◯「文政十二己丑日記」②75 四月廿三日(『馬琴日記』巻二巻)
〝大坂屋半蔵来ル。過日申遣候画工之事也。其後、原田吉十郎を以、国貞方へ両三度かけ合候処、とかく
決着いたしかね候間、乃断候。然ル処、英泉義も、石魂録後集画せ候節、義絶同様之手紙差越候ニ付、
今更たのミ候事難儀の趣、申之。いづれ花山方、北渓事問に遣し、かけ合之上、何レとも取極可申間、
四五日見合せ可然旨、及相談〟
〈大坂屋半蔵は『近世説美少年録』の画工国貞を断念する。しかし何が原因かよく分からないが、大坂屋は英泉とも
『松浦佐用媛石魂録』後編(文政十一年(1828)刊)で義絶状態にあり、今更頼み難いとする。そこで北渓の起用を考
えたようである。ただどうして花山こと渡辺崋山経由で問い合わせるのか、不思議である〉
◯「文政十二己丑日記」②78 四月廿九日(『馬琴日記』第二巻)
〝画工北渓来ル。則、美少年録第二輯さし画之事頼可申為、委細示談之。此方ニ差置候三より五迄之画稿
・壱の口絵。惣もくろくのわく稿等渡し遣し、板元大坂や半蔵ぇ罷越候様申談じ、手紙差添、遣之〟
〈北渓との連絡に渡辺崋山が仲介するのであるから、北渓と崋山との関係は特別なものがあるのだろう〉
◯『滝沢家訪問往来人名録』(曲亭馬琴記)
◇下p119(文政十二年四月二十九日)
〝己丑(文政十二年)四月廿九日初来訪 赤坂溜池上桐畑町ニて黒田様前町也 一名麻布職匠町ト云
画工北渓〟
◇下p120
〝赤坂溜池桐畑町 画工 北渓〟
◯「文政十二己丑日記」②95 五月廿八日(『馬琴日記』第二巻)
〝画工北渓来ル。美少年録二輯口絵三丁出来、持参。惣もくろくハ近々出来のよし也〟
〈四月廿九日に画稿等を渡してから一ヶ月、この間何度か板元大坂屋や馬琴から催促があって、やっと口絵が仕上がっ
たのである〉
◯『馬琴書翰集成』⑥257 文政十二年(1829)四月二十九日 馬琴宛・渡辺崋山(第六巻・書翰番号-来38)
〝拝読、如示、喧寒不定之候、審文御使、常勝奉欣聴候。然バ、被仰下候通、去月祝融氏之難、知人多延
焼仕候。私も武清方へ参、桑名侯邸ノ裏ニて蹻、危難将死三度、まことにこり果申候。扨復、北渓事御
尋被下、如仰、職匠町と申所にて、先日の回禄には幸のがれ申候。且かねて吹挙相願候ニ付、高著繍像
被仰付候半との御事にて、自私も聞御受可仕段、拝諾仕候。今日にも罷越、此段申述候ハヾ、定而雀躍
可仕候。早々当人にも御礼に罷越、拝眉御礼可申と奉存候。何も御報迄、如此御座候
拝復
四月廿九日
尚々、御丁寧之御端書、厚謝仕候
曲亭先生〟
〈「去月祝融之難」「先日の回禄」はともに三月二十三日の大火をさす。武清は絵師喜多武清。北渓が馬琴の挿画に起
用されたのは『近世説美少年録』の二輯。初輯は歌川国貞である。「定而雀躍可仕候」北渓にとっても馬琴の読本に
挿絵をとることは名誉のことなのであろう。ただ、馬琴作・北渓画の作品はこの『近世説美少年録』二輯のみ。弘化
二年(1845)の続編・三輯以降は再び豊国三代(国貞)になる〉
◯「文政十二己丑日記」②118 七月九日(『馬琴日記』第二巻)
〝花山事渡部(ママ)登来ル。予、対面。先月中、登舎弟、死去。其後、自分も中暑ニて、しばらく引籠居候
よし也。北渓美少年録のさし画延引ニ付、さいそくいたしくれ候様、頼みおく〟
〈北渓に対する影響力は馬琴より渡辺崋山の方があるのだろう〉
◯「文政十二己丑日記」②135 八月四日(『馬琴日記』第二巻)
〝(『近世説美少年録』板元大坂屋半蔵)七月中より不出来ニて、打臥罷在候よし。右ニ付、美少年録二
輯さし画、北渓方より画キ不参、并ニ、板木師も埒明不申ニ付、其義のミ苦労ニいたし、病中日々申く
らし候よし。同人内儀申候趣、告之。并ニ、山口や藤兵衛方へ立寄、申付候口状申述候処、英泉方へハ
さし画折々催促ニ遣し候へ共、出来不申故、及(ママ)不覧ニ及び候よし。此方出来三之巻、両三日中、使
ヲ以、請取ニ参り候筈、藤兵衛申候趣、告之〟
〝大坂や半蔵、病中、画工不埒明事苦労ニ致候趣、きのどくニ付、渡部花山方まで其段申遣し、北渓方へ
伝へさせ、一日も(ママ)出来候様いたし遣し度思ひ候間、手紙認、今日、清右衛門へ申付、花山方へ届候
様談じ、もたせ遣す〟
〈板元にとって、国貞、英泉、北渓、なかなか意のままにならない存在のようだ。最も画工すべてがそういう訳でもな
さそうで、このころ、やはり馬琴作の合巻『風俗金魚伝』『漢楚賽擬選軍談』『傾城水滸伝』を担当した歌川国安は
順調に進行しているのか、督促記事は見あたらない〉
◯「文政十二己丑日記」②162 九月四日(『馬琴日記』第二巻)
〝画工北渓来ル。予、対面。美少年録二輯三の巻残りさし画壱丁・四の巻さし絵二丁、〆二(ママ)丁出来、
持参。(中略)北渓、今夕、板元大坂や半蔵方へ罷越候よしニ付、右写本はり入置可申間、明日夕方ニ
ても、明後日ニても、とりニ人遣し候様、板元へ可申通旨、示談し畢。暮六時過、北渓帰去。小田原提
灯一ツ、かし遣ス〟
〈「小田原提灯一ツ、かし遣ス」とは馬琴らしい細かさだ〉
◯「文政十二己丑日記」②212 十月廿九日(『馬琴日記』第二巻)
〝大坂や半蔵より、使を以、画工北渓美少年録さし絵弐丁残り、段々延引ニ付、催促ニ人遣し申度、手紙
認くれ候様申来候ニ付、即刻、催促の書状認之。もし未出来候ハヾ、画稿かへ(四字ムシ)きびしく申
遣ス。此序ニ、北渓ぇかし置候美少年録初編并ニ小田原ちやうちん一ッかへしくれ候様、申遣候〟
〈病気の板元大坂屋半蔵、北渓の遅筆に相当悩ませられている様子。北渓に小田原提灯を貸し出したのは九月四日のこ
と。この督促まで書状に認めるとは馬琴らしい〉
◯「文政十二己丑日記」②215 十一月三日(『馬琴日記』第二巻)
〝画工北渓、二かいより落、腕を損じ候よし。かしおき候小田原ちょうちんハ大坂やでつちもちかへり、
丁字やえ差おき候よしニて、いまだ此方へかへらず〟
〈北渓の怪我より、貸した小田原提灯がよほど気になると見える〉