Top浮世絵文献資料館浮世絵師総覧
 
☆ はるまち こいかわ 恋川 春町浮世絵師名一覧
〔延享1年(1744) ~ 寛政1年(1789)7月7日・46歳〕
 ※〔漆山年表〕:『日本木版挿絵本年代順目録』 〔目録DB〕:「日本古典籍総合目録」(国文学研究資料館)   〔白倉〕  :『絵入春画艶本目録』   『黄表紙總覧』棚橋正博著・日本書誌学大系48   『洒落本大成』1-29巻・補巻 中央公論社   『稗史提要』 比志島文軒(漣水散人)編    角書は省略    ☆ 安永二年(1773)    ◯『洒落本大成』第六巻(安永二年刊)    恋川春町画『当世風俗通』金銀佐恵流(恋川春町?朋誠堂喜三二?)著    〈「解題」によると、『当世風俗通』の画工を春町と見なすことには異論がないようであるが、作者・金銀佐恵流につ     いては、恋川春町と朋誠堂喜三二の両説あり、未だ確定していない由である〉    ◯「杏園稗史目録」〔南畝〕⑲462   ◇洒落本(安永二年刊)(「巾箱本」の項)   〝第二嚢    当世風俗通 安永二年 春町 続編女風俗通 安永四年 春町〟    〈「巾箱本」とは小本の意味で洒落本の事。大田南畝はこの年の『当世風俗通』も安永四年の続編も恋川春町の作と見     ていたようである〉    ☆ 安永四年(1775)    ◯『稗史提要』p348   ◇黄表紙(安永四年刊)    作者の部 恋川春町 耕雪亭桂子    画工の部 鳥居清経 富川吟雪 恋川春町    板元の部 鱗形屋 鶴屋 奥村 伊世次 西村屋    時評〝二十余年の栄花の夢、金々先生といへる通人出て、江戸中の草双し是が為に一変して、どうやら       かうやら草双しといかのぼりは、おとなの物となりたるもおかし。(中略)       街談録には、未年夏秋の頃金々先生と云絵草侍出る。此絵草紙より風を変ずと有、恋川春町の作       画金々先生をはじめとす。此草紙大に行れて三十年来戯作の鼻祖と云べし〟    〈この年、恋川春町作・画『金々先生栄花夢』が出て、草双紙が一変、大人の読み物となる。時評は大田南畝の戯作・     安永九年(1780)の絵草紙評判記『菊寿草』の序と、同じく南畝の書留「街談録」を引いている〉    ◯『黄表紙總覧』前編(安永四年刊)    恋川春町画    『金々先生栄花夢』「画工恋川春町戯作」鱗形屋板(自作自画)     〈備考、「春町の初号亀長、画を石燕に学ぶ」とする〉    『春遊機嫌噺』  「画工恋川春町」  鱗形屋板(自作自画)    ◯「杏園稗史目録」〔南畝〕⑲462   ◇洒落本(「巾箱本」の項)(安永四年刊)   〝第二嚢    当世風俗通 安永二年 春町 続編女風俗通 安永四年 春町〟    〈大田南畝は両作品とも春町作と見ていたようである。しかし、安永二年刊『当世風俗通』の作者・金銀佐恵流同様、     「続編女風俗通」の金銀先生についても、また春町・喜三二の両説あって、確定していないようである。なお『洒落     本大成』六巻の解題は、画工については触れていないが、安永二年の作品同様、春町画と見ているようである。ただ     「日本古典籍総合目録」は喜三二作・勝川春章画としている〉    ◯『洒落本大成』第六巻(安永四年刊)    恋川春町画『後編風俗通』署名なし(春町画とされる)金錦先生(朋誠堂喜三二)作    ◯『噺本大系』巻十七「所収書目解題」(安永四年刊)   ◇咄本(絵入本)    恋川春町画『春遊機嫌袋』序「画工 恋川春町」鱗形屋板(自作自画)     ◯「日本古典籍総合目録」(安永九年刊)   ◇滑稽本    恋川春町画『古朽木』五巻 恋川春町画 朋誠堂喜三二作 西村伝兵衞板〔目録DB〕    ☆ 安永五年(1776)       ◯『稗史提要』p348   ◇黄表紙(安永五年刊)    作者の部 春町    画工の部 清経 吟雪 春町    板元の部 鱗形屋 鶴屋 奥村 伊世次 西村 伊世幸 村田    時評〝街談録云、今年より鱗形屋草双しの絵、并に表紙の標書をも風を変ず。表紙の上は例年青紙に題       号をかき、赤紙に絵を書しが、今年は紅摺にす。絵も烏居の風を変じて、当世錦絵の風の絵とな       す。宝暦十年よりして、所々の題号みな紅摺となりしが、鱗形屋計は古風をうしなはず、人もま       た是を見る事を愛せしが、今年古風を変ずることいかが云々。按に、こゝに当世のにしき絵風と       いへるは、明和の初より書出せし鈴木春信が吾妻にしき絵の事なり。是まで吾妻にしき絵の風を       草双しには画く事なかりしを、春町はじめて稗史に画き出してより、後は鳥居の絵までも、此風       にうつれり〟    〈「街談録」は大田南畝の書留〉    ◯『半日閑話 巻十三』〔南畝〕⑪396 (安永五年一月明記)  ◇黄表紙「鱗形屋双紙」の項の欄外注に追考として)   〝去年夏か秋の頃絵草紙二冊出る。金々先生栄花夢て云名也。此絵草紙より風を変ず〟    〈春町作黄表紙『金々先生栄花夢』(鱗形屋板)は、子供の慰み物から大人の読み物に一変させた黄表紙の記念碑的作     品。出版は安永四年であった。南畝は早速反応したのである〉    〝今年新板の内高慢斎行脚日記といへる本行われる。画工恋川春町作也〟    〈春町作『高慢斎行脚日記』(鱗形屋板)は安永五年刊。黒本の出版に混じって、春町作品が新しい分野を確立しつつ     あることを、南畝は感じていたのではないか。南畝はさすがに文学史上の節目を見逃すことはなかったのだ。なお、     「高慢斎」は以後春町の別号にもなった〉    ◯『黄表紙總覧』前編(安永五年刊)    恋川春町画    『高慢斎行脚日記』「画工恋川春町戯作」   鱗形屋板(自作自画)    『化物大江山』  「画工恋川春町戯作」   鱗形屋板(自作自画)    『唐倭画伝鑑』  「恋川春町画/恋川春町筆」鱗形屋板(自作自画)    『其返報怪談』  「画工恋川春町戯作」   鱗形屋板(自作自画)  ☆ 安永六年(1777)       ◯『稗史提要』p351   ◇黄表紙(安永六年刊)    作者の部 春町 桂子 喜三二 鈴木吉路 錦鱗    画工の部 清満 清経 吟雪 春町 鳥居清長    板元の部 鱗形 鶴屋 奥村 伊世次 西村 松村 村田    時評〝街談録云。当年絵草紙鱗形屋新板恋川春町画作、また喜三三作大に行はる。当年は去年と違ひ題       号を青紙に書き、赤紙に絵を書べき所に紅絵摺にてまぜ張の如き絵をかきたり〟     ◯『半日閑話 巻十三』〔南畝〕⑪413(安永六年一月明記)  ◇黄表紙  〝当年の絵草紙、鱗形屋新板、恋川春町画并作あり。また、気〈ママ〉三二作大に行はる〟    〈朋誠堂喜三二の初登場も見逃していない。二人の登場で黄表紙はその地位を確実なものとしたのだ〉    ◯『黄表紙總覧』前編(安永六年刊)    恋川春町画    『三舛増鱗祖』  「画工恋川春町戯作」     鱗形屋板(自作自画)    『南陀羅法師柿種』「恋川春町画」   喜三二  鱗形屋板    『桃太郎後日噺』 「画工恋川春町」  喜三二  鱗形屋板    『親敵討腹鞁』  「恋川春町」    喜三次  鱗形屋板    『鼻峯高慢男』  「恋川春町画」   喜三二  鱗形屋板    『珍献立曾我』  「恋川春町画」   気三二  鱗形屋板    『女嫌変豆男』  「恋川春町画」   喜三二  鱗形屋板    『花見帰嗚呼怪哉』「恋川春町画」   錦鱗   鱗形屋板    『月星千葉功』  「画工恋川春町」  鈴木吉路 鱗形屋板    ◯『増訂武江年表』1p199(斎藤月岑著・嘉永元年脱稿・同三年刊)   (「安永六年」記事)   〝〔筠補〕当年、絵草紙鱗形屋新板、恋川春町の画作、又喜三二作大いに行はる。「桃太郎後日咄」「花    見帰嗚呼怪哉」など殊に評判あり〟    ☆ 安永七年(1778)       ◯『稗史提要』p353   ◇黄表紙(安永七年刊)    作者の部 春町 桂子 物愚斎於連 四国子 薪葉 林生    画工の部 清経 清長 春町 北尾重政 湖龍斎 蘭徳斎春重 勝川春常 芳川友幸    ◯『黄表紙總覧』前編(安永七年刊)    恋川春町画    『三幅対紫曾我』「恋川春町」    鱗形屋板(自作自画)     〈備考、『宴遊日記』に「板を削られ」とあるが、その形跡はないとし、削られたとするのは大当たりせし故の風聞      かとする〉    『芋太郎屁日記』「恋川春町戯作」  鱗形屋板(自作自画)    『辞闘戦新根』 「画工恋川春町戯作」鱗形屋板(自作自画)    『間違曲輪遊』 「恋川春町画」   鱗形屋板(自作自画)    ◯「国書データベース」(安永七年刊)   ◇黄表紙    恋川春町画『蛭子大黒壮年過』「恋川春町画」「喜三二戯作」鱗形屋板    ◯『宴遊日記』(柳沢信鴻記・安永七年(1778)三月一日記)   〝今年新刻草双紙三幅対紫曽我と云本、久留米侯・松江隠侯・溝口隠侯を作りし故板を削られ、当時世に    流行を留られし由、幸ヒ八百所持ゆへ取寄せ見る〟    〈『三幅対紫曽我』は恋川春町自作・画。久留米侯は藩主・有馬頼徸。松江隠侯は出雲松江藩六代藩主・松平宗衍(南     海公)。溝口隠侯とは越後国新発田藩七代藩主・溝口直温。この三侯を曾我物の三幅対(秩父重忠・工藤祐経・曽我     十郎祐成)に擬えたもの。工藤祐経が「年来の勤功によりて、是れまで家格になき、一臈別当仰せ付けられければ」     とあるところなど、有馬頼徸が「国鶴下賜」を三度受け伊達・島津に並ぶ大藩になったことなどを連想させるのであ     ろう。この草双紙は三侯を批判したものではない。しかし戯作の趣向対象としたこと自体不埒ということで絶板にな     ったのであろう。しかし『黄表紙總覧』の備考は、『宴遊日記』に「板を削られ」とあるが、その形跡はないとし、     削られたとするのは大当たりせし故の風聞かとする〉    ☆ 安永八年(1779)    ◯『稗史提要』p355(安永八年刊)   ◇黄表紙    作者の部 喜三二 桂子 通笑 文渓堂(鼎哦) 呉増左    画工の部 清経 清長 春町 重政 北尾政演    ◯『黄表紙總覧』前編(安永八年刊)    〔 〕は著者未見、或いは他書によるもの、または疑問のあるもの    恋川春町画    『妖怪仕打/評判記』〔恋川春町画〕    鱗形屋板    『是茂又似山曾我』 「恋川春町画」可笑  蔦屋板?    『案内手本通人蔵』 「恋川春町画」喜三二 鱗形屋板    『腹京都食物合戦』 〔恋川春町画〕    鱗形屋板     〈備考、作者は春町ではなく別人かとする〉    『甚左紅絹由来』  〔恋川春町画〕    鱗形屋板    ◯「国書データベース」(安永八年刊)   ◇黄表紙    恋川春町画    『旭縁起那須野俤』春町画   喜三二 鱗形屋    『金銀先生再寐夢』春町画・作 版元不記載    『今昔曽我面影』「恋川春町画」可笑  板元未詳    『無益委記』   春町画・作 版元不記載    ◯『洒落本大成』第七巻(安永八年刊)    恋川春町画『無頼通説法』署名なし(春町画とされる)杜撰大和尚(春町)作    ☆ 安永九年(1780)    ◯「絵本年表」(安永九年刊)    恋川春町画    『相撲地名評判記』枕本一巻 画工不明(春町風)鼠足舎万花作 竹川藤助板    『富留久知喜』  五巻 恋川春町画 朋誠堂喜三二作 西村伝兵衛板(滑稽本)        ◯『稗史提要』p357   ◇黄表紙(安永九年刊)    作者の部 通笑 文渓堂 四国子 錦鱗 可笑 山東京伝 臍下逸人 窪田春満 常磐松    画工の部 清長 春町 政演 春常 北尾三次郎 春朗 闇牛斎秋童 春旭 松泉堂    時評〝恋川春町、楠無題記を著し大に行はる。当世の風俗うつり替る様を、楠が未来記に比して作る〟    ◯『黄表紙總覧』前編(安永九年刊)    恋川春町画『不物好持たが病』「恋川はる町」蔦屋板?     ◯『洒落本大成』第九巻(安永九年刊)    恋川春町画?『大通人好記』在原の持麿(朋誠堂喜三二?)著〈著者・画工とも解題の推定〉    ☆ 安永年間(1772~1780)    ◯「艶本年表」〔目録DB〕(安永年間刊)    恋川春町画『こんたん夢の枕』三冊 恋川春町画(注記「遺精先生夢枕と同本?日本艶本目録(未定稿)による」)    ◯『増訂武江年表』1p206(斎藤月岑著・嘉永元年脱稿・同三年刊)   (「安永年間」記事)   〝浮世絵師鳥居清長(彩色摺鈴木春信の頃より次第に巧みに成しを、清長が工夫より殊に美麗に成たり)、    尚左堂、春潮、恋川春町(倉橋寿平)、歌川豊春(一竜斎)等行はる〟    ☆ 天明元年(安永十年・1781)    ◯『黄表紙總覧』前編(安永十年刊)※〔 〕は他書に拠ったもの    恋川春町画『無題記』〔恋川春町画・恋川春町作〕蔦屋板?(自作自画)    ◯『洒落本大成』第十一巻(安永十年刊)    恋川春町画『通点興』「恋川春町画」花街作    ◯『菊寿草』〔南畝〕⑦232(安永十年(天明元年・1781)一月刊)  〝二十余年の栄花の夢、きんきん先生といへる通人いでヽ、鎌倉中の草双紙これがために一変して、どう    やら草双紙といかのぼりは、おとなも物となつたるもおかし〟    〈前出『金々先生栄花夢』のこと。「鎌倉中」とあるのは黄表紙の常套で「江戸中」の意味〉     〝作者恋川氏休まれて後は、当時のきヽもの喜三二丈の狂言、板元の細工は流々、仕上の仕打を御覧なさ    れい〟    〈これは喜三二作『見徳一炊夢』に対する南畝の評判だが、これによるとこの天明元年、どういう事情があったものか、     春町は黄表紙を作っていないようだ。「作者之部」にも名前はない〉    ☆ 天明二年(1782)    ◯『岡目八目』〔南畝〕⑦262・268(天明二年一月刊)   ◇黄表紙(天明二年刊)  〝作者之部   喜 三 二  恋川春町  芝 全 交   京 伝  可  笑  通  笑   岸田杜芳  宇 三 太  南陀伽しらん 雪  岨  豊 里 舟  から井さんせう   魚  仏  風  物  古  風〟
 〝春町さん打ちませう。祝ふて三冊うりませう。近年袋入斗おつとめゆへ、青本では久ぶり〟    〈天明二年、春町作者に復帰。「作者之部」にも名があり。この「青本」は現在の黄表紙のこと〉      ◯『稗史提要』p361   ◇黄表紙(天明二年刊)    作者の部 春町 喜三二 通笑 京伝 全交 可笑 岸田杜芳 紫蘭 宇三太 雪岨 豊里舟 三椒         魚仏 風物 古風    画工の部 清長 重政 政演 政美 春常 春朗 国信    ◯「杏園余芳」〔南畝〕(月報4 巻三 「南畝耕読」)  (「耕書堂夜会出席者名録 天明二年十二月十七日」)  〝北尾重政/安田梅順/北尾政演/政美/藤田金六    「天明二年/壬寅蝋月十七日夜会耕書堂/遂宴文字楼者九人【木阿 耕書堂/在座】/菅江 田阿 唐    参和 政美/政演 梅順 恋川春町〟    〈蔦屋主催の夜会に参加。北尾重政の項参照〉    ◯『黄表紙總覧』前編   ◇黄表紙(天明二年刊)※角書は省略。〔 〕は著者未見、或いは他書によるもの、または疑問のあるもの    恋川春町画    『雛形意気真顔』〔恋川春町自作・自画〕  蔦屋板(自作自画)    『我頼人正直』 「恋川春町戯作」     蔦屋板    『染直鳶色曽我』「恋川春町画」「喜三二作」鱗形屋板    ☆ 天明三年(1783)    ◯『稗史提要』p363(天明三年刊)   ◇黄表紙    作者の部 春町 喜三二 通笑 京伝 全交 杜芳 紫蘭 里舟 四方山人 南杣笑楚満人         奈蒔野馬鹿人・在原艶美・四方門人新社・春卯    画工の部 清長 重政 政演 政美 春潮    ◯『洒落本大成』第十二巻(天明三年刊)    恋川春町画『柳巷訛言』「恋川はる町画」物からのふあんど作    ◯『噺本大系』巻十二「所収書目解題」(天明三年刊)    恋川春町画『柳巷訛言』「恋川はる町画」朋誠堂喜三二作 上総屋板    ◯『巴人集』〔南畝〕②396(天明三年三月詠)  (南畝、酒上不埒(春町)の日暮里狂歌会にて三首詠む〉   〝花  しら雲と見る人丸で無理ならず花はよしのゝ山のてつぺん    乞食恋い     乞食を三日してよりわすられぬ姿は小屋に落ぬ君かな    寄生酔祝     生酔の行たふれても辻番のよく世話をする御代ぞめでたき〟    △『狂文宝合記』(もとのもく網・平秩東作・竹杖為軽校合、北尾葎斎政演・北尾政美画・天明三年六月刊)   〔天明三年(1783)四月二十五日、両国柳橋河内屋において開催された宝合会の記録。主催は竹杖為軽〕   〝惣巻軸  酒上不埒    (画の説明文)〝竜宮城玉取の階子〟           〝なまの時高サ三十丈五尺五寸 ほしかためて今曲さし壱尺〟           〝竝 竜宮文字記録〟    (狂文)〝ことし卯月中の四日、讃州志度の浦にてあやしき二種の拾ひ得たり。そのひとつは形御大名     の供てふものゝ紋所のごとく、今ひとつはゆへよしの記し文と見へたり。紙はなめらかにして浅草海     苔のごとく、文字は科斗篆隷のさくひにもあらず。とんらか不□波らんのごとく、広沢烏石思恭親和     深川染の仕出しにもあらず。東江石郭の文のごとく、佳城拝見いたしと違ひ、鬱々うつてもはたいて     も読ざりしを、一人の叔孫大通ありて、国字を以て是を釈す。其文に曰く     (以下「竜宮城玉取階子之縁起」の文あり。省略)    返々南澹部州大日本国作者の親玉    万象亭竹杖為軽大人ほつそりすはりの柳ばしにて四方のたから合すると聞て則うかめあたふるなり〟    〈讃岐の国、志度の浦には謡曲「海士」の題材となった伝説がある。その昔、大職冠藤原鎌足公が、一度竜神に奪われ     た「面向不背の珠」を、海女に命じて竜宮から奪い返すというものである。春町が出品したのは、そのとき使ったと     される「階子(梯子)」と、「竜宮文字記録」の二点。無論「見立て」による出品である。ひとつは、干した海鼠を     串刺しにしたもの。これを梯子になぞらえた。これがまた奇妙なもので、説明文によると、生の時と干した時とでは     高さが格別違う。もう一つの「竜宮文字記録」、これまた奇天烈なもので、細井広沢以下沢田東江等、当時の名だた     る書家たちの書体とは似てもにつかぬ文字で判読不能、しかも、紙ならぬ浅草海苔のごときものに書かれているとい     う趣向だ。その「竜宮文字記録」が、実はその梯子の縁起で「竜宮城玉採階子之縁起」であった。解読したのは、鬱     々として思案投げ首の日本人ではなく、前漢の叔孫通という文字に通じた人。しかも国字にしてくれので、ここに紹     介するというのが、春町狂文の趣向である。ところで、この宝合会に出品参加した浮世絵師は、恋川春町(酒上不埒)     のほかに、北尾政演(身軽織輔)、北尾政美(麦原雄魯智)、窪俊満(一節千杖)、歌麿(筆綾麿)、喜多川行麿。     また、浮世絵師ではないが、浮世絵を画いた絵師までいれると、高嵩松(元の木阿弥)、つむりの光などが参加して     いる〉     ◯『巴人集』〔南畝〕②410(天明三年六月上旬詠)  〝酒上不埒・地口有武などヽ、むかふ島の酒家むさしやのもとにてさヽげをよめる  初物をさヽげし膳のむかふ島是も十六むさし屋が見せ〟    〈地口有武は星野文竿という人。向島の武蔵屋は鯉料理で有名な料亭〉    △『狂歌師細見』(平秩東作作・天明三年刊)   (巻末「戯作之部」)   〝恋川はる町〟    △『判取帳』(天明三年頃成)  〝高慢斎恋川春町於子子孫彦宅応需写之   (遊女の後頭部の絵)  身あがりのまつにおもひをたきましてにくらしゐ柴こるばかりなり もとのもくあみ〟    〈この頃、毎月十二日行われていた子子孫彦の狂歌会の席上であろうか。春町の戯画に元の木阿弥の狂歌を配したので     ある。赤良の注は〝高慢斎倉橋寿平住小石川春日街狂名酒上不埒 松平豊後守臣〟とする〉    ◯『黄表紙總覧』前編(天明三年刊)    〔 〕は著者未見、或いは他書によるもの、または疑問のあるもの    恋川春町画    『金山寺大黒伝記』「恋川春町戯作」    鱗形屋板(自作自画)    『亀屋万年浦嶌栄』「恋川春町画」 錦鱗  鱗形屋板    『悪抜正直曽我』 「恋川春町戯作」    鱗形屋板(自作自画)    『宝船福正夢』  「恋川春町戯作」    鱗形屋板(自作自画)    『変名用文章』  「恋川春町画」 錦鱗  鱗形屋板    『吝坊吝寝取』  「恋川春町画」 鄰生  鱗形屋板     〈備考、鄰生を鈴木鄰松ではなく鈴木吉路に近いと推定する〉     『郭◎費字尽』  「十代之作者恋川春町」 蔦屋板 (自作自画)    『猿蟹遠昔噺』  「恋川春町戯作」    蔦屋板 (自作自画)    『通言神代巻』  「恋川春町戯作」    鶴屋板 (自作自画)    『長生見度記』  「恋川春町画」 喜三二 蔦屋板    〔節季夜行〕   「恋川春町作」     鱗形屋板(自作自画)     ◯「艶本年表」〔白倉〕(天明三年刊)    恋川春町画    『曲番附』墨摺 中本 一冊 春町画・作 天明三年     (白倉注「江戸歌舞伎、天明二年の顔見世興行に取材したもの、当代人気役者十三人が似顔で描かれている」)  ☆ 天明四年(1784)    ◯『稗史提要』p366(天明四年刊)   ◇黄表紙    作者の部 春町 喜三二 通笑 京伝 全交 杜芳 亀遊女 楚満人 四方山人 窪春満 万象亭         唐来三和 黒鳶式部 二本坊寉志芸 飛田琴太 古河三蝶 幾治茂内 里山 邦杏李          紀定丸    画工の部 清長 重政 政演 政美 春町 春朗 古河三蝶 勝川春道 哥丸    ◯『黄表紙總覧』前編(天明四年刊)    恋川春町画    『吉備能日本智恵』「恋川春町作」     鶴屋板 (自作自画)    『万載集著微来歴』「恋川はる町作」    蔦屋板 (自作自画)    『其昔龍神噂』  「画工恋川春町戯作」  鱗形屋板(自作自画)    『吉原大通会』  「恋川春町戯作」    岩戸屋板(自作自画)    『桃太郎再駈』  「恋川春町画」 喜三二 鱗形屋板    ◯「艶本年表」〔白倉〕(天明四年刊)    恋川春町画『玉の春』墨摺 横小本 一冊 春町画・作 天明四年    ☆ 天明五年(1785)    ◯『黄表紙總覧』前編(天明五年刊)    〔 〕は著者未見、或いは他書によるもの、または疑問のあるもの    恋川春町画    〔大通箱入之癇癪〕〔恋川春町画・作〕蔦屋板(自作自画)    ◯『徳和哥後万載集』〔江戸狂歌・第二巻〕四方山人編・天明五年刊   〝喜三二のなかたちにて妻をむかへければ  酒上不埒【恋川春町】      婚礼も作者の世話で出来ぬるはこれ草本のゑにしなるらん〟    ☆ 天明八年(1788)    ◯『稗史提要』p373(天明八年刊)   ◇黄表紙    作者の部 喜三二 通笑 京伝 三和 杜芳 春町 石山人 万宝 虚空山人 山東唐洲    画工の部 重政 政演 政美 哥丸 蘭徳 春英 行麿    時評〝此頃の稗史に営中の遺事に擬して作るもの多しといふ。。按に、万石とをし、ひゐきの絵草紙な       ど、其類なるべし。是等は草葬の人のしるべきにあらざれぱ、識者に問て弁ずべし。又袋入に世       直大明神、天下一面鏡撹の梅鉢など有。是等もおなじ趣なるべき歟〟    〈「営中の遺事」つまり幕府の事柄に擬えた黄表紙と見なされたのは『文武二道万石通』朋誠堂喜三二作・喜多川行麿     画。『悦贔負蝦夷押領』恋川春町作・北尾政美画。「是等は草葬の人のしるべきにあらざれぱ、識者に問て弁ずべし」     お上のことは民間人には知り得まいから識者に聞きなさいと、評者・漣水散人(旗本家臣・比志島文軒)はいうのだ     が、そうであろうか。袋入の『天下一面鏡梅鉢』は唐来三和作・栄松斎長喜画、「世直大明神」の角書をもつ『黒白     水鏡』は石部琴好作・北尾政演画でともに翌天明九年の刊行である〉    ◯『黄表紙總覧』前編(天明八年刊)    恋川春町画    『鎌倉太平序』署名なし(自画)「恋川春町戯作」鱗形屋板(自作自画)     〈備考、天明三年刊の可能性もありとする〉    ☆ 天明年間(1781~1789)    ◯『増訂武江年表』1p221(斎藤月岑著・嘉永元年脱稿・同三年刊)   (「天明年間記事」)   〝戯作者 通笑、喜三二、恋川春町(狂歌并びに浮世絵)、芝全交、万象亭(二代目風来山人)、唐来三    和、右六人を戯作者の六家撰といへり。其の外、可笑、七珍万宝、蔦の唐丸、観水堂丈阿、芝蘭、樹下    石上などあまたあり〟    ☆ 寛政元年(天明九年・1789)(七月七日没 四十六歳)  ◯『東京掃苔録』(藤波和子著・昭和十五年(1840)四月序 八木書店 昭和48年版)   〝四谷区 成覚寺(新宿二ノ四五)浄土宗    恋川春町(戯作者)通称倉橋寿平、格寿山人と号す。小石川春日町に住す、因て恋川春町と名づく。    (中略)狂名 酒上不埒。寛政元年七月七日没、年四十六。寂静院廓誉堪水居士。時世 生涯苦楽 四    十六年 即今脱却 浩然帰天。われもまた身はなきものと思ひしに今はのきはぞ苦しかりける〟    ◯『稗史提要』p375   ◇黄表紙(天明九年刊)    作者の部 春町 通笑 京伝 全交 三和 鶏告 桜川慈悲成 三橋喜三二 一橋山人 陽春亭         内新好 伝楽山人 伐木丁々 美息斎象睡    画工の部 重政 政演 政美 柳郊 栄之 蘭徳 春朗 歌川豊国    時評〝鸚鵡かえし、孔子じま、太平権現など、皆当時の遺事に擬作せしなるべし。地獄一面は、袋入の       天下一面の標題を仮て、また一奇を出す。中洲咄は、土山何某と十七屋なるものゝ遺事に擬して、       中洲の繁栄の光景をうつす。(中略)安永年間に清経・吟雪などが画きし一代記の類を此頃再摺       し、錦絵摺の外題をおして版行する物多し。また青本に白紙墨摺の外題をおしたる物も、同じく       此頃の再摺なり。此頃までは黒本をも制して販出せしが、寛政の中頃より絶て見あたらず〟    〈時事を擬えたものとされたのは、恋川春町作・北尾政美画『鸚鵡返文武二道』、山東京伝作・北尾政演画『孔子縞于     時藍染』、伐木丁丁作・蘭徳斎画『太平権現鎮座始』、唐来三和作・栄松斎長喜画『天下一面鏡梅鉢』、山東京伝作     ・山東京伝作・北尾政美画『奇事中洲話』〉    ◯『噺本大系』巻十七「所収書目解題」(天明九年刊)   ◇咄本   〔恋川春町画〕『百福茶大年咄』(画工・作者名なし)鱗形屋板           〈恋川春町、天明三年刊・黄表紙『節季夜行』を流用した細工本〉    ◯「艶本年表」〔白倉〕(寛政元年刊)   ◇艶本    恋川春町画・作『遺精先生夢枕』墨摺 中本 三冊     (白倉注「同人作『金々先生栄花夢』(安永四年)の艶本パロディ本」)  ◯『よしの冊子』〔百花苑〕⑧294(水野為長著・天明九年(寛政元年・1789)正月記)  〝あふむがへしの草双紙は松平豊前守殿作共申し、豊前守作成が夫を春町に託せられし共申、又豊前殿小 石川の春日町に上屋敷御ざ候故、俳名を春町とも申候由のさたに御座候〟    〈『鸚鵡返文武二道』について、曲亭馬琴は〝鸚鵡返シ文武二道【北尾重美画、天明九年正月出ッ、三冊物、蔦屋重三郎     板)】、いよ/\ます/\行れて、こも亦大半紙搨りの袋入にして、二三月頃まて市中を賣あるきたり。【流行此前     後二編に勝るものなし】當時世の風聞に右の草紙の事につきて白川侯へめされしに、春町病臥にて辭して參らず〟と     『近世物之本江戸作者部類』に記している。春町の逝去はこの年の七月七日のことである。自殺ともいわれている。     松平豊後守は不審。春町の仕えた小島藩主は松平丹後守か。『よしの冊子』は根拠の不確かなものまで収録している     から虚説かもしれないが、しかし真偽いずれにせよ、主君の作かとも噂されたのであれば、春町は、責任を取らざる     を得ない立場に追い込まれたとはいえよう〉    ◯『増訂武江年表』2p3(斎藤月岑著・嘉永元年脱稿・同三年刊)    (「寛政元年」)   〝七月七日、狂歌并びに浮世絵師恋川春町卒す(通称倉橋寿平、草そうし画作も多くあり、市谷浄覚寺に    葬す)〟    ☆ 刊年未詳    ◯「艶本年表」〔目録DB〕(刊年未詳)   ◇艶本    恋川春町一世画『あな一代記』一冊 恋川春町    ☆ 没後資料    ☆ 寛政十二年(1800)    ◯『浮世絵考証(浮世絵類考)』〔南畝〕⑱444(寛政十二年五月以前記)  〝恋川春町 倉橋寿平  自作の青本の絵あり。小石川春日町に居れるゆへ、勝川春章の名を戯れにかれるなり〟    〈寛政元年七月七日、春町逝去。その死因等について色々憶測も飛んだようであるが、南畝に書留はないようだ〉    ☆ 享和二年(1802)    △『稗史億説年代記』(式亭三馬作・享和二年(1802))〔「日本名著全集」『黄表紙二十五種』所収〕   〝草双紙の画工に限らず、一枚絵の名ある画工、新古共に載する。尤も当時の人は直弟(ヂキデシ)又一流あ    るを出して末流(マタデシ)の分はこゝに省く。但、次第不同なり。但し西川祐信は京都の部故、追て後編    に委しくすべし    倭絵巧(やまとゑしの)名尽(なづくし)     昔絵は奥村鈴木富川や湖龍石川鳥居絵まで 清長に北尾勝川歌川と麿に北斎これは当世      春町  (他の絵師は省略)〟
   『稗史億説年代記』 式亭三馬自画作 (早稲田大学図書館・古典籍総合データベース)        〝青本 赤本は此節絶ゆる。青本新板として黒本は古板と称す    同  青本に彩色摺の外題をはりて鱗形屋より始めて新板    画工 鳥居清満、同清経、同清長、北尾重政、いづれも同じ絵風にて、少しづつの変りあり    同  鳥居家の風、清経よりはじめて、少し当世に移る。此頃の書入文句に野暮なる洒落混る    作者 喜三二、通笑つくる。恋川春町一流の画を書出して、是より当世にうつる〟        〝青本 草双紙は大人の見るものと極まる    〈草双紙が大人の読み物となったのは、安永四年(1775)刊、恋川春町作の『金々先生栄花夢』とされる〉    画工 北尾、勝川の浮世絵はやる。春章を俗につぼといふ    同  歌川豊春、浮世絵に名あり。鳥居清長、当世風の女絵一流を書出す。世に清長風といふ    同  一流ある画工、おの/\の画のかき方、当世風にかはる    作者 芝全交が社中万象亭、双紙を作る。恋川春町画作。万象亭、全交、可笑味をおもにとる〟     〝青本 青本大当りを袋入に直す。表紙の白半丁に口のりをつけぬ事起る    画工 春好、続いて似顔絵を書出す。俗にこれを小つぼと称す。但し役者、角力也    同  蘭徳斎春道一度絵の姿かはる。春朗同断。此頃の双紙は重政、清長、政よし、政のぶ、春町    同  【政よし、政のぶ】絵の姿一変する。勝春英、役者、角力の似顔絵をかく。    作者 通笑、全交、喜三二、三和、春町、万象、杜芳、いづれも大当りある〟     〝名人戯作六家撰    喜三二   恋川春町    万象亭   通 笑    芝全交   唐来三和〟     〝名作青本略記    金々先生栄花夢  恋川春町 当る    高慢斎行脚日記  同    同    鼻峰高慢男    同    同    三幅対紫曾我   同    同    楠無益委記    同    同    鸚鵡返文武二道  同    同    悦贔屓蝦夷押領  同    同〟    〈式亭三馬があげる二十二点の青本(黄表紙)中、実に七点が春町作品である。朋誠堂喜三二も七点で、この先駆者二     人で十四点を占める。参考までにいうと、以下、芝全交が六点、万象亭、唐来三和がそれぞれ一点である〉    ☆ 文化五年(1808)    ◯『浮世絵師之考』(石川雅望編・文化五年補記)   〔「浮世絵類考論究10」北小路健著『萌春』207号所収〕   〝恋川春町【倉橋寿平 酒上不埒 鳥山石燕の門人】    自作の青本の絵あり、小石川春日町に居れる故、勝川春章の名を戯れにかれるなり、青本の作に罪を得    て頓死せり、寛政元酉年七月七日没、四拾六、市谷浄覚寺に葬す〟    〈石川雅望は、春町が頓死したのは、黄表紙『鸚鵡返文武二道』で罪を得たことだと見ている〉    ☆ 文政元年(1818)    ◯『浮世絵類考』(式亭三馬按記・文政元年~文政四年)    (本ホームページ・Top「浮世絵類考」の項参照)       〝明和の頃より天明の頃まで。天明、病死。鱗形屋孫兵衛方の草双紙を書直し、作の風を改るは此人なり。    松平丹後守家中。絵も又一流新なり〟  ◯『【諸家人名】江戸方角分』瀬川富三郎 編 文政元年写(中野三敏編・近世風俗研究会)    「小石川 狂歌・画家・戯作者」〝不埒 号酒上 画名恋川春町 平松安房公藩 倉橋寿平[兵衛]〟    〈[兵衛]は見せ消ち〉  ☆ 文政二年(1819)    ◯『伊波伝毛乃記』⑥121(無名子(曲亭馬琴)著・文政二年十二月十五日脱稿)   〝草冊子に滑稽を尽せしは、明和中、喜三二、春町が、金々先生栄花の夢、及高慢斎行脚日記、これ其嚆    矢なる者なり、喜三二に亜(つぎ)ては、恋川春町、俗名を忘れたり、こは小石川なる松平丹後侯の留守    居なりき、(中略)天明の末、喜三二が文武二道万石篩、春町が鸚鵡返し文武の二道【こは万石篩の後    編なり、其明年出たり】三和が天下一面鏡の梅鉢等の草冊子、大(イタ)く行てたれども、頗禁忌に触るゝ    をもて、命有て絶板せらる、(中略)是よりの後、喜三二は草冊子の作をせずなりぬ、(中略)春町は    其明年みまかれり〟    〈『金々先生栄花夢』春町作・画・安永四年刊。『高慢斎行脚日記』春町作・画・安永五年刊。『文武二道万石通』喜     三二作・喜多川行麿画・天明八年刊。『鸚鵡返文武二道』春町作・北尾政美画・寛政元年刊。『天下一面鏡梅鉢』三     和作・栄松斎長喜画・寛政元年刊。春町は寛政元年七月七日歿〉    ☆ 天保四年(1833)   ◯『無名翁随筆』〔燕石〕③296(池田義信(渓斎英泉)著・天保四年成立) 〝恋川春町【(空白)年中ノ人】     俗称倉橋寿平、住居小石川春日町、    春町は鳥山石燕の門人也、自画作の青本有り、【草双紙の事也、五枚ヅツ綴】、小石川春日町に居れる    故、勝川春章が名を戯れにかれるなり【以上類考】    三馬按、二代目恋川春町と唱たる画工ありしが、近年改めて二代歌麿となる、春町、歌麿共に、石燕 の門人なり〟    ☆ 天保五年(1834)   △『近世物之本江戸作者部類』p31(曲亭馬琴著・天保五年成立)   〝恋川春町 號壽亭    駿河の小嶋侯(松平房州)の家臣、倉橋春平(春平一作壽平)の戯号也、小石川春日町の邸に在るをも    て戯号を云々といへり【恋川ハこひしかわの中略、春町は春日町ハ中略也】この人の作は皆自画也、好    画てハなけれども一風あり、安永中喜三二と倶にくささうしの作に滑稽をはじめて、赤本の面目を改め    たり、そハ金々先生栄花夢、高慢斎行脚日記【春町自画にて并ニ安永四年正月出ッ、鱗形屋孫兵衛板】    是臭双紙に滑稽を旨とせし初筆にて當年大(イタ)く行れたり、就中万石通シの後編鸚鵡返シ文武二道【北    尾政美画、天明九年正月出ッ、三冊、物蔦屋重三郎板】いよゝます/\行れて、こも亦大半紙搨リの袋    入にせられて二三月比まで市中を売あるきたり【流行此前後二編に勝るものなし】當時世の風聞に右の    草紙の事につきて、白川侯へめされしに春町病臥にて辞してまゐらず、此年寛政元年己酉の秋七月七日    没年若干【葬於四谷浄覚寺云】〟    ☆ 弘化元年(天保十五年・1844)    ◯『増補浮世絵類考』(ケンブリッジ本)(斎藤月岑編・天保十五年序)   (( )は割註・〈 〉は書入れ・〔 〕は見せ消ち) 〝恋川春町(寿山人と号)天明頃の人     俗称 倉橋寿平  住居 小石川春日町 寿山人と号     名は格 字は寿平 狂名 酒上不埒(狂歌をよくす)    春町は鳥山石燕の門人也。自画作の〈滑稽〉青本有り(草双紙の事也)小石川春日町に居れる故、勝川春    章が名を戯れにかれるなり(以上類考)    〈月岑云〉春町寛政元年七月七日没す〈市ヶ谷浄覚寺に葬す〉     辞世詩 生涯苦楽 四十六年 即今脱布 法然帰天    三馬按、二代目恋川春町と唱たる画工ありしが、近年改て二代歌麿となる。春〔日〕町歌麿共に、石燕の    門人なり〟    ☆ 嘉永三年(1850)    ◯『古画備考』三十一「浮世絵師伝」中p1397(朝岡興禎編・嘉永三年四月十七日起筆)   〝恋川春町 本姓源、倉橋氏、名格、字寿平、狂名酒上不埒(サケノウヘノフラチのルビ)と云、松平丹後侯の臣、戯    れに稗史を著述す、又夷曲をよくす、寛政元年七月七日没、行年四十六、四谷新宿北裏、浄覚寺に葬る、    法名寂静院廓誉湛水居士、辞世の詩歌あり、生涯苦楽、四十六年、即今脱却、浩然帰天【続(ママ)老庵日札】    自作の青本の画あり、小石川春日町に住し故、勝川春章の名に戯れて、斯く称せしなり【浮世絵類考】    葬市ヶ谷浄覚寺【武江年表】    恋川春町画、文化のはじめ三年ごろ、膝栗毛ニ出、十返舎一九、ひざくり毛自画〟    〈「続(ママ)老庵日札」は『読老庵日札』の誤記。著者は『近世逸人画史』や『江都名家墓所一覧』(文化十五年(1818)     刊)で知られる岡田老樗軒。「恋川春町画、文化のはじめ三年ごろ ~ 十返舎一九、ひざくり毛自画」は文意が通ら     ない。一九の『東海道中膝栗毛』の初編は享和元年(1801)、以降毎年出版されるが全て自作自画。文化三年(1806)頃     の春町は二代目の春町(恋川行町・歌麿二代)である〉    ☆ 安政三年(1856)   ◯『戯作者小伝』〔燕石〕②29(岩本活東子編・安政三年成立)   〝恋川春町    姓は源、名は格、通称を倉橋寿平といふ。狂歌を好みて、其名を酒の上の不埒、又寿山人と号す、戯作    に恋川春町と名のる、駿州小島侯の家臣にして、小石川春日町に邸あり、恋川といふは、住居する地名    によれる也、絵を鳥山石燕に学びて、自画作の冊子多し、他の冊子をも画けり、一説に、勝川春章に学    ぶともいふ、安永四年未年の著述「金銀先生栄花夢」二冊と題号し、邯鄲の趣向大に行れ、同五申年    「高慢斎行脚日記」是又大当りにて、宝暦以来の草双紙は爰に至りて一変す、是より春町の名大に鳴る、    寛政元年己酉年七月七日没す、四ツ屋新宿裏通り浄覚寺【大宗寺横町】に葬る、    【本堂前六地蔵のならびに墓あり】     法名 寂静院廓誉湛水     墓の左傍に辞世の語あり、曰、     生涯苦楽四十六年、即今脱却浩然帰天    (以下、草双紙と洒落本の書名は省略)〟    ☆ 明治元年(慶応四年・1868)    ◯『新増補浮世絵類考』〔大成Ⅱ〕⑪209(竜田舎秋錦編・慶応四年成立)   〝恋川春町    名は格、字は寿平、寿山人と号す。松平丹後侯の留守居也。俗称倉橋寿平と云。自画作の滑稽本あり。 狂歌を能す。狂名酒上不埒といふ。小石川春日町に居れる故、恋川春町の名を戯れにかける也。寛政元 年七月七日歿す。市ヶ谷浄光寺に葬る。      辞世詩 生涯苦楽四十六年 則今脱布法然一帰天〟    ☆ 明治年間(1868~1911)    ◯『扶桑画人伝』巻之四(古筆了仲編 阪昌員・明治十七年(1884)八月刊)   (国立国会図書館デジタルコレクション)   〝恋川春町    倉橋氏、名ハ寿平、浮世絵ヲ能クス。鳥山石燕ノ門人ナリ、江戸小石川春日町ニ住スルヲ以テ、自作ノ    秘戯ノ図、草紙ニ恋川春町ト記セシハ、勝川春章の名ヲ戯レニ書キシトイヘリ〟又同門人ニ恋川春(ママ)    町ト唱ヘタル画工アリシガ、近年名ヲ改メテ二代目ノ歌麿トイフ〟  ◯『近古浮世絵師小伝便覧』(谷口正太郎著・明治二十二年(1889)刊)   〝安永 恋川春町    倉橋氏、寿亭と号す。鳥山に学び、秘戯の図を巧みにす。狂歌戯作の名人〟    ◯『日本美術画家人名詳伝』下p366(樋口文山編・赤志忠雅堂・明治二十五年(1892)刊)   〝恋川春町    江戸ノ俳人ナリ、本姓ハ倉橋氏、名ハ格、寿平ト称ス、戯号ヲ酒上ノ不埒、又寿人ト曰フ、春町ハ戯著    小説ノ号ナリ、小島駿河侯(松平丹後守)ノ臣ニシテ、小石川春日町ニ住ス故ニ号ス、浮世画ヲ鳥山春    章(ママ)ニ学ブ、著ハス所ノ小説金銀先生栄花夢、高慢斎行脚日記等アリ、寛政元年七月七日歿ス、時ニ    四十六(俳家画人伝)〟    ◯『野辺夕露』(坂田篁蔭諸遠著・明治二十五年(1892)成立・国立国会図書館デジタルコレクション所収)   〝恋川春町墓    四谷新宿裏通浄覚寺に在り、寛政元年七月七日死す、享年四十六、春町は名は格、姓源、通称倉橋寿平    と云、狂歌を好みて酒上不埒と作名し、又寿山人と号す、駿河国小嶋領主松平丹後守信義の臣にて、小    石川春日町に住す、戯作の草子に恋川春町と記名するは居宅の地名に因て也〟     ◯『浮世絵師便覧』p204(飯島虚心著・明治二十六年(1893)刊)   〝春町(ハルマチ) 俗称倉橋寿平、恋川といひ、寿山人と号す、自画作の草双紙多し、寛政元年死〟    ◯『浮世絵備考』(梅本塵山編 東陽堂 明治三十一年(1898)六月刊)   (国立国会図書館デジタルコレクション)(37/103コマ)   〝恋川春町【天明元年~八年 1781-1788】    姓は源、名は格、通称倉橋寿平、寿山人と号す、狂歌を好みて、戯名を酒上不埒といふ、駿州小島侯    (松平安房守)に家臣にて、小石川春日町に住めりしより、恋川春町と号す、画を鳥山石燕に学びて、    善く男女の風俗を写し、また戯作をよくせり、自作の青本は尤も多く、『金々先生栄花夢』をはじめと    して、凡そ三十一部あり、其安永四年に出版せし『金々先生』は鼻祖にて、翌五年に出版したる『高慢    斎行脚日記』は、当時世評甚だ高く、これより春町の名は四方に鳴りぬ、天明九年に出版したる『鸚鵡    返文武二道』は大に流行しけるが、此の草双紙のことにつきて、白川侯(松平定信)より召喚されしに、    春町は病の床にありし為め辞して往かず、寛政元年七月七日没す、享年四十六、法名寝(ママ)静院廊誉湛    水、遺骸は四谷新宿裏通り浄覚寺に葬る、辞世の詞に      生涯苦楽四十六年 即今脱却浩然帰天    (版本七、書名省略)    (本伝は『物之本作者部類』『戯作者小伝』『浮世絵類考』等に拠る)〟  ◯『新撰日本書画人名辞書』下(画家門 青蓋居士編 松栄堂 明治三十二年(1899)三月刊)   (国立国会図書館デジタルコレクション)(172/218コマ)   〝恋川春町    姓は倉橋氏 通称は寿平といふ 鳥山石燕の門に入りて浮世絵を研究し世に名あり 又戯作を事とし    草双紙の始祖と称せらる 江戸小石川春日町に住するを以て 戯れに恋川春町と称せり 蓋し勝川春章    の名に寄せたるものなり(扶桑画人伝)〟  ◯『浮世画人伝』p53(関根黙庵著・明治三十二年(1899)五月刊)   〝恋川春町(ルビこひかわしゆんてう)    春町は松平丹後守の留守居役にして、俗称を倉橋寿平といひ、格寿山人と号す。其の恋川春町と著名    (チョメイ)するは、小石川春日町に住めればなり。画を鳥山石燕に学び、又戯作を能くし、自作の黄双紙を    数多著せり、就中(トリワケ)安永四年に上梓したる『金々先生栄花夢』又其翌年にものせし『高慢斎脚行日    記』『詩句市窓』など、其冠たる者ならん、左れば春町は画より反て戯作に名を挙げたる者なり、又狂    歌をも能くし、酒上不埒と狂名せり。享年四十六にして、寛政元年七月七日歿す。法号寂静院廓誉湛水、    四谷新宿裏通浄覚寺に葬る、其墓標の左に辞世を刻せり      生涯苦楽四十六年 即今脱却浩然帰天〟  ☆ 大正年間(1912~1925)  ◯『浮世絵』第三号 (酒井庄吉編 浮世絵社 大正四年(1915)八月刊)   (国立国会図書館デジタルコレクション)   ◇「浮世絵師掃墓録(三)」恋川春町 荘逸楼主人(20/24コマ)    〝(新宿成覚寺墓)寂静院廓誉湛水居士      本国参州生国駿州田中 倉橋寿平源格 寛政元己酉年七月七日      生涯苦楽 四十六年 即今脱却 浩然帰天 源格      我もまた身はなきものとおもいしか 今はのきはゝさひしかり鳧〟  ◯「集古会」第百三十二回 大正十年(1921)三月(『集古』辛酉第三号 大正10年4月刊)   〝永田有翠(出品者)     恋川春町画 無頼通説法 自作  安永八年〟     春町画   通点興   花街作 天明元年六月 二丁有〟〈いずれも洒落本〉  ◯『罹災美術品目録』(大正十二年九月一日の関東大地震に滅亡したる美術品の記録)   (国華倶楽部遍 吉川忠志 昭和八年八月刊)   ◇小林亮一所蔵    石燕、歌麿、春町合作「美人鍾馗図」鍾馗七十七翁石燕、美人歌麿、了髪春町  ◯「集古会」第百五十三回 大正十四年十一月(『集古』丙寅第一号 大正14年12月刊)   〝三村清三郞(出品者)     春町画作 三幅対紫曽我  安永七     春町画  親敵討也腹鼓  安永六 喜三二〟  ☆ 昭和年間(1926~1987)    ◯「集古会」第百六十一回 昭和二年五月(『集古』丁卯第四号 昭和2年8月刊)   〝三村清三郞(出品者)春町画 鼻峯高萬男 一冊 安永六年刊 喜三二作〟  ◯『狂歌人名辞書』p175(狩野快庵編・昭和三年(1828)刊)   〝恋川春町(初代)、号寿山人、通称倉橋寿平、名は格、狂歌の号を酒上不埒といふ、駿河小島侯の家臣    にして東都小石川春日町に住せり、安永四年「金々先生栄華夢」と題する草双紙を著す、所謂黄表紙作    者の元祖にして是より後、草双紙の趣向一変す、又画を鳥山石燕に学び、自著の黄表紙には自画のもの    多し、寛政元年七月七日歿す、年四十四、四谷成覚寺に葬る〟    ◯「日本小説作家人名辞書」(山崎麓編『日本小説書目年表』所収、昭和四年(1929)刊)   ◇「恋川春町」p744   〝一世 恋川春町    姓倉橋、名格、通称寿平、寿山人、恋川春町、春町坊、酒上不埒、杜選和尚と号す。延享元年(1744)    に生る。駿河小島侯の家臣。小石川春日町に住み、恋川春町と称したのである。画を鳥山石燕に学び自    画作が多い。寛政元年(1789)七月七日歿、享年四十四、四谷新宿成覚寺に葬る。「金々先生栄花夢」    (安永四年(1775)刊)の作者〟     ◇「花街」p735   〝花街    恋川春町の匿名であろう。「通點興」(天明元年刊)〟    〈『洒落本大成』第十一巻の『通点興』解題は、作者花街を「談義本類に插画をかいた橘花街画徳あたりではないかと」     推測している。「日本小説作家人名辞書」が花街を恋川春町としたのは、自作自画の多い春町が挿絵を担当している     からであろう〉     ◇「杜選和尚」p790   〝杜選和尚    恋川春町の匿名。「無頼通説法」(安永八年(1779)刊)の作者〟     ◇「深川錦麟」p821    〝深川錦麟    伝未詳、或は恋川春町の匿名かと云ふ説もある。「亀屋万年浦島栄」(天明三年(1783)刊)の作者〟    ◯『浮世絵師伝』p153(井上和雄著・昭和六年(1931)刊)   〝春町    【生】延享元年(1744)  【歿】寛政元年(1789)七月七日-四十六    【画系】石燕門人     【作画期】明和~天明    源姓、倉橋氏、名は格、俗称寿平、本国は三河にして、彼は駿州田中に生る、故を以て駿州庵原郡小島    藩の用人と成り、偶ま江戸詰を命ぜられて、小石川春日町なる小島侯の上屋數に居住せしかば、それに    因みて恋川春町と号せしなり、別に寿山人、又は寿亭と号す。明和二年(二十二歳)に画きし化猫の図    には「馬埒道拍掌散人」と落款して、下に「春町」の印あり、錦絵の作に極めて稀にして、細絵「布袋    川渡りの図」なども辛うじて見出せしものなり。(口絵第三十図参照)     彼は友人の草双紙に挿画せし外、安永四年版の『金々先生栄花夢』以下数多の黄表紙を自画自作せり、    又戯号を酒上不埒といひて、狂歌をも能くしたりき。彼が黄表紙の作は、文と画と並び称せられて、頗    る皆の好評を受けたり、然るに、寛政元年正月『鸚鵡返文武二道』と題する黄表紙を公けにして幕府の    忌諱に触るゝ所あり、老中松平定信より召喚されしも、病と称してこれに応ぜず、其の後幾ばくも無く    して死去すと、実は彼が十一代將軍家斉の内行を諷刺したる黄表紙式艶本『遺精先生夢枕』に罪を得た    る事を覚り、受罰に先ちて自刃せしを、斯く修飾して伝へしものならむと云ふ。     法名を寂静院廓誉湛水居士とし、新宿北裏町成覚寺に葬る、墓石の正面には、法名と本国生国、姓名歿    年月日等を記し、上部に家紋(丸に子持抱茗荷)を刻す、又其の側面には称世の偈と歌一首あり、曰く    生涯苦楽四十六年、即今脱却浩然帰天、我もまた身はなきものとおもひしか今はのきははさひしかり鳧〟    ◯『浮世絵年表』(漆山天童著・昭和九年(1934)刊)   ◇「安永九年 庚子」(1780)p136   〝正月、又朋誠堂喜三二の著『富留久知喜』に恋川春町画きて出版せるあり〟     ◇「寛政元年(正月二十五日改元)」(1789)p149   〝七月七日、恋川春町歿す。行年四十六歳。(春町は画を鳥山石燕に学び、俗称倉橋寿平といひ、原来狂    歌師にして狂名を酒上不埒と号し、小石川春日町に住せるを以て、恋川春町とも称し、戯作に工みにて、    安永四年での正月出版の『金銀先生栄花夢』は実に自画作にして、其当時の富川吟雪・鳥居清経等の画    の生硬なる人物に比して、よく柔媚なる容姿を画かるより時好に適し、これより黒本時代と青本時代の    分水嶺を劃出したるは春町の功なりとす。春町も亦偉なりといふべし。春町の死因に就いては、十一代    家斉将軍の内行を諷刺したる青本仕立の春画『遺精先生夢枕』を著し、為に禍を為して改易の悲運に至    らんとせるを慨し、屠腹して死せりといふの説あり。もとより『鸚鵡返文武二道』なんども自然禍の因    を成せるが如し)〟    ◯「日本古典籍総合目録」(国文学研究資料館)   〔恋川春町画版本〕    作品数:69点(「作品数」は必ずしも「分類」や「成立年」の点数合計と一致するとは限りません)    画号他:春町・恋川春町・酒上不埒・杜撰大和尚    分 類:黄表紙56・洒落本4・咄本4・艶本2・滑稽本1・狂歌本1    成立年:安永2・4~10年序(32点)(安永年間合計33点)        天明1~5・8年  (24点)        寛政1・10年   (3点)   (著作のみの作品)    作品数:7点    画号他:恋川春町・酒上不埒    分 類:黄表紙4 狂歌1・咄本1・艶本1    成立年:天明8年(2点)        寛政1年(1点)    〈黄表紙の画工を担当したのは、勝川春亭・歌川豊国初代・北尾政美(寛政元年・天明八年)。咄本は喜多川歌麿(天     明八年)〉    〈自作自画は約三十数点。他の戯作者の画工を勤めたのが二十数点、そのうち朋誠堂喜三二の画工を担当したのが十五     点である〉