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☆ はるのぶ すずき 鈴木 春信浮世絵師名一覧
〔享保10年(1725)~ 明和7年(1770)6月15日・46歳〕
       〈忌日ついては、なぜか西川祐信の家に伝わる「西川家過去帳」に六月十四日とある由である〉  ☆ 宝暦三年(1753)      ◯「絵本年表」(漆山又四郎著『日本木版挿絵本年代順目録』)   ◇絵本(宝暦三年刊)    鈴木春信画『風姿紀文』三巻 画工不明(春信若書)江都竹径蜷局述 中村小兵衛他板    ☆ 宝暦十三年(1760)      ◯「絵本年表」(漆山又四郎著『日本木版挿絵本年代順目録』)   ◇絵本(宝暦十三年刊)    鈴木春信画    『絵本古金襴』三巻 図工鈴木春信筆 旭窓序  山崎屋金兵衛他板    『絵本諸芸錦』三巻 画工鈴木春信筆 禿箒子序 山崎屋金兵衛板     ☆ 宝暦年間(1751~1763)    ◯『増訂武江年表』1p170(斎藤月岑著・嘉永元年脱稿・同三年刊)   (「宝暦年間記事」)   〝浮世絵師鈴木春信、石川豊信(秀葩と号し、六樹園飯盛の父にして馬喰町の旅店ぬかや七兵衛といへり)、    鳥居清倍、山本義信(平七郎と称す)、鬼玉其の外多し〟    ☆ 明和元年(宝暦十四年・1764)     ◯「絵本年表」(漆山又四郎著『日本木版挿絵本年代順目録』)   ◇絵本(明和元年刊)    鈴木春信画『絵本花葛羅』三巻 画工鈴木春信筆 作者浪花禿帚子 山崎金兵衛板    ☆ 明和二年(1765)      ◯「絵本年表」(漆山又四郎著『日本木版挿絵本年代順目録』)   ◇絵本(明和二年刊)    鈴木春信画『絵本ことわざ草』二巻 鈴木春信画     (クルト氏の目録によりて橋口五葉氏浮世絵(雑誌の名)に転載しあれど、予は未見也。石川豊信の俚言草との誤り      にあらざる歟。暫く記して参照に供す)     ◯『金曾木』〔南畝〕⑩309(明和二年の事・文化六年十二月記)   〝明和三四年の比、予が十八九歳の時作りし狂詩あり、その時の事を記せり     大小会終錦絵新 又看洲崎闢塩浜 天文台上調新暦 医学館前哀古人     宗滅出山御蔵講 参多稲荷大明神 又聞巣鴨挑灯集 応是当時挊立身    明和の初、旗下の士大久保氏、飯田町薬屋小松屋三右衛門等と大小のすり物をなして、大小の会をなせ    しよりその事盛になり、明和二年より鈴木春信吾妻錦絵といふをゑがきはじめて紅絵の風一変す。洲崎    に塩浜出来て大門(ダイモン)屋といふ茶屋など出来たり。牛込藁店に天文台ありて天文方佐々木文次郎【    後に吉田四郎三郎】新暦調(シラベ)御用をなす。医学館成りて程なく官医多紀安元没せり。御蔵(ヲクラ)門    徒といふ邪教は本所の出山寺より起り、巣鴨の久能氏の稲荷流行せる事など皆一時の事なりき〟    〈「立身を挊(モテアソ)ぶ」とは世上流行したの意味か。錦絵の出現は明和期を代表する出来事なのである。巨川の項参照>    ☆ 明和三年(1766)      ◯「絵本年表」(漆山又四郎著『日本木版挿絵本年代順目録』)   ◇絵本(明和三年刊)    鈴木春信画『絵本さゞれ石』二巻 東都画工鈴木春信筆 浪花隠士禿箒子讃 山崎金兵衛板    ☆ 明和四年(1767)      ◯「絵本年表」(漆山又四郎著『日本木版挿絵本年代順目録』)   ◇絵本(明和四年刊)    鈴木春信画    『絵本千代の松』三巻 東都画工鈴木春信 浪花禿帚子序 山崎金兵衛板    『絵本節操草』 二巻 鈴木氏画(序による)明和丁亥(序による)(安永七年再板)     〈藤澤紫氏は安永七年刊とする(『鈴木春信絵本全集』研究編・勉誠出版・平成15年刊>    『絵本童乃的』 三巻 東都画工鈴木春信筆 禿帚子賛  美濃屋平七板    ◯「艶本年表」(〔目録DB〕は「日本古典籍総合目録」)   ◇艶本(明和四年刊)    鈴木春信画『俳諧色乃湊』一帖 鈴木春信画 沢木堂桃東撰 明和四・五頃           〔目録DB〕(注記「日本艶本目録(未定稿)による」)    ◯「日本古典籍総合目録」(国文学研究資料館)   ◇絵本(明和四年刊)    鈴木春信画『絵本春の雪』三冊 春信(注記「日本小説年表等による」)    ◯『寝惚先生文集』〔南畝〕①353(明和四年九月刊)   〝詠東錦絵     忽自吾妻錦絵移 一枚紅摺不沽時 鳥居何敢勝春信 男女写成当世姿〟    〈東(アヅマ)の錦絵を詠ず     忽ち吾妻錦絵と移つてより 一枚の紅摺沽れざる時 鳥居は何ぞ敢えて春信に勝(カナ)わん 男女写し成す当世の姿     明和期、吾妻錦絵といえば春信画。紅摺の一枚絵に活躍していた鳥居派は衰退する>    ☆ 明和五年(1768)     ◯「絵本年表」(漆山又四郎著『日本木版挿絵本年代順目録』)   ◇絵本(明和五年刊)    鈴木春信画    『絵本続江戸土産』三巻 東都画工鈴木春信筆 奧村喜兵衛板    『絵本八千代草』 三巻 東都画工鈴木春信筆 浪花隠士禿帚子賛 山崎金兵衛板    『絵本春の友』  三巻 東都鈴木春信筆 序「明和五ッの初春」 山崎金兵衛板    ◯『洒落本大成』第四巻   ◇洒落本(明和五年刊)    鈴木春信画『古今吉原大全』署名「鈴木春信画」沢田東江作?    ◯「日本古典籍総合目録」(国文学研究資料館)   ◇雑俳(明和五年刊)    鈴木春信画『春信画前句附』一冊 鈴木春信画 明和五序(注記「【版】天理綿屋」)   ◇評判記(明和五年刊)    鈴木春信画『吉原大全』五巻 春信 酔郷散人(沢田東江)    ◯『後はむかし物語』〔燕石〕①328(手柄岡持著・享和三年(1803)序)   〝(明和の頃)江戸町に巴屋といふよき女郎屋あり(中略)其頃、豊里、大崎などいふは、よき女郎にしてはやりたり、    (中略)材木屋に【居宅忘候、八町堀辺か、名も覚えず】表徳太申といふ者有、尤豪家と見えたり、太申の名を弘め    たき余りに、太申染といふを作る(「太申」の字を篆字化したような図あり)如此の染也、(〔墨書〕中略)巴やの    豊里に馴染て、此形を豊里に着せ、一枚絵にも、豊里が此染の小袖を着たる所をかゝせて出す【春信頃か】(後略)〟    〈この著者手柄岡持はこれを明和五年前後のこととしている>    ☆ 明和六年(1769)     ◯「絵本年表」(漆山又四郎著『日本木版挿絵本年代順目録』)   ◇絵本(明和六年刊)    鈴木春信画『絵本武の林』三巻 鈴木春信画 山崎金兵衛板     ◯「艶本年表」(〔国文研・艶本〕は「艶本資料データベース」〔目録DB〕は「日本古典籍総合目録」)   ◇艶本(明和六年刊)    鈴木春信画    『風流座敷八景』色摺 中判組物 五枚 明和六年頃〔国文研・艶本〕    『源氏華月抄』 墨摺 半紙本  一冊 明和六年頃〔国文研・艶本〕    『源氏華月抄』 五冊 鈴木春信画〔目録DB〕(注記「日本艶本目録(未定稿)による」)    『今様妻鑑』  三冊 鈴木春信画〔目録DB〕    司馬江漢画『艶道増加が見』墨摺 中本 全一冊 明和六年〔国文研・艶本〕          序「明和六巳(ママ)うしの初春」 5図の襖・20図の屏風に「春信画」    ◯「日本古典籍総合目録」(国文学研究資料館)   ◇滑稽本(明和六年刊)    鈴木春信画『売飴土平伝』一冊 鈴木春信画 舳羅山人(大田南畝)作    ◯『売飴土平伝』〔南畝〕①373・385(明和六年春刊)   (春信画・舳羅山人署名の南畝の漢文戯作。平賀源内と平秩東作の序跋があり。須原屋市兵衛板。    春信の挿絵は、当時評判の飴売り土平と鍵屋お仙・柳屋お藤を画く。この評判娘二人の優劣を論じた狂    文が「阿仙阿藤優劣弁并序」で、南畝はお藤の美貌を次のように表現している)   〝雑劇(キョウゲン)趣を写し、錦画世に伝ふ。春信も幾たびか筆を投げ、文調も面(カホ)を肖(ニ)せ難し〟    ◯『増訂武江年表』(斎藤月岑著・嘉永元年脱稿・同三年刊)   ◇「明和六年」p181   〝同(三月)八日より、湯島社地にて、和泉石津大社笑姿(エミスのルビ)(式内の神と云ひ、社人石津連と云    ふ。この時、巫女二人みめよきを択みて舞はす。名をおなみ、おはつと云ふ。鈴木春信錦絵に多く画け    り。筠庭云ふ、「半日閑話」には、このゑびすの開帳二月四日よりとあるは非なるにや。巫女はふり袖    の上にちはやを着たりとかや、神楽みこの美を択ぶこと、是なん俑をなしける)〟    ◯『筆禍史』「娘評判記」(明和六年・1869)p65(宮武外骨著・明治四十四年刊)   〝明和六年六月、此節娘評判甚だしく、評判記など写本にて出る。読売歌仙などにして売りあるく、公よ    り之を禁ず(半日閑話)    これは当時の娘評判記を、一枚或は二枚の粗末なる版行摺にして、市中に読売せしを禁止せしといふ事    なり     〔頭注〕娘評判の大流行時代    『寸錦雑綴』に『風流娘百人一首』の摸刻絵一葉を掲出し、尚     明和六己丑、大江都に名高き妓女或は茶店の少女を集めて見立三十六歌仙といひて売りありきしとな    むとあり、また当時江戸の三美人とて名高かりし谷中笠森稲荷の茶屋鍵屋の娘お仙、浅草楊屋の娘お藤、    同茶屋蔦屋お芳などの姿絵を      浮世絵師 鈴木春信    が江戸絵として版行せしも、此時代なりしなり、その娘評判記のはやりしこと推して知るべし〟    ◯『江戸評判娘揃』(海月菴無骨・明和六年七月序)〔『洒落本大成』第四巻所収〕   〝道を急ひで、笠森にて日暮(クラシ)ぬ。なる程世間の評判大和絵師に銭儲(モフケ)をさせしも、此娘の連のと    くならんと(云々)〟   〝壺入のはつむかしは 去年の春信からおもひつかれた大和絵の仕出し茶〟   〝去年の春信から又ぐつと評判つゐてたれしらぬものはござりませぬ〟    〈笠森稲荷の鎰(カギ)屋おせんを茶の初昔に擬えた戯文。去年とあるから明和五年から評判が出てたようだ。それを春     信が真新しい多色摺りの技術を使って錦絵にするやいなや、なお一層の評判を呼び起こし、この頃では誰知らぬもの     なき天下の美女となっていた>    ☆ 明和七年(1770)     ◯「絵本年表」(漆山又四郎著『日本木版挿絵本年代順目録』)   ◇絵本(明和七年刊)    鈴木春信画    『よしはら美人合』四巻 春信筆   舟木嘉助板〈『絵本青楼美人合』>    『絵本浮世袋』  二巻 鈴木春信画 千種屋新右衛門板    ◯「艶本年表」(〔目録DB〕は「日本古典籍総合目録」)   ◇艶本    鈴木春信画    『多和婦連種』三冊 鈴木春信画 遊開作〔目録DB〕(注記「日本艶本目録(未定稿)による」)    『風流艶色真似ゑもん』二冊 鈴木春信画 小松百亀作〔目録DB〕(注記「日本艶本目録(未定稿)による」)    ◯『増訂武江年表』(斎藤月岑著・嘉永元年脱稿・同三年刊)   ◇「明和七年」1p183   〝六月十五日、(浮世絵師)鈴木春信卒す(五十三歳)〟    ◯『半日閑話 巻十二』〔南畝〕⑪343(大田南畝著・明和七年(1770)六月十五日)   〝鈴木春信死す    十五日、大和絵師鈴木春信死す。【この人浮世絵に妙を得たり。今に錦絵といふ物はこの人を祖とす。    明和二年乙酉の頃よりして其名高く、この人一生役者絵をかヽずして云、われは大和絵師也、何ぞや川    原者の形を画にたへんと。其志かくのごとし。役者絵は春章が五人男の絵を始とす。浮世絵は歌川豊春    死して後養子春信と名のりて錦絵を出す】〟    〈二行割り書き「浮世絵は歌川豊春死して後養子春信と名のりて錦絵を出す」の意味がよくわからない。豊春の没年は     文化十一年(1814)とされる。どうも大田南畝の書き込みかどうかさえ疑われるのだが。ともあれ、春信は錦絵が登場     する以前の宝暦末に役者絵を画いているから、これは事実に反する。しかし「われは大和絵師(云々)」と言い放っ     て、その事実まで隠そうとしたことは、春信に歌舞伎役者を賤視する姿勢があったことを示すものであろう。勝れた     役者として称賛することはあっても、身分上の垣根は厳然とわきまえる。これはある意味では江戸人一般の意識であ     ろう。その自覚は浮世絵師たちにも当然あったに違いない。しかし、勝川春章は当時新技術でもあった錦絵でもって、     それも似顔で画いて役者を称賛した。一方の春信はそれをあえてしなかったのである。(後出『浮世絵考証』参照)>    ◯『役者裏彩色』明和七年刊役者評判記(八文字屋八左衞門著・『歌舞伎評判記集成』第二期十巻p31)   〝見立浮世絵師に寄ル左のごとし   【いわくあり開口】山下金作   森田座  何をされてもわつさりとする春信  〈鈴木春信>    上上吉     吾妻藤蔵   市村座  武道にはちと角があつてよい菱川  〈菱川師宣>    上上吉     中村喜代三郎 同座   どふみても上方風でござる西川   〈西川祐信>    上上◎     中村松江   中村座  思ひのたけをかいてやりたい一筆斎 〈一筆斎文調〉    〈◎は「吉」の字の「口」が二重枠の「口」〉    上上◎     尾上松助   市村座  此たびはとかくひいきと鳥居    〈鳥居清満か〉    〈◎は「吉」の字が二重枠の「吉」〉    上上◎     瀬川七蔵   中村座  瀬川の流れをくんだ勝川      〈勝川春章〉    〈◎は「吉」の字の「士」の二重枠文字〉    上上◎     山下京之助  森田座  風俗はてもやさしひ歌川      〈歌川豊春〉    〈◎は同上〉    上◎      尾上民蔵   市村座  うつくしひ君にこがれて北尾    〈北尾重政〉    〈◎は「上」の二重枠文字〉    上上      嵐小式部   森田座  いろ事にかけては心を奥村〟    〈奥村政信>    ☆ 刊年未詳    ◯「艶本年表」(〔国文研・艶本〕は「艶本資料データベース」〔目録DB〕は「日本古典籍総合目録」)   ◇艶本(刊年未詳)    『風流艶色真似ゑもん』色摺 中判 二十四枚〔国文研・艶本〕    『好色長生伝』   鈴木春信画〔目録DB〕(注記「日本艶本目録(未定稿)による」)    『笑本春の曙』三冊 鈴木春信画〔目録DB〕(注記「艶本目録による」)    『艶本陰御覧』五冊 春信画? 〔目録DB〕(注記「艶本目録による」)    『縁結恋の占』   鈴木春信画〔目録DB〕(注記「艶本目録による」)    『艶色玉椿』 一冊 鈴木春信画〔目録DB〕(注記「艶本目録による」)    ☆ 没後資料    ☆ 明和八年(1771)      ◯「絵本年表」(漆山又四郎著『日本木版挿絵本年代順目録』)   ◇絵本(明和八年刊)    鈴木春信画    『絵本春の錦』彩色 二巻 東都画工鈴木春信 山崎金兵衛板    『絵本時津風』三冊 鈴木春信画(有疑不能)禿帚子著    ☆ 明和八年(1771)     ◯「艶本年表」(〔目録DB〕は「日本古典籍総合目録」〔国文研・艶本〕は「艶本資料データベース」)   ◇艶本(明和八年刊)    鈴木春信画    『好色錦真蔵』一帖 鈴木春信画〔目録DB〕(注記「日本艶本目録(未定稿)による」)    『つやかゞみ』一冊 春信画? 〔目録DB〕(注記「日本艶本目録(未定稿)による」)    『今様妻鑑』 墨摺 半紙本 三冊 明和八年 序「粹翫坊」〔国文研・艶本〕    ☆ 明和年間(1764~1771)    ◯「日本古典籍総合目録」(国文学研究資料館)   ◇絵本(明和年間刊)    鈴木春信画『絵本歌解』一冊 鈴木春信画(注記「統一書名は(仮題)」)    ☆ 安永四年(1775)    ◯「絵本年表」(漆山又四郎著『日本木版挿絵本年代順目録』)   ◇絵本(安永四年刊)    鈴木春信画『教訓いろは歌』三巻 画工鈴木春信 禿帚子 須原屋市兵衛板    ☆ 安永七年(1778)        ◯『絵本節操草』(鈴木春信画・山崎金兵衛板・安永七年(1778)刊)   (「書林山金堂蔵版絵本目録」巻末所収。鈴木春筆の山崎板絵本)   〝絵本諸芸錦 鈴木春信筆 三冊   同花かつら 同筆 三冊  同さゝれ石 同筆 三冊    同千代の松 同筆    三冊   同八千代草 同筆 三冊  同浮世袋  同筆 二冊    同みさほ草 同筆    二冊   同春の錦  同筆 さいしきずり 二冊    絵本童乃的 鈴木春信筆 三冊   同春の雪  鈴木春信筆 小本三冊     同春の友  同筆  小本三冊   同武の林  同筆    小本三冊〟    ◯「日本古典籍総合目録」(国文学研究資料館)   ◇絵本 絵画(安永七年刊)    鈴木春信画『絵本節操草』二冊 鈴木春信画 山崎金兵衛板    ☆ 安永九年(1780)    ◯「絵本年表」(漆山又四郎著『日本木版挿絵本年代順目録』)   ◇絵本(安永九年刊)    鈴木春信画『女用文綾錦』一冊 口絵春信 仙台板     ☆ 天明八年(1788)     ◯「絵本年表」(漆山又四郎著『日本木版挿絵本年代順目録』)   ◇絵本(天明八年刊)    鈴木春信画『絵本以呂波歌』三巻 画鈴木氏 須原屋市兵衛板(原板は安永四年なり『教訓いろは歌』の改題也)    ☆ 寛政十二年(1800)    ◯『浮世絵考証』〔南畝〕⑱443(寛政十二年五月以前記)  〝明和のはじめより吾妻錦絵をゑがき出して今にこれを祖とす。これは其頃初春大小のすり物大に流行し    て、五六遍ずりはじめて出来より工夫して今の錦絵とはなれり。春信一生歌舞妓役者の絵をかヽずして    いはく、われは大和絵師なり、何ぞ河原者のかたちをゑがくにたへんやと。その志かくの如し。明和六    年の頃、湯島天神に泉洲石津笑姿開帳ありし時、二人の巫女みめよきをえらびて舞しむ。名をお波、お    みつといふ。又谷中笠森稲荷の前なる茶屋鍵屋の娘おせん、浅草楊枝や柳屋仁兵衛娘おふじの絵を錦絵    にゑがきて出せしに、世の人大にもてはやせり〟    〈前出『半日閑話』もこの『浮世絵考証』も大田南畝の記述である。「われは大和絵師なり(云々)」は、南畝が春信     から直接聞いたのではあるまいか。南畝が神田白壁町の平賀源内のもとに出入りしていた頃、同町内の春信も源内宅     に常に出入りしていたというから、その可能性はある(後出『反故籠』参照)>    ◯『古今大和絵浮世絵始系』(笹屋邦教編・寛政十二年五月写)    (本ホームページ・Top「浮世絵類考」の項参照)       〝西川(ママ)重長門弟  鈴木春信〟    ☆ 享和二年(1802)    △『稗史億説年代記』(式亭三馬作・享和二年(1802))〔「日本名著全集」『黄表紙二十五種』所収〕   〝草双紙の画工に限らず、一枚絵の名ある画工、新古共に載する。尤も当時の人は直弟(ヂキデシ)又一流あ    るを出して末流(マタデシ)の分はこゝに省く。但、次第不同なり。但し西川祐信は京都の部故、追て後編    に委しくすべし    倭絵巧(やまとゑしの)名尽(なづくし)     昔絵は奥村鈴木富川や湖龍石川鳥居絵まで 清長に北尾勝川歌川と麿に北斎これは当世      鈴木春信  (他の絵師は省略)〟
    『稗史億説年代記』式亭三馬自画作(早稲田大学図書館・古典籍総合データベース)     〝青本 草双紙いよ/\洒落る事を専一とする。当世風体此時より始まる    袋入 袋入本始まる。茶表紙に細き外題。袋入にして青板とは別板なり    画工 柳(ママ)文調、役者似顔の元祖、勝川春章に続いて似顔画を書く    〈「春章に続いて似顔画を書く」とあるから、一筆斎文調の誤記であろう。次項もそうだが、「画工」とあるものの、     このあたりから、三馬は青本の画工というより、当時活躍した浮世絵師を取り上げているように思う>    同  鈴木春信、湖龍斎、女絵の一枚絵一流なり。柱隠し女絵本はやる〟    〈三馬は別のところで「昔より青本の画をかゝざる人の名」を十三人の浮世絵師をあげているが、春信も湖龍斎もそれ     に入っている。従ってこの「画工」は、この青本当時の絵師として春信や湖龍斎をあげたものと思われる>     〝昔より青本の画をかゝざる人の名    奥村   鈴木春信  石川豊信  文調    湖龍斎  勝川春章  春好    春潮    春林   春山    春鶴    春常 【勝川門人数多あり】    歌川豊春 【此外にも洩れたる画者多かるべし。追て加之】〟    ☆ 文化初年(1804~)    ◯『反故籠』〔続燕石〕②369(万象亭(森島中良)著、文化初年成立)   (「江戸絵」の項)   〝明和二申の歳、大小の会といふ事流行て、略暦に美を尽し、画会の如く勝劣を定むる事なり。此時より    七八遍摺の板行を初てしはじむ。彫工は、吉田魚川、岡本松魚、中出斗園なり。夫より以前は、摺物も    今とは違ひ、至てざつとしたるものなり。其時、風来先生の大小は、一円窓の真中に沢村宗十郎【後亀    音】奴姿の鬼王にて立て居る、左に松本幸四郎【四代目団十郎】羽織工藤にて横向に立て居る。右に市    川雷蔵五郎時宗、上下衣裳にて睨んで居る。何れも半身宛にて大場豊水が画なり。似顔の画といふ物無    きころなれば、大に評判にて有りしなり。是等より思ひ付て、鈴木春信【神田白壁町の戸主にて画工な    り、画は西川を学ぶ、風来先生と同所にて、常に往来す、錦絵は翁の工夫なりといふ】東錦絵といふ看    板を、所々の画草紙屋へかけさせて売出す、今の錦絵の祖なり、糊入へ薄紅にて、若松を白抜に摺り、    藍にて吾嬬錦絵    ◯「南畝文庫蔵書目」〔南畝〕⑲415(年月日なし)   (「画部」の項)   〝遊色妹背種 二巻 春信画〟    ◯「杏園稗史目録」〔南畝〕⑲452(年月日なし)   (「画本部」の項)   〝遊色妹背種 春信画 二〟    ◯「杏園稗史目録」〔南畝〕⑲467(年月日なし)   (「春画并好色本」の項)   〝遊色妹背種 二巻 鈴木春信と見ゆ〟    〈南畝は春画『遊色妹背種』を春信画とする。「国書総目録・著者別索引」には見えない。南畝と春信     の交渉は、明和六年刊の南畝著『売飴土平伝』に春信が挿絵を画く以前からのものであろう。明和三     年十月、南畝は川名林助を介して神田白壁町に住む平賀源内に初めて会ったが、源内の門人・万象亭     の『反古籠』によると、その頃源内は同町の戸主でもあった春信と常に往来する仲であった由。する     とその頃から二人に面識があっても不思議ではない。したがって『浮世絵考証』にいう春信が一生役     者絵を画かずの話も、絵が実際に残されているから事実とは違うが、春信が自らそう語ったというの     は事実ではないか>    ☆ 天保四年(1833)    ◯『無名翁随筆』〔燕石〕③293(池田義信(渓斎英泉)著・天保四年成立)   〝鈴木春信【明和頃ノ人也】     俗称(空白)、居住両国米沢町角、号湖竜斎、【江戸産也】西村重長門ト云、    鈴木春信は浮世美人画に名あり、一時の聞へあり、吾妻錦絵と称する祖とす、画本、小本の差画等多し、    此頃の画本は、こまかき麻の葉の表紙に紅唐紙の外題をはり、袋入なり、◯明和のはじめより吾妻錦絵    を画き出して、今是を祖とす、是は其頃、初春略暦大小の摺物大に流行して、五六度摺はじめて出来し    より工夫して、今の錦画とはなれり、春信一生歌舞伎役者の画をかゝずして云、我は大和絵師なり、何    ぞ河原者の形を画くに絶へんやと、其志かくの如し、明和六年の比、湯島天神に泉州石津笑姿開帳有し    時、二人の巫女美女のよきを撰みて舞しむ、名をお浪、おはつと云、又、谷中笠森稲荷の茶屋鍵屋の娘    おせん、浅草楊枝店柳屋仁平次娘お藤の姿を錦画にゑがきて出せしに、世人大にもてはやせり、【以上    浮世絵類考】      小本画本、春の雪、春の友、武の林【春信筆画本也】      △かさもりおせん △飴売土平も、一時の者也、△銀杏のおふじと云は浅草なり、      絵本諸芸錦、同花かつら 同さゞれ石、同千代松、      同八千代草、同浮世袋、同春の錦、【右春信筆なり】    三馬按、此門人某、橋本町に住て二代目春信となる、後年長崎に至り、蘭画を学びて、再江戸に帰りて、    大に行る、    鏡画の事等、別記にしるせり〟    〈「居住両国米沢町角、号湖竜斎、【江戸産也】西村重長門ト云」の記述は、どんな根拠によってどの時点から加えら     れたのであろうか>    ☆ 天保十一年(1840)    ◯『古今雑談思出草紙』〔大成Ⅲ〕④98(東随舎著・天保十一年序)   〝今は浮世絵さかんにして、金岡にまさりて芝居役者の似顔生写しに書る者多し。勝川(ママ)春信おなじく    春章が類とし、風流なる傾城の写し絵、当世の姿、貴賤男女の遊興の気しき、四季ともに歌麿、北斎な    ど筆意を争ふ〟    ☆ 弘化元年(天保十五年・1844)    ◯『増補浮世絵類考』(ケンブリッジ本)(斎藤月岑編・天保十五年(1844)序)   (( )は割註・〈 〉は書入れ・〔 〕は見せ消ち)   〝鈴木春信 明和の頃の人なり 江戸産也 西村重長門人     俗称(空白) 居住 両国米沢町角      号 (空白)(此頃の絵本は行成紙といへる鳥の子にこまかき麻の葉を広て摺たる表紙に、            紅唐紙の外題紙也)    鈴木春信は浮世美人画に名あり。一時の聞人なり。吾妻錦絵と称するの祖とす。(絵本小本の差絵多し、    彩色摺奉書四ッ切の美人絵多し)明和の始より吾妻錦絵を画き出して、今是を祖とす。是は其頃、初春略    暦大小の摺物流行して、五六〈ゴロク〉編摺はじめて出来しより工夫して、今の錦画とはなれり。春信一    生歌舞伎役者の画をかゝずして云、我は大和絵師なり、何ぞ河原者の形ちを画くに絶んやと、其志かくの    如し。明和六年の比、湯しま天神に泉州石津笑姿〈エミス〉開帳有し時、二人の巫女みめよきを撰みて舞    しむ。名をお浪おはつと云、又、谷中笠森稲荷の茶屋、鍵屋のむすめおせん、浅艸楊枝店、柳屋仁平次娘    お藤の姿を錦画にゑがきて出せしに、世人大ひにもてはやせり。(以上類考)    明和七〈寅〉六月十五日死      春信筆絵本板刻のもの多し     春の雪    三    松の友 三      武の林〈小本〉 三     絵本江戸土産〔同〕二編〈初編は西村重長筆也〉     絵本諸芸錦  三    同 花かつら  三      同 さゝれ石 三    同 千代〔春〕〈松〉三     同 八千代草 三冊   同 浮世袋   二     同 春の錦〈彩色摺〉二 同 いろは歌〈禿箒子編〉     同 古錦襴     〈吉原美人合 彩色ずり 遊女発句〉     欄外〈月岑按るに、春信の板本を見るに、西川祐信が筆意を似せたると見えて見まがふもの多し〉    〈同 春の雪 小本三   同 春の友 小本三     吉原大全  五冊〉    三馬按、此門人某、橋本町に在て二代目春信となる。後年長崎に至り蘭画を学びて、再び江戸に帰りて大    に行る。所謂司馬江漢是也。〈本邦にて銅板を製し始む〉元祖春信の伝、并に鏡の事等、別記にしるせり。    〈江漢が画作、西遊旅譚あり。今行て尤よし。江漢は文政元年寅十月廿一日卒す、七十二才也、江漢不言    道人、名は峻〉〟    ☆ 嘉永三年(1850)    ◯『古画備考』三十一「浮世絵師伝」中p1391(朝岡興禎編・嘉永三年四月十七日起筆)   〝鈴木春信 一説西川重遠(ママ)門弟    明和のはじめより、吾妻錦画を画き出して今に是を祖とす、これは其頃、初春大小のすり物、大に流行    して、五六遍ずり始て出来しより、工夫して今の錦画とはなれり、春信一生、歌舞伎役者の画をかゝず    していはく、我は大和画師なり何ぞ河原者のかたちを画がくにたへんやと、其志かくの如し、明和六年    の比、湯島天神に泉州石津笑姿の開帳ありし時、二人の巫女みめよきをゑらびて舞しむ、名をお浪、お    みつと云、又谷中笠森稲荷の前なる茶店鍵屋の娘おせん、浅草楊枝屋柳屋仁兵衛娘おふぢの絵を錦画に    ゑがきて出せしに、世の仁大にもてはやせり【浮世画類考】    詠東錦画 忽自吾妻錦画移、一枚紅摺不沽時、鳥居何敢勝春信、男女写出当世姿、明和四年、寐惚先生文集    〈「西川重遠(ママ)」は西川重長の誤記か。明和四年(1767)「寐惚先生文集」は寝惚先生こと大田南畝の狂詩狂文集>    ☆ 安政二年(1855)    ◯『歴世女装考』〔大成Ⅰ〕(山東京山著・安政二年刊)   ◇「びんさし」の考証 ⑥304   〝びんつけ油はじまりしよりのちの草子どもにある〔割註 延宝より元禄にわたりては江戸に菱川師宣が    絵本、宝永より元文にわたりては京に西川祐信が絵本〕婦女の図にびんを張出したるはさらになし。近    き明和安永にいたりて鈴木春信〔割註 江戸長谷川町に住す〕が絵本多かれど是にもみへず〟
  ◇「櫛巻といふ髪」の考証 ⑥310(模写あり)   〝此図安永七年江戸板鈴木春信画繪本貞操草にあり。上下二冊の内櫛巻の女七人あり。此図も主人と下女    と櫛巻なり。此頃京の絵本にもくし巻みゆれば三都にはやりしと見えたり〟    ☆ 文久二年(1862)      ◯『宮川舎漫筆』〔大成Ⅰ〕⑯318(宮川政運著・柳川重信画・文久二年刊)   (「東錦絵はじまり」の項)   〝愛閑楼雑記といへる写本にいふ、江戸絵と称して、印板の絵を賞翫する事、師宣【菱川】をはじめとす、    印板の一枚絵は古く有りしものなれども、彩色したるはなく、貞享の頃より漸く彩どりたるもの出来し    を、明和のはじめ、鈴木春信はじめて、色摺の錦絵といふものを工夫してより、今益々壮んに行はる〟    〈「愛閑楼雑記」は未詳。「国書基本DB」にも収録なし>    ☆ 慶応元年(元治二年・1865)    ◯『俗事百工起源』〔未刊随筆〕②93(宮川政運著・元治二年記事)   (「江戸錦絵の始」の項)   〝愛閑楼雑記に云ふ【星野周庵といへる医師の筆記なり】江戸絵と称して印板の一枚絵は古く有しものな    れども、彩色したるはなく、貞享の頃より漸く彩どりたるもの出来しを、明和の始、鈴木春信始て色ず    りの錦絵と云ふものを工夫してより今益々盛んに行はる、江戸の名物とはなりぬ、他邦の及ぶ処に非ざ    れども、春信生涯、歌舞伎役者を画かずと云々    右明和元年より当丑年迄百二年と成、又菱川師宣が画し貞享なれば、元年より当丑年迄百八十二年と成〟    ☆ 明治元年(慶応四年・1868)    ◯『新増補浮世絵類考』〔大成Ⅱ〕⑪201(竜田舎秋錦編・慶応四年成立)   〝鈴木春信    西村重長門人にて、両国米沢町に住す。明和の始より吾妻絵を画き出して、今錦絵と称するの祖とす。 是は其頃初春の略暦大小の摺物流行して、五六編摺はじめて出来しより工風して今の錦絵とはなれり。 春信一生歌舞伎役者の画をかゝずして云、我は大和画師なり。何ぞ河原者の形を画くに堪んやと。其志、 かくの如く、明和六年の頃、湯島天神に泉州石津笑姿開帳有し時二人の巫女みめよきを撰みて舞しむ、 名をお浪、おはつと云。又谷中笠森稲荷の茶屋鍵屋のむすめおせん、浅草楊枝店柳屋仁平次娘お藤の姿 を錦絵にかきて出せしに、世人大ひにもてはせり。明和七寅年六月十五日歿す。絵本板刻のもの多し。     絵本春の雪  三     同 春の友  三     同 武の林  三     同 花かつら 同     同 さゞれ石 同     同 千代の松 同     同 浮世袋  同     同 春の錦  二     同 八千代草 同     同 いろは歌       同 古錦襴  三     同 吉原美人合(彩色摺、遊女句あり)     絵本諸芸錦  同     絵本江戸土産 二編(初編は西村重長筆也)    ☆ 明治二年(1869)    ◯『翟巣漫筆』〔新燕石〕④附録「随筆雑記の写本叢書(一)」p7(斎藤月岑書留・明治二年記)   〝(鈴木春信の一枚絵)うへ木うり なりひら橋なり平 華涼しミづきはだてに家橘ばた〟   (斎藤月岑の注)   〝類考に春信、歌舞伎を画かざるといへり、然るに如此図あり〟  ☆ 明治十一年(1878)   ◯『百戯述略』〔新燕石〕(斎藤月岑著・明治十一年(1878)成立)   ◇④227    〝(彩色摺に関する記述)明和中、鈴木春信の時、紅、丹、藍、緑、紫、浅黄、薄墨等の彩色摺有、奉書 の紙へダウスを引、見事にて、彫刻も格別入念たり〟     ◇④226   〝明和の頃、鈴木春信より一変いたし、彫刻入念、彩色の返数も相増し、専ら流行いたし〟    ☆ 明治十七年(1884)  ◯『扶桑画人伝』巻之四 古筆了仲編 阪昌員・明治十七年(1884)八月刊   (国立国会図書館デジタルコレクション)   〝春信    鈴木氏、名ハ春信、湖龍斎ト号ス。西村重長ノ門人ニテ、浮世絵ヲ能クス。明和ノ初年吾妻錦絵ヲ画ガ    キ出シテ、今ニ是レヲ祖トス。コレハ其ノ頃、新年ノ大小ノ摺モノ大ニ流行シテ、彩色五六度摺ノ絵出    来セリ。後チ又研究シテ今ノ錦絵トナレリ。春信生涯歌舞妓役者ノ絵ヲカヽズシテ曰ク、我ハ大和絵師    ナリ、何ゾ河原者【俳優ナリ】ノ姿ヲ画クニタヘンヤト、其ノ志カクノ如シ。明和六年ノ頃、江戸湯島    天神ノ境内ニテ泉州石津笑姿開帳アリシ時ニ、二人ノ女最モ美婦ヲ撰ビテ舞ハシム。其ノ名ヲ浪女・美    津女ト云フ。又江戸谷中笠森稲荷ノ前ナル茶屋鍵屋ノ娘仙女、浅草ノ楊枝屋柳屋仁平次ノ娘藤女、コノ    二人ヲ錦絵ニ摺出セシニ当時大ニ称玩セラルヽト云フ。明治十六年迄凡百二十年〟  ☆ 明治二十一年(1888)  ◯『古今名家書画景況一覧』番付 大阪 広瀬藤助編 真部武助出版 明治二十一年一月刊   (東京文化財研究所「明治大正期書画家番付データベース」)   ※( )はグループを代表する絵師。◎は判読できなかった文字   (番付冒頭に「無論時代 不判優劣」とあり)   〝大日本絵師     (西川祐信)勝川春章 菱川師房  西村重長 鈴木春信  勝川春好 竹原春朝 菱川友房 古山師重     宮川春水 勝川薪水 石川豊信  窪俊満    (葛飾北斎 川枝豊信 角田国貞  歌川豊広 五渡亭国政 菱川師永 古山師政 倉橋豊国 北川歌麿     勝川春水 宮川長春 磯田湖龍斎 富川房信    (菱川師宣)〟  ☆ 明治二十二年(1889)   ◯『古今名家新撰書画一覧』番付 大阪 吉川重俊編集・出版 明治二十二年二月刊   (東京文化財研究所「明治大正期書画家番付データベース」)   ※( )はグループの左右筆頭   〝日本絵師    (葛飾北斎)西川祐信 勝川春章 菱川師房 西村重長 鈴木春信 川枝豊信  角田国貞 勝川春好     竹原春朝 歌川豊広 倉橋豊国 石川豊信 勝川薪水 古山師重 五渡亭国政 菱川師永(菱川師宣)  ◯『近古浮世絵師小伝便覧』(谷口正太郎著・明治二十二年(1889)刊)   〝明和 鈴木春信    湖龍斎と号す、西村重政に学び、多く美人を画き、此を摺絵にして、世に弘む。彩色数度摺の絵は爰に    始る。現今世に行はる錦絵の祖也〟  ☆ 明治二十三年(1890)   ◯「【新撰古今】書画家競」奈良嘉十郎編 天真堂 江川仙太郎 明治23年6月刊    (『美術番付集成』瀬木慎一著・異文出版・平成12年刊))   〝浮世派諸大家     明 和 鈴木 春信〟 浮世絵師 歴代大家番付    ☆ 明治二十五年(1892)  ◯『日本美術画家人名詳伝』下p535(樋口文山編・赤志忠雅堂・明治二十五年(1892)刊)   〝鈴木春信    湖龍斎ト号シ、西村重長ノ門ニ学ブ、明和ノ初メ吾妻錦絵ヲ画キ出ス、是レ錦絵ノ始メナリ、曾テ江戸    谷中笠森稲荷ノ前ナル茶屋鍵屋ノ娘仙女、浅草揚弓店柳屋仁平次ノ娘藤女ノ二像ヲ錦絵ニ摺出シテ、当    時人ノ称誉ヲ得、然レドモ歌舞伎役者ノ絵ヲ画カズシテ曰ク、我大和絵師ナリ何ゾ河原者(俳優ヲ云フ)    像ヲ画クニ絶エンヤト、終身之ヲ画カズト云フ、著ス所ノ画本多シ(人名辞書)〟  ☆ 明治二十六年(1893)    ◯『古代浮世絵買入必携』p20(酒井松之助編・明治二十六年(1893)刊)   〝鈴木春信    本名〔空欄〕  号〔空欄〕  師匠の名〔空欄〕  年代 凡百三四十年前    女絵髪の結ひ方 第五図 (国立国会図書館 近代デジタルライブラリー)    絵の種類 大判、中判、小判、細絵、長絵、紅絵、絵本、肉筆    備考   墨摺絵本は廉価なり〟  ☆ 明治二十六年(1893)    ◯『浮世絵師便覧』p204(飯島虚心著・明治二十六年(1893)刊)   〝春信(ハルノブ) 鈴木氏、東錦画の祖、名手なり、明和七年死、一説に天明七年死、六十七〟  ☆ 明治二十七年(1894)    ◯『名人忌辰録』下巻p38(関根只誠著・明治二十七(1894)年刊)   〝鈴木春信 長栄軒    通称次兵衛、号湖龍斎、江戸の人。浮世絵師、西村重長門人。明和七寅年六月十五日歿す、歳五十三〟    ◯『浮世絵師歌川列伝』「歌川豊広伝」p109(飯島虚心著・明治二十七年、新聞「小日本」に寄稿)   〝按ずるに豊広が俳優似貌画は、未だ嘗て見ざるなり。一説に豊広は生涯似貌画をかかざりしと、蓋し然    らん。されどかの鈴木春信、喜多川歌麿のごとく、一見識を立て、俳優を卑しみて画かざりしにあらざ    るがごとし。蓋し同門豊国が、似顔絵をよくするを以て、彼に譲りて画かざりしものか。又風俗美人画    は、喜多川歌麿におとるといえども、細田栄之にまさりて、頗(スコブル)艶麗なる所あり。されど其の風    古体にして豊国のごとく行われざりし〟  ☆ 明三十二年(1899)    ◯『浮世画人伝』p41(関根黙庵著・明治三十二年(1899)刊)    〝 鈴木春信(ルビすゝきはるのぶ)    鈴木春信も、重長の門人にして、明和の初めより、美人画に名を得たりしが、当時新年の略暦を、彩色    五六遍して、美麗に摺(スリ)搨(ウツシ)する事ありければ、春信がかける絵にも、又之を応用して、大に行    (オコナ)はれ、これより錦絵の称起れりといふ。されども、そが門人にて、始め春重(ハルシゲ)といひ、後    に洋画の法をかき初めたる、司馬江漢が後悔記といふ書に、「其の頃鈴木春信といふ浮世絵師、当世の    女の風俗を描く事を妙とせり。四十余にして病死(ビョウシ)しぬ。予、此の似せ物を描きて、版行に彫り    けるに、似せものといふものなし、世人我を以て、春信なりとす。予、春信に非れば、心伏せず。春重    と号して、唐画の仇英、或ひは周臣等の彩色の法を以て、吾国の美人を画く。夏月(カゲツ)の図は、薄    物の衣、裸体の透き通りたるを、唐画の法を以て画く。冬月の図は、茅屋に篁めぐり、庭に石燈籠など    皆雪にうづもれしは、淡墨(ウスズミ)を以て、唐画の雪竹の如く隈(クマ)どりして、且(カツ)其頃より、夫人    髪に髱(タボ)さしと云ふもの始めて出来、爰に於て髪の結ひ風、一変して之を写真して、世に甚(*ハナハ    ダ)行はれける、吾名この画のために失はんことを懼(オソ)れて、筆を投じて描かず云々」と見えき。か    ゝれば、後世、春信の絵とて、もてはやすものゝ中には、江漢の偽筆も多くあるにや、さらば、春信が    錦絵における名誉は、なかば江漢の功なりけらし。又一説に、春信は気魄(キコン)高尚にして、生涯俳優    の像を画かず、予は苟(イヤシク)も日本画師なり。いかでか、賤者の肖像を描かんと云へりとぞ、されども、    近時、故斎藤月岑氏の所蔵に、俳優市村家橘が、業平に扮する、大谷十町が、角力に扮する画とを蔵せ    り。此の説もいかゞ、唯(*タダ)春信は、多く俳優を画かざりしにや。兎にも角にも、此の道の高手(カウ    シユ)にして、世に普(アマネ)くもてはやされし程に、さま/\附会(フカイ)張大(チョウダイ)の説も出来にけむ。    さて春信は、明和七年の六月十五日、四十六才にて歿せりといふ〟    ☆ 大正年間(1912~1825)    ◯『鏑木清方文集』一「制作余談」「私の経歴」①17(鏑木清方著・大正四年(1915)十二月)   (文部省の展覧会に出品した『晴れ行く村雨』に関する制作余談)   〝(上野の図書館の帰り道)不忍池を通つて、折から夏の雨に、あの画題を得たのである。夕立といつて    も、村雨といふ方が適当であろう。急ではあるが、細い雨に、池に描かれた波紋も、いひ知らず面白い。    まだ柔らかな、丈もあまり高くならない、うら若い蓮の葉の、風雨になびく様は、妙齢な美人の悩む姿    と調和するであろうと思つた。そして常に岡惚して居る鈴木春信の絵を、こゝに思ひ出されずには居ら    れなかつた、即ち私はこの蓮池の端に、春信の美人が、あめ風に悩む姿を想像して、独りほゝゑんだの    である。    さて参考とした見た本は、明和四年に出版された、春信画の『絵本千代の松』である。これにはあゝい    ふやうな姿の美人は無かつたのである。然し昔の浮世絵師には、既に筆を染めて居るものがある〟      ◯『梵雲庵雑話』p131「古版画趣味の昔話」(大正七年(1918)一月『浮世絵』第三十二号)   〝昨年(大正六年)の十月には、歌麿墓碑建設会の主催で、遺作展覧会が開かれたのに因(チナ)んで、私の    歌麿観を一言附添(ツケソ)えて置きたい。既に本誌の歌麿記念倍大号が発行され、諸大家の歌麿に関する    考証やら、批評やらが種々発表され尽したのである故、今更(イマサラ)蛇足とは思われるが、所感のままを    列ねて置く。私は古今の浮世絵師中、美人を画くに当って、艶美(エンビ)という点において、歌麿の右に    出づるものは全く無いと信ずる。春信なども筆行(フデユ)きはよく、技巧も表現法も立派であるけれども、    むしろ上品に描いたものであって、艶美の点に至っては、到底歌麿に匹敵し得るものではない。美人画    においては、歌麿を以(モ)って浮世絵師中第一のものと称するに何人も異論はあるまいと思う〟    ☆ 昭和年間(1926~1987)      ◯「日本小説作家人名辞書」p815(山崎麓編『日本小説書目年表』所収、昭和四年(1929)刊)   〝春信    鈴木春信、通称又兵衛、長栄軒と号す。江戸の浮世画家、西村重長の門人、明和七年六月十五日歿、年    五十三。一説に四十六。「なぞ絵本春の雪」(明和四年(1767)刊)の作者〟    ◯『狂歌人名辞書』p176(狩野快庵編・昭和三年(1828)刊)   〝鈴木春信、本姓穂積氏、通称次兵衛、土屋家の浪人にして江戸に住す、湖龍斎、又、長栄軒と号す、西    村重長門人にして錦絵の祖、明和七年六月十五日歿す、年五十三、因に記す、司馬江漢浮世絵の号を春    信といひしとあれば、二世春信は江漢が襲名せしも、後ち憚る所ありて春重と改むと〟    ◯『浮世絵師伝』p150(井上和雄著・昭和六年(1931)刊)   〝春信    【生】享保十年(1735)   【歿】明和七年(1770)六月十五日-四十六    【画系】重長門人      【作画期】宝暦~明和    鈴木氏、本姓穂積、通称次兵衛、長営軒と号す、居所両国米沢町角、また神田白壁町にも住せしと云ふ。    彼の作品は、宝暦六七年より発表せしものゝ如く、初めは、鳥居派に似たる役者絵をも画きしが、そは    暫くにして廃止し、専ら美人画に努力せり。画風は、或る時期に豊信に影響を受けし所最も多く、また、    明の仇英の作品に暗示を受けたりとの説あり、然れども、明和二三年頃には、既に一家の画風を成し、    画く所の人物いづれも窈窕として一種夢幻的の趣きを有したり。     明和二年の春、江戸の好事者間に、大小暦の摺物を交換すること靡然として流行し、各自に意匠を凝ら    して珍奇を競ふの余り、彩色の如きも数度摺の美を尽し、彫摺亦新案をめぐらしゝもの尠からざりき、    而して、其が作画の任に当りし者は実に春信を以て第一人とす。     在來の版画は細判が多く紙も薄かりしが、大広奉書四ツ切(大形中判)にして寸形を替へ、背色は無地    なりしを藍、淡鼠、黒等の色彩を摺込み、また「カラ摺」と称する無色摺の法、及び「キメ込み」とい    ひて画面の一部を紙背より押し上げたるもの等、画面の表現に大改良を加へ、吾が版画界未曾有の新技    巧を試み、一躍長足の進歩を爲し、所謂錦襴の如く美しく出来たりとて錦絵と名称せられしは此の時な    り。併し版画改革の背後には巨川・莎鶏等・俳人の後援者が彫摺の技巧をも指導せし証跡あり。兎も角    古今を通じて色彩の配合、其の妙を尽したるは春信を第一位に推薦すべきなり。     当時谷中笠森稲荷の茶店鍵屋の娘お仙、及び浅草観音の境内楊子店柳屋の娘お藤は、都下に於ける美人    の双壁として評判高かりしが、春信の筆に写さるゝに及びて益々世上に宣伝せられ、春信も亦それに依    て好評を博せし所尠からざりき。其他、美女を和漢歴史上の人物に見立たるものなど尠しとせず、又、    四季・五常・六玉川・七小町・八景等の如き数枚を以て一組とせるものありて、其等の中には、各一枚    毎に落款を有するものと、一組中一枚或は二枚を除くの外、往々落款を有せざるものとの別あり、蓋し    後者は好事家の需めに応じて作画せしものに多く、其の包み紙には、考案者・彫師・摺師等と共に彼の    名を記すを例とせり。     彼と巨川とは親交最も深く、かの「巨川工」としたるものは、殆ど皆春信に委嘱して画かしめたるなり、    又湖龍斎とも友人関係ありて、常に相往復する所頻繁なりしが如し。彼の晩年に方りて、門人春重(後    に司馬江漢)竊かに春信の落款を附し、偽作の美人画を版行して奇利を博せしが如き、亦以て彼が盛名    を窺ふに足らむか。     いま、彼が絵本及び錦絵のうち、著名の作二三の例を挙ぐれば左の如し。      ◯古今吉原大全(挿絵) 宝暦版    ◯絵本続江戸土産 宝暦版       ◯絵本古金襴 宝暦十二年       ◯絵本諸芸錦 宝暦十三年      ◯絵本花葛羅 明和二年        ◯絵本さゝれ石 明和三年      ◯絵本春の錦(色摺) 明和六年    ◯吉原美人合(色摺) 明和七年       清盛と仏御前(間判横絵)    雪中鷺娘(大判竪絵)  雪中の男女(中判)      梅下にぼんぼりを持つ娘(中判) 四季の花(同)     五常(仁義礼智信)(同)      風流六玉川(同)        風流七小町(同)    座鋪八景(同)    右のうち座鋪八景は、各図「巨川」の名を入れたれど、春信の落款は無し、これ巨川の考案を以て春信    に画かしめしものなり、其の版を再度摺出せし時は、巨川の名を削りて無落款とし、包み紙には座舗八    景の画題、松靏堂(版元)と共に「鈴木春信画」と明記せり、然るに三たびそれを摺りたる際には、画    面に白ヌキにて「春信画」と彫りつけたり(口絵第二十一図参照)、惟ふに、此の場合には八図一組と    せるものゝ外に、各図を随意に抜売りせしものなるべし。     彼の錦絵には、題材を上代文学より選みしもの尠からず、例へば歌の意味を今様風俗に画き現はせしも    のあり、又は物語の一段を情趣豊かに潤色せしもあり、或は和漢の故事を巧みに想化して、彼れ独特の    構図に作りしものもあり、それ等のすべてに一種の品格を具へしことは、彼が個性の然らしめし所と謂    ふべし。     大正八年六月、有志者相謀りて、彼が記念碑を谷中三崎町なる大円寺(俗称瘡守稲荷)境内に建てたり、    併し、春信の画題となりし鍵屋お仙は、谷中初音町二丁目なる功徳林寺の境内にありし笠森稲荷に茶店    を營みし者にて、大円寺とは何等関係を有せず、後世これを混同する所無くんば幸ひなり〟      ◯『浮世絵年表』(漆山天童著・昭和九年(1934)刊)   ◇「宝暦一三年 癸未」(1763)p117   〝正月、鈴木春信の『絵本古金襴』出版。(蓋し春信の絵本としての処女作なるが如し)。    十二月、鈴木春信の『絵本諸芸錦』出版〟     ◇「明和元年(六月十三日改元)甲申」(1764)   〝十二月、鈴木春信の『絵本花葛羅』出版〟     ◇「明和三年 丙戌」(1766)p121   〝正月、鈴木春信の『絵本さゞれ石』出版〟     ◇「明和四年 丁亥」(1767)p122   〝正月、鈴木春信の『絵本千代の松』『絵本春の友』『絵本童の的』出版〟     ◇「明和五年 戊子」(1768)p123   〝正月、鈴木春信の『絵本続江戸土産』(正編は西村重長の画にして宝暦三年の出版なり)『絵本八千代    草』〟     ◇「明和六年 己丑」(1767)p124   〝正月、鈴木春信の『絵本武の林』出版。    此年四月八日より湯島境内にて和泉石津大社笑姿(エミス)開帳。此時巫女二人をおなみ・おはつといへるみ    めよき女を択みて舞はす。鈴木春信これを錦絵に画けり〟             ◇「明和七年 庚寅」(1770)p124   〝鈴木春信歿す。行年五十三歳。或はいふ四十六歳。或はいふ四十七歳と。(春信は通称治兵衛、号は長    栄軒、両国米沢町に住せり。西村重長に学べりといふも重長一人にはあらざるべく鳥居派や宮川派や、    その他当時の画工の春信の先輩の鳥山石燕・石川豊信等も研鑽の料とせられたるなるべし。而して所謂    錦絵なるものは実に春信に拠りて創始せられたるものゝ如し。門人には磯田湖龍斎の傑出せるあり。)    正月、鈴木春信の画に成る『よしはら美人合』四巻〟     ◇「明和八年 辛卯」(1771)p126   〝正月、鈴木春信の『絵本春の錦』出版〟     ◇「明和年間」(1764~1772)p127   〝谷中笠森稲荷境内の茶屋鍵屋おせん、浅草奥山銀杏木の下楊枝店柳屋のおふぢ、此の二人当時美人の聞    えありて、鈴木春信専ら錦絵に画く〟     ◇「安永四年 乙未」(1775)p130   〝正月、鈴木春信の『教訓いろは歌』出版〟    ◯「日本古典籍総合目録」(国文学研究資料館)   〔鈴木春信画版本〕    作品数:43点(「作品数」は必ずしも「分類」や「成立年」の点数合計と一致するとは限りません)    画号他:鈴木春信・春信    分 類:絵本18・艶本12・教訓4・滑稽本1・咄本1・浮世草子1・絵画1・地誌1・遊戯1・        風俗1・雑俳1    成立年:宝暦13年(2点)        明和1~8年(24点)(明和年間合計25点)        安永4・7年(2点)        天明8年  (1点)
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