Top浮世絵文献資料館浮世絵師総覧
 
☆ ぎょくざん おかだ 岡田 玉山浮世絵師名一覧
〔?~ 文化4・5年頃(1807・8)没 一説文化9年(1812)・76歳〕
 ※〔漆山年表〕:『日本木版挿絵本年代順目録』 〔目録DB〕:「日本古典籍総合目録」   〔狂歌書目〕:『狂歌書目集成』  ☆ 天明七年(1787)     ◯「絵本年表」〔漆山年表〕(天明七年刊)    岡田玉山画    『百人一首玉客色紙』一冊 画工法橋岡田玉山 平野屋半右衞門板    『二十四孝絵抄』  一冊 画工岡田玉山 俵屋◎良吉板〈「日本古典籍総合目録」は天明八年の成立とする〉    『女教訓小倉織』  一冊 画工法橋岡田玉山 平野屋半右衞門板  ☆ 天明八年(1788)  ◯「往来物年表」(本HP・Top)    岡田玉山画『画本二十四孝』奥付「画図 法橋 岡田玉山」大坂 池永太郎吉他 天明八年正月    ☆ 寛政元年(天明九年・1789)     ◯「絵本年表」〔漆山年表〕(寛政元年刊)    岡田玉山画『女有職艶文箱』一冊 画工岡田玉山 平野屋平右衛門板    ☆ 寛政三年(1791)     ◯「絵本年表」〔漆山年表〕(寛政三年刊)    岡田玉山画『増字新刻節用』一冊 初め政美 後玉山画 浪華江南之逸農松藤道人序    ☆ 寛政四年(1792)    ◯「絵本年表」〔目録DB〕(寛政四年刊)    岡田玉山画『ときはくさ』一冊 岡田玉山画 呑秋庵楠芽編    ◯「百人一首年表」(本HP・Top)(寛政四年刊)    岡田玉山画    『百人一首女庭訓入 女有職莩文庫』(書誌のみ)〔跡見925〕     法橋岡田玉山(初代)画 平埜屋半右衛門 寛政四年正月刊    『百人一首女庭訓入 女有職莩文庫』色摺口絵・挿絵・肖像〔目録DB〕     奥付「画工 岡田法橋玉山」京 銭屋 江戸 前川 大坂 敦賀屋板 文政元年刊     〈画像で確認できないが〔目録DB〕本は〔跡見〕本の再刊と思われる〉    ☆ 寛政五年(1792)     ◯「絵本年表」〔漆山年表〕(寛政五年刊)    岡田玉山画    『絵本太平広記』五巻 浪華法橋岡田玉山画 浪華羅州逸漁撰 誉田屋伊右衛門板    『絵本黄昏草』 五巻 画工法橋玉山 大和屋吉兵衛板    ◯「百人一首年表」(本HP・Top)(寛政五年刊)    岡田玉山画『女躾方用文章 花園百人一首都錦』色摺扉絵・挿絵・肖像 大坂〔跡見927〕    奥付「画工 法橋岡田玉山」花谷幸福・松本半右衛門板 寛政五年正月刊    ☆ 寛政六年(1794)     ◯「絵本年表」〔漆山年表〕(寛政六年刊)    岡田玉山画    『虚実柳巷方言』枕本 三巻 玉山写 魯堂    『住吉名勝図会』五巻 浪華玉山図 大西甚七他板(割印帳岡田玉山画著)    ◯『虚実柳巷方言』上(香具屋主人著・寛政六年刊)   (『浪速叢書』巻14「風俗」所収)   〝諸芸諸道名人 和絵 玉山 関月 祖(ママ)仙 月岡(他略)〟  ☆ 寛政七年(1795)     ◯「絵本年表」〔漆山年表〕(寛政七年刊)    岡田玉山画    『絵本頼光一代記』五冊 岡田玉山画・作 勝尾屋六兵衛板    『前太平記絵本』 五巻 法橋岡田玉山 今村八兵衛板    ☆ 寛政八年(1796)     ◯「絵本年表」〔漆山年表〕(寛政八年刊)    岡田玉山画『絵本頼光一代記』五巻 岡田玉山画(前年ニモ出ツ)    ◯「読本年表」〔目録DB〕(寛政八年刊)    岡田玉山画『怪談旅の曙』玉山画 波天奈志小浮祢作    ◯「絵入狂歌本年表」〔狂歌書目〕(寛政八年刊)    岡田玉山画『狂歌井の蛙』一冊 岡田玉山画 茅花塘庵丸詠 版元不記載    ☆ 寛政九年(1797)     ◯「絵本年表」〔漆山年表〕(寛政九年刊)    岡田玉山画    『絵本つきぬ泉』二巻 画工法橋玉山 蝙蝠軒魚广呂序 北尾善七板    ◯「読本年表」〔目録DB〕(寛政九年刊)   『絵本太閤記』初編 岡田玉山画 竹内確斎作    〈『改訂日本小説書目年表』頭注「初篇・十二冊寛政九年刊、二篇・十二寛政十年刊、三篇・十二寛政十年刊、四編・     十二寛政十一年刊、五編・十二寛政十一年刊、六篇・十二享和元年刊、七篇・十二享和二年刊〉    ◯「日本古典籍総合目録」(寛政九年刊)   ◇風俗    岡田玉山画『絵本不尽泉』岡田玉山画  ☆ 寛政十年(1798)    ◯「読本年表」〔目録DB〕(寛政十年刊)    岡田玉山画    『絵本太閤記』二・三編 岡田玉山画 竹内確斎作    『漫遊記』  岡田玉山画 建部綾足作    ☆ 寛政十一年(1799)     ◯「絵本年表」〔漆山年表〕(寛政十年刊)    岡田玉山画    『絵本異国一覧』五巻 作者岡田玉山 春光園花丸著 藤屋弥兵衛板    『盃席玉手妻』 三巻 画工不明 玉山風画 作者離夫 大和田安兵衛板    ◯「読本年表」〔目録DB〕(寛政十年刊)    岡田玉山画『絵本太閤記』四・五編 岡田玉山画 竹内確斎作    ☆ 享和元年(寛政十三年・1801)     ◯「絵本年表」〔漆山年表〕(享和元年刊)    岡田玉山画    『万歳大雑書日用宝』一巻 玉山著 柏原屋清右衛門板    『和州清九郎伝』五冊 玉山歟 釈法安編 河内屋喜兵衛板    『絵本女雑書』 三巻 法橋玉山 柏原屋十兵衛板    『絵本実語教』 五冊 作者岡田玉山 泉屋卯兵衛板    ◯「読本年表」〔目録DB〕(寛政十二年刊)    岡田玉山画『絵本太閤記』六編 岡田玉山画 竹内確斎作    ☆ 享和二年(1802)     ◯「絵本年表」(享和二年刊)    岡田玉山画    『唐土名勝図会』六冊 岡田玉山編画・岡文暉・大原民声画 須原屋茂兵衛他板〔目録DB〕     〈〔目録DB〕の書誌によると、成立年「享和二」版本は文化二年版・同三年版がある由〉    『実語教画本』 五巻 大阪画師法橋玉山 和泉屋卯兵衛他板 〔漆山年表〕    『絵本太閤記』 七編 岡田玉山画 竹内確斎作 西村宗七他板〔目録DB〕    『鄙都言種』  後編 法橋玉山画 樗樸道人著 扇屋利助他板〔漆山年表〕              〈前編は北尾政美画・森羅万象著で寛政八年刊〉     ◯「読本年表」〔目録DB〕(享和二年刊)    岡田玉山画『絵本太閤記』七編 岡田玉山画 竹内確斎作    ◯『羇旅漫録』〔大成Ⅰ〕①262(曲亭馬琴著・享和三年序)   〝大坂は今人物なし。蒹葭堂一人のみ。是もこの春古人となれぬ。玉山が画は書肆のみ珍重して。雅人は    これを譏れり〟    〈木村蒹葭堂は享和二年一月二十五日没。「雅人」はどのような視点から玉山を譏ったものか。馬琴の大坂遊学は享和     二年の七月二十四日~八月五日まで〉    ☆ 享和三年(1803)     ◯「絵本年表」(享和三年刊)    岡田玉山画    『三教放生弁惑』四冊 玉山画 寛潤著 出雲寺久治郎板〔漆山年表〕    『絵本童子教』 五冊 作者岡田玉山 和泉屋卯兵衛板  〔漆山年表〕    『素人庖丁』  初編 法橋玉山画 浅野高造著 海部屋勘兵衛他板〔目録DB〕    ☆ 文化元年(1804)    ◯「読本年表」〔目録DB〕(享和四年刊)    玉山画『国姓爺忠義伝』前編 十三冊 法橋玉山作・画 松本平助ほか 文化元年九月刊    奥付「画図 浪華法橋玉山〔尚友子徳〕印」   〈〔目録DB〕の書誌はこの法橋玉山を「石田玉山作・画」とするが、奥付の〔尚友子徳〕印から岡田玉山初代と思われる〉  ◯『半日閑話 巻八』〔南畝〕⑪245(文化一年五月十六日明記)   (「絵本太閤記絶板仰付らる」の項) 〝文化元年五月十六日、絵本太閤記絶板被仰付候趣、大坂板元に被仰渡、江戸にて右太閤記の中より抜き    出し錦画に出候分を不残御取上、右錦画書候喜多川歌麿、豊国など手鎖、板元を十五貫文過料のよし、    絵草子屋への申渡書付有之〟    〈大田南畝は絵師名を記していないが、「絵本太閤記」は岡田玉山画である〉      ◯『きゝのまに/\』〔未刊随筆〕⑥76(喜多村信節記・天明元年~嘉永六年記事)   〝五月十六日、難波画師玉山が図せる絵本太閤記、絶版被仰付候趣、大坂の板本被仰渡、是は江戸ニて喜    多川歌麿、歌川豊国等一枚絵に書たるを咎られて、絵本太閤記を学びたりといひしよりの事也、画師共    手鎖、板本は十貫文過料之由、絵草紙屋へ申渡書付有、右之太閤記之絵本惜しむべし〟    ◯『摂陽奇観』巻四四(浜松歌国著)   「文化元年」   〝絵本太閤記 法橋山(ママ)画寛政九丁巳秋初編出板七篇ニ至ル江戸表より絶板仰せ付けらる、其趣意は右    の本江戸にても流行致し、往昔源平の武者を評せしごとく婦女小児迄夫々の名紋所など覚候様に相成、    一枚絵七つゞき或は三枚続きをここは何の戦ひなど申様に相成候ところ、浮世絵師歌麿と申すもの右時    代の武者に婦人の画をあしらひ紅摺にして出し候、    太閤御前へ石田児にて目見への図に、手を取り居給ふところ、長柄の侍女袖を覆ひゐるてい    清正酒えん甲冑の前に朝鮮の婦人三絃ひき舞ゐるてい、其外さま/\の戯画あり    右の錦絵 公聴に達し御咎にて、絵屋は板行御取り上げ絵師歌麿入牢仰せ付けられ、    其のうえ天正已来の武者絵紋所姓名など顕し候義相ならず趣、御触流し有り、猶亦大坂表にて出板の絵    本太閤記も童謡に絶板に相成候、初篇開板已来七編迄御許容有り候処、かゝる戯れたる紅摺絵もうつし    本書迄絶板に及ぶこと、憎き浮世絵師かなと諸人いひあへり〟    〈大坂の浜松歌国は玉山の『絵本太閤記』を絶板に追い込んだのは浮世絵師・歌麿だという。その歌麿画の絵柄は「太     閤御前へ石田児にて目見への図に、手を取り居給ふところ、長柄の侍女袖を覆ひゐるてい。清正酒えん甲冑の前に朝     鮮の婦人三絃ひき舞ゐるてい」である。     さて、享和三年の「一枚絵紅ずりに長篠武功七枚つづき」の記事がよく分からない。「紅ずり」という言い方が気に     なる。享和三年の一枚絵に対して、当時の江戸は「紅ずり」という呼び方をするであろうか。「浮世絵師歌麿と申す     もの右時代の武者に婦人の画をあしらひ紅摺にして出し候」とも「かゝる戯れたる紅摺絵もうつし本書迄絶板に及ぶ     こと、憎き浮世絵師かなと諸人いひあへり」ともある。この「紅摺絵」は歌麿に対して使っているのであるから、宝     暦頃の石川豊信たちの「紅摺絵」とは思えない。すると江戸でいう「錦絵」を大坂では「紅摺絵」と呼んでいたのだ     ろうか〉    ◯『街談文々集要』p29(石塚豊芥子編・万延元年(1860)序)   (「文化元甲子之巻 第十八 太閤記廃板」)   〝一 文化元甲子五月十六日絵本太閤記板元大阪玉山画同錦画絵双紙      絶板被仰渡           申渡    絵草紙問屋                                   行事共                                 年番名主共      絵草紙類の義ニ付度々町触申渡候趣有之処、今以以何成品商売いたし不埒の至りニ付、今般吟味の      上夫々咎申付候      以来右の通り可相心得候    一 壱枚絵、草双紙類天正の頃以来の武者等名前を顕シ書候儀は勿論、紋所、合印、名前等紛敷認候義      決て致間敷候    一 壱枚絵に和歌之類并景色の地名、其外の詞書一切認メ間敷候    一 彩色摺いたし候義絵本双紙等近来多く相見え不埒ニ候 以来絵本双紙等墨計ニて板行いたし、彩色      を加え候儀無用ニ候    右の通り相心得、其外前々触申渡趣堅く相守商売いたし行事共ノ入念可相改候。     此絶板申付候外ニも右申渡遣候分行事共相糺、早々絶板いたし、以来等閑の義無之様可致候    若於相背ハ絵草紙取上ケ、絶板申付其品ニ寄厳しく咎可申付候            子五月      此節絶板の品々    絵本太閤記 法橋玉山筆 一編十二冊ヅヾ七編迄出板     此書大に行ハる。夫にならひて今年江戸表ニて黄表紙ニ出板ス    太閤記筆の聯(ツラナリ)【鉦巵荘英作 勝川春亭画 城普請迄 寛政十一未年三冊】    太々太平記【虚空山人作 藤蘭徳画 五冊 柴田攻迄 享和三亥】    化物太平記【十返舎一九作自画 化物見立太閤記 久よし蜂すか蛇かつぱ】    太閤記宝永板【画工近藤助五郎、清春なり 巻末ニ此度            歌川豊国筆ニて再板致候趣なりしか相止ム】    右玉山の太閤記、巻中の差画を所々擢て錦画三枚つゞき或ハ二枚、壱枚画に出板、画師ハ勝川春亭・歌    川豊国・喜多川哥麿、上梓の内太閤、五妻と花見遊覧の図、うた麿画ニて至極の出来也、大坂板元へ被    仰渡候は、右太閤記の中より抜出し錦画ニ出る分も不残御取上之上、画工ハ手鎖、板元ハ十五貫文ヅヽ    過料被仰付之。         「賤ヶ嶽七本槍高名之図」石上筆 (模写あり)           絵本太閤記絶板ノ話    寛政中の頃、難波の画人法橋玉山なる人、絵本太閤記初編十巻板本、大に世にもてはやし、年をかさね    て七編迄出せり。江戸にも流布し、義太夫浄瑠りにも作り、いにしへ源平の武者を評する如く、子供迄    勇士の名を覚て、合戦の噺なとしけり、享和三亥年、一枚絵紅ずりに、長篠武功七枚つゞきなど出せり。    然ルに浮世絵師哥麿といふ者、此時代の武者に婦人を添て彩色の一枚絵をだ出せり。     太閤御前へ、石田、児子髷にて、目見への手をとり給ふ処、長柄の侍女袖をおおひたる形、加藤清正     甲冑酒、妾の片はらに朝鮮の妓婦三弦ヒキ舞たる形。    是より絵屋板本絵師御吟味ニ相成り、夫々に御咎めに逢ひ候て、絶板ニ相成候よし、其節の被仰渡、左    の通。    一 絵双紙類の義ニ付、度々町触申渡之趣在之処、今以如何敷品売買致候段、不埒之至ニ付、今般吟味      の上、夫々咎申付候、以来左之通、可相心得候    一 壱枚絵・草双紙類、天正の頃已来之武者等名前を顕し画候義は勿論、紋字・合印・名前等紛敷認候      儀、決て致間敷候    一 壱枚絵に、和歌の類、并景色之絵、地名又ハ角力取、歌舞伎役者・遊女之名等ハ格別、其外詞書一      切認間敷候    一 彩色摺の絵本・双紙、近来多く相見へ、不埒ニ候、以来絵本・双紙墨斗ニて板行可致候       文化元甲子五月十七日    右ニ付、太閤記も絶板の由、全く浮世ゑしが申口故ニや、惜むべき事也〟    〈「日本古典籍総合目録」によると、竹内確斎著・岡田玉山画『絵本太閤記』は寛政九年(1797)~享和二年(1802)に     かけての出版。つまり、歌麿たちの「太閤記」が出版される文化元年以前、大坂での「太閤記」ものの出版は禁制で     はなかったのである。(これは大坂という土地がらが影響しているのだろうか。大坂町奉行は看過してきたのである。     しかし寛政九年、もし玉山画『絵本太閤記』が江戸で出版されたら、江戸町奉行は摘発しなかっただろうか。やはり     処罰されたように思うのだが……。江戸だからこそ問題視されたともいえる)ともあれ、「太閤記」ものが江戸で評     判になるや否や画工・板元ともども処罰され、そのとばっちりが大坂出版の『絵本太閤記』に及んだのである。以後     「壱枚絵・草双紙類、天正の頃已来之武者等名前を顕し画候義は勿論、紋字・合印・名前等紛敷認候儀、決て致間敷     候」という禁制は、出版界に重くのしかかってゆくことになったのである〉
   「太閤五妻洛東遊覧之図」三枚組左 三枚組中 三枚組右 歌麿筆(東京国立博物館所蔵)
   『絵本太閤記』 法橋玉山画(早稲田大学図書館「古典籍総合データベース」)
   『化物太閤記』 十返舎一九作・画 〔『筆禍史』所収〕    ◯『筆禍史』「絵本太閤記及絵草紙」〔文化元年・1804〕p100(宮武外骨著・明治四十四年刊)   〝是亦同上の理由にて絶版を命ぜられ、且つ著画者も刑罰を受けたり『法制論簒』に曰く     文化の始、太閤記の絶版及び浮世絵師の入獄事件ありき、是より先、宝永年間に近藤清春といふ浮世     絵師、太閤記の所々へ挿絵して開板したるを始にて、寛政の頃難波に法橋玉山といふ画工あり、是も     太閤記の巻々を画き      〔署名〕「法橋玉山画図」〔印刻〕「岡田尚友」(白文方印)「子徳(一字未詳)」(白文方印)     絵本太閤記と題して、一編十二巻づゝを発兌し、重ねて七篇に及ぶ、此書普く海内に流布して、遂に     は院本にも作為するものあり、又江戸にては享和三年嘘空山人著の太々太閤記、十返舎一九作の化物     太閤記など、太閤記と名づくる書多く出来て、後には又勝川春亭、勝川春英、歌川豊国、喜多川歌麿、     喜多川月麿などいふ浮世絵師まで、彼の太閤記の挿画を選び、謂はゆる三枚続きの錦絵に製せしかば、     犬うつ小童にいたるまで、太閤記中の人物を評すること、遠き源平武者の如くなりき、斯くては終に     徳川家の祖および創業の功臣等にも、彼れ是れ批判の波及すらん事を慮り、文化元年五月彼の絵本太     閤記はもとより、草双紙武者絵の類すべて絶版を命ぜられき、当時武者絵の状体を聞くに、二枚続三     枚続は事にもあらず、七枚続などまで昇り、頗る精巧を極めたりとぞ、剰へ喜多川歌麿武者絵の中に、     婦女の艶なる容姿を画き加ふる事を刱め、漸く風俗をも紊すべき虞あるに至れり、例へば太閤の側に     石田三成児髷の美少年にて侍るを、太閤その手を執る、長柄の銚子盃をもてる侍女顔に袖を蔽ひたる     図、或は加藤清正甲冑して、酒宴を催せる側に、挑戦の妓婦蛇皮線を弾する図など也、かゝれば板元     絵師等それ/\糾問の上錦絵は残らず没収、画工歌麿は三日入牢の上手鎖、その外の錦絵かきたるも     の悉く手鎖、板元は十五貫つゝの過料にて此の一件事すみたり云々    又『浮世絵画人伝』には左の如く記せり     喜多川歌麿と同時に、豊国、春亭、春英、月麿及び一九等も吟味を受けて、各五十日の手鎖、版元は     版物没収の上、過料十五貫文宛申付られたり     豊国等の描きしは、太閤記中賤ヶ嶽七本槍の図にして、一九は化物太平記といふをものし、自画を加     へて出版せしによるなり      〔頭注〕喜多川歌麿    歌麿手鎖中、京伝、焉馬、板元西村などの見舞に来りし時、歌麿これ等の人々に向ひ、己れ吟味中、恐    怖のあまり、心せきて玉山が著したる絵本太閤記の事を申述べたりしによりて、同書も出板を禁ぜられ    たるは、此道のために惜むべく、且板元に対して気の毒にて、己れ一世の過失なりと語れりといふ、さ    れば絵本太閤記が七編までにて絶版になりしは、これが為なりと『浮世絵画人伝』にあり    歌麿絵本太閤記の図を出して御咎を受たり、其後尚又御咎の事ありて獄に下りしが、出て間もなく死す    と『浮世絵類考』にあれども、其再度の御咎といふ事真否不詳なり         化物太閤記 十返舎一九作画 黄表紙二冊 山口屋忠兵衛版       享和四子初春(即文化元年)出版      全編悉く化物の絵と物語のみなれど、其化物の紋所又は旗印等に戦国次代の諸将即ち織田、明智、      真田、豊臣等の紋又は合印を附けて諷刺の意を寓しあるなり〟    ◯『馬琴書翰集成』⑥299 年不詳七月二十九日 差出人不明(第六巻・書翰番号-来98)   (大坂滞在中の某より)   〝法橋玉山も、久々病気ニ而画を廃し罷在候処、此節の剰暑に殊之外差重り、快気の程無覚束奉存候〟    〈この重病らしい玉山は岡田玉山であろうか。馬琴の大坂遊学は享和二年(1802)の七月二十四日~八月五日まで。こ     の書簡は享和三年以降のもの。画業を廃しとあるのだが、「日本古典籍総合目録」によると、文化年間の作品は十     一点にも及ぶ〉    ☆ 文化二年(1805)    ◯「読本年表」(文化二年刊)    岡田玉山画『絵本玉藻譚』岡田玉山画・作〔目録DB〕    ☆ 文化三年(1806)    ◯「絵本年表」〔漆山年表〕(文化三年刊)    岡田玉山画    『唐土名勝図会』初集 六冊 編述並図画玉山岡田友尚 図画熊岳文暉 同東野大原民声 河内屋太助板    『女五常訓倭織』一冊 玉山画 柏原屋清右衛門他板(貝原益軒著。原版は享保十四年刊)    『童子教画本』 五冊 大阪画師法橋玉山 三島応道序 河内屋太助他板    ◯「読本年表」〔中本型読本〕(文化三年刊)    岡田玉山画『阿也可之譚』法橋玉山画・作    ☆ 文化四年(1807)    ◯「絵本年表」〔漆山年表〕(文化四年刊)    岡田玉山画『百人一首図会』三冊 岡田玉山、田山敬儀註釈 文林舎蔵板    ☆ 文化五年(1808)     ◯「絵本年表」〔漆山年表〕(文化五年刊)    岡田玉山画『人間一心道中記』一冊 法橋玉山著 勝尾屋六兵衛板    ◯「読本年表」〔目録DB〕(文化五年刊)    岡田玉山画『図会清正記』岡田玉山画〈画か作か不明〉    ☆ 文化年間(1804~1818)     ◯「絵本年表」〔漆山年表〕(文化年間刊)    岡田玉山画『歌曲時習考』一冊 玉山画 浅野高造編〈〔目録DB〕は文化二年刊とする〉    ☆ 没後資料    ☆ 文化九年(1812)(この年没・七十六歳)〈文化五年没・七十歳説あり〉    ◯「絵本年表」(文化九年刊)    岡田玉山画    『実語教童子教』一冊 玉山画 西村与八板(原板享和二年)〔漆山年表〕    『女三世相』  一冊 画図法橋岡田玉山 柏原屋庄兵衛他板〔漆山年表〕    『実語教絵抄』 一冊 岡田玉山画 滝沢馬琴作 河内屋太助他板〔目録DB〕〈嘉永四年(1851)再刊〉    『童子教絵抄』 一冊 岡田玉山画 滝沢馬琴作〔目録DB〕(注記「実語教絵抄の付」)    ◯「日本古典籍総合目録」(国文学研究資料館)   ◇往来物(文化九年刊)    岡田玉山画    『教訓女今川操草』岡田玉山(注記「大阪出版書籍目録による」)    『女雑書教訓鑑』一冊 岡田玉山画    ☆ 文化十二年(1815)  ◯「【みがきたるうゑにもみがく】玉づくし」(番付 大和屋・津国屋 文化十二年刊)   (東京都立図書館デジタルアーカイブ 番付)   〝◎画ノ  鼎春嶽  毛物ノ 森祖仙  和画ノ 中井藍江    板下画ノ 法橋玉山 㒵にせ画ノ 松好斎〟    〈この法橋玉山は初代か二代か。初代は文化3-5年頃亡くなったとされるが、この番付は現存・故人を問わないので     版本に業績のある初代と思われる〉  ☆ 文政元年(文化十五年・1818)     ◯「百人一首年表」(本HP・Top)(文政元年刊)    岡田玉山画    『女有職莩文庫』色摺口絵・挿絵・肖像〔目録DB〕     奥付「画工 岡田法橋玉山」京 銭屋・江戸 前川・大阪 敦賀屋板 文政元年彫刻     表題「女有職宝文庫」〈初版は寛政4年〉    『百人一首』(書誌のみ)岡田法橋玉山画 銭屋想四郎他 文政元年刊〔跡見2192〕  ◯『馬琴書翰集成』①29 文化十五年二月三十日 鈴木牧之宛(第一巻・書翰番号-14)   〝是より「雪話」の御こたえ    むかし、雪中の事思召立せられ、京伝子へ御かけ合の後、彼人とかく埒明不申、既ニ出来もいたしかね    候様子ニ付、野生方へ被仰下、著述可致様、御たのミ候へども、京伝子とハ懇意の事故、横合より引取    候様ニ被存候てもきのどくニ存、及御断候キ。然ルニ、とかく京伝子ニてハ出来不申ニ付、京都玉山遊    歴之節是へ御かけ合、既に玉山著述いたさるべきつもりの処、彼人死去いたし候ニ付、是又画餅ニ相成    り、其後芙蓉子遊歴の節、亦復御かけ合被成候へバ、是又御同意之処、帰府後、芙蓉子も遠行ニ付、終    に年来御苦心がいもなく、今に埒明不申よし、去月玄鶴様御物語、逐一承知仕候。尚又此度、もし野生    著述もいたすべく哉と被仰下、右「雪話」の図説、あらまし御かき立の分、その外雪舟・橇下駄等雛(ヒ    ナ)形共、一箱ニ被成被遣、委細御書中之趣承知、御風流御執心のしからしむる事とハ存ながら、さて    /\多年の御苦心、万事のほゐなさ、落涙いたし候までに感佩仕候。つら/\事の因縁ヲ按ズルニ、最    初京伝子、埒明かね候ニ付、野生方へ被及御掛合候ハ、はや十六七年の昔なるべし。それより玉山・芙    蓉と、だん/\人ハかハれども、竟に成就する事なく、亦復野生方へ、その図説・雛形等の、まわり/\    て来つる事、是天のしからしむるもの歟。京伝子、既に黄泉の客となられ候へバ、誰に遠慮いたすべき    よしもなし。かくまで因縁ある事なれバ、今ハ辞退すべきにあらず、いかにも御たのミにまかせ、とも    かくも可仕と存候也。    (以下、鈴木牧之の『北越雪譜』の出版に関して、三つ問題点あげ、時節を待つよう記す。省略)〟    〈出版まで紆余曲折を辿った「雪話」(『北越雪譜』)の文政元年時点までの経緯。鈴木牧之は最初、山東京伝に出版     の仲介を依頼したが、埒があかないというので、馬琴へ話を持ち込んだ。馬琴は京伝への依頼を横合いから奪うよう     なことは出来ないと断る。これは文政元年時点で十六七年前というから享和元~二年(1801~2)の頃の話。その後の     状況も相変わらずで一向に埒があかない。そこで京都の岡田玉山に打診する。すると同意は得られた。しかし出版す     るまでには至らず、玉山は文化四~五年(1807~8)頃死去する。(『原色浮世絵大百科事典』第二巻「浮世絵師」没     年による)次に文化九年、越後塩沢に遊歴した江戸の鈴木芙蓉に、牧之は依頼する。しかしこれも日の目を見ること     もなく、文化十三年(1817)、芙蓉は逝去する。馬琴はこの経緯を、文政元年正月、玄鶴(越後の医師黒田玄鶴)から     聞くとともに、再び仲介を頼まれたのである。今度は以前と違い、京伝は既に亡く(文化十三年没)、もはや遠慮す     る必要が無くなっていたので、馬琴は依頼を引き受けた。だが八犬伝等の執筆に追われ、しかも売れ行きに自信を持     てなかったので、馬琴はなかなか出版に取りかかれない。出版には遅れに遅れ、『北越雪譜』初編は実に天保七年(1     836)のことであった。それも馬琴の仲介ではなく、馬琴とは犬猿の仲とでもいうべき山東京山(京伝の実弟)とその     男・京水(挿画を担当)の仲介・協力によるものであった。結果は馬琴の予想に反して、大ベストセラーになった。     馬琴はその際、手許に長年留めておいた原稿を、鈴木牧之に返却しなかったという。そのため牧之は最初から原稿を     書き直さざるを得なかったと伝えられる。仁義礼智を標榜する馬琴作品とは、およそ似つかわしくない人間馬琴の所     行というほかあるまい〉    ◯『馬琴書翰集成』①39 文政元年五月十七日 鈴木牧之宛(第一巻・書翰番号-15)   (頭書)〔「雪中奇観」画工の事」〕   〝古人玉山ハ、自然と板木の画に妙を得たる人也。さして学問ハなけれど、才子なるべし。著述の事ハい    ざしらず、此人世にありて絵をたのミ、野生著述いたし候はゞ、尤よろしかるべし。江戸ニては北斎の    外、この画をかゝすべきものなし。乍去、彼人ハちとむつかしき仁故、久しく敬して遠ざけ、其後ハ何    もたのみ不申、殊に画料なども格別の高料故、板元もよろこび申まじく候。しからバ、誰ト壱人ニ定め    ず、『東海道名所図絵』のごとく、唐画・浮世画、そのムキ/\ニて、より合画ニいたさせ可申哉。こ    れも画師一人ならねバ、諸方のかけ合、格別わづらハしく候へ共、山水などハ、江戸の浮世絵師の手際    にゆく事にあらず。又、婦人その外市人の形は、うき世絵ニよらねバ損也。両様をかねたるものは、    北斎のミなれども、右の意味合あれバ、より合画ニ可致哉と存候事〟    〈「雪中奇観」とは『北越雪譜』のこと。この当時、この書名は揺れ動いていた。一時、著者・鈴木牧之が挿絵を依頼     した京都の岡田玉山については、馬琴も高い評価を与えており、自分と組めば最高とさえ云っているが、しかし結局、     玉山は故人となり『北越雪譜』とは縁がなかった。では現在の江戸で、『北越雪譜』に相応しい画工は誰がというと、     唐画(山水画)と浮世絵両様に自在な北斎以外ないと、馬琴はいう。だが、北斎は「むつかしき」性格ゆえ敬遠され、     自分も読本の挿絵を頼まなくなってしまった。また画料も高く、版元も歓迎しまい。したがって、煩わしいが、唐画     と浮世絵の「より合画」にする必要があるのではないかと、馬琴の鈴木牧之宛の提案であった。もっともこれも実現     しなかったのではあるが。2011/07/14訂正〉    ☆ 文政五年(1822)    ◯「絵本年表」〔漆山年表〕(文政五年刊)    岡田玉山画『百人一首図会』三冊 玉山画 須原茂兵衛板(原版は文化四年也)    ◯『増訂武江年表』2p81(斎藤月岑著・嘉永元年脱稿・同三年刊)   (「文政年間記事」)   〝文政始めの頃より、大坂の石田玉山が弟子岡田玉山修徳、江戸へ下りて神田紺屋町に住ひけるが、或る    日家を出て後帰らず。常に着たる垢付きし衣服の儘にて、路費も貯へずして出たり。其の妻もありてき    ん隣のものと倶に尋ぬれども行方知れず。其の絵も次第に行はれ、且つ好人物にてありし、惜しむべし    (筠庭云ふ、後の玉山はもと中江藍江が弟子とか。江戸に来て神田明神に為朝の像を図したる額を納む。    下た地わろきにやひわれたりと見ゆ)〟    〈この記事、「岡田玉山」とあるが、二代目玉山修徳、つまり石田玉山のことではないのか〉     ☆ 文政八年(1825)      ◯「絵本年表」〔漆山年表〕(文政八年刊)    岡田玉山画『伊勢物語図会』三冊 難波人法橋玉山 石岡猛彦序 鶴屋金助    ☆ 天保四年(1833)   ◯『無名翁随筆』〔燕石〕③306(池田義信(渓斎英泉)著・天保四年成立)   〝法橋玉山【天明、寛政、享和、文化ノ人、歿年(空白)】     俗称(空白)大坂ノ人也、別号修徳、姓岡田、叙法橋    近世板刻細密画の開祖たり、始め(空白)門人にて、後一家の画風をなし、著述の画尤多し、画法、筆    力の秀才なる事、古人に比類なし、神伝開手の妙筆、奇巧、三都に右に出る者なし、名所図会、繍像、    読本、数百部を画く、京、大坂の板刻画は悉く此人也、一時の高名妙手と云べし、     絵本太閤記 自初編至七編、大ニ世ニ行レタリ、     唐土名所図絵 蒹葭堂蔵板勝レテ妙也     三国妖狐伝     絵本玉藻伝     其他枚挙すべからず、世に知る処なり、門人多し、    二代目玉山修徳、文化、文政の比、江戸神田に住せし事あり、板行の画はかゝざりし、神田明神に為朝    の図を画きし額あり、初代玉山の画を能額び得たるものなり〟     ☆ 天保五年(1834)    ◯「絵本年表」〔漆山年表〕(天保五年刊)    岡田玉山画『絵本名誉伝』五冊 浪華法橋岡田玉山画(寛政五年刊『絵本太平広記』の解題本)       ◯「読本年表」〔目録DB〕(天保五年刊)    玉山画『国姓爺忠義伝』後編十冊 法橋玉山画 山珪字士信訳 河内屋茂兵衛ほか   〈初編は文化元年。後編の「法橋玉山画」も初代岡田玉山と思われるが確証はない。初代は文化3-5年頃の没とされるので、    二代の岡田玉山(石田玉山)の可能性もないではない〉  ☆ 天保七年(1836)    ◯「読本年表」〔目録DB〕(天保七年刊)    岡田玉山画『絵本豊臣琉球軍記』前編 法橋岡田玉山画 宮田南北作    奥付「浪華 故法橋玉山画図〔岡田尚友〕印」    〈後編は文久四年刊で奥付には「故人宮田南北」著「翠栄堂半山」画図とある〉  ☆ 弘化元年(天保十五年・1844)    ◯『増補浮世絵類考』(ケンブリッジ本)(斎藤月岑編・天保十五年序)   (( )は割註・〈 〉は書入れ・〔 〕は見せ消ち)   〝京大坂の部    法橋玉山 天明寛政享和文化の人 没年(空白)     石田氏〔〈後岡田氏〉〕  俗称(空白)  大坂の人也 居(空白)    〔別号〈名は〉修徳〕  叙法橋ニ  (名)尚友    近世板刻の密画の開祖たり。始め(空白)門人にて一家の画風をなす。著述の絵本尤多し。筆力の秀才    なる事、古今に比類なし。繍像読本数百部を発市す。京大坂の板刻画は悉く此人なり。一時の高名妙手    と云べし。      絵本太閤記 (自初編七編 各十二冊宛 大に世に行れたり)      唐土名所図会(蒹葭堂蔵板、勝れて微細也〈文化開板、此時岡田玉山とあり。東野、熊岳と合筆也〉      玉藻談   (三国伝来狐の絵本なり)      住吉名〔所〕〈勝〉図会 五冊      二十四輩順拝図会 後編(前編は春泉斎の筆也、後編松島の図尤よし)      絵本国姓爺合戦      同 伊勢物語図会  同 琉球軍記      同 楠公記     絵本敵討白石話    其他枚挙すべからず。門人多し(菅原実記二編のさし画、石田玉峯とあり。考るに二代目玉山の筆に似    たり。思ふに二代目玉山の先名なるべし)    〈補〉二代目〈法橋〉岡田玉山修徳、文政の頃、神田紺屋町に住せしが、或日家を出て其行衛を知らず。    尚友に続て上手なり(絵本芦芽草紙のさしゑあり)    (神田明神の社に為朝の額、瘡守いなり社に三保の谷景清の図、浅草観音堂に新羅三郎の図等を画る額    あり〟    ☆ 嘉永三年(1850)    ◯『古画備考』三十一「浮世絵師伝」中p1408(朝岡興禎編・嘉永三年四月十七日起筆)   〝石田玉山、岡田玉山【石田玉山門人】、青陽斎蘆国、一峯斎馬円、丹波桃渓、合川珉和、    松好斎半兵衛、歌川豊秀、速水春暁斎、已上、京大阪画草紙画者、享和前後人、武江年表〟    ◯『古画備考』三十上「近世二」中p1296(朝岡興禎編)   〝岡田玉山修徳 文政の初の比より、大坂の石田玉山の弟子、岡田玉山、江戸へ下りて、神田紺屋町に住    しける、或日家を出て後帰らず、常に着たる、垢付し衣類のまゝにて、路費も貯へずして、出たり、妻    もありて、近隣のものと、倶に尋ぬれども、行方知れず、其絵も次第に行れ、且好人物にてありし、惜    むべし、武江年表〟    ☆ 嘉永四年(1851)    ◯「百人一首年表」(本HP・Top)(嘉永四年刊)    岡田玉山画『女教訓仕付方 花鳥百人一首都錦』口絵・挿絵 岡田法橋玉山画 大坂〔跡見1548〕    須原屋茂兵衛・敦賀屋九兵衛板 嘉永四年三月刊〈画工名は書誌に拠る〉  ☆ 安政二年(1855)    ◯『古今墨跡鑒定便覧』「画家之部」〔人名録〕④243(川喜多真一郎編・安政二年春刊)   〝岡田玉山【名ハ尚友、字ハ子徳、浪花ノ人、花鳥ヲ工ニス】    〔印章〕「玉」「山」二顆・「岡田尚友」・「子徳子」    ☆ 安政四年(1857)    ◯「日本古典籍総合目録」(国文学研究資料館)   ◇占卜(安政四年刊)    岡田玉山画『夢合早占大成』岡田玉山(玉山一世)画 松川半山補  ☆ 安政年間   ◯『国字小説通』〔続燕石〕①302(木村黙老著・成立年未詳)   (「読本繍像之精粗」の項)   〝京摂にて、読本に、口絵、さしゑの細密になりたるは、玉山が絵本太閤記より巧になりし、其頃は寛政    の末なり〟    〈『絵本太閤記』は寛政九~享和二年にかけての刊行〉   ◯『京摂戯作者考』〔続燕石〕①331(木村黙老著・成立年未詳)   (「戯作者」の項)   〝岡田玉山    浪華の人、名は尚友、法橋位に叙す、画に巧也、嘗て蒹葭堂と謀て、唐土名勝図絵、北直隷の一部一編    を出す、其精密、賞覧に堪たり、併しながら、婦女子、俗客の愛歓ばざりし故、続きて次編を出さゞり    しは、遺憾なりといふべし、又、画本太平記を画作して、大に世に行はれ、四方え名を発したり、其余、    玉藻譚、あやかし物語、室の八島等、戯作数多く出したり、其没年いまだ詳ならず〟  ☆ 文久二年・戌(1862)     ◯「絵本年表」〔漆山年表〕(文久二年刊)    岡田玉山画    『絵本異国一覧』五冊 岡田玉山画 山東京伝・春光園花丸撰 序寛政十一年花丸 再刊    ☆ 刊年未詳(幕末)  ◯「本朝近世画工鑑」(番付 刊年未詳)〔番付集成 上〕   (五段目 西)   〝前頭 岡田玉山 同 西村中和(ほか略)〟  ◯「今昔名家奇人競」(番付 快楽堂 刊年未詳)   (東京都立図書館デジタルアーカイブ 番付)   〝画人遊客     画法 法橋玉山/丹青 橘守国〟    〈「画法」と「丹青」の違いおよびこの二人が対になっているその理由が分からない〉  ☆ 明治元年(慶応四年・1868)    ◯『新増補浮世絵類考』〔大成Ⅱ〕⑪232(竜田舎秋錦編・慶応四年成立)   〝石田玉山    名は尚友、大坂に住す。天明より文化迄の人法橋に叙す。近世の板刻の密画の開祖たり。〔割註 関月    の門人なりといふ〕一家の画風をなす。著述の絵本尤多し。筆力秀才なる事、古今比類なし。京大坂の    刻板画は悉く此人也。一時其名妙手と云べし     絵本太平記(自初編七編にいたる各十二冊)   唐土名所図絵(蒹葭堂蔵板岡田玉山とあり)     玉藻談   五冊 画作共           住吉名勝図会 五冊    国姓爺合戦     二十四輩順拝図会後編(前編は春泉斎の筆也。後編は松島の図最よし)    楠公記     伊勢物語図会   琉球軍記 前編 宮田南北作〟  ☆ 明治十七年(1884)  ◯『扶桑画人伝』巻之四(古筆了仲編 阪昌員・明治十七年八月刊)   (国立国会図書館デジタルコレクション)   〝玉山    岡田氏、名ハ尚、字ハ友、大坂の人。雪鼎ニ学ンデ人物山水花鳥ヲ巧ニス。後チ一家ヲナシ、絵本太閤    記ノ図ヲ作ル。又和漢名所ノ図ヲ画テ筆才アリ。板木ニアリテ世ニ行ハル。文化九年卒ス、七十六歳。    明治十六年迄七十二年〟  ☆ 明治二十二年(1889)    ◯『古今名家新撰書画一覧』番付 大阪(吉川重俊編集・出版 明治二十二年二月刊)   (東京文化財研究所「明治大正期書画家番付データベース」)   ※( )はグループの左右筆頭    和画諸流    (京都 円山応挙) 京都 抱一上人  京都 田中訥言   東京 月岡雪鼎  大阪 岡田玉山     大阪 長山孔寅  画  菊池蓉斎  尾州 浮田一蕙  (京都 尾形光琳)    (東京 瀧和亭)  大阪 松川半山  尾州 小田切春江  大阪 鈴木雷斎     大阪 長谷川貞信(京都 久保田米僊)    (東京 月岡芳年) 大阪 藤原信一  東京 歌川国松   東京 河辺暁斎  サカイ 中井芳瀧     東京 小林清親  大阪 若林長栄  東京 柴田是真  (東京 尾形月耕)    ◯『近古浮世絵師小伝便覧』(谷口正太郎著・明治二十二年刊)   〝京阪 板下画人    阪 岡田玉山    名は尚友、字は子徳。人物を善くし、殊に絵本大功記を図して、世に画名高し〟  ☆ 明治二十四年(1891)  ◯『近世画史』巻四(細川潤次郎著・出版 明治二十四年刊)   (国立国会図書館デジタルコレクション)   (原文は返り点のみの漢文。書き下し文は本HPのもの。(文字)は本HPの読みや意味)   〝岡田玉山 名尚、字友、大坂の人なり。月岡雪鼎に学ぶ。山水・人物・花卉・翎毛に工(たくみ)なり。    嘗て絵本太閤記及び和漢名所図絵中の画を作す。鏤板(ろうばん=版本)世に行はれ、法橋を叙位せらる。    文化九年歿、年七十六〟      ☆ 明治二十五年(1892)  ◯『古今名家新撰書画一覧』番付 大阪(鳥井正之助編 中島徳兵衛出版 明治25年2月刊)   (東京文化財研究所「明治大正期書画家番付データベース」)   〝古人之部皇国各派 不判優劣      東京 伊藤若沖 西京 河村文鳳 大坂 蔀関月 西京 浮田一蕙 東京 酒井抱一     大坂  岡田玉山 大坂 長山孔寅〟  ◯『日本美術画家人名詳伝』上p136(樋口文山編・赤志忠雅堂・明治二十五年刊)   〝岡田玉山    名ハ尚友、字ハ子徳ト云フ、画ヲ月岡雪鼎ニ学ビテ、人物山水花鳥ヲ巧ニス、後チ一家ヲ成シテ。絵本    太閤記ヲ著画シテ大ニ世ニ行ル、又唐土名処及ビ諸国ノ名所ノ図ヲ画ク、頗ル筆才アリ、大坂ノ人、文    化九年没ス、年七十六(鑑定便覧・書画一覧)〟  ☆ 明治三十年(1897)  ◯『古今名家印譜古今美術家鑑書画名家一覧』番付 京都    (木村重三郎著・清水幾之助出版 明治三十年六月刊)   (東京文化財研究所「明治大正期書画家番付データベース」)   〝近代国画名家〈故人と現存とを分けている〉    ※Ⅰ~Ⅳは字が大きさの順。(絵師名)は同一グループ内の別格絵師。    〈故人の部は字の大きさでⅠ~Ⅳに分類。(絵師名)はそのグループ内の別格絵師〉    Ⅰ(狩野探幽・土佐光起・円山応挙)酒井抱一 渡辺崋山  伊藤若沖    Ⅱ(谷文晁 ・英一蝶 ・葛飾北斎)田中訥言 長谷川雪旦    Ⅲ(尾形光琳・菊池容斎・曽我蕭白)岡田玉山 司馬江漢  浮田一蕙 月岡雪鼎 高嵩谷      蔀関月    Ⅳ 大石真虎 河辺暁斎 上田公長 柴田是真 長山孔寅 英一蜻  英一蜂 佐脇嵩之      高田敬甫 西川祐信 橘守国  嵩渓宣信 英一舟  葛飾為斎〟    〈江戸時代を代表する絵師としての格付けである〉  ☆ 明治三十一年(1898)    ◯『浮世絵備考』(梅本塵山編 東陽堂 明治三十一年六月刊)   (国立国会図書館デジタルコレクション)(69/103コマ)   〝岡田玉山【文政元~十二年 1818-1829】    字は修徳、石田玉山の門弟にて、後ち師の名を継ぎ、二世玉山となる、大阪の人なりしが、江戸に来り、    神田紺屋町に住みて、法橋に叙せらる、一日家を出でしが、後ち其の終る所を知らず〟  ◯『書画名器古今評伝』桜巻(西島・高森編 岩本忠蔵 明治三十一年刊)   (国立国会図書館デジタルコレクション)(60/72コマ)   〝岡田玉山 名ハ尚友、字ハ士徳、金陵斎ト号ス、浪華ノ人、法橋ニ叙ス。此人初テ画本太閤記ヲ著ス、    世ノ知ル所ナリ。文化五年没ス、歳七十。    男修徳、字ハ子秀、通称玉山昆岡ト号ス、江戸ニ住ス    門人土方寛柔、字ハ士強、寛十郎ト称ス      勇村義貞、字ハ一甫、秀蘭斎ト号ス〟  ☆ 明治三十二年(1899)  ◯『新撰日本書画人名辞書』下 画家門(青蓋居士編 松栄堂 明治三十二年(1899)三月刊)   (国立国会図書館デジタルコレクション)(49/218コマ)   〝岡田玉山    名は尚 字は友といふ 大阪の人なり 月岡雪鼎に師事し 後一家を為す 最も人物・山水・花鳥を画    くに妙を得たり 文化九年没す 年七十六(扶桑画人伝 鑑定便覧 名家全書)〟  ☆ 明治三十四年(1901)  ◯『日本帝国美術略史稿』(帝国博物館編 農商務省 明治三十四年七月刊)   (国立国会図書館デジタルコレクション)   〝第三章 徳川氏幕政時代 第三節 絵画 浮世絵派(168/225コマ)    石田(ママ)玉山    大阪に住す。月岡雪鼎の門人なり。近世版刻画の名手にして、殊に密画に長ぜり。人物花鳥山水共に善    くせざるはなし。絵本太閤記、唐土名所図会の類大に世に行はる。文化九年七十六にて没す    〈岡田玉山の誤記〉  ☆ 明治四十四年(1911)  ◯『浪華名家墓所記』(宮武外骨編 雅俗文庫 明治四十四年三月刊)   〝岡田玉山(画工)文化九年没 年七十六(月日・墓所記載なし)    浪花の人、名は尚友、法橋の位に叙す、画に巧なり、唐土名勝図会、絵本太閤記、玉藻譚、阿也可志物    語其余画くところの印本多し〟  ◯『浮世絵画集』第一~三輯(田中増蔵編 聚精堂 明治44年~大正2年(1913)刊)   「徳川時代婦人風俗及服飾器具展覧会」目録〔4月3日~4月30日 東京帝室博物館〕   (国立国会図書館デジタルコレクション)   ◇『浮世絵画集』第二輯(明治四十五年(1912)五月刊)   (絵師)   (画題)   (制作年代) (所蔵者)   〝岡田玉山  「たび心」   天明寛政頃  高嶺俊夫〟  ☆ 大正年間(1912~1925)  ◯『浮世絵師人名辞書』(桑原羊次郎著・教文館・大正十二年(1923)刊)   (国立国会図書館・近代デジタルライブラリー)   〝玉山 雪鼎門人、岡田氏、名は尚友、字は子徳、法橋に叙せらる、又蔀関月の門人とも云ふ、大阪人、    文化九年没、七十六歳〟  ☆ 昭和以降(1926~)  ◯『狂歌人名辞書』p53(狩野快庵編・昭和三年(1828)刊)   〝岡田玉山、名は尚友、字は子徳、浪花の画家、月岡雪鼎に学び人物、花鳥、山水共に善くし、又板刻密    画の創始者たり、後ち法橋に叙せらる、文化九年歿す、年七十六〟    ◯「日本小説作家人名辞書」p856(山崎麓編『日本小説書目年表』所収、昭和四年(1929)刊)   〝岡田玉山    岡田修徳、又尚とも(ママ)云ふ、字は子秀、中江藍江に学び画を業とした。一説に文化九年歿、年七十六    歳。「絵本太閤記」(寛政九年(1797)刊)「阿也可之譚」(文化三年(1806)刊)は其の画作である。    しかし実は石田玉山と違ひ、彼には文筆の才なく、竹内確斎が執筆したのだと云ふ説がある〟    ◯『本之話』(三村竹清著・昭和五年(1930)十月刊)   (出典『三村竹清集一』日本書誌学大系23-(2)・青裳堂・昭和57年刊)   〝(月岡雪鼎門人)    岡田玉山 名尚友 字子徳 号金陵斎 叙法橋 文化九年没 享年七十六 岡田玉山 石田玉山         石田玉峯 事迹混雑不可攷    (玉山門人)速水恒章 号春暁斎 住平安 文政六年七月十日没 葬等持院〟  ◯『浮世絵師伝』p47(井上和雄著・昭和六年(1931)刊)〟   〝玉山    【生】元文二年(1737)       【歿】文化九年(1812)    【画系】月岡雪鼎門人、或は蔀関月門人【作画期】安永~文化    大阪の人、岡田氏、名は尚友、字は子徳、金陵斎と号す、法橋に叙せらる、大阪北渡辺町に住し、数多    の挿画及び絵本類を描く、就中『絵本太閤記』は、禁版の厄を蒙りし事に於て最も著名なり。彼の姓を    石田として伝へたるものあれど、そは二代玉山と混同せしものなり〟    ◯『浮世絵年表』(漆山天童著・昭和九年(1934)刊)   ◇「寛政五年 癸丑」(1793)p155   〝正月、岡田玉山の『絵本黄昏草』『絵本太閤広記』出版〟   ◇「寛政六年 甲寅」(1794)p156   〝六月、岡田玉山の画ける『住吉名勝図会』出版〟   ◇「寛政八年 丙辰」(1796)p159   〝正月、岡田玉山の『絵本頼光一代記』等出版〟   ◇「享和二年 壬戌」(1802)p168   〝正月、岡田玉山の『実語教画本』出版〟   ◇「文化元年(二月十九日改元)甲子」(1804)p171   〝五月二十七日、大阪町奉行より『絵本太閤記』の絶版を命ぜられ、六月四日、製本ならびに板木共取り    上げらる。画工は法橋岡田玉山、版元は勝尾六兵衛外五人なり。(此書維新後大阪にて再版販売せり)〟   ◇「文化三年 丙寅」(1806)p174   〝此年、正月には特筆すべき程の浮世絵の絵本なし。速水春暁斎の書ける『年中行事大成』、岡田玉山の    挿画に成れる『会席料理細工包丁』は正月の版にて、いづれも大阪出版なり〟   ◇「文化三年 丙寅」(1806)p174   〝此年、正月には特筆すべき程の浮世絵の絵本なし。速水春暁斎の書ける『年中行事大成』、岡田玉山の    挿画に成れる『会席料理細工包丁』は正月の版にて、いづれも大阪出版なり〟    三月、渓斎英泉其著無名翁随筆に、蒹葭堂蔵版、勝れて妙なりと評せる『唐土名勝図会』初集六冊出版。    挿画は岡田玉山・大原東野・岡熊岳の三名の手に成れり。英泉の所謂勝れて妙なりといへるは果たして    何を指していへるか、語簡にして会得し難きが、想ふに細緻なる筆跡・精巧なる彫刻の他に類なきより    殊更に此の一本を称揚せしものなるべし。閲るに線の細密なるは空前の書なり、此の以後に於ては天保    八年に成れる『三部仮名抄』ありて稍々塁を摩せども、これは大本六冊、それは小本三冊にして其内容    もおのづから小さし。又天保十年に至りて森玄黄斎の『印籠譜』一冊あり。是れ亦精妙なる彫刻なれど    も、量といひ、先鞭といひ、此の『唐土名勝図絵』を第一に推さゞるを得ざるなり〟   ◇「文化四年 丁卯」(1807)p176   〝八月、岡田玉山の画ける『百人一首図絵』出版〟   ◇「文政元年(四月二十二日改元)戊寅」(1818)p191   〝正月、豊国・国貞・辰斎・戴一・国丸・国安・春亭・武清・玉山等の挿画ある『以代美満寿』出版〟    〈『以代美満寿』は立川焉馬の著作で五世市川団十郎追善狂歌集。挿画の玉山は岡田玉山か〉   ◇「文政八年 乙酉」(1825)p200   〝又、文政六年の春成りたる岡田玉山の『伊勢物語図会』此の秋出版せり〟   ◇「天保五年 甲午」(1834)p213   〝六月、岡田玉山の画ける『絵本名誉伝』出版〟  ◯「集古会」第二百三十八回 昭和十八年一月(『集古』昭和十八年第二号 昭和18年3月刊)    〝森潤三郞(出品者)法橋玉山画 讃州剣五山弥谷寺一山之図 一折〟  △『増訂浮世絵』p191(藤懸静也著・雄山閣・昭和二十一年(1946)刊)   〝岡田玉山    石田玉山の門人で、師の名を継ぎ、二世玉山となる。名は修徳、字は子秀、大坂の人、江戸に来つて、    神田紺屋町に住して居たこともある。文政頃の人〟    〈藤懸氏は文化元年五月、絶版処分に遭った『絵本太閤記』の画工を石田玉山としている〉    ◯「日本古典籍総合目録」(国文学研究資料館)   〔岡田玉山画版本〕    作品数:41点(「作品数」は必ずしも「分類」や「成立年」の点数合計と一致するとは限りません)    画号他:岡田・岡田玉山・石田・石田玉山・法橋玉山・玉山・尚友    分 類:絵本15・読本6・往来物6・風俗2・教訓5・伝記2・地誌(名所図会)3・俳諧1        地図2・故実1・歌謡1    成立年:享保8年  (1点)        天明7~8年(3点)        寛政1・4~11・13年(14点)        享和2年  (3点)        文化1~3・5~6・8~10年(11点)        文政8年  (1点)        天保5・7年(2点)        文久2・4年(1点)        安政4年  (1点)    〈享保八年成立『鎌倉軍記』岡田玉山作は不審〉