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☆ 歌川 広重(浮世絵師伝)浮世絵師名一覧
 ◯『浮世絵師伝』p157(井上和雄著・昭和六年(1931)刊)   〝広重    【生】寛政九年(1797)  【歿】安政五年(1858)九月六日-六十二    【画系】豊広門人     【作画期】文化~安政    安藤氏、本姓田中(内田実氏の研究に拠れば、津軽藩の小姓頭田中徳右衛門といへる者、江戸にて弓術    師範を勤め居りし頃、其が三男徳明を安藤家へ養子に遣はしたり、これ即ち広重の父源右衛門なりと云    ふ)、幼名徳太郎、元服後、諱を元長、俗称を重右衛門といひしが、後更に徳兵衛と改む、文化六年の    春、十三歳にして母に死別し、尋で同年の冬に父を失ふ、彼が元服して家職(八代洲河岸定火消組同心)    を継ぎしは、実に其の年なりき。文化八年(十五歳)、豊国の門に入らむとして果さず、次に貸本屋某    の紹介を以て豊広を訪ね、其が門人たらむ事を懇請したるに、豊広は彼が志篤きを認めて、遂に入門を    許し、翌九年九月初めて「広重」といふ画名を彼に与へ、同時に歌川を称する事を許したりき。     彼の別号は、初め一遊斎といひ後ち一幽斎と改めしが、天保二年晩夏(内田実氏の説)以後、幽の字を    廃して一立(リウ)斎と号せり、但し印章には稍後まで旧号の「一幽斎」を用ゐたり。一立斎(印文には    一粒斎としたる例もあり)は彼の別号として最も著明なるが、嘉永三年頃、当時の講談師文庫と云へる    者に之れを与へて、爾後彼は単に立斎と号しき。其他には、狂歌号として東海堂歌重、及び戯画名に歌    重。また春画名に色重など云へり。     彼は未だ幼少の故を以て、親族の安藤鉄蔵といへる者をして一時これを代番せしめ、天保三年(三十六    歳)に至つて初めて仲次郎に家督を譲りしといふ、而して彼が旧居八代洲河岸より中橋大鋸町へ移りし    は、恐らく其の年(天保三)の事なるべし。それより弘化三年には大鋸町より常盤町に転じ、嘉永二年    夏の頃常盤町より中橋狩野新道に移り、其処を最後の住居としたりき、蓋し狩野新道も亦大鋸町なれど、    前住の家とは相異りしが如し。     彼は天性画才に長けたりしと見え、文化三年十一月、琉球人来朝の際、其の行列図を画きしもの今に伝    はれり、これ実に彼が十歳の筆なり、又、師(豊広)の教へを受くること僅かに一ケ年に満たず(自文    化八年、至同九年)して所謂免許を得しは、彼が画技の発達速かなりしを察するに足るべし。    彼の習技は浮世絵以外にも及びき、即ち狩野風を友人岡島林斎に、南宗画を大岡雲峰に、四條派流を京    都の何某に学びしなり、其の間浮世絵諸先輩等の作品より若干の長所を取り、又西洋画の遠近法を巧み    に応用し、之れに如上諸派の特長を渾和して、遂に天下独歩の風景画家たるに至りしなり。     天保三年(内田実氏の説)の秋、幕府より禁中へ八朔御馬進献の儀あるに際して、彼も亦其が随行の一    員に加はるを得しかば、往還の途上沿道の風趣を画嚢に収め、帰後尚ほ新たなる印象を辿りて得意の筆    に上せき、これ即ち保永堂版「東海道五十三次」にして、実に彼が一代の出世作たり。斯の旅行の天保    三年たるに誤り無くんば、前掲の如く、彼が其子に家督を譲りし年と同年なれば、彼が出発に先だちて、    家事に後顧の憂ひ無からんことを期せしものなるべし。    彼が自然を愛するの熱情は、よく其が作品の上に現はれたりされば、旅行の頻繁なりしは察するに余り    あり、いま記録にとゞまる所を挙ぐれば、右の八朔御馬進献以後、天保十二年四月甲斐に遊び、彼地に    て祭礼の幟、芝居の看板、其他種々の揮毫を試み、同年十一月江戸に帰る、次に天保十五(弘化元)年    三月、上総に赴き鹿野山に登り四月朔日に帰る、又、弘化二三年頃陸奥安達百目木に赴き、同地の渡辺    某方に滞在すること約一ケ月、其際、程近き羽前天童にも遊びしものなるべし、嘉永五年閏二月、再び    上総に遊び、安房に行き四月帰る、同七年幕吏に従ひ東海道の諸川を巡覧せりと云ふ。以上の外尚ほ漏    れたるもあらむが、其作品に現はれたる土地のうち、未だ実地を踏査せざりし所も甚だ少からざるべし。     彼の肉筆画中、俗に「天童藩もの」と称する若干の作品あり、これ即ち羽前天童藩主(織田兵部少輔)    より配下の者等に藩の用金を命じ、其の金額に応じて報酬に与へしものにして、彼は同藩より揮毫を依    頼されしなり、蓋し嘉永年間の事と思はる。     彼が天保十二年甲斐に遊びし時の旅日記(歌川列伝所載)を見るに、行文平易、天真を流露したるさま    変々として人に迫る、中に狂歌及び俳句あり、曰く     ◯屁のやうな茶をくんで出す旅籠屋はさてもきたなき野田尻の宿     ◯夢山はゆめばかりにて聞しより見て目の覚る甲斐のうらふじ     △行あしをまたとヾめけり杜鵑     △夏旅や夢はどこやら朝峠    又、文中所々に酒宴或は独酌の事見ゆ、所謂上戸党なりしも、飲んで乱に陥るが如き弊を醸さず、極め    て楽天的態度を持せしは想像に難からず。当時既に隠居の身なりし彼は、薙髪して悠々自適、敢て貸財    を貪らず、俗中にありながらも超俗の心境を失はざりしなり。    其他、文政十一年師(豊広)の歿後、彼をして二代目豊広たらしめんと勧むる人ありしも、彼は其の器    にあらずとして之を辞し、専ら師の孫豊熊の幼年なるを輔けて、其が後見の任に当りしが如き、また曾    て、狂歌の友たる尽語楼内匠【天明老人】が火災に遭ひて呻吟せしを、自宅に迎へ暇あるごとに共に狂    歌を詠じて之れを慰めしと云ふが如き、以て彼が天性の美質を想見するに足るべし。     彼が妻は天保十年に歿し、一子仲次郎は弘化二年に夭折(二十歳前後)す、嘉永の頃彼は後妻お安を娶    りて、其が連れ子お辰を養女とせり、後に二代広重の妻となりし者即ちこれなり。    斯くて後は、晩年益々多作しつゝ、『名所江戸百景』の如き大画集に筆を染めしが、恰も其の完成を告    ぐるか告げざる頃、我国未曾有のコレラ疫大流行を來たし、彼も亦それに冒されて長逝せり、時に安政    五年九月六日、享年六十二、法名を顕功院徳翁立斎信士とし、浅草新寺町(現今北松山町)の東岳寺    (曹洞宗)に葬れり。辞世に曰く、      東路へ筆をのこして旅のそら西の御国の名ところを見む    彼の後妻お安は明治九年に歿し、養女お辰は明治十三年に死せり。画系は彼が門人によつて継がれき。    いま彼が作画の変遷に就て、大要を挙ぐれば次の如し。     第一期 美人画中心時代    自文化十一年頃(十八歳)至文政九年頃(三十歳)  十三年間     第二期 風景画準備時代    自文政十年頃(三十一歳)至天保二年頃(三十五歳) 五年間     第三期 風景及花鳥画新興時代 自天保三年頃(三十六歳)至天保七年頃(四十歳)  五年間     第四期 風景画円熟時代    自天保八年頃(四十一歳)至弘化三年頃(五十歳)  十年間     第五期 風景画余力時代    自弘化四年頃(五十一歳)至安政五年頃(六十二歳) 十二年間    右の分類によつて、其が代表的作品を左に示さむ。     第一期     ◯平惟茂と戸隠山鬼女   ◯甘輝と和藤内          ◯今様子宝遊び(大判竪)     ◯風流五ツ雁金(大判竪) ◯外と内姿八景(大判竪、四枚揃) ◯見立座敷狂言(大判、三枚続)     第二期     ◯東都名所拾景(中判竪) ◯東都名所高輪之明月(其他、大横、十枚揃)(口絵第六十四図參照)     第三期     ◯富士川上流の雪景(大判、竪二枚継)   ◯牡丹に孔雀(其他数種、大短冊)      ◯木蓮に鳥(其他数種、中短冊)      ◯月二十八景之内弓張月(大短冊、二枚)      〇四季江都名所(中短冊、四枚揃)          ◯東海道五十三次(大横、五十五枚揃)保永堂版(口絵第六十三図参照)       ◯近江八景(大横、八枚揃)  ◯京都名所(大横、十枚揃)  ◯東都名所(大横)       ◯江都勝景(大横)      ◯本朝名所(大横)      ◯江戸近郊八景(大横、八枚揃)      ◯東都八景(地紙形)     第四期     ◯木曾街道六十九次之内(大横、四十七図)外に英泉画二十三図 ◯甲陽猿橋之図(大竪二枚継)     ◯浪花名所図會(大横、十枚揃)  ◯諸国六玉河(大横、六枚揃)   ◯和漢朗詠集(大竪)     ◯新撰江戸名所          ◯江戸高名会亭尽(大横、三十枚) ◯金沢八景(大横八枚揃)     第五期     ◯東海道五十三次(間判横、五十五枚揃)(江崎屋板)     ◯同(中判横、五十六枚揃)(佐野喜板)      ◯同(大横、五十五枚揃)(丸清板)     ◯東海道張交図会(大竪、十二枚揃)(伊場仙板)  ◯同(同 十四枚揃)(泉市板)     〇六十餘州名所図会(大竪、六十九枚揃)     ◯武陽金沢八勝夜景・木曾路之山川・阿波鳴門(各大判三枚續)     ◯江戸名所(大横、数十枚)       ◯名所江戸百景(大竪、百十八枚揃)(口絵第六十五図参照)     ◯絵本江戸土産(中本、九冊)(第十編は二代広事筆)    以上の外、絵本、狂歌本、草双紙等種々あれども、煩はしければ之れを略す。(広重の参考研究資料と    しては「広重六十回忌追善記念遺作展覧会目録」または内田実氏が長年月研究調査の結果、発表せられ    し「広重」単行本を御覧ありたし)〟