翠簑翁北翁等 其他数名あり 元禄十一年四十七歳の時 事故ありて八丈島に配流せ    られ 宝永六年九月赦あひて帰る 享保九年正月十三日没す 年七十三 法名英受院一蝶日意〟    〈この品評は上掲「目録」の若井兼三郞出品「盆踊図」に相当する〉  ☆ 明治二十一年(1888)  ◯『古今名家書画景況一覧』番付 大阪(広瀬藤助編 真部武助出版 明治二十一年一月刊)   (東京文化財研究所「明治大正期書画家番付データベース」)   ※( )はグループを代表する絵師   〝雅俗遊戯錯雑序位混淆     (岩佐又兵衛) 小川破笠 友禅山人 浮世又平 雛屋立甫 俵屋宗理 耳鳥斎 英一蝶 鳥山名(ママ)燕     縫箔師珉江〟  ◯『明治廿一年美術展覧会出品目録』1-5号(松井忠兵衛・志村政則編 明治21年4~6月刊)   (日本美術協会美術展覧会〔4月10日~5月31日 上野公園列品館〕)     (国立国会図書館デジタルコレクション)   「古製品 第一~四号」   〝英一蝶               (出品者)     春夕図           一幅 大阪博物場     秣馬図           一幅 天野皎     中恵比須 左右 布袋・大黒 三幅 山中吉郎兵衛      小町図           一幅 徳田多助     賤女張物図         一幅 古沢故十郎     画扇 赤鬼図        一本 林次郎八     伊勢大輔 赤染衛門     二幅 郷純造  ☆ 明治二十一年(1888)  ◯『境町美術展覧会出品目録』(田口専之助編集・出版 明治二十一年刊)   (国立国会図書館デジタルコレクション)   〝(明治廿一年十一月二十五六両日)     書画之部    境町 飯島藤三 静々守一筆 楊柳観音図  一幅            英一蝶筆  十二ヶ月図  一巻〟    〈境町は群馬県佐位郡境町。世良田村は群馬県新田郡世良田村。現在は共に伊勢崎市〉  ☆ 明治二十二年(1889)  ◯『古今名家新撰書画一覧』番付 大阪(吉川重俊編集・出版 明治二十二年二月刊)   (東京文化財研究所「明治大正期書画家番付データベース」)   ※( )はグループの左右筆頭   〝雅俗遊戯    (近松門左衛門)曲亭馬琴 浮世又平 式亭三馬 十返舎一九 太(ママ)田蜀山人      英一蝶斎   耳鳥斎  宿屋飯盛 市川白猿 浅草菴 暁鐘成(岩佐又兵衛)〟  ◯『明治廿二年美術展覧会出品目録』1-6号 追加(松井忠兵衛編 明治22年4・5月刊)   (日本美術協会美術展覧会〔4月1日~5月15日 上野公園桜ヶ岡〕)     (国立国会図書館デジタルコレクション)   〝英一蝶          (出品者)     肖柏老人図    一幅 樋口篤次郎     ◎踊屏風     一双 阿部正桓     東台観花図    一幅 松平確堂     一蝶画 蒔絵丸盆 十枚 吉倉惣左     涅槃像      一幅 小津与右衛門     中関羽 左右花鳥 三福 起立工商会社     江口君図     一幅 中井善次郎〟    ◯『明治廿二年臨時美術展覧会出品目録』1-2号(松井忠兵衛・志村政則編 明治22年11月刊)   (日本美術協会美術展覧会〔11月3日~ 日本美術協会〕)   (国立国会図書館デジタルコレクション)   〝英一蝶       (出品者)     孔明関羽図 一幅 田村利七     熊谷敦盛図 一幅 長谷部喜右衛門〟  ◯『近古浮世絵師小伝便覧』(谷口正太郎著・明治二十二年刊)   〝中古妙手 元禄 英一蝶    享保九、正月歿す、年七十三〟    〈記事は殆どないが、「中古妙手」の英一蝶とともに番付の中央に位置づけられ、別格扱いされている〉  ☆ 明治二十三年(1891)  ◯『明治廿三年美術展覧会出品目録』3-5号(松井忠兵衛・志村政則編 明治23年4-6月刊)   (日本美術協会美術展覧会〔3月25日~5月31日 日本美術協会〕)   (国立国会図書館デジタルコレクション)   〝英一蝶                  (出品者)      匡房像 左梅竹 右芭蕉 絹本   三幅 森直次郎     源氏澪標絵       紙本横物 双幅 松崎留吉     詩歌番匠図       絹本   双幅 平瀬亀之助     朝湖筆仏画 裏面嵩月筆如意払子     篠原肇   ◯「【新撰古今】書画家競」(奈良嘉十郎編 天真堂 江川仙太郎 明治23年6月刊)    (『美術番付集成』瀬木慎一著・異文出版・平成12年刊))   〝東前頭 享保 英 一蝶  北窓翁〈上から二段目。他に海北友松・長谷川等伯・伊藤若仲(ママ)等)    〈位置づけは浮世絵師ではない〉    浮世絵師 歴代大家番付  ☆ 明治二十四年(1891)  ◯『南越絵画共進会出品目録』(杉元平六著 南越勧美会 明治二十四年五月刊)   (第一回南越絵画共進会 五月十四日~同二十一日開催 会場:福井市)   〝第二館 古画部 花月楼      第二席        唐子遊戯図 英一蝶筆  山田氏蔵〟  ◯『山武書画展観出品目録』(杉元平六著 宍倉敬太郎 明治二十四年五月刊)   (五月十六・十七日開催 会場:山辺郡東金小学校)   〝一蝶 孔明図 淡彩 絹本横小幅 華表学仙 山辺郡大和村山口〟  ◯『近世画史』巻二(細川潤次郎著・出版 明治二十四年六月刊)   (国立国会図書館デジタルコレクション)   (原文は返り点のみの漢文。書き下し文は本HPのもの。(文字)は本HPの読みや意味)   〝英一蝶 一蜂 一蜩 一舟 一川    英一蝶 本(もと)多賀氏、名信香、一名安雄、字君受、治右衛門と称す。又助之進と称し、別に牛丸・    暁雲・六巣・澗雪・宝蕉・和央・翠簑翁・隣樵庵・隣濤庵・旧艸堂・狂雲堂・一蜂閑人・一閑山人等十    数の号有り。大坂の人なり。父伯庵、某藩侯の侍医たり。侯に従ひて江都藩邸に居す。一蝶少(わか)き    時、父に従ひて任所に在り。因りて画を狩野安信に学ぶ。別に新意に出で、意匠の妙、常に人の意表に    出づ。論者謂ふ、鳥羽僧正の後ち独りのみと。又書及び俳歌を善くす。佐佐木玄龍・佐佐木文山・松尾    芭蕉・宝井其角・服部嵐雪等と莫逆の友たり。顧るに人となり豪放にして、行検無し(品行不良)。遂に    罪を獲て南海の三宅島に謫せらる。島中に在ること十二年。母を思ひて忘すること能はず。毎(たびた    び)北窓を開きて之を望む。島に在りて画く所、款して北窓翁と曰ふ。宝永六年、忽(にわか)に胡蝶の    飛来して花上に止まるを見る。会(たまたま)赦書を得。因りて又氏名を改め英一蝶と曰ふ。或いは曰く、    禍福は常(つね)靡(な)し、猶ほ胡蝶の一夢の如し、蓋し此より取るかと。享保九年正月歿、年七十三。    義子一蜂、名信勝、父の画に傚ひ、第二世一蝶と称す。元文二年十一月没。    一蜂の弟一蜩、及び其の義子一舟、皆戯謔の画を善くす。一舟、名信種、東窓翁と号す。一は潮翁と作    す。明和五年正月歿、一舟の子一川、亦た家風を失はず〟  ◯『古今名家新撰書画一覧』番付(樋口正三郎編集・出版 明治二十四年十月刊)   (国立国会図書館デジタルコレクション)   〝和画諸流 無論時代    (グループⅠ、字の大きさはグループ最大。全絵師収録)    (筆頭)西京 円山応挙 東京 谷文晁    〔西京〕駒井源琦 長沢芦雪 尾形光琳 松村呉春 岡本豊彦 山口素絢 松村景文 円山応震        中島来章 円山応瑞 浮田一蕙 奥文鳴    〔大坂〕森狙仙  月岡雪鼎 西山芳国〔東京〕菊池蓉斎 酒井抱一〔三河〕渡辺崋山     (グループⅡ、字の大きさはグループ1と同じ最大。全絵師収録)    (筆頭)東京 葛飾北斎 英一蝶     西京 岸駒   森寛斎  田中訥言 尾形乾山 田中日華 久保田米仙 原在泉 横山晴暉 松村月渓     大阪 長山孔寅 守住貫魚 西山完瑛 橋本雅邦 森一鳳  松村月渓  岡田玉仙(山?)     東京 瀧和亭  辛野楳嶺 ・尾張 勾田臺嶺〟  ☆ 明治二十六年(1893)      ◯『明治廿六年秋季美術展覧会出品目録』上下(志村政則編 明治26年10月刊)   (日本美術協会美術展覧会〔10月1日~10月31日 上野公園桜ヶ岡〕)     (国立国会図書館デジタルコレクション)   〝英一蝶           (出品者)     絵鑑        一函 徳川達道     雑画        二巻 津軽承昭     二見ヶ浦図     一幅 藤井茂利治     梁武帝達磨図    一幅 藤井茂利治     矢矧橋図      一幅 高橋元亨     絲桜香魚図     一幅 山下新介     瀟湘八景      一幅 斎藤輗     雀図        三幅 宮沢秀夫     福禄寿 大黒 笑須 三幅 横瀬文彦     楓林停車図     一幅 辻卯兵衛     鍾馗捕鬼図  横物 一幅 高橋清明〟  ◯『浮世絵師便覧』p203(飯島半十郎(虚心)著・明治二十六年刊)   〝一蝶(イツテフ)      姓は、藤原、多賀氏、後に英氏、名は、信香、一に安雄、俗称助之進、叉次右衛門、幼名猪三郎、朝湖、    牛麿、暁雲、暁雲堂、一蜂閑人、翠簑翁、隣樵庵、隣濤庵、北窓翁、和央、和応等の数号あり、大(ママ)〟  ◯『内外古今逸話文庫』1編(岸上操編 博文館 明治二十六年九月刊)   (国立国会図書館デジタルコレクション)     ※ 原文は漢字に振り仮名付き。(かな)が原文の振り仮名   (第一編「文芸」の項)   〝一蝶と嵩谷の発句(16/426コマ)    英一蝶晩年に及び手ふるへて、月などを画くにはぶんまはしを用ゐたるが、それしも心のまゝにもあら    ざれりければ、      おのづからいざよふ月のぶんまはし    これは高嵩谷の話なり、嵩谷は町絵師にて、近来の上手なり、俳諧を好み発句をよくせり、    海鼠(なまこ)の自画賛は、望む人あれば誰にても速にかきて与へしなり、その発句      天地いまだひらき尽さでなまこかな(太田南畝)〟   〝一蝶と馬琴と他人の印を用う(17/426コマ)    英一蝶赦に遇ひ帰郷して後、作りし画幅に、往々薛国球(せつこくきう)、君受(くんじゆ)、薛君受氏、    北窓中隠などの印を捺して款記となす。倶(とも)に唐人の印なるを、一蝶得て其侭用ひて己れが印とす    るなり、又馬琴が乾坤二卦(にくわ)の間に艸亭(そうてい)を刻せし印は、馬琴一夜出行するに、碌々足    に触るゝものあり、拾ふてこれ見れば乃ち銅印にて、二卦と艸亭とを鐫(ほ)る、馬琴悦(よろこん)で云    く是れ杜句(とく)に原(もと)づくなり、我業卒(つい)に大に両間に行はるゝの兆(てう)なるべしと、是    より乾坤一艸亭とも号す〟  ☆ 明治二十七年(1894)  ◯『内外古今逸話文庫』6編(岸上操編 博文館 明治二十七年刊)   (国立国会図書館デジタルコレクション)    ※ 原文は漢字に振り仮名付き。(かな)は原文の振り仮名   (第六編「豪爽」の項)   〝英一蝶石燈籠に対して初茄子を喰(くら)ふ(26/410コマ)※(かな)は原文の振り仮名    英一蝶本姓は多賀、初め狩野安信に従ひて画を学び、狩野信香と名乗りしが、後師の氏を返して多賀長    湖と改め、後又英一蝶といふ。画風一家の趣(おもむき)をなし、其筆力頗(すこぶ)る鋭く、性亦(また)    胆勇なれども、母に仕へて至孝なり、一旦故ありて遠島に流されし間も、画を毎(つね)に贈りて衣食の    料に充(あ)つ、赦に逢ひて帰り其画ます/\行はる、或時大国の主侯両人にて一の石燈籠を争ひもとめ    給ふ聞えありしかば、一蝶数多(あまた)の金を出しておのが物とし、狭き庭の内にうつしける、折しも    初茄子を売る者あり、価の貴きをいはず、需めて生漬(なまづけ)といふものにして喰ひ、彼の燈籠に火    をともし、天下第一の歓楽なりといへり、其磊落豪放およそ此類(るい)なり〟    〈文化十三年の項『近世叢語』参照〉  ◯『名人忌辰録』上巻p8(関根只誠著・明治二十七年刊)   〝英一蝶 北窓翁    通称猪三郎、後次右衛門、初多賀潮湖、狩野安信門人、後一家を起す。俳号暁雲亭、享保九辰年正月十    二日歿す、歳七十三、二本榎木承教寺中、顕乗院に葬る〟  ◯『浮世絵師歌川列伝』「歌川豊広伝」p122(飯島虚心著・明治二十七年、新聞「小日本」に寄稿)   〝無名氏曰く、古えの浮世絵を善くするものは、土佐、狩野、雪舟の諸流を本としてこれを画く。岩佐又    兵衛の土佐における、長谷川等伯の雪舟における、英一蝶の狩野における、みな其の本あらざるなし。    中古にいたりても、鳥山石燕のごとき、堤等琳のごとき、泉守一、鳥居清長のごとき、喜多川歌麿、葛    飾北斎のごとき、亦みな其の本とするところありて、画き出だせるなり。故に其の画くところは、当時    の風俗にして、もとより俗気あるに似たりといえども、其の骨法筆意の所にいたりては、依然たる土佐    なり、雪舟なり、狩野なり。俗にして俗に入らず、雅にして雅に失せず。艶麗の中卓然として、おのず    から力あり。これ即ち浮世絵の妙所にして、具眼者のふかく賞誉するところなり〟    〈この無名氏の浮世絵観は明快である。浮世絵の妙所は「俗にして俗に入らず、雅にして雅に失せず」にあり、そして     それを保証するのが土佐・狩野等の伝統的「本画」の世界。かくして「当時の風俗」の「真を写す」浮世絵が、その     題材故に陥りがちな「俗」にも堕ちず、また「雅」を有してなお偏することがないのは、「本画」に就いて身につけ     た「骨法筆意」があるからだとするのである。無名氏によれば、岩佐又兵衛、長谷川等伯、一蝶、石燕、堤等琳、泉     守一、清長、歌麿、北斎、そしてこの文にはないが、歌川派では豊広、広重、国芳が、この妙所に達しているという〉  ☆ 明治二十八年(1895)  ◯『時代品展覧会出品目録』第一~六 京都版(大沢敬之編 村上勘兵衛 明治二十八年六~九月)   (「時代品展覧会」3月25日~7月17日 御苑内博覧会館)   (国立国会図書館デジタルコレクション)   〝「第一」【徳川時代】浮世絵画派(49/310コマ)    一 蓮池船遊図 英一蝶筆 上野光君蔵 東京市麹町区〟  ◯『明治廿八年秋季美術展覧会出品目録』下(梯重行・長嶋景福編 明治28年11月刊)   (日本美術協会美術展覧会〔10月1日~11月5日 上野公園桜ヶ岡〕)     (国立国会図書館デジタルコレクション)   〝英一蝶 朝妻文絵図 自賛 一幅(出品者)岡田真一郎〟  ◯『新古美術展覧会出品目録』(藤井孫兵衛編 合資商法会社 明治28年10月刊)   (京郵美術協会 新古美術品展覧会〔10月15日~11月25日 元勧業博覧会場内美術館〕)   (国立国会図書館デジタルコレクション)   「古物品之部」   〝英一蝶     張果郎図  一幅 妙心寺中 春光院蔵     獅々舞図  一幅 上京区 巨勢小石君蔵     年中行事  一幅 上京区 山添直次郎君蔵     三臾       近衛家蔵     釜山浦ノ図    智積院什〟  ☆ 明治二十九年(1896)  ◯『名家画譜』上中下(金港堂 12月)   (国立国会図書館デジタルコレクション)   〝上巻 目録 故英一蝶「官女弄羽子」〟  ☆ 明治三十年(1897)  ◯『古今名家印譜古今美術家鑑書画名家一覧』番付 京都    (木村重三郎著・清水幾之助出版 明治三十年六月刊)   (東京文化財研究所「明治大正期書画家番付データベース」)   〝近代国画名家〈故人と現存とを分けている〉    ※Ⅰ~Ⅳは字が大きさの順。(絵師名)は同一グループ内の別格絵師。    〈故人の部は字の大きさでⅠ~Ⅳに分類。(絵師名)はそのグループ内の別格絵師〉    Ⅰ(狩野探幽・土佐光起・円山応挙)酒井抱一 渡辺崋山  伊藤若沖    Ⅱ(谷文晁 ・英一蝶 ・葛飾北斎)田中訥言 長谷川雪旦    Ⅲ(尾形光琳・菊池容斎・曽我蕭白)岡田玉山 司馬江漢  浮田一蕙 月岡雪鼎 高嵩谷      蔀関月    Ⅳ 大石真虎 河辺暁斎 上田公長 柴田是真 長山孔寅 英一蜻  英一蜂 佐脇嵩之      高田敬甫 西川祐信 橘守国  嵩渓宣信 英一舟  葛飾為斎〟    〈江戸時代を代表する絵師としての格付けである〉  ☆ 明治三十一年(1898)  ◯『高名聞人/東京古跡志』(一名『古墓廼露』)(微笑小史 大橋義著 明治三十一年六月刊)   (国立国会図書館デジタルコレクション)(94/119コマ)   ※(原文は漢字に振り仮名付だが、本HPは取捨選択。半角括弧(かな)で示す)   〝英一蝶 二本榎 承教寺    是ぞ即ちかの朝妻船の図を画き、嫌疑を受て流罪と為りし、有名の初代一蝶にして、寺中顕乗院に属せ    る地の方に在り、正面には北窓翁一蝶墳(つか)と題し右の横手に「まぎらはす浮世の夢のいろどりも    ありとや月の薄墨の空」と名代の歌あり、さて就(つい)て今一寸一言せんに誰も知る如く朝妻船の図と    云(いふ)は、近江国朝妻の渡しなる、遊女の体を画きしなるが、てうど時の大将軍綱吉公、愛妾於伝の    方を伴ひ、吹上泉水に船遊びせられし由、風聞屡々ある折なりしかば、暗に是を当付(あてつけ)たりと    云嫌疑にて、遂に流罪と為りたりとは、従来伝へし所の説、然る処亦又近頃或人の説には、当時最も禁    制なりし、不受不施教と云ものを、彼専ら主張せしに拠(よれ)りとも云ひ、未だ孰れか是なるを知らず、    但し其前名は、多賀長湖といひしなるが、其三宅島に在りける折、蝶の一つ飛来りし夢を見たるに、間    もなく赦免の状来りしかば、是より一蝶と云号を附けしとは、こは先づ異論無き所の説なるべし〟  ◯『浮世絵備考』(梅山塵山編・東陽堂・明治三十一年刊)   (国立国会図書館デジタルコレクション)(22/103コマ)   〝英一蝶【元禄元~十六年 1688-1703】    姓は藤原、多賀氏、名は信香、また安雄、字は君受、幼名を猪三郎と称し、長じて治衛門、また助之進    と称す、承応三年、播州に生れ、十五歳のとき江戸に出でゝ、呉服町一丁目新道に住めり、狩野安信を    師として絵画を学びしが、後その風を変じて一家を成す、翠簑翁、旧草堂、牛丸、一蜂閑人、一閑散人、    隣樵庵、隣濤庵、北窓翁等の数号あり、貞享の頃、薙髪して朝湖と号す、書は佐玄龍を師とし、俳諧は    芭蕉に学びて、暁雲、また和央と号せり、平素放蕩不撿なりし為め、元禄十一年十二月二日、罪を得て    豆州三宅島に謫せらる、一に八丈島ともいふ、謫居あること十二年、宝永六年九月、赦されて江戸に帰    り、深川海辺新田の宜雲寺に寓せしが、後に長堀に移りぬ、世に一蝶の罪を得たるは、百人女﨟の浅妻    船の図を画きしに由ると云へども、決して然らず、享保九年庚辰正月十三日、病みて没す、享年七十一、    遺骸は芝二本榎承教寺塔中顕乗院に葬る、法号英受院一蝶日意、辞世の歌に      まぎらかす浮世の業の色どりもありとや月の薄墨の空    『浮世絵類考』の例によりて茲に掲げぬ〟  ☆ 明治三十二年(1899)  ◯『新撰日本書画人名辞書』下 画家門(青蓋居士編 松栄堂 明治三十二年三月刊)   (国立国会図書館デジタルコレクション)20/218コマ   〝英一蝶    名は保雄 字は君受 幼名は伊三郞 長じて治衛門 又助之進と称す 本氏は多賀氏 又簑翠翁 牛丸    旧斗堂 一蜂閑人 隣樵菴 鄰濤庵 暁雲 六巣 澗雪 宝蕉 和央 雲堂等の別号あり 大阪の人な    り 画を狩野安信に学びて狩野信香と称す 人物花鳥を能くす 此人亦戯墨に長ず 観る者絶倒せざる    はなし 遠く鳥羽僧正を距(さ)るの後 戯画は此人を以て祖となすべし 世或ひは此人の画を以て 浮    世絵なりとする者あれども 其の実全く狩野家の正風にして 時に戯画を画けるのみ 元禄中 当世百    人首編著の事に坐し 三宅島に流さる 在留十二年間 島中の木皮石土を以て 絵具を製して画を描く    世之を島一蝶と称し特に賞翫す 後赦されて家に帰る 曾て女達磨の図を画く 之を此図の始めとす     晩年剃髪して朝湖と号す 亦長湖とも書せり 享保九年正月十三日没す 年七十三 江戸二本榎承教寺    中顕乗院葬る 法名英受院一蝶日意居士といふ(近世叢語 続近世畸人伝 扶桑画人伝 今古雅俗石亭    談 鑑定便覧 書画人名詳伝 扶桑要略 俳林小伝 文鳳堂雅簒 墓所一覧 名家全書 日本人名辞書)〟  ◯『浮世画人伝』p9(関根黙庵著・明治三十二年五月刊)   〝英一蝶(ルビはなぶさいつてふ)    英一蝶は、多賀氏、名は信香(ノブカ)、又安雄と称す、幼名は猪三郎、通称は助之進、又次右衛門と呼    べり。承応元年大阪に生る。父は多賀伯庵と称し、某侯の侍医なりき。一蝶幼児より絵事を好み、寛文    六年江戸に来り、当時高名の画家、狩野安信の門に入りて、絵画に励精せり、後土佐家の趣を折衷し、    尚ほ又兵衛、師宣等の筆意に倣ひ、自ら一家をなしぬ。されば其本領は狩野の正風にあるも、亦(マタ)浮    世絵に巧なりき。一蝶は藤原姓なるを以て、初年の作には藤信香の落欵(ラッカン)を用ひたり。然れども、    此時、未(イマダ)画名高からず、後剃髪して潮湖と称するに及び、意匠艶麗清新にして、別に一趣向を具    (ソナ)へ、愈々精妙の域に進めり。    潮湖、画名日に高し、これによりて元禄七年四月二日、幕府、六角越前守に内命を伝へ、金屏風に芳野    立田の真景、及、四季耕作の倭(ヤマト)人物を描かしむ。こは徳川五代将軍綱吉の母堂、桂昌院より本願    寺に、寄附の料なりとぞ。元禄十一年は、潮湖四十六歳の、書筆入神時期にして、其(ソノ)尤(モットモ)意    匠を凝らせしものは、百人女臈(ジョロウ)と題する絵本是れなり。この絵本は村田半兵衛、仏師民部の両    人と謀りて、出板せしなり。同年の十二月、潮湖遠謫の刑に処せられき、其遠謫の場所に付き、三説あ    り。其伊豆の大島ならむと、主張するものは、江戸真砂(マサゴ)六十帖に、和応(潮湖の別号)は本石    町三丁目村田半兵衛、仏師民部と謀り、百人女臈を出板せし科に依て、三名共に伊豆大島に、流さると    あるに拠れるならん。他の二説は、一は三宅島と云ひ、一は八丈島と云ふ。其八丈島と云ふものは、画    乗要略に、潮湖離別に臨み、悲歎して曰く、我、今遠き孤島に赴く、生死測る可からず。又数々音信を    通ずること能はず、然れども、八丈島の産、乾鰺(モロアジ)は江戸に輸出すること、多きを以て、数箇の    乾魚苞中(ホウチュウ)に、竹葉を挿(ハサ)むもの有らば、潮湖が存生なるを知るべし、とあるに拠れるならむ。    其三宅島なりと、断定するものは、浮世絵類考に拠るなり。右三説中いづれが、真ならん、未定かなら    ず。姑(シバ)らく疑ひを存じて、好事の士の精密なる考証を俟つ。    偖(*サテ)また其遠謫(エンチヤク)の原因に付きても、種々説あれども、百人女臈の絵本出板が其原因たるこ    と、最も真に近く、これは何人も殆ど疑ふものなかるべし、今其顛末を記述せんに、将軍綱吉、華美の    遊興を好み、また数多の嬖妾を蓄へて、紅閨に名花を飾れり、中にもお伝の方と云へるは、黒鍬組の白    須才兵衛(【初め十五俵一人扶持の小身なりしが、後年、旗本の士に昇進し、遠江の守に任ぜらる】)    の娘にして絶世の佳人なりければ、将軍の寵愛、特(コト)にいちじるく、常には三の丸に住(スマ)はせて、    花の中の花とぞ看められける。此お伝の方、諸遊芸に長じ、特に小鼓に妙を得たり。或時は吹上庭園の    瑶池に小舟を浮かべ、将軍自ら、棹さしつゝ謡曲をうたひ玉へば、お伝の方其側に侍して、小鼓を打鳴    らし、君の謡曲に調子をぞ合せける。其楽み限りなくやありけむ。後には此遊び毎日の如くなりにき。    されば誰言ふとなく、江戸市中此噂知らぬものなかりき。潮湖が画ける百人女臈の絵本中、当時専ら風    聞せる、小舟に乗じて小鼓を打ち、櫂に勇む貴人美姫の絵ありしより、忽ち官の知るところとなり、奉    行所に召し捕られ、暗に将軍の娯楽を写したるものと見為(ミナ)され、罪の表は陰に殺生の禁令を犯せし    者として、遠謫の刑に処せられたり。是れ実に元禄十一年十二月の事なりけり。    潮湖既に流刑に処せられて、孤島に在り日々母を思ふの情切なりければ、自ら窓を北方に開けて(【配    処は江府の南方に当ればなり】)望郷窓と称す、これより配所にて画きしものには、北窓翁の落欵を用    ひたり。潮湖島中に在りて石塊木皮を採集して、絵具の料を製する抔(ナド)、絵事に心を用ひて、更に    怠ることなかりき。或時便船に属して、自ら謫居の図と源氏絵とを、苧衣(ウイ)に写して、老母の許に送    りたることありき。後年、横谷宗珉より、三谷氏に伝へて秘蔵せりと云ふ。潮湖島中に星霜を経ること、    元禄十一年十二月より、宝永六年九月に至るまで、十二年間なり。此時より氏号を改めて、英一蝶と称    す。潮湖、一日前栽の草花に、胡蝶の来り戯(タワム)るを見る、其時偶々赦罪の快報に接し、喜びの余り    一蝶と改名せりとなり。英とは赦罪後、母方の氏花房なりしを、英と一字に約して、改め冒すと云ふ。    一蝶遠島より還りし後、暫らく深川海辺宜雲寺に寓居せり、該寺の絵障子は悉く皆一蝶の筆に成れるを    以て、世俗この寺を一蝶寺と呼べり。後年、祝融(シユクユウ)の災に罹りて、絵障子悉く烏有に帰せしは、    実に惜むべき事なり。朝妻舟の絵は、一蝶改名後の傑作の一にして、大に世上の嘆賞を受けたり。現今    世に伝ふるものは、十の八九は贋作なるにや、書画共に拙劣なるもの多し。此絵は百人女臈を翻案した    るものならむと云へり。一蝶が浅草寺境内に於て、一日に千枚の絵画を作りし時も、此絵を望むもの多    かりしと云へば以て、其趣向の如何に時好に投じたるかを知るを得(ウ)べし。又女達磨の絵は、一蝶が    画き始めしなり。そは当時吉原の妓楼、近江屋の拘(カカ)え半太夫が、苦界を脱して、良家の夫人となり、    苦界十年の長きは、九年面壁にも、優らむと戯れ語りしを聞き、半身美人を達磨に画きて、着想の妙を    極めしは、流石に画才に長じたる人なりけりと、人々其奇想に驚かざるものなかりしとぞ。    一蝶の長所は無論、絵画にありと雖(*イヘド)も、また其他の諸芸にも暗からず、特(コト)に文才ありて、    書道は佐々木玄龍の学べり。玄龍は字(アザナ)煥甫と称し、池庵と号す、通称は佐々木万次郎、江戸の人、    文山の兄にして、当時知名の書家なりき。又俳諧は芭蕉翁に学び、其角嵐雪等は、其風流の友なりとぞ。    一蝶が作の四季の絵の跋を、一読する時は、一蝶は浮世絵に志せしを知ると同時に、如何に其抱負の勇    壮なるかを知るを得べし。而して其文章の趣きあるに至りては、彼れは文学者なるか、将(ハタ)画家なる    かを疑はしむるものあり、特に短歌に妙を得て、間々誦すべきもの尠なからず。朝妻船の短歌の如きは、    人の能く知る処なれど、事の序(ツイ)でに下に掲げん。    一蝶は美術家と文学者を兼ね、多芸の人たりし事は、既に記するが如し。今一歩を進めて、其性行と其    当時に於ける地位とを考ふるに、一蝶が老母妙寿に孝養を尽せし事は、慥(タシカ)なる事実なり。潮湖離    別に臨み、悲歎云々の話は、老母妙寿に離別の辞とぞ聞えし。斯く一蝶は、孝養の心には篤かりしも、    濁流に従ひて波を揚げし一凡骨たるの謗りは、免(マヌカ)るゝ能はざるなり。いかにとなれば、紀文奈良    茂等の如き遊客に愛せられて、多くの遊里に日を暮し、放蕩を極めし人なればなり。其花街柳巷に在り    て、俗歌の筆を弄(ロウ)するの日には、和央(カオウ)和応などの号を用ひたり。一蝶別に数号あり、即ち、    牛丸、暁雲、旧草堂、隣樵庵、隣濤庵、閑雲、蕉雪、一蜂閑人、一閑散人、翠蓑翁、義皇上人、萍雲逸    民、宝蕉、虚白山人、狩林山人等是れなり。老母妙寿一蝶に先だち、正徳四年三月病死す。一蝶は其後、    享保九年正月十三日に歿す。白銀二本榎承教寺塔中顕乗院に葬る。行年七十三歳、法号を、英受院一蝶    日意と云ふ、其辞世の歌に、      まぎらはす浮世のわざの色どりもありとや月薄墨のそら
   「英一蝶系譜」      あさつまぶね    あだしあだなみ、よせてはかへるなみ、あさづなぶねの、あさましや、あゝまたの日は、たれにちぎり    をかはして、いろを、まくらはづかし、いつはりがちなる、わがとこの山、よしそれとても、よの中、    うきねつらきの、まつちの山の風、ゆふこえくれてさゝをふね、あゝさだめなや、とこのうら波、友な    きちどり/\、たえぬおもひに、月日をおくるも、あだ人心よしあふまでの、うつりが、    あだしあだなる、身はうきまくら、ならはぬほどの、とことつゆ、あゝいく度か、そでにあまれる、な    みづのいろを、あゝたもとのいろを、みねのもみぢば、ひとりこがれて、まくらのなみだ、あはれと人    のとへかし、      朝妻船の画賛 其一    伝へ聞く美濃国、野上の里、近江のや、朝妻の江は、そのかみ遊女の初まりし処となむ、若かりし頃、    さゞなみや、東近江に渡らひ行て、鍋の数見んと、名高く伝ふ、つくまの古へなど、ながめつゞけて、    朝妻の里にもとめ到れば、畑(ハタ)うつますらを、四手ひくすなどりのみにて、なになまめきたるゆかり    も、今は絶たるに、其所に床(ユカ)の山といふ、名所打つゞきたるも、えにしありやと興じて、一曲の章    歌につゞりて、うたかた人の、口ずさみとせしも、今はむかし、      朝妻船の画賛 其二    隆達(タカタツ)がやぶれ菅笠、しめ緒のかつら、ながく伝(ツタワ)りぬ。是から見れば、あふみのや、あだし    あだ浪、よせてはかへる浪、朝妻船の浅ましや、嗚呼(*アア)またの日は、誰に契(*チギリ)をかはして、    色を枕はづかし、偽がちなる、我(ワガ)とこの山、よしそれとても、世の中〟    ☆ 大正年間(1912~1925)  ◯「集古会」第九十三回 大正二年(1913)五月(『集古会志』癸丑之四 大正4年7月刊)   〝西沢仙湖(出品者)英一蝶自作 活人剣木刀 一本 談州楼燕枝旧蔵〟  ◯「集古会」第百二十六回 大正九年(1920)一月(『集古』庚申第一号 大正9年2月刊)   〝阪井久良岐(出品者)英一蝶筆 猿猴之図 一幅〟  ◯「集古会」第百三十一回 大正十年(1921)一月(『集古』辛酉第二号 大正10年2月刊)   〝浅田澱橋(出品者)英一蝶下絵 亀山作 大石良雄祇園遊興図 染附湯呑 一個〟  ◯『罹災美術品目録』(大正十二年九月一日の関東大地震に滅亡したる美術品の記録)   (国華倶楽部遍 吉川忠志 昭和八年八月刊)    英一蝶画(◇は所蔵者)   ◇森岡平右衛門「汐越松図」横物   ◇赤尾藤吉郎 「李白観瀑図」紙本淡彩 巾一尺四寸三分 立 四尺三寸四分   ◇酒井正吉  「十二ヶ月模様城鼻蒔絵膳椀」一揃 二ノ膳 鉢二 湯桶二付   ◇宝井善次郎    「朝妻船図」下絵 紙本墨画 巾二尺 立一尺余    (此絵は一蝶の遠流せられし時 其角に贈りしものにして「われ もし還らぬこともあらば此絵を形見としてくれ」の     意味の手紙を添ふ、其手紙に其角追記して 子孫此絵を秘襲すべきよしを述たりといふ)    「大円窓七福神図」絹本極彩色 巾七尺/「盆踊図」絹本着色密画 巾二尺    「鹿島踊図」紙本墨画 六曲屏風     其他一蝶画約三十点 芭蕉筆巻物、大高子葉色紙二枚、其他俳人書画多数   ◇松沢孫八    「朝妻船」自画賛      附属品 一蝶源氏若紫片袖切幅 一蝶消息 一蝶作如意 彫字本来無一物 宗珉干物目貫一具      一乗作朝妻船鍔 清乗作小柄 高嵩谷添状      (坊間一蝶の朝妻船と称するもの少からざれども此幅は其由緒正しく世に「石町の一蝶」と称せられて代表的のも       のとみなされたるもの也)    「活達風流之一軸」名古屋山三絵巻なり 世間模本多けれども、此巻蓋し本歌なるべし    「遊女道中図」絹本着色 巾一尺七寸三分 立八寸四分 其他一蝶四五点   ◇堀越福三郞(市川三升)「源氏浮舟図」(麻地の着物にかける源氏絵の一片)   ◇大村五左衛門 獅子絵打掛   ◇鹿島清平 「朝妻船画賛」絹本着色 巾二尺三寸 嵩谷箱書   ◇鹿島千代 「朝妻船図」/「芭蕉図」   ◇説田彦助 「十二ヶ月図巻」着色 一巻/「鳥合図」二曲屏風   ◇亀山宗月 「御所五郎丸図」二曲屏風 紙本墨画 巾一尺五寸 立一尺 権十郎箱書   ◇鞠池鋳三郞「中 瀑布 左右 紅葉鶉図」   ◇神木猶之助「海辺遊興図」紙本着色 巾二尺七寸九分 立一尺六寸一分   ◇宜雲寺(英一蝶が晩年寄寓せし所にして世に一蝶寺の称あり、一蝶の遺作数点ありしが、総て灰燼に帰す)    「獅子図」墨画 襖 二十四枚    (本堂正面内障三間半八枚、前方反対の側同八枚、左右各二間四枚、総て二十四枚獅子群遊の図にして、間々遠山瀧流水     等の配景あり、裏面には別筆の絵ありしと云ふ)    「十六羅漢諸祖禅機図」屏風 一双 紙本淡彩 款曰「行年七十齢北窓翁一蝶筆」    「普化和尚図」屏風 一双 紙本淡彩    「開山卓禅和尚頂相」絹本設色    「雲龍図」三幅対 絹本墨画 巾尺二(蒼龍山の山号に因みてかけるもの)   ◇三野村安太郎    「鍾馗図」絹本着色 巾一尺五寸    「狙公図」二曲屏風 一隻  ◯『浮世絵師人名辞書』(桑原羊次郎著・教文館・大正十二年(1923)刊)    (国立国会図書館「近代デジタルライブラリー」所収)   〝一蝶 姓は藤原、多賀氏後に英氏、名は信香、一に安雄、幼名猪三郎、助之進、又、次右衛門、朝湖、    牛麿、暁雲、暁雲堂、一蜂閑人、翠簑翁、隣撨庵、隣濤庵、北窓翁、和央、和応等の数号あり、大阪の    産、初め狩野安信に学び、後一家を為す、書は佐々木玄龍に、俳歌は芭蕉に学びて共に盛名あり、寛文    六年江戸に来り、元禄十一年十二月故ありて三宅島に流さる、後八丈島に移さる、宝永六年九月赦免、    享保九年正月十三日没、七十一歳〕    ☆ 昭和年間(1926~1987)  ◯『狂歌人名辞書』p14(狩野快庵編・昭和三年(1828)刊)   〝英一蝶(初代)、本姓多賀氏、名は信香又安雄、元と浪華の人、江戸に来り、初め画を狩野安信に学び、    後ち土佐派或は岩佐又兵衛、菱川師宣等の筆意を折衷して終に一家を作す、初号・潮湖、元禄十二年遠    島に処せられ、十二ケ年後放されて江戸に帰る、享保九年正月十三日歿す、年七十一、二本榎承教寺塔    中顕乗院に葬る〟  ◯「集古会」第百七十三回 昭和四年十一月(『集古』庚午第一号 昭和4年12月刊)    狩野快庵(出品者)英一蝶画 松に蝠 一幅 紀定丸賛      かわほりの蝠をまねけば其まゝに福とふ字にかよふ松風 定丸改巳(ママ)人亭為丸〟  ◯『浮世絵師伝』p6(井上和雄著・昭和六年(1931)刊)   〝一蝶    【生】承応元年(1652)  【歿】享保九年(1724)正月十三日-七十三    【画系】狩野安信門人   【作画期】元禄~享保九    姓は藤原、多賀氏、後に英氏、名は信香、一に安雄、後ち朝潮と改む、字は君受、俗称助之進また次右    衛門、幼名を猪三郎といふ。父は大阪の人、多賀伯菴といひ、医を以て伊勢亀山の石川侯に仕へ、傍ら    剣術の指南を勤めしが、寛文六年石川侯の命によりて江戸に下れり、其時一蝶十五歳にして父に随行す、    それより狩野安信の門に入りて画技を学び、後古土佐の風格を慕ひ、また岩佐又兵衛及び菱川師宣など    の画風に見る所ありて、遂に一流派を開くに至れり、其の間、俳諧を芭蕉に、書を佐々木玄龍に学びた    り。    一蝶四十二歳の時、即ち元禄六年八月十五日、故ありて獄に投ぜられ、中にあること約六ケ年、同十一    年十二月二日流罪に処せられ、三宅島阿古村に謫居すること十二ヶ年、偶ま宝永六年九月赦免せられて    江戸に帰る、時に年五十八、前後を通じて実に十七ヶ年に及べり。性來至孝にして、謫居中常に北窓を    開きて江戸の方向に面し、母を慕ふの情切なるものあり、又、島中に於て作画せるものを遙かに江戸に    送り、其の価を以て母の衣食に供へたりと云ふ。    初号を一蜂といひ、赦免せらるゝに及びて一蝶と改む、其他、牛麿・旧草堂・翠蓑翁・隣樵庵・隣濤庵・    狩林斎・北窓翁・松庵・六巣・澗雪・宝蕉・閑雲・蕉雪・義皇上人、一閑散人・萍雲逸民・虚白山人等    の数号あり、尚ほ俳號を暁雲・暁雲堂・狂雲堂といひ、別に和応・和央・蝸舎などとも号せし由。    初め呉服町一丁目新道に住したりしが、赦免後暫く深川海辺新田なる宜雲寺に寄寓し、其後深川長堀町    に移れり。墓所芝二本榎(日蓮宗承教寺中)顕乗院、法名を英受院一蝶日意居士といふ〟  ◯「集古会」第二百一回 昭和十年五月(『集古』乙亥第四号 昭和10年5月刊)   〝浅田澱橋(出品者)一蝶下絵 染付亀山製 大石良雄祇園一力遊楽図湯呑茶碗 一個〟  ◯『明治世相百話』(山本笑月著・第一書房・昭和十一年(1936)刊   ◇「絵双六の話 川柳俳句双六」p154   〝狂歌、川柳、俳句などを加えた双六も種々あるが、最も古いのは明和二年版の英一蝶の俳句入「梅尽(ウ    メヅクシ)吉例双六」で、文晃一門合作の俳句入り「江の島文庫」なんて上品なものもある。「狂歌江戸    花見双六」「寿出世双六」(狂歌)「孝不孝振分双六」(川柳)「名所遊帰宅双六」(狂歌)去来庵選の俳    句入り「江戸名所巽双六」という北斎の画品の高い挿画の逸品がある〟  ◯『浮世絵年表』p54(漆山天童著・昭和九年(1934)刊)   ◇「元禄六年 癸酉」(1693)p54   〝八月十五日、英一蝶入牢〟   ◇「元禄一一年 戊寅」(1698)p58   〝十二月、英一蝶、『朝妻舟』を画きしを以て流謫せらるといふ〟   ◇「宝永六年 己丑」(1709)p67   〝九月、英一蝶、島(流謫地をいふ)より帰る。始め多賀朝湖と称せしを是より英一蝶と称せり〟   ◇「享保九年 甲辰」(1724)p78   〝正月十三日英一蝶歿す。行年七十三歳。近世奇跡考に英一蝶伝を載していはく、諸書にのする所誤すく    なからず。且つ漏らせる事多し。案るに一蝶承応元年摂州に生る。父を多賀伯菴と云、某侯の侍医なり。    一蝶寛文六年十五歳の時江戸に下り。狩野安信を師とす。姓は藤原、多賀氏、名は信香、一に安雄、幼    名を猪三郎と云、後に次右衛門といひけるよし望海毎談に見ゆ。或云、助之進、剃髪して朝湖と称す、    翠蓑翁・牛丸(ウスマロ)・暁雲堂・旧草堂・一蜂閑人(後門人にゆづる)・一閑散人・鄰樵菴・鄰濤菴・北    窓翁等の諸号あり。書を佐玄龍に学びて後一家の風をかきて書名あり。俳諧を芭蕉に学び、其角・嵐雪    等と交り深し。俳号を暁雲、又和央(洞房語園)と云。元禄十一年十二月(元禄八年とするは非なり)    呉服町一丁目新道に住し時、故ありて謫せらる。時に四十七、謫居にある事十二年、宝永六年九月(宝    永四年とするは非なり)帰郷して後、英一蝶と称し、北窓翁と号し、深川長堀町に住みぬ(人物志)享    保九年甲辰正月十三日病みて歿せり。享年七十三。二本榎承教寺(日蓮宗)塔中顕乗院に葬る。法名英    受院一蝶日意。辞世、まきらかすうき世の業の色とりもありとや月の薄墨の空。                            門人養子続師家     英一蝶 ────────┬───────── 一舟【名信種号東窓翁、俗称弥三郎、明和五年】              │ 男二世                 ├ 一蝶【名信勝、俗称長八】              │ 次男                 └ 一蜩【俗称百松又源内、一説ニ号弧雲】    正月、英一蝶の画『類姓草画』出版〟   ◇「享保一八年 癸丑」(1733)p86   〝九月、俳士露月撰の『絵本東名物鹿子』三巻出版。(英一蝶・福王雪岑等の挿画あり)〟  △『東京掃苔録』(藤浪和子著・昭和十五年序)   「芝区」承教寺(二本榎町一ノ一八)日蓮宗   〝英一蝶(画家)名信香、字君愛、本姓多賀氏、狩野安信の門に入り、後土佐家の趣を折衷し、又兵衛、    師宣の筆意に倣ひて一家をなす。人物、花鳥に勝れ、浮世絵に巧なり。一族の墓は池上に移り、一蝶の    み本堂前にあり。享保九年一月十三日歿。年七十三。英受院一蝶日意居士。指定史跡。     辞世、まぎらはす浮世のわざの色どりもありとや月の薄墨の空〟  ◯「日本古典籍総合目録」(国文学研究資料館   〔英一蝶画版本〕    作品数:19点(「作品数」は必ずしも「分類」や「成立年」の点数合計と一致するとは限りません)    画号他:英一蝶・多賀信香    分 類:絵画12・俳諧2・絵巻2・絵本1・随筆1・地誌(江戸名所)1・風俗1    成立年:元禄15年 (1点)宝暦6~7年(2点)明和7年(1点)安永2・7年(2点)   (多賀信香名の作品)    作品数:1点    画号他:多賀信香    分 類:絵画1    成立年:記載なし        『一蝶画譜 印譜并略伝附』・絵画・多賀信香画      〈元禄十五年(1702)の一点は随筆『朝清水記』。江戸人の一蝶再評価が始まるのは宝暦あたりからか。明和七年(1770)     には鈴木鄰松の一蝶の臨写本『一蝶画譜』が出る。そして、安永二年(1773)『英林画鏡』、同七年には『群蝶画英』     と出版が続いたのは、一蝶の評価が一部の好事家のみならず巷間のものとなったあかしなのであろう〉